2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全5件 (5件中 1-5件目)
1
小さな箱の上には阪神電車が走っていて。演奏の合間にもゴトトトトンと音がする。最後が静かに終わる曲でも、ゴトトトトンと音がする。途中ボーカルが延々とプードルの話をする。猟の時水に落ちた獲物を捕りに行く犬だったそうだ。お腹の毛は水に浮くように無くなったとか。毛が無くなると水に浮くのか? 水辺の猟以外には役に立たないのか? ボーカルは次にナウマンゾウの話を始めようとしてギターに止められた。 中休みの時、隣の女二人組が文庫本を取り出して何やら話してる。『リヴァイアサン』『偶然の音楽』オースター、ポール・オースター! それがどうした。『孤独の発明』『シティ・オブ・グラス』の方がいいよという言葉を飲み込みこちらも暇だから本を取り出す。気の利いた事でも書いてればいいが。「父は桶と箒と雑巾とそれから小さな鏝(こて)を抱えて出掛けてく。鏝はうんこのためで、それですくっておがくずの上に放り出す。彼ほどの教育を受けた人間にとってこれは最大の屈辱だった。うんこはいくらとってもいつも増えるばかりで、しかもよそよりもうちの前にずっと多く、一面にあった。明らかに陰謀だった。 メオンは父が犬の糞の仲でもがいているのを二階の窓から眺めて歯を見せてほくそ笑んでた。これで一日じゅう楽しむつもりで。近所の連中が集まってうんこの数をかぞえる。 とても全部はとりきれまいと連中は賭までしてた。」オースターはこんなこと書かない。隣の別の女は楳図かずおの文庫を開き・・・これは別の場所。 ブコウスキー-ヘンリー・ミラー-セリーヌと無事さかのぼれた。セリーヌは心配したほど読み辛くなく、ヘンリー・ミラーと違い長ったらしい抽象論が挟まることもなく楽しめた。≪さあレオニーヌ!・・・・・・こらえるんじゃない!・・・・・・おれがついてるぞ・・・・・・掴まえててやるからな≫そのとき女房は急に頭を風の方向にふり向ける・・・・・・ごぼりと口を溢れたグラタンがまともにぼくの顔にぶっかかる・・・・・・えんどう豆やトマトが開けた口に飛び込む・・・・・・もうこっちはとうに吐くものもないのに!・・・・・・とろこがそいつがまたやって来た・・・・・・どうもその気配がした・・・・・・はらわたがえずいた。それ、頑張れ!・・・・・・それ、くるぞ!・・・・・・怒濤のようなやつが舌めがけて飛び出してくる・・・・・・ぼくは女房の方に向きを変える、口一杯に臓物を含んで・・・・・・手探りで近づく・・・・・・二人ともゆっくり這い寄る・・・・・・掴み合う・・・・・・這いつくばったまま、抱き合う・・・・・・そしてぶっかけ合う。パパと相手の亭主が二人を分けようとする・・・・・足を引っぱって・・・・・・彼らには何がなんだか分らない・・・・・・ ・・・・・・ばかりなのでページ数の割にはすらすら読めるのだが、書き写すには面倒だ。 罵声を喚き立て、オナニーをし、そこら中から怒りを買い、セックスをし、人に迷惑ばかりかけ、借金をし、周囲で人が死に・・・・・・そんなことばかりの話だ。実際のセリーヌの少年時代はこのようなものではない。にもかかわらずその悪罵の多さから真実にしか見えない。少なくとも、どのような少年時代であれ、心中は常に世の中への罵詈讒謗に溢れ返っていたと見える。それが作品に結実するとあまり不愉快にもならず読めるのは不思議だ。「永久運動機関が確かなものだと証明するにはそれを見届けるものも永久の存在であらねばならない」言われてみればもっともだ。 ──ちょっと! ちょっと! と彼女は反撃した・・・・・・よく聞こえなかったけど・・・・・・なんですって?・・・・・・彼女は相手の鼻先に詰め寄った・・・・・・今なんて言ったの?・・・・・・彼を殺したのは私だって?・・・・・・あんた酔っぱらってるの?・・・・・・ああ! この恥知らず!・・・・・・それともあんたたちはみんな気がふれてんじゃないの?・・・・・・なあんですって?・・・・・・私が殺したって?