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≪ 写真を楽しむ ≫ 寒い。毎日実に寒い。冬が寒いのは当たり前だが、こんなに寒いのは初めてだ。日曜のレースでも、多くの走友が寒さで苦戦したようだ。「勝田」の様子が少しだけ分かった。古川組は前日のうちに現地入りし、水戸に移動して「アンコウ鍋」を楽しんだようだ。往きの車中から飲み始めるどうしようもない飲ん兵衛軍団だが、レースも滅法強い。内臓を鍛えたランナーは本番にも強いのか。 我が南仙台走友会の仲間のうち、S田夫妻は夫婦で参加。奥様は10kmの部だったようだが、ご主人は3時間15分ほどでのゴールだった由。これも練習の成果とM子さん。一方走友会の掲示板に書かれたM仙人の報告によれば、東京のT夫妻も参加されていた由。スピードランナーのY子さんの勢いは、未だ衰えてないようだ。 いつもは速いM仙人も寒さに苦戦し、4時間半ほどでのゴールだった由。他のメンバーはどうだったのか分からないが、Y広さんが最後まで頑張っていたようだ。私がもし参加していたら、多分中間地点辺りから足が進まず、風邪を引いてしまったと思う。寒い時期のレースはもう無理かも知れない。なお、T田さんが送ってくれた大量の写真で、レースの雰囲気を十分知ることが出来た。いつもありがとうね、T田さ~ん!! さて、寒い時には暖かい南の島を思い出すのも一興。実は私には取っておきの「お気に入りブログ」が2つある。1つは沖縄の走友のもので、もう1つは松山の人が開設したもの。どちらも私が住んだことがあり、写真が中心であることも共通。その素晴らしい写真を観てたら、冬の寒さも忘れてしまう。そんな訳で写真を観ては、沖縄や松山に旅したような気持ちになっている。空想の旅は、お金がかからないのが嬉しい。 らんふぉさんのブログ「らんふぉにっき」は、実に楽しく、かつ美しい写真に溢れている。彼はカメラを持って、ランニングの練習をしながら写真を撮る。それも車で色んなところに移動し、色んなところを走る。練習のためだか、写真を撮るためだか分からないほどだが、彼は「別大」に出るほどのランナーだから、きっと両方なのだろう。 美しい沖縄の風景、何気ない路地裏のシーン、行き会った人々、咲き乱れる花々や不思議な焼き物。彼の撮る写真は超一流で、観た人の心を癒してくれる。私はほとんどコメントは書かないが、あれだけの写真を「ただ」で観られるのは、幸せそのもの。私の沖縄好きが益々深まる所以だ。 一方「輝く愛媛の『旬』情報」は、偶然知ったブログ。こちらは専ら松山市周辺の風景が主体。私は小学校5年の終わりから高校1年のごく初めまで松山で過ごしたことがある。また不思議な縁で、50歳前後に松山で勤務した経験もある。こうして松山には合計8年ほど住んだ。松山城、梅津寺海岸、浄瑠璃寺など八十八か所のお寺、道後温泉などの写真は観るだけで懐かしい。 私が学んだ学校、住んだ地域、遊びに行った場所。それらの写真や解説が載ると、まるで夢のようで嬉しい。何せ55年も前に行った場所が、時間や空間を超えて目の前に広がるのだから。らんふぉさんが撮る沖縄の風景は、初めて観るものが多くて珍しいのだが、松山周辺の風景はかつて観たものが結構多いため、余計懐かしく感じるのだろう。 故郷を遠く離れて松山で暮らした少年時代。もう仙台には帰れないだろうと淋しく感じたことがあった。高校1年の春、思わぬ父の急死によって再び仙台へ帰って来たが、その後自分自身が転勤族となって全国を旅することになった。だから私には色んな懐かしい場所がある。いずれの日にか、再びその地を訪れたいものだ。< 1月のラン&ウォーク > ラン回数:16回 ラン距離:154km ウォーク距離:98km 月間合計:252km これまでの累計:78397km
2012.01.31
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司馬遼太郎著「最後の将軍」を読み終えたことは既に書いた。ただし、この内容については記してない。20冊ほど読んだ本で、幕末から明治に至る時期の状況については以前よりかなり分かった。だが凡人の悲しさで、どんどん忘れてしまうのが辛いところ。 司馬の「花神」は後に討幕軍の総司令官となる大村益次郎(村田蔵六)の半生を描いた歴史小説だった。これによって幕末の緊迫した情勢が理解出来たが、同時にあの時代を生きた人間の精神構造が良く分かった。自分の信念を貫き通す人があの時代には確かに存在した。大きな目的を達成するためには、他人の評価は全く気にせず、死すら恐れてはいなかった。 花神(かしん)とは花の精の意味。だが、中国語だと「花咲爺」なのだそうだ。司馬が何故タイトルを「花神」にしたのか、説明は無い。ひょっとして、幕末期は価値観が混沌とした枯れ木みたいなものと考えたのだろうか。蔵六が自分の生死を賭けて播いた「灰」が樹木の肥料となり花が咲くのは、明治と言う新しい時代に入ってからのことだった。 その後読んだ司馬の短編小説「斬殺」は、官軍の奥羽征伐隊の責任者である世良修蔵の話だった。彼はわずか200人の官軍を率いて会津藩を攻めに来るが、人格の粗暴さが仇となって奥羽の各藩に離反される。中でも仙台藩は朝廷から「錦の御旗」を与えられる立場だったようだが、やがて白石城で米沢藩と謀議し、奥羽列藩同盟を結成して世良を斬殺する。この結果東北地方は朝敵として、明治に入って暫くの間冷遇される 同じく司馬の短編小説「英雄児」は長岡藩の河井継之助が主人公。彼は身分の低い立場でありながら一念発起して学問を学び、長岡藩の家老に出世する。藩の経済を立て直した河井は、近代的な兵器を整備して「中立」を守ろうとするが果たさず、奥羽列藩同盟に加盟。立て籠る官軍を討つため自藩の町屋を撃破した。その結果彼の死後、その墓は恨んだ町民によって破壊された由。 佐幕や勤皇、または「尊王攘夷」とは言っても、藩によって、あるいはその時期によって、状況はどんどん変化する。それは薩長や土佐も、保守的な幕府の高官も同様だった。だがほとんど変わらなかったのが最後の将軍である徳川慶喜。本来なら将軍家を継ぐ資格のない水戸徳川家の出(徳川斉昭の七男)で、一橋家を継いだ男だ。 だが十三代将軍家定(最後の夫人は篤姫)が35歳で、十四代将軍家茂(夫人は皇女和宮)が21歳で逝去すると、固辞したにも拘らず将軍に任命される。だが英明な彼は密かに「大政奉還」を決意していたし、最終的には江戸城も領地もすべて朝廷に差し出した。その変わり身の早さが、幕臣には理解されなかったみたいで、3人の側近が次々に斬殺される。 慶喜がその後若くして隠居し、かつての住まいだった皇居(江戸城)へ上ったのは明治31年になってからとは驚く。それまでひたすら謹慎生活を送っていたのだ。公爵の爵位が与えられたのはさらにその4年後。慶喜が大政奉還や江戸城の無血開城に応じなかったら日本はもっと悲惨な状態になっていたはずで、本来は維新の最大の功労者だったと思う。大正2年、「最後の将軍」慶喜は77歳で逝去する。 蔵六と慶喜は立場が全く異なるし、生き方も違うのだが、どちらも「筋」が通っていた。つまり良くも悪くも「信念の人」だった。そんな人が何人もいたからこそ、列強の手で奪われずに済んだ日本。わずか100年ちょっと前の我が国には、肝の据わった人物が確かにいたのだ。1人の小説家が魂を込めて書いた本が、そのことを私達に教えてくれる。歴史の真実とは凄いものだ。
2012.01.30
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今朝の寒さは一入でした。何せ窓ガラスが全面結氷してましたからね。タオルで拭こうにも、結露と違うため滑ってしまいます。シャッターを下ろしている1階の和室の窓ガラスも一部結氷。そして居間の室温は5度にまで下がっていました。後で最低気温を聞いたら、マイナス7度だったようです。多分私が仙台で経験した寒さの中でも一番低かったはずです。 こんな寒さなのに、玄関の愛犬の水は凍らないままでした。暖房のない玄関は低温のはずですが、それでも外よりはかなり暖かいのですね。散歩の後も暫くの間は、愛犬を玄関に入れて置きました。お日様が出て少し暖かくなった後は、愛犬を庭に出し、2階のベランダに布団を干しました。折角の恵みを利用しない手はありませんからね。 その後、妻は近所の坂道まで走りに行きました。私も走りたかったのですが、今日は出かける用事があったため、我慢したと言うわけです。今日はロンドンオリンピック代表を選ぶ「大阪国際女子マラソン」があります。前回ぶっちぎりで先行していた福士加代子が、途中から失速した「大阪」でしたが、今回はリベンジなるかが注目されていました。 それに多くの走友が出る予定の「勝田マラソン」。これは茨城県で行われるフルマラソンですが、毎年のように強い寒風に悩まされます。また、千葉の房総半島で行われる「館山若潮マラソン」もフルのレース。こちらにはブログ友が何名か出る見たいですが、地理的な条件から「勝田」よりはかなり暖かいはずです。 本当は「大阪国際」の実況放送を観たかったのですが、昨夜妻と映画を観に行く約束をしてしまいました。映画は「ALWAYS 三丁目の夕日’64」です。原作は人気雑誌に連載された漫画のようで、これまでも何度か映画化されているみたいです。今回は舞台を昭和39年に設定し直したようです。 昭和39年と言えば東京オリンピックがあった年ですよね。そして東海道新幹線もこの年から走り始めました。私は働き出してから3年目。冬には新幹線に乗って、京都へ旅行した思い出があります。駅前の京都タワーが出来たばかりでした。映画の舞台は東京の下町。主な登場人物は売れない小説家夫妻(吉岡秀隆、小雪)や自動車修理工場の夫妻(堤真一、薬師丸ひろ子)。工場で働く女工が堀北真希です。 その下町を舞台にしたヒューマンドラマには泣かされます。貧しいけれど、下町に住む人々には暖かい人情が息づいているのです。「ミゼット」みたいなオート三輪車が舗装されてない道路を走ります。服装も当時は粗末なものでした。当時の私の月給が1万円ちょっと。ラーメンが60円でコップ酒が1杯50円の時代でした。 東京タワーなどが出て来る懐かしい場面は、VFXと言うCGとは違った合成技術で作られているそうです。私達が観たのは3D方式のものでしたが、通常の作品とさほど変わりは無いように感じました。あれなら別段3Dで観なくても良い場面ですね。それでも何度か涙を流し、観終わった後も暖かいものが胸を過りました。 観られなかった「大阪国際女子マラソン」は、結局フルマラソン2回目の重友梨佐(24歳:天満屋所属)選手が2時間23分23秒で初優勝。見事ロンドンオリンピックへの切符を手にしたようです。レースでは終始重友がリードする形だったようで、福士は今回も途中で失速し9位に終わったようです。さて「勝田」や「館山」へ参加した走友達の結果はどうだったのでしょうね。
2012.01.29
