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一週間ほど前、或るブログのランキングに参加しました。参加ブログは、このブログではなく、別に管理する「空中遊行」という宗教論のサイトです。先程総合ランキングを確認してみたところ、参加182,307サイト中の20,192位でした。やはり宗教関連の記事ばかりで、しかも難解なものばかりを書いているので、どう考えても、下位に留まるのが妥当というところでしょうか。仏教のカテゴリー内では、85サイト中の19位でした。しかし、ランキングに参加したことにより、参加ブログへの日々のアクセス数が何割かはアップしたようです。もっと活動の活性化が図れれば有り難いので、参加ブログのURLを記入しておきます。宜しければどうぞクリックして下さい。勿論記事を読んで、コメントを頂けると嬉しいです。【空中遊行記】
2008年05月31日
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前回に引き続いて、原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第二章第九節「耕作者」を読む。 ☆ ☆ ☆〈悪魔〉修行者よ。舌は私のものです。味は私のものです。味覚が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか? 〈尊師〉悪魔よ。舌はそなたのものである。味はそなたのものである。味覚の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし舌が存在せず、味が存在せず、味覚の接触から生ずる識別作用が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。 〈悪魔〉修行者よ。身体は私のものです。触れられるものは私のものです。身体が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか? 〈尊師〉悪魔よ。身体はそなたのものである。触れられるものは、そなたのものである。身体の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし身体が存在せず、触れられるものが存在せず、身体の接触から生ずる識別作用が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。 〈悪魔〉修行者よ。心は私のものです。心で考えられるものは私のものです。心が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか? 〈尊師〉悪魔よ。心はそなたのものである。心で考えられるものは、そなたのものである。心の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし心が存在せず、心で考えられるものが存在せず、心の接触から生ずる識別作用が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。 ☆ ☆ ☆ 前回の眼識と耳識と鼻識に続いて、ここでは舌識と身識と意識に於ける、魔の領域と仏の領域が明かされている。 魔の領域とは迷いの境界である。迷いを破れば悟りの境界である。悟りの境界が仏の領域である。この「迷いを破る」とはどのような事か、それがここに述べられているのである。 尊師曰く「悪魔よ。舌はそなたのものである。味はそなたのものである。味覚の接触から生じた識別領域は、そなたのものである」と。即ち「舌が持つ認識形態とその領域に有るものは迷いの領域である」と知って、執われから離れる心、これが悟りの心である。 尊師曰く「舌が存在せず、味が存在せず、味覚の接触から生ずる識別作用が存在しないところ」と。これが悟りの領域である。 続いて述べられている身識と意識についても、同様に知られる。このように六識の一切が幻有の相として看破され、迷界の領域として解脱されると、その解脱身の在所が清浄の仏界と表現されるところの浄土であり彼岸の世界なのである。 従って尊師曰くの「眼と耳と鼻と舌と身と心の接触から生ずる識別作用が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない」とは、六識が無明に基づいて迷妄の界に生ずる様を観察し終わって、既に解脱されてみると、悪魔即ち不真理の境界へ誘い堕とすべき如何なる因子も存在しない仏の領域があるのだと示す言葉である。
2008年05月31日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第二章第九節「耕作者」を読む。その時尊師は、諸々の修行僧たちに、涅槃に相応する法を説き示した。そこで悪魔は、「修行者ゴータマを眩惑させてやろう」と思って近付き、語り掛けた。 ☆ ☆ ☆〈悪魔〉修行者よ。眼は私のものです。色形は私のものです。眼が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか?〈尊師〉悪魔よ。眼はそなたのものである。色形はそなたのものである。眼の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし眼が存在せず、色形が存在せず、眼の接触から生ずる識別作用が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。〈悪魔〉修行者よ。音声は私のものです。聴覚作用は私のものです。聴覚作用が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか?〈尊師〉悪魔よ。音声はそなたのものである。聴覚作用はそなたのものである。聴覚作用の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし音声が存在せず、聴覚作用が存在せず、聴覚作用の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。〈悪魔〉修行者よ。香りは私のものです。臭覚作用は私のものです。臭覚作用が対象に触れて起こる識別領域は私のものです。修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、私から逃れられるだろうか?〈尊師〉悪魔よ。香りはそなたのものである。臭覚作用はそなたのものである。臭覚作用の接触から生じた識別領域は、そなたのものである。しかし香りが存在せず、臭覚作用が存在せず、臭覚作用の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。 ☆ ☆ ☆魔界とは、悪魔の支配が及ぶ領域であり、仏界とは悪魔の支配が及ばない領域である。ここでは眼識と耳識と鼻識について明かされている。先ず眼識に於いて、魔の領域と仏の領域が明かされている。色形として識別される現象の領域が魔の領域であり、形象として識別されるものの実体即ち真理の領域が仏の領域である。続いて耳識と鼻識、即ち聴覚の領域と臭覚の領域について、魔界と仏界の分別が明かされている。勿論分別と云っても、耳識や鼻識が分断されて、魔の持ち分と仏の持ち分に別けられているという意味ではない。各々に於いて現象として捉えられた領域と、実体として悟られた領域というような分別なのである。従って、説明の便から分別という言葉を使ったが、本来分別の知見が働くのは現象界なので、分別の見解を領域内に持つ魔界と無分別智の源である仏界というような二別の意味を示すための転用なのである。従ってここに云う魔界とは、一般衆生の心識が普段執われている境界の全般を指す。このことに基づくが故に、仏界とは、そこからの解脱界だと云えばよいだろう。即ちこの二別が明瞭に悟るが故に、魔の領域から解脱することが出来るということになる。
2008年05月30日
