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この週末は気温が低かった。それに雨模様の天気が続き、何だか走る気がしなかった。風邪気味で鼻の具合も良くなかったせいもある。ランニングに代わって夢中になっていたのが読書。新田次郎著「強力伝・孤島」の後に読み出した、吉村昭著「アメリカ彦蔵」の残りを全て読了した。これは560ページ以上の大著だったが、とても面白くて夢中になって読んだ。 読み始めてから実に2年にもなる熊谷公男著「古代の蝦夷と城柵」を何とか読み終え、次いで雑誌「ランナーズ」の残りの記事と新田次郎著「剱岳・点の記」の後書きだけを読んだ。そして外出のついでに、吉村昭著「大黒屋光太夫」上下巻を購入した。今回読書した内容については改めて記したい。 今朝は起きるなり、バンクーバー冬季オリンピックのバシュート競技を観た。日本の女子が4位までに入っていて、メダルの可能性が高かったからだ。ところ準決勝は既に終わってポーランドに勝ち、ドイツとの決勝戦が残っていただけだった。悪くても銀メダル。ランクは日本の方が上なので、ひょっとしたら初めての金メダルが取れるかも。 昨日今月のレポートをようやく提出し、疲れて眠っている妻は起こさず1人でテレビに見入った。終盤まで日本がリード。残り3周辺りからドイツがスピードが上げ、残念ながら最後の最後に僅かの差で日本は2位に。100分の3秒差が、公式発表では100分の2秒差になったが、判定が覆った訳ではない。距離に直せば僅か10数センチの差だった由。 テレビの画面に、チリの地震に伴う大津波警報が入っていたが、やがて放送はそのニュースが中心になり出した。私が高校1年生だった頃にもチリの地震に伴う大津波があり、三陸沿岸では大きな被害が出た。海岸に防潮壁が出来たのはあれ以降のことだ。 朝食を済ませてから観たのは「東京マラソン」。私が4年連続で落選した憎い大会だが、仲間が何人か出場している。宮城UMC古川支部などの5人は、大崎市の法被を着て走ることが新聞に出ていた。そのうちの1人、T田さんからもそのことについてメールがあった。同じ走友会のS田さんも走られ、奥様のM子さんは応援に行かれたとか。 この日、関東は雨だったようだ。私がテレビを点けた時は、既にトップグループは10数キロまで走っていた。30km過ぎで渋谷選手が仕掛けたが結局は吸収され、40km過ぎにホンダの藤原正和選手が飛び出した。雨の中、必死に後を選手達。藤原選手はそのまま逃げ切ってゴール。この大会で日本人選手が優勝したのは初めてだった由。 2位がJR東日本の藤原新選手、3位が中国電力の佐藤敦之選手と、5位までを日本選手が独占する快挙だった。一方の女子は3位までを外国選手が独占し、AC・KITAの河野真己選手が何とか4位に入ったようだ。 氷雨をついて走った仲間達はどうだったのだろう。また、秋田のJunさんやhoneyさんらネットの友人達は、果たしてどんなレースをしたのだろうか。同じこの日、埼玉県の10kmレースでは、しぃさんが走っている。雨中のランを心配していた彼女は、無事ゴール出来たのだろうか。 そんな心配をしながらも、私は妻と自転車で出かけた。今日は仙台出身の作家、伊坂幸太郎の小説を映画化した「ゴールデン・スランバー」を観に行く約束をしていたのだ。私は昨年の何時ごろだったか、この映画のロケの現場を偶然通りかかったことがある。あの時は何が何だか分からなかったが、今日の映画ですっかり謎が解けた。あれは最も重要な場面だったのだ。どおりで警察が大勢出ていたわけだ。 帰宅してからもまだ大津波関係の放送が続いていた。この日、沖縄の宜野湾市で行われる予定だったプロ野球のオープン戦楽天対横浜は、津波による万が一の被害を考慮して中止になったようだ。そして、米国の女子プロゴルフツアーでは、何と宮里藍ちゃんが2週連続での優勝を果たしたとのニュースも。これは44年ぶりの快挙だったとか。実に忙しい日だった。そして津波警報はまだ解除されていない。<2月のラン&ウォーク>ラン回数:15回(うちレース1回) 走行距離:143km ウォーク回数:毎日 歩行距離:130km 月間合計273km 年間走行距離:419km 年間距離合計:667km これまでの累計:70、701km
2010.02.28
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バンクーバーオリンピックの花形種目、女子フィギアスケートが終わった。結果は韓国のキム・ヨナ選手がSPに引き続きフリーでも圧倒的な差でトップを維持し、世界最高得点で金メダルに輝いた。19歳とは思えない落ち着きと完成度は観客を魅了したし、観客は何の心配もなく演技を観ることが出来た。 一方、キム・ヨナ選手の次に演技する浅田真央選手は、高得点に沸く場内の喧騒から身を守るように、音楽を聴いてひたすら集中心を保とうとしていた。SPで5点近く差を広げられた上、フリーでも予想外の高得点を取ったキム・ヨナ選手を破って首位に躍り出るためには、2回のトリプルアクセルを完璧に決めた上、ノーミスで演技を終えることが最低の条件。 選んだ曲と振り付けのためでもあろうが、真央ちゃんの表情は何時になく硬かった。前半は見事に2回のトリプルアクセルを決め好調だったが、そのことで気を緩めたのかそれとも疲労のせいか、中盤にジャンプでミスをするとリズムが狂い出した。それでも必死に建て直して演技を終了。総得点はキム・ヨナ選手同様200点を超えたものの、大きな差が出た。 試合後、真央ちゃんは涙を流していた。そしてインタビューを受けても、その涙は止まらなかった。「絶対に金メダルが欲しい」。試合前にそう語っていた彼女の願いは、叶うことはなかった。SPを含めてトリプルアクセルを3度も成功させたのは、オリンピックで初めての快挙だった。そして、初めてのオリンピックで銀メダルを取ったのも日本人初だった。 それでも彼女は悔しがっていた。ライバルのキム・ヨナ選手が金メダルを取ったからではない。自分が完全な演技が出来なかったことを悔いていたのだと思う。5年前からカナダで練習を重ねて来たキム・ヨナ選手は、明らかに観客を味方につけていた。それに引き換え真央ちゃんの方はコーチも変わり、曲の選定に伴う振り付けの変更になかなか馴染めなかったようだ。 同じ年の同じ月に生まれた2人。目指すものが世界一だけに強いライバル心もあるのだろうし、それぞれの国民の応援も凄いものがある。そんな重圧に耐えての高得点は賞賛されてしかるべきだ。2人はまだ19歳。きっとこれからも良きライバルとして競い合うだろうし、次回のソチオリンピックを目指すと思う。 試合後、イチロー選手がこんなことを語っていたそうだ。「銀メダルで嬉しがって泣いたんじゃなく、悔しがって泣いた真央ちゃんは凄い。そして金メダルを期待されながら、当然のように金メダルを取るキム・ヨナ選手は凄い」。さすがは一流選手。目のつけどころが凡人とは違うようだ。 結局日本のフィギアスケート選手は、男女全員が入賞を果たした。多分、このような国は他にないはずだ。8位になった鈴木明子選手が、大学1年生の時から3年生まで、拒食症で苦しんでいたことを今回初めて知った。長い苦しみから良く立ち直ったと思う。また女子の3選手はいずれも愛知出身とのこと。名古屋にはフィギアスケートが育つ環境が整っているのだろう。 私達に多くの感動を与えてくれたバンクーバーオリンピックも間もなく終了する。ここで戦った選手の皆さんには、心からの拍手を送りたい。もちろん勝つことは大事だが、自分の夢と目標に向かってまい進することの方がもっと大事なように思う。長い間の健闘お疲れ様!!そして、これからも夢に向かって頑張ってくださいね~。
2010.02.27
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10日ほど前の新聞にツタンカーメンの死因に関する新説が載った。ツタンカーメンは紀元前1342年頃から1324年頃に生存した古代エジプト新王国第18王朝の若きファラオで、これまでは頭部の傷跡などから撲殺や毒殺などで暗殺されたと考えられて来た。在位僅か9年、18歳の若さで亡くなった王の死因は何だったのだろう。 エジプト考古最高評議会などによる今回のX線写真撮影やDNA解析によって、左足甲部の骨にマラリア感染の跡があること、足の骨の形に内反足の異常があること、腐骨があること、左大腿骨が縦に割れていたことなどが確認された由。この結果、彼は杖無しでの歩行は困難だったことが分かった。また当時の王朝が近親結婚だったこともあり、先天的な疾患を多数保有していた可能性も高いようだ。 歩行が不自由だった若い王は、きっと転倒して死に至るような大怪我をしたのだと思う。だが、それが背後から突き飛ばされた結果かどうかは不明。先王の宗教改革を元に戻したツタンカーメンだが、神官の恨みを買ったのだろうか。墓室に矢車草を手向けた妻アンケセナーメンとは相思相愛の仲だったが、王の死後彼女は神官と結婚して王朝を継ぐ。 3回に亘って考古学上のニュースを紹介したが、若干の補足をしておきたい。先ず北方適応と体毛の関係。寒冷地に長く居住すると凍傷を防ぐために体毛が薄くなる傾向があると書いたが、若干疑問が残る。例えばアイヌは体毛が濃いことで知られるが、そうすると彼らは寒冷地へ進出してからの期間が短いのだろうか。 10年ほど前、琉球王朝の王族のDNAがインドネシアの住民のものと極めて近いと言う報道があったが、東南アジア、東アジア人の先祖は南から北へ向かったと言う今回の調査結果と合致する。もちろん日本列島北部へは北方の影響がより強いだろうし、西南諸島は南部からの影響がより強いのが当然。そして近畿周辺は朝鮮半島からの影響が特に強い地域だ。つまり日本人の祖先は、いろんな地域からこの列島にやって来て、混血を深めたことが分かる。 南アメリカ大陸に住む3500年前のインディオのミイラから発見された寄生虫の話には驚いたが、日本でも平城京(奈良)や平安京(京都)の遺跡から糞石が発見されている。そしてその中から寄生虫の卵が見つかり、種類も特定されている由。こうなると、ウ○チも立派な遺物と言える。 また、今回のテーマに関して、とても面白くかつ役立ったのが下記のHPである。この場を借りて深く感謝し、参考までに掲載しておきたい。<沖縄県与那国島海底遺跡関係>http://www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/index.html <古代エジプトの遺跡関係>http://www.fiberbit.net/user/pharaoh/egypt_index.htm
2010.02.26
