全32件 (32件中 1-32件目)
1
<断捨離と模様替え> 午前3時の外は静か。どうやら嵐は去ったようだ。まだ未明だが起きて和室2の作業場へ。暖房が無くて寒い。気を紛らわすためにラジオを点ける。もうあまりにも疲れ過ぎて、何曜日かも分からない。だが、何とか断捨離を進めようとする自分。段ボール箱を開けて、中の本を取り出す。ケースがないのはサイズごとに紐で縛って、部屋の隅っこへ積み始める。 長男の「コレクション」は実に厄介だった。硬く立派なケースの中から、大量のレーザーディスクを抜き出して「燃えるゴミ」用のビニール袋に。そのままだと重くて破損するため、保護のための「細工」も。美術全集のケースもまとめて和室2に積んだ。これも資源ゴミとしてリサイクルへ出す予定。 ゴミはまとめて、ガレージの一角へ。1個で30kgほどの重さになる。自転車で2袋ずつゴミ集積所に運ぶのは容易ではない。離婚後もう100個以上のゴミ袋を捨てた。さらに断捨離するため、さらに増える。仙台市指定のゴミ袋は燃えるゴミ用が特大、中、小、特小の4種類があり勿論有料でスーパーで買う。プラゴミ用も、大。中、小とあって、それぞれ値段が異なる。ゴミ処理も有料なんだよ。 これは和室2に置いて古蒲団。粗大ごみはその内容ごとの「チケット」をスーパーで購入し、各自が業者に連絡するのがわが仙台市のルール。まだ2階の布団袋にも入っているため、今後も増えそう。汚れが酷いのも、臭いのもあるだろう、だから新しい布団カバーをかけても、無駄のはず。 わが家は、1階に和室が2部屋と居間があり、2階には3つの洋間と書斎コーナーがある。また各階にウォークインクローゼット。物置が1階に1か所。トイレが各階に1か所。1階には浴室、洗面所兼脱衣所、キッチン。別途物置小屋が家の北にあり、農作業用の道具などを格納している。断捨離と同時に清掃も行ったが、まだ今後も作業は続く。配置換えを終えた各部屋の状況は以下の写真でね。 <洋間1> <洋間2> 右側は壁を利用し、大型の美術全集コーナーに。 <洋間3> <2F書斎コーナー> 私の趣味の日本古代史、考古学関係資料。一部は1階PCコーナーへも移動。 また、デスクは1F居間へ。本箱は2階の洋間各室に異動。 将来泊りや遊びに来るであろうKちゃんのお嬢さんたちのために、2階の洋間各部屋には、本を並べ、楽しい置物を飾った。2階のトイレもウォシュレットに取り換える。女の子は清潔が大事だもんね 浴室(左)と脱衣所・洗面所(右) <キッチン> IH調理台 電子レンジとトースター 特注品の食器戸棚 1階(左)、2階(右)のウォークインクローゼット。2Fも近く片付けが終わる予定 この広いわが家全体の断捨離、掃除、物の移動と模様替えを1人でやって草臥れた。春になれば、畑作業と草取りも始まる。俺は頑張るぞ、健康第一でね。<不定期に続く>
2020.01.31
コメント(4)
<哀しみの氷雨> 朝からの氷雨。それもかなり強いもので、宮城県内には大雨注意報と暴風警報が発令された由。私は歩いて整骨院へ。そして彼女はこの大雨の中でも集金をしているのだろう。K元気か~っ。気をつけて風邪など引くんjないぞ~っ。でもその声は届かないはず。だって私の心の叫びだもの。 昨日もそしてたくさんのコメントをいただいたが、返事は書かない。そして書かない積り。これは実話ではあるが、そんな軽い話ではないのだ。むしろどうしようもなく暗い話だ。だがそこから抜け出そうとしてもがき苦しんでいる男の話。今日も腰が痛むまま、断捨離を続けた。かなり作業が進み、残り3割と言えるところまで来たのではないか。 どうか幸せになってくださいなどと書いてくれた方には申し訳ないが、あれから彼女とは会っていない。もちろん電話番号も聞いてない。最も早く会える可能性があるのは3週間先。それまでは私の頭の中で繰り広げられる空想話に過ぎない。 思い切って彼女を家の中に入れたらなどと書かれた方がいるが、とんでもない話。勤務中の彼女がもしそんなことをし、会社に知れたらたちまち懲戒免職のはずだ。彼女は会社の名前が入った車に乗って仕事をしている。変な噂など立とうものなら、すぐさま会社に通報されるはず。私が彼女が首になるようなことをするわけがないのだ。 今日、着物タンスを整理中、桐の箱に入った「臍の緒」を見つけた。長女、長男、そして次男。3人の子を産んだ前妻がタンスの奥にしまっていたのだろうが、思い切って捨てた。そして「引きこもり状態時代」の長男が収集した大量のレーザーディスク。ロリコンの山を見るたびにうんざりしていたが、これですっきり馬鹿な長男が100万円近くはたいて集めたコレクションも。霧と消えた。よしよし。 家族の思い出は大切にと書いてくれた人がいたが、トンデモナイ話。結婚後50年近く私を騙してへそくりを重ね、大金を持って家を出た妻。その妻の援助で自宅を建てた長女からは、「お父さんとは縁を切った」と告げられた。もう2人の孫にも会えない。長男はいくら電話をかけても着信拒否。老いた父が今どんな暮らしをしてるのかさえ知らないまま。 年末に帰省する次男が、今年は仕事で帰らなかった。その彼が仙台で暮らすつもりはないと明言。ひょっとして私の心中を一番よく察しているのは、ひょっとしてKちゃんかも知れない。全くの他人の彼女が、唯一の私の心の灯だ、その彼女にまだ聞けてないことがある。 それはご主人様の死因。彼女は決して言わないが、私は密かにあの「東日本大震災の津波」だと思っている。その哀しみを忘れようと、彼女はこの仙台に来て全く新しい暮らしを始めた。多分それが真相なのだろうが、あえて聞かないし、まだ聞く勇気がない。初めて彼女に会った時に感じた強い慟哭は、それが原因なのではないか。 お互いに家庭を失った者同士だからこそ、相手に何かを感じ理解出来るのだろう。「どうかKちゃん俺を信じ、思い切って胸に飛び込んで来い」。俺なんかで良かったらしっかり抱き止めてやるから。心の中でそんな自問自答をしながら、俺は今日も片付けに励んだ。Kちゃんの笑顔がみたい。まだ見ぬ4人のお嬢ちゃんたちと会えるのが楽しみ。もう本当の孫には会えない仙台のじいじも笑顔になりたいしね。 他の写真は全部捨てても、お前のだけは捨てないよ。だってお前だけは俺を裏切らなかったもんなあマックス。そのうちまた一緒に遊ぼうな。だからもう少しそっちの世界で待っててね。俺もそのうち必ず行って、真っ先にお前を見つけるからな。じゃあそれまで元気で。俺もこっちの世界でもう少し頑張ろうと思うんだ。とっても可愛い人が出来たんでな。でもやきもちを焼くんじゃないぞ。マックス。<続く>
2020.01.30
コメント(4)
~断捨離と模様替え~ いや~っ、スマンスマン。ほら、昨日コメントしてくれた君らじゃよ、君ら。爺は今猛烈に忙しくての。もう返事を書いてる暇がないんじゃ。何せ睡眠だって、左の瞼と右の瞼を交互に30秒ずつ瞑るくらい。そんなもんでこのブログが君らへの返事代わり。まだちゃんとこうして生存し、ブログも更新しとるぞと言う意味での。まあ眠たくて文字変換がかなりおかしくはなっとるが。ふぉっふぉっふぉ。 向かいのKさんが先日俺にこう言った。「ずいぶんゴミを出したけど、どうしたの」とね。それで俺は答えたんじゃ。「老人ホームに入るためには家を売らなくちゃいけない。そして家を売るには要らないものを片付ける必要がある」とな。それでKさんが納得したかは知らないが、まんざら嘘とも限らない。遅かれ早かれそんな時期が来るのは目に見えとるでな。そう言いつつも、爺さん案外朗らかじゃったよ。 断捨離をしたのは良いんじゃが、後が大変での。ゴミ収集日の前夜、自転車で運んだのさ。ところがゴミが重過ぎて自転車が倒れた。何せ前の籠と後ろの荷台にでかいのが2つ。どうしてもバランスが崩れる。倒れた場所が収集所の前だったから良いものの、あれが道路だったら大ごとだったぞ。まあそれでも俺は執念で全部片づけた。板ガラスも8枚ほど。金属類も全部な。それでガレージがスカスカだ。 ところが人間、齢を取るもんじゃないね。腰は痛むは肩が苦しいわ。参った参った。それで昨日、整骨院に行って来たんだ。帰りしなに先生に聞いた。「腰の具合はどうですか」とな。「そしたら答えは硬い」だとさ。「対策は何か」との問いには、「ストレッチ体操あるのみ」だとさ。やっぱりなあ。 