2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全4件 (4件中 1-4件目)
1
冷え込む空気の中でも陽射しは柔らかく、スーパーの裏、従業員用出口の階段脇にたむろするそれぞれ毛色の違う仔猫四匹は、じゃれあって、じゃれあって、何をそこまでじゃれあうことがあるのかと思うほど、じゃれあっていた。横の道を車が通る時は何も反応しないのに、買い物袋をシャカシャカ鳴らして通るおばさんが来ると暗闇の中に逃げる。が、すぐ戻る。階段に従業員が現れるとくしゃみのように逃げ散るのだけれど、やっぱりすぐに戻ってじゃれ始める。 夏の間、出逢うと膝に乗って来た猫のいた場所で、その時の猫よりもずっと毛並みのいい白い上品な飼い猫と、こちらは馴染みの黒白の気の弱い猫が、鳴き合っていた。黒白はきちんと鳴くのだが、白は細く長く喉を鳴らすだけで、お互いの会話が成立しているようにも見えない。首輪がきついのかと思い見てみたがそういうことでもない。簡単に人に触らせる無防備さは心配だ。こちらが離れても、二匹の弱々しい鳴き合いは続いていた。 夏の少し前に産まれた三匹の猫たちがよく走り回っている近くの道路で、その内の一匹らしいのが、車道の端を冒険心に満ちた足取りで歩いていた。道のあちら側にいるのは見たことがない。以前、別の猫の礫死体ならその道で見た。バイクの音が聞こえ、光が見える前に猫は茂みに飛び込んでいた。蛮勇とはなるな。 三つの猫の話は全く関係ない。梅崎春生『鏡』遠藤周作『イヤな奴』高橋たか子『骨の城』吉田健一『一人旅』島尾敏雄『夢屑』安部公房『ユープケッチャ』中里恒子『家の中』小川国夫『天の本国』三田誠広『鹿の王』小林恭二『磔』森瑤子『死者の声』 ユープケッチャ、「ユープケッチャ」『ユープケッチャ』! この短篇をプロローグとした『方舟さくら丸』を、短い期間に二度読み、すぐに友達に貸し、元々古本だった為に、中の頁が何枚か抜け落ち、輪ゴムで留め別の友達に貸し、ボロボロになった。どうしてあんなに夢中になったか今思うと不思議だ。 読んだことのある短篇は飛ばすかあまり期待せずに読むこのシリーズ、『ユープケッチャ』だけは初めて読むような感覚でワクワクしながら読めた。短篇自体が映画の予告編のようだということもある。他の短篇に関しては特に書くこともない。 その時妻はキリギリスになっていたのだが、私が余計なことを言ったので機嫌をそこねた。跳びはねた途端、そばの風呂敷をかぶせた鳥籠の中にはいりこんでしまった。しかし用心のいい妻のことだ、大事あるまい、と思ったものの、気がかりになってそっと風呂敷のはじをまくってみた。中は空っぽのはずなのに、緑色の鳥が三羽もとまり木にとまっている。おまけに籠の底には殿様蛙もいた。ところが、妻のキリギリスはどこにも居ない。しまった! 私は真っ青になった。取りかえしのつかぬことをしてしまったぞ。鳥か蛙が呑みこんでしまったにちがいない。どうしたらいいのだろう。もう少し注意して妻を怒らさずにおけば、跳びはねることもなかったのに。取りかえし跳びはねて消える直前の、妻の機嫌をそこねた甲高い声がなまなましく耳にこびりついて離れないのだ。島尾敏雄『夢屑』より 作者と妻の壮絶な関係を分かってても、つい微笑んでしまう。講談社文芸文庫
2003/11/28
コメント(0)
