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隣家から聞こえる笛の音は「over the rainbow」に変わっている。今度は間違いなく吹き進めているが、リズムが悪い。 誤訳が多くて改訂版を出したそうだ。それでも、「お前の姉ちゃんのオッパイは、ケツからぶら下がってて、クソをたれると便器の水につかっちまう」など、滑らかに罵倒しそうな場面で言葉がぎこちなく、迫力が出ていない。 ブコウスキーの短編集はたいてい、どうでもいい話や、酔っ払いが暴れたり、酒飲んでセックスしたり、アパートの大家に追い出されたり、つらい仕事に就いて辞めたり、弱小野球チームに空飛ぶ男が加入したり、詩の朗読に行ったら気に入らないことが起こったり、など、大体そういう話が多いのだが、この本はその中でも特にどうでもいい話が多く、つまりいつもとあまり変わらない。だから、翻訳者があとがきで「どっかで読んだ話」「焼き直しが多い」だなどと言い訳をする必要もなく、こちらも斬新なブコウスキーを期待して読み始めているわけでもない。わけがない。 どこの親も、かさぶたや血の痕やあざがあっても気にも留めなかった。親たちにとって最悪の、絶対に許せない罪とは、子どもたちがズボンの膝に穴をあけてくることだった。というのも、当時の子どもたちはたった二本しかズボンを持っていなかったからだ。つまり、普段用とよそ行き用だ。だから、絶対にこの二本のズボンの膝に穴をあけてはいけなかった。だって、穴をあけたら、そいつが貧乏でまぬけだって世間にいってることになるし、おまけに、そいつの親まで貧乏でまぬけだっていいふらしてるのに等しかったからだ。そういうわけで、片膝をついてタックルしないゆになったし、タックルされたほうも、片膝をつかないでタックルを受けられるようになった。 喧嘩はやりはじめると、何時間でもぶっ通しでやってたけど、親たちはだれも助けに入らなかった。たぶん、それはおれたちがタフなふりをしていたからで、こっちから親に泣きついたりしなかったし、むしろ親のほうが泣きついてくるのを待っていたんだと思う。でも、親なんて大キライだったから、泣きつくはずもなかった。親がこっちを毛嫌いしていたから、こっちも親を毛嫌いしてたわけで、親たちは玄関口に出てきては、終わりなき血みどろの闘いのまっただ中にいるおれたちに冷たい一瞥を与えるだけだった。親たちはただあくびをして、玄関先に落ちているチラシを拾い、また家の中に入ってしまうだけだった。 おれの喧嘩相手の一人に、そのうちアメリカ海軍で出世してすごい階級まで上り詰めたやつがいた。そいつとある日、朝八時半に喧嘩を始めて、日が沈むまでずっとやり合っていた。だれ一人止めに入らなかった。見えないところでやってたわけじゃなく、やつの家の前庭の芝生の上という目立ちまくるところでやってわけだけどね。頭の上にはコショウボクが繁っていて、その木にとまっていた雀どもから、一日中糞をひっかけられた。 くたびれ果てる喧嘩だった。とことんまでやった。相手のほうがガタイがよくて、歳も上で、体重もあったけど、イカレ方ではこっちが一枚上だった。喧嘩が終わるのは、おたがいもういい加減にしようぜということになったときだ・・・・・・どうしてそんな以心伝心があったかなんてことはわからないし、それは身体が知っているにちがいないことなんだけど、まあ、十時間近くも殴り合ってれば、奇妙な兄弟愛みたいなものが生まれないわけはなかった。 翌日は、身体中があざだらけで、全身真っ青だった。口を動かしてしゃべれなかったし、身体もちょっと動いただけで、痛みが走った。ベッドの上で、これは死んじまうだろうなって思ってると、母親が部屋に入ってきた。手には、前日の喧嘩のときに着ていたシャツを持っていた。母親はベッドに寝ているおれの鼻先にシャツを突き出すと、こういった。「なにこれ、シャツが血で汚れてるじゃないの! 血で!」「すまないね!」「絶対に落ちないわよ! 絶対に無理!」「あいつの血なんだけど」「そんなの関係ないでしょ! 血は血よ! 洗ったって落ちないんだからね!」『カーテンにバン、バン、バン』より 先日読んだ本の話に戻る。 今の東京は夏の夜が寝苦しくて、と嘆く人があるけれど、昔もおさおさ劣らなかった。どんなに暑い夜でも、雨戸も窓も閉めて寝たものだ。物騒ということもあるが、それよりも、夜風は身の毒とされていた。赤痢に疫痢に、夏の死は腹の内にあった。海辺の太陽のもとになどはなかった。古井由吉『明けの赤馬』より そういうわけで、東京の空の下ではないけれど、鼻水が止まらない。チャールズ・ブコウスキー「ブコウスキーの「尾が北向けば…」―埋もれた人生の物語 改訂新版」山西治男 訳(新宿書房)
2003/07/26
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尾行ついてないか、大丈夫まいてきた、と内容に似合わず大声で話すボロけた服装の中年男二人がホームへの階段を駆け下りた。思わずにわか尾行者気取りで追いかけたくなるような風景だったが、ヤクザ映画を観た後だったので、刺されたり撃たれたりするのが怖くてやめた。おそらく競馬場へ行く馬キチ二人が妻の手から逃れるために急いでいたのだろう。 この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。 独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮にも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から放れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。『眉雨』冒頭 厄介な冒頭だ。これは前にも読んだ。途中まで読んだ。朧に逃げる内容に堪えきれず止めた覚えがある。韻文の呪や縛の危険を説きながらこちらは既にそこを読み終えて、縛られている、呪われている。ファウルボールがぶつかった後に警告の笛が聞こえる。記念に球をもらっても痛みは残る。読み進むにつれて思考までその文体に犯され・・・・・・何度か同じようなことを書いた。ちなみにこの直後にブコウスキーを読み、前を歩く、尻の上っ面を見せて歩いてる姉ちゃんについてブコウスキーの文体で考えてみたが、どうもうまくいかず、長続きしなかった。尻が悪いか、文体が合わないか、そもそも翻訳でもある。 男が舞い出すんだろう。舟の上で。呼ばれもしないのに、頓狂な。 那須の与一さ。敵の美女のさしまねく、紅の扇に金色の陽か、馬を乗り入れて南無八幡大菩薩、ひょうと放てばあやまりまたず、射抜いて鏑は海に入り、扇は空へ、春風にひともみふたもみ、波間にさっと落ち、夕日に輝いて浮きつ沈みつ、沖では舷を叩いて囃し、陸では箙(えびら)を打ってどよめく、陽気な響きでもないな、その最中だ。 あまりの面白さに、感にたへざるにやとか、舟の内から齢五十ばかりの、白柄の長刀もったる、何者だい、浮かれ出た。殺れ、と大将のひと声で、頸の骨をもろに射られて、舟底へまっさかさまだ。沖には声もなく、陸ではまた箙を鳴らし、なさけなし、とつぶやく者もあったというけれど。 軍(いくさ)だからな。戯れあい、なぶりあいも、そのうちだ。血を見たとたんに、気分ががらっと変って、戦闘開始となる。しかしその日の合戦は一応、仕舞えたところのはずだ。死人も出た。怪我人もころがっている。血の匂いに、潮が粘る。昨夜からろくに眠っていない。ようやく終えたと思ったところでまた始まると、人は狂う。『道なりに』冒頭 ようやく蝉が鳴き出した。古井由吉「眉雨」(福武文庫 在庫切れ)
2003/07/21
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死んでもう八年にはなる亀がまだ家に居る。八年振りに水槽を洗ってやると、糞で灰色に染まった水の中にまだ亀は生きていた。その糞だけを食い生きながらえて来たらしい。最初二匹居たうちの一匹は早くに死に、八年前の水槽には一匹しかいないはずなのが、もう一匹も死んでいなかったようで、いつのまにか子供までもうけていたらしく三匹の亀が見えてきた。四匹目かと見紛い持ち上げたものは亀の形をした石で、それぞれ首と足の位置には穴も空いている、亀が死んでそうなったか、長く亀と暮らすうちに石も亀に似たか。そんな夢を見た。 一度だけ、放れ馬の夢を見た。けたたましい蹄の音を立てて跳ねまわるのを、空耳に聞きながら、人の叫び声ひとつ昇らないのを訝っていた。それから閑散とした朝の大道の、槿の花の咲く角を折れかけたところでわれわれは、馬と私はきょとんと、お互いに所在ない顔を突き合わせた。火のように赤い馬だった。お前、何者だ、とあの時は声を立てて笑っていた。『明けの赤馬』より よく今まで正気で読んできた、このようなものを。と、今更のように思う。いや、『聖耳』を読んだ時風邪を引いている。あの時は他にも原因があった。それでもよくその程度で耐えた。数ページで胃液の味が口腔に昇り、さらに進むと左のこめかみが痛くなった。古井由吉の本を読んだ数も二十を超えた。全てをまともに受け止めていたら死に至っていてもおかしくはない。よく今まで無事に過ごしてきた。そう思うのも一篇読み終えた時点で収まった。久し振りなので威力が増していただけのこと。相変わらず読む度伝染される文体を恥ずかしげもなく。 それから、いつだか友人と暗闇の話をしたことを思い出した。夜の暗さをすっかり忘れていたことに近頃気づかされた、と友人は話した。それこそ、鼻をつままれてもどころか、草むらに向かって立小便をしようとしたら、手前のチンポも見えないんだな、と目を剥いた。ところが、草の中へ飛ぶ水の弧は、星もないのに、これがほのかに光るんだな。小便と草の穂と、それだけが白く浮んで、チンポも俺は見えないんだ。『静かさで』より しかし油断してると急に襲われる。 はねられる時にはその前からもう電車の、姿も見えないし音も聞えないのだ、という。暮れ時によく熟れた麦畑の闇を行くうちに、なんだかぼんやりとかなしい、良い心地になって、どこかから、のんびりとした笛太鼓のお囃子の声が渡ってくる。はて、どこの村だか、お祭りどきでもあるまいに、と首をかしげながら、心がさびしく浮いて、線路の上に登って風のくるほうを眺めていると、やがて麦畑を分けて、大きな綺麗な山車がひょっこりあらわれ、誰にもひかれずひとりでころころと近づいてきて、やれ、おもしろい、俺もいれてくれ、と駆け出したまでは覚えていて、気がついてみたら病院に寝かされて三日経っていた。爺さん、もう野良仕事が無理で意地ばかりきつくて耳も悪いので、あんなことになった、といわれているけれど、本人は電車にはねられたとも思っていない、不思議な山車に乗って皆と一緒に遊んできたつもりでいる・・・・・。『冬至過ぎ』より 今にも眠りこけそうな目と頭を抱えながら電車を待っていると、ふと線路に飛び込む自分の姿が浮かんだ。ホームの端で身構え、さて行くぞと、噛み切れない肉を呑み込む時のような呑気な決意でいる。実際にはホームの反対側の端で柵にもたれかかりながら今時の若者のようにしゃがみこんだままだが、飛び込む自分のズボンポケットの中の財布の重みを感じた。この中にはまだ余裕がある。死ぬ前にあれも食える。これも買える。そう思ううちに想像の中の自分は構えを解いた。そんな簡単なことかよ、と幻の自分に突っ込む。まだ安全な頭のようで。古井由吉「明けの赤馬」(福武書店 在庫切れ)
2003/07/18
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1988年のアメリカ合衆国選挙戦に取材してエリクソンが書いたもの。翻訳者は『ルビコン・ビーチ』の下訳を手がけた人。『Xのアーチ』に出てきた、三代目合衆国大統領トマス・ジェファーソンの愛人黒人娘サリーも出てくる。エリクソンに、俺の女房と寝ただろうと問い詰めるアルバート・ゴアも出てくる。エリクソンの車を追いかけ続けるアルバート・ゴアも出てくる。前副大統領、この本が書かれた時点では大統領戦の一負け犬、そんなことはどうでもいい。 しかしもうはっきりさせていい頃だろう。読者もそろそろおわかりだと思う。僕はこの本を無責任に書いているのだ! 僕は長いあいだ列車に乗って、無責任へ向かって走っている。だから僕ができる最善のことは(しばしばやっていることだが)、僕の妄想、僕の暗黒の妄想を現実と混同しないことだ。僕の妄想は、長年大切にしてきた友情をだんだん傷つけていき、とうとう「おまえなんかニューオーリンズに残るな」といわれるところまできている。 本の中でボロクソに言われてるブッシュがその後大統領となり、今はその息子が同じ地位にいる。幾分擁護されてる分余計にボロクソに書かれてるように見えるデュカキスはその後大統領になれず、その息子など知らない。 エリクソンが現実に取材したものを書くなんてと意外な気もしたがよく考えてみれば『黒い時計の旅』はヒトラーとその姪ゲリについて、『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンとその愛人サリーについて、実在した人物について書いているのだ。大戦後も生き残ったヒットラーに姪をモデルにした小説を提供し続ける男や、奴隷軍隊を作り合衆国と戦争を始めるジェファーソンを。しかし本作におけるサリーの幻影が語る太文字の独白はそれほど面白い効果をあげていない。ただの彼氏自慢にしか見えない。 マイルス・デイビスとレコーディングするはずの日の数日前にジミ・ヘンドリックスは死んだそうだ。イースト・ロスアンジェルスに住んでいることになっている人口の三分の一は実際に存在しないそうだ。レーガンは「私はこの四年間、核ミサイルは発射してから呼び戻せるものだと思っていました」と言ったそうだ。 蝉はまだだ。蛙はとっくに鳴いている。夏が暑い。夏が暑い。夏が暑い。夏が暑い。スティーヴ・エリクソン「リープ・イヤー」谷口真理 訳(筑摩書房)
2003/07/11
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マルチーズを連れた、長めの引き綱を持つ買い物帰りのおばさんは手提げ鞄を落としたことに気付かなかった。こちらが声をかける前に後ろを歩くマルチーズがくわえ上げ、引き綱を引っ張り主人に気付かせた。 旧仮名で書かれたものは旧仮名で読む方がいい。とはいえ漱石とは違い旧仮名のものを探すのも面倒だった。元々部屋のどこかにあるはずの本だが、それを探すよりも新しく買った方が早かった。最近どんどん「部屋のどこか」が増えてきた。 荷風といえば晩年の奇行(というより醜態)が先に浮かぶ。その華やかな文学的成功もそっちのけで。山田風太郎『神曲崩壊』を開き、飢えの地獄で荷風が芥川龍之介にバッグに詰めた金を見せびらかすところを読み直した。この小説はとても面白い。稲垣足穂が海坊主のように風呂から飛び出し『一千一秒物語』の一説を叫び出したりする。 物語について特に書くこともない。主人公と馴染む娼婦の「身を落すなら稼ぎいい方が結句徳だもの」という台詞にどこか悲しくなっただけだ。 ゴールデンレトリバーと恋人のようにベンチの上で睦み合うお婆さんも見た。永井荷風「墨東綺譚」(新潮文庫)
2003/07/08
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初対面なのにいきなり二ヶ月間のインド旅行体験とその時の処女喪失未遂恋愛譚を語り出した女の髪には昼に食べた春雨の欠片がついていた。それでそういえばこんな本も持っていたと思い出した。 詩人の散文にはその詩ほどの力はない。新聞などで詩人の書く短文を目にすると、不自然なほど詩的な表現を頻用しうんざりすることが多々ある。自分は詩人だから詩を書く時でない時でも詩人のように振る舞わなければいけないと思いこんでいるか、詩めいたことしか書けなくなっているからだろうが、あまり良いものではない。好きだからと言って毎食うな重を食べ続けていれば気持ち悪くなる。食べたい時に食べるから美味いのだ。詩的表現にならないようにうな重で喩えてみた。 ぼくの鼻は知った。もう忘れないぞ。この巨大なインド亜大陸で、紙のパンツをはき、百円玉が五個しかはいっていない財布をもったまま、ぼくが迷子になったら、この「匂い」を求めて歩いていけばいいのだ。この匂いのあるところ、BCとADが、見さかいもなくうず巻いている「文明」あるいは「反文明」が存在しているからだ。 ほんの30年前のインドを歩いた詩人の旅行記。田村隆一50歳。 この米軍大佐が見たもの、耳にしたもの、二個の鼻腔によって触知したものは、われら、黒狐とぼくの五感によって経験し得たものと、相等しい。そして、大佐の叙述は、一九二八年の時のものである。ぼくは五歳、黒狐はまだこの世に生れていない、生れていないどころか、黒狐のご両親は、まだ恋愛さえしていないのである。ああ、なんたることだろう、なんたることだろう、四十五年の時などというものは、このミナクシ寺院には存在しないのである。時よ、来い! おそらく、十六世紀のバラモン僧が正確に、この寺の雰囲気を散文によって叙述するなら、米軍大佐は、その叙述をそっくりそのまま、剽窃しなければなるまい。時よ、来れ! シナイ半島で生れ、西ヨーロッパに、ある文化の礎を置いた、二千年前に孤独の死を死んだ神の子は、時よ、来れ! とは叙述しなかった、時、満ちて、と呟いたのである。その声は、そのまま乾燥した空気の中で消えていったのさ。ああ、どうしよう、時は来るのか、来ないのか? それとも、時という「空間」が満ちつつあるのか? 私があまり旅行記の類を読まないのは固有名詞の洪水にうんざりするからだ。どこそこに行き、何々を見、その由来は誰々が○○年にこれこれをどうこうしたもの、私はそこで某々という人に△□をもらった、云々。ようはこれの繰り返し。もちろん優れた考察があり、面白い出来事があり、そこに行きたくなるような文章があるのだけれど、それ以前にうんざりしてしまうことが多いのだ。具象だらけで、想像力の入り込む余地が少ない。「事実」の前にひれ伏し、驚愕し、賛嘆するに飽くことはないが、感動とはまた違うのだ。 「おお、詩人よ、夕べが迫って、お前の髪は灰色に変ってきた お前はお前の孤独な瞑想の中で、来世のたよりをきこうとしているのか?」 「もはや夕暮れだ」と詩人は言った。「私は耳をすましているが、それは村から誰かが訪ねてきはしないかと思うからだ、もはや遅くはあるけど。 私は見張っているのだ──もしさまよっている二つの若い胸が出あって、双方の熱い瞳が彼らの沈黙を打破って代りに語ってくれる音楽を求めてはしないかと。 もし私が生の岸辺に坐って死の彼岸のことを瞑想しているなら、誰がいったい彼らの情熱的な歌を織りあげてやるのか 宵の明星が消えてゆく 屍を焼く薪の山も徐々にひっそりした河畔で消え落ちる ジャカルの叫びが疲れはてた月光の中の荒廃した屋敷の庭から聞えてくる もし誰か旅人が、家を離れてここへ夜を見つめに来て、頭を垂れて闇の呟きに耳をすます時、 もし私が扉を閉じてこの世の絆から自分をとき放そうとしていたなら、いったい誰が枯れの耳に生の秘術をささやいてやれるのか? 私の髪の毛が灰色に変りつつあるなどは取るに足らぬ些事 私はつねにこの村の一番若い者と同じだけ若く、また一番年とった者と同じだけ年とっている ある者は甘やかで単純な微笑をもち、ある者は眼の中にずる賢いまばたきを秘めている ある者は昼の光の中に迸り出る涙をもつが、他の者の涙は闇の中に隠されている 彼らはすべて私を必要とするのだ。そこで私は死語の生涯を思い煩っている暇がない 私は彼らのそれぞれと同じ年令なのだ。私の髪が灰色になろうとそれが何だろう。作中引用されている、タゴール『おお、詩人よ、夕べが迫って』山室静 訳「それが何だろう」と言い切る言葉に想う感情、これが感動。「このあたりにも死体が流れてくるのですか?」 と青ちゃんが老少年兵にたずねる。「ええ、流れてきますよ」「すると、流れてくるのは、三歳までの幼子と聖者の死体ですね、ベナレスで、そう聞きましたけど」 老少年兵は、ネムの葉で朝夕磨くという白い歯をみせて笑った。「なにを云ってるんですか、あなたは? それはイギリスの総督府時代に禁止されてしまいましたよ、ときどき流れてくるのは、首無し死体でね。ギャングの仕業なのです。あなたがたも、カルカッタの夜の町をうろつくと、首無し死体になって、このフーグリ河を流れることになりますよ、アハッハハハ!」 これが、事実。 昭和五十六年刊、集英社文庫
2003/07/07