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少し前の新聞に東アジアや東南アジアに住む人がどこから来たかの調査結果が載った。日本や中国など10カ国からなる国際研究チームが、アジアの73民族・集団を6万箇所、約2千人について遺伝情報を調査・解析し、特徴を比較した結果、遺伝的な多様性は南に住む民族の方が大きく、北へ行くほど小さくなることが分かったようだ。 遺伝的多様性は共通祖先の拡散と共に小さくなるため、今回の調査結果はアジア人が南から北へ広がったことを示すとのこと。また言語が似ている民族は遺伝的な特徴も似通っており、日本人と最も近いのは韓国人であることが確認された由。分かってはいたけど、やっぱりなあと言うのが私の感想。研究成果は「ネーチャー」に発表された。 現在のインドから東南アジアや東アジアの諸民族の共通の祖先がタイ、マレーシア、インドネシアに入ったのは今から数万年前のこと。長い旅を続けて色んな場所に落ち着いたのだろう。そして、凍結したベーリング海峡を通って、モンゴロイドが北米大陸や南米大陸へ移動したと言うのがこれまでの定説だった。 最近、デンマークなどの国際研究チームがグリーンランド西部の永久凍土で見つかった約4千年前の男性の頭髪を分析し、遺伝情報の79%解読に成功。これをアジア、アメリカなど35地域の住民の遺伝子と比較した結果、ベーリング海峡を挟んだロシア極東地域に住むアジア系住民のものと最も似ていることが判明。彼らの祖先がグリーンランドへ移住したのは5500年前とのこと。これも同じく「ネーチャー」に発表された由。なるほど、ここまでは良かった。 ところがギッチョン。何と約3500年前の南米インディオのミイラから「ズビニ鉤虫」が見つかった由。この寄生虫は温・熱帯アジアが原産のもので、寄生主の人間が摂氏5度以下の土地で2年以上暮らすと、死滅する性質を有する由。となれば、厳寒期のベーリング海峡を渡って南米大陸に達することはとても不可能。つまり、温暖な太平洋を航海して南米大陸へ渡ったモンゴロイドがいなければそんなことは起きないのだ。 たとえアウトリガー(艇を安定させるため左右に付けられた補助装置)を持ったカヌーで渡ったとしてもその大きさはたかが知れており、積める水や食料の量は限られるだろう。それにインディオの祖先になるには、ある程度の数の男女が渡航する必要があると思うのだが、一体彼らはどんな方法で、そして何のために危険を冒してまで大海原を漕ぎ渡って行ったのだろう。もちろん南太平洋の島々には、古くから竹と貝を組み合わせて作った「海図」がある。竹は海流の方向と距離を、そして貝は点在する島を表すのだが。<続く>
2010.02.25
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少し前のこと、沖縄の石垣島にある洞窟から古い人骨が発見されたとのニュースが飛び込んだ。何でもこれまでに発見された中で最も古いもので、2万年以上昔のものらしい。また1万6千年ほど前の人骨も一緒に出た由。洞窟の名前や石垣島のどこにあるのは報道されなかったし、それ以上のことは何も分かっていない。 沖縄本島那覇市の山下町第一洞穴から出た古い人骨は女児のもので、今から3万2千年前のものらしい。場所はNAHAマラソンのスタート、ゴール地点である奥武山運動公園の直ぐ傍。こんな場所に?と訝るほど小さな洞穴だ。宮古島ピンザアブ洞穴から出た人骨は2万6千年前のものとのこと。この洞穴は旧上野村の少し内陸部にあるようだ。 この他にも沖縄からは古い人骨が出ている。沖縄本島南部にある八重瀬町の港川人骨は男女4体で、放射性炭素法による測定で1万8千年前から1万6千年前のものであることが分かっている。こうしてみると今回石垣島で発見された人骨が、わが国最古のものとの報道は怪しいようにも思える。 だが、何故沖縄から古い人骨が次々に発見されるのか。それは沖縄の島々は隆起さんご礁から成り立っているためだ。つまり島全体がさんご礁が変化した石灰岩で出来ていて、極めて人骨が残り易い、つまり腐り難い条件を備えているために他ならない。港川人骨も発見されたのは石灰岩の採掘場だった。 今回のニュースで改めて調べてみた結果、昭和25年に直良信夫が発見した葛生原人は、平成13年の再調査で14世紀から15世紀の比較的新しい人骨であることが分かったそうだ。戦前に発見された明石原人の人骨の方は戦争で行方不明になったが、これも科学的な方法で再調査したら、一体どうなるのだろう。 「内地」で最も古い人骨は1万4千年前のものとされる静岡県の浜北人骨のようだ。沖縄県出土の前述の人骨は全て旧石器時代のもので縄文人とは違った特徴があるようだが、浜北のものは比較的縄文人の人骨と近い由。「内地」で古い人骨が残り難いのは、酸性度の強い火山灰で人骨が溶けてしまうからのようだ。 その縄文人のDNAがどこのものと似ているか最近調査した結果、北日本に住む人のものはロシアの沿海州周辺の部族のDNAに近く、南日本に住む人のDNAはオセアニア大陸に住む人のものに近いと言うことが分かったそうだ。これも最近のニュースだが、詳細な報告ではなかった。 縄文人は主に狩猟生活を送っていたと言われていたが、三内丸山遺跡からの出土品によって集落の近辺で「栽培」を行っていたことが分かっている。彼らはアイヌ人や沖縄の人達と極めて良く似た風貌をしている。またDNAの構造も近いと聞いたことがある。 その後中国大陸や朝鮮半島から稲を携えて日本列島に渡って来た弥生人は、縄文人とは全く風貌が異なる。眉毛や体毛が薄く、鼻は扁平で胴長。それらの特徴は北方的な適応の結果だと言う。つまり寒冷地で長く暮らすと凍傷を防ぐために体毛は薄くなり、冷たい空気を一気に吸い込まずに内部で温めるため鼻は低くなり、寒さで消化が遅くなるため腸が長くなった結果胴長になるのだそうだ。 やがて先住民である縄文人と後からやって来た弥生人との婚姻が進む。その混血の度合いにより、今でもより縄文人の特徴を引き継いだ地域や人、より弥生人の特徴を引き継いだ地域や人がいるのはそのためだ。東北や沖縄の人が似てるのは、縄文人の特徴を持った人が多いからだろうか。<続く>
2010.02.24
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先日愛犬を動物病院に連れて行った。毎年今頃になると、彼の許に「招待状」が来る。つまり「インフルエンザ」など5種類の混合ワクチンを注射する時期なのだ。愛犬は嫌がる様子もなく「診察台」に上がり、注射しても痛がる様子もない。カルテを見ていたドクター曰く。「病気をしない犬ですね」。きっと我が愛犬はこの病院にとっては、あまり儲からない「患者」なのだろう。それでも近所に新しい動物病院が出来たせいか、今回初めてカレンダーをくれた。 昨日私も病院に行った。月に1度の検診だ。血圧は極めて良好。寒い我が家で測れば高めに出ることもあるが、暖かい病院内だと安定するようだ。カルテを見た看護士が私がランニングをしてると知って驚いている。先週フルマラソンを走ったばかりだと言うと、信じられない口ぶり。そこでさらに一言「フルは100kmマラソンの練習台なんだよ」と言うと彼女は絶句。 ドクターの診察でも異常はなかった。「年々強くなってませんか?」。「いや、そんなことはないですよ。来月は伊豆大島で100kmを走ります。三原山にも走って登ります」。ドクターは唖然としていたが、ウルトラランナーにとってそんなことは別に大したことではない。「走る前にはドクターチェックを受けるんですか」。「いや、全て自己管理です」。それが出来てこそ初めてウルトラマラソンは成立する。 今日は晴れて12度にもなるとの予報。帰宅ランでは今年初めて半袖シャツにした。しかも赤。これに合わせて手袋も赤を選んだ。ちょっと恥ずかしかったが、気分はルンルン。来月の「伊豆大島ウルトラ」でデビューさせる予定が、少し早まったと思えば良い。それでも大汗をかき、途中から手袋は外して帰った。 来月のレースに備え、ネットで東京の竹芝桟橋と伊豆大島の元町港付近を地図で確認した。5月の予定レース「仙台鉄人会」10時間走の部を、先日申し込んだ。そして、6月の予定レース「いわて銀河」で前泊するホテルを予約した。全て備えあれば憂いなし。 ランニングシューズも順調に足に馴染んで来た。最近買ったばかりのシューズは若干底が硬く感じるが、練習用なら大丈夫だろう。青の軽いシューズは先日のレース「いわきサンシャインマラソン」で試したが、スピードが求められるフルマラソン用に良いだろう。そして寛平ちゃんが履いているのと同じタイプは、やはりウルトラのレースで履くのが最適だと確信。出来れば同じ型のをもう1足欲しいくらい安定している。 その寛平ちゃん。アースマラソンは目下トルコを抜けてイランの北部を東に向かっているようだ。前立腺ガンが大人しくしてくれているみたいで一安心。それに一番心配だった治安状況や宗教上の厳しい戒律の問題も、さほど心配なさそう。そして意外だったのは、寛平ちゃんが地球を走りながら一周しているのを知ったイランの著名な映画監督が、寛平ちゃんを主人公にした映画を作ると言い出したこと。彼のランニングがイラン人の心に変化をもたらしたのだ。走ることの素晴らしさが、あの偏屈な国に少しでも伝わると嬉しい。
2010.02.23
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この冬、初売りの割り増し商品券を使って、妻が眼鏡を作り変えた。ずっと我慢をしていたのだが、仕事で書類を書くのに不便で限界を感じたのだろう。ところがこれまでの眼鏡を調べた店の人に「乱視が入ってない」と言われたそうだ。それを聞いて私にも思い当たることがあった。 私の前の眼鏡も妻と同様低価格を売り物にした店で作ったのだが、検眼の時は良く見えたはずなのに出来上がって来た眼鏡が全く見えず、再度作り直したものも全く見えなかった。これでは埒が明かないと考え、今回妻が訪れた老舗で改めて作ったが、はっきり乱視であることを指摘された。今にして思えば、2回作った安売り店の眼鏡にはきっと乱視矯正が施されてなかったのだろう。 昨日は妻と連れ立って話題の映画「アバター」を観に行った。前回は満員だったため仕方なく別な映画を観たが、今回は開館前から並んでチケットを買った。ところが空席は前列のわずか6席だけで、しかも妻とは離れ離れの席になった。観終わった妻が言うには、「3Dの眼鏡が合わなかったため目が痛くなった」由。良く聞くと上下逆にかけていたようだ。 私の方は時々3D眼鏡がずり落ちたため、何度かかけ直した。妻が目が痛かった原因は、きっと瞬きをせずに観ていたからだと思う。そして、アバター達が空を飛ぶ場面が怖かったため、最初は眼鏡を外したそうだ。私も妻と同様高所恐怖症のため空中から下を見るのが怖かったが、これは作り物だと言い聞かせているうちに慣れて来た。 昨年観た「2012年」もそうだったが、SF物はどうしても奇をてらう傾向が強い。ストーリーが奇抜だし、映像が立体的に見えるのだから別世界の気分を味わえるのは確か。巨費をかけ、膨大な手間をかけた話題作だから当然人気が高く、観客数も多いのだろうが、深い味わいや感激といった点ではどうなのだろう。 先日妻の職場の上司から電話があった。来月末で定年になるが、それ以降の意志を確かめるものだった。それとなく聞いていたら、妻は仕事に生き甲斐を感じているのでこれまで通りに働きたいと答えていた。次の区切りは65歳で、最大67歳までは勤務出来るそうだが、妻は65歳まであと2年間頑張る積もりらしい。 その頃には公的年金が支給され、個人年金の支払いも始まるからだと思う。そして、その後は私と一緒に外国旅行をするのが夢とのこと。一方の私は、出来ればこのまま70歳まで勤務し、さらに事情が許せば警備員の仕事だけを72歳くらいまで勤めたいと願っている。それは飽くまでも私の希望であって、会社の判断とは別問題なのだが。 元気で仕事が出来るのはありがたいことだ。生きる上での張り合いになるし、健康も保てる。そして体は疲れるが、経済的に助かるのも本当のところ。だからこそ気軽に温泉にも行けるし、映画も観られるし、子供や孫達に贈り物をすることも可能なのだ。後数年、何とか元気に働きたいものだ。小さかった「ふきのとう」がようやく膨らみ、クリスマスローズの苗全てに花芽がついているのが嬉しい。待たれる春よ。
