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~沖縄本島単独1周ランのスタート~ <沖縄 糸満市摩文仁平和祈念公園ロータリー> 平成20年7月某日。当時64歳だった私は、摩文仁の平和祈念公園に立っていた。いよいよ沖縄本島単独1周ランの始まりだ。この日、那覇空港から国際通りの宿に向かい、ランニング姿に着替えて、沖縄の走友の車で摩文仁まで送ってもらった。着いたその日のうちに走り始めるのは、日数を最短とするため。「7月の沖縄を走るのは自殺行為」と警告したのは彼だが、私は案外自信があった。 ひめゆりの塔 摩文仁公園を記念すべきスタート地として選んだのは「NAHAマラソン」の縁。ここが中間地点で馴染みがあった。それにトイレや水飲み場も知っていて、安心感があったのだ。沖縄本島の最南端から北へと向かい、今日は国際通りのホテルまで走る。距離は22km程度か。このコースは何度も走っていて、馴染みがある。走り出してすぐ、NAHAの24km地点「ひめゆりの塔」前を通過。 国道はやがて下り坂になり、左手遠方に名城ビーチが見えて来る。ここらは27km地点だったか。暑さは感じるが案外順調だ。転勤で内地へ戻って来てから、私は距離の長いウルトラマラソンを始めた。そのために暑い夏でもずっと練習していて、多少の自信はあった。沖縄でもまあ、何とかなるだろうと。 糸満ロータリー 糸満ロータリーも懐かしい場所。ここはNAHAの34km地点。近所には倉庫よりも大きな「門中墓」や、聖地白銀堂がある。糸満は漁師の街で、かつて甲子園を沸かせた「沖縄水産高校」もある。また「南部トリム」のスタート・ゴール地点で、かつては阪急ブレーブスのキャンプ地でもあった。怪我でNAHAを欠場した際、同じ走友会のK山長老をここで応援したのも懐かしい思い出だ。 <奥武山公園 左のトラックがNAHAマラソンのスタート・ゴール地> NAHAの第5回大会。つまり私の記念すべき初フルマラソンは、37km地点で激烈な痙攣を引き起こし、10分ほど倒れていた。それでもスポーツドリンクをもらって復活し、何とかゴールした苦い思い出。結局走り方を知らなかったのだ。空港への新コースではなく、昔の旧コースへ向かった。懐かしかったが、体調に異常を感じて休憩。沖縄へ来ていきなり走り始め、脱水症状になったのだろう。 夜の国際通り 何とか走ってホテルへ戻った。7時過ぎでもまだ明るく、気温は30度も。初日は22kmを走れたが、翌日は名護まで50kmほどある。それでも賽は投げられた。今更後戻りは出来ない。ホテルでシャワーを浴び、馴染みの居酒屋で、久しぶりに沖縄料理を堪能した私だった。<続く>
2019.01.31
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~別れと再会~ 私たちの場合、通常転勤の周期は2年か3年だ。暑さが厳しい沖縄では2年で交代することも多い。だが私は長男が高3だったこともあり、沖縄へ留まった。長女は内地の大学に合格し、暑さに参った前妻は娘と一緒の地で暮らすという。中2の次男の進学問題もあった。のんびりした沖縄でもう1年過ごしたら、内地のレベルに追いつけなくなるとの意見。こうして最後の1年は長男と2人暮らしになった。 食べ盛りの息子の食事には神経を使った。そこで3食ごとのメニューを作った。きっとそれが栄養過剰の原因になったのだろう。息子はかなりふっくらして来た。食事はまあまあ何とかなったが、裁縫がダメ。服やズボンを破って帰宅するとどうしようもなく、新規にあつらえるしかなかった。その心労で顎が開かなくなる顎関節症になり、糖分の摂り過ぎで糖尿病一歩手前になったのだ。 田港の御嶽 3年目。私はバイクで島内を駆け回った。後に世界遺産となったグスクや御嶽を始め、行きたいと思った場所には迷わず出かけた。新聞社がサービスでくれた県内各市町村ごとの地図帳が、その良き道案内になった。だから有名無名のグスクは30か所は訪ねたはず。中には息子の担任の社会科の教師が探しあぐねた古城跡も1発で探し当てた。伊是名島など離島の歴史的な個所もハブの恐怖と戦いながら訪れた。 やんばるの森 あれは私が沖縄を離れて10年以上もした時だった。かつての職場で、沖縄本島一周駅伝を実施したと言うのだ。「いや~、それなら是非自分も呼んでほしかったなあ。そして一緒に走りたかったなあ」と言うのが偽らざる心境。ある時その思いが強くなり、とうとう「自分1人で沖縄本島をグルリ1周走って見よう」との冒険心が脳裏を過ったのだ。あれはひょっとして「悪魔のささやき」だったのか。 無謀なことは十分承知の上。きっと多大なる危険も伴うことだろう。それでも走りたい。当時は第2の人生でパートの肉体労働者で、休めるのは土日を入れて3日間程度。なので1度に一周は無理だが、数年間の長期計画でなら大丈夫かも。ただ自分の体調が心配。じっくりとプランを練り上げた積りだったのだが、第1回に選んだのが7月。沖縄の走友には自殺行為と言われてしまった。でも私は行くよ。<続く>
2019.01.30
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~日本から世界へ~ 大坂なおみ選手、やりましたね。全豪オープンテニス大会シングルスでの優勝。かなりハードなスケジュールでした。決勝戦も、それに至るまでのゲームでも、たびたび危ない場所がありました。精神的にかなり強くなりましたね。全米に続く4大タイトルでの2連覇。世界ランキング1位も当然でしょう。ベスト8で敗れた錦織選手も、4時間とか5時間を超える試合で勝ったのですから立派ですね。 初場所の優勝は13勝2敗の関脇玉鷲でした。今場所は稀勢の里が引退したり、角竜、白鳳が相次いで途中休場となりました。その中でダークホースの玉鷲の優勝は見事でした。初優勝時の年齢が歴代2位と言うのも立派ですが、初土俵から1度も休まずに出場し続けての優勝は力士の鑑です。11勝4敗の貴景勝大関取りは、来場所再挑戦となりましたが良く頑張りましたね。遠藤の10勝も嬉しい出来事でした。 残念ながら元プロスキーヤー三浦雄一郎さんの、南米最高峰アコンカグア登頂挑戦は実現しませんでした。86歳の高齢で、しかも不整脈の持病がありながら、各大陸最高峰の最高齢登頂に挑んで来た三浦さん。今回は体調不良のため6000mを越えたベースキャンプの先で、下山を決意したそうです。その年齢でのチャレンジ精神に頭が下がります。でもあまり無理はして欲しくはないのですが。 日ロ首脳会談も、どうやら実りはなかったみたいですね。日本は4島一括での返還の声がかなり強かった時代もありましたが、ロシアは日本の「北方領土」と言う表現すら許してない由。それにエトロフ、クナシリには軍隊を配備し、日本への返還を拒否する国民が圧倒的なのです。経済状況が良くないロシアの国内事情に鑑みて、今回少しは脈があるかななんて考えていたのが甘かったようですねえ。 ルノー、日産、三菱自動車3社の会長として君臨していたゴーンさん。今回も保釈申請が却下され、世界のメディアでは日本の司法制度を批判する報道が目立ちました。だがその後の「余罪」が次々と明らかになり、独裁者の言いなりの会社運営の一端が明らかになって来ました。そして日産と三菱に続き、とうとうルノーでもゴーン会長の辞任が確実な気配。後はどこまで検察が実態を解明するかですね。 私は韓国の動向にもあきれています。海上自衛隊哨戒機へのレーザー照射、その後の日本政府への非難など一連の行動を見ると、この国には道理が通じないことが分かります。最高裁判事も、政府の意見を聞く人を任命し、軍部の上層部も首をすげ替えて反日姿勢を明確にしています。一方北朝鮮との統一に向けて一目散と言った感じで、到底健全な自由主義国家とは呼べなくなりました。 朝鮮1 かの福沢諭吉が朝鮮は約束を守らない国だと、明治時代から喝破していたようです。かつて日本が朝鮮を併合した40年ほどで、人口は2倍に、国民総支出は2倍に、鉄道は0kmから6千kmに、小学校は5213校新たに設置し、識字率が10%以下から61%へと向上したのです。人口の倍増はもちろん衛生状態や、栄養状態が比較的に改善されたからです。併合前の写真は大変悲惨なものですよ。 朝鮮2 もちろん日本は朝鮮から物資を収奪したこともなく、逆に日本は莫大な国家予算を朝鮮の発展のためにつぎ込んだのですが。その事実を受け止めず、反日を叫ぶことが正義や愛国だと教育しているのです。同じ立場の台湾とは全く対応が違っていますね。わが国にも結構「反日族」が多いみたい。今日は急遽異なるテーマを入れましたが、明日はまた沖縄の話に戻る予定です。
2019.01.29
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~琉球王国の栄光と挫折~ <琉球王朝の家紋 左三つ巴> 沖縄本島の北部は「北山」と呼ばれ、樊安地(はんあんち=地名の羽地を中国式にしたのだろう)が支配。南部は南山と呼ばれ他魯毎(たろみ)が支配。これを破って統一したのが中山の尚家。それまでは各豪族が勝手に中国に使者を送っていたのを統轄。尚円から始まる第二琉球王朝は首里に王府を移し、奄美群島から八重山地方までを傘下に収め、中国との柵封体制と貿易により、巨大な富を得ることになる。 島津家家紋 その富に目を付けたのが島津藩。仙台藩領に漂着した琉球王国の島民を引き取って琉球まで送った。ところが琉球王から何のお礼もなかったことに憤慨し、家康に討伐を願い出た。実は室町時代にも琉球の富に目がくらんだ豪族が将軍に討伐を願い出たのだが、実現はしなかった。琉球へ侵攻した島津藩は、たった3日で首里王府を降伏せしめたと言う。何せ琉球にはさしたる兵器はなかったのだ。そしてかつて琉球に奪われた奄美の8島もこの時に奪い返した。 これが琉球王朝時代の最大貿易範囲。北は日本、朝鮮、中国、現在のフィリピン、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどだからその広さが分かるだろう。沖縄にさしたる貿易品はなく、せいぜい螺鈿と硫黄。螺鈿は貝殻だし、硫黄は奄美の中に琉球の飛び地としてある「硫黄鳥島」から採れた。火薬の材料であり、火山のない中国にはとても貴重な資源だった。 ただ、琉球に貿易船を建造する技術はない。