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< 7つの浜辺がある町を巡って > 私達が電車を降りたのは多賀城駅。ここは仙石線ですが、JR東北本線には国府多賀城駅があります。こちらは古代の国府がおかれた場所にほど近く、仙石線の多賀城駅付近には、歌枕の「末の松山」や「沖の井」(沖の石)があります。駅前の広場で、宮城UMCのM会長から挨拶。70歳の彼は4月末に「さくら道」270kmを走破した猛者。 次いで香峰さんのご主人であるDさんからスケジュールやコースの概要、注意点などの説明。その中で本日のコースはU海さんが設定してくれたとの紹介がありました。彼は目下病気療養中の身ですが、コースの途中で姿を見せたことを後日知りました。会えなくてとても残念でしたが、地元の彼が実際に走った中から選んでくれただけに、実に気持ちの良いコースでした。ありがとう、そして早く良くなってねU海さん。 参加者は3つにグループ分け。A班のリーダーはF田さんとO川さん。B班はM仙人とM井さん、C班はDさんとC葉さんがリーダーで、私は関東からのお客様がほとんどのB班でした。8時過ぎ、A班を先頭にマラニックのスタートです。先ずは駅の前を流れる砂押川に沿って走ります。 ここは古代から中世にかけては、冠川(現在の七北田川)が流れていたようです。国府多賀城がおかれていた時代は、船が出入りする交通の要衝だったのでしょう。多賀城付近には全国から派遣された大勢の兵士が駐留しており、そのころの遺跡がたくさん地下に眠っています。陸上自衛隊多賀城駐屯地を過ぎて貞山堀を渡り、広大な運動公園の裏道へ。 この公園内にある縄文時代の貝塚である桝形囲(ますがたかこい)遺跡はじめ、橋本囲遺跡や大代横穴墓群など、付近には縄文から古代にかけての遺跡が点在しています。もちろん裏道を走ったのは今回が初めてで、前方には白い煙を吐く煙突が。M仙人の話によれば、これが新しく移転した仙台火力発電所とのこと。後日地図で確かめたら、仙台市宮城野区の飛び地になっていました。 公園を抜けると道路の向こう側に何やら看板を発見。近づいて見ると「冷鉱泉跡」の由。既に七ヶ浜町に入ったようです。文字通り湊浜、松ケ浜、菖蒲田浜、花渕浜、吉田浜、代ケ崎浜、東宮浜の7つの浜があり、半島状の突端を一巡するのです。またこの町ではショートコースのトライアスロンも開かれます。湊浜からは県道58号線を外れて集落内の小路へ。 菖蒲田浜へ入ると、磯の香が漂って来ます。この浜辺はかつて仙台市民が海水浴に良く訪れた場所で、海の家が軒を連ねて賑わっていました。今ではすっかり寂れ、廃屋と化した海の家も見られます。海の中には波を求めるサーファーの姿がちらほら。 小さな岬のバンガローが仙台北教会の月見崎キャンプ場で、その向こうのやや大きな岬に見えるのが高山の外国人避暑地。ここは戦前から宣教師達が一夏を過ごした場所です。付近には私学のセミナーハウスもあり、高校時代から大学時代にかけて良く訪ねた懐かしい場所でした。今では「国際村」が開かれています。 花渕浜の突端、御殿山には小さな花渕灯台があり、付近には鼻節(はなぶし)神社が鎮座しています。きっとこの「はなぶし」が花渕の名の由来でしょう。(「鼻」には岬の突端の意味があります。)陸奥国一宮である塩竃神社には、この鼻節神社から国府多賀城に塩が献上されたと書かれた書状が残されています。古代には付近の浜辺で製塩を行っていたのでしょう。 昔から漁業で身を立てていた静かな浜辺も、今ではサラリーマンが多くなったのでしょうか。この集落へM仙人の姉上が嫁がれていると聞きました。道理で地理に詳しい訳です。吉田浜からは急な登り坂。かつての火力発電所の大煙突が取り払われています。間もなく最初のASである多聞山。どうやら裏道から登るようです。<続く>< 5月のラン&ウォーク >ラン回数:12回(うちレース1回、マラニック1回) ラン距離:243km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:174km 月間合計:417km 年間合計1777km(うちラン1047km) これまでの累計71,811km
2010.05.31
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< 錚々たる顔ぶれ > 今年も行って来ました「エンジョイ・ジョガーinみちのく」。今回で第7回目を迎えるこの行事は、走る歌人雲峰師匠を師と崇める峰倶楽部の会員である香峰さんを中心にして企画されているマラニックです。第1回は仙台市内から泉ケ岳を経由し、郊外の作並(さくなみ)温泉方面に走ったようです。 私は第2回目からの参加で、その時は第1回目と逆にJR作並駅をスタート地点とし、大倉ダムから山道へ入って泉ケ岳中腹のトレイルコースを突っ走り、仙台市内がゴールでした。毎回30kmちょっとで、集団走をするにはちょうど良い距離でしょうか。第3回からは眺めの良い松島周辺をコースにして来ましたが、そのうち1回だけ名取市内を走ったことがありました。これは極めて歴史に富んだコースでした。 コース設定にご苦労されているスタッフですが、毎回コースの下見を2、3度行うと言う徹底ぶりです。これはランナーにとってより安全な道を確保し、ASの位置を決定するためのようです。松島周辺を舞台にするのは今回が最後とか。果たして来年はどんなコースが待っているのでしょう。 参加者の顔ぶれはスタッフ以外には分からず、集合場所に行ってみてのお楽しみです。私の心配はそんなことではなく、寒さ対策でした。この日の天候は曇りで、最高気温は13度ほどまでしか上がらず、海辺のコースは海風があることから一層寒さを感じると考えました。走っている時は大丈夫でも、休んでいる時間帯や船に乗っている時は体が冷えるだろうと心配していたのです。 そうそう、今回の最大の目玉は、塩釜港から松島海岸まで遊覧船に乗ることです。走っている途中に海上から松島を眺めるなんて、滅多に出来ない経験ですものね。風邪を引かないためにも、先日知人からもらったばかりのウインドブレーカーを早速羽織ってみよう。念のために薄手の手袋もポシェットに入れることにしました。距離は34kmで、低温ですから塩の携帯は不要。でも途中のコンビニで食べ物や飲み物を買うための小銭は必携です。 この日は5時起床でした。愛犬との散歩は、早起きした妻が代行してくれたため、朝食後は新聞を読んでN駅へ向かいました。仙台駅に着いて仙石線のホームに行くと、ジャージを着た高校生の群れ。N駅でも同様だったので、きっとスポーツのイベントでもあったのでしょうね。見つかった仲間はO川さんただ1人。さて、後の人は一体どうしたのかな。 その心配も余所に、色とりどりのウインドブレーカーに身を包んだランナーが大集結。先ずM井さんに会費を支払い、香峰さんから資料を受け取りました。今回の参加者はスタッフも入れて52名、そのうち他県からのお客様が23名もおられるみたいです。永久ナンバー1番の雲峰師匠を始め、「トランスヨーロッパ」を2度完走したSパパの温和な顔も見つけました。 毎年花粉の時期に日本を脱出する辻ポンさんは前夜仙台の酒を鱈腹召し上がったような風情。エコジャーニークラブの主催者であるS木さんの精悍な顔。今年の「川の道」の覇者であるS山さんは初参加。奥様も「川の道」520kmを走破した猛者とのことだが、そんな風には見えない。72歳で「さくら道」270kmを完走した髭カクさんの笑顔が眩しい。地元ランナーでは、見事「萩往還」250kmを完踏したT田さんとハグを交す。<続く>
2010.05.30
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今朝は仙台駅仙石線ホームへ7時過ぎに集合。スタッフも含めて52名の参加者がありました。JR多賀城駅前から8時過ぎに走り出し、七ヶ浜町の海岸線をグルリと廻って塩釜港へ。ここから観光船に乗って松島湾をクルージング。松島で船を降り、ゴールの簡保の宿まで2度目のラン。3時過ぎにゴールした後は温泉に入って帰宅しました。詳細は明日以降に書く予定です。
2010.05.29
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徹底した節約生活のため、「ランナーズ」を購入しなくなって早3ヶ月。すっかりランニングの話題に疎くなった。それでも特段困ることはない。自分のランニング生活に必要な情報だけあれば十分なのかも知れない。 さて、9月の「秋田内陸」のゼッケン通知が早々にあった。私は1014番。きっと100kmの部の14番目に申し込んだのだと思う。私にとって5年ぶりの参加となる「秋田内陸」だが、13時間の制限の中でどれだけ前進することが出来るだろうか。100kmの部への参加はこれまで6回で4勝2敗。13時間の制限や年齢を考えれば、ゼッケンの色が変わる「クリスタルランナー」となるのはとても無理。 来月走る「いわて銀河」のゼッケン通知も届いた。こちらは1115番。100kmの部へは4回参加して3勝1敗だから、今回完走出来たら「ギャラクシーマスターズクラブ」入会にリーチがかかる。こちらの資格が5回完走とは嬉しい話。大会公式HPやプログラムにも写真入りで掲載されるようで、何とか頑張って再来年は栄誉あるナンバーを胸につけたいものだ。 その練習台として参加した「仙台鉄人会10時間走」の記録が先日届いた。10時間走の部への参加は、結局私を入れて6名だった。今回はドングリの背比べで、1位から5位タイまでの差は5周の15km。私は2位タイだった。因みに5時間走駅伝の部のトップは22周66km。多人数でタスキをつなぐため、個人の部のトップとは10周30kmも違っていたのには驚いた。 驚いたと言えば「仙台国際ハーフ」に出た第1現場のSさん。17km地点で応援していたが、ついにその姿を発見出来なかった。レース後も職場にも顔を出してない様子。先日お会いしたら、体調不調でレース後入院していた由。そんな体調でも1時間32分台でゴール(女子の部58位)したと言うから立派。結婚後に走り始めてまだ数年で、練習も自己流という話にビックリだった。 宮崎県で流行している口蹄疫の影響で、例年5月に熊本県で開催されている「阿蘇カルデラスーパーマラソン」が中止に追い込まれたようだ。ウイルスが原因の病気のため、人の移動により他県から持ち込まれたウイルスで空気感染する懸念があるらしい。牛や豚の病気が、ついにウルトラマラソンにまで影響するとは驚きの一語。 3月に走った「伊豆大島ウルトラランニング」のレポートを古川のT田さんが新聞へ投稿してくれたことは前にも書いたが、所属走友会の若きエースH郷さんがわざわざその記事をラミネート加工して送ってくれた。彼の勤務先がその関連会社とのこと。この場を借りてお礼を申し上げたい。T田さんからは5月に完踏した「萩往還」250kmの部の写真入りの葉書を戴いた。 話は変わって、先日妻がM公園内をトボトボ走っていたら、所属走友会の女性から声を掛けられた由。きっとM子さんでしょうが、お世話になりました。素人の婆さんが「仙台国際ハーフ」のスタッフジャンパーを着ていたのでさぞかし驚いたと思う。あれは長年同レースのスタッフをしている知人からもらったもの。 明日は「エンジョイ・ジョガーinみちのく」に参加する。コースは多賀城から奥松島までの34kmで、各グループ15名程度の集団走とのこと。途中で塩釜港から松島までは遊覧船に乗る予定とか。海上は風があって少し寒く感じるはず。私も「仙台国際ハーフ」の白いウインドブレーカーを持参しようと思う。参加される皆さん、明日はよろしくお願いしますね~。