2010.02.22
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「いわきサンシャインマラソン」から1週間が経った。今年2回目のフルの結果は、4時間29分38秒。これは3769名のエントリー中1423番目の成績だった。また60台男子の部では、211名のエントリー中83位だった。この参加者数は名簿を見て私が累計した数字。記録はほとんど意識していないが、自分では良く頑張ったと思っている。 「いわきサンシャイン」の特徴の1つは3箇所もある折り返しだが、見方によってはなかなか良いコース設定とも思える。理由は往路から復路のランナーが見える(もちろんその逆もある)ことだ。今回は仲間の頑張りを目の当たりに出来たし、記録を目指すトップランナーの力走や美しいフォームも刺激になった。 さて、この1週間は風邪気味だった。マラソンの前から喉が痛く、鼻水が出ていた。きっと映画を観た時に感染したのだろう。だが熱が無いため体は楽で、金曜日の夕方から妻と山の温泉へ行って来た。標高はさほど高くない場所だが以前に降った雪が残り、小雪が舞っていた。 露天風呂に舞い込む雪。暖かくて清潔な部屋。心の篭った料理。それらの非日常的なものは心を解放してくれたし、また筋肉痛などに効能があるという清らかなお湯は、3度とも独占状態で日ごろの疲れを癒してくれた。唯一心配だった愛犬も、犬小屋周辺を泥まみれにしていたものの、元気に出迎えてくれた。 山から帰宅した昨日は、午後からバンクーバーオリンピックの女子カーリングを観ていた。1勝2敗と後がない日本の相手は3勝1敗のイギリス。これまで体の良いお遊びだとばかり思っていたカーリング競技が、あれほど高度の技術を要するスポーツとは思いもかけなかった。世界一の実績のあるイギリスとの激闘にはドキドキハラハラの連続だったが、最後は日本の圧勝だった。 しかしオリンピックとは凄いものだ。国籍を移してまで出場したアイスダンスの女子選手。最年少で出場したスピードスケートの中学生選手。最年長の45歳で頑張ったスケルトンの選手。これまで5回オリンピックに出場しながら、なおも次を目指そうとする選手。今日のジャンプ競技ラージヒルで唯一入賞した日本選手は超ベテランだった。 一方、服装の乱れが問題視されたハーフパイプの選手や、フィギアスケートでは競技中にシューズの紐が切れた選手もいた。信じられなかったのは、ソリに張った競技団体認定シールを誤って剥がしたために失格となり、レースにすら参加出来なかった選手がいたこと。そんな悲劇も、全ては4年に1度しか開かれないと言う条件や極度のプレッシャーから起きたのだろう。 勝てば嬉しいし、メダルを取れば喜ぶのはもちろんだが、たとえ敗れても世界の一流選手を相手に戦っての結果。決して悲しむことはない。それにしても日本はメダル無しに終わると宣言したどこかの国の団体があったようだが、「ざまー見ろ!!」と言ってやりたい。そんな前評判にも決して負けなかった選手に一際大きな拍手を送りたい。ガンバレ日本!!
2010.02.21
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< 戦い済んで > 完走証を受け取った後で古川のT田さんに会った。彼は私より4分ほど速かったが、一体どこで抜かれたのだろう。2人で記念写真撮影後、荷物を取りに行く。だがその場所まで行くのが疲れたランナーには遠く感じられ、途中に引込み線などがあって不便だった。また荷物も番号順になっておらず探すのに一苦労した。 痙攣が起こるため慎重に着替えし、お握りを食べた。全ては冷たい風が吹く屋外でのことだ。もしも雨が降ればかなり大変だったと思う。引換券を持参しカニ汁コーナーへ。暖かいカニ汁でようやく心も体も温まった。出店では超お得の赤いランニング用手袋を購入。これは来月の「伊豆大島ウルトラランニング」でデビューさせる予定。赤いTシャツと赤い手袋は、きっと椿の島に良く似合うと思うのだが。 古い倉庫内の男子更衣室を覗く。中はとても薄暗く、段差もあって危険。そして仲間は誰もいなかった。暫く「よさこいソーラン」に似た踊りを観ていたが幾ら待っても仲間は来ない。再びゴール地点へ戻ると明走会のAさんと遭遇。第1折り返し点手前では快走していたのに、30km地点のASで毛布に包まりながら1時間40分も眠っていた由。前夜遅くまでオリンピック中継を観て寝不足だったとか。何と言う豪傑だろう。 Y田さん、M井さん、M仙人が見つかり、最後にゴールしたA山さんと連れ立ってバスの発着所へ行くと、スタート地点まで戻るバスの中にE名さんを発見。Y広さんも多分戻ったと判断し、次のバスでいわき陸上競技場へ行くと、やはりそこで彼女は我々を待っていた。5時間を切ってのゴールだった由。 一方Eちゃんは前から傷めていた捻挫が悪化し、30km地点で救急車を呼んでもらったとか。まだ走後何も食べてないとぼやく彼女。M仙人の深い眼窩には白い塩が浮いている。夜勤だったA山さんは一睡もしないままのフルマラソンだった。疲れた体を癒すべく無料の温泉を訪れたが、結局どこも満員状態で3軒に断られすごすご帰宅の途に着いた。 いろいろ対応に問題はあったが、これも第1回大会なればこそ。給水給食や距離表示は良かったし、2つの港で受けた市民の方々の暖かい応援はとても嬉しいものだった。坂道の多いコースは若干厳しかったけれど交通規制は完璧で、三崎公園からの眺めは最高だった。今後の改善できっと素晴らしい大会になるのではないか。そんな予感を抱きながら家路に着いた私だった。<完>
2010.02.20
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< 味噌パワーを見よ > 33km辺りでコースは右折。道理で折り返し点が見えなかった訳だ。チョコレートの残りを食べながら下っていると、M井さんの姿が見えた。差は1.5kmほどか。33.8km地点の「いわき市企業交流会館」前が第2折り返し点。ここで水を飲み、自前のアンパンを食べ、小さな袋を破って味噌汁の素を舐める。そしてトイレへ。 これが良かったのだろう。俄然パワーが出た。道端に「たい焼き君」が座り込んでいる。どうやら被り物の暑さに耐えられなくなったようだ。人間にとって重要な頭部は発汗によって適度の温度が保たれている。それをゴム製の被り物で被ってしまったら苦しくなるのは当然のこと。 緩い坂道を歌を歌って登る。歌は「泳げたい焼き君」。毎日毎日ボクらは鉄板の 上で焼かれて嫌になっちゃうよ ある朝ボクは店のおじさんと けんかして海に逃げ込んだのさ 初めて泳いだ海の底 とっても気持が良いもんだ おなかのアンコが重いけど 海は広いぜ心もはずむ (オウ!)七色サンゴが手を振って ボクの泳ぎを眺めていたよ これがなかなか走りのリズムに良く合う。往路のK藤さんが私を見つけてくれた。ほとんど疲れを感じさせないにこやかな彼女。続いて若い女性と一緒の明走会のM井会長。「何でそんなとこ走ってるの~!」とエール。スピードランナーの彼が遅かったのは、初フルの会員をサポートしていたからのようだ。続いて「南仙台」の半袖Tシャツ発見。「S木弟頑張れ~!」とハイタッチ。淡々と走るY広さんは見つかったが、E名さんの姿がない。 角を曲がった地点が35km。タイムは3時間42分台。先刻の折り返し点でゆっくりしたため、もう4時間半を切るのは難しいかも知れない。だが脚は痙攣もせずに何とか持っている。頑張って最後の坂を登り切ると残りは下り。歌でリズムを取りペースを上げる。37.3km地点の給水所で水。そしてスタッフの人に第3折り返し点までの距離を尋ねる。 返って来た答えは500m。すると再び折り返した地点が39kmだから、ゴールまでの残りは約3kmと計算。折り返して来たM井さんに「毎度!」とエールを送る。差は先ほどより少し縮まって800mくらいか。ひょっとしたら追い着けるかも知れない。最後の折り返しから急いでUターン。「泳げたい焼き君」を歌いながらのラストスパートに、驚いて振り返るランナー達。 海が近いせいか風が冷たい。帽子を被り腕まくりした袖を直す。みなと運動公園を左折した時、懸命に走るA山さんが往路に。思わず彼の名を呼ぶ。深夜の2時まで勤務し、全く寝ないでマラソンに来た彼は70過ぎ。かなり疲労してるはずなのに良く頑張っている。40km地点を4時間17分ちょっとで通過。残り2.2kmを13分で走るのはきつい。前方に銅屑の巨大なボタ山が見え出した。高さ25mほどの頂上には真っ白な雪も。 最後の角を曲がったところで後ろから声。夢中で走ってる間にM井さんを抜いたようだ。追い駆ける彼に「4時間半を切るから」と言うと、「僕は36分で良いです」と遅れ出す。歌が文部省歌に変わった。狭霧消ゆる港への 道に白し朝の霜 ただ水鳥の声はして 未だ覚めず岸の家 呼吸が苦しいのか、歌が切れ切れになる。 ここまでは1km毎の表示があったのに、どうした訳か残り1kmの表示が見つからない。道路脇のスタッフの方にゴールまでの距離を聞くと500mとのこと。時間は4時間26分を過ぎている。果たして間に合うか分からないが、意識してストライドを伸ばす。アクアマリンパークの中にゴールのアーチが見えた。2人ほど抜いてゴールへ飛び込む。4時間29分38秒。念願の4時間半切りを何とか達成出来た。<続く>
2010.02.18
