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「交付金では代えられぬ」 核ごみ調査を拒否、対馬市長が語った理由「核のごみ」(原発の使用済み核燃料から出る高レベル放射性廃棄物)の最終処分場をめぐり、長崎県対馬市の比田勝尚喜市長が国の選定プロセス「文献調査」を受け入れないと表明した。市議会と、その後に市役所で開いた記者会見での主な発言ややりとりは以下の通り。議会の請願採択を重く受け止めながらも、市民、対馬市の将来に向けて熟慮した結果、文献調査を受け入れないとの判断に至った。市民の合意形成が不十分だ。受け入れの是非について市民の分断が起こっており、市民の合意形成が十分でない。2点目が、風評被害への懸念だ。観光業、水産業などへ風評被害が少なからず発生すると考えられる。特に観光業は、韓国人観光客の減少など大きな影響を受ける恐れもある。3点目に、文献調査だけ実施する考えには至らなかった。調査結果によっては次の段階に進むことも想定され、受け入れた以上、適地でありながら、次の段階に進まないという考えには至らない。4点目に、市民に理解を求めるまでの計画、条件、情報がそろっていなかった。技術的な面や最終処分の方法、安全性の担保など将来的に検討すべき事項も多く、人的影響などについて安全だと理解を求めるのは非常に難しい。~――風評被害の懸念とは。対馬でも福島第一原発事故で韓国との水産物が取引禁止になり、韓国からの大勢の観光客が突然少なくなった。対馬の水揚げ高は168億円。10%でも16億円ぐらいの被害が出る。観光業でも消費効果額が180億円を超えている時もあったので、大きな被害が出る恐れがある。---よく知られているように、日本の原発は「トイレのないマンション」つまり発生する高レベル廃棄物を最終的にどこに保管するかが決まっていない状態です。現在青森県の六ケ所村に高レベル廃棄物の貯蔵施設がありますが、多くの核関連施設を受け入れている六ケ所村も、最終処分場だけは拒否の姿勢です。日本は、実質的に高速増殖炉がとん挫しているにも関わらいず、いまだに使用済み核燃料の再処理による核燃料サイクルというお題目を掲げ続けています。その理由はいくつかあるでしょうが、その一つには、「核燃料サイクル」を掲げている限りは使用済み核燃料は「資源」ということにできますが、核燃料サイクルを放棄した瞬間に、それはタダのゴミとなる、という事実があります。そうすると、六ケ所村の貯蔵施設は、それが廃棄物ではない、という建前があるから貯蔵しているけれど、廃棄物となったら「高レベル廃棄物をどこに保管する」という難問が待ったなしに突き付けられるわけです。そんなのは単なる先送りに過ぎない話ではありますが。ともかく、いくら先送りにしても、最後にはもう再処理できない高レベル廃棄物が残る、そしてその最終処分場は未決定である、というのが歴然たる事実です。そこで政府は20億円というニンジンをぶら下げて、全国に最終処分場を受け入れる自治体を探しているわけです、対馬市は、市議会がそれを受け入れそうになったけれど、市長がNoと言った、というわけです。当然の判断であろうと思います。この市長は自公推薦の基本的には保守系の政治家ですが、この件に関しては極めて真っ当な判断を下したなと思います。市議会が請願を採択したといっても、10対8の僅差での採択ですから、それが「絶対的民意」とはいえないわけです。仮に何の事故もなかったとしても、高レベル廃棄物の最終処分場は、広大な面積を要します。直径43cm、長さ134cm、重さ500kgというガラス固化体に換算して数万本分の高レベル廃棄物が既に日本には溜まっているのですから。それを地下300m以下(法律上の最低ライン)、じっさいにはおそらくもっと深い地下に貯蔵すると言っても、その地上部分には広大な処分場の立ち入り禁止区域と、ものものしい警備がついて回ます。日本中にいろいろな観光地がある中で、わざわざそんな物々しい場所にやってくる観光客がどれだけいるか、という問題です。どう考えても、観光業には大きな打撃があることは明らかです。それを、徐々に放射線量は減衰するものの、少なくとも1000年以上、実際にはおそらく数万年も続けなければならないのです。20億円は大金ですが、対馬市の人口約3万人で割れば一人当たりでは6万数千円に過ぎません。それでどんな施設が作れるかは知りませんが、ひとたび観光業や水産業に影響が生じれば、とうてい20億円でカバーできるようなものではありません。また、何の事故もないかどうかすら、実のところ判然とはしません。海外には高レベル廃棄物の最終処分場が決まっている国もありますが、それはすべて大陸(米国とユーラシア大陸の各国)に属する国であり、極めて強固な岩盤の地下に処分場を置いています。ヨーロッパ諸国など、例えばトンネルや地下鉄の壁をコンクリートで固めず、掘りっぱなしの岩むき出し状態で使っている場所が少なからずあるくらい、強固な岩盤の土地がゴロゴロあります。翻って日本において、掘りっぱなしの岩むき出しの状態で維持可能にトンネルなど、果たしてあるでしょうか。地質図を見れば、ヨーロッパではスカンジナビア半島、スコットランド、フランス北西部など、北米ではアパラチア山脈付近などに、先カンブリア紀の地層が広がっています。しかし、日本では、現在発見されているもっとも古い地層が5億3300万年前のカンブリア紀のもの(茨城県日立市から常陸太田市にかけて)であり、先カンブリア紀(5億4100万年前以前)の地層は未発見です。古生代の地層すら、日本ではそう多くはありません。ちなみに、対馬の地質の大部分は第三紀層、始新世のものということです。つまり、古くても5000万年前です。5億年前と5000万年前、古さが一桁違います。地盤の強固さにおいて、大陸に比肩できるような場所は、日本にはほぼないのです。何しろ大陸は太古の昔から大陸だったのに対して、島国である日本は、太古の昔には大部分が海の中だったので、地質条件の差はどうにもなりません。それに、日本は地震国です。東海-東南海-南海トラフの超巨大地震は、歴史上90年から140年くらいの周期で起こってきました。東日本大震災は1933年昭和三陸沖地震、1896年明治三陸沖地震、あるいは869年貞観地震以来の規模ともいわれます。いずれにしても、一人の人間の生涯においては、一度遭遇するとがあるかないかという頻度の超巨大地震ですが、1000年なら何回も、数万年なら何十回も遭遇することになります。それに対して本当に安全と言えますか?神ならぬ人間の作った構造物で、1000年の安全性を保障できるものなど存在しない、と私は思います。ましてや数万年など論外です。そもそも、現代文明自体が数万年も存続できる可能性はない、と思われます。強固な岩盤で今後数万年程度なら地震も起こらない(数万年という時間は、人間にとっての時間の尺度では永遠と同義語ですが、地球の歴史においては一瞬に過ぎません)場所と、強固ならざる地盤と地震の頻発する土地に、いかに人間が技術の粋を集めて作った構造物を作ろうと、その安全性安定性は、到底比較になどならないのです。というわけで、日本で高レベル廃棄物の地層処分を危険なく行える場所などほとんどないし、それにもかかわらず莫大に高レベル廃棄物を抱え、さらに増やす続けるようなエネルギー政策は、某国の途と言わざるを得ません。
2023.09.30
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スタジオジブリ、日本テレビの子会社に 宮崎駿氏の後継者見つからず「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」など世界的に愛される映画を生み出したアニメーション制作会社、スタジオジブリが日本テレビの子会社になることが分かった。スタジオジブリは共同設立者である宮崎駿監督の後継者を見つけることができなかった。共同声明によると、両社の取締役が21日に会談し、日本テレビがスタジオジブリの株式を取得して子会社化するとの決議を承認したという。取得額は開示されていない。声明では「監督宮﨑駿は82才、プロデューサーの鈴木敏夫も75才となり、長らく悩んできたのが後継者問題だ」と説明。日本テレビなら「スタジオジブリの『もの作り』やブランド価値を永続的に守る」ことができると指摘した。日本テレビは「スタジオジブリの自主性を尊重」し、「映画づくりに集中」できるようにする意向だという。また、宮﨑氏の長男であり、自らもアニメーション映画監督である宮崎吾朗氏の名前が何度か候補に上がってきたが、吾郎氏は「『一人でジブリを背負うことは難しい、会社の将来については他に任せた方が良い』との考えから、それを固辞してきた」とも明らかにした。スタジオジブリの将来は長年懸案になってきた。2013年には宮崎氏が引退を発表し、共同設立者の鈴木氏は当時、会社の変革が必要との見方を示していた。宮崎氏を巡っては、世界で最も偉大なアニメ制作者の一人であり、日本のポップカルチャーを象徴する人物との見方が多い。宮崎氏の映画はアニメ産業を形成し、世界で高く評価された。宮崎氏は最新作「君たちはどう生きるか」を手掛けるため最近復帰した。この作品は今年公開されている。---ついにそうなってしまったか、というところです。最新作「君たちはどう生きるか」は賛否両論の中、現時点で興行収入は82億円を超えたと報じられています。宮崎監督は次回作にも積極的と報じられていますが、今作品も制作に7年かかっていいることを考えれば、年齢的にこれで終わりとなる可能性は高いでしょう。あまりに巨大すぎる才能故に、跡を継げる人材がいない、ということは以前から言われていました。アニメーターとしての才能で、おそらくもっとも宮崎の後継者足りうる能力を持っていたのは、「耳をすませば」の近藤喜文監督ですが、残念ながら1998年に亡くなっています。生きていたとしても、今年73歳、宮崎よりは9歳若いとは言え、やはり遠からず後継者問題は生じることになったでしょう。あとは、多くのジブリ作品で作画監督等を務めたいくつかの小作品で監督もした高坂希太郎氏。バリバリの現役で、「君たちはどう生きるか」にも参加していますが、現在は別のスタジオに所属しています。おそらく、ジブリの後継者になる気はないのでしょう。おなじく「借りぐらしのアリエッティ」と「思い出のマーニー」の監督をした米林宏昌氏も、自分の作品を作るためのスタジオに所属しています。息子の宮崎吾郎氏は、処女作の「ゲド戦記」は酷評されましたが、二作目の「コクリコ坂から」は総じて高い評価を得ました。ただ、興行成績は苦戦しました。コクリコ坂の興行収入44億円は、一般的には大ヒットなのですが、ジブリ作品は制作費が大きいため、興行収入44億円ではペイしないのです。吾郎監督だけでなく、ジブリは大ヒットを連発した印象がありますが、それは宮崎駿監督作品だけで、宮崎の師匠でもあり、屈指の名作を連発した高畑勲監督ですら、興行成績は大苦戦でした。結局、誰が後継者になっても、作品の出来はまだしも、興行成績的に宮崎駿本人に匹敵する成績を残せないのが現実です。ジブリのアニメ制作部門は、「思い出のマーニー」を最後に実質的には解体状態であり、今回の「君たちはどう生きるか」で復活したとは言え、今後もそれを永続させられるかどうかは分かりません。宮崎アニメ、ジブリ作品は超が付くくらい大ファンなだけに、今後も新しい作品を期待したいのですが、現実にはなかなか厳しそうです。
2023.09.27
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8月下旬のことです、デジタル一眼レフEOS KissX7iが、急にボケた写真とか撮れなくなってしまいました。理由をあれこれ考えたのですが、カメラが悪いかレンズが悪いか、はたしてどっちでしょうか・・・・・・。あれこれ検証したのですが、どうもはっきりしません。ただ、いろいろな状況証拠から、原因は本体かな、と思い、カメラ本体を買い換えることにしました。新しいカメラは、キヤノンのR50です。中古で8万円ちょっとしました。左が新しいR50、右がこれまでのEOS KissX7iです。ミラーレス機なので、かなり小さくて軽いです。ただし、レンズのマウントが今までのX7iと違うので、これだけでは写真を撮ることはできません。今まで使っていたEFレンズ(EF-Sレンズ)を取り付けるためのマウントアダプターを装着した状態です。このマウントアダプターは、購入店に中古の在庫がなかったので新品です。1万6千円くらいでした。で、EF-S24mm F2.8 STMを装着してみました。さて、実際に撮影した写真ですが古いX7i新しいR50いずれもシグマの100-400mmレンズでの撮影です。画像の粗さは天気による明るさの違いでISO感度が違うためです。解像度はそんなに差がない?EF-S24mm F2.8 STM+R50による撮影シグマ100-400mm F5-6.3 DG OS HSM+R50による撮影9月16日三番瀬海浜公園ミユビシギオバシギトウネン左オオメダイチドリ9月24日秋ヶ瀬公園コゲラシジュウカラカワウキジバトオナガ上手くピントが合えば鮮明な写真が撮れますが、どうもピントが迷いがちです。そのため失敗写真も数多く撮っています。空を飛ぶ鳥(飛行機も)は完全に迷います。なんでだろう。AF被写体に「動物」「乗り物」を設定できるのですが、動物撮影モードにしてあっても飛ぶ鳥にピントが迷うし、乗り物モードにしても飛んでいる飛行機にピントが迷います。そして、シャッターのモード着替えのボタンがいつの間にかシャッターモードが切り替わっていることが多々あります。連写設定にしてるのに、いつの間にかセルフタイマーに切り替わっていることが多々あり、理由を探って行ったら、カメラを構えた時に右親指の付け根がシャッターモード切り替えスイッチに当たることがあるようです。その状態でレンズのピントリングを動かすと、モードが勝手に切り替わるのです。まだ操作に慣れていない、というところです。鳥撮影に関しては、今日の秋ヶ瀬公園ではサンコウチョウとキビタキ(いずれもメス)に遭遇したのですが、暗い林内の枝の合間から見える鳥の姿はピンボケ写真しか撮れませんでした。設定を変更する必要がありそうです。実は、望遠レンズもRF100-400mm F5.6-8 IS USMという新しいものを買いたいとは思っているのですが、これまた中古で7万円以上します。カメラ本体と合わせると約15万円、さすがに一緒にポンと買うのはためらわれる額なので、まだ購入していません。カメラ本体は先月の給料で買ったので、望遠レンズは今月の給料かな・・・・・・。買ったらまた記事を書くかもしれません。望遠レンズ以外は、当分の間今までのEF(EF-S)レンズを使いまわす予定です。
2023.09.25
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ポーランド首相「ウクライナへの武器供与行わない」 穀物の輸出入問題めぐり穀物の輸出入問題を巡り、ウクライナと対立するポーランドの首相が「今後、ウクライナへの武器供与は行わない」と発言しました。ウクライナを支援してきた周辺国の結束が揺らいでいます。モラビエツキ首相はインタビューで「ポーランドは近代的な兵器で武装を進めており、ウクライナへの武器供与は行わない」と述べました。ポーランドは、安価なウクライナ産穀物の流入から自国の農業を守るため、EUが認めた禁輸措置期限が切れたあとも、スロバキア、ハンガリーとともに独自に禁輸措置を続けています。この措置を受けてウクライナは「国際的なルールに反している」としてWTOに3カ国を提訴しました。19日にはウクライナのゼレンスキー大統領が国連総会の演説で「連帯を示しているように見えるが、実際にはロシアを間接的に手助けしている」とポーランドなどを批判しました。こうした状況を受け21日、ウクライナとポーランドの農業担当相が電話会談を行い輸出入問題を協議しました。会談では、両国の利益を考慮した解決策を見出すことで合意し、数日中にも、再び会談を行うとしています。ロシアの侵攻以降、ウクライナの隣国ポーランドは武器供与を積極的に行っているほか、約100万人の難民を受け入れるなど最大の支援国の一つです。ウクライナがロシアへの反攻を進める中、穀物の輸出入を巡る対立が周辺国との結束に亀裂を生じさせつつあります。---反ロシアの最先鋒であり、ウクライナに多くの兵器を供与してきたポーランドとウクライナとの関係が、ここにきて急激に悪化しています。ウクライナはロシアに黒海沿岸の領土の大半を占領され、黒海からの穀物の輸出が困難になっています。このためウクライナ産の穀物は東欧諸国経由で陸路輸出されるようになり、EUもウクライナ支援のためこのルートの関税を撤廃しました。ところが、これによって安価なウクライナ産の穀物が東欧諸国に大量に出回り、これらの国々の農産物価格が暴落する事態となっています。一部の国では農民によるウクライナ産の農産物輸入への反対デモも起こっていると言います。このため、農産物の価格維持のため、EUは東欧数か国へのウクライナ産農産物の輸出禁止を認めました。その後の経過は、引用記事に書かれているとおりです。ウクライナは、ロシアに侵攻されて、軍事的には圧倒的なむロシアの軍事力によく耐え、大健闘していますが、あまりに巨大な敵との1年半に及ぶ長い戦いで経済面では疲弊が著しく、危機的な状態にあります。穀物輸出という収入減を維持しなければ、国の経済がひっくり返ります。一方でポーランド他の東欧諸国も、ロシアという「共通の敵」と戦う面ではウクライナを全面的に支援しても、経済面で自国に深刻な影響を受けるとなると、話が変わってくるわけです。端的に言えば戦争があまりに長く続き、ウクライナが疲弊し、それを支援する国々もまた疲弊してきて、仲違が始まってしまった、ということでしょう。ロシアは拙劣な戦いぶりで多くの損害を出し、依然としてウクライナを軍事的に屈服させることはできていません。そしてロシアだって戦争による経済への打撃は相当深刻なものであるはずですが、相対的にウクライナよりはロシアの方がまだ大国であることから、ウクライナの方が長引く戦争による経済破綻はより深刻なものとなっているようです。ロシアが明日にでも経済破綻、プーチンはいつ失脚するか、みたいな論調が多くのマスコミに取り上げられているわけですが、残念ながらそれは希望的観測に過ぎないのが現実と言わざるを得ません。こんなことを言うのは残念の極みですが、ロシア経済は、少なくともウクライナより先に破綻することはなさそうだし、プーチン政権も、5年後10年後は分かりませんが、今年来年に倒壊する可能性はない、と判断するしかなさそうです。ウクライナの軍事的な抵抗力は、戦前のいかなる予想よりも強力ではありましたが、それでもロシア軍を完全に国境の外まで押し出す見通しは厳しいというしかありません。その前にウクライナの経済が持たないし、欧米各国もウクライナを無限に援助し続けることはできないという現実は、どうすることもできません。そうすると、どこかの段階で、国家破綻しても戦い続けるか、それを避けるために涙を呑んで憎きプーチン政権と和平交渉を行うか、どちらかを選ばざるを得なくなるのではないでしょうか。私は日本人なので、ウクライナの将来に何ら責任を負っていません。だから、「どちらを選ぶべき」とは申しません。それはウクライナの人たちが決めることです。ただ、戦争に負けても人は生きていかなければなりませんから、経済破綻を避けるため、どこかの段階で和平交渉を選ぶしかないだろうと予想はしています。悪いことをした者勝ちになるのは、すごく腹立たしいですが、こればかりはどうにもならないのかな、と思います。
2023.09.23
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Falleció el músico y autor René Careagaボリビア生まれでアルゼンチンで長く活動したチャランゴ奏者レネ・カレアーガが死去しました。1936年1月6日生まれ87歳でした。レネ・カレアーガと言えば、日本で第一次フォルクローレブームとされる1970年代から「コンドルカンキ」というグループを率い、何度も来日公演を行っていました。最初の来日はおそらく1976年、最後は90年代初頭で、娘のビビアーナ・カレアーガ(当時17歳)との親子共演でした。実は私自身は生では見たことがないのですが、ビビアーナと一緒に来日した時のビデオは我が家にあったはずです。来日公演時の演奏です。曲名は分かりません。この時から30年以上たっているので、当時17歳のビビアーナも今では四十・・・・・、いや、数えるのはやめよう(笑)さて、コンドルカンキと言えば、代表曲は「Amigo」と「Condorcanki」でしょう。Amigo(友達)この曲は、チリのILLAPU(イジャプ)というグループがコピーしており、個人的にはオリジナルよりイジャプの演奏の方が好きだったりしますが。イジャプ版アミーゴそして、グループ名と同じタイトルの曲「コンドルカンキ」私が聞いたことがある版はレネ・カラアーガのボーカルでしたが、この録音ではビビアーナがボーカルです。ビビアーナの声は、高い音域では往年のアルゼンチンの夫婦デュオ「クリスティーナとウーゴ」のクリステイーナの声にそっくりだ、と言われていましたが、低音域はやっぱりレネの声質によく似ています。やはり親子だけのことはあるなと思います。87歳での逝去は天寿を全うしたと言えますが、なんにしてもコロナ騒動以来、日本国内でも世界的にも、素晴らしい音楽家が次々と亡くなっていきます。時は立ち止まることはなく、ひたすら流れているので、それは仕方のないことではあるのですが、寂しいことでもあります。ご冥福をお祈りします。追記コンドルカンキと言えば、このグループの演奏も有名です。アルゼンチンの夫婦デュオ「クリステイーナとウーゴ」の歌による「コンドルカンキ」(他「滅びゆくインディオへの哀歌」「ノスタルヒア(ノスタルジー)」)。1978年中野区中野サンプラザでの公演の録音です。うろ覚えなので違うかもしれませんが、クリスティーナとウーゴの来日公演時の伴奏にはレネ・カレアーガも参加していたように思うので、この歌の伴奏のチャランゴも、ひょっとするとレネ・カレアーガ本人かもしれません。70年代から80年代初頭にかけて度々来日公演を行っていましたが、1986年交通事故によってお二人同時に亡くなっています。今聞いても、素晴らしい歌声です。