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ブッダの『真理の言葉(法句経)』を読んでいます。『つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。このことをはっきりと知って、つとめ励みを能く知る人々は、つとめ励みを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。』言葉としては、非常に易しく説かれているけれど、読んだ途端に、このような説法をする境地が明確に自覚できる者は少ないだろう。凡そ宗教説法が生まれる基本的境地が、ここで語っている者の境地なのである。イエスもまた永遠の命に到る道と、滅びの道とを分別して法を説く。勿論ここでブッダが説く内容とも等しいものである。『つとめ励むのは不死の境地である』と『つとめ励む人々は死ぬことが無い』の二つの言葉によって、「命の境界がある」ということと「死の境界が滅せられている」という二つの理を証す。即ちつとめ励みによって、この理が証す境界を覚り得たかという問いが含まれているのであり、未だ覚り得ていないなら、即ちつとめ励めよという説法なのである。そこで、未だ覚り得ていない者の状態が示されている。即ち『怠りなまけるのは死の境涯である』と『怠りなまける人々は、死者のごとくである』という二つの言葉であり、「死の境界がある」ということと「命の兆しが見えない」という二つの理を証す。ここで気を付けて欲しいのが、「命と死という二つの境界」が、言葉の上では、或る一つの世界が二分され、分別されているかに見えるということである。勿論ブッダもイエスも、そのように一つの世界を二別に分別している訳ではない。即ち命の世界と死の世界という二界が出来ている訳ではなく、命の世界が現れる所には死の世界は無いのであり、死の世界が現れる所には命の世界が無いということである。このように、命の世界を言葉で示すことは非常に難しい。それ故、「命を見出す者は稀である」と云われているのである。「悟り」とは何あろう、先ずはこの「命の境界」を見出すこと、これを出発とした理智の無限修行に於ける一々の果のことなのである。斯くして「命の境界」を悟った者には、なおも続く経典の言葉が、常日頃自分が努めている道でもあるが故に、自分自身が今語っているかのように、容易く理解出来る。『道に思いをこらし、堪え忍ぶこと強く、常に健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。』『放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。怠ることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。』『賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣に登り、自らは憂い無くして、他の憂いある愚人どもを見下ろす。恰も山上に居る人が地上の人々を見下ろすように。』『いそしむことを楽しみ、放逸に怖れを抱く修行者は、微細なものでも粗大なものでも、すべての心の煩いを焼き尽くしながら歩む。恰も燃え盛る炎のように。』ニルヴァーナに到るとは、まさしく此の様なことなのである。即ち死すべき境界にある一切を焼き滅ぼし、世界の影も形も後に残るもの無きが如くに為すのである。
2008年05月28日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第二章第八節「施しの食物」を読む。その時尊師は、早朝から鉢と重依を身に受けて、或るバラモンの村に、托鉢のために入って行った。しかし悪魔が計略を用いて、バラモンや資産家たちから、ゴータマが托鉢の食物を得られないようにしていたため、尊師は洗って出掛けたままの鉢を持って帰ってきた。そこで悪魔は尊師に近付いて話し掛けた。 ☆ ☆ ☆〈悪魔〉修行者よ。施しの食物を得たかね?〈尊師〉悪しき者よ、私が施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではないか。〈悪魔〉では尊いお方よ、再び村へ行きなさい。施しの食物が得られるように、私がはからいましょう。〈尊師〉悪魔は、如来を襲うという禍をかもし出した。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ。私に悪い報いは起こらない。我らは何物も持っていないが、大いに楽しく生きて行く。光り輝く神々のように、喜びを食む者となるだろう。 ☆ ☆ ☆どこの世にも、この悪魔のような者が居るものだ。他人の幸せを嫉み、失脚を願い、幸せを失うことを喜ぶが如き者。善良な者を悪く言いふらしたり、仕事で成果をあげて利を得る者を見れば、割り込んでいって名利を横取りしようと謀る者等々。このような悪魔に付きまとわれても、尊師の生き様は一向に揺るがず、しかもますます輝いて見える。これは尊師が既に現世の柵を捨てて、真如の法界に生きているが故である。我々も常々気を付けて世の中を観察し、仏性を堅く保持して、魔の誘惑に屈しないように努めなくてはらない。
2008年05月27日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第二章第四節「ふさわしいこと」の中の詩句を読む。その時尊師は、或るバラモンの村にとどまり、多数の在家者の集会で法を説いていた。そこへ悪魔が現れて、ゴータマの心を眩惑させようと語り掛けた。 ☆ ☆ ☆〈悪魔〉他人に教えるということは、あなたに相応しいことではない。それを行って、賛同者の順応と、反対者の反論とに執着するのはよくない。〈尊師〉全き悟りを開いた者が、他人を教え諭すのは、人のためを思い、憐れむからである。修行完成者は、順応と反論とから解脱している。 ☆ ☆ ☆書かれていることは、明かな悟りの真実だが、まだ迷いの界内に執われている者には、斯かる「修行完成者は、順応と反論とから解脱している」の如き発言を疑問に思うかもしれない。先ず第一に「全き悟りを開いた者」とか「修行完成者」というものは有り得るのだろうかとの疑念が想定される。というのも、まだ衆生の執われを脱却する術を知らない者には、「人間である限り、生きている間は迷いを滅しつつ歩まざるを得ないのではないか」と思われるのが常だろうからである。また「順応と反論とから解脱している」という状態も信受できるだろうか。人間である限り、何時また賛同者である味方の出現を喜び、反論してくる敵対者を憎むことになるかもしれないと、先々のことまでも断言することに不審を持つかもしれない。しかしここで尊師が語っているのは、そのような疑念を生ずる根であるところの衆生心を、全てそっくり解脱しているという意味なのである。またそれを可能にするのが、「智慧の完成」である。斯かる意味での智慧の完成とは、仏の真実が衆生の一切を包み込んで清浄化することを終えた智というような意味になる。故に「修行完成者は、順応と反論とから解脱している」の言葉自体が、悟りの境地そのものの在り方を描写した表現なのであるから、悟りを求める修行者は、自らもこのようにはっきりと言い得る境地に入ったことを悟り取れるまで、疑心を捨てて努めるべきだと言えるだろう。