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< 賑わう港と謎のボタ山 > I橋さんが坂道の手前で歩いている。一声掛けて坂を登り出す。1kmで約40mの登り坂はなかなか手ごわい。フルマラソンでこれだけの坂には滅多にお目に掛かれないはず。ほとんどのランナーが歩き出す中で、走っているのはごく少数の鍛えられたランナーだけだ。 前方に高い塔が見える。歩くようなスピードで頂上に辿り着くとそこが三崎公園で、塔は市のシンボルの「いわきマリンタワー」だった。22km地点の第5給水所で息つく暇もなく給水。眼下に広がる紺碧の太平洋。そして港には瀟洒な建物が見えた。わざわざこんな厳しいコースにしたのは、きっとランナーにこの景色を観てもらいたかったからだろう。 岬を廻って丘を下る。急勾配で脚に負担がかかるため、ここは慎重に走るしかない。小さなトンネルを潜って間もなく左折。前方に港が見え出す。一般道へは出ず、小名浜港の構内それも岸壁を巡るコース。これは珍しい位置取りだ。しかもサブイベントで集まった大勢の市民が、声を枯らして応援してくれるのが嬉しい。 美しい石畳の道。そして意外だったのが板敷きの道があったこと。その岸壁に係留された「まるは」のマークをつけた大型漁船。25km地点の通過は2時間28分ほど。まだキロ6分ペースを辛うじて保っている。 最後の岸壁を曲がると引込み線のレールがあり、そこからようやく一般道へ出た。道路の半分が交通規制されてマラソンコースになり、さらにその半分が復路になっていた。サブスリークラスのスピードランナーが直ぐ横を駆け抜ける。彼らはもう直ぐゴールのはず。 直線コースの前方右手に不思議な山が見え出す。石炭ではない真っ黒な鉱石がうず高く積まれた上に真白い雪。あれは何かスタッフの人に尋ねると、答えは「銅の屑」。どうやら精錬所のようだ。28km地点の第7給水所で水を飲む。そこから左折すると「みなと運動公園」の緑の松林が見え出した。 同じ走友会のA部さんが折り返して来た。復路の38km辺りだろうか。もう10km以上差をつけられている。大声で名前を呼ぶと彼はにっこり笑って手を振った。レース後半に痙攣に苦しんだと聞いたが、そんな雰囲気は全く感じなかった。 30kmの通過が3時間02分。とうとうキロ6分を下回った。真っ直ぐ行けば第3折り返しだが、コースはそこから左折。前方に4つ目の坂道が見え出す。難関を目前に30.3km地点の第8給水所でバナナの小片を取る。道の両側には緑地が多く、そこに工場団地が形成されているようだ。 坂を登り切った地点で右折。今度は緩い下りが続く。ポシェットからチョコレートを取り出して半分だけ食べる。国道6号線の常磐バイパスを過ぎた辺りで鉄人会のF田さんが折り返して来た。続いて来たM仙人の足取りが少し重そう。思わず「頑張って~!!」と絶叫。 間もなくY田さんの姿を発見。意外な速さに驚く。「少し前にMさんがいるよ」とエール。その声が聞こえたのか、彼はみるみる遠ざかって行った。後で聞いたらM仙人より先にゴールした由。やはり努力に勝るものは無いようだ。それにしても2つ目の折り返し点がなかなか見えないのはどうしてなのだろう。<続く>
2010.02.18
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< 最大の難所が目前に > 2km地点では早くもキロ6分ペースに戻せた。そこから7km地点までの間に緩い下り坂が続く。高低差は50m以上の鹿島街道をひた走る。ここで後続のランナーに次々に抜かれる。「たい焼き君」も行った。細身の体で、良く鍛えられた証拠の「ヒラメ筋」。頭の被り物はきっと自信の表れだと思う。そして「南仙台」の半袖シャツを着たランナー発見。あれは我が走友会の古いユニフォームのはず。顔はS木さんに良く似ているが、一体誰なのだろう。 5km過ぎのASで初めての給水。セーブして走っているせいか、息苦しさは無くなった。7km地点から再び登り坂。そして第1関門のある8km地点で左折すると、小刻みなアップダウンの連続になった。どうやらここが2つ目の坂道のようだ。10kmの通過は58分台。坂が多い割にはなかなか良いペースだ。 12.7kmの第2関門は海沿いにあった。そして目の前を折り返して来たランナーが通過して行く。道が狭くて折り返し点が見えない。遥か彼方に小高い岬が見えるがあそこがそうなのだろうか。前方から走って来る選手に目を凝らす。15km地点の通過は1時間28分ほど。その時M仙人の姿を発見。きっと3kmは離されているはず。「Mさ~ん!」と声を掛けると彼も気づいたようだ。 仙台鉄人会のF田さん、仙台明走会のAさんがその後に続き、M子さんの姿もちらっと見えた。思わず「S田さ~ん」と呼んだが、気づいたろうか。結局彼女の姿を見つけたのはこの1回だけ。3時間42分台の自己新記録でのゴールだったことを後日知った。ご主人はもっと速かった由。家並みが賑やかになり、声援が増え出した。きっと折り返しが近いのだろう。 小さな漁港の中に折り返し点があった。ここが「中ノ作漁港」のようだ。見事な大漁旗が幾つも飾られ、小旗を振って応援している大勢の人達。群集の中をUターンするなんて、予想外の嬉しい出来事だった。往路から古川のT田さんがやって来た。ハイタッチでエールの交換。そしてその後から新潟のF川さんも。「佐渡島一周」で一緒に走った仲間だ。 19km周辺で古川のC一さん発見。何と、早くも歩いている。驚いて「どうしたの?」と尋ねると、前夜新潟のF川さん達と痛飲した由。勇者も酒に飲み込まれてしまったようだ。抜いて行ったI橋さんに声を掛ける。彼も第1回の「佐渡」を走った仲間だが、新潟から1人で来た由。往路にEちゃんの姿。この時は元気に走っていたのだがその後足首の古傷が痛み出し、30km地点でリタイヤした由。う~む、残念!! そして謎だった「南仙台」ランナーの正体が分かった。スピードが落ちた彼に話しかけると、S木さんの弟で目下いわき市住まいの転勤族とか。道理で似ているはずだ。20km地点の通過は1時間55分台。なかなか好調だ。「たい焼き君」を見つけ「泳げたい焼き君」を歌うと彼は喜び、応援の人達がどっと笑った。中間地点も無事通過。ところが前方に大変な坂道が見え出した。まるでジェットコースターみたいな急勾配だが、これが日本陸連の公式コースとは驚く。<続く>
2010.02.17
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< 第1回大会ゆえの戸惑い > 福島県内に入ると、周囲は白一色になった。雪など滅多に降らない浜通り地方には珍しい大雪。後で聞いたら数日前に「台湾坊主」(低気圧)が八丈島沖を通過した際、浜通り地方に大雪をもたらしたようだ。M仙人運転の車中で朝食。海苔巻き1本、お握り1個とお茶、それにEちゃんがくれた大福も食べる。 今回同乗のメンバーはM仙人、A山さん、M井さん、Y田さん、私。そして女性陣がYちゃんとEちゃん。この他前泊組も何人かいるらしい。日の出が見られたのは南相馬市辺りか。国道6号線から常磐道に乗り換え、いわき陸上競技場に着いたのは7時半ごろだったと思う。ここにも雪かきされた大量の雪が道端に。東北でも一番暖かい地方には珍しい出来事のようだ。 受付をしている間に仲間とはぐれてしまった。着替えのため1人体育館に向かう。駐車場ではスタッフが不慣れでもたもたしていた。会場内の配置がさっぱり分からないためスタッフに聞きながら体育館に向かったが、それも今一の対応だった。やはり第1回のために、場馴れしていないのだろう。 体育館は比較的新しく、ガラス窓から差し込む太陽のお陰でさほど寒くない。念のため、ミニクリームパン2個とバナナ1本を食べる。黙々と着替えるランナー達の中に、武者姿になろうとしている人がいた。2週間前に走った「勝田マラソン」でも会った岩手県奥州市のランナーだ。レース中に遭遇した仮装ランナーはこの他にも、たい焼き君、フラガール、眉毛の濃い女学生、ピカチュウ、ドラえもん、ちょんまげ、アフロなどがいた。 Y田さん始め、次々に仲間が合流。締め切りの10分前に荷物を預けに行くが、チェックに時間がかかって長蛇の列。何時になるか分からないため自分の番号の所へ直接置きに行った。結局はこれが正解だった。スタート地点に移動しながら体を動かしていると、後ろから名前を呼ばれた。「佐渡島一周」で一緒だった神奈川のA津さんだ。あれからも私のブログを観ていてくれ、「沖縄本島東海岸単独縦断走」も全編読んでくれた由。 そのまま3時間30分台の所に並ぶ。スタート地点のアーチまでは50mほどか。そこへM井さんもやって来た。ところが彼の時計が急に真っ白に。突然の電池切れで表示が出なくなったのだ。直ぐ前にいた仙台明走会のメンバーにも挨拶。場内放送では増田明美、尾崎好美、山下佐知子の各招待選手の紹介。彼女達も第1関門まで一緒に走る由。 気温はマイナス1.7度とのこと。でも体感温度は4、5度くらいか。太陽が出ているためさほど寒くはない。スタート20分前から1分前までアナウンスあり。だが、突然「用意!」の声に続いてピストルの音。何とカウントダウンもないままのスタートになった。これも第1回大会故だろう。ロスタイムは約40秒。 歩いたのは最初だけで、案外早く走り出せた。だがコースは陸上競技場からいきなり20mほど下り、今度はそこから一気に30mほど登る。2kmも行かない間の急激なアップダウンに心肺が追い着かず苦しい。手に持ったスポーツドリンクを道路脇に捨てる。ペットボトルすら持つのが嫌になったのだ。さて、この先どうなるのだろう。郊外にも関わらず、応援の人が多いのが意外で嬉しかった。<続く>
2010.02.16
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< 作戦らしきもの > 昨夜未明、私は眠りながらも2本の脚の痛みに耐えていた。42.195kmの坂道を必死に走り抜いた身体は、筋肉を酷使したことで悲鳴を上げていたのだと思う。今朝は階段を下りるのが辛かった。そして勤務中は、押し寄せる疲労感や眠気と戦っていた。だがそれも明日には治まり、再び平常通りの勤務とランニングが出来るはずだ。 「いわきサンシャインマラソン」。それが2月のレースに選んだ大会だった。その名前を初めて聞いたのは、確か昨年の10月だったと思う。同じ時期にある「東京マラソン」に外れたら申し込もう。密かにそう考えていた。そして4年連続の落選で、今回が第1回となるレースへ迷わずエントリーしたのだった。 いわき市は茨城県との県境、福島県最南端の海岸部にある市。14もの市町村が合併して出来た中核都市で、2003年までは国内で最大の面積を誇っていた。勤務のため筑波や水戸に何年か住んだ私にとって常磐線は馴染み深い存在だが、あの付近で途中下車した経験はない。だからマラソンだけでなく、今回が初めての訪問になる。 第1回大会の記念すべきレースに出るのはこれが2度目。そしてフルでは初経験だった。そのため幾つか気になることがあった。第1はコースの特徴。20mから最高45mほどの高低差のある坂が5箇所あること。これはきっと身体にとっては過酷な条件になるはず。第2は折り返し点が3箇所もあること。山の上からスタートして海岸部へ下りて来ることからも、多分景観には変化があると思う。 第3は運営上の問題。大会本部もそうだが、給水給食などを担当するボランティアの人達が慣れてないための混乱が、きっと生ずるはず。そして何よりもASの給食内容が心配された。厳しいアップダウンや複雑なコースについては、これまでの経験を生かして臨機応変に対応するしかない。坂道で負担のかかる膝の保護には、サポート機能のあるロングタイツを穿くことでカバー。 一方、給食の不安解消のためには、自分で必要な食料を確保すること。このため、ポシェットには、板チョコ2分の1枚、ミニクリームパン、ミニアンパン各1個、そして塩分補給用に味噌汁の素1袋を入れることにした。 また、レース当日の天候について1週間前から毎日チェック。「晴れ時々曇り」は変わらなかったが、最高気温が4度から8度まで何回か上下した。前日の最終チェックでは8度。これはゴール時のもので、9時のスタート時にはかなり寒いと想定し、上は長袖Tシャツ、下はロングタイツ、それに体温調節用の手袋、帽子は必携と考えた。 さて会場までの交通だが、当初はレース当日に、常磐線の始発で行こうとしていた。だが、それだとJRいわき駅へ到着した時刻には、荷物の預かり時間が終わっている。ここはワンウエーコースのため、スタート地点とゴール地点が異なり、着替えなどが入った荷物がゴールに届いていないと大変なことになる。だが、この問題は仲間の車に便乗させてもらえたことで解決した。これで不安は一掃。後は当日まで体調をどう維持するかだった。<続く>