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少々唐突だが、私は「人生はすべからく実験」だと思っている。結婚も実験だし、ブログもまた実験の一部だと思うのだがどうだろう。さて、昨日病院から帰るバスは、結局53分かかった。料金は430円。通勤時の料金が410円なので、そこから終点まで20円しか上がらないとは意外だった。入院の日にはバスで行くつもりだが、指定の時間まで着くにはどれくらい前のバスに乗れば良いか確認出来た。 病院に長時間いたが、あまり喉は乾かなかった。でもCT室の技官には、造影剤を速く体外に排出するためには、なるべく早く500mlの水を一気に飲んでくださいと言われていた。夜の9時過ぎにこれを思い出し、一気に飲んだ。意外に飲めるのが不思議だったが、その後頭の中が急に暖かくなった。これはひょっとして脳出血かとビックリしたが、その後しばらくして治まった。 夜中トイレに3回起きたのは、大量に飲んだ水のせいもあるだろう。それでもその都度眠り、最終的に目が覚めた時は朝の7時になっていた。どうやら9時間も眠ったようだ。こんなことは滅多にない珍事。外は雪が積って真っ白。その雪の中を愛犬と散歩に出かける。朝食後は自室と2階のトイレの掃除。次に玄関の掃き掃除。妻は珍しく雪かきをした。 お向いさんと立ち話をしていたら、喜寿になる町内会の役員がつい最近骨折したとか。何でも裏道の階段を歩いていた時に、2段ほど飛び降りたらしい。その時に転んで足の骨にヒビが入り、手を骨折したようだ。いつも元気で、率先して町内の草刈りをしてくれる人なのだが、つい若い気になったのだろう。気持ちはいつまでも若いのだが、体が着いて行くかどうかは分からない。 妻が最近買ったパン焼き機でパンを焼き始めた。私は自室で確定申告の準備。今日は医療控除請求のための準備だ。領収書を妻と私の分に分け、さらに月日順に並び変える。それを自作の集計表に書き込んで計算する。そこまでしなくても良いのだろうが、その方が一目瞭然で申告が早く済むように感じた。何せ今回は大震災の影響で被害を受けた人が多く、確定申告にも時間がかかると聞いている。 パンも出来上がったようだが妻の表情がおかしい。早速食べたが美味しくないとのこと。レーズンも入れて張り切っていたのだが。そこで「イースト菌は古いの?」と聞くと、大阪時代に使った残りを冷凍したものとか。もう16年以上も前の「レア物」ではないか。そんな古い菌では無理だと思う。案の定、説明書を見たら「古いイースト菌は使わないように」との注意が書かれていたとか。やっぱりね。 幾ら実験でも、物には限界があるだろう。家の中が暖かいので、急遽軽装で走りに行くことにした。ところが外に出ると風が冷たい。今日は底が軟らかめのシューズに医療用インソールを装着してのラン。底が摩り減ってはいるが、練習走ならこれでも大丈夫なはず。坂を登ると、北西の風を正面からまともに受けて寒い。これが下りになると、背に受けた風はさほど冷たく感じずに済む。 ゆっくり5往復して帰宅。11kmに1時間25分ほどかかったが、足の痛みは出ずに走れた。もしこのままの調子であれば、退院後に底の軟らかなシューズを探し、足首用のサポーターを購入しても良い。そんな風に思えた分、今日の実験ランは成功だったと思う。 妻の作ったパンを愛犬に与える。ついでに私も食べてみたが、妻が言うほど不味くはない。貧乏時代が長かった私には、きっと「どんなものでも十分に役立てる能力」が備わっているのだろう。明日の「勝田マラソン」だが、天気予報では最低がマイナス6度、最高が4度とか。走友達も低温に苦戦しそうだが、頑張ってゴールをして欲しいと願っている。
2012.01.28
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今日も朝から雪が降り、寒い一日だった。最高気温はマイナス1.5度。2年ぶりの真冬日だったようだ。朝の巡回では、塔屋の螺旋階段を慎重に降りる。雪が積っていることもあるが、左右の足の幅が違うためか、左膝に痛みが走ることがあるためだ。後2年、70歳まで頑張って警備員を続けようと思っているのだが、果たしてどうなるか。 第2現場での勤務後コンビニでお握りを買い、病院に向かう。今日は入院に先だって、胸部血管のCT写真を撮る日。予約の時間までかなりあるが、一旦帰宅してからでは遅くなる。病院に着いたのは、12時15分頃。病院からの指示で、10時半以降は食べ物を口にすることは出来ないため、空腹を我慢し売店へ。ここでT字帯を2個購入。これも入院に備えてのもの。 金額は小さいが、領収書を発行してもらった。来年の確定申告時に提出するためだ。次いで循環器内科の外来へ。CTスキャンまでの間に血液検査をする由。地下の検査室へ行き、ファイルを出す。間もなく番号と名前を呼ばれて入室。採血はベテランの看護師さんだった。血液を取る試験管みたいなのが6本。いやはやこんなに採血量が多いとは。 終了後、再びファイルを外来の窓口に提出。次に名前を呼ばれるまでの約2時間は読書に勤しむ。今回読み始めたのは、司馬遼太郎著「ある運命について」。これは明治期以降の軍人に関する短編小説が多いみたいだ。「坂の上の雲」に出て来た、広瀬武夫の話も出て来る。彼は旅順港封鎖の際に戦死するのだが、軍人よりも文学者と言った方が適切な教養人だったようだ。新たに知った事実に驚く。 小さな活字。古めかしい話の展開につい眠くなる。窓の外は相変わらずの小雪。名前を呼ばれ、再び地下の検査室へ。ここでも30分以上待ってCT室へ。先ず注意事項の説明を受けてから、機械の中へ身を横たえる。腕には注射器とチューブ。時間になるとそこから造影剤が投入される。少しずつ部位をずらして撮影し、ついに造影剤の投入開始。 頭や肩などが熱くなる。「心配ないですからね」と検査技師。息を吸ったり、吐いて止めたりの繰り返し。20分ほどで撮影が終了し、三度受付へ。ここで看護師に手術の日時について尋ねた。日は確定してるけど、時間は入院後に決まる由。家族が立ち会う必要があるのだが、妻が仕事の関係もあって、午前か午後かだけでも知りたがっていたからだ。 会計を済ます。1万円程度と聞いていたのに、実際は1万5千円以上。入院に備えて既にお金は準備してあるが、院内に銀行のキャッシュコーナーがあることが分かって一安心。バス停に向かいながら、手術の当日妻には午後に来てもらえば良いと思いついた。もし手術が午前中でも結果が聞けるし、午後なら立ち会うことも可能だからだ。 最悪の場合は私1人でも良い。だって1人暮らしの人もいるはずだから。4泊5日の入院のため、準備にはそれほどかからない。妻には保険会社に連絡して今後の手続きを聞いてもらおうと思う。私は入院準備の他に、確定申告の準備をして置こう。そんなことを考えながら、バスの中で3個のお握りを平らげた私だった。
2012.01.27
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朝起きると窓ガラスが凍っている。そこから寒さと戦いが始まる。結露部分はタオルで拭けるが、凍った部分はどうにもならない。窓を少しだけ開けておくと、帰宅した頃には乾いている。濡れたタオルを外に干す。凍えた指が早くも痛みだす。 1階に下りて、居間のヒーターを点ける。設定温度は18度だが、室温は7度。タンクの灯油が残り少ないことを確認して、愛犬と散歩に出かける。一晩中オシッコを我慢していたのか、先ず裏庭に駆けこむ彼。テレビで確認した今朝の仙台は零下4度。風がないせいか思ったほど寒くはない。いつもは散歩から帰ると、左手の中指が真っ青になり痛みを発している。間違いなく血行障害だろう。 愛犬を再び玄関に入れ、朝食を与える。次に空になったタンクに灯油を補給。台所の出口に置いたサンダルがまるで凍っているような冷たさ。居間の室温は13度まで上がった。次に昨夜のうちに水抜きした栓を開け、2階のトイレに水を流す。凍結防止用に閉めた後だったため、そのままの状態になっていたからだ。 お風呂の残り湯で顔を洗い、手を温めた後、朝食の準備。酢のものとミカンは冷たいままだが、それでも私は大丈夫。職場に持参するウーロン茶を小さなペットボトルに詰める。これも冷蔵庫で冷やされたもの。朝一番のトイレはシャワーが凍っていて、温度を上げた3度目にようやく冷水が出た。これも最初に使う人の宿命だ。 6時20分。自宅を出てバスの終点に向かう。土を踏むとバリバリと音を立てる霜柱。バス停に女子高生がしゃがみ込んでいる。制服に短いソックスだけでは寒いのだろう。ようやく来たバスの車内もまだ暖房が良く効いてない。明るい場所を選び、読書の開始。だが徐々に暖かくなったためか途中で居眠りし、気がつくと仙台駅。 いつもこのパターンが多い。私が降りるのはもう1つ先の停留所だが、乗り越したことがないのが不思議。現場のビルはまだ寒いまま。暖房と換気のスイッチを入れ、警備服に着替える。警備日報などを確認後、巡回を開始。屋上から白い山々を臨む。だが、奥羽山脈は雪雲の中だ。零下4度の巡回は厳しいが、気が引き締まって良い。 1時間の立哨も寒さとの戦い。足の底から寒さが伝わって来る。防寒服とは名ばかりで、風は通さないものの保温性は低い。タクシーのFドライバーが見かねて、暖かいお茶を差し入れてくれた。玄関ホールでそれを飲むことは出来ないため、ポケットに入れて凍えた手を交互に温めた。10時過ぎ、第2現場へ移動。休憩室での約20分間で、ようやく体が温まる。 それも清掃作業でたちまち元の冷えた体に逆戻り。冬の水仕事は厳しいが、寒風吹く中での掃き掃除もなかなかに厳しい。勤務を終えて作業服を脱ぎ、軽装での帰宅ランを開始。青葉城の入り口から続く凍った道路。この寒さでは当分融けないだろう。山道を登るにつれて舞い出す小雪。危ないけど凍った歩道を避けて、車道の端を走る。 家の近くまで来たら、吹雪状態になった。帰宅し、愛犬を庭からガレージに移動。風邪を引かないよう直ぐに着替えし、「カーネーション」を観ながら昼食。ヒーターが点いてない居間だが、さほど寒くはない。食後、2階の自室の窓を閉めて新聞を読む。外は小雪が降ったり止んだり。夕方の愛犬との散歩も雪が舞い散る中だった。今年の冬は当分こんな日が続くのを、覚悟する必要がありそうだ。 今度の日曜はたくさんの走友が参加する「勝田マラソン」。茨城県ひたちなか市の当日の気温は、最低がマイナス4度で最高が4度。風が吹けば寒いフルマラソンになると思う。一旦走るのを止めれば、たちまち体温を奪われるはず。そうならないためにも最後まで力走し、ゴールすることを願っている。
2012.01.26
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昨日はM先生の病院に行って来た。循環器病主体の個人病院だ。先日先生の紹介状を持って大病院の診察を受け、入院と手術が決まったことを話すと、先生はことの他喜んでくれた。昨年の5月にこの病院へ変わったのは、不整脈が発見されたため。それ以降の付き合いだが、ドクターは暖かい人柄で何かと心配してくれるのが有難い。 病院から帰宅し、今度は愛犬との散歩を兼ねて買い物へ。夕方の冷たい風が目を刺激し、涙が鼻水になる。そこからさらに眼鏡店へ向かった。実は先日家の中で転んだ際、階段で左足と額を打った。スリッパが階段に躓いたのだ。その時から眼鏡のフレームが曲がったままだった。落ちることはないが、緩すぎるのが少々心配だった。 最初は第1現場近くのS眼鏡店を訪ねた。ところが店員は眼鏡を手に取って見た後、「この眼鏡はうちで買われたのですか。申し訳ありませんが、買われたお店で直してもらって下さい」と一言。私も無理にフレームを直したら、壊れる可能性があるとは思っていた。ただ店員の対応が良ければ、次の眼鏡はその店で作っても良いとも考えていた。 だが、その態度で考えは一変。妻にその話をすると、彼女も時計の電池を交換してもらおうとしたらその店で断られたことがあると憤慨していた。きっとどちらも儲けにはならないからだろう。結局は高級な時計や眼鏡を特定の人に売る、殿様商売なのだと思う。散歩のついでに立ち寄ったN眼鏡店は、今回フレームが曲がった眼鏡を買った店だった。 若い店員は愛想良く接してくれ、話を聞いて早速直してくれた。もう1人の店員は、美味しいお茶を淹れてくれた。安売り眼鏡店に客はいない。実はそこで作ってもらった眼鏡は、どうした訳か全く見えなかった。再び作り直してもらったものも、また見えない。きっと検眼技術が下手なのだろう。そのまま我慢をして使っていたがフレームだけは生かし、別のA店で新たに検眼してレンズを入れ直してもらったのが今回の眼鏡だった。 あの時はベテラン店員だったが、今は2人とも若い人。彼らの検眼の技術はどうなのだろう。安かろう悪かろうで一時評判を落とした店だが、こんな時にしか行く気にならない。それでも直してもらったフレームは安定し、これなら安心していられそうだ。次に行くのは、やはりA店しかなさそうだ。A店は老舗で信用が高く、専門の技術者がしっかり検眼してくれた。だが媚を売るような女店員の態度が嫌いだった。 私はゴマは擦らない。会社の上司はもちろんのこと、契約先の社員や病院の先生にも同じ態度で接する。もちろん人を見下すこともしない。今回は眼鏡店の店員の態度をじっくり観察させてもらった。その評価を次回以降に生かす訳だ。 話は変わるが、第1現場の同僚が急に辞めた際、ある人を代わりに推薦した。面接したのは私の上司だが、彼に向ってこう言ったそうだ。「Aさんの紹介なら間違いないでしょう。よろしくお願いします」。直ちに彼は採用され、目下張り切って勤務している。例え上司でも同じ態度で接している私だが、それでも見る人は見ている。日頃の変わらぬ態度が信用につながり、評価につながるのかも知れない。