遠洋航海が可能な「竜骨」を備えた構造船は、中国に依頼し造ってもらった。通訳も中国人。各地に華僑がおり、外国語に通じていたためだ。柵封下の国々へ、中国は貢物の数倍の品を与え、琉球はそれを持って外国へ出かけ、別なものと取り換えた。日本からは刀剣や蒔絵など、南方の島々からは貴重な香料や香木など。つまりバーター取引で琉球は栄えたのだ。 琉球は中国にとって好都合な国。大切に敬ってくれるからだ。それで琉球を「守礼の邦」と呼んだ。これが「守礼門」の謂れ。だが薩摩にとっても琉球は好都合。琉球の貿易は薩摩の収益につながったからだ。琉球ではサトウキビを増産させ、税として薩摩に収めさせたためさらに収益は増した。明治維新での薩摩の活躍は、一面で琉球の犠牲のもとに成り立ったとも言える。 幕末期、ペリー提督の率いる米国艦隊が琉球に立ち寄った。琉球を奪う意向もあったのだろうが、まず日本へ開国を迫りに向かった。この時琉球は水と燃料を無料で提供したため、船はそのまま立ち去った。上陸した艦隊の観察によれば、琉球の士(さむれー)はとても無気力で、ただ煙草をくゆらすだけだった由。もし日本が開国しなかったら、琉球は米国に奪われていたはず。まあ歴史に「もし」はないのだが。 危機感が乏しかった琉球は、江戸初期に薩摩の支配下となり、明治期には一時期琉球藩となった。その琉球人が台湾に漂着して蛮族に殺害されると、明治政府は清国に抗議して日清戦争の端緒となり、賠償として台湾を割譲。「琉球処分」の際に清に助けを求めた琉球人は、よほど時勢を見る力がなかったのだろう。維新前夜、日本では血で血を洗う大変動があったのだが、沖縄で死んだ者は数人だ。 東京帝国大学で農学を学んだ英才謝花昇(じゃはなのぼる)は、故郷沖縄県の技官として働き、様々な改革案を提案する。だが、彼の意見に耳を傾ける者はなかった。初代の奈良原県令(現在の県知事)は旧薩摩藩士で、鹿児島の豪商に沖縄開発の権限を許すなどの悪政。税も全国で一番厳しかった。東北出身の第3代上杉県令は沖縄を憐れみ善政を行ったが短期で転任。絶望した謝花は神戸駅で狂死した由。 那覇 孔子廟 かつては広くアジアの国々と交易し繁栄した琉球王国。だが国際認識に欠け、かつ学問を怠れば衰退は目に見えている。今も島嶼県の特殊性に慣れ染まり、特定の情報を鵜呑みにし、ただ「基地反対」を叫んで国から膨大な予算をせしめる沖縄。かつての宗主国である中国を未だに信奉する県民もいるのだが、そろそろ現実に目覚めるべきと思うのは、果たして筆者だけだろうか。<続く>
2019.01.28
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~言葉と名前~ 那覇空港に降り立つと、カトレアの花と「めんそーれ」の言葉が旅人を出迎えてくれる。「めんそーれ」。聞きなれない響きだが、私はすぐに古語の「参り候え」(まいりそうらえ)から来たのではないかと感じた。少し異なるが、おおよそは歓迎の意味。この日から私はうちなーぐち(沖縄方言)と向かい合うことになった。そしてさまざまの不思議な名前とも。 耳慣れない言葉と名前だが、そこに何らかの法則があることも分かって来た。「いなぐ」これは女の意味だが、東北では「おなご」。「うむ」は芋のことで、「たーうむ」は「田で栽培した粘り気のある芋」のこと。万葉の時代、芋を「うも」と呼んだのも後で知った。「うも」と「うむ」は酷似している。ああ沖縄の方言には、日本の古い言葉が残っているんだなあと感慨深かった。 現代日本語は5母音だが、かつては「ゐ」(wi)や「を」(wo)のような母音もあった。また「ふぁ」のような発音もあった由。青は「あお」ではなく「あを」だったのだ。ところが沖縄方言の母音はAIUの3つ。だから御嶽(おんたけ、おたけ)が沖縄では「うたき」。O(お)はU(う)に、E(え)はI(い)に変化したわけだ。その原則が分かれば、理解は早い。 不思議な変化はまだまだある。N音とM音の転置だ。例えば地名の新原は「みーばる」と読む。「にい」が「みー」に変化した訳。原を「ばる」と読むのは九州と共通。沖縄本島南部にコマカ島と言うのがあるが、地元では「ふまか」。khoのkが欠落しhoがfuに変化した訳だ。玉那覇(たまなは)と言う地名・人名を方言では「たんなふぁ」とfa音が残り、離れが「ぱなり」とp音まである。 瑞慶覧(ずけらん)や座津武(ざっつん)のように、先頭が濁音の地名、人名が結構多いのも沖縄の特徴だ。おまけに最後が「ん」となるのは内地では少ないと思う。だが鹿児島には知覧(ちらん)のように「ん」で終わる地名がある。鹿児島の伊集院に対して、沖縄は伊集(いじゅ)とかなり良く似ている。人の交流があったことの証とも思える。実は琉球と薩摩との因縁は深い。 薩摩藩が琉球王国を征服後、内地と同じ沖縄の名前は字を変えさせた。例えば中間は仲間、石峰は石嶺、松村は松茂良(まつもら)、中山は仲井真(なかいま)、中曽根は仲宗根と言うようにだ。はっきり一目で琉球人と分かるように、識別したのだ。一説によれば、内地と同じ姓が沖縄にあるのは、倭寇が原因とも言われる。宮古島の仲宗根豊見親の祖先は、元々目黒森姓。倭寇だったのだろうか。 沖縄の姓のほとんどは地名から来ていると言って良い。琉球王朝時代、按司(あじ=地域の支配者)は沖縄本島の間切(まぎり=現在の市町村)を転任した。そしてその間切名を姓とする習わしがあった。ところが任地が変わると姓までも変わる。だから血族で姓が異なるのは普通。その代わり士(さむれー=侍)や貴族の男子は、共通の漢字を名乗頭に用いる。貴族の場合は「朝」。屋良朝苗がその例だ。 貧しかったかつての沖縄では、大勢の県民が国の内外へ移民した。南米やハワイなどもその行き先。戦後ジャイアンツにいた与那嶺選手はハワイ出身で、うちなんちゅ2世。内地で差別された沖縄人の苦労話も聞く。そのため島袋から島へ改姓し、金城を「かねしろ」と読ませるなどしたとも。私は今でも沖縄の地名や人名には敏感で、そのルーツを考えてみる癖がある。<続く> 昨日はツアーで蔵王の樹氷を見に行ってました。最近PCの入力がおかしくなり、小さな文字しか出なくなりました。皆さんからはどう見えていますか?もし見えにくかったらお許しを。(^_-)-☆
2019.01.27
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~人はどこから来たのか その3 伝説編~ 『遠野物語』で有名な民俗学者、柳田國男の学説に「海上の道」がある。日本人に欠かせない米や稲作文化は海上の道すなわち琉球列島の島々を経由して伝わったとする考え方だ。台湾から九州まで点々と続く南西諸島を通るとする説は、当時は説得力があった。だが柳田の専門は伝説や風俗で、考古学的な発想は乏しい。沖縄の縄文土器から見ても、九州から沖縄へ向かう人や文化があったのは確実だ。 アマミキヨの墓 さて琉球神話によれば、島へ最初に来た神はアマミキヨとシネリキヨの夫婦神とされる。その名前からも彼らが海人(あま)族だったと推定出来よう。奄美の「あま」にも通じ、海の民だったことが分かる。2人の墓は沖縄本島東部の浜比嘉島にある。また穀物の種が久高島の浜辺に漂着したとの伝説や、夫婦神が本島南部から上陸したとされる。つまり祖先は北から南へと向かったわけだ。 沖縄には源平どちらの伝説もある。左は源為朝。島流しにあった八丈島を抜け出し、琉球へ来て舜天王の先祖となった話だが、いささか荒唐無稽。一方の平家は敗れて南島へ逃れたと言ういわゆる「落人伝説」。先祖が貴人の末裔とする思想は日本の各地にある。古代の文献には、阿児奈波(あじなわ=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が残る。きっと現地人の発音がそのように聞こえたのだろう。 渡海船 写真は和歌山県補陀落山寺の渡海船の模型。海の彼方にある極楽を目指す僧が、1か月分の食料だけ持参してこの船に乗る。扉は釘付けされ、波に流されるままに漂う。この補陀落信仰の僧が古代琉球に仏教と漢字を伝えたとされる。確か13世紀以前と記憶しているが、それほど沖縄の「歴史時代」は新しく、かつ謎に満ちている。琉球への文化伝来の一端が窺える話だ。 「倭寇」も沖縄と密接に関わっている。本拠地は九州にあり、中国沿岸を目的地に定めた後期は、沖縄本島東海岸や宮古島に「基地」を設けたとされ、両地区に内地と共通する地名や人名が多いのはそのせいと言われる。中国は当時沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼んだ。後年中国の柵封使をもてなした「識名園」は海が見えない場所で、琉球の広さを悟られないための策。中国にとっては「大琉球」だったのだろう。 尚円王肖像 第二琉球王朝初代王尚円(しょうえん)は本島の北に位置する伊是名島出身で、庶民の出。これが島民から追放されて本島に渡り、やがて王に仕える。その遺児が幼かったため、臣民に推されて王位に就いたとされるが実際はクーデターだろう。本名は金丸(かなまる)で、日本の名そのもの。一説によれば倭寇の末裔との説もあるが、果たして時代が合致するかまでは確認していない。 辺戸岬 沖縄本島最北端の辺戸岬の海中洞窟から、縄文時代の住居跡と遺物が見つかった。当時琉球大学理学部の木村教授の調査隊が潜水して調査したのだ。実はこの岬こそ、琉球神話の夫婦神が最初に上陸した地点なのだ。「縄文海進」で洞窟は海中に没したが、なかなか示唆に富んだ事実。夫婦神はここから島の東海岸にそって南へ向かった。神話や伝説が幾ばくかの真実を秘めているとは言えないだろうか。<続く>
2019.01.26