2010.02.15
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2月の予定レース「第1回いわきサンシャインマラソン」(フル)を走って来ました。第1回と言うこともあり、どんなコースなのか全く分からないままのスタートでしたが、結構楽しく走ることが出来ましたよ。 厳しい坂道もありました。山の上から見えた海はきれいでした。港では大勢の人が集まって応援してくれました。海のすぐ傍の公園を通るコースは初めてで、とても新鮮でした。5箇所の坂道と3つの折り返しの厳しいコースでしたが4時間29分38秒で、何とか4時間30分を切ることも出来ました。完走記は明日以降書く予定です。お楽しみに♪
2010.02.14
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バレンタインデーが日曜日ということもあって、今年は早めにチョコレートをもらえた。先ず第1現場のビルでは、2階のヘアサロンのおネーちゃん達がデパートの包装紙に包まれたチョコをくれた。対象となったのは管理室の2名と私達警備員2名とお掃除のオジさん。いかにも高級そうなチョコなので、小さくても1個500円はするだろう。こちらはもらった5人がお金を出し合ってお返しのお菓子を買うことになると思う。 第2現場のビルでは、お掃除の小母さん4人から個人的にいただく。これはさほど高級そうではないが、買えばまあまあの値段か。「来年からは無理しないで良いよ」と言っておいた。こちらは1人1人にお返しせず、マラソンに行った時にお土産を買って来ることで代用しようと思う。 帰宅すると妻が5枚の板チョコをくれた。「もらうならその方が良い」と話しておいたのだ。味はさほど変わらないし、第一食べ応えがある。それにマラソンに持って行くのにも便利。お返しは3月の温泉1泊の費用を私の小遣いから出すこと。確定申告の還付金も少しあるしね。 昨年の暮れに買ったランニングシューズの底が減り出した。練習でもレースでも履いているためだが、今の足の状態にはピッタリなのでもったいないと思うようになった。このため練習用にもう1足買うことにした。「閉店セール」の店を覗くと、良いものは全然安売りしていない。ようやく別の店で4割引きのが見つかった。でもシューズは実際に走ってみないと良し悪しが分からないのが困る。 明日のレースでもどれを履くか迷っている。「勝田」で走ったシューズか、それともより軽量のシューズを選ぶか。フルなので冒険してみる価値はある。その次のレースは3月末のため、多少影響が出てもそれまでには復活するだろうから。いざと言う時の代用=予備を持つことも、ランニングに限らず大切だと思う。 さて、今日は妻と映画を観に行った。目下3次元が大評判の「アバター」だ。立体で観られるのを楽しみにしていたのだが、チケットを買おうとしたら既に満席。やはり人気が高いようだ。夜の9時から「スーパー付き」のはあるようだが、残念ながら諦めた。代わりに観たのが「のだめカンタービレ」の最終楽章前編。これがどんな映画かは全く知らないままだ。 確か仙台で撮影した映画もそろそろ上映されるはずと思っていたら、その映画「ゴールデンスランバー」も上映中だったことを後から知った。情報不足のままで映画を観に行くのも冒険かもね。「のだめ」は存外良かった。「カンタービレ」が付くので音楽に関係したストーリーだとは思ったのだが、本格的なクラシック演奏の場面が次々に現れたのにはビックリ。 ストーリーが奇抜だし、出演者も意外で面白かった。何故か漫画チックだと思ったら、原作はやはり漫画だったみたいで、テレビ化もされていたようだ。そんなこととは露知らず、すっかりハマッタ私と妻。帰宅してから調べたら、漫画も大評判だったことが分かった。音楽の素晴らしさ、若者が世界に出て挑戦する真剣な姿、そして映画の楽しさ。これは決して「代用」ではなく、立派な作品だと感じた。
2010.02.13
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昨日の建国記念の日。集合場所に行くと、既に迎えのマイクロバスが到着していた。大体の仲間は揃っているが、O川さんとY田さんの姿が見えない。乗車予定の人数が揃ったところで出発。途中M仙人の家に寄る。会場に着き、新年会費と走友会の年会費を支払った後、温泉へ。総会が始まるまで30分ほどしか間がないが、折角の温泉に入らないのではもったいない。 風呂にいたおんちゃんと「佐渡島一周」談義。彼がレースに出たいと言うので、生半可な覚悟では走れないことを話す。途中でリタイヤしても収容バスはなく、給水給食は206km中4、5箇所程度。仮眠所でもなかなか眠れず、僅かの睡眠で走り歩いていると、疲労のため幻覚、幻聴を体験することもある等々。 Y田さんは自宅から走って参加した由。いつもながらの練習ぶりだ。そしてO川さんは欠席だった。このところ好調だったT脇さんは雪道で転んで骨折されたみたい。「八丈島一周」の同行者を探していたEちゃんは、ようやく1人見つかった由。M井さんからは「第3回松川浦ランニング」の企画書をもらう。これは50km先の旅館まで走り、1泊する練習会だ。 総会に先立ち新入会員の紹介。昨年の活動報告、会計報告、監査報告と続き2010年の活動計画案及び予算案を審議。主な内容はお花見を4月11日に開催。サクランボ狩りを例年どおり開催。9月の蔵王高原合宿を8月の盆明けに県内で実施。12月から2月までの冬季は、月1回の合同練習会とし、水曜日はこれまで通り開催。 県外へ転勤となった方の会費は千円とし、「関東支部」を新たに創設すること。また、走友会の指定大会を設け、これに参加する会員に補助することが決まった。役員改選では、副会長にK野さん、事務局長にKさん、HP担当にY田さん、事務局員にT野さんがそれぞれ新任で選出され、その他の役職はこれまで通りの方々。皆さんお世話になりま~す。 徐々に会員の年齢が高齢化し、お家の事情もあってなかなか定例の練習会に参加出来なかったり、距離が長過ぎと感じる会員もいたりと、会員が置かれている状況は様々で、今後どう会を運営して行くか柔軟に考える必要があるのだろう。因みにウルトラ志向の私は一人でも練習は可能だが、それでも仲間の助けを必要とする場面は多い。 さて、毎年求められる抱負だが、今年は「ペースを守り、自分なりのジャーニーランを楽しむこと」と書いて提出した。会員の抱負は近く走友会のHPに掲載の予定。新年会は85歳になるA原長老の乾杯の音頭で始り、賑やかな宴が続いた。新入会員S目さんの自己紹介で沖縄勤務経験者と知り、早速「インタビュー」に出かけ、色々話を伺った。 飲んだのは日本酒、ビール、ワインと3種混合。弱いくせに酒が好きで、その上あまり食べずに飲んだものだから、てき面に酔っ払った。帰宅後愛犬と散歩し、夕食は自分で麺類を作って食べたが、ブログは読むことは出来ても長い文章を書くのはとても無理。短文でお茶を濁し、入浴後は布団の中へと轟沈した私だった。
2010.02.12
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今日は所属する走友会の新年会と総会の日でした。日中から温泉に入り、お酒をたらふく飲んですっかり酔っ払いました。あまり変なことを書いてもいけないので、今日のことは明日改めて書き記したいと思います。ごめんなさいね~♪
2010.02.11
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つい最近2冊の小説を読んだ。1冊はブログの友が薦めてくれた時代小説で、もう1冊は日系エスキモーの冒険談。同じ小説だが書き手が女性と男性とに別れるし、描かれた時代も江戸と明治で違っている。双方とも歴史的な背景を持っているが、前者は創作で後者は事実に基づく。何もかも好対照な作品だったが、どちらも大変面白く、最後まで引き込まれた。 しぃさんが薦めてくれたのが安住洋子著「いさご波」2009年 新潮社刊。著者は兵庫県生まれの大阪府育ち。地元の短大を卒業後、学習塾で国語の教材を作りながら小説を書いていたようだ。1999年「しずり雪」で長塚節文学賞短編小説部門大賞を受賞。人生の哀歓を描く作風は、「初期の藤沢周平を思わせる」とY新聞社の評。 この本には5つの短編が収められている。いずれも国を追われた武士の哀歓が滲む作品だ。冒頭の「沙の波」に登場するのは、江戸城松の廊下で吉良上野介相手に刃傷沙汰を起こし、切腹を申し渡された浅野内匠頭の旧家臣。そして他の4篇には、世継ぎ問題で2つに分散した九鬼家の家臣が登場する。 没落武士の心情には胸を打つものがある。かつての主家を思う気持や武士としての意地。暮らしにも困窮する中で、どう矜持を保つのか。周平の小説には奇抜な剣戟が次々と登場して読者を飽きさせないが、あれは男の世界だった。だが女性作家は、心のひだを丁寧に追う。確かな時代考証なのに、しっとりとして艶やかな文章は女性だからこそ描けた武士の世界だろう。読み終えても深い余韻が残る。 もう1冊は新田次郎著「アラスカ物語」(新潮文庫)初版は1974年刊。著者は長野県生まれ(1912-1980)で中央気象台に勤務し、富士山測候所勤務などを経験。1956年「強力伝」で直木賞受賞。「八甲田死の彷徨」、「剱岳・点の記」などで山岳小説の分野を開拓。随筆家藤原てい(故人)は妻。数学者で随筆家の藤原正彦は長男。 主人公フランク安田が宮城県石巻市出身の日本人であることを知り、この小説に興味を抱いた。明治元年に医師の三男として生まれるが、生家の没落で三菱汽船の船員となりアメリカに渡る。その後クジラの密漁を取り締まる船で北極海に行くが、氷に閉じ込められて単身犬ぞりで助けを求めに氷原を彷徨う。 物品横領の濡れ衣を着せられた彼は、僚船を救出後エスキモー集落で生活を送る。密漁のためにクジラが激減して生活が成り立たなくなる沿岸エスキモー。餓死寸前の数百名を救うため、彼は苦労の末に約800km離れた場所まで彼らを導き、新しい村を建設してリーダーとなる。この間、エスキモーの娘との結婚、雪山の横断、金鉱の発見、インディアンとの融和など冒険の連続。やがて第2次世界大戦が勃発すると、彼は米国本土に連行され、強制収容所に入れられる。 実話だけに読んでいてスリルがあった。明治、大正、昭和の各時代を生き抜いた素晴らしい日本人がアラスカにいたこと、旧北上川がかつて伊寺(いじ)川と呼ばれ、伊寺牧(いじのまき)が石巻に変わったこともこの小説で初めて知った。小説に登場する日和山へ、昨年のマラニックの際に登ったことも懐かしい思い出だ。 新田次郎の小説を読んだのは初めてだが、彼の描く「男の世界」に完全に魅了された。気象学者だけあって、小説の裏づけとなる取材は完璧。本書の30年前に書いた「アラスカ」に物足らず、再び取材し直して書き改めたのが「アラスカ物語」。引き続き「強力伝」を買い、目下「男の世界」を読み耽っている。<注記>かつて「エスキモー」と呼ばれた民族は、現在の文化人類学(民族学)では彼らの呼称を採用し、「イヌイット」と呼ばれています。
