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次に読む本が決まらないまま一冊の本を読み終えると気持ちが宙に浮く。まだ読んでいない本が並んでいる/積んである本棚を見てもはっきりそれと決める要素もない。仕方なく5~6冊を鞄に詰め出先で読む時に気分で決める。先に「調律の帝国」を手に取ったのは一番薄いというだけの理由だった。そこで、収監された在日朝鮮人の叫びを読むことになる。「先生、在日朝鮮人は二世も三世も、七年以上の刑を犯すと、刑を務めてから半島に強制送還されるというのは本当ですか!」と。そうして絶望して逃亡を図り、発狂か獄死以外の道を閉ざされた男の話を読んで、「調律の帝国」と同じ塊の中からこの本を手に取ることを決めた。韓国の大統領が替ろうが北朝鮮がミサイルを発射しようがそのことは関係ない。 あまり覚えてないがこの作者の短篇は講談社文芸文庫戦後短篇小説再発見「歴史の証言」の巻にも収められていた。 しみじみとしたその声は、南洙の耳に──あっさり、死んでしまえ──と言っているように聴えてくる。あっさり死んでしまえ、と毎朝慫慂されている気がしてならない。じつに堂々と死を勧誘している。 はじめてそれに気づいたとき、南洙は耳朶がこそばゆくなるようなユーモアを感じた。くすぐったくておかしかった。この頃はその声をきくとなぜか、ああ、おれは生きているんだなあという気がしてくる。 そんなある朝、まだ蒲団のなかで南洙は誰にともなく訊ねてみた。「あの声、あっさり死んでしまえって言っているように聴える?」 すると驚いたことに、ウンと一斉に返事がもどってきた。みんな起きしなのせいか、その声は子供のように素直にきこえた。~略~ 南洙の問いかけを、ジョングは受けて言った。「もう何年も聞いてきたな、あの声──。いい声だよ、つい死んでしまいたくなるくらいにな。・・・・・・しかし、朝鮮人はなかなか死なない。日本人はよく自殺するがな。朝鮮人は日帝のあの時代ですら自殺しなかったものよ。どうしてだか、わかるか?」「さあ・・・・・」南洙は天井に目をこらして答える。「死ぬことの方が簡単だったからだな。生きている方が難しかった。・・・・・ああ、おれもこのままでは死ねんぞ。何とか、しなくちゃなあ」『われら青春の途上にて』より 内向きに沈んでいく『青丘の宿』、子供時代、父が怒り出すと刃物を持ち出す短距離ランナーへと一瞬で変貌しなければならなかった思い出と最後の和解が面白い『死者の遺したもの』より、やはり初々しく若々しく、青臭い『われら青春の途上にて』が一番気に入った。李恢成「われら青春の途上にて・青丘の宿」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/02/25
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久し振りの見沢知廉。「読みにくい」という評判しか聞いたことのないこの本も、埴谷雄高を読んだ後はサラサラ読める。純文学風味といっても一度書いた文章に出てくる単語を暗く重そうな物に書き換えただけのような、作為の跡の見える、自然ではない文章。「天皇ごっこ」の方が勿論数倍面白いが、それでもそれなりに充分楽しめた。 作中に出てくるSは見沢知廉本人ではない。Sは神社に爆弾を仕掛け警官を殺して捕まっているが、見沢知廉はイギリス大使館に火炎瓶を投げたりスパイを粛清したから捕まった。Sは小説を書く手段を取り上げられて発狂するが、見沢知廉は獄中から出す手紙に様々な手段で小説を書き、母に送り、新人賞をとった(「母と息子の囚人狂時代」に詳しい)。その思想に共感することはなかったし犯罪には嫌悪感を感じるが、「天皇ごっこ」はとても面白かった。今回は常日頃私が思っていることと似たようなことが書いてあるのも見つけた。