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ジョン・マルコヴィッチの出ている、映画「二十日鼠と人間」のビデオの前で悩み、面倒くさい気持ちに襲われて結局借りなかったことと、「ビリー・ザ・キッド全仕事」で西部に引き寄せられていたことが伏線。どこで買ったかもらったか覚えてもいないこの本がふと目に入った。 とても、良い。 主人公の少年が歩く姿が見える。子馬に対する気持ちが手に取るように分かる。それを失う場面、感情が吐露されることはない。行動が全てを物語る。百行の心理描写よりも胸を打つ。雨に打たれた後病気で弱る子馬が死ぬのは大人しく馬小屋の中でもいいものだと、多分そうなるだろうとこちらは考える。だが子供はうっかり眠り込み、子馬は外へ彷徨い出て行き、ハゲワシに目玉を啄まれ、全身を食いちぎられ、死ぬ。少年に出来たのはハゲワシ一羽を殴り殺すことだけだ。 情景描写が退屈だなどと思い始めたのはいつ頃からだろう。自然主義は受け付けないなどと思い込み始めたのはいつ頃からだろう。そう思いながら、引き算された文章ばかりの最近の小説に物足りなさを感じていたのは、多分それらに触れた最初の時からだろう。「最近のものは、こういうものだ」とろくに知らないのに決めつけ、その約束事の中で満足していた。だからと言ってその辺りのもの全て否定する気はないけれど。 やっぱいいなあ、スタインベックはいいなあ、こういうのこそ本物だよ、と感嘆の言葉に工夫する気もなくなってしまうほど・・・・・・。 やはり感想は読んだすぐ後に書いた方がいい。土曜読んだものについて火曜に書いても衝動が薄れている。法事の日に、顔も見たことのない遠くの親類が一人亡くなった。アドマイヤグルーヴがまた負けた。虎の貯金が増えた。地震が届かなかった。本の整理を諦めた。古本屋がまた一つ潰れた。「もう行く場所は一つもないよ。海があってそこから先へは行けないのだ。海岸へ行ってみると、自分たちの邪魔をしたからって、海を憎んでいる年寄りが、そこここに何人もいるんだよ」スタインベック「赤い小馬」西川正身 訳(新潮文庫)
2003/05/28
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図書館の中庭には池がある。端の方のベンチに行くと、一番隅のベンチで高校生のカップルの男の方が女のスカートの中に手を突っ込もうとしていた。「イギリス人の患者」の作者の作品の割にはamazonでもbk1でも引っかからない。 国書刊行会で、文学の冒険シリーズでということで初めからそういう期待はしてなかったが、予想通り、全仕事という割には、ビリーの細かい生涯を、ビリーやパット・ギャレットのことをよく知らない人にも分かりやすく書かれているという本ではない。全然ない。私はビリー・ザ・キッドを捕まえたのはワイアット・アープだと思っていた。 ブート・ヒルには四百以上の墓がある。それが 七エーカーの空間を占めている。念入りに作ったゲートがあるが 墓石のあいだを木の枝のようにこんがらがって 通っている道にメイン・ルートはない。 ブート・ヒルの死者のうち、三百はひどい死に方をした 二百は銃で、五十以上がナイフで 列車の下敷きになったのもいる──西部では よく知られた見すごされる殺人のやり方だ。 バーのけんかがもとで脳出血をおこして死んだのもいる 少なくとも住人が鉄条網で死んだ。 ブート・ヒルには女性の墓はふたつしかない その墓地で自殺だとわかっているのはそのふたつだけだ ビリー・ザ・キッドあるいはその周辺の連中の語る言葉、インタビュー、詩、漫画本からの文章だけの抜粋。それらで構成された、「ビリーとはこんな男だった」ということを伝えたがっている、そんなことはちっともわかりゃしない本。 万博の太陽の塔な、ありゃおかしい。
2003/05/25