2023.09.21
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維新、議員と秘書兼職「容認」一転、吉村共同代表「やめるべきだ」日本維新の会の池下卓衆院議員が、地元の大阪府高槻市議だった男性2人を市議の任期中に公設秘書として採用した問題で、吉村洋文共同代表(府知事)は19日、党が公表していた見解を翻し、「公設秘書が地方議員を兼ねるのはやめるべきだ」と言及した。秘書と議員の兼職を巡る内規を整備する方針も明らかにした。大阪市内で記者団の取材に応じた。毎日新聞が一連の問題を報道した際、維新の党本部は秘書と市議の兼職について、「兼職は仕事の実態やパフォーマンスで個別に判断されるべきで、何ら否定されるものではない」と文書で回答していた。池下氏は2021年10月の衆院選で初当選した直後から、地域政党・大阪維新の会所属で市議だった甲斐隆志氏と市来隼氏を公設秘書として雇った。甲斐氏は約1年半、市来氏は約4カ月間それぞれ市議との兼職状態だった。池下氏側が国会議員秘書給与法で義務付けられた兼職届の国会提出を怠る中、2人はいずれも税金が原資の秘書給与と市議報酬を二重で受け取っていた。甲斐氏は22年中に総額約2000万円の「二重取り」になっていた。国費から給与が支払われる公設秘書を巡っては約20年前、与野党の議員が勤務実態のない秘書の給与を詐取する事件が相次いだ。あいまいな勤務実態の解消を目指し、04年の秘書給与法改正で秘書の兼職は原則禁止されたが、議員が許可すれば例外的に兼職できる「抜け道」も設けられた。吉村氏はこの例外規定を挙げ、「分かりにくくなっている」と指摘。少なくとも秘書と議員の兼職は勤務実態が不透明だとして、「(国民の)理解が得られるものではない。維新の基本的な考え方からすると、二重に仕事をするのは控えるべきだ」と述べた。(以下略)---この議員は大阪10区選出であり、同じ大阪10区では以前に辻元清美議員の秘書給与流用事件がありました。それによって辻本議員は当時議員を辞職して、有罪判決も受けました。今回の事件では、維新は当初、ぬけぬけと「兼職は仕事の実態やパフォーマンスで個別に判断されるべきで、何ら否定されるものではない」などと言い放っていたわけです。しかし、問題は兼職そのものにあるわけではありません。引用記事にあるように、兼業禁止は半ばザル法で、議員が許可すれば認められるものの、その際に必要になる兼業届を出していなかったと報じられています。さらに、これを池下議員の事務所は「情けないミスで本当に反省している」と説明しているようですが、実際には明らかに「ミス」ではありません。なぜなら、甲斐氏は今年8月になって初めて自身のフェイスブックを更新して、職業を池下事務所の秘書、と公表しているからです。しかも、秘書となった時期を2023年5月から、としてます。実際に秘書になったのは池下議員が当選した2021年10月で、今年5月というのは、4月の高槻市議選に立候補せず、兼業状態が解消された時期です。「ミス」だったら、こんな姑息な手段を使うわけがありません。兼業がよろしくないことを認識していたからこそ、主体的な意図として、兼業状態が解消されるまで、その事実を秘匿していたことは明白です。つまり「みみっちい嘘をついて兼業の事実を秘匿しようとした」ことについての認識と反省を述べなければならないはずです。もちろん、議員自身もその公設秘書も、「選挙に落ちればただの人」ですから、落選後の身分保障として兼業というリスクマネージメントを求めることを否定はしません。しかし、公設秘書と市議会議員という税金から給与を支払われる公職同士の兼業は、いかに考えても正当化できるものではありません。今回の例に始まったことではありませんが、維新は他人に対しては平気で「身を切る改革」を強要するけれど、自分自身は「身内の非は切らない」ご都合主義政党である、ということがまたも明らかになってしまった、ということでしょう。
2023.09.19
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自公過半数割れが「一つの前提」 政権入り巡り 国民・玉木代表インタビュー国民民主党の玉木雄一郎代表は16日までに、時事通信のインタビューに応じた。同党の連立政権入りが取り沙汰されていることについて、「自公政権が過半数を割ることが一つの前提だ」との考えを示した。主なやりとりは以下の通り。~―将来的な連立入りの可能性は。代表選で勝利し、政策本位で与野党を問わず連携する方針は承認された。その上で、(与党に)より近づくのか、遠目に見るのかは党内でよく議論したい。一般論として、連立を組むには、安全保障、エネルギー、憲法などの基本政策の一致と、選挙区調整という二つの条件がある。これを満たす政党は、現在どこにもない。―前原誠司代表代行は、代表選で立憲民主党や日本維新の会との共闘を訴えた。2大政党的な政権交代や、「非自民、非共産」を集めて何とか過半数を取るというのは古くなっている。新しいアプローチで権力をリシャッフル(再編)したい。―連合は立民と国民の連携を求めている。両党が協力できる環境をつくるために、連合から立民に働き掛けてほしい。共産党と事実上の政策協定を結んだり、原発ゼロをうたったり、(東京電力福島第1原発の処理水を)汚染水だと言う議員がいたりするところとは一緒にできない。(以下略)---自公が圧倒多数を握っている間に連立に参加しても旨味がないから、国民民主党が「高く売れる」ときになったら連立するよ、という事ですね。権謀術数と、永田町での生き残り理論の上では、まあ分かる話です。しかし、つまり完全に自民党の補完勢力となることを自ら認めたわけです。それも、自公が過半数割れをするという事は、自公が支持を失うという事です。その時になって、支持を失った自公政権を助けて延命に手を貸そうと今から宣言しているわけですから、理念もへったくれもないという感想しかありません。少なくとも私は、この党に票を投じることは自民党に票を投じるのと同じことであると判断することにします(というか、これまでもだいたいのところそう思っていたわけですが)。311の惨劇があってなお、原発ゼロをうたう議員がいる政党とは一緒にできない、それは言い換えると、国民民主党が公式に掲げているエネルギー政策で「原子力エネルギーに依存しない社会の実現」と言っているのは嘘だ、ということです。だって、「①40年運転制限制を厳格に適用する、②原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ、再稼働とする、③新設・増設は行わないことを原則とします。」というその政策を実現すれば、最後の原発が稼働してから40年後の2049年には原発ゼロになるはずです。にもかかわらず「原発ゼロをうたう議員がいる政党とは一緒にできない」ということは、国民民主党は自ら掲げているこの政策をこれから変えるか、骨抜きにして反故にするつもりだ、ということです。汚染水についても、それを「処理水」と言い換えるのは勝手ですが、汚染水と呼ぶことを許さないような言い分は、「勝手に言ってろ」という以外の感想はありません。撤退を転進、戦死を散華、全滅を玉砕と言い換えた過去の歴史を繰り返したいなら、そうすればよろしい。
2023.09.17
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江川紹子氏 〝日本の魚を食べて中国に勝とう〟に警鐘「国のために食べるわけじゃない」ジャーナリストの江川紹子氏が、福島第1原発の処理水放出をめぐる風評被害を受け、「食べて応援」が広がっていることに私見を述べた。7日までに自身のX(旧ツイッター)を更新。処理水をめぐっては、中国が日本産水産物の全面禁輸に踏み切るなど、漁業関係者は大打撃を受けている。こうした事態に政界では岸田文雄首相や小池百合子都知事、大阪の吉村洋文知事らが福島県産の魚を食べて、内外に安全性をアピールしている。江川氏はXで「『食べて応援』には2種類あるんじゃないかな」と指摘。ジャーナリスト・櫻井よしこ氏が前面に出て「日本の魚を食べて中国に勝とう」と呼びかける広告画像を添付した上で「1つは、困難な状況にいる水産業者を助けたい、という気持ちから。もう一つは、こんな風に日本国が中国に打ち勝つことが目的。一緒くたにするのは、ちょっと違うかも。わらしら、国のために食べるわけじゃないのでね」(原文まま)と投稿した。---江川氏の主張に全面的に賛同です。日本の水産物すべてを全面的に輸入禁止した中国のやり方にはまったく賛同はしませんが、「日本の魚を食べて中国に勝とう」には、率直に言って「気持ち悪い」という感想以外にありません。私は、自分の食べたいものを食べます。美味しいものは大好きです。そして、「自分の食べたいもの」の範疇の中で、なにか困っている産地があれば、その産地の食品を選ぶことはあります。しかし、ものを食べるのに、「お国のため」「××国に勝つため」という発想は、私には異常と思えます。もちろん私は、中国が日本の水産品を禁輸にしようが、一切関係なく日本の水産品を食べます。福島産の農産物や肉も、特に気兼ねなく食べてきました。そして、福島産の魚が別に危険なものだとも思いません。汚染水を流したからその海域の魚が直ちに汚染されるものではないし、それを言い出したら東京湾の魚なんて食べられたものではありませんから。ただ、では福島産の水産物を一切気にせず食べるかというと、それは分かりません。食べ物の味は、理論や理屈、科学的安全性で決まるものではないからです。食べ物の好き嫌いや、同じ食べ物でも美味しい不味いという差はなぜ起こるか。それは理屈や科学ではないのです。例えば、最高級のフランス料理フルコースでも嫌いな人はいるし、好きな人でも下水処理施設の隣で臭いを嗅ぎながら食べたら、美味しいと思う人は激減するでしょう。それは、心理学のアプローチからは分析できても、食物の側からいくらアプローチしても、理屈も科学的根拠もあるはずがないのです。「その好き嫌いは非科学的だ」と詰り、あるいは「お国のために食べろ」と言われれば、美味しくない(と感じられる)食べ物が美味しくなる、なんてことはありません。嫌いなものは嫌い、嫌なものは嫌、としか言いようがありません。日本中が飢餓地獄にでも陥ればそんなことは言っていられなくなりますが。下水処理施設の隣で飲食店を営業することに、法的、衛生的、科学的になんの問題もありませんが、だからといってその飲食店で食事をしたいかどうかは別の問題、ということです。当然、飲食店の隣に下水処理施設がやってくるとなれば、飲食店は全力でそれに反対するでしょう。それを「非科学的」と言ったところで何の説得力もありません。というわけで、「中国に勝つために」福島の魚を食べようと言うのは、「やりたい人は勝手にやってくれ、私は巻き込まないでね」としか言いようがありません。
2023.09.15
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今夏の山岳遭難、過去最多809人 コロナ禍明け影響か、富士山最多今年7~8月に全国で起きた山岳遭難は、昨年同時期よりも70件多い738件だった。遭難者数は809人で昨年から23人増え、いずれも統計が残る1968年以降で最多となった。警察庁が13日に発表した。夏場の山岳遭難はここ数年増えている。警察庁は、新型コロナによる行動制限が解除されたことに加え、コロナ下で密を避けるレジャーとして登山が広まった影響が出ているとみる。都道府県別の発生件数では、長野が最多の101件で、静岡が76件と続いた。最も多くの遭難者が出たのは69人の富士山で、2番目は秩父山系の41人だった。遭難者全体の2割超は60代だった。同時期の水難事故は昨年より6件少ない453件で、水難者は70人減って568人だった。遭難者の5割超は海で事故に遭った。死者、行方不明者は8人多い236人。中学生以下は16人で、11人は小学生だった。---この記事だけ読むと、山岳遭難809人対水難568人で、山岳遭難の方が危険であるかのように感じます。が、実際には違います。記事には水難事故の死者は書いてありますが、山岳遭難の死者数は書いてありません(おそらく実際の記事には書いてあるのだろうと思います。ネットには記事の冒頭部分しか掲載しないから、そこがカットされているのでしょう)。別記事によると、山岳遭難の死者・行方不明者は61人、負傷者は351人ということです。つつまり、遭難のうち死亡に至るケースは1割に満たないのです。もちろん、それだって充分に高率です。昨年2022年交通事故発生件数は30万件余りで、負傷者は35万6千人に対して死者は3千人に満たないので、交通事故に占める死亡の割合は1%にも満たないものです。だから、山岳遭難だって死亡リスクが低いわけではまったくくないのですが、水難事故は568人中死亡が236人というので、死亡率4割を超えます。桁が違うのです。考え見れば、それはそうなのです。山は、遭難しても、転落、滑落等で身体に大きなダメージを追っていなければ、必ずしも即死するものではありません。そこは地上ですから、とりあえず呼吸をすることはできるからです。しかし、水の中はそうはいきません。水に落ちた時、仮に身体のどこにもダメージを負っていなかったとしても、背が立たなければすぐに溺れる(窒息死する)可能性があるし、水の中では体温があっという間に奪われる、着衣のままでは体の自由が利かない、などの理由で、あっという間に死に至ってしまいます。難しいものですよね、元々すべての生命の源は海であり、人間の体の中だって、血液は海水と成分はほとんど同じと言われるくらい、海は切っても切れない縁がありながら、人間は海の中では1時間と言えども生きながらえることは難しいのですから。しかし、この夏、山岳遭難が多かったためニュースバリューが生じてしまったせいか、何でもかんでもやたらと山岳遭難が報道される傾向が著しかったように思います。死亡行方不明の事例が報じられるのは当然ですが、今夏は、軽傷や「疲労で動けなくなった」程度の無傷の事例まで、シャカリキになって報じていた印象があります。私は6年前に奥多摩の御岳山で骨折してしまったわけですが、もちろん当時私の遭難など、ひとかけらも報道などされていません。しかし、もし私が6年前ではなく、この夏に同じケガを負っていたとしたら、報じられていた可能性は低くはないように思います。富士山や北アルプスみたいに、遭難注目スポットではないので確たることは言えませんが。しかし、その一方で、登山の10倍近い死者を出した水難事故は、果たしてどこまで報じられたのかな、と思います。リスクの大きさを考えれば、水難事故こそ大々的に報じられるべきものだと思うのですが。引用記事に重要な、しかし見落としがちな言及があります。「遭難者の5割超は海で事故に遭った。」つまり、逆算すれば遭難者の5割弱は海以外の場所で事故にあった、ということです。海以外というのは、川、ため池、用水路などでしょう。山は、意図して登らなければ遭難しませんが、水難はそうとは限りません。柵のないため池や用水路、場合によっては道路の側溝などでも水難事故は起こります。釣りや水遊びに行かなくても、遭遇しうるのが水難事故です。都会ではなかなかそういうところは少ないですが※、農村部では、日常生活空間の中に水の事故に遭遇するリスクが、決して少なくありません。正常な判断力を持つ大人が日中であれば問題ないでしょうが、「子ども」「高齢者」「酩酊時」「夜間」などの条件が付くと、そうはいえなくなります。※ただし、「水難」には定義されませんが、都会にも水の事故が生じるリスクが大きい場所があります。それはお風呂。入浴中の死亡事故は、年間4000人以上に達しており、交通事故死者よりずっと多く、山岳遭難や、狭義の水難事故など比較の段ではありません。やはり大半が高齢者であり、そのため、高齢者用の低浴槽というものが存在します。というわけで、「海水浴」「水遊び」は夏場以外にする人は少ないですが、しかし水難事故は決して夏だけのものではありませんので、皆さんくれぐれも気をつけましょう。
2023.09.13
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---1973年9月11日、チリ・サンティアゴ もう一つの9119.11と言えば、まずたいていの人が2001年9月11日にニューヨークで起こったテロ事件のことを思い浮かべるでしょう。しかし、この事件の28年前、1973年の同じ9月11日に、ニューヨークのテロにも匹敵する惨劇として現代史にその名を刻まれている大事件が起こっています。舞台は、南米のチリです。前史チリは、1818年にスペインから独立し、その当初は別にして、19世紀中頃からは、1930年代初頭の短期間を除き、ほぼ一貫して民主的な選挙に基づく政権運営が続いていました。もちろん、その民主的な選挙というのは、当初はごく限られた上流階級だけが参加できるものでしかありませんでしたが、1884年にはラテンアメリカで最初の普通選挙(ただし男子のみ)が実施されています。また、20世紀の初頭以来、労働者階級を代表する左翼政党も、着実にその力を伸ばし続けてきました。1973年のその日までは。チリの左翼政党は、1863年に、当時の支配的政党であった自由党から分裂して結成された急進党を起源とします。余談ですが、結成直後の1870年代、この党の国会議員にラモン・アジェンデ・パディンというバスク系の人物がいました。彼の家系は、どうやら代々政治と急進的思想と縁が深いらしく、彼の孫も左翼的な思想を抱いて政治の世界に進みます。サルバドール・アジェンデです。(ラモン・アジェンデは1884年に39歳の若さで亡くなっており、1908年生まれのサルバドール・アジェンデは、当然この祖父と直接の面識はありません)しかし急進党は、その後政策を右に左に転々とさせ、その間に左派が1887年に分裂して民主党を創設します。更に1912年、民主党から分裂したルイス・エミリオ・レカバレンらが社会主義労働者党を結成、1922年にはチリ共産党と改称します。共産党は、1920年代に一時非合法化されたことがありますが、その勢力は着実に増加していきました。それとは別に、1932年、空軍の司令官であったマルマドゥケ・グロベらがクーデターを起こし、たった12日間で崩壊するものの、「社会主義共和国」の成立を宣言するという事件が起こります。この社会主義共和国の中心メンバー、支持した左翼諸政党(チリ共産党は支持しなかった)が大同団結し、翌1933年にチリ社会党が結成されました。その結成メンバーの一人に、25歳の若き医師、サルバドール・アジェンデの名もあったのです。1938年、急進党・共産党・社会党など左派政党・労働組合・各種団体が統一して「人民戦線」を結成、急進党のペドロ・アギレ・セルダを大統領に当選させることに成功します。チリ社会党からは、当時30歳のサルバドール・アジェンデが保健大臣として入閣しました。その後、アギレ・セルダの死去、急進党の右傾化などによって人民戦線の結束は次第に崩れていきますが、1946年までの8年間、この政党連合が政権を握り続けました。1946年、統一戦線は崩れ、社会党が脱退し急進党と共産党だけの連合によって、急進党のガブリエル・ゴンサレス・ビデラが大統領に当選します。共産党はそのときまで、事実上の与党でありながら、閣外協力に留まって閣僚のポストを得ていませんでしたが、このとき、チリ史上初めて共産党員が閣僚に就任したのです。ところが、1948年、東西冷戦とともに米国の意向に従って保守化したビデラ大統領は、突然共産党の閣僚を解任し、チリ共産党を非合法化したのです。共産党は、同じ大統領の下で連立与党から非合法政党へという急転直下を味わうことになります。