これまでの作品にも書いてあったか知れないが、昔のことで忘れた。 新聞が配達されなかった時、「たまには配達員が忘れることもあるだろう」と最初はのんきに構えてるが、すぐに、新聞を読めない今の状況はこちらに何か過失があって出来上がったものではない、こちらに何の落ち度もない、と、さほど熱心に新聞を読むわけでもないのに腹が立ってきて受話器を取り、やがて謝罪の言葉とともに年輩の人が新聞を届けに来ることになる。 ある犯罪に巻き込まれた時──たとえば神社に爆弾が仕掛けられていて、爆発時たまたま近くに居て、指を二本吹き飛ばされた。犯人は逮捕されて刑に服しているが、失われた指は戻らない。被害者がギターを弾くことを趣味としていたら、プロでもなく、ただ時々触るだけだが、習慣的にやっていたことで、一種の精神安定剤の役目を果たしていたとしたら。指を失ったことで起こる日常の様々な不便はそれぞれの物を恨んで事足りることもある。ギターは指が二本無くても弾けないことはない。しかし弾きにくい。弾きにくくなった理由は自分で作り出したわけではない。そこで恨みは犯人へと向かう。しかし犯人は刑務所の中で規則と所員に縛られて苦しめられて、労役と苦痛と反省の日々を送っていたとしても、それで指が戻ってくるわけではない。宙ぶらりんになった恨みが床に溜まり続ける。被害者に襲ってきた「罪」と、犯人が受ける「罰」には遠い隔たりがある。そこに許しはない。年月の経過で、薄れる記憶と感情を許しと誤解してしまうだけだ。ギターを手を取るたびに、指を失った被害者はやり場のない苛立ちを感じるが、新聞を持ってこさせて済むわけではない。「いいか、小説なんてのはな、昔からまっとうな奴のやることじゃねえ。更正の手段とは認められない。あれは一つの病気だ。懲役の本旨はな、仕事と反省、それだけだ。それ以外は考えるな。有難く思えよ。俺達はな、おめえをな、考える苦しみから救ってやるんだ。考えちゃあ、人間は素直にも幸せにもなれねえ。人間は考えちゃあいけねえんだ・・・・・。半端な締めつけや自由なんてものはやる方も、やられる方も不幸なんだ。S、喜べ、ノート没収だ。もう考えないで済む。仕事だけに専念しろ」 網走刑務所の前を通ったことがある。赤レンガの向こうにも外にも高倉健や田中邦衛の姿は見えなかった。近くの寺の門は、昔の網走刑務所の正門を移したものと聞いた。住職と刑務所との交流を聞いても、いい話のようにそうなった経過を聞いても、風景としては狂っているようにしか見えなかった。
2003/02/23
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鼻血がよく出る。ポルキアス(メフィスト) さあ この愛らしい響きに耳を傾け 古いお伽話から さっさと目を覚ませ! お前さんらの神様たちの 昔ながらの大騒ぎなんぞ 滅びるままに放っておけ とっくに終わったことなのだ。 お前さんたちのお話には もう誰も関心を持たぬ きょうび要求される関税は そんな安いものじゃない。 すべては胸の底から発したものでなければならん それでこそ 今の聴き手の胸の底にも届くのだ。 世界中の本の中にはギリシャ神話の神々の名が多く記されている。日本の現代詩人たちまでもいまだにそんなものに縋り付いている人は少なくない。使うのはいい。使いやすいイメージだ、世界中に知られた神々だ、これまでも多く使われてきた名だ。安易に使われるのが鬱陶しい。はっきり言えば、どの名であろうと、今ではもう古い。使いたいやつはいつまでも使っていればいいさ。古びてなお輝きを増すように書けるものだけ書けばいい。 神々の名がまだ今ほどくたびれていない時代を彷徨うファウスト第二部。メフィストーフェレス、ホムンクルス、オイフォーリオンらに目が向き、好き放題やって勝手に後悔してあげくの果てに天国に召されるファウストのことは、大方忘れた。 ファウストとヘレナの間に生まれたなら、強大な力を持っていなければならない。