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雨の降る中、青信号の前で自転車を止めたまま服が透けるのも構わず女子高生二人が話をしていた。MDウォークマンでスマップを聴きながら登校していた時のハプニングの模様の後半を擬音だけで語っていた。最近の若者は擬音だけで会話が出来るのだ。 こちらは『枯木灘』の中上健次と思って読み始める。ところがそこにあるのは句読点の多い細切れの文体ではなく、平明で掴みにくいヌルヌルとした文章だ。戦後短篇小説再発見11に入っていた『ふたかみ』が谷崎潤一郎『春琴抄』へのオマージュであることは言われなくても分かる。『ふたかみ』も含めこの短編集は全て谷崎に捧げられたものとは本の裏に書いてある。しかしその全てに盲目が絡んでくるとは思わなかった。どれもこれも目を潰し、潰され、生来の盲目で、と、目が痒くなる。 次第にこちらも慣れてくる。『重力の都』で語られることが一瞬掴めずにわか盲目をこちらが演ずるようなことも最初のうちだけ、闇夜の空にも星は見える。 まだ痛むのかと訊くと女は日の光が海の方から射し込み畑一面に当る頃になって嘘のように消えてしまったと言い、由明の股間に足を差し入れ、柔らかい太腿で由明の脚をはさんで、手足が痛むのはきっと山の向う、丁度畑に当る日の光が昇ってくる海の方向にあたる伊勢の方で墓に葬られて肉が溶けて腐り骨になった御人が、当然のように女の体をこれがくるぶし、これがひかがみ、これが女陰とまさぐるからだと言った。そうされると御人の肉や筋が腐って溶けてしまう時の痛みが女に伝わってくる。由明は女の話を聞きながら立てつけの悪い家だから外から寒気が入り込んで冷えて年寄りのように節々が痛むのだと思い、女の耳そばで男と一日中でもつるんでいるとそんな世迷い言は治癒すると言い、女の熱をおびはじめた体に促されたように固くなったものを夜中痛んでいたという手を取って握らせた。『重力の都』より かつて『刺青』を暗唱してやろうと思った頃の私はもうおらず、中上は谷崎の文体模倣に成功しているかはよく分からない。そんな思いは思うだけで実行に移していない。顔のイメージもある。中上健次は不器用な人だと思っていた。今でも思っている。 ことの他、暑い日が続き、縁台に咲いた草花のことごとく、萎れた。ひしゃくで水遣りしようとしても、日中は、どうせ湯になって根を傷めてしまうのが分かっているものだから、誰もがひかえた。それで、萎れたら萎れたなりに花には風情があると、うそぶいたり、なぐさめたりもしたが、なんとか暑さから救う案はないかと本心は溜息をついている。「もう、かまんのやけど。何年も使(つこう)た鉢やし、なんべんもなんべんも種取ったんやさか」「あんたとこでもろた種やけど、わしとこの、別の色、出た。ずうっとそれから変ってもせんと、同じ色出る」『残りの花』冒頭 違う。全然違う。これは中上だ。谷崎ではない。中上健次の文章であり、谷崎潤一郎の文体模倣ではない。発表順に並べられたこの短編集は後半に進むにしたがい落ち着きを取り戻し、居心地の悪さを霧消させる。こちらが慣れたのではない。あちらが変化したのだ。だから飲み込みにくい『重力の都』より『残りの花』の方が好きだ。 いつのまにか中上健次に手が伸びている。中上健次「重力の都」(新潮文庫)
2003/06/28