2階のトイレの棚を掃除してたら、上から何かがヒラヒラ落ちて来た。これは何だと良く見たら、何と生理用品のビニールの包装紙が劣化してボロボロになっとったんじゃのう。考えてみたら長女が一旦家に帰って結婚のため家を出たのが23年ほど前だから劣化もするさ。まあ崩壊したわが家の象徴のように思えたなあ。とも角最近は良く掃除をし、良く物を片付け、移動もした。 しかし大変なものだ。新しかった家も23年も経ったら真っ黒けだ。角や溝の中などは埃や汚れで真っ黒け。おかげで大量に作った雑巾が役に立った。そして「暮らしの洗剤」の2本目もなくなりそうだ。ゴミもガラクタも多かった。椅子は2脚分分解して捨てたし、大きな額縁も壊してゴミ袋へ。一番大きなゴミ袋(45リットル用)で15個分にはなったぞ。その他に紙類は資源ゴミ用に仕分け、本は本で縛って出す予定。一度は古本屋まで大変な思いをして運んだが、「お引き取り出来ません」だとさ。 以下のものも買った。女ものの寝具類、懐中電灯。ヘアドライヤー。それらは今まで家になかったもの。そして粗大ごゴミとして捨てるのは、古い布団、使わないタンス、生かしたものの模様替えもやった。俺のPCも場所替え。頭上の照明が暗かったからなあ。問題は子供たちの写真やアルバム類、学校関係品かなあ。自分のを捨てるのは簡単だが、子供たちのものを処分するのは気が重い。家の歴史そのものだもんなあ。 そうそう、俺はどぶ掃除と表の側溝清掃もした。間もなく住宅メーカーの「24年点検」だが、その前に大掃除出来て良かった。またソーラーによる電力の売電と、賢い電気契約の話、ウォシュレット工事の経費について聞けたのも助かった。1Fトイレの水槽の故障も修繕した。これから何年生きられるか分からないけど、出来るだけエコで、元気に暮らしたいんじゃ。 今回これだけ俺が頑張ったのは、Kちゃんに気持ち良く住んでもらうため。そして彼女の4人のお嬢さんが気楽に遊びに来たり、泊まったり出来るための大掃除と模様替えだった。もちろんKちゃんには何も話してないし、彼女は全くそんなことを予想もしてないはず。でもこれが俺の気持ち。彼女のお嬢様たちの「仙台のじいじ」になってやるのさ。だから断捨離はまだ続けるよ。ではまたの。
2020.01.29
コメント(5)
~雪の日の話~ その日の仙台は朝からの雪。暖かかった今冬にしては珍しい空模様だった。この日は朝食を早めに済ませて山上の病院に向かった。処方された薬はもう残り僅か。用心のためにも雪が降ろうが雨が降ろうがどうしても行く必要があった。最初に採血、そして血圧測定。どちらも数値は良かった。診察室から名前を呼ばれ、ドクターに挨拶。 ドクターは中国で発生した「コロナウイルス性肺炎」を心配して、私の頭部に装置を照射。これは中国からの出国と日本への入国時に受けたサーモグラフィーの小型版なのだろう。体温は少し高めで38度ほどだったか。それからシャツを手繰り上げて、聴診器でラッセル音を聞き血圧測定。血糖値も含めてさほど悪い数値ではなかった。診療費を支払い、処方箋を持参して薬局へ。 猛スピードで坂を下り、買い物にも寄らず自宅へ直行。10分ほど後に、Kさんが探訪。その日は彼女の会社の集金日・その日は使用済みのレンタル品と代金を入れた袋をドアノブに吊るすのを忘れていた。用心のため玄関内の靴箱の上に置いたのだ。チャイムに促されてドアを開け、彼女と話す。話題はいつものことだが、この日の彼女はとても辛抱強く、私の話をじっと聞いてくれた。 それらの中で、彼女に関する新たな事実を幾つか知った。昨年の春先、彼女が初めてわが家に来た時、「この人は何か大きな悲しみを内包している」と直感し、同時に生活と仕事に対する不安を抱いていることも感じた。そして「これは貴方の仕事なんだから、お客さんにはちゃんと伝えないといけないんだよ」と諭した。 「先輩からはドアノブの袋のお金をもらうだけで良いと聞いた」と彼女。「それではだめ。私は話を拒絶して訳じゃないの。たまたま私が出かけた時に集金出来ないと困るから、袋に入れてるだけ。特に今月は料金が上がるんだから、チャイムを鳴らしてちゃんと説明しないと」。それで彼女は驚いた。そんなことなど言う客はいなかったのだろう。ただし先輩からの引継ぎをこなしたから良いと。 私の話は、社会人としての当然のこと。それらを指導しない会社も会社だが、まだ慣れてないとは言え、彼女たちはそれらを任務として採用されたはず。それなら最低限の商品知識と客への応対例を指導すべきはず、もしそうなれば、彼女も会社も業績が上がり、客の信頼も増すと思うんだが。 寒い玄関先で、彼女との話は2時間近くに及んだ。その会話に関する彼女の幾つかの反応に驚いた。想定外のものだったためだ・当初ににはなかった明るさとある種の自信。さらに強い母性と慈しみの心。そうかこの娘にはこんな一面があったのか。 「もっと話したかったなあ」。私がそう言うと「そうしたくても出来ないこともあるんです」。へえ~っ。それは意外な反応。さて来月の集金日は私の「俳句教室」と重なり、その先はもう来年度まで口を利くチャンスはない。何か作戦を考えないといけない。心の中で目覚め始めた感情。チャンスはそう多くはない。ここで思い切った勝負に出ないと一生後悔するかも知れない。<続く>
2020.01.28
コメント(8)
~埼玉古墳群と博物館~ このシリーズも今日が最終回となった。「古墳の話に・・」シリーズと合わせてもわずか8回。そんな短編なのに苦しんだのは、ひとえに考古学と言う専門分野が関係したのは間違いない。中国からの帰国後の体調の悪さ。家事と日常生活。毎日ブログを更新すると決めた自分のルール。旅の写真の整理と、未公開写真の活用。どれ一つとってもそれはまことに重たい軛(くびき=手かせ足かせ)であった。 それらを同時にこなせたのは、奇跡と言うしかない。実際一度は深夜に倒れ、一度は鼻血を出した。あんまり根を詰め過ぎたせいか、視力が急速に落ちた、それでも作業の手をを止めなかったのは、生真面目さゆえの執念だろう。これでは身がもたないと判断して、最近幾つかのブログを訪れるのを止めた。 私は自分の命をかけてブログを書いている。だから私の心に響かないブログ、必要な情報がないブログへは行かないと決心した。ただし気持ちが通じ、長い付き合いのある友は言うまでもなくこれまで通り。命は限られている。私に残された時間は少なく、無駄遣いは出来ない。これからも私らしく生きるにも、何かを切る必要があった。そんな理由のため、あえて謝罪はしない。 いつものことだが、旅や歴史の話は、予め持っている知識、現地で得た情報と自分の目で確認した直感。そしてブログを書くに際してネットで確認した情報。それらのミックスだ。写真も同様に、現地で自分が撮影したもの。補足や参考のため後日ネットで検索した画像。そして現地で入手した印刷物を参考にして総合的な見地から文章と写真とを組み合わせるのがい私のいつもの方法だ。 今回は現地で、上の冊子を購入した。確か1200円だったはず。これは現地の博物館の学芸員や研究者による情報なので、ネットよりもさらに詳細で最新の情報が得られる。今回の探訪記もこの冊子の説明や掲載された写真を拝借した。この場を借りてお礼を申し上げる。こんな作業の中から、全国的かつ、最新の情報が得られ、客観的な評価や判断が可能になる。さて最終回の画像を以下に乗せたい。 当時、この古墳群の被葬者であるカサヒヨ一族(笠原氏か)と近隣の一族との間で、紛争があったようだ。その諍いを調停したのが安閑天皇だったことが「安閑天皇紀」に記載されてことが博物館内の展示物にあったのを撮った。こんな風に、一つの事実を確認するためには、様々な工夫や努力が必要となる。それはこんな分野をブログのテーマとした者の当然の手続きなのだが、意外にこれが疲れ、目も悪くなる。 目が限界に近づいたようだ。説明は↑の解説をお読みいただきたい。 稲荷山古墳の発掘調査。これを見ると登頂部だけでなく、周溝部周辺も発掘調査をした様子が窺える。 器台型の土器(左)とこれに載せための小型の壺(右)が見える。 お椀型の土器。 高坏(たかつき) いずれも高温で焼かれたようには見えないが、実際はどうなのか。 銀環(下)とヒスイ製の勾玉。 いずれも国宝 こちらも上と同様の遺物で国宝だが、文化庁所有と記されている。 分解した状態で発掘された 国宝の帯金(ベルトの金属部分) 上の発掘品から想定した復原図。金具の正確な名称は図を参照されたい。 馬の装飾に使われた環鈴(かんれい=国宝)形が雲珠(うず)にも似てるかな。飾りであると同時に、鈴の音もした。それらの形と音を聞いた者たちが驚く様子が目に浮かぶ。当時馬は朝鮮半島経由でもたらされたと考えられ、とても貴重な存在だったために農耕用ではなく、軍馬だったのだろう。そして馬のいななきにもまた、驚く民の様子が想像出来る。 ブログ友の夢穂さんは東京国立博物館で開催中の特別展「出雲と大和」をご覧になったようだが、私はこの時に現地の博物館内に掲示されたこのポスターで知った。前期の展示は終了し、目下展示品の入れ替え中。その後3月末近くまで後期の展示は観られそうだ。(詳細は東京国立博物館のHPでご確認願います。これでこのシリーズを終了します。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。<完>