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~人はどこから来たのか その2~ 石垣島の「白保竿根田原洞穴遺跡」は白保海岸から800m西側の丘陵地帯にあり、標高は30~40m。当初新石垣空港は白保海岸を埋め立てて建設する計画だったが、反対のためこの地に決定。それが日本考古学界の大発見につながったのだから皮肉なもの。反対派は再び反対した。洞穴は滑走路の下にもつながっていて、危険と言うのがその理由。わが国には何にでも反対する「進歩人」がいるのだ。 復元された顔 発掘された人骨の新しいものは1万年前。古いものは2万7千年前で、全身骨格がそろった人骨では国内最古のものと認定された。身長は165cm以上あり、港川人よりかなり背が高い。頭骨から復元されたのが上の写真。解析の結果、DNAは南方由来のものと判明。琉球王にもその傾向が認められ、港川人同様、石垣島の人骨にも南方の血が残されていた。だが、それが沖縄人の先祖とはならないのが不思議。 南から来たとすれば海を渡るしかない。考えられるのは丸木舟。しかも何組かの男女を含む家族でやって来たのだろう。台湾から葦船で与那国島へ渡る実験をしたが、黒潮に流されてたどり着けなかった。また竹の筏でも漂着出来なかった由。それで今度は丸木舟で渡ることに。多分うまく渡れるはず。なぜなら丸木舟の実績があるからだ。ただし縄文時代の話だが。 これは鹿児島県で発掘された「丸ノミ石斧」。先端部分が丸くえぐれているのは丸木舟を作るため。ところがほとんど同様のものがインドネシアから発掘されている。かつてインドネシアからフィリピンにまたがる亜大陸「スンダランド」は地殻変動で島になった。人々は移動手段として丸木舟を作り、フィリピン、台湾、沖縄と渡ったというのが最近の仮説。台湾から与那国島までの実験は、それを裏付けるためのものなのだ。 木を切り倒した石斧がこれ。木を切って森を切り開いた地域もあったろう。採集文化と考えられて来た縄文時代にも、実は栽培文化が根付いていたことが分かって来た。三内丸山には広大な栗林があり、何種類かの作物も育てていた。鹿児島の上野原遺跡は縄文時代最大の集落が形成されていた。当然栽培もされていただろう。稲作が縄文時代にあったことが分かっている。ただし水稲ではなく、陸稲なのだが。 その上野原遺跡が消えた原因は、「鬼界カルデラ」の大爆発。灰は沖縄本島までも降り、本島北部の土は火山灰のせいで赤茶色。酸性土壌のためパイナップルには適していると言う。阿蘇カルデラ、姶良カルデラ、そしてこの鬼界カルデラの大爆発で、西日本の縄文文化は長期間途絶え、沖縄でも空白の時期があった由。そして阿蘇山、桜島、諏訪之瀬島の各火山は現在も活動中だ。 宮古島の縄文土器 沖縄では「縄文時代」ではなく、「貝塚時代」と呼ばれる。採集文化が内地よりかなり遅くまで続いた。ただし縄文土器が沖縄でも発掘され、最西端は宮古島。その先の八重山からは見つかっていない。この時代の沖縄人は縄文人と少し残っていた南方系の混血だと思う。でないと琉球王のDNAに南方の痕跡が残っていた理由が分からない。そして縄文人は、北から丸木舟に乗って来たはずだ。<続く>
2019.01.25
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~人はどこから来たのか その1~ 琉球王の肖像 沖縄の話が今日で10回目を迎えた。最初は思い出話から始まったのだが、だんだん深みにはまり、ずぶの素人のくせに専門的なことを書くのをお許しあれ。私が沖縄を去って15年もした頃、第一琉球王朝の王の遺骨のDNAからインドネシアの特徴が見つかったとのニュースを聞いて驚いた。 墓は仲井真グスクのはずで、私も勤務当時に訪ねたことがあった。役場(当時は玉城村。現在は合併して南城市)の人に場所を尋ねたのだが、少し怪しんでいた。実は米国人が勝手に墓を暴き、鉄製の武具などを掘り出した「事件」があったようだ。グスク(城)とは名ばかりで、静かな谷あいの風葬墓だった。 <山下洞窟:那覇市> <港川人> 在任中、那覇市の山下洞窟を訪ねたことがある。人骨が発掘され、3万2千年前の炭化物が発見された。奥武山公園の傍の普通の洞穴だった。具志頭村(現在は八重瀬町)の港川フィッシャー遺跡からは数体の人骨が発掘されている。男性は153~155cm、女性は144cmと小柄。当時は縄文人の祖先と考えられていたが、その後の研究でニューギニアやオーストラリアのアボリジニと近いことが判明。栄養状態が悪く、骨には栄養失調の痕跡が見られた由。遺跡には入れず、その前を通過しただけだった。 日本人はどこから来たか。その謎を解くため、様々な分野の研究が進んでいる。縄文人と弥生人が混血して日本人の祖先になった話は定説だ。そして東北や九州に縄文人の特色が色濃く残り、瀬戸内や関西などは弥生人の特色が残るのは、周辺部での混血度合いが少なかったためと考えられて来た。その後のDNA解析により、縄文人、アイヌ人、沖縄人が極めて近いDNAを有することや先の定説も確認された。 ミトコンドリアDNAの解析が進むと、新たな事実が分かった。日本人は周囲の民族とは異なり、かなり古い時代のアジア人を祖先に持つことが判明。他にその特徴を持つのはチベット族と、インド洋の孤島民のみ。それらは奥深い高原や大陸から離れた島で、他民族との交流が乏しかったためと推定。また日本人は、滅亡したネアンデルタール人のDNAを一番多く引き継いだ民族であることも判明している。 <石垣島 白保竿根田原洞穴遺跡発掘現場と現地説明会> さて2007年、新しい石垣空港建設現場から大変なものが発見された。旧石器時代から16世紀までの複合遺跡だ。そして驚くことに、合計で20体以上もの人骨も。一番古いものは2万7千年前のもの。こうして沖縄から古い人骨が見つかるのは、島全体がアルカリ性の石灰岩だから。逆に日本列島は酸性度が高い火山灰で覆われているため人骨が解け、残りにくいのだ。<続く>
2019.01.24
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~住まいと暮らし~ <重要文化財 中村家住宅 沖縄本島北中城村> 平成元年に初めて中村家住宅を訪れた時には驚いた。よくもこれだけ立派な民家が残っていたものだと。なぜならここらは大戦の戦火で、すべてが焼けつくされた地区。堂々たる構えで石の「ひんぷん」(目隠し)も初めて見た。母屋は表の一番座から三番座まで。二番座が確か仏間だったはず。その陰に裏の一番から三番まで3部屋。寝室や物を置く場所だ。東の離れには太陽信仰の場所があった。 母屋の軒先は長く突き出ている。「あまはじ」と呼ばれ、強い日差しを避ける工夫。屋根は赤瓦を漆喰で固めてある。もちろん強い風雨から守るためだ。敷地の一角には高床式の倉庫や家畜小屋もあり、「フール」があった。これはトイレで、その下の石囲いの中で豚を飼育している。当時は大家族で大量の芋が食料だから、きわめて合理的な考え。それも沖縄独自の立派な文化であり、恥じることはない。 <重要文化財 上江洲(うえづ)家住宅 久米島> 久米島の上江洲家住宅を訪ねたのは、今から4年前の70歳の時。最後のレース「久米島マラソン」(フル)出場の際だ。ここは具志川城主の末裔と伝わる旧家で、王朝時代は島の頭職を務めていた。中村家住宅同様の造りで、倉庫や家畜小屋とフールの形骸が残っていた。久米島最高の祝女(のろ)である君南風(きみはえ=地元ではちんべー)の拝所も近く、王朝時代の暮らしぶりが偲ばれた。 <重要文化財 宮良殿内(どんち) 石垣島> 石垣島の宮良殿内を訪ねたのは、大阪勤務当時の平成8年。宮良家は琉球王朝時代、八重山の頭職(かしらしょく=取締り)を首里の王府から命じられた家柄。当家の歴史史料の一部は、琉球大学附属図書館に保存されている。宮良家の「名乗り頭」は「當」。「當壮」などのように、先祖代々名前の先頭に「當」の字を充てた。貴族の名乗り頭は「朝」。日本の「朝臣」(あそん)から来たとの説がある。 <国の有形文化財 竹富島の赤瓦集落> 八重山地方の竹富島には、4年ほど前に観光で行った。赤瓦の集落で有名だ。人口およそ300人の小さな島だが、ここで驚くべきものを発見。写真を撮った山の名が「赤山」で、「われわれの先祖は平氏」と書かれた案内板があった。赤は平家の旗の色で、先祖を忘れぬよう、物見の小山を「赤山」と名付けた由。そう言えば沖縄には「南走平氏」の伝説が残されている。その一方、源為朝伝説も伝わる。 沖縄の習俗の一つが「石敢當」(いしがんどー)とシーサー。前者は三差路には必ず建てられると言って良い石の標識。これは中国の勇者の名を石に刻み、魔物を避けたとの伝え。遠くは九州にもあると聞いた。右のシーサーは本来「獅子」で、沖縄では守り神のような存在。屋根の上にもあり、魔物の侵入を防ぐ働き者だ。第二琉球王朝の王墓「玉陵」の屋根でも、にらみを利かせて鎮座している。<続く>
2019.01.23
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~失われたものと残ったもの~ 上陸する米軍 第二次世界大戦では、国内で唯一沖縄で地上戦があった。犠牲者は軍人と民間人併せて30万人以上。沖縄本島周辺はアメリカの軍艦で溢れ、連日の艦砲射撃で地形までが変わった。今でも工事中に不発弾が発見され、その都度住民は退避し爆破処理が行われる。艦砲射撃の嵐の後上陸した米軍は、日本軍と激烈な地上戦を繰り広げる。 白旗の少女 墓の中や洞窟に隠れた県民を、米軍は手りゅう弾や火炎放射器で攻撃。人々は追い詰められ、南部へと逃げた。洞窟は軍の最後の砦であり、捕まれば殺されると教えられた住民は万歳しながら崖から飛び降りた。「ひめゆり部隊」の悲劇も名高い。写真は「白旗を掲げる少女」。たった1人洞窟を抜け出し、米兵に助けられた話は有名。降参した人を米軍が殺すことはなかったのだ。 戦後の那覇 那覇市内に戦後「奇跡の1マイル」と呼ばれた箇所がある。現在の「国際通り」がそうだ。焼け跡の残骸を片付け、凄まじい勢いで復興させた住民。1マイル=1.6kmは国際通りの長さ。そこに次々とバラックの店を建て、ヤミ商売を始めたのだ。当時は米軍の統治下にあり、交通は右側通行で、通貨はドルしか使えなかった。見事に整備された街並みは、今国内外の観光客で賑わっている。 沖縄の古写真 戦後の沖縄で「1フィート運動」が起きた。戦争で失った沖縄の風景を蘇らせるため、県民の寄付でフィルムを少しずつアメリカから買い戻す運動だった。わが職場では沖縄関係出版物の収集のみならず、戦争で失われた資料の探索と保存も任務。私が在任中に実行したのは、米国国立公文書館の沖縄関係資料の一部を複製整備したことなどで、国の機関の協力も大きかった。 ペリーのスケッチ 仲宗根政善氏(琉球大学名誉教授)が精力的に収集した、琉球方言(中でも今帰仁地方の)関係資料も購入した。さて、ある時中国人の調査員が訪れた。「尖閣諸島の古地図」の有無を確認するためだ。だが私は即座に「ない」と断った。尖閣諸島を含む台湾の教科書が発見されたのはそのずっと後。国境線の外側に琉球所属と書かれた尖閣が載っていた由。その台湾を、今中国は虎視眈々と狙っている。 戦前の首里城 首里城の古い写真を探しに来られた方もいた。復元工事のため、正殿の柱の色を知りたい由。あるのはあったが、カラーではない。結局戦前に撮影した鎌倉芳太郎氏が残した資料が役に立った由。氏は内地の人で染色と沖縄文化の研究者。沖縄女子師範の教師でもあった。彼が撮影した写真や、詳細な調査結果が復元に役立った。「うちなんちゅ」だけで、あの城は復元出来なかったのだ。 復元後の正殿 柱の色は赤と黒の2説あった。だが元々赤く塗られた漆が、経年変化で黒ずんだのが真相と判明。私が沖縄を去った翌年、青空の下に美しい正殿が現れた。日本の城とは趣が異なる王宮。ただしその後アメリカで発見されたカラー写真によって、屋根瓦が赤でなかったことが判明した由。なお世界遺産の指定はこの復元後の建物ではなく,あくまでも「首里城跡地」なのである。<続く>