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これからしばらくの間機嫌が悪い。講談社文芸文庫のページが見当たらない。数ヶ月前顔馴染みの猫の礫死体を見た場所のそばで子猫三匹が植木鉢の周りを走り回っていた。呼んでも近寄ってこないのは同じ。『二つの肉体』野間宏『草を刈る娘』石坂洋次郎『夜の家にて』川崎長太郎『サビタの記憶』原田康子『蝶をちぎった男の話』福田章二『初夜』三浦哲朗『木の上』川端康成『恋のアマリリス』唐十郎『花の名前』向田邦子『箒川』水上勉『ボトル』三木卓 あまり興味のないテーマの中、川端康成と唐十郎のものを何の冗談だこれはと不思議に思い、石坂洋次郎は狙いすぎ、原田康子は少女少女しすぎ、水上勉で安心して終われると思ったら三木卓にこかされた。 そんな中、庄司薫こと福田章二のものは楽しめた。先日と同じように漫画家の絵で想像しながら読んだ。今度は萩尾望都。『赤頭巾ちゃん気をつけて』にそのイメージはないが、『蝶をちぎった男の話』にはぴったりだ。『ポーの一族』あたりの、不安定な絵で。この場合先人は福田章二である。1957年。 私がまだ小さい時から、彼女はみんなのいる部屋に蝶とか蜂とかが翔び行ってくると急に目を輝かせて、「あら、早く殺して・・・・・・・・・。」 と無邪気に叫ぶのだった。 そういう時はいつも私が殺した。私の目も輝いていたに違いない。私は若い獣のようにすばしこく蝶を追うと見事につかまえて頬笑みのうちに殺すのだった。そして私は、そんな私をじっと見守っている彼女が、その繊細な鼻腔をふるわせて大きく柔らかく息づきながら頬笑む時、どんな時よりも美しい魅力に充ちた彼女を見つけるのだった。 私は今迄にも何度となく彼女が庭の手入れをしながら蝶をつかまえるのを見た。彼女はつかまえた蝶を暫く見つめていたあとで、やがて少女のようにあどけなく頬笑むと美しい蝶の翅を細い指先でつまんで左右に優しく引張るのだった。蝶は花片のように散った。彼女は大きく息をするのだった。いつもそうだった。 様式美と言っていいような、今見れば典型だらけを具現化した美。この女に恋した男性の二十年に及ぶ片思いの話。蝶を小動物を罪の意識なく殺す女を愛したために、自身は深く罪を感じながら、女とは関係のないところで虐殺を続け、それらに囲まれて死ぬ男。まるでそれは美談だ。小動物の死骸が積み上げられ、蝶の羽のベッドに横たわって死ぬ男はグロテスクでもあるが、まるでそれがいい話であるかのように美化してもいいところであろう。しかし女は「おかしくって・・・」と笑い出すだけだ。佐助が春琴の美しさを永遠に留めるために目を針で突いたのと違い、無関係な場所での片思いによる異常行動はお笑いにしかならない。捨てたれ、笑われ、忘れられる。 それに私達はもうすっかり彼のことを忘れてしまっている。 私も・・・・・・・・・。私はあの夕べから、私の美しい叔母のものになったのだから。 ただ、私が蝶をちぎる時、新らしいレコードや詩集を買う時、或る花や香水の匂いを嗅ぐ時、そして晴れた朝あの公園をラバーソールの軽い靴をはいて軽やかに歩いていく時、私はふと野沢氏のことを思い出す。そして堪らなくおかしくなるのだ。 一番面白そうな「『私』という迷宮」の16巻まではまだ遠い。戦後短篇小説再発見 12 男と女-青春・恋愛(講談社文芸文庫)
2003/06/23
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別れの挨拶を書いたばかりの気がするのに、続編が出た。第二期は全8巻84篇。第一期との重複も一作家一篇なら認めるらしい。『空間と犯罪』武田泰淳『火の記憶』松本清張『復讐』三島由紀夫『寒暖計』椎名麟三『夏の終り』倉橋由美子『焚火』大岡昇平『童女入水』野坂昭如『ふたかみ』中上健次『紫頭巾』宮本輝『ナンブ式』藤沢周「性の根源へ」の巻で『マッチ売りの少女』を収録しておきながら、ここで『童女入水』もないだろう、と。被っている。18巻に予定されている「夢と幻想の世界」に『ぼくのお葬式』を収録してほしかった。野坂昭如。他は初見。一番面白かったのは一番意外な一番最後の『ナンブ式』。不審人物と警官の顔がどんどん荒木飛呂彦の描く絵でしか想像出来なくなり、可笑しかった。「あ、蟻だ」 警官がいう。俺は突然その幼児じみた言葉に耳を疑った。一気に血が逆流するような、そんな感じだ。俺の膝の上にのぼって来た蟻に警官は目を落としている。