2020.01.27
コメント(14)
<軌道修正> 突然椅子が倒れ、私は床に転がった。この状態をどう理解すべきか。先ず部屋の照明を点けた。PCの蓋が開いたまま。その左側に焼酎のコップ。空調機と、石油ファンヒーターは消えていた。本来なら寒いはずの部屋が、足元だけが暖かい。何か変だと見ると、電気ストーブの管が1本だけ赤い。それで足元がほんのり暖かい理由は分かった。 コップの焼酎をシンクに捨てて、寝床に潜り込む。さすがに2時間も暖房を切った布団は冷たい。そこでソファーに転がっていた靴下を履いてみる。照明を落とし眠ろうと意識。そしてこんな状況になった理由を思い出した。中国から帰国後、私はあるプランに熱中していた。微熱があり、洟水も出たが、例の「コロナウイルス」による肺炎ではないと判断。前日の検温は36度2分。これならいけるはず。 それにしても危なかった。椅子が倒れた時に電気ストーブが倒れたら火事になる可能性もあった。それがそうならなかったのは、私が倒れた場所とストーブとの間に隙間があり、それでストーブを蹴飛ばさずに済んだ。不注意な事故。まかり間違えば焼死したかも知れないのだ。もし火事の原因が「当事者の過失」なら保険金が支払われたかどうか。もっとも自分が受け取れたかも不明だ。 冷たい寝床の中で考えた。倒れた原因は疲れ。睡眠不足で体調は最悪だった。それでこの晩はどうしても寝た方が良いと判断し、いつもの焼酎に加え睡眠導入剤を1錠飲んだ。あれが第一の判断ミス。しかも眠った場所が最悪。おまけにその状態でPCを立ち上げ、急に眠気がして倒れた。しかしなぜスローモーションみたいな倒れ方をしたのか。 実は数日前から椅子の背もたれ部分がバラバラになりかけていた。もともと木組みが弱い安物だが、何度も背中を預けているうちネジの部分が緩んだのだ。針金で椅子全体を縛り、ペンチで懸命に締めた。だが、それでも強度不足だったのだろう。もう謎解きは止め、眠りに集中する。 前日恩師から電話があり、ある場所で待ち合わせた。かなり前から私はその建物の入口に立って、バス停から来る人数を予想していた最大値は3だったが。降りて来たのは紙袋を下げた恩師のみ。それでもう成り行きは分かった。3階の喫茶店で言葉を交わす。「最初の指導は「ラブレターの書き方」。あんなんじゃ女は受け取らない由。 2つ目の指摘は私が経歴を描いたこと。70代半ばにもなる男が、今さら高校時代の恩師にそんなことを言われる筋合いもないが、説教が仕事と考える彼のために、我慢して聞いた。だが私の本音は別。「学術畑」の話は、普段彼らが接することがない世界なので、親切心で書いただけ。 全国的な転勤に触れたのも、彼らに実感をもってもらうためで、自慢する意図はない。だが仙台市内で働いた経験しかない2人に辞令1本で全く事情の異なる土地へ家族全員で異動する激務を2、3年おきに繰り返すことなど到底想像できない世界だったのだろう。それが管理職の定め。そんな厳しい世界を分かれと言う方が無理だったのかも。 恩師が最後に聞いた。恩師の子供時代の友で、私にとっは2番目の上司だった方の自殺の理由。私は筑波に異動し、たまたま研修の会場で、訃報と葬儀場所の電報を受けた。特別に休暇をもらい、急遽仙台へ。彼の死因は絶望のはず。彼は県からある教授のつてで転勤した人。 それから彼の絶望が始まったのでは。教授に頼まれたから転勤した。行った先の事情も課題も把握しないまま。その一方、行政に明るいH氏(私の最初の上司)は人望もあり、進取の精神に富んだ彼は、一旦他部の課長補佐となり、元の部署の長として戻った。そうなるともうS氏が逆転するのは至難。死者に鞭打つようだが、結局彼は優柔不断だったのだろう。 つまりはどれも似たようなもの。変化刺激に乏しい平和な職場に安住していると、その雰囲気にどっぷり安住し、それ以外の風景が見えなくなる。頼まれたから異動した。頼まれたから見合相手の写真を見た。だが自分の考えと異なる相手だった時は可能性や限界が見えて、「お断り」すら他者に頼んだのではないのか。 一方の私は勝手に将来設計までし、結婚式を挙げる教会の下見までしていた。そしてそれが駄目な場合の代案も。だが私が選んだお土産が不満で、その返却を実兄に頼んだ。何もかお膳立てしてもらうのは縁談だけでなく、仕事も同様で、彼女は部下が造ったプランに目を通すだけだったに違いない。 妹さんへと託した梅干しとユズのマーマレードも、彼女が口にしたかは不明。恐らく兄にチェックされたのは間違いない。すると「あて馬か出汁」だったんだねえ俺は」。まだ青年時代の頃、合唱団の先輩女性からこう言われた。「たとえ恋に恋して破れても、恋しないよりは良いんだよ」と。その時はそんなものかと思ったが、今ならうなずける。私は今声高らかに宣言する。「命短し恋せよ爺と。<続く>
2020.01.26
コメント(10)
~鉄剣などに刻まれた文字~ <国宝の鉄鏃てつぞく=やじり:稲荷山古墳出土> 埼玉古墳群・稲荷山古墳から発見された鉄剣がとんでもなく貴重なものだったこと何度も記した。それなら文字が刻まれた鉄剣はとても数がすくないのだろうか。「いや実はそうでもなんですよ」。と言ったら亭大抵の人は「そんな馬鹿な」と言うだろう。だがそんなこともないのだ。種明かしをすればこんなこと。例えば日本刀の古刀にも作者の銘を刻んだものが結構ある。しかしそれは刀の値打ちを高めても、必ずしも日本史の謎の解明に役立つかどうかは、別問題なのだ。これでお分かりだろうか。 さて鉄剣に刻された銘文が発見されたと言われている遺跡(古墳など)は全国で8か所ある。残念ながら字が潰れて読めず、きっと〇ズキルーペを掛けても無理なはず。どうもスミマセンね。 それがこの8本なのだが、これもまた見づらいんだよなあ。小さくて字が読めない! しゃあない。では繰り返しになるけど、ちょっと復習しましょう。これが埼玉県行田市の稲荷山古墳。鉄剣が出たのは後円部(実際は奥の方)の頂上部。ここにあった礫郭からの発見でしたね。 ここの博物館では、真空の小部屋を作り、その中に剣を吊るしていました。真空にするのは腐食を防ぐため。そして吊るしたのは、前後左右から「裏表」の双方を見てもらうための工夫でした。 でもそれでは読みにくいため、やはり横に寝せて見ました。上の写真では金の文字がはっきり確認d来ますね。 これが全体像。この文字が出て来た時、きっと研究者の方は身震いしたことでしょうね。明らかに意味のある言葉がそこに刻まれていたためです。その興奮した様子が目に浮かびます。 これが鉄剣の<表側>の読み下し文。オワケノ臣はじめ8人の人名(恐らくは笠原氏)が読み取れます。 そしてこちらが裏側の読み下し文。「カサヒヨ」=「笠原氏と推定の根拠」。古代の発音は今と少し違っていましたが、推定は可能です。(例、伊治:当初は「イジ」後に「コレハリ=栗原)宮城県栗原市にあった古代の城柵です。 「白い部分」は刀に刻まれた字の形をより忠実に再現した。 やっと2番目。こちらは稲荷台1号墳(千葉県市原市)から出土した鉄剣。かなり腐食が進み、辛うじて字だと分かります。王から賜ったと記載されている由。 こちらは奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した剣。刻まれた字は明瞭ではないですが、環頭束(かんとうづか)の形が独特ですね。