いくつか今まで読まないで来ていた、名作として知られる有名な長めの作品を読んでいこう、という、珍しく目標を立てた読書の中で読んだ一つが『枯木灘』であった。『死の棘』『北回帰線』『南回帰線』がそれぞれそうであり、途中で飽きて止めた『死せる魂』をのぞけば、どれもそれなりの収穫があった。しかしその中で『枯木灘』が特別面白かったというわけではない。むしろ、前作『岬』と同様に、何もかも語りすぎる主人公に反感を覚え、特別に中上健次という作家を高く評価したわけではなかった。 そのことには今もあまり変わりはない。 短編集「千年の愉楽」「重力の都」「化粧」に収められていた諸編は大方気に入った。しかし「岬」に収められていた表題作以外への嫌悪は消えず、「19歳の地図」だとかあの辺りに手を伸ばす気になれないでいる。「熊野集」は、いや、作品名は『』で、本の題名の場合は「」として使っているのだけれど、「熊野集」は、「化粧」と似た傾向の短編集。私小説風の短篇がやや多い。そこで描き出されて、その通りではないにしろ漠然と浮かぶ作者の人間性は、小説家だからこんな風でも構わないだろうと思えるにはやや遠い。素直に沸き上がるのは嫌悪感。中世の幻想的な世界の短篇だけ書いていてくれたらなとまで思う。 路地の三叉路の脇にある玄関をあけはなした家に入り、初めて実父の家に入って、実父のふところの深さがどのくらいのものか、趣味は、家の暮らしの様子は、と見ているが、さして動じもしないというふうに坐った私に、父親であるとかまえる気など毛頭ないというようにボソボソと話しはじめた実父を見て、私はやりきれなかった。これが私の小説の主人公秋幸が自然そのものの化身とも、蠅の王とも呼んだ浜村龍造かと腹さえ立ち、これでは秋幸という私生児の物語の主人公がかわいそすぎるじゃないかと、嘲いさえしたのだった。つまり、さならが私は浜村龍造そのものとしてその子秋幸の性根のなさを見た。話はシャブ中毒から来る幻覚だけでなく、元々あるふがいなさがいま身中にうごめいているとしか思えない。『桜川』より 小説で書かれる、悪の魅力を持った浜村龍造(R’’)のモデルである作者の実父(R)は、作者の持っていた実父のイメージ(R’)とは違い、情けなくクダをまくただのシャブ中の老人でしかない。その幻滅に耐えきれず作者は自分を浜村龍造(R’’)と同一化することにより、秋幸(R’’)、作者(R)、作者の書く小説の中の作者(R’)の人間性の幅を広げ、書くことを増やす。 急に出てきた変な記号は つまりRは、彼女と出逢うことによって、生かされた男だった。永遠に生かされた──彼女の最初の小説の中に閉じこめられることによって、その段階で、Rは用済みとなり、R’’が生き始める。 R’’が犠牲にしたのは、実在のRだけではなく、R’もまたそうだった。R’というのは、RでもなくR’’でもなく、彼女の空想世界にだけ住む男である。実在のRから、あの夜の内に摘出された男──、それがR’。森瑤子『死者の声』(「戦後短篇小説再発見16「私」という迷宮」収録)より から。 最後『鴉』でぶちまけられる親族への、文壇への憤懣を読むと、やはり何もそこまで、と思うが、全部読み終えてから開き直すと、中世ものがどうも薄っぺらく見えてくる。そこで書かれるのは直接の作者の周辺ではない。それらは創り事である。そうするとこちらはこの作者への距離をどうとればいいか分からなくなる。嫌悪感を抱えつつ読みながらも快感もある。路地とその周辺の登場人物たちの系譜が頭の中に展開する。浜村龍造と秋幸のように、相反するように見えて同じことを繰り返している者の物語を読めば、中世の話も現実に近い路地の話も根は同じなのだから二つを区別する必要などないとも思える。それにこの本には言うほど中世の話はない。 私ハ「熊野集」ニ路地がイヨイヨ取リ壊サレルトイウノデ、コトサラ路地ノ動キヲ書キトメテイタ。新宮市デハ「群像」ガ発売ト共ニスグ売リキレタ。