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これから書くのは政治の話です。セージ(花)でも青磁(焼物)でも、ましてや性事ではありません。苦手な方は最初からスルーして下さい。また無理にコメントする必要もありません。私は特に政治に詳しいわけではありませんが、最近の状況には強い懸念を抱いています。ただし論争をする積りはありませんし、読まれた方が違った意見を持つのは当然だと思っています。 懸念の第一は、籾井NHK会長の発言に関する報道の在り方です。彼が記者会見で話した従軍慰安婦問題などに関する私見は、私から見たら常識的な内容だと思います。第一ノーコメントと言ってる彼に無理やり意見を言わせ、個人的な見解と断っているのを大きく報道し、挙句の果ては辞任を求めるような姿勢は、マスコミの劣化と言われても仕方のない行為です。 1月29日に開催された国連安保理事会の公開討論で、中国、韓国、北朝鮮は安倍総理の靖国神社参拝を我が国の軍国主義化の表れとして非難しました。私個人は靖国神社参拝はしません。そこに英霊が眠っているとは思ってないからです。ただ、神社を神が宿る神聖な場所として、私達の祖先達が篤く信仰して来た気持ちは大変良く理解出来ます。 彼の国の批判は、靖国神社にはA級戦犯が合祀されているからでしょう。日本の戦争責任を裁いた東京裁判は戦勝国による一方的な内容だったようです。唯一東条英機らを無罪としたのは、インドの判事で、東条英機はインドの独立を助けた英雄として今もインド国民から尊敬され、銅像も建っています。 韓国と台湾は共に日本に併合されましたが、台湾は今も日本の政策に感謝している人が多く、大震災が起きた時も真っ先に救いの手を伸べてくれました。韓国とは大変な違いです。 日本軍による従軍慰安婦問題を詫びた「河野談話」を根拠にして、韓国はアメリカに慰安婦像を建てています。日本軍の卑劣さを強調するためです。沖縄の宮古島にも1体あるそうです。だが、あの談話が不正確で、十分な調査をしてのものではなかったことが分かっています。談話の草稿も韓国側の主張を強要された部分があったそうです。 日本軍による「従軍慰安婦問題」に関する調査は1944年にアメリカも行い、その記録が国立公文書館に残っています。それによれば慰安婦は強要されたものではなく、報酬は下級下士官の30倍あり、旅行も自由に出来たと書かれています。強制連行ではなく自分の意思か、あるいは親が借金の穴埋めに「売った」のでしょう。これは私が読んだ本の内容とも一致しています。 それなのに何故彼の国は日本を悪者として世界に訴え続けているのでしょう。答えはそれらの国の内状が不安定だからです。自国民の不満を日本を敵とすることでガス抜きしてるのです。3つの国では徹底して日本軍を悪の塊として教育し、南京虐殺などを実態以上に残酷に取り扱うことで、自国民を誘導しています。 元々「南京虐殺」は原爆投下による多大な被害が出たことを世界の目から逸らすためにアメリカが言い出したものみたいです。中国はそれを悪用し、死者の数を増やしたのでしょう。戦後広島にABCCと言う機関が設置されました。これは原爆による人体への影響を調査するためアメリカが派遣したものです。アメリカが原爆病の治療に手を伸べたのは、その後数十年も経ってからでした。 数十年間の日本併合時代を未だに恨み続ける韓国ですが、中国には有史以来ずっと支配され続けでした。元と高麗の合同軍が元寇として日本を襲来したことは先日書きましたが、李氏朝鮮時代(1392年~1910年)はずっと中国の柵封体制下にありました。漢時代の朝鮮半島には楽浪郡(108年~313年)や帯方郡(204年~313年)が置かれました。属国どころか、中国の一部だったのです。古代の中国で「郡」は「県」よりも広い単位でした。 それなのになぜ韓国は中国を恨まず、日本だけを執念深く追及するのでしょう。それは「日本は追求すれば必ず折れる」と思っているからです。強い国に対しては黙っていて、弱いと思ったらとことん追求する。それは中国も同じです。アヘン戦争などで苦しめられたヨーロッパの強国に対して、中国は沈黙を守り続けています。100年間の貸与期間が過ぎた香港は奪還しましたが、自由に慣れた市民を意のままにすることは未だ困難な模様です。 歴史をねつ造してまで日本を責め続ける隣国に対して、お人好しの日本はこれまで「事なかれ主義」を貫いて来ました。島国ゆえの優しさ、敢えて争わず「和」を重視したのでしょう。確かに友好は重要ですが、言うべきことは言わないとどんどん不利な立場に追い込まれてしまいます。従軍慰安婦問題、領土問題などがその典型です。 中国の自らが世界の中心とする「中華思想」や、長い李氏朝鮮時代の歪んだ「儒教思想」が、彼の国の根底にあるように思います。もっともテロと拉致国家の北朝鮮は論外ですが。 ベトナム戦争でアメリカは卑劣な枯葉剤を使って大量の殺戮を行い、世界の目を逸らすために日本の捕鯨禁止を唱え出しました。ベトナム戦争で韓国は従軍慰安婦を連れて行ったのみならず、ベトナムの婦人を残虐な目に遭わせています。ベトナムへの爆撃は沖縄の米軍基地から飛び立った飛行機からも行われています。それらを忘れてはいけません。 それでも沖縄に基地は必要です。あの位置が重要なのです。国防は国の基本です。それをなぜ沖縄の人達に政府はちゃんと言わないのか不思議です。札束に物を言わせるやり方は真っ当ではありません。何が正義で何が悪か。それは個人個人で違うでしょう。でも国益とは何かを十分に考える必要があると私は考えます。そして日本人が苦手な論争にも強くなる必要があると思っています。 安倍総理は軍国主義の復活を目指していると言う意見がありますが、さてどうでしょう。「靖国神社への参拝は犠牲者に対する心からの感謝と強い不戦の誓いから」とする総理の言葉は信じられます。私は自民党を支持するものではありませんが、安倍総理は本当に良く頑張っていると思います。むしろ孤軍奮闘ではないでしょうか。 まだまだ書き足らないのですが、以上がごくフツーの爺さんの率直な意見です。勉強不足な点はこれからゆっくり補おうと思っています。ではまたね、ご機嫌よう~
2014.01.31
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ロウバイ 散歩中にロウバイが咲いているのを見つけた。お年玉付き年賀状で切手シートが2枚当たった。あれほど辞めると騒いでいた妻が、まだ働くことになった。月火水の3日だけらしい。税務署から確定申告の案内が来たが、もらっている年金の額や雑所得が少ないため申告の必要はない由。どうやら俺はそうとうビンボー人みたいだ。ふ~む。これがささやかな我が家のニュース。 火星の石 火星探査車「オポチュニティ」が撮った火星の写真を見比べていたNASAの研究者が驚いた。左側の写真には写ってなかった白いドーナツ大の石が、2週間後に撮った右側の写真に写っていたためだ。火星の表面は風化して茶色なのに、この石は白い。精査したところ、どうも探査車の車輪が弾き飛ばしたようで、火星人の悪戯ではなかったようだ。ふ~む。(1・25毎日新聞) UFO? 数日前の夜。那覇の上空に妖しい物体が出現したようだ。形や色が変化しながら光る物体に、多くの市民が驚き、地元紙にはその写真が載ったそうだ。U-Tubeには100万回以上アクセスされた動画があると聞き、俺も急いで確認した。確かに妖しい光だった。だが、数日後米軍から発表があり、あれは訓練のために投下した照明弾だった由。こうしてUFO騒動に幕が下りた。ふ~む。(1・25沖縄タイムス) 四国の新幹線? とうとう四国にも新幹線が登場するようだ。JR四国が予土線の全線開通40周記念、一部開業100周年を記念して、かつて東海道、山陽新幹線で運用していたC系そっくりのカバーをつけ、そっくりの塗装を施した車両を、3月15日から走らせるとのこと。こんな車両が愛媛と高知のローカル線を走るのだが、本物の新幹線はまだ夢の中みたいだ。ふ~む。(1・28ネットより) ヌマエラビル この気持ちの悪い物体は日本の淡水に生息するヌマエラビル。寒さに強くてマイナス196度の低温で24時間経過しても死なず、マイナス90度では最長2年半生きていたそうだ。これは冷凍したクサガメの標本を解凍した際に、ひっついていたこのヒルが復活したことで判明し、その後の実験で寒さに強い生物であることが確認されたわけ。うちの女房も相当しぶといのだが。ふ~む。(1・24朝日新聞デジタル版) 母子ランナー 1月26日に開催された「大阪国際女子マラソン」では、引退試合だった赤羽有紀子が2位に入った。だが、4位はこの日が初マラソンだった前田彩里選手(22歳佛教大学)でタイムは2時間26分46秒。左側の選手だが、有望な選手が現れたものだ。で、彼女の右側にいるのが母親の淳子さん(50歳)。マラソン40回完走の市民ランナーで、今回は50位。因みに昨年54歳で亡くなった父の節夫さんは、本田技研の元選手・監督だったそうだ。ふ~む、立派なご一家だ。 ヤマネ ヤマネは本州以南に生息する小型の哺乳類で、国の天然記念物に指定されている。山梨県北杜市の「やまねミュージアム」では、冬眠中のヤマネが見られるそうだ。通常35度の体温を、冬期は0度から5度までに下げ、代謝を落とすようだ。俺も宮城と山形の県境の山中を走っている時に、落葉の下に隠れたのを見たことがある。ふ~む、これは可愛いねえ。(1・28毎日新聞) 三角縁神獣鏡 卑弥呼が魏の国からもらったと伝えられる三角縁神獣鏡だが、この度3Dプリンターを基に青銅製の精密なレプリカを作ったそうだ。これを太陽に当てて壁に反射させたところ、鮮やかな像が浮かび上がった由。これは「魔鏡」と呼ばれる現象で、鏡面を薄く磨くと裏の紋様が浮かび上がって見える。江戸時代のキリシタンの鏡に十字架が浮かび上がることは知られていたが、古代の鏡にもこんな秘密が隠されていたのだ。 発表したのは京都国立博物館の村上学芸部長で、これに対して国際日本文化研究センター(京都)の山折名誉教授は、「これは古代の太陽信仰と関係している可能性がある」と話している。なるほどなるほど。どうやらこの有名な鏡が、古代の秘密を解明する手掛かりになりそうだ。ふ~む。(1・29日経電子版) 津波石 少し古いがついでに津波石の写真も載せておこう。これは明和8年(1771年)に石垣島の海岸に打ち上げられた津波石。ハマサンゴの塊124個を調べた東京大学と東北大学の合同チームの研究によれば、過去2400年間で沖縄の宮古・八重山周辺で高さ1mを越える津波が少なくとも8回以上あることが分かったそうだ。津波の周期は10~400年であることも判明した。 写真の津波石が打ち上げられた「明和八重山地震津波」では1万2千人が犠牲になった。宮古島では海抜100mの台地に、打ち上げられた津波石も残っている。俺は昨年波照間島でたくさんの津波石を見た。自然のエネルギーとは実に恐ろしいものだ。ふ~む。(昨年8・22朝日新聞) 最後に今日も幸運の便所神を載せておこう。諸君の幸運を祈る。グッドラック
2014.01.30
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≪ 戦争と暮らし ≫ 今日のテーマは<戦争と暮らし>です。なぜそんなテーマを選んだかと言うと、私が訪れた仙台市歴史民俗資料館は、かつての兵舎だったからです。もちろん戦争を賛美する気持ちはありませんが、私達の親やその親達が、どんな時代を過ごして来たかを知ることは大事だと思うのです。 仙台市歴史民俗資料館 これがかつての陸軍歩兵第四連隊の建物で、仙台市宮城野区つつじが岡に1棟だけ残されています。その一角に、当時の兵舎の様子や戦時下の生活ぶりを伝えるコーナーがあります。 これが第四連隊の全容で、一番奥の左手が現在の資料館です。以下、このコーナーの主な展示品を紹介しますね。 鉄兜 これが鉄兜です。戦時には兵士はこれを被っていたのです。 銃架 銃を立てかけておく装置です。 ラッパ このラッパで兵士達へ合図したのです。朝は起床ラッパで始まり、夜は就寝ラッパ。♪新兵さんは辛いんだよ~ また寝て泣くのかよ~ と聞こえたそうですね。 軍服各種 それほど上等の布ではないですね。 軍靴 これは実際に使用したもののようで、かなり傷んでいます。 装備 背嚢(はいのう)、軍靴、水筒などが壁にぶら下がっています。 毛布 毛布も粗末な材料で出来てるみたいですね。 ベッド 一部屋に何人もが一緒に寝ています。ラッパが鳴れば直ちに服装を整え、外へ出て整列したのでしょう。 ポスター 戦地に行かない若い婦人達は、軍需工場で勤労奉仕をしたのです。 塗り絵 塗り絵の図柄にも当時の様子が窺えます。男の子が被っている帽子は軍帽です。子供達も確か「小国民」と呼ばれ、将来は国を守る兵士となるように教育されていたのでしょう。 満鉄ポスター 字は右から左へと読みます。「南満州鉄道株式会社」と読めます。いわゆる「満鉄」でしょうか。満州を開拓するために、内地からどんどん開拓民を運びました。私の叔父の1人も満州開拓団に加わりました。これは多分超特急「亜細亜(アジア)号」だと思われます。 錦絵 これは「仙台招魂祭」の錦絵です。日清戦争、日露戦争で犠牲になった兵士の魂を慰めるための祭で、全国の護国神社が中心となって行ったようです。仙台の招魂祭は数年間だけで終わったようです。なお、靖国神社となる以前は、「東京招魂社」と呼ばれていました。 ♪一番初めは一宮、二は日光の東照宮、三また佐倉の宗吾堂、四は信濃の善光寺、五つ出雲の大社、六つ村々鎮守様、七つ成田の不動尊・・と来て、最後が確か 十は東京招魂社 と言う数え唄がありました。これは戦前に歌われていたのでしょうが、今でもちゃんと覚えているのが不思議です。 日本は第二次世界大戦で負け、終戦後は連合国の進駐軍が日本列島を占領しました。現在東北大学の川内地区(旧仙台城二の丸跡)には戦前第二師団がありましたが、戦後はここが進駐軍の本部となり、現在の国際センターの前にはMP(軍事警察)が立って警戒していました。朝鮮戦争の頃は住まいの近くを轟々と音を立てて戦車が通り、大砲や射撃の訓練場に向かう姿が良く見られました。 戦後は市内のあちこちに焼け跡が残り、鉄屑を拾って小遣い稼ぎをする子供もいました。食糧はほとんどなく、配給制度の米や芋も粗末で、サツマイモの茎も食べました。畑のネギを盗んで刻み、それが唯一のおかずと言うことや、ゴマ塩を振りかけただけのご飯もご馳走でした。進駐軍の兵士が投げるガムやコーヒーも奪うように拾ったものです。 もし脱脂粉乳などの米国提供の食材の給食が無ければ、きっと多くの子供達は栄養失調で死んだことでしょう。だから私には戦争を賛美する気持ちはさらさらありません。今は飽食の時代。貧しかったあの頃を知る人も、どんどん少なくなりました。 便所神 この仙台堤焼で作った可愛らしい便所神は、資料館のトイレに飾ってありました。幸運の便所神として、これからも時々登場させたいと思っています。 これで仙台市歴史民俗資料館の展示の紹介は終わりますが、このシリーズはもう少し続きます。ただし、明日と明後日は急遽別の話題を入れる予定です。<続く>