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解説で江藤淳が40ページも吠えているがそんな付録があることに気付かなかった振りをして読まずに閉じた。 中上版『百年の孤独』として最初から読んでいたにもかかわらず、『千年の愉楽』というあからさまなタイトルとの関係に気付いたのは半分ほど読んでからだ。「年の」が一緒。昔読んだ筒井康隆の文章で、『百年の孤独』『同時代ゲーム』『千年の愉楽』『虚航船団』の関係について書かれたものがあったような気がする。三つの作品で三角を作りそれに一つ付け加わった図が。どれも面白いのにどうしてどこでだって『同時代ゲーム』は叩かれているのだろう。妹の陰毛スライドの描写から始まるのがいけないのか。 確かに世間の親らのようにオリュウノオバには人の物を盗んではいけない、人を殺めてもいけない、殺傷してもいけない、という道徳はあたうる限りない。何をやってもよい、そこにおまえが在るだけでよいといつも思ったし、礼如さんと暮らし続けて仏につかえる道は何もかもをそうだったと肯い得心する事だと思っていたので、物を食わないためかやせこけてなお注射針を体に射して、血管から逆流して注射器にまじる血を圧し返すように射つ三好を、親にもらった体に針など射してはいけないとも言わないし、血管は血の他に異物などいれるものではないとも言わない。『六道の辻』より「重力の都」に感じた終盤の違和感はこちらにも出てくる。『百年の孤独』を模しながら路地で生きる中本の一統の血を持つ者達の生き様を書き綴っていたはずが、いつのまにかマジック・リアリズムの影が薄れてくる。幼少の頃より天狗と交わり首をくくって死んだ文彦の話『天狗の松』で馴染みの空気は薄れ、次の『天人五衰』からはホントウに登場人物が南米を目指し始めてしまう。そこに行ってしまっては日本で百年の孤独をやっている意味がのうなってしまわんかとこちらが心配する中、それは便りのみ記されるだけとなり、心配は杞憂に終わる。そして最後『カンナカムイの翼』ではオリュウノオバや中本の一統の血の住む「路地」をアイヌの地にも見出して事は終わるのだが、前半三編『半蔵の鳥』『六道の辻』『天狗の松』で得られた快感からはかけ離れてしまう。日本にマコンドを現出させるのは難しいのか。最後に大雨やら大風が来て全てがなくなってしまうには、路地には血と歴史が重くて無理だ。『カンナカムイの翼』で、中本の血の達男とアイヌ若者が入れ替わっているのに気付きながら何とも言わないオリュウノオバはとても美しい。それまでは神の眼を持ち永遠に生きているように思えるオリュウノオバもこの話では男と交わり、喜悦の声を上げ、女の顔を見せる。オリュウノオバは思う。物語なら話の筋が進みすぎたからと筆休め、口休めとして閑話休題いかようにでも休息を入れることが出来る。オリュウノオバは溜息をつく。生れる前に悲運を背負い、小さい仏の子のように十五にして路地の女らに性の愉悦を味わわせた達男の短い生が燃えつき切ってしまうのを遅延さすために、もう一度子供の頃にもどり、女親が忽然と行方不明になった男親富繁を憎むあまり家に達男が居るのを嫌った事、路地の家々を転々とした事、刺されて死んだ半蔵の死体を見た事を述べて説きをかせぐ事が出来たろうが、空の彼方の仏の国でつくられた物語は違うのだ、とオリュウノオバは涙を流し溜息をつきながら思う。 なんて写しづらい文章だろう。こうして物語はいつまでも続けられる事を示唆しながらオリュウノオバ=記録者=語り部の死により終わる。そうしてしばらく私は中上から離れる。眼が疲れた。中上健次「千年の愉楽」(河出文庫)
2003/07/05
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雨の降る中、青信号の前で自転車を止めたまま服が透けるのも構わず女子高生二人が話をしていた。MDウォークマンでスマップを聴きながら登校していた時のハプニングの模様の後半を擬音だけで語っていた。最近の若者は擬音だけで会話が出来るのだ。 こちらは『枯木灘』の中上健次と思って読み始める。ところがそこにあるのは句読点の多い細切れの文体ではなく、平明で掴みにくいヌルヌルとした文章だ。戦後短篇小説再発見11に入っていた『ふたかみ』が谷崎潤一郎『春琴抄』へのオマージュであることは言われなくても分かる。『ふたかみ』も含めこの短編集は全て谷崎に捧げられたものとは本の裏に書いてある。しかしその全てに盲目が絡んでくるとは思わなかった。どれもこれも目を潰し、潰され、生来の盲目で、と、目が痒くなる。 次第にこちらも慣れてくる。『重力の都』で語られることが一瞬掴めずにわか盲目をこちらが演ずるようなことも最初のうちだけ、闇夜の空にも星は見える。 まだ痛むのかと訊くと女は日の光が海の方から射し込み畑一面に当る頃になって嘘のように消えてしまったと言い、由明の股間に足を差し入れ、柔らかい太腿で由明の脚をはさんで、手足が痛むのはきっと山の向う、丁度畑に当る日の光が昇ってくる海の方向にあたる伊勢の方で墓に葬られて肉が溶けて腐り骨になった御人が、当然のように女の体をこれがくるぶし、これがひかがみ、これが女陰とまさぐるからだと言った。そうされると御人の肉や筋が腐って溶けてしまう時の痛みが女に伝わってくる。由明は女の話を聞きながら立てつけの悪い家だから外から寒気が入り込んで冷えて年寄りのように節々が痛むのだと思い、女の耳そばで男と一日中でもつるんでいるとそんな世迷い言は治癒すると言い、女の熱をおびはじめた体に促されたように固くなったものを夜中痛んでいたという手を取って握らせた。『重力の都』より かつて『刺青』を暗唱してやろうと思った頃の私はもうおらず、中上は谷崎の文体模倣に成功しているかはよく分からない。そんな思いは思うだけで実行に移していない。顔のイメージもある。中上健次は不器用な人だと思っていた。今でも思っている。 ことの他、暑い日が続き、縁台に咲いた草花のことごとく、萎れた。ひしゃくで水遣りしようとしても、日中は、どうせ湯になって根を傷めてしまうのが分かっているものだから、誰もがひかえた。それで、萎れたら萎れたなりに花には風情があると、うそぶいたり、なぐさめたりもしたが、なんとか暑さから救う案はないかと本心は溜息をついている。「もう、かまんのやけど。何年も使(つこう)た鉢やし、なんべんもなんべんも種取ったんやさか」「あんたとこでもろた種やけど、わしとこの、別の色、出た。ずうっとそれから変ってもせんと、同じ色出る」『残りの花』冒頭 違う。全然違う。これは中上だ。谷崎ではない。中上健次の文章であり、谷崎潤一郎の文体模倣ではない。発表順に並べられたこの短編集は後半に進むにしたがい落ち着きを取り戻し、居心地の悪さを霧消させる。こちらが慣れたのではない。あちらが変化したのだ。だから飲み込みにくい『重力の都』より『残りの花』の方が好きだ。 いつのまにか中上健次に手が伸びている。中上健次「重力の都」(新潮文庫)
2003/06/28
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これからしばらくの間機嫌が悪い。講談社文芸文庫のページが見当たらない。数ヶ月前顔馴染みの猫の礫死体を見た場所のそばで子猫三匹が植木鉢の周りを走り回っていた。呼んでも近寄ってこないのは同じ。『二つの肉体』野間宏『草を刈る娘』石坂洋次郎『夜の家にて』川崎長太郎『サビタの記憶』原田康子『蝶をちぎった男の話』福田章二『初夜』三浦哲朗『木の上』川端康成『恋のアマリリス』唐十郎『花の名前』向田邦子『箒川』水上勉『ボトル』三木卓 あまり興味のないテーマの中、川端康成と唐十郎のものを何の冗談だこれはと不思議に思い、石坂洋次郎は狙いすぎ、原田康子は少女少女しすぎ、水上勉で安心して終われると思ったら三木卓にこかされた。 そんな中、庄司薫こと福田章二のものは楽しめた。先日と同じように漫画家の絵で想像しながら読んだ。今度は萩尾望都。『赤頭巾ちゃん気をつけて』にそのイメージはないが、『蝶をちぎった男の話』にはぴったりだ。『ポーの一族』あたりの、不安定な絵で。この場合先人は福田章二である。1957年。 私がまだ小さい時から、彼女はみんなのいる部屋に蝶とか蜂とかが翔び行ってくると急に目を輝かせて、「あら、早く殺して・・・・・・・・・。」 と無邪気に叫ぶのだった。 そういう時はいつも私が殺した。私の目も輝いていたに違いない。私は若い獣のようにすばしこく蝶を追うと見事につかまえて頬笑みのうちに殺すのだった。そして私は、そんな私をじっと見守っている彼女が、その繊細な鼻腔をふるわせて大きく柔らかく息づきながら頬笑む時、どんな時よりも美しい魅力に充ちた彼女を見つけるのだった。 私は今迄にも何度となく彼女が庭の手入れをしながら蝶をつかまえるのを見た。彼女はつかまえた蝶を暫く見つめていたあとで、やがて少女のようにあどけなく頬笑むと美しい蝶の翅を細い指先でつまんで左右に優しく引張るのだった。蝶は花片のように散った。彼女は大きく息をするのだった。いつもそうだった。 様式美と言っていいような、今見れば典型だらけを具現化した美。この女に恋した男性の二十年に及ぶ片思いの話。蝶を小動物を罪の意識なく殺す女を愛したために、自身は深く罪を感じながら、女とは関係のないところで虐殺を続け、それらに囲まれて死ぬ男。まるでそれは美談だ。小動物の死骸が積み上げられ、蝶の羽のベッドに横たわって死ぬ男はグロテスクでもあるが、まるでそれがいい話であるかのように美化してもいいところであろう。しかし女は「おかしくって・・・」と笑い出すだけだ。佐助が春琴の美しさを永遠に留めるために目を針で突いたのと違い、無関係な場所での片思いによる異常行動はお笑いにしかならない。捨てたれ、笑われ、忘れられる。 それに私達はもうすっかり彼のことを忘れてしまっている。 私も・・・・・・・・・。私はあの夕べから、私の美しい叔母のものになったのだから。 ただ、私が蝶をちぎる時、新らしいレコードや詩集を買う時、或る花や香水の匂いを嗅ぐ時、そして晴れた朝あの公園をラバーソールの軽い靴をはいて軽やかに歩いていく時、私はふと野沢氏のことを思い出す。そして堪らなくおかしくなるのだ。 一番面白そうな「『私』という迷宮」の16巻まではまだ遠い。戦後短篇小説再発見 12 男と女-青春・恋愛(講談社文芸文庫)
2003/06/23
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別れの挨拶を書いたばかりの気がするのに、続編が出た。第二期は全8巻84篇。第一期との重複も一作家一篇なら認めるらしい。『空間と犯罪』武田泰淳『火の記憶』松本清張『復讐』三島由紀夫『寒暖計』椎名麟三『夏の終り』倉橋由美子『焚火』大岡昇平『童女入水』野坂昭如『ふたかみ』中上健次『紫頭巾』宮本輝『ナンブ式』藤沢周「性の根源へ」の巻で『マッチ売りの少女』を収録しておきながら、ここで『童女入水』もないだろう、と。被っている。18巻に予定されている「夢と幻想の世界」に『ぼくのお葬式』を収録してほしかった。野坂昭如。他は初見。一番面白かったのは一番意外な一番最後の『ナンブ式』。不審人物と警官の顔がどんどん荒木飛呂彦の描く絵でしか想像出来なくなり、可笑しかった。「あ、蟻だ」 警官がいう。俺は突然その幼児じみた言葉に耳を疑った。一気に血が逆流するような、そんな感じだ。俺の膝の上にのぼって来た蟻に警官は目を落としている。その目の表情が、さっきのガキを見ていた時よりも柔らかい。俺はすぐにも指でその蟻を弾いた。だが、蟻は俺の膝の上で潰れ、ひしゃげた。「ありゃー」 また信じ難い警官の声。まだ形を残した部分を俺は摘んで捨てる。俺は死にそうだ。 遙か公園の端の方から子供の声がきこえて来る。警官も俺もそっちに目をやるが、「右のキンタマの次はどこがいい?」と俺はきく。三人の小学生がサッカーボールを蹴り始める。「分からない・・・・・・分からないが、自分を貫くもの・・・・・・」「じゃあ、左のキンタマだ!」 俺はグリップを掴んで引き抜く。だが、弾倉が見える所までいしか上げなかった。俺はむこう側に行ってしまいそうな気がしたからだ。別に殺意がなくても俺は撃つ。これは間違いないことだ。どちらも藤沢周『ナンブ式』より 椎名麟三や三島由紀夫を読んでもそこに画・荒木飛呂彦の登場人物達を想像することはない。いい悪いは別にして、藤沢周の書くセリフが現代漫画らしい、荒木飛呂彦らしいので、想像のスイッチが入る。収録作品は発表順に並んでいるので書き出してみると、1949、53、54、59、60、71、72、85、87、94とある。読んでいて突然違和感を覚えたのは『ナンブ式』に入ってからである。87年と94年の間に何があったのだろう。いろいろあったのだろう。考えるのも面倒なことだ。文芸誌が売れなくなった。本が売れなくなった。小説が読まれなくなった。バブルが弾けた。久慈と新庄が新人王を争った。他、他。描写が寂しくなった。作者が感覚的に書く文章に、さほど疑問を持たずに入り込めるようになった。それは実は漫画からの影響で、それほど熱心に文章を読みこなさなくても、頭の中で人物や背景が動きやすくなったからとは言えないだろうか。風物を文学的に文章に書き写すのではなく、漫画的に映像を喚起させるように書く。作者と読者との間に共通の下地があるから、長く詳しく描写する必要もない。だがそうすると、奥行きがなく舞台の書き割りのような世界の中で人物が動いているようになる。しかし元より立体的映像的に小説は書かれる必要もなく、現実から遊離したような作品の場合なら舞台にリアリティを持たせる必要もない。 ボケエとしながら書いてるので飛躍が早い。 他に武田泰淳、中上健次、宮本輝のものが良かった。「戦後短篇小説再発見 11 事件の深層」(講談社文芸文庫)
2003/06/18
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詩人・翻訳家である著者の、骨董漁りを楽しく書いた随筆集。藤枝静男や森内敏雄のそれと違い、物語に昇華しないそれらを安心して目で追いながら、物足りなさもやはり感じる。物語が欲しい、虚構が欲しい、と願う。随筆としては高い水準のものだ。それに随筆にはないものを求めるこちらの姿勢こそが勘違いである。あつかましい。小説が好きだ。 偽物は不自然な色をしている。そのくせ、妙にきらびやかで、人目を惹きやすく出来ている。一つの物に、一箇所だけいいところがあれば、私たちはそれを以て最上とするのに、偽物には、いいところが、むしろ、よさそうに見えるところが、三つも四つもあって、それらが性質を全然異にし、互に張合っているので、全体を見ると、妙に統一がとれなくて、あっちを向いたり、こっちを向いたりしている。(悪い政府のように)。そして、若しそれに臭いがあるとすれば腐った臭いがする。(収賄事件のように)。若しそれに声があるとすれば、それは必ず大声である。(悪宣伝のように)。そして、一度、かかる偽物の美しさの味を覚えてしまうと、悪い女に引っかかった男のように、堅気の美しさ、本物の美しさにはなかなか戻れない。本物はあっさりしていて、つつましく、なるべく人目につかないようにしているからである。そして、道行く人を呼びとめないからである。「物の美しさ」より 書くこともないので梅雨を殴りたい。青柳瑞穂「ささやかな日本発掘」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/06/17
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かやこ、と読む。リ・カイセイ、と読む。 はげしい時代であった。 その年(一九五九年)、在日朝鮮人のあいだでは帰国運動がいちずに高まっていた。すでに前年の夏から始まったこの運動は人々の期待に反し実らぬままに年を越したが、その年に入ると一層盛り上がってきていたのである。 帰国──それは朝鮮民主主義人民共和国への帰国を意味していた。したがって運動そのものは共和国をふるさとと仰ぐ人々によって繰り拡げられていた。しかし、その波ははるかにその規模を越え六十万在日朝鮮人の心を洗い、大きくゆすぶるものになっていたのである。 ひとつには異国生活に明日への希望がなかったからであった。永すぎた異国生活はただでさえ人々に望郷の念を誘う。まして彼らはかつて故郷を追われるごとく玄界灘を渡ってきた人々でああった。それに永い「客地生活」の思い出は彼らの置かれた立場からみてけっして甘いものではなかった。戦前はいうに及ばず、戦後の生活にもやはり希望がなかったのは「第三国人」という奇妙な身分の処遇や生活上の苦しさなどが仕向けるものにちがいなかったのである。 彼らの生活は貧しい。朝鮮人の生活といえば、おおむね相場がきまっていた。屑屋、仕切り屋、ニコヨン、土方という職業が圧倒的でなかにはパチンコ店、飲食店、ビニール加工の零細企業などまずまずの成功組がいるにはいるが、おしなべてみると不安定な生活をしているといえた。 という時代の、在日朝鮮人の息子である主人公相俊と、その両親の友人夫婦の娘──夫は在日朝鮮人、妻は日本人、娘は養女で日本人──伽椰子の恋愛を軸にした話。こう書くとややこしいが、東京に出た大学生と、故郷に居る幼馴染みのラヴストーリー。よくあるドラマ。 当時の社会情勢、北、南、民族、戦争、様々なことが絡んでいるが(結局この時の運動に乗じて「北」に帰国した人達は運が悪かったのだろうか)、結局最後に主人公と伽椰子が別れるのは、国籍でも言語でも民族でも南北の問題でもなく、「性」の問題であり、社会的に見れば些細なこと、しかし個人対個人となれば重要なことで幕は閉じる。伽椰子の義母は「在日朝鮮人と結婚してもろくなことにはならない。自分のように苦労させたくない」と言い、相俊の両親は民族意識から彼を朝鮮人と結婚させたがる。短い駆け落ち生活の中で読む側も段々と気付いてくる。これは熱烈な恋愛ではなく、なしくずしにくっついた若者が、周りの勢いに押されて大恋愛ごっこをしているだけだと。その様子がよく描けている。「一切がすでに幼年時代にあり、幼少時代から既に現在と未来の二つの存在がある」という、ロマン・ロランの言葉が引用されており、その言葉通り物語の大筋はその通り進む。伽椰子の淫蕩の理由を幼少期のトラウマに結びつけるのにはやや白けたが、あまり興味がなければ分かりにくい、その時代の空気をなんとなく掴んだ気分にはなれる。骨太な物語で、文章もしっかりしているのだが、これが日本人同士の恋愛話なら読みはしなかっただろう。興味本位に動かされての読書であることは否めない。李恢成「伽椰子のために」(新潮文庫)
2003/06/16
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世界が暗い。 前の持ち主が丁寧にボールペンでたくさんの誤植を訂正してくれていた。"ファンタジーの元祖"と、呼ばれて、いる、らしい。あと それには、モールズワースというのは「彫刻のライオン」「壁かけの部屋」「かっこう時計という代表作があり、ネズビットやメアリ・ノートンなんかの、いわゆる「日常的魔法(エブリデイ・マジック)」というファンタジーの手法を始めた人、というセツメイがあって、その例として「壁かけの部屋」の中の子ども部屋にかかっている壁かけ(タペストリー)のくじゃくなんかが、ちょいとウィンクすると、見ていた子どもがその絵の中にすっと入ってしまう、という場面が引用してありました。 えっ! と私は興奮した。 だって、だってだってこのシーンてさ、ナルニアのカスビアン王子の船に、あのイヤミなユースティスが現れた時とそっくりではないの!解説より なんかあたまいたい。 田舎の古い屋敷にあずけられた少女が、古い時計の中に住んでいるかっこうと出会い、いろんな冒険をする。最後に人間の友達が出来るとかっこうとはお別れ。「いい子になりなさい」うるさい。 助手:しかし、すべてが夢であるなら、すべてが現実だといってもいいわけじゃな。 番人:なるほど、見えました。つまり、見えません。 リリパット・レヴェルモールズワース「かっこう時計」夏目道子 訳(福武文庫)
2003/06/15
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『黄金比の朝』『火宅』『浄徳寺ツアー』『岬』。 何かにつけ手に取る、ということの少なかった野坂昭如と安部公房の文庫の群を箱入りさせると、まだ読んでない/これから読もうと思う/いつまで経っても「そのうち読むかも」、という本ばかりが一つの本棚の前面を占めてしまった。かつては読む気があったから買ったものであり、それぞれにそれなりの理由があったはずだ。だが今見ると、一部をのぞけばどれも同じ様相を呈してのんべんだらりと本棚の上で惰眠をむさぼっており、こちらに訴えかけてくるものが少なく、二軍暮らしに甘んじている。これが他の部屋にあるならば首位打者も夢ではないのだろう。時には手を出して少し読み始めてみる。だが面白みが見出せずに戻され、何かのきっかけが起こるまで飼い殺しにされ続ける。その上にまた次々と、いくらか優先順位の高いものが降り積もる。「食人国旅行記」「俳句とは何か」「破れた繭」「マレー蘭印紀行」「ガリヴァー旅行記」「中国の怪談(一)」「三人の女・黒つぐみ」「甲賀忍法帖」「神聖喜劇」「城」「贅沢貧乏」「私のチェーホフ」「ビアス短編集」「絵のない絵本」「古典落語」「燃えあがる緑の木」「おくのほそ道」「南方熊楠稚児談義」「孤独な散歩者の夢想」「ガラスの動物園」・・・、・・・、・・・、・・・、いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも。 中上健次を読みたいわけでもない。かといって他に読む気になるものもない。『岬』『枯木灘』を読んだ時の気分のまま『黄金比の朝』は読めた。しかし『火宅』『浄徳寺ツアー』を読んで感じるのは嫌悪感ばかりだ。酔いにまかせ女を殴り部屋を壊す男にも、堕胎を繰り返させた妻が初めて出産する日に旅先で別の女を犯す男にもくそったれという思いしか抱かない。あと十数ページがいつまでも進まなかった。 一つ躓くとあらゆるものが色褪せる。気に入りの作家の本ばかりを収めた棚は見上げる位置にある。「そのうち読もう」棚は横に長く背後に広がる。間に転がる、ちくま文庫版「宮沢賢治全集」を適当に開けばそれなりの充足感は味わえる。しかしこんなはずではない。読書とはもっと面白いものだったはずだ。刺激的で、味わい深くて、言葉が授けられるような、何ごとにも代え難いもののような・・・「北回帰線」のような「ファウスト」のような「草枕」のような・・・。 途中で飽きた「死せる魂」と、まだ手をつけていない「怒りの葡萄」が足下に寝ている。そのまんま借りてきた猫のようなこれら借りてきた本は、おそらく読まずに返すだろう。そのくせ、しばらく読書から離れそうな気分だなと思いながら、またすぐ適当な本を読み始めるだろう。その未来はすぐ分かる。読まないことも、面倒だ。中上健次「岬」(文春文庫)