2010.05.28
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< 静かなる湖 > 長いトンネルを抜けると、直ぐ目の前に巨大なダムが見えた。添乗員の話では散策の時間を1時間取ってあり、ネイチャーガイドが案内してくれる由。休憩所でけんちん汁のサービスを受けられるから最後に寄るようにとの注意もあった。腕章をつけたガイドの人が大勢の客に説明をしていた。どうやら私達の専属ではない感じだ。 「ここはどこだろう?」と誰かが聞くので「福島県じゃないの」と返事したが、ガイドさんのイントネーションが新潟弁に近い。「どこから来られたんですか?」と尋ねるとやはり新潟からだった。ダムの向こう側は福島県だが、左岸は新潟県なのだそうだ。銀山平と呼ばれるこの地には江戸時代銀鉱山があり、「シルバーライン」もそれから採ったのだとか。 ガイドを先頭に坂道を登る。ダムの高さは150mで、堰堤の最上部までだと170mある由。50年前のダムはちょっと古めかしい造り。「あれがネコヤナギでこれがキバナネコヤナギ。そしてこれが丁の字に似たチョウジザクラ」。ネイチャーガイドの説明はさほど詳しくない。それに周囲はコンクリートに覆われ植物が貧相なのだ。 坂を登るにつれて、湖面が見えて来る。周囲には残雪をいただく山並みが連なる。ここ奥只見湖は岐阜県の御母衣(みほろ)湖が出来るまでは、日本一広いダム湖だったとか。風はそよ風程度なのに船の姿がない。「こんな風でも船は出ないんですか?」。肝心の質問をガイドにぶつけて見た。 「3階建ての船はとても風に弱いんですよ。今は風を避けるために別の場所に移しています」。それが前もって返金分を用意していた理由なのかも知れないが、400kmも旅した末に船に乗り損ねたツアー客にとって、とても納得が行く答えではなかった。湖の果て、小高い山の向こう側に尾瀬沼や尾瀬ヶ原があるのだろう。 坂の上に電源開発の資料館。電子案内によれば水量が豊富な阿賀野川水系には9つのダムがあり、この奥只見ダムの地下発電所では夏のピーク時にしか発電しないのだとか。何と勿体ない話。高度成長が終わった現在、ダムは昔ほどの存在意義を失ったのだろう。けんちん汁を食べてバスに戻ると、添乗員がボールペンを配った。電源開発からの記念品とか。おいおい、これにもひょっとして国民の大切な税金が入ってるんじゃないの~ 帰路の車中で配られたアンケート用紙に、厳しい意見を書いたことは言うまでもない。唯一のポイントであるクルージングの不成立はツアーの不成立をも意味すると感じたし、能天気な添乗員の態度にも腹が立っていた。往復11時間近く乗ったバス。一番遠い人は16時間以上をこのツアーで費やした。全く時間の無駄遣いだった。ツアー会社はそれらの意見を読んでどう感じたのだろう。 9時過ぎに帰宅後、愛犬と散歩へ出かけた。待ち草臥れた彼も犠牲者かも知れない。人生には時としてこんなハプニングが起きる。だがウルトラランナーの私にとって辛抱することには慣れている。それに思わぬ収穫もあった。初めての場所を探訪したのに加え、持参した本を100ページほど読めたのだから。だがあの会社のツアーを申し込むことは当分無いはずだ。<完>
2010.05.27
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< 残念な「お知らせ」 > 昼食は料金が安いバスツアーとしては最高クラスの内容だったのではないか。見た目もきれいだし、お料理も丁寧に作られていた。ただ、「けんちん汁」が少ししょっぱいのが難点か。だがバスに戻って来た乗客の反応は今一。「もっとご飯が美味しいと思ったんだけど」。誰かがつぶやく。米どころ新潟では「コシヒカリ」がブランド品。だからもっと美味しいご飯が出ると期待していたのだろう。 だが私には十分美味しく感じられた。大体にしてバスツアーの昼飯に過度の期待は禁物。それに私達は常日頃美味しい宮城の米を食べてるから、他県の米にもさほど感激しないのだと思う。そんなことよりも気になることがあった。運転手に確認したところ、帰路も同じコースで仙台へ戻るらしい。これじゃ景色は期待出来ず、我慢大会かもね。 奥只見湖へは一般道を行くようだ。上越新幹線の浦佐駅を左手に見ながら北上を続ける観光バス。その時、添乗員が携帯電話で連絡している声。前後は不明だが「ケッコウ」と言う部分だけははっきり聞こえた。さて「ケッコウ」とは何だろう。決行なら結構だけど、不幸にして「欠航」ならどうなるか。 やがて通話を終えた彼女が立ち上がり、マイクで私達に話し始めた。「皆さんにとても残念なお知らせがあります」。「ええっ、何?」。バスの中に動揺が走る。「実は奥只見湖の気象条件が悪く、風が強いために船が出ないことになりました。従ってお一人様につき500円ずつ払い戻しいたしますので、これからお回しする書類に署名をお願いします」。 「何だって~?」。突然の宣告に、事情が良く理解出来ない乗客たち。「外は全然風が無いけどなあ」。大体にしてこれは奥只見湖でのクルージングを唯一の呼び物にしたツアー。それも特別コースでの貸し切りクルージングを謳い文句にしたものだ。それが船には乗れないとなれば、これまでの長旅は一体何のためだったのか。 信じられない思いの乗客に添乗員は500円ずつ支払い、サインを求めた。私は言った。「返金用のお金が最初から用意してあるのはおかしい。もしそんな不安定な状況なら、ツアーを企画すること自体が無理だよ」。「クルージングが中止になる可能性があるなら、初めからパンフレットに書くべき。それならキャンセルも出来るでしょ?」。妻も必死に抗議した。 返金作業を終えた添乗員は、次にお菓子の小袋を配り始めた。新潟の菓子メーカーからの提供品みたいだ。車内に漂う白けた空気。目的のないバスツアーなんて聞いたことがない。私は半ばやけ気味に、もらったばかりのお菓子を食べた。バスは小出から右折し国道352号線へ入った。どうやら湯之谷温泉郷を通って奥只見湖へ向かうようだ。 湖へ向かう「シルバーライン」は全長22km。そのうちトンネル部分が18km。昭和30年代半ば、水力発電用の奥只見ダム建設の資材を運ぶために掘られたのだとか。最も長いトンネルでも3kmちょっとらしいが、私達には巨大で曲がりくねったトンネルが延々と続いているように感じた。トンネル間のつなぎ目部分が極端に短いためだ。 大型バスがすれ違うのがやっとの狭く暗いトンネルはなかなか出口が見えず、添乗員から告げられた「お知らせ」同様、沈鬱そのものだった。それにしても昭和30年代に良くこんなトンネルを作れる技術があったものだ。壁面の所々には、えぐられた岩の凹凸がはっきり残っていた。やがて右手に小さな明かり。どうやら尾瀬へ抜ける道路の分岐点のようだ。その小道も一瞬にして闇へと消えた。<続く>
2010.05.26
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< 長旅の果てに > 32名のツアー客を乗せたバスは東北道を南に向かった。「添乗員さん、奥只見へは山形を通って行くんですか?」。通路を挟んだ左隣の爺さんが添乗員のお嬢さんに尋ねている。「変なことを聞く人だなあ。奥只見は会津若松の奥だから山形なんか経由しないのに」。私は小声で妻に言った。「そこへは40年前に行ったことがあるんだ」。爺さんがお婆さんに教えている。 山形道への分岐点である村田ジャンクションを通過。相当の遠回りになるから山形経由でなど行くわけがないのだ。新聞を読み終えた私は、アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」下巻を読み始めた。彼は幕末の動乱期に日本に派遣された英国人で、外交官の冷めた目で当時の日本を観察している。言って見れば明治維新誕生の秘話みたいなものだ。 福島県の郡山ジャンクションからバスは磐越自動車道へ入り、一路新潟へ向かった。途中磐梯熱海を通った時、妻に「ここが4月に泊った温泉だよ」と教える。長いトンネルを抜けると磐梯山が見えるはずなのだが、生憎低く垂れ込めた雲に隠れていた。左手に見えるはずの猪苗代湖も灰色の雲に同化している。これでは折角の景色も台無し。まあたまにはこんなこともあるさ。 広々とした会津盆地の入口に立つ白亜の観音像の存在を妻に教える。彼女も2回ほどこの道は通ったことがあるようだ。やがて新潟県境のトンネルが続くと、妻はうとうとと居眠りを始めた。日曜以外は勤務が続く彼女。きっと日頃の疲れが出たのだろう。私は眠くなったら本を閉じ、目が覚めたらそれを開いて読むことの繰り返し。窓の外には山藤の花が見えた。 いつもなら新潟中央から北へ向かって新潟で降りるのだが、この日はそこから南行して北陸道へ入り、さらに長岡ジャンクションから関越自動車道へ入った。いやはや何とも長い旅。窓の外には田植えが終わった田んぼが延々と続いている。日本有数の米所、新潟平野の風景だ。 その景色にも飽きて来たころ、前方に3つの山々が見え始めた。八海山(1778m)、中ノ岳(2085m)、越後駒ケ岳(2003m)の、いわゆる「越後三山」らしい。その山の向こうが福島県なのかそれとも群馬県なのか見当がつかない。後日調べたら三山の裏側は新潟県内で、そこに目的地の奥只見ダムがあった。 バスは六日町ICでようやく一般道へ降りた。今は合併して南魚沼市と名を変えたが、ここは群馬県境に近いはず。確かスキー場や温泉の多いところだ。昼食会場のお店に入ったのが12時半。途中2回のトイレ休憩があったが5時間以上もバスに乗っていた。移動距離はきっと400kmを越えているはず。<続く>
2010.05.25