2019.01.22
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~暮らしと祈り その2~ 普天間宮奥宮 沖縄の聖地の一つがガマ。洞窟のことだ。隆起石灰岩で覆われた沖縄には、こんな鍾乳洞が多い。家を建てる技術がなかった時代、祖先たちはこの洞窟で暮らした。洞窟は風葬の適地でもあった。沖縄では「貝塚時代」が長く続き、近世になってようやく神社が建てられる。奈良三輪山の山頂の何もない磐座(いわくら)。あれが原始神道そのもの。糸満市の白銀堂や那覇市の波の上宮にも洞窟がある。 普天間宮奥宮 琉球王朝への仏教伝来は鎌倉時代あたりと言われる。補陀落信仰の舟が熊野や足摺岬から琉球に漂着し、僧が漢字と仏教を伝えたと。中国からではないのだ。ただし仏教は琉球王の繁栄を祈るためで、しかも許されたのは真言宗と臨済宗。それは支配者の薩摩藩がそうだったためで、琉球の神社建築は真言宗の寺にのみ付随していた由。だから庶民の信仰は依然として御嶽などの民間宗教だったのだ。 百按司墓 百按司と書いて「むむじゃな」と読む。本島北部今帰仁村(なきじんそん)の運天にある風葬墓だ。一説によれば今帰仁城主や、その縁者が葬られたと伝わる。さて日本神話にも風葬の気配が漂う。イザナギが亡き妻イザナミを訪ねて黄泉の国に行った際、顔にウジ虫が湧いた姿で現れた前妻。自然に遺体が腐る風葬は、湿度が高い日本には適していたはず。まして高温多湿の沖縄ならさらに合理的なのだ。 かつて東京帝国大学がここの遺骨を持ち出した。研究のためだが、未だに理学部人類学教室にあると聞く。同様にアイヌの墓から人骨を掘り出した北海道大学は、その後遺骨を返却した。こちらは比較的に新しく、末裔がはっきりしていたのだろう。 <宮古島 仲宗根豊見親の墓> 聖地を訪ねるうち、幾つかの風葬墓に出会った。中が丸見えで累積する白骨。県道のすぐ傍だったのにはビックリ。戦前までは風葬の遺骨を数年後に洗う風習があった。それに近い風習が鹿児島の与論島に残っている。岡本太郎に風葬墓を案内した久高島の島民が狂死したかつての事件。風葬地は島外の人間には秘密で禁忌の場所。また貧しい墓制と考える島の人たちの屈折した思いがあったのだろう。 <中城城のうふがー(大井戸:左)と西原町の拝所(右)> 民間信仰として、火の神(ひぬかん)や魂を呼び戻す「ゆた」が存在する。ゆたは恐山の「いたこ」と同じ源だろう。発音も近い。「ゆた」はかなりインチキそうだが、沖縄では今でも魂の存在を信じる老人が多い。私は恐れ山のイタコさんから修行の話を聞いたこともある。「土帝君」や「孔子廟」は中国との柵封体制成立後大陸から伝わったのだろう。 ところ変われば品変わる。エイサー(左)やミルク(右)が仏教から来たものと聞いたら驚くかも知れない。勇壮なエイサーは沖縄の「盆踊り」に相当し、ミルク神は弥勒信仰が変化したもので、あの世から人々に幸いをもたらす存在だ。祖先を大切にし、世果報(ゆがふう=豊作)を祈る気持ちは、今なおうちなんちゅ(沖縄人)の切なる願いで、様々な伝統行事として伝えられている。<続く>
2019.01.21
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~暮らしと祈り その1~ 沖縄に来て驚いたことはたくさんあるが、宗教もそのうちの一つ。住まいの身近にも、それを窺わせるものがあった。たとえば「カー」(泉)だったり、フィージャー(樋川)だったり、御嶽(うたき)だったり、拝所(うがんじゅ)だった。ガジュマルの大木や大きな岩や、洞穴などが信仰の対象であることが分かった。まさに原始神道そのもの。内地では失われたものが、沖縄には色濃く残っていると直感した。 浦添ようどれ ある時、浦添城跡を訪ねてビックリ。ここは第二琉球王朝初期の王都で、崖の中腹の「ようどれ」は王家の風葬墓だ。この山頂から白衣を着た老婆が海に向かって手を合わせていた。沖縄では昔から海の彼方に「ニライカナイ」と言う極楽があると信じられて来た。まさにその信仰を見た思いだった。それからの私はバイクに乗り、地図を片手に沖縄の聖地巡りを始めた。怖いもの見たさとも言える。 勝連城 数年前のこと「琉球王国のグスク及び関連遺産」が世界遺産に登録された。グスク(城)は、首里城、中城城、座喜味城、勝連城、今帰仁城の5つ。最後の2つは地方の豪族が建てた城だが、そのほとんどが大戦で破壊され、その後再建されたもの。首里城内の園比屋武(そのびやん)御嶽と斎場(せいふぁ)御嶽は共に王朝の聖地。玉陵(たまうどん)は第二琉球王朝の王墓。識名園は王の別荘で中国の柵封使をもてなした。 今帰仁城 私はすべてを訪ねているが、識名園だけは1度しか行っていない。さて沖縄のグスクは内地の城と同一ではない。民俗学者の仲松弥秋(元琉球大学教授)によれば、城の他に、砦、墓、御嶽、古い集落跡などのケースがある由。そして大きな城には必ず御嶽と井戸があり、付近に風葬墓があるケースが多い。王は神と共に戦っていたのだ。私は40近くの城や御嶽などの聖地を訪ね、とても貴重な体験をした。 斎場御嶽 御嶽(うたき)は名前が示すように、本来は山上の聖地だったのだろう。高い山の上に神が降臨すると言うのは、北方民族共通の信仰だ。沖縄のちょっとした高地には大抵御嶽があり、拝所(うがんじゅ)として香炉が置かれるケースもある。さて知念半島の先端部にある斎場御嶽(上)は琉球王朝随一の聖地で、琉球神話起源の久高島をこの岩の先から遥拝していた。薩摩藩に渡航を禁じられていたためだ。 左上は久高島の最大の聖地であるフボー御嶽。フボーとはクバが変化したもので、かつて12年に1度の神行事「イザイホー」が行われた。右は神事を司る祝女(のろ)。祝詞(のりと)と語源は同一だろう。琉球王朝時代は王の血族である聞得大君(きこえおおぎみ)がノロの頂点として、王朝の神事を司っていた。古代の卑弥呼と男弟との関係、天皇と斎宮の関係にあり、勾玉を首にかけていた。<続く>
2019.01.20
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~やんばるとランニングその1~ 胴上げされる私 私は「死」の代わりに「詩」を手にした。3年間の勤務の中で45編もの詩を書き、2冊の小さな詩集を自費出版した。私に命をもたらしたもう一つがランニング。職場の「走ろう会」の存在を知って、内地人加入者の第1号になった。仲間と一緒に練習し、レースに出た。北国生まれの人間には猛烈な暑さが堪えたが、職場の駅伝大会で優勝し胴上げをされたこともあった。47歳のわが雄姿。 瀬底大橋 北部でのレースは「海洋博トリム」が最初。距離は20kmで速さを争うのではなく、自己申告したタイムに一番近かった人が優勝するルール。もちろん腕時計は禁止だ。スタート地は「海洋博記念公園」で、橋の左上の本部半島にある。「美ら海水族館」が今は有名。そこからこの大橋を渡り、左の瀬底島で折り返す。2回出場したがタフで眺めの良いコースだった。 オーシッタイの森 「オーシッタイマラソン」と言うのにも2回出た。場所は名護市の北端で、平南川の最上流にある森の中がスタート地。ここは戦後入植した開拓地で20家族ほどが住む僻地。その住民達が企画したお祭りで、参加賞は手作りの味噌とか生卵だった。これは峠を2つ越え、西海岸の源河で折り返す非常にタフなコース。ジャングルの中の小径が今なお忘れられない。 劇走 勤務3年目の9月、職場から本島最北端の国頭村「奥」まで駅伝で走ることになった。「走ろう会」の発案だが危険防止のため1区間5kmで繋ぐのだ。私は名護市内の一部と最大の難所である辺戸岬の登り坂を志願。写真は国頭村宜名真集落の海沿い。結局そのままゴールまで走り続け、合計3区間15kmを走った。最後は体力の限界だったが、この経験がやがて役立つことになる。 奥の山荘 その夜は泡盛を痛飲し、宮古島の盆踊り「くいちゃー」を全員で乱舞。翌朝は山荘から辺戸岬まで14kmほどを走って往復した。私たちが泊った頃の山荘は木造の粗末な物だったが、ネット検索では瀟洒な建物がヒット。その後研修施設として新しく建て直したようだ。辺戸岬にはなぜか縁があり、その後3回この地を訪れることになる。 完走メダル 筑波で3度レースに出たがいずれも30km。初めてのフルマラソンが沖縄勤務時の「NAHAマラソン」。12月でも気温は26度。痙攣に苦しんだ初フルだった。転勤後も良く沖縄を走った。フルのNAHAが10回。「沖縄マラソン」が2回。「久米島マラソン」が1回。宮古島ワイドー」(100km)が1回。20kmの「海洋博」、「南部トリム」、「オーシッタイ」が各2回。旅行先の西表島でも1人で早朝ラン。なぜ私はこれほどまで、沖縄でのランに惹かれるのか不思議だ。<続く>
2019.01.19