私は初めて見ましたが、これは中国大陸に源流があるものの特徴で、朝鮮半島を経由してわが国にもたらされたと推定出来るそうです。 これはご存知、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮所蔵の「七支剣」です。まるで「スギナ」のように枝分かれしていますね。この刀を地面に差して農事をしていたために腐食が進んだのです。それを明治期に考古学に造詣が深い宮司がたまたま着任し、これは貴重な剣と見抜き、さび落としに出したのが大発見につながったのです。 いつだれがこの剣を作り、だれに献上したかが分かります。この珍しい形の剣は百済の国王からヤマトの大王に献上されたのです。つまり百済がわが国に対して朝貢関係にあったことが一目瞭然。その意味でも貴重なのです。中国の史書には倭人を朝鮮半島3国の「安東将軍」に任命したことが明記されています。そして朝鮮半島の南部にはわが国の半島支配の足掛かりとなる根拠地(かつては任名(みなま日本府と呼ばれていましたが、今は韓国に遠慮したのか、そうは呼ばないことが増えましたが)。またかつての百済領地及び半島南西部地域からは幾つもの前方後円墳が発見されています。 一時日本の前方後円墳は韓国が起源と韓国の研究者がいきり立ちましたが、日本よりかなり遅い時期の建造と分かると、認識は一変します。。また縄文人がかなり古い時代から朝鮮半島で活動していたのは、隠岐の黒曜石が半島から出土することや半島南部全体から縄文土器が出土することでも裏付けられます。さて七支刀の重要性の確認後、この剣が再び農事に用いられることはなくなりました。 兵庫県八鹿(ようか)町の簀谷2号墳です。出土した剣の映像は見つかりませんでした。 松江市の岡田山1号墳です。ここからは「額田部臣(ぬかたべのおみ)」銘の大刀が出土しています。 お待たせ。最後にやっと登場したのは、熊本県菊水町にある「江田岩船山古墳」出土の鉄剣で、製造されたのは5世紀から6世紀にかけてと推定されています。この鉄剣に刻まれたのが「ワカタキル大王」つまり宋書に倭王武とある雄略天皇その人の名。稲荷山古墳の他にここからも彼の名が出たことで、雄略天皇実在説が確定した。いかに「金石文」が重要な史料であるかが分かるでしょう。<続く>
2020.01.25
コメント(4)
<蘇る死者> 皆の衆今日は!わしの名はオワケノ臣。住所は埼玉県行田市にある「埼玉古墳群」の一つ、稲荷山古墳の住人じゃよ。だがわし宛に手紙を出しても届かんぞ。なにせわしは今から1529年ほど前に死んどるでのう。それでもわしの名が日本全国に知られるようになったのは、わしの墓から1本の錆びた鉄刀が発掘されたからなんじゃよ。何とも不思議な話じゃ。今日はわし自身がわしの話を聞かせてあげようかのう。それにしても足元がスース―するぞ。何せわしは靴も靴下もないでのう。ふぉっふぉっふぉ。 これがわしが1500年以上も眠っとった稲荷山古墳じゃよ。墓は左手の階段を上った頂上にあっての。本当は2つの墓があったんじゃよ。わしの他にももう1人横に眠っておったんじゃのう。ふぉっふぉっふぉ。 こっちはもう一人が眠っておった石郭のある墓。ひょっとしてわしの親父どのじゃったんかのう。だがのう生憎そっちの方は後世盗掘にあっての、何も残ってなかったらしい。どの時代にも悪いヤツがおったんじゃのう。もしわしが生きとったら、絶対許さんのじゃがなあ。う~む残念無念。 でこっちがわしの寝床もといお墓があった場所。石ころを集めた墓を考古学の世界では礫郭(れきかく)と言うらしい。もっともこのままではみじめ。そこでわしにも少しマシなお棺が造られたんじゃ。 これがわしの棺桶じゃよ。大木を真っ二つに割っての。中を刳り抜いてあるんじゃ。礫郭が凹んどるのは、この大木の重さによってなんじゃよ・ふぉっふぉっふぉ。そしてわしの横には全部で5振りの鉄剣が置かれていた。もちろんわしはこの辺の豪族でかなり力を持っていたからのう。ふぉっふぉっふぉ。 これが後年金歓嵌文が発見された鉄剣じゃ。なに、2本もあるってか。いやいやそうじゃない。これは分かりやすいように表と裏の両方をみせたんじゃ。ここに彫ってあった115文字の文が、やがて日本国内を驚かせたんじゃから愉快じゃのう。やあ痛快痛快。 さて、こっちは何にも書かれてなくても国宝になった鉄剣じゃ。なに、それは不公平じゃとな。いや、そうではないんじゃ。115文字の銘文の解析で、副葬品として備えられた他の品々も、その貴重性ゆえ国宝になったと言う訳じゃ。貴重な歴史資料だからのう。それは3日後くらいに話すことにしよう。1)死者の名前などについて。 最初にある漢字の名前がわし。これで「ヲワケ」と読むんじゃよ。そしてここにはわしの名のほかにご先祖様のオオヒコ以下7名の名が刻まれておる。みなわしらの一族。つまりこの地を治めておった豪族(推定=笠原氏)なんじゃよ。そこまで分かったんじゃからビックリポンと言う訳さ。 2)わしらがしていた仕事の話・ ちょっと難しい表現じゃが、わしらは代々杖刀人首と言う役職に就いておったんじゃ。でもここでではないぞ。都におられる天皇の警備隊長と言ったら分かるかのう。つまりは腕を見込まれた武官なんじゃよ。そして遥々遠い都へ派遣されたと言う訳なんじゃ。都へは後の中山道を通るのが普通。山道で一見遠回りに見えるが、逆にその方が安全だったんじゃ。太平洋側の東海道には大河が多くて、渡るのが大変だったからのう。一旦大雨でも降ろうものなら当分の間は増水しとるでのう。 3)わしらが仕えた人の名は ハハハ。もう分かったじゃろう。ワカタキルさま。つまり後世第21代の雄略天皇と呼ばれたお方じゃ。この方はとても乱暴での、ご自分の本当の兄弟を何人も手に掛けたことで悪名が高いんじゃ。そして「宋書のいわゆる「倭の五王」の1人である「武」に比定されておる。やはり腕力が強かったでの。わしらもいつ罰せられるかとヒヤヒヤしとったぞ。ここだけの話」。 しっかり刻まれた「ワカタキル大王」の金色の名が眩しい。 実は、このワカタキルの名を刻んだ剣が熊本県の古墳からも出たことで、雄略天皇が実在したことが歴史的に確認されたと言う、日本史上の一大発見につながった訳。だからこそこの鉄剣が国宝となり、同時に埋葬された副葬品の全てが国宝指定と言う、前代未聞の快挙になったんじゃよ。分かったかの。 4)わしらが活躍した時代はいつ? 鉄剣には「辛亥」の字が刻まれていた。これは十干十二支(じゅっかんじゅうにし)の表現なので、西暦に換算すると紀元471年に相当し、今から1529年前にこの鉄剣が制作されたことが判明した。このことも雄略天皇の実在を裏付ける根拠となったのじゃよ。 こんな具合に、古代史や考古学は思い付きや適当な推定で物事を判断してるわけじゃなく、実証を繰り返して成立する学問であることを強調しておこう。つまり他にも人類学、生態学、言語学、神話学、文化人類学、植物学、解剖学、地質学、などの分野の協力を得て、最新学説が定説化されて行くんじゃ。分かったの。最後は少し肩に力が入ったが、さらに論考を続けよう。<続く>
2020.01.24
コメント(14)
<宇奈月温泉の宿にて> ボクたちは立山の雷鳥だよ~ん。今日はマックス爺さんが泊った宇奈月温泉の宿を紹介するね。 ホテルのロビーに巨大なアメジスト(紫水晶)の鉱石が鎮座していました。これほど巨大な功績を見たのは初めてでしたが、これは盗まれる心配はなさどうですね。なぜって、運び出すのはどうしても無理そうですからねえ。 まだ1か月ほど早かったのですが。もうこんなクリスマスツリーもね。 きっとこれは日本民話の「笠地蔵」をテーマにしたのでしょうね。むかしむかし、あるところに・・。 客商売にはおめでたい「招き猫」の可愛い暖簾(のれん)が飾られて。 和洋の置物がお出迎え。左は郷土玩具かな。右はお馴染み小便小僧。あら失礼。 ここからは館内に飾られていた無難なテーマの絵。 秋口の白樺林。 こちらは実に見事なダケカンバの群落。 木陰からニンフが飛び出て来そうなヨーロッパの美しい森。 荒れ狂う日本海を淡い色合いで描いた水彩画。 秋風にそよぐ海辺の野草たち。照明が反射して、スミマセン。 秋の水辺のしみじみとした風景。なぜか郷愁を感じますね。 黄昏迫る漁港には、漁船とヨットが仲良く停泊して。 乳白色のランプに灯が点ると。これからはワインタイム。 今回は急用で来れなかった友も、来年は元気な顔が見られると良いね。これで富山県宇奈月温泉への旅の話は終了です。<完>
