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奇妙な四人組を見た。そのどれもが私の知り合いに似ている。しかし明らかに別人である。実際に本物のその四人が揃うことはあり得ない。彼らのうちには面識のないものもあるからだ。服装が似ている、顎が似ている、帽子を被っており、背の高さの違いに気付かなければ声をかけそうになった人もいる。そして彼らもこちらを見覚えのある人を見るような目で見ていた。こちらの目の裏返しかもしれないが。 1990年度ネビュラ賞受賞作。ヘミングウェイ研究家である主人公に持ちかけられた、1922年に紛失したヘミングウェイ初期短篇の贋作を作り一儲けしようという詐欺話。この筋書きでなぜSFの賞をもらえるか読む前は不思議に思った。要はヘミングウェイオタクのSF作家が書いた、ヘミングウェイオタクが主人公の小説。題名以外に手に取るきっかけもないものだが、意外と面白かった。章題は全てヘミングウェイの作品名。こちとら短篇以外は『日はまた昇る』しか知らないが、それでもヘミングウェイの文体や作風は感じ取れる。作中書かれる贋作の出来もなかなかのものだとは分かる。短編集「われらの時代」に挟まれる戦場を描いた幾つかの断章、私と同じようにこの作者もあれが大好きなのだと分かる。 午前六時半、彼らは六人の閣僚を病院の壁の前に立たせて銃殺した。中庭のあちこちに、水たまりが生じていた。中庭の敷石には、濡れた枯葉が貼りついていた。閣僚の一人は腸チフスにかかっていた。二人の兵士が枯れを階下に運び、雨の中に引きずりだした。彼らはその閣僚を壁際に立たせようとしたが、彼は水たまりの中にしゃがみ込んでしまった。他の五人の閣僚は泰然と壁際に立っていた。とうとう将校が、彼を立たせようとしても無駄だ、と兵士たちに告げた。最初の斉射が行なわれたとき、彼は頭を膝の上に垂れて水たまりにすわり込んでいた。ヘミングウェイ「われらの時代」から、『ファイター』の前にある断章(第五章) 高見浩 訳 た、た、た。事実をシンプルに紙に写す。ヘミングウェイの目に見えたヘミングウェイ的事実を常に自らがマッチョに見えるように記す。俺は強い。世界は硬い。この文体は書きやすい。そうやってずっと続く。ヘミングウェイの話はもういい。「ヤンキースがレッドソックスを殺戮する場面を観戦し」そういう楽しみ方もある。 次元間暗殺者の手にかかるのではなく、自然な死に方をした場合にはどうなるのだろう? やはりべつのアイデンティティにスライドするのか? なかなかしゃれた展望じゃないか。遅かれ早かれ齢百三十歳になって、死の床につき、一瞬一瞬に死にながら、永劫の残り時間を過ごすというのは。 もう最後の方はどうでもいい。SF的世界観を説明する文章のところに急に誤植が現れることもどうでもいい。そこそこ面白くても、どうせ今読むには難しい本だ。大きな図書館にでもあれば幸いだ。一番最後の広告ページ「エリクソン 黒い時計の旅」「カルヴィーノ くもの巣の小道」「マルケス 青い犬の目」こんな時代もあったのだ。1991年発行 単行本 福武書店
2003/09/28
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ブコウスキー職探し、ブコウスキー職場をクビ、放浪、セックス、酒、警察。つまり自伝的長編。『くそったれ! 少年時代』の直後の話。だから読んだタイミングがいい。彼は律儀に時代順に作品を発表しているわけではないから。セリーヌ『なしくずしの死』を先に読んだ時もそうだった。デビュー作である『夜の果ての旅』舞台直前までの少年時代を書いたこの作品を先に読んでいたことで、『夜の果ての旅』の主人公の性格が素直に理解出来た。だから途中で読むのを止めたのは「作風が合わない」「こんな下品な作品なんて」ということだからではない。どうも、そんなに面白くないからだ。その点本書は気軽に読めた。随分読みやすいなと思った。半分ほど読んだところで一度読んだことがあると気付いた。気付かされた部分以外の話は全く覚えていなかった。 二日酔い男は、あお向けになって倉庫の天井を眺めるべきじゃない。いずれ木の梁に目を奪われたりしたら、首でも括りたくなっちまう。それから天窓の──ガラスの天窓に金網が入っているのが見える──金網を見ていると刑務所を思い出す。