路地の土建屋ラガ刻々ト変ワル情勢ヲ知ロウトスルヨウニ「熊野集」ヲ読ミ、私ガ路地ノ事デ姉と喧嘩シ、姉ノ夫ガ「熊野集・妖霊星」ヲ読ンデ、身内ノ恥ヲ他ノ土建業者ヤ世間ニサラシタト怒ッテイル事ヲ知ラサレタ。『鴉』より「小説家と結婚をしたら身内のことを洗いざらい書かれるというから、女子は将来気をつけないといけませんよ」と言ったのは小学校5、6年の時の担任の女教師だ。彼女は独身だった。中上健次は100年も1000年も前の時代の作家ではないから、ひょっとしてそれなりに重みのある言葉だったかもしれぬ。その独身女教師とは縁戚関係にあったとしても不思議はない。授業時間を潰して生徒と一緒に遊んだ為に授業に遅れが出たことをいつまでもぶつぶつ言い続けていたその独身女教師を好いている生徒などクラス内にはいなかった。 私小説風の短篇の中の語り手は「俺一人行く、他の者には手をつけるな」と言って自殺した兄を『龍の背中に乗って』では笑い、まるで作者の書く小説世界の中のものと同じような親族の恥を聞き「小説に書く種などいらぬ」と悩む。それらの作品の中の作者は既に彼の書く小説世界に呑み込まれているように見えて、「路地」の中の、書き込みの多い一人の登場人物として見えてくる。 うまくまとまらないし発表順も前後するが、『枯木灘』での浜村龍造を一つの完成型として見るならば『鳳仙花』のそれは現実の実父に幻滅する前の浜村龍造、『地の果て 至上の時』のは幻滅した後の。いつまでも読み進まない『地の果て 至上の時』を読み進める理由をこうして苦労する振りをしながら探し始めている。1988年 講談社文芸文庫
2003/11/21
コメント(0)
『岬』以前の話。秋幸の母フサの話。母トミの私生児として生まれ15の歳で西村勝一郎と結婚し次々と子供を産み、勝一郎に死なれ、浜村龍造と出会い秋幸を孕み、龍造が刑務所に入り、その後繁蔵と出会い所帯を持ち、他の子らを見捨てて秋幸とフサと繁蔵とその子文昭と暮らし始めるまでの物語。オリュウノオバ、礼如さんも出てくるので「千年の愉楽」の世界とも繋がりを持つ。初めその事に気付かず、物知らずの住民から土地を巻き上げ成り上がっていった佐倉を『枯木灘』における浜村龍造のような存在、主人公を女にした別の形の『枯木灘』と思っていたのだが、半分ほど読んだところでようやく気付いた。佐倉の家は大逆事件の時官憲にしょっぴかれて死刑になった坊主の親類筋であるということなど『枯木灘』には書かれていなかったから。『枯木灘』では佐倉は過去のものとして多くは語られておらず、現在隆盛を極めている浜村の家のことが書かれていたから。『岬』も『枯木灘』も読んでない人にはさっぱり分からない人名の羅列はちょっと楽しい。「古座の番屋で待っておれと言うたが、こんな舟でも兄(あいや)と逢うた事あるよ。言おうと思たけどよう言わなんだ。なあ、フサちゃん、そんなにしたら乳痛いと言うたら女やったら分るやろ。兄、わからんの」マツはうっすらと目尻に笑みを浮かべた。「わしが、あんにいよ、あんにいよ、と息切らせて言うとると、どれ、と月にかざしてみて、おう、固なっとると言うん。わざと舟グラグラゆすって、そんなに乳ばっかしみせんとはよこっちへ来い、と口ふさいでくる。言うたらよかったんよ」 大阪から奈良へは一時間半、和歌山へは二日かかると地図を見ながら熱心に誰かに話している。誰かの言葉は紀州弁で、何を今更、という風にこちらを訝しんでいる。そんな夢を見るほど中上健次の描く世界に慣れ親しんで来た。 しつこく繰り替えされる鳳仙花のイメージと、多用される副詞「ことごとく」。反復され過ぎるそれらは物語の流れにも反復効果を与え、母トミがフサを私生児として産んだのと同じように、フサは秋幸を産み、郁男は将来の自殺への萌芽を育み続け、登場人物皆ことごとく同じ、壊れ枯れ安い種を孕んだ者らとして見えてくる。