2014.01.29
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≪ かつての仙台地方のお正月風景 ≫ このシリーズでは、仙台市歴史民俗資料館の展示を紹介しています。今日はかつての仙台地方のお正月風景を紹介します。 12月30日の夜は各家で「お年取り」と言うのをしていました。新年を迎える儀式です。普段はとても粗末な食事ですがこの夜だけは、必ず魚の煮物がお膳に並びます。仙台地方ではこの魚が「ナメタガレイ」であることが多かったようです。今でも仙台付近では、年末に欠かせない魚です。 仙台近郊の「お年取り」。魚はナメタガレイではなく、マガレイのようです。「お年取り」の名は数え年だと新年早々1つ歳を取ることからではないかと思われます。生まれたら1歳で、正月には早くも2歳になったのでしょうか。 お正月用の餅を搗いた臼(うす)にも、しめ飾りを施しています。 こうして飾ると、とても神聖に見えますね。新年を迎えられる感謝の気持ちが伝わって来ます。 これがかつての松飾りです。素材は簡単に手に入る松の枝、笹、わら、紙です。シンプルですが、厳かな気分になりますね。 神棚の上にはこんなものが飾られています。 棚の上に載っていたのは縁起物のだるまです。これは仙台地方独特の「松川だるま」で、周囲が赤でなく、青色で塗られているのが特徴です。1年ごとに少しずつ大きなものを買って並べる家もあります。今では数少なくなり、なかなか見かけなくなりました。 仙台地方の元旦のお膳です。長いネギが1本あるのは風邪を引かないためのお呪いでしょうか。また餅もあんこではなく黄粉みたいです。小豆(あずき)が貴重だったのでしょうか。お雑煮の具も今とは少し違います。とても質素ですが、これでもお正月だけのご馳走だったのでしょう。昭和初期の暮らしを初めて知りました。 仙台近郊の元旦のお膳です。町場の仙台よりもさらに質素ですね。これでもきっと普段よりはご馳走だったはず。干して焼いた魚も滅多には食べられない特別なご馳走だったことが分かります。砂糖は特に貴重で、滅多に使用しなかったようです。戦後も暫くの間は、砂糖が香典返しなどに使われていました。 左側が仙台地方の七草粥です。右側はお正月が終わる小正月の日に食べる「アカツキ粥」。これには小豆が入ってますね。 切り餅を吊るしています。仙台地方の餅は丸餅ではなく、のし餅です。それをこんな風に四角く切り、焼いて食べます。豆やゴマなどを入れた美味しい餅は、いつ頃からあったのでしょうか。 これは「餅花」と言って、旧正月の飾り物です。「まゆ玉」と呼ぶ地方もあるようですね。 こちらも餅花です。戦後は餅だけでなく、きらびやかな飾りを付けた縁起物に変わりました。 明日は「戦争と暮らし」を紹介します。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.28
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≪ 昔の町の暮らし ≫ 先日読んだ新聞に面白いことが書いてありました。さる小さな地方鉄道に再就職して社長になった人に、「人を呼ぶために蒸気機関車を走らせたらどうか」と提案したら、「自分は団塊の世代なので、蒸気機関車は知らない」とのこと。つまり、実際に自分が見聞きしたものじゃないと親しみが湧かないということみたいです。このシリーズも、昔を知る人以外には興味を引かないのでしょうか? さて、今日は昔の町の様子を紹介します。昭和初期の様子で私はまだ生まれてませんが、戦後も結構こんな風景が見られたように思います。 商店 現在の宮城野区原町です。これは多分昭和30年代の写真ではないでしょうか。何となく見覚えがある風景です。 めしいじこ 冬は「おひつ」のご飯が冷えないよう、おひつごとこれに入れて保温したようです。 ざるおはち 夏はご飯がすえないよう、通気性の良いおはち(おひつ)を使ったようです。 味噌だる 味噌製造の店で使ったもののようです。 升 柄がついている液体用の升です。私が子供の頃も醤油や油を「量り売り」していた店がまだありました。 たらいと洗濯板 洗濯するための道具。たらいでは子供が行水もしました。洗濯板の上で衣類をゴシゴシ揉んで洗いました。 サイカチの実 これはサイカチと言う名の木の実ですが、何に使ったか分かりますか? 答えは洗濯。これを水に浸けると泡が出ます。それを洗剤の代わりにしたのです。第2次世界大戦後も見かけましたが、やがて固形の洗濯用石鹸が登場します。 洗い張り板 これは布を再利用するため洗って干すための板です。戦後も良く見かけましたね。 藍染用の壺 藍染用の壺は一般の家庭ではほとんど見かけませんが、都合上ここに納めました。 便所神 仙台の堤焼で作った便所神の人形です。私は初めて見ましたが、昔は便所(トイレ)を清浄に使うために、こんな神様を祭ったんですねえ。そう言えば、♪ 便所には神様がいて~♪ 若い女性歌手がそんな歌を歌ってましたね。 一銭店屋 一銭店屋 一銭店屋 私が子供の頃もまだこんな店が近所にありました。でももう「一銭店屋」とは呼んでなかったと思います。強いて言えば「駄菓子屋」でしょうか。私が使った最小単位の貨幣は50銭。これでばら売りのキャラメルが1個買えました。1円は紙幣で1円札でしたね。お年玉は10円。これも紙幣でした。物が乏しい時代の小さなお店には、たくさんの夢がありましたね。<続く> このような写真を懐かしいと感じるのは、それだけ私が歳を取った証拠でしょうか。明日は仙台地方の昔のお正月の様子を紹介する予定です。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.27
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≪ 昔の田舎の暮らし ≫ 1月15日に訪れた仙台市歴史民俗資料館の展示を紹介しています。今日は主に、第2次世界大戦前(昭和初期)の農村の様子を紹介します。80年ほど前のものですが、今ではもう滅多に見ることの出来ない風景です。 ここは現在の仙台市若林区荒浜です。半農半漁の集落ですが、3年前の東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けました。これは80年前の出漁風景です。エンジンも付いてない舟で、沖に出ようとしています。 蓑(みの)を着た農家の方です。背中にわらを背負い、手には鎌を持っています。 竹で編んだ籠(かご)です。 こちらは植物の繊維で編んだ籠です。 仙台の近郊では「いじこ」と呼ばれていたようです。わらを編んだ入れ物ですが、ここに赤ちゃんを入れます。育児の手を惜しんで、労働に従事するための工夫で、他県では「いずめこ」などと呼ばれています。 これは仙台地方では「ど」と呼ばれるもので、田圃に棲むドジョウを捕まえる仕掛けです。中に潰したタニシなどを入れて、田圃や水路に一晩放置しておくと、中にドジョウが入り込みます。ドジョウは当時の農家にとって、とても貴重な蛋白源でした。 これは大小便を入れた樽を運ぶ馬車です。戦後の仙台でも良く見かけました。かつて化学肥料のない時代は、人糞を発酵させて作った「肥やし」が一般的でした。農家は町へ肥やしをもらいに行き、そのお礼に野菜を届けていました。トイレが「汲み取り式」だから出来たのです。 ただし、肥やしの欠点は、寄生虫病を蔓延させたことです。野菜には寄生虫の卵が付着し、生で食べると体内で寄生虫が成長し、栄養を奪ったのです。小学校で「虫下し」の薬が配布されたのを今でも良く覚えています。 これは囲炉裏です。農家だけでなく、地方の家にはどこにでもありました。これが唯一の暖房装置で、簡単な煮炊きが出来るよう「自在鉤」が下がっています。 干して焼いたカレイです。囲炉裏の周辺にはこのような魚が吊るしてあり、急な来客があった時などにもてなしたのです。 こちらも焼き魚です。自在鉤に巻き付けたわら束に、串に刺した焼き魚が刺されていました。こうすると囲炉裏から上がる煙で、長持ちするのです。焼き魚は当時の農家の保存食でした。 作業着ですが、これは新品のようです。普段は継ぎ当てされた粗末な作業着を着ていました。 こちらは糸車です。農家の女性はこれで糸を紡いでいました。 これは収穫された綿です。衣服の材料になりました。 こちらは麻です。ロープや籠を編む際の材料になりました。 スゲで編んだ蓑(みの)です。手触りがとてもしなやかです。降雨時の作業の時に着用します。 わらで編んだ蓑です。わらは農家では簡単に手に入る材料で、一般的です。 科(シナ)の中皮で編んだ蓑です。科の樹は長野県に良く生えているようで、科野(しなの)がやがて「信濃」へと変化したのです。私は科を見たのは今回が初めてでしたが、経木(きょうぎ;木を薄く削って作った包装用の板)のような手触りでした。 布製の背当てです。背負子を直接背中に背負うと痛いので、余った布切れでクッションを作ったのです。これは新品ですが、「本物」はボロボロの寄せ集めの布だったのでしょうね。明日は「町の暮らし」をお届します。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.26
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≪ 雪国の暮らし ≫ 昨日の朝、私の部屋の窓ガラスが凍っていました。気温が低かったため、結露がそのまま凍結したのです。ニュースを聞いたら仙台はこの冬一番の寒さだったようです。零下4.6度とのことですが、私が住む郊外はもっと下がったのではないでしょうか。 さて、今日から始まる新シリーズのトップバッターは、雪国の昔の暮らしです。物が乏しい時代の雪国の人々は、果たしてどんな風に冬を過ごしていたのでしょう。前半の写真は昨年の12月に見学した新潟県立歴史博物館(長岡市)の展示物です。では早速日本でも有数の豪雪地帯の様子を見てみましょう。 雪おろし1 雪おろし2 雪おろし3 雪おろし4 いずれも雪おろし作業のジオラマを撮影したものです。豪雪地帯では屋根に積る雪の量も半端ではありません。そのままにして置くと、雪の重みで屋根が潰れてしまいます。そこで、ある高さまで積ったら、家々では一斉に雪おろし作業を始めます。これはかつて行われていた「模型」ですが、今も実態はさほど変わらないと思います。雪国の厳しい冬の様子が、観る者の目に強く伝わって来ます。 米俵用のそり 薪運搬用のそり 子供用のそり かんじきとわら靴 以下の写真は仙台市歴史民俗資料館で撮影したものです。 これは屋外でわら靴などを作る、昭和初期の老人です。当時の実沢集落があったのは根白石村でしたが、その後泉町 → 泉市 → 仙台市泉区と住所表示が変わり、現在は住宅地になっています。当時は仙台市の近郊でも、相当雪が降ったことが以下の写真で良く分かります。 雪道を歩くための「かんじき」ですが、雪が多い新潟の物よりは小さめです。 いずれも保温用のわら靴です。赤い布がついたのは女の子用でしょうか。 いずれも「ツマゴ」と呼ばれるわら製の草履です。少しでも爪先を覆って寒さを防ぐ工夫なのでしょう。こうして見ると80年ほど前の仙台近郊では、かなり雪が降ったことが分かります。私の父親も、冬はこんなものを身に着けて暮していたのでしょうか。 明日は「田舎の暮らし」をお届けする予定です。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.25
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皆さんブログのネタに困った時は、どうされてますか? 私はデジカメを持って散歩に出かけます。近所の野原や小川、山道、工事現場など、面白そうだ、絵になりそうだと思うところを、次々に撮っておきます。それを後日編集して載せています。昨日の「石」も、石置き場で予め撮ったもの。それをあんな形で登場させた訳です。 それに比べれば、今日のテーマは簡単です。一目瞭然の畑です。今年の仙台の冬は厳しく、例年よりも寒い日が続き、雪が何度も降りました。今は畑の作物もその厳しい寒さにじっと耐えています。でも日当たりの良い畑では、野菜がお日様の恵みを受けています。今日はそんな冬の野菜を紹介しますね。と言っても、これはすべてよそ様の畑なのですが。 さて、小川に沿った小さな畑は日蔭のために気温が上がらず、なかなか雪が融けません。そんな土地を農家が家庭菜園として貸し出しています。古くから借りている人は次第に日当たりの良い場所へと移り、こんな日蔭を割り当てられるのは、きっと「新人」なのでしょう。以下、不利な条件で生きている野菜達の姿です。 玉ネギ ニンニク キャベツ ブロッコリー う~ん。これはなかなか上手に出来てますね。きっと早めに種を蒔いたんだろうなあ。 ミズナ ネギ ホウレンソウ こちらは日当たりの良い畑でプロの農家が作ったホウレンソウです。でも形が悪い物や成長が遅いものは出荷せず、自家用になります。中には食べずにそのまま放置された野菜もあります。 雪菜 穴が開いたのは出荷出来ないので、きっと自家用になるのでしょうね。 ニンジン これもかなり貧弱なニンジンです。放置される運命でしょう。 白菜 これもきっと食べられないままでしょう。我家なら直ぐに使いますが、勿体ないですねえ。春になると、葉の間から茎が延びて来ます。その蕾も美味しいですよ。 蕾菜 この野菜は春に出荷するための準備中だと思います。若い蕾を積んで、食用にします。 キヌサヤエンドウ こちらは冬越し中のキヌサヤエンドウの小さな芽。春になって暖かくなったら、一気に成長します。普通は切った笹を傍に立てて雪を避けるのですが、ここは日当たりが良いせいか、そんな処置はしてませんね。 キャベツ これは別な日に、別な場所で見かけた紫色のキャベツです。刻んでサラダに入れると良い彩になるようですが、これはプロの農家が作って1個だけ残った物のようで、このまま春まで放置されるのではないでしょうか。う~ん。勿体ない!! (予告) さて、明日からは新シリーズ「暮らしの形」をお送りする予定です。どうぞお楽しみに~!!