夢見たことは成し遂げなければならない。太陽を見てしまったならそこを目指さなければならない。それで死ぬなら仕方ない。オイフォーリオン 森を突っ切るぞ! 切り株 岩など乗り越えろ! 簡単に手に入ったものなど 腹が立つ。 無理やり奪ったものだけが ぐんと嬉しいものなのだ。~中略~ お前たちの夢は平和の日々か? 見たい夢なら勝手に見てろ! こそが合言葉だ と叫びは返る。~中略~ 聞こえませんか 海の上のどよめきが? 谷から谷へ そのどよめきが昇ってきて 戦慄が舞い 波が打ち寄せ 戦士たちが相討って 押し寄せては押し返され 苦痛と苦悩が襲い掛かる。 そして死こそが わが掟──。 それはもう自明のことなのです。~中略~ そうですとも!──背中に 二枚の翼が開いたぞ! あの戦いの場へ! 行かねば! 行かねば! さあ飛ぶぞ! 許して下さい! 春の兆しが見え暖かくなってきたと油断していたら少し寒い日がやってきて風の温度が下がった。オイフォーリオンがイカロスをなぞり焼け死ぬ場面では寒気を感じた。その時は電車の中に居た。 最近首猛夫が喧しい。メフィストーフェレスと重なるためか、節のついた語りで油断するといつまでも喋っている。私が何かに対して何かを思う、何かを思い付く、すると首猛夫流饒舌に変換され考えが停まらなくなる、そしてまとまらなくなる。2月19日は埴谷雄高の六回忌。不思議と、「死霊」を読み終えた後の方が読んでいる時より素直に身が染まっていくようで。リュンケウス 幸福なる俺の眼よ お前が今まで見たものは それがいったい何であれ みんな本当に美しかった!ファウスト「ゲーテ(下)」柴田翔 訳(講談社文芸文庫)(3)とついてるのは間違い。
2003/02/17
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「『死霊』『ファウスト第二部』を買おうと講談社文芸文庫の並ぶ棚の前に行くと、『死霊』を何度も手に取り、買おうかどうか逡巡している女子高生が一人居た。その絵の微笑ましさには委細構わず私は上から二冊目の『死霊』と横の『ファウスト第二部』を手に取り、レジへ向かった。流行りだしたな、と私は嬉しく思った」 という文章を先に思い付いたのでそのような光景に出くわさないかと期待したがそんなものはどこにもありはしなかった。両作品ともに減ってはいたので、売れてはいるんだろう。講談社文芸文庫を置いている本屋が他にないというだけの理由からかもしれないが。「もう夕暮だぞ。村の人なんか来ないよ」 と声をかけると、三脚を前に坐りこんでいたSは顔もあげないで答える。「いや、来るね。ぼくは観光案内でこの場所の写真を見たときから、手前に花を手にしたはだしの信者を入れて撮ろうと決めてたんだ。それも黄色い花だ。白の衣服と褐色の腕と黄色い花、そして灰色の寝釈迦。それで決まりだ。ほら、仏さんの前の台に、しおれた花があるだろ。誰かが花を捧げにくる証拠さ」 確かに粗末なブリキの台の上に、黄色い花の束がしおれていた。「ぼくがファインダーを覗いて、ここにあれが現れなければならない、と思うと、その通りに現れるんだ。鳥でも人間でも飛行機でも。いつもじゃないけどな。いまに必ず現れる」 すでに私は気付き始めていた──異様に生気の高まった状態で、自分の中に起こることは、遠からずどこかで必ず、外的な事柄としても起こるのだ、と。私が起こすのでもないが、私と全く無関係の何かが起こるのでもない。どちらが原因でも結果でもない。もしそれが異常な事態なのなら、私は次第にそんな異様な領域に近づいている。両方『渦巻』より「『死霊』の前で逡巡する女子高生」を思い描いたのはこれらの文章を読む前だったが、先に読んでいても、来るまで待つことはしないだろう。それは変な人だ。 文章にはまったく魅力を感じないものの、講談社文芸文庫の短篇小説再発見シリーズのどれかに収録されていた『天窓のあるガレージ』と、最近亡くなられた時の報道でどういうわけか好感を持ち始めた日野啓三。