共産党の活動禁止は10年続き、1958年にイバニェス政権の元で合法化されました。(このイバニェスという人物も、政治姿勢を左右に何度も大きく流転させており、1920年代に大統領を務めたときは共産党を非合法化した当人だったのですが、その後社会党に接近し、今度は非合法の共産党を合法化したのです)それ以降、社会党と共産党、労働組合は一貫して共闘態勢を組み、1958年、1964年、そして1970年と3回の大統領選挙に社会党のサルバドール・アジェンデを立候補させ続けます。1958年の選挙では、「人民行動戦線」を名乗るアジェンデは28.8%の得票を得ましたが、アレッサンドリ(右派の国民党)とわずか3万票、得票率で3ポイントに満たない差で当選を逃しました。続く1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補のエドゥアルド・フレイが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となりました。そして、1970年、アジェンデにとって3回目の、そして最後の大統領選挙を迎えたのです。1970年大統領選挙1970年の大統領選挙はアジェンデにとって苦難の道でした。過去2回の大統領選での敗退で左翼勢力は意気消沈し、その結果として社会党内で暴力革命を指向する勢力が拡大します。一方で、あくまでも選挙による政権獲得を目指す共産党は、社会党のアジェンデではなく、後にノーベル文学賞受賞を受賞する詩人で共産党員のパブロ・ネルーダを独自候補に指名しようとしました。ところが当のパブロ・ネルーダがこれを辞退、選挙1年前の1969年10月に、やっとアジェンデが3度目の左翼統一候補に選ばれたのです。しかし、一方でアジェンデに有利なことも起こっていました。1964年の選挙では「反アジェンデ」という一致点で共闘した中道のキリスト教民主党と右派の国民党が決裂して、別々の大統領候補をたてたのです。また、キリスト教民主党から左派が分裂し、左翼陣営に加わったことも大な意味を持ちました。更に、一時は完全に右派政党となっていた、かつての人民戦線の一員、急進党が急激に左傾化して左翼陣営に回帰してきたのです。1969年12月、社会党・共産党・急進党・人民統一行動戦線(MAPU)と社会民主党・独立人民行動(AVI)の6政党が「人民連合」を結成し、1970年9月の大統領選挙に臨みます。MAPUと社会民主党は、前回選挙の後キリスト教民主党の左派から分裂した小政党です。選挙は、前々回1958年の大統領選挙とほぼ同じ組み合わせになりました。右派は国民党のアレッサンドリ、左派は人民連合のアジェンデ、そして中道がキリスト教民主党のラドミロ・トミッチという三つ巴の対決です。当時のチリ憲法の定めによって、大統領の連続再選は禁じられていました。だから58年に当選したアレッサンドリは64年の大統領選には立候補できず、1期空けた70年の大統領選に挑戦した一方、現職のキリスト教民主党のフレイも、70年の選挙には立候補できなかったのです。一人、落選を重ねたアジェンデだけが3回続けての立候補が可能でした。大統領選の投票は70年9月4日行われました。36.3%の得票で1位になったのは人民連合のアジェンデです。遂に、3度目の挑戦で初めて、1位となったのです。しかし、まだ大統領に当選したわけではありません。チリの当時の選挙制度では、過半数の得票を得る候補者がいない場合は、国会議員によって得票1位と2位の候補者の決選投票が行われることになっていました。(1989年の民政復帰後は、決選投票は国会ではなく、1回目の投票と同じく一般投票で行われる)アジェンデは1位にこそなりましたが、2位のアレッサンドリとの得票差はごくわずかで、得票率50%には遠く、国会での決選投票に当選はゆだねられたのです。ただし、実際にはチリの歴史始まって以来、大統領選で1位となった候補者が、国会の決選投票でひっくり返されて落選した例はありませんでした。1958年の選挙で、わずかの差で2位となったアジェンデは、策を巡らせればこの決選投票で逆転することも不可能ではなかったかもしれませんが、民主主義の慣例を遵守して、あえてそうせず、決選投票ではアレッサンドリを支持したのです。しかし、そのときのお返しで今度は右派が決選投票でアジェンデを支援、というわけには行きませんでした。彼らはなりふり構わず、とにかく左翼政権を阻止したかったのです。その背後には、自国の「裏庭」での左翼政権樹立を阻止したい米国のニクソン大統領とキッシンジャー国務長官の意向がありました。CIAは、アジェンデ政権を阻止するためのあらゆる謀略を駆使しました。のちにコルビーCIA長官が証言したところによると、1962年から70年までの期間だけで、アジェンデ当選阻止のためにCIAがつぎ込んだ資金は1000万ドル(当時のレートなら36億円以上)を越えています。アジェンデ自身の暗殺も、CIAの選択肢には含まれていました。ただし、実際に暗殺の標的にされたのは、別の人物でした。シュナイダー暗殺とアジェンデの就任チリの軍部には、この当時不穏な空気が漂っていました。1930年代、空軍司令官のグロベが「社会主義共和国」を樹立したクーデター以来、チリではクーデターによって樹立された政権はありませんでした。これは、クーデターが日常茶飯事のラテンアメリカにおいては、ほとんど奇跡的なことと言って良かったのです。政権は民主的な選挙によって選ばれ、軍隊は政治に介入しない、という当たり前のことが、チリでは当たり前に行われてきました。このときまでは。しかし、アジェンデの大統領当選の可能性がささやかれはじめた1969年頃から、アジェンデ政権を阻止しようという意図に基づくクーデター未遂事件が頻発するようになりました。もっとも、それらのクーデター未遂事件は、ことごとく失敗に終わりましたが。陸軍総司令官レネ・シュナイダー将軍の威光が行き届いていたからです。レネ・シュナイダー、更にその後任となったカルロス・プラッツは、アジェンデに協力的だったこと、その悲劇的な最期と、後のピノチェトの反動ぶりとの対比から、進歩的な軍人とみなされることが多いのですが、実際のところ個別具体的にどの程度進歩的だったのかはわかりません。ただ、彼らはチリ軍部の伝統に基づき、軍は政治に介入してはならないという信念、国民党政権であれキリスト教民主党政権であれ、そして左翼政権であれ軍は民主主義によって選ばれた政府に対して忠実であらねばならないという、ごく当然の信念を持っていたことだけは、はっきりしています。しかし、その当たり前の信念の持ち主が陸軍総司令官の地位にいることが、いかなる非合法な手段を用いても左翼政権を阻止したい右派勢力と米国政府にとっては、邪魔だったのです。10月22日、前年にクーデターに失敗して軍部から追放されていたビオー将軍の一派が、CIAの支援を受けてレネ・シュナイダー司令官を襲撃します。銃弾を浴びたシュナイダーは、4日後に死亡しました。しかし、このあまりに露骨な反アジェンデ派のテロは、結果としてみれば逆効果となってしまいました。襲撃と連動して行われるはずだったクーデターは未然に封じ込まれて失敗しました。キリスト教民主党も国民党も、ここでアジェンデ落選に動けば「テロリストの同盟者」であると自ら認めることになってしまいます。また、さすがに彼らもテロリストの背後にCIAがいることが、自国の独立の危機と感じられたようです(もっとも、このときまでにキリスト教民主党にも国民党にも相当額のCIAの工作資金が流れ込んでいたのですが)。結局、国会での決選投票は大差でアジェンデの勝利となりました。1970年10月24日のことです。史上初めて、選挙によって社会主義政権が樹立された瞬間です。シュナイダーの後任の陸軍総司令官には、やはり軍は政治に関与してはならないという信念を持つカルロス・プラッツ将軍が就任しました。社会主義へのチリの道政権を獲得したアジェンデの人民連合は、最初の1年間にめざましい業績を上げます。チリの基幹産業である銅鉱山を国有化、物価凍結令と賃金一律引き上げ令などの社会主義的な経済改革が実施され、それが好結果を生んだのです。71年4月に行われた統一地方選挙で、人民連合は躍進し、得票率はとうとう50%を越えました。しかしその一方で、左翼諸党派の内部対立も次第に表面化し始めました。人民連合は、先に述べた6政党の連合体ですが、実はそれ以外にもう一つ、人民連合には加盟していないものの大きな影響力のある、一つの左翼組織が存在しました。左翼革命運動(MIR)です。キューバ革命の影響を受けて、1965年に社会党左派から分裂した組織で、武力革命を目指して議会主義を否定し、それゆえ選挙にはいっさい参加せず、選挙のための共闘組織である人民連合にも加わっていませんでした。しかし、共産党を除く人民連合内各党の内部には、MIRの路線を支持するグループが存在し、特にMIRの出身母体である社会党左派ではその勢力は侮りがたいものとなっていったのです。彼らは、土地占拠や工場占拠などの過激な行動を繰り返し、あくまでも議会主義・民主主義に基づく改革を行おうとする共産党や社会党の中間派などとのあいだで亀裂が目立ってきます。それでも、この亀裂はチリの経済が好調であった間は、それほど目立たなかったのです。しかし、政権が丸1年以上経過して1972年にはいると、チリの経済状態は急激に悪化し始めます。物価は統制令で安価のまま、賃金は一律にアップという、ある意味では天国のような政策は、残念ながら経済が好調でなければ維持できるものではありませんでした。アジェンデ政権は、チリ経済の屋台骨である銅鉱山を国営化することで、その収入によってこの政策を賄おうと考えていたと思われますが、銅の国際価格が低迷したことと、銅鉱山の旧経営陣が徹底的にサボタージュしたために、思惑どおりに行かなくなってしまったのです。米国が、戦略備蓄として保有していた銅を大量に売却して、銅の国際価格を下落させ、それによってチリの経済状態を悪化させようと画策したことが、後に明らかになっています。物価の上昇圧力に価格統制令は耐えられず、72年3月に撤廃されます。以降インフレが猛烈な勢いで進行し、それとともに物不足も激しくなります。73年2月には、食料品が配給制になるところまで追い込まれます。その一方で、CIAは国民党やキリスト教民主党など反アジェンデ派に大量の資金を援助してその活動を支援し、また人民連合内でもっとも思想的に不安定な急進党を狙い撃ちにして札束攻勢をかけて、党内右派を分裂させて反アジェンデ派に転向させることに成功します。このような危機的な状況の中で、人民連合内部の亀裂も拡大していきました。MIRを中心とする急進派は土地占拠・工場占拠と自主管理を激化させ、また軍部やキリスト教民主党に対して妥協の道を探るアジェンデや共産党との対立が拡大します。一方反アジェンデの右派はCIAの資金で連日激しい反政府運動とサボタージュを展開します。右翼のテロリストも盛んに破壊活動を行い、国内は混乱状態に陥りました。しかしそれにも関わらず、アジェンデの背後には、依然として熱烈に支持する民衆がいました。73年3月に行われた国会議員選挙で、人民連合は43%の得票を獲得したのです。これは、2年前に行われた統一地方選挙よりは後退ですが、アジェンデが当選した大統領選の得票率36%よりはるかに多かったのです。反アジェンデ派は、2/3を越える議席の獲得を目指していました。国会議員の2/3以上の賛成があれば大統領を罷免できるからです。結果は罷免の権限を手にするどころか、大幅な後退でした。しかし、国民党とキリスト教民主党、それに急進党から分裂した左翼急進党(名前は左翼だが中身は右派)が反アジェンデで結束している限り、彼らが国会議席の過半数を制していることは歴然としています。また、この件で選挙によってアジェンデを政権から引きずりおろすことが不可能と悟った右派は、公然と軍部のクーデターに荷担するようになっていきます。そのような意味では、議会選挙に辛勝したことで、政治的には人民連合は追い込まれていきます。高まる危機73年6月、陸軍の機甲部隊が反乱を起こします。このときは、クーデター計画が事前に露見して逮捕されそうになった首謀者が準備不足のまま、半ば自暴自棄的に決起したもので、3時間で鎮圧されました。しかし、早朝とはいえ首都サンティアゴのど真ん中で、機甲部隊が大統領府に向けて戦車砲と機関銃を乱射し、20名以上の犠牲者を出したのです。チリの民主主義は大きく揺らぎました。この事件によってクーデターの脅威は現実のものとなり、以降人民連合内の急進派は、対抗措置として武装化を指向するようになります。反アジェンデ派のテロとクーデターの脅威、デモとサボタージュ、対して与党内では武力革命路線の急進派と反政府勢力との対話を指向する穏健派の対立、進退窮まったアジェンデは、大統領信任の国民投票を目指します。信任投票で過半数を取れば、国民の支持があるということを見せつけることで反政府派に対して優位に立つことができるし、負たら負けたで、政権を潔く返上して、名誉ある撤退によって人民連合を立て直そうという意図があったようです。また、国民投票は武力蜂起で社会主義革命に突き進もうとする与党内急進派に対して、あくまでも民主的な制度によって決着を付けるのだという宣言でもありました。そのため、共産党は国民投票に賛成、社会党左派は反対しますが、最終的にアジェンデの強い意向によって、実施が決まります。もし、この国民投票が実施されていたら、どういう結果になったでしょうか。得票率の合計から考えれば、不信任が過半数を制する可能性が高かったでしょう。アジェンデも共産党も、そのことは覚悟の上でした。しかし、アジェンデには与党のもつ基礎票を越えて、個人的な人気もありましたから、勝てる可能性もゼロではなかった。いずれにしても、直前の国会議員選挙の結果から類推して、大差での敗北は考えられず、負けるにしても僅差での名誉ある撤退が可能だったでしょう。しかし、実際にはこの国民投票は行われることがありませんでした。アジェンデ打倒を目論む勢力は、民意がどうあろうがアジェンデの政権を維持させるつもりも、名誉ある撤退をさせるつもりもなかったのです。クーデターを押しとどめている最後の砦は、立憲派の陸軍総司令官プラッツ将軍でした。しかし、軍内部の強烈な圧力、直接的には軍人の妻たちがプラッツ将軍の自宅に抗議デモに押し寄せたことによって、プラッツは73年8月23日に辞任を余儀なくされます。後任の総司令官が、アウグスト・ピノチェト将軍です。クーデターへの最後の砦は、このとき取り払われたのです。1973年9月11日73年9月11日、人知れずクーデターは動き出しました。最初に血祭りに上げられたのは、軍内部の左派・もしくは立憲派の将兵でした。軍は政治に介入してはならないとの信念を持つ立憲派の雄、陸軍のカルロス・プラッツはすでに辞任に追い込まれていましたが、同様の信念をもつ海軍総司令官モンテーロ提督を筆頭に、上は将軍・提督から下は兵士に至るまで、多くの軍人が逮捕され、あるいは人知れず抹殺されたのです。その中には、一時アジェンデ政権の閣僚を務めたこともある空軍のアルベルト・バチェレ准将も含まれていました。逮捕されたバチェレ准将は、半年後に拷問死を遂げることになります。彼の娘は社会党の活動家であったため、やはり逮捕され拷問を受けますが、かろうじて生き延びて釈放され、国外に亡命しました。32年後の2006年に、チリ社会党から大統領に当選することになる、ミシェル・バチェレです。朝6時、首都サンティアゴの西約200kmにあるチリ最大の港町・軍港であるバルパライソで、海軍が反乱を起こします。海軍ナンバー2の第1管区司令官メリノ提督が、総司令官モンテーロ提督を逮捕して実権を奪い、市内を制圧、人民連合に属すバルパライソ市長も逮捕されました。同時刻、首都サンティアゴでは、私邸にいるアジェンデの元に、反乱発生の報がもたらされます。バルパライソで海軍の反乱発生、しかし詳細は不明。陸海空軍の総司令官に電話を入れるも、誰も電話に出ません。ただ、陸海空に並ぶ第4の軍隊である治安警察軍(通称カラビネーロス)の司令官だけが電話に出ました。朝7時20分、アジェンデは私邸を出て大統領府(通称モネダ宮)向かいます。このときは、まだ官邸に向かうアジェンデの車列はカラビネーロスの護衛の下にありましたが、上空には、すでに反乱に加わった空軍のホーカー・ハンター戦闘機が飛び回っていました。9時少し前、モネダ宮から窓の外を眺めていたアジェンデは信じられない光景を目にします。それまでモネダ宮を警備していたカラビネーロスの部隊が突然退却を始め、あろうことかモネダ宮に銃口を向けたのです。アジェンデのとなりには四軍の司令官の中で唯一大統領に従っていたカラビネーロスの司令官が立っていましたが、彼の命令はもはや通じません。クーデターに荷担するメンドーサ将軍に実権を奪われたのです。ほぼ同じ頃、反アジェンデ派のラジオ局が、陸海空軍とカラビネーロスの四軍総司令官による政権奪取の共同宣言を読み上げます。中心となったのは、陸軍総司令官に就任したばかりのアウグスト・ピノチェトでしたアジェンデが完全な敗北を悟ったのは、この時だったかもしれません。しかし、この状況を前に、アジェンデは自らの思想と良心に殉じることに命を賭ける覚悟を決めたのです。10時、モネダ宮の前に陸軍の戦車部隊が姿を現し、砲口を向けます。10時15分、アジェンデは大統領執務室の電話を取り上げました。電話の先は、共産党系のラジオ局、マガジャネス放送でした。この時点でまだ反乱軍に制圧されていなかった、唯一の左翼系ラジオ局です。執務室の電話を通じて、アジェンデは放送を行います。我が友人たちよ。おそらく、これがあなた方に向かって話をする最後の機会となるでしょう。空軍は、ポルタレス放送とコルポラシオン放送の放送塔を爆撃しました。私はつらくはありませんが、失望しています。私の言葉は、誓約に対する裏切りをなしたチリの兵士たち、任官された司令官たち、自薦で任官したメリノ提督、浅ましいメンドーサ将軍たちへの、道徳的な罰となるでしょう。彼らは昨日、政府に対して忠誠を誓ったばかりなのです。カラビネーロスを指揮する将軍も、任命されたばかりです。何よりもまず、私はこれだけは労働者たちに申し上げることができます。私は決して辞任しない、と。この歴史的な危機に際して、私は、支持してくれた人民に我が命をもって報います。我々の蒔いた種子は、多くのチリ人の、誇り高き良心に受け継がれ、決して刈り取られることはないと、私は確信しています。軍部は武器を持ち、我々を屈服させるでしょう。しかし、犯罪行為であろうと武器であろうと、社会の進歩をとどめることはできないのです。歴史は、我々のものであり、人民がそれをつくるのです。我が祖国の労働者たちよ!私は、正義を熱望し、憲法と法を重んじることを誓う一人の代弁者にすぎません。その私を常に支持し、信頼していただいたことに、感謝を申し上げたい。この最終的な瞬間、あなた方に話しかけられる最後の機会に、私は教訓を生かしたいと思います。シュナイダー将軍がさし示し、アラヤ司令官が再確認した軍部の伝統を破壊するような雰囲気を、外国資本、帝国主義、反動主義の連合は作り上げたのです。彼らは、今日期待に胸を膨らませて家にいるのです。他人の手によって、彼らの利益と特権が奪回されることを願って。私は、何よりも、この土地の質素な女性に、我々を信じてくださった農民女性に、働き者の女性労働者に、我々が子どもたちの心配をしていることを知る母親たちに向かって、申し上げたい。私は、我が祖国の職人たち、資本家の利益を守るための職人協会の騒乱に抗して日々働いている愛国者の職人たちに申し上げたい。私は、歌い、楽しみと闘争の精神に身をゆだねる若者たちに申し上げたい。私は、チリの男たちに、労働者に、農民に、知識人に、それに多くの人々に申し上げたい・・・・・、なぜなら、我が国においては、ファシズムによるテロが以前から存在しているからです。彼らは、行動する義務を負う者たちが沈黙している前で、橋を吹き飛ばし、鉄道を寸断し、石油とガスのパイプラインを破壊し、我が国を損なってきたのです。歴史は、彼らを裁くでしょう。ひょっとして、マガジャネス放送はもう沈黙していて、私の声はあなた方に届いていないかもしれません。しかし、それでもいい。あなた方はきっと聞いているでしょう。私は、永遠にあなた方の元にいる。少なくとも私の記憶は、祖国に忠実な一人の男として残るでしょう。人民は、きっと身を守り、犠牲にはならないでしょう。人民は、破壊され、蜂の巣にされたままであってはなりません。屈服したままであってはなりません。我が祖国の労働者たちよ!私は、チリと、その運命を信じています。私に続く者たちが、裏切りの支配するこの灰色で苦い時代を乗り越えていくでしょう。遅かれ早かれ、よりよい社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木が再び開かれるでしょう。チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!これが、私の最後の言葉です。私が犠牲になることは無駄ではないと確信しています。少なくとも、裏切り・臆病・背信を断罪する道徳的な裁定となると、私は確信しています。