2020.01.23
コメント(11)
~気がかりな件を一つずつ~ あることが気になって眠れずにいた。それで夜中に起き出して焼酎を飲みながらブログを書いたりしたものだから、ますます目が冴えたのだ。居間に取り込んだ植木鉢の雑草を抜いた。部屋が暖かい上に頻繁に水をやるものだから、雑草もこれこれは良いと、急成長を始めたのだろう。その翌朝、絨毯の上を黒くて丸っこい物体が這っている。直ぐにティッシュでナメクジをつまみ、外へ捨てた。雑草を抜いたせいで、彼らの寝床が乾燥し、苦しくなったのだろう。 汚れが目立つフローリング、廊下、脱衣所、トイレの床、台所の床、デスク下の茣蓙を濡れタオルで拭いた。風呂の残り水に住まいの洗剤を数滴下とし、ぎゅっと絞った雑巾でゴシゴシ。やはり「レンタルの化学モップ」だけではダメ。特に料理を作る台所の床は、色んな汁で汚れ、干からびた野菜屑などで溢れていた。台所の引き出しから不要の金物を全て出した。そのままでは駄目とお向かいのKさん。 それで鍋の取っ手、ふたのつまみなど、金属でない部分をペンチで外し、金づちで叩いて壊し、金属だけをビニール袋に詰めた。不調の圧力鍋、タコ焼きのプレート。流しのバットやボウル、パン作りの容器など妻が捨てずに置いて行ったものをそっくり燃えるごみの日に出すと、収集してくれる由。これでスッキリ。 家事で忙しい時間帯、突然電話が鳴る。どこかの通販会社だが、申し込まれた商品の番号が違う由。話を良く聞くと、どうも一括した袋に他社のカタログも混じっていて、私が発注したものの1つが、どうやら他社のもので、送れない由。そこで苦情を言った。こちらは全部が同じ会社のカタログだと認識しており、そういう方法は利用者を混乱させるだけだと怒鳴ると、慌てて電話を切った。困ったものだ。 俳句教室の講師が喜んでいた。受講生の作品が地元紙の俳句欄に掲載された由。自分の指導方法に異議があれば直ぐ辞めて良いと言っていた彼。その後教室を辞める人が続出し、急に自信を失った時期があった。私が提出した今月分の兼題は、軽く修正。でも句の背景を話すと、そのままで良いとのこと。この人の生き甲斐は、教え子の作品の地元紙への掲載の由。だが私の関心は、俳句観の醸成と感性を磨くこと。俳句の本質により近づくことしかない。 先日高校の恩師宅へ、畑の大根1本と中国土産を届けに行った。恩師夫妻はことのほか喜んでくれた。その時妹さんの分も恩師に預けた。お茶やコーヒーを戴きながら、中国のことやら最近の暮らしぶりなどの話に熱中。そこへ妹さん。早速「これあんたに」と私が託したお土産を渡した。 彼女とは中国旅行の話、近所に住む、私の高校時代の同級生(彼は妹さんの同僚とのこと)これも偶然でビックリ。彼女は会食の約束があるからと帰った。その背中に言う。「落としちゃダメだよと。 まあ本当に時間がない中で、そして訪問先が限られた中で土産を選ぶのは至難の業だが、ドキドキ感を伴う楽しい作業でもあった。さてどんな結果が待ってるか。 「先生不思議ですねえ」。私がそう言うと、恩師がぼそっと呟いた。「A、それを奇縁と言うんだよ」。 礼を言って退出しようとすると、恩師は「白子海苔」の缶をくれた。帰途近所のスーパーで買い物。夜は焼酎を2杯飲んで床に就く。大連旅行記のタイトルを決めた。「国境~その時空を超えて~」。気宇壮大な内容になりそうだが、その前に1400枚もの写真の整理作業が待っている。 土曜日、畑の始末をした。最後の爆裂キャベツを抜き、外側の葉をきれいに処理すると、かなり立派な塊が出て来た。昼食用に刻んで使用。ブロッコリーとカリフラワーは全て抜き残骸は裏庭へ。白菜も1株抜く。外側は汚なくても中は立派。後日漬物を作り、残りは色んな料理に使う予定。 土の中に埋めてある大根は5本。先日は冷蔵庫のでおでんとピクルスを作った。多分2月末までは持つはず。2月末か3月初めには春野菜の準備が出来そう。春は近い。
2020.01.22
コメント(14)
<埋葬された将軍> <将軍山古墳に埋葬された「将軍」の再現騎馬像> 埼玉県行田市にある崎玉(さきたま)古墳群は国宝の稲荷山鉄剣が発見された「稲荷山古墳」など関東随一の古墳群です。あの国宝の鉄剣を作った「オワケノ臣」が、実はこんな姿だったのではと推定出来る副葬品が付近の「将軍山古墳」(前方後円墳)から出土しています。今回はその副葬品から、当時のヤマト王権の武人として仕え、この地の豪族だった「オワケノ臣」を偲んでみたいと思います。考古学の専門的な話ですが、写真を多用し読者の理解を助けたいと思います。 <石室内の副葬品の配置図>馬具が多いのが特徴です。 副葬品の馬具などを複製し、埋葬当時の配置状況を再現しています。色んなものが見えて興味深いです。 遺体および副葬品の忠実な複製化と、当時の埋葬状況再現。 「将軍」が着用していた兜(かぶと)と鎧(よろい)の想定図。鎧(桂甲=けいこう)は小さな金属片を紐で縛って作られています。 <馬具及び装飾品の装備状況再現図> 貴重な軍馬はこんな風に装備されていました。 軍馬に騎乗するための鞍(くら)。写真は鞍の前部で、揺られてずり落ちないための装置です。 不思議な形の金具は、騎乗者が将軍であることを表す旗竿(はたざお)を立てるための道具でした。 これは馬兜(ばちゅう)と言い、大事な馬が敵の武器で怪我しないよう顔全体を覆ったのです。それだけ馬は貴重で、朝鮮半島経由でわが国にもたらされたと考えられます。再現した複製品です。 軍馬の飾り金具の一種の杏葉(ぎょうよう)の破片です。銀杏の葉っぱに似た形からの命名で、福岡県の宗像(むなかた)大社所蔵の物は特に有名で、純金製の完成品(国宝)で気品があり、美術品としても優れています。 馬鈴(ばれい)です。馬に付け馬が動くと音がしました。さて、どんな音だったのかな。 生前に将軍が使用した品か。 将軍が着用した耳輪か。金の純度は不明です。 ガラス小玉のネックレス。当時のガラス製品はすべて舶来の貴重品です。古墳時代にはるばるシルクロードを経由して伝わったガラス製品が、関東地方の豪族が着用していたとはねえ。やはりこの一族はヤマト王権に直接仕えた武官だったのでしょう。 ベルトの金具です。金属製の部分だけが腐食せずに残っていました。 <続く>
2020.01.21
コメント(12)
<埼玉県行田市埼玉古墳群の古墳たち> 公園内風景。まだかつての湿地や田んぼの跡が残ってますねえ。右手奥が丸墓山古墳です。 大連旅行関係の写真の整理が全く手についておりません。整理までの間、休止していたこのシリーズを再開します。国宝の「稲荷山鉄剣」」などが後で出て来ますので、それを楽しみに辛抱強くお待ち願います。今日は園内の主な古墳の写真を掲載します。 丸墓山古墳(日本一巨大な円墳)。頂上に数本の桜の木が植えられていて、お花見の名所です。 丸墓山古墳の航空写真。きれいな円墳であることが一目瞭然ですね。 丸墓山古墳の測量図。等高線がきれいにそろっています。見事な円墳です。 在りし日の丸墓山古墳と田起こしをする農家の方。背後に見えるのが石田三成が利根川と荒川の堤防を破壊して川の水を入れ、忍城を水攻めにした際に築いた「石田堤」。三成の陣地は丸墓山の頂上にあり、水没することはなかった。映画「のぼうの城」は傑作で、戦いの様子がほぼ再現されていましたね。 左側の将軍山古墳に円筒型埴輪が立ってるのが見えます。右手奥が二子山古墳。 成形された将軍山古墳の後円部を取り巻くように立つ埴輪列。 将軍山古墳下部に突き出た「造り出し部分」にも埴輪が並んで立っている。 稲荷山古墳の全容。右手の後円部頂上の礫郭(れきかく)から「稲荷山鉄剣」などが出土しています。その出土品の全てが国宝に指定されています。それほど歴史的に貴重な品だったのです。詳細は後日紹介しますが、それが古代日本史を塗り替えるほどの大発見につながるのですから、物事とは分からないものですねえ 稲荷山古墳全景。右手後円部頂上に2つの墓があり、うち1つが盗掘され未盗掘の墓に鉄剣などが副葬されていました。それが後年、大変な騒動となる原因をつくることになるのです。 <埋葬想定図>まさかこの被葬者の名前まで分かるようになるとはねえ。だから「事実」は面白い。 秋の稲荷山古墳周辺にはコスモスの花が。 <続く>