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< バスツアーのきっかけは・・ > 「お父さん、良いツアーがあるよ。ここへ行こう!!」。妻が興奮気味に私に告げたのは、確か1か月以上前のことだったと思う。「ふ~ん、どこ?」。行き先を聞く私に差し出されたのは、周囲の山々に残る雪とダム湖に浮かぶ船の写真。そしてタイトルが「新緑と残雪の奥只見湖 ~奥只見貸し切りクルーズ」。 彼女は自然の素晴らしさが最大のポイントと言うが、私には特段の魅力を感じなかった。確かにこれまで行ったことのない場所ではあるが、何故それほどまでに妻が惹かれたのか理由が良く分からない。今にして思えば、きっと彼女が大好きな上高地に似た景色を想像していたのだろう。 ツアー前夜、旅の支度を終えた私は妻に言った。「今度のツアーはひょっとしたら期待外れかも知れないよ」。何故私がそんなことを言うのか、彼女には良く理解出来なかったと思う。彼女が熱望した今回のツアーにケチをつける気持ちはさらさら無かった。ただ一旦申し込んだ「津軽半島、下北半島と恐山を巡る1泊ツアー」を、妻の「気が進まないから」と言う理由でキャンセルされた無念さが、私の脳裏にあったことも事実だ。 中世の豪族安東氏の居館があった十三湖周辺、演歌でも名高い竜飛岬、民俗学の宝庫恐山を擁する下北半島。私が以前から憧れていたそれらの景勝地を、温泉宿に1泊して巡る超お得なツアーの良さを何故理解出来ないのか、私には不可解でもあり残念でもあった。 「旅費は出すからお父さん1人で行って来たら?」と我が家の財務大臣は言ってくれたのだが、そのツアーはオプション部分がとても多く、パソコンの残金支払いに苦しむ私にはとても負担出来ず、泣く泣くキャンセルに応じたのだった。 さて、今回のツアーの見どころは湖でのクルーズのみ。それだけを目的にして11時間以上もバスに揺られるのだからきっと退屈だろうし、そのコースがほとんど高速道路なら景色もつまらないだろうとの読みがあった。そのため、当日の朝刊と読みかけの本をリュックに。天気予報は午後から雨。2人分の雨具やおやつ、お茶の入った水筒まで入れると、リュックはかなりの重さになった。 愛犬を濡れない場所につなぎ、自転車で最寄りの駅へ。帰りはきっと雨合羽での帰宅になるだろう。ブログを開く余裕もないし、何よりも翌朝は起きるのに苦労するはず。初めからそんな覚悟は出来ていた。仙台駅東口の待ち合わせ場所に行くと、1台の赤い観光バスが私達を待っていた。<続く>
2010.05.24
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「奥只見貸し切りツアー」から夜遅く帰宅しました。これがとんでもない旅で、今疲れがドッと出ています。詳細は明日のブログで書きますね~。
2010.05.23
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< 戦い終えて > 24周目の坂を登り、ASへ向かう。時間は3時35分。何とか後1周する時間を残せた。拍手の中、周回数24の札をちぎる。スタッフの人がこれでゴールすると思って写真撮影の準備をしている。だが私はそちらへ行かず、周回コースへ向かった。「どこへ行くの?」。その声の方に向かって叫ぶ。「後1回走るからね」。「ええっ?」戸惑う声を背後に聞きながら、私はもう走り出していた。 もうコース上にほとんど選手は残っていないはず。たった1人で走るのも不思議な気分。ひんやりとした森の中を駆け抜け、平坦な広場に降りる。モデル嬢が3人、カメラマンの要求に応じてポーズを取っている。その涼しそうな笑顔。全身汗だくになって10時間走り続けるこっちとは大変な違いだ。 地下鉄旭ケ丘駅前の人込みを避けながら、最後の登り坂に向かう。この苦しい坂道を歩かずに、最初から最後まで走り通せたことがちょっぴり誇らしい。とうとうやった。今年も何とか25周出来そうだ。嬉しさを噛みしめながら最後の気力を絞る。「間もなく75kmのゴール」。つい大きな声を出したが、周囲の人はきっとビックリしたことだろう。 ASの前を通過し、カメラマンが待ち構えるゴールに飛び込んだ。4時ジャスト。10時間に及んだ戦いは終わった。周回数チェック用のボードなど、既にほとんどの物が取り払われている。公園内の駐車時間が迫っていたため、急いで片づけたのだろう。最後に残った熱い味噌汁をもらう。これがゴール後の楽しみなのだ。 着替えの場所にT脇さんが待っていた。彼女がとっくに走り終えたことは24周目の時に気づいていたが、まさか最後の最後まで待っていてくれたとは。きっと黙って先に帰るのは悪いと思っていたのだろう。そんなこと気にしなくても良いのにと思いつつ、この厳しいコースで10時間を共に戦った仲間に感謝した。 もう1人私のゴールを待っていた人がいた。仙台明走会のAさんがその人。偶然通りかかった時に、私の姿を見つけたようだ。ひょっとしたら最後まで頑張って走る姿に、何かを感じたのかも知れない。昨日、今日と泉ケ岳まで走りに行ったけど、北泉にはまだ雪が残っていたと彼。1週間前の「仙台国際ハーフ」の17km地点ではかなり厳しそうな感じを受けたが、もうすっかり復活したみたい。それにしても連日山を走るとは大変なスタミナの持ち主だ。 「頑張ったご褒美だよ!」と言いながら私に大きめのオレンジを渡し、スタッフの人達は荷物を持って会場を去った。もう誰もいない休憩所。味噌汁を食べ終え、濡れタオルで体を拭き、着替え後にゴミを片づけて帰路に就いた。最後に1人だけ残されたなんて初めての経験で不思議な感じ。だがそれもまた良し、頑張った証拠だもの。私の心は晴れ晴れとしていた。 地下鉄の座席で初めてプログラムを開いた。10時間走のメンバーで私が一番の年長者。そして周回数25回=75kmは、多分仙台明走会の若手に次いで2位の記録だったと思う。確か途中で1度だけ抜かれた覚えがあった。 帰宅後確認すると、この日甲子園で阪神と戦っていた楽天が勝っていた。気になっていたがマー君の5勝目だ。そして同じこの日にあった「宮城リレーマラソン」で所属走友会の仲間達が優勝したことを知ったのは、数日後のことだった。<完>
2010.05.22
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< 時間走と目的意識 > 15周目の下り坂でT脇さんが小さな公園から出て来た。不思議に思って「どうしたの?」と声を掛けると、「膝が痛くて」と彼女。彼女も既に40kmは走ったはず。長時間走っているうちに、ここの長い下り坂がジワジワ効いて来るのだ。たまたま並走した時に「このコースを最後まで走り切るためには辛抱が大事だよ」と彼女に話していた。 このコースを1周すると60mの山を登って降りることになる。25周すれば標高1500mの登山と一緒。塵も積もれば何とやらだ。だが、下りは脚に体重がかかり、膝への負担が増す。だから飛ばさずに最後までペースを守ることが大事。そして周回コースはどうしても飽きてしまい、休みたくもなる。その単調さと苦しさに打ち克つためには、明確な目的意識が必要なのだ。 それから暫く後に出会った時、彼女は逆回りをしていた。その方が下り坂が短く、歩いても影響が少ない。そして長く緩やかな登り坂はゆっくり走って登る。「気持ちを切り替えたよ」。そう告げた彼女の声は明るかった。午前中に落としたタオルハンカチをコースの外れで見つけた。踏まれないよう、誰かが置いてくれたのだろう。そのハンカチで顔の汗を拭う。 ASでは団子も食べたし、少々干からびたお握りの小片も食べた。甘いものが飲みたくなった時は、受付時にもらった「カルシウムパーラー」を飲んだ。大量の発汗で塩分を失ったと感じた時は塩を舐め、アスリートソルトの錠剤を口に含んだ。長時間問題もなく体を動かし続けるためには、運動で失ったものを絶えず補充する必要がある。ウルトラマラソンは実に過酷だが、それまでの経験を生かせるスポーツとも言える。 3時ちょうど。10時間走以外の種目は全て終わり、コースに残るのは数名の選手だけになった。その姿もバラケてしまい、誰が走り続けているのか良く分からない。逆走して来たT脇さんが私に言った。「来週はスカイラインだから、これで止めるね」。私は驚いた。「チャレンジ磐梯吾妻スカイライン」は山道を70km走るレース。今日はその1週間前だが、彼女は20周60kmは走ったはず。膝が痛いのに最後まで良く頑張ったと思う。 私は朝から歌を口ずさみながら走っていた。最低でも6時間は歌っていたと思う。だが残り1時間。私の口から歌が消えた。来月の「いわて銀河」100kmの練習台として位置付けたこのレースだが、何とか昨年同様に25周したい。実は翌日に警備員論文入賞の表彰式が控えている。疲れを残さないためには無理をしない方が良いとは知っていても、ついランナー魂が顔を覗かせて頑張ってしまう。 25周を果たすためには、最後の1周に要する約25分ほどの時間を確保する必要がある。有難いことに脚はまだ衰えていなかった。凄いスピードで練習をしているランナーがいた。きっと8周はしたと思う。そして朝方に散歩していた老婆が再び姿を見せた。科学館前では若い女性をモデルに、撮影会が続いていた。夕方が近づき、少し涼しくなって来た。<続く>
2010.05.21
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< 増えた仲間とM仙人のゴール > 10時ちょうどに5時間走の部(個人及び駅伝)、フルマラソンの部、3時間走の部がスタート。一気にコースが賑やかになる。肩にタスキを掛けたのが駅伝の部だと分かるが、チーム数が4つだと言うことはゴール後に名簿を見て知った。スタート後間もない彼らは勢いが違い、後ろから次々に抜かれるが全く気にならない。自分は自分のペースを守るだけの話。 広場の前でもジョギングの講習会が始まった。こちらはきっとスポーツショップの主催で、主に初心者向けのランニングを指導しているのだろう。6名ほどのうち3名が「NAHAマラソン」のTシャツを着ていた。練習に来た人も次第に増え、様々なランナーで活気に溢れるコース。 シニアマラソン(フル)に出場したM仙人には結局2回抜かれた。彼は最初に0.195kmを走った後、コースを14周している。ところが私はまだ12周しただけだ。ゴール後缶ビールを美味そうにゴクゴク飲む彼。タイムは4時間18分台だった由。このコースでの私のベスト記録は13年前の53歳の時に出した4時間07分。70歳のM仙人が270km走った2週間後の記録がこれだから、いかに凄い実力の持ち主か分かるだろう。 その後、持参した草餅とバナナを走りながら食べ、ASに用意されたバナナ、大福、お握りの小片も何度か口にした。また飲み物ではトマトジュースを飲み、ASの冷たい水もたまに飲んだ。既に日は高く登り、気温が次第に上昇して来た。だが森の中は相変わらず涼しく、広場周辺に差し掛かると暑さを感じる。木の無い500mほどの平坦な部分では帽子を被って日差しを防いだ。 その広場では、養老施設の方と思える人達が芝生に座って集会をしていた。中には車椅子の人も。ボランティアの人に支えられ楽しそうな雰囲気。そんな様子を横目に、相変わらずのゆっくりペースで走り続ける私。やはり走友と一緒にハイスピードで走った5周の影響が出て、かなり疲れを感じるようになっていた。 午後になると10時間走のランナーに疲労が目立って来る。山形県のTさんや栃木県のKさんが登り坂で歩き出すようになった。やはりコースの厳しさに耐えられなくなったのだろう。午後1時過ぎ。ASで腰を下ろし持参したお握りを食べお茶を飲んだ。朝食後8時間以上、走り出してからでも既に7時間が経過している。若干時間をロスしても、しっかりした食事を摂っておく必要があった。休憩も束の間、お茶の入ったペットボトルを持って再び走り出す。<続く>