ファウスト第二部を買っておきながらそれを差し置いて読み始めたのは、最初の短篇『地下都市』に書かれているカッパドキアの奇岩とカイマクル地下都市があまりに魅力的に見えたからだ。こんなとここんな岩カイマクル地下都市こんなのが地下八層も 紀行と虚構の混ざった四編をそれぞれ楽しんだ後、突然小説らしくなった『29歳のよろい戸』はつまらなく読んだ。『天窓のあるガレージ』を飛ばし期待することなく読み出した『夕焼けの黒い鳥』では、『地下都市』と同じように、珊瑚の死骸の海岸で「彼女」が見る、魚たちの戯れに魅力を感じた。その光景に、その楽しさに。もっとも、極私的タイミングの良さとでもいうべきか、今であったから、旅の風景に感じ入ることが出来、楽しめたということかもしれない。その時その時の・・・・・・『夕焼けの黒い鳥』の主人公がもっと若ければ、と強引に繋げれば少しだけ印象のかぶる映画が今始まった。有名なフランス映画だ。なんだこのタイミングは。ねっとりとした歌手がエマニエル~♪と歌っている。日野啓三「天窓のあるガレージ」(福武文庫)
2003/02/14
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第二次世界大戦末期、敵の戦艦に特攻する自爆艇を率いる指揮官であった作者の終戦前後体験を綴った自伝的小説と、夢小説の、七編収録。最後の『島へ』と吉本隆明の解説は読んでられなくて止めた。夢を夢のまま長々と書かれても読むのはつらい。島尾ミホ(作者の妻)の書く「著者に代わって読者へ 島尾敏雄の戦争文学について」の、真摯で現実事ばかりを下敷きにした文章を読めば、吉本隆明は無意味なことを並べているようにしか見えない。 軍隊式報告の名残を残した文章は古臭く見えた。 道を反対方向に進んでいたことにようやく気付いた時はかなりの距離を歩いた後だった。また長い道のりを同じ景色を見ながら引き返すのは気が重く、鞄に入れていた本を取り出し、切れ切れの灯りの間に影を覆い被されながら、歩きながら本を読んだ。歩き方が軍隊調になった。信号と通行人ですぐに途切れた。夜の国道沿いと本の中の南の島は重なり難かった。元の場所にはあっという間に辿り着いたが時計は正直で、間違った方向に歩いていた分と同じ時間針を進ませていた。 私はその頃の時間の感じに自信がない。時は進んでいたのか。逆光していたのか、或いは又停止していたのか、然しそれを疑ってみたというのではない。ただ私にとって歴史の進行は停止して感じられた。私は日に日に若くなって行った。つまり歳をとって行かないのだ。私の世の中は南の海の果ての方に末すぼまりになっていた。その南の果ての海は突然に懸崖になっていて海は黒く凍りつき、漏れた海水が、底の無い下方に向って落ち続けていた。『出孤島記』より 戦争体験を書いた後作者は、書く物を見失う。そして夢を見る。然しうちの者は怪我ひとつしないと言うのが戦争前までの私の現実だったのだ。それが今日此頃はどうだろう。こんなにぎっしり不幸が矢つぎ早にやって来た。私はもう自分が何であるか分らない。うわあっ、何と素晴らしいことだ、之がみんな俺の現実なのだ。『夢の中で日常』より ・・・・・・と思ったが、南の島を舞台にした一連の小説よりも『夢の中での日常』の方がずっと発表時期が早い。解説はともかく作家案内に今目を通しておいて良かった。 8月15日の前と後では兵士たちの会話の雰囲気が全く違う。と思っていたが、『出発は遂に訪れず』で天皇のラジオ放送を聴くまで、ほとんどの会話文は命令か報告に過ぎず、人がまともに話し出すのは放送後のことだ。主人公は15日の昼に集合をかけられた場所へたどり着く前に、風景から終戦を悟る。Sの部落の田圃全体が見通せるところに出た私は、あきらかにふだんとちがった様子を見た。