2008年05月27日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第二章第三節「岩の破片」の中の詩句を読む。尊師は、岩の破片で足を傷め、激しい痛みと不快感に耐えていた。そこへ近付いてきた悪魔との応酬である。 ☆ ☆ ☆〈悪魔〉あなたは、ものぐさで臥ているのか? あるいは詩作に耽って臥ているのか? あなたの為すべきことは沢山あるのに。人里離れた休息所で、独り眠りに耽っているのはどういうわけか?〈尊師〉私は、ものぐさで臥ているのではないし、詩作に耽って臥ているのでもない。私は目的を達成し、憂いを離れている。矢が胸を貫いて、心臓が激しく動悸している人々でも、眠ることができる。煩悩の矢を離れた私が、どうして眠らないということがあろうか。目覚めているが気掛かりもなく、また眠るのを恐れることもない。夜も昼も、私を後悔させて苦しめることがない。世の中のどこにも、私は害いを見ない。それ故、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら、私は眠る。 ☆ ☆ ☆斯かる悪魔の誘惑は、現世の柵への誘き出しとして読む。例えば尊師は悟りの心を説き歩く行を行ずる者であれば、こうして臥している間にも、迷苦に陥って、救いの仏法を求めている衆生も多いのだから、日頃の行を続行せよとの意味にも取れるだろう。尊師は足を傷めて、暫時の休息を取っているところである。その痛みは身体上のものであって、因と縁とを取り込むが故に、衆生が受ける痛みと異なるものではない。それ故「一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら、私は眠る」は、痛みの空なるが如く、自他の分別を超えたところの慈悲でもある。「矢が胸を貫いて、心臓が激しく動悸している人々でも、眠ることができる」もまた、自他の分別を超えて意味を為す言葉として解する。これによって、悪魔の誘惑は退けられているからだ。もし本より有るのではないところの自他の分別に心が動ずれば、悪魔の誘惑が某かの意味を持つかもしれない。しかし「目覚めているが気掛かりもなく、また眠るのを恐れることもない」によって、分別界を超え出た仏界に、常に安らぐことを、どんな声にも妨げられることがないという境地が語られているのである。即ち悪魔の声の如きは、仏界内に於いては、言葉無き風の微音に化すが如くであるのだ。現世は衆生の無明と情意の妄執に満ちているが、それらの柵が仏界に及ぶことは一切無い。その故に「夜も昼も、私を後悔させて苦しめることがない。世の中のどこにも、私は害いを見ない。それ故、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら、私は眠る」と語られる。即ち「憐れみ」とは、柵を憐れむ心にも通じるからである。
2008年05月26日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第一章第七節「眠る」の中の詩句を読んでみる。尊師は、夜の大部分、戸外をそぞろ歩きし、夜明け頃に精舎で、右脇を下にして獅子座を構えておられた。これを見た悪魔が近付いて、「そなたはなぜ微睡むのか? なぜそなたはここで、ひどい雇われ者のように微睡むのか? そなたは『家が空っぽだ』と思って眠るのか? 太陽が昇ったのに、なぜここで眠っているのか?」と語り掛けたので、尊師は詩句を以て悪魔に応えた。 ☆ ☆ ☆世の人々を誘うために網のように絡み付き、執着をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。一切の生存の素因が滅び尽きてしまったから、賢者は微睡むのであるが、それがお前に何の用があろうか? 悪魔よ。 ☆ ☆ ☆まことに、悟りの世界に入った者には、「執着をなす妄執は、どこにも存在しない」のである。即ち仏界には、妄執の縁となる幻有の形姿さえ、どこにも見当たらないからであり、妄執の因となる我執の痕跡さえ、どこにも無いのである。この状態を「一切の生存の素因が滅び尽きてしまった」境地と云う。従って斯かる賢者が微睡んだとしても、妄心の界に堕ちる因ともならない。それは唯、永遠の安らぎに達した者にとっての、身体を加持した安らぎの一時の姿に他ならない。それゆえ「それがお前に何の用があろうか? 悪魔よ」なのである。
2008年05月26日
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原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』第四編「悪魔についての集成」第六節「蛇」の中の詩句を読んでみる。尊師は、夜の暗闇の戸外で、路地に坐していた。悪魔は尊師を恐怖に陥れようと、巨大な蛇の姿で現れ、威嚇した。尊師は詩句を以て悪魔に語り掛けた。 ☆ ☆ ☆空き屋に住みつき、自らを制しているかの聖者は、立派である。かれはそこで捨て去って行え。そのような人には、その生活はふさわしい。さまよい歩く猛獣が多く、恐ろしいものが多く、また蚊虻や蛇が多いが、空き家にいる偉大な聖者は、そこで一本の毛髪さえも動かさない。風が天を裂き、大地を震わせ、一切の生き物が恐れおののくことがあろうとも、たとい胸に向かって槍を投げつけるようなことがあっても、生存の素因のうちにあるものの救護を、諸々のブッダはなさない。 ☆ ☆ ☆仏眼とはこのようなものである。この世に生じる一切は虚空中の幻影の如きもの。「空き屋に住みつき」とは、この心である。一切が虚空中の幻影であれば、何処にか取るべきものの有らんやである。この心を指して「かれはそこで捨て去って行え」と詠まれているのだ。「そのような人には、その生活はふさわしい」の意味は、詩句の後半に示されるが如く、無畏怖にして静寂の心位を保ち得る聖者なればこそという条件を満たすものだ。その故に「さまよい歩く猛獣が多く、恐ろしいものが多く、また蚊虻や蛇が多いが、空き家にいる偉大な聖者は、そこで一本の毛髪さえも動かさない」のである。「風が天を裂き、大地を震わせ、一切の生き物が恐れおののくことがあろうとも、たとい胸に向かって槍を投げつけるようなことがあっても、生存の素因のうちにあるものの救護を、諸々のブッダはなさない」とは、無余解脱の心位を表す。即ち彼岸者の心であり、まさしく悟りの境地と一体になった、道の完成を示唆する言葉なのである。
2008年05月25日
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新約聖書で見るイエスの言葉からは、殆ど同じ言葉に重なるように、「神の導きの声として体験される天国への道」と「清浄なる真理の世界への悟りの道」として説かれる天国への道の二種が読み取れる。この中、前者の「神の導きの声として体験される天国への道」については、原始的な宗教に於いて特に顕著であるが、その各々に於いて、極めて多様な脚色が為されているのを見聞することがある。キリスト教に於いても勿論脚色は認められるが、仏教には仏教独自の仕方で脚色されているのが見える。また、この道を完走して天国へ入った者は、そのような宗教家のみではなく、哲学者や芸術家にも見られる。勿論その他にも、何の作品も残さなかった一般人にだって、天国へ入った者は沢山居る筈だ。唯残念ながら、作品などによるその痕跡が殆ど残されていないだけである。新約聖書では、イエスが様々な比喩話を用いて、天国への示唆を語っているが、仏教でも特定の経典がそれを語っている。例えば阿弥陀経などでは、信仰篤き者が死に臨む時、阿弥陀仏が眷族を引き連れて来迎する様が描かれている。これのみならば、冒頭に分別した後者だとも考えられるが、地蔵経などの説と組み合わせれば、前者の道にも重なるのである。また冒頭で「原始的な宗教に於いて特に顕著である」と書いたが、例えば古代エジプトの宗教に関わる『死者の書』なども、本質的には地蔵経などとも重なるところが読み取れる。概して天国に生を受けた者は、悟りの道に入っても歩みが早い。これは、この二つの道が、実には一つの如くであることに基づく。従って、天国に生を受けた者は、イエスならずとも、イエスと同様に、その道を人々に説き示す能力はある。しかし天国者の殆どは、そのようなことをしていない。それは何故かなら、もし人々の為にそれを説き示したとしても、それを信じて天国へ上れる者は極めて少なく、かえって天国へ上れなかった者たちに絶望感を募らせるだけだと思うからであろう。そんな訳で、天国への道は、イエスでさえ比喩で語っているように、殆どの天国者によっても秘されていて、それ故天国へ上れる者は、これほど書物が反乱する現代でも、僅かしかいないのである。勿論私自身も、新約聖書以上に具体的に分かり易く語ることは出来る。しかし上記の理由などから、文書でそれを具体的に書き示すなどということは考えていない。ただ折り有ればそれに関わる聖典などの言葉を、私の流儀で解読した文章を残すぐらいのことはするだろうか。
2008年05月24日