2010.05.20
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< 旧友現る > 時間が経つにつれて散歩の人が多くなる。犬を連れた人やゆっくり森の中を歩く老人。それらの人に混じって朝練をしているランナーが目立って来る。3周目の途中に反対側からH景氏が走って来るのに遭遇した。10年以上前に出た「秋田内陸」以来の走友だ。彼は1週間前に「仙台国際ハーフマラソン」を走ったばかり。 私の姿を見つけた彼はUターンし、私と一緒になって走り出す。いつもならもっと速く走るのだろうが、レース中の私のペースに合わせてくれている。3月に私が走った「伊豆大島」のことも新聞を読んで知っていた。今年の「秋田内陸」の際はスタート前日に新装したスポーツセンターに泊る予定とか。それは彼と初めて出会った山奥の宿泊施設で、「蚕棚」のベッドがきしむ音であまり眠れない宿だった。 問われるまま、今年は4つの100kmレースに出ることを話すと驚く彼。その彼の次のレースは「さくらんぼマラソン」。これはハーフで、その後は9月の秋田に向けてウルトラの練習に切り替えるとか。彼とはその後レースの話や練習の話、知り合いの走友の話などを話ながら結局一緒に5周走った。 いくらペースを落としたとは言え、元々がスピードのあるランナーだから次第にピッチが上がってしまう。5周してようやく彼が帰った後は、内心ホッとした。結局スタート後2時間で7周、つまり21km走ったことになる。アップダウンの激しいこのコースではかなり速いペースで、そのままではとても最後まで持たない。序盤のハイペースがこの後どう影響するか。 荷物を置いた給水所には種目ごとに参加選手の名前とゼッケンナンバー、そして周回数を表す小さな札が下がっている。ランナーは1周するごとに自分の札を引いて捨てる。出て来た数字より1個少ない数が走り終えた周回数になる計算だ。素早く他のメンバーの周回数を確認するが、数字の伸び方はほとんど変わらない。これは特段ペースの速いランナーがおらず、似たような力のランナーが多いことを物語っている。 それでも筋力の弱いランナーが集団から離れ、次第にばらけて行く。アップダウンの激しいこのコースに慣れてないランナーは長い下り坂で膝に来てしまい、登り坂ではつい歩くようになる。それをいかに防ぎ、一定のペースで走り続けるかが周回数を延ばす鍵なのだ。 手に持ったペットボトルもスポーツドリンクから、サプリメントと塩を水に溶かした手製のものに変えた。暑くなって大量の汗をかき始めたため、塩分を補給する必要を感じたのだ。コースの様子も違って来る。広場では尺八の練習する音に混じって、草笛の音が聞こえた。かなりのハイトーンだが、それは50年以上も前の映画音楽だった。 10周目。気温が上がり手袋を外す。トイレに寄って水で顔を洗い、小さなタオルハンカチで拭こうとしたらタオルが無い。走っているうちにどこかで落としたようだ。次の給水で、初めてパンを食べた。朝食から4時間も経てばエネルギーが乏しくなって来る。ここは早め早めにエネルギーを補充しておく必要がある。片手にパンの小片をつかみ、もう一方の手にはペットボトルに入った牛乳。それらを走りながら飲み食いするのだ。<続く>
2010.05.19
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< 6分遅れのスタート > 前もって用意した飲み物は牛乳。これは350mlのペットボトルに入れた。そして塩とサプリメントを溶かした500ml入りのもの。食べ物はお菓子と草餅とオレンジ。それからアスリートソルト入りの小袋。 朝4時に目覚ましをセットし、愛犬との散歩を済ませて朝食。ヨーグルトは食べなかったもののいつもの通りしっかり食べた。レースの朝に味噌汁は欠かせない。痛みが気になっていた右足甲部の他、弱点のある左足にもテーピング。全ての準備を終えマウンテンバイクで地下鉄の駅に向かう。 途中のコンビニで追加の買い物。買ったのはお握り2個、お茶、スポーツドリンク、トマトジュース。何せ10時間走るのだから、飲み物は色々あったほうが良い。1日駐輪券を買い、自転車置き場に預けて地下鉄に乗る。5時37分発の始発。会場の台原森林公園のスタート時間は6時。それにはどうしても遅れてしまうが仕方がない。 座席に落ち着いてしばらくした頃、M仙人が隣の車両から移って来た。どうやら私を見つけたようだ。誰が仙台鉄人会のレースに出るのか全く知らなかった。まさか2週間前に270kmの「さくら道」を完走したばかりの70歳の彼が、あの厳しい森の中のコースを走るとは。いやはやまさに仙人だ。 M仙人からその「さくら道」の様子を聞いた。夜間に冷たい雨が降り続き、苦労した話。仲間がリタイヤした場所。途中の山道に雪が残っていたこと。富山と石川の県境の道路が改良されて短縮した分、金沢市内のコースが遠回りになったことなど。そして彼が書いた完走記も見せてくれた。スピード練習をしてなかった今回はかなり苦労した由。 さらに250kmの「萩往還」に出たT田さんや、520kmの「川の道」に出たK彦さんの話に夢中になっているうちに台原駅に着いた。普段は乗らないエレベータに乗って少しでも時間を稼ぐ。そして改札口を出て長い長い階段を登る。これも準備運動と思えば良い。急いで森林公園に向かうと、スタートしようとしている選手達が見えた。 6時ちょうどに集団の姿は見えなくなった。受付を済ませてゼッケンなどを受け取る。タイツは既に履いている。宮城UMCの半袖シャツにゼッケンをつけ、手袋をはめる。受付でもらった袋の中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、手に持ってスタート。買ったばかりの冷たいものより、少し温くなったものが腹のためには良いのだ。時計を見ると約6分遅れのスタート。それでも去年より6分も速かった。 ここは3kmの周回コース。先頭グループに追いつくことはないが、逆に速い選手には抜かれる可能性はあるだろう。10時間も走るのだから全然慌てる必要はない。森の中のコースは少し寒いくらいだ。それもまた想定内で、体感温度の調整は手袋と帽子ですれば良い。土の部分。砂利の部分。落ち葉が積もった個所。そして舗装道路。緩やかな登りと長い下り坂。平坦部分から急激な登り坂へ。コースは様々な表情を見せる。 1周目の途中に、私より遅れてスタートしたM仙人に、早くも抜かれた。270kmを完走した疲れはどこにも感じられないスピード。ゴール後に彼が言うには「さくら道で良い調子に仕上がった」と。う~む、まさに化けものだ。 2周目はコースを逆走してみた。どんな選手が出てるのかを知るためだ。今走っているのは10時間走の選手とフルマラソンのシニアの部の選手。どうやらシニアの部はM仙人とベテランのA山さんの2人だけみたい。そして10時間走のメンバーとも出会った。こちらも6名ほどと少ない。女子選手2人のうちに所属走友会のT脇さんを発見。ここのレースで彼女と会うのは初めて。手を挙げてエールを交す。<続く>
2010.05.18
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昨日75km走った翌日の表彰式で、午後一番から夜8時まで拘束されることが事前に分かっていました。よっぽど20周=60kmくらいに留めておけば楽かなとは思ったのですが、ついつい頑張ってしまいました。これもランナーの性でしょうね。表彰式の様子や10時間走のことについては、明日以降書かせていただく積りです。ご来訪ありがとうございました。
2010.05.17
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10時間走のスタート時間である6時には地下鉄の始発に乗っても間に合わず、皆がスタートした5分後にスタートしました。今日の仙台は晴れですが放射冷却現象のため肌寒く、コースが森の中のため寒いくらいでした。 10時間走には同じ走友会のT脇さんが参加していました。そしてフルマラソンのシニアの部には2週間前に「さくら道」270kmを完走したばかりのM仙人も。たまたまここへ練習に来た昔からの走友と一緒になり、初めから飛ばし過ぎになったようです。これが後々どう影響するかが心配でした。 10時間走参加者7名のうち私が最高齢。次が12歳下の方でした。結局彼が26周し78km走ってトップになり、私が25周の75km走って2位となったようです。遅れてスタートした割には、まあまあ頑張れたと思っています。 明日は警備員論文入賞の表彰式があり、夜遅く酔っ払って帰ります。従って今回の完走記の執筆は明後日からになりそうです。内容のあるものを書けるかどうかは分かりませんが、どうぞお楽しみに。
2010.05.16