2020.01.20
コメント(8)
<五代時代の陶磁器> 限られた時間内に急いで撮影しているため、説明板と展示内容に齟齬がある場合がありますが、その際はご容赦願います。 この壺にも文字が刻まれていますね。 何やら高い楼閣にも似た陶磁器。用途はやはり祭祀用でしょうか。例えば最上部から注いだ酒が、グルリと回って、最下層の盤に落ちて来ると考えたらさぞかし愉快でしょうね。 装飾された女性像。これは中国では「俑」(よう=日本の埴輪に相当)でしょうか。 しゃがんでいる官女か。緊張した面持ちがとても微笑ましいですね。 左は胡人(中国から見て西方の異民族)の風格がある旅人か。右は三彩を施した馬に乗る胡人の女性に見えます。どちらもシルクロード(絹の道=中国の西安からローマに通じていました。幾つかのルートあり)を旅した隊商関係者なのでしょう。 これ以下は故宮博物館が所蔵する陶磁器の珍品コレクションみたいですね。 繊細な文様が施された匙(スプーン) 高温で焼かれた薄手の磁器の繊細な絵付け。以下一挙公開します。 <ご挨拶> 最後は写真の配列が乱れたかも知れません。何せ1年半も前に撮った写真なので、すっかり記憶が薄れているのです。さて「わたしが見た台湾シリーズが」全26回。「シリーズ台北故宮博物館の至宝」が全10回、合計36回分を掲載した台湾一周旅行記はこれで終了です。長きにわたってご愛読いただいたことに心から感謝し結びとします。どうもありがとうございました。我ながら良く頑張ったものです。 さてこのような学術的な展示物の解説は好い加減なことは言えませんが、あえて自分が感じたことを書かせていただきました。それは1点1点画像検索して、その解説を読む時間的な余裕がないためです。だからあくまでも素人の感想と言うことで、お許しいただきたく存じます。そしてこの苦労して構成したシリーズが、今後国内の歴史、美術愛好家にとって何らかの手がかりになれば望外の幸せで、その意味でも改めて御礼申し上げる次第です。著者敬白。<完>
2020.01.19
コメント(6)
<古代中国の青銅器の美(3)> 中国の「新石器時代」は日本の「縄文時代」に相当する。そのうちここに陳列された作品群は「大△口文化」に属するもののようだ。西暦で言えば紀元前4300年から2500年。縄文の中期から後期にかけての時代だろうか。 銅板に刻まれた銘文。 上の銘文を拡大しました。甲骨文のように見えますが、いかがでしょうか。 こちらの銅器の側面には、何やら文様が刻まれています。恐らくは神聖な動物と思われます。 金箔が施された小さな仏像3体。中央の仏像は胡坐(あぐら)をかいて印を結んでいるように見えます。両脇はとても素朴な脇侍(わきじ)。倒れないように、鎖で固定されています。しかし、この時代の中国に本当に仏教が伝わっていたのでしょうか。少々疑問があるように思うのですが。 漆で彩色された土器のようで、どうしても青銅器には見えませんね。このように赤と黒の漆で彩色された美しい縄文土器が、八戸市の是川遺跡や青森市の三内丸山遺跡から出土しています。でも日本の漆と中国の漆は全く種類が違うものです。漆を英語では「japan」と言います。やはり漆は日本の技術が上回っているように感じます。青森の是川遺跡、三内丸山遺跡でも漆は明確な目的性を持って集落の近辺で栽培されていた古い歴史がある植物なのです。 どちらも土器にしか見えませんね。特殊な形はきっと祭祀用なのでしょう。左は三脚(鼎型)の酒器か。右の柄がた付いた高坏(たかつき)は権力者が握って酒を飲んだものでしょうか。どちらも想像をかき立てられる一品です。 字が刻まれた銅器。枕状と言うか、「湯たんぽ」状というか。字こそ刻まれてないものの、このような形状の縄文土器もあったはずです。 上の写真の字の部分を拡大しました。もう甲骨文字から次の段階に進んだように見えます。<続く>
2020.01.18
コメント(6)
<古代中国の青銅器の美(3)> 中国の「新石器時代」は日本の「縄文時代」に相当する。そのうちここに陳列された作品群は「大△口文化」に属するもののようだ。西暦で言えば紀元前4300年から2500年。縄文の中期から後期にかけての時代だろうか。 の台。これに皇帝が食べるご馳走を盛ったのか、それとも神への生贄用の山羊の首を載せたのかは分からない。まあどちらもあり得よう。 銅板に刻まれた銘文。 上の銘文を拡大して見ましたが、甲骨文のように見えますが、いかがでしょう。 こちらの銅器の側面には、何やら文様が刻まれています。恐らくは神聖な動物と思われます。 金箔が施された小さな仏像3体。中央の仏像は胡坐をかいて印を結んでいるように見えます。両脇はとても素朴な脇侍(わきじ)。倒れないように、鎖で固定されています。 漆で彩色された土器のように見えますが、これも銅器でしょうか。このように赤と黒の漆で彩色された美しい縄文土器が、八戸市の是川遺跡から出土しています。 どちらも土器にしか見えませんね。特殊な形はきっと祭祀用なのでしょう。左は三脚の酒器か。右の柄がた付いた高坏(たかつき)は権力者が握って酒を飲んだものか。 字が刻まれた銅器。枕状と言うか、「湯たんぽ」状というか。字こそ刻まれてないものの、このような形状の縄文土器も、確かあったはずです。 上の写真の字の部分を拡大したものです。 <続く>
2020.01.18
コメント(4)
<古代中国青銅器の美(2)> 耳の形などからこれは河馬(かば)でしょうか。古代の中国には生息してなかった動物を鋳造するとは珍品ですね。これもまた皇帝の力を表したのでしょう。 古代中国の青銅器は不思議な形の物が多いのが特徴です。これも頭部に4頭の小さな動物が載っています。取っ手の頑丈さはどうでしょう。3本足の容器は、俗に鼎(かなえ)と呼ばれています。用途は聖なる儀式のための道具だと思われます。 左側は取っ手と注口があるので、恐らくは酒器それも神に捧げるための道具ではないでしょうか。右側は青銅製の花瓶で、これも多分儀式用だと思われます。 四方に取っ手がある重厚な容器。恐らくは儀式用の酒器でしょうが、注口部がないので中の酒は柄杓で汲む方式だったのでしょう。 これもまた極めて重厚な容器。頑丈な取っ手と謎めいた文様が刻まれているため、儀式用の酒器と思われます。しかも脚があるので中の酒を温めた可能性も考えられますね。 花瓶のような容器に複雑な文様が刻まれています。儀式用の花瓶か、液体(恐らくは酒)を保存するためのものと考えられます。 似たような形の祭器。頭部が平らなので何か儀式用の道具を置いたのかも。 形と文様から、共に祭器だったのは確実。左の匧(はこ)状の容器には一体何を入れたのか。右の容器には複数の足があり、重厚かつ複雑な文様がある儀式用で、運搬するための取っ手と穴がある。 摩訶不思議な形の祭器。上部の凹みの中で儀式の際に、何かを燃やしたのだろう。こんな風に、初めて見る古代中国の青銅製祭器の用途を考えるのは楽しい作業ではあった。<続く>
2020.01.17
コメント(8)