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<やんばるとの出会い> <羽地内海=はねじないかい> 沖縄に赴任して3週間ほど経った時、Aさんが北部を案内してくれた。彼は部下と言っても10歳ほど年上で、かつ研修仲間。その若造が内地から来て自分の上司になったのだから、心穏やかではなかったはずだ。だがお嬢さんと車2台で、我が家の全員を招待してくれたのだ。何せ連日上司に痛めつけられていたものだから、久しぶりにのびやかな一日だった。初めて見る本島北部の美しい光景に心が癒された。 <茅打(かやうち)バンダ> この日案内されたのは、万座毛(まんざもう)、今帰仁城(なきじんぐすく)、茅打バンダ、辺戸岬など。今帰仁城は北山王朝の根拠地で、堅固な城だった。途中で羽地内海も見えた。その内海を見ながら1人で走ったのは、それから23年後だった。茅打バンダは冬の北風が強く、バンダ(崖)から投げたわらが、強風で戻って来ると言われる。国道がない時代は崖の中腹の細道を歩いていたのだ。 右が沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬で、琉球神話が伝わる聖地。「本土復帰闘争碑」もここに立っている。正面の山が黄金山。異様な山容だが、この頂上に安須森御嶽(あすもりうたき)がある。沖縄有数の聖地で、この後も何度か山の姿を眺め、沖縄を離れる際は天辺に登った。360度見渡せる絶景の地。いくつかの御嶽があり、沖縄の人々の信仰の深さが分かる聖地だった。 <やんばるの森> 職場に風樹館と言う名の資料館があった。小さな博物館とも言えようか。そこにはほぼ無給の研究助手がいた。名前はMさん。彼は週末になるとやんばるの森に入って動植物を調査している由。わざわざ本土から来て、寂しい山中で一人調査する若き研究者がいることに驚いた。ハブが怖くないのだろうか。無給に近い状態で、どうやって暮らしているのだろうか。別世界の人の行動に、不思議な思いがしたものだ。 <クンジャンサバクイ> その後やんばるを何度か走ることになるのだが、今は詳しくは触れない。さて、沖縄勤務3年目の年、首里公民館前で不思議な行列を見た。巨大な材木を引っ張る民衆。名前は「クンジャンサバクイ」。行列は間もなく始まる首里城再建事業を祝うものだった。その不思議な名前の意味を知ったのは、沖縄を去ってから24年したころ。本島最北端の国頭村辺士名集落付近を、1人で走っていた時だ。 <琉球王朝祭りの行列> 何気なく見た石碑に「クンジャンサバクイ」のことが書いてあった。クンジャンは国頭(くにがみ)が変化したもので、サバクイは捌荷(さばくに)と言う琉球王朝時代の職制。やんばるの森から伐り出した材木を運搬する役職のようだ。ここから那覇の港まで山原船(やんばるせん)で曳航し、首里城を建造した歴史があったのだ。事実は小説より奇なり。疑問が何十年か後に解明されるのもしばしばだ。<続く>
2019.01.18
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<異文化と異端視> 着任して直ぐに上司の部屋に呼び出された。最初から叱責だ。頷けるものもあるが、頷けないことも多い。それが感情を露わにし、顔面が痙攣するほどの怒りよう。こんな人は初めて。論理的に諭されるのならまだしも、連日烈火のごとく逆上する上司。誰にも相談出来ず、私は死を覚悟した。職場の橋の上から下の沼に飛び込もう。さほどの深さはないが、そこはハブの住処だと聞いた。 だが私は死なずに済んだ。私を救ったものの一つが詩を書くこと。きっと精神状態が極限まで追い込まれたことで、25年ぶりに私の詩心を蘇らせたのだろう。もう一つは走ること。職場で走る仲間を得たことだ。これもその後の生き方を左右する大きな要素になった。そして沖縄を知るため、猛烈な勢いで資料を読み漁った。沖縄の歴史、文化、地理、風土、政治、芸術、文学などあらゆる分野だ。 上司は大都会の機関で実績を上げ、自信を抱いていたのだろう。ところが沖縄は本土とは何もかもが違う。人情、言葉、考え方、文化、仕事の進め方などのすべてに亘って。それらの異質なものに出会って、相当まごついたのだと思う。これまで自分が通った道とはまるきり違って思い通りにはならない。そこで新入りの若い管理職を怒りの対象にしたのではないか。彼は沖縄の文化を見下していたが私は逆だった。 一方、うちなんちゅ(沖縄人)には深い絶望があった。華やかな琉球王朝の繁栄。それを破ったのは慶長19年(1609年)の薩摩藩の侵攻だ。沖縄本島とその周辺の島々を統一し、中国の柵封体制に入って日本、中国、東南アジアの国々と手広く交易して来た王国が、その時以来実質的に薩摩藩の支配下に置かれ、富を収奪され続けて来たのだから。その事実が中国に知れたら、事実上貿易は不可能だったろう。 明治4年(1871年)、本土では廃藩置県が断行されたが、逆に沖縄ではその翌年に「琉球藩」を置いて、日本政府の管理下にあることを世界に示した。沖縄県が置かれたのは明治27年(1894年)。この時以来元琉球王は東京住まいを強いられ、沖縄の日本化が急速に進む。これがいわゆる「琉球処分」だ。中には密出国して中国に助けを求めた旧士族もいたが、既に中国には沖縄を助ける力はなかった。 第二次世界大戦で大きな被害を被った沖縄は、戦後米軍の統治下に入る。これがいわゆる「琉球政府」で昭和47年(1972年)まで続く。昭和28年(1953年)奄美諸島の一部が日本復帰を果たすと、沖縄の人々の本土復帰への願いは一層強まった。昭和43年(1968年)、屋良朝苗氏が初代の公選行政主席として選出。氏はその後初代の沖縄県知事に就任。昭和47年(1972年)日本復帰。 <沖縄本島最北端の辺戸岬にある「本土復帰闘争碑」碑文> 考えて見れば、沖縄の歴史は「抑圧の歴史」とも言える。薩摩藩、日本政府、そして米軍政府、再び日本の支配下となった。私が沖縄に赴任した年は、復帰から既に27年経っていたが、本土との格差は大きかった。県民所得、離婚率、犯罪率、就職率など、沖縄は国内で最低レベルにあった。だから内地人に倒する敵意は強く、うちなー口(方言)でそっと不平を言う人もいたのだ。<続く>
2019.01.17
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<異国情緒> 平成元年4月1日。私は沖縄勤務を命じられた。3月には内示があったのだが、自分のことよりも子供の学校のことが気がかりだった。高校1年の長女は3月中に沖縄で編入試験を受け、中3の長男は赴任後直ぐに私立高校を受験した。本土なら期日的に無理だったが、奇跡的に受験を許されたのだ。教育上の苦労がこの後も続くが、私の管理職としての苦しみが始まったのもこの時だ。 亜熱帯の沖縄では、見るものすべてが初めて。本土では観葉植物のゴムの木が大木に育ち、幹から気根を垂らしている。ガジュマルは神秘そのもの。幹から空気を吸うための気根(きこん)が垂れ下がり、それが地面に着くと太い支柱根(しちゅうこん)に変化する。台風にも倒れないため、植物が身を護る工夫なのだ。樹高が20mにもなる「ひんぷんガジュマル」(名護市)を知ったのは、ずっと後だった。 職場の植栽用に植えてあったのがサンダンカ(左)。ハイビスカス(右)は沖縄ではとてもポピュラーで、庭や道端や墓地など、いたるところに植えられていた。 バナナやマンゴーなどが植えられた庭も見かける。沖縄に温室は不要だ。 パパイヤ(左)は宿舎の敷地内にもあった。沖縄では果物としてではなく野菜として食べるのが普通。まだ青いうちにもぎ取り、皮を剥き実を刻んで炒める。那覇市内でも、裏通りへ入れば案外見かける。宿舎の近所ではパパイヤも見たし、右上のグァバを植えたお宅もあった。沖縄ではバンシルーと呼ぶが、中国語の蕃爽麗(ばんそうれい)が変化したのだろう。グァバ茶になるようだ。 危険動物についても記しておこう。ハブは猛毒で、もしも噛まれたら30分以内に血清を打たないと死亡する。助かっても筋肉が変形することがあるみたい。夜行性だが、両耳横の赤外線を感じる器官で相手との距離を測り、自分の身長ほどジャンプする。職場でも1人噛まれた。朽木の下に隠れていたのだ。 右はアフリカマイマイ。食料として持ち込まれたのだが危険な寄生虫がおり、触っただけでも髄膜脳炎で死ぬ恐れがある。殻の直径は8cm程度だが、殻の長さは20cmにもなる大型のカタツムリで、どこででも見かける。一晩で50mも移動する不気味な動物だ。 生活に慣れて来るといろんな事物に出会う。これは「ふぃーじゃー」。漢字で書くと樋川。琉球石灰岩に沁み込んだ雨が、石の樋に湧き出す仕掛け。まだ水道がなかったころの生活用水で、飲み水が貴重だった沖縄では聖なる場所でもある。水が湧き出す場所は「かー」。川と同じ発音だが、実際は泉のこと。 これは亀甲墓と言われる風葬墓。琉球王朝時代、中国の福建省周辺の墓制が柵封制度を通じて伝わったもの。昔は住居の近くにあって、子孫を見守る存在でもあった。今でも結構そちこちで見かけるが、那覇の繁華街では整地されて消えた。墓はいろんな形があり、中には親戚一同が埋葬される、倉庫のように巨大な門中(むんちゅう)墓も。こんな異国の風景に驚きながらも、私の心は穏やかではなかった。<続く>
2019.01.16
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<あるTV番組から> <リュウキュウアカショウビン> カワセミの仲間で東南アジアに生息。琉球列島へは夏に渡り、森の中で暮らしている。鈴を転がすような可愛い鳴き声だ。 さて皆の衆。おかずがなくなれば自分で作るか、買うしかない。まあ外食と言う手もあるが。ブログは書くことが無くなれば休むしかない。だが私のような「ブログ中毒」は何としてもブログを書こうとする。そしてついつい話を長引かせたり、昔書いたことを再び取り上げたりもする。今回も危うくブログネタが切れかけた。まあ3~4回のネタはあるのだが、急遽別なことを書くことにする。沖縄の話だ。 先日の夜、BSを見た。NHKの『新日本風土記』。『日本紀行』のやるせないテーマ曲も好きだったが、『新日本紀行』の哀愁を帯びたテーマ曲も好き。ところがこの番組のテーマ曲は現代風で実にあっさりしたもの。松たか子のナレーションもそれに合わせたのか、実に淡々と話しかける。いや、そんなことはどうでも良い。この夜のテーマは「やんばる」。これは是が非でも観なければ。 「やんばる」と聞いて沖縄本島北部のことだと思いつく人は多いだろう。だが漢字では「山原」と書くことや、そこが沖縄本島で一番高い山々が連なっていることや、国頭(くにがみ)郡に所属し、国頭村(そん)、大宜味(おおぎみ)村、東村、名護市の北部が含まれていることを知るナイチャー(内地人)は少ないと思う。ここは私にとっては懐かしい場所の一つ。