反乱軍に取り囲まれた絶体絶命の状況で、騒然とした執務室のなかで、命を捨てる覚悟を決めたアジェンデは、一人淡々と、しかし決然と、静かに、しかし力強く、人民への別れの言葉を述べたのです。マガジャネス放送(マガジャネスは、マゼランのスペイン語読み)が、まだ反乱軍に制圧されていないかどうか、自分の声がちゃんと放送されているかどうか、アジェンデには知る術がなかったので、自分の声はもう届いていないかもしれないと言っていますが、実際にはちゃんと放送されており、このように音源も残されています。反乱軍は大統領に辞任を要求し、辞任すれば生命の安全は保証し、出国用の飛行機を提供すると伝えます(もっとも、後に映画監督のミゲル・リティンが入手した証言によると、このときクーデターを起こした将軍たちはアジェンデの乗る飛行機に爆弾を仕掛けるつもりだったようですが)。それに対するアジェンデの答えは、「裏切り者諸君、私という人間が分かっていないようだね」というものだったといいます。彼は、人民に引きずり出される(国民投票敗北のことか)のでない限り、任期が終わるまで生きてモネダ宮を出ることはない、と公言していました。10時30分頃、モネダ宮を包囲する陸軍の戦車部隊が砲門を開きます。さらに11時52分、上空のホーカー・ハンター戦闘機からモネダ宮に向けてロケット弾による爆撃も始まりました。激戦、と言っても実際は反乱軍がモネダ宮を一方的に攻撃するばかりでしたが、それは2時間以上も続きました。最後の瞬間、アジェンデの元にあった兵力は、皮肉にも政治的には対立的だった武力革命組織MIRの武装民兵たち数十名に過ぎなかったのです。アジェンデは、前年にチリを訪問したキューバのカストロ首相に贈られたAK-47自動小銃を手に、モネダ宮に進入してきた反乱軍と戦い、2時過ぎ、「みんな伏せろ、武器を捨てて伏せろ。私は一番最後にそうする」という言葉を最後に、自ら銃を顎に向けて自殺を遂げた、とされています。ただし、銃撃戦の中で戦死した、との説もあり、実際のところはよく分かりません。いずれにしても、炎上するモネダ宮の中で、アジェンデは65年の生涯を閉じたのです。血の弾圧アジェンデの死は、しかし悲劇の幕開けでしかありませんでした。陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトを中心とするクーデターの首謀者たちは、まずクーデターの障害となる左翼支持の軍人たち、軍部は政治に介入してはならないという信念をもつ軍人たちを血祭りに上げ、アジェンデを殺して政権を奪い、しかしそれで満足したわけではありませんでした。彼らは、チリから左翼勢力を根絶し、民主主義も根絶しようとしたのです。まず、左翼勢力が血の弾圧を受けました。フォルクローレの歌い手、ビクトル・ハラは他の多くの左翼支持の市民たちとともに逮捕され、チリ・スタジアム(サッカー場)に拘留されたあげく、「二度とギターが弾けないように」と両手を打ち砕かれた上に射殺されました。同じく左翼支持のフォルクローレの歌い手、アンヘル・パラは、強制収容所で拷問を受け、辛くも生き延びて国外亡命することができましたが、心身に大きな打撃を受けました。2年前にノーベル文学賞を受賞していたパブロ・ネルーダは、すでにガンで病床にありましたが、軍人たちは容赦なく彼の家に押し入って破壊の限りを付くしました。ネルーダは絶望の中で危篤状態に陥り、救急車で病院に搬送されましたが、途中で軍の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受け、病院に着いたときには既に亡くなっていました。同じようにして、逮捕され、そのまま殺されたり、あるいは闇から闇に「行方不明」にされた市民の数は、後に民政復帰後の調査で政府が認めた数字でも3000人以上、実際にはそれよりずっと多く、数万に達するのではないか、とも言われています。血の弾圧の対象は左翼勢力だけにとどまりませんでした。9月11日までは、打倒アジェンデという共通目的のために軍部と協力していた政党勢力、つまり右派の国民党や中道のキリスト教民主党は。クーデターの成功に大喜びをしていましたが、ほどなく彼らの笑顔は凍り付くことになります。弾圧は、彼らにまで及んだのです。クーデターという目的さえ達すれば、政党など用済みだとばかりに、ピノチェトは、すべての政党を活動禁止にしました。そして、そのままピノチェトが退陣する1989年まで16年間にわたって、議会は解散されたままで選挙も行われなかったのです。多くの市民が国外に逃亡を余儀なくされましたし、クーデターの際にたまたま国外にいた左翼系の有名人は、そのまま入国を禁止されました。たとえば著名なフォルクローレのグループ、キラパジュンやインティ・イリマニなどです。さらに、魔の手は国外に亡命した反政府勢力の指導者にまで及びました。前陸軍総司令官、「軍は政治に介入してはならない」という信念に従って、最後までアジェンデを守ったカルロス・プラッツ将軍は、クーデター直後の9月15日にアルゼンチンに亡命しましたが、ちょうど1年後の1974年9月27日、その地でピノチェトの創設した秘密警察DINAの工作員のテロによって妻とともに暗殺されました。アジェンデの前任、キリスト教民主党のフレイ政権で副大統領を務めていたベルナルド・レイトンは、クーデターの後次第に軍政批判を強め、その結果1974年10月に国外追放され、1年後の1975年10月に亡命先のローマで、妻とともにDINAのテロの標的となり、辛くも一命は取り留めたものの、重傷を負いました。更に、1976年9月には、米国に滞在していたアジェンデ政権で外務大臣と駐米大使を務めたオルランド・レテリエルが、米国の首都ワシントンで、友人の米国人ともどもDINAのテロによって暗殺されます。抵抗のチリすさまじい弾圧によって、チリの左翼勢力、中道勢力は一時窒息状態に陥ります。その中で、チリ共産党は重大な路線変更を強いられます。過去2度の非合法時代も守り続けた非武装路線・平和的活動を放棄し、アジェンデ政権時代には激しく対立したMIRと共闘して、武力闘争に転じたのです。もっとも、この時点でMIRは激しい弾圧によってほとんど壊滅状態に陥っていましたが、それに代わって共産党が主導して、武装ゲリラ「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」(FPMR)を組織し、1986年にはピノチェトに対する襲撃事件を起こします。しかし戦車並といわれるピノチェトの専用車の装甲は、約10分間にも及ぶ自動小銃と対戦車ロケットの猛射をはじき返し、襲撃は失敗に終わりました。なお、現大統領ミシェル・バチェレは、当時FPMRのメンバーだったと言われています。しかし、ピノチェトの圧制を終わらせたのは武力闘争ではなく、民主主義を求める民衆の平和的な運動のうねりでした。ピノチェトの独裁政治は、経済政策もそれまでとは一変させました。産業の国有化や貧富の格差を縮小するための政策はすべて放棄し、徹底的な新自由主義経済体制を敷いたのです。その結果、クーデターの直後、チリはすさまじい不況に陥ります。しかし1980年代にはいると経済が好転し、一時は史上空前の経済成長を記録しました。もっとも、競争原理至上主義の新自由主義経済の元での経済成長は、必然的に貧富の格差の拡大を伴います。そして80年代中頃からは、ラテンアメリカ全体を襲った不況の波がチリも襲い、経済の失速、急激な対外債務の増加、失業率の増加、中産階級の没落といった事態が進行していきます。それとともに、ピノチェト独裁体制に対する反対運動が急激に盛り上がっていったのです。社会党右派から枝分かれしたPPD(民主主義のための党)、かつてはクーデターを支持していたキリスト教民主党など中道政党が大同団結して、運動のイニシアチブを取ります。1888年、世論の盛り上がりに押されたピノチェトは、ついに自身の任期を10年間延長することの是非を問う国民投票の実施に追い込まれました。任期延長に反対する運動は、かつてない盛り上がりを見せ、それに押されて、共産党も武力闘争路線を放棄して平和的活動路線に回帰します。MIRも、いくつかの派に分裂しますが、主流は武力闘争を停止しました。ピノチェトの任期延長が否決されたため、翌1989年に19年ぶりの大統領選挙が行われました。ピノチェト支持派は二人の候補者に分裂し、一方反ピノチェト派は、かつてクーデターに荷担していたこともあるキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンにすべての党が大同団結して結集します。共産党やMIRすら、かつての恩讐を越えて打倒ピノチェトの一点の目的のためにエイルウィンを支持したのです。選挙の結果はエイルウィンの圧勝でした。ピノチェトが依然として陸軍総司令官の地位に留まり続けているといった問題は残るものの、チリに、17年ぶりに民主主義が復活したのでした。
2023.09.11
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職場の同僚と一緒に、金曜の夜から夜行日帰りで西穂高岳独標まで行ってきました。8年前に西穂本峰の山頂にも登っていますが、今回は同行者の経験と日程等を踏まえて。独標までにしました。上高地から西穂山荘に向かう登山道にて。に謎の同行者(笑)が先を進みます。というわけで、ニホンザルがいっぱいいました。秋の花であるトリカブトも咲いていました。西穂山荘に到着。ここまでずっと曇天でしたが、ここでやっと晴れました。しかし、向かう西穂高方面はガスの中です。笠ヶ岳も見えません。でも、独標が姿を現しました。西穂高の岩峰群が見えてきました。独標を眼前に臨む。独標に到着して、目の前のピラミッドピークを望む。西穂高岳に登るには、何カ所かの難所を通過しなくてはなりませんが、独標から向こう側への下りが最初の、そして最大級の難所の一つです。今回は同行者の技量、日程を判断して独標まで。独標まで、のつもりだったはずなのに、今回の行き先は独標までと決めていたのに、なんで私は向こう側から独標を撮っているんでしょうかね(笑)前回西穂高に登った時から8年経ち、その間に左足を骨折し、右ひざも痛いので、今も登れる自信はなかったのですが、ここが問題なく下れたので、多分今も西穂山頂まで登れるでしょう。独標に引き返して、眼前のピラミッドピークを撮影。うっすらと西穂本峰の姿も、姿を現しました。梓川流域と帝国ホテルの赤い屋根がよく見えました。下山です。独標までは初心者向けコースと言われますが、でも初心者向けにしては結構な岩場です。が、それでも反対側の絶壁に比べれば、斜度が緩いことが写真らも分かります。独標を見上げる。キアゲハがいました。もちろん笛も吹きました。往路は上高地から登りましたが、帰路は新穂高ロープウェイに出て新穂高温泉に下山、平湯経由で帰りました。次は独標止まりではなく、西穂高岳本峰の山頂まで行くことにします。
2023.09.10
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「これまで消費税を着服してたくせに」ホリエモン インボイス反対運動に苦言「ちゃんと払えや」SNSでは賛否9月5日、実業家の堀江貴文氏が自身のXを更新。インボイス制度への反対運動に苦言を呈した。今年10月から始まるインボイス制度。これまで課税売上高1,000万円以下の事業者は、「免税事業者」として消費税の納税が免除されていた。しかし、今後はこのような事業者も消費税を納税しなければ、取引先の課税事業者が消費税の控除を受けられなくなる。免税事業者のままでいる場合は課税事業者との取引が停止になる可能性があり、課税事業者になっても消費税支払いによる負担が発生することになるため、個人事業主を中心に抗議の声が続出。9月4日には、個人事業主らでつくる団体が財務省などに制度の中止、延期を求める署名およそ36万人分を手渡した。すると翌9月5日、堀江氏は自身のX上で、この反対運動に疑問を呈した。堀江氏は署名に関する東京新聞の「インボイス反対に署名36万筆超 個人事業主ら、財務省に提出」というニュース記事を引用したうえで、《これまで消費税を「着服」してたくせによー言うわ。ちゃんと払えや》とコメント。個人事業主らの消費税免税に納得がいかない様子だ。続けて、《みんな払ってる消費税を払わずに下駄履かせてもらってなんとか成立していた商売はそもそも商売として成り立ってないんだよ》とも投稿した。さらに、堀江氏はユーザーの《対価が少ない声優さんからの声が目立つと言うのはその辺かもしれませんね》というコメントを引用。《まあ厳しいことを言うと単純に新しい事にチャレンジ出来てない怠け者ってことになるわな。こんなしょーもない署名運動する暇があったらVtuberでもやってひと稼ぎしなよ、って思いますわ》と、インボイス制度に反対する人たちに喝を入れた。---相変わらず、上から目線での馬頭暴言を繰り返しているようです。インボイス制度にはいろいろと問題があり、私の周囲で普段まったく政治色がなく、おまけに明らかに売上高1000万円以上の企業に勤めている知人(売上高は知りませんが、従業員が3人以上いる会社で売上高1000万円以下はあり得ないでしょうから)も、「この制度はひどい」と言っています。すでに消費税を払っている会社もインボイス制度に対応するため、高価な会計システムを更新しなければならないからです。それにしても、「これまで消費税を「着服」してた」というのは、明らかに暴言です。着服とは、「人に知れないように盗んで(不正な手段を使って)、自分の物にすること。」です。法的に認められて消費税の支払いを免除されていた会社が消費税を支払わないことは、「着服」とは言いません。しかも、それを「着服」と呼ぶのであれば、世の中のすべての小売業は諸費税を「着服」していることになります。例えば、どこかのスーパーに行って、陳列棚の値札を見てみましょう。1,100円(消費税100円)と書いてある商品を購入すれば、100円の消費税をそのスーパーが預かり金としてそのまま消費税として納税する-と、思っていませんか?いうまでもなく、違います。仕入れた商品の原価にも消費税がかかっているからです。660円で仕入れた商品を1100円で売った場合、仕入れた段階で問屋に60円の消費税を払っているので、差引40円の消費税しか払いません。が、その取り扱いを、今後免税事業者から仕入れた場合には認めない、というわけです。免税事業者から660円で仕入れた商品を1,100円で売っても、差額の40円ではなく100円の消費税を払え、というのです。従来通り差額40円の消費税納税で済ませられるのは、インボイス制度の登録をした適格事業所から仕入れた場合だけ、となります。そうなると、損をするので免税事業者からは仕入れをしない、ということになる可能性が高いわけです。などという超初歩的な話は措いて、粗利率が3割や4割の企業で売上高1,000万円では、もうほとんど生きていくことはできないでしょう。私の両親は、社員は夫婦だけ、という零細企業を営んでいましたが、さすがに売上高は1,000万円は越えていました。また、相手が一般消費者であれば(購入者が経費として処理するのでなければ)上記のような不利益はあまり影響はありません。つまり、売り上げ1,000万円というのは、サイドビジネスで他に本業を持っているのでなければ、建設業の一人親方とか、偽装請負のように、実態は雇用関係に近いのに、委託契約の形にされている、という例が大半を占めているはずです。アニメ業界で声優が反対の声を上げているのも、そういう事情からでしょう。実態は給料だけど、それを給料としてもらえば消費税を納税する必要はないのに、委託料の形でもらうと消費税を納税しなくてはならない、そのような不合理があるからこそ、1000万円以下は免税事業者、という優遇措置で何とかバランスがとれていたのでしょう。「みんな払ってる消費税を払わずに下駄履かせてもらってなんとか成立していた商売はそもそも商売として成り立ってない」残念ながら世の中には、そんなに恵まれた職に就いている人ばかりではないのです。そりゃあ、ホリエモンに比べれば商売の効率は低いでしょうが、それでやっとこさ食べている人が大勢いてその職がなくなったら収入が途絶えるのです。「単純に新しい事にチャレンジ出来てない怠け者ってことになるわな。こんなしょーもない署名運動する暇があったらVtuberでもやってひと稼ぎしなよ」これもまあ、空虚な建前論というものです。単純に、いつでもどんな環境でも新しいことにチャレンジできる、それは才能ですが、誰でもそんな才能を持っているわけではありません。新しいことをやって成功できる人は、さらに少ない。ホリエモンは新しいことに次々と手を出して成功してきた(受刑者にもなったけど)のでしょうが、そんなことが可能なのは、ごく一握りの限られた人間だけだと知るべきです。世の中には成功者がいれば必ず失敗者がいるのです。全員が成功を納めることなどできません。ホリエモンが完璧な能力を持っているからといって、世の中の大多数の人間が完璧な能力を持っているわけではないのです。それは別に、怠け者だからではありません。無限の能力を持っていないことを罵倒の材料にしている輩など、いつか自分が年老いて才能が摩滅した時に、自分自身にその言葉が降りかかってくることになあるでしょう。
2023.09.09
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8月は端境期で鳥写真は低調です。ついでに、後半になってカメラが悪いのかレンズが悪いのか、ピントがあまり合わなくなってきました。8月4日会津駒ケ岳にて。ウソを撮影。絶好のシャッターチャンスだったのですが、ピンボケ写真しか撮れないうちに飛ばれちゃいました。望遠レンズは持って行かず、標準ズームの70mmで撮影。8月5日三番瀬ミヤコドリミユビシギミユビシギオオソリハシシギメダイチドリ8月12日東京港野鳥公園キアシシギセイタカシギ8月20日城ヶ島イソヒヨドリ8月23日東京港野鳥公園セイタカシギこの日以降、どうもピントが今一つ。イソシギキアシシギ8月26日三番瀬海浜公園ミユビシギ手前トウネン奥ミユビシギ。小さいミユビシギが、もっと小さいトウネンと並ぶと巨大に見えます。メダイチドリ8月30日代々木公園ハイタカ若鳥ですかね。ピントが合わないので、カメラを予備(以前に海水日けてしまったカメラ)に変えてみたら、もっとピントが合いませんでした(笑)上ハシブトガラス、下ハイタカ若?ハイタカ、ということにしておきましょう。デジタル一眼レフ1台は2016年、もう1台は2018年購入で、かなり古いです。望遠レンズは2017年購入で、レンズとしてはそこまで古くはない、と思うのですが、どうなんでしょう。とりあえずカメラの本体買い替えを検討中です。
2023.09.08