2014.01.24
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イテテテ。夜中に男が目覚めた。どうやら脚がつったようだ。「こむら返りか。今年のレースは大丈夫だろうか」。男は心配した。去年は3度、もう走るのは無理と諦めたのだ。「でも先祖返りや朝帰りよりは良いか」。そのうち痛みが治まり、再び深い眠りに就いた男だった。 朝起きた男は、裏庭から一旦捨てた大根の葉を拾い上げた。それは昨年末に畑の大根を抜いて土に埋めた時に切ったヤツ。一緒に土に埋めると、そのうちに葉が腐り、大根も傷んでしまう。「今は野菜が高いからなあ」。男はそんなことをつぶやいた。戦後の物がない時に少年期を過ごした男には「飢え」の体験が頭にこびりついている。「あの時に比べたら、これはご馳走」。そう言って、わずかに微笑む男だった。 節約なら男の妻だって負けてはいない。男の作った失敗作の白菜を割って日に干し、せっせと漬物を作るのだ。どんなものでも無駄には出来ない。彼女は本気でそう考えている。時々小さな畑にヒヨドリが野菜を食べに来る。その様子を苦々しく見つめながら、男は「そろそろキャベツも食べ頃か」とつぶやいた。まだほんの小さなキャベツが凍りかけているのだ。 「お父さん、一緒に映画に行こう」。男の妻が言う。タイトルは「小さなおうち」とか言うらしい。「ああ良いよ」男はしぶしぶ返事した。本当は妻と2人で観るべき映画なのかと迷っていたのだ。去年男が観た21本の映画のうち、妻と観たのはわずか1本だけ。残りはこっそりと出かけて観たのだ。「俺だって1人で観たい映画がある」。男のつぶやきは妻の耳には届かなかったようだ。 妻が仕事を辞めようとして苦心してるようだ。彼女は67歳。既に定年は過ぎたのだが、会社が何度も規則を改正して辞めさせないのだ。「本当にあれで辞められるのかね」。男は皮肉な目を妻に向けるが、今度は本当に辞める決心がついたようだ。「ふ~む」。男は小さなため息を漏らす。妻が仕事を辞めたら、これまでとは違った付き合い方が迫られる。これからが本当の老後なのだろう。間もなく古稀を迎える男も、何かを決心したようだ。 男は前職を59歳で辞めて家へ戻った。最後は単身赴任が続いていたのだ。だが故郷のハローワークに行っても、ろくな仕事はなかった。それで仕方なく、パートの肉体労働者になったのだ。人が嫌がるきつい、汚いいわゆる「3K」の仕事を9年あまり勤めて2年前に辞めた。心臓の手術を受けた直後に、よりきつい仕事に廻されて死にかけたのだ。会社と言うものの非情さを、改めて知った男だった。 最近妻はタブレットの契約をしたようだ。悪戦苦闘しながら新しい技術に挑戦している彼女を見ている男の顔は、意外にも羨ましそうだ。男はメカに弱く、新しいことが覚えられないのだ。苛立つ妻が最近静かになった。少しはタブレットに慣れたのだろうか。四国に住む孫とタブレットを通じて交流するのが妻の希望。それを指をくわえながら見ているだけの男だ。 「あれは残念な結果だった」。男がそう言ったのは、沖縄の名護市長選挙。基地移転反対派の候補者が勝ったのだ。地元の市民、沖縄県民、沖縄の新聞社、内地の大新聞社が大喜びのようだ。だが、男の顔は暗く沈んでいる。「それじゃ一体誰が沖縄を守るんだろう。今度の結果を一番喜んでいるのは中国なのに」。どうやら男の嘆きを聞く者は誰もいないようだ。 田中マー君の移籍先が決った。NYヤンキースだ。「やっぱりな」。男はつぶやく。「あそこになるよ」。前日も男は妻にそう話した。161億ドルで7年契約らしい。年俸は23億円。楽天時代の6倍近くだ。「俺には関係ないけどな」。心なしか男の顔は厳しい。今年はマー君無しでの戦いになる。きっとその苦労を今から思い描いているのだろう。 ベランダで布団や洗濯物を干す男の姿を、近所の人は良く見かける。それでも男は平気な顔をしている。夫婦喧嘩の大声も、狭い路地には良く響くようだ。それでも平然としている男。どうやら男は世間体を気にせず、開き直って生きているみたいだ。「きれいごとは俺にふさわしくない」。ひょっとして男は、死ぬまでその調子を貫こうとしているのかも知れない。 仕事を辞めたら友人と一緒に登山をしたい。お父さんと一緒に旅行に行きたい。3人の子供や2人の孫と一堂に会したい。それが妻の希望。「お父さん」と言うのは男のことだ。「ふ~む。それも悪くないねえ」。男は妻の希望を何とか叶えてやりたい気持ちになった。「それが老後の楽しみかも知れないなあ」。そうつぶやきながら洗濯物を干す男の姿を、今朝もベランダで見かけた。
2014.01.23
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≪ おまけ編 ≫ 大崎八幡宮のどんと祭と裸参り、楽しんでいただけたでしょうか?目に見えるものを次々に撮ったためその順番で写真を載せたら、きっと何が何だか分からなかったでしょうね。それで「神社編」、「どんと祭編」、「裸参り編」に分けてみたのです。それも一気に載せるとお互いの関連や印象が薄れるので、それぞれ前編後篇に分けて紹介した次第です。 さて、最後に残ったのが「おまけ編」。大した内容ではありませんが、神社の周囲で気になったものを撮りました。気楽に楽しんでいただけたら幸いです。 モクリコクリの碑 おまけの最初は「モクリコクリの碑」です。これは大崎八幡宮の近辺のお寺の境内にある、鎌倉時代の「板碑」(いたび)と呼ばれるものです。大抵は死者の霊を弔うもので、てっぺんに梵字(ぼんじ:サンスクリット語)が刻まれています。長い年月で石碑の文字が不明瞭ですね。真っ黒な写真では何が何だか分からないと思います。そのために説明板を載せておきます。 説明板1 説明板2 この石碑は鎌倉時代に蒙古軍が襲来した時、防戦のため東北地方から九州に向かい犠牲になった武士の慰霊碑で、両親が建てたようです。「元寇」は鎌倉時代に2度ありました。「モクリ」とは蒙古軍、つまり元の軍隊。「コクリ」とは高麗軍。元寇は中国の国家である「元」と、これに従う朝鮮の国家「高麗」が合流して、我が国を襲ったのです。 結果は皆さんがご存知の通り。突然季節風が吹き荒れて、敵の艦船が玄界灘に沈んでしまいました。これがいわゆる「神風」の奇跡です。2度の戦いで九州を奪われることはありませんでしたが、対馬と壱岐は合同軍に蹂躙され、多くの死傷者を出したようです。中国と韓国は過去の戦争に関して日本をなじっていますが、彼らの祖先はこんな戦争を起こしていたのです。 「おまけ」の2番目はタコです。八幡宮の境内にはたくさんの出店が並んでいました。だが被写体はほかにたくさんあったため、唯一撮ったのがタコ焼き屋さんの店頭に並んでいた「茹でダコ」でした。こんな立派なタコが入ったタコ焼きは、さぞ美味しかったのでしょうが、残念ながら写真を撮るのに夢中の私は、その間何も口にしてなかったのでした。 「おまけ」の3番目は、どんと祭の衣装です。何と八幡宮の近くの雑貨屋さんで、写真の案内を見つけました。裸参りの道具一式をここで売っていたのですねえ。足袋(たび)、草鞋(わらじ)、「さらし」、「含み紙」などはもちろん買うのでしょうが、白装束はひょっとしたらレンタルかも知れませんね。 こちらが売っていた草鞋(わらじ)です。案外安い料金でした。 こちらが白装束を着たモデルのマネキン人形。子供姿でしたが可愛らしいですね。隣には裸参りの大人のマネキンが立っています。会社の名前が入った提灯は、この店で注文するのでしょうか。 おまけの最後は季節外れのイルミネーションです。バス停まで歩いて帰る途中の病院の中庭にありました。ここは私が2年前に不整脈の手術を受けた病院なのです。3月には術後2年目の定期検診を受けることになっていますが、お陰様で心臓の調子は良いですね。結局この日は午前中に11km走り、午後は11km歩いたことになります。結構運動した一日でした。<完>
2014.01.22
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≪ 裸参り編 2 ≫ 裸参りの参詣者は次々にやって来て、参道を粛々と進んで行きます。 男性の参詣者が多いのですが、中には白装束の女性が混じっています。その女性の中に、さらし姿の勇ましい方がおりました。良く頑張りましたね。 どんとの火を横目で見ながら列が進みます。前回の裸参り編で、裸で行列した後、何をするのかとの質問を寄せた方がお2人居られました。答えは参詣とお祓いを受けることです。裸になって神前に詣で、無病息災や家内安全などを祈るのです。 「長床」を過ぎ、社務所の前を列が通ります。この後、御社殿(本殿)に入るのですが、順番が来るまでの間、寒空の下でじっと待っています。夕方5時ともなれば、既に気温は0度近くまで下がっています。 透明なビニールシート越しに、本殿内でお祓いを受けているグループの姿が見えます。 こちらはそのアップです。 こちらは左側から撮ってみました。 参詣とお祓いが済んだ女性達が帰る姿です。安心してホッとしたような後ろ姿です。この後、どんとの火に当たるグループもあれば、往路とは別な階段を下って帰るグループもいます。 こちらは階段を下りて帰るグループです。まだ私語を慎んでいます。この日、裸参りをしたのは122団体で、人数は約3千人とのことでした。1グループの平均人数は24.6人です。実は裸参りのグループは、同じ企業や団体の方がほとんどです。この日はテレビ局が数社境内の中で陣取り、ベストショットを狙っていました。 私が八幡宮に居た時間は約1時間。寒さ対策はバッチリして来た積りですが、これが限界。結局この日撮った写真は100枚ほど。私も一緒に階段を下りて帰路に向かいます。 裸参りの方達が口を開いたのは、国道に出てから。「今年はまだ良いね。去年は大雪で寒かったよ」。そんな声が聞こえて来ました。裸参りの列が鐘を響かせながら、次々にやって来ます。中には夫婦2人だけの姿もありました。ご主人が1人裸で、奥様がその後から提灯を持って従っていたのです。なかなか微笑ましい姿でした。 裸参りから帰ったグループの姿が急に消えました。きっとこの近辺に着替えする場所があるのでしょうね。昔は中心部の繁華街から来て参詣を済ませ、そのままの裸姿で中心部まで歩いて帰るグループが多かったのですが、女性が混じるようになった今では、少し形を変えたのでしょうか。 ともあれ、1月2日の豪華景品がつく「初売り」、1月14日の「裸参り」、そして8月6日から8日までの日本一豪華な「七夕祭り」の3つが、江戸時代から続く仙台の伝統行事と言えるでしょうか。いずれも伊達男仙台人の心意気を示すものだと私は考えています。明日の最終回は「おまけ編」をお届けします。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.21