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近所のコンビニがどんどん潰れていく。 短編集。『張徳義』『鶴』『ガラ・プルセンツォワ』『脱走兵』『可小農園主人』『選択の自由』『赤い岩』。 こういう本もあるので、そういう目も混ぜて読んだ。言われてみれば、と思える箇所に対して同時にそうでもないんじゃ、と思うことしばしば。たとえば 彼らの顔は、ある者は薄暗い電灯に照らされて浮かびあがり、ある者は影の中に沈んでいた。また、ある者は静かな寝息を立て、ある者は大きな鼾をかいていた。カーテンのない大きな窓々のガラスには外から広大な暗黒が迫って、まるで黒い布をむこう側に貼った鏡のように、室内のこの沈鬱な明暗を反映し、並んで寝ている兵隊と、並んで銃架にかかっている銃の林をぼんやりうつしていた。『脱走兵』より この文章は「諜報員経験のある人間が、昔見た情景を思い出して書いた、的確な現場情報把握の描写が出来た文章」とも読めるし、ただの平明な、不寝番の目で順繰りに部屋の中を見渡しただけの文章にも見える。面倒になり、考えることを止めた。 戦場なのだからもう少し緊迫していていいはず、逃げ出している最中なのだから鬼気迫るものが、という先入観で読むと肩透かしを食らう『脱走兵』は面白い。モノクロののんきなロードムービーのよう。戦い始める前に負けているので、流れた血の少なさから気楽になれたのか。島尾敏雄の書いた一連の南島ものに漂っている悲愴感と比べると可笑しくなるくらい違っている。特攻艇に乗る島尾敏雄と、ダイナイマイトを腹にくくりつけて戦車に飛び込む長谷川四郎。どちらも結局突っ込むことはなかった。死ななかった。漠然と一括りにして考えがちな戦争体験というものに対する認識の甘さがよく分かる。人が何万と死ぬということは、一人一人の死が何万と積み重なるということだ。何万という塊が一つ死ぬというわけではない。繋ぎ方が強引。 あとは何を書けばいいのだろう。ロルカやカフカの翻訳を読んだ時のような、鮮烈な印象が少ない。尖った名前とは裏腹ののらりくらりとした小説群だった。 最近変なニュースが多い。某球団が首位を独走してるとか。長谷川四郎「鶴」(講談社文芸文庫 在庫切れ)
2003/05/23
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夢の中の本屋で長谷川四郎訳ヘンリー・ミラー「南回帰線」を買う。最近夢のリアリティが増して来た。昼寝の時は妄想がそのまま夢に繋がる。 二人はアパートの最上階の部屋から階段を伝って下りてきた。どこもかしこも、安くて、ゴキブリが這い回っているような部屋だった。しかし、誰一人として飢え死にする者はいないようだった。ここの住人たちはいつでも大きな鍋で料理を作り、そこかしこに腰を下ろし、煙草を吸い、爪の垢を掃除し、缶ビールを呑み、背の高い青いビンに入った白ワインをみんなで空け、互いにわめき合ったり、笑ったりして、はたまた屁をひり、ゲップをし、痒いところをポリポリやったり、テレビの前でウトウトとやらかしてたりしていた。世界には裕福な人間はそんなに多くはいない。だけど、ここの住人たちは金を持っていなければいないほど、いい暮らしができるようだった。睡眠、清潔なシーツ、食い物、酒、痔疾用軟膏。こんなものさえあればよかった。それに加えて、ここの住人はいつも部屋の扉を少し開けたままにしていた。『いなごのほうがデリケート』より ブコウスキー63歳の時に発表された短編集。相変わらず、主人公の飲んだくれ詩人がセックスしたり競馬やったり殴ったり殴られたりという話が多い。なぜだかとても安心する。 ここまで書いて風呂に入ったら鼻血が出た。流れるままに任せ頭を洗うといつのまにか止まっていた。『みんなバーナデッタのせいだなんていわないけど』という短編のあらすじを説明してみよう。主人公のチナスキーがチンコから血を流している場面から始まり、医者に行く。「なぜこんなことに?」と尋ねる医者にチナスキーは12歳の頃アソコにコーラの瓶を突っ込んで抜けなくなり医者に連れてかれ、その話が町中に知れ渡り以降の人生がぼろぼろになったバーナデッタという女性の生涯を語り始める。それがどうしたと医者。いつまでも怪我の話にならないまま、幸い少し縫うだけで済むチンコをチナスキーは悲鳴をあげながら縫われる。「バーナデッタ。精神病院を退院すると、LAにやってきたんです。カールと出会い、結婚。わたしの詩がとても好きだといってくれました。朗読会のあと、わたしが時速100キロくらいで歩道を車で走ってると、ハンドルさばきが素敵だと誉めてくれました。それから、彼女はおなかが空いたわといい、ハンバーガーとポテトフライを買ってあげるわっていってくれたんで、マクドナルドまで乗っけてったんです。