そして瞼が重くなり一杯飲みたくなって、人の行き交う音がして、それを聞いていると休息時間の終わりに気がついて、よっこらしょと立ち上がり、歩き回って注文品を詰め、梱包しなくちゃならない・・・・・。 まるでハードボイルド小説だ。投稿し続けていた短篇小説の一つが初めて認められたのが本作に書かれてる時代。この後『ポスト・オフィス』で書かれるように、15年だか20年だかの郵便局勤務の後、ようやくブコウスキーは作家時代に入る。「仕事につく」「仕事を辞める」の部分が「詩の朗読をする」「家に頭のおかしなファンが訪ねてくる」などになる。それ以外はあまり変わらない。 点呼は続いた。こんなに仕事の空きがあるってのはいいもんだな、とおれは思った。でも同時に心配もした──きっとおれたち、何か競争させられるんだ。適者生存だ。アメリカにはいつも、職探しをする人々がいる。使える体は、いつでも、いくらでもいる。そしておれは作家になりたいのだ。ほとんどすべての人間は作家だ。歯医者や自動車の修理工になれるだろうなんて、全員が思いやしない。でも、自分は作家になれるとみんな知っているのだ。この部屋の五十人の男の中でたぶん十五人が、おれは作家だと思っていることだろう。ほとんどすべての人間が言葉を使い、それを紙に書くことが出来る。つまり、ほぼ全員が作家になれるのだ。しかし幸運なことに、ほとんどの人間は作家ではなく、タクシー運転手ですらなく、そして何人か、かなり多くの人間は不幸なことに、何者でもないのだ。 いろいろ書いたが削除。少し離れよう。暑さも過ぎた。2001年発行 学研M文庫
2003/09/25
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鳴き始めにはあれほど気にかけていた蝉の声も、その終わりには無頓着だった。いつのまにか秋の風が、と、蝉の不在に気付いた。いつも通る、道路脇に植えられた木にぶら下がる蓑虫は車が通るたびに風に煽られ激しく揺られ、とても蛾になれるまで持ちそうもない。『鯉』火野葦平『赤いパンツ』近藤啓太郎『道』井上靖『四万十川幻想』上林暁『鶴』竹西寛子『閑な老人』尾崎一雄『チャボと湖』丸山健二『菜の花さくら』阪田寛夫『主人公のいない場所』加藤幸子『ゴットハルト鉄道』多和田葉子 第二期(11~)になってから今ひとつ満足出来なかったが、この巻は楽しめた。しかし一番好きな『閑な老人』なんて、ほんとにただの老人エッセイ。こういうのが好きならば別に小説を読まなくてもいいんじゃないかと思えてくる。 尺取虫には随分大きなのがいて、日本のある地方では、これを土瓶割と言うそうだ。木の枝と間違えて、農家の人が土瓶を掛けると、当然落ちて割れる──まさか、と言う人があれば、いや、恐らく本当でしょう、と私は証言したい。私自身、ある年の夏、土瓶は掛けなかったが、梅の枯枝を切るつもりで剪定鋏を使ったら、ぐにゃりと厭な手ごたえがあって、大きな尺取虫を切っていた。煙草のハイライトより少し太目の虫だった。『閑な老人』より かといって『鯉』『主人公のいない場所』のように、動物、自然に意味を持たせすぎるとこちらが白ける。特に『主人公のいない場所』。4ページの掌篇三つ。ノスタルジアと感傷と幻想と。私はこの手の話が好きなはずなのに。一つの理想として普段は思い描いているはずなのに。読んでみるとあざとさが目につき、事実無根ということに物足りなさを感じる。どうもスタインベック『赤い小馬』を読んで以来この傾向が強い。そんな目で読むと多和田葉子『ゴットハルト鉄道』はいろいろな工夫の多さに腹痛を起こしそうになる。 聖人のお腹の肉の中を走るのだと思って胸をおどらせ、わたしはすぐに承知した。わたしにこの旅行を依頼してきたのは、音節にアイロンをかけたような丁寧な話し方をするチューリッヒ新報の編集者だった。ゴットハルトは、重いのです。重すぎて、息苦しいのです。だから、異邦人の方に乗ってもらって、軽くしたいのです。編集者は電話でそう言った。わたしは、この編集者が取材と原稿を依頼しようと思った日本人の作家本人ではなかった。それは人違いでもなかった。それは、詐欺のようなものだった。『ゴットハルト鉄道』より『閑な老人』で尾崎一雄が観察に徹したのに対し、井上靖は『道』の中で、自宅の庭を走る犬たちがいつも通る道筋は同じであるという発見とともに「人間は」「子供は」「野生の」云々と話を拡げて語り始める。