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---北部師団とメキシコ革命 その210グアヘでオブレゴンの北西師団前衛部隊を一蹴したビジャの北部師団は、夕方その勢いのまま、セラヤに陣取るオブレゴンの本隊に向けて雪崩れ込んで来た。だが、ここでビジャはミスを犯す。セラヤに向けて急進して来た北部師団は、攻撃配置を変更せず、また砲兵隊の進出を待たずに歩兵、騎兵だけで攻撃を始めてしまったのだ。17時、北部師団は、北西師団が浴びせかけるありったけの野砲、機関銃の弾幕の前に立ち往生を余儀なくされた。北西師団の右翼部隊で混乱が起きたことに乗じて突入しようとしたエストラーダ将軍麾下の騎兵隊も、僅かに及ばず北西師団の騎兵に撃退された。18時、再び北部師団の突撃が始まったが、激戦2時間の後、また撃退された。この頃になって北部師団の砲兵隊はやっと戦場に到着したが、既に日も沈み、砲撃は正確を欠き、砲弾を空しく浪費するばかりであった。4月6日の激戦が終わった時、北西師団は辛くも敵を撃退し、最悪の状態は脱したものの、グアヘでの敗戦だけで1500人もの兵力を失っており、しかも依然としてセラヤは北部師団の包囲下にあった。冒頭に触れたように、そもそも最初の兵力が、ビジャの北部師団2万2千、野砲30門以上に対してオブレゴンの北西軍は1万1千、野砲13、機関銃86と劣勢だったのだ。オブレゴン麾下の将軍の多くがケレタロまで撤退するよう進言した。だが、彼はカランサに対しての電報で報告する。「午後11時現在、損害は2000に達しました。敵の攻撃は激しいですが、一人の兵士、一発の弾丸でも残っている限り、私は義務を果たします。そして死が私を襲う時のことを考えるでしょう。」翌7日、北部師団は夜明けと共に攻撃を再開した。デ・ラ・ペーニャ将軍、レジェス将軍、サン・ロマン将軍率いる騎兵3個旅団と2隊に分けられた砲兵隊の援護の下、ブランカモンテス将軍、トリアナ将軍、ゴンサレス将軍指揮する歩兵3個旅団が北西師団の正面に突撃したのである。北部師団の攻撃は凄まじいものであった。北西師団は、矢面に立たったヤキ族の部隊が中心になって北部師団に十字砲火を浴びせ、その突撃を粉砕したが、ビジャの軍隊はまるで命など惜しくないかのごとく、倒れても倒れても突撃を続けた。9時には北西師団の北側の部隊で弾薬の欠乏が始まった。砲兵隊の指揮官クロス大佐は臆病風に吹かれて砲兵の後退を命じた。北西師団の危機を救ったのは、一介の若いラッパ手だったという。彼は突然起床ラッパを吹き始め、心理戦によって北部師団を混乱させた。この後北部師団はもう一度一斉攻撃を繰り返す。だが、人命と物資を湯水のごとく消費した揚げ句、またも攻撃は阻止された。もはや北部師団の損害も疲労も限界まで達し、戦線の維持すら困難になり始めていた。正午、北西師団は一斉に反転攻勢に出る。カストロ将軍、マイコッテ将軍、ゴンサレス将軍、ノボア将軍指揮する騎兵部隊が、北部師団を二重に包囲しながら攻撃をかけた。北部師団はあまりに兵力を消耗し、あまりに疲労困憊していて、この攻勢に耐えられなかった。ついに力尽きて後退する北部師団は、程なく総崩れとなって、大混乱のうちにサラマンカに向けて壊走して行った。ここで追い討ちをかければ北西師団の決定的勝利となっただろうが、北西軍の損害も大きく、また潅漑用水路という思わぬ障害物に騎兵隊の行動が制約されて北部師団の主力を取り逃がしてしまった。だが、ともかくもオブレゴン将軍の北西師団が勝ったのだ。それもより少ない兵力で。常勝将軍ビジャの神話の崩壊の始まりだった。ビジャは、しかしそう易々とは敗北を認めなかった。北部師団のある将軍は、「ビジャ将軍は自尊心を傷付けられ、雪辱の気持ちを抑えかねていた」と回想する。両軍は再び戦闘準備に取り掛かっていた。オブレゴンの北西師団には、東部第1師団から歩兵・騎兵数個旅団づつと赤色労働者大隊2個の増援が加わり、総兵力1万5千(うち騎兵8千)に増強されたが、野砲13門、機関銃86挺は前回と変わらなかった。一方ビジャの北部師団もホセ・プリエタとホセ・ルイス麾下の2個旅団、セサル・モヤの歩兵部隊、ハリスコ州の騎兵隊などが加わった。だが、夥しい流血を癒すには充分ではなかった。11セラヤの決戦の2年近く前の1913年10月、まだウェルタ将軍の簒奪政権と戦い始めて間もないころ、ビジャの下に結成されて間もない護憲軍北部師団は、ビジャの根拠地チワワ州の州都チワワ市に立て籠もるウェルタ政府軍と戦い、大敗を喫したことがある。革命への第1歩として、北部師団はチワワ市占領を目指したのだが、政府軍の堅い守りに阻まれ、後退したところを追撃を受け、総崩れとなって南へ敗走したのである。だが、そこからビジャの奇跡の大逆転劇が始まった。惨敗して散り散りになった部隊を砂漠の中で再終結し、チワワ市を迂回して北上させ、米国との国境の街で交通と貿易の要衝シウダー・ファレスを奇襲したのである。もちろんファレス市もチワワ市同様にウェルタ政府軍が守りを固めていた。そこでビジャはチワワとファレス市を結ぶ鉄道を奇襲し、石炭をチワワに運ぶ政府軍の軍用列車を奪った。チワワ市を攻め始めた時、北部師団の戦力は8千人だったが、散り散りに敗走し再終結、そして無人の荒野を騎馬で激しく移動した結果、この時はビジャの下には僅か2千人しか残っていなかった。その2千人を、石炭を捨てた貨車に乗せ、北部師団はシウダー・ファレスへ進撃を始めた。その際捕虜の車掌に電報を打たせるのを忘れなかった。「革命軍がチワワ市を攻撃中に付き南下は無理、これより引き返したい。」と。ファレス市からは了解の返事が来た。そしてご丁寧にも各駅で現在地を確認する電報を打っては北上し、11月15日午前1時半、列車は静かにシウダー・ファレス駅に到着した。政府軍の守備兵は北部師団の倍、4千人もいたが、寝込みを不意打ちされてまったく抵抗できず、一瞬のうちにシウダー・ファレスはビジャの手に落ちた。「常勝将軍」の神話の始まりである。チワワ市の政府軍は、ファレス市陥落を知って、驚いて総兵力7千のうち5千5百をファレス市奪回に差し向けた。しかしこの戦闘は北部師団に有利だった。チワワ市から4百キロの砂漠を超えて来た政府軍は補給もままならず、一方の北部師団には背後に巨大な補給基地ファレス市が控えていたからである。それでも激戦が二日間続いたが、ついに政府軍は総崩れになって退却、北部師団の騎兵に追撃されて散り散りになった。政府軍の主力がそのまま戻らなかったため、チワワ市に残る政府軍の留守部隊1500では、ビジャの北部師団に対してまったく歯が立たないことは明らかだった。そのため、彼らは戦意を失い戦わずして街を放棄した。こうして、北部師団はチワワ州全体の支配権を握ることになる。ウェルタ政権打倒への重要な第一歩だった。12それから2年たらずの後、ビジャの北部師団は、セラヤの戦場で再び危機からの逆転を狙っていた。4月13日、第二次セラヤ会戦が始まる。今度は、オブレゴンの北西師団は初めからセラヤを決戦場として万全の準備を固めていた。周辺の農地には灌漑用の水路が縦横に走っていて、それが前回の戦いでは敗退する北部師団を追撃しようとする北西師団騎兵部隊の行動を妨げた。だが今回は違った。1915年、ご存じの通りヨーロッパでは第一次世界大戦の最中である。この戦争では、塹壕と鉄条網に機関銃を組み合わせた強力な防御線が猛烈な威力を発揮していた。オブレゴンは、さっそくこの新戦法を導入したのである。潅漑用水路を塹壕の代わりにして鉄条網で北部師団の騎兵突撃を阻止し、機関銃の猛射を浴びせる戦法である。一方、ビジャの方はというと、前回失敗した騎兵突撃のまま。したがって、戦闘は必然的にそれから27年後に太平洋上のガダルカナル島で行なわれた日本と米国の戦いと同じ経過を辿ることになる。鉄道によってセラヤに向かった北部師団は、クレスポ駅で下車、セラヤに布陣する北西師団に向けて進撃を開始する。17時、偵察部隊同士の小競り合いによって戦闘が始まり、18時には両軍の全面衝突に発展する。既に述べた通り、北部師団の攻撃方法は前回とまったく同じ、壮烈な騎兵突撃である。もちろん強力な砲兵隊が支援射撃を行なう中での突撃ではあるが。北西師団と北部師団の砲兵隊はこの日遅くまで凄まじい砲撃の応酬を繰り返していた。砲力はまだビジャ派の方が上だった。しかし、塹壕に籠る北西軍の歩兵部隊が砲撃の被害をほとんど受けなかったのに対して、地上を馬に乗って勇壮に突撃する北部師団の騎兵は次々と砲撃の餌食になった。14日、北部師団は相変わらずの突撃の繰り返しで屍の山を築く。ビジャは北西師団の弱点を探し求めながら次々と騎兵隊を突撃させたが、全て野砲と機関銃の凄まじい弾幕に阻止された。オブレゴンは待っていてた。遠からず北部師団の流血が臨界点に達すること、その時が反転攻勢の時であることが彼には分かっていたのだ。そして、その時は15日の夜明にやって来た。防御戦闘は歩兵部隊に任せて後方で待機していた騎兵隊が、オブレゴンの直卒の下に満を持して出撃し、傷付き疲れ切った北部師団に襲いかかった。北部師団は死に物狂いで抵抗した。だが北側の部隊は列車を降りたクレスポ駅まで押し戻され、中央部と南側の部隊はさらにズルズルと後退した。大勢は決した。力尽きて敗走する北部師団に対して、今度こそ容赦のない追撃が行なわれた。北部師団は、支離滅裂になって壊滅した。砲兵は重い野砲を捨てて我先に逃げ出した。最終的に、北部師団の損害は戦死4千、負傷5千、捕虜5千で野砲32門全部、各種銃器5千、馬1千を失い、将軍2人と士官130人も戦死した。一方北西師団の損害は、わずかに戦死138、負傷276であった。北西師団の輝かしい勝利、そして北部師団の常勝神話の完全な崩壊だった。132年前、ビジャが敗北の縁から奇跡の大逆転劇を演じた背景には作戦の柔軟さがあった。彼は、チワワから敗走した後、性懲りもなくまたチワワを攻めることはせず、すぐに矛先をファレス市へ転じ、誰も思い付かない奇策によってこれを落とした。もしチワワ市を意地になって攻め続けていたとしても、無残な敗北が繰り返されただけだったろう。だが今、ビジャの作戦は明らかに柔軟さを失っていた。一つには、ビジャとコンビを組んで数々の勝利をものにして来たフェリペ・アンヘレス将軍が、この時負傷していて後方に下がっており、戦闘に参加できなかったせいもあろう。それまでもそれ以降もビジャと篤い友情で結ばれていたアンヘレスの進言を、この一連の戦いに限って全て無視したのも、それが原因だったのかもしれない。ビジャは、それでもまだ諦めていなかった。4月16日、アグアスカリエンテスまで後退した北部師団は、3万5千人に及ぶ増援部隊と合流して再び息を吹き返した。だが、オブレゴン軍も3万人まで増強されていた。4月下旬、北西軍はトリニダー市を攻略する。北部師団の抵抗は強力で、4月29日の総攻撃は久々に北西軍の敗北に終わったが、5月7日には北西軍はトリニダーを平定し、オブレゴンの総指令部が築かれた。6月1日、今度はレオン市で三度決戦の火蓋が切って落とされる。北部師団は凄まじい闘志で北西軍の陣地に迫った。ビジャの直卒する騎兵部隊が北西軍の後方に迂回して奇襲をかけ大損害を与えた。北西軍は敗北の縁まで追い込まれたが、オブレゴンは屈服しなかった。再び体制を立て直すと、北西軍はかろうじて北部師団を撃退した。そして6月3日。レオン攻略準備中の北西軍に対して、ビジャの北部師団は砲兵の砲撃によって抵抗していた。オブレゴンの本陣のあるサンタ・アナ・デル・コンデにも野砲弾が打ち込まれた。砲弾は、オブレゴンの至近距離に落下した。オブレゴンは、至近に着弾した北部師団の砲撃によって片腕を吹き飛ばされたものの命は取り止めた。以後、彼は隻腕の軍人・政治家として活躍を続ける。6月5日、重傷のオブレゴンに代わるフランシスコ・ムルギア将軍の指揮のもと、北西軍はレオンを陥落させた。余勢を駆って6月10日、アグアスカリエンテスに進んだ北西軍は北部師団に戦死戦傷1500、捕虜2000、行方不明(逃亡)5000の打撃を与え、列車8編成、弾薬400万発、野砲8門、機関銃22挺、小銃4000挺を捕獲した。事実上、戦闘部隊としての北部師団はここに崩壊した。ビジャは、僅かな兵を率いて故郷チワワ州に帰還し、不屈の闘志で戦い続けたが、もはや常勝将軍は過去の名声となり、今や戦っても戦っても勝てない常敗将軍と化していた。その中で、ビジャにとって命より大切な存在である仲間たち、部下たちが次々と倒れ、また裏切っていった。その年の暮れ、ついにビジャは北部師団解散を宣言した。栄光に満ちた北部師団の終焉であった。それより前、8月にオブレゴンは再び首都メキシコ市に向かった。一時サパタ派に明け渡した首都を取り戻すためである。サパタ派に首都を守る意志はなく、カランサが名実共にメキシコの国権を握ったのである。14ビジャは、わずかな同志と共に山に籠った。しかし武器を捨てたわけではない。今度の相手はアメリカ合衆国である。ビジャのゲリラ部隊は、1916年初め、チワワ州で米国人鉱山技師を襲撃したのを皮切りに、続いて2度に渡り米国領内に侵入し、国境の小さな町と牧場を襲った。小規模のゲリラ部隊とは言え、ビジャの部隊は米国領内に攻め込んだ史上唯一の外国軍となった。襲われたのは、ビジャを詐欺にかけた武器業者と、メキシコ・中米の占領支配を主張する新聞社主の経営する牧場だった。米国は、今まで平然とラテンアメリカ諸国を侵略して来たくせに、自分の国が侵略されたとなると損害などなきに等しいのに烈火の如く怒り狂った。そして当然のような顔をしてメキシコ政府に賠償を要求した。カランサは頑迷な保守主義者ではあったが、米国の圧力をはねのけてメキシコの主権を守る、という点でも強烈に頑固だった。彼は賠償支払いを拒否、すると今度は米軍がビジャ逮捕のためメキシコに侵攻してきた。カランサは今度はこれを黙認したが、未だチワワでは圧倒的人気を誇るビジャは、住民の協力で逃げ回り、ついに捕まらなかった。そのうちに米軍とカランサ派政府軍の間で武力衝突が起こり、さすがに恥をかいた米軍は何一つ得るものなく引上げて行った。この年9月、ビジャは再び攻撃の矛先をカランサ政府に向ける。もはや往年の勢いはなかったが、得意のゲリラ戦で政府軍を翻弄し続けた。だが、その彼の戦意を完全に挫かせるようなできごとが首都で発生していた。15カランサは権力の最高地点メキシコ大統領の座に上り詰め、相変わらず頑迷で保守的な政治を続けていた。ビジャとの決戦で彼を助けた赤色労働者大隊は用済みとなって解散させられ、労働組合は再び弾圧された。モレーロス州で抵抗するサパタ派に対する討伐も続いた。オブレゴンとビジャの決戦を傍観していたサパタ派は、それ故に今度は独力でカランサ政府軍の攻撃を受け止めることになった。そして1919年4月11日、「サパタ派に寝返りたい」と称して接近して来た政府軍将校の策略によって、希代の農民革命家エミリアーノ・サパタは命を落とす。だが、一方で奇妙な事が起きていた。サパタの死の2年前、1917年に制定された新憲法は、カランサ派の支配する制憲会議でつくられたにもかかわらず、カランサ自身の意志に反して極めて進歩的な内容となったのだ。特に、私有財産絶対の思想を否定し、大土地所有者に国家が介入して農地改革を行なう道を開いた第27条と、労働者の権利保護を謳った第123条は、いずれも保守的なカランサ大統領とは相いれない内容だった。カランサ派の将軍たちは、農民が何を求めているのかを充分承知していた。だから、敵であるサパタ派ビジャ派の主張する農地改革をいかに可能にするかが憲法制定の最大の課題となった。「土地・森林・水利などの財産は正当な権利を有する村及び人民がただちに保有するものとする。」というサパタのアラヤ綱領の精神が憲法に取り込まれたのだ。カランサは、この画期的な革命憲法を排除できなかった。そこで彼はこの憲法を無視することにした。農地改革はまったく行われず、大農園主が相変わらず農地の大部分を支配していた。労働組合も依然として弾圧されていた。そのため、カランサ派の将軍たちの心は急速にカランサから離れて行った。そして彼等が希望を託した人物こそ、北西軍司令官アルバロ・オブレゴンだったのである。既に記したように、オブレゴンも大農園主の出身ではあったが、カランサより遥かに進歩的で、農地改革の必要性を充分に理解していた。ビジャとの戦いで労働組合を味方に引き込んだのも彼の功績である。誰にでも好感を持たれる人柄でユーモアのセンスがあり、考え方が柔軟だった。ビジャとカランサの間に立って調停に心を砕き、そのためにビジャに殺されそうになったこともある。それに、カランサがビジャに勝ったと言っても、しょせん安全な後方で「政治」をやっていたにすぎない。実際弾丸飛び交う戦場でビジャを破り、そのために片腕まで失ったのはオブレゴンである。カランサはこの隻腕の部下に脅威を感じ始めた。そして政府から退け、さらに彼が大統領選に出馬しようとすると、公然と妨害を始めた。そしてついに1920年4月、両者の間に破局が訪れた。オブレゴンの反乱である。かつて、軍事的には無能なカランサは、政治的駆け引きという武器を使って戦争の天才だが政治では赤子に等しいビジャを圧倒した。しかし、今度はそうは行かなかった。オブレゴンは、優秀な軍人であるばかりでなく、政治でもカランサに劣らぬ策士だったのだ。政府軍は連敗を重ね、1か月後には首都も陥落した。カランサは政府の公文書を全て荷造りし、役人に企業家、大農園主と護衛兵総勢1万人を引き連れて東に逃亡する。だが、逃亡先のつもりだったベラクルスはオブレゴンの手に落ち、避難民はたちまち四散した。僅かの取り巻きと護衛を連れて逃亡を続けたカランサは、5月21日、山中の粗末な小屋で地方軍閥に襲われ、大統領の身分のまま死んだ。16全てを賭けて戦った敵カランサが消えると、ビジャの戦意は急速に萎えて行った。既にサパタ派の残党は、反乱を機にオブレゴンと協力してカランサを攻撃、新政府と和解していた。1920年7月、ビジャはついに政府と和平協定を結んだ。長い長い戦いの後、彼は武器を置いて農民へと戻っていった。かつて多くの人に語っていたビジャの夢が実現したのだ。彼は昼間は畑仕事に精を出し、夜は共に闘い抜いて来た北部師団の生き残りと昔話に花を咲かせた。貧しい子供のために学校もつくった。子どもたちが窓の外を見ると気が散る、と、彼自身の発案で学校の窓は子どもの背よりも高い所につくったという。ホテルの経営にも乗り出した。だが1923年7月20日、秘書と護衛をのせた車を自ら運転中、フランシスコ・ビジャは暗殺者の狙撃を受けた。13発の弾丸を受けて、革命の英雄は死んだ。犯人は捕まらず、背後関係も不明のままに終わった。1878年6月5日生まれの45歳だった。その頃、大統領となっていたオブレゴンの後継の座を巡ってまた争いが起きていた。かつてはオブレゴンの忠実な部下だった、前臨時大統領デ・ラ・ウェルタが、権力の座に野心を燃やして反乱を起こしたのだ。オブレゴンは一時苦境に立つが、結局はこの反乱を退ける。これを最後に、メキシコを揺るがし続けた動乱の嵐は収束するかに見えたが、最後にもう一波乱が残っていた。1917年の憲法は大統領絶対再選禁止を謳っている。だが、オブレゴンはこの規定を強引に改正して再び大統領選に立候補した。悠々と当選した彼は、しかし就任直前に、狂信的カトリック教徒に暗殺された。革命政権が宗教を弾圧したことへの報復だった。こうしてメキシコ革命の指導者は全員、正常ならざる形で地上から姿を消したのである。17権力は人を腐敗させる、メキシコの革命政府はその実例となった。好人物だったはずのオブレゴンは、強引に出馬した2度目の大統領選で、対立候補を次々と逮捕して当選を確実にした。かつての独裁者ディアスのやり方と同じだった。彼の下で傀儡大統領を務めたカジェスは、貧しい小学校教師から革命軍に入り、「サパタの後継者」を自認していたが、オブレゴンの死後は自分が政界のドンとして院政を敷き、歴代大統領を操る権力亡者と化した。農地改革は、「やってます」というポーズを見せるだけで、遅々として進まなかった。オブレゴンが保護育成に努めた労働組合も、数年を経ずして幹部が特権階級化し、腐敗堕落の極みとなった。1934年、ラサロ・カルデナスがカジェスに推されて大統領に当選した。ミチョアカン州の貧しい印刷工から身を起こし、北西軍の騎兵隊指揮官となり、内戦後政治家に転身した人物である。カジェスは彼を操り人形にするつもりで大統領に推したのだが、カルデナスは当選するとまず、カジェスと腐敗堕落した労働組合幹部を追放し、新しい労組を組織した。メキシコ史上もっとも尊敬される大統領の誕生である。それまではお題目でしかなかった農地改革が、強力に押し進められた。その結果、現在までにメキシコの全農地の約半分が共有地として農民の手に取り戻された。それでも残り半分の農地は依然として大農園主の配下にあるのだが。カルデナスの政策の頂点となったのは、外国資本の支配下にあった鉄道と石油の国有化である。正当な補償の上での接収だったが、それでも米国の反発は厳しく、カルデナスは苦境に立った。その時、彼を支えたのは国民の熱狂的な支援の声だったのである。1936年、スペインで内戦が始まるとカルデナスは人民戦線政府を支援し、小銃3千丁を送っている。39年、その人民戦線が倒れると、彼は1万人もの亡命者をメキシコに受け入れた。文化人や芸術家、技術者ばかりの亡命者とその子孫がメキシコにもたらした文化的影響は計り知れないほど大きかった。たとえば、現在メキシコの主要な出版社の大部分は、スペインからの亡命者が起こしたものだ言う。1940年、カルデナスの任期が切れ、革命は完全に終わった。革命政府は再び腐敗への道を歩み、新しい労働組合や国営化された石油会社も結局は同じ道を辿った。18政治的野心を持たず、目前の権力の座から目を背けたビジャとサパタは、決して政治的な勝者にはなれなかったが、それ故にこそ、彼等はメキシコの民衆にとって不滅のヒーローとなったのである。特に、サパタの思想は多くの人の心を捕らえた。メキシコ市の地下鉄駅にも彼の名が付いた。サパタ自身は、自分が英雄として祭り上げられることなど本意ではないだろうが、その結果モレーロス州はメキシコで最も自作農の比率が高い地域となった。サパタの戦いは決して無駄ではなかったのだ。プエブロ市のアキレス・セルダンの家革命博物館(革命最初の指導者マデーロの同志の家で、武装蜂起の謀議が漏れて政府軍に襲われ、革命最初の戦闘になった)の案内人の説明によると、サパタは、中米の革命家アウグスト・セサル・サンディーノと手紙をやり取りしていたという。博物館にはその手紙も展示されていた。サンディーノの活動は1927年に始まり、33年非業の死によって終わったから、サパタと連絡があったとすれば、彼が20代半ば以前の頃ということになる。この農民革命家の思想は彼にどんな影響を残したのだろうか。1994年、チアパス州にて、サパタの理想を頂く人々の戦いが再び始まった。一方で2000年7月、メキシコ革命以来73年間政権を担いつづけてきたPRI(制度的革命党)が選挙に破れて野に下り、保守系野党PAN(国民行動党)が政権を握る。すでに革命の精神から遠く離れ腐敗政治の極みにあった、かつての「革命政権」の幕切れであった。参考文献「反乱するメキシコ」ジョン・リード 野田隆・野村達朗・草間秀三郎訳 筑摩書房「メキシコ革命物語-英雄パンチョ・ビジャの生涯」 渡辺建夫 朝日選書「メキシコ革命-近代化のたたかい」 増田義郎 中公新書「La Revolucion Mexicana」 Luis Garfias M. Panorama Editorial S.A.