2012.01.25
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コダック社が倒産の危機にあるようだ。へえ~っと思う。世界を席巻したフィルムメーカーが倒産とは、これも時代の流れなのだろうか。皮肉なことに、最初にデジタルカメラを開発したのがコダック社だったとか。もしそれが本当なら、自分の手で自分の首を絞めたことになるのだろう。 若い頃に私達が使ったフィルムは「さくら」や「富士」。現像すると、「さくら」はやや茶色が優り、「富士」は緑っぽく出来上がって来た。これに対してコダックは、発色が抜群で高級品とのイメージを持ったものだ。 話は変わって、宝くじの賞金額を上げる計画があるらしい。何でもジャンボの1等賞金を、3億円から一挙に7億円にするとか。増額の理由は、昔ほど宝くじが売れなくなったためのようだ。私にすれば金額を上げるよりは当選者を増やした方が良いと思うのだが、どうなのだろう。それに所ジョージや西田敏行などのコマーシャル出演料も相当高額になると思うのだが。 ダルビッシュの高額年俸や宝くじに比べたら、「お年玉つき年賀状」の賞品のささやかさはどうだろう。先日当選番号の発表があったばかりだが、私が当たったのは4等の切手シートが1枚だけだった。昔は生活も質素だったため、お年玉付き年賀状の当選も結構楽しみだったが、今ではこれくらいのことで喜ぶ人は少ないと思う。 先日、妻が注文した品物が届いた。毛布と敷布が各2枚だ。決して高価ではないし、見た目の豪華さもない。だが、これは今年の冬の寒さを乗り切るために妻が選んだもの。早速その夜から使用している。毛布は簡単に蹴飛ばしてしまうほど薄っぺらいが、結構暖かい。敷布もなかなかのものだ。それでも私は靴下を履いて寝る。朝起きると窓ガラスが、吐いた息のため凍っていることもあるからだ。 我が家の老犬マックスのために、妻が赤い毛糸で「肩かけ」を編んだことは前にも書いた。本当は胴巻きの方が良いのだろうが、それでも彼は気に入っている。私の古いバスタオルも「お下がり」したのだが、これは少し薄過ぎたようだ。妻は自分の古いオーバーコートをマックスにプレゼントした。これが暖かいのか最近は熟睡しているようで、時々夜中に「いびき」が聞こえて来る。今年の冬はとても長い。
2012.01.24
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日差しが明るく、春めいて来た。だが、寒さはこれからが本番だ。大相撲初場所が昨日で終わった。優勝は大関の把瑠都が早々に決めたが、さすがは横綱だけあって白鵬が把瑠都の全勝を阻止した。来場所も連続して優勝すればヨーロッパ出身初の横綱誕生だが、相撲が大雑把なのでそうそう簡単には行かないだろう。お母さんと並んで応援する把瑠都の奥さんは、和服が似合う美人だった。 ダルビッシュの巨額での大リーグ移籍が決まった。恵まれたドーム球場から、気温40度にも達するテキサスの過酷な気候へ、そして中4日での先発へと条件が変わるが、若い彼の肉体はそれに打ち克ち、順応することが出来るか注目したい。テニスの全豪では錦織が日本人初のベスト8入りしたし、全日本卓球の男子シングルスでは、高校3年の吉村選手がこれまでのチャンピオンである水谷選手を破って初優勝した。卓球にも男女とも後継者が育って来ているのが嬉しい。 さて、大震災で停車したままになっていた仙石線の電車が、修理を終えて昨日再び走り出した。あの日たまたま小高い丘陵部で地震のためにストップし、一旦は電車から逃げようとした乗客らを、「むしろ電車の中の方が安全だ」と言って地元民が止めた。一晩中を車内で過ごして避難した乗客が翌日見たのは、目の前に広がる惨憺たる光景。まさに危機一髪の状態だったのだ。 大津波に襲われた宮城県最南端の山元町。急いで家族を安全な場所に避難させるため、心ならずも愛犬を置き去りにしたあるご主人。あの分では助からなかったろうと諦めていた10ヶ月後、たまたま別の人と散歩中の愛犬を発見。名前を呼んだら、喜び勇んで元の主人の許に駆け寄ったようだ。その様子を見てこの人が本当の飼い主と、預かっていた犬を渡した由。 あの日、全身が濡れて泥だらけになった犬が近づき、人の傍から離れようとしなかったそうだ。よほどこの犬は怖い思いをしたに違いない。それに海の方から来たのは、家族が津波の犠牲になったからだろう。そう思って犬の世話をし、大事に預かっていたそうだ。10カ月ぶりの劇的な対面の陰には、きっと目に見えない絆があったのだろう。 クルーズ中の豪華客船がイタリアの小島で暗礁に座礁し、大きな被害をもたらしたニュースは世界を驚かせた。乗客を誘導すべき船長が、真っ先に船から逃げ出したこと。その彼が座礁後間もなく2人の婦人を夕食に招いたこと。座礁の原因が、ある船員に故郷の島を見せようとして、航路以外の海域に立ち寄ったこと。知れば知るほど奇怪なことばかり。 携帯電話を通じて監督官庁から船長が叱責される映像も見たが、まさに茶番劇だった。今イタリアでは、クルージングを主催した米国の企業に対し、1人当たり1200万円の損害賠償を求める訴訟が準備されている由。内訳は医療費、失った所持品及び精神的ショックの補償のようだ。豪華客船コスタ・コンコルディア号の悲劇は、どうやら船長が「ど素人」の感覚しか持ち合わせてなかったことに尽きそうだ。 福島県南相馬市小高地区の住民は、目下東京電力に対して補償の上積みを求めて準備中とか。強制移転させられた彼らは、仕事をしたくても出来る状況にない。失業手当が無くなり、支給された見舞い金が無くなり、貯金まで使い果たした後はどうやって暮らすのか。福島原発事故の悲劇は、イタリアのど素人船長が起こした事故より遥かに深刻で、かつ与える影響が大きいことだ。
2012.01.23
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何日か前の新聞に、1人の女性の写真が載った。これはまさしくAちゃん。彼女の顔を最後に見たのは45年ほど前だが、あの頃の面影があるし、年齢もピッタリだった。「へえ、なぜ新聞に?」。急いで記事を読み、あまりのことに驚いた。 彼女と初めて出会ったのは50年前。場所は私が最初に勤務した職場だった。彼女は1学年上の先輩で、2列ほど離れた係に所属していた。色の白い大人しい人で、職場ではAちゃんと名前で呼ばれていた。ほっぺたの赤い少女のような彼女と話したことはなかったのだが、1年過ぎたころ彼女の方から話しかけられた。 昼休みは近くの公園まで散歩に行き、一緒に歌を歌った。誘われて1度ハイキングに行き、私が誘って1度映画を観に行った。4歳で母と離別した私は、母の温もりを知らずに育った。そのため、常に暖かい母の面影を求めていた。多分Aちゃんはそんな人だったと思う。彼女がどんな感情を抱いていたかは知らないが、晩稲(おくて)の私には好きとかいう気持ちはなく、手をつないだこともなかった。 そのうち私はノイローゼになった。当時担当していた精神神経科の医療事務が苦痛になったのだ。当時の精神神経科は一般病棟とは離れた別地区にあり、そこまでレセプトを取りに行くのでさえ恐ろしく感じた。穏やかな性格に「改善する」ため脳の一部を切除したり、電気ショックをかける荒っぽい治療。まるで牢獄のような鉄格子の奥からは、患者の悲鳴が聞こえて来る。 精神神経科を担当していた先輩2人が重篤な精神病になったこと。精神神経科の看護助手を務めていた人が、怖さのあまり私達の係に配置転換になったことも、私の精神をより不安定なものにした。私は思い切って新設されたばかりの職場への異動を申し出た。これまでとは全く違う職種で、一から勉強する必要があったが、自分に向いた天職だと感じたものだ。 転勤を機会に通信講座を受け、さらに夜間大学に学んだ。風の便りでAちゃんが心の病にかかって入院したことを知った。だが私にはどうすることも出来なかった。街でばったりAちゃんに出会ったのはそれから1年ほど後のこと。彼女は赤ん坊をおぶっていた。「結婚したんだ!」と思いつつ、お互いに言葉を交わすこともなく別れた。 ナタリー・ウッド主演の映画「草原の輝き」を観たのは、その頃のように記憶している。恋愛関係にあった若い男女が何かの理由で別れ、女性は精神のバランスを崩して入院する。退院後たまたま2人は再会するが、お互いに許し合って別れるというストーリーだったと思う。「草原の輝き」は、入院中に彼女が読んでいたワーズワースの詩のタイトルだった。 新聞記事によれば、Aちゃんは昨年の大震災による津波で自宅を流され、ご主人を亡くされたようだ。しばらく茫然自失の生活を送っていたが、これではいけないと思い直し、避難所で暮らしている被害者のために教会の仲間とボランティア活動を行っているようだ。信仰生活は40年以上と書かれている。きっとあの頃から、教会へ通い始めたのだと思う。新聞の中の柔和な笑顔に、あの古い映画を思い出した私だった。 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還らずとも嘆くなかれ その奥に秘められたる力を見出すべし ワーズワース ≪草原の輝き≫ より
2012.01.22