<古代中国の青銅器の美(1)> 今回から台北故宮博物館が所蔵する銅器の名品を紹介します。中国では殷(いん)の時代から青銅器は宗教上の道具として、重要視されて来ました。 銅器にはそれぞれ名前が付けられています。恐らく左側の銅器は偏壺(へんこ)で、右側の銅器は鼎(かなえ=ていだと思われます。 また珍しい銅印ですねえ。字体は篆書(てんしょ体)と決まっています。。上の摘みの部分は動物です左は羊で右は亀。さて志賀島から出土した「漢委奴国王印」は金印でしたから、上部は金印に相応しい動物(蛇)になっています。現在のベトナムにあった點「てん」も奴国も同じでした。だが朝鮮半島の諸国が与えられたのは銅印で倭国よりも待遇が下だったことがそのことでも分かります。 左は燭台つまりろうそく立て。右は吊下げ型の香炉みたいですね。 これも偏壺(へんこ)でしょう。沖縄の抱き瓶(だちびん)=琉球王朝時代に農民が腰に縄で吊るした水筒(すいとう)にとても良く似ています。 左は神に捧げた酒器。右は水鳥型の香炉に見えますが、どうでしょうね。 このような形の道具を甑(こしき)と呼びます。用途は食品を蒸(む)すこと。左の下方から火を焚くと中の水が熱せられて水蒸気となり、右側の隙間(下の部分の上方)から立ち上った蒸気で上の容器の食品を蒸して調理します。従って上の容器の底には「すのこ」を載せて熱効率を高めたのだと思います。縄文時代の日本には、同じ形で同じ用途の土器がありました。鹿児島県には甑島と言う名の島があります。 青銅に刻まれた甲骨文字の碑文。このように石や金属に刻まれた文字は「金石(きんせき)文」と呼ばれ、貴重な歴史資料です。何せ消えることがないので助かりますね。 鮑(アワビ)型の容器は多分料理を暖かいままに出したのでしょう。かなり贅沢な調理器具です。 こちらは取っ手と取っ手の間に棒を通して餅運びを楽にしたのでしょうね。考えてますねえ。 2枚の青銅鏡です。左は四角形をデザインした規矩(きく)紋と呼ばれるもの。 右側の青銅鏡を拡大して見ましたが、文様は不鮮明で不明でした。 大きな取っ手のある容器。刻まれている文様は「とうてつ」文だと思われます。「とう」も「てつ」も環境依存文字なので変換しませんが、字に興味のある方はお調べください。「とうてつ」は体は牛か羊。曲がった角と虎の牙を持ち、爪と顔は人間と言う中国神話の空想上の動物で、魔除けの役割を担っています。つまりこの青銅器は祭祀に使われた可能性が高いと思われます。<続く>
2020.01.16
コメント(16)
<大連と旅順への旅を終えて> ご無沙汰してました。1月11日(土)から4日ほど、中国の大連と旅順に旅行しておりましたが、昨夜無事帰宅しました。留守中にたくさんのコメントをいただき。ありがとうございました。帰宅直後から溜まった洗濯物の洗濯。不用品の始末、お土産の仕分け、持参したものの整理、撮影した写真1327枚のPCへの取り込み、夕食の準備とお向かいさんへの挨拶、など雑事に追われていました。 大連 今回の旅は思いのほか得る物が多く、私にはとても有益なものとなり、感謝しています。 <大連・ロシア人街> ご存知の通り大連は旧ロシアの租界地でもあり、日露戦争で日本が勝利した後は、旧満州国の主要都市でもありました。日本人が移住して満蒙の大平原を開拓し、鉄道網を敷き産業を育成した土地柄。また日清戦争の結果自由になった朝鮮人がより豊かな暮らしを求めて参集するなどして繁栄したのです。大連には旧「満州鉄道」本社はじめ日本企業が進出して、文字通り「五族共栄」が図られたのです。 <旧日本関係の建物とイルミネーション> だが、その豊かな暮らしも第二次世界大戦直前の突然のロシア参戦によって全て失い、日本人は大連から船に乗って命からがらで帰国したのです。また大連近郊の旅順には東鶏冠山、「203高地」など、日露戦争の激戦地が不幸な歴史遺産として保存されています。さて当時邦人が建築した近代的な建物群(ロシア建築物も含む)は、中国政府によって今も重要な文化遺産として保存、使用されています。 <大連の夕景> さて今回の旅の引き金になったのは、「坂の上の雲」、「アカシアの大連」、「大地の子」らの作品群でした。私には遥かに遠い明治、大正、昭和前期でしたが、やはり訪れて良かったです。我々の父祖の足跡を辿るだけでなく、あの戦争を中国の国民がどう受け止め、日本人にどんな感情を抱いているのかを肌で感じた旅でした。今回日本の一市民として、私たちなりの「民間外交」が果たせたのではと信じています。 正直、大連のホテルはまだ未整備です。仙台―大連の直行便就航で今回初めて彼の地を踏みましたが、観光もそして中日友好もこれからでしょう。しかしこれまでTVでしか知らなかった中国の市民と接し、彼らの本音と実態に接することが出来たのは貴重でした。こんな小さな触れ合いで互いの誤解が解け。やがて相互理解へとつながれば、嬉しいですね。 今回持参したデジカメが2台ともバッテリー切れで最後まで写せませんでした。またPC に取り込んだ写真の整理にも相当の時間を有することでしょう。留守中にいただいたコメントへの返事もまだしておらず申し訳ありませんが、今は疲労回復と日常生活への復帰を優先します。失礼の数々は、どうぞお許くださいませ。とりあえず帰国を報告し、ブロ友さん、読者の皆様への御礼に代えさせていただきますね。では、おやすみなさい。そしてお早うございます。你好(ニーハオ!!)。
2020.01.15
コメント(10)
<1月の兼題=小正月> 去年今年女気のなき小正月 *こぞことし 小正月シンビジウムの花芽かな 酒も尽き餅も尽きたり小正月 小正月身の置きどころなき齢かな *よわい 鋳潰して捨ててしまおか除夜の鐘 *いつぶし 小正月三途の川の近くなり *さんずのかわ 小正月会津の人の無口なる 餅玉の軒下にあり宿場町 *もちだま 餅玉は高く碧空なほ高く *あをぞら なまはげの臭き息して眠りをり 臭き息吐きてなまはげ眠りゐる なまはげの酔ひ潰れけり村外れ *よいつぶれ 子の年の走り始めよ蒼き空 *ねのとし *あおき めでたさよ新年会のラン仲間 ネット上の門脇麦さん <嫁取り作戦に夢中になっているころに詠める> 唐突に君を抱けば春の雷 *らい 桃の花湯浴み終へたる肢体かな *ゆあみ *したい 褥にて微笑む妻や春憂ひ *しとね=夜具 *はるうれい 逃げる妻をバックハグする猫の恋 君の名も知らずに春を迎へけり やはらかき母の乳房を知らぬまま育ちし吾も七十代半ば 寒牡丹 寒牡丹漢検受験の君に笑む (何十回目の漢検受験に向けて目下猛勉強中の札幌のブログ友たくちゃんさんに捧ぐ) 皆さん今日は~!!昨夜無事中国から帰国しました(多分)。何せこの記事は予約機能を用い、かなり前に書いていますので。不悪(あしからず)。どうぞまたよろしくね。
2020.01.14
コメント(6)
<女性書道家の話> これはイギリスの女性旅行家イザベラバードの肖像。彼女は明治の早い時期に、単身イギリスから来航し、日本、朝鮮、中国を旅した人。これから書くこととは何の関係もないのだが、凛としたその肖像をお借りして、ある女性との交友を記したいと思う。なお本日も大連を旅行中。今日は日露戦争の激戦地の203高地に行く予定だったか。いや、ちゃんとスケジュールを確認してはいないが。(;^_^A 今年もAさんから年賀状が届いた。相変わず毛筆の美しい文字。彼女は書道家。カナクギ流の字しか書けない私から見たら、とんでもない世界の住人だ。彼女とは四国のとある大学図書館で出会った。彼女はとても優秀な部下で、何とか管理職として登用するための条件である専門員(課長補佐)のポストに就けようと推薦したのだが、総務部長と人事課長の理解が得られなかった。 推薦は彼女個人のためばかりでなく、大学図書館界の発展のためだったのだが、一般行政職には私たち専門職の世界が理解出来なかったのだろう。女性は対象外、課長登用の意味がないと言う彼らの論理が残念だった。でも彼女は私が強く推薦しただけでも嬉しかったようだ。彼女の実力なら当然なのだが。 逆に私が嬉しかったのは、当時私が勤務していた裏日本側の職場に彼女から電話があったことだ。そこは私の9番目の転任先で、管理職としては4つ目の職場だった。その4年目、上司として赴任したのが私も彼女も知っているK氏。管理職としては私の方がずっと経歴が長くて先輩なのだが、彼は大きな大学を経験しての昇任だった。そんな事情を知っている彼女が、私に同情したようだ。 裏工作をしてのし上がった彼に対し、私は人事を差配していた女ボスに、最後まで頭を下げなかった。彼女に近い後輩の管理職やかつての同僚からも挨拶に行けと忠告を受けたが、私は最後までその姿勢を貫いた。ゴマすりをしないのでなく、胡麻を擦る能力が私にはなかったのだ。 さて本題に戻ろう。昨年彼女から喪中はがきを戴いた。兄上が急逝され、服喪中とあった。だがそのハガキを紛失して彼女の住所が分からなくなっていた。それが今年年賀状を戴いたことで判明し、急いで年賀状を認(したた)めた。そして女房と別れて一人暮らしをしていること。久しぶりに声を聞きたいと書き添えて投函した。 彼女との間に恋愛感情はない。大学図書館員として今でも尊敬しているし、彼女は新進気鋭の書道家として活躍中の身。本音を言えば、私の拙い俳句を、彼女の達筆な字で色紙に揮毫してもらえないかとの思いはある。だが彼女が住む松山は多くの俳人を輩出し、私の俳句などは鼻糞みたいなもの。