2023.09.06
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いささか旧聞に属する話になってしまいますが61年ぶり異例の事態、そごう・西武スト 「守ろう」組合員ら拳上げセブン&アイ・ホールディングス傘下の百貨店大手「そごう・西武」の売却計画に対し、そごう・西武の労働組合は31日、西武池袋本店でストライキを実施した。大手百貨店では61年ぶりとなる異例の事態。「思い出の場所。変わらないで」「百貨店は今の時代に厳しいのでは」。支援を呼びかける組合員を前に、通行人からさまざまな声が上がった。店がある池袋駅周辺では、組合員約300人が午前11時半ごろから1時間近くデモ行進した。旗や横断幕を手にした組合員たちは「池袋の地に百貨店を残そう」「西武池袋本店を守ろう」と拳を突き上げ、沿道から時折拍手を浴びた。デモに参加した組合員の20代女性は「お店の先が見えずにもやもやしていたが、ストライキで私たちの思いを伝えられてよかった。この街に今の西武本店があり続けてほしいというのは私たちだけでなく、お客様の願いでもあると思えた」と元気に語った。同業他社の労組関係者や市民も応援に駆けつけた。阪急阪神百貨店労組委員長は「これまで署名活動などで支援をしてきた。ストライキの実施に至ったことは悔しく思う」。夜行バスで大阪府から来たという定時制高校教諭は「ストに立ち上がった人々を孤立させてはいけない、応援する人もいると伝えたかった」。昼間は働く生徒たちに労働者の権利を教える場面も多く「声を上げる現場を見て生徒に伝えたかった」と話した。組合員らはその後、最高気温34・1度(東京都心)の暑さの中、通行人に理解を求めるビラを配った。通行人からは、ストにさまざまな感想の声があった。(以下略)---この事態にはびっくりしました。そごう・西武労働組合はUAゼンセン同盟傘下の労働組合だからです。何を隠そう、inti-solは今を去ること約30年前、前勤務先でゼンセン同盟傘下の労働組合(そごう・西武ではありません)の組合員だったのです。別段、入りたかったわけではなく、ユニオンショップ協定が結ばれているため、入社と同時に自動的に組合員になっただけですが。4年間その会社に勤め転職したので、組合員だった期間も4年間ということになります。業種としても、デパートではありませんが流通業(といつも曖昧に言っておりますが、スーパーマーケットです。約30年も前なので社名を公開しても問題ないとは思いますが、一応まだ秘密にしておきましょう)正直なところ、よくある御用組合でした。労組の委員長をやると、次は店長になる、みたいな。おおよそまったく「戦わない」労使協調路線の組合でした。そのゼンセン同盟(の後身であるUAゼンセン同盟)傘下の組合が、今の時代にストを打つ、ということはまったく予想外の事態でした。労使協調路線と言いましたが、今となっては全労連傘下の労働組合だってストを打つ体力などないし、ほぼ労使協調路線になっている(あるいは、ならざるを得ない)のが現状です。かりに指導部が頑張ったとしても、よほどの切羽詰まった状況でなければ、全組合員が一致団結してストに結集、とはならないでしょう。ということは、逆に言えばそれだけそごう・西武の従業員が切羽詰まっていた、ということです。ストの本番どころか、その前提となるスト権投票すらおそらく経験したことがないであろう組合員が(前述のスーパーマーケットにいた4年間で、私はスト権投票の機会は一度もありませんでした)、ぞってストに賛成票を投じているのです。別報道によれば、組合員約4千人のうち、投票総数は3833票で賛成率は93・9%というので、圧倒的多数が賛成しています。労使協調路線をかなぐり捨てる他ないくらいに、不信感を抱き、ついに窮鼠猫を噛んだ、ということでしょう。やっぱりいざというとき、窮鼠猫を噛まない状態が当たり前になってしまったから、企業の内部留保ばかり増えて平均所得がどんどん減っている現状があるわけです。ストが実質的に撲滅されてしまった社会は、明らかに良い方向に向かっていません。そういうなかでよくぞストを決断してくれたと思います。残念ながら、ストにもかかわらずセブン&アイ・ホールディングスは「そごう・西武」の売却を決めてしまいました。とはいえ、マスコミの注目度は高く、ストの目的の一つである世論へのアピールは最大限の成功でしたし、買い取った米国の投資ファンドに対しても、一定のプレッシャーにはなるでしょう。
2023.09.05
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---北部師団とメキシコ革命その180年余り昔、メキシコは革命の嵐の中にあった。粗末な服にソンブレロをかぶり、弾帯を袈裟掛けにした農民兵がその主役だった。そして農民兵の後ろには、必ず兵士たちの妻の大群が子供を抱えて続いていた。当時、メキシコの農民の大半は大農園で働く雇われの農業労働者だった。大変に貧しい生活の上に、大抵の場合彼等は主人から借金を背負わされてもいた。そんな農民が兵士になれば、その妻は、夫の属する部隊の後ろをどこまでも、例え戦場でさえ付いて歩くしか生きる道がなかった。従軍女(ソルダデーラ)と呼ばれるメキシコの軍隊(革命軍と政府軍とを問わず)独特の現象である。かくも貧しい農民が、そこまでして革命軍に身を投じたのは何のためだったのだろうか。 1フランシスコ・ビジャとアルバロ・オブレゴン。メキシコ革命を代表するこの二人の軍事指導者の軍が激突したのは、1915年4月6日、場所はメキシコ市から北西に 200kmほどの町セラヤであった。ビジャが率いたのは護憲軍北部師団2万2千人、野砲30門以上。オブレゴンの兵力は護憲軍北西師団1万1千、野砲13門、機関銃86挺であった。つまり、先日まで同じ旗の下に戦って来た仲間同志の対決だったである。もっとも、ビジャが敵意を燃やした本当の相手はオブレゴンではなく、オブレゴンの上司である護憲軍の「第一統領」ベヌスティアノ・カランサであった。 片や人生の大半を馬上で過ごした馬賊上がりの荒くれ男で、三十過ぎまで読み書きもできず、ひたすら大金持ちに対する敵意を武器に、貧しい農民が土地を手に入れられるためだけに戦った戦争の天才ビジャ。片やクリオージョ(スペイン系白人)の大農園主で、軍事的才能は皆無ながら政治力を駆使して革命派の最高指導者にのしあがり、貧者のための社会改革にはまったく無関心なカランサ。たまたま独裁者ウェルタ将軍という共通の敵が両者を結び付けていただけで、その敵が倒れた時、二人の間に破局が訪れるのも当然の成り行きだった。だが、政治家カランサは決して戦場には出て来ない。だから、カランサ打倒を目指すビジャは、まず軍事面で彼を支えるオブレゴンと戦わねばならなかったのである。前述のように、兵力も火力もビジャ派が優勢だった。しかも、ビジャと北部師団の戦歴は輝ける勝利で埋められていた。何と言っても、革命軍がウェルタ将軍の政府軍に勝利した、その最大の功労者は北部師団であった。神出鬼没の用兵、巧妙な作戦、そして騎兵の壮烈な突撃によって、破竹の勢いで政府軍を追い詰めるビジャは、「常勝将軍」と呼ばれた。その頃、ビジャ以外の革命軍諸部隊は、オブレゴンの北西師団もパブロ・ゴンサレスの北東師団も政府軍と一進一退の戦いを繰り返していたというのに、である。かつてウェルタ将軍の政府軍を蹴散らし、ついにビジャの名を聞いただけで政府軍の兵士が浮き足立ち、士気が萎えたという北部師団の猛烈な突撃が先日までの同志オブレゴンの北西軍にむけて襲い掛かった。2話はセラヤの決戦の5年前に遡る。メキシコはポルフィリオ・ディアス大統領の30年余りの統治下にあった。彼は、もとは1860年代のフランス干渉戦争の際の救国の英雄であったが、1877年に大統領になってからは、反動的な政策と反対派への弾圧を繰返す独裁者と化していた。その間、しかしメキシコは史上空前の経済発展を遂げたように見えた。大規模に外資が導入され、鉄道が国中に敷かれ、農業生産は急増した。だが、無原則な外資導入により、鉄道、石油石炭、鉱山など主要産業は全て外国資本の配下に置かれた。そして、経済発展の恩恵に浴したのは一部の特権階級だけで、農民の多くは逆に貧しくなって行った。もともとメキシコの先住民の農民たちには土地の所有などという概念がなく、彼等は村ごとの共有地を分けあって耕していた。もちろん、登記などされていないから、法的な所有権などは曖昧だった。ディアス政権は、そのような土地を合法的に強奪するため、所有権のはっきりしない土地を政府が接収し、大農園主や外国企業に払い下げるという法律を制定した。接収された土地の大半は先住民の共有地で、その面積は、合計で国土面積の1/4(日本の国土面積より広い!)にも達した。この希代の悪法によって、政府と大農園主は大いに潤ったが、農民のほとんどは、自分たちの土地を失いペオン(大農園の農業労働者)と化した。以前から、メキシコは大農園主の支配する国ではあったが、それでもまだ少なからぬ先住民が、狭い土地を共有し合う貧しい生活ながらも、一応は自作農だった。だが、こうして土地を強奪された結果、ディアス政権の末期には、メキシコ総人口の84%を占める農民のうち、99.5%は自分の土地を持っていなかったのである。土地を取り戻そうとする農民の戦いは、全て政府軍や大農園主の私兵による血の弾圧で報われた。だから、農民は半ば奴隷の境遇に黙って耐えるしかなかった。耐えられない者どうするか、彼等は山賊になった。フランシスコ・ビジャも、ペオンの息子に生まれ、農園主に反抗したためにお尋ね者となった山賊の一人であった。メキシコのバブル崩壊は1907年に起きた。米国の不況の道連れになって輸出が低迷し、それまで羽振りの良かった大農園主の中には経営の苦しくなる者もでてきた。多くのペオンが職を失い路頭に放り出され、鉱山労働者を中心に労働争議が頻発した。ディアス大統領は80才を越えて既に老い、側近の操り人形と化していたが、1910年の大統領選にまたも立候補する。この時、最大のライバルとなったのが、大農園主出身の穏健な改革派フランシスコ・マデーロであった。彼は「ディアス再選反対同盟」を組織し、急速に支持を拡大していった。このままでは選挙に負ける、とディアスは思ったのだろう。民主選挙の仮面をかなぐり捨てて露骨な選挙妨害に走った。マデーロは逮捕され、サン・ルイス・ポトシ市の監獄の中で投票日を迎えた。選挙が終わり、保釈されたマデーロは直ちに米国へ亡命、ディアス政権への宣戦布告である「サン・ルイス・ポトシ綱領」を発表して反乱に立ち上がった。1910年10月25日、メキシコ革命の長い長い戦いが始まったのだ。3マデーロは冴えない小男だった。しょせんは裕福な大農園主で、しかも戦争が下手ときていた。血を見るのが何よりも嫌いな菜食主義者で、新興宗教の教祖のように神がかったところがあり、「神が私に乗り移って手を動かし文章を書かせている」と称していた。演説が天才的にうまかったらしく、「彼が話し始めるとペオンたちは背中を向けた。だが話しが終わる頃には彼等は涙を流していた」ともいう。大金持ちの御曹司なのに、農民の間にカリスマ的人気があった。そのマデーロが米国で武器を集め、いざ蜂起という時、集まった同志はたった4人だけだったという。彼は失望して米国へ引き返してしまった。だが、これはマデーロの大変な勘違いだった。確かに米国で旗揚げした彼の下に現れた同志は4人だけだったのだが、その間にメキシコ国内では大変なことになっていたのだ。11月18日、メキシコ市の東 150kmのプエブラで、武器を集めて反乱の準備を行っていたマデーロの同志の一人アキレス・セルダンが、警察に踏み込まれて射殺された。革命最初の戦闘だった。セルダンの家は現在革命博物館となっており、警察との銃撃戦のあった2階は、弾痕の残る家具やセルダンの用意していた小銃などがそのまま展示されている(はっきり言って大変な豪邸である)。これを機に、革命の炎はあっというまにメキシコ全土に燃え広がっていた。メキシコ市の南に隣接するモレーロス州ではメキシコ革命を代表するもう一人の革命家エミリアーノ・サパタが、大農園主に奪われた村の共有地を取り戻すため、マデーロ支持を唱えてゲリラ戦を始めた。そして北部のチワワ州で立ち上がった革命軍の中にはフランシスコ・ビジャの姿もあったのである。反乱は失敗と思って米国に逃げ帰っていたマデーロは、これを見て驚いた。驚いているうちに、革命軍の有能な指揮官たちが、米国との国境の要衝シウダー・ファレスを占領してしまった。マデーロは何もしていないというのに、革命軍が勝ってしまったのだ。ディアス政権の内側は既に腐り果てており、ファレス市が陥落すると、ディアスの取り巻き連は動揺し、マデーロと裏取引をしてディアス一人を生贄に体制の維持を図ることにした。魚心に水心で、マデーロも直ちに革命戦争を中止し、政府と休戦協定を結んだ。衰えも著しい老独裁者は、「ディアス退陣」を叫ぶ反政府集会に激怒して軍と警察に発砲を命令、二百人の市民を殺戮した。だがその翌日、彼は取り巻きに説得されて辞任し、フランスに亡命した。1911年5月、マデーロはディアスに代わって大統領に就任する。だがそれで物語が完結した訳ではない。4 ディアス独裁政権を打倒して大統領となったマデーロを、民衆は歓呼をもって迎えた。「ビバ!マデーロ!ビバ!ラ・デモクラシア!(マデーロ万歳!民主主義万歳!)」「ところで友よ、皆が呼んでいるデモクラシアってのは一体何者だい?」「そりゃマデーロ様のお隣におられるご婦人に決まってるさ。」マデーロは政治的民主主義を求めて革命を起こしたが、農民たちが彼の革命に参加したのは、あくまでも今日食べるパンと、明日の食べ物を収穫する土地のためであった。ところが、マデーロは一見民主的な制度を整えてメキシコを「近代化」することには関心があったが、農地を貧農に配分することには何の関心もなかった。なぜなら、進歩的な自由主義者とは言いながら、しょせん彼もまた大農園主の一人だったからである。当然、農民への土地の分配を求めて革命を戦った諸勢力から不満が沸き出してくる。最初に爆発したのはモレーロス州の農民革命家エミリアーノ・サパタであった。彼は農地改革を要求してマデーロと何度も交渉したが、返事は常に曖昧ではっきりせず、結局のところ農地改革は実施されなかった。ついに両者は決裂し、マデーロはサパタが武装解除に応じないことを非難して、サパタ派討伐に乗り出す。サパタは激怒した。「(大農園主に)強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村及び人民が直ちに保有するものとする。」と謳った「アラヤ綱領」を発表してマデーロ政権との対決を宣言する。サパタの革命軍討伐のために送り込まれたのはビクトリアノ・ウェルタ将軍である。もともとディアス政権下の軍人で、マデーロ政権下でも引き続き軍の実権を握っていた。彼はモレーロス州に乗り込むと、サパタ派鎮圧のため、数々の残虐行為を引き起こした。サパタに続いて、革命の一番の功労者だったにもかかわらず、高い地位に就けなかったパスクァル・オロスコ将軍が、今度はサパタとは反対に保守派の大農園主たちにそそのかされて北部で反乱を起こした。これもウェルタ将軍が鎮圧に出動した。オロスコは、ビジャと似た境遇の出身で戦友でもあったため、ビジャにも反乱への参加を誘った。だが彼はマデーロに心酔しており、反乱への参加を拒否し、ウェルタ将軍の鎮圧軍に准将の階級で加わった。ところが、ウェルタ将軍はこの馬賊から成り上がった革命派の准将を気に入らなかったらしい。反乱の鎮圧が終わると、ビジャは理由も定かではないまま突然ウェルタ将軍に逮捕され、形だけの裁判で銃殺を宣告される。あるいは、ウェルタは、近い将来、この男が自分の強力な敵となることを見抜いていたのかもしれない。マデーロは政治家として数々の欠点があったが、大金持ちの大農園主にもかかわらず、意外にもこの山賊上がりの勇敢な戦士とは親友同士であった。ウェルタ将軍がビジャを処刑しようとしていることを知ると、彼は驚き大統領命令で処刑を中止させる。そのとき、ビジャは刑場に引き出され、銃殺隊が弾丸の装填を終え、狙いをつけるところであった。すんでのところで彼は命拾いをした。5間一髪命を救われたビジャは、結局刑務所に入れられるだけで済んだ。それまで読み書きを習ったことがなかった彼は、この時刑務所の中で初めて読み書きを習得する。教えたのは法廷書記官と、同じ監獄に投獄されていたサパタ派の幹部だった。政府軍准将の地位にある三十過ぎの男が、小学生のように教科書を目の前に掲げ、たどたどしく読んだという。読み書きを覚えると、ビジャにとって、監獄の中にいる意義がなくなった。意義がないからと勝手に出られないのが監獄のはずだが、彼にそんな理屈は通用しない。読み書きを教えてくれた法廷書記官の手助けでビジャは脱獄し(この法廷書記官カルロス・ハウレギはそのままビジャの革命軍に参加してしまった。そして数々の戦いを最後まで生き抜き、長寿を全うした)、米国に高飛びする。その間、国内ではさらにいくつかの散発的な反乱が続いた。マデーロ大統領に、メキシコを統治して行くための政治的な手腕がまったく欠けていることは明らかだった。そしてついに1912年2月9日、とうとう首都でまで反乱が勃発する。「悲劇の10日間」と呼ばれる惨劇の始まりだった。国立宮殿に迫った反乱軍は、マデーロ大統領の弟グスタボ・マデーロの指揮する政府軍にひとまず撃退された。だが、グスタボの後を継いで反乱鎮圧の命を受けたウェルタ将軍は、なかなか反乱を鎮圧できなかった。いや、実は、ウェルタ将軍は反乱軍と裏取り引きをして、「鎮圧するふり」をしていたのである。その一方で、マデーロ大統領に忠実な部隊に対しては、反乱軍への無謀な突撃を命令して大きな犠牲を出させ、その力を削いでいた。その目的が何であるかは、おおよそ見当がつこうというものである。グスタボ・マデーロは、ウェルタ将軍を信用するな、と兄に注意を促すが、お人よしのマデーロ大統領は信じようとしなかった。2月18日、それまで反乱軍を鎮圧するそぶりを見せていたウェルタ将軍が、マデーロ大統領に反旗を翻す。まずマデーロの弟グスタボが捕らえられて惨殺され、マデーロ自身も逮捕された。「正当的」に権力を奪取したいウェルタは、マデーロを脅迫して辞任を迫り、米国の駐メキシコ大使も、マデーロに「米国はウェルタ政権を支持している」と告げた。結局、反革命の本当の首謀者は米国だったのだ。マデーロは脅迫に屈し、命の保障を条件に大統領辞任を承諾する。ウェルタ将軍はまず外務大臣に就任、そしてマデーロと副大統領ピノ・スアレスが辞任した。なぜ外務大臣かといえば、当時のメキシコの法律の規定では、正副大統領が辞任した場合、外務大臣がその職を継ぐ事になっていたからである。