『地の果て 至上の時』での秋幸と浜村龍造との急に見える接近にも、やや納得出来るようにも思えてくる。 女は涙を流して二人の姿を見ていたが、龍造が「父やんと一緒に行くか?」と訊き、「父やん、やっともどってきて、秋幸に会えた」と言うのを耳にして、それが人の情の上では他人の割って入る余地などないと分っていたが、あわてて勝手口から出ようとして顔をあげた龍造と眼があった。龍造は女を見もしなかったふうにすぐ秋幸に眼を移し、「秋幸、父やんと行て、男同士で暮らそう」と言うと、秋幸は龍造に臆する事もなく、「養てくれもせんのに、父やんと違うわ」と言った。「そうか」とつぶやいて龍造は立ち上がった。もと来た麦畑の道を引き返し、落胆をごまかすように麦の穂を引きちぎった。 女が言う龍造の姿は、当のフサがいつか龍造にむかって、秋幸にはおまえを親と呼ばせないと予言するように言ったのにつらかった。龍造に裏切られた、だまされたと思っての売り言葉で、秋幸にまでそう言わそうと思ってなどいなかった、と後悔した。『枯木灘』で秋幸は、腹違いの妹と交わり、腹違いの弟を殺す。それは浜村龍造への憎悪が積み重なったものと、捉えやすい捉え方で捉えてきたが、龍造の血の自然な発火と見ることも出来る。秋幸は婚約者紀子を孕ませた後刑務所に入り、延々と同じ物語はどこまでも続くとも見える。新潮文庫
2003/11/13
コメント(0)
忘れた。読んでから随分と経ったので忘れた。大好きな作風であるのだけれど、その分夢中になって読んだので、一つ読むごとに一つ忘れた。また事故の音。うちの前の交差点ではよく乗り物がぶつかる。古本なので前の持ち主の書き込みがあった。冒頭の一編『修験』にはびっしりと傍線が引っ張ってあるが、次の話からはそのなごりもない。死んだはずの兄が山の中を彷徨っているのを主人公が見る場面では、矢印が現れ、「死んだ兄」という文字が書き込まれている。死んだ兄が死んだ兄だということを死んだ兄だと書かなければ分からないのか、それともこれが後々の大事な伏線になるとでも思ったか。次の話からは前の持ち主の影に集中力を欠かされることなく読むことに没頭出来た。私も一話一話読むごとに思うごとに何かを頁の隙間に書き込んでいれば忘れることもなかっただろうに。 昼間、蝉が鳴き続けると、法華経の信者でなくても、なむみょうほうれんげきょ、なむみょうほうれんげきょときこえるだろう。樵や村人が、ひょっとすると行者が行をおこなっているのかと思い込みもする。村人は行者をさがす。行者はどこにもいない。なんという名の蝉だろう、そのおびただしい数の鳴き声が、杉木立の中で、渦巻き、耳の穴いっぱいに広がる。ひょっとすると、修験僧のたれかが、行に入り、果て、肉が朽ち、骨が枯れて髑髏となり、それでもこの有難い度胸を憶持する舌が生きて振動し、なむみょうほうれんげきょなむみょうほうれんげきょと唱えているのかもしれないと思う。そのようなことが、紀伊の国牟婁の郡熊野の村でおこったと本にあった。『修験』冒頭 似た冒頭をどこかで見た。古井由吉のどれかだ。元は『日本霊異記』だったろうか。選挙がうるさい。スクーターとバイクがぶつかった二人は怒鳴りあうこともせず歩道へ各々の乗り物を引っ張っていった。それはもう昨日の話だ。書いてる途中で寝ると一晩経った。以前車二台が同じ場所でぶつかりあった時、白く小さい車に乗っていた若者が暴れてやがてパトカーが来た。 しばらく中上健次が続く。講談社文芸文庫 1993年
2003/11/08
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1