彼にとってはただそれらがそこに「在る」というだけでは不満であり、思索の一助になるものと見ている。尾崎一雄はそれそのものだけで作品として足れりと見ている。小説として成り立ちやすいのは井上靖の方だが、大仰に展開させすぎると鼻白む。それでも『道』はなかなか面白い。 母の口から”いけない道”という言葉が出た時、私ははっとした。母の言葉が生き生きとして心に飛び込んで来たからである。アメリカさんの散歩道も、そこを歩くアメリカさんも、私には今までとは異なって生彩を帯びたものに見えた。母親の言うところに従えば、叔父は嘗て二人の人間が神かくしになった”いけない道”を歩いていたのである。そこを毎日の散歩道に選んでいたのである。 今日”いけない道”も”いけなくない道”もなくなっている。が、明治時代までは”いけない道”というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向って歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすい何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。『道』より講談社文芸文庫 2003年9月発行
2003/09/22
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セリーヌの(というより高坂和彦の)悪文に悪戦苦闘していると、スラスラ読めて単純に面白いという他ない小説が奇跡の結晶に見えてくる。どうしてこんなに面白い小説があるんだろう。どうして私はこういう小説ばかり読まないんだろう、そんな思いがこみ上げてくる、ほんの少し。一枚も付箋を貼ることなく読み終えたものにはやはり物足りなさも感じていて。山田風太郎を読んだ後はいつも同じ感想を書いている気がする。ただ特大フォントで「面白い」だけでもいい。これも前に書いた。 忍法帖シリーズ第一弾。昭和三十三年「面白倶楽部」に連載されたもの。徳川家の世継ぎ問題で、甲賀と伊賀の忍者が各十名を代表して殺し合う。実に単純な物語。恋愛、エログロ、奇想織り交ぜて・・・と『伊賀忍法帖』の時も同じようなことを書いた。2002年03月31日 伊賀忍法帖/山田風太郎>セリーヌ一時中断を決定。 どうも全く同じことを繰り返しているらしい。 現在ヤングマガジンアッパーズに連載中のせがわまさき『バジリスク』の原作。かなり原作に忠実。角川文庫
2003/09/14
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満塁ホームランを打った外国人選手に試合後勝利インタビューしているのをテレビで見た。「あなたはヒットを打った時いつも胸から下げてる十字架にキスします。日本には『お客さまは神さまです』という言葉があります。あなたはここに集まってくれている観客をどう思いますか。私はそれ問います」 という内容の質問をインタビュアーがしていた。外国人選手は質問の意味を掴みかねて「私にとって十字架はとても大切なものである」というような曖昧な返事をしていた。「お客様は神さまです」という商売用の慣用表現の中の「神」と、程度はどのようであれ信仰対象である「神」とをインタビュアーは混同していた。ここでその外国人選手がこの二つの全く意味合いの異なる「神」を同一視した発言をすれば、困るのは彼一人である。質問した方は自分が何かおかしいことを言ったとも思わないだろう。些細なことに思えるが、この程度のこと、少し想像力を働かせれば相手の言葉をつまらせることもないだろうに。 というわけではないけれど。たまたま読んでる最中にそのようなことがあっただけで。「私はキリスト教の正統的信仰の立場から物を見る。私にとって人生の意味はキリストによるわれわれの救済に中心をもち、私が世界のなかで物を見るとき、私はそれをこのこととの関連において見る」という立場で小説を書いたアメリカ南部の作家フラナリー・オコナーの短編集。 同じカトリック系作家の森内敏雄を読んでいてもそう思ったが、どうしてこの人達は救いのない話が多いのだろう。救いのない話ばかりをこれでもかと見せつけといて、救い主を求める心を読者に自然に起こさせる意図でもあるのだろうか。 