その目の表情が、さっきのガキを見ていた時よりも柔らかい。俺はすぐにも指でその蟻を弾いた。だが、蟻は俺の膝の上で潰れ、ひしゃげた。「ありゃー」 また信じ難い警官の声。まだ形を残した部分を俺は摘んで捨てる。俺は死にそうだ。 遙か公園の端の方から子供の声がきこえて来る。警官も俺もそっちに目をやるが、「右のキンタマの次はどこがいい?」と俺はきく。三人の小学生がサッカーボールを蹴り始める。「分からない・・・・・・分からないが、自分を貫くもの・・・・・・」「じゃあ、左のキンタマだ!」 俺はグリップを掴んで引き抜く。だが、弾倉が見える所までいしか上げなかった。俺はむこう側に行ってしまいそうな気がしたからだ。別に殺意がなくても俺は撃つ。これは間違いないことだ。どちらも藤沢周『ナンブ式』より 椎名麟三や三島由紀夫を読んでもそこに画・荒木飛呂彦の登場人物達を想像することはない。いい悪いは別にして、藤沢周の書くセリフが現代漫画らしい、荒木飛呂彦らしいので、想像のスイッチが入る。収録作品は発表順に並んでいるので書き出してみると、1949、53、54、59、60、71、72、85、87、94とある。読んでいて突然違和感を覚えたのは『ナンブ式』に入ってからである。87年と94年の間に何があったのだろう。いろいろあったのだろう。考えるのも面倒なことだ。文芸誌が売れなくなった。本が売れなくなった。小説が読まれなくなった。バブルが弾けた。久慈と新庄が新人王を争った。他、他。描写が寂しくなった。作者が感覚的に書く文章に、さほど疑問を持たずに入り込めるようになった。それは実は漫画からの影響で、それほど熱心に文章を読みこなさなくても、頭の中で人物や背景が動きやすくなったからとは言えないだろうか。風物を文学的に文章に書き写すのではなく、漫画的に映像を喚起させるように書く。作者と読者との間に共通の下地があるから、長く詳しく描写する必要もない。だがそうすると、奥行きがなく舞台の書き割りのような世界の中で人物が動いているようになる。しかし元より立体的映像的に小説は書かれる必要もなく、現実から遊離したような作品の場合なら舞台にリアリティを持たせる必要もない。 ボケエとしながら書いてるので飛躍が早い。 他に武田泰淳、中上健次、宮本輝のものが良かった。「戦後短篇小説再発見 11 事件の深層」(講談社文芸文庫)
2003/06/18
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詩人・翻訳家である著者の、骨董漁りを楽しく書いた随筆集。藤枝静男や森内敏雄のそれと違い、物語に昇華しないそれらを安心して目で追いながら、物足りなさもやはり感じる。物語が欲しい、虚構が欲しい、と願う。随筆としては高い水準のものだ。それに随筆にはないものを求めるこちらの姿勢こそが勘違いである。あつかましい。小説が好きだ。 偽物は不自然な色をしている。そのくせ、妙にきらびやかで、人目を惹きやすく出来ている。一つの物に、一箇所だけいいところがあれば、私たちはそれを以て最上とするのに、偽物には、いいところが、むしろ、よさそうに見えるところが、三つも四つもあって、それらが性質を全然異にし、互に張合っているので、全体を見ると、妙に統一がとれなくて、あっちを向いたり、こっちを向いたりしている。(悪い政府のように)。そして、若しそれに臭いがあるとすれば腐った臭いがする。(収賄事件のように)。若しそれに声があるとすれば、それは必ず大声である。(悪宣伝のように)。そして、一度、かかる偽物の美しさの味を覚えてしまうと、悪い女に引っかかった男のように、堅気の美しさ、本物の美しさにはなかなか戻れない。本物はあっさりしていて、つつましく、なるべく人目につかないようにしているからである。そして、道行く人を呼びとめないからである。「物の美しさ」より 書くこともないので梅雨を殴りたい。青柳瑞穂「ささやかな日本発掘」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/06/17