・・・・・・あの風来坊を?・・・・・・あのペテン師を? あのろくでなしを?・・・・・・ああ! こりゃあいい!・・・・・・・よく覚えとこうじゃないの!・・・・・・結構な話だねえ!・・・・・・私をさんざん不幸な目に遭わせたあのならず者が!・・・・・・それだけしかしなかったあいつが!・・・・・・私の方なんよ! 聞いてるの?・・・・・・この私の方だ! あいつに年じゅう殺されてたのは!・・・・・・吸血鬼だって? そりゃあいつの方さ!・・・・・・それも一回や二回のこっちゃない!・・・・・・百回でもない! 千回も、一万回も!・・・・・・あんたたちなんかまだ生まれてもいないうちからあいつは毎日私を殺してたんだ!・・・・・・ところがこの私はあいつのために身を粉にして働いて来たんだ!・・・・・・ええ!胃の腑も吐き出すようにして!・・・・・あいつがランジスへぶちこまれないように何周間も食べなかったことだってあるんだ!・・・・・・一生ずっとそうして来たんだ・・・・・・ぶたれ、だまされて!・・・・・・私の方ですよ!やられたのは。一生の間、あのろくでなしのために!・・・・・・あいつを救うために私はなんでもやって来たんだ!・・・・・・なんでも!・・・・・・ 読む前からの予想通り、パゾリーニの映画『乞食(アッカトゥーネ)』がずっと頭に浮かんでいた。「アッカトゥーネ!」という叫びがずっと耳に残っていた。河出文庫 2002年
2003/08/30
コメント(0)
いつ来てもいつでも来ているような気になる球場の外野席では女子高生がパンツ(ティ)を隠すことなく座り、上半身裸の子供達が試合そっちのけでかくれんぼをして走り回り、前の席の老夫婦は日陰を求めていつまでも少しずつ動き続けていた。炎天下の中、常に背後に居座る夫が妻をウチワで扇ぎ続けていた。妻が日傘を差し、風が遮られてもしばらく夫は扇ぎ続けていた。 ひとたび死んでしまえば、たとえ混沌のさなかにあっても、すべては必然的になるようになるものだ。そもそものはじめから、混沌以外の何ものでもなかった──分泌物がぼくを取り囲み、ぼくはそれを鰓を通して呼吸していた。月がたえずおぼろに輝いている下層部はなめらかで豊穣だったが、その上には騒音と不協和音があった。すべての中に、ぼくはすぐさま対立と矛盾を見いだし、現実と空想のあいだに皮肉を、逆説を見てとった。ぼくにとってはぼく自身が最悪の敵だった。せずにすむことで、どうしてもしたいことは何もなかった。何不自由ない子どものころでさえ、ぼくは死にたいと思っていた──あくせくしたところで無意味なことがわかっていたので、早々と降参してしまいたかったのだ。冒頭 小学四年生の頃、ドッジボールをしながら友人にこう言ったことがある。「来年には五年になって、クラブ入って、中学になったら勉強もして、そういうのめんどくさくないか?」面倒も何もその先もまだその先も適当な想像しかしていなかった。ただ時が流れれば勝手に成長して何者かになってしまい、結婚したり子供を産んだりするんだろうと思っていた。友人は何がめんどくさいのか分からない顔をしていた。友人はめんどくさい未来なんて考えたこともなく、早く外野から中の人間を当てて生還したかったのだ。 などといちいち感傷に浸っていたら読み進めていられない。メッセンジャーの働き口を求めて山ほど来る連中を削ぎ落とし蹴散らし時には天国を与えるミラー、一冊の本を書き上げることばかり考えていつまで経っても書き出さないミラー、子供の頃の殺人の思い出を話すミラー。ミラー、ミラー、ミラー。ワギナについての長い考察は退屈だ。仕事も借金もセックスも関係なくなり抽象論が続くとどうでもよくなる。『北回帰線』よりはずいぶん読みやすいな・・・などと思ったのは最初だけだった。それでもいつのまにか慣れていた。 最近の若者らしく車内の迷惑気にせずわめき立てる集団のいる車輌でこの本を読んでいると、彼らのところからペットボトルが転がってきた。からまれでもしたら今読んでる一節を読み聞かせてブンガクのありがたさを解らせてやろう、「そばへ寄らないで、無神論者なんかきらいよ!」