それにプラスアメリカ南部作家の目から見た黒人という存在への何度も繰り返される強い視線による描写。蔑視ともとれるが『強制追放者』を読むと、外国人より、また白人よりもよりよく知り尽くしている相手として描いている。「知らない悪魔よりはなじみの悪魔のほうがまし」これは黒人の登場人物の言葉だが。 信仰問題、民族問題、さらに加えて小説の内容に関わることの多い作者自身の身体問題(彼女は紅班性狼蒼という不治の病を25歳の時発病し、脚と顔の下半分に障害を抱え、39歳で死去)があり、それらが雰囲気を重く苦しくし「短篇で良かった」と思えるほど、読んでいて疲れる。森内敏雄はもう少しエンターティメント色が濃い。『善人はなかなかいない』の主人公の老婆は、自分が言い出した寄り道の提案のおかげで家族の乗った車が事故を起こし、そこをお尋ね者一味に襲われ家族ごと殺されるはめになる。事故直後に老婆が思うのは「あの屋敷がじつはテネシー州にあることは言わないでおこう」という、寄り道先を豪快に勘違いしていた自分の間違いを隠すお茶目な一面。この辺りはまだ笑えるのだけれど。全てがこの調子ではない。「判事がなくなってからは、毎年やっとのことで帳尻をあわせてきたのに。それが連中ときたら、出ていくたびになにか持ち逃げする始末。黒いやつは出ていかないわ。居すわって、盗む。他人はだれでも金持ちだから、盗んでいいと思ってる。白人のくずは、自分たちのようなくだらないのを雇うほどゆとりがあるなら、金持ちにちがいないと思ってるのよ。私の財産といったら、足の下の土だけなのに。」『強制追放者』より 老ダッドリーはせまい廊下に出るのがいつでもこわかった。よそのドアがいきなりあいて、下着のままで窓の棚から乗り出して外を見ている連中のだれかが現れ、「おまえ、ここでなにやってるんだ?」とどなりつけそうな気がするのだ。黒人が住む部屋のドアはあいていて、窓に近い椅子に女がすわっていた。「北部の黒人か」と老人はつぶやいた。女はふちなし眼鏡をかけ、ひざに本をひろげている。黒人というのは、ちゃんとした身なりには眼鏡がかかせないと思っているんだ、と老人は思った。ルティーシャの眼鏡のことを思い出した。眼鏡を買おうと、彼女が十三ドル貯めこんだ。それから医者に行って、何度のレンズを入れたらいいか、目の検査をしてもらった。医者は鏡板ごしに動物の絵を見させたり、目に光線を当てて頭の奥をのぞいたりした。それから、あんたは眼鏡はいらないと言った。ルティーシャはすっかり腹をたて、三日たてつづけにコーン・ブレッドを焼きまくった。だが結局、十セント・ストアに行って、出来合いの眼鏡を買った。たったの一ドル九十八セントだった。日曜になるとその眼鏡をかけて教会に行った。「あれが黒人ていうものさ。」老ダッドリーは声をたてて笑った。自分が声をたてたのに気づいて、手で口をおさえた。アパートのだれかにきこえたかもしれない。『ゼラニウム』より「右を向いても壁。左を向いても壁。上を見れば天井。下は床。やったことなんかおぼえちゃいないよ。そこにずっとすわり続けて、おれはいったいなにをやったのか、考えてみたんだがね、いまだに思いだせない。時どきはっきりしそうになることもあるんだが、やっぱりだめだ。」『善人はなかなかいない』より 本巻最後に収められている『列車』を、おそらく違う翻訳者によるもので以前読んだ覚えがあるのだが、それが何処でだったかが思い出せない。筑摩書房 2003年 単行本
2003/09/11
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自転車に乗った袈裟姿のお坊さんが信号無視して全速力で走ってた。 短編集。『マドモアゼル・クロード』『頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人』『ディエップ=ニューヘイヴン経由』『占星料理の盛合わせ』『初恋』。 吉行淳之介の文章は粘っこくて苦手。ヘンリー・ミラーの小説はただでさえ読みにくい。二人が重なればそれはもう・・・と、思ったほどではなく。ミラーの書き方も南北回帰線の時とは全く違い、優しい目で登場人物を描いている。病気をもらってきた女をヒモ男が悲しい目で見る『マドモアゼル・クロード』、以前一読して肌に合わないと放り出した時とは違い、男の悲しみが本当に迫ってきた。