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じ≪ どんと祭編 2 ≫ どんと祭編の第1回目のブログに対し、さまざまな書き込みがありました。それぞれお住まいの地の模様を書かれていたのを紹介しますね。仙台では「どんと祭」(どんとさい)と呼びますが、三重のよっちゃんさんと徳島のすずめのじゅんじゅんさんの所では「どんど焼き」。京都のお散歩うさぎさん、愛知のマッカーサーさんの所での呼称は「左義長」(さぎちょう)でした。 愛知の山間部では14日ではなく15日に行い、畑に青竹とわらを積んで火をつけるとのことです。雪国(新潟?)の灯里さんの所では三角形に積んだわらの上に、家庭から持ち寄った松飾りや書き初めなどを積んで燃やし、その火で餅やするめを焼いて食べるとのことです。そして大阪のHuちゃんさんの所では「とんど」と呼んでいるとのことでした。皆さん、どうもありがとうございます。 さて、人類にとって火はどんな存在だったのでしょうね。火を手にしたことによって、先ず獰猛な野獣の攻撃を避けることが出来ました。そして寒い冬でも、暖を取ることが出来ました。暗い夜も、火が燃えると周囲が明るく見えます。そして食べ物を調理することによって、それまでとは比較にならないほど栄養が摂れ、人類の繁栄につながったのではないでしょうか。 戦後しばらくの間、「マツダランプ」と言う電球がありました。これは松田と言う電球メーカーが作ったものではありません。ゾロアスター教の神、アフラ・マツダの名から採ったのです。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれ、ニーチェの著書「ツァラスツラはかく語りき」のツァラスツラとゾロアスターは同一。アフラ・マツダは光の神のようです。 翻って我が国の場合はどうでしょう。イザナギの妻イザナミは火の神「カグツチ」を産んだ際、ホト(陰部)に大やけどをしたのが原因で、黄泉の国(よみのくに:あの世)へと旅立ちます。また古代の英雄日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、東征の途中、野原で火攻めに遭い苦戦します。その際草薙の剣で草を切って火をつけ、逆に敵を焼き殺します。これが焼津の地名の起こりとされています。いずれも神話ですが、これは一体何を象徴しているのでしょうか。 阿蘇神社(熊本)、大物忌神社(山形)の祭神は火の神。阿蘇神社が祀るのは阿蘇山で、大物忌神社は鳥海山です。共に古来から日本有数の火山でした。伊豆大島三原山の噴火は「御神火」と呼ばれています。火祭りで有名なのは鞍馬山(京都)や秋葉山(静岡)です。前者は由岐神社の、後者は秋葉神社の祭礼です。 仏教でも密教では護摩の火を焚き、東大寺二月堂のお水とり(修二会)では、大きな松明(たいまつ)に火をつけます。また修験道(山伏)の世界では、火渡りの神事を執り行います。それらは全て、火が神聖なものであることの証。言い換えれば人間にとって、火は欠かせない存在だったのでしょう。 どんと祭編第1回の時、私は「歳神様は火と共に天に還る」と書きました。本当はお正月の神である歳神様は山から里へ現れ、お正月が終わると再び山へと帰ることを知っています。だが、敢えて天へ還ると書いたのは、アイヌの祭を頭の中で思い浮かべていたためです。 アイヌの神は来訪神。例えば熊の形になって人間の前に現れ、自ら尊い食料になります。アイヌはその魂を天に「送る」ことによって、再来、再訪を願います。この「送り」の思想が、石川県能登半島の縄文遺跡である真脇遺跡のイルカ送りとそっくりなのです。真脇では数千年間イルカの追い込み漁をやっていました。 ここから大量のイルカの骨や縄文土器と共に、イルカの脂を燃やすためのランプや、トーテムポールのような栗の丸太が出土しています。イルカの魂を天に送る行事をすることで、イルカの群れがいつも来てくれることを願ったのです。アイヌの神事イヨマンテでは、火を焚いて祈りました。日本人の先祖である縄文人も、囲炉裏の火を燃やし、子孫の繁栄を祈ったことでしょう。 御社殿(本殿)での参拝を終えた裸参りの男達が、どんとの火の周囲を廻ります。冷え切った体が、聖なる火で温められます。男達は火の周囲を廻りながら、この一年間の無病息災と家内安全を祈っているのでしょうか。 火を自由に扱えるのは人間だけ。そして火は人類に多くの恵みをもたらしました。次々に訪れる参詣客が持ち寄る松飾りによって、どんとの火は夜遅くまで燃え続けます。火の暖かさが、訪れる人の心まで暖かくしてくれるようです。昔はこの火で、餅を焼いて食べたりしてたのでしょうね。 そろそろどんとの火ともお別れです。 どんどん燃えろ、どんとの火。燃えて、人々の平和への願いが天まで届きますように~♪ 次第に遠ざかるどんとの火。さようなら、さようなら。そして、ありがとう、ありがとう。来年もまたここに来れると良いね。 明日は「裸参り編」の2回目です。どうぞお楽しみに~<続く>
2014.01.20
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≪ 神社編 2 ≫ 神社編1、どんと祭編1、裸参り編1と続いて来たこのシリーズですが、今日からはいよいよ2クール目に入ります。 これは「長床」と呼ばれる建物で、本殿の手前にあります。国の重要文化財に指定されています。ここにたくさんのお神酒(おみき)が奉納されていました。 近づいて屋根の方を見上げた所です。風雨に曝された扁額の字が不明瞭ですが、大崎八幡宮と書かれているみたいですね。 こちらは「長床」の背面。帰りに写したものです。 こちらが御社殿(本殿)の正面です。仙台藩祖伊達政宗の命により慶長9年(1604年)から12年かけて建造し、元和2年(1616年)に完成したものです。桃山様式が顕著に残る我が国では希有な神社建築として、国宝に指定されています。 10年ほど前に補修工事が行われ、何年か前に工事が終了したところです。私は補修終了後の八幡宮を見ていませんでした。今回の参拝は補修が完成した姿を、自分の目で実際に確かめたかったこともありました。 神社編の1回目の時に、大崎氏が創建した神社を仙台に移したように書きましたが、八幡宮の社伝によれば平安初期奥州鎮守府将軍坂上田村麻呂が奥州鎮守府(胆沢城:現在の岩手県奥州市)に、宇佐神宮(現在の大分県宇佐市)の霊験あらたかな神を勧請した鎮守府八幡神社がその起源のようです。東北の蝦夷を征伐する際に、大きな神力が働いたのでしょう。 仙台藩は62万石でしたが、開発に開発を進めて実際の石高は100万石以上あったと言われています。その豊かな財力で、伊達家は岩手県平泉の中尊寺や奥州一宮である塩竃神社、竹駒稲荷などをはじめ領内の寺社を保護して、次々に補修を進めました。岩手県南部も仙台藩の所領だったのです。この大崎八幡宮のきらびやかな装飾にも、当時の豊かな藩政を偲ぶことが出来ますね。 これは本殿の向かって右側です。色鮮やかな彫刻が目に入ります。 本殿右側のアップです。実はこれまで私は大崎八幡宮の建物をじっくり観たことはありませんでした。今回写真を撮るために近づいて、初めてその豪華絢爛な姿を知った次第です。スペインとの通商を願って支倉常長をヨーロッパまで使わした政宗の偉大さが、ようやく分かったような気持ちです。 こちらは本殿の左側です。 同じく本殿の左側を見た所です。華やかさと荘厳さが混ざり合った独特の雰囲気で、国宝に指定された意味が良く分かります。 地の利が悪くて天下人にはなれず、東北の英雄で終わった伊達政宗ですが、彼の壮大な意図がこの大崎八幡宮にも表れているように感じた私です。明日の第5回は、<どんと祭編>の2回目です。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.19
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≪ 裸参り編 1 ≫ 大崎八幡宮に近づいた時、最初に目にするのが裸参りの行列です。この寒空に裸の男達が黙々と歩いて八幡宮に向かっています。カランカランと手に持った鐘がなります。裸参りの行列は次々にやって来ます。 一の鳥居まで来た男達が前を見上げます。視線の先にあるのは長い石段。そこを今から登って行くのです。 行列の先頭には、紋付裃(かみしも)袴(はかま)姿の先導役がいます。その後には三宝に鏡餅を載せた男が続き、これから神前にお参りするという厳かな雰囲気が溢れています。 男達の足元は白足袋(たび)にわら草履(ぞうり)です。手には鐘を持っていて、これを鳴らしながら歩きます。 男達の腰に巻いてあるのはしめ飾りです。見ている者にも、厳粛な雰囲気が伝わって来ます。 高提灯を手に、これから石段へと向かいます。 男達が口にくわえているのは「含み紙」です。もちろん私語は禁止ですが、神聖な神社の境内を吐く息で穢さないためです。 いよいよ急な石段を登り始めます。 長い行列が、粛々と続きます。 見ている方が寒くなりますが、裸の男達の表情は真剣そのものです。 この長い石段は、仙台市の文化財に指定されています。 ようやく石段を登り終えましたが、八幡宮の本殿はまだまだ先にあります。黙々と列が続きます。明日は「神社編」の第2回目をお送りする予定です。厳しい寒さが続いています。どうぞ皆様も、体調には十分ご注意くださいね~。<続く>
2014.01.18
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≪ どんと祭編 1 ≫ 仙台の小正月の行事に「どんと祭」があります。お正月に飾った松飾りなどを神社の境内に持ち寄って火をつけ、1年間の息災を祈るものです。仙台地方は14日ですが、7日に行うところもあるようです。「松の内」つまりお正月の期間は、地方によって違っていたのです。藩政時代、豊かな藩では仕事を休む期間が長く、貧しい藩ではそんなに休むことが許されなかったからです。 名前も様々です。仙台地方では「どんと祭」と呼んでいますが、「とんど」と呼ぶ地方もあれば「左義長」とも言われています。また神社では「松焚祭」と呼んでおり、大崎八幡宮でも境内には「松焚祭」と書かれていました。 境内にはこんな提灯がありました。どんと祭は単なる焚火ではなく、神行事なのですね。 既にたくさんの松飾りなどが積み上げられています。私も持参した松飾りを積み上げようとしたら、白装束に身を固めた係の方から、裏に廻るように言われました。一か所だけに集まると困るのでしょうね。こんもりと積み上げられた松飾りなどは、儀式の後で火をつけられます。裸参りの人も持ち寄った松飾りを納めたようです。 ここで燃やすのは木や紙やわらの類です。消防署からの指導でしょうか、プラスチック類などは燃えると毒性の強いダイオキシンを発生させるため、予め取り除かれています。また、布製、皮製の物も選り分けられ、別な場所に集められています。中には立派なタヌキの置物や、ジャイアンツのジャビット人形などもありました。 図々しく前に進むと、間もなく行事が始まる雰囲気です。さらに近付いてカメラを向けます。何と私が到着したのはドンピシャのタイミングで、ちょうど4時から点火式が始まるところだったのです。良く見えませんが、神女から神官へ何かが手渡されたようです。 神官が祝詞(のりと)を読み上げています。きっと松焚祭(どんと祭)が無事終了し、集まった善男善女が幸せになり、平和な世の中であるよう祈っているのでしょうね。 神官に近づくのに夢中になっていましたが、積み上げられた松飾りの周囲には、長い青竹が立てられています。それには神々しいしめ縄も張られています。やはりこれが神聖な神行事であることを強く感じます。 しめ縄の中央には、お正月の飾り物がありました。大晦日の夜遅く訪ねて来て、人々に新年の幸をもたらした「歳神様」が、今ようやく天に還る時が近づいたようです。この後、私は本殿に向かい、「取材」を続けていたのですが、再びどんと祭の会場に戻って来た時には、積み上げられた松飾りの山が赤々と燃え上がっていました。 どんとの火は遠くからでもはっきりと見えます。うわ~っ、もう始まってる。慌てて火の方に近づきます。 神聖などんとの火。まさに松焚祭に相応しい光景ですね。 神社の境内で燃え上がる火と炎。集まった人々はその火に当たりながら、一年の健康と家内安全を祈ります。どんと祭はここまでで一旦お休みし、明日は裸参りの前編をお送りしますね~。<続く>
2014.01.17