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『仏教聖典』(仏教伝道協会)を読んでみます。『貪りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。』『瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。』貪りも瞋りも、共に、「気に入らないもの」との関わりに於いて、「正しくない考え」が関わるということだ。「気に入らないもの」には、関係を取り込むことによって、身の存続に不利が生ずるもの、不快感を増長するものなど、様々なものが考えられる。「正しくない考え」には、関係項に執着を増長させるような見解が含まれることなどが考えられる。この故に「正しくない考え」は、「気に入らないもの」を見る時の、物の見方にも関わってくる、迷いと悟りの心位について云われていることが解る。従ってこの経文は、「正しい見解」を以て、「気に入らないもの」を再考することを通じて、「気に入らなかったもの」との正しい関係を悟ることが出来るという諭しの説法と見ることができるであろう。『愚かさは、その無知のために、為さねばならないことと、為してはならないこととを知らないことである。』ここに於ける「無知」とは、人の無明の根を悟っていないが故に、妄執の因を作る業を指すものと云える。この故に「知もまた空なり」と観じて、妄執の因を断つこと。これを「為さねばならないこと」と知り、無明に基づく妄執の行いを「為してはならないこと」と知らねばならないと諭しているのである。
2008年05月23日
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今朝庭に咲いていました。今日はどんよりと曇った小雨交じりの一日になりそうです。でも可憐な花を見ていると、心が和みますね。
2008年05月22日
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『仏教聖典』(仏教伝道協会)を読んでみます。『道を歩いていて足に棘が刺さり、疼きの中から、疼きを覚えるのは、もともと定まった心があるのではなく、縁に触れていろいろの心となるのであって、一つの心も、乱せば醜い煩悩となり、おさめれば美しい悟りとなることを知って、さとりに入った人もある。』道を歩いている時に限らず、手や足に棘が刺さって、痛い経験をした人は幾らでもいるはずだ。しかしそれで悟りを修めるまでに至っただろうか。ほぼ全ての人が否と答えるだろう。そこがこの説法の意外性である。意外性の故に、この説法は注視されるだろう。また注視されることによって、この説法は効力を増すであろう。人はかつて手や足に棘が刺さった記憶を思い起こし、何故自分は、その時悟りに至らなかったのかと反省するかもしれない。それ故、そのように出来事の最中にあっては、唯その出来事の為の心煩いに執われていて、悟心を失っていた場合は、斯かる説法を聞いて、普段の心掛けの大切さを思うべきである。即ち悟心は、全ての迷心に寄り添うが如くに保つべきであると。
2008年05月22日
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ブッダの『真理のことば(法句経)』を読んでみます。『愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。』『それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。』『愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。』『愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生じる。愛情を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。』これは誰にでも分かる説法ですね。何の解説の要もありません。でも、こうして喜びや悲しみ、笑いや涙、感動や苦悩を捨てた人生は、何処へ行くのでしょうか。『ことばで説き得ないもの(涅槃)に達しようとする志を起こし、意は満たされ、諸々の愛欲に心を妨げられることのない人は、流れを上る者と呼ばれる。』こういうことなんですね。流れを上った先には、清浄なる彼岸の世界、即ち涅槃の境地があるということです。皆さん、行ってみたいとは思いませんか。一億数千万の人口がひしめく日本、せめて何名かはそういう人も居なくっちゃね。
2008年05月21日
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『仏教聖典』(仏教伝道協会)を読んでみます。『迷いも悟りも心から現れ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現すようなものである。』「すべてのものは心によって作られている」とあるが、単純に「心が作っている」と思うべきではない。心は無明に基づいて、様々な縁を取り込みながら、様々なものを作っていると認識しなくてはならない。この認識に基づくが故の「すべてのものは心によって作られている」であればこそ、心の無明を知り、無明から離れる術を悟ることができるのである。『人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現れ、清らかな心からは清らかな世界が現れるから、外界の変化にも限りがない。』この言葉も、先程述べた「無明から離れる術」を悟ることができていれば、明確にその意味を理解することが出来る。即ち無明に基づいて現れた世界が、「汚れた心からは汚れた世界が現れ」に相応する世界であり、「無明から離れる術」を悟った心に現れる世界が、「清らかな心からは清らかな世界が現れる」に相応する世界だからである。『絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。』即ち既に明かされたが如く、無明に基づく衆生の世界と、無明を離れた仏の世界を分別して明かす言葉である。斯くして衆生の世界は一切が幻有の相であり、仏の世界は一切が真如の相であることが知られる。
2008年05月20日
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ブッダの『真理のことば(ダンマパダ)』を読んでみます。『「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明かな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』一見分かり易い文章のようでいて、実には難解である。それは俗語で語っているように見えて、全体の意味を繋ぐ仏語が秘められているからである。もし全体を俗語として読めば、「一切の形成されたものは苦しみである」と「ひとは苦しみから遠ざかり離れる」は繋がらない。例えば一匹の魚が「我が身体は形成されたものであるから苦しみである」と観たとき、「魚は苦しみから遠ざかり離れる」と表現できる状態とは何か。即ち「魚が魚であることをやめる」ことを意味するであろう。仏典を俗語で読み取る衆生が、よく「死ねば仏」と思い込んでいるのも、このような読み違えと同じである。では仏語はどこに隠されているのかと云えば、「明かな智慧をもって観るとき」の語中である。これを仏智と言う。この仏智は、前後にある言葉の意味を根本的に変格する。即ち意味を滅するのである。例えば「一切の形成されたものは苦しみである」の意味を消滅させる。「形成されたもの」が消滅し、「苦しみ」を苦しむ者が消滅するのであるから、後続の「苦しみから遠ざかり離れる」は本より成就されていて、改めて言葉を繋ぐ意味もない。即ち俗語とは一種の妄語である。もし一切を仏語で読み取れば、妄語の文章には、徹頭徹尾何の意味も無い。それ故「一切は皆苦であるとの明かな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる」とは、悟りの境地に入って、仏界からこの世を眺める時、この世の一切は清浄になり、苦を紡ぎ出すが如き一切の痕跡も消え失せるという意味である。