~略~そこでぼくは、ひどく恐縮したふりを装い、神をそしるつもりは毛頭なかったこと、ただ死ぬほどこわかったためだということ、などなどさかんに弁解を並べ立て、やさしくなだめるように話しかけながら、腰にまわしていた手を下へすべらせ、彼女の尻をそっとなでた。彼女のほうでもそれを欲していたのだ。彼女は泣きじゃくりながら、自分がどんなに善良なカトリック信者であるか、罪を犯すまいとこれまでどれほど努力してきたか、などについてしゃべりつづけた。おそらく自分の言葉に夢中になっていたためだろう、彼女はぼくのしていることに気付かなかったようだが、それでもぼくが股のあいだに手をさし入れ、神だの、愛だの、礼拝だの、懺悔だの何だの、思いつくかぎりのきれいごとを並べたときには、何かを感じたに違いない──ぼくは指三本を彼女の中に入れ、酔っぱらった糸巻きのようにこねまわしていたからだ。などと思うはずもなく、素直に拾い上げて投げてやるとその瞬間だけ彼らは静まった。 あまり作品の内容に触れない時は、読み終えてから時間が経ってるか、次に読んでる作品にのめり込んでいるか、読んだ端から内容を忘れていたか、もしくはそれら全部だ。そのくせ『北回帰線』と同様に好きになっている。 ぼくらがはじめて別れたとき、この全体という考えにぐいと髪の毛を掴まれたのを覚えている。ぼくと別れるとき、彼女はそうするのが二人の幸福のために必要なのだというふりをした。あるいは、本気でそう信じていたかもしれない。彼女がぼくから逃れようとしていることは、ぼくも心ひそかに知っていたが、臆病なぼくは自分でそれを認めることはできなかったのだ。しかし、たとえしばらくのあいだにもせよ、彼女がぼくなしでやってゆけることがわかったとき、それまで何とか隠そうとしてきた事実が、驚くべき速さで成長しはじめた。それは、ぼくがこれまでに味わった何にも増してつらい経験だったが、またそのために心を癒やされもした。心が完全に空になり、孤独感がもうこれ以上鋭くなり得ない限度にまで達したとき、ぼくはとつぜん感じたのだ。生きつづけてゆくためには、この耐えがたい真実を、個人的不幸の枠を越えた何かもっと大きなものの中に織り込まねばならないことを。ぼくは自分でも気づかぬうちに別の領域へ、もっとも怖ろしい事実でさえ破壊することのできぬ、より強靱でより弾力性のある領域へ、入りこんでしまったのを感じた。ぼくは机の前にすわり、彼女に宛てて手紙を書いた──彼女を失った悲しさのあまり、彼女にまつわる本を、彼女の名を不朽にすべき本を書きはじめる決心をした、という便りを。それは、これまでだれ一人読んだことのないような本になるだろう、とぼくは書いた。そのあとも、ぼくはまるで酔ったようにくだらぬことを書きつらねたが、そのうちふと筆をおき、おれは何だってこんなに嬉しがっているのだろう、といぶかしんでしまった。
2003/08/25
コメント(2)
車に轢かれた鳩を見た。潰れた内臓が飛び出し、タイヤの跡が身体の上を舐めていた。。数十メートル先でまた死んでいる鳩を見た。こちらは跳ね飛ばされたのか、綺麗な身体のまま横たわっていた。しかしすぐにその上を車が通るはずであり、静かな死に顔も跡形もなくなるのだろう。このまま死骸が七つ続けばボードレールの例の詩のようになってしまう。いや、このまま逆戻しで続けば最後には生き返って飛び立つとも思われた。道路脇では仲間の死も見えていなさそうな鳩たちがのんびりと鳴いていた。三匹目の死んだ鳩は現れず、帰る時には死骸が一つ減っていた。坂口安吾――「アンゴウ」伊藤整――「ある女の死」円地文子――「耳瓔珞」北原武夫――「魔に憑かれて」永井龍男――「冬の日」曾野綾子――「只見川」野口冨士男――「なぎの葉考」三枝和子――「野守」八木義
2003/08/16
コメント(0)