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≪ 神社編 その1 ≫ 1月14日火曜日。午前中は公園で11km走り、午後からは山越えで9km先の大崎八幡宮へ向かいました。この日はお正月の飾り物を持参し、神社の境内で焼き清める「どんと祭」があります。例年は近所の神社へ納めるのですが、こんな遠い神社まで行くのは初めて。実はここのどんと祭が県内では一番有名なのです。それに上半身裸(男性)または白装束(女性)でお参りする善男善女の姿が見られるのです。 幸い青葉城への山道は凍ってませんでした。川内、亀岡を経由して「牛越橋」を渡ります。かつて青葉城の石垣を築くための石を運ぶ牛が、広瀬川を渡ったのがこの地点。それが橋の名の起こりで、付近には仙台市内で最も早く出来た、明治時代の小さな発電所が残っています。この橋を渡るのは多分40年ぶりくらいでしょうか。橋を渡り坂を登ると、やがて大崎八幡宮が見えて来ます。 この神社は戦国時代、現在の宮城県の県北大崎地方を本拠地とした大崎氏が祀ったものでした。やがて山形の米沢から移って来た伊達政宗が大崎氏を破って支配下に置き、仙台へ城下を開くとこの神社も一緒に仙台に移ります。城の鬼門にあたる方角の小高い山上に鎮座する八幡宮は、仙台の町を鎮護する役割を担って来たのです。 この辺りは神社の門前町として栄え、町名も八幡町と呼ばれて来ました。私が勤め始めた昭和30年代の終わりまでは市電が通っており、神社の前が終点でした。そしてこの先の山形方面には、ほとんど人家がなかったのです。文字通り仙台の旧市内の外れでした。それが今では国道の交通量が増えて市電がなくなり、町名も八幡○丁目に変わりました。 お正月の松飾りなどを手に持った大勢の参拝客が、石段を登って行きます。その脇を縫うようにして、裸参りの列が本殿に向かいます。その模様は徐々に紹介しますね。 手と口を清める手水舎に、神社の縁起が書かれた説明板があります。元々は皇室の尊崇が篤い九州大分県の宇佐神宮の神を勧請したようですが、武運を祈る八幡宮としての性格がさらに強まったのでしょうか。 手水舎の傍には、金刀比羅宮の小さな社も祀ってありました。 大崎八幡宮は10年ほど前までは大崎八幡神社と呼ばれて、市民に親しまれて来ました。仙台市内には地名を冠したたくさんの八幡神社がありますが、単に「八幡神社」と言えば、この神社を差します。これは神前に奉納されたお神酒です。 参道の両側にはずらりと屋台が並び、縁起物などいろんなものを売っていてとても賑やかです。 また社務所では、参拝客のために絵馬も売られています。 御神籤が枝に結ばれています。今年の運勢は、果たしてどうだったのでしょうね。 大勢の善男善女の夢が叶うと良いですね。今日は神社編の前半部で、まだ神社の建物も出て来てません。またどんと祭編(御神火編:前・後編)、裸参り編(前・後編)もまだ未登場です。さらに「おまけ編」まで予定しています。そんな訳でこれからも、どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.16
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≪ 小川に沿って ≫ 今日の写真は近所の小川に沿った風景です。川の名は「ザル川」。長さは10kmもない短い川で、やがて下流で一級河川の名取川に合流します。特に上流から中流にかけては、案外自然が残っています。愛犬が生きていた頃は、彼と一緒に川に入って歩くと言う冒険を何度かしました。 水源のある太白山にはカモシカが住んでいます。また時々熊も出没します。上流にはニリンソウの群落地や、自然観察の森、治山の森などがあって、市民の目を楽しませてくれます。今、季節は冬。ほとんどモノトーンの世界ですが、良く見れば淡い色がついています。木々は冬の寒さに必死に耐え、春を待っています。では北国の冬の風景をお楽しみくださいね~。 以下の写真は上流から中流に向かって撮っています。距離は3kmくらいでしょうか。スタート地点は水源から2.5kmくらいのところです。 こんな小さな川でも、何百万年もの間に山を削り、小さな谷や平地を作って行きます。川沿いの崖には、ザル川が浸食して出来た地層が露わになっています。自然のエネルギーの凄さを感じる風景です。 水源地から3kmくらいの地点で、木々の間から曲がりくねった川が見えます。ここも愛犬マックスと川を歩く冒険をした所です。黒ラブの彼は、とても水が大好きで、夏は川に入りたがって困ったものです。私のハンドル名は彼の名を無断で借用したのです。 スタート地点から2kmほど下った場所です。造園業者の敷地に、雪が少し積っています。 上の場所からさらに100mほど下った川岸です。 川の傍の少し開けた場所は小さな畑になっています。昔は農家の人がせっせと野菜を作っていたのでしょうが、今では付近の住民に土地を貸して、有料の菜園になっています。日蔭の畑はこんな風に冬野菜の成長が遅れてしまいます。貧弱な野菜ですが、凍らないよう頑張るために甘さが増して、意外に美味しいのです。冬は野菜にとっても厳しい季節です。 上の場所からさらに500mほど下った場所です。ここでも愛犬は何度か泳ぎました。ラブラドルレトリバー種の先祖は、カナダの漁村で海に飛び込んで漁網のロープを引っ張って、漁を助けていたそうです。その先祖の血が騒ぐのか、水を見たら直ぐに飛び込もうとするのです。一度などは大雨で増水した広瀬川の濁流に飛び込んで、ハラハラしたことがありました。今は懐かしい思い出です。 この辺には、カルガモや逃げ出したアヒルが居着いていて、時々川に入って餌を探しています。今は少し下流の日の当たる川岸へ移動しているようです。寒々しい写真を載せてどうかなと思っていたのですが、皆様の評判は案外悪くないようで安心しました。じっと寒さに耐える木々や動物達の姿を見て、私も毎日頑張ろうと思っています。どうぞ風邪など引かれませんように。 なお明日からは昨日取材して来た、仙台「大崎八幡宮のどんと祭」のシリーズが始まります。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.15
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≪ ぶらぶら歩き ≫ 成人の日の仙台は、最高気温が1.5度だったそうです。全国的な寒波襲来で、日本列島もすっかり冷え込んでいますが、ブロ友の皆様はお元気のことと思います。 さて、今日のテーマは「散歩道」。愛犬が生きていた頃は、朝夕の2回毎日近所を散歩していたのですが、彼が死んでからはあまり行かなくなりました。健康のためにも、彼を思い出しながら出来るだけ歩きたいものです。 寒々しい写真ばかりでスミマセン。でもこんな何気ない風景が、私は案外好きなんですよ。我が家の近所に、まだいくらか自然が残っているのも嬉しいことです。寒さに負けず、今日も歩かないとね♪ 皆さんも、どうぞ元気で~!!<続く>
2014.01.14
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昨年私が訪れた県は、*北海道、*青森県、*岩手県、*福島県、埼玉県、*千葉県、*東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、*静岡県、大阪府、*兵庫県、*沖縄県の15都道府県。このうち走ったのは*がついた9都道府県。これにはレースだけでなく、旅行先で走ったものも含まれている。 既に平成8年に全都道府県の訪問を達成し、平成17年には全都道府県の走破を達成したため特段の感慨はないが、振り返って見れば我ながら結構旅したと思う。今年は宿泊を要するレース数を妻に制限されたため、行き先はぐっと少なくなると思う。 三内丸山遺跡の子供の墓 昨年旅した中で印象に残ったのは、日本の歴史について考えさせられた場所だ。北海道旅行で訪れた函館市の五稜郭では、幕末期の戦いを実感した。あそこは幕府軍が立て籠って官軍側と戦った最後の場所。激しかった戊辰戦争を経て、ようやく日本が近代国家建設に向かったのだ。 同じ函館市の志海苔館(しのりだて)は、南北朝時代の戦いで敗れた関東の武士が蝦夷が島(後の北海道)まで逃げ落ちて造った中世の山城だが、旅行最終日の朝に走っていて偶然見つけた。城を造ってアイヌと戦いながら内地との貿易を始めたことも、初めて知った事実だった。 青森市の三内丸山遺跡は、今回で2度目の訪問。付属施設も含めて無料で入場出来たことに驚いた。最初の訪問時よりずっと園内が整備されており、実際に発掘調査している現場を見られたことは幸いだった。実際に自分の目で確かめると歴史が身近に感じられ、自分達の遠い祖先がどんな暮らしをしていたのかが良く分かる。 埼玉県稲荷山古墳 新潟県長岡市の新潟県立歴史博物館の展示品にも圧倒された。特に印象に残ったのが雪国の暮らしと、縄文時代の展示。縄文時代の石器や土器の素晴らしさには目を奪われたものだ。新潟も東北に劣らない縄文文化が栄えていたことを実感した。 埼玉県行田市への旅では、長年の念願だった「さきたま古墳群」を見ることが出来た。大きくて立派な前方後円墳を10基以上自分の目で確かめ、うち2基には実際に登って見ることが出来た。縄文から弥生と時代が代わり、米作で権力を蓄えた地方の豪族が古墳を築いたのだが、稲荷山古墳から出土した鉄剣には、大和政権の天皇と思しき名前が金で象嵌されていたのだ。 竹富島にて 沖縄県八重山地方への旅では驚くような発見をした。写真の解説板は、赤瓦屋根で有名な竹富島の集落を見下ろす高台にあったもの。ここには何と、竹富島住民の先祖は源平合戦に敗れた平家の落武者だと書いてある。「赤山丘」の名も平家の赤旗に因むものだろう。なお、琉球王朝の成立は13世紀で、源平合戦より100年以上遅いのだ。 沖縄に「南走平氏伝説」があることは本を読んで知っていたが、まさかこのような形で竹富島に残されていたことが不思議だった。宮古島には倭寇の基地があったとされているし、沖縄本島には源氏の武将が琉球王国に先立つ王統の祖先とする伝説が残されている。もちろん古くから和服を着て「日本語」を話していたし、琉球王国の文書は全て漢字混じりの平仮名で書かれていた。 明治期の沖縄県民(男性) 明治期の沖縄県民(女性三代) これは明治期の沖縄県民の貴重な映像。男性はそろって髷(まげ)を結っており、服装から見ると旧武士階級の士(さむれー)だと思われる。「さむれー」は勿論「侍」が変化したもの。この武士階級の不満を逸らすために、琉球藩から沖縄県になるいわゆる「琉球処分」が遅れて実施された。 17世紀初頭の島津藩による侵攻で、琉球は実質的に日本へ帰属していたが、中国との柵封体制は続いていた。これは琉球及び島津藩(日本)にとって、中国との貿易による利益が大きかったのが継続の理由だ。このように琉球は一見すると日本と中国へ「二重帰属」の形を取っていた。これを巧妙に隠していたために、中国から琉球王国に来る柵封使は全く気づかなかったのだ。 石垣島宮鳥御嶽 御嶽の最奥部 写真は石垣島川平集落にある宮鳥御嶽。御嶽は沖縄本島では「うたき」と発音するが、石垣島では単に「おん」と呼ばれる神聖な場所。これは沖縄に残っている原始神道の形。日本でも本来は山や大きな岩や木が信仰の対象だったのだが、やがて山上から中腹、さらに麓へ下りて神社が建てられる。 沖縄では今でも、ちょっとした高地や大きな岩や樹木が聖地として崇められている。時として付近には白骨が散らばる風葬墓もある。沖縄勤務時に、私はそんな場所を何十個所も訪れた。猛毒のハブが潜む危険な場所が多い。 宮鳥御嶽の森 石垣島の御嶽には外来者が無断で立ち入ることが禁止されている。私は沖縄を愛する者の一人として、長い祈りの後で入らせていただいた。もう二度と体験は出来ないだろう。御嶽の森は、内地の鎮守の森と考えれば良い。同じようにきっと崇高な気分を感じるはずだ。私の旅はこんな風に訪れた場所から歴史を学んだり、その土地を走ったりして楽しんでいる。 因みに旅先で走ったのが中心だが、私が走った最北端、最東端は北海道の知床半島(訪問の最東端は納沙布岬)で、最南端は沖縄の石垣島(訪問の最南端は波照間島)。それに昨年最西端の記録が更新されて西表島となった。それらの貴重な映像のほとんどは捨てた。私は自分の脳裏に刻んであれば良いと思っている。それすらいずれは風化するだろう。それもまた自然の摂理だ。
2014.01.13