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昨年の暮れに放送された司馬遼太郎原作「坂の上の雲」の最終回でのこと。主人公である秋山好古、真之兄弟が瀬戸内海に小舟を浮かべて魚釣りをする場面があった。2人揃って魚釣りをするのは子供の頃以来と言う真之に対して、好古は初めてだと言った。あの番組は全国各地で撮影されたものを繋ぎ合わせたもののようだが、あれは間違いなく松山近郊の海だと分かった。小舟の後に見えた岩が「ターナー島」だったからだ。 「ターナー島」は漱石の「坊ちゃん」に出て来る話で、坊ちゃんと山嵐が瀬戸内海に小舟を浮かべた際の「イギリスの画家ターナーの絵に出て来そうな島だ」との会話から愛称になった小島。私がそれを知っていたのは、あそこが松山勤務時代の練習コースだったからだ。松山市内の和気地区から南下し、松山観光港に向かう海岸の直ぐ傍にある小島で、確か頼りなげな松が1本だけ生えていた。 とても淋しい場所で、冬は冷たい風が吹き抜ける。だからランナーの姿をほとんど見かけなかった。観光港から引き返すと、標高986mの高縄山が、まるで薄い乳房のように見える25kmのコースだった。もう一つの練習コースは道後温泉の奥からミカン山を一周する25kmで、春はミカンの花の良い香りがし、遥か瀬戸内海を臨むことが出来た。 この正月に読み終えた「花神」にも、懐かしい風景が登場する。長州藩士が芦屋に上陸して京都に攻め上る際、西国街道の芥川宿を通過する場面だ。ここは現在の高槻市で、やはり大阪勤務時代の練習コースだったところ。上流には摂津峡という自然豊かな峡谷があり、下流は淀川に合流する。まさか宿場だとは気づかなかったが、確かに宿場町の面影がほんの少し残っていた。 春は川の両岸が桜並木となり、花見客が多い。そこから淀川に架かる橋まで往復するコースは水飲み場がほとんど無く、冬は北風に苦しめられる厳しい場所だった。あの堤防の単調な30kmが、私を鍛えてくれたと思う。もう一つのコースも淀川の支流に沿って走るもので、殺風景だったが春には土手の野草を摘んだ。 同じく「故郷忘じがたく候」は薩摩焼の沈寿官が主人公だが、作者の司馬が沈氏の自宅を訪ねて甲突川を遡る話が出る。その川の河口付近を走ったのは、鹿児島で会議が開かれた時だった。目の前には鹿児島湾が広がり、その向こう側には煙を吐く桜島の姿が臨めた。幕末の頃、この湾にイギリスの艦隊が侵入し、島津藩と砲火を交えた。 最新式のイギリスの艦砲はあっと言う間に島津の大砲を粉砕し、鹿児島城下を驚かせた。この敗北が薩摩を攘夷から開国に変えた歴史的な転換点となったのだが、当時はそんなことを知らずに、美しい風景を眺めながら海岸を走っていた。こうして見ると、小説の舞台を走るなどは時間を超越した不思議さで、まさに奇遇と言うしかない。
2012.01.21
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≪ 遠い道 ≫ 昨年9月「秋田内陸」の45km地点でリタイアした時、「100kmレースはこれが最後かも」と覚悟した。事実翌月の「伊南川ウルトラ遠足」は体調不良で、スタートラインに立つことすら出来なかった。それでも参加出来た場合の作戦だけは考えていた。何とかゆっくり前半の50kmを走り、後はそこから路線バスに乗って帰ることだった。 今回は42.195kmの遠さを感じていた。足の痛みは取り敢えず治まったものの、不整脈による息苦しさがさらに増したからだ。この体調でフルを完走するのは無理だが、何とか「勝田」に参加する方法を考えていた。結論は30kmで止めること。そこに収容バスが待機していることが分かったからだ。そこからバスでゴールまで帰れば、一緒に行く仲間にさほど迷惑をかけずに済むかも知れない。 その2週間後の「いわきサンシャイン」は、「勝田」後の体調をみて出場を決め、もし大丈夫なら25km地点まで走る積りだった。そこに荷物が届いているからだ。東日本大震災の被害と、どれだけ復興したかを自分の目で確かめるため、何としてでも行きたかった「いわき」。交通手段は高速バス。ビジネスホテルはほとんどネット予約が不可能な状態だったが、ツーリストを通じれば何とかなると考えていた。 入院と手術の期日が決まったため、2つのレースへの参加は最終的に諦めた。寒い時期のレースで、体力的にも自信がなかったため、不参加で良かったのだと思う。「勝田」まで同乗させてもらう予定だったM仙人には、断りの電話を入れた。仙人の話によれば、走友会からの参加者は他にいない由。震災後、常磐線が寸断されているのも大きな理由だと思う。 入院を前に、病院から渡された書類を確認し準備を始めている。資料によれば、心房細動(不整脈)による影響としては、1)動悸 2)胸の違和感 3)胸痛 4)咳 5)呼吸困難 6)疲労感などが出るようだが、人によっては無症状のこともあるようだ。私も当初は自覚症状がなく、練習でも80kmほど走れたのだが、今では睡眠時に息苦しいことがあるほど悪化している。 また手術に伴う併発の可能性については、1)出血、皮下血腫 2)血管損傷 3)感染症 4)重症不整脈の誘発 5)血栓塞栓症 6)気胸、血胸 7)心穿孔 8)心筋梗塞 など16もの重篤な症状が列記されており、手術を受けるのが怖くなるほどだ。手術後に片方の視力が無くなった人が近所にいるが、私の担当のO先生が執刀したのでは無いようだ。 手術を始めとする医療行為に関しては、全面的に信じ委ねるしかないのが患者の立場。そして入院の日までより良い体調を保つのが、患者の使命だと思う。体力の減退や記憶力の後退は、老化には付き物の現象だし、歳を取ればいつも良好な体調ばかりではいられなくなる。47年ぶりの今回の入院は自分の「老い」を認識すると共に、老後の健康を考える良い機会なのかも知れない。
2012.01.20
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≪ 実験と診断(5) ≫ ドクターは検査結果を基に、私の病状について説明した。そして私の不整脈がいつごろから発生したのかを知りたがった。不整脈の指摘を受けたのは昨年の5月だが、3年ほど前の健康診断で心電図を撮った時にも首を傾げられたことを伝えた。そして不整脈を抑えるための薬を服用した際の症状は、やはり副作用だったようだ。 ドクターの診断は「やや慢性化した不整脈」。ただ、思ったほど左心房の肥大は進んでおらず、手術をすれば不快な症状は一掃される由。どれくらいまで手術を遅らせることが出来るか尋ねたら、「そんなことを言ってる場合じゃないですよ」と一蹴。寒い時期の入院は妻が嫌っていたし、職場から休暇がもらえるかどうかの心配があったからだ。だが4泊5日の入院で済むとの話に、手術することを承諾。こうなったらまな板の上の鯉だ。 手術は肩と太股の付け根の2か所から血管にカテーテルを通し、心筋の一部を焼灼するもので、成功率は90%以上とのこと。ドイツで最新の技術を学んだばかりのドクターは、かなり自信を持っているようだ。入院に先だって造影剤を用いての胸部血管撮影、入院後は手術前に食道を経由した「心エコー検査」を行う由。直ちに入院日を指定され、3種類の同意書への署名を求められた。 「どうぞよろしくお願いします」。ドクターに丁重に頭を下げ、診察室を出た。その後、看護師から入院の際の説明。持参品一覧の中にある「T字帯」とは何かと聞いたら「ふんどし」とのこと。太股の付け根からカテーテルを挿入する際に有効なのだろう。会計でこの日の診療費を支払い、血管造影と入院の費用を尋ねた。 全てが終わった時には6時半を過ぎていた。病院内には約8時間滞在したことになる。椅子に座って服とズボンを脱ぎ、リュックへ入れる。これから夜道を走って帰るのだ。入院決定記念の帰宅ランも悪くはない。何も知らない頃は1カ月ほど入院すると考えていたのだが、開業医に聞いたら1週間で済みそうと言われ、最終的には5日間になった。そのうち職場を休むのは4日間だけなので、何とかなると思う。後は女房にどう説明するかだ。 暗い道を慎重に走る。入院前の大事な体が怪我でもしたら大変だ。青葉城への坂道がすっかり凍っていて、ツルツル滑る。手をついて何とか道の端に移動し、どうにか登ることが出来た。動物公園への坂道は歩道に雪が残っていたため、車道の隅を走った。無事帰宅したが、手が冷たくて苦しい。妻には入院と手術が決まったことを告げる。急な展開に少し戸惑っていたようだ。 さて、今は症状が進んだため、とても疲れ易い。そしてレース直前に血管撮影があるため、今月末の「勝田マラソン」への参加は無理だと思う。来月の「いわきサンシャイン」は退院日がレース前日なので、こちらも完全に無理。全ては退院してからの再スタートになるだろう。幸い3月と4月はレースへエントリーしていない。この際じっくりと体を治し、徐々に体調を整えたいと思っている。
2012.01.19
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≪ 実験と診断(4) ≫ 書類に必要事項を記入し、新患受付に提出する。ほどなく名前を呼ばれ、院内のルールについて説明された。今後の呼び出しは誕生日と姓の組み合わせになる由。つまり私の場合だと「3の24のAさん」と呼ばれるらしい。出来上がったカルテ一式を持参し、循環器内科の受付に向かう。申し込み用紙の科名で、この病院は内科と外科の組み合わせであることが分かった。 消化器系、呼吸器系、循環器系内科とそれに対応する外科があり、他に放射線科、麻酔科がある。最近の報道によればTF大と組んで医学部を創設する計画があるようだが、基礎医学は全くないし、臨床系もかなりの分野がないため、学生の教育はもちろんのこと、臨床面でもカバーする分野が多くて大変だと感じた。 カルテ一式を受付に出し、待合室のベンチに座る。循環器内科には外来担当のドクターが5人いるようだが、私が受診する「不整脈外来」の患者が一番多いようだ。それは各ドクターの名前の横に、記号や数字が書き出され、現在どこまで進行しているかが待っている人に分かる仕組み。私の担当になるO先生欄は既に「17」だが、多分これは17人ではなく延べ170人なのだろう。 来院してから1時間20分。ずっと本を読んでいるが、まだ何の音沙汰もない。正午も過ぎたためリュックからお握りを取り出し、3個とも平らげる。名前を呼ばれたのは3時間後。ルールに従って看護師に姓プラス「名前」を言って診察室に入る。きっと医療過誤を防ぐためにこの方式を徹底させているのだろう。ドクターは30代後半と見た。きっと昼飯も十分に食べる暇なく、診察を続けているのだと思う。 個人医からの紹介状を観ながら私に症状を説明させ、それを逐次端末から入力するドクター。さらに手首の脈を測って「やはり不整脈が出てますね」と一言。15分ほどで診察は終わり、次は検査に廻ることになった。コースに従って胸部のレントゲン写真撮影、心電図を撮り、最後に心臓のエコー写真。それらが全て終わったのは1時間半後。カルテを持って再び循環器内科の外来窓口へ。 さらに2時間半ほど待つ。こんなに待たされるのは予約してないからだろう。お陰で司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」全1巻を読了。窓の外はいつしか夕闇が迫り、真っ暗になっていた。あれほどいた患者も残り少ない。夕方の6時20分。名前を呼ばれO先生の診察室に入ると、ドクターはデスクの上にどさりと資料を置いた。さて、審判は如何に?<続く>
2012.01.18