冒頭のシーンを見ただけで身震いした。 これがやんばるの森。亜熱帯のジャングルで、高い木々に覆われている。一番高い山の標高は500m程度だから、内地で言えば高原みたいなもの。亜熱帯特有の動植物が生息し、ここにだけしかいない固有種も多い。だが、この深い森も、沖縄にとっては大切な暮らしの場であり、重要な資源だったのだ。 左は飛べない鳥で有名な、ご存知ヤンバルクイナ。右の大型昆虫はヤンバルテナガコガネ。共に名前に「やんばる」をいただく貴重な生物で、天然記念物に指定されている。やんばるの森の代表格だ。 ヤンバルクイナを食べるハブ(左)を退治するために導入されたのが外来種のマングース(右)。私もハブと戦うマングースのショウを観たことがあるが、実際ハブを捕らえる例は少ないそうだ。むしろ飛べないヤンバルクイナを食い殺し、どんどん個体数が増えている。それに野良犬や野良猫による食害も大きい。このためやんばるでは、檻を使ったマングースの捕獲作戦が進められている。 やんばるの森に出現した6個のヘリパッドの映像も観た。元々東村から国頭村にまたがる広大な山中には、米軍の訓練地があった。ベトナムのジャングルでのゲリラ戦を想定した訓練施設だった。それを日本に返還し、代わって東村高江地区の山中に集約したのがヘリコプター基地。米軍の作戦と機能がベトナム戦争後に変化し、尖閣諸島周辺での対応を想定しているのかも。 国頭村奥集落の「共同店」の映像も映った。住民がお金を出し合って作った売店は、やんばるではごく普通の光景だ。「奥」は沖縄本島最北端の集落。米国統治から日本への復帰が決まった時、国道を敷くための苦心談がある。国道は複数の都道府県を結ぶのが原則だが、島嶼県の沖縄では無理。そこで時の大臣が鹿児島から海上に赤線を引き、この集落につなげて国道58号を建設したと言う嘘のような話だ。 セマルハコガメ(左)とヤンバルクイナ(右)への注意を喚起する道路標識。共に天然記念物。 こんな標識が立つやんばるの道路。場所は国頭村の奥集落付近。なぜ知ってるかと言えば、その寂しい道を走ったことがあるからだ。一度は職場の走友たちと駅伝で。そしてもう一度は、リュックを背負ってたった1人で。だがあんな心細いことはなかった。恐らく沖縄本島北部の山道を、たった1人夜中に走ったランナーは、私が最初だと思う。夜行性のハブにおののききながらだから必死だ。 さてこの花はイジュ。初夏に咲き、小笠原諸島では「ヒメツバキ」と呼ぶようだ。職場があった西原町(那覇市の北隣)から、本島最北端の辺戸岬まで100km余を駅伝でつないだ翌日。島の東海岸を通ったが、その山中に咲いていたのがこれ。白い地味な花で、とても良い香りがした。あれから全く姿を見ていない。私にとっての沖縄は、鮮烈な思い出が蘇る、謎と幻に溢れた島に違いない。<続く>
2019.01.15
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~境内と周辺~ 電車を乗り継いで旅に出ました。これは成田線の普通列車です。 これは霞ヶ浦と隣り合っている北浦。香取神宮から鹿島神宮へ向かう途中です。 鹿島神宮駅から神宮へ向かう途中にあった恵比寿様と虎の石像です。 鹿島神宮門前の神鹿像です。春日大社の神鹿もここから渡ったとされています。 香取神宮境内の竹林(左)と摂社の一つ(右)です。 香取神宮神池の鯉と古木の根っこです。 鹿島神宮の小社や摂社の鳥居です。 境内には30以上もの摂社や小社が鎮座しています。 小社の神前にお神酒が供えられています。 小社と言えども、神聖な空気が漲っています。 境内の樹木は大切にされているせいか、ほとんどが古木になっています。 社にはそれぞれ神様が鎮まっています。大きさは神格の差でしょうか。 夕暮れが迫る境内を後にします。この日自宅を出たのは朝の6時過ぎ、帰宅は夜の10時でした。 お二人は神宮で結婚式を挙げたのでしょうか。まだ明るい境内で。 どちら様もおめでとうございます。今年もどうぞよろしくね。(香取神宮門前にて)
2019.01.14
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<「鹿島立ち」の神社> 昨年12月初旬に訪れた茨城県の鹿島神宮拝殿脇の紅葉です。 色調を整えるためか、比較的新しい建物も朱と緑色に塗られています。 連子塀の側面を撮ってみました。右は拝殿です。 拝殿の屋根越しに、境内の古木が見えます。 奥宮や「要石」方向へ向かう広い参道です。 古色蒼然たる奥宮です。元々本殿だったものを、遷宮したのです。 奥宮は慶長10年(1605年)に徳川家康が本殿として奉納したもので、重要文化財に指定されています。 立派な鳥居が建てられ、塀で囲われた聖域内に要石が鎮座しています。 御幣の手前にある小さな窪みがあるのが「要石」。香取神宮のは凸型で、こちらは凹型です。 地中で暴れる鯰を抑えると言われていますが、祭神が座った石とも伝えられています。 鯰を抑える神様。江戸時代の「鯰絵」と同じ構図です。 堂々たる佇まいの祈祷殿。御朱印もここで受け付けています。 お守り(左)と神官(右) 神社のパンフレットから借用しました。 建久2年(1191年)源頼朝が奉納した神馬に付けられていた鞍(くら)。梅竹紋の蒔絵が施された豪華なもので、重要文化財に指定されています。 境内の灯篭(左)と帰路(右)。前方に楼門(重要文化財)が見えます。 香取神宮(千葉)と鹿島神宮(茨城)関係の写真も残り少なくなりました。
2019.01.13
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~「鹿島立ち」の地~ 茨城県の鹿島神宮は旧常陸国一之宮で、いわゆる「鹿島立ち」の発祥地です。古代より香取神宮と共に戦勝を祈願して戦地や武者修行に出立した聖地で、蝦夷征伐の際も武芸を司る祭神武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ:藤原氏の祖先とされる)に戦勝を祈願した後、陸奥へ向かいました。また春日大社の神鹿は、ここ鹿島から奈良へ渡ったとされています。 参拝前に身を清める手水舎です。重油文化財である楼門(上の写真)の手前にあります。 楼門の軒に掲げられた扁額(左)と楼門の裏面に鎮まる御幣(ごへい:右)です。 楼門を護る神像で、左右対称に鎮座しています。 地味な上に鳥居が邪魔になって良く見えませんがこれが拝殿で、この裏側に本殿があります。 神文(左)と御朱印(右)です。 拝殿を横から見たところです。 同じく拝殿の側面で、御幣が神域を護っています。 拝殿の側面の全体像です。紅葉が見事でした。 見事な連子塀越しに見る拝殿の屋根。檜皮葺(ひはだぶ)きのように見えます。 実はこの「本殿」の看板が良く理解出来なかったのです。右の重要文化財の表示と共に、拝殿のところに設置されていましたのでねえ。ところが今回写真を掲載する段になってようやく判明したのです。 ほらほら、これが本殿だったのですよ。位置を良く考えたら分かるのですが。 私が迷った原因の一つがこれ。パンフレットの本殿があまりにも色鮮やかだったため、自分が撮ったのが何なのか良く理解出来てなかったんですねえ。(;^_^A 曇りの夕方で暗く、色が沈んでいたのも理由ですが、それにしても違い過ぎですよね。 装飾の拡大です。これが晴れた日中だったらもっと見事だったろうにねえ。 でも連子塀がまあまあ鮮やかなのが、せめてもの慰めかな。<続く>
2019.01.12
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<5w1Hプラス中国> 昨年12月20日海上自衛隊の哨戒機Pー1が日本の排他的経済水域(EEZ)で、韓国海軍の駆逐艦から火器管制レーダーの照射を浴びるという恐るべきことが起きた。いわゆる「大和堆」は好漁場として知られる。通常のパトロール中の自衛隊機にいわば銃口を突き付けた訳で、日本政府は韓国政府に対して、ただちに抗議したのは当然だ。 これが韓国海軍駆逐艦の広開土大王3200トンで、全長は135m。4種類のレーダーを備えているが写真の赤丸部分が火器管制レーダーで、艦の前方にももう1基備えている。日本政府の抗議に対して韓国政府は、そのような事実はないと否定。 そこで日本は客観的なデータを含む動画を公開した。それによれば、韓国海軍の意図を確認するため、3種類の電波で相手艦に理由を尋ねた。だが広開土大王側からの応答はなかった由。動画によって事実を突き付けたにも関わらず、観光国防部報道官はそのような事実はなく、むしろ自衛隊機が海難救助中の韓国艇に脅威を与えており、謝罪せよと対応。動画公開後15分のことで、韓国側が科学的な分析をしてないことが明らかになった。 哨戒機は国際的な民間航空のルールに従い、高度(150m)や相手からの距離(500m)は安全に保っていたと反論。これは韓国側が作製、公表した動画の一部だが、全12分弱の長さのうち、韓国が撮影した部分はわずか11秒のみ。相手の画像を無断で使用し、恣意的に改変した部分も。韓国側の映像でも自衛隊機は豆粒ほどで、主張が虚偽だと分かる。それにもし危険なら、なぜ警告しなかったのか。 韓国側は一時、遭難した北朝鮮の漁船を探索するために全てのレーダーを稼働させたと説明していたが、波は穏やかで漁船は韓国艇のすぐ傍に見える。また北朝鮮の漁船がSOSを発していないのに、なぜ韓国の救難艇と駆逐艦がすぐ傍にいたのかが謎。しかも日本のEEZ内で、義務付けられた海軍旗を掲揚せずにだ。 哨戒機は急降下、急上昇、急旋回が出来ない。領海やEEZ内を警戒しているのだが、経済制裁を受けている北朝鮮が「瀬取り」によって、不法に物資を調達していないか見張るのも任務内。今回韓国艇が「これはやばい」と、慌てて危険なレーダーを照射した理由は、それかも知れない。さて昨年漂着した北朝鮮の漁船は225隻だが、見つかった遺体は12体のみ。工作員上陸の可能性も否定出来ない由。 北朝鮮の金正恩委員長が専用列車で4度目の訪中をし、習近平主席と1時間話し合った。対アメリカ外交で、互いに利するとの判断だろう。近く米朝会談が再開するとも聞く。北京では、同時にアメリカの高官と貿易に関する協議が持たれた由。中国が揺らげば北朝鮮や韓国も揺らぐ。古代から長く続いた「中華思想」が今なおこれらの3国を毒し、日本は地政学上その影響を受けざるを得ない。 さて日本政府は今回「徴用工不当判決」に関し、1965年締結の請求権協定に基づく協議を韓国に要請した。支持率低下の文政権は、反日姿勢をより強硬にして国民の関心を買う。既に53年前に解決済みなのに、真実を隠ぺいするのは友好国とは言えない。今回のレーダー照射事件はその典型で、韓国はどこまで嘘をつけば気が済むのか。そしてこの3国はどこまで国際的な孤立を続けるのか。