先生、頼みますよ。もっとゆっくり。それか、もっと尖った針でスッスッとやって下さいよ」で、最後は結局彼女に振られた後ガラスの花瓶でナニの気分をおさめようとしたところ、花瓶が割れ、怪我することになる。そんな話だ。大体こんな感じの話がいっぱい詰まった短編集。「あたりマエダのクラッカーだ」という文章からは目を背けた。 この爺さんの74歳の死は少し早い。「糞ったれの慈悲」ヴァローフはつづけた。「それがわれわれだ。糞ったれの慈悲、糞ったれの、糞ったれの、糞ったれの慈悲・・・・・・」「ここで『大鴉が』ってくるぞ」とおれ。「糞ったれの慈悲」ヴァローフはさらにつづけた。「そして、あの大鴉がいまから永久に・・・・・・」 おれは笑っちまった。ヴァローフがおれの笑いに気づいた。奴は壇上からおれを見た。「みなさん」と奴はいった。「今晩、聴衆のみなさんの中に詩人のヘンリー・チナスキー氏がお見えになっています」 会場がすこしざわめいた。来ていた人たちはみんなおれのことを知っていた。「性差別主義者の豚野郎!」「酔っぱらい!」「最低!」おれはまたグビッとビールを呑んだ。「どうぞ、おつづけ下さい、ヴィクターさん」とおれはいった。奴はつづけた。『澱のような哀しみ』より『大鴉』の入った「ポー詩集」はどこだ・・・・・・。読む気もないのに買ってあるのにいざという時見つからない。「現代労働詩集」違う、「一千一秒物語」違う、「詩集 北国 井上靖」なんだこれは。こんなもの持っていた覚えがない。 ところで、今はどうだか知らないが、ウィリアム・バロウズ、ポール・ボウルズ、チャールズ・ブコウスキーはアメリカで3Bと呼ばれ、アメリカのある種の若者にえらく人気があったらしい。「ナンシーとよりを戻したいんだよ。どうしていいか教えてくれ」「男一匹、彼女のアソコを舐めてあげるか、職につくかのどちらかだ」「でも、あんたも働いてないだろッ」「おれを基準にしちゃ駄目だ。そういう過ちを犯す人が多い」『ハリー・アン・ランダース』より ただのろくでなしだ。チャールズ・ブコウスキー「ホット・ウォーター・ミュージック」山西治男 訳(新宿書房)
2003/05/19
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咳の止まらない人が家の外を歩いている。 昔読んだ時は物語の半分程に絡み付いていたように思えた、坂口尚「あっかんべぇ一休」における世阿弥達の挿話は、今確かめるとごく少量のページしか裂かれておらず、言っていることも花伝書からの抜き書きと、現実から飛躍した大袈裟な描写。観阿弥は出てこない。 世阿弥が作り上げたのではなく、父観阿弥に聞かされたことを書き記し、自分でも付け加えた体系的芸術論。申楽について。現代の能とは少し違う。 大体それなりに考えながら生きていれば似たような結論に辿り着くもので、本書に書かれてあるものは能についての専門的なこと以外は、さほど目新しいものではない。これで今更はっとさせられるような人は少し幼いのだろう。二十五(歳の頃) このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり、歳盛りに向ふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来りとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花にめづらしくて、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、かへすがへす主のために仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利は見分くべし。このころの花こそ、初心と申すころなるを、極めたる様に主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直しださめ、名を得たらん人に、ことをこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。 誉め言葉は人を殺す。人が人を誉めるのはいつでも大きな意味があるわけではない。ただなんとなくいいなあと思ったものにも、生涯出会った中で最高のものだと思った時にも人は誉める。