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≪ 実験と診断(3) ≫ 右の人差し指に黴菌が入り、腫れ上がっていた。風邪で喉が痛く体調が悪かった。右足の底部に鈍痛があり、階段を下りる時右膝に痛みが走った。そして不整脈のせいで時々胸苦しくなる体調。それが昨年末から年始にかけての状態だった。これでフルマラソンを走るのは無理。自分ではそう思っていたが、少しでも体調を取り戻す努力だけはしてみよう。それが偽らざる心境だった。 思い切って整形外科へ行ったのは1月11日(水)。初めて診断を受けたドクターからは呆れられるほどの状態で、「このままだと靭帯が切れますよ」と言われた。あれは単なる脅しだったのか、それとも真実の言葉だったのか。ともあれ足底筋膜炎のために1本、くるぶし内側靭帯の腱鞘炎のために1本、変形性膝関節症のために1本。計3本の注射を打ってもらった。 それから4日間は休足。その間に右の脹脛(ふくらはぎ)が痛んだ。きっと痛む足を庇って走ったため、知らず知らずのうちに無理なフォームになっていたのだと思う。1月15日(日)。天気はまあまあか。満を持して近所の坂道まで走りに行く。もし痛みが生じた場合は直ぐ家に帰れるのが良い。それにこの日はある実験を試みる積りだった。 シューズは2番目に底が堅いものを選び、ドクターの指示通り医療用インソールを敷いた。12月の初旬に足を傷める元になった新しいシューズを履く勇気はさすがにない。これはネットを通じて2足購入したため、もし履いて痛みがなければとても助かるのだが。嬉しいことに痛みは出なかった。やはり注射が効いたようだ。6.5km走って一旦帰宅。 医療用インソールを抜き、靴屋で買ったフェルト製の中敷きと交換。次はこれで走る実験だ。フェルトが新しいせいか、坂道ではシューズの中で足が滑る。同様に6.5kmを走ったが、幸い痛みは出なかった。距離が長くなればどうかは分からないが、ゆっくりでも13kmは走れることは確認出来た。次の改善点は心臓。不整脈が良くなれば、走るのも今よりはずっと楽になるはず。 1月16日(月)。第1現場の勤務を10時で終わり、初めての病院に向かう。その前にコンビニで3個のお握りを購入。今日の診療はどれくらいかかるか分からない。多分昼食は病院内になるはずと思ってのことだ。通院している個人病院からの紹介状は持った。今日は診断と検査になるだろう。その結果、入院して手術を受けることになるかどうか。 意外かも知れないが、私にとって入院は吉報。その理由は症状が改善される見通しがある人だけが手術を受けられるとの考えだ。バスの終点から歩く。私の最初の職場だったT大の病院。そしてその隣が医学部。さらに西行すると左手に白亜の病院。かつてはT大の附置研究所の一つである「抗酸菌病研究所」(結核の専門医療機関)だったところ。今ではすっかり機能も組織も改組されたが、果たして今日はどんな結論になるのか。<続く>
2012.01.17
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今日は仕事を早退して、心臓の専門病院に行って来ました。さすがに混んでいて8時間もかかり、すっかり疲れ果てました。結論だけ書くと、2月に入院し手術することになりました。明日も早朝に起床するため、詳細は明日以降に改めて記す予定です。また皆さまのところへの本日のご訪問は無理のため、ご了承願います。
2012.01.16
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≪ 幕末から明治へ(2) ≫ 日本の古代史や考古学関係の専門書を読み続けて来た私が、幕末や明治期に関心を持つようになったきっかけが、新田次郎著「アラスカ物語」。これは明治期に宮城県出身の船乗りがアメリカに渡り、縁あってアラスカのエスキモーの指導者になる話だった。これが引き金になって幕末の漂流記を読む気になった。 先ず読んだのが吉村昭著「アメリカ彦蔵」。播磨国(今の兵庫県)の彦蔵は13歳で初めて船に乗り込むが、初航海で破船・漂流し米国に帰化。その後通訳として日本に帰還し、日米外交の最前線に立つ。次に読んだのが吉村昭著「大黒屋光太夫」。伊勢国(今の三重県)白子の沖船頭だった光太夫は遠州灘で遭難し、ロシア領アリューシャンの一小島に漂着。そこから長い旅をして女帝エカテリーナに拝謁。 往復の旅でロシア語を習得した光太夫はロシアの対日本外交に役立つと考え、帰国を許される。その知識を買われ光太夫は幕府の通訳として活躍する。3冊目が井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」。土佐(今の高知県)の漁師万次郎は漁船に乗り込んで手伝いをしていたが、暴風雨で船が漂流しアメリカの捕鯨船に救助される。 その後アメリカ本土で教育を受け、再び船に乗り込み琉球王国経由で帰国を果たす。英語に堪能な上に西洋の新知識を持つ万次郎は土佐藩に重宝され、さらに幕府の開成学校教授となって本領を発揮する。彼らは無事帰還できたが、漂流して遭難死した人も多い。諸藩が外国と自由に貿易をしないよう幕府が船の仕様を厳しく制限し、「舵」が荒天の外洋では耐えられない構造だったためだ。 その後に読んだのが吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」。これはドイツ人でありながら日本への強い関心からオランダの医官となって長崎に赴任したシーボルトの来日から、その娘で日本初の女医となる楠本イネの一生を描く大作。幕末の騒然とした国内、シーボルトの学問への執念と国禁の日本地図を国外に持ち出そうとして発覚した「シーボルト事件」と国外追放。イネの女医として大成するまでの苦労など、次々に展開する大事件に固唾を飲んだ。 イギリスの若い通訳官見習いだったアーネスト・サトウ(後通訳官、外交官)著「一外交官の見た明治維新」では、幕末と明治初期の緊迫した国内事情が手に取るように分かった。サトウは薩摩弁も理解し「候文」も自在に書けた日本通で、「佐藤愛之助」の別名を持つ。自由な精神の持ち主で、勤皇・佐幕の別を問わず各藩の藩士と通じて情報を得、イギリスの対日外交に寄与した。その結果イギリスは薩長主体の開国派を援助する立場を取る。一方フランスは幕府を援助する立場を取り、状況によっては日本が二分される恐れもあった。 これに加えて今回読んだ司馬遼太郎著「花神」で、幕末から明治期への激動がほぼ認識出来た。国を揺るがす物凄いエネルギー。熱情と狂気。まかり間違えば外国に支配されかねない状況を、当時の人達は良く乗り切ったと思う。それらの事実は宮城谷昌光の古代中国史をテーマにした面白さとは多少異なる。それは私達の先達が苦しみながらも手探りで近代化を進めた実話だからだ。 小学校から大学までの授業ではほとんど習わなかった幕末から明治へかけての歴史を、何冊かの歴史小説で学べたことに感謝している。語弊があるかも知れないが、知れば知るほど面白い時期。当時の日本人が何を考え、どう行動したかを知ることは、今後のためにも役立つと思う。特に平和で豊かな現代人にとってはなおさらだ。今後ともあの時代に注目し、色んな本を読んでみたいと思っている。
2012.01.15
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≪ 幕末から明治へ(1) ≫ 司馬遼太郎著「花神」全3巻を読み終えたのが先週の日曜日。それから1週間経って、ようやく興奮が治まった。長州の村医者の跡取りであった村田蔵六が蘭学を志して名高い緒方洪庵の適塾に学び、長崎に遊学後は宇和島藩に仕えて上士となり、さらに乞われて幕府の講武所教授となり、一転して長州藩の軍事顧問となって、幕府との間で生じた戦争の指揮を取る。 長州藩は攘夷の立場からイギリスなどとの戦って敗れ、それ以降は開国主義に転換した。豊富な財政で近代的な兵器を購入し、農民、町民、下士が中心となる軍隊を整えていたため、寄せ集めの幕府軍に圧勝する。一時は朝敵となった長州藩が薩摩藩の取りなしで京都へ向かい、討幕の中心となるが、その指揮を取ったのも蔵六(後の大村益次郎)だった。 さて、軍資金も軍勢も劣る官軍が幕府軍に勝てたのは、薩摩や海援隊の支援もあるが、蔵六が勝つための最良の方策を考え続けたからに他ならない。そして元来百姓身分の蔵六が、高杉晋作や西郷隆盛など武士の上位に立てたのは、桂小五郎(後の木戸孝允)の人を見る目があったことと、蔵六に私心がなかったことによると思う。官軍の勝利に貢献した蔵六は朝廷から千五百石の厚遇を得るが、酒のおかずは相変わらず「豆腐」と言う質素さだった。 新政府誕生の立役者となった蔵六だが、その最後はあっけない。彼の声望を妬み、自分の不遇を嘆く薩摩出身の一官吏が浪人をそそのかし、京都で暗殺する。暗殺を指示した海江田信義はその事実を隠し通し、後年子爵に列せられると言うのが悔しい。なお蔵六は近い将来西郷隆盛が反乱することを予測し、大阪にそのための軍事施設を準備させていたと言うから、やはり凄い能力の持ち主だったのだろう。 列強が日本に押し寄せた幕末。その前には中国がアヘン戦争でイギリスに煮え湯を飲まされている。鎖国体制下にありながら何故日本は列強に支配されなかったのか。それは長崎を通じてオランダと通商していたことや、禁制を破って西洋の知識を身につけた先覚者の存在が大きい。宇和島藩による蒸気船の試作には、蔵六の知識が多いに役立っている。そして蒸気機関を作ったのは、実物など見たこともない一職人だった。 考えてみれば、明治維新の成功は奇跡的なものとも言える。良くあのような状況で国が破滅し、列強の支配を受けなかったのが不思議なくらい。事実、開国後は大老井伊直弼が暗殺され、多くの外国人が攘夷派の武士の犠牲になった。また意見の対立で大混乱した藩も多い。水戸藩では藩内が真っ二つに分かれて殺し合いをしたし、長州藩でも初期段階で上士と下士が戦い、土佐藩では下士が残酷な扱いを受けた。京都での新撰組の暗闘然り。やはり歴史の変革期には、多くの血が流されたのだ。<続く>
2012.01.14
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≪ 犯罪 ≫ 楽天ブログの機能が昨日から大幅にダウンした。消えたのはメッセージ機能、BBS、それに「足あと」。「足あと」は留守中に誰が訪問したかが分かる重要な手掛かりで、楽天ブログ仲間は愛称で残り、それ以外の訪問者はアドレスの一部が残った。コメントを残さなくても、「あの人がまた来てくれた」と感謝していた。また「自動巡回機能」の消失で、アダルト業界の弊害が減ったのは嬉しい。 さて、広島刑務所から受刑者が脱走したニュースには驚いた。犯人は中国籍の李国林40歳。罪名は殺人未遂とのことだが、中国人による窃盗団の親分で仲間が頻繁に面会に来ていた由。脱獄した際の映像は60数台の防犯ビデオのうちわずか1台にしか写ってなかったとか。工事のため足場が組まれていたことも脱獄を容易にしたし、逃亡を防ぐ警報装置も工事のために切ってあったとは呆れた話。 実は広島刑務所は私も知っている。もちろん入っていた訳ではない。広島に出張した際にあの周辺を走っていたら、たまたま街中に刑務所がありとても驚いたものだ。犯人は未だに捕まっておらず、民家に忍び込んで缶ビールを飲み、洋服を奪って逃走したようだ。周囲には学校や住宅も多く、きっと住民は戦々恐々としているに違いない。困ったことだ。 オウム真理教の平田容疑者と逃亡を助けた元信者の女性が警察に出頭したニュースにも驚いた。全国を逃亡し続けて17年。その間、良くも捕まらなかったものだ。出頭した際の経緯にも呆れる。警視庁や警察署の署員が手配中の平田本人だと信じず、たらい廻しにしたのだから。元看護士の斉藤某が800万円を持参していたのも驚きだが、何故この時期に出頭したのかも謎。 先日隠岐の島沖で北朝鮮の男が3人、故障した小船に乗っているのが見つかった。荒海をあんな小船で長時間航海するのは無理。あれはどう見ても工作員。何故十分な調査もせずに帰国させたのか不思議でならない。あの船は1人乗り用らしい。それに4人も乗り込み、漁具も見当たらないのだから漁師で無いことは明らか。国家的な犯罪の臭いがプンプンするのだが。 政治資金規正法違反容疑で裁判中の小沢さん。先日公判があったが、2日間知らぬ存ぜぬでとうとう最後まで押し通した。「あれは無罪だし、もし有罪でも微罪」と元検事の郷原さんが前から話していたが、4月の結審ではどんな結論になるのだろう。もし有罪なら小沢氏は裁判を続けるだろうが、無罪になればマスコミはどんな言い訳をするのか。 外国の美術館から盗まれた絵画が、無事元に戻ったニュースにも驚いた。盗まれたのはマグリットの絵。裸体の女性は妻がモデルとか。苦労して盗んだものの、絵が有名過ぎて売ることが不可能だったのが返却された理由だろうが、果たして犯人側と美術館側でどんな裏取引があったのかは謎のまま。世界的な名画に傷がついてなかったのが幸いだった。