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かやこ、と読む。リ・カイセイ、と読む。 はげしい時代であった。 その年(一九五九年)、在日朝鮮人のあいだでは帰国運動がいちずに高まっていた。すでに前年の夏から始まったこの運動は人々の期待に反し実らぬままに年を越したが、その年に入ると一層盛り上がってきていたのである。 帰国──それは朝鮮民主主義人民共和国への帰国を意味していた。したがって運動そのものは共和国をふるさとと仰ぐ人々によって繰り拡げられていた。しかし、その波ははるかにその規模を越え六十万在日朝鮮人の心を洗い、大きくゆすぶるものになっていたのである。 ひとつには異国生活に明日への希望がなかったからであった。永すぎた異国生活はただでさえ人々に望郷の念を誘う。まして彼らはかつて故郷を追われるごとく玄界灘を渡ってきた人々でああった。それに永い「客地生活」の思い出は彼らの置かれた立場からみてけっして甘いものではなかった。戦前はいうに及ばず、戦後の生活にもやはり希望がなかったのは「第三国人」という奇妙な身分の処遇や生活上の苦しさなどが仕向けるものにちがいなかったのである。 彼らの生活は貧しい。朝鮮人の生活といえば、おおむね相場がきまっていた。屑屋、仕切り屋、ニコヨン、土方という職業が圧倒的でなかにはパチンコ店、飲食店、ビニール加工の零細企業などまずまずの成功組がいるにはいるが、おしなべてみると不安定な生活をしているといえた。 という時代の、在日朝鮮人の息子である主人公相俊と、その両親の友人夫婦の娘──夫は在日朝鮮人、妻は日本人、娘は養女で日本人──伽椰子の恋愛を軸にした話。こう書くとややこしいが、東京に出た大学生と、故郷に居る幼馴染みのラヴストーリー。よくあるドラマ。 当時の社会情勢、北、南、民族、戦争、様々なことが絡んでいるが(結局この時の運動に乗じて「北」に帰国した人達は運が悪かったのだろうか)、結局最後に主人公と伽椰子が別れるのは、国籍でも言語でも民族でも南北の問題でもなく、「性」の問題であり、社会的に見れば些細なこと、しかし個人対個人となれば重要なことで幕は閉じる。伽椰子の義母は「在日朝鮮人と結婚してもろくなことにはならない。自分のように苦労させたくない」と言い、相俊の両親は民族意識から彼を朝鮮人と結婚させたがる。短い駆け落ち生活の中で読む側も段々と気付いてくる。これは熱烈な恋愛ではなく、なしくずしにくっついた若者が、周りの勢いに押されて大恋愛ごっこをしているだけだと。その様子がよく描けている。「一切がすでに幼年時代にあり、幼少時代から既に現在と未来の二つの存在がある」という、ロマン・ロランの言葉が引用されており、その言葉通り物語の大筋はその通り進む。伽椰子の淫蕩の理由を幼少期のトラウマに結びつけるのにはやや白けたが、あまり興味がなければ分かりにくい、その時代の空気をなんとなく掴んだ気分にはなれる。骨太な物語で、文章もしっかりしているのだが、これが日本人同士の恋愛話なら読みはしなかっただろう。興味本位に動かされての読書であることは否めない。李恢成「伽椰子のために」(新潮文庫)
2003/06/16