川に涼みに行った父が母子連れと会い、水を怖がる幼稚園男児に泳ぎを教えてやったそうだ。突然川底から拾いあげられ身を守るために殻に閉じこもり動かないタニシを「死んでる」と言い張る、メガネをかけたその子共は帰り際父に「携帯電話の番号教えて」とねだったそうな。いつの時代でもいいのどかな風景の中に突然現代が挟まった。 阿部昭随筆選集。 父と子、自分の育った土地、「書くこと」について。息子達への愛情に満ちた視線。ルナール『にんじん』への思い、など、彼の小説群とテーマはさほど変わらない。猫に関する記述が少ないか。「ねえパパ、ちょっと聞くけどさ」 寝る前にまた、れいの息子が私のところへ来て、たずねる。「何だい?」「ボク、大きくなったら戦争に行くんだけどさ、そのとき、おじいちゃんの剣、借りてっていい?」「ああ、いいよ」「おじいちゃんの剣」というのは、私の死んだ父親の遺品である帝国海軍の短剣のことだ。もうさびついて、抜けもしないやつだ。「いいけどさ、どこへ戦争しに行くの?」「うん、ほうぼうへ、ベトナムとか、・・・・・・」「そうか。でも剣だけでだいじょうぶかな?」「ボク、剣のほかに、ちゃんとブーメランも持ってく」 ブーメランというのは、近所のオモチャ屋で二十円で買ってきたプラスチックのブーメランである。「わかった。じゃ、おやすみ」「おやすみ、パパ。あしたまた、二人で戦争の話をしようね」 そう私に約束させて、息子は寝に行った。『子供たちの戦争』より ブーメランの元来の使い方を知っている偉い子供だ、というわけではなくて。 色川武大の書く父親といつも混同する、元海軍の軍人で晩年は無為に過ごしていたと息子には見られている、阿部昭の書く父。作家として(あまり華々しく売れることはなかった作家として)、座業に勤しみ、酒を飲み、海の側で年中過ごす阿部昭。彼が愛おしげに書いた息子達が自分の父を眺める目は、父が祖父を見た時の目と似たものだったろう。ふと自分の口から漏れたなんでもないような一言が父の口癖であり、声の抑揚の調子までそっくりで愕然としたことがある。老軍人と作家の人生はまったく違うものなのに。その調子は同じに見える。 阿部昭と色川武大は二人とも1989年に亡くなった。 書くということが問われるたびに、いつも見落されがちなのは、端的に小説なら小説を書くよろこび、あるいは単純に文章を書きたくなる気分、といったものである。~略~ 私自身にも身に覚えのあることだが、二十くらいの年代には、つねづね「なんらかの形で自分を表現したいものだ」というふうな雲をつかむようなことを思っているものである。だが、実状は「なんらかの形で自分を表現したい」というのと「文章で書きたいことを書く」というのとでは、見かけはともかく、内容はずいぶんへだたりがある。それどころか、この二つの事柄はまったく似て非なるものだ。両者の結果だけ見ても、文章を書きたい人間は別にはたからいわれなくてもいずれ黙って書き出すのに、自分を表現したいなどと曖昧なことをいっている連中はいつまで経っても一行も書きはしないからである。これは、片方の態度が実際的なのに、もう一方のそれは観念的だというのともいささか違うようだ。~略~ それはともかく、私がいぶかるのは「自分を表現する」というようなすこぶる現代風の言いまわしにひそんでいる嘘についてである。ちょっと耳にしただけでも、この言い方にはずいぶん病的なニュアンスがあることがわかる。自分の中にある何かを言葉にしたくてたまらないといいたげなこの言い方には、何をすればいいのかがまるで判っていないための不安や、いらいらした気分や、自信のなさなどが隠されている。つまり、彼(または彼女)は、自分から自分の中に閉じこめられていることを告白しているようなものだ。ところが、書くということは、そんなあやふやな症状とは反対に、きわめて簡単かつ自明のことで、紙と鉛筆さえあればいいわけだから。~略~ 言葉というものは、残念ながら「なんらかの形で自分を表現したい」と思っているような人には向いていないし、同時に、「何かよくわからないあるもの」などを表現するのにも不向きなものである。私は、そんなものは狙ったことがなかったし、今後ともそうである。私は、相変わらず、自分の是非とも書きたい一本の木、一人の女、またそれらが作り上げる一つの場面、一つの瞬間について書くことからはじめたい。そのやりかたが、いつでも私には一番楽しいからであり、それが究極的にはどんなふうに「自分を表現する」ことになっているかは、読者や批評家に聞いてみなければわからないし、もともと私にはどうでもいいことである。『書くということ』より 賛成。阿部昭「父たちの肖像」(講談社文芸文庫)