自動的に大統領に就任したウェルタは、しかし命の保証というマデーロとの約束を守る気はなかった。22日マデーロとスァレスは殺される。6ウェルタは大酒のみだが有能な軍人で、様々な計略にも長けていた。しかし、メキシコ革命全体を見渡したとき、彼は「小策士」以上の者ではなかった。彼には、一連の政変の下に流れる農民の巨大なエネルギーが目に入らなかった。それまで数限りなく繰り返されて来た政変同様、権力を握って不逞の輩を弾圧すればいいと考えていた。だが、ウェルタの反革命は農民の激憤を買った。それまで散々無能をさらけ出していたマデーロは、死んだ途端に英雄に祭り上げられた。そして、ウェルタ新政権への服属を拒否したコアウィラ州知事ベヌスティアーノ・カランサを筆頭に、チワワ州のフランシスコ・ビジャ、ソノラ州のアルバロ・オブレゴンなどが一斉に打倒ウェルタの兵を挙げ、カランサを第一統領とする「護憲軍」を結成した。それとは別にエミリアーノ・サパタも引き続き戦い続ける。メキシコ革命第2幕の始まりである。革命軍の中で最大の活躍を見せたのはフランシスコ・ビジャの護憲軍北部師団である。彼の功績により、もともと国民の支持などまったくないウェルタ政権は次第に追い詰められていった。だが・・・。後年ロシア革命のルポ「世界を揺るがせた10日間」でその名を知られる米国人ジャーナリストのジョン・リードが北部師団に同行し、ビジャを密着取材していたのは、丁度この頃である。ビジャは、リードの質問に対して、自分はカランサの忠実な部下であると自認していた。だが、実のところ、彼はこのときまだカランサと直接会ったことがなかったのだ。ビジャとカランサ双方を取材したリードは、両者の立場も気質も決して相いれないことを看破する。後にリードの予想は的中した。「俺は感激して彼の体を抱いた。が、二言三言言葉を交わしただけで俺の血は凍り付いてしまった。・・・彼の話全てが、我々の出身の違いを俺に思い知らさせるために費やされた。」カランサとの初対面を振り返ってビジャは語っている。両者の関係はこのあと加速度的に悪化し、そして共通の敵ウェルタが倒れると完全な破局が訪れたのである。7山賊から革命軍の首領にのし上がったフランシスコ・ビジャは、1914年12月、護憲革命軍北部師団を率いて、ついにウェルタ将軍の政府軍を完全に打ち砕き首都メキシコ市に進軍する。先の独裁者ディアス同様、ウェルタもヨーロッパに逃亡する。革命軍の勝利であった。だが、このときすでに革命軍の中で「第一頭領」カランサと北部師団を率いるビジャの対立は決定的になっていた。ビジャの活躍を快く思わないカランサは、政府軍との戦いの真っ只中に北部師団に足止め命令を下したり、鉄道を駆使して移動や補給を行う北部師団を妨害しようと石炭の供給を止めたり、護憲軍の他の二個師団、北西師団と北東師団を「軍」に格上げして北部師団だけ師団のままにしておく、などの嫌がらせを行ったが、ビジャの勢いを押しとどめることはできなかった。ビジャの北部師団がメキシコ市に入ると、カランサは東方の港町ベラクルスへ退避、それまでビジャとカランサの調停に心を砕いた北西軍のオブレゴンもカランサの側に付いて後を追った。メキシコ市には北からビジャの北部師団、南からエミリアーノ・サパタの農民軍が迫り、12月4日、メキシコ市近郊の水郷の町ソチルミコで、この二人の偉大な農民革命家の会見が実現する。会場は小学校の教室だった。会見の席上、もともと寡黙なサパタは勿論、普段は陽気で豪快なビジャも何故かおとなしく、最初のうち両者の会話は途絶えがちであったという。だが、カランサの名が出た途端、気まずい雰囲気は一変し、互いにカランサの悪口を言い合って話が弾んだ。両者はカランサ打倒を目指して盟約を結ぶ。そして翌々日、二人はそれぞれ軍を率いてメキシコ市に進軍し、市内を軍事パレードして国立宮殿に入った。ビジャとサパタの幕僚たちは大統領謁見室に乗り込んだ。ビジャはふざけて大統領の椅子に腰掛けたが、サパタはその椅子を恐怖の目で眺め、座ることを拒んだという。実に暗示的な逸話である。この日もビジャとサパタは今後の協力を約して、固い抱擁の後に別れた。だがこの後、二人が再び相見えることは、ついになかったのである。二人が友情を誓い合ったにもかかわらず、その後両派の反目が目立って来る。また、サパタ派の農民軍は軍律が厳しく、首都でも礼儀正しく行動したが、ビジャ派は軍律も何もあったものではなく、略奪暴行のし放題、しかも両派ともに行政手腕皆無ときたものだから、首都は大混乱に陥ってしまった。サパタ自身は首都で国政を握る気などさらさらなく、さっさと根拠地モレーロス州に引き上げてしまう。一方のビジャも、蠢動を続けるカランサ派を追って軍を率いて出撃する。首都には、両派の妥協の産物である、何の実権もない臨時大統領だけが残された。サパタはまず農民であり、それから素晴らしい革命家でもあったが、政治家ではなかった。「(大農園主に)強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を持つ村及び人民が直ちに保有するものとする」という単純明快だが激烈な彼の思想はメキシコ中の人々の心を捕らえたけれど、サパタ自身はモレーロス州の革命しか頭になかった。まして、首都で国権を握るなど、まったく関心がなかったのである。一方ビジャは、思想などというものは特になかったが、サパタと違いメキシコ全土を視野に行動する戦略家で、天才的な軍人でもあった。だが、彼もまた本質は農民であって政治家ではなく、権力とか大統領の座とかに何の関心もないことはサパタと同じだった。政治的野心がない、ということは素晴らしい美点ではあるが、カランサという政治的野心の権化と戦うには、致命的な欠点となり得た。結局、政治的にはサパタは純粋すぎ、ビジャは幼稚すぎたのである。8そして1915年。この年はメキシコ史上最悪の流血の年となった。ビジャ率いる北部師団とカランサ派のオブレゴン率いる北西師団の決戦は、南北アメリカ大陸史上、米国の南北戦争に次ぐ大規模で凄惨な戦いであり、かつ信じ難いほどむなしい戦いでもあった。ビジャやサパタにとって、革命の唯一の目的は大農園主から土地を取り上げて貧しい農民に分配することだったから、自ら大農園主で、有産階級のためだけの改革を目指していたカランサとは確かに相入れなかった。だが、カランサ派の将軍たちは、カランサ自身ほどには保守的ではなかった。彼等は、メキシコに土地改革が必要であることを承知していた。オブレゴン将軍も同じである。彼も大農園主出身ではあったが、カランサよりは遥かに進歩的で柔軟だった。オブレゴンは労働運動を味方につけることにも成功する。彼は労働団体と協定を結び、「赤色労働者大隊」を組織してビジャとの戦いに参戦させた。後年壁画家として、またメキシコ共産党の指導者として名を成したD.A.シケイロスは、前年、若干17歳でカランサ派に投じ、後に大佐まで昇進している。一方、ビジャとサパタは貧しい農民の利益代弁者であったが、それがあまりに徹底していたため、都市の組織労働者を味方につけることができなかった。しかしサパタ派にも社会主義的な知識人がブレーンとして加わっていたし、前述のジョン・リード、後に「世界を揺るがした10日間」で不朽の名を残し、米国共産党の創設者にもなったこのジャーナリストは、メキシコで取材を始めた途端にビジャに心酔してしまい、密着ルポ「反乱するメキシコ」を書いている。そして、ビジャ派もカランサ派も主力は農民兵であった。土地の分配を求めて革命を戦った農民兵の思いは、ビジャ派でもカランサ派でも同じであった。ビジャの北部師団には、アパッチ族、タラウマラ族など先住民諸族が部族ごとに参加していたし、オブレゴンの北西軍にはさらに多くの先住民部族が加わっていた。例えばヤキ族は、奪われた農地を取り戻すため、何度も反乱を起こしては鎮圧され殺され、捕らえられて奴隷として大農園に叩き売られてきた。メキシコ革命が始まった時、彼等は何度目かの土地回復の希望を賭けて、オブレゴンの北西軍に参加したのである。その彼等の思いに、ビジャ派と何か違いがあっただろうか。カランサを首領として認めるかどうか、ただそれだけのことで、今まで同じ旗の下に戦って来た同志たちが敵味方に分かれ、数万の死者を出したのである。91915年1月、ビジャに追われてベラクルスに逃げていたオブレゴンは再び勢力を盛り返し、2月にはメキシコ市を占領した。しかし彼の軍があっさり首都を引き払ったため、3月には再びサパタ派が首都を奪回する。オブレゴンにとって、首都を一時サパタ派に明け渡すなど大した問題ではなく、当面の問題はビジャと雌雄を決することだった。サパタ派は、たまたま首都に誰もいなくなったから出てきただけで、メキシコ市を死守しようという意思はさらさらなかったし、サパタ派はゲリラ部隊で、野戦で正面からぶつかったらビジャやオブレゴンの軍の敵ではなかったから、ビジャに勝ちさえすれば、メキシコ市など付録のようたやすく手に入れられたのである。北西軍は、各所で北部師団と激戦を繰り返しながら西進した。これを迎撃すべくビジャの北部師団も南下する。ビジャの幕僚フェリペ・アンヘレス将軍は、オブレゴンと不用意に戦わないよう忠告したがビジャは聞き入れなかった。メキシコ革命にはやたらと将軍が出て来るが、実は、メキシコでは誰でも自己の才覚で兵士を数百人集めれば、一夜にして「将軍」になれたのだ。兵士は昨日までの貧しい農民や労働者で、読み書きができればそれだけでただちに将校にされた。その中にあってアンヘレスはディアス政権下で士官学校校長を務めた本物の将軍である。彼はマデーロ政権時には心ならずもサパタ派討伐軍を指揮したが、ウェルタが反革命で政権を奪った際は協力を拒否、カランサの護憲軍に参加して、後にビジャの北部師団に転じた人物で、人格高潔かつ優れた作戦家であった。ビジャとは個人的友情で結ばれ、後にアンヘレスがカランサ派に捕らえられて処刑された時、ビジャは声を上げて泣いたという。だが、この時に限って、ビジャはこの優れた幕僚の忠告をことごとく無視している。4月4日、北西師団はセラヤに布陣する。だがオブレゴンは、戦場がセラヤよりさらに西のイラプァトになると見込んでいた。しかしこれは読み違いだった。翌5日、北部師団がサラマンカに布陣しているとの急報がもたらされる。予想よりはるかに手前で敵は待ち構えていたのである。このとき、北西軍の前衛部隊は既にセラヤから18kmはなれたグアヘまで前進していた。敵はまだずっと先と思って様子見に先行した前衛部隊は、知らないうちに圧倒的に強力な敵の目の前に飛び出してしまったのだ。オブレゴン配下の将軍の一人は、この戦いについて「オブレゴン将軍の戦った戦闘の中で、これほど不運な始まり方をしたものは他にない」と語っている。この日、ビジャは北部師団の閲兵を行なった後、翌6日未明、3隊に分かれてサラマンカを出撃して、まずグアヘに向かう。北側をアグスティン・エストラーダ将軍の騎兵部隊、南側をアベル・セラトス将軍の騎兵部隊が進み、中央部をホセ・エロン・ゴンサレス、ディオニシオ・トリアナ、ブランカモンテス、サン・ロマンの諸将が率いる歩兵部隊とその後方から砲兵隊が進軍しだ。夜明け、北部師団は北西軍前衛のマイコッテ旅団とグアヘで激突した。北西師団前衛旅団はビジャの騎兵隊の壮烈な突撃に圧倒され、あっという間に蹂躙されていった。状況は絶望的で、旅団長マイコッテ准将はオブレゴンに救援を要請せざるを得なかった。オブレゴン自身が1500人の増援を率いてグアヘに急行するが、正午過ぎ、増援部隊がグアヘに着いたとき、すでに前衛旅団は壊滅的打撃を受けていた。それでも、オブレゴンとマイコッテは、部隊が総崩れになることを防ぎ、整然と撤退してきた。16時、彼等はセラヤに帰還する。オブレゴンはカランサに電報を送る。「マイコッテは現在苦戦しております。私自身が歩兵部隊と機関銃隊を率いてやっと脱出して来たところです。この戦いは不利です。
2023.09.04
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---ベニート・ファレス メキシコ史上唯一の先住民出身大統領数年前、ボリビアで史上始めて先住民(アイマラ族)出身の政治家が副大統領に就任して話題になった。※しかし、本来ボリビアの人口の過半数はインデイヘナ先住民なのだから、比率から言えば歴代大統領の過半数が先住民出身でもおかしくないはずなのに、現実には、「副大統領が史上初」という状態である。さて、しかし先住民出身の政治指導者として真っ先に語られるべきは、メキシコ大統領ベニート・ファレスであろう。メキシコでも先住民出身の大統領は史上たった一人しか出ていない。しかし、彼は、単に先住民出身という以上に、メキシコ史上に重要な役割を果たした政治家である。メキシコ人に史上最も偉大な大統領を人気投票させたら、一位になるのは多分1934~40年に大統領を務めたラサロ・カルデナス(彼もまた先住民の血を濃厚にひく下層メスティソの出身だった)とベニート・ファレスのどちらかであろう。※この記事は先住民出身のエボ・モラレスがボリビア大統領に当選するより前に書いたものです。打算の独立ベニート・ファレスは、1806年にオアハカで生まれた。モンテ・アルバン遺跡で知られるサポテカ族の出身で、13才まではスペイン語を話せなかったと言う。彼がオアハカの町に出て書生としてすごした家は、現在「ベニート・ファレスの家」として博物館になっている。この家で、ファレスは弁護士となり、やがて政治の世界に踏み出していったのである。私は、昨年オアハカを訪れた際ここも見物に行ったが、2度行って2度ともお休み、結局外壁だけ眺めて帰ってくる羽目に陥ったのは返す返すも残念だった。ファレスが生まれたとき、メキシコは未だスペインの植民地であった。1810年以降、激しい独立戦争が展開されたが、指導者はいずれもスペイン軍に敗れ、無残に処刑された。だが、ついに1821年、ファレスが少年の時代にメキシコは独立を達成する。しかしメキシコの悲惨な歴史は、実はこのときから始まったのである。そもそもメキシコはなぜ独立できたのは、独立運動家たちの奮闘の結果、では残念ながらない。メキシコ中部の小さな村ドロレス村のミゲル・イダルゴが1810年9月16日に「ドローレスの叫び」として知られる宣言を発して独立戦争を開始(メキシコではこの日が独立記念日とされている)、して以来、イダルゴは植民地政府軍に敗れて捕らえられて処刑、後を次いで反乱軍の指導者となったホセ・マリア・モレーロスの捕らえられて殺され、独立派は死屍累々の惨憺たるありさまで敗北を重ねていた。それなのにメキシコが突然独立することになったのは、スペイン本国で革命が起き、国王が投獄されて自由主義派が政権を握りったためである。それまでスペイン王への忠誠をとなえて独立に反対していたクリオージョ(白人)保守派は、国王投獄という事態に鼻白んでしまった。それどころか、スペイン本国の自由主義政権が様々な進歩的な政策を実行するに及んで、そのような政策がメキシコに波及することを恐れた。そこで、彼等は独立反対の旗を下げ、一転して独立派に寝返ってしまったのだ。そこには理想はなく、ただ打算のみがあった。実際に独立を達成したのは、もと植民地軍の司令官で、先日までは独立派の反乱軍と戦っていたイトゥルビデ将軍だった。で、独立を達成して彼がまずやったことは、メキシコを「帝国」にして、自らその「皇帝」に即位することであった。しかし、さすがにこれは暴挙だった。在位1年半で、皇帝は政争に敗れて追放される。追放したのは彼の部下であったサンタ・アナ将軍である。怪人サンタ・アナの「活躍」だがこれでハッピーエンドとはならなかった。なぜなら暴君イトゥルビデを追放したサンタ・アナは、輪をかけた暴君でかつ奇人変人であったからだ。悪いことに、彼は政治的に無定見な無能者だった。もっと悪いことに、しかし軍人としてはそこそこに有能だった。軍人としても無能ならば、彼は「メキシコを米国に売り渡した統治者」の汚名を着せられる前に失脚していたに違いない。その行動は奇怪にして突飛、意味不明である。例えば米国の見え透いた挑発にのって勝ち目のない対米戦(米墨戦争)に打って出て大敗し、個人的な都合で国土を米国に売り渡した。西部劇で有名なアラモの砦に攻め込み守備の米国兵を全滅させ、わざわざ米国に付け入る口実を与えたのも彼の軍勢だ。この怪人が何かする度に国内は混乱し、メキシコの領土はどんどん北方の凶悪な巨人に削り取られていったのだから、国に与えた損害の大きさは計り知れない。そのような奇怪なる人物が30年以上に渡って政府の最高実力者として君臨できたのは、メキシコが未だ統合された近代国家としての体をなしていなかったからである。上流のクリオージョと下層の先住民は、互いに同じ国の国民などという意識はなかった。政府を握っているクリオージョの意識には、クリオージョの利益、あるいは自分自身の利益はあっても、先住民やメスティソも含めた国全体の利益などは存在しなかったのである。自由主義派の雄ベニート・ファレスそれでも、さすがにサンタ・アナが自分の都合で国土を米国に売却するに及んで、反対派が立ち上がった。1854年、サンタ・アナはついに失脚し、自由主義派が権力を握る。ファレスは、自由主義派に属する政治家として頭角を現していた。オアハカの州知事を務めていた間に、サンタ・アナとの抗争で国外に追放されたが、自由主義派が勝利すると、彼も帰国し政権に参加した。自由主義派の政府は、レフォルマ法と言われる急進的な改革政策を押し進める。とくに、司法長官となったファレスは最急進派だった。例えば教会財産の没収。植民地時代から特権的な地位によって莫大な財産を築き上げてきたカトリック教会は、一切の特権を失い、必要最小限以上の土地財産もすべて没収された。保守派は黙っていなかった。1857年、彼等は武力によって自由主義政権に反乱を挑み、メキシコは再び混乱の中に沈んだ。3年後、自由主義派はやっとのことで勝利を収め、反乱は鎮圧された。1861年、ファレスはついに大統領に登り詰める。だが、それでもまだハッピーエンドにはならなかった。大統領に就任したファレスの前には、さらに巨大な試練が待ち構えていた。メキシコ干渉戦争今日、巨額の対外債務は中南米各国の共通したなやみだが、実はこの問題、100年以上昔にもメキシコを苦しめていた。そもそもは米墨戦争に惨敗したのがきっかけで国内の混乱、内戦がつづく内にメキシコは莫大な対外債務を抱え込み、それがついに返済不能に陥ったのが、ファレスが大統領に就任した年だったのである。ファレス大統領は対外債務の返済停止という挙に出た。1980年代中ごろ、ペルーもガルシア政権時代に似たことをやって国際金融業界から袋叩きにされたことがある。この時ペルーが受けた袋叩きの手段は、「金を返さないなら二度と貸さないぞ」という経済的締め上げだが、130年前のメキシコの場合には借金取りが軍服を着て鉄砲を持って押し掛けてきたから始末が悪い。