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世界が暗い。 前の持ち主が丁寧にボールペンでたくさんの誤植を訂正してくれていた。"ファンタジーの元祖"と、呼ばれて、いる、らしい。あと それには、モールズワースというのは「彫刻のライオン」「壁かけの部屋」「かっこう時計という代表作があり、ネズビットやメアリ・ノートンなんかの、いわゆる「日常的魔法(エブリデイ・マジック)」というファンタジーの手法を始めた人、というセツメイがあって、その例として「壁かけの部屋」の中の子ども部屋にかかっている壁かけ(タペストリー)のくじゃくなんかが、ちょいとウィンクすると、見ていた子どもがその絵の中にすっと入ってしまう、という場面が引用してありました。 えっ! と私は興奮した。 だって、だってだってこのシーンてさ、ナルニアのカスビアン王子の船に、あのイヤミなユースティスが現れた時とそっくりではないの!解説より なんかあたまいたい。 田舎の古い屋敷にあずけられた少女が、古い時計の中に住んでいるかっこうと出会い、いろんな冒険をする。最後に人間の友達が出来るとかっこうとはお別れ。「いい子になりなさい」うるさい。 助手:しかし、すべてが夢であるなら、すべてが現実だといってもいいわけじゃな。 番人:なるほど、見えました。つまり、見えません。 リリパット・レヴェルモールズワース「かっこう時計」夏目道子 訳(福武文庫)
2003/06/15
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『黄金比の朝』『火宅』『浄徳寺ツアー』『岬』。 何かにつけ手に取る、ということの少なかった野坂昭如と安部公房の文庫の群を箱入りさせると、まだ読んでない/これから読もうと思う/いつまで経っても「そのうち読むかも」、という本ばかりが一つの本棚の前面を占めてしまった。かつては読む気があったから買ったものであり、それぞれにそれなりの理由があったはずだ。だが今見ると、一部をのぞけばどれも同じ様相を呈してのんべんだらりと本棚の上で惰眠をむさぼっており、こちらに訴えかけてくるものが少なく、二軍暮らしに甘んじている。これが他の部屋にあるならば首位打者も夢ではないのだろう。時には手を出して少し読み始めてみる。だが面白みが見出せずに戻され、何かのきっかけが起こるまで飼い殺しにされ続ける。その上にまた次々と、いくらか優先順位の高いものが降り積もる。「食人国旅行記」「俳句とは何か」「破れた繭」「マレー蘭印紀行」「ガリヴァー旅行記」「中国の怪談(一)」「三人の女・黒つぐみ」「甲賀忍法帖」「神聖喜劇」「城」「贅沢貧乏」「私のチェーホフ」「ビアス短編集」「絵のない絵本」「古典落語」「燃えあがる緑の木」「おくのほそ道」「南方熊楠稚児談義」「孤独な散歩者の夢想」「ガラスの動物園」・・・、・・・、・・・、・・・、いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも。 中上健次を読みたいわけでもない。かといって他に読む気になるものもない。『岬』『枯木灘』を読んだ時の気分のまま『黄金比の朝』は読めた。しかし『火宅』『浄徳寺ツアー』を読んで感じるのは嫌悪感ばかりだ。酔いにまかせ女を殴り部屋を壊す男にも、堕胎を繰り返させた妻が初めて出産する日に旅先で別の女を犯す男にもくそったれという思いしか抱かない。あと十数ページがいつまでも進まなかった。 一つ躓くとあらゆるものが色褪せる。気に入りの作家の本ばかりを収めた棚は見上げる位置にある。「そのうち読もう」棚は横に長く背後に広がる。間に転がる、ちくま文庫版「宮沢賢治全集」を適当に開けばそれなりの充足感は味わえる。しかしこんなはずではない。読書とはもっと面白いものだったはずだ。刺激的で、味わい深くて、言葉が授けられるような、何ごとにも代え難いもののような・・・「北回帰線」のような「ファウスト」のような「草枕」のような・・・。 途中で飽きた「死せる魂」と、まだ手をつけていない「怒りの葡萄」が足下に寝ている。そのまんま借りてきた猫のようなこれら借りてきた本は、おそらく読まずに返すだろう。そのくせ、しばらく読書から離れそうな気分だなと思いながら、またすぐ適当な本を読み始めるだろう。その未来はすぐ分かる。読まないことも、面倒だ。中上健次「岬」(文春文庫)