従って文末にある「これこそ人が清らかになる道である」の語によって、仏道に入り、自ら悟りを開くことによってのみ、人は一切苦から解脱することが出来ると云っているのであることも、何の疑念も残さない真実の言葉として納得できるであろう。【日記の為の付記】お解りですか。そうです、大宗教(世界宗教)とは、すべてこのように秘密教なのです。「真理は一言も説いてない」という主張によって、一切が真理を説いていることを表しています。「真理を一言も説いていない」とは、神仏を言葉や形象で示すことが出来ないということにも通じます。神仏は悟り知ることが出来るのみです。「悟り知る」とは「自証」のことです。ところで今回の小論「一切皆苦と道」が読めた時点で自明のことではありますが、宗教の心臓部、即ち秘密にされている部分を悟れた者には、何が出来るようになるでしょうか。聖書の何処かに書いてありましたが、「お前達人間に出来ることなど無に等しいものだ。もし神が望めば、お前達人間は疎か、地球であろうと宇宙であろうと、一切を瞬時に吹き消すことも出来るのだ」というような言葉、読んだことがありますか。つまり今回の小論「一切皆苦と道」が読めた時点で確証される自身の能力というのが、まさしくこの神と同じことが出来るということです。従って山を移動させたり、死人を甦らせたりというイエスの業なども、いと易きことですね。宗教の真理、つまり秘密を読むとはこういうことです。敢えて付記すれば、例えば仏教者を自負する一部の人が「キリスト教は駄目だ」なんて言葉を吐いているのを目撃しますね。悟った者が聞けば、語っている者自身が「俺は駄目だ」と告白しているようなものです。世の中至る所、こんなお笑いで満ちているのですね。
2008年05月19日
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前回に引き続き「天国」の語意を考えてみたいと思う。手元にある別の辞書によると「神・天使などがいて清浄なものとされる天上の理想の世界。キリスト教では信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所をいう。天堂。神の国。転じて、苦難のない楽園。(対)地獄。」などと書かれている。前回の辞書にも付記されていたが、天国の対語として地獄があるのであれば、この世と天国は超越関係ではないということになろうか。即ちこの世で善行に励んだ者は天国へ、対して悪行を重ねた者は地獄へという意味でもあれば、この世と天国地獄は因縁関係にあると云えるだろうからである。この辞書でも「キリスト教では信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所」とある。「神」とは真なるものの代名詞のようなものであるから、この説が真であれば、キリスト教徒に限らず、一切の人間に共通の真でなくてはならない。従って、もし他の宗教ではこれを説いていないと云うなら、他の宗教は無知であると云っているのと同じことになる。ただ、この辞典を見る限り、天国は死後に赴く場所だとは書かれていない。先程も述べたように、「この世と天国地獄は因縁関係にある」のであれば、当然神や天使なども、その因縁の中に姿を現じて、この世にも現れて然るべきであるから、同時に天国地獄のこの世に姿を現じるものと云い得る。では、どのような時に天国は観えるのかという問題だが、残念ながらこの辞書には、漠然とした一つの場合しか述べられてはいない。即ち「信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所」である。この言葉から推理出来るのは、「正しい信仰に励む者の目には、その因に基づいて、天国が観得るようになる」という意味のみであろう。併しこう語ると、「では天国って、信仰心が昂じて観る妄想のようなものか」と思う向きもあるかもしれない。しかしそれは早計である。寧ろこの世の一切が妄想のようなものであり、それらが凡て滅する時に観える世界が天国だという意味に取るべきだろうからである。
2008年05月18日
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世間ではよく「あの人は天国に召された」というような表現を使います。こういう時の「天国」には、どんな意味があるでしょうか。手元の辞書には「キリスト教で神の居る理想の世界。死者の霊がここに迎えられる。幸福の楽園。」と書かれています。「キリスト教で」と限定されているのが可笑しいところで、キリスト教の教義内でのみ天国が存在すると解釈するなら、天国はキリスト教の妄想ということになってしまう。そこがこの限定の可笑しいところなのだ。次に「死者の霊がここに迎えられる」とあるが、天国が「神の居る理想の世界」なら、この世は神も居ないし理想の持てない世界ということだろうか。そして死者の霊が「幸福の楽園」に入れるとの説明は、「死者の霊」とは何かという難問に答えが出ているのでなくては書き得ない言葉ではないのだろうか。従って、この辞書の説明からすれば、肉体が死滅しても、霊魂は死ぬことなく天国に入って幸福を味わい続けるという認識に辿り着く。仮にそのような霊魂が有ったとして、幸福感というものは肉体の機能でもある五感によって味わえるものではないだろうか。また幸福であるか否かは、一つの認識行為でもあろう。従って肉体の機能でもある認識力を失った霊魂が、どのようにして幸福感と共に在ることが出来るだろうか。「天国」とは、もとより悟りの境地を示す為の方便語であろうが、衆生界に響く言葉として読んでみれば、斯くも矛盾に満ちた響きを醸し出すのである。
2008年05月17日
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ブッダの『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』を読んでみます。『明かな智慧のある人が友達として付き合ってはならないのは、信仰心なく、物惜しみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。』『明かな智慧のある人が友達として付き合うべき人々は、信仰心があり、気持のよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。』『悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。善い人と交われ。』誰にでも明らかに「付き合えない人」というのが見える筈だ。「類は友を呼ぶ」という諺もあるように、逆に付き合っていても害が及ぶだけという人物も居るわけです。つまり悪人から見れば、善人と付き合っていても、常に行いを咎められるだけで、欲する利を求められなくなると思うだろうし、善人から見れば、悪人から共に利を求めようと誘われる行為が、心を汚して不愉快に思われるだろう。清らかな聖者の道を歩む者にとって、煩悩の汚れを喜びとする俗欲の人々は、常に否定されるべき道にあるのだから、勿論友とすることはできない。「信仰心なく」と書かれている意味は、「菩提心無く」という意味であって、例えば何処かの宗教団体に所属している信者なら可というような意味では更々無い。何処かの信者であるか否かに拘わらず、「物惜しみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々」であれば、信仰心など無いのである。「善い友」は常々善い言葉を語り、煩悩を断って、悪い行いを制しているものである。それ故「善い友」と交われば、心を直くして、日々軽やかで楽しく、悔いることのない付き合いが出来るのである。これに対し「悪い友」というものは、常々悪い企みを語り、欲望が満たされる計略を案じて、煩悩の業の悪縁へと友の力も借り行かんとする。この故に「悪い友」と交われば、心は常に企みの日陰に潜り、日々欲望の成就を狙って悶々と過ごし、他人の破滅をこそ喜びつつ、終には悔いのみを蓄積させる人生へと堕ちかねないのである。
2008年05月16日