2019.01.11
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<主夫業始まる> *写真は今年のカレンダーから借用 1月8日(火)朝食後から台所へ。1)ブロッコリーとカリフラワーのお浸し 2)シチュー 3)カレー 4)野菜炒め 5)大根葉の佃煮 6)大根の甘酢漬けを一気に作る。料理は頭を使う。現在ある食材と調味料をどう組み合わせるか。それが自分の食欲をそそるものか。どれくらいの量になり、いつまで持つか。今更ながらだが、料理は知力も体力も案外使う。朝の畑では野菜がキンキンに凍っていた。 1月4日。次男がくれた青い帽子を被って買い物へ。最低限必要な食料品だけ買ったが、いつもの3分の1ほどの金額。肉と魚と刺身が少し残っていたのだ。1月8日。年末年始に溜まったゴミを出した。いわゆる「燃えるゴミ」と「ビンカン」。このうちアルミ缶は子供会用の容器に入れる。今年最初のプラゴミは1月9日で、資源ゴミは13日。料理中に日が陰り、干していた布団を慌てて取り込んだ。 この年末年始。心配していた体重はさほど増えずに済んだ。体脂肪率も変わらず。多かったアルコール摂取量と少なかった運動量を考えれば、上出来の部類だろう。ブログのアクセス数も普段とさほど変わりはなかった。日ごろから熱心に読んで下さる読者の方々には、この場をお借りしてお礼を申し上げたい。読書も少しは出来たし、まあまあ平和な正月だったように思う。 三々五々、年賀状が届いた。私が3年ぶりに出したものだから、慌てて書いたものが多かったように感じた。それもまた良し。懐かしい先輩からも久しぶりの年賀状。来年は80歳になるとあるが、字は昔のままだ。私の離婚を知り、どう返事すべきか迷った人も多かったのではないか。返事のない人もいるが、それはそれで満足。こうして少しずつ人生のけじめをつける、わが終活。 逆に私が迷うケースも。前妻の親戚関係だ。彼女の兄弟関係は挨拶を済ませ、賀状は出さない旨伝えてあるが、一番若い叔父さん(と言っても米寿になるのだが)は、私たちの離婚を知らないまま年賀状をくれる。彼女の親戚関係へはすべて私が年賀状を書いて来た。優しい叔父さんも年を取った。このまま離婚を知らせない方が彼の平安のためには良いのかも。そう考え「答え」をしまい込んでいる。 お正月の名残はほとんど無くなった。残っているのは切り餅が20個ほど。目下あんこと共に冷凍中。今後食べたくなったら、少しずつ引っ張り出すつもり。ベランダの干し柿は1個ずつ取っ来ては、渋いお茶と一緒に楽しんでいる。われながら上手に出来たとニヤニヤ。残りはわずか2個。今年のお正月気分も店じまいの時だ。<完>
2019.01.10
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*写真は今年のカレンダー数種から借用 缶ビールを全部飲み干し、冷蔵庫の中のミカンをほぼ1人で食べ、ティッシュペーパーをほぼ1箱使い切って、次男は東京へ帰って行った。「彼女はいるの」と尋ねたら、「いる」と。以前彼のマンションに寄った際、バトミントンセットがあったので、ははあと思っていたのだ。「貯金した方が良いよ」との忠告に「する」とは言ったが、果たして実践出来るかどうか。小遣いを渡してバス停で別れた。 届いた年賀状はほんのわずか。数えてもいないがかつての8分の1ほどか。それでも良かった。ともかく今回は3年ぶりに出し、「けじめ」をつけた積り。友人、知人の多くは私の熟年離婚を知って、出すに出されなくなったのだろう。闘病中や中には亡くなった方もおられるかも知れない。水戸勤務時代の走友が返事代わりにくれた1枚が嬉しい。 ある方からは、私が退会した後の雰囲気が良くないとも。ますます独断が激しくなった由。まあそんなものだろう。私の離婚には全く触れず、昨年走った九州横断の話を書いてくれた走友。彼とは16年前に金沢で1度会っただけなのだ。「1人暮らしも良いのでは」と書いて来たのは2番目の職場の後輩。きっと彼なりの慰めだと感謝している。 年末年始のTVの特別番組も良く観た。ボクシング、K1,大学ラグビー。田中陽希の「グレートトラバース」(300名山一筆書き)の第9編と第10編。第9編は白山が中心で、第10編は立山が中心だった。白山も立山も登ったり走ったり観光したりした場所だけに、とても懐かしく感じた。もう2度とは登れない山。特に剣岳は、何度観てもゾッとするほどの峻険さだ。 「ブラタモリ」と「家族に乾杯」は合同での新春企画で、場所は太宰府。太宰府天満宮へは行ったことがあるが、国府としての太宰府跡は初めて見た。大野城や水城などとの関係が、空撮でとても良く分かった。「グレートレース」はモンゴル高原での242kmの国際レース。湿地帯や砂漠、起伏の激しい山地や渡河もあるなかなかのコース。日本人が2位と3位に食い込んだのは立派。 「プレバト」の特別番組も面白かった。ほとんど俳句の部分だけ観て、お花の部分はちょっぴり。名人クラスでトップだった東国原氏の現代俳句が秀逸。私には到底詠み得ない世界と感覚。今年の大河ドラマも始まった。オリンピックをテーマにした物語で、目下Y新聞に連載中の日本初のマラソンランナー金栗四三(かなくり・しそう)も出て来て愉快。スポーツでも日本が世界に打って出る話だ。 NHKの「江戸を建てる」も面白かった。第1話は江戸の飲み水をどう確保するかの苦労話。これには当時東京湾に注いでいた「荒川」と「利根川」の治水の話も加わっていた。湿地と寒村が広がる当時の江戸を、どう都市化するのか。そして第2話は貨幣の流通の話。新しい小判を作って、秀吉と天下の覇権を競う家康の心意気が良く表れたドラマだった。江戸の治水については、改めて書きたい。
2019.01.09
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<亥年の元旦> 平成31年の元旦は思ったよりも天気が良かった。前夜の夜更かしと、かなり飲んだ酒とで体調は今一。それを押して新春の朝の準備。布団を上げ、シャッターを上げ、郵便受けからはみ出しかかっている新聞を取り、お膳の準備。冷蔵庫から御節などを出してテーブルに並べた。 一の重 「一の重」は、タラの旨煮、田作り、てまり餅、唐芋ゴマ甘露煮、鮭西京焼、若桃の甘露煮、小エビの魚卵和え、有頭海老煮、数の子、伊達巻、笹団子、鶏股肉照り焼き。 二の重 「二の重」は、栗きんとん、胡麻和え叩き牛蒡、丹波黒豆、紅白膾(なます)、ひよこ豆、カツオクルミ、網糸こんにゃく焚、レンコン焚、フキ焚、シイタケ焚、金時ニンジン焚、黒糖ロースポーク、紅白かまぼこ、ニシン昆布巻、タコ旨煮、タケノコ焚、豚角煮、クワイ焚、小芋焚。 前年に頼んだのはすべてが冷凍食品で濃い味付け。三段重ねで食べ切るまでかなりの日数を要した。私は十分美味しかったのだが、次男は「あまり美味しくない」と酷評。そこで今回はボリュームよりも内容を重視した。味は去年よりも薄味。とても上品な味付けで豊富な野菜もの。手作り感たっぷりで、家庭料理に飢えた私には、久しぶりの嬉しい贈り物だった。 起きて来た息子が刺身を切った。元調理人の彼は、自分の刺身包丁を持参していた。マグロ、カツオ、タイ、クジラを適当に盛り合わせ。それに私が作った松前漬けやホヤの酢の物、海老の塩焼きなども載せると、テーブルはひときわ賑やかになった。 元旦も心のままに息子と飲んだ。一年の始まりの元旦は、とても穏やかな佳き日。私は最初の一杯だけ日本酒で、後は息子がくれた麦焼酎をストレートで。いつも飲む安物とは違って、麦のエッセンスが馥郁と香る高級品。食べ物や飲み物が美味しいと感じるのは、まだ元気な証だろうか。 最後にあんこ餅とお雑煮。あんこは買った「粒あん」を溶いたもの。そしてお雑煮は、初めて作った大根とニンジンを刻んで茹でたのがベースで仙台流。昆布で取った出汁の澄まし汁に鶏肉、刻んだセリとかまぼこが入り。息子は餅なしのお雑煮だけを食べ、自室に戻った。私は大量の食器の片づけ方。酔い醒ましには持って来いの作業だ。年賀状の第一弾が届いた気配。<続く>
2019.01.08
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<大晦日> 12月31日の大晦日。東京から次男が帰省する日だ。明日は新年なので掃除をしよう。そこで居間を片付けて掃除機をかけ、家中のフローリング部分はすべてモップで拭いた。息子には親父のだらしない暮らしをあまり見せたくない。最後に玄関先にお正月の飾りを取り付けようとしてビックリ。なんと「橙」(だいだい)が真っ青に大変身。5日ほど置いているうちに、すっかりカビが生えていたのだ。 慌ててそれを持参し、買ったスーパーへ行った。カウンターで事情を話すと了解し、別のものと交換してくれた。とっくにレシートは捨てていたが、買った日の事情を話すと分ってくれた。その日だけ「松飾り類」が15%引きだったのだ。家の路地に入ると、宅急便の配達人が荷物を持ち帰って来るところ。ああこれは我が家だなと察知。この日は御節の配達日で、扉に30分したら戻ると張り紙をしていたのだ。 午後3時過ぎ、玄関から物音が聞こえた。次男の帰省だ。夕方に着くと言っていたのに、案外早かった。「仙台は思ったよりも温かい」と開口一番。その日は晴れて気温も上がったのだ。頃合いを見て長男への年賀状が戻って来たことを話す。彼は2階の自室へ姿を消した。前妻のところへ電話したようだ。私の目の前では悪いと考えたのだろう。そして長男の居所が判明した。 次男によれば、勤務先の異動に伴い住居が変わった由。長男と不仲だった前妻がその事実を何で知ったかは不明だが、彼女が友人たちとニュージーランドへ旅したことも次男は教えてくれた。「元」を含む家族の消息を息子から教えてもらう立場を、悲しむべきなのか。電話にも出ず、転居先も教えない長男と、今後どう向き合えば良いのか。ともあれ前妻が元気だと分かり、気がかりの一つは消えた。 その夜、次男と飲んだ。私が買った日本酒と、彼のお土産の球磨焼酎。帰宅後、それとなく私の心中を話していた。あと何年生きられ、彼とこうして話すことが出来るのか。現在の体調、家の管理、家族が置いたままの荷物の仕分けと処分、そして動産と不動産の始末、「墓仕舞」のこと等々。今のままだと年々体力、判断力が落ちて行くのは明白。果たしてどのタイミングで、どんな決着を付けたら最善なのか。自分にとって、そして3人の子供たちにとって。 仙台の年越し魚はナメタガレイ。なかなかの味付けと彼。刺身や届いたばかりの御節の一部も食べた。年神さまを迎えるめでたい日。食べても罰は当たらないはず。飲みながら息子と見たK1。さて、今年歩いた距離は換算も含み、合計765km。現役だった頃に走った距離の4分の1ほど。翌年はさらに距離が減るはずだ。入浴後に除夜の鐘を聞いてようやく就寝。平成最後の年に入っていた。<続く>