友人の死の報せを聞いて「借金が帳消しになった!」と喜ぶ、自身がモデルの男を描いたミラー。それが本当に喜んでいると見えたように。 幸福という言葉を口にした瞬間、男の顔が不意に変化した。そして両手で私をがっちり掴むと、私を彼のほうに向き直らせ、とても忘れられない眼つきで私の眼を覗きこみ、吐き出すように言った。「幸福だって? あんたは物を書くんだろ──そのくらいのこと分ってもよさそうなものだ。嘘っぱちを並べたてていることは分っているはずだ。幸福だって? なんてことを言う。よう兄弟、この世で一番惨めな男が目の前にいるんだぜ」彼は一瞬言葉を切って、涙を拭った。最後まで話を聞くまでは離すまいとばかりに、私を両手で掴まえていた。「今夜、あんたに出会したのは偶然じゃない」男は続けて言った。「あんたたちがやってくるのを見て、どういう人たちか見当をつけた。芸術家だってことがわかったんで、あんたたちを捕まえたのさ。いつもおれは話したくなる人だけを話し相手に選ぶんだ。バーで眼鏡を失したというのは嘘だし、車を売ったおぼえもない。しかし、あんたに話したほかのことはみんな本当なんだ。あちこち、ほっつき歩いているところさ。つい数週間前に、おれはムショから出て来たばかりでね。連中はまだおれに目を光らせている──だれかがおれの後を町中つけまわしている。連中に無駄足を踏ませてやってるんだ。今、広場に行って、ベンチで眠ったりしようものなら、連中はなにかかんかと難癖をつけてくるにちがいないんだ。だが、おれは用心深いんでね。そこらをぶらぶらと歩きまわり、気分がよくなってその気になれば、床にはいる。バーテンが朝になれば、一ぱいつくってくれる・・・・・・ねえ、あんたがどんなものを書いているかは知らないが、ちょっと役に立つことを言ってあげるとすれば、苦しむということがどんなものかを勉強したらいいね。苦しまないことには、どんな物書きだっていいものは書けない・・・・・・」『頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人』より『ディエップ=ニューヘイヴン経由』の中で、大した理由もなく勾留されたミラーが親切な看守と本の話をしている時、『北回帰線』について「しかし、あれは人間の本なのです」というくだりがある。あの、下品で、喧しくて、無遠慮な作品について。しかしそう言われてみれば、だからこそ人間的だとも思える。綺麗にまとめようとした自分が少し気にくわない。 退屈な人間を描写することだけを目的にしたかのような『占星料理の盛合わせ』も中盤可笑しい場面があり、どうにか読めた。 いつの間にか吉行淳之介のことは気にならなくなっていた。1987年 福武文庫
2003/09/08
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コーン付きのアイスを食べながら歩く少年は、痒いのか、虫でもいてほじくり出したいのか、通行人に半ケツ晒すことも気にせず自分のケツに手を突っ込みボリボリやっていた。掻き終わると気にせずその手にアイスを持ち替え食べ始めた。 パンクという印象が強いからといってこの邦題はひどい。原題の「Ham on Rye」について訳者があとがきで「ライ麦パンハムサンドという以外の意味についてはわからない」と述べているが、多分ヘンリー・ミラー『南回帰線』からの次の一節からとったものと思われる。もっとも、アメリカ人にとってのライ麦パンとは誰にとってもこのような少年時代の想い出の象徴的な食べ物であるかもしれないけれど。あの長かった夏の思い出は、まるでアーサー王物語の中の一篇の田園詩のように思える。ぼくはしばしば、どうしてあの夏がこれほど鮮やかに記憶に残っているのか、ふしぎに思うことがある。ちょっと目を閉じるだけで、あの一日一日が甦ってくるのだ。あの少年の死は、いっこう悩みの種とはならなかった──一週間とたたぬうちに忘れてしまったからだ。地下室の薄暗がりの中に、スカートをまくって立っていたウィージーの姿、これもたやすく消えてしまった。だが奇妙なことに、まい日叔母からもらったあの厚切りのライ麦パンだけは、あの夏の他のどんな思い出よりも、強い力を持っているようなのだ。ヘンリー・ミラー『南回帰線』河野一郎 訳 より セリーヌの少年時代よりはいくらか大人しい。