2010.02.10
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昨日の帰宅ランは山道を通った。気温が上がったせいか、坂道は雪が融けてグチャグチャ。底に「蒸れ」防止用の穴が開いているシューズを履いていたため、冷たい水が入り込んで来たのには参った。つい数日前までの天気とは打って変わり、このところ高温の日が続く。 今朝は珍しく氷点下にならずに済んだ。そのせいで窓ガラスも凍結せず、三日月の下ゆったり散歩出来た。いつもなら愛犬のウ○チを処理する際にかじかむ手が、今日はさほど冷たくない。堆肥を作るコンポスト容器の蓋も簡単に開いて助かった。 今日の帰宅ランは山道を避け、街中を通って帰った。気温上昇でさらに雪解けが進み、シューズがビショ濡れになると思ったからだ。手袋なしでも良いほどの陽気。早くも紅梅が咲き始めた箇所もある。帰宅すると愛犬が芝生で寝そべっていた。汗で濡れたシャツを大至急取り替える。 1通の案内状が届いていた。9番目の職場が創立60周年の記念式典と講演会を開催する由。講師はつい最近ノーベル賞を受賞した方だった。私にとっては4年間勤務した懐かしい場所だが、お金と時間をかけてまで参加する気にはなれず、欠席する旨返事を出した。 その職場へは自宅から通勤していた。自転車、地下鉄、長距離バス、そして徒歩と、約2時間かかる通勤は、特に冬季が厳しかった。凍った道路で自転車が転倒し、怪我をしたこともあった。吹雪のため通常は1時間で着くバスが、4時間もかかったこともあった。高速道路が不通のため一般道へ降りたものの、トイレが無く困ったっけ。 近道の裏道を通って職場へ行くと、除雪してないため、足が雪に埋まることもあった。体育館から落ちた大量の雪に驚き、ぶら下がる巨大なツララにも驚いた。そして圧雪の道を平気で自転車を乗り回す雪国の人々には度肝を抜かれた。県境のトンネルを抜けると、全く違った世界が広がっていたのだ。 そんな環境でも、冬は必死に走る場所を探していた。狭い体育館の中をグルグル廻ったり、思い切って雪道を走ってみたり、雪国のランナーの大変さが少しは分かったような気になったものだ。そして、次の転勤先がさらに雪深いところになるとは。 北陸の片田舎。標高150mの丘陵にある職場は、冬になると一晩で60cmも雪が降った。ゴロゴロと響き渡る冬の雷。それを合図に降り出す雪。見渡す限り真っ白の世界。そして翌朝は長靴を履きスコップを手にし、自分で道を切り開いて職場へ行く。古老の話によれば、昔は2階から出入りしたと言う。それほどの豪雪地帯だったのだ。 疲労骨折の影響もあって、満足に走ることが出来なかったあの頃。雪解けを待って散歩したり、徒然に下手な俳句を詠むのが日課になった。周辺では1年で3回熊が出たと言う。雪雲に覆われた日本海側の暗い空に比べれば、太陽が顔を覗かせる太平洋側の冬は、天国みたいなものだと思う。 今後日本海側の地方に住むことはないだろう。だが懐かしさのあまり、何時か訪れることがあるかも知れない。こうして各地で出会った風景や人情が蘇るのは、転勤族だけの特権かも知れない。
2010.02.09
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いささか時期を逸した話になるが、新年早々現場でちょっとした論争があった。もらった年賀状への返信のことで小母ちゃん達が揉めていた。方や、正月3が日を過ぎたので、「寒中お見舞い申し上げます」と書くべきだと主張し、こなた、まだお正月だから「明けましておめでとうございます」で良いのだと。 意見を求められた私は、まだ松の内だから「明けまして」でも良いんじゃない?と返事した。ところで私の大先輩に天邪鬼の人がいた。決して年賀状は出さず、お正月が過ぎてからようやく「寒中見舞い」を出すのが毎年の恒例になっていた。 喪中はがきをどんなタイミングで出すかも神経を使う。普通は相手が年賀状を書く前に出すのが礼儀だと思うだろう。だが、喪中だと知らないで年賀状を出す人がいてもおかしくないし、喪中の通知は「こちらからは新年の挨拶を申し上げることが出来ない状態」であるとお断りするわけだから、相手が年賀状を出そうが出すまいが、本来は関係ないと思うのだがどうだろう。 一体全体、前年の暮れに年賀状を書く人がほとんどだろう。だから本来は「今年もよろしく」とか「旧年中はお世話になりました」なんてのも変な話で、むしろ天邪鬼な大先輩の「寒中見舞い」の方が理屈に適っているのかも知れない。 「松の内」だって地方によっては期間が違うみたいだ。昔、貧しかった地方だとお正月は3が日だけだったり、7日間というところもあったと聞いている。そして形式的には寒中見舞いが使えるのも節分までで、どんなに寒くても翌日の立春からはもう使えない由。似たようなのが「暑中見舞い」と「残暑見舞い」の区切りだ。 私が最も形骸化したと考えるのが「喪中」。本来は近親者の死を悼み、一定の期間「喪」に服するのが喪中のはず。それが忘年会で酒は飲むは、カラオケで歌うは。異性を見てニヤけてる喪中がどこの世界にあるかと言いたくもなる。その点北朝鮮は凄いよ。父上が亡くなった後、今の将軍様は確か数年間マスコミに出なかったはず。ただし、その間に好きな映画を絶ったり、美女軍団を遠ざけたとは聞いてないが。 話は変わって、節分の「恵方巻き」やバレンタインデーの「義理チョコ」、はたまたホワイトデーのお返しなどの風習が流行っている。いや、商魂逞しい業界のPRに上手く乗せられていると言うのが本当だろうか。昔からの伝統行事にはそれなりの「謂われ」があったが、近年の「行事」は手前勝手な理屈だけだもんなあ。 甘いものと言えば、先日マラソンに行った際のお土産を現場に持参した。箱を開けた小母ちゃん達が喜び、「美味い美味い」と一斉に食べ始めた。「おお~っ、こんなに喜んでもらえるなら、持って来た甲斐があった」。と嬉しくなったのだが、何時まで経っても私の手元へは届かない。食べ終わっても誰も気づかないため、私曰く。「あの~。誰か忘れていませんか?」。小母ちゃんパワーは、業者の商魂よりも逞しいのだ。
2010.02.08
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昨日は夕方まで雪が降っていた。我が家の周辺での積雪量は8cmくらいだろうか。朝起きて直ぐに雪かきをした。玄関から道路への階段が滑って危ないからだ。寒さに耐え玄関でうずくまっている愛犬だが、一旦散歩となれば元気を取り戻してグイグイ引っ張る。 雪が止んだ夕方も雪かきをした。大抵のところは竹箒で掃けば済むが、階段だけは丹念にスコップで掬う。それが終わると、買い物がてら近所のスーパーまで愛犬と散歩。神社の横の急坂で車が何台か立ち往生している。道路はアイスバーン状態だから、一旦坂の途中で止まるとタイヤが空回りするのだろう。 昨日は真冬日。最高気温は零下1度だったようだ。物置から出したミカンもヤーコンもすっかり冷えて凍っていた。夜7時現在の外気温は零下6度だった由。どおりで台所へ行くと寒かったし、自室では手袋をしながらパソコンのキーを打っていた。 そんな訳で走ることは出来なかった。一時は吹雪のような状態だったから、よほど根性の座ったランナー以外は、家の中でじっとしていたと思う。私も珍しく読書に耽っていた。安住洋子著「いさご波」だ。読後の感想は近く書く積もり。電車が何本か停まり、東北道も何度か閉鎖された雪の一日だった。 今日も外へ出たのは朝夕の散歩時だけ。そして今朝も軽く雪かき。朝の時点で道路は凍結状態だった。市の委託で行う道路に融雪剤を撒く車は昨日も今日も来なかった。きっと市内でも雪が多い地区へ廻ったのだと思う。だが今日の最高気温は5度。日当たりの良い場所や幹線道路の雪は、夕方には解けていた。 今日外へ出なかった理由は雪のせいだけではない。インターネットの回線工事が午前中にあったためだ。メカに弱い私は、戦々恐々として今日の日を迎えた。もし上手く接続が出来なかった場合は、ブログを書くのはおろかメールも読めない。よほど有料の出張サービスを受けようかとも考えていた。 工事は1時間ほどで済み、工事の人にジャックをつないでもらった。後は一定の手順に従って手続きをすれば良いのだが、そんなことすら自分には難しい。変更手続きのためCD-ROMを入れたら「エラー」の表示。慌ててブロバイダーに電話して聞くと、それは今回不必要とのこと。どうして不要のものを送って来るのか私には解せない。 作動しない別の原因が、自分で購入した無線LAN装置にあるのかと思ったが、パソコンを見ながら電話で話しているうちに、画面が動き出した。次に2階の自室にパソコンを移動して操作。こちらも大丈夫みたい。やれやれこれで一安心。これまでのモデムなどを箱に詰めてブロバイダーに返送し、次いで新たな料金振込み手続きを終了。 最悪の場合は2、3日間ネットにつながらないことを覚悟していた今回の回線工事。思わぬ雪もあって体を動かさない日が続いたが、どうやら明日は走れそうだ。最初に想定したテーマと違った内容になったため、不適切な「タグ表示」になったことをお詫びしたい。
2010.02.07