2019.01.07
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<1月4日そして年末> 畑のカリフラワーとブロッコリーを包丁で切った。カリフラワーはその後の雪や霜で、上の写真よりも茶色がかっている。鍋で茹でてお浸しにし、硬い茎は大根の皮と共に圧力鍋で煮た。次に大根をスライスし、ユズの皮を刻んで甘酢漬けに。野菜の余りものは、さつま揚げ、竹輪とナメタガレイの煮凝りで煮た。新年早々から、すべてを無駄にはしない修行僧みたいな暮らしが始まる。 新年早々料理を始めたのは、おかずが乏しくなったため。年末年始用に買った食料品や外注した御節、作り置きしていたカレーなど、そのほとんどを食べつくした。きれいに食べ切って大いに満足。計算通り以上の出来かも知れない。畑に残った野菜は、大根11本、ブロッコリーと白菜が各2株ずつ、カリフラワーとキャベツが1株となった。我ながら良く食べ、大いに助かった。健康にもそして懐にも。 2日の午後2時半、次男が東京へ帰った後は急に寂しくなった。その翌日から彼が使用した布団を片付け、自分の布団を干し、4日は今年初めての洗濯。そして次男の部屋のこたつとストーブの灯油を始末。料理を終えPC用の椅子に座った時、突然激しくなった動悸。そしてその後、一瞬脳内を熱い物が通り過ぎた。ひょっとして脳卒中か。慌てて口を動かして言葉を発し、両手をブラブラと空中に。 どうやら何事もなかったようだ。ああ嬉しい。それにしても頭の中で熱いお湯を被ったような、不思議な感覚だった。間もなく後期高齢者の仲間入り。特に血管が収縮する寒い冬は、老人にとって危険な季節だ。これからも出来るだけのんびりペースで過ごし、健康を維持しないとねえ。新年早々奇妙な体験だったが、きっと今後もいろんな遭遇があることだろう。最後のその日まで。 実は年末にも驚くことがあった。年賀状が戻って来たのだ。良く見たら相手の名前を書き洩らしていた。慌てて切手を張り、再びポストに投函。ところがその翌日も年賀状が戻って来た。東京の長男に出したもので、「当該の住所に住んでいない」と郵便局の記入。これには焦った。日ごろから音信不通の長男ではあるが、間もなく46歳の彼に一体何が起きたのか。暗澹たる気持ちと親の悲しみ。<続く>
2019.01.06
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~鹿島立ちの2神宮~ 拝殿の内部です。パンフレットから借用しました。 香取神宮神幸祭の御座船です。ネットから借用しました。 御座船の船首の鳳凰。ネットから借用。 神幸祭と御神輿。神宮パンフレットから借用。 神幸祭の行列。神宮パンフレットから借用。 時間があったので、宝物館にも入りました。 国宝「海獣葡萄鏡」 海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)。神宮パンフレットから借用。 中国唐時代の7世紀から8世紀にかけて鋳造された白銅製の鏡。海獣とは海外のけものと言う意味で、その多くは獅子や麒麟(キリン)など想像上のけもので、中央の取っ手部分に相当。その周囲を葡萄唐草文で装飾した儀式用の鏡。中国製だが、中にはわが国で真似て製造したものもある。 左は宝物館の外に展示されていた薦(こも)製の容器。中を覗いたら、蒸したもち米のようなものが付着していました。右は破魔矢で、神宮のパンフレットから借用。 参拝者で賑わう境内。左側がご神木です。 拝殿を背にしたご神木の様子。 拝殿の床と拝殿前の鋳造物です。 菊の御紋入りのさい銭箱です。 ズームで撮ったのですが、撮影禁止マークがありましたね。 地震を防ぐ「要石」(左)と、そこへ向かう小径(右)です。 境内に30社以上もある摂社や末社の一つです。ここから電車で鹿島神宮へ向かいます。
2019.01.05
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~鹿島立ちの2神宮~ 私に初詣の習慣はありません。そのような信仰心を持ち合わせていないためです。ただし祖先たちが、太古から抱いて来た信仰への理解は大いにありますし、神社の境内では厳かな気分にもなります。年頭に際し、昨年暮れに旅した香取、鹿島の二つの神宮で撮影した写真を掲載したいと思います。 香取神宮は千葉県香取市にあり、旧下総国一之宮の由緒ある神社です。これは三の鳥居でしょうか。 石段を上った先にあるのが総門です。 こちらは総門の裏面です。 緑色の連子窓が見えます。これぞまさしく「青丹よし」ですね。 参拝者が身を清める手水舎です。 重要文化財に指定された楼門です。 今上天皇の在位30年を祝った看板 奉納された薦被りのお神酒。 楼門から望む拝殿 神像(上)と狛犬(下)ともに木像のようですね。 楼門の吊灯篭 吊灯篭の「菊の御紋」。国家としても重要な神社だったのでしょう。 別の角度から見た楼門。 檜皮葺(ひはだぶ)きの拝殿が正面に見えます。 檜皮(ひはだ)は文字通りヒノキの表皮。見事な屋根の造作です。 拝殿上部の装飾です。 天井部の装飾 その2 お勤め中の神官の姿がちらりと。 香取神宮の由緒と祭神の説明。香取神宮の祭神は鹿島神宮の祭神と共に出雲から国を譲り受け、さらに東北の蝦夷(えみし)討伐の祈願地となったとされています。つまり倭国建国の礎になったのでしょう。わが国主要神社である所以です。<続く>
2019.01.04
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~仲見世は新年の装いに~ 私が浅草寺を訪れたのは昨年12月の初めでした。雷門を潜ると仲見世です。 仲見世通りの空には、縁起物の飾り物が待ち受けていました。亥年の絵馬です。 「額」入りの大提灯。浅草寺の定番ですね。 12月初旬なのに、もう初詣客を意識してのディスプレーなんですねえ。 これはおめでたい「宝船」ですね。 「繭玉」と松竹梅の柄の着物。う~ん、めでたい。 三宝に載ったお供えの餅。お正月ですね。 羽子板の表側の絵柄は「白浪五人男」でしょうか。 その裏側は松飾に裏白などの模様が描かれていました。 巨大な独楽(こま)も空中に。子供の頃はこれで良く遊びました。 「家運隆昌」ですか。本当にそうですねえ。 こちらも役者絵。仲見世では人気があるみたい。 獅子舞の獅子頭。今ではなかなかお目にかかれませんね。 扇に描かれた初日と五羽の鶴。吉祥ですねえ。 最後は「迎春」と描かれた凧(たこ)。おめでたくて良いですね。 今年も健康でこの一年を過ごしたいものです。さて、新しい年号はなにかな?
2019.01.03
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~「大人の休日倶楽部パス」を使って~ 去年、こんな切符を買って旅をしたんですよ。気ままな一人旅でした。 車窓から見えたのはこんな風景。これは栃木県の那須連山です。 面白みはありませんが、これも那須の山々。福島との県境近くです。 こちらは埼玉県から見えた筑波山(茨城)の雄姿です。 千葉県佐原市付近の刈田。切り株から出た穂が黄色く色づいています。 フリーパス外の東海道新幹線から見えた富士山です。往きは雲に隠れていたのですが。 昨年の秋は温かかったせいか、全然雪が少なかったですねえ。 帰路の福島盆地では虹が見え、トンネルを抜けた宮城県側でもまだ残っていました。 皇居一般公開での一コマです。(乾通) 皇居の美しい紅葉を楽しむ人たち。 昭和天皇のお后、香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂「桃華楽堂」です。 皇居の一般公開を終えて、御幸(みゆき)通りを東京駅に向かって歩きます。 丸の内ビル街の横丁。以前は確かイルミが点灯されていたような気が。 改装後の堂々たる東京駅の外観です。広場が以前よりもすっきりしましたね。 駅の正面。風格がありますね。 あまりにも巨大なため、1枚では入りきりません。 天皇陛下の「お召列車」が出発する駅ですから、立派なわけです。 後で駅舎の中にも入って見ましょうか。 どこかヨーロッパの街の雰囲気が・・。 私が見た駅舎の天井はここだけでしたが、確かシャンデリアの天井もあったような。構内には巨大なクリスマスツリーが飾られていましたよ。国鉄からJRへの変化をそんなことで感じた私です。 旅の写真はまだたくさん残っていますので、テーマごとに随時紹介しますね。
2019.01.02
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<亥年のごあいさつ> 明けましておめでとうございます 本年も元気で、ブログ、旅行、俳句、畑仕事などを楽しみたいです 皆さまどうぞよろしくお願いいたしますね 平成31年元旦 高嶺より初日拝む媼かな *おろがむ=おがむ *おうな=年長の女性 鹿 雪ごもり風におびへし山の村 降る雪に色失ひし棚田かな 真夜さめて吹雪聞きゐる仮の宿 *まよ=深夜 オコジョ 雪ごもり寡の笑顔なきままに *やもめ 風花の舞ひくる庭や雀二羽 *かざはな=風に乗って舞う雪 風花と日輪競ふ日のありぬ *にちりん=お日さま 今年は俳句でのスタートになりました。
2019.01.01
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