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昨日のブログで間違ったことを書いたことについて先ずお詫びしたい。さる女流棋士に手をつけたのを野良猫騒動の主である加藤9段としたが、これは中原永世名人の誤りだった。私の記憶違いによるものだが、強弁すれば将棋の世界に変な人がいることには違いない。なお、何かと話題になって引退したこの女性棋士が再び将棋の世界に復帰する話があるようで、これもまたビックリだ。 さて、連休中に妻に付き合ったものの一つが地元の美術展「河北展」の観覧だった。とあるデパートの催事場はさほど広くないが、多分300点以上の絵や彫刻などが展示されている。以前は書道の部もあったが、今は日本画、油絵、彫刻に限られているようだ。 毎年多くの新人が登場する同展だが、今年はとある高校の美術部(美術専攻?)の大量入選が話題になった。常連者も多く、見覚えのある色遣いやテーマでそれと分かる。東北6県の知事賞や仙台市長賞などの受賞作品は、やはりそれだけの内容があると感じた。油絵を描いている妻にとって、絵の先生や仲間の作品を観るのは彼女自身の勉強になるのだろう。 付き合った2つ目が博物館。長らく改装のため休館中だったが、特別展「聖地チベット」で久々の開館。常設展示も一部変えたようだが、こちらは観る暇がなかった。チベットは今世界でも注目される地域の一つ。それだけに良くあれだけの美術品を国外に出したものと感心している。 展示物は仏像、仏画、仏具、経典などチベット仏教に関するものがほとんどで、123点の中には日本の国宝に当たる一級文物も多い。テレビ番組でほんの少しだけ観たことのあるチベット仏教。明治期に日本の僧河口慧海などがその神髄を学ぼうと侵入したチベットだが、本物を観たのは今回が初めてだった。 聖者の頭蓋骨で作られた容器や大腿骨で作られた笛には驚くし、男女が絡み合う仏像にも驚く。きっと聖なるものの観念が我々日本人とは異なっているのだろう。インドで誕生した仏教の古い形を良く残していると言われているチベット仏教だが、その深い信仰心に触れた特別展だった。 そして妻が仕事だった今日は、1人で映画を観た。2月に観た「のだめカンタービレ最終楽章」の後篇だ。原作は漫画だが、好評のためテレビドラマ化され、さらに映画化されたのがクラシック音楽がテーマと言う珍しいこの作品。音楽に詳しくない人も、ストーリーの展開や音楽の世界の素晴らしさについ惹き込まれてしまう。それにのだめと千秋の恋の行方にもハラハラドキドキさせられる。 のだめ役の上野樹里のピアノ演奏の迫真ぶりには驚く。絶対音楽大学卒業だろうと思ったのだが、ピアノを弾いていたのは幼稚園から小学校6年までと言うから驚く。またのだめの彼氏である千秋役の玉木宏の指揮者ぶりは本物。あれは神業と言うしかない。それほどまでに表情豊かな指揮で、音楽を深く理解してないと無理な演技と感じた。 それにしてものだめ(野田恵)の可愛らしさはどうだろう。人間として、女性として、音楽家として、彼女が見せる様々な表情に魅せられた。聞くところによれば、あれが上野樹里の「地」らしい。つまり天然○○。一際高い音楽を目指しながらもひたむきに恋し、時に悩む彼女。その姿にはとても共鳴出来た。女優としても得難い人材なのだろうね、きっと。
2010.05.15
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寒いですねえ。これじゃ連休後に片づけたコタツを、もう一度出したくなりますなあ。昨日は雪が降ったそうですよ。仙台じゃなくて蔵王エコーラインと言うところですけどね。今日はゴーヤの苗を買って来ました。2週間前に蒔いた種が発芽しないんですよ。もっとも寒さのせいか、種が悪かったのかは分かりませんがね。でもホームセンターには張り紙がありましたよ。「遅霜に注意!」とね。これで5月中旬ですから驚きですな。何だかなあ 楽天の野村前監督の入院にはビックリしましたなあ。病名は解離性大動脈瘤の疑いらしいです。連日びっしり講演のスケジュールが入っていたと言うから働き過ぎですかね。ところが入院した日、大相撲観戦中の沙知代夫人はそのことを知らなかったみたいですよ。記者の質問に「そんな訳ない」と言って、前後の日程をスラスラと説明したそうです。 さらに驚くのは後数日で退院し、再び講演活動を開始するとの話。大丈夫なんですかねえ。大病ではないみたいだけど、何せ74歳の老人ですからね。それが時には1日に2つも仕事が入る忙しさ。全てあの奥様が仕事を引き受けるんでしょうか。怖いですねえ。鬼嫁ですねえ。そんなに金儲けが好きなんですかねえ。何だかなあ 呆れたと言えば将棋の加藤9段。野良猫への餌やりの件で、近隣の住民に訴えられていたようですなあ。結果は200万円の賠償と餌やり禁止命令。多い時には十数匹の野良猫が徘徊し、糞尿は垂れるは鳴き声は煩いはでは、住民が提訴するのも当然でしょうね。ところがこの元名人。判決が出た後もしゃあしゃあとして言ったそうです。「禁止されたのは敷地内だから、今後は敷地の外で餌をやる」と。 馬鹿じゃないの。将棋の世界で暮らす人が全ておかしい訳じゃないけど、この人はかつて女性棋士の林○直○に手をつけた人なんだよ。結局彼女は将棋の世界には居られなくなったけど、自分の弟子に手をつける師匠がいるもんだろうか。勝負に生きる人は尋常な感性ではないんだろうね、きっと。何だかなあ 大阪府高槻市の淀川土手で見つかったビニール袋入りの死体。結局犯人は養父母みたいですなあ。それにしても自分より年上の女性を養子にするってのはどんな神経なんだろう。捜査の結果、保険金目当ての殺人事件の疑いが濃いようで、死体から出た睡眠薬の成分と、養父母の自宅から見つかった睡眠薬の成分が一致したそうですよ。 最近物騒な事件が多いねえ。金目当てに養子縁組をし、挙句の果てに殺人事件とは世も末ですな。ところで死体が見つかった場所は大阪勤務の時に住んでたアパートの近くなんですよね。まさか自分の走った場所が事件現場とはねえ。何だかなあ 死者に鞭打つ訳じゃないけど、先日電車に撥ねられて死んだ女子高生にも困ったもんだ。「度胸試し」とか言って友人とホームから飛び降り、向かいのホームまで線路を横切ったと言うんでしょ。そこへ電車が来て、結果は火を見るよりも明らかに。彼女達、普段からこんなことを繰り返していたみたい。隣のホームへ行くのに階段を登るのが面倒だったと言う理由で。 全く自分勝手だねえ。鉄道会社や事故に巻き込まれた乗客にとっては迷惑千万な話。自分勝手な行動が事故につながるなんて考えなかったんだろうか。それに鉄道会社もおかしいよ。女子高生が日常的にホームから飛び降りていたら分かりそうなもんだけど。ホームで見ていた乗客も女子高生達を止めなかったんだろうか。何だかなあ
2010.05.14
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< トボトボ&ノロノロではありますが > 「Aさん、伊豆大島走った?」。第1現場を退散しようとした時、お掃除の小母ちゃんから声を掛けられた。例の新聞記事を読んだのだとか。「うん、走ったよ」。「凄いねえ100kmでしょ?」。「そんなの大したことないんだよ」。ランニングに無縁の人から見たら、100kmを走るなんてとても人間業とは思えないのだろう。だがウルトラランナーにとってはさほど特別なことではない。 私には「仙台国際ハーフ」に出た仲間のように速いスピードで走ることは出来ないし、第一レースに参加出来る実力もない。だが、ゆっくりとなら100kmも走れる。それでも大騒ぎをするようなことではない。ランニングはあくまでも道楽。趣味の一つに過ぎず、他の人がパチンコをしたり、ゴルフをしたりするようなものだ。 友人達が超長距離のレースに挑戦していた連休中に、私が走ったのはたったの1回で18kmだけだった。その期間も仕事があった妻の空き時間に極力付き合おうと考えていたし、急遽次男が帰省したこともなかなか練習出来なかった原因だった。朝夕の愛犬との散歩も含め、私にとっては普段の日とさほど変わらない連休だったように思う。 このところほとんど帰宅ランもしなかった。パソコンの残金を支払うためにバス代を節約していたからだ。自転車で通勤すれば、当然それで帰って来ることになる。人間そうそう自分の思い通りにはならないものだ。そうは言っても時々は走っておかないとウルトラレースに出られなくなる。今月半ばには10時間走も予定されているしね。 次男が東京へ戻った先週末、私は久しぶりに長い距離を走ろうとしていた。妻に急な仕事が入ったことも好都合。気温が高くなるとの予報だったため、ランシャツ、ランパンにした。そうすればその姿でバスに乗ることは無理で、最後まで走らざるを得ない。若干のお菓子とお金をポシェットに入れ、42km走ることを目標にした。 コースは八幡町から広瀬川上流に向かい、愛子、錦が丘経由で秋保温泉に出、家に還る一周。折立から落合までは国道48号線ではなく、初めて裏道を走った。広瀬川のせせらぎと緑陰が気持ち良く、大東岳の雪はほとんど融けていた。途中錦が丘でお握り2個を買って食べ、秋保温泉でも一休み。6時間以上かけてのノロノロランだった。 今週の月曜日も自転車通勤。帰宅後ランニング不足を補うため姿の見えない妻へメモを残し、近所の公園へ走りに行った。ここは芝生や土の上を走れる。それに遅咲きの八重桜が見られる。汗を流しながら公園に辿り着くと、前方に見覚えのある姿。歩くようなスピードでトボトボ走る1人の女性。近づくとやはり妻だった。既に公園を大周りに5周した由。結局そのまま帰宅したようだが、私は小回りで10周し家路に就いた。 「これから何を履いたら良い?」と妻が聞く。彼女は20年も昔の分厚いジャージで走っていた。多分次男が中学生時代に履いたものだと思う。「暑くなるからハーフタイツが良いんじゃないの」と私。肌にピッタリするのは好みじゃないみたいだが、そのうちにスポーツショップへ行って、掘り出し物を探してみようか。 去年の秋くらいから走り始めた妻。筋力不足で腰が落ち、とても誉められたフォームではないが、私は黙って観ている。それでも着なくなった半袖Tシャツを3枚彼女に進呈した。「フルマラソンも走ってみたいね」。先日は突然とんでもないことを言い出した。「鍛えてないと死ぬこともあるよ」。そうは言って見たものの、「ひょっとしたら5年後にホノルルへ行けるかも」。私の脳裏に一瞬そんな夢が浮かんだ。 速い人や強い人と比較しても仕方ない。自分の実力に応じてランニングを楽しめれば良いではないか。まして新聞に出て有名人になることもない。人生もそうだが、トボトボ、ノロノロで十分。これまでたくさんの失敗を重ねて、今ようやくそんな心境になった。果たして妻と一緒にレースに出られる日が来るのかどうかは不明だが、それを楽しみにしてもう少し走り続けようと思う。
2010.05.13