誉められた側は「なんとなくいいなあ」と思われた程度でも、自分は世界に名だたるえらい人に対する誉め言葉と同等のものを受け取ったと勘違いし、自分を過大評価し、成長を止め、死ぬ。これほどつまらないことはない。このつまらないことがいたるところで簡単に起こっている。二十四五で誉められたもので八十まで通すつもりの申楽演者がいるものか。何かこちらまで年寄りじみたことを。何度も似たようなことを。 現代語訳がついているのでそちらしか読んでない。 そこで、つまり、この道はただ花が能の生命であるのを、花がなくなってしまったのも知らずに、過去の名声だけを空頼みにしているということは、年寄りのシテ役者の大間違いである。芸の数だけはたくさん学んでも、花とはどういうものかということを知らない者は、あたかも花の咲かない時の草木を集めて見るようなものだ。世間に多い木草の花は、その色あいこそとりどり違っていても、咲く花をおもしろいとながめる心理は、みなそれが同じ美しい花だからだ。自分がこなし得た芸の種類は少なくても、ある一面の花をすっかり究めたような役者は、それがうまいという名声は久しく保てるのであろう。こういうわけだから、当人のおもわくでは、おれはずいぶん花があると思っていても、その花が見物人の目に見える工夫がないようなものは、丁度田舎の花や藪の中の梅などが、見る人もなく無駄に咲き匂っているようなものだ。 観阿弥の語る芸術論は広く一般にも通用するものだ。が、それと同時に、これら観阿弥の中で作り上げられたことごとくは、厳密に言えば観阿弥にしか通用しないものだ。いささか矛盾するが気にしない。世阿弥やその後継者達が教えを守り忠実に稽古に励んだとしても、彼らは観阿弥ではない。観阿弥に出来たことが全て出来るわけではない。さらに言うなら観阿弥とて自分が思う理想の姿を完全に実現出来たのでもないだろう。こう言えば、どれほど役に立ちそうなことが書かれた指南書も無意味に等しいという結論に達してしまいそうだが、そうではなく、結局自分自身に役立つ指針は自分の中で作り上げていくしかなく、そのために参考になるものから部分を盗むのはむしろ率先してすべきことだ。しかしそれはこの本のように、時代やジャンルが自分とはあまり関係のないものの方が良い。近すぎると却って毒される。 この本はいい本だ。世阿弥 編「花伝書」川瀬一馬 校注 現代語訳(講談社文庫)
2003/05/16
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探していたゴーゴリ「死せる魂」下巻しか置いていない紀伊国屋では幼女が投げ飛ばす少女漫画が足元に飛んで来た。母親は何もかもを諦めた表情で娘の落とす本を拾い続けていた。レジで「カヴァーおつけしますか?」という言葉に返事をせず小さく頷いたところで矢場徹吾を思いだし、俄か黙狂装い「死霊 三巻」を受け取った。 講談社文芸文庫版「大いなる日・司令の休暇」とは収録作品が違う。旧版講談社文庫。昭和47年発行。『大いなる日』『鵠沼西海岸』『おふくろ』『孫むすめ』『子供のために』『十年』。 阿部昭と色川武大の父親は似ている。油断しているとどちらの父親の話だったか思い出した時混同する。浮かんだ文章の文体で判断出来ればいいが、読んだ日の遠い色川作品の文章は綺麗に浮かんで来ない。『狂人日記』をあまり日を置かず二回読めたのは何故だったのか。夏、図書館の全集の棚の前の椅子に座る自分が見える。『大いなる日』『鵠沼西海岸』は飛ばし、初物を食らう。いや、『十年』もどこか見覚えがあるような気がする。手元にある阿部昭の本には・・・・・・そろそろ整理しないと何が何処にあるかさっぱりだ。五十音順に並べるのは諦めている。長編漫画を集めることはやめたつもりだが、「ジャイアント」「シュガー」「吼えろペン」、以前には私の部屋になかったスポーツ漫画三作品はまだ長く続くのだろう。面白いから。何のことはない、出版不況など、読者の本棚のスペースも考慮しないでどうでもいい本を出し続ける出版社が悪いのだ。時間と空間は有限だ。 それに僕は、いま読んでみて、この誓約めいた手紙の一字一句も訂正する必要はないと思った。だからいま妻がこれをふりかざして僕を非難するとしたら、おそらく文面のことではないのだろう。言葉の真実というものは、十年やそこらでくさるものではない。