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『ブッダのことば(スッタニパータ)』を読んでみます。『親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者の悟りである。』『すでに生じた煩悩の芽を断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる煩悩を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を聖者と名付ける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。』悟りに向かって歩む時には、道を照らす灯りが必要である。この灯りを正しく見ることが出来たなら、この灯りが来る先は真如仏の在所である。真如仏の在所には家の生活も無く、また煩悩の生ずる因も無い。この故に家の生活を離れ、煩悩を断って独り歩む者を、聖者と名付けると云われているのである。「かの大仙人は平安の境地を見たのである」とは、斯かる聖者の如きを指す。真如仏を自心に加持して保つが故に、平安の境地なのである。
2008年05月15日
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ブッダの『真理の言葉(法句経)』に、次のような一対の句があります。『悪いことをした人は、この世で憂い、来世でも憂い、ふたつの所で共に憂う。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂い、悩む。』『善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつの所で共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。』ここで述べられている「悪いこと」には、読む人それぞれの心位に基づいて異なる見解があろうかとは思いますが、ここは菩提心に制御されていない汚れた心、即ち諸々の煩悩諸欲に支配された心で行う行為のことと読み取ってみたいと思います。煩悩諸欲に支配された心であれば、その心自身が既に果を欲しているように、汚れた行いには汚れた果が付き従います。この汚れた果を、来世のこととして語っているので、「この世で憂い」の語には、「自分の行為が汚れているのを見て、憂い、悩む」の語が適用されますが、この語を「来世でも憂い」に当てはめるなら、「自分の行為が汚れていたのを思い起こして、憂い、悩む」という過去形に読むことで通用するようです。この読み方に従えば、「善いこと」の意味は、自ずから「菩提心に沿った浄らかな行い」という意味になります。浄やから行いには浄らかな果が付き従う訳ですから、「この世で喜び、来世でも喜ぶ」と表現されていることが理解できます。この「善いこと」には、心を浄らかにして、浄らかな言葉を語り、浄らかな心に沿った行いをすることが含まれます。「浄らかな言葉」といえば、先ずその筆頭に挙げられるのが、仏典の言葉でしょうか。通り掛かりに見る寺の門前などに、「写経会」と書いた看板などを目にすることがあります。この写経にも功徳があると云われていますが、勿論浄らかな言葉を自他に伝え広めることにも通じるので、そのように云われるのも当然ですね。またウエブ界を廻っていても、時折は仏教経典の文章を引用転載しているサイトに出会えます。これを語れば、今私が現に書いているこの文章も、やはりそれに類するものの一つに区分けされることになりますが、勿論そのようなサイトの文面もまた、一種の写経に相応するものと捉えることも出来ます。従ってそれらも今語る「善い行い」の一つに数えてよいのではないかと思い、そういうサイトが増えてくるのを喜ばしいことの一つと考えています。中には、「そういう説教じみたことを語る偉ぶったサイトは面白くない」などと思う向きもあるかも知れません。しかしそれがその人にとっては説教になるとしても、説教しているのはブッダであって、写経している人ではなく、従って写経している人もまた、その写経を通してブッダの説教を受けている一人なのですから、たとえ写経時には様々な無明の心が纏わり付いての写経であったとしても、それらの無明はその写経行為を通して徐々に浄化されてゆくべきものですから、やはり凡てを善いように取っておきたいものですね。
2008年05月14日
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ブッダの『真理の言葉(法句経)』を読んでいます。『屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。』『屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。』ゴータマ・ブッダは三十五歳で悟りを啓いてから八十歳で入滅するまで、各地を廻って法を説いていたことになりますが、それ故様々な心位の人々を対象に説いた訳ですから、こんなふうに誰にでも分かる易しい言葉で語った法も沢山あるのですね。ここでは屋根に喩えて心を説いていますが、雨は煩悩に相応するものですね。ここでは情欲をそれに充ててあります。「屋根を葺く」という表現で、心に菩提心を持する道が暗に示されています。菩提心に量って煩悩が心に侵入することを監視して阻止すべしという示唆になるかと思います。欲情などの煩悩は、心を無監視にしていると、その隙を狙って素早く侵入し、心を支配してしまおうとするものですね。どんな時にも正しく心を監視出来るよう、日頃からの修養を心掛けたいものです。
2008年05月13日
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ブッダの『真理の言葉(法句経)』を読んでいます。『この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感覚を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。---弱い樹木が風に倒されるように。』『この世のものを不浄であると思いなして暮らし、感覚をよく制御し、食事の節度を知り、信念あり、勤め励む者は、悪魔にうちひしがれない。---岩山が風にゆるがないように。』つい最近のことだが、仏教を捨てて他の宗教に走ったと嘯く者が、「感覚を制御して暮らしても、制御せずに暮らしても、所詮は生きるために似たような事をするのだから、違いがあったとしても、どんぐりの背比べみたいなものさ。こんなつまらない説法をする宗教の、どこが良いのか」なんて批判をしているのを聞いた。哀れ、この心が既に悪魔にうちひしがれた境界に堕ちていることを表しているのである。この世の物事の一切は、多くの因と縁に繋がれて生じているものだから、例えば幻影が清浄な空間を汚しているのと同じように、それらを浄らかだとは云えない。それ故感覚をよく制御し、悪い因縁を取り込まないように注意しなくてはならないのである。「食事の節度を知る」とは、このことである。このように「善い生き方」と「悪い生き方」の別があるという信念を持ち、勤め励む先には、清浄な真如法界が開けてくるのであり、この真如法界中には悪魔の侵入する余地もないので、ついには「悪魔にうちひしがれない」ところの境地に達することが出来ると説かれているのである。
2008年05月12日
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『百喩経』に『婆羅門が子を殺した喩え』という話がある。『或る婆羅門が世に頭角を現そうと望んで、他国へ出向き、子供を抱いて哭泣した。或る人が「あなたは何故泣いているのか」と彼に訊ねた。婆羅門は「この子はあと七日すると死ぬのです。若死にするのが哀れで、泣いているのです」と答えた。また「人の寿命は予知できないもの。七日経っても死なないかも知れないではないですか。なのに何故今から泣くのですか」と窘められると、婆羅門は「私の予言が外れたことはありません」と云った。その七日後、婆羅門は、自説を証明する為に、我が子を殺した。世の人々は、婆羅門の予言通り、その子が死んだと知り、「まことの智者だ。予言は間違いではなかった」と感嘆し、信服を寄せるようになった。』どこかの新興宗教でも、これと似たような出来事があったと思う人も居るでしょうか。それを思うと、ちょっと怖い話ですね。