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< 仙台国際ハーフマラソン > 5月9日(日)。この日は朝から町内会の草刈り。それが済んでから庭の雑草を抜き、畑に支柱を施した。気がつくと10時20分過ぎ。これはいけない。大勢の走友達が出ている「仙台国際ハーフ」が既にスタートしている。慌ててラジオを持って自転車に乗る。行き先は愛宕神社前の小高い坂。その頂上がいつもの応援場所なのだ。 国道286号線は交通規制され、車椅子ランナーが熱戦を展開中。途中で主催新聞社の小旗をもらった。坂の上に陣取り、ラジオを点ける。男子の先頭はケニア出身のマサシ。2位以下に大きく差をつけているようだ。そのうち上空にヘリコプターが飛来し、先導のパトカーがやって来た。 さすがはトップクラスだけあって、マサシ選手は風のように走り去った。結局彼は59分台でゴールし、堂々の優勝だったようだ。ケニア選手に混じって日本選手も1人。その後に実業団や大学の陸上選手が続々と続く。我が走友会のH郷さんとO内さんの姿は見逃したが、A部さんと住吉台のI村さんは見つけられ、しっかり応援することが出来た。 所属する走友会のユニフォームを着てる場合は見つけ易い。それでもサングラスをかけていたり、必死で走るためにいつもと表情が違っていると識別し難くなる。一応出場しそうな走友の名前をチーム毎に書きつけたメモは作って来たが、何せ目の前をあっと言う間に過ぎてしまうため、名前を呼べない場合もあるのだ。それでも何人かの仲間は、私に気付いてわざわざ手を振ってくれた。 参加資格が厳しい国際レースだけに、今回は出場出来なかった仲間が何人かいたのが寂しい。見つからなかった人の中には関門で捕まり、バスに収容された選手もいたのだろうか。そう言えば勤務先のビルでも女性ランナーが出場すると言ってたのに、とうとう姿を見ることが出来なかったのが残念。 このレースへの出場と完走を目指して頑張って来た人が多いと思う。東京へ転勤したS水さんの姿を久しぶりに観られて嬉しかった。また全力を尽くしてゴールを目指す走友の姿は、とても神々しく見えた。以下に大会本部発表の記録を載せておきたい。これは仲間のうち名前と顔が一致する人だけ。またゴールしていながらも、私が探し出せなかった場合はご容赦を。<略称> 南(南仙台走友会) 住(住吉台走友会) 明(仙台明走会) 仙(仙台市役所)古(古川グループ) 母(お母さんランナーズ)< 男子の部 >130位 H郷さん 南 1:18:57133位 O内さん 南 1:19:02207位 I村さん 住 1:22:50216位 A部さん 南 1:23:15240位 K藤さん 南 1:24:04294位 S水さん 南 1:26:06316位 G藤さん 仙 1:26:49380位 A部さん 仙 1:28:33382位 S藤さん 住 1:28:48400位 M川さん 南 1:29:23402位 Y沢さん 南 1:29:25418位 K野さん 南 1:29:48533位 H岡さん 南 1:33:11550位 H景さん * 1:33:46 ’97「秋田内陸」以来の走友578位 K彦さん 古 1:34:24581位 S荘さん 住 1:34:25588位 C葉さん 住 1:34:38645位 C一さん 古 1:36:18762位 D堂さん 南 1:39:16792位 S栄さん 住 1:40:21849位 T橋さん 明 1:43:05861位 S木さん 古 1:46:18< 女子の部 > 65位 U宮さん 明 1:32:36147位 S田さん 南 1:42:45148位 I藤さん 明 1:42:46156位 M浦さん 明 1:43:28203位 O友さん 母 1:50:25208位 C子さん 住 1:50:53 皆さん本当にお疲れ様でした~
2010.05.12
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< 友情そしてハプニング > アメマのおっちゃんがサンフランシスコで5kmのレースを走ったようだ。寛平ちゃんが前立腺がんの治療のためサンフランシスコへ来ていることを知ったおっちゃんは、わざわざサンフランシスコのレースを選んだのだとか。 このおっちゃんは「アースマラソン」でアメリカを横断中の寛平ちゃんが走る姿を見て感動し、ずっと応援し続けている奇特な人。アメリカ国内だけならまだしも、フランスのルアーブルまで追い駆けて行った話には驚いたものだ。2人は一緒に100mを走ったのだが、その時初めておっちゃんが義足だったことに気付いた寛平ちゃんだった。 寛平ちゃんがイランからトルクメニスタンへの進路を辿った時も、おっちゃんは応援のためトルクメニスタンへ行くつもりだったようだ。それが急遽サンフランシスコでの治療となったため、同地でのレース出場を決めたのだとか。必死に走るおっちゃんの姿を見た寛平ちゃんは、思わず自分も走り出したとか。見事に5kmを走り切ったアメマのおっちゃん。金門橋を背景にして2人は声高く叫んだそうだ。「ア~メマ~!!」。 信念に基づき地球一周の旅に出た寛平ちゃん。その姿に共鳴したアメリカ人のおっちゃんは日本人の奥さんに励まされて、義足のままランニングの練習を続ける。そしてとうとう5kmのレースを完走したのだ。地球を一周しようとする一流のウルトラランナーと障害のある一市民がランニングの世界で共感し、共に走る喜びを知るのだ。2人の前途に「幸いあれ」と祈りたい。 さて、連休中超長距離レースに出た走友の消息を幾つか記しておきたい。「裏エゾ」に出た雲峰師匠とちっちさん達は9日目に見事ゴールし、足かけ6年かけて北海道一周を達成した由。おめでとうございます。そして長旅、お疲れ様でした。でもこの2人は休む間もなく、再び「羽州街道歩き旅」へと出かけてしまった。 7年ぶりに復活した270kmのレース「さくら道」に、東京の髭カクさんが出場したことを走友のHPで知った。完走率50%を切る厳しいコースを、彼は見事に完走した由。確か年齢は今年72歳になるはず。M仙人もそうだが、70歳を過ぎてなお超長距離に挑もうとする強い意思力に頭が下がる。本当にお疲れ様でした。 「さくら道」ゴール地点の金沢で、走友会の仲間達がたまたま北陸を旅している北海道のH賀さんに出会ったとか。彼もウルトラランナーだが、連休を利用して全国をウォーキングしているようだ。まさに奇遇と言うべきか。そのH賀さんと仲が良いのが大崎市のT田さん。彼はこの連休「萩往還」の250kmの部に出場したはずなのに全然音沙汰がなく心配していた。 一体どうしたのだろう。そんな矢先、彼からメールが来た。それによれば48時間一睡もせずに前進し、見事に初参加で初完踏を遂げた由。驚くべきことに、レース中彼が撮影した写真は300枚。もしそれがなければ体も休められ、記録もさらに良くなると思うのだが、カメラ持参の走り旅を止める気配はない。 昨日のこと、第2現場のビルで勤務中に警備員の小父さんが私に1枚のコピーを差し出した。何事かと覗き込むと私の名前が載っているではないか。地元紙を取ってないため知らなかったのだが、それは3月に走った「伊豆大島ウルトラランニング」の記事で、執筆者はT田さんだった。 レース前日に竹芝桟橋の待合室で出会ったのもハプニングだったが、今回もまさにハプニング。最初から最後まで彼が裏舞台でハプニングを演出していたのだ。5月8日付けのその記事を読んだと妻の姉から電話があったのは、コピーをもらった翌日のことだった。他にも気付いた方が居られたかどうか。<続く>
2010.05.11
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< 歴史の面白さ > 1時間半の散策を終えて、バスはミステリーツアー5つ目のポイントに向かう。向かった先は鶴岡市内。多分個人の経営なのだろうが、海産物や農産物を売るコーナー、レストランに温泉まである大きなセンターだった。ここで先ず海の幸の詰め放題に挑戦。1組は甘エビ、もう1組は若布に分かれた。 私は甘エビから攻めた。これが1匹ずつバラバラなら入り易いのだが、凍って大きな塊になったのもある。底の方にバラけた甘エビを入れ、最後に大きな塊を乗せる作戦。店の人が文句を言っていたが無視。次に若布。渡された小さな袋に丹念に詰め込む。店の話によれば平均は700g。一通り作業を終え、重さを量ってみたらちょうど700gだった。 ところが妻の作業がなかなか終わらない。もう良いだろうと声を掛け、重さを量ると970gもあった。私との差は270g。後で聞いたら、ビニール袋を先ず引っ張って伸ばしておくのがコツとか。誰かがやってるのを真似したそうだ。なるほど主婦の知恵は凄い。確かに袋が広がった分だけ入るわけだ。 大量の海の幸をゲットした乗客は、次にレストランへ移動。ここで待っていた夕食は海鮮丼。ただツアー料金が安いだけに、内容は今一だった。これが6つ目のポイント。続いて最後のポイントにバスで移動。行き先は老舗の漬物屋だった。案内人の上手な説明で多くの乗客がお土産を買い、我が家も奈良漬を2袋購入したのだった。 全てのミステリーが解け、バスは一路仙台を目指す。その車中から「南州神社」の標識を発見して驚く。「南州」は西郷隆盛の号。それが何故こんな場所にあるのか。その謎が帰宅後に調べて分かった。庄内藩主酒井氏は老中を務める家柄だが、国内が勤皇、佐幕の両派に分かれる中で体制を維持するために苦労を重ねた。京都守護職を務めた会津藩と共に奥羽越列藩同盟を結成して官軍と戦い、結局は敗れる。 明治新政府から責任を問われた庄内藩は、その後会津、平へと転封されるが、西郷隆盛の穏便な計らいによって再び鶴岡へ戻って廃藩置県を迎えた。西郷はその後、西南の役により賊軍の首謀者として死を迎えるが、恩義を感じた庄内の人々は彼を神と崇めて社を祀ったのだろう。 序ながら、酒井家の本来の家紋は「三つ葉葵」で、三河時代には戦で敗れたことがなかった。これを吉兆とした親戚筋の松平家(後に徳川家)からの強い要請で家紋を交換した経緯がある。歴史とは実に不思議で面白いものだ。大河ドラマ、バスツアー、読書などがきっかけで関心が深まり、その後の調査で解けた謎も数多い。今回のツアー参加は偶然だったが、個人的にはとても勉強になった旅だった。<完>
2010.05.10
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< 殿様より偉い本間様(2) > なかなか風格のある屋敷だ。玄関から座敷に上がると、案内の人が説明を始めていた。慌ててその列に加わる。もらった資料によれば、この屋敷は幕府巡見使一行の本陣として明和5年(1768年)に新築し、庄内藩主酒井家に献上したものらしい。その用向きが済んだ後、改めて拝領したものとか。初めから自分で住むために建てたものではなかったのだ。 部屋数は確か全部で23室あったはず。先ず庭が清々しい。贅沢なものではないが良く手入れされていた。本間家の家紋が入った仏間が立派。先祖は武蔵国の出身らしい。それが後年佐渡島へ渡って海運を手掛け、その一族が酒田へ移住して来たのだと言う。子供部屋は2つ。1つは遊びと寝室を兼用した部屋で、もう1つは勉強部屋。襖には日本海海戦の絵が油絵で描いてあった。当時は世界の大国ロシアを負かし、絶頂期だったのだろう。 それに比べて主人の部屋は5畳しかない小さなもの。夫人の部屋も同様だった。ただし、北西の隅に位置するその場所は、家の繁栄を約束するものらしい。台所は士分のため土間ではなく板の間。常時30人ほどが起居していたため、3個の大釜でご飯を炊いたようだ。下男や女中の部屋は台所の脇の中2階にあった。 屋敷の中を一巡したが決して豪華な造りではない。だが、長屋門、薬医門、七社の宮、上座敷、違い棚、釘隠しなどには、やはり豪商としての風格が感じられた。酒田は季節風が強く、これまでに何度も大火に遭っている。だがこの本間家では庭に水分の多い樹木を植え、海側に土蔵を巡らすなどの防火対策で延焼を免れたようだ。 帰路、本間家の別館を見学し、江戸時代からの商家である鐙屋(あぶみや)を外から眺めて山居倉庫へ向かう。この倉庫は明治26年に旧庄内藩主だった酒井家が建てたもの。元々14棟あったが、このうち12棟が現存している。専ら米を収容するためのだが今でも一部はJAの倉庫となり、一部は資料館として機能しているのが立派。 倉庫の西北部に欅(ケヤキ)の大木が並ぶ。太い幹は海風から倉庫を守り、張り出した枝は強い日差しを遮る。その他にも倉庫内の気温を一定に保つ工夫が幾つか施されている。欅が茂る小路はJRのポスターにも採用され、吉永小百合が優雅に散歩する姿が写っている。 それにしても不思議なのが酒田市と鶴岡市の関係。港町の酒田は舟運で栄えた町人の町。その代表格が本間家だ。ここには亀ケ崎城が置かれていた。一方鶴岡は庄内藩の本拠地で鶴ケ岡城が置かれていた。同じ庄内藩なのにこの両市はとても仲が悪いと聞く。ひょっとしたら体面を重んじる城下町と、進取の精神に富む港町の差が今でも残っているのかも知れない。藩が本間家から莫大な借金をしたのも関係あるのかどうか。<続く>