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そうだ、デジカメを持って走りに行こう。そう思いつたのは6日前の夜。でもこんな寒い時期に無理をすれば、筋肉を傷める可能性がある。それに古傷が痛み出す危険性も。そんなことまで心配なのが老ランナーの悲しさだ。思いついたのは4つの橋を渡り、山を登って一周するコース。これはちょっとした冒険。ここ3年ほど走ってないし、何しろ冬は初めてなのだ。 距離やその後の様子は分からないが、ともかく行って見よう。多分道路の凍結は大丈夫なはず。ところで最近は時計のストップウオッチを押していない。あまり使い過ぎてボタンが動き難いのが1つ目。手袋を2重にしてて押し難いのが2つ目。時間を気にせずに走ろうと思い直したのが3つ目の理由。距離も時間も測らないランニングは、ちょっぴり冒険心を誘う。 念のために、薄手のウインドブレーカーを腰に巻く。寒くなった時のための用心だ。ポシェットにはミカンとお菓子を若干。それに小銭も。こちらはガス欠にならないための用心。早速「ホットレモン」を買って飲む。う~む。温かくて甘くて実に美味しい♪ これは冬のランニングには持って来いだねえ。 愛宕大橋 これは1つ目の「愛宕大橋」で6km地点。名前の由来は、この近くにある愛宕神社から。この橋を渡らずに直進して向山経由で帰れば11km。登り坂が長くて良いトレーニングになるけど、交通量が多いのが難点か。土樋から米ケ袋を経由して霊屋(おたまや)に抜ける。 霊屋橋 これが2つ目の霊屋(おたまや)橋で7.2km地点。私の時計は安物で、GPS機能はついておらず、距離は帰宅後に「ジョギング・シュミレーター」で計測した。橋の名前の由来は、仙台藩祖伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿が付近の山上にあるため。この橋を渡り、右折して評定河原へ向かう。 評定河原橋 3つ目の評定河原(ひょうじょうがわら)橋の上から向かい側を観たところ。ビルや高層のマンションが多いね。ここは7.7km地点で、川を渡って吹きつける西風が冷たい。名前の由来は、藩政当時ここで評定=裁判を行ったため。川向うの片平には、現代の裁判所があるけどね。この橋を渡って4つ目の大橋に向かう。 大橋 大橋があるのは8.4km地点。向かいの山上に通称青葉城の仙台城が見える。ここは青葉城に向かうメインストリートで、橋の下には禁制のキリシタンを処刑した「水牢」があった。今は「仙台国際ハーフマラソン」や「日本大学女子駅伝」や「全日本実業団女子駅伝」のコースで、川上には「地下鉄東西線」の橋が完成。来年はここを地下鉄が走るよ♪ 五色沼 ここは8.7km地点の五色沼。仙台城三の丸の外堀の跡。三の丸には現在「仙台市博物館」がある。五色沼では明治の初期に、我が国で最初のアイススケートが行われた。二の丸跡にあった旧第二師団の兵士が、凍結した池の上で滑ったのだ。今も池は凍結して、いかにも寒そうだ。 隅櫓 二の丸跡の石垣 ここは五色沼の直ぐ上にある隅櫓(すみやぐら)と二の丸跡の石垣。両者の間に、かつては大手門があった。隅櫓は地震のために何度か修復している。石垣も同様に歪みが出ている。ここから左折し、青葉城経由で帰れば14kmだが、直進して二の丸跡にある東北大学の構内を突っ切り、青葉山へと登って行く。コース最大の難所だ。 東北大学工学部 ここは東北大学工学部で10.5km地点。広大な敷地には20以上の巨大な建て物がある。また理学部、薬学部なども青葉山の山上にあり、麓の川内にある学部と合わせたら学生数は2万人を越えるのではないだろうか。最初に工学部が移転してから既に40年以上。目下建て替え工事が進んでいる。 地下鉄工事現場 ここは11.2km地点で、地下鉄東西線の「青葉山駅」付近。目下急ピッチで工事が進んでいる。左手に少し芝生が見えるが、ここは元ゴルフ場の跡地。東北大学の施設も建築中で、さらに雨宮地区から農学部が移転すると、医学部を除く全学部が川内と青葉山に集結し、静かな山は学生で溢れるのだろう。 宮城教育大学 ここは11.6km地点にある宮城教育大学。昭和40年に東北大学教育学部の教員養成課程が別れて独立した大学で、付属小学校、中学校、大学院を持つ。私の2番目の職場で、このキャンパスは4年3か月過ごした懐かしい場所。あれから50年近い年月が流れ、小さかった構内の樹木が今では鬱蒼と茂っている。ここからさらに坂道を登って行く。 凍った道 青葉台のバスの終点を過ぎて暫く行くと、舗装が切れた山道になる。この道は細くて、ほとんど人が通ることはない。凸凹の道が凍結している。標高は200m程度だが、周囲に建て物が全くないこの周辺は、気温が市内よりも5度は低いはず。この道が拡張して舗装される日が来るのだろうか。このまま行けばカタクリの群生地に出、春には可憐なカタクリの花が見られる。 治山の森 途中から「金剛沢治山の森」に入る。ここは営林署の管轄だが、自由に市民が入ることが出来る。青葉城の裏手にある広大な森は、藩政時代防衛上伐るのが禁止されたためほとんど原始林に近い状態で残っている。大都会の付近にこれだけの森が残るのは、北海道以外では仙台くらいなもの。「杜の都」と言われる所以だろう。自然過ぎて、時々熊が出没するため要注意。 ここは約15km地点。10年ぶりくらいに通ったのだが、すっかり道を忘れ、途中で倒木のために行き止まりになった。再び東屋まで引き返し、そこから真直ぐ降りたら道が見つかった。いつもと逆方向なので迷ったのだ。やれやれ。3時間ほどで無事帰宅。距離は17kmほどのようだ。冬は厳しいが、春から秋へかけてのトレーニングにはとても良いコースだと思うね。
2014.01.12
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夜中に寒くて目が覚めた。朝になって窓が少し開いていたことに気づいた。零下4度の日の話。オーマイガー!!今も俺は指先を切った手袋をしながら、ブログを書いている。 お正月用に買った上等の日本酒が切れた。その後は4リットルで1680円のいつもの焼酎。「人民の酒焼酎は、安くて廻りが早い♪」。エノケンが昔歌っていた。 「自分の腹を痛めて産んだ子」と女は言う。確かに男は子を産めないが、心配することは出来る。夫として、父として、人間として。年末に帰省していた次男が東京へ帰って1週間経った。2人の息子の将来を、今でも心配している俺だ。 「今年仕事を辞めたらストレスが増える」と妻。黙ってそれを聞き流す俺は、2年前に一切の仕事を辞めた。 年の初めの妻の注文。1)玄関は毎朝掃くこと。 2)浴槽は必ずスポンジに洗剤をつけて洗うこと。 3)掃除機をかけた後は、モップでフローリングを拭くこと。 う~む。それくらいなら何とかなるか。 女は京劇の面のように激しく変わると言う。困るんだよな、そう言うのって。俺はそれで2回不整脈の手術を受けた。 かじかむ手で洗濯物を干す。これも零下4度の朝の話。 「今日はポイント10倍の日だから、米を買って来て」と妻。俺は10kgの米が入ったリュックを背負って坂道を歩く。ふふふ。これはちょうど良いトレーニングだ。 冗談だけど、俺が寅年生まれで、女房が午年生まれならどうなると思う?「答えはトラウマ」。実際は女房が戌年生まれで、俺が申年。んんん~?これって犬猿の仲ってこと? 「石の上にも三年」だそうだ。俺はまる50年間働いた中で何度涙を流し、何度死のうと思ったことか。その全てが「人生の肥やし」になったと思っている俺だ。 俺の体調はこの1年どうなるのだろう。でも頑張っていれば、そのうち良いこともあると信じたい。そう思って俺は今年も走る積り。 俺が走り出してからこの元旦で35年目。ずいぶん走ったもんだ。何しろ47都道府県を走破し、地球3周目突入だもんね。このまま頑張り続けて「東京オリンピック」に出て見るか。でも後7年も生きているかどうか。そっちの方が問題だ。
2014.01.11
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足の先が冷たくて目が覚めた。全国的な寒波襲来。今朝の仙台は零下4度の予報だ。そのまま起きてブログを書いている。さて、私達がこの土地を買ったのは、今から44年ほど前。当時は周辺に田圃が残る郊外だった。長い転勤暮らしの末、ここに自宅を建てたのが18年前。ずいぶんと宅地化が進んでいたが、200mほど裏手の道路はまだ作りかけで放置されたままだった。 仙台市は慢性的な予算不足で、市内のあちこちで進められている道路工事がなかなか進展しない。その上、東日本大震災が加わったため、工事の遅滞は目を覆うようだった。資材不足と人員不足が一層激しくなったためだ。だが、我が家の近所の道路工事が、このところ急ピッチで進んでいる。来年春完成予定の地下鉄東西線と関連してるからだと思う。暮れのある日、2か所の工事現場を訪れて見た。 現場A 工事現場Aでは、長い間1軒だけ残っていた住宅が数年前に退き、道路が500mほど延長された。その後お寺の墓地の一部を移転した後、山を掘削して道路を跨ぐ橋を架け、今は国道まで通じる新しい道路を作っている。この工事に伴って、小川の改修工事も一気に進んだ。来年の春までには風景が一変し、新しいバス路線が出来るように思う。私達の暮らしにも変化がありそうだ。(以下の写真は工事現場Aです。) 工事現場B 寒々しい写真ばかりが続いて申し訳ないが、こちらは自宅から1kmほど離れた別の現場。ここでも現場Aと同様に新しい道路を作っている。写真を撮っている時に、仙台明走会のG会長以下4名のランナーが走り抜けて行った。6月の「いわて銀河」に向けての30km走の途中とか。100kmの部に初出場する会員のため一緒に練習している由。以下の写真は工事現場Bのもの。 ここも現場A同様、地下鉄東西線の終点となる「八木山動物公園駅」に繋がる新しい道路。谷が深いため、新たに橋を架けている。G会長の話によれば、仙台市の都市計画道路として発表されてから30年以上経つらしい。予算不足でなかなか進展しなかったのが、地下鉄工事の進捗と相まって一気に実現化したのだろう。 わずか1kmもない新しい道路が完成すれば、この周辺の風景や交通事情が相当変化するのは間違いない。我が家には何の恩恵もないが、老後の楽しみにはなるかも知れない。 普段はなかなか近寄れない工事現場だが、年末年始で休止中だったため、少しだけ近づけた。こうして見るとなかなかの迫力で、日本の土木技術の水準がいかに高いかが実感出来る。工事完了まで後1年3カ月だと思うが、今後の進み具合を楽しみにしたい。
2014.01.10
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最近新聞がつまらない。私が見たり読んだりするのは漫画、連載小説、文化面くらい。社会面や政治面は大きな活字を拾い読みするくらいで、後は地元のニュースも含めネットで見ている。今や大新聞も大衆受けを狙う記事ばかりが目立ち、週刊誌とあまり変わらないように思うのだ。 年末年始のテレビも特別番組が多かった。社員を休ますためには仕方がないことなのだろうが、若い頃は面白がって観ていた番組も詰まらなく感じるのは、歳のせいだけではないだろう。 元旦の「ニューイヤー駅伝」はちらっと観ただけで、デジカメを持って近所の神社へ初詣に行った。長時間テレビの前で拘束されるより、体を動かした方が自分のためだ。「箱根駅伝」の往路もちらっと観ただけで、少し遠い神社へ妻子を連れて初詣に行った。私が観たのはスタート直後と、2区の山梨学院大学の外国選手が疲労骨折でリタイヤした場面だけ。 3日の復路で観たのは7区以降。残念ながら箱根の山登りも下りも観ていない。既に勝負は決まった感じで、東洋大学の圧勝だった。「出雲」や「伊勢」で優勝した駒澤大学が勝てなかったのは、4年生の差なのだとか。20kmをコンスタントに走れる選手を10人以上揃えることがいかに困難か、今年も思い知らされたような気がする。 面白いと感じたのは2日夜の「北極圏サバイバル」。これは日本人の登山家と、ロシアの少数民族であるチュクチ族の青年が、食糧、燃料を持たずに極寒のシベリアを旅する話。70kmの道なき道を、魚を釣り、トナカイを仕留め、薪を集めながら幻のイワナが棲む湖まで歩いて行く。まさにサバイバルそのものの旅で、シベリアの大地の厳しさを痛感させられた。 3日夜の「黄金伝説は本当だった」も面白いと感じた。私が観たのは切れ切れだが、カリブ海で沈没したスペインの軍艦から金の装飾品を見つける話や、ブルガリアのトラキア文明の遺跡から、馬車そのものや馬具の装飾品を発掘する話が面白かった。 4日夜の「大航海ご飯」は、人類が過去の大航海で何を食べて来たかを探るもの。大英帝国では、固いビスケットとビールが主食だったし、伊達政宗がヨーロッパに使節を派遣した際の航海では、糒(ほしいい:炊いたご飯を干したもの)をお湯で戻して食べていた。 モルジブ諸島からスリランカへの航海では、釣ったカツオが主食だった。これにココナツ、パンが加わるが、カツオはサラダやカレーの具となり、日本の「鉛節」に似た加工法もあった。新大陸を発見したコロンブスの船では、ビスケットの他にワイン、干し肉、ジャガイモ、玉ネギ、ニンニクなど。またポルトガル船では、ビスケットの他に鳥肉料理を食べていたようだ。 大河ドラマは「軍師官兵衛」が始まった。福岡藩の藩祖となる黒田官兵衛(如水)の話だ。戦国時代の姫路城で若くして家老となり、機知と軍略で次々に出世して行く男を岡田准一が演じる。これまで大河ドラマでは取り上げられなかった人物だけに、初回から結構面白いと感じた。ただ、女優藤村志保のナレーションが良くない。声が暗くて実に聞きとり難く、私はミスキャストだと感じた。 朝ドラの「ごちそうさん」は、主人公の「め以子」に3人の子供が生まれた。長女の「ふ久」が変わった子供で、小学校で色んな問題を起こす。これから3月末まで、どんな展開が待っているのか楽しみだ。大阪の食文化に触れるのもそうだが、当時の人々が関東大震災の痛手からどう立ち上がり、新しい技術を得て行くのかを注目したい。 やしきたかじん氏が3日に亡くなった。私が彼の名を初めて知ったのはテレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」。政治や社会問題に関して、出演者の歯に衣着せぬ意見が飛び交い、実に痛快な番組で今も観続けている。彼の軽妙な司会ぶりに感心していたのだが、歌手でもあったことを知ったのは、彼の死を聞いた昨日のことだ。亨年64歳。心から冥福を祈りたい。合掌 写真は12月31日に近所の公園で撮影した冬桜。冬桜はマメザクラとコヒガンザクラが自然に混じり合った品種らしい。私がいつも走っている公園では11月の初め頃からずっと咲き続け、訪れる人の目を楽しませている。