2003/08/15
コメント(0)
電車の中で、今この本を開けば吐ける、という程度に酔っていた。案の定目的の駅に着くなり安心感からか胃液がこみ上げ、トマトジュースに似ているんだ、やっぱり、と思った。考えてみればあの状況なら古井由吉でなくても吐けた。安易に結びつけるのはよくない。「あまりにも明白な肉体の特徴については、馴れ親しんだ者たちは口にしないものでね」あたり前のようなことを杉尾は答えていた。「親兄弟は、そういうことにはお互いに口も重ければ気も重い。あっさり悟らせてくれるのは行きずりの他人の、弥次みたいなものだろう。しかし教えられないという偶然が、人生、長く続くことはある。とくに知らず識らず周囲の異和感に押されて、恥を分けた人間にだけ密着してきたとしたら。徹底して知っていて徹底して黙っているのは、お互いにまるきり気がついていないのと同じ。はたらきを及ぼすことがあるもので」 実験小説でもあり、恋愛小説でもあり、推理小説でもあるのだ、この作品は。官能小説としては実用的でない。そう思うと6ページ目にあるこの文章も後々の大きな伏線となっているのが分かる。「どうしたい」杉尾は電話のことを思った。「留守中に何かあったのか」「あなたこそ、どうして、黙って出て行くの」「ああ、紙を机の上にまで出しながら、書きおくのを忘れたな」「あたしは、いたじゃないの」と妻は答えた。「六畳のほうで気分が悪くて寝てましたわよ。あなたが大きな声が話しかけるのに返事もしていたじゃありませんか。急に黙りこんで、歩きまわる足音も静かになったと思ったら、すっと玄関のほうに出て、錠の下りる音がするもので、走って行って窓からのぞいたら、いつのまにか着替えて出かけて行く」 ここも。だから後半、追及される度に否定する主人公の過去の記憶があてにならない。 以前200ページほどで読むのを止めた。細切れに読んでいて印象がばらけていた。古井由吉を読み過ぎると危ないと思った時期でもあった。今回初めから読み直し、「ああ読んだ、これは読んだことあるぞ」と、一度読んだことを解っているのにもかかわらず、同じ言葉を何度も繰り返しながら読んだ。以前読んだところを過ぎてもしばらく続いた。実際別の作品で読んだ挿話が控えめに挿入されることもあり、混乱はいや増すばかり。 というほどでもないのだけれど。 はっきりした主人公とその周辺の人間関係からなる話、というのは『白髪の唄』という気がするから、随分曖昧な話ばかり読んできた気がする。が、検索したらそうでもない。日記全文検索機能というのは便利だが、移行に伴いこれも使えなくなる。Lycos日記の利点は全部なくなる。Lycosダイアリー サービス移行のお知らせ。 付箋貼り付けたところを読み返してみれば、笑いがこぼれる。可笑しさあふれる文章を随分と真剣ぶって読んでいたものだ、これならば何も吐くほどのことはない、これならば何も読むのを恐れることは・・・・・・。この文が何よりの証拠、影響を受けすぎている。古井由吉を読み始めてから明らかに文章が変わった。ブコウスキーや深沢七郎で調節してみても、やはり読んだ直後は文体が抜けない。図書館に返す分から気に入った文章を書き写した後などは、なお悪い。抜け出す気さえ抜けている。 この間講談社文芸文庫から出た。私は福武文庫版を持っているのでそれを読んだ。著者近影で古井由吉は随分はしゃいだ様子で笑っている。 最近猫を撫でることが多くなったが、話しかけると、逃げられる。古井由吉「槿」(講談社文芸文庫)
2003/08/05
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1