2010.05.09
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< 殿様より偉い本間様(1) > 草薙の船着き場で降り、ツアーの謳い文句である3つ目のポイントへ急ぐ。つまり山の幸2種類が、どうやらここでもらえるようだ。期待に胸を弾ませて店に行くと、小さな袋を手渡された。1辺が10cmにも満たない袋。それに薄っぺらで厚みがない。こんな袋に一体何を詰めれば良いというのだろうか。 答えは生シイタケだった。一同「ええっ?」と驚く。確かに美味しそうなシイタケには違いないが、こんな小さな袋を渡す人の気が知れない。おまけに茎や石づちまで残っているため、袋に詰め込もうとしても邪魔になるばかり。苦心の末に6個ほど詰め込んだが、そのまま店員には渡さず、たまたま持っていたビニール袋に入れ、さらに2個ほど放り込んだ。うっしっし。 次いで2つ目の袋を受け取る。今度も大きさは一緒で、詰め込む対象はナメコだった。いかにも新鮮そうなナメコだが、厄介なのは水の中に浮かんでいること。小さなカップで丹念に掬い、袋に入れる。そのままでは水で膨れるため時々水だけ捨てると、思いのほか大量のナメコを詰め込むことが出来た。うっしっし。それを店員に渡し、大きめの袋に入れてもらった。 船下りの旅は終わった。私はてっきり、戸沢藩がこの小さな戸沢村にあったと思っていたのだが、後日ウキペディアで調べたら全然違っていた。山形県の東北部、つまり秋田県境に接する最上地方に置かれていた新庄藩の殿様が戸沢氏。先祖は秋田の角館に居住していたが、常陸国(現在の茨城県)から6万石で転封され、そのまま明治までこの地を治めていたようだ。 石高は6万石でも最上川の舟運を抑える舟番所を置いていたため、収益は相当大きかったのだろう。戸沢藩では参勤交代の際も酒田まで舟で下ったようだ。多分戸沢村の名は、旧戸沢藩舟番所に因むものなのだろう。 バスは最上川の河口にある酒田へと向かった。そうなると4つ目のポイント「山○○○」は山形蔵王ではないことが確定。それでは一体どこかと考えて思いついたのが「山居倉庫」。添乗員さんの口からはっきりその名を聞いて妻と2人してガッカリ。以前のツアーで訪れたことがあったからだ。 鳥海山の白い姿が迫って来た。海の傍に聳える独立峰の鳥海山は標高2286m。秋田県境にあるものの、面積の7割は山形県に属している由。バスを降りた私達はそのまま倉庫へは行かずに川沿いを進み、先ず川岸に引き上げられた「小鵜飼船」を見た。これは明治以降の舟で、江戸時代に使ったのはもっと底が平たい「ひらた舟」だった由。いずれにしても道路が開発され、鉄道が敷かれると、数百年間に亘って栄えた船運は廃れてしまう。 新井田川に架かる山居橋を渡って対岸へ。ここは初めて来た道。先ず見えたのが酒田代官所跡地。昔の黒い門が再現され、小さな社があった。そして沼地の畔に生えるセリ。それを妻と2人で摘んだ。ここ酒田は日本海側では有数の港で西廻り船(北前船)の寄港地だったため、大変栄えていたのだ。それを一手に引き受けていたのが本間家。次にそこへ向かって歩く。 旧宅は500mほど先にあった。立派な門構は二千石格の武士に許された長屋門の由。松の枝ぶりが見事。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」。新庄藩の財政を一手に引き受け、酒田の田の半分は本間家が所有していたと聞く。このため藩主から五百石の士分として苗字帯刀を許されていた。入場料700円は高いが、きっとそれだけの価値があると思い直し、家の中へ入る。<続く>
2010.05.08
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< 最上川船下り > 結局この道の駅で買ったのは、コゴミ2袋とアザミ1袋と韓国海苔1袋。帰宅後、コゴミは茹でて胡麻和えにした。コリコリした食感と癖の無い味で、とても美味しい。アザミは教えられた通り茹でた後、油で炒め醤油で味付け。こちらの方は「食べられる」のは分かったが、食感も悪く、さほど美味しいものではない。それにアザミには人間にとって有害な成分が含まれているため、一度に大量に食べると中毒を起こすので要注意だ。 船下りの時間が近づき、戸沢村古口の船着き場へと移動する。江戸時代、ここには戸沢藩の舟番所があった。山形県内を縦断する最上川は、その当時重要な運搬手段であり、交通手段でもあった。上流から運ばれるのは米や紅花。それらは河口の酒田に集められ、北前船(西廻り船)で大坂や京へ運ばれた。それらの船で京からは桐の下駄や京人形などが運ばれて来たようだ。 乗船時間が来るまでの間、私は1人離れて説明板を読んでいた。それほど夢中になっていた訳ではなかったが、館内放送に従って集合場所へ行くと、もう誰もいない。大慌てで船着き場へ急ぐと、妻が焦った顔で私を手招きした。ツアー客は全部で42名。それで1艘の船を借り切っていた。遅れた人が何人か、慌てて乗り込んで来た。 船の中央に長いテーブルがあり、その両側にツアー客が座る。エンジンが掛かり、船が動き出す。前に座ってマイクを握っているのが副船頭で、船の後方で舵を取るのが船頭。この副船頭が実に巧みな話術で乗客を和ませてくれた。ここから同じ戸沢村内の草薙までの11kmを約1時間かけて下る船の旅がいよいよ始まった。 ここは最上峡と呼ばれる、最上川の中でも最も川幅の狭い場所。江戸時代は舟でしかし進めなかった由。今は雪解け水が加わって物凄い水量になり、所々で渦巻きすら見られる。深い所で20m、浅い所でも10mの水深があるそうだ。岸辺の奇岩や植物などについて語る副船頭の説明が愉快。義経がここを通った際に弁慶が投げた「つぶて」の痕などは、責任が持てないと彼。船内がどっと沸く。 両岸の天然杉は樹齢300年以上で、国内では黒部峡とここにしか無い珍しいものとか。副船頭の歌う民謡「最上川舟歌」を聴きながら、山形名物の芋煮とお握りを食べる。ポイントの2番目の○○は芋煮で、○○○○は結局おにぎりだった。山形の芋煮は醤油味で米沢牛などが入っているのだが、この牛肉と里芋が美味しくて2回お代りをした私だった。 調子に乗った副船頭が、次に英語バージョンで「最上川舟歌」を歌った。今は外国人の旅行者も多く、韓国語や中国語バージョンもあるのだとか。へえ~っと驚いたが、英語らしい響きはほとんど伝わって来なかった。途中、向こう岸の売店に寄る。ここにはアイスクリーム、イワナの塩焼き、ビールなどが置いてあり、頼めば船傍まで届けてくれる。不思議な商売もあったものだ。 五月雨を集めて早し最上川 これは有名な芭蕉の句。奥の細道で旅した時に詠んだものだ。だが日本三大激流と言われるが、最上川は大河であるだけに川の流れはさほど早くはない。明治期には正岡子規もこの地を訪れ、船下りした際に47ある滝の全てに名前を付けたとか。轡の滝の標識を「くつわの滝」と読んだら、どこの大学を卒業したのかと煽てられ、「尋常小学校」卒と答えておいた。<続く>
2010.05.07
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< 代わりに選んだバスツアーと不思議な食材 > 5月の温泉行として選んだのが秋田の乳頭温泉だった。田沢湖の奥、岩手県境にあるこの温泉は乳白色で、とても風情があるところと聞いたからだ。だが、申し込みをしたかなり後になって、旅行会社から断わりの連絡が入った。どうも申込者が少なくてツアーが成立しなかったようだ。仕方なく勧められるまま代用に申し込んだのが「ミステリーツアー」だった。 ツアーの正式名称は「新緑の山形てんこ盛りミステリー」。てんこ盛りの7大ポイントとして挙げられたのが1)新緑の○○川船下り。これは最上川で間違いない。2)昼食の○○と○○○○のうち2文字の方は蕎麦かも。蕎麦は山形の名産で、十割蕎麦が有名。3)山の幸詰め放題2種類は山菜かも。4)海の幸2種類詰め放題は見当がつかない。5)山○○○散策は山形蔵王か。6)○○の試食は不明。7)夕食の○○丼だが、どんぶりで思い浮かぶのは「海鮮丼」くらい。 バスは高速に乗らず、仙台から山形県天童市に抜ける国道48号線を行った。作並温泉周辺ではちょうど満開の桜のトンネルを抜けた。山形県境を越えた大滝でトイレ休憩。道路を横切って茶店を覗くと滝の音。裏に回ると大滝が見えた。道端に石碑。この旧道は明治に入って直ぐ、山形県令(知事の前身)だった三島通庸が切り開いたと書かれていた。彼は当時僻地だった山形の交通手段を根本から改革した人だ。 やがて遥か彼方に、真っ白い雪を戴いた朝日連峰が見えた。そして東根市では一面の果樹園。さらに平野部まで来るとなだらかな月山が白く光っている。ここは夏スキーのメッカで、これからが本格的なシーズンになる。その右側の葉山は所々に山肌が見え、春の雰囲気が漂っていた。 最初のポイントが川下りなのだが、時間調整のために「道の駅とざわ」に寄った。ここには「モモカミの里高麗館」と言う韓国風の建物がある。嫁不足の農村へ嫁いだ韓国女性に敬意を表するために建てたものらしく、彼女らが作ったキムチなど韓国の土産品がたくさん売られていた。 先ず行ったのが農家直売コーナー。山形では色んな植物を食材にしている。「コゴミ」はゼンマイの仲間で、取って来たばかりのアザミもあった。食べられるとは聞いていたが、まさかこんな泥がついたものまで売ってるとは。ツアー客の人に話すと彼女いわく「山形では垣根まで食べるからね」。米沢藩主の上杉鷹山公が飢饉に備えて垣根として植えさせたのがウコギ。この若芽を摘んで食べたのは有名な話だ。 このほかアケビの皮も食べれば、ギボシに似たウルイも食べる。畑に生える雑草スベリヒユも、山形では立派な食材。きっとその昔恐慌で苦しんだ際に、近辺の植物を片っ端から食べられるかどうか試した名残なのだろう。夢中になって買い始めた妻に注意する。「ひょっとしたら2種類の山の幸とダブルかも知れないよ」。<続く>