大学時代まで行ってもチナスキーは童貞のままだが、酒の方は少年の頃から飲んでいる。セックスをオナニーに変えただけで、他の小説と作風は変わらないのに、ただ少年時代というだけでブンガク作品みたいになっている赴きも少しある。真珠湾戦争が始まり、かつて殴り合いをした、自分と同じ作家志望の友達を軍の基地に送り出した後、ゲームセンターでそこらの子供とボクシングゲームに興じる場面など、珍しく本当に素晴らしいじゃないか。 そんなことはどうでもいい。よく思い浮かべたのは、とてつもない野球選手になっている自分自身で、あまりにもうますぎるから、バットを持てば必ずヒットを打つし、その気になればいつだってホームランを打ててしまうのだ。しかしわたしは相手のチームをだますためにわざと打ち取られる。打ちたくなった時だけヒットを飛ばすのだ。あるシーズンのこと、六月に入ってもわたしの打率は一割三分九厘で、ホームランも一本だけという成績。新聞には、ヘンリー・チナスキーの選手生命も終わりという見出しが躍っている。ところがそれからわたしは打ち始める。どんなに打ったことか! ある時は十六打席連続ホームラン、またある時は一試合で二十四打点といった具合だ。シーズンの終わりには、打率は五割二分三厘になっている。 おかしい。最後の方では本当に泣きそうになったのに。引用したくなったのは一番どうでもいいところだ。河出書房 1995年 単行本
2003/09/05
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特別ゲストで突然出てきた女性歌手の歌声に涙した後、元いた場所に戻り、泣き顔を顔に貼り付けたままふてぶてしく煙草を吸い始めた友人の恋人様子を見ると、何がなんだかわからなくなった。仕草は感情を押し隠す。目に見える涙がなければ誰も彼女が感動してるとは思わないだろう。 間違いなくまだ読んでない安部公房作品でありながら本を買う前にもう家にあるような気がしたのは、福永武彦『廃市・飛ぶ男』のせい。 作者死去の後、フロッピーディスクに残っていたのが見つかった未完の作品。連載二回で中断した『さまざまな父』も収録。安部公房晩年の作品というと『カンガルー・ノート』を思い出し、あまり期待もせず読んだ。「主人公のもとに空を飛ぶ男から『弟です』と電話がかかってきて、隣人の女性が空気銃で空飛ぶ男を撃ち、主人公が部屋に飛び込んできた男の手当をしていたら、空飛ぶ男に恋をした女性が空気銃携えて主人公の部屋にやってきた」という話では、なんだかまだこれだけでは当たり前の話だなあという感しかない。押し入った女性がそれを見て驚く、主人公の偏執的な趣味がばらまかれた部屋の描写は楽しいけれど。それ以上に物語が進むことはもうない。 たとえばどこか田舎の郵便配達夫の話。まだスクーターが普及せず、自転車で配達にまわっていた時代のことである。仕事の途中で気に入った小石を拾う趣味にとりつかれた。あらぬ噂をたてられないよう時勢して、一日五個以内にとどめることにした。それでもやがて村外れに、貯蔵用の空き地を購入しなければならないほどの量になった。城の建設でもする気かと村民たちからからかわれた。そのからかいに従って、定年後はその石で城の建設をすることにした。十年かけて童話ふうの、あるいはディズニーランドふうの城が完成した。城には廊下も階段もあるのに、部屋がなかった。住むための城ではなく、ただ見るための城だったのだ。老いた元郵便配達夫は庭にテントを張って寝起きし、ひたすら城を眺めるだけの充足の日々を送った。いよいよ臨終を迎えたとき、肉親知人にたいして深く詫びたそうだ。なにを詫びたのかはけっきょく誰にも理解できなかったようだ。『飛ぶ男』より『さまざまな父』は『飛ぶ男』の前日談。空飛ぶ男より先に透明になった父親の性格がどんどん薄汚くなる話。 一番最後に読んだ安部公房の作品が珍しくリアリズムどっぷりの『石の眼』だったこともあり、未完であるという以上の物足りなさを感じた。最近読み耽ってるものに比べればいささか上品過ぎるということもある。昔『方舟さくら丸』を度肝抜かれながら夢中になって読んでいた頃を思い出すと少し寂しい。1994年発行 単行本 新潮社
2003/09/02
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