というよりむしろふだんにもどったと言うべきだろう。今までふだんと見ていたのは、空襲をおそれて耕作者が出ないために荒れるにまかせた異様な田園の風景であった。また、部落のはずれの海岸に岸壁をきずき兵舎と練兵場と桟橋をもった海軍の防備隊があるために、何度も爆撃のとばっちりを受け、あちこちに爆弾で掘り返された月面を思わせるあばたができていたが、それも整地されるでもなく、そのままのすがたをいつまでもさらしていた。その田圃に今、人々が何人もはいって折目の祭のようなにぎわいをわきたたせながら、おくれた刈入れをしていた。そのあたりまえのことが、そこに予想した無人の風景と重ならず、人々の点在が取りちらかされた余計な塵芥と見え、かえってどきりとした異様な情景がそこにくり広げられていると感じたのがおかしい。弾痕のある凹みにも頓着せずにふみこみどんな危険も感じない様子も異常を強めるに役立った。『出発は遂に訪れず』より 一冊の本について何百行も語られたものよりも、本文から数行引用したものの方に私は目を惹かれる。聴き取り難い玉音放送より、一変した風景の方に説得力を感じるという描写にはとても説得力がある。島尾敏雄「その夏の今は・夢の中での日常」(講談社文芸文庫)
2003/02/11
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神々に似る俺ではない! もう肝に銘じて判った。塵あくたを掘り返すみみずにこそ似る俺なのだ塵あくたを食らいつつ生きさすらい人の足に踏みにじられて死ぬみみずだ。柴田翔 訳『夜』より 己は神々に似てはおらぬ、成程よくわかった。塵の中にうごめき、塵を喰って生きていて、人の足に踏まれて埋め殺される蛆虫己が似ているのはその蛆虫なのだ。高橋義孝 訳 本を全然読まない時期というのがある。これまで何度もあった。好きになった作家の代表作だけを読んで、世の中の他の本はもういいやと決めつけた時、本なんて読んでられなかった時、ただなんとなく。いずれにしてもまた本を手に取るようになったのは強烈に興味を惹く一冊の本に出会ったからだった。「ファウスト」もそれであり、まだ若かったその頃は、ゲーテだかダンテだか知らないが、そんなお勉強の時にしか聞かないような名前の人の本を読むなんてそもそも理由が見つからなかった。兄の本棚にあるのが目に入った。読むと読めた。最後まで読めた。面白かった。ので、その後他の本へと手を伸ばしていった。第二部を読むことはなく。 第二部を読まなかった理由として、訳の古さと大量の脚注、そして「ゲーテが60年かけて書いたものだから何も急いで読むこともない」という、もっともらしいようでまったくそうでもない思いつきがあげられる。その後何度か読もうとはしたが面倒臭いが勝った。ファウスト たがえるまいぞ!俺が仮にもある瞬間に向い留まれ! お前はあまりにも美しい! と言ったならもう俺はお前のものだ俺は破滅に甘んじる!その時は葬送の鐘よ鳴り響け時計よ止まれ 針よ落ちよお前は俺への奉仕から解き放たれわが時は終ったのだ!柴田翔訳 契約の場面ファウスト 間違いあるまいな。己がある刹那に向って、「とまれ、お前は本当に美しい」といったら、己はお前に存分に料理されていい。己はよろこんで滅んで行く。そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい、その時は君の奉公も終るのだ。時計が停り、針も落ちるがいい。己のすべては終るのだ。高橋義孝訳 初めてファウストを読んだ時以降も何度もファウスト物語を読んできた。手塚治虫「ファウスト」「百物語」「ネオ・ファウスト」。「ネオ・ファウスト」はついさっき読み返したのを入れて三回は読んだ。ゲバ学生が時限爆弾を作るのに「腹腹時計」のパンフレットを参考にしているのに気付いた。随分と使い回しのきく定番ネタだ。