2003/06/13
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台風の日の夜と朝、隣の家の子供がリコーダーでいつまで経っても上達しないエーデルワイスを吹き続けていた。ミーソレー、ドーソ、ソファー、ミーソ、ミーソソラシ、ソラシドードー。 数年振りに球場まで観に行くと、4回で10点入り、こちらのピッチャーが二安打三打点、あちらのピッチャーはホームラン、代打の神様が猛打賞(三安打)、これまで不敗のストッパーがホームラン二本打たれて10-9まで追いつめられた。ジェット風船は空へ飛ばず三列前の席に落ちていった。『岬』を先に読んでいた。 何度も、何度も同じ説明が繰り返される。何度も同じ感慨が主人公の口から漏れる。多い登場人物、ややこしい血縁関係だから分からないではないが──それにしてもこれはなんだ、どこまで続くんだ、ああ、ああ、と驚くことにも飽き、慣れた。慣れると、あれほど読みづらいと思っていた文章もスイスイと入ってきた。そういえば野坂昭如が入院した。主人公の名前は秋幸(あきゆき)という。 それまで空に日がある限り働く。秋幸はそんな今の自分が好きだった。十九の時以来それは変りなかった。人は死んだ。人は狂った。泣いた。だが秋幸は日を体に受け、日に染まり風邪に撫ぜられ十九から二十に、二十から二十四になっていま二十六の男としてここにあった。 髪は短かった。顔はその男と同様木と石で目鼻立ちをつくったようにあり、首は太かった。固いものが出来ていた。そのまめをカミソリで殺ぐのが面白かった。秀雄と五郎の事は、てのひらのまめをカミソリで殺ぐ楽しみを知らない者同士の、諍いにすぎない。あの男もそう考えているだろう、と思った。美智子が泣いて騒ぎ、実弘が面子を気にして謝りに家まで来い、と言うほどの事ではないのだった。男にしてみれば、人の頭を下げる謝るくらいなら、そんな原因をつくった自分の息子を殴り殺してしまったほうがよい。 主人公の考察癖は終局に至り、自分の行動の理由を文学的に見出すまでになり、評論家がいらなくなる。最初から大人しく言うことを聞く馬はかえってタチが悪い、と先ほど読んだ『赤い小馬』にあった。それはこの作品にもある。それは現実でもはっきりとある。 指針として、位置づけとして、これからどちらを向いて歩けばいいかを知るための読書。「死の棘」にしろ「北回帰線」にしろ、「枯木灘」にしろ。読んでる間に多少苦痛に襲われても、読み切ればやはり満足感はある。それ以上その作家に首を突っ込むかはともかく、この作家は私にとってはこのような位置づけにある、ならばこの作家と比べられることの多いあの人は、また正反対のあの人は、おそらく私にとってはこれくらいの感慨を与えてくれるものだろう、と予想がつけられる。甚だ曖昧なものではあるが、多くの評論を読むよりははっきりと道が拓ける、自分自身のためだけに。中上健次は読めるようになった。しかし彼のその他多くの作品についてはどうだろう。これから積極的に読んでいくだろうか、おそらくそうはならないだろう。それなりに気に入った、と、大好き、では大きな隔たりがある。しかし私は最後まで読んだ作品というものを、たいてい好きになる。 秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。 頭痛がしている。四つ続けて悪夢を見た。好きな人の死に悲しめなかった。世界中に隙間なくブロックが降った。下水道を逃げていて悪霊にあい、殺されるよりは死のうと思った。あと一つは忘れた。悪夢ではない夢では、死んだ者は死んだ者だ、と土を掘っていた。寝る前に読んだばかりのセリフを口にしていた。その顔は自分の顔ではなかった。中上健次「枯木灘」(河出文庫)
2003/06/03
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ジョン・マルコヴィッチの出ている、映画「二十日鼠と人間」のビデオの前で悩み、面倒くさい気持ちに襲われて結局借りなかったことと、「ビリー・ザ・キッド全仕事」で西部に引き寄せられていたことが伏線。どこで買ったかもらったか覚えてもいないこの本がふと目に入った。 とても、良い。 主人公の少年が歩く姿が見える。子馬に対する気持ちが手に取るように分かる。それを失う場面、感情が吐露されることはない。行動が全てを物語る。百行の心理描写よりも胸を打つ。雨に打たれた後病気で弱る子馬が死ぬのは大人しく馬小屋の中でもいいものだと、多分そうなるだろうとこちらは考える。だが子供はうっかり眠り込み、子馬は外へ彷徨い出て行き、ハゲワシに目玉を啄まれ、全身を食いちぎられ、死ぬ。少年に出来たのはハゲワシ一羽を殴り殺すことだけだ。 情景描写が退屈だなどと思い始めたのはいつ頃からだろう。自然主義は受け付けないなどと思い込み始めたのはいつ頃からだろう。そう思いながら、引き算された文章ばかりの最近の小説に物足りなさを感じていたのは、多分それらに触れた最初の時からだろう。「最近のものは、こういうものだ」とろくに知らないのに決めつけ、その約束事の中で満足していた。だからと言ってその辺りのもの全て否定する気はないけれど。 やっぱいいなあ、スタインベックはいいなあ、こういうのこそ本物だよ、と感嘆の言葉に工夫する気もなくなってしまうほど・・・・・・。 やはり感想は読んだすぐ後に書いた方がいい。土曜読んだものについて火曜に書いても衝動が薄れている。法事の日に、顔も見たことのない遠くの親類が一人亡くなった。アドマイヤグルーヴがまた負けた。虎の貯金が増えた。地震が届かなかった。本の整理を諦めた。古本屋がまた一つ潰れた。「もう行く場所は一つもないよ。海があってそこから先へは行けないのだ。海岸へ行ってみると、自分たちの邪魔をしたからって、海を憎んでいる年寄りが、そこここに何人もいるんだよ」スタインベック「赤い小馬」西川正身 訳(新潮文庫)
2003/05/28
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図書館の中庭には池がある。端の方のベンチに行くと、一番隅のベンチで高校生のカップルの男の方が女のスカートの中に手を突っ込もうとしていた。「イギリス人の患者」の作者の作品の割にはamazonでもbk1でも引っかからない。 国書刊行会で、文学の冒険シリーズでということで初めからそういう期待はしてなかったが、予想通り、全仕事という割には、ビリーの細かい生涯を、ビリーやパット・ギャレットのことをよく知らない人にも分かりやすく書かれているという本ではない。全然ない。私はビリー・ザ・キッドを捕まえたのはワイアット・アープだと思っていた。 ブート・ヒルには四百以上の墓がある。それが 七エーカーの空間を占めている。念入りに作ったゲートがあるが 墓石のあいだを木の枝のようにこんがらがって 通っている道にメイン・ルートはない。 ブート・ヒルの死者のうち、三百はひどい死に方をした 二百は銃で、五十以上がナイフで 列車の下敷きになったのもいる──西部では よく知られた見すごされる殺人のやり方だ。 バーのけんかがもとで脳出血をおこして死んだのもいる 少なくとも住人が鉄条網で死んだ。 ブート・ヒルには女性の墓はふたつしかない その墓地で自殺だとわかっているのはそのふたつだけだ ビリー・ザ・キッドあるいはその周辺の連中の語る言葉、インタビュー、詩、漫画本からの文章だけの抜粋。それらで構成された、「ビリーとはこんな男だった」ということを伝えたがっている、そんなことはちっともわかりゃしない本。 万博の太陽の塔な、ありゃおかしい。
2003/05/25
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近所のコンビニがどんどん潰れていく。 短編集。『張徳義』『鶴』『ガラ・プルセンツォワ』『脱走兵』『可小農園主人』『選択の自由』『赤い岩』。 こういう本もあるので、そういう目も混ぜて読んだ。言われてみれば、と思える箇所に対して同時にそうでもないんじゃ、と思うことしばしば。たとえば 彼らの顔は、ある者は薄暗い電灯に照らされて浮かびあがり、ある者は影の中に沈んでいた。また、ある者は静かな寝息を立て、ある者は大きな鼾をかいていた。カーテンのない大きな窓々のガラスには外から広大な暗黒が迫って、まるで黒い布をむこう側に貼った鏡のように、室内のこの沈鬱な明暗を反映し、並んで寝ている兵隊と、並んで銃架にかかっている銃の林をぼんやりうつしていた。『脱走兵』より この文章は「諜報員経験のある人間が、昔見た情景を思い出して書いた、的確な現場情報把握の描写が出来た文章」とも読めるし、ただの平明な、不寝番の目で順繰りに部屋の中を見渡しただけの文章にも見える。面倒になり、考えることを止めた。 戦場なのだからもう少し緊迫していていいはず、逃げ出している最中なのだから鬼気迫るものが、という先入観で読むと肩透かしを食らう『脱走兵』は面白い。モノクロののんきなロードムービーのよう。戦い始める前に負けているので、流れた血の少なさから気楽になれたのか。島尾敏雄の書いた一連の南島ものに漂っている悲愴感と比べると可笑しくなるくらい違っている。特攻艇に乗る島尾敏雄と、ダイナイマイトを腹にくくりつけて戦車に飛び込む長谷川四郎。どちらも結局突っ込むことはなかった。死ななかった。漠然と一括りにして考えがちな戦争体験というものに対する認識の甘さがよく分かる。人が何万と死ぬということは、一人一人の死が何万と積み重なるということだ。何万という塊が一つ死ぬというわけではない。繋ぎ方が強引。 あとは何を書けばいいのだろう。ロルカやカフカの翻訳を読んだ時のような、鮮烈な印象が少ない。尖った名前とは裏腹ののらりくらりとした小説群だった。 最近変なニュースが多い。某球団が首位を独走してるとか。長谷川四郎「鶴」(講談社文芸文庫 在庫切れ)
2003/05/23
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夢の中の本屋で長谷川四郎訳ヘンリー・ミラー「南回帰線」を買う。最近夢のリアリティが増して来た。昼寝の時は妄想がそのまま夢に繋がる。 二人はアパートの最上階の部屋から階段を伝って下りてきた。どこもかしこも、安くて、ゴキブリが這い回っているような部屋だった。しかし、誰一人として飢え死にする者はいないようだった。ここの住人たちはいつでも大きな鍋で料理を作り、そこかしこに腰を下ろし、煙草を吸い、爪の垢を掃除し、缶ビールを呑み、背の高い青いビンに入った白ワインをみんなで空け、互いにわめき合ったり、笑ったりして、はたまた屁をひり、ゲップをし、痒いところをポリポリやったり、テレビの前でウトウトとやらかしてたりしていた。世界には裕福な人間はそんなに多くはいない。だけど、ここの住人たちは金を持っていなければいないほど、いい暮らしができるようだった。睡眠、清潔なシーツ、食い物、酒、痔疾用軟膏。こんなものさえあればよかった。それに加えて、ここの住人はいつも部屋の扉を少し開けたままにしていた。『いなごのほうがデリケート』より ブコウスキー63歳の時に発表された短編集。相変わらず、主人公の飲んだくれ詩人がセックスしたり競馬やったり殴ったり殴られたりという話が多い。なぜだかとても安心する。 ここまで書いて風呂に入ったら鼻血が出た。流れるままに任せ頭を洗うといつのまにか止まっていた。『みんなバーナデッタのせいだなんていわないけど』という短編のあらすじを説明してみよう。主人公のチナスキーがチンコから血を流している場面から始まり、医者に行く。「なぜこんなことに?」と尋ねる医者にチナスキーは12歳の頃アソコにコーラの瓶を突っ込んで抜けなくなり医者に連れてかれ、その話が町中に知れ渡り以降の人生がぼろぼろになったバーナデッタという女性の生涯を語り始める。それがどうしたと医者。いつまでも怪我の話にならないまま、幸い少し縫うだけで済むチンコをチナスキーは悲鳴をあげながら縫われる。「バーナデッタ。精神病院を退院すると、LAにやってきたんです。カールと出会い、結婚。わたしの詩がとても好きだといってくれました。朗読会のあと、わたしが時速100キロくらいで歩道を車で走ってると、ハンドルさばきが素敵だと誉めてくれました。それから、彼女はおなかが空いたわといい、ハンバーガーとポテトフライを買ってあげるわっていってくれたんで、マクドナルドまで乗っけてったんです。先生、頼みますよ。もっとゆっくり。それか、もっと尖った針でスッスッとやって下さいよ」で、最後は結局彼女に振られた後ガラスの花瓶でナニの気分をおさめようとしたところ、花瓶が割れ、怪我することになる。そんな話だ。大体こんな感じの話がいっぱい詰まった短編集。「あたりマエダのクラッカーだ」という文章からは目を背けた。 この爺さんの74歳の死は少し早い。「糞ったれの慈悲」ヴァローフはつづけた。「それがわれわれだ。糞ったれの慈悲、糞ったれの、糞ったれの、糞ったれの慈悲・・・・・・」「ここで『大鴉が』ってくるぞ」とおれ。「糞ったれの慈悲」ヴァローフはさらにつづけた。「そして、あの大鴉がいまから永久に・・・・・・」 おれは笑っちまった。ヴァローフがおれの笑いに気づいた。奴は壇上からおれを見た。「みなさん」と奴はいった。「今晩、聴衆のみなさんの中に詩人のヘンリー・チナスキー氏がお見えになっています」 会場がすこしざわめいた。来ていた人たちはみんなおれのことを知っていた。「性差別主義者の豚野郎!」「酔っぱらい!」「最低!」おれはまたグビッとビールを呑んだ。「どうぞ、おつづけ下さい、ヴィクターさん」とおれはいった。奴はつづけた。『澱のような哀しみ』より『大鴉』の入った「ポー詩集」はどこだ・・・・・・。読む気もないのに買ってあるのにいざという時見つからない。「現代労働詩集」違う、「一千一秒物語」違う、「詩集 北国 井上靖」なんだこれは。こんなもの持っていた覚えがない。 ところで、今はどうだか知らないが、ウィリアム・バロウズ、ポール・ボウルズ、チャールズ・ブコウスキーはアメリカで3Bと呼ばれ、アメリカのある種の若者にえらく人気があったらしい。「ナンシーとよりを戻したいんだよ。どうしていいか教えてくれ」「男一匹、彼女のアソコを舐めてあげるか、職につくかのどちらかだ」「でも、あんたも働いてないだろッ」「おれを基準にしちゃ駄目だ。そういう過ちを犯す人が多い」『ハリー・アン・ランダース』より ただのろくでなしだ。チャールズ・ブコウスキー「ホット・ウォーター・ミュージック」山西治男 訳(新宿書房)
2003/05/19
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咳の止まらない人が家の外を歩いている。 昔読んだ時は物語の半分程に絡み付いていたように思えた、坂口尚「あっかんべぇ一休」における世阿弥達の挿話は、今確かめるとごく少量のページしか裂かれておらず、言っていることも花伝書からの抜き書きと、現実から飛躍した大袈裟な描写。観阿弥は出てこない。 世阿弥が作り上げたのではなく、父観阿弥に聞かされたことを書き記し、自分でも付け加えた体系的芸術論。申楽について。現代の能とは少し違う。 大体それなりに考えながら生きていれば似たような結論に辿り着くもので、本書に書かれてあるものは能についての専門的なこと以外は、さほど目新しいものではない。これで今更はっとさせられるような人は少し幼いのだろう。二十五(歳の頃) このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり、歳盛りに向ふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来りとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花にめづらしくて、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、かへすがへす主のために仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利は見分くべし。このころの花こそ、初心と申すころなるを、極めたる様に主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直しださめ、名を得たらん人に、ことをこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。 誉め言葉は人を殺す。人が人を誉めるのはいつでも大きな意味があるわけではない。ただなんとなくいいなあと思ったものにも、生涯出会った中で最高のものだと思った時にも人は誉める。誉められた側は「なんとなくいいなあ」と思われた程度でも、自分は世界に名だたるえらい人に対する誉め言葉と同等のものを受け取ったと勘違いし、自分を過大評価し、成長を止め、死ぬ。これほどつまらないことはない。このつまらないことがいたるところで簡単に起こっている。二十四五で誉められたもので八十まで通すつもりの申楽演者がいるものか。何かこちらまで年寄りじみたことを。何度も似たようなことを。 現代語訳がついているのでそちらしか読んでない。 そこで、つまり、この道はただ花が能の生命であるのを、花がなくなってしまったのも知らずに、過去の名声だけを空頼みにしているということは、年寄りのシテ役者の大間違いである。芸の数だけはたくさん学んでも、花とはどういうものかということを知らない者は、あたかも花の咲かない時の草木を集めて見るようなものだ。世間に多い木草の花は、その色あいこそとりどり違っていても、咲く花をおもしろいとながめる心理は、みなそれが同じ美しい花だからだ。自分がこなし得た芸の種類は少なくても、ある一面の花をすっかり究めたような役者は、それがうまいという名声は久しく保てるのであろう。こういうわけだから、当人のおもわくでは、おれはずいぶん花があると思っていても、その花が見物人の目に見える工夫がないようなものは、丁度田舎の花や藪の中の梅などが、見る人もなく無駄に咲き匂っているようなものだ。 観阿弥の語る芸術論は広く一般にも通用するものだ。が、それと同時に、これら観阿弥の中で作り上げられたことごとくは、厳密に言えば観阿弥にしか通用しないものだ。いささか矛盾するが気にしない。世阿弥やその後継者達が教えを守り忠実に稽古に励んだとしても、彼らは観阿弥ではない。観阿弥に出来たことが全て出来るわけではない。さらに言うなら観阿弥とて自分が思う理想の姿を完全に実現出来たのでもないだろう。こう言えば、どれほど役に立ちそうなことが書かれた指南書も無意味に等しいという結論に達してしまいそうだが、そうではなく、結局自分自身に役立つ指針は自分の中で作り上げていくしかなく、そのために参考になるものから部分を盗むのはむしろ率先してすべきことだ。しかしそれはこの本のように、時代やジャンルが自分とはあまり関係のないものの方が良い。近すぎると却って毒される。 この本はいい本だ。世阿弥 編「花伝書」川瀬一馬 校注 現代語訳(講談社文庫)
2003/05/16
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探していたゴーゴリ「死せる魂」下巻しか置いていない紀伊国屋では幼女が投げ飛ばす少女漫画が足元に飛んで来た。母親は何もかもを諦めた表情で娘の落とす本を拾い続けていた。レジで「カヴァーおつけしますか?」という言葉に返事をせず小さく頷いたところで矢場徹吾を思いだし、俄か黙狂装い「死霊 三巻」を受け取った。 講談社文芸文庫版「大いなる日・司令の休暇」とは収録作品が違う。旧版講談社文庫。昭和47年発行。『大いなる日』『鵠沼西海岸』『おふくろ』『孫むすめ』『子供のために』『十年』。 阿部昭と色川武大の父親は似ている。油断しているとどちらの父親の話だったか思い出した時混同する。浮かんだ文章の文体で判断出来ればいいが、読んだ日の遠い色川作品の文章は綺麗に浮かんで来ない。『狂人日記』をあまり日を置かず二回読めたのは何故だったのか。夏、図書館の全集の棚の前の椅子に座る自分が見える。『大いなる日』『鵠沼西海岸』は飛ばし、初物を食らう。いや、『十年』もどこか見覚えがあるような気がする。手元にある阿部昭の本には・・・・・・そろそろ整理しないと何が何処にあるかさっぱりだ。五十音順に並べるのは諦めている。長編漫画を集めることはやめたつもりだが、「ジャイアント」「シュガー」「吼えろペン」、以前には私の部屋になかったスポーツ漫画三作品はまだ長く続くのだろう。面白いから。何のことはない、出版不況など、読者の本棚のスペースも考慮しないでどうでもいい本を出し続ける出版社が悪いのだ。時間と空間は有限だ。 それに僕は、いま読んでみて、この誓約めいた手紙の一字一句も訂正する必要はないと思った。だからいま妻がこれをふりかざして僕を非難するとしたら、おそらく文面のことではないのだろう。言葉の真実というものは、十年やそこらでくさるものではない。それにひきかえ生身の人間は、おそらくその真実に堪えぬくらい弱いものなのだ。彼女はきっと、僕がもう昔のように愛の言葉を口にしなくなったこと、もうおおっぴらに彼女の唇をもとめたりはしなくなったことをいっているのにちがいなかった。しかし、それは十年いっしょに暮らした夫婦のあいだでは、もはやたやすく起こり得る事柄ではなかった。『十年』より『孫むすめ』のようにですます調の文体は嫌いだが、それも含め、講談社文芸文庫版のいくつかの撰集に漏れていることもあり、あまり粒ぞろいというわけではない。 「いざ書く段になれば、大急ぎで逃げるようにして書いてしまわなくてはやりきれない」(「短い形式」)のである。「しかし」と、彼はつづいて言っていた。「しかし、私はうまく逃げおおせたのだろうか? 私が逃げたのは、住んでいる土地からばかりではない。そんなふうにして、私がいわば生活上にも通ずる窮余の策を用いてすり抜けてきたのが、自明のことではあるが、”戦後”と呼び慣らされているあの一つの大きな時代だった。時代のかがやかしい混乱からも、すばらしい昂奮からも、そのあとに訪れたしらじらしい倦怠からも、人は沢山のことを学んだであろう。私にしてもそれは同じだが、ただ私は私の学び方でまなんだのである。」解説より。「日日の友」と同じく上田三四二 阿部昭が「戦後」を「私は私の学び方でまな」ぶように、私達も「現代」を学ぶ、或いは感じる時は全体にではなくあくまで個人に降りかかってくるものとして感じなければならない。それについてのどうのこうのは、何も考えていないから書けない。