2010.05.06
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5日間の連休が今日で終わった。1日の夕方帰省した次男は、今朝秋田の角館市の桜を観に行き、その足で東京へ帰って行った。彼の帰省であらかじめ立てていた連休の予定が狂い、夜はパソコンを貸すなどでいつものペースト違ってしまったが、それはそれで良かったと思う。東京に戻っても元気で暮らして欲しい。親の願いはそんなものだ。 さて、気になっていた連休中の走友たちの挑戦だが、部分的に分かったことを記しておきたい。「洋~湖~海」を走っていた秋田のJunさんは3日目も2位でゴールし、無事237kmの道のりを走破したようだ。3日目の朝は食欲がなく、味噌汁を飲んだだけでスタートした由。 彼が今回のレースに際して誓った3つのこと。1)3日間走り切る。 2)気持ちを切らさない。 3)自販機は別だがコンビニに寄らない。をすべて守り通したそうだ。このために、食料はすべて自分で背負った由。それだけの強い意思を最後まで実践したことは、きっとこれからのレースにも生かされることと思う。4月の「奥久慈トレイル」完走と言い、立派な勲章を彼のランニングライフに加えることが出来たのではないだろうか。お疲れ様でした。そして完走おめでとうございます。 「さくら道」270kmの結果だが、その後さっぱりニュースが入って来なかったのが気がかりだった。だが一番肝心な走友会HPの確認を忘れていた。今日の午後念のために観たら、M仙人の書き込みを発見。初日の途中20km地点くらいでつまづき、怪我をされたが前回リタイヤした175km地点の白川郷までは何としても辿り着きたいとの執念で前進。結局5月2日(日)の朝5時過ぎにゴールされた由。 O平さんのブログによれば、今回の参加者225名中70歳以上のランナーが6名おられた由。わが走友会のM仙人もその中の1人だが、若いランナーに交じっての完走は立派の一を語。それも怪我を押してのものだけに、大変な苦労があったことだろう。他の走友たちは残念ながら途中でリタイヤされたようだ。寒さとの戦いには厳しいものがあったのだろう。皆さん本当にお疲れ様でした。 今日の午前中は、隣の土地との境界の杭の立て直しに立ち会った。すっかり整地され家の前が明るくなったが、こんな状態が後何カ月続くのか分からない。土地が売れれば新しい家の建築が始まるのだろう。果たしてその後、我が家の庭や畑にどれくらい日が差すのだろうか。 午後は読みかけだった「ふぉん・しいほるとの娘」下巻を読了。シーボルトが長崎に来航し、お滝と出会って娘イネが生まれ、日本で最初の女医となった彼女が亡くなるまでの70数年間の膨大な記録が今更のように思い出される。シーボルト、お滝が生きた幕末の激動期の日本。そして明治新政府以降の激変ぶり。 これまで知らなかった日本が辿った近代化への道を、この歴史小説によって存分に知らされた。諸外国の威圧に屈せず、国内の意思を二分しながらも明治新政府樹立に漕ぎ着けた先人達の苦労には、ただただ驚かされた。そんな大騒動が高々百数十年前に我が国で起きていたとは。 楽天は今日も西武に敗れた。昨日は延長10回裏のサヨナラ負け。そして今日は目を覆うような惨敗。結局この9連戦は何勝何敗だったのだろう。今の力ではまあまあの結果と諦めよう。さて明日からはまた仕事が始まる。幸いにして体の疲れは無いため、元気で乗り切れると思っている。 それにしても鳩山総理の沖縄訪問は何だったのだろう。体裁の好い言葉だけが先行して実態の無い様子にはガッカリだった。一国の総理があのような見識では、今後の政治にもさほど期待は出来ない。明治維新期に見せた先人の行動とは大違い。結局現代人に欠けているのは「覚悟」ではないのだろうか。
2010.05.05
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まず走友の消息を分かった範囲で。「洋~湖~海」福島県いわき市~新潟県月岡温泉(230km) 初日2位でゴールした秋田のJunさんですが、2日目は3位でのゴールだったようです。3日目の今日はゴール後、多分車で秋田の自宅まで帰宅途中だと思います。Junさんお疲れ様でした~!!「川の道」東京~三国峠~新潟(520km) 古川のK彦さんは5月2日(日)の10時03分に第13チェックポイント(CP)を通過した模様ですが、第19CPまではまだ着いていない(DNF)と主催者のHPに書かれています。ゴールの制限は明日の夜9時までです。何とか最後まで頑張ってほしいものです。< 今日の主な出来事 >1)どぶさらい(その1):家の前の側溝の掃除2)どぶさらい(その2):取り壊し、整地した前の家の側溝から落ち葉や腐葉土を取って運ぶ作業3)朝夕の愛犬との散歩4)楽天対西武の試合をテレビで観戦:10回裏にサヨナラ負けで5連勝ならず残念!!5)次男と今後の仕事について話し合い。
2010.05.04
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連休中の走友たちの挑戦のうち、これまでに分かったことを参考までに記しておきたい。 「さくら道」270km(名古屋~金沢)終了 富山のテラさん:腰に痛みが発生し岐阜県白鳥(116km地点)でリタイヤされた由。 滋賀のO平さん:夜間走行中に転倒して負傷し、岐阜県平瀬温泉(164km地点)でリタイヤされた由。この際、仙台のランナー数人も同じバスに乗ったと書かれている。 千葉のぼくし~さん:既報の通り岐阜県白川郷(175km地点)で寒さのためリタイヤ。 主催者である海宝さんのHPによれば参加者225名中106名が完走。完走率47.1% 男子95名完走50.5%、女子11名完走29.7%とのこと。 「洋~湖~海」230km(福島県いわき市~新潟県月岡温泉) 秋田のJunさん:初日の第1ステージ110kmを2位でゴールした模様。 「うらエゾ」おまけ付き463km(知床~摩周湖~釧路~納沙布岬) 東京の雲峰師匠:雪の残る知床半島を無事横断した模様。 <本日の私の状況> 午前中にランニング18km。午後から妻と博物館へ。「聖地チベット展」観覧。楽天は西武に競り勝ち4連勝の模様。
2010.05.03
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昨夜、次男が帰宅した際、愛犬が吠えたのは僅かな時間だけだった。知らない人が訪問したら物凄く吠える彼だが、年に1回か2回しか帰宅しない次男でも、ちゃんと識別していたのだろう。 夕食時、彼は蕾菜の煮びたしを作った。彼が土産に買って来た日本酒を妻ともども3人で飲む。いつもは妻と2人だけの食卓が、1人加わっただけでとても賑やかだ。東京暮らしの次男の近況を聴く。最大の課題はやはり転職のこと。そろそろ決断を下す時が近づいたようだ。 今日は妻とミステリーツアーに行く予定。ミステリーと言っても、旅行会社の案内を良く見れば、行き先は山形で最上川の船下りをすることがバレバレ。折角の機会なので次男に妻への同行を勧めたのだが、彼は1人で山形と山寺へ行ってみたい意向のようだ。何でも自分で調べ、行きたい所へ行くのが一番。 さて、今日はどんな旅行になるか、そして次男はどんな発見をするのか、それぞれに楽しみだ。留守番役は愛犬のマックスがしっかりやってくれるだろう。そして我が東北楽天は、田中マー君がしっかり勝利を掴んでくれるはず。幸い天気が良いので、楽しい1日になりそうだ。お休み中、皆さまの所へなかなか訪問することが出来ずに済みませんね。では、行って来ます。
2010.05.02
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この連休中に走友たちが挑戦しているウルトラレースについて紹介しておきたい。日程など不確かなので、正確に知りたい方はご注意を! 裏エゾ 4月29日(木)~5月7日(金)の9日間 今年は北海道一周の最終年で、本当は釧路から納沙布岬までで済むところを、わざわざ知床半島~摩周湖~釧路~納沙布岬の463kmにした模様。雲峰師匠やちっちさんが出場している。 さくら道 4月30日(金)~5月2日(日)の延べ3日間だが制限は48時間 名古屋市~岐阜県~富山県~金沢市の270km 故佐藤良二さんが桜を植えた街道沿いに走る。仙台からはM仙人、D口夫妻、M井さん、K藤さん、H多さんの6人が参加。他に千葉のぼくし~さん、富山のテラさん、滋賀のO平さんらも参加している。 ぼくし~さんの掲示板によれば、彼は今朝の6時前にひるがの高原を通過。気温は0度だった由。残念ながら175km地点岐阜県の白川郷で15時にリタイアした模様。寒さ対策のため荷物を増やしたのが敗因と書かれている。その他の仲間たちはどうだろうね? 川の道 荒川の河口である東京から源流の三国峠(埼玉・長野県境)を越え、千曲川源流から信濃川河口の新潟まで520kmを走る壮大な旅。昨年はD口さんや秋田のJunさんが走破したこのレースに、古川のK彦さんがたった1人参戦している。期間と制限時間は調べてなくて済みませ~ん。 萩往還 5月2日(日)~5月4日(火) 山口市から萩往還道などを通って再び山口市に帰って来る250kmのレース。参加資格は140kmの部を完走(萩往還の場合は「完踏」と呼んでいる)していること。萩往還道は江戸時代に山口と萩を連絡するために造られた石畳道。この凸凹道を昼夜寝ないで走るレースは過酷なことで有名。古川のT田さんが1人で参戦している。 洋~湖~海(5月の連休を楽しく走ろう3日間) 5月2日(日)~5月4日(水) 太平洋側の福島県いわき市をスタートし、3日間で新潟県の温泉まで230kmを走るレースで今年が第1回大会。「洋」は太平洋、「湖」は猪苗代湖、そして「海」は日本海のこと。つまり太平洋から日本海まで東北を横断しようとする試みで、毎晩宿泊施設に寝泊まりする。秋田のJunさんが参加している。 ところで今日の私は、午前中庭の草取り。午後から妻と市内のデパートで開催されている美術展「河北展」を鑑賞。帰宅後テレビで楽天の試合を観戦。昨晩のサヨナラ勝ちに続く2連勝に喜んだ。今夜は東京にいる次男が帰省予定。と書いたところに次男の声。どうやら帰宅したようだ。さて、久しぶりに次男と一緒にビールでも飲むとするか~。
2010.05.01
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