「色紙がもったいない」と笑われるに決まっている。 私にとって松山は第二の故郷。偶然だが小学校高学年から高校1年の春まで、松山で過ごしたのだ。彼女とは同学年。進学した高校は違っても、私が入学した高校の校歌は今でも良く覚えている。松山は父親がもらい火を受けて借金をこさえ、夜逃げした町。そして高校入学後1か月も経たないうちに急死し、私は故郷の仙台へ帰ったのだった。そんな話を先日恩師にもしたばかり。<初心に立ち返って> 「マックス爺の嫁取り奮戦記」などとふざけたタイトルで書き出したこのシリーズだが、ここらで真面目にならねばと反省した。そして出した結論が、初心に立ち返って自分の信仰と真剣に向き合うこと。もし挙げるとしたら結婚式はキリスト教の教会でしたい。それも日本基督教団に所属する教会。幸い近所にも小さな教会がある。 もし実現したら55年ぶりの教会での礼拝だ。先日私が夢想した結婚式も、実はそこでのものだった。だが牧師が私を迎え入れてくれるかどうか。これまでは信仰心もないままの人生。ただ旅行や歴史が好きな私は神社や仏閣に詣でた際も、心の中で「アーメン」と唱えていた。それは「然り」とも言うキリスト教の慣用語なのだが、それが私のキリスト教徒として務め。もちろん仏教や神道を否定するものではなく、その心情も理解している積りだ。 若さゆえに煙草を吸い酒も飲み、麻雀に狂った。そして熟年離婚。だがそれらを悔いたことは一度もなく、全てを受け入れて生きて来た。より良く生きることは、より良い死につながる。恥など恐れることはない。私の人生は神様が全てお見通し。そう思って教会の扉を叩こう。それが正直な今の気持ちだが、本当に叩き、全てをさらす勇気があるかどうか。間もなくそれが問われよう。 では皆様、明日中国から帰国します。長い間与太話にお付き合いいただき、ありがとうございました。では皆様再会を楽しみに。ではでは。 さて髪がこんな風に染まりました。もう少し黒くなるかも知れませんがとりあえずご挨拶代わりに、じっくりじっくり若返りますね、頭も心も。<完>
2020.01.13
コメント(4)
<50年前の娘たちは今(1)> 恩師宅から帰宅後、東京のI君に電話した。彼は大学時代の3年後輩で私が学生委員会の委員長だった時に、会計委員をしてもらった秀才。仙台の国税局から東京の国税庁へ転任、辞職後は税理士事務所を開いて活躍中だ。電話に出た彼に、昨年の台風時に水害はなかったか尋ねた。氾濫した川は、同じ市内でもかなり離れている由。何の用件か訝る彼に事情を話し、奥様に代わってもらった。 奥様も同じ大学の4年後輩。おもむろに用件を切り出した。私の声が若いことに驚く彼女。そこで手早く健康状態。趣味や生活の実態。妻との離婚後の暮らしと、離婚に至った経緯などを伝えた。妻も同じ大学の同窓。彼女は私が離婚し独り暮らしをしてることに驚き、今年の年賀状に「出来ることは何でもお手伝いしたい」と書かれていたのを思い出し、電話したのだ。 そこで私は最大の関心事である「嫁取り」について率直に語った。自らの宗教と終活の考え方。今後向かうべき人生と伴侶に求める条件などだ。当然経済状況も伝えた。畑での野菜作り、料理、ブログ、ジョギング、外国旅行などの趣味。最後に「もうしばらく女の人の裸も見てない」と言ったら笑った彼女。深刻ではないが、それは男としての実感でもあった。 家の中に女の人がいるのといないのとでは全然違う。化粧品やシャンプーの香りを含む。フェロモンの艶めき。それが加齢臭漂う男の脳を刺激し、元気を与えてくれる。残りの人生を元気に乗り切るためにも、良き伴侶が欲しい。旅行にも一緒に行きたいし、私が作った野菜や果物を食べて欲しい。そんな些細なことが無常の喜びであり、生きて行く上での力になると信じている。 彼女は私の話を真剣に聞き、理解してくれた。なぜそんなに聞き上手なのかと思ったら、民生委員をしていた由。今は独居老人から色んな悩み事を相談されるらしい。それで納得し、年賀状に優しい言葉を書いてくれた後輩に感謝した。私は彼女に尋ねた。彼女の同級生だったKさんとDさんの近況だ。Dさんは若くして結婚し、その後離婚したと聞いたと話す。 Kさんは空手部の主将と結婚して東京へ引っ越しし、現況は知らない。どちらも在学中、私に好意を持っていた娘たち。そう言うと彼女は「当時のAさんは大学の王子様だったんですよ」だって。彼女はDさんの離婚を知らず、同級生のKさんのことも忘れていた。無理はない。もう50年も前の話だもの。そのKさんが私の結婚祝いに編んでくれたセーターを妻が解いて毛糸玉にし、それさえも捨てたと話すとビックリしていた。当時からかなり嫉妬深かったのだ。だが妻の異常はそんな程度ではなかった。 しかしなぜ私が夜学の王子様だったのだろう。学生委員長だった当時、大学紛争では本当に苦労した。校舎は過激派学生に封鎖され、使用出来る教室は限られていた。試験はすべてレポート提出に変更。レポ-トは簡易書留で大学に郵送するのだが、私はその料金を大学負担とするよう交渉して勝ち取った。クリスマス礼拝ではパイプオルガン奏者のO教授の「譜めくり」をして目立ったのかも。 楽譜を読めたからではなく、O先生がめくるタイミングを合図してくれただけ。そんな役目も私がYMCAの部長だったため。卒業式では卒業生代表で挨拶し、学友会総会では演説もぶった。大学紛争時は職場も夜学も封鎖中で、夜学は学長派と反学長派に分れての泥試合。私は10kgもやせ、疲労のため病院に担ぎ込まれた。 だがI夫人から返事は来ないだろう。彼女の生活の基盤は東京で、私は仙台で暮らし、これからも仙台で暮らす予定。彼女の知り合いはもう仙台にはいないはず。それに私の結婚相手となれ対象年代は限られ、もし東京に該当者がいたとしても、寒い仙台には来たがらないはず。そしてそれは無理もない。便利で楽しい東京から、東北の田舎町へ喜んで嫁ぐ人なんて果たしているだろうか。 それでも私にとっては素晴らしい年末年始になった、友人、恩師、大学時代の後輩と本音で話せて気分転換になり、日ごろ不足しているコミュニケ―ションが図れた。5日には次男から電話があり、少し話せてとても嬉しかった。彼にも父親の気持ちが伝わったと信じたい。 さて、大阪のチコからの年賀状には、また色んなことを話したいねとあった。彼女とは高校生だった頃からの付き合いで同じ教会の聖歌隊に所属していた。大阪に転勤した際チコと梅田で会ったが、暫く探しても分からなかった。化粧し洋服を着ていたため彼女と気づかなかったのだ。セーター姿の高校生時代とは全く違った大人のチコ。彼女も私の離婚を知って心配してくれていた。 彼女からの年賀状には、孫が5人になったとあった。彼女に会うことはもうないだろう。彼女のお家の電話番号も知らない。それでもチコ、マキチャンと呼び合う仲。私たちが通っていた教会では、ニックネームで呼び合うのが習わし。どちらも名前の一部だ。あの青空市場の横のツタがからんだ石造りの小さな教会が懐かしい。もう50年前には戻れないが、毎年届く年賀状が変わらぬ友情の証だ。さて、今日もまだ大連を旅行中です。こちらの寒さで風邪引かないないようにしないとね。ではまた明日。<続く>
2020.01.12
コメント(3)
<絶世の美女> このシリーズは1月11日(土)から14日(火)までの中国大連ツアー中のブログとして用意したものです。内容は極めてプライベートで、しかも人権に関わる事項も含まれています。ですからここで見聞きことは決して口外しないでください。また興味本位のコメントにはお返事しませんのでご承知願います。では行って来ます。元気で旅が出来、無事帰宅出来ることを願っています。 ネットより借用(以下度同様) ある家の玄関に立ち、中から出て来た女性を見た私は雷に打たれた。これまでに出会ったことのない美女。だが同時に一種の危うさを秘めていることにも気づいた。さてこの人を妻にする方法はあるか。その日から私は全精神力を駆使して、そのことに集中した。不眠に陥って心身が衰え、鏡の中の自分を見て愕然。かなり消耗してるぞ。これじゃいけない、何とかしなくちゃ>自分。 女性がなぜ美人なのかは、その父親である友人が話してくれた。なるほど確かにねえ。楼蘭王国の王女やウクライナの美人たちは、みな東洋人と西洋人の混血なのだ。それが日本人の中にもあるのは、彼女の母親の出身県の地理的条件によるのだ。古