2014.01.09
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≪ 今年の予定表 ≫ モクレンの花芽 私の今年の走る予定は、とても皆様にお見せ出来る代物ではない。それほど「しょぼい」内容だが、恥を忍んで発表する。2014年はレースよりもマラニックが主体だ。(「マラニック」とは、ピクニック気分でマラソンを楽しむと言う意味の造語です) 1月から3月までは、ひたすら練習のみ。これでモチベーションが落ちないよう、自分で注意 したい。4月 「秋保夢舞いマラニック」30km 仙台市内 仙台明走会主催5月 「仙台国際ハーフ」ハーフ 仙台市内 「仙台鉄人会5時間走、10時間走大会」 仙台市内 仙台鉄人会主催 出場種目は未定 冬桜6月 「いわて銀河」50kmの部 岩手県1泊 (エントリー済み) 「みちのくラン」30km程度 宮城県内:日帰り7月 「明走会チャリティーラン」 自由ラン 仙台市内 仙台明走会主催8月 「薬莱山とお足マラニック」 55km 宮城UMC主催 宮城県内:日帰り☆9月 「猪苗代湖マラソン」 50kmの部 福島県1泊☆10月「浜名湖一周ウルトラマラソン」 100km 静岡県2泊(☆はどちらか一つを選択) 12月 「NAHAマラソン」 フル 沖縄県 2泊 (古稀の記念で出場予定) 以上のレース出場に要する経費は全て私の貯金からの支出で、家計には一切迷惑をかけない。「宿泊するレースは年2回まで」との妻の要望のため、☆のレースはいずれかを選ぼうと思う。また「古稀記念特別枠」として認められた1回分は、久しぶりの「NAHA」にしたい。これには妻も連れて行こうと考えている。 以下は「峠越えラン」の予定。走るのは単独。1) 自宅(仙台) ~ 大沢峠 ~ 福島県相馬市 65km 日帰り2) 宮城県気仙沼市 ~ 岩手県一関市 50km 前日気仙沼市に1泊 ☆3) 宮城県大崎市 ~鍋越峠 ~ 山形県大石田町 62.5km 日帰り ☆は<被災地訪問枠>として妻に認められた分。 以下は被災地訪問マラニックの予定。走るのは単独。1) 自宅 ~ 名取市海岸部 ~ 仙台市内 28km 往路は妻も一緒の予定2) 浜吉田駅 ~ 名取駅 27km 宮城県内3) 矢本駅 ~ 野蒜海岸 ~ 松島海岸駅 20km 宮城県内 (妻と一緒に石巻市まで電車で行き、帰路は矢本駅で妻と別れて走る予定) 以上の計画はあくまで現在時点での予定。昨年は自分の体調が思うようにコントロール出来ない年齢になったことを実感した。「峠越えラン」、「被災地訪問ラン」は体調不良で一度も実施出来なかったし、「薬莱山とお足」はマウンテンバイクでの往復だった。今年の体調もさほど変わらないはず。 走歴は元旦で35年目を迎えたが、ますますランニングの奥深さを感じている。3月で70歳を迎える私に、今年の計画が全てこなせるかどうかは不明。ウルトラマラソンが、そんなに甘いものではないことも承知の上だ。だが敢えて厳しい道に挑戦するのも一興。今年1年の頑張りを自分自身に期待している。
2014.01.08
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今年のテーマは『走りにかける』。「かける」は懸けるでも、賭けるでも、駆けるでも良い。年末年始の走れない時も暴飲暴食を慎んでいたせいか、体重や体脂肪率はさほど変わらずに済んだ。だが、同じ体重でも腹筋力が衰えると腹が出てたちまち醜い姿に変わるため、トレーニングは欠かせない。 今年の走り初めは3日。近くの公園の芝生を10km走った。本当は元旦から走る積りだったのだが、頭痛のため断念。4日はロードに出た。走友会の練習コースで、隣の市の山の上から名取川の堤防に出る。今の時期はとても北風が冷たいコースで、風が吹けば体感温度はたちまち零下になる。 このところずっと公園の芝生を走っていた。足の保護のためで、距離は10kmから14km止まり。それを続けるとその距離しか走れなくなるのが老ランナーの悲しさ。そこでたまには距離を延ばす必要がある。だが、舗装道路で足を傷めないかと不安が過る。それに途中で走れなくなれば、低体温症になるのは必至だ。 今年厳寒期のレースを避けた理由の第一はそれだ。1月末の「勝田マラソン」では、35km付近で倒れているランナーを良く見かけた。走力や健康に自信があれば別だが、昨年の経験で冬は無理しないことにした。幸い21kmは走れた。翌日の5日は公園の芝生ランを10km。そして昨日は休足日にした。 走友会の有志が塩竃神社まで往復50kmを走るのが元旦の恒例行事だが、これは初めから無理だと思っていた。新年会の案内が来たが、行きは送迎バスに乗らず、会場まで走って行こうと思う。家から8km程度だし、リュックを背負って走る練習にもなる。 走友会の忘年会で、トレーニングウエアを作る話が出たようだ。早速注文が来たが、迷った挙句頼むことにした。これから何年も走れる訳ではなく、レース出場機会もどんどん少なくなるだろうが、同じ会のメンバーとして気持ちが繋がれば嬉しい。たとえヨレヨレでも、ランナーであることを誇りにこれからも生きて行きたいのだ。 今年の参加レースがなかなか決められないでいた。3月までレースに出ないことは前述の通りだが、4月以降でエントリーしたのは1レースだけ。理由は昨年の秋ごろ、妻に「宿泊するレースは2回だけにして」と要請されたためだ。自分でも今年はレースを減らしてマラニックを楽しむ積りでいたが、それにしても遠征が年2回とは厳しい。 そこで意を決して妻に2回の遠征の他に、今年は古稀記念の1回と、被災地ランのための1回を許可して欲しいと申し入れた。妻も納得したようだ。妻の要望はお金のかかる遠征を減らし、その分で私と一緒に旅行に行きたいと言うのが理由。被災地も自分の目で確かめたいと彼女。そう言うことであれば、今年は色々考える必要がありそうだ。 ともあれ妻との交渉は無事成立した。そこで唯一エントリーしていた「いわて銀河」の宿を昨日予約した。今年は初の50kmの部。新しい風景を見られるのが楽しみだ。町内会の仕事、妻との旅行、そして自分の体調などを勘案して立案した今年のスケジュールは、明日紹介したい。<続く> 写真は昨年12月28日に撮影した近所の山です。
2014.01.07
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太白山 次男が東京へ帰った夜は9時間眠り、昨夜は7時間眠った。普段の睡眠時間は6時間程度なので、相当疲れていたのだろう。昨日の朝食は、残り物のお節料理で妻がちらし寿司を作った。これはこれで美味しい。私は食べ物に関して文句を言わない方だ。さて、今日の写真は昨年の暮れに撮った近所の雪山の風景。文章とは合わないけれど、どうぞお許しを♪ 「足が衰えて走れなくなり、満足なマラソン暦が出来なくなったため、年賀状は今年で廃止したい」とあったのは東京の雲峰師匠。私の3学年上だと思うが、その気持ちはとても良く理解出来る。思うように走れないことや、年賀状を書くのが辛く感じるのは私も同様だからだ。 走れねど止めてはならじと家を出づ未明の走歩日課7キロ 走れぬもわれの参加のみちのくラン乾杯音頭を取るが役目に 走る歌人雲峰さんの気持ちが伝わる短歌だ。その「みちのくラン」は今年で10回目だが、どうやら今回が最後になるようだ。淋しいがこれもまた定め。この世に終わらぬものなど無いのだから。 「お元気ですか。私の方は変形性股関節症で走れなくなりました」とあるのは、岡山の走友Sさん。彼女と初めて会ったのは、第1回四万十川100kmマラソンのコース上。お互いに初ウルトラ挑戦だった。その後彼女は乳がんで両方の乳房を失い、年老いた両親の介護に明け暮れていたと聞く。まだ若い彼女がこんな風になるとは、18年前には考えてもいなかったのだが。 「足の方は少しずつ良くなり、昨年は白馬岳などへの登山を楽しんでいます」。これは水戸の走友Kさんから。水戸はわずか1年で辞職した最後の地。悲痛な想いの私を慰めてくれたのが同じ練習コースで走っていた彼女だった。その彼女は長く足底筋膜炎で苦しみ、ランニングから遠ざかっていたのだ。山登りが出来るまで回復して良かったね、Kさん。 神戸の走友Nさんの年賀状には、細かい字で近況が綴られていた。昨年は大分から熊本まで1人で横断し、四国と淡路島も走ったとある。かつてはギリシャの「スパルタスロン」や「さくら道」を何度も踏破した若い彼だが、今はレースから遠ざかり1人でマラニックを楽しんでいるようだ。彼の気持ちが私には良く理解出来る。私も今後は単独マラニックが中心になるだろう。 「富士登山中の私の姿をテレビで観た」とあるのは沖縄の走友Tさん。笑顔のアップが写ったらしいが、勿論私ではない。今は年老いて走れなくなった彼の柔和な笑顔を思い出す。私が沖縄を去ってから既に24年。今年は古稀記念にNAHAマラソンを走りたい。もし抽選に当たればだが、その時は妻も連れて行こうと考えている。 香川のYさんは徳島勤務時代の上司だが、年賀状には久しぶりに100kmを完走出来たことや、自分が生まれた韓国で走ったことが記されていた。大阪勤務時代の走友Oさんは、「まだ走っていますが、タイムはなかなか上がりません」とある。彼と毎日のように走った万博公園を、昨年の神戸マラソンの前日16年ぶりに訪れ、懐かしく思い起こした私だった。 奈良の走友Iさんの年賀状には、昨年出たレースの記録が奥様の記録と一緒に載っている。どちらもまだ現役バリバリで、写真の姿も若々しい。千葉の走友Tさんからは「100kmの時間内完走が難しくなりました」とある。彼の心境が私にはとても良く理解出来る。それは数年前に私が辿った道だ。 埼玉のSさんは4千km以上の「トランスヨーロッパ」を3回走破した唯一の日本人ランナーだが、彼の年賀状はこの1年参加したレースや行事の写真。距離もかなり短くなって、ようやく普通のランナーに戻った感じだが、同級生ランナーはまだまだ健在だ。 宮城UMCの先輩A山さんの年賀状には、昨年フルマラソン10回完走し、今年は20回完走が目標とある。心臓の手術で数年間ブランクがあり、古稀を数年過ぎた彼がここまで復活するには並大抵の苦労ではなかったはず。その強靭な精神力に、心から拍手を送りたい。 宮城UMC仲間のT田氏の年賀状には、昨年愛嬢が結婚された時の写真。例によって1年間のレース状況が細かく記録されているが、娘の幸福を祈る父親としての彼の姿に心惹かれる。年末に走ったレースに、結婚したばかりの娘さんが応援に駆け付けたとUMCの掲示板にあった。何とも心温まるエピソードだ。 さて、今年は全国の走友達にどんなドラマが待っているのだろう。年頭に際して、ランニング仲間の健康と健闘を祈りたい。皆元気で今年も走ろうね~!!