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雪がしんしんと降っている。今日の仙台の最高気温は零下1度とのこと。きっと雪は解けずに、そのまま積もると思う。さて、先日は確定申告に行って来た。主な所得は公的年金、私的年金と僅かな給与だし、控除される内容もごく限られているから簡単なもの。それでも税務署の人に聞きながら手続きしないと間違いやすい。 ところが妻の所得額を源泉徴収票ではなく年末調整の額で出した過少申告に気づいた。再度の申告で扶養控除額が変わり、還付金が1万円以上減った。それも致し方なし。何とか義務を果たして、今はほっとしている。今年からEタックスと言うシステムが導入され、これで申告した場合5千円が還付される。「誤魔化し」が効かなくなる代わりのご褒美かな? 民主党小沢幹事長の政治資金問題だが、結局小沢氏本人は起訴を免れた。今後の公判で有罪を勝ち取るのは困難と検察内部で判断した結果とか。昨年の3月からほぼ1年に亘った取調べは、政局に対しても大きな影響と混乱を与えた。かなりの書類が証拠として押収されたため、今後新たな疑惑が生じる可能性もまだ残っているとか。 一連の報道で、小沢氏の手元に巨額な政治資金があったことや、かなりの不動産所有も明らかになった。政治家は特に身辺を清潔にする必要があるが、どうも実態は遠くかけ離れているようだ。国民の感覚から遥かに遠い政治では困る。政治資金がどうあるべきか、日本のさらなる発展のために今後どのような政策が必要か、公正な司法制度をどう保つか、そしてマスコミの報道がどうあるべきか。今後の課題は大きいと感じた。 朝青龍の引退問題で、モンゴル共和国の人々が強く抗議をしているとか。自分達の英雄が不利な状況に追い込まれ、強制的に引退させられたと思っているのだろう。国民性の違い、国技としての大相撲に対する認識の差、情報不足などが原因だろうが。 結局朝青龍本人には、横綱の品位と言うものが最後の最後まで理解出来なかったのだと思う。離婚した前夫人は名門の出だったようだ。だが彼は家庭内暴力で最も身近な家族を失った。そして今回は職場も失った。彼はウイスキー5本を立て続けにラッパ飲みするとか。殴って負傷させたと言う今回の事件は報道が先行して実態が不明確だが、横綱が場所中に泥酔して事件を起こしただけでも問題。そして高砂親方の指導に問題があったのは確か。 日本国籍を取得していない彼は、結局大相撲の世界に残れなかった。朝青龍明徳が一モンゴル人ドルゴルスレン・ダグワドルジに戻った一瞬だった。あれだけの力量ならさらに優勝し、記録を打ち立てることも可能だったろうが、今はその道も閉ざされた。だが、解雇なら退職金はおろか、過去の記録も全て抹消されるところだった。 一方、理事に当選した貴乃花親方は、相撲教習所の所長と監査委員長に就任。一門の指示に反して貴乃花に投票した安治川親方が、一時「けじめ」をつけるため退職願いを提出する騒ぎになった。今回の騒動をきっかけに相撲協会が大きく変化し、貴乃花の熱意が改革につながることを願う。それにしても理事就任で退職金が3千万円以上上積みされると言う事実にも驚かされる。
2010.02.06
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< 仲間との再会 > 駅へのバスがなかなか来ないため歩いて行くことにした。これもリハビリだと思えば良い。駅に着いて先ず常磐線下りの発車時間を確認し切符を購入。次にお土産とビール、つまみを売店で買う。これがなかなかの混雑振り。こんなところにもフル参加者が1万人を越えた影響が出ている。何とか代金を支払って、いわき行きの普通列車を待つ。 座席に落ち着くや否や、裂きイカと一口かまぼこをつまみに缶ビールで祝杯。良く頑張った自分へのご褒美だ。それが済むと今度はお握りとお茶。レース中に食べたのは、バナナなどわずかなものだけ。それも走るためのエネルギーとなって消えた。マラソンの日は結構粗末な食事内容だが、それでも何とかなるのは日ごろから栄養のバランスに注意しているせいだと思う。 終着のいわき駅で下りると、仙台行きの特急が来た。いつもはそれに乗り換えるのだが、今日はN駅に残した自転車が気になった。特急だと1時間早く仙台へ着くが、N駅まで地下鉄で戻ると40分ほどしか差がなくなる。今日は各駅で行こうと原ノ町行きの普通列車を待つことにした。そこへひょっこりM仙人の顔。何とY広さんも5時間以内でゴールしたため、私の乗った列車に間に合ったのだとか。 皆はアルコール類を手にしている。列車内で早速酒盛りが始まり、賑やかなことこの上もない。原ノ町駅から仙台行きの列車への乗り換え時間が7分しかないと聞いて、喉が渇いた私はお茶を買いに行ったのだが、ほとんどの仲間は急いでテイクアウトのソバを買いに行った。その美味しそうな匂いが漂って来る。レースで体から塩分を失ったため、どうしてもしょっぱい汁物が飲みたくなるのだ。 N駅までの車中は、走友会のあり方についての意見交換会になった。先ず掲示板には参加レースの報告などをもっと自由に書き込むこと。これは仲間の情報交換にも役立つ。そして土曜日の定例練習の時間を冬季は午前10時からにする。午後3時からだと終わるのが5時ころになり、より寒くなるからだ。そんなことを総会で話し合うことで落ち着いた。酔っ払って話すのが走ることとは、さすがは走友会だねえ。 帰宅して荷物を片付け終わった時は、既に10時を過ぎていた。もう夕食を摂るには遅過ぎる。冷えた味噌汁を2口ほど飲んで塩分補給の代用にし、ブログに簡単なレース結果を載せ、最後に風呂に入ってレースでかいた汗を流した。 さて、今回のナンバー通知表には、スタート時間に関するアンケート調査があった。私は「今のままで良い」に○をしたが、もしスタート時間が早まれば当日の朝に普通列車を乗り継いで行くのは極めて困難。伝統の「勝田マラソン」も、市民ランナーの急増で大きく変わろうとしているのかも知れない。果たして来年以降どんな運営になるか。心配を他所に、直ぐに深い眠りに就いた私だった。こうして今年の「初レース」は無事終了したのだった。<完>(参考資料:私の勝田マラソン全記録 )1999年(第47回:54歳)4時間18分00秒 氷雨、足首および膝痛2005年(第53回:60歳)4時間14分19秒2006年(第54回:61歳)4時間01分52秒2007年(第55回:62歳)4時間28分14秒 最高気温8度C2010年(第58回:65歳)4時間25分13秒(ネット4時間23分41秒)最高気温13度C
2010.02.05
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< ゴール後の風景 > 大勢のランナーが歩いている。きっと前半に飛ばし過ぎて力が尽きたのだろう。その横を歌を歌いながら走り抜ける。驚いて振り返る人、悔しそうな人。本当は自分も苦しいのだが、マラソンの真髄を発揮するのは37km地点から。ここをどう走るかでその日のレースが決まる。37km地点のASでスポンジを取る。結構暑かったが水を被れば風邪を引く。スポンジは顔に吹き出た塩を拭うためだ。 昭和通りから右折し、歩いている大勢のランナーを次々に抜き去る。間もなく午後3時。スタート後4時間で交通規制が解かれる。それまでにどれだけ頑張れるか。やがてパトカーのスピーカーから声が響く。「間もなく3時です。ランナーの方は歩道に上がってください」。走り易い車道から、仕方なく歩道へ上がる。すると後続のランナーに抜かれ出した。 彼らはずっと自重し、イーブンペースを保って来たランナーだろう。最後までしっかりした足取りで走れるのが凄い。それに比べて痙攣と戦っている私は、スピードがさらに落ちて来た。「ここが最後の頑張りどころ」と胸に言い聞かせ、交通信号が極力赤にならないよう注意しながら走る。お陰で一度も赤信号で停まらずに済んだ。 40km地点の通過時間は4時間12分ほど。残りの距離と速度を計算して、4時間30分は切れると判断。だがまだ油断は出来ない。昭和通りを左折し、暫くして右折。ゴールのある石川運動広場はもう直ぐだ。道路の両側から応援の声が飛び交う。最後の力を振り絞ってグランドへ飛び込み、ゴールへ一直線。タイムは4時間25分13秒。厳しい戦いにようやく終止符。 完走賞のTシャツを受け取りに歩き出した途端、宮城UMC古川支部のT田さんとバッタリ。彼もゴール直後だったみたい。握手を交わした後、得意のカメラで写真を撮る彼。そして2人でカメラに収まる。今回の完走賞は長袖Tシャツだった。完走証の正式タイムは自測と変わらず4時間25分13秒。そしてネットは4時間23分41秒だった。 実はレース中に長野の走るナースさんを探し続けていた。彼女のブログには、1週間ほど前の練習中に雪道で転んで顔面を打ち、3日前には仕事で腰を傷めたと書いていたため、とても心配していたのだ。だが、とうとう彼女の姿を見つけることが出来なかった。後日見たブログによれば私の4分後にゴールし、ネットタイムはさらに近かった。きっとお互い似たような位置で走っていたのだと思う。 荷物を置いた場所に居たのはY田さんだけ。M仙人はかなり前にゴールして、どこかへ行った由。ゆっくりと慎重に着替えを始める。少し無理な体勢になると痙攣が起きるからだ。案の定、ビクビクと右足に何度か痙攣。それを騙し騙し着替えを終了。M井さん、F田会長も10分ほど後に帰って来た。長老のD堂さんは残念ながら28km地点でバスに収容された由。そして70歳のM仙人は、「仙台国際ハーフ」の参加資格の3時間40分をわずか数秒オーバーしたとか。実にもったいない話だ。 古川グループが揃って顔を出してくれた。彼らは特急で帰宅する由。北海道のH賀さんも一緒だった。彼は年間50近いレースに出場するタフなランナーでT田さんの親友だ。一緒に来た仲間でまだゴールしてないのはY広さんだけになった。「俺達が待ってるからAさんは早めに帰って良いよ」と皆が言う。勤務上翌朝の起床が早いことを心配してくれたのだ。気遣いに甘えて私だけ駅に向かう。何とか4時半の電車に乗れるかもね。<続く>
2010.02.04