散々頭に入っているストーリー(第一部のみ)と、読みやすい訳に眼の玉押され、行は今までみたことのないような速度で右へ右へと消えていった。あっという間に読み終えてから初めて脚注のなかったことに気付いた。もっとも、一番脚注の必要そうな『ヴァルプルギスの夜』後半部分はつまらないことを再確認したが・・・。同時代人への皮肉を今読んでも面白いものではない。『董色の空に』で得た高揚感ついでに無闇と熱くなりたくて手にとったファウストは劇的な効果を与えたかに見えたがその喉越しの良さのため寝て起きると気分は落ち着いていた。すぐに「ネオ・ファウスト」を読み返したからかもしれない。拾った熱は冷めないうちに何かに変えた方が良い。だからといって夜中に走り出すと次の日疲れる。 人間の限界に絶望して悪魔と契約して若返ったファウスト先生が大感激することといったら、ありふれた娘とのありふれた恋愛。娘の居ない部屋に忍び込むと、ただそこにあるだけの椅子やカーテンや空気までを誉め称え始める。麗しきグレートヒェンだとて金の飾りにクラクラと。その人間としての俗っぽさが長い間人口に膾炙してきた理由の一つかもしれない。第二部のことは知らない。マルガレーテ 私もう あなたの思うままなのだからせめてこの赤ちゃんにお乳をやらして下さいね。一晩中可愛いこの子を抱いていたのよみんなして私からこの子を取り上げて 私をいじめて置きながら今になって 私が殺したなんて言いふらすの。もう私の心が晴ればれすることなんてありゃしない。みんな私のことを流行歌にして歌うのよ! 本当に意地悪な人たちねえ!古いお伽話が赤ちゃん殺しで終わるからってそのお話が私のことだなんて 誰がみんなを焚きつけたんでしょう?ゲーテ「ファウスト(上)」柴田翔 訳(講談社文芸文庫)
2003/02/06
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文庫本裏表紙紹介文に添えられた「埴谷雄高」という重苦しい名前、話の中に頻出する「虚空」という単語、良い意味で隙間の多い「聖耳」を読んだ後では装飾過多に見える文章、それらに触れていると埴谷雄高を読んでいるんだか古井由吉を読んでいるんだか分からなくなる瞬間が結構あった、気がしたがそれほど理性は弱くなく、そうでもなかった。ただ「虚空」という文字を見るたびに竜巻に巻き込まれてクルクルと宙を舞う蛇が頭をよぎった(埴谷雄高の短篇『虚空』の一場面)。これも嘘だ。埴谷雄高と古井由吉の組み合わせが面白くてコロコロ転がすといくらでも転がるから放っておいたら、読んでる最中に本当に思っていたことを忘れてしまった。 商業誌デビュー前の『木曜日に』を含む初期短篇五編。『先導獣の話』も収録。安部公房『名もなき夜のために』を読んでいる時のような、若い筆に引きずられての高揚感が身に湧く。と同時に、と同時に、33歳のデビューとはいえ、その始めからの技術の高さに舌を巻く。 つぎの木曜日のひけ時、私は急に懐かしげに近づいてきた同僚の誘いを断るだけの気力をまだ取り戻していなかった。またつぎの木曜日、私は真直にねぐらに向かったのに、何気なく足をとめた本屋の店先で、何年ぶりかである女友だちに出会ってしまった。そしてまたつぎの木曜日・・・・・・。まるで何かに脅えて硬直してしまったみたいに、私は木曜日のほかにも手紙は書けるという単純な事実にすこしも思いつかなかった。それゆえ木曜から木曜へ、時間はすさまじい勢いで流れ落ちていった。そして流れの上には虹のようにあの木目の姿がつねにかかり、その不気味さと奇妙な美しさでもって、私の記憶を萎えさせた。こうして私は、呆然と見まもる私自身の前で、都会の無恥の中へ逃げこんで便りもよこさないあの獣たちの一頭になってしまった。『木曜日に』より 読むのに手間取る気がし、随分と時間が経った気がし、それでいて顔を上げて時計を見ると前回見た時より数字が3つ大きくなっているばかり。