2003/05/13
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かび臭い古本屋のレジにこの本を持っていくと全頭白髪のおじいさんがエロビデオテープを買っていた。1300円だった。『月の光』『日日の友』『川』『窓の眺め』『一日の労苦』。 テレビ会社時代のものより、やはり故郷での話の方がいい。馴染んだ阿部昭の世界に入れる。郷愁感漂う作品を読むこと自体にこちらが懐かしさを感じ、二重に寂しくもなる。これは昔の話なのだ。この作家はもうこの世にいないのだ。 故郷に大きな川を持っている連中のことを、僕はうらやんだことはない。彼等の川は、僕のそれにくらべたら、川幅も水量もとほうもなくゆたかなもので、幼時、彼等の目には、それは海のようにも思えたろう。それでなくても子供の頃には、いろいろなものが嘘みたいに大きく、おっかなく、迫ってくるように見えるものだ。僕はというと、海がすぐそばに手にとるようにあったので、川のほうはこのちっぽけな引地川で満足していた。この引地川は、上流のことは知らないが、とにかく海にそそぐ河口のあたりでも幅二十メートルあるかないかの小さい川だ。 いまのいままで僕は、彼がこんなにも老いぼれてしまったとは想像もしないでいた。血気さかんだった昔の彼の、直立不動の号令や、武道の気合いや、馬糞ひろいのモッコの中身を憑かれたように点検する目つきを忘れかねていた。だから、走って下さい。走って、元気なところを見せて下さい。そういいたかった。 あの頃、僕らはあなたのいうことなら、何でもきき、何でも信じた。馬糞や牛糞をわしづかみにできるものこそ、勇気ある真の少国民である、とあなたがいえば、僕らは信じた。馬糞の拾いかたが少ないといって殴られれば、僕らはもっともだと思った。そうして汗みどろになって掻きあつめた馬や牛の糞を、僕らはあなたの顔になげつけてやってもよかったのに、そうはしなかった。それはまことに貴重なものであり、僕らの遊び場をどんどんけずりとって行く学校菜園の、食べられる植物たちの生長をたすけてくれた。おお、僕らが拾った馬糞牛糞でそだった僕らの痩せた野菜よ! やがてそれをみんなで掘りおこしたとき、あなたは僕らに、一本日本とかぞえながら惜しそうに配給した。そして、自分の分を一貫目二貫目と秤にかけてその大きな包みを僕らに背負わせ、放課後、あなたの家まではこばせた。やっぱり飢えて口数すくないあなたのすすけた女房やはなたれどもがいる家まで。どちらも『川』から いささか教科書的過ぎるきらいもあるが、これらの言葉は響きやすい。似たような体験を経ずとも、この感覚は分かると、自分にもこれに似たことはあったと錯覚させる。夏の海の思い出や初恋の話やらを語ればたいていの人の共有感覚を引き起こし、それなりに訴えるものが出来あがる。しかしだからこそ不完全なままに手を止めて、安易な作品にしてしまいかねない。嘘が混ざると醒めやすい。酔い潰れながらクダをまく、昔話ばかりが好きな男の繰り言と、阿部昭の短編には大きな差がある。 思い出の中に沈むのは危険だ。良いものも悪いものも思い出してみれば恥ずかしくも懐かしく、底がない。過去を思い返して楽しむことは出来ても過去を生き直すことは出来ない。この当たり前の単純な事実の前から進めなければ人は死ぬ。思い出を懐かしがる自分を懐かしがることはないのだ。何も生まれず、成長が起こらない。久し振りに会った友人と話す昔話に幾つか食い違いが見られ、お互いの思い出が微妙に変貌していることに気付く。どれほど美しい過去も、その程度のものでしかない。しかし過去はあり、美しい思い出を美しい小説として残すことの出来る人もいる。堂堂巡りにケリがつかない。 羽鳥は、その広言どおりに、それを外へ持ち出して思うぞんぶん振りまわすべきだった。自分を切りさいなむかわりに、会社で周囲の連中に切りつけるべきだった。山屋にも、何某にも、誰某にも切りつけるべきだった。いかなる方法でやるにしろ、断乎としてそうすべきだった。じっさい、いまになってはっきりいえることは、羽鳥がその刃物とやらをふりかざして会社の連中の五、六人も<ぶった切って>いたら、彼はこんなところへ来なくて済んだのだ。だのに彼はそれをしなかった。彼にそんなことが出来るはずもなかった。『日日の友』より ケリをつけられない。阿部昭「日日の友」(中公文庫)
2003/05/10
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短編集。『心臓』『酷愛』『先生の下宿』『消えた青年』『夜の水泳』『終の住家へ』『闇の力』『姉弟』『蛇王』 この解説を写せば感想はいらない。 ・・・・・・特に小川氏の短編は、呼んだその場では一体モティーフは何なのか。何を書こうとしたのか、というようなことがうまく呑み込めない。しばらくして、ある場合には十日くらいたってから「あれはよかったなあ」という印象が浮かんでくるのである。つまりその作品が一個の存在として心の内に残って消えないのである。このことは誰にも見える小川氏の小説の特徴のひとつで、それは氏が、描こうとするものをしっかり掴んで、視覚的にもよく見て描いているからである。この力が頭抜けて強いのである。生れつき自分の単語、言語でしか言えないうえに、そのフレイズとフレイズの合わせ目を暈かしこんで滑らかに整えようとする気がなく、裸のまま並べて、それでいいとする潔癖性が、生理的にあるらしい。従って解りにくくなって小説としては損だが私は好きである。彼の一軒筋も話もない、描写だけの短編の意味するものは、或る状況に於ける人間の生まの姿横棒理性でも思考でもなく、その原始的な重い姿の直写ということである。・・・・・・ ・・・・・・画の展覧会などを見ている場合、ある画の前に来て、特別に惹きこまれて敬服するということはないのだが「この画には感じがある」と思うことがある。それはただの直感で、別にハッキリしたことを指摘できるようなものではないし、それを口に出せば感じとして間違いになるのだが、とにかく作者の描こうとしている気持ちがこちらへ快く伝わってくるという気味合である。小川氏の短編の場合にもそれがある。私は彼のある小篇を読んで、彼の描いた鳥は飛んでいる、しかし確かに何者かに両脚をたばね縛られて飛んでいる、というような暗い印象だけを受けたことがある。 解説・藤枝静男。 昭和53年発行。集英社文庫。
2003/05/06
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前を行く仕事帰りの若いサラリーマンが時折激しく横にブレるので酔っ払いかと思ったが、看板や金網を蹴り出した。「くそっ!」と叫んだりもしていた。怒りながらも器物破損を恐れていた。彼は点滅を始めた信号機を見ると「あっ」と軽く呟き、小走りに横断歩道を渡っていった。しっかりとした足どりで。「なにを言ってんのよ。あなたのは十年このかたのことじゃないの。十年このかたの不正がたったの三日間でどれだけのことを証明できますか。たわごとも休み休み言ってちょうだい。だからあなたはにんげんのことに無責任なのです。あなたの仲間があなたのことをどう言っているのか知っていますか。とんまとかうすのろとか言っているのですよ。じぶんの小ささを知らないで、あなたのきたない生活を文学的探求のつもりがきいてあきれるじゃないの。あなたの小説などどれひとつとしてにんげんの真実を描いていないじゃない。うすよごれたことばかりに細密描写をしているだけでしょ。だからいつまでもうだつがあがらないのだわ。それであなたそのときよかったの」「よかった」「ちきしょう」そう言うと妻はがばとふとんの上に起きあがり、目をつりあげた形相で私をにらみつけた。 文学的生活なんてはた迷惑なものでしかなく、そういう言葉で自分を誤魔化せば浮気も遊びも自殺もまるで高尚なものであるかのような、勘違いを起こさせるが、世間には通用せず、身近な者には物狂いを憑かせることにもなり、火が付けば消せず、燻り続け、止まらなくなる。 何度も、何度も、何度も何度も同じような話が繰返される。蒸し返される。妻が夫の過去を追及し始め、夫は耐えきれず狂った振りをし、子供たちが悲しみ、自殺未遂は留められる。猿に似た顔の天下人がそこそこの実力とそこそこの外見だけの地味な主役の男に、長年の友情を忘れたような非道なことをするが、そこそこの男に怒られ、あれは本心ではないと涙ぐむ、いつかの大河ドラマのように。そうして子供に飽きられる。「あなたはあたしたちと別居をしたいといつも言っていたけど、別居してどうするつもりだったの」 ときかれてもうまく答えることができない。はなしがもつれてくると、私はいらいらしてきて昼間の行為を思い出し、物も言わずに立ちあがって障子に頭を突っこんだ。張り替えたばかりの障子は、桟がばらばらにくずれてとび散ったが、私は満足できず、六畳に立って行ってたんすに突進した。しかし今度はどうしてか妻はとめに来ない。崖から突き落とされたように寂しくなるが、そのままやめるのも恰好がつかず、喊声をあげて二度三度突っこむと、頭の地肌がみみずばれになり、血もにじんだようだ。たんすのほうは一向壊れず、頭蓋骨のなかは痛みがひびき合い、耳のそばで破れ鐘を叩かれるようなのでおそろしくなり、畳に両足を投げ出し、いきをととのえたが、たかぶりは少しもおさまらず、そのへんのこわれやすい物を思いきり叩きつけたい荒れた気になっている。それにしても、自分がどこか適当に傷ついて妻があわてるのでなければなどと思い、でも指先のかすり傷ひとつでさえ、すぐ化膿して直りにくい体質だと思いかえすときもちがくずれ、食卓の前でだまって今の愚行を見ていた妻とこどもをうかがうと、伸一父の目をたじろがずに見据え、「おとうさん、きらい」 と言ったあとで、母のほうをムキ、「おとうさんのこと、ぼうや、もうあきちゃった。ほんとのこと、言っちゃった。 とつけ加えた。「文学的行為」も「深刻な自殺未遂」も、子供に飽きられ呆れられれば滑稽な一人芝居でしかない。暗い暗いcryと思いつつ読んでいてもこうして時々笑いもするのでどうにか耐えられる。時々「もういいや」がやってくるが、長編であるだけに、途中で放り出すのも惜しく、後半になり、いくらか繰返しが薄れ状況が転がり出してからは苦しまずに読めた。情が移り、他の作品に手を出しにくくなる。それでいて一向に読書ペースは早まらない。夫の狂いの発作も、自嘲気味で描かれるそれらにこちらも次第に本気で感じ入ることをしなくなっているので、暗さ一辺倒という風な読む前の印象とはやや違ってくる。 今もまだそういう人がいるかどうかは分からないが、いわゆる「文学的生活」とやらが格好いいと思っているような輩には──孤独を好み、家庭を顧みず、友人に蔑まれていても、それは自分には仕方がないという風な、文学者と呼ばれる人たちの悪いところだけを寄せ集めたような──、そのような馬鹿げた迷妄の勘違い宇宙に住んでいるような人には効果のある一冊だ。「想像力」を武器にする人がそれを身近な者へ使えない。幸い島尾敏雄はそのことを作品として書き上げることが出来た。しかし、それを出来ない者の方が多いので、世の中には想像力の貧困により苦しみ続ける人たちがなくなることはない。島尾敏雄「死の棘」(新潮文庫)
2003/05/02
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選挙の夜12時頃、告知ポスターが貼られた看板をコンコンと叩き続けるくたびれた中年一人。写真の顔と少し似ていた。 苦手な作家が多いこともあり、読み残していた一冊。戦争と一人の女 無削除版(坂口安吾)鳩の街草話(田村泰次郎)もの喰う女(武田泰淳)寝台の舟(吉行淳之介)明くる日(河野多恵子)マッチ売りの少女(野坂昭如)蜜の味(田久保英夫)赫髪(中上健次)遠い空(富岡多恵子)OFF(村上龍)セミの追憶(古山高麗雄) 普段から敬遠していた坂口安吾のものが意外ととても面白くて。そのままずるずると、淀みなく読めた。既読作品は野坂昭如と村上龍のもの二つ、結局また読んだ。冒頭からうんざりした『OFF』だが、途中、話しかけられたのに気付かなかったので、やはり力はある。しかしそこに興奮は起こらず。 吉行淳之介の文章が苦手だ。中上健次の文体が苦手だ。河野多恵子の感覚が苦手だ。富岡多恵子の・・・なんだっけ、いろいろ混同している。河野多恵子・富岡多恵子・多和田葉子、・大庭みな子・金井恵美子・・・・・・少し余分に付け足し。 ヘンリー・ミラーの短篇集「愛と笑いの夜」(福武文庫)が吉行淳之介訳で、大久保康雄から吉行ではその温度差と、ガツガツとしたものとヌルヌルとしたものとの違いに戸惑い、別物になりすぎていて、物語に入れないでいる。苦手というよりは嫌いなんだろう。そこを言い切れないのは記憶の底に横たわる「微熱の国の王様だ」という郷愁と、それにまつわる思い出。は、ともかく。 女は戦争が好きであった。食物の不足や遊び場の欠乏で女は戦争を大いに呪ってはいたけれども、爆撃という人々の更に呪う一点に於て、女は大いに戦争を愛していたのである。そうだろう。そういう気質なのだ。平凡なことには満足できないのである。爆撃が始まると慌てふためいて防空壕へ駆けこむけれども、ふるえながら、恐怖に満足しており、その充足感に気質的な枯渇をみたしている。恐らく女は生れて以来かほど枯渇をみたす喜びを知らなかったに相違ない。肉体に欠けている快感をこっちで充足させているようなもので、そのせいか女は浮気をしなくなった。浮気の魅力よりも爆撃される魅力の方が大きいことは野村の目にも歴々わかり、数日空襲警報がでないと女は妙にいらいらする。ひどく退屈する。むやみに遊びたがり、浮気の虫がでそうになるが、空襲警報がなるので、どうやらおさまる状態が野村に分るのである。『戦争と一人の女(無削除版)より』 一つ安吾のものを別格として次点は富岡多恵子『遠い空』。もうすぐ六十になろうというおばさんの家へ春と秋に性交を求めにやってくる聾唖の男との永遠の性交。男の犯罪により断ち切られた永遠が、その弟によりこれからも続く、一度「永遠」になってしまったものは永遠に変わらず続く。少しコミカルに。「戦後短篇小説再発見〈2〉性の根源へ」(講談社文芸文庫) 補足。書き忘れ。その他。 このシリーズこれで10冊全部読み終えた。結果、なんとなく敬遠してた作家も、はっきりと理由があって敬遠してた作家も、全然知らなかった作家も、興味はあったが読み出すには至らなかった作家も、どれも意外と「読める」ということが分かった。最後まで読めなかったのは金井恵美子ただ一人。島田雅彦も我慢したら読めた。 古井由吉を読み出し、埴谷雄高に手を出し、阿部昭の「そのうち読もう」が随分と時期が早まり、それらは全て大好きになった。結城信一や小島信夫、日野啓三らはあまり熱心に読んでいないが・・・・・・。「食わず嫌い」「食っても嫌い」太宰と三島は何が面白いのか。その作家から何故わざわざそれを。悪い面もあるがいい面も多くある。アンソロジーは役に立つ。こちらも傑作ばかりを期待しているわけではなく、「出会い」「きっかけ」を求めていた。大体普通に生きてれば『死霊』を読み始めるきっかけは得られない。『死霊』を読み耽った過去は最早郷愁の色を帯びた思い出になっている。楽しかったなあ、けれどあまり意味はなかったなあ。しかし楽しかった、うん。そのような。古井由吉に出会わなければ今の私のいろいろなものは、ない。大袈裟でなく。阿部昭から貰えた物は少ないが、読んでる途中それに関連したいろいろがあった。そのいろいろは面白いことだった。 まるで別れの挨拶だ。
2003/04/28
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埴谷「ある種のひとが殺されるときすら奇妙な嗤いを浮かべているのは、それを気懸りに思う宇宙のひけ目を知っているからだろうさ。」宇宙なんですよ。宇宙はあるものに対してひけ目を持たざるをえない。宇宙にひけめを持たせるには、われわれはよほど立派なことを言わないかぎり宇宙はまいったといわないんです。 この場合は、殺されるときも不敵な嗤いを浮かべているというだけだけれども、僕は不敵な嗤い以上にもっと立派な言葉を言って、「宇宙よ、こうだ」と言ったら、宇宙はがっくりきて、「まいった」というわけです。 私は「不完全な読み手」である。作者の言いたいことをうまく読みとっていたことなどほとんどない。ならば「完全な読み手」とは何か。作者が作品を通じてAということを伝えたいと思うその思いをそのまま感じ取ることの出来るのがそうか。しかし作者と読者のA=Aが正確にいつも同じであるならば様々な評論も論議もなく、味気ないものになってしまうだろう。第一作者自身がいつもいつも完全に表現したいことを表現出来るとは限らない。Aと伝えたかったはずの作品がA’になり、A’’になり、A’’’になり・・・・・・●や□になったりもする。それを読者がどう受けとるか。A’程度ならいいがB’’や△や何が何だか分からないものになってしまうこともある。しかしその誤読に何も意味がないだろうか。そうではない。はっきりとA=Aでないからこそ楽しめること、感じる多くのことがある。学ぶことすら。・現代文学における現実への絶望について・私自身が感じ続けてきた自同律の不快・『死霊』読書時における空間設定 いろいろ書こうとしたが一つもまとまらなかった。一番上は大ざっぱな推論に過ぎず、真ん中は自分話、一番下のはでたらめだ。その一例↓ 現代文学の問題という、書いただけで胸がむかつく言葉について考えてみた。かつて在って今は無いものに対して、今もあるしかつても在ったように絶望していることがそれだ。かつて戦争があった。それは多くの経験を残した。物を書くことに決めた人にとってそれは消そうにも消せない傷跡でもあり、思い出でも、書くよすがでもあった。直接戦争を知らなくても、激動する時代があった。激情した空気があった。もしくはあると信じられていた、信じこんでいた。しかし今現在の比較的若い世代にはそのような経験はない。そしてそのまま書いてもあまり面白くない現在に辟易して現実から遊離した作品が生まれることになり、そういったものは、同じような絶望を感じ続けてきた先人たちの残した作品を知っている読者には問題なく受け入れられるが、そうでない人には読みにくい、意味がないものとして映ることになる。その繰返しにより主に純文学と言われるジャンルは読者が減り続けてきた。 しかしその現実的には意味のない作品は無価値であるかというとそうでもない。何らかの感情を読者に呼び起こし、書かれている思想に共感し、人によっては人生の指針にしたり、また学問にしてしまったりする。・・・・・・ 私は実のところ面白がるだけでさっぱり理解してなかった『死霊』。について作者が語っている本。骸骸とした身体が目に見えるような語り口で。NHKで放映されたもの。~章のあそこは失敗だったとか。あそこで出てくるあれはまだ本当のものじゃなくて本物が出てくる前によく似たものが出てくるというあれだとか。これから書くのはこういうものだとか。作品をただ面白がるだけではあまり感じ取れない、作品の裏にある作者の思惑がよく見えるようになっている。他人の手による『死霊 十章』は可能ではないかとこれを読む前は思えたものだが・・・・・・いやはやどうして。 アンドロメダは、かつてはわれわれの銀河から一五〇万光年の距離といわれていたわけですが、いまは二一〇光年ぐらいだといわれているわけですよね。アンドロメダは双子星雲で、非常に遠くから見ると同じようなものが二つ並んでいるわけです。僕は病気が治ったときに、表に出てアンドロメダが見えるわkです。そうすると、一五〇万光年ということで、直径一〇万光年のわれわれの銀河を一五〇回くり返していけば向こうに到着するわけですよ。いまは二一回ということになったわけだ。二一回だけど、地球と月よりもこちのほうが近いんですよ。地球と月は、地球の直径を三十何回かくり返さないと到着できない。だから地球と月よりもアンドロメダと銀河のほうが近い兄弟ということで、僕の兄弟はアンドロメダにいる。「X埴谷」というのがここにいて、僕が見ているときは向こうからも見ている。僕が見ていると向こうからも同じように見ている。「宇宙の鏡」と同じで、僕が見ているということは、向こうからも見ているわけだ。「あっ、あそこの向こうの兄弟、あいつが考えている、いつか会えるかな」というようなことですよ。 第五章の夢魔風に考えるならば「俺のことをおまえが考えた時、その思考という乗り物に乗って俺は・・・」ということだから、「埴谷雄高」と「X埴谷」とは既に出会っていてもおかしくはないのだけれど。やはりそれが実現出来るのは白い紙に創りだした宇宙の中でしかないのだけれど。 だから、未出現宇宙、これはね、現実的な何かを使って書くということは大変だけれども、夢のまた夢で。しかし、その夢もまた夢が実際言うとほんとうなんだと読者に思わせなくちゃ駄目なんですよ、困ったことに。おまえのいま生きているこの現実の宇宙は、この夢の夢に比べたら万分の一、億分の一の価値しかないというふうに読者に思わせる。「ああ、ここに行きたいな」と思わせなくちゃだめ。思うでしょうか。僕がうまく書けば思うはずですよ。読者はふわーっと入っていって、「ああ、ここだよ。よかった。ああ、これ読んだらもう、死んでもいい」と、そこまで思わせなくちゃ、ほんとうは。 埴谷雄高「独白・死霊の世界」(NHK出版 現在取り扱い出来ません)