それにひきかえ生身の人間は、おそらくその真実に堪えぬくらい弱いものなのだ。彼女はきっと、僕がもう昔のように愛の言葉を口にしなくなったこと、もうおおっぴらに彼女の唇をもとめたりはしなくなったことをいっているのにちがいなかった。しかし、それは十年いっしょに暮らした夫婦のあいだでは、もはやたやすく起こり得る事柄ではなかった。『十年』より『孫むすめ』のようにですます調の文体は嫌いだが、それも含め、講談社文芸文庫版のいくつかの撰集に漏れていることもあり、あまり粒ぞろいというわけではない。 「いざ書く段になれば、大急ぎで逃げるようにして書いてしまわなくてはやりきれない」(「短い形式」)のである。「しかし」と、彼はつづいて言っていた。「しかし、私はうまく逃げおおせたのだろうか? 私が逃げたのは、住んでいる土地からばかりではない。そんなふうにして、私がいわば生活上にも通ずる窮余の策を用いてすり抜けてきたのが、自明のことではあるが、”戦後”と呼び慣らされているあの一つの大きな時代だった。時代のかがやかしい混乱からも、すばらしい昂奮からも、そのあとに訪れたしらじらしい倦怠からも、人は沢山のことを学んだであろう。私にしてもそれは同じだが、ただ私は私の学び方でまなんだのである。」解説より。「日日の友」と同じく上田三四二 阿部昭が「戦後」を「私は私の学び方でまな」ぶように、私達も「現代」を学ぶ、或いは感じる時は全体にではなくあくまで個人に降りかかってくるものとして感じなければならない。それについてのどうのこうのは、何も考えていないから書けない。
2003/05/13
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かび臭い古本屋のレジにこの本を持っていくと全頭白髪のおじいさんがエロビデオテープを買っていた。1300円だった。『月の光』『日日の友』『川』『窓の眺め』『一日の労苦』。 テレビ会社時代のものより、やはり故郷での話の方がいい。馴染んだ阿部昭の世界に入れる。郷愁感漂う作品を読むこと自体にこちらが懐かしさを感じ、二重に寂しくもなる。これは昔の話なのだ。この作家はもうこの世にいないのだ。 故郷に大きな川を持っている連中のことを、僕はうらやんだことはない。彼等の川は、僕のそれにくらべたら、川幅も水量もとほうもなくゆたかなもので、幼時、彼等の目には、それは海のようにも思えたろう。それでなくても子供の頃には、いろいろなものが嘘みたいに大きく、おっかなく、迫ってくるように見えるものだ。僕はというと、海がすぐそばに手にとるようにあったので、川のほうはこのちっぽけな引地川で満足していた。この引地川は、上流のことは知らないが、とにかく海にそそぐ河口のあたりでも幅二十メートルあるかないかの小さい川だ。 いまのいままで僕は、彼がこんなにも老いぼれてしまったとは想像もしないでいた。血気さかんだった昔の彼の、直立不動の号令や、武道の気合いや、馬糞ひろいのモッコの中身を憑かれたように点検する目つきを忘れかねていた。だから、走って下さい。走って、元気なところを見せて下さい。そういいたかった。 あの頃、僕らはあなたのいうことなら、何でもきき、何でも信じた。馬糞や牛糞をわしづかみにできるものこそ、勇気ある真の少国民である、とあなたがいえば、僕らは信じた。馬糞の拾いかたが少ないといって殴られれば、僕らはもっともだと思った。そうして汗みどろになって掻きあつめた馬や牛の糞を、僕らはあなたの顔になげつけてやってもよかったのに、そうはしなかった。それはまことに貴重なものであり、僕らの遊び場をどんどんけずりとって行く学校菜園の、食べられる植物たちの生長をたすけてくれた。おお、僕らが拾った馬糞牛糞でそだった僕らの痩せた野菜よ! やがてそれをみんなで掘りおこしたとき、あなたは僕らに、一本日本とかぞえながら惜しそうに配給した。そして、自分の分を一貫目二貫目と秤にかけてその大きな包みを僕らに背負わせ、放課後、あなたの家まではこばせた。やっぱり飢えて口数すくないあなたのすすけた女房やはなたれどもがいる家まで。どちらも『川』から いささか教科書的過ぎるきらいもあるが、これらの言葉は響きやすい。似たような体験を経ずとも、この感覚は分かると、自分にもこれに似たことはあったと錯覚させる。