2014.01.06
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縁起物 3日。畑の大根を12本抜き、そのうち9本を穴を掘って埋める。これ以上植えたままにしておくと、凍って使えなくなるためだ。4日。朝食後、次男は東京へ帰って行った。幸い仙台始発の新幹線は、さほど混んでなかったようだ。彼が帰宅した6日間、食事、入浴など彼のペースに合わせたため生活のリズムが狂っていたが、これでまた夫婦2人だけになり体調も戻った。 雪吊りを施した松 さて、今年の年賀状を幾つか紹介しよう。香川の娘のは2人の孫がお揃いの服を着た写真で、「お元気ですか?今年は6年生です」。と下の孫が書き添えていた。3月には長女家族、長男、次男、私達夫婦が全員箱根に集合する予定でいる。 徳島のH木さんは次男がお世話になった少年野球の監督だが、年賀状には「楽天の藤田選手は里浦スターズ出身」とあった。これにはビックリ。藤田が鳴門一高の卒業であることは知っていたが、小学校と少年野球が次男の5年後輩だったとは。年間130試合をこなした次男の少年時代を、懐かしく思い出した。西日本大会で準優勝した当時のユニフォームは、私がまだ大事にしまってある。 門柱の獅子 「勤務も3月末までの3か月」と書いたのは、鳴門時代の後輩。他部局の彼とは忙しい中で良く麻雀をした。「背筋痛で体調不良になり、今はウォーキングに励んでいる」とあったS田氏も同じ仲間。当時の先輩H氏からは「公務員ランナーの川内選手と張り合わず、歳相応の走りを」との書き込み。お元気そうで何よりだ。 「昨年は大病を患った」とは最初の職場の先輩で、合唱団仲間だったS氏。鳴門時代の部下O君からは、「昨年はリハビリの1年。今年は完全復帰したい」とあった。各自健康に悩む歳になったのだ。2度目の定年に達し講師を辞めると書いて来たのが、筑波時代の同僚S上さんと、沖縄時代の部下T平さん。長い間お疲れ様でしたね。 熊手型の正月飾り 「近くに素晴らしい図書館があり、そこで過ごすのが楽しい日課」とあったのは、東京と筑波勤務時代の上司。80歳半ばで字もたどたどしいが、お元気そうで何よりだ。「気長に奥の細道を行脚中」とあるのは筑波時代の先輩で、こちらはまだしっかりした字。健勝を喜びたい。 「渡米して1年間語学とテニス修行をした」と、松山勤務時代の部下。その成果で、全日本ベテランテニス選手権では優勝した由。「トルコとエジプトに夫婦で旅した」とあったのは筑波時代の後輩。同じく夫婦で「デンマークとイギリスを旅し、美術館を巡った」とあるのは名古屋に住む研修仲間K君。子供のいない彼は、毎年ヨーロッパに出かけている。 破魔矢 「老人施設でギターやウクレレ演奏の慰問をしてる」とは、大学時代の先輩S氏。一方ハーモニカの演奏会や無線通信に励んでいるのは香川のY氏。彼は鳴門時代の上司で走友。合唱団で「第九」を歌っているのが大学時代の後輩T君。43年ぶりに写真で見る彼は、さすがに老人の顔だ。大阪勤務時代の同僚、広島のI氏も第九を歌っている由。写真は70cm以上の魚を両手に持った姿だ。 福袋 安倍政権の独走を怒り、「平和で安心して暮らせる国作りをして欲しいもの」とあるのは沖縄の走友。スピードランナーだった彼も、今ではウォーキングのみの由。山の写真が見事なのは筑波時代のバトミントン仲間。今年は雪に輝く奥穂高だ。講習仲間のUさんのは槍ヶ岳の写真で、「百名山の残り5座は、今年中に踏破したい」とあった。<続く>
2014.01.05
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正月2日。仙台は雪の朝。幸い頭痛は少し治まっていた。さっそく竹箒で玄関先と外階段の雪を払う。お節料理を戴いた後、妻と次男を連れて初詣に向かう。最寄駅まではバス。駅から5つ目の岩沼駅で降り、神社まで15分ほど歩く。猛烈な北風が冷たい。「参拝客が少ないね」と次男。「車で来てる人が多いんじゃないの」と私。やはり神社の近くまで来ると、大変な人混みだ。 真っ赤な鳥居が目につく。参道にはたくさんの屋台が出て、とても賑やかだ。初詣客が多い県内の神社は何と言っても奥州一宮の塩竃神社だが、多分2番目がこの竹駒神社のはず。正月も2日目なので、これでもかなり減ったと思う。 神門が見えて来る。「これは神社じゃなくお寺の造りだね」と次男。「付属寺院があったとは聞いてないけどね」と私。だが帰宅後ネットで調べたら、少し離れた場所に竹駒寺と言うのがあった。明治の廃仏毀釈で別れたのだ。ここは次男の観察が正しかったようだ。 神門の正面には神像が、そして背面には神馬が祀られていた。どちらもなかなかの風格だ。 親子で並ぶのは久しぶりだね♪ こちらは神門の背面で、帰りに撮ったもの。 こちらが竹駒神社の本殿。神社が鎮座する岩沼市は古代の官道が合流する交通の要衝だ。一方は東山道で後の中山道の延長。その後は奥州街道となり芭蕉も「奥の細道」で辿った道だ。武蔵国(東京、埼玉)から下野国(栃木)を経由して岩沼に至る。現在なら国道4号線、東北道、東北本線に当たる。 一方は海沿いの東海道。こちらは下総国(千葉)常陸国(茨城)を経由して岩沼に至る。後の奥州浜街道で、現在は国道6号線、常磐道、常磐線が通っている。2つの道はここで合流し、陸奥国府多賀城へと向かったのだ。 竹駒神社の祭神は倉稲魂神(うかのみたま)で、衣食住を保護する神。神社の別名は竹駒稲荷。昔から稲と深い関わりがあったのだろう。近くには阿武隈川が流れている。それが武隈(たけくま)となり、竹駒(たけこま)に変化したようだ。県南には日本武尊の遠征伝説が残され、彼を祀る神社が多い。 かつて稲を携えた弥生人がここを通って北上した。やがて稲作で力を得た豪族が巨大な古墳を築く。これに対し、より強固な国家体制を作るため大和朝廷は各地の豪族を従えて行く。日本武尊の伝説はその象徴で、蝦夷が征伐された東北は穀倉地帯へと変わって行く。 つまりこの竹駒神社は、古代の食糧増産と開拓の前進基地と考えれば良く分かる。人々は稲を植える土地を求めて、遥々東北までやって来た。自分達が昔から信じる神と一緒に。 宝珠にはどんな祈りが込められているのだろう。 たくさんの御神籤が結ばれているが、今年の運勢はどうかな? こちらは色んな願いが書かれた絵馬。それぞれの願いが叶うと良いね♪ 境内にはたくさんの末社や摂社があるが、これもその一つ。出雲の神様がその昔、信仰する人と一緒に遥々東北までやって来た証だね。 小さな社にも立派な賽銭箱が備えられている。 本殿の真下には、奥宮の入口がある。何だかとても不思議な雰囲気だ。 本殿真下に鎮座する祠。 こちらはお神輿で、4基あったうちの2基。1基毎に「家内安全」とか、「商売繁盛」とかのご利益が掲げられていた。これは「開運」と「厄難消除」。 奥宮を守るキツネは稲荷神の使いで、農業と深い関係があると考えられている。 最後が巨大な絵馬。今年の干支は午(馬)で、見事な神馬が竹駒の神に捧げられていた。この後電車で仙台に戻り、昼食に寿司を食べる。正月なので「廻らない寿司」。「結構美味しかった。ご馳走様」と妻と次男。んんん~?支払いは俺?。まあ良いか。親父が役に立つのはこんな時くらいなもの。妻が買った福袋を手に、1人だけ先に帰宅した私だった。(泣)
2014.01.04
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元旦の朝食後、近所の八幡神社へ向かった。初詣を兼ねて、ブログ用の写真を撮るためだ。境内には誰1人おらず閑散とした雰囲気。ここは神職が居らず、お祭も地元の町内会が運営している。社務所で縁起物を売っているのも、どうやら地元の方のようだ。何枚か写真を撮って一旦帰宅する。 ベランダに布団を干していたのが気にかかっていたのだ。雪雲が通過する毎に、細かい雨や雪が落ちていた。妻にそのことを知らせるためだった。改めて別の神社に向かう。こちらは小さいながら延喜式に載った古い神社で、神職もいる。神社に近づくと、大勢の人が参拝のために並んでいた。その列には加わらず、別の道から境内に入る。 小さな石橋と、その上の鳥居。ここはもう別世界だ。 境内には清々しい空気が漂っている。参拝の順番を静かに待つ善男善女の列。 石段の上にも参拝客の列が続く。 参拝を終えた夫婦が、小さな祠の前で手を合わせていた。 境内のご神木も神々しい雰囲気。 参拝の前に先ず手を清め、口を漱ぐ。 多賀神社は近江国(滋賀県)の多賀大社が起源で、同名の神社が全国各地にある。この仙台の神社は、きっと奥州の蝦夷征伐と共に西方から伝わったのだろう。縁起に因れば、平安後期「前九年の役」の際、源義家が参拝に立ち寄り、戦勝を祈願したと言う。ご祭神はイザナギ、イザナミ、アメノコヤネの3柱。 新しい年の福を願う氏子のため、各種のお守りが用意されている。 こちらは破魔矢。邪悪なものから身を護ってくれる。 こちらは竹製の「たが」。多賀神社の「たが」と懸けた縁起物だろうか。 この日は、一日中頭痛がしていた。年末の疲労が重なったのだろう。次男の帰省でさらに忙しくなり、元旦に走ることは出来なかった。長い人生にはこんなこともある。これから歳を取れば、体調のコントロールはさらに難しくなるのだろう。風呂にも入らず、早寝した私だった。
2014.01.03
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元旦も未明に目覚め、ブログを更新した。その後再び布団に潜って二度寝。起きた時は、空が少し明るくなっていた。ベランダから見ると雲はあるが、初日の出が観られそうな気配。布団をたたみ、居間のシャッターを上げ、台所にいた妻と新年の挨拶を交わしてから、カメラを持って外へ出た。ひょっとして近所の坂道からだと、きれいな太陽が見られるかも知れない。 裏の柵を越えて、坂の方に急ぐ。確かに民家の間から真っ赤な太陽が少し顔を出しかけていた。低い雲が邪魔だが、それが消えれば見事な初日の出が撮影出来るはず。新春のブログには恰好の題材。撮らない手はない。寒い中を立って待つ。やがて雲が切れ、2014年の初日の出が仙台の空に上がった。 元旦からこれだけ見事な初日の出が見られたのだから、今年はついてるかも知れない。帰宅すると「ベランダから見たよ」と妻。食卓には次々お節料理が上る。妻の手作りの料理もあれば、蒲鉾や焼き豚など買ったものも。刺身は妻と次男が近所の店で選んだようだ。折角なのでお正月の話題提供で撮ってみた。本当はお見せできるほどのものではないのだが。 起きて来た次男と私は日本酒で、妻はワインで乾杯。今年も健康で平和な暮らしが出来ることを祈りたい。料理はどれも美味しかった。妻と2人ならもっと質素なのだが、次男の帰省で張り切ったのだろう。冷や酒が美味しくて、つい飲み過ぎた私だった。この後で餡子餅とお雑煮をいただく。 寛いでいる妻と次男を食卓に残し、私は早速食べ終わった食器や皿を洗い出した。結構な量だが、意を決したら大したことはない。その後、カメラを持って再び外出。向かったのは近所の神社。初詣を兼ねて、新春の風景を撮ろうと思ったのだ。ところが体調がどうも良くない。頭が痛み、体がふらつく。 たくさん撮った写真を、頭痛に耐えながら整理。さらにブログ友へ新年の挨拶。その後は届いた年賀状を読み、出してなかった方へ年賀状を書き、近所のポストに投函。夜は私1人だけうどんを食べ、風呂にも入らず早めに床に就いた。頭痛の原因は年末の大掃除。きっとあの疲れが残ったのだろう。作業中には寒気も感じていた。俺もやわになったものだ。今朝の仙台は雪。今日は一家で初詣に行く予定。
2014.01.02
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明けましておめでとうございます。2014年の年頭に当たり、今年も皆様方にとって素晴らしい年になりますよう、お祈り申し上げます。 さて我が家の大晦日は、年末に帰省した次男を交え、久しぶりに賑やかでした。息子と酒を酌み交わし、談笑出来るのは嬉しいですね。妻もいつもより遅くまで起きて、次男と話し込んでいたようです。父親は気がかりなことを幾つか聞けば、後は大して話すこともないのですが、母親は次から次へと話したいことがあるのでしょうか。 大晦日の夜、私は夕食後は自室でプロボクシングの世界タイトルマッチを観ていました。WBA世界ライトフライ級チャンピオン井岡一翔の防衛戦ですが、世界同級3位の相手もかなり強く、KO勝ちは出来ませんでした。それでも大晦日に相応しい試合を観戦出来、年越しの除夜の鐘も聞かないまま床に就きました。 今年の夢は平凡ですが、先ず健康であることです。生活の基本は先ず健康な心身。もし体調さえ許せば、この2年間実施出来なかった単独マラニックを、今年は是非実行したいです。リュックを背負って被災地を走って訪ねたいのです。また峠を越えて隣県まで走りたいと思っています。そのためにも67kmほど単独で走れる力が、まだ残っていることを願っています。 もちろん家庭菜園や東北楽天の応援、旅行、美術館・博物館巡りなどもしたいです。それらも体調が万全であることが前提です。当然ブログも頑張りますよ。自分が書きたいと思ったテーマを見つけ、良いと感じた映像を添えて、少しでも内容のあるブログにしたいと願っています。 最後に皆様のご健康とご多幸を、心からお祈り致します。どうか新年が、希望に満ちた年となりますよう。そして今年もどうぞよろしくお願いしますね~!!< 12月のラン&ウォーク > 歩43km 走10回147km 月間合計190km 年間合計2827km うちラン1878km これまでの累計83681km
2014.01.01
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