2008年05月11日
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『百喩経』に『鋤で頭を打つ喩え』という話があります。『その愚か者の頭には、毛髪が無かった。あるとき、人が鋤で彼の頭を二度三度と叩いた。頭に傷ができても、彼は黙ってされるがままだった。傍らの人が「なぜ逃げようともせず、打たれるままに頭を割られているのか」と訊くと、彼は「奴は思い上がった力自慢の智慧無しなのさ。私の頭に髪がないので、石だと思って鋤で叩き割ろうとしているのですよ」と答えた。』『僧たちも同じである。信と戒と聞法を一つ一つ修めることも出来ないのに、ただ外見だけを整えて、それによって供養をせしめているなら、このような僧は、あの愚か者が頭を打たれても逃げないで、傷まで負いながら、他人を阿呆だと言って批判するのと同様である。』人の見解というものは、概して自己中心であり、他者の見解に己のものとの異なりを見るが故に、それを非と思いがちである。所以は彼岸智無きが故に、迷界を脱し得ないからである。「信と戒と聞法を一つ一つ修めることも出来ないのに」との指摘を検討し、信を保って精進し、菩提心に誓って戒を修め、聞法を智慧の糧に変えつつ、仏弟子に相応しい人格形成に到りたいものである。
2008年05月11日
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『百喩経』に『他人を兄と認める喩え』という話がある。『昔、端正な姿で智慧もあり、富もあり、人々からも讃えられている人物がいた。それを聞いた一人の愚人が、「彼は私の兄だ」と言った。その後、彼の人物が負債の返済に追われていると聞き、愚人は「彼は兄ではない」と言いだした。人々に真相を問われた愚か者は、「最初は彼の財産が目当てで兄と言ったまでだが、本当は兄でない。だから負債があると聞いたので、兄ではないと言ったまでだ」と嘯き、周りの嘲笑を買った。』『あの外道も同じである。仏の善き言葉を聞き、それを己の説の如くに盗用し、且つ傍らの人に修行させるが、自らは修行しない。而も曰く「我が利益の為に仏の言葉を利用し、衆生を化道しているが、実には我が思想ではないので、どうして修行などする必要があるだろうか」と。実にこれは、あの愚者が、財の為に兄と言い、負債が生じると兄ではないと言ったのと同じである。』例えば一人の僧があり、信徒には戒を授けて我が利を図り、自らは戒を守らず煩悩諸欲を喜ぶが如きであれば、実に彼の愚者と大差無しと云える。勿論独り僧のみに非ず、仏法を求め、悟りを求める者はすべて、心に菩提心を秘め、菩提心に適うが如く、戒は自他平等の実践と心得なくてはなるまい。
2008年05月10日
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『百喩経』に『喉が渇いた者が水を見た喩え』という話がある。『ひどい喉の渇きを覚えた愚か者が、炎天下の陽炎を見て水だと思い、それを追って走り続けた。どこまでも陽炎を追ううちに、ついに大河へ辿り着いた。ところが彼は、あれほど求めていた水なのに、見つめるばかりで飲もうとしない。傍らの人が「渇きに患って求めていた水に、今辿り着いたというのに、なぜ飲まないのか」と訊いたとき、愚か者は「君が飲み尽くせばよい。私には、この水は多すぎて飲み尽くせない。だから飲まないのだ」と答えたので、周りの者はこれを聞いて、みな嘲笑した。』『これは外道がものの道理を曲解するようなものである。仏の戒めが守れそうにないと言って受け入れず、そのため将来、悟りを得られないで生死の世界に流転することになる。』斯く云う私も又つい最近、この愚か者に似た発言をする者に出会ったことがある。彼の者は「煩悩を捨てる等々の修行は人間に不可能だ。だからそんな説法をする仏教は捨てて、別の宗教を信じることにしたのだ」などと言う。この話の愚者と全く同じである。そんな心構えでは、どんな宗教に走ろうとも、滅びの迷界を脱することが出来ないことに変わりはない。ここで語られる大河とは、菩提心が保って宝玉と為す真理の法界を指す言葉でもある。勿論一切の煩悩を一気に浄めるが如き観法も持てるが、状況に応じ、自らの思いに応じて、その個々について浄めることも出来るのである。
2008年05月09日
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ブッダの『真理の言葉(法句経)』を読んでいます。『「彼は私を罵った。」「彼は私を害した。」「彼は私に打ち勝った。」「彼は私から奪い取った。」などとの思いをいだく人には、ついに怨みが止むことはない。』『「彼は私を罵った。」「彼は私を害した。」「彼は私に打ち勝った。」「彼は私から奪い取った。」などとの思いをいだかない人には、怨みが止む。』『怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。』人を世の有為に繋ぎ止める感情にも、善あり悪ありですが、まさに怨みは重苦しく破壊的な感情だと思います。世には様々な幽霊譚が語り伝えられています。幽霊話の多くは、人の怨念に基づく復讐劇です。つまり怨みの心とは、ついには己を世から抹殺することになってさえ、憎む相手に報復したいという執念へと発展するという、恐ろしい現実性を孕んだ感情ということでしょうか。現に時々報道される、動機不明な行きずり殺人や無差別殺人など、このような暴漢の心の底には、やはり蓄積された恨み辛みが、行き場を求めて、ついに暴発したというような現実性が有るのかもしれません。現実に生じる一切事は、主なく客なしの因縁処生だと観ずれば、怨みの感情もまた主なく客なしの因縁処生と観じて、一切の怨念感情を洗い流すことも出来るわけです。怨みという汚れた感情を捨てて、常に清らかな心情を保ちつつ、悪夢を呼び込む因を滅した、爽やかな人生を歩みたいものです。
2008年05月08日
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『百喩経』に『道案内人を殺して天に供える喩え』という話があります。『商人たちが或る未知の国へ行くために、案内人を雇って出発した。やがて広野の中で、天神を祀る祠にさしかかった。そこを通過するためには、誰かを生け贄に供えなければならない。商人たちは、「親族でもある我々仲間を失うわけにはいかない」と協議した結果、案内人を生け贄に供えた。しかし案内人を失った商人たちは、道に迷った末、ついに疲れ果てて、みんな死んでしまった。』誰しも道を歩く時は、眼を開けて道を確認して歩きます。もし眼が不自由であれば、杖などで道を確かめつつ歩きます。人生を迷わずに歩くために、人は覚りの明かりを求めつつ歩きます。覚りの明かりを持つ心を菩提心と言います。菩提心を失えば、道に迷った商人のように、自分たちが今どこへ向かって歩いているのかも分からなくなって、ついには行き倒れてしまいます。そこでこの法話は、次のように締めくくってあります。『法の海に入って珍しい宝を手に入れようとするなら、善法に従って修行し、それを道案内としなければならない。善法を破れば、生死の広野から脱出することはできず、三途を経めぐって、限りなく長い苦しみを受けるのである。ちょうど、あの商人たちが案内人を殺したために、行くべき道を失い、ついに疲れ果てて死んでしまったのと同じである。』
2008年05月07日
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『百喩経』に『黒砂糖を煮る喩え』というのがあります。「百喩経」ですから、百の比喩話を作って、法話を説いているのですね。『愚か者が、たまたま訪ねてきた富貴の人をもてなそうと思って、黒砂糖の飲み物を作り始めます。黒砂糖に水を加えて火にかけ、火にかけたまま団扇で扇いで冷やそうとします。傍らに居た人に、「下の火を止めないで、扇いでばかりいても、冷えるわけがないだろう」と嘲笑されました。』まさか、実際にこの話の通りに行う者が居たわけではないだろうし、また居るとも思えないけれど、悟りを求める修行者の中には、これに似た錯誤に陥っている者も居るという指摘のようです。『燃え盛る煩悩の火を消さないで、少しばかり苦行をし、いばらの棘の上に臥せたり、五熱に身を炙ったりして、清浄の悟りを得ようと望んでも、出来るわけがない。智者の失笑をかうばかりか、此の世で苦しみを受け、来世にもわざわいが続くだろう。』釈迦にこのような批判を受けたとしても、勿論その修行者にもまた反論は有って然るべきだ。ただ釈迦は、このような修行法が無際限の道であることを指摘しているものと考えられる。菩提の智を修行の根に置くのが仏道であれば、先ずは智に基づいて煩悩の火を消せという示唆だと読み取りたい。