夏の海の思い出や初恋の話やらを語ればたいていの人の共有感覚を引き起こし、それなりに訴えるものが出来あがる。しかしだからこそ不完全なままに手を止めて、安易な作品にしてしまいかねない。嘘が混ざると醒めやすい。酔い潰れながらクダをまく、昔話ばかりが好きな男の繰り言と、阿部昭の短編には大きな差がある。 思い出の中に沈むのは危険だ。良いものも悪いものも思い出してみれば恥ずかしくも懐かしく、底がない。過去を思い返して楽しむことは出来ても過去を生き直すことは出来ない。この当たり前の単純な事実の前から進めなければ人は死ぬ。思い出を懐かしがる自分を懐かしがることはないのだ。何も生まれず、成長が起こらない。久し振りに会った友人と話す昔話に幾つか食い違いが見られ、お互いの思い出が微妙に変貌していることに気付く。どれほど美しい過去も、その程度のものでしかない。しかし過去はあり、美しい思い出を美しい小説として残すことの出来る人もいる。堂堂巡りにケリがつかない。 羽鳥は、その広言どおりに、それを外へ持ち出して思うぞんぶん振りまわすべきだった。自分を切りさいなむかわりに、会社で周囲の連中に切りつけるべきだった。山屋にも、何某にも、誰某にも切りつけるべきだった。いかなる方法でやるにしろ、断乎としてそうすべきだった。じっさい、いまになってはっきりいえることは、羽鳥がその刃物とやらをふりかざして会社の連中の五、六人も<ぶった切って>いたら、彼はこんなところへ来なくて済んだのだ。だのに彼はそれをしなかった。彼にそんなことが出来るはずもなかった。『日日の友』より ケリをつけられない。阿部昭「日日の友」(中公文庫)
2003/05/10
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短編集。『心臓』『酷愛』『先生の下宿』『消えた青年』『夜の水泳』『終の住家へ』『闇の力』『姉弟』『蛇王』 この解説を写せば感想はいらない。 ・・・・・・特に小川氏の短編は、呼んだその場では一体モティーフは何なのか。何を書こうとしたのか、というようなことがうまく呑み込めない。しばらくして、ある場合には十日くらいたってから「あれはよかったなあ」という印象が浮かんでくるのである。つまりその作品が一個の存在として心の内に残って消えないのである。このことは誰にも見える小川氏の小説の特徴のひとつで、それは氏が、描こうとするものをしっかり掴んで、視覚的にもよく見て描いているからである。この力が頭抜けて強いのである。生れつき自分の単語、言語でしか言えないうえに、そのフレイズとフレイズの合わせ目を暈かしこんで滑らかに整えようとする気がなく、裸のまま並べて、それでいいとする潔癖性が、生理的にあるらしい。従って解りにくくなって小説としては損だが私は好きである。彼の一軒筋も話もない、描写だけの短編の意味するものは、或る状況に於ける人間の生まの姿横棒理性でも思考でもなく、その原始的な重い姿の直写ということである。・・・・・・ ・・・・・・画の展覧会などを見ている場合、ある画の前に来て、特別に惹きこまれて敬服するということはないのだが「この画には感じがある」と思うことがある。それはただの直感で、別にハッキリしたことを指摘できるようなものではないし、それを口に出せば感じとして間違いになるのだが、とにかく作者の描こうとしている気持ちがこちらへ快く伝わってくるという気味合である。小川氏の短編の場合にもそれがある。私は彼のある小篇を読んで、彼の描いた鳥は飛んでいる、しかし確かに何者かに両脚をたばね縛られて飛んでいる、というような暗い印象だけを受けたことがある。 解説・藤枝静男。 昭和53年発行。集英社文庫。
2003/05/06