2003/06/13
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台風の日の夜と朝、隣の家の子供がリコーダーでいつまで経っても上達しないエーデルワイスを吹き続けていた。ミーソレー、ドーソ、ソファー、ミーソ、ミーソソラシ、ソラシドードー。 数年振りに球場まで観に行くと、4回で10点入り、こちらのピッチャーが二安打三打点、あちらのピッチャーはホームラン、代打の神様が猛打賞(三安打)、これまで不敗のストッパーがホームラン二本打たれて10-9まで追いつめられた。ジェット風船は空へ飛ばず三列前の席に落ちていった。『岬』を先に読んでいた。 何度も、何度も同じ説明が繰り返される。何度も同じ感慨が主人公の口から漏れる。多い登場人物、ややこしい血縁関係だから分からないではないが──それにしてもこれはなんだ、どこまで続くんだ、ああ、ああ、と驚くことにも飽き、慣れた。慣れると、あれほど読みづらいと思っていた文章もスイスイと入ってきた。そういえば野坂昭如が入院した。主人公の名前は秋幸(あきゆき)という。 それまで空に日がある限り働く。秋幸はそんな今の自分が好きだった。十九の時以来それは変りなかった。人は死んだ。人は狂った。泣いた。だが秋幸は日を体に受け、日に染まり風邪に撫ぜられ十九から二十に、二十から二十四になっていま二十六の男としてここにあった。 髪は短かった。顔はその男と同様木と石で目鼻立ちをつくったようにあり、首は太かった。固いものが出来ていた。そのまめをカミソリで殺ぐのが面白かった。秀雄と五郎の事は、てのひらのまめをカミソリで殺ぐ楽しみを知らない者同士の、諍いにすぎない。あの男もそう考えているだろう、と思った。美智子が泣いて騒ぎ、実弘が面子を気にして謝りに家まで来い、と言うほどの事ではないのだった。男にしてみれば、人の頭を下げる謝るくらいなら、そんな原因をつくった自分の息子を殴り殺してしまったほうがよい。 主人公の考察癖は終局に至り、自分の行動の理由を文学的に見出すまでになり、評論家がいらなくなる。最初から大人しく言うことを聞く馬はかえってタチが悪い、と先ほど読んだ『赤い小馬』にあった。それはこの作品にもある。それは現実でもはっきりとある。 指針として、位置づけとして、これからどちらを向いて歩けばいいかを知るための読書。「死の棘」にしろ「北回帰線」にしろ、「枯木灘」にしろ。読んでる間に多少苦痛に襲われても、読み切ればやはり満足感はある。それ以上その作家に首を突っ込むかはともかく、この作家は私にとってはこのような位置づけにある、ならばこの作家と比べられることの多いあの人は、また正反対のあの人は、おそらく私にとってはこれくらいの感慨を与えてくれるものだろう、と予想がつけられる。甚だ曖昧なものではあるが、多くの評論を読むよりははっきりと道が拓ける、自分自身のためだけに。中上健次は読めるようになった。しかし彼のその他多くの作品についてはどうだろう。これから積極的に読んでいくだろうか、おそらくそうはならないだろう。それなりに気に入った、と、大好き、では大きな隔たりがある。しかし私は最後まで読んだ作品というものを、たいてい好きになる。 秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。 頭痛がしている。四つ続けて悪夢を見た。好きな人の死に悲しめなかった。世界中に隙間なくブロックが降った。下水道を逃げていて悪霊にあい、殺されるよりは死のうと思った。あと一つは忘れた。悪夢ではない夢では、死んだ者は死んだ者だ、と土を掘っていた。寝る前に読んだばかりのセリフを口にしていた。その顔は自分の顔ではなかった。中上健次「枯木灘」(河出文庫)
2003/06/03
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