2012.01.13
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≪ 実験と診断(2) ≫ 「お待たせしました」。そう言って診察室へ入って来たドクターは初めての人だった。電子カルテで私の病歴を見、「それでどうしました?」と尋ねる。私は昨年12月初旬からの症状と、近くレースがあるが、このままの状態では長い距離の練習が出来ないことを話した。ドクターは私の右足を触りながら、「すっかりアーチが落ちてますね、縦も横も。これじゃ100kmも走るのは無理ですよ」と一言。 それは自分でも分かっていた。この状態では100kmはおろか、フルマラソンですら走るのは無理のはず。それでも必死になって靴底の堅さと医療用インソールの堅さを訴えた。「アーチが落ちた足では、底が軟らかいシューズだと余計に負担がかかるんです。それにシリコンは軟らかいですよ」。そうか、あれで軟らかいのでは、とても走るのは無理と言うことになる。 「どこですか、痛いのは?」。そう言いながらドクターは右足を触った。足底の痛んでいる個所は直ぐに分かったが、内側の突起部分も痛かった。「その種子骨のところが痛いです」。「そこは種子骨ではなく、骨が落ち込んでいるため靭帯が擦れているんです」。私は左足同様に種子骨の突起だと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。 思いがけない重症。「今回は注射を打ちますが、走るのは無理ですね。これからは負担がかからない自転車にしましょう」。私がランニングへの未練を話すのも聞かず話を終えた。足への2本の注射の他、階段を降りる際に痛みが出だした右膝関節へも注射を打ってもらった。心臓が悪い上にこの足でまだ走ろうとする私に、「このままだと靭帯が切れますよ」。そう告げてドクターは部屋を出て行った。 走後、エアサロンパスで足を冷却するなど、これまで色んな方法で何とか走れないかを試して来たが、それはあくまでも誤魔化しでしかなかった。極度に変形した私の足を補うには、やはり堅い底のシューズと医療用インソールが不可欠なのだろう。それで走って痛むとなれば、走るのを止めるしかない。初めて出会ったドクターの考え方は、実に明快だった。 それは分かるのだが、このままランニングを止めるのは忍びない。痛みが無くなったら、堅いシューズとインソールの組み合わせ、堅いシューズと軟らかいインソールの組み合わせで走ってみる。底の軟らかいシューズを探し、堅いインソールと組み合わせて見る。走るのは止めて、速歩きの練習を始める。レースは数を限定し、なるべく距離を短くする。レースは出ずに、自分のペースでゆっくり走ったり歩いたりする。そんなことを試すしかないだろう。 それでもだめならウォークや登山や自転車を運動の中心にすれば良い。走り出してから33年目の私にとって、ランニングを簡単に諦めるのは難しいが、いずれは決断を迫られる日が来るのは明らか。いや、今がその時期なのかも知れないのだ。さて、来週は専門病院に行って心臓の検査と診断を受ける予定。果たしてこちらの方は、どんな宣告が下されるのだろう。
2012.01.12
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≪ 実験と診断(1) ≫ 前日の朝は、月光の下を愛犬と散歩した。そして今朝の散歩は雪の中だった。これでは帰宅ランは無理。折角走るのを休むのだから、今日は思い切って病院へ行ってみよう。そう決めてみたものの、まだ何とかして走ろうとする自分がいた。そして走らないまでも、病院に行くのは止めようと迷う自分もだ。先月初旬に傷めてから、一進一退状態が続いていた私の右足。 痛みの状況とこれまでの経験から、足底筋に炎症が生じていることは間違いないが、どうやったら治せるか。いや、私の足の形状からして治ることはないが、少しでも負担を軽減する方法はあるはずだ。整形外科医の指導には反するが、底の軟らかいシューズならどうか。これはシューズがかなり摩り減ったことで、長くは続かなかった。 ネットの通販で買った2足のシューズはいずれも底が堅い。本当はその方が、私の足のためには良いようだが、何せ走ると痛むのだ。スポーツ店に行っても、かつて私が愛用した底の柔らかなものは売ってない。医療用インソールと組み合わせるならそれが良いのだが、やむを得ず底が堅いシューズを使うとしたら軟らかい「中敷き」と組み合わせたらどうか。そこで思い出したのが、物置にしまった長靴だった。 少し厚いフェルト状の中敷きは、なかなかのクッション性。ただし、長い間長靴の中に放置していたため、青カビや赤カビに染まっている。それさえ気にしなければ、なるほど足には優しかった。これは良いと思い、新しいのを買いに行った。袋には羊毛製とあってビックリ。そうか、フェルトには羊毛も使われていたんだと納得。 この新しい中敷きと組み合わせたら、底の堅いシューズでも足が痛まないかも。この新たな実験に向かう朝、雪になったのだ。第1現場での勤務を終えた後、病院へ診察券だけ出して第2現場へ向かった。1時間30分後に再び来院する約束で「外出券」を受け取る。これだと仕事を休む必要がなくてとても助かる。 その病院へ向かう途中にお握りを買った。もし混んでいた場合は診察が長引くために腹が減る。ところが生憎の雪で、待合室には患者がいつもの半分くらいしかおらず、間もなく診察室へ入るよう名前を呼ばれた。だが、何時まで経ってもドクターが現れない。隣の処置室からドクターと患者のやりとりが聞こえる。どうやら患者は怪我をした体で、ヨーロッパへ旅行したいみたいだ。<続く>
2012.01.11
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≪ 余命 ≫ 俳優の二谷英明が亡くなった。奥様は女優の白川由美で、お嬢さんが郷ひろみと離婚した二谷友里恵。死因は肺炎で亨年は81歳だったようだ。私は彼らに対して芸能人一家と言うよりも、山の手の良家と言った雰囲気を感じていた。どうやら二谷は昨年暮れに健康診断か人間ドックのために病院を訪れ、そのまま帰らぬ人になったみたいだ。 昨年亡くなった山内賢や竹脇無我は私と同学年でまだ60代。二谷の80代と比べればずいぶん歳の差が開いているように感じるが、14歳はさほどでの差でもない。私は3月で68歳になるが、80まで後12年しかない。そのことを妻に話すと、改めて「お父さんも元気なうちに外国で走って来たら」と言う。 それで自分は友達と一緒に外国旅行をするらしい。「俺と一緒じゃないの?」と聞くと、返事は「マックスの面倒を見る人がいないとね」。彼女には愛犬をペット用のホテルに預ける選択肢はないようだ。我が家を建ててから15年になるが、それに比べても12年は短い。しかも元気で走れる期間はさらに短い。 確か日本人の平均寿命は確男が79歳ちょっとで、女が86歳台だったはず。それを思えばそうそうのんびりは出来ないのだが、物事には必ず例外がある。聖路加病院の日野原名誉院長は間もなく102歳になる超高齢者だが、未だに飛行機に乗って世界を駆け巡っているし、双子の姉妹きんさん、ぎんさんも100歳を過ぎてからコマーシャルでデビューした。もちろん彼らは異例中の異例だとは思うが。 神様からそれぞれ1人1本ずつ命のロウソクを与えられるとして、ロウソクの長さが短い人もいれば、他人よりもずっと長い人もいる。さらに華やかに燃え盛るロウソクもあれば、火を点けた途端に消えてしまうロウソクもある。だが、ロウソクの長さや太さは自分では決められない。二谷やその家族だって、まさかたまたま診察を受けた病院で、そのまま死ぬとは思ってもみなかっただろう。 普段、人間は自分がいつ死ぬかなど考えずに生活を送っている。死を意識するのは重篤な病気に罹った時か、重大な事故に遭った時くらいだと思う。私も後数年は仕事をしたいし、後7、8年はランナーでいたい。もちろん外国で走るのも夢の一つだ。そしてそれが無理なら、せめて3時間ほどは連続して歩ける体力を残したいと思う。 高校のクラス会では、今年「古稀の会」を開く。亨年もそうだが、このような慶事は満年齢でなく「数え」の年齢で行うのが通例だ。さて我がクラスには8名の物故者がいるが、恩師は80歳を過ぎてもまだまだ元気で顔艶も良い。私達も恩師に負けずに長生きしたいと思うのだが、常日頃から節制を心がけている彼に勝てるかどうか。
2012.01.10
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昨年は「東日本大震災」という未曽有の出来ごとがあった。幸いにして我が家ではさしたる被害も無かったが、未だに震災の影響に苦しんでいる人が多い。一方私は不整脈に襲われ、陰鬱な一年だった。その中で長年の夢だった「沖縄本島単独一周走破」を達成することが出来た。今年の年賀状には、震災の影響や健康を気遣う暖かいメッセージがとても多かった。 徳島勤務時代の上司Mさんは80歳近いはず。定年後もユネスコ関係の仕事に携わった方で、彼からはご丁寧に2度年賀状をもらった。きっと私が4年がかりで沖縄本島を走破したことを知り、もう一度賀状をくれたのだろう。3年前の東海岸縦断の際は、彼の故郷である北部の宜野座村も通った。沖縄出身の彼だからこそ、あの島を単独で一周する大変さが分かるのだと思う。 沖縄勤務時代のボスSさんも80歳になる。絵は東京芸大の大学院を修了した奥様に手ほどきしたほどの腕前だが、現職時代その地位を偉ぶるそぶりが全くなかった紳士。地震の影響と私の健康を気遣う言葉が優しい。几帳面な字で「貴兄のマラソンには驚いております」とある。どうも沖縄赴任当時から私が走っていることを知らなかったようだ。 筑波時代の先輩だったSさんも今年80歳。数年前から認知症を患っておられるようだが、たどたどしい字ながら私の健康を気遣ってくれ、最後は「いつもあちこちで頑張っておられる様子ですが、どうぞ良い旅が出来ますよう」と文章を結んでいる。字が震え、所々に脱字があるが、彼の気持ちが十分に伝わる有難いものだ。 山形勤務時代の部下だったHさんからは、「震災は大丈夫でしたか? 私は白髪が増え、少しスリムになりました」とある。パソコンに明るく退職後は大学院に入り直した彼女だが、数年前に大病を患っている。少しスリムになったくらいでちょうど良い。もしかして本名も「ヒラガ」から「シラガ」に変わったのかも。 徳島勤務時代の仲間だったSさんからは、「人間ドックに引っ掛かり健康の大切さを再認識した」とある。今は毎日1時間歩いているとのこと。同じくHさんからは「大変な1年だったと思います。年齢に合わせて走って下さい」と。2人とも創設期の忙しい時に一緒に酒を飲み、麻雀をした仲間。そのうち昔の勤務地を訪れたいものだ。 徳島勤務時代の部下だったMさんからは、「無事でなによりです。不自由なことがありましたら何でもお知らせください」とある。出来れば徳島の地図の最新版が欲しいね。あの懐かしい海辺や吉野川の上流へ向かって、いつか再び走る日のために。 大学時代の後輩であるSさんからは、自宅が震災で半壊したとの書き込み。同じ仙台市内でも津波の被害を受けた海岸部や、地震で土砂崩れが発生した団地など様々。彼女の住所からみて土砂崩れを心配していたのだが、やはり現実に被害を受けたようだ。 高校時代の同級生Sからは年賀状も来ない。山手にある自宅は大丈夫だったようだが、海岸にあった彼の会社は津波で流されたとも聞いた。彼らにとってこの一年が、少しでも心休まる年になることを願うばかりだ。