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前を行く仕事帰りの若いサラリーマンが時折激しく横にブレるので酔っ払いかと思ったが、看板や金網を蹴り出した。「くそっ!」と叫んだりもしていた。怒りながらも器物破損を恐れていた。彼は点滅を始めた信号機を見ると「あっ」と軽く呟き、小走りに横断歩道を渡っていった。しっかりとした足どりで。「なにを言ってんのよ。あなたのは十年このかたのことじゃないの。十年このかたの不正がたったの三日間でどれだけのことを証明できますか。たわごとも休み休み言ってちょうだい。だからあなたはにんげんのことに無責任なのです。あなたの仲間があなたのことをどう言っているのか知っていますか。とんまとかうすのろとか言っているのですよ。じぶんの小ささを知らないで、あなたのきたない生活を文学的探求のつもりがきいてあきれるじゃないの。あなたの小説などどれひとつとしてにんげんの真実を描いていないじゃない。うすよごれたことばかりに細密描写をしているだけでしょ。だからいつまでもうだつがあがらないのだわ。それであなたそのときよかったの」「よかった」「ちきしょう」そう言うと妻はがばとふとんの上に起きあがり、目をつりあげた形相で私をにらみつけた。 文学的生活なんてはた迷惑なものでしかなく、そういう言葉で自分を誤魔化せば浮気も遊びも自殺もまるで高尚なものであるかのような、勘違いを起こさせるが、世間には通用せず、身近な者には物狂いを憑かせることにもなり、火が付けば消せず、燻り続け、止まらなくなる。 何度も、何度も、何度も何度も同じような話が繰返される。蒸し返される。妻が夫の過去を追及し始め、夫は耐えきれず狂った振りをし、子供たちが悲しみ、自殺未遂は留められる。猿に似た顔の天下人がそこそこの実力とそこそこの外見だけの地味な主役の男に、長年の友情を忘れたような非道なことをするが、そこそこの男に怒られ、あれは本心ではないと涙ぐむ、いつかの大河ドラマのように。そうして子供に飽きられる。「あなたはあたしたちと別居をしたいといつも言っていたけど、別居してどうするつもりだったの」 ときかれてもうまく答えることができない。はなしがもつれてくると、私はいらいらしてきて昼間の行為を思い出し、物も言わずに立ちあがって障子に頭を突っこんだ。張り替えたばかりの障子は、桟がばらばらにくずれてとび散ったが、私は満足できず、六畳に立って行ってたんすに突進した。しかし今度はどうしてか妻はとめに来ない。崖から突き落とされたように寂しくなるが、そのままやめるのも恰好がつかず、喊声をあげて二度三度突っこむと、頭の地肌がみみずばれになり、血もにじんだようだ。たんすのほうは一向壊れず、頭蓋骨のなかは痛みがひびき合い、耳のそばで破れ鐘を叩かれるようなのでおそろしくなり、畳に両足を投げ出し、いきをととのえたが、たかぶりは少しもおさまらず、そのへんのこわれやすい物を思いきり叩きつけたい荒れた気になっている。それにしても、自分がどこか適当に傷ついて妻があわてるのでなければなどと思い、でも指先のかすり傷ひとつでさえ、すぐ化膿して直りにくい体質だと思いかえすときもちがくずれ、食卓の前でだまって今の愚行を見ていた妻とこどもをうかがうと、伸一父の目をたじろがずに見据え、「おとうさん、きらい」 と言ったあとで、母のほうをムキ、「おとうさんのこと、ぼうや、もうあきちゃった。ほんとのこと、言っちゃった。 とつけ加えた。「文学的行為」も「深刻な自殺未遂」も、子供に飽きられ呆れられれば滑稽な一人芝居でしかない。暗い暗いcryと思いつつ読んでいてもこうして時々笑いもするのでどうにか耐えられる。時々「もういいや」がやってくるが、長編であるだけに、途中で放り出すのも惜しく、後半になり、いくらか繰返しが薄れ状況が転がり出してからは苦しまずに読めた。情が移り、他の作品に手を出しにくくなる。それでいて一向に読書ペースは早まらない。夫の狂いの発作も、自嘲気味で描かれるそれらにこちらも次第に本気で感じ入ることをしなくなっているので、暗さ一辺倒という風な読む前の印象とはやや違ってくる。 今もまだそういう人がいるかどうかは分からないが、いわゆる「文学的生活」とやらが格好いいと思っているような輩には──孤独を好み、家庭を顧みず、友人に蔑まれていても、それは自分には仕方がないという風な、文学者と呼ばれる人たちの悪いところだけを寄せ集めたような──、そのような馬鹿げた迷妄の勘違い宇宙に住んでいるような人には効果のある一冊だ。「想像力」を武器にする人がそれを身近な者へ使えない。幸い島尾敏雄はそのことを作品として書き上げることが出来た。しかし、それを出来ない者の方が多いので、世の中には想像力の貧困により苦しみ続ける人たちがなくなることはない。島尾敏雄「死の棘」(新潮文庫)
2003/05/02
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