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< 痛み、苦しみ そして走友達 > 実はスタート地点で歩き出した時、右膝に激痛が走った。これでは5kmも持たないだろう。そう覚悟したほどの痛みだった。だが走っているうちに、いつの間にか霧散していた。あれは一過性の神経痛だったのだろうか。そして10km辺りまで感じていた「胸焼け」も、何とか治まった。きっと勝田に着く直前に食べたものがようやく消化したのだと思う。 ところが新たな問題が発生した。右膝周辺が痙攣し始めたのだ。今回はテーピングもせず、またサポート機能のあるタイツも穿かなかった。そして普段の練習とは違ったスピードで走り続けている。それが原因だろうが、塩分を摂らないことも少し関係してるかも知れない。いつもの勝田と違ってかなり高めの気温が、冬でもかなりの発汗を促す。 17km周辺になると沿道から、バナナ、ミカン、黒飴、チョコレート、氷砂糖、梅干など色んな食べ物が差し入れられる。だが、スタート前に十分食べ物を口にした私は、エネルギー補給する必要を全く感じてなかった。ただ、給水は出来るだけ摂った。常磐線の跨線橋を越えて間もなく左折し、JR東海駅前を通過。 20km地点は1時間56分ほど。そして中間地点を2時間4分ちょっとで通過。まだイーブンペースを保っている。暫くして東京のSさんに抜かれた。昨年の「佐渡島一周」では腰が本調子でないと話していた彼だが、ようやく復活したみたい。産業道路を左折する寸前にK公園RCの女性ランナーを捕らえる。ついに彼女もスピードが落ちたようだ。前半我慢した甲斐があった。 産業道路に入って間もなく、前方に金髪のアフロヘアランナーを発見。背の格好から見て千葉のボクシ~どんに似ている。近づくとやはり彼。背中に触れると冷たい。きっと汗が冷えて来たのだろう。灼熱のNAHAマラソンでも彼はこのスタイルで走る元気者だが、今日は一体どうしたのだろう。「ちょっと飛ばし過ぎてね」。その声が彼の調子を物語っていた。 「さくら道、頑張ってね」一声掛けて先行。「マイペースで行きますよ」。その声を背中で聞く。再び常磐線の跨線橋を越えた辺りが25km地点。通過タイムは2時間28分36秒ほどで、まだキロ6分ペース。暫く走った後、左手の林でトイレ休憩。27km過ぎからコースは蛇行を繰り返す。28kmの西原公民館前では、例年赤飯やけんちん汁をサービスしてくれるASがあるが、干し芋2個とチョコレート1個を鷲づかみして通過。それを食べながら走った。ゴール後の話だが、M井さんはここで一休みし、けんちん汁を食べたとか。実に余裕だねえ。 30km地点の通過が3時間00分12秒。右膝の痙攣が再発したせいかスピードが鈍って来た。次のASでは例年人形焼が出るのだが、今回はテーブルが空っぽ。そして道路に何かが踏まれた痕跡。ゴール後にM仙人から聞いた話によれば、今年は「マコロン」が出た由。きっと取り損ねて落としたマコロンを後続のランナーが踏み潰したのだろう。う~ん、もったいないなあ。 白菜の漬物を食べたASでは、ほんの少しだけ塩分補給が出来た。甘酒が出たのは33km付近だったか。生姜味の甘い飲み物が疲れた体に嬉しい。ここではエアサロンパスを借りて、右膝を冷やした。35km地点の通過が3時間36分ほど。とうとうキロ7分台まで落ちた。 ここで同じ走友会のS木さんに抜かれる。「ずっとマイペースですよ」。高校の後輩は、足取りも軽やかに走り去った。そして間もなくドラえもんにも抜かれた。あれれ、どこでドラえもんを抜いたか記憶がないぞ~。落ちるスピード。震える膝。それに首と肩が無性に苦しい。重たい頭と腕を支える頚椎や背筋が、きっと疲れて来たのだろう。ここからゴールまで、残り7kmが我慢のしどころだ。
2010.02.03
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< どんどん抜かれて > 仮設トイレに向かう途中S木さん夫妻に遭遇。多分前泊したのだと思う。エールを交換して別れる。トイレは意外に空いていて待ち行列は3人ほど。念のためだったが行っただけのことはあり、身軽になってさっぱりした。ゆっくり走りながらスタート地点に向かう。徐々に選手が道に溢れ出し、トイレ待ちの人も多い。やはり1万人規模のマンモス大会になると、様子が違って来るのだろう。 商店街まで行くと、ロープが張ってあってコースには入れない。一番後ろからコースに入るよう指示があるが、ロープを潜って3時間15分のプラカードのところにどうにか潜り込んだ。ここからスタートの横断幕までは100mくらいか。徐々に内側に移動すると、目の前に福島のA井さんの後ろ姿を発見。声を掛けて挨拶。相変わらず日焼けして元気そうな彼。 「スタート10分前」。スピーカーから声が響く。そして11時ジャスト。ついにその時が来た。慌ててストップウォッチを押す。ゾロゾロと前進する選手達。まだ走れずに歩くだけだ。スタート地点までのロスタイムは1分32秒。だが、しばらく歩きが続く。その間にA井さんの姿を見失う。どうせ彼が本気になれば、あっと言う間に置いて行かれるのだが。 1km地点が8分以上。そして2km地点も14分ほど。ようやく市役所前辺りからばらけて来だし、次第に走りやすくなる。後ろからどんどん抜かれる一方だが、それは計算済みだった。早くロスした時間を解消したいが、スタート直後のハイペースには着いて行かない方が後々のためだ。全身を青い衣装で包み、可愛い尻尾をつけた「ドラエモン」にも抜かれてしまった。 ペットボトルを持たずに走ったため、早々に喉の渇きを感じた。これは拙いと鼻呼吸に変える。その方が口の中の乾燥を防げる。3km地点周辺の私設ASで水が入った小さなコップをもらう。ごく僅かだったが、喉の渇きは何とか癒せた。5km地点の通過が32分12秒ほど。まだロスタイムが効いている。 馬渡十字路で右折し、馬渡下宿でぶつかる国道245号線を左折。ここから約10kmの直線コースになる。東京のK公園RCのシャツを着た女性ランナーが目に付いた。結構練習量が豊富そうな筋肉の付き具合。出来れば彼女に着いて行けたら良いのだが。だが追い着いては抜かれ、再び追い着いては先行される繰り返し。この辺りでも後続のランナーに次々抜かれる。 後ろから甲冑姿のランナーが追い抜いて行く。紙製の甲冑なので軽そうだが、背中にはちゃんと大刀が差してある。岩手県前沢の仮装ランナーはあっという間に見えなくなった。10km地点を1時間2分ちょっとで通過。スタートのロスを除けばほぼキロ6分ペース。このまま維持すれば、後半スピードが落ちても4時間30分は切れるはず。スピード練習をしていないのに無謀だが、今日は敢えて4時間半の壁突破に挑戦しようと決心。 13km過ぎから一旦下り坂となり、そこから20mほどの高低差の上り坂になる。前半で最も苦しい場所。この辺りで歩き出すランナーも何人か見かけた。声を出して気合を入れながらスピードを落とさずに登る。適当なターゲットがいたせいか、15km地点の通過が1時間28分と初めてキロ6分ペースを上回り、ロスタイムをようやく解消。それも束の間、坂を登り切り、原子力科学館を左折した途端に彼女はペースを上げた。<続く>
2010.02.02
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< 普通列車を乗り継いで > 4時にセットしておいた目覚ましが鳴った。睡眠時間は6時間ちょっと。着替えて1階に下りると、愛犬が盛んに尻尾を振っている。それを無視して朝食の用意。いつものようにご飯とおかずをチンし、味噌汁を温める。そしてその間にトイレを済ます。朝食後もいつも通り果物とヨーグルト。そして血圧降下剤を忘れずに服用。 マラソン用の服装に着替えて玄関に行くと、愛犬も散歩ではないと悟ったのかとても静かに見送ってくれた。マウンテンバイクのハンドルにスポーツバッグを載せ、ふらつきながらもペダルを踏む。大きなバッグに隠れて、懐中電灯の光が見えないが止むを得ない。道路が濡れている。昨夜は雨だったようだ。気温が零下になれば凍ったところだが、凍らないで助かった。 N駅の500m手前で歩いているD堂さんに遭遇。自宅から徒歩で来たと話す彼に、買い物があるからと断って先を急ぐ。駅前のコンビニでお握り3個とお茶を買う。お菓子や果物は家から持って来た。スタート時間の11時には腹が減る。その時とゴール後の食料だ。駅の東口に廻り、自転車置き場に行くと扉が閉まっている。開くのは始発電車が通る15分前らしい。 計算するとそれまでに12、3分はある。擁壁に座って待っていると、やがてY田さんが自転車でやって来た。驚く彼に事情を説明。ようやく扉が開いた駐輪場に自転車を納めて駅舎に入ると、三々五々仲間が集まって来た。誰が参加するのかは知らなかったが、M井さん、M仙人、F田会長、D堂さん、Y田さん、そして私がこの駅から乗る。さらにY広さんがM駅から合流とのこと。 当日の朝電車で会場へ向かうのは7名だが、前日から泊り込みで行っている仲間も何人かいるようだ。5時33分常磐線いわき駅行きの普通列車到着。34分発車。車内は夜遊びして朝帰りする感じの若者が多い。仲間全員が何とか座れた。Y広さんも2つ目の駅で乗り込んで来た。おしゃべりに花が咲くうちに列車は宮城県から福島県内に入った。そして夜明け。M仙人の話だと、今年の「エンジョグinみちのく」のコースは相馬の松川浦方面に走る予定とのこと。 朝食を食べて来なかった仲間がお握りなどを食べ出す。Y田さんからミニアンパンを1個もらう。どうやら腹の調子は快調だ。終点のいわき駅で下りて水戸行きの電車に乗り換える間、売店でアンパンとガムを買う。外の寒さに体を慣らすため、分厚いウインドブレーカーは脱いでいた。気持ち良い風。乗り換えた車内で勝田までの切符を買う。茨城県内に入っても天気は良く、海も穏やか。「勝田」には珍しく、風の無い暖かなマラソンになりそうだ。 この日、私は2つの冒険をすることに決めていた。1つ目の冒険は薄手のロングタイツを履くこと。これは「締め付け効果」のないもの。テーピング無しだと膝が心配だが、厚めのタイツよりは涼しく走れる。2つ目の冒険はペットボトルを持たずに走ること。気温が高めだが、給水体制がしっかりしている「勝田」では必要が無いと判断した。それに1月だから、さほど汗もかかないだろうとの読みがあった。 そして上は風通しの良い半袖Tシャツにすること。これも暑さ対策の一つ。昨年の「かすみがうら」でもらった黄色いシャツを初めて着る予定。念のために薄手の長袖も持って来てはいたが、多分着ないで済みそう。ただし手袋と帽子は身に着ける。これも着脱を繰り返すことで、体温の調整が出来るはず。ポシェットは無し。今日は徹底して身軽になって走るのだ。ただしその読みが果たして吉と出るかどうかは分からない。 勝田駅が近づくとF田会長は立ち上がってスクワットをし始めた。私はお握り1個、アンパン1個、バナナ1本を食べる。いよいよ臨戦態勢だ。駅から会場の運動公園までは歩いて10分ちょっと。何度も参加して地理に詳しいM仙人の先導で、最も近道のコースを選ぶ。既に受付時間は終了しているが、大丈夫なのは分かっている。 スタート地点のある商店街まで来ると、既に交通規制のため車は1台も見当たらず、道路でアップしているランナー達の姿ばかり。聞きなれた音楽が流れている。女声合唱曲「君よ勝田の風になれ」だ。会場に着くと受付を済ませてからいつもの土手に陣取り、シャツにゼッケンを付け、着替えをする。スタートまでの短い間にトイレに行く者、アップをするもの様々。次に仲間の顔を見るのはゴール後になるだろう。<続く>< 1月のラン&ウォーク >走った回数:23回(うちレース1回) 走った距離:276km 歩いた回数:毎日 歩いた距離:118km 月間合計(年間も一緒):394km これまでの累計:70、428km
2010.02.01
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