凶悪な高利貸の名はフランスのナポレオン三世。メキシコ干渉戦争の始まりだった。ナポレオン三世の送り込んだ借金取りはフランス陸軍の精鋭3万人である。相次ぐ内戦に疲れ切った弱体のメキシコ軍はたちまち追い散らされ、1864年、オーストリア王室のマキシミリアン大公がメキシコに送り込まれ、皇帝に即位した。イトゥルビデ以来のメキシコ帝国に逆戻りである。しかしファレスはめげない人である。彼はフランス軍に追われて北へ北へと逃れ、最後には米墨戦争後国境の町となっていたエル・パソ・デル・ノルテまで追い詰められるが、ここから反攻に転じる。南部ではポルフィリオ・ディアス将軍の遊撃隊がフランス軍に対して果敢な抵抗を続けていた。ファレス政権には有利な条件があった。米国が、自国の「裏庭」扱いしているメキシコにフランス軍が雪崩れ込んできてき心楽しかろうはずがない。したがって、ファレス軍は米国から大量の軍事援助を受けることができた。国境の町に陣取ったことも米国からの援助を受けるには有利な条件だった。かわいそうなマキシミリアン皇帝一方マキシミリアン皇帝は不幸な人である。彼は大変な意気込みでメキシコに乗り込んできて、名君たろうと本気で努力した。なかなかに開明的で聡明な人物でもあった。いきがかり上、彼の下に保守派の政治家が集まった中、あえて自由主義派の政治家を閣僚に起用したりもした。だが、彼自身がどんなに努力しても、しょせんはナポレオン三世の傀儡という事実に変わりはない。マキシミリアン個人がいかに開明的で聡明な人物でも、外国から送り込まれた傀儡の皇帝を受け入れられるほどメキシコ人の独立心は脆くはなかった。結局、マキシミリアンが皇帝として君臨できたのは、彼自身の実力ゆえでも、まして開明的で聡明な人物故でもない。ただ単に強力なフランス軍が付いていたから、それだけのことである。そのフランスに、遠い外国に精鋭部隊を置く余裕がなくなった。ドイツ(プロシャ)との間に緊張が高まったのと、撤兵を要求する米国の圧力のためである。1867年3月にフランス軍はメキシコから撤退する。マキシミリアンは、2階には玉座があるとおだてられて梯子を上ったのに、気が付いたら梯子は外され、しかもそこは玉座ではなく処刑台だったのだ。本国に切り捨てられた傀儡政権など、ガラクタ同然である。フランス軍の精鋭部隊の去った後、ファレス大統領は、たちまちマキシミリアン皇帝を打倒しメキシコを統一する。あわれなマキシミリアン皇帝は、フランス軍撤退のわずか4か月後、二人の腹心とともに銃殺刑に処せられた。彼の妻は、この時ヨーロッパで各国政府に支援を求めて運動していたが、夫の死を聞いて発狂してしまったという。この年、ファレスは大統領に再選、さらに71年に三選されたが、1872年この世を去る。晩年、もと自由主義派の同志で対仏戦争に活躍したポルフィリオ・ディアスと対立、ついに平穏とは縁のない生涯だった。残念ながら、彼の死後ディアスはクーデターにより政権を奪取、以後メキシコ革命まで30年間独裁者として君臨することになる。建国の父ファレスが背水の陣を敷いたエル・パソ・デル・ノルテは、米墨戦争でリオ・グランデ川を挟み北側が米国、南側がメキシコと東西ベルリンのごとく分断された国境の町である。その米国側はいまでもエル・パソ(後半のデル・ノルテはいつしか省略された)と称するが、メキシコ側はこの勝利を記念して1888年にシウダー・ファレス、つまりファレス市に改名される。ついでに、メキシコ市の空港もベニート・ファレス国際空港と称する。さらに、彼の出身地オアハカ市も、現在の正式名はオアハカ・デ・ファレスである。ファレスの時代、彼にとってもメキシコにとっても苦難の時代だった。しかしその中で徹底的な政教分離など様々な改革によって近代国家としての基礎を造り上げ、保守派との抗争・対仏戦争を経てメキシコを本当の意味での統一国家に、つまり一つの国の国民という意識を根付かせた。メキシコでは「独立の父」ミゲル・イダルゴ、「近代化の父」ラサロ・カルデナスとともに、ベニート・ファレスは「建国の父」として尊敬されている。
2023.09.02
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関東大震災から100年 朝鮮人虐殺はなぜ“なかったこと”にされるのか関東大震災直後、デマによって引き起こされた朝鮮人虐殺を、近年否定する動きがみられる。今、歴史がなかったことにされようとしていると日本社会に警鐘を鳴らすのが、ジャーナリストの安田浩一氏だ。墨田区の東京都立横網町公園、かつては旧日本陸軍の被服廠があった場所だ。震災時、ただの空き地だったが、震災の火の手から逃げてきた人々が殺到した。だが強風で煽られた炎は巨大な竜巻となって、避難民の衣服や持ち込んだ家財道具に飛び火した。ここで約3万8千人もの人々が命を落としたという。以来、横網町公園には慰霊堂がつくられ、毎年9月1日には都慰霊協会主催の大法要が営まれている。そして1974年からは、同公園内の慰霊堂に近接した一角で、もうひとつの法要がおこなわれている。「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」だ。震災直後、関東各地で「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こした」といったデマが流布された。デマを信じた人々によって多くの朝鮮人が殺された。震災をきっかけに引き起こされた、もうひとつの惨事である。朝鮮人虐殺について、内閣府の中央防災会議は、2008年の報告書で記している。朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えて殺害、殺傷の対象は、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人(日本人)も少なからず被害にあった。犠牲者数は、震災の全死者(約10万5千人)の「1~数%」、つまり1千~数千人の規模にあたると推定している(震災直後に調査した朝鮮人団体は、犠牲者数を約6千人としている)。こうした歴史的な経緯もあり、73年に横網町公園内に朝鮮人犠牲者の追悼碑が建立され、翌年から各種市民団体の共催で追悼式典がおこなわれている。第1回式典には、当時の美濃部都知事が「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代都知事は、この追悼式典に追悼文を送り続けた。ところが、異変が起きた。2017年、小池百合子都知事が、追悼文の送付を取りやめたのである。小池知事は「関東大震災で亡くなったすべての方々に追悼の意を表したい」と述べた。同じ日におこなわれる「大法要」にメッセージを寄せることで、「すべての方々」を追悼するという理屈だ。震災の被害者を追悼するのは当然だ。一方、虐殺の被害者は「震災の被害者」ではない。震災を生き延びたにもかかわらず、人の手によって殺められた人々だ。まるで事情が違う。天災死と虐殺死を同じように扱うことで「慰霊」を合理化できるわけがない。だからこそ、「三国人発言」のような差別認識を披露した石原慎太郎氏も含め、歴代都知事はメッセージを送り続けてきた。小池知事の言葉は、天災のなかに人災を閉じ込めるものだ。虐殺という事実にふたをするに等しい行為だ。小池知事の追悼文送付「取りやめ」は、思わぬ余波をももたらした。17年から新たな「追悼式」がおこなわれるようになったのだ。朝鮮人犠牲者追悼式典とほぼ同時刻、公園内のわずか20m離れた場所でおこなわれるのは、「真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」、朝鮮人虐殺の「否定論」の立場をとる者たちがおこなった集会だ。主催団体のひとつに名を連ねるのが「そよ風」なる女性グループである。同団体は、在日コリアンの排斥運動、ヘイト活動を繰り返してきた在特会などとも共闘してきた(要旨・以下略)---横綱町公園には行ったことがありますが、意外に狭い場所です。調べたところ、面積は2万平米に満たない程度です。東京ドームの建築面積が4万6千平米以上ですから、その約4割に過ぎません。そこに4万人の避難民が、持てる限りの家財道具(大正年間のことですから、ほとんど木製です)を抱えて逃げ込んだので、すし詰め状態になっていたようです。そこに火災が飛び火したので、そのほとんどが亡くなりました。生存者は1000人程度しかいなかったようです。関東大震災の前犠牲者のうち、1/3以上が、このたった2ヘクタールに満たない空き地で命を落としたのです。また、この横綱町公園には、1945年3月10日の東京大空襲の犠牲者を追悼する碑もあります。さて、本題ですが、小池知事の「関東大震災で亡くなったすべての方々に追悼の意を表したい」なる言い分は、引用記事も指摘しているように、論外の詭弁としか言いようがありません。朝鮮人虐殺(引用記事も指摘するように、殺されたのは朝鮮人に限らず、朝鮮人と誤認された中国人、日本人もかなり殺されています)は、広い意味では災害の犠牲者にも含まれますが、それ以上に犯罪行為の犠牲者であり、他の震災被害者と同列に扱えるものではありません。何よりも、それまで追悼していたものをやめる、という行為は、いかに「すべての方々に追悼の意を表したい」などと取り繕ったところで、明らかに「虐殺された朝鮮人を追悼などしない」という意味に受け取れます。「朝鮮人虐殺などなかった」などと言っているネトウヨ連中の言い分を助長する行為に他なりません。災害と流言飛語は、切っても切れない縁があります。今現在も、米ハワイのマウイ島で起こっている大規模な山火事で、「政府が放火した」なるデマがSNSに飛び交っていると報じられています。そして、「火事場泥棒」などという言葉があるように、災害と犯罪の発生も切っても切れない縁があります。それが最悪の形で結びつき、古今東西の災害史上でも類を見ないと言われる規模の惨事になったのが、関東大震災の朝鮮人虐殺事件です。そして残念ながら、今後発生が予想される各種災害において、同様の事態が絶対に起こらないという保証はないのが現実です。地震や水害などの災害の発生そのものを止めることは、人間の力ではできません。しかし、起こった災害の被害規模を最小限にとどめることは、人間の努力次第です。ましてや、人が人を殺す事態は、あらゆる努力を払って抑止すべきことです。自治体のトップという立場は、そのことに対して重大な責任を負っているはずです。にもかかわらず、慰霊のメッセージを取りやめるのは、あまりに誤ったメッセージを発しているというしかありません。引用記事のタイトルにもなっている、関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネトウヨの主張は、まったく話にもならないものです。何しろ、当の当時政府自身の調査で、虐殺があったことははっきり分かっているのです。ただし、犠牲者数の詳細ははっきりとは分かりません。旧司法省の報告書によれば、犯人が逮捕、起訴された犠牲者のうち民間人によるものが294人、警察によるもの2人、軍関係1名(朝鮮人234人、日本人60人、中国人3人)、また軍の戒厳業務詳報によると、軍による殺害66人、警察、民間人との共同による殺害約215人(朝鮮人254人、日本人27人)、合計578人が記録されています。ただし、司法省の報告書は、犯人が逮捕され起訴された事例のみの合計であること、軍や警察による殺害は少なからず隠蔽された例が多いことから、この人数は氷山の一角であることは明白です。引用記事にあるように、2008年の中央防災会議報告書では、犠牲者数は1000人から数千人と推定している一方、震災直後に朝鮮人の団体が調査した結果によれば、犠牲者は約6千人です。6千人が絶対正確な数字である、とは断定できないものの、中央防災会議の推計と比較しても、「あり得ない数字ではない」ことは間違いありません。更に、虐殺の事実は否定しようがなくなると、この連中は今度は「朝鮮人が暴動を起こしたから正当防衛のためだ」などと言い出しています。それこそまさに、当時朝鮮人虐殺を引き起こしたデマそのものです。事実として、朝鮮人が暴動を起こした(あるいはその他の犯罪を犯した)、という事実はまったく知られていません。なるほど、当時の新聞にはそのような記事が踊っていたのですが、震災直後の新聞は、各紙聞いた話を何の裏取りもせずにそのまま記事にしてしまい、大量のデマをまき散らしてしまった張本人なのです。当時の新聞記事にいかにデマが多かったかは、例えばこちらのブログなどに詳しいですが・槍ヶ岳が噴火(『小樽新聞』9月2日号外)・秩父連山が噴火(『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2)・横須賀が沈没(『小樽新聞』9月2日付号外第2)・伊豆大島が沈没(『小樽新聞』9月3日付号外第2)(『名古屋新聞』9月4日付号外第2)(『名古屋毎日新聞』9月4日付号外)・松方正義が死亡(『京都日出新聞』9月3日付附録)(『小樽新聞』9月4日付号外第1)(『名古屋新聞』9月4日付号外第2)・高橋是清が死亡(『九州日報』9月3日付号外第4)(『小樽新聞』9月4日付号外第1)等、大量のデマが新聞を通じてばらまかれたのです。言うまでもありませんが、槍ヶ岳も秩父連山の関東大震災で噴火などしていないし(というか、そもそも火山ではない)、伊豆大島が沈没などしていないことも説明の必要はないでしょう。松方の死去は震災翌年の1924年7月だし、高橋是清は1936年2月、2.26事件で反乱軍に殺されています。したがって、そのような新聞記事をソースとした「事実」には何ら真実性がありません。ただし、これら新聞記事の「不逞鮮人が暴動を起こしている」というデマ記事が直接的に朝鮮人虐殺の原因になったとは、必ずしも言えません。というのは、出典を見ればわかりますが、小樽新聞、大阪毎日、名古屋、名古屋毎日、京都日出、いずれも地震のあった関東からは遠く離れた地域の新聞です。理由は簡単。東京近辺では、地震で新聞社の社屋も倒壊して、ほとんどの新聞の印刷、発行が物理的に不可能になったからです。したがって、新聞報道が原因で虐殺されたのではなく、虐殺の原因となったデマが、被災していない地方の新聞にも届いた、ということになります。では、デマの火元はどこだったのか。当時の、いや今も続く朝鮮人に対する根拠のない差別意識と敵対心から、各地の地域住民から同時多発的にそのようなデマが発生した、という側面は否定できません。しかし、明らかに組織的にデマをバラまいて虐殺の発生を助長したのは、当時の軍と警察です。地震の翌9月2日に戒厳令が発せられていますが、この際、内務省警保局は、各地方長官宛に「東京附近の震災を利用して朝鮮人は各地に放火し、「不逞」の目的を遂行しようとしている、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注いで放火するものがある、既に東京府下には一部戒厳令を施行したので、各地においても充分周密な視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密な取締を加えてもらいたい」という電文が発せられています。(内閣府中央防災会議専門調査会資料より)これによって、軍、警察、そして在郷軍人会などによる自警団が組織的に朝鮮人虐殺を開始したのです。軍の戒厳業務詳報によっても、少なくとも280人以上(日本人、中国人も含む)が軍と警察、あるいは協力する民間人(自警団)との共同で殺害されたことが確認できます。当然ながら、軍や警察の失態を示すものなので、相当部分が隠蔽されたであろうことは想像に難くありません。その中で隠しきれずに表沙汰になったものだけでその数である、ということは念頭に置かなくてはなりません。また、震災直後に、軍と敵対的だった無政府主義者の大杉栄と内妻、甥を殺害した甘粕事件や、労働運動家十数名を殺害した亀戸事件など、反政府的傾向のある人物を地震の混乱に乗じて組織的に捕縛、殺害した歴然たる事実が軍と警察にはあります。したがって、朝鮮人虐殺に軍と警察の大きな責任があることは歴然としています。ただし、日に次が進むにつれて軍と警察の対応は正反対の方向に変化します。それは、「朝鮮人が暴動を起こしている」「井戸に毒を入れている」の類の話が全てデマであることを軍や警察が自らの調査によって認識したからにほかなりません。9月3日には、軍内部でこれらがすべて虚報てあることが確認されたということです。(関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺)ありもせぬことを言いふらすと処罰されます朝鮮人の狂暴や、大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言伝えで処罰された処罰された者は多数あります。時節柄皆様注意してください。警視庁というチラシが現在に残っています。結局、軍と警察は自らデマを拡散して、自らそれを終息させようとした、ということになります。前述のとおり、殺害された人の多くは朝鮮人でしたが、そう誤認された中国人や日本人も少なからずいます。(甘粕事件や亀戸事件のように、誤認ではなく最初から相手が誰かを把握したうえで殺害された日本人もいますが)方言があって、関東では言葉が通じにくかった地方出身者の行商人が何人も殺害されたのが福田村事件ですが、地元の在住者でも誤認されて殺害された例はあったようです。辛くも生き延びた一人に、後の劇作家千田是也がいます。実は、私の中学の頃の教員で、千田是也同様、誤認されかかって辛くも逃れた人がいました(当時公立学校の教員には定年がなく、その先生は60代後半に差し掛かっていましたが、まだ現役の教員でした)。やはり「お前朝鮮人だろう!」と言われて、竹やりなどで武装した自警団にわっと囲まれたのだそうです。ところが、その自警団の中に、たまたま知り合いがいた。「あっ〇〇ちゃん」と言われて、命拾いをしたと聞いています。その当時、10歳にもならない女の子を取り囲んで、あやうく殺しかねない状況(福田村事件でも、幼い子供が実際に殺害されています)、災害時の異常心理と群集心理の恐ろしさです。それが、今後の災害で二度と起こらないという保証はまったくありません。何しろ平時であってもいまだにそういうデマを垂れ流す人がいるわけですから。そうである以上、このような惨劇は、決して忘れてはならないことです。
2023.09.01
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