2008年05月06日
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『百喩経』に『愚人が塩を食べた話』というのがあります。もてなしてもらった食べ物の味が薄いからと、塩を加えてもらって満足した愚者が、塩が美味いのだと考え、塩だけを食べて難渋したという話です。この話の意義として、次のような結尾文が書かれています。『外道は「飲食を節すれば、悟りを得ることができる」と聞いて、七日間も十五日間も断食するが、いたずらに飢え苦しむばかりで、悟りには役立たない。」』現代でも、どこかで断食修行は行われているかと思うのだけど、修行中の当人は、断食にどのような意義を観ているのでしょうか。例えば「断食抗議」というようなものなら、時々ニュースなどで伝えられます。この場合は、当人たちが悟りを求めているわけではないと考えていたのですが、現実にはどうなのでしょうか。また、断食と悟りを結び付けて修行している人たちの中には、自らの心身を捨て去るという思いに基づいて、その実践の一環として断食している場合もあると思います。でも、この思いと実践は矛盾していて意義がないという指摘なのかもしれませんね。普通に飲食生活を営む中で、心身への執着を断てという示唆を含んでの、「断食は、いたずらに飢え苦しむばかりで、悟りには役立たない」の発言なのかなとも思われます。
2008年05月05日
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新約聖書の『マタイによる福音書』に、次のような話があります。『イエスとその弟子たちが、舟で湖を渡っているとき、突然激しい嵐になり、舟が沈みそうになりました。でもイエスは静かに眠っていたのです。弟子たちはイエスを起こし、「助けて下さい、溺れそうです」と言いました。イエスは「なぜ怖がるのか、信仰心の薄い者たちよ」とたしなめてから、嵐と湖を叱ると、嵐は静まった。』台風や地震などの天災は、私たちの生活を脅かす怖いものですね。私たちの能力では、現実に起こる天災を静めることはできません。でもそれを怖れたり怖れなかったりすることは、私たちの能力範囲にあることです。つまり嵐を静めることは出来なくても、怖れる心を静めることは出来るということですね。どんな出来事に遭遇しても、常に平常心で居られるような人間に成りたいと願い努めるなら、それは可能なのだという教えが、この話には含まれているのかも知れませんね。
2008年05月04日
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『仏教聖典』に「仏のたとえ」と題する文節があります。典拠は『雑宝蔵経』の中の「棄老国ノ縁」と題された経典です。内容は、日本国内でも「姥棄て山」などの題で民話になり、よく知られたものです。問い『眠っているものに対しては覚めていると言われ、覚めているものに対しては眠っていると言われるのは誰であるか。』答え『それは、いま道を修行している人のことである。道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めていると言われる。既に道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っていると言われる。』何だか、なぞなぞ遊びのような話ですね。もしかしたら、なぞなぞのルーツは、こんな所にあるのかな、なんて思ってしまいました。面白いですね。問い『大きな象の重さはどうして量るか。』答え『象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せ、その石の重さを量ればよい。』という問答。更には、問い『ここに真四角な栴檀の板がある。この板はどちらが根の方であったか。』答え『水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈むので分かる。』というような、数学的或いは科学的な知恵を授けるようなもの。問い『ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。どうしてその母子を見分けるか。』答え『草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。』という、情愛関係の観察眼を教えるようなものまで、話題の領域も広い。この最後に引用した母子の馬の話などは、人間の実の親子を見抜く話へと話題を変えて、大岡越前だったかの裁きの話にも利用されていたのを思い出す人が多いのではないでしょうか。で、この経典が語られた目的は? 示される知識の有用性に掛けて、人生の先輩たる老人を敬い、大切にする心を諭しているのでしょうね。
2008年05月03日
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『仏教聖典』に次のような話があります。師には仏の智慧の他に、幾らかは財産も有ったのだろう。常々弟子に向かって、「私の法の相続者にはなっても、財の相続者にはなるな」と言っていた。ある時師は食を得、食に満ち足りていた。そこへ飢えた二人の弟子がやって来た。師「君らもし望むなら、これを食べなさい。もし食べないなら、私はこれを棄てようと思う」と。一人の弟子は、師の言葉を思い出し、「この食も一つの財である。私はこの財を受けず、法のごとく飢え渇いた身をもって、この一昼夜を過ごそう」と思い、その食を口にしなかった。しかしもう一人の弟子は、「師は残った食を棄てると言われた。それなら私は、その食を口にして飢渇を癒し、疲れを休めて、この一昼夜を過ごそう」と思い、その食を口にした。つまり、何れの弟子の判断が善いのかという話なのだが、私たち現代人の多くは、後者を善しと考えそうに思われる。まだ活用出来る物を棄てるのは、財物を無駄にして良くないと思われるだろうからだ。しかし師は、初めの弟子の判断を善いと称えた。所以は「小欲、知足、精勤を養う」からだと言う。確かに仏道なら前者を取るべきとの納得はできるけれど、はてさて、現実にこのような状況に直面した場合、私たちは何れの判断に従うだろうか。誰も答えたくはない問題のようですね(笑)。
2008年05月02日
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もし山歩きをしていて、熊に襲われても、「南無観世音菩薩」と称えれば助かるのですね。もし山頂の崖から足を滑らせて、真っ逆さまに転げ落ちたとしても、一心に「南無観世音菩薩」と称えれば、きっと助かるわけです。もし温和しい小中学生などが、乱暴者から虐めを受けたとしても、ひたすらに「南無観世音菩薩」と称えれば、少しも被害を受けることがないのです。「そんな馬鹿な!」と思うでしょうか。『法華経』の「観世音菩薩普門品」に書いてあります。『善男子よ、どんな苦悩を受けても、観世音菩薩の名を聞いて、一心に名を称えれば、その苦を免れる。たとえ大火に入っても、焼けることがない。もし刃物や棒で襲われても、刃物や棒は砕け散り、被害を受けることがない』というようなことが詳細に説かれているのです。どうでしょうか。まさか経典に嘘は書いていないでしょうから、ここに言う「助かる」とは、どういうことなのか、とくと考えてみたいものですね。勿論私は信じますが、あなたはどうですか?
2008年05月01日
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