2012.01.09
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いつもバス通勤時に通る道を、朝早く走ってる人を何度か見かけた、今日はその坂道を走ってみようと逆回りで向かった。ところが西方向に曲がると強烈な風のお出迎え。ようやく下り坂になってやれやれと思って走ってる時に、道の向こう側で呼ぶ声。妻が反対方向から坂道を登って来たのだ。結局私は12kmほど走り、妻は8kmほど走ったようだ。 Sさんは2番目の職場で日本史専攻の学生だった。大学卒業後は博物館に勤務した研究者だが、定年後は美術家の活動を支援する仕事をしている由。賀状には「大いにやりがいを感じています」とあった。Oさんは大学時代の先輩。高校時代から夜間部に通う苦学生だったが、大学卒業後は世界的企業の東京本社勤務となった。定年の10年前に自分で会社を興し、創業15年を迎える由。 筑波勤務時代の部下だったTさんはその後大学院へ進み、研究者の道を辿った。現在は国立大学勤務だが、4月から私立大学の教授として転身するようだ。あの時の若者が今や押しも押させもせぬ研究者とは嬉しいね。松山勤務時代の部下だったMさんはその後管理職に登用され、昨年4月から広島勤務になったとある。そして賀状には彼の作った俳句が3句。仕事も大事だけど、趣味を持つ余裕もないとね。 筑波勤務時代の同僚だったFさんからの賀状には、「以前から無農薬野菜作りをしているが、最近の気候変動が激しく、苗作りや種蒔きなどの時期が難しくなった」とある。私も家庭菜園を趣味にしてるが、確かに感じることは同じだ。 山形勤務時代の部下だったSさんの賀状には、亡き母上が行っていた「味噌作り」に挑戦してみたとあった。さらに昨年聞いた講演の中で感銘を受けたある作家の話が書かれている。彼の家は月山の中腹を縫う「六十里越え」の付近。体調を整え、いつかその厳しい峠道を走ってみたいと思っている。 東京の走友Rさんからの賀状には、香川県観音寺市の名所である「銭形砂絵」の写真。子供のころからそこを訪れるのが夢だったとか。巨大な砂の「寛永通宝」は確かに謎めいている。目下萩城のクラフトペーパーを制作中らしいが、ランニングもボツボツ開始する由。 若い頃ある講習で一緒だった山形のUさんの賀状は趣味の写真で、南蔵王と咲いていた花7種。「日本百名山」は65を登り、目下6.5合目とのこと。筑波時代の卓球仲間Uさんからの賀状も趣味の写真。こちらは福島県裏磐梯の猫魔平の見事な樹氷だった。 2番目の職場の大先輩Oさんからの賀状は達筆な筆で書かれたもの。それもそのはず、彼は40代で仕事を辞めて書道家となり、全国展でも入賞した実力者なのだ。奥様も書道家と聞く。東京勤務時代の先輩Tさんからの賀状には、高尾山登山が100回を越えたが、次は200回を目指すと書かれている。もう70歳だが、まだまだ元気で何よりだ。
2012.01.08
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今日は穏やかな晴天。新しいシューズを買ったばかりの妻は、喜び勇んで走りに行った。1時間ほどで帰って来たが、山の陰は風も無く暖かくて気持ち良かったようだ。妻と入れ替わりに私も外へ。だが私が向かったのは、妻とは反対の方角。山の上は風があり、名取川の河原を西に向かうと正面から寒風が襲ってとても寒い。久しぶりの23kmだが、最後はガス欠で足も動かずヘロヘロだった。 奈良のIさんはメーリングリスト創設期時代の走友だが、賀状には夫妻それぞれの走る姿とレースへの参加状態が記されている。そのうち5レースは一緒に参加したものだが、Iさんの記録が素晴らしいが奥様の方もなかなかのもの。共通の趣味を持ち、一緒のレースを走れるなんて羨ましいなあ。二人とも実にきれいなフォームなのも凄いね。 高松のYさんは今年古稀を迎える先輩だが、後1月ほど走れば地球2周(8万km余)に達する。老化のためウルトラマラソンは50km止まりで、左右の白内障手術を受けた由。それでも趣味のハーモニカ演奏会が10回以上、そしてボランティアの模擬患者が27回と熱心に社会奉仕活動を行っているのが凄い。 心臓病を患いながらもフルマラソン100回完走を果たしたAさんからの賀状には、昨年の10月に訪れた「コロンビア大氷原」の雄大な写真が載っている。でも、ここって何処なの?名前から言えばカナダみたいな気もするけどね。真っ青な空の下に広がる大氷河は圧巻そのものだ。 沖縄の走友Hさんからの賀状には、4年がかりで達成した私の「沖縄本島単独一周走破」を祝う言葉が記されている。そして大地震の影響と私の健康を気遣う言葉も。彼は全部で30人もいないNAHAマラソン26回連続完走の偉業を達成したランナーだが、果たして昨年はどうだったのか。年々ゴールが厳しいようだが、挑戦だけは続けて欲しいと願っている。 同じ沖縄のTさんからは、3年前からドクターストップでマラソン中断中と書かれている。かつてはザトペック並みの走る哲人だった彼も、老化には勝てないようだ。目下「夜の仕事」8年目とある。青年団OB会などの社会活動も行っている由。米軍基地の島内移転には反対とある。沖縄の人の正直な気持ちだろう。あの温顔にもう一度会いたいね。 水戸の走友Kさんからの賀状には、「私の膝は治らないと言われ、今は走らずに里山をハイキングしています」とある。失意の水戸時代、千波湖の周囲を1人走っている私を見つけて一緒に走ってくれた彼女がランニング休止中とは残念。足や膝の故障は私も同様だが、ウォーキング出来るくらいの脚力だけは何とか維持したいものだ。頑張れKさ~ん!!
2012.01.07
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昨日の強風は最大瞬間風速が仙台で23.7m。このため宮城県内では合わせて37本の列車が運休したようだ。ラニーニャの影響で猛暑だった昨夏の反動か、この冬の寒さも半端ではない。余りの寒さに私は靴下を履いて寝ており、愛犬は妻が編んだ赤い腹巻きをしている。さて今日の年賀状紹介は、全国の走友からのもの。 走る歌人ことU師匠からの年賀状には今年も12の歌が載っている。いずれもレースに参加して詠んだ短歌だ。第1回の「大阪マラソン」に参加して完走したものの疲労困憊で、フルマラソンは今回が最後と書かれていた。72歳の師匠にとってフルも過酷になったようだ。だが、間もなく始まる「沖縄本島縦走」には参加予定とか。挑戦心はまだまだ衰えてはいないと見受けた。 世界的なウルトラマラソンである「スパルタスロン」(ギリシャ:260km)に、毎年のように参加している神戸のNさんの賀状には、マラソンのことが一切書かれていない。ある農業関係の本を読んで感銘を受けたこと、そして今年は自らの手で「プロト車」(手押し車の試作品?)を作ってみたいと書かれている。どうやら心境の変化があったようだ。 宮城UMCの仲間であるTさんからのものは、御嶽山をバックにした勇姿が写っている。大震災により色んな苦労があったはずなのに彼の闘志は少しも衰えず、ウルトラ10レース、フル9レースに参加すると言う逞しさ。北は北海道から南は沖縄まで毎月日本のどこかで写真を撮りながら走り続けるエネルギーは、一体どこから生まれて来るのだろう。 昨年は永年勤務した職場を退職したBさんだが、これまで何度も途中リタイヤの憂き目に遭った「さくら道」(258km)を初めて完走した喜びが賀状に溢れている。ゴール地点の金沢は彼の故郷なので、その喜びは一入だったはず。無事再就職も果たし、この冬にはトレーニングを兼ねて熊本から福岡までのレースを完走したと聞く。その元気さに拍手したい。 Sさんからの賀状は、彼が主催する団体の今年の予定が載っている。そして背景には昨年9月開催の「佐渡島一周」の集合写真も。206kmの「佐渡島一周」には過去3回出ていずれも完走しているが、もうそんな長丁場はとても無理。もっと短い距離でゆっくり楽しめるレースなら出られるかも。そんなものを1年かけて探したいと思う。<続く>
2012.01.06
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朝起きると外は白い薄化粧。そして道路は凍ってツルツルだった。広い道には融雪剤を撒いた跡がある。そんな早朝の道を愛犬と慎重に散歩。老犬でも彼は力が強いため、坂道で引っ張られでもしたらたちまちスッテンコロリンだろう。出勤時も一応走る準備はしていたが、この日の最高気温は3度。いつもの帰宅ランの山道は完全に凍結しているはず。 第1現場での立哨も寒かった。北風が吹き抜けるため、体感温度は零下3度ほどに感じる。ビルの熱源の機械もフル回転で急激な負荷がかかったためか、3台中1台が突然の故障。第2現場への移動でも歩道が凍結していて危険。掃き掃除は枯葉が強風で吹き飛ばされる始末。これでは底の摩り減ったシューズでの帰宅ランは無理。そう判断してバスで帰った。 さて、今年もたくさんの方々から年賀状をいただいた。その中から印象に残ったものを少しだけ紹介したいと思う。今日はその1回目。世界を股にかけて走り、歩き、旅した方からのもの。 「エベレストマラソン」に挑戦したM仙人からのものは、標高5545mのカラバール地点と、標高5364mのベースキャンプの2つの写真。笑顔を浮かべる仙人の背後には、世界最高峰のエベレスト山(チョモランマ)8848mが天空に聳えている。 UTMB(ウルトラ・トレイル・ド・モンブラン)に挑戦した仙台明走会のAさんからのものには、アルプスの白い峰を背景にしたものなど3枚の写真。もちろんいずれの中央にも笑顔のAさんが写っている。標高4807mのモンブランを眺めながら160kmもの山道を走るのは過酷の一語。M仙人共々そんなレースに挑戦した勇気に拍手したい。 埼玉のSパパからのものには、2ヶ月半サポートスタッフとして活躍した、昨年の「アメリカ横断レース」(LA-NYフットレース)と、今年選手として出場する「トランスヨーロッパ・フットッレース」(デンマーク~ジブラルタル)の地図が描かれている。私と同学年で今年68歳になる彼だが、過去2回のトランスヨーロッパはいずれも完走している。今回も見事ゴールすることを信じている。 大学時代の先輩Tさんは、イスタンブールからハンガリーまで歩き、その後旧ユーゴスラビアから独立したクロアチア、スロベニアを経由してイタリアのベネチアまで辿り着いたようだ。次回はローマを目指すそうだがトラブルの連続とか。彼はかつてモンゴルや中国奥地から中央アジアにも行っているので、シルクロードの半分は旅したと思う。誰にでも果たせる夢ではないし、それを許す奥様も偉いねえ。 徳島勤務時代の野球仲間、麻雀仲間で数学の教授だったM氏は、副学長と評議員を務めた後退職。現在は外務省の外郭団体であるJICAのアフガニスタン支援事業<STEP3>に従事している由。家族は大阪にいるのだが本人は20年以上も徳島在住。「退職後ますます元気になりました」とある。 前職の研修仲間だったKさんからのは、毎年のように夫婦で出かけている東欧の写真。今回は「ハプスブルク3都の旅」とかで、ウイーンやブタペスト、プラハで出会った美術館、博物館、ドナウ川クルーズなどのことが記されていた。この他にも世界を旅した方が何人かおられたが割愛する。
2012.01.05