10分のような3分を、1時間のような3分を繰返し、読み終えて後鑑みるにいつものペースより少し遅いという程度。『先導獣の話』を飛ばし『円陣を組む女たち』。他のものに比べればそれほど特筆するべきこともなかった短篇に思えたが、今思うと後々内に湧くことになる笑いの萌芽を見てとれた。『不眠の祭り』では時間だけでなく、今本を読んでいる場所がどこなのか、誰の本を読んでいるかを忘れるほどの忘我の境に身を追いやられ、物語を食うことはこんなにも楽しかったのだとしょっちゅう忘れてしまうことを思い出さされた。これとそっくりな気分を後藤明生『人間の病気』を読んだ時にも味わった。この気分は、いいものだ。しかし説明は出来ない。 その翌日、火曜の夜、いつものように寝床についたとき、私の心はすでに祭りに対する嫌悪で満たされていた。 祭りは最後には必ず人を欺く。しかも見えすいたやり方で欺くのだ。人はあまりに露骨な誘惑にかえって惹きつけられて、困惑しながら、シニックに構えながら集まってくる。しかしどんな祭りにも、いわば太鼓の乱打のような瞬間があって、その時、人は困惑していれば困惑したまま、シニックに構えていれば構えたまま、心ならずも熱狂していく。もっとも冷静な人間たちでさえも、これほどの昂奮に馴染めない自分に嫌悪を覚えて、なぜここで心楽しい瞞着に手足を突っ張ってあらがうのだろう、祭りに対して戦々兢々と構える人生は人生と呼ぶに値するだろうか、と自己嫌悪から熱狂の中に飛び込んでいく。しかしやがては現実が、熱狂の中で肥大した夢想にも思い及ばぬ醜怪な姿で、襲いかかってくる。その時、祭司どもの姿はもう見えない。われわれは無数の足を持ったひとつの恐れと羞恥になって、偶然という猛獣に捕まるまで、声も立てずに疾駆するのだ。『不眠の祭り』より 感想の体を成さずとも、重要と思えることは話を読んだ時の気分、行き所のない無駄に溢れる高揚感、つまりはただ己が感じたことの全体であるから、誰かに何かを伝えるような、あるいは後で自分で読み返した時にその物語の詳細を思い出すよすがとなるようなことを書くというような気分は吹っ飛んでしまっている。この話の粗筋を面白そうに書く自信もない。 そうして『董色の空に』で自制がきかなくなったらしく身の内で笑いが止まらなくなる。笑いが外へ洩れたのは出鱈目な九九を叫ぶ子供が出てきた時だけだが、何がこれほどおかしいのか自分でもよく分からず、発狂などというありきたりな言い訳じみた単語まで浮かび、生まれて始めて桂枝雀の落語を見た時咳が止まらなくなったことまで思い出した。 どんなにつまらない物でも、持物をわけのわからないやり方で失うのはあまり愉快なことではない。ことに素肌につけていたものとなればなおさらのことだ。と、はじめはその程度の気持でしかなかった。物をよく紛失するのはもともと賀夫の悪い癖だった。子供の頃にはそのことでだいぶ思いわずらったものだった。しかし年をとるにつれて、彼は物を失うことにそれほど神経質な怖れを抱かなくなった。苦心して集めた研究の資料でさえも、ある日、彼の手もとから忽然と消えてしまうこともあるかもしれない。そんなことを彼は平気で思うことができた。そればかりか、紛失しうると思うことも、現に紛失してしまうことも、そう違うことではないのかもしれない、とそんな途方もない思いをもてあそんでいる自分に、ときおり気づくことさえあった。それも、彼がまるで力満ちた独楽のように研究に没頭しているその真最中にである。『董色の空に』より 風邪を誘い込むように「聖耳」を読んだ時とは違い、熱気は物語の中でだけに充満し、こちらの体がどうこうなることはない。元々そんなことはあっては困る。ただ気持ちだけがどうしようもないほど体を抜けて先走る。冬で良かった。古井由吉「円陣を組む女たち」(中公文庫 絶版)
2003/02/04
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