2003/04/22
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最新短篇集。『鶴の壺』『矢畑君のストーン』『工夫の減さん』『権現の踊り子』『ふくみ笑い』『逆水戸』。 一時読み漁り『きれぎれ』で息が切れた。飽きた。読みやすい文体なので目は流れるが、流れ過ぎると意味を見失い、寝てるも同じになる。あと、伝染る。『鶴の壺』で、おや、おかしいな、面白いじゃないか。問題なく。続く『矢畑君のストーン』もまあまあ、なんだ飽きることもなかったのかな、『工夫の減さん』は雑誌掲載時に読んだ。読みやすいからもう一度読んでもいいか、ふむ、まあ、『権現の踊り子』これは何とか賞とったと雑誌に載っていたのを読んだ、割と最近か、気が向けば後で読もう、『ふくみ笑い』・・・・・・素人? この手のパターンの話はそれこそ誰にでも出来るもので何も今さらこの人が大袈裟にやるものでもないだろうそれに成功していない下手に最後の方で世界観の説明が始まりしこうして後(「しこうして」が伝染っている)実はやっぱり、という、町田文体でなければ最後まで読みもしたくない『逆水戸』水戸黄門の逆ね・・・まあ結構笑えるけれども・・・素人の作るパロディと大差ない・・・。『権現の踊り子』再読・・・やめとこう。 たとえばどこでもいいのだけれども。 鶴が入院している、しかも病状はかなり深刻でいつみまかってもおかしくないという話を最初に聞いたのは、確か湯豆腐で熱燗をやりながらだからもう六ヶ月以上前、以来、いろいろな場所でいろいろなひとから鶴のことをきいたのだけれども、その聞いた状況というのがきわめてよろしくなく、例えば撮影現場の暗がりですれ違いざま、顔見知りの俳優に、ねえ鶴のこと聞いた? と耳打ちされ、うん聞いた聞いた、と答えると、助監督が呼びに来て開いてはあたふたとセットの奥に消えてしまう、パーティー会場で知った人と話すうち、そういえば鶴が、というので、うん、そうらしいね、と身を乗り出すと、重要な人を発見した彼は、やあやあやあやあどもどもどもども、と手を挙げ人の渦のなかに見えなくなる、など、いつまで経っても鶴が入院をしているらしい、しかも病状は深刻でいつみまかってもおかしくないらしい、という情報以上に詳しい情報を得ることができぬまま六ヶ月、ふだんの暮らしのなかでふと、鶴はどうしているだろうか、と思うことはあるにはあったが、日々のいろいろなことに取り紛れて釣るのことはそのままになっていた。ところが。『鶴の壺』冒頭 誰もがむやみに人を殴りたくなるような貞享三年四月、腐ったような里山に新緑のぼけが芽吹いていやがった。 田だか野だか分からぬあほらしい草原があってそのうえ間抜けなクリークがありやがった。なめているのか。 しかもそのまぬけなクリークにはあろうことか馬鹿みたいな土橋がかかっていやがった。その土橋を光という名の若い娘が渡っていた。『逆水戸』冒頭 読む。すると町田康を読んでいると脳が認識する。するとマチダナリンだかなんだかそんなものが分泌する。すると気持ちよくなる。そうして読み進め、面白いうちはいいが、そうでない時はバッドトリップがやってくる、くるか? 書いた手前来ることにする。すると「文体に踊らされていただけか」と落胆、しかし踊るなら別に野坂昭如でもいい、が、と、彼もはずれは多い大きい。登場人物の名前等に見え隠れする仏の影がどうも好きになれない。ぶつぶつしたものは、生理的に気にくわなく、キリスト系のそれに比べるといささか心が狭くなる。 少しこの本にも関連したいろいろなあれこれは今読んでる本を読み終えた後に書くことに多分続く。次。町田康「権現の踊り子」(講談社)
2003/04/17
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内田百間の書いた酒に関する随筆を集めたアンソロジー「タンタルス」をぱらぱらと読みまた本書に戻ると、そこには女の尻と反吐と悪罵に満ちた喧しい場所で酒を飲む場面があり、ふと今読んでいるのはなんだったかとフラフラした。断片、断面、切れ切れの人物、時間、へどもど、ゲロ、チンコマンコ、女、男、女、男、女、性病、娼婦、出来損ないの芸術家だらけのパリでだらけた生活を送るユダヤ人贔屓のアメリカ人が吐き出す文章の群。面白いか? 面白くないか? 正直うんざりか? それほどでもないか? 半々。露悪的描写の後幻視的になると次第に何を見ているか何故読んでいるかが分からなくなり、しょっちゅう他の本に手を伸ばした。しかし詩のアンソロジーははずれ物で偽物ばかり、昔の中国の偉い人について書かれた本は半分まで費やしてようやく「これまでのこの人に書かれた文献はそれほど信用出来ないものばかり」などとのたまいやがり、柴田翔は文章が薄かった。 ではこれは何だ? これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の毀損だ。言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、「芸術」の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美・・・・・何でもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ。ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる ブコウスキーが誉めてたような。いや間違いなく誉めてるだろう。どうしようもないくらい影響は受けているだろう。次に読むかとセリーヌ『夜の果ての旅』を部屋をへちゃむくれにしようやく探し出したが、栞が抜け落ち、以前読んだところが何処までだったか分からず、元に戻した。ヘンリー・ミラー、ヘンリー・チナスキー、関連のないはずはない。似ているのではなく同じ人間が少し時代が違う場所に居ただけだとさえ思える。この場合前と後ろはあまり問題にならない。 マダムは洗滌器のそばに立って、さかんにいきまき、唾を吐きちらした。女たちも、手にタオルを持ったまま、そこにつっ立っている。ぼくたち五人は、そこにつっ立って洗滌器を眺めた。水のなかに、ごつい黄いろのやつが二つ、ぽかりと浮いているのだ。マダムが、かがみこんで、その上にタオルをかけた。「ひどいわ! ひどいわ!」と、彼女がぐちった。「こんなことって、あたしゃ、はじめてだよ。豚だよ、ほんとに! きたない子豚だよ!」 不思議なもので、この場面に行き当たるまで、先日読んだ「スカトロジア」の中にこの後の文章が引用されていたことをすっかり忘れていた。どうして今自分がこの作品を選んだのかがどうも腑に落ちなかったのだが、129ページ目でようやくそのことに気付いた。読んだだけでなく引用までしている。呆けた頭に偶然と嘘をつく、わざとらしい忘却だ。それこそ藤枝静男『老友』をここで持ちだして、フランスに寄生する人間のことを書いたことで共通している云々と繋がりだの導きだのと言い出してしまいそうだ。無理やり関係を見出すのは賢くない、読んだ作品に対してそれなりに敬意を払いつつ一つ二つ数えて義理堅い顔を捨て見境もなく思うがままを垂れ流す・・・それが誠実な関係だ。そうして出てくるのは妙にテンションが上がるそれを頭の中では自制させつつキーボードは淀みなく速く打てる・・・という結果だけだ。作品に関して思うところはそう多くはないが、自分には似合わない喧噪が乗り移る、あるいは一時的に乗り移った振りをしてみる。それでどうする? 夜に走るか? 石でも投げるか? 空が飛べる振りでもするか? どこへ? どうして? どうやって? 書く内にとっくに沈静している気分にも気付いている。一時の気持ちはそれなりに確かなものだった。「あのときはそう思った」。残り100ページの長かった事。これは適当な箇所を開き好きな時に適当に読み適当に熱くなるのにいい本だ。 同時に私はこの作品を一生愛するかもしれないとも思い始めているから厄介だ。新潮文庫
2003/04/15
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作者の言葉 時事新報社の需めに応じて、本紙の夕刊に連載小説を執筆する事になつたが、新聞小説は私に取つて初めての経験である。様子が解らないので、これから先先の出来栄えをあらかじめお請合する事は六づかしい。毎日書いて行く内に、作中の人物が勝手にあばれ出して、作者の云ふ事を聴かなくなつたら困ると、今から心配してゐる。どうにも手にをへなくなれば登場人物を鏖殺し(みなごろし)にして、結末をつける他はなからうと考へてゐる。 どうも本の薄さから見ると登場人物皆殺しが実現してそうだと読み始める。作者が以前高利貸を主人公にした小説を書いたら知り合いの高利貸で「あれは俺のことだろう」と言って腹を立ててきたものがある云々という話から今度の小説の主人公はどういう男がいいかという話に移ったと思ったら突然会話文が挟まり「もう小説が始まったのである」などと人を食う。 そんな小説はそのまま大したことも起こらない、居候書生の目から見た日常がトテトテと語られる。おや、というところで「再び作者の言葉」という章が始まり、おや、と思っていると、どうやら連載していた新聞が潰れてしまい、作者が登場人物を皆殺しにするまでもなく小説がちょん切れたらしい。これは解説でも触れられているが、それならば本にする時点で続編を足していくらかでも終了させようと試みればいいものを、「再び作者の言葉」を延々と続かせ、とってつけたように「登場人物の其後」を書いてはいるが、「再び~」が13頁なのに対しこちらは7頁。居候の家が火事で燃えるという、綺麗に片付けるも何もあったものじゃない終わり方。登場人物の一人オットセイというあだ名の教師は「再び作者の言葉」の中の言葉遊びを引きずったまま海中に行方不明になってしまうというこれはもう何が何だか分からない以前に無茶苦茶なことになってしまっている。 しかしこういう気楽で無意味な小説が今はとてもありがたい。先日、遠藤周作『海と毒薬』を読み、このようなどうしようもなくつまらないものが名作気取りで何故長く残っているのだろうと気分が悪くなり、罵詈雑言と恨み節しか出ない感想は自分を害するだけだと抑え、酒見賢一『墨攻』中島敦『李陵』再読で口直しをし、『行帰り』でどうにか持ち直したと思ったところでふと、読むものがないのに気付いた。ないことはない、いくらでもまだ本は転がっているのに、どれもピンと来ない、めんどくさい、読みたくない。いつまで経っても優先順位の低いままの本が目のつくところに並べられたままである。低いままならいいが圏外にまで落ち、もういっそ捨ててしまえと思えるものもある。 一、二番目に近いためかえってあまり寄らない古本屋に福武文庫本がいくつか増えており、やはり読みたいものは突然無くなりはしないのだなと安心した。「飛行機がうるさいねえ。だから飛行機の夢を見ていた。下から一生懸命に見ようとするんだけれど、音ばかりして、どうしても見えないんだ。それで段段身体が固くなって、何だか口のまわりが鳥になった様な気がした」
2003/04/09
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立って歩き意思表示をするのだから2歳くらいか。3歳だともう少し人の形が整い小動物臭さが抜けるのか。では1歳とは? 周りに幼な児がおらず、その辺りの年齢がよく分からない。とにかく私の膝くらいまでしかない大きさのその幼女はポップコーンの機械の調子がおかしいことを店員に知らされ、今は無理だと母親に諭された途端、表情を泣き顔に一瞬で変えた。これほど瞬時に人の表情は変わるのか、これくらいのことで、と驚いた。もう少し大きくなれば悲しい出来事の後に実際泣き出すまでに数瞬思考が挟まり、悲しみの後に泣き声が来る。悲しい出来事が起こる→悲しい気分に襲われる→涙が出る ではなくて、悲しい出来事に対する反射で涙が流れ、その後悲しくなる。「悲しいから涙が出るんじゃない、涙が出るから悲しいんだ」とはどこの誰のセリフかは忘れた。 何もかもが大きく見えた子供の頃、その場所はとても広くていろんな何もかもがあったように見えた。伸びた身長と重ねた年齢のせいだけではなく、その場所は明らかに狭く、無理やりいろいろを詰め込み過ぎて、乗り物のすぐ傍にいる動物たちは苦しそうに見えた。実際ゾウはノイローゼのためか、いつまでもいつまでも同じ場所で体を横に揺らし続けていた。 感傷と郷愁に浸るための場所でしかなかった。桜の下で酒酌み交わす中年達、親の感傷に引きずられて、ガチョウに追いかけられて泣く子供、トラの檻の前でカメラ付き携帯で撮影をする集団、悲しみの影は落ちず皆一様に仕方なしと考えている様子。キリンとカバの姿はもう見えず、サルは震えて固まっていた。 すぎむらしんいち「HOTEL CALFORINIA(ホテル・カルフォリニア 誤記ではない)」では、騒動の発端となる失踪した社長は、物語の始まる前に既に崖下に落ちて死んでいる。本書でも主人公の姉の死は最初からはっきりと示されているが、作中人物は途中まで彼女が行方不明であるとしか知らない。いや、知らないつもりでいるが実はうっすらと悟っている。それは不具の姉が一度決意したことはやり遂げる性格だと家族が知っているせいもあるが、物語の最初から語り手は姉が死んだ後に語っている前提で文章が進むので、語られ描かれる姉は既に死人なのである。まだ姉の死が分かっていない、やがては帰ってくるはずのものと楽観しながら、婚礼の前の晩に家族が姉の昔話をする場面に既に姉の死の気配がまとわりついているのは、語り手の感傷により誇張・・・・・・ここまで適当に書いてきてようやく本を開いて確かめると三人称で書かれた話。いろいろ考えに色をつけるのが面倒になった。『さようなら、ギャングたち』に出てくるような、もう少し経てば自分で自分を折り畳むことになる観覧車の上から見た敷地内全景も、余裕なく絡まり合ったレールの醜さばかりが目に付き、桜咲く通りも機械に紛れ、むべなるかなむべなるかなという響きがずっと頭の中で鳴っていた。こう書いている今の時点で既に営業は終わってしまったその場所は、みじめな思い出の中にしか存在しなくなってしまった。 白いトラは他の場所にもまだまだいるらしい。昭和47年発行 単行本 河出書房新社
2003/04/07
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無造作に開いた76ページにはウンコという単語が5回、そのような本。初出は1962年から三年間にわたり「VIKING」に連載されたもの。文庫化の際に新しく加えられたものもあるがそれは蛇足。 藤枝静男『空気頭』に出てくるウンコふりかけの元ネタらしきエピソード、パゾリーニの映画『カンタベリー物語』に使われてる原作の部分も紹介されていた。 時代が古いこともあって、一線を越えたスカトロジア趣味の方々を手軽に映像その他で観賞出来る現代の目から見ると、微笑ましい程度の内容に留まっている。出来ることと、したいこととは違う。行為にまで行き着くとグロテスクでしかない。「もしも、われらの最後の日、饗宴の卓の用意がととのい、ドラが鳴りわたり、そしてそこに不意に出されたものが一枚の銀盆であり、その上に二つのでっかい糞塊──それ以上でもそれ以下でもないことが盲人でもわかる塊りが載っていたとしたらどうだろう。わたしは信じる。それこそ人間が探し求めてきた何ものにもまさる奇蹟ではないかと。」引用されているヘンリー・ミラー『北回帰線』からの文章 大久保康雄訳 蛇足の部分で引用されている金芝河の長編譚詩『糞氏物語』は、前半に紹介されていた様々な書物と比べて随分とつまらない。諷刺がききすぎてウンコそのものになんらリアリティがなくなり、その諷刺している対象も苦もなく分かるため、余計な意味がつきすぎているからかもしれない。『カンタベリー物語』にしろ『ガリバー旅行記』にしろそこに描かれている糞便譚も同じような意味を持っているのに。笑い話やからかいの小道具として使われるウンコは、他の汚らしいものと代替がきくが、九百行を超える詩のクライマックスで轟音を立てて産み出される様々なウンコは、ウンコ以外では意味がない。ただでさえ見苦しいものであるウンコが、象徴として多くを背負わされ過ぎて、逆にウンコとしての純粋な意味をなくし、印象を薄れさせてしまっている。わずかに引用されている分から判断するのは早計だが、かといって元の文献に当たるのはノスタルッジクの二乗みたいでその気にならない。 この本とは直接関係ないが例の詩を。もう一編の詩 金子光晴恋人よ。たうとう僕はあなたのうんこになりました。そして狭い糞壺のなかでほかのうんこといっしょに蠅がうみつけた幼虫どもにくすぐられてゐる。あなたにのこりなく消化され、あなたの滓になってあなたからおし出されたことにつゆほどの怨みもありません。うきながら、しづみながらあなたをみあげてよびかけても恋人よ。あなたは、もはやうんことなった僕に気づくよしなくぎい、ぱたんと出ていってしまった。山田稔「スカトロジア」(福武文庫)同講談社文庫読んだのは福武文庫版。違いがあるかは知らない。
2003/04/02
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ドストエフスキー死後百年祭に行われた講演をもとにまとめられた一冊。 甲子園高校野球決勝でノーヒットノーランが成し遂げられた夏、『カラマーゾフの兄弟』を、売られた喧嘩を買う気分で十日かけて読んだ。初めて読むドストエフスキーだった。感想めいたことを書いた。前半はほとんどノーヒットノーランのことについて書いた。本当に印象に残ったのは準決勝であり、決勝のことはニュースで知っただけだったかもしれない。たまたま見ていた高校野球とたまたま読んだ『カラマーゾフの兄弟』に、恥ずかしながら、私の人生ははっきりと影響を受けた。 私の子供の時の読書の印象では、エピローグ以前のラスコーリニコフは、さきにいった「ツー・ビート」のたけしのような人物だったけれども、自首したあとのエピローグでのかれは、おなじ「ツー・ビート」のきよしのような、ああいう善良な人間になっている。その善良なかれにソーニャの愛が捧げられるのだと、そう読みとっていたのである。 ところが今度あらためて読んでみると、エピローグでもまだ、たけしはたけしなのです。あまりうけない時、頭が痛い痛いとたけしがいいますが、あの程度に自分を反省する以外には、ラスコーリニコフは自分が悪いと思っていない。山形県は新石器時代の人間が住んでいるとか、老人は殺せとか、ブスの女性は何とかだとか、全く反省していないたけしのようなラスコーリニコフが、まずエピローグの前半にいるのです。大江健三郎『ドストエフスキーから』より ちなみに名前こそはっきりと書かれないが、小説『取り替え子』の中にもたけしについて言及する場面がある。 私はその後次々とドストエフスキーを読んだ。『罪と罰』『貧しき人々』『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『未成年』『賭博者』『永遠の夫』『白夜』『地下室者の手記』かなり間を置いて『虐げられた人々』。何も確かめず書いているので抜けてるものがあるかもしれないが、大体こんなところだろう。『分身』はまだ読んでいない。まだ他にもドストエフスキーの作品はあるが、自分の中でキリがいいとこで止めた。今思えば急ぎすぎた。本書を読んで分かったが、スヴィドリガイロフとルージンを混同しているし、『悪霊』『未成年』にいたってはごくごく一部をしか覚えていない。もう一度読めばいいのだが、他に読みたい本がなくならないうちには手をつけにくい。面倒くさがっている。離れたがってもいる。怖がってもいる。 多くを忘れたことを残念に思いながら、それでも印象だけが強く残り続けているのは、一つ一つにケリをつけて次に進む今の読書方法の場合と違った、豊かな時間を味わっていたからかもしれない。しかしロシアのややこしい名前を苦もなく覚えていてあの話のあの時誰々が言ったセリフ云々という話がとっさに出てくる人を見ると羨ましくなってしまう。比較的覚えていたはずの『白痴』だって、黒澤明の映画を観たために隅に追いやられてしまい、思い出すのは、命を削るような演技を出演者全員がしていたあのモノクロ映像ばかりだ。原節子を美しいと初めて思えた映画だった。映画『カラマーゾフの兄弟』はビデオ録画する時チャンネルを間違えた。『鰐か鯨か』で、メモを用意するが講演の時にそれを見ながら喋ることはほとんどないと書いていた後藤明生の話が一番長い。脱線もしている。一番面白い。しかしさてどこを引用、と思うと、一部では物足りなくなるので長くなる、そうすると手と目が疲れる。『ドストエフスキーから』大江健三郎『百年後の一小説家として』後藤明生『ドストエフスキー断片』吉本隆明『革命性の先駆者』埴谷雄高 埴谷雄高の話し出す最初の標題は『精神の五重底』、かっこ良すぎる。 ドストエフスキーは濫読を誘う。若いうちにうっかりたくさん読んでしまう。しかし本当にいい出会いの時期とはある程度年齢を重ねてからの方がいいのではないか? 深刻ぶった顔してラスコーリニコフを気取るひねた人間を量産しかねない、冷笑主義に陥りかねない、安易に登場人物に同調しすぎると。結局第一部だけに留まったままだが、『カラマーゾフの兄弟』を読み直した時、私はよく笑った。一回目の時は果たしてそのような読み方をしていただろうか?(しかしこれだけは何も確かめずとも覚えている、ドミートリィがおばさんの家に借金の相談をしにいった時、「いい案があるの!金山に行くといいわ!」と嬉しそうにドミートリィに話すおばさん! ノーヒットノーランに続いて多くを割いたのがこのおばさんのことだった) その点、4人の読み手はいずれも楽しそうにドストエフスキーを楽しんでいる。私も肩肘張らず読み直しを始めたらいいんだけれど・・・やっぱりちょっと面倒だ。昭和五十六年発行 新潮社 単行本
2003/03/30
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自選短篇集。『関係』『行方不明』『針目城』『目には目』『鰐か鯨か』。 私の部屋に『関係』が収録されている本が3冊になった。「関係」「笑い地獄」「行方不明」。 初めて『関係』を読んだ時と初めて後藤明生に触れた時とは残念ながら一致しない。旺文社文庫版「関係」に収録されている順番通り『一通の長い母親の手紙』を読んだ後しばらく放っておいたはず。その後『関係』を読んだ時にもまだ私は言葉としての「関係」に支配されてはいなかった。『ああ胸が痛い』だったような気がする。「関係」というのはつまりあらゆることなのだ、と。人間関係、恋愛関係、大きくは政治、世界のありとあらゆるものは「関係」しあっている。「関係」があるから愛情も軋轢も生まれる。それは同時に「関係」のないところには何も起きないということだ。と、そういうことに気付き始めた。それからずっと「関係」という言葉は私を支配することになる。本を読み、ただ読み終えただけではもったいないような気がするので何かを書く。そこで何を書く? 評論めいたものか、単純な感想か、それとも何か全然別のことか。私が選んだものは「関係」を書くことだった。その一冊を選ぶに至った経緯、読んでいる時に起こった、まるでその読書に「関係」があるかのような出来事など。以前、無理やり引き出したような「感想」を書いていた時と違い、自然な、自分に嫌悪感を感じないことを書けるようになった。自分の書いたものを読み返すと吐き気がすることとはまた別。以下七行削除。引用に飛ぶ。 西野は北村に弱みを握られていると思っている。北村はああいう男だから年の二十九歳にもなれば社会的信用などというものを考えているにちがいないが、その彼の考えているおれの社会的信用というやつを、やりようによってはゼロにたたき落とすことだってできると北村は考えているにちがいない、そんなふうに西野は思っているのだ。西野は北村と同じ私立大学の出身で一級下だから二十八歳にもなっている。わたしの考えでは北村が考えていると西野が感じている社会的信用というものを西野は考えていないようだから、それでは西野は本気で北村をおそれていないのではないかともいえるようなのだが、そうではなくて、やはり西野は北村をこわがっているのだ。つまり問題は西野が北村から握られていると思っている弱味というものが公平にみてどの程度のものであるかということではなく、北村が自分は西野の弱味を握っていると疑いなく信じ込んでいることを西野は疑わず、そんな北村をおそれているというのである。もっとはっきりいえば、西野は北村の腕力をこわがっている。ふてぶてしいようでも西野はそんな男なのだ。『関係』最初『行方不明』は、筋だけ見ればまるで安部公房の出来損ないだ。もっともこの名詞が引きずり出されたのは、先日「石の眼」を読み、藤枝静男『キエフの海』に出てきた「コーボー・アベ」と喜びながら喋るロシア人のせいでもある。これもつまり「関係」だ。「Σ研究所」なんていう妙な名前の出てくる短篇を読んでいる時に、たまたまつけっぱなしにしていたテレビで「Σ」という増毛剤のCMをやっているようなこと、この偶然もやはり「関係」なのかもしれない。ことほどかように無用なところにまで「関係」が犇めいてきて、それに囚われて、「関係」という言葉に身を任せて安心してしまっている。いい悪いはこの際脇に置く。「つまりなにが言いたいのかと言うと」とうっかりと続けてしまいそうだが、別に言いたいことなどないのである。「関係」という言葉に深入りしすぎたように「行方不明」に入っていくのもいいが、それだと結果は目に見えている。何が行方不明になるわけでもなく、自分から進んで行方不明になる状態まで持っていくのだ、行方不明とは何かを考えている振りをしている文章そのものを。そこまでの技術はないので出来上がるのはただのよく分からないものでしかない。後藤明生「行方不明」(福武文庫 在庫切れ)
2003/03/29
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短篇集。 入り口に戦争反対の幟が立ててあったのでその類かと思った。それにしては時間が遅い、騒音鳴らして戦争反対もなかろう、と駅構内地下道に降りると、昔の知り合いに声と顔の似た男が座り込みギターを弾き歌を唄っていた。下を向いたままのその男の顔は記憶にあるものより痩せていて確信は持てなかった。覗き込む私を訝りながら向けた目の中には旧知の光が一瞬差したようにも思えたが、その時私は既に立ち去り気味に歩き出していて、おたがい確信を持てないまま離れた。昔よりは聴ける声にはなっている、が、反響の激しい場所でもあるせいかはっきり聴き取れない歌詞は何を伝えたいか分からなかった。低い山以上に積もる話はある。だからこそあまり話したくもない。気詰まりになり縁を切ったわけでもないのに、距離を置いた話し方で結局盛り上がるのは昔話だけになるだろう。その後乗った電車では誰かが置き忘れたペットボトルがいつまでも床を転がり続けていた。降車時拾って捨てようかと思ったがその時には私の近くに転がっていなかった。要はタイミングと、ちょっとした気分の問題だ。『凶徒津田三蔵』と同じ題材を描いた表題作は、小説というより緻密で公平な目で見た大津事件の記録である。1891年日本を訪問中だったロシア皇太子ニコラスに斬り付けた津田三蔵のことよりも、津田と関係のない人ではないのに、詫びにと自殺をした畠山勇子、国の大事より法の正義を守り貫いた児島惟謙、皇太子を助け莫大な褒賞金・年金をもらいながら落ちぶれた向畑治三郎の挿話の方に目が向く(向畑治三郎については『孫引き一つ──二人の愛国者無関係者』より)。人一人の自殺でも意味を持たせ耳目を引けば美談として後世まで語り継がれる。美しい日本人女性像として外国に紹介される。真に日本がロシアに侵略されかねないことを憂いて命を捧げたとしても、最初から当時のロシアにその気があったなら、一日本人女性の献身的自殺など意味はなかったろう。京都府庁の前で頸動脈を掻ききった勇子に「苦しいか」の次に「気違いか」という問いが発せられたのも不思議なことではない。その一事でニコラスが凶行を許したわけでも、日本が救われたわけでもない。大国の意志を一個人の献身で歪めようとするのは向こう見ずな蛮勇に過ぎない。 接吻と云っても自分のことではない。数日前には孫を抱きあげようとしてギックリ腰になった。『接吻』冒頭 実に巧く藤枝静男という人を表していると思った。当時(昭和45年11月発表)目に付き始めた若者カップルによる公衆面前での接吻のことについて書かれていると、読む前に思う人は少ないだろうし、作者その人の「現在」の接吻についてなどと想像する人はましてや皆無だろう。そこを敢えて否定し体調も添えて言い訳をする。つまり実は本人はまだまだ色気ムンムンで現役なのを秘かに気取っているのである。『山川草木』『風景小説』は題名通りやや退屈。似た系統なら「悲しいだけ」に収められた諸作の方が大分良い。amazonではヒットせず。昭和48年発行。単行本。講談社。
2003/03/27
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もう十分駅に着くのが早ければ待つことなく電車に乗れた。20分遅れで来た、人を轢いた電車に乗った。何も人身事故が必ずしも人の死を指すことではないと後で気付いた。前の時よりはよっぽどスムーズだった。人を殺した直後の乗り物に乗っていたと考えるか、そうでなかったか、自分と関係はなくとも気が楽な方がいい。乗客から緊張の色は読みとれなかった。それとも見知らぬ人が死んだ程度の感傷は遅れた時間にすぐ紛れるか。確証が少なすぎる。そういえば安部公房には『無関係な死』という短篇もあった。突然部屋に持ち込まれた死体に対して主人公はどうしたか、よく思い出せない。部屋の中のどこかにはあるはずのその本の在処も思い出せない。電車が遅れた日からもう二日経った。 読み落としていた、存在すら知らなかった安部公房の長編推理小説。犯人はそれほど重要でもない。 朝は、誰にも、同じようにやってくる。しかし目をさました瞬間から、めいめい自分だけにしかない一日がはじまるのだ。あるものは追う者になり、あるものが追われる者になる。すくなくとも人々はそう信じこんでいる。おそらく昨日という日があるためだろう。どんなに長い夜と眠りでへだてられても、その昨日を消し去ることは、誰にもできないことなのだ。冒頭 久し振りに入る安部公房の小説にスーっと目が馴染む。初めて「砂の女」を読んだ時、まだ本の読み方にさええっちらおっちらしていた昔、その異常な設定を馬鹿げたものだとあしらい、放り出さなかったのは、硬質でありながらよく滑る力強いこのような文章のおかげではなかったか。いやそうではないかもしれない、と続けかけたのであまり自信がない。 安部公房「石の眼」(新潮文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/03/24
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本棚には見沢知廉の横に大江健三郎を、埴谷雄高の横には坂田靖子を置く程度のバランス感覚で、坊主の書いた小説の次はカトリック信者の書いたものを、と。馴染んだ作家であるから決めた瞬間から楽しみにし、楽しんだ。 後で気付いた。『中陰の花』に不満が残るのは、坊主としての経験から出る自然な感情、洞察など、何も小説でなくてもいい、随筆で足りるようなものを求めていたのに、霊的な出来事がいかにも「小説的」にあらわれ、まるで小説の書き方を学んだ人が習った通りに完成させたような、薄っぺらい当たり前過ぎる作品になってしまっていたからだ。こぢんまりとまとまったそのまとめ方は自然なものではなく、無理やり型に嵌めた醜さが現れ、着付けぬ高い服を身に纏いちっとも似合っていない人を思わせた。当人の感じる息苦しさと他人が感じる見苦しさ。何もいいことがない。 その点森内俊雄のカトリック信仰はごく自然に見える。敬虔で清廉な主人公などいない。好色で鬱を孕み薬に頼り、信仰上禁止されている自殺を選ぶことも多い。それでいながら彼らはとても自然に見え、筆の運びに無理が少ない。「谷川の水を求めて」の主題はここでも重なる。「この世で最も理解しがたく、かつ神秘な事実は、悪の働くところにこそ、神が居給い、力強く働いておられる、ということだ、私もそう思う」。悪徳の限りを果たしたというわけではない。多少の不義理から悲劇が起こり、それは後の人生に影響し続け、病を宿らせる。告解により膿を落とすことをしないことで自分を罰するにせよ、その場合どこにも赦しは向かわない。真相の告白に一番近づいた時の友人の調子がやけに明るく、それ以外のところと温度差が激しい。「おい、漆山。おまえ何かやらかしたな。違うか。誰かに言いたいのだが、言えない。しかし、黙ってもいられないのに、決して言えない。それで、あちらこちらうろつきまわって、おれのところへきた。そのおれにも言えない、喋るつもりもない」「そうなんだ。すまない」「ばか。あやまることなんか、あるものか。いいんだよ」 漆山は、眼をあげた。粗野、無骨、辛辣、衒学、繊細の入り乱れた男が言った。「頼られて、うれしいな。今夜、おれは自分が誇らしいよ。みんな秘密を持っている。漆山よ、もしもそんなに重大なことなら、喋るな。絶対、人に言うな。お墓の中に抱いてはいれ。おまえは腐っても、秘密は死ぬことがない。どんな恥知らずの汚らしい秘密でも、それは土の中で、永劫に美しく光り輝く。何故なら、苦しさに耐えぬいた魂が、そうさせるのだよ。それが信じられないなら、人間なんて生きていられない」「治らない病気を持っている人の心は、宇宙の果てを知っている、と言ったのは誰か知っているか? 宮澤賢治だ。いや、待ってくれ。おれが言いたいのは、こういうことなんだ。秘密も、治らない病気だ」 告解室で信者の話を聞く司祭にはその内容がいかなるものであれ他言を許されていない。司祭の気持ちはいかなるものか、当人にとっては大層な覚悟の上のものであれ、聞かされる側には大したことに思えないものがほとんどだろう。それでも固まれば力を持つ。一人の人間の長きに渡る告解を聞き続けたなら情も移る。森内俊雄の小説は作家の長く終わらない告解に似ているのかもしれない。創作された物語としてではあるが、欲望を晒し出し続け、それに報いも受けさせる。小学生の頃から家庭教師についていた女と14歳になってから交わる時に「お兄ちゃん!」と叫ばせるのにはさすがに鼻白んだが──エロゲームの類じゃあるまいし──。事実そのものより「真実の告白」に近い。主人公役の男の鬱はこの後進み「氷河が来るまでに」では物語の輪郭が危うくなる。『中陰の花』は引き立て役でしかなくなっていることに気付く。繰返し書くが、読んでいた時はそれなりに感心もした。今では出来損ないとしか思い出せない。 聖書、中原中也・八木重吉の詩、いくつかの俳人の句が多く引用されている。さてあかんぼはなぜに あん あん あん あん なくんだろうかほんとにうるせいよあん あん あん あんあん あん あん あんうるさか ないようるさか ないよよんでるんだよかみさまをよんでるんだよみんなもよびなあんなにしつっこくよびな 題名はなく、ただ八木重吉の詩とだけ書いてある。それと西東三鬼。その二人に興味を持てた。中原中也の詩は大体知っている。森内俊雄「骨の火」(文芸春秋社 この本は現在お取り扱い出来ません)
2003/03/21
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少し前のことだが、祖母の時と同じ寺で祖父の49日を行った。祖母の時の住職は既に亡くなっており、新しい住職の顔は古い住職の顔を覚えていない目には同じ人に見えた。家が近いという他に理由もなく選ばれたその寺には従兄弟の同級生がいて、祖母の時と同じように従兄弟がその人と話していた。数年を挟んだ二人の顔にはお互い何処も変わっていないように思えた。読まれた経にも覚えがあった。その日に法事が重なったらしく、膳は二階に案内され、他の家族の声も聞こえる部屋で静かに食べた。賑やかな隣の部屋ではいつまでも同じ人が大声をあげて故人のこととは関係のないことを喋っていた。 現役の住職が書いた小説が最近あったな。芥川賞候補だったか、獲ったんだったか、どちらでもいい、あの賞に関係してると、全然知らない作家がどのような作品を書いているか、心の隅に少しだけ留まるので便利だ。それ以外にはあまり意味はないしそれ以上を求めてもいない。 作家の素姓にだけ興味を持ち作品を読むのはあまりいい読み方ではない。しかし現役僧侶の書いた、現役僧侶としての経験を基にした小説なら、興味を持てる。併録の『朝顔の音』にはその点何の魅力も感じず、小説としても幼い。禅にも仏にも寺にも関係ない人が『中陰の花』を書いていたら、そもそも手にとっていない。 時代が今ということを忘れていると「則道はインターネットで検索してみようと思い」なんて文に出会い面食らう。「インターネットを閉じると」という表現にも少し戸惑う。インターネットや携帯電話の蔓延する世の中に生きながら、普段時代がかったものばかり、現代を舞台にしたものでもあまり現代風俗を活写してるとは言い難い系統のものばかり読んでいるから、物語の中のそれらに馴染めない。物語の中のそれらの言葉もまだ自らをくすぐったく感じて落ちつきのないように見える。この先お互い慣れていかないと読みづらくなる。過去にだけ目を向けていればその必要もないけれど・・・・・。それは少し寂しいことだ。 読んでいる最中は何の屈託なかったが、今思い返してみると、現役僧侶が書いたということ以外に何の興味も持っていなかったことを痛感。これでは何も残らない。残すほど感心する話でもない。玄侑宗久「中陰の花」(文芸春秋社)
2003/03/20
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ブームが本当に起こっているのか、売れ行き好調なのか、積み上げられた分が一度なくなってから新たに補充された「死霊 Ⅰ」。その横に堂々と並ぶ「死霊 Ⅱ」。講談社文芸文庫にしてはそれほど高くないので気軽に買いやすいから、今度こそ読み切りたいから、そういう人が多く買うのだろうか。買われた数だけ読まれるだろうか。読まれた数だけ理解者が増えるのだろうか。そうではないだろう、それは決してそうではないだろう。それはいつもの通りいつまで経ってもそのようにはならないだろう。五章まで収録された「定本 死霊」が別々の古本屋に一冊ずつ現れた。これまでは見なかったものだ。 既に読んでいた『虚空』『深淵』を除く『洞窟』『意識』『標的者』を読んだ。考えてみれば「死霊」の次に文庫化される可能性が高いのだし、肝心要の二編は読んでいたのだから、急いで買う必要もなかったが、最低でも文庫化は二ヶ月先になる。やや遠い。 あとがきにある『虚空』に関しての花田清輝とのエピソードが面白い。『虚空』にはちょっとした由来があるのでここに書きとめておきたい。まだ神田に月曜書房があった頃、その一室で花田清輝と私がポオ礼賛をしたことがある。そのとき、『メールストロームの渦』に匹敵するような作品を書いてみたいものだと話しあった結果、ついに彼も私もともに筆をとることになった。その後会うたびにいわば競作ともなるべき未来の作品につてい触れることになり、彼がジャングルのことを書くつもりだといえば、私もジャングルのことを書くのだといい、さらに私が蛇について書くつもりだといえば、彼もまた蛇について書くのだと符節をあわせたごとく、同じような主題について論じあっていたが、不思議なことに怠け者の私がこの作品を書き、彼は対となるべき作品をついに書かなかった。この作品中の手紙は、従って、花田清輝に宛てられている訳であり、現実的な彼はいわば水平軸として、観念的な私は垂直軸として扱われている。 巨大化した埴谷雄高という名前はいつの頃からか世界に浸透し、読んだことのない人にもどんな作品を書いたか知らない人にも何らかの印象を与えた。難解である、なんだかよく分からないがとんでもないものをかいたひとらしい、「『死霊』ってすごいよ、どんな風にすごいっていうと、うーんと、すごいんだよ!」というような、「達人は保護されている」じゃないが、何がすごいか分かってる人はあんまりいないから、実はすごくないんじゃないかなんて思うほど、評判だけが先行して中身が重要視されなくなり、とにかくそれをすごいとさえ言っていれば何だか自分もちょっとすごいように思えてくる。そんな風な印象だけが暴走し、理解は外に弾き出される。私だってちっとも解った気がしない。ただドストエフスキーに日本風独房病的暗黒エッセンスを振りかけてやけに陽気に走らせた文章を読んでいる間、私は多いに楽しんだ。いちいちを理解し整理整頓し綺麗に折り畳み(元々そんな読み方はいつもしてないが)というような読み方は横に放っておいて、時折爆笑を挟みながら、分厚い黒い本に浸り込み、時間を忘れた。後半の数章はそこまで純粋には楽しめなかったが・・・。 何も構えることはない、埴谷雄高の小説は意外と面白い。その名に脅えながら読んだ『虚空』で笑いが止まらなかった私は、「死霊」にすんなり入っていけた。この短篇集に入ってるものではやはり『虚空』が一番。青臭いどころか物語自体が少年のような『標的者』もまあまあ。本書と未完の「死霊」全九章、それが埴谷雄高が残した小説の全てである。解説は吉本隆明。埴谷雄高「虚空」(現代思潮社)
2003/03/18
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先日、映画「戦場のピアニスト」を観た。その日の夢でも「戦場のピアニスト」を観た。巨大ロボットが小さなバイクになり、それに跨ってやってきた旧友が熱心に映画の良さを語っていた。彼は昔「わたしは、にっぽんの、サラリーマンです!」と前日に観た映画のセリフを校庭で繰返していた。その校庭がどこのものであったかは、忘れた。 翌日数年振りにピアノの蓋を開くと、鍵盤が重く、戦場のピアニストのように軽々と弾きこなせなかった。左手はもう単純なリズムしか押さえることが出来ない。昔は苦もなく弾けた曲さえ忘れてしまっている。借りっぱなしの安物キーボードを引っ張り出し出鱈目に弾き、手を慰めた。 夢と現を彷徨う短篇集。終わり二編『髭の子』『風邪の子』は「木犀の日」にも収録されていたので読んだことがあった。そのことを知らず『髭の子』を途中まで読み、この本はひょっとして一度読んだことがあったのかと、気付くのが遅すぎた自分を怪しんだ。 途中うたた寝をすると短篇集の延長の文章がずっと夢の中で続いた。浅い眠りから起き上がった後でも覚めた頭でしばらく続けた。また眠り、時間の経ち方の遅いのに呆れた。夢の中に居るのと小説を読んでいるのとに遠い隔たりがなく、夢の中で足を滑らせれば『大きな家に』や『路地の奥』に出てくる蜃気楼めいた家に落ちていきそうな気がした。 以前『髭の子』を読んだ時にはまだ私の祖父は生きていた。そういえば祖父用の髭剃りは家に帰ってきたが使われていない。父も以前祖父の髭を剃る時の様子を話していたが、よく覚えていない。さぞかし似た光景が繰り広げられたに違いないが、それも意識のある時の話だ、その頃まだ私は古井由吉の名を知らなかった。古井由吉「長い町の眠り」(福武書店 在庫切れ)
2003/03/16
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さようなら、ギャングたち/高橋源一郎 何年振りかでふと読んだ。今読むとつまらぬものと思えるのだろう、三度四度読んだか忘れたが、覚えていたのは「感傷的な」文章、言葉、話。すなわち高橋源一郎という作家を高橋源一郎たらしめているもの全て。それを今回はどのように読んだか、それが「期待はずれ」なことに、これまで読んだ時と何も変わらず同じように読んだ。第一部で悲しくなり、第二部でどうでもよくなり、第三部では第一部ほどは悲しくならなかった。「同じ」だ。おそらく、第二部の途中で意味を追うことをやめたのも、「『キャラウェイ』もしくは『緑の小指』」ちゃんが死ぬことを悲しむのも、以前と同じ感じ方で感じた。おかしいな、それほど自分がこれまで律儀にいつまでも同じ自分のままであった覚えはないんだが、という訝りはすぐに「私は高橋源一郎のどの作品においても、これ以外の感じ方をしてこなかったではないか」という思いに掻き消された。「ゴーストバスターズ」であれ「優雅で感傷的な日本野球」であれ、「日本文学盛衰史」であれ。高橋源一郎は同じことを書き続けてきた。「今の時代、小説なんて書いてどうしようってんだい?」という問いを、小説を書きながら問い続けてきた。そんなみっともないことを何十年も続けてきた。そう私は感じ続けてきた。彼の作品はいいものも悪いものも、とてもとても酷いものも少なくなくあるが、私は好きだ。「感傷的」というのは便利な表現で、そうである条件を満たせばたいていの人になんだか「感傷的な」気分を引き起こさせ、緻密に書き込んで膨大な量の文章を作らなくとも、人の感情を割と楽に動かせる。何も現実感を持たせなくてもいい。それはただの気分さ、と割り切ってもいい。 遊園地でわたしは、とてもかなしいものを見た。黒いリボンをつけた「大観覧車」が自分自身をおりたたんでいるところだった。 遊園地の経営者は、解体屋に依頼するのを惜しんで、「大観覧車」に自分で始末をつけるように命令したのだろう。 わたしはブランコに腰かけて「大観覧車」が自殺するのをながめていた。「大観覧車」は円型のフレームを動かして観覧席をひとつずつ外していった。ひとつ外すたびに血が流れ、「ああいたい」と「大観覧車」は苦痛の声をあげた。円型のフレームが観覧席を外しおわると、今度は中央のリングフレームを外し、その次にはコンクリートの支柱が苦労して中央のリングを切断した。「大観覧車」は血まみれになって自分自身を解体していき、その度に遊園地中が震動するぐらいの叫び声をあげた。 すぐ横の「メリー・ゴー・ラウンド」は目をつぶり、耳を両手でおさえてがたがた震えていた。 いちばん最後に息もたえだえのコンクリートの台座が残った。それは「大観覧車」の存在の証であり、自我そのものだった。 コンクリートの台座は何によって最後の始末をつけるのだろう、とわたしは思った。 もうどんな手段もないのに。「くそくらえ」「大観覧車」はそう捨てぜりふを残すと、コンクリートの台座だけになった自分自身に最後のとどめを刺した。 それは人間には考えつかないようなやり方でだった。第二部 詩の学校 Ⅰ「吸血鬼なんかこわくない」より 自分を折り畳む大観覧車をたまたま見かけたのでそれをスケッチしたのではなく、「感傷的な」場面を書こうとしたら大観覧車に自分を畳ませることを思い付いただけのことだろう。遊園地の経営者が解体屋に頼むのを疎んだのは後付けの理由に過ぎない。 意味なんか「何一つ」あるいは「たいして」ないのに、多くの人がまるで意味があるかのように、あるいは何かとんでもないことをやっているかのようにこの本を扱う。今では「なあんだ、こんなこと。インターネットでみんながやっているじゃないか。誰にも振り向かれないコンテンツの一つ『小説』として。これと似たような出来損ないがいろんなところに。大体これって小説なの?」と笑い飛ばされかねない。事実、大した作品ではないのだ。好きなところもあるにせよ、他人に向かって「これは最高だ!」と大声で叫ぶことは出来ない。 ただ「感傷的な」気分に浸りたい時にはとても便利だ。 私は全体的にはこの作品を少ししか好きではないかもしれない。でも第一部はとても好きだ。 しかしどうも、何故今これを読もうと思ったのかがさっぱり分からない。 やっぱり第三部もかなり好きだと思う。高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」(講談社文芸文庫)2003/03/11 23:46:55谷川の水を求めて/森内俊雄 様々な大人のおもちゃを使って随分と具体的な少年との肛門性交に至るまでのプロセスを書いている割には、少年の態度がちっとも現実的に見えない。この人の書く主人公の性に関する意識は、露骨で生々しく、時にはっきりと嫌悪感を覚える。今回はそれが10歳の少年に向いているから尚更だった。その背徳も神を背負えば顔が立つ。 臼井は路加との愛欲による涜聖の行為も、その自覚によって神を招いているのだという思いがあった。それは牽強付会、自己弁護ではなかった。臼井が涜聖、背徳の意識を抱く限り、神は彼を離れ、見捨て給うことはないであろう。あるいは、こうも言える。神は十字架の上で、イエスを沈黙のうちに見捨てたように、臼井も彼自身の十字架の上でイエスを見捨てていた。 花村萬月の確か「王国記」に、人を殺した少年が、自分は女に子供を孕ませたから差し引きゼロで罪は消えるとかそんなことを言っていたような。木場功一「キリコ」には、標的に対して感じる罪悪感を神に預けることで仕事に徹することの出来る殺し屋が出てくる。どの神も赦しもうさん臭い。それではまるで応用の利く使い勝手のいい、良心を捨てる為の道具に過ぎない。 その姿からいくら聖性を引き出そうとしても、少年路加は周囲に弄ばれるだけの者にしか見えない。自身が壊されること、自分が人を壊すことを怖れて従順な振りをしているだけだ。行為が重なるにつれその怖れは見かけ上の愛の営みを作り出すが、見かけ下には殺意が溜まる。だからこそ自分を庇護する気もない若い性衝動と犯罪欲にのみ突き動かされた青年に襲われた時、少年はナイフを振るい相手の男根を切り取ることも出来たし、その後自死を選ぶにも迷わなかった。主人公臼井の病的な視線を受け止めた時から、路加は死に始めていた。 小説の登場人物になることがあったら、主人公面した陰気な中年とは目を合わさない方がいい。森内俊雄「谷川の水を求めて」(河出書房新社 この本は現在お取り扱いできません)2003/03/11 1:40:35
2003/03/11
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新しいおもちゃを試す絶好の餌食としてパチパチ撮られる猫達は、フラッシュの光には驚かないようだ。しかし赤目軽減の機能を使っても目は光ったまま。後で画像を明るく出来るのだからそもそもフラッシュを焚かないでもよかったのではと気付いたのは帰宅後。うまく撮れていない。 近所の猫好きの人がエサをやっている場所では前と同じ顔触れの猫がばらけて坐っていた。一匹ガツガツと、自分とエサ以外には世界には何もないという調子で食べるのがいる。先日の三枚目、車でも来たのか同じ方向に気を取られている二匹とその後ろでエサを頬張る一匹、そいつである。他に撮ったもののどれを見てもこいつは食い続けている。余裕のある他の猫と違い本格的な野良だろうか。そもそも飼い猫と野良猫の違いが私にはまだよく見分けがつかない。 そこから少し離れた公園で、ガツガツ猫以外の二匹にまた出逢う。出来るだけデジカメを堂々と持ち、猫に逃げられようにゆっくりと近づく。犬の散歩のコースであり、よく人が通る。ありふれた猫を喜んで撮る変人と見られているうちはいいが、被写体を別の物と誤解されれば変態扱いされかねない。一字違いで随分困る。 警戒心も強いが好奇心も強いらしい。不用意に近づくとすぐに遠ざかるが、別のところを見ておまえには興味なんかないよと装いつつ遠慮なく歩くと、逃げようともせずじっとこちらを見つめているのが分かる。しかしいざそちらを向くと目が一瞬合った途端に走り出す。目が合うまでは相変わらず興味津々の眼差しをこちらに向けているのにもかかわらず、だ。その瞬間の顔が一番面白いのだが当然写らない。やはり迷惑なことだろう。 阿部昭は、「犬はいつでも何か話があるといった顔をしている」と書く。つげ義春は短篇「李さん一家」で、鳥の話が分かる李さんに「でも鳥は話題に乏しく、たいてい天気の話かエサの話くらいのもので、あまりリコウではないのです」と語らせる。彼はまだ二階にいる。ますむらひろしの漫画のようにビートルズをがなったり「酢ダコうめえ」と言うわけではないが、私の見た猫も言葉に移せばこんな風に言ってるように見えた。「なんだこいつは」「なんだコノヤロ」「なんだこのやろ」「なんだ」「なんだおまえ」「なんだ違うか」「なんだそっちか」「なんだこっちか?」「なんだおまえ」「なんだなんだ」「なんだそれ」「なんだ俺」「なんだ走る」「なんだ遠い」「なんだあいつ」と、一つ思えば三つ前のことは忘れてしまうようで、とりあえず「なんだ」と興味を示すが行動は少し遅れる。私が反応出来ない程度には充分敏捷であるが。 また「──作家は犬を飼うべきであろうか、猫を飼うべきであろうか」と阿部昭。一條裕子「犬あそび」では、犬好きの貧乏小説家を訪ねる編集者は作家に猫を飼うことを勧める。「これで、あと足りないのは、アレだけっすね」「・・・・・・ふむ、いや・・・・・アレ・・かね?」「ネコっす。ネコを飼うしかないっす」「・・・・・ふむ、いや・・・・・ネコ・・かね」「そうっす。文学的といえばネコっす」「・・・・・ふむ。・・・・・文学的といえば・・・・・ネコ・・・・・かね」「当然っす。ナツメだってタニザキだってミシマだってムコウダクニコだって、ニッポンの純文学はすべからくネコっす」「・・・・・ふむ、・・・・・すべからくネコ・・・・・かね」「断固ネコっす。自由ほんぽーで気まぐれでしなやかで謎で繊細で高貴なネコ。文学者はそーゆーネコにほんろーされたり、憧れたり、シットしたり、悶々としつつゲージュツすべきっす」「・・・・・ふむ、・・・・・べき・・・・・かね」「犬はどうかね」と貧乏小説家が切り出すと編集者は鼻で笑う。今確かめてみると今度は犬に愛情が移り出す。無責任なもんだ。「銀牙」だとこうはならない。犬の方が表情豊かなようでいて、観察しづらいのもあるが、あまりよく分からない。種類の違いにより大きさも毛並みも違うので、表情の比較も難しい。たとえばサラブレッドなら、競馬場のパドック中継を見れば、どれもみんな一緒のようでいながら、馬の表情はそれぞれはっきりと違う。似た者達だからこそ、違いが際立つ。その効果は10分で切れるが。猫には犬ほど極端な大きさの違いはない。大体昔から私は犬の方が好きなんだ。 阿部昭が猫について書いた文章を集めた一冊。野坂昭如「吾輩は猫が好き」よりはずっと濃い内容だが、あちらは実際の生活と文章とが同時進行であり、それが時に怖ろしい効果をあげている。 馬鹿馬鹿しいくらいに未読の本が積み上がっているのにもかかわらず次に読む本が定まらず、ヘミングウェイ「われらの時代」を前とは違う訳でなんだか無性に読み返したくなっていたが、結局図書館でこの本を含め数冊本を借りた。その中で阿部昭は何度も「われらの時代」について触れている。物語自体偶然の連なりで書かれた「ムーン・パレス」の時にも書こうと思ったが、この種の偶然は本当に飽きるほどある。これが本ならばまだいい。人間関係となると、たまたま会うと都合の悪い時に限って二度三度と偶然が重なることがある。別の話。阿部昭「猫に名前をつけすぎると」(河出文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/03/08
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題名通り、猫に関するエッセイ。貼る画像はそこらで撮った猫。 夏目漱石「吾輩は猫である」、内田百間「贋作吾輩は猫である」「ノラや」、後藤明生「めぐり逢い」、町田康「人間の屑」笙野頼子の近作、大島弓子のサバシリーズ、「グーグーだって猫である」(「綿の国星」は別物)、阿部昭の短篇にもよく猫が居た。ぱっと思い付くだけでもこれだけ猫が居る。猫を書く作家は多い。犬となると、谷口ジロー「犬を飼う」くらいしか今は思い浮かばない。その本にに併録されてるのは「猫を飼う」。 この本の中で野坂昭如が何べんも述べているが、たしかに猫は絵になる、猫は想像をかきたてる。繋がれて歩く犬とそれを見るこちらとの間には飼い主が挟まり、隙間を埋められる。「ああ、犬だ」と気楽に写真を撮るのも難しい。まとわりつかれてるのではないかと思うくらいいろいろの猫に逢う時もあれば、ばったり姿を見ない時もある。野良犬はあまり見なくなった。猫が好き犬が嫌いということはない。動物を飼えないからこそ動物に憧れ、無責任に愛せる。実際に飼うとなると猫が外に出るだけで心配で何も手に付かなくなるに決まってる。昔飼っていた文鳥の死の悲しみでさえいまだに何一つ減らずに心に横たわっている。猫のことが書かれたものを読む機会が多いので自然と目が猫に向く。 鹿やキタキツネや熊を日常的に見かけられない街に住んでいないから、たまの巡り合わせとして人間以外の動物に接してふと思いを馳せる、馳せられる生き物としての猫。飼い主になれない人の、距離を取った独りよがりの動物愛の対象としての猫。私にとっての猫はそれ以上のものには出来ない。ただ写真に撮って残してみると、可愛いもんだと思う。中公文庫
2003/03/05
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短篇集。『無妙記』『妖術的過去』『女形』『因果物語』『小さなロマンス』『妖木犬山椒』『村正の兄弟』『戯曲 楢山節考』。『妖術的過去』『因果物語-巷説・武田信玄』は以前読んだことがあるので飛ばした。この中で『無妙記』一番を『無妙記』あげるなら『無妙記』やはり『無妙記』になる。六十歳をすぎた神経痛持ちの骨董品露天商の男が隣室の若い大学生の男の未来を想像する。やがて自分と同じような老人に、そして死んで骨に、白骨になる、と思った時から登場人物が白骨になり、視点が老人から離れても白骨たちが京都の町で話し、動き、生き始める。 腕の神経痛の男はアパートを出た。西大路の大通りに出ると目の前を一台の霊柩車が走っているのが目に映った。金閣寺の裏の火葬場へ行く市外を乗せて走っているのだが、その運ばれている死骸も間もなく白骨になるのである。霊柩車のあとからタクシーが二台つづいて走っていて、中にいる喪服を着た会葬者たちは、何年か、何十年かたてば白骨になるのである。だから、いま霊柩車で運ばれている死骸とはわずかの別れだが、別れを惜しんで憂いに沈んだ顔をして乗っているのだった。腕の神経痛の男は銀閣寺、百万偏行の市電へ乗った。 電車の中には白骨たちがいっぱい詰って乗っていた。これから映画を見に行く白骨たちや、夕食の買物に行く白骨たちや(わたしの来ているお召の着物や西陣帯はなんと美しいことだろう) と思いながら乗っている白骨たちが顔を合わせたり、電車がゆれて顔が触れそうになったりするがお互いに黙り込んでいた。 神経痛の男は、金を貸した若い男に逆上されて刺される前に、その傷が原因で死んでしまうことを先に書かれてしまう。実際には若い男の母親が借金の算段をしてどうにかなりそうなところで話は終わっているのに。「白骨の母親は」「母親の白骨は」と、借金男の母親の白骨は強調されているが、神経痛の男と借金男の前に「白骨の」とつくことはない。神経痛の男がやがて死ぬことははっきりと書かれているのに。あまり深い意味はないかもしれないが、若い男は近いうちに死ぬわけではないから白骨ではない、人を殺そうとするような奴は今白骨のようであるわけがない、生きているのに白骨に見えるような者達と並べたら白骨にしてしまうわけにはいかない、だから、白骨ではない者に刺される神経痛の男は刺されるための肉を持っていなければならない、ということかもしれない。しかし数年後病気で死ぬ母親だって肉あってこその病気なのだけれど・・・。 楢山節考は小説の方がいい。深沢七郎「妖木犬山椒」(中公文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/03/03
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少し前の前から、読むものが国内の作品に偏りすぎているのに気付いていた。翻訳ものが結局は心に強く響いてこないこと、もし読むのなら、これまで読まずに素通りしてきた有名な大長編ものに挑みたいこと、それが面倒なこと、「今すぐ」読みたいものが別にないことが、そうなった原因だった。次に読む本を見失ったところに「調律の帝国」「われら青春の途上にて・青丘の宿」が入り込み、最近読んだものの中では色の違う二冊により生じた隙に、オースターが入り込んできた。 2002/06/01(土) 孤独の発明/ポール・オースター/柴田元幸 訳からあっというまにとてつもないな年月が経過している。そこで示唆されている本書への道を、すっかり忘れていたわけではない。思い出すまで思い出さなかっただけであり、思い出さなかったのは思い出す必要があまりなかったからだ。この9ヶ月、オースターの名前は重要ではなかった、必要ではなかった、私にとっては、「次にオースターの作品で読むなら『ムーン・パレス』だろう」の、「次」がいつまでもやってこなかった。あれは読めると思う、読もう、と思い出した時には「ムーン・パレス」を手に取らなかった理由(それは主に「なんとなく」で構成された、「ニューヨーク三部作と『孤独の発明』以外は読まないでもいいだろう」という思い込み)を忘れていた。 その結果、長いが退屈な書物ではなかった「孤独の発明」をのぞけば、これまで読んだそれ以外のオースター作品、つまり「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」は、もし途中で読むのがつらくなっても、苦もなく最後まで読み通せる長さの作品だったということを発見した。読みやすいオースターの作品であるにもかかわらず、「ムーン・パレス」を読み終えるのに必要以上の時間を要したのは、それほど面白くなかったからだ。実に単純な結論に辿り着くまでに使われた「」『』()が寂しげ。 雄大で荒漠とした風景はただそれだけであらゆる物語を内包出来る。昔からアメリカ西部劇やロシア映画が羨ましかった。「なんでも出来るじゃないか」。 主人公の話、主人公の雇い主の話、主人公の雇い主の息子の話、三部に分けられるそれぞれの青春物語の反復に種が明かされた時(その種は主人公の雇い主の話を半分も読めば誰にでも分かる)、飽きてしまう。終盤、主人公と恋人とは別れてしまうが、それがなければ、物語は主人公の息子に受け継がれ、ひょっとしたら恋人の物語とその両親と祖父母の話にまで遡り、いつまで経っても話が終わらなくなってしまったかもしれない。だから、子供は産まれなかったし、砂漠の洞穴は見つからなかった。この手法を繰返せば、いつまでも面白く繰り返せるならば、新しい物語など必要ない。だが、160キロの巨漢である主人公の雇い主の息子、実は主人公の父親、の登場と同時にその身体同様物語が息切れし、終幕に向かう。物語にけりをつけないと、本は終わらないからだ。次の仕事にとりかかれないからだ。作者も読者も飽きるからだ。 ポール・オースター「ムーン・パレス」柴田元幸 訳(新潮文庫)
2003/03/02
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次に読む本が決まらないまま一冊の本を読み終えると気持ちが宙に浮く。まだ読んでいない本が並んでいる/積んである本棚を見てもはっきりそれと決める要素もない。仕方なく5~6冊を鞄に詰め出先で読む時に気分で決める。先に「調律の帝国」を手に取ったのは一番薄いというだけの理由だった。そこで、収監された在日朝鮮人の叫びを読むことになる。「先生、在日朝鮮人は二世も三世も、七年以上の刑を犯すと、刑を務めてから半島に強制送還されるというのは本当ですか!」と。そうして絶望して逃亡を図り、発狂か獄死以外の道を閉ざされた男の話を読んで、「調律の帝国」と同じ塊の中からこの本を手に取ることを決めた。韓国の大統領が替ろうが北朝鮮がミサイルを発射しようがそのことは関係ない。 あまり覚えてないがこの作者の短篇は講談社文芸文庫戦後短篇小説再発見「歴史の証言」の巻にも収められていた。 しみじみとしたその声は、南洙の耳に──あっさり、死んでしまえ──と言っているように聴えてくる。あっさり死んでしまえ、と毎朝慫慂されている気がしてならない。じつに堂々と死を勧誘している。 はじめてそれに気づいたとき、南洙は耳朶がこそばゆくなるようなユーモアを感じた。くすぐったくておかしかった。この頃はその声をきくとなぜか、ああ、おれは生きているんだなあという気がしてくる。 そんなある朝、まだ蒲団のなかで南洙は誰にともなく訊ねてみた。「あの声、あっさり死んでしまえって言っているように聴える?」 すると驚いたことに、ウンと一斉に返事がもどってきた。みんな起きしなのせいか、その声は子供のように素直にきこえた。~略~ 南洙の問いかけを、ジョングは受けて言った。「もう何年も聞いてきたな、あの声──。いい声だよ、つい死んでしまいたくなるくらいにな。・・・・・・しかし、朝鮮人はなかなか死なない。日本人はよく自殺するがな。朝鮮人は日帝のあの時代ですら自殺しなかったものよ。どうしてだか、わかるか?」「さあ・・・・・」南洙は天井に目をこらして答える。「死ぬことの方が簡単だったからだな。生きている方が難しかった。・・・・・ああ、おれもこのままでは死ねんぞ。何とか、しなくちゃなあ」『われら青春の途上にて』より 内向きに沈んでいく『青丘の宿』、子供時代、父が怒り出すと刃物を持ち出す短距離ランナーへと一瞬で変貌しなければならなかった思い出と最後の和解が面白い『死者の遺したもの』より、やはり初々しく若々しく、青臭い『われら青春の途上にて』が一番気に入った。李恢成「われら青春の途上にて・青丘の宿」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/02/25
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久し振りの見沢知廉。「読みにくい」という評判しか聞いたことのないこの本も、埴谷雄高を読んだ後はサラサラ読める。純文学風味といっても一度書いた文章に出てくる単語を暗く重そうな物に書き換えただけのような、作為の跡の見える、自然ではない文章。「天皇ごっこ」の方が勿論数倍面白いが、それでもそれなりに充分楽しめた。 作中に出てくるSは見沢知廉本人ではない。Sは神社に爆弾を仕掛け警官を殺して捕まっているが、見沢知廉はイギリス大使館に火炎瓶を投げたりスパイを粛清したから捕まった。Sは小説を書く手段を取り上げられて発狂するが、見沢知廉は獄中から出す手紙に様々な手段で小説を書き、母に送り、新人賞をとった(「母と息子の囚人狂時代」に詳しい)。その思想に共感することはなかったし犯罪には嫌悪感を感じるが、「天皇ごっこ」はとても面白かった。今回は常日頃私が思っていることと似たようなことが書いてあるのも見つけた。これまでの作品にも書いてあったか知れないが、昔のことで忘れた。 新聞が配達されなかった時、「たまには配達員が忘れることもあるだろう」と最初はのんきに構えてるが、すぐに、新聞を読めない今の状況はこちらに何か過失があって出来上がったものではない、こちらに何の落ち度もない、と、さほど熱心に新聞を読むわけでもないのに腹が立ってきて受話器を取り、やがて謝罪の言葉とともに年輩の人が新聞を届けに来ることになる。 ある犯罪に巻き込まれた時──たとえば神社に爆弾が仕掛けられていて、爆発時たまたま近くに居て、指を二本吹き飛ばされた。犯人は逮捕されて刑に服しているが、失われた指は戻らない。被害者がギターを弾くことを趣味としていたら、プロでもなく、ただ時々触るだけだが、習慣的にやっていたことで、一種の精神安定剤の役目を果たしていたとしたら。指を失ったことで起こる日常の様々な不便はそれぞれの物を恨んで事足りることもある。ギターは指が二本無くても弾けないことはない。しかし弾きにくい。弾きにくくなった理由は自分で作り出したわけではない。そこで恨みは犯人へと向かう。しかし犯人は刑務所の中で規則と所員に縛られて苦しめられて、労役と苦痛と反省の日々を送っていたとしても、それで指が戻ってくるわけではない。宙ぶらりんになった恨みが床に溜まり続ける。被害者に襲ってきた「罪」と、犯人が受ける「罰」には遠い隔たりがある。そこに許しはない。年月の経過で、薄れる記憶と感情を許しと誤解してしまうだけだ。ギターを手を取るたびに、指を失った被害者はやり場のない苛立ちを感じるが、新聞を持ってこさせて済むわけではない。「いいか、小説なんてのはな、昔からまっとうな奴のやることじゃねえ。更正の手段とは認められない。あれは一つの病気だ。懲役の本旨はな、仕事と反省、それだけだ。それ以外は考えるな。有難く思えよ。俺達はな、おめえをな、考える苦しみから救ってやるんだ。考えちゃあ、人間は素直にも幸せにもなれねえ。人間は考えちゃあいけねえんだ・・・・・。半端な締めつけや自由なんてものはやる方も、やられる方も不幸なんだ。S、喜べ、ノート没収だ。もう考えないで済む。仕事だけに専念しろ」 網走刑務所の前を通ったことがある。赤レンガの向こうにも外にも高倉健や田中邦衛の姿は見えなかった。近くの寺の門は、昔の網走刑務所の正門を移したものと聞いた。住職と刑務所との交流を聞いても、いい話のようにそうなった経過を聞いても、風景としては狂っているようにしか見えなかった。
2003/02/23
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鼻血がよく出る。ポルキアス(メフィスト) さあ この愛らしい響きに耳を傾け 古いお伽話から さっさと目を覚ませ! お前さんらの神様たちの 昔ながらの大騒ぎなんぞ 滅びるままに放っておけ とっくに終わったことなのだ。 お前さんたちのお話には もう誰も関心を持たぬ きょうび要求される関税は そんな安いものじゃない。 すべては胸の底から発したものでなければならん それでこそ 今の聴き手の胸の底にも届くのだ。 世界中の本の中にはギリシャ神話の神々の名が多く記されている。日本の現代詩人たちまでもいまだにそんなものに縋り付いている人は少なくない。使うのはいい。使いやすいイメージだ、世界中に知られた神々だ、これまでも多く使われてきた名だ。安易に使われるのが鬱陶しい。はっきり言えば、どの名であろうと、今ではもう古い。使いたいやつはいつまでも使っていればいいさ。古びてなお輝きを増すように書けるものだけ書けばいい。 神々の名がまだ今ほどくたびれていない時代を彷徨うファウスト第二部。メフィストーフェレス、ホムンクルス、オイフォーリオンらに目が向き、好き放題やって勝手に後悔してあげくの果てに天国に召されるファウストのことは、大方忘れた。 ファウストとヘレナの間に生まれたなら、強大な力を持っていなければならない。夢見たことは成し遂げなければならない。太陽を見てしまったならそこを目指さなければならない。それで死ぬなら仕方ない。オイフォーリオン 森を突っ切るぞ! 切り株 岩など乗り越えろ! 簡単に手に入ったものなど 腹が立つ。 無理やり奪ったものだけが ぐんと嬉しいものなのだ。~中略~ お前たちの夢は平和の日々か? 見たい夢なら勝手に見てろ! こそが合言葉だ と叫びは返る。~中略~ 聞こえませんか 海の上のどよめきが? 谷から谷へ そのどよめきが昇ってきて 戦慄が舞い 波が打ち寄せ 戦士たちが相討って 押し寄せては押し返され 苦痛と苦悩が襲い掛かる。 そして死こそが わが掟──。 それはもう自明のことなのです。~中略~ そうですとも!──背中に 二枚の翼が開いたぞ! あの戦いの場へ! 行かねば! 行かねば! さあ飛ぶぞ! 許して下さい! 春の兆しが見え暖かくなってきたと油断していたら少し寒い日がやってきて風の温度が下がった。オイフォーリオンがイカロスをなぞり焼け死ぬ場面では寒気を感じた。その時は電車の中に居た。 最近首猛夫が喧しい。メフィストーフェレスと重なるためか、節のついた語りで油断するといつまでも喋っている。私が何かに対して何かを思う、何かを思い付く、すると首猛夫流饒舌に変換され考えが停まらなくなる、そしてまとまらなくなる。2月19日は埴谷雄高の六回忌。不思議と、「死霊」を読み終えた後の方が読んでいる時より素直に身が染まっていくようで。リュンケウス 幸福なる俺の眼よ お前が今まで見たものは それがいったい何であれ みんな本当に美しかった!ファウスト「ゲーテ(下)」柴田翔 訳(講談社文芸文庫)(3)とついてるのは間違い。
2003/02/17
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「『死霊』『ファウスト第二部』を買おうと講談社文芸文庫の並ぶ棚の前に行くと、『死霊』を何度も手に取り、買おうかどうか逡巡している女子高生が一人居た。その絵の微笑ましさには委細構わず私は上から二冊目の『死霊』と横の『ファウスト第二部』を手に取り、レジへ向かった。流行りだしたな、と私は嬉しく思った」 という文章を先に思い付いたのでそのような光景に出くわさないかと期待したがそんなものはどこにもありはしなかった。両作品ともに減ってはいたので、売れてはいるんだろう。講談社文芸文庫を置いている本屋が他にないというだけの理由からかもしれないが。「もう夕暮だぞ。村の人なんか来ないよ」 と声をかけると、三脚を前に坐りこんでいたSは顔もあげないで答える。「いや、来るね。ぼくは観光案内でこの場所の写真を見たときから、手前に花を手にしたはだしの信者を入れて撮ろうと決めてたんだ。それも黄色い花だ。白の衣服と褐色の腕と黄色い花、そして灰色の寝釈迦。それで決まりだ。ほら、仏さんの前の台に、しおれた花があるだろ。誰かが花を捧げにくる証拠さ」 確かに粗末なブリキの台の上に、黄色い花の束がしおれていた。「ぼくがファインダーを覗いて、ここにあれが現れなければならない、と思うと、その通りに現れるんだ。鳥でも人間でも飛行機でも。いつもじゃないけどな。いまに必ず現れる」 すでに私は気付き始めていた──異様に生気の高まった状態で、自分の中に起こることは、遠からずどこかで必ず、外的な事柄としても起こるのだ、と。私が起こすのでもないが、私と全く無関係の何かが起こるのでもない。どちらが原因でも結果でもない。もしそれが異常な事態なのなら、私は次第にそんな異様な領域に近づいている。両方『渦巻』より「『死霊』の前で逡巡する女子高生」を思い描いたのはこれらの文章を読む前だったが、先に読んでいても、来るまで待つことはしないだろう。それは変な人だ。 文章にはまったく魅力を感じないものの、講談社文芸文庫の短篇小説再発見シリーズのどれかに収録されていた『天窓のあるガレージ』と、最近亡くなられた時の報道でどういうわけか好感を持ち始めた日野啓三。ファウスト第二部を買っておきながらそれを差し置いて読み始めたのは、最初の短篇『地下都市』に書かれているカッパドキアの奇岩とカイマクル地下都市があまりに魅力的に見えたからだ。こんなとここんな岩カイマクル地下都市こんなのが地下八層も 紀行と虚構の混ざった四編をそれぞれ楽しんだ後、突然小説らしくなった『29歳のよろい戸』はつまらなく読んだ。『天窓のあるガレージ』を飛ばし期待することなく読み出した『夕焼けの黒い鳥』では、『地下都市』と同じように、珊瑚の死骸の海岸で「彼女」が見る、魚たちの戯れに魅力を感じた。その光景に、その楽しさに。もっとも、極私的タイミングの良さとでもいうべきか、今であったから、旅の風景に感じ入ることが出来、楽しめたということかもしれない。その時その時の・・・・・・『夕焼けの黒い鳥』の主人公がもっと若ければ、と強引に繋げれば少しだけ印象のかぶる映画が今始まった。有名なフランス映画だ。なんだこのタイミングは。ねっとりとした歌手がエマニエル~♪と歌っている。日野啓三「天窓のあるガレージ」(福武文庫)
2003/02/14
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第二次世界大戦末期、敵の戦艦に特攻する自爆艇を率いる指揮官であった作者の終戦前後体験を綴った自伝的小説と、夢小説の、七編収録。最後の『島へ』と吉本隆明の解説は読んでられなくて止めた。夢を夢のまま長々と書かれても読むのはつらい。島尾ミホ(作者の妻)の書く「著者に代わって読者へ 島尾敏雄の戦争文学について」の、真摯で現実事ばかりを下敷きにした文章を読めば、吉本隆明は無意味なことを並べているようにしか見えない。 軍隊式報告の名残を残した文章は古臭く見えた。 道を反対方向に進んでいたことにようやく気付いた時はかなりの距離を歩いた後だった。また長い道のりを同じ景色を見ながら引き返すのは気が重く、鞄に入れていた本を取り出し、切れ切れの灯りの間に影を覆い被されながら、歩きながら本を読んだ。歩き方が軍隊調になった。信号と通行人ですぐに途切れた。夜の国道沿いと本の中の南の島は重なり難かった。元の場所にはあっという間に辿り着いたが時計は正直で、間違った方向に歩いていた分と同じ時間針を進ませていた。 私はその頃の時間の感じに自信がない。時は進んでいたのか。逆光していたのか、或いは又停止していたのか、然しそれを疑ってみたというのではない。ただ私にとって歴史の進行は停止して感じられた。私は日に日に若くなって行った。つまり歳をとって行かないのだ。私の世の中は南の海の果ての方に末すぼまりになっていた。その南の果ての海は突然に懸崖になっていて海は黒く凍りつき、漏れた海水が、底の無い下方に向って落ち続けていた。『出孤島記』より 戦争体験を書いた後作者は、書く物を見失う。そして夢を見る。然しうちの者は怪我ひとつしないと言うのが戦争前までの私の現実だったのだ。それが今日此頃はどうだろう。こんなにぎっしり不幸が矢つぎ早にやって来た。私はもう自分が何であるか分らない。うわあっ、何と素晴らしいことだ、之がみんな俺の現実なのだ。『夢の中で日常』より ・・・・・・と思ったが、南の島を舞台にした一連の小説よりも『夢の中での日常』の方がずっと発表時期が早い。解説はともかく作家案内に今目を通しておいて良かった。 8月15日の前と後では兵士たちの会話の雰囲気が全く違う。と思っていたが、『出発は遂に訪れず』で天皇のラジオ放送を聴くまで、ほとんどの会話文は命令か報告に過ぎず、人がまともに話し出すのは放送後のことだ。主人公は15日の昼に集合をかけられた場所へたどり着く前に、風景から終戦を悟る。Sの部落の田圃全体が見通せるところに出た私は、あきらかにふだんとちがった様子を見た。というよりむしろふだんにもどったと言うべきだろう。今までふだんと見ていたのは、空襲をおそれて耕作者が出ないために荒れるにまかせた異様な田園の風景であった。また、部落のはずれの海岸に岸壁をきずき兵舎と練兵場と桟橋をもった海軍の防備隊があるために、何度も爆撃のとばっちりを受け、あちこちに爆弾で掘り返された月面を思わせるあばたができていたが、それも整地されるでもなく、そのままのすがたをいつまでもさらしていた。その田圃に今、人々が何人もはいって折目の祭のようなにぎわいをわきたたせながら、おくれた刈入れをしていた。そのあたりまえのことが、そこに予想した無人の風景と重ならず、人々の点在が取りちらかされた余計な塵芥と見え、かえってどきりとした異様な情景がそこにくり広げられていると感じたのがおかしい。弾痕のある凹みにも頓着せずにふみこみどんな危険も感じない様子も異常を強めるに役立った。『出発は遂に訪れず』より 一冊の本について何百行も語られたものよりも、本文から数行引用したものの方に私は目を惹かれる。聴き取り難い玉音放送より、一変した風景の方に説得力を感じるという描写にはとても説得力がある。島尾敏雄「その夏の今は・夢の中での日常」(講談社文芸文庫)
2003/02/11
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神々に似る俺ではない! もう肝に銘じて判った。塵あくたを掘り返すみみずにこそ似る俺なのだ塵あくたを食らいつつ生きさすらい人の足に踏みにじられて死ぬみみずだ。柴田翔 訳『夜』より 己は神々に似てはおらぬ、成程よくわかった。塵の中にうごめき、塵を喰って生きていて、人の足に踏まれて埋め殺される蛆虫己が似ているのはその蛆虫なのだ。高橋義孝 訳 本を全然読まない時期というのがある。これまで何度もあった。好きになった作家の代表作だけを読んで、世の中の他の本はもういいやと決めつけた時、本なんて読んでられなかった時、ただなんとなく。いずれにしてもまた本を手に取るようになったのは強烈に興味を惹く一冊の本に出会ったからだった。「ファウスト」もそれであり、まだ若かったその頃は、ゲーテだかダンテだか知らないが、そんなお勉強の時にしか聞かないような名前の人の本を読むなんてそもそも理由が見つからなかった。兄の本棚にあるのが目に入った。読むと読めた。最後まで読めた。面白かった。ので、その後他の本へと手を伸ばしていった。第二部を読むことはなく。 第二部を読まなかった理由として、訳の古さと大量の脚注、そして「ゲーテが60年かけて書いたものだから何も急いで読むこともない」という、もっともらしいようでまったくそうでもない思いつきがあげられる。その後何度か読もうとはしたが面倒臭いが勝った。ファウスト たがえるまいぞ!俺が仮にもある瞬間に向い留まれ! お前はあまりにも美しい! と言ったならもう俺はお前のものだ俺は破滅に甘んじる!その時は葬送の鐘よ鳴り響け時計よ止まれ 針よ落ちよお前は俺への奉仕から解き放たれわが時は終ったのだ!柴田翔訳 契約の場面ファウスト 間違いあるまいな。己がある刹那に向って、「とまれ、お前は本当に美しい」といったら、己はお前に存分に料理されていい。己はよろこんで滅んで行く。そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい、その時は君の奉公も終るのだ。時計が停り、針も落ちるがいい。己のすべては終るのだ。高橋義孝訳 初めてファウストを読んだ時以降も何度もファウスト物語を読んできた。手塚治虫「ファウスト」「百物語」「ネオ・ファウスト」。「ネオ・ファウスト」はついさっき読み返したのを入れて三回は読んだ。ゲバ学生が時限爆弾を作るのに「腹腹時計」のパンフレットを参考にしているのに気付いた。随分と使い回しのきく定番ネタだ。散々頭に入っているストーリー(第一部のみ)と、読みやすい訳に眼の玉押され、行は今までみたことのないような速度で右へ右へと消えていった。あっという間に読み終えてから初めて脚注のなかったことに気付いた。もっとも、一番脚注の必要そうな『ヴァルプルギスの夜』後半部分はつまらないことを再確認したが・・・。同時代人への皮肉を今読んでも面白いものではない。『董色の空に』で得た高揚感ついでに無闇と熱くなりたくて手にとったファウストは劇的な効果を与えたかに見えたがその喉越しの良さのため寝て起きると気分は落ち着いていた。すぐに「ネオ・ファウスト」を読み返したからかもしれない。拾った熱は冷めないうちに何かに変えた方が良い。だからといって夜中に走り出すと次の日疲れる。 人間の限界に絶望して悪魔と契約して若返ったファウスト先生が大感激することといったら、ありふれた娘とのありふれた恋愛。娘の居ない部屋に忍び込むと、ただそこにあるだけの椅子やカーテンや空気までを誉め称え始める。麗しきグレートヒェンだとて金の飾りにクラクラと。その人間としての俗っぽさが長い間人口に膾炙してきた理由の一つかもしれない。第二部のことは知らない。マルガレーテ 私もう あなたの思うままなのだからせめてこの赤ちゃんにお乳をやらして下さいね。一晩中可愛いこの子を抱いていたのよみんなして私からこの子を取り上げて 私をいじめて置きながら今になって 私が殺したなんて言いふらすの。もう私の心が晴ればれすることなんてありゃしない。みんな私のことを流行歌にして歌うのよ! 本当に意地悪な人たちねえ!古いお伽話が赤ちゃん殺しで終わるからってそのお話が私のことだなんて 誰がみんなを焚きつけたんでしょう?ゲーテ「ファウスト(上)」柴田翔 訳(講談社文芸文庫)
2003/02/06
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