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年末年始の6日間の休暇では、民放の特別番組はほとんど観なかった。強い風邪薬が使用出来なかったためかなり苦しんだものの、風邪の症状はかなり治まったように思う。体重はごく僅かの増加に留まってくれた。注意していた甲斐があったようだ。読書では「花神」中巻約400ページが読了出来た。この巻では幕府と長州が戦うことになるのだが、これまでその実態を全く知らずにいた。 書物を通じて西洋の軍備に明るかった蘭医の村田蔵六(後の大村益次郎)を、桂小五郎(後の木戸孝允)が長州軍の総大将として大抜擢すること自体が異例中の異例。何せ蔵六の身分は武士ではなかったからだ。農民、町民、武士の連合部隊が、4方から攻め入る幕府側を粉砕するのだから驚く。こんな事実を今回初めて知った。後年、益次郎は官軍を率いることになるようだが、まさに「事実は小説よりも奇なり」とはこのこと。 さて次男が東京へ帰って、妻は気が抜けたようだ。次男の行く末が心配で、睡眠も十分に取れなかった由。おまけに包丁で手を切った。これは最近になって2度目のこと。注意力散漫は老化の証しかも知れない。私は今日からの仕事始めが気になったのか、今朝は3時半に目が覚めた。いつもより少し早いが、そのまま起きて読書。 通勤バスは空いていて、かなり早めに職場に着いた。6日間留守にしたビル内は思いのほか暖かい。後で聞いたら、管理室の担当者が2日前から暖房を入れて温めていた由。ただし、玄関ホールでの立哨は寒かった。外気温はマイナス1度だから当然だ。出勤して来た数人の重役がわざわざ警備員の私に新年の挨拶をしてくれたのにはビックリ。偉い人ほど頭が低い好例だろう。 残っていたカレンダーをもらって第2現場へ届ける。ここでは冷たい水に手を突っ込んでの清掃作業だが、意外に風邪の影響はなく、公園もさほど汚れて無かった。雪が降る中、帰宅ランを決行。心配していた足底の痛みは感じなかったのだが、急な登り坂で肺と心臓が苦しくなった。勾配が緩むと苦しさも和らぎ、下り坂では幾分体が楽になった。 さて、昨年から引き続く大震災からの復興問題、ヨーロッパの経済不安や北朝鮮の不穏な動きなど、今年も課題が多い年のように感じる。きっと国内の政治にも大きな動きがありそうだ。そんな中で、私自身の第一歩は何とか無事に踏み出せたようだ。だが、今年は大きな節目が待っている。慎重にかつ勇気を持って前進したいと思う。
2012.01.04
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正月3日目の朝も好天気。同じ東北でも日本海側と太平洋側とでは、大きく天気が異なる。寒さは厳しいものの晴天の太平洋側。一つ山を越えた日本海側では、結構積雪があるのだろう。今朝も「お神酒」を一献。そして箱根駅伝の観戦。結局往路の東農大は最下位だったものの、何とかゴールは果たしたようだ。「山の神」柏原の活躍で2位以下に大差をつけた東洋大は、復路も余裕でスタートして行った。 大晦日から帰省中の次男は案外早めに起床し、朝からビールを飲んでいたようだ。私は自室でテレビの音量を小さくしながら本を読んでいた。そこへ次男が現れ、パソコンを貸して欲しいとのこと。その後「時刻表」も持って行った。いよいよ彼も東京へ帰る日になった。Uターンで新幹線の混み具合も大変なものだろう。 今年は心に期するものがあるのか、妻に新しいスーツを頼んでいたようだ。4日ほど滞在して何を感じ、何を考えたのか。その次男をバス停まで送って行った。子供を見送るのは淋しいものだ。再び夫婦2人だけの生活に戻る。その妻は午後から仕事へ。今日が彼女の仕事始めの日。その間に次男が過ごした部屋を片付け、別の部屋に移動していた植木鉢を運び込む。 大汗をかいたら、体調がおかしくなった。やはり風邪の影響が残っている感じ。次男が使った布団を片づけ、石油ストーブのタンクから石油を抜く。箱根駅伝は結局東洋大学の圧勝に終わった。記録づくめの優勝だったみたい。今回はさほどのドラマもなかった。昨年味わった悔しさを胸に、この日のためにより努力したチームが栄冠を勝ち取ったと言うことだろう。 無事レースを終えた今、これからが彼らの正月だ。一方の私達だが、お正月は今日までで、明日からは通常の生活に戻る。つまり神聖な「ハレ」の日が終わり、長く味気ない「ケ」の生活が再び始まるのだ。風邪の症状がかなり治まったのは嬉しいが、右足の底部の痛みと胸苦しさがあるのが、どうも気がかりだ。 徳島勤務時代の先輩からの年賀状には「自分の歳を考えて無理はしないように」との忠告。これまでは「いつものこと」と軽く受け流して来たのだが、これだけ不調が長引くと「もっと自重すべきか」とも思う。やはり体力気力の衰えは覆い隠せない。年末年始の休暇で良かったのは、司馬遼太郎の「花神」がかなり読めたことか。明日からは気合を入れて勤務したい。
2012.01.03
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正月2日目の朝も静かに明けた。今日も穏やかな良い天気。睡眠は7時間ほど取れたため、疲労感はない。それでも朝は寒い。きっと放射冷却現象が働いているのだろう。手がかじかむような厳しさの下、愛犬との散歩を終えて帰宅。台所では妻が朝食の準備をしていた。仙台では3ケ日間は、朝餅を食べるのが一般的。そしてお雑煮は大根と人参、ゴボウを千切りにして茹でたものを使う。 これに鶏肉が加わり、セリと鳴門巻きが上に乗る。昔は干して焼いたハゼで出汁を取ったものだが、今ではそんな面倒なことをする家は少ないと思う。第一、ハゼも昔ほど獲れなくなったはず。元旦は餡子とお雑煮に1個ずつ餅を入れたが、今日は併せて3個にした。そして「煮しめ」でお酒を1杯。 テレビでは「箱根駅伝」が始まった。次男を起こし、彼にしては早めの朝食となる。昨日は彼に今後の生活設計を尋ねた。東京で1人暮らしの彼だが、どんな展望を持っているのかが親として心配な点。本当は仙台に帰って来て、再就職してもらうのが一番安心なのだが、彼は「自分の人生だから自由に生きたい」と言う。 その彼が突然「爺ちゃんの墓参りをしたい」と言い出した。爺ちゃんは妻の父親で、息子達にとっても懐かしい思い出がある人。その墓がどこにあるかも知らないでいた彼ら。折角そんな気持ちになったのだからと、お正月でも墓参りに行くことにしたのだ。今日2日は初売りの日。特に仙台では江戸時代からの長い伝統がある正月行事。結局「箱根駅伝」は2区への中継も見ないまま終わった。 ショッピングモールで生花、お菓子、次男のお土産などを買い、従弟が運転する個人タクシーに乗って海岸部に近いお寺へ。このお寺にも津波が来たが、海から少し離れていたため、被害はさほどでもなかった。だがかなりの墓石が倒れ、義父母の墓にも傷がついている。次男は雑巾で丁寧に墓の汚れを拭いていた。帰りは塩竃神社に参拝に行きたいと言う次男を駅で降ろし、再びショッピングモールへ。 さすがに初売りだけあって、相当な人出。幾つかの店を見比べた末、妻はランニングシューズとロングタイツを、私は同じ店でロングタイツとインナーとテーピング用のテープを買った。景品はスポーツタオル。行きがけに買ったお菓子の景品は揃いのご飯茶碗だった。妻はこの他に小さ目の「福袋」も買った。こんなささやかな買い物でも、とても豊かな気分になるのは何故? 帰宅すると「箱根駅伝」は最終区の山登りの最中。昼食を摂りながら最後だけ観た。往路優勝の東洋大は4年生の柏原が2位の早稲田に大差をつけた。最後尾の選手は先頭から5km以上離されて、フラフラしながら走っていたが、あれでゴール出来たのだろうか。 今日は用心して走るのはお休み。パソコンを開くと古川組のT田さんからメールが届いていた。年末にもメールで丁寧な挨拶をいただいたが、彼らは零下10度の元旦の朝に今年の走り初めをした由。それが6年ほど続いた恒例の行事。我が走友会の50kmの元旦参拝走とは良い勝負かもね。走友達の頑張りに、心からの拍手を送りたい。
2012.01.02
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皆さん明けましておめでとうございます。変わり映えのしないブログですが、今年もどうぞよろしくお願いしますね~!! 大晦日の夕方、愛犬との散歩から帰ると、我が家の方から2人連れが歩いて来るのが見えた。あれは妻と長男かと思ったら、長男ではなく次男だった。なぜ家に着いた彼が、再び外出するのか。それも2人そろって防寒着も着ずに。そんな疑問を持ったのだが、何と次男はバスの中にマフラーを忘れたため、終点までそれを取りに行くのだそうだ。30代半ばにもなって、何とまあ頼りないこと。ちょっとがっかりした私だった。 それにしても遠目だったとは言え、どうして次男を長男と間違えたのか。普段は全然似てないと思うのだが、どこかしら似ている個所はあるのだろう。夕食は鍋になった。またもやタラチリだ。この日に採った大量のユズが役立ちそうだ。いつもは妻と2人だけの食事だが、1人増えただけで賑やかになる。夕食後はボクシングの世界タイトルマッチを観戦。井岡はまだ始まったばかりの1回半ばでKO勝ち。いつものKー1の放送がないのが淋しい。 紅白歌合戦に切り替えた辺りで自室へ戻り読書。だが10時過ぎには眠くなり、風呂へ入って就寝。いつもならテレビで新年になったのを確認してから眠りに就くのだが、風邪で体調も悪かったのだろう。朝方愛犬の声で目が覚める。彼には新年も元旦も関係がない。いつもの時間に私が起きて来ないので、「挨拶」したのだろう。2度目に吠えた時、玄関の扉を開けて愛犬を庭に放つ。 2度寝して7時前に起床し、愛犬と散歩。穏やかな元旦の朝。空も晴れて気持ちが良いのだが、うっすらと雪と霜。畑の野菜は凍っているようだ。次男の起床を待って9時頃に朝食だが、腹が空いた私は待ち切れず、一杯飲み始める。朝から飲むのもお正月ならではのこと。空きっ腹で飲んだせいか、酔いが回るのが早い。 朝食後は届いた年賀状の仕分け。出さなかった人からもらった分の年賀状を出し、住所録を修正。午後は着替えて走り初めに行く。風邪の影響か、まだ酔いが残っているせいか、良く目が見えない。足の痛みがなくなったため大丈夫と判断したのだが、妻は風邪がぶり返さないか心配そう。久しぶりのランなので足元が覚束ない感じ。それでも徐々に体が温まって来る。 元旦の朝8時から、走友会の有志が塩竃神社への参拝走として50kmを走っている。今の私にはとても無理な距離。18kmを2時間半ほどかかって帰宅。途中初詣の人を3か所の神社で観た。前月は7kmの帰宅ランだけだったため、最後は脚の筋肉が硬直した感じ。これでは5月の「仙台国際ハーフ」も完走は難しそうだ。 これが私の現実。全くスピードが出ないが、それでも走れることに先ず感謝だ。幸い風邪のぶり返しの兆候はない。J2同士で争った天皇杯は、結局FC東京が優勝した。明日から正月名物の「箱根駅伝」が始まるが、最初から最後まで観戦するのは無理かも知れない。元旦の今日は朝と夜の2食だけとなったが、休暇中に体重が増え過ぎないよう注意せねば。そして、今年こそ健康第一で一年を過ごしたいものだ。 ≪ 12月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:9回 ラン距離:63km ウォーク距離:111km 月間合計:174km 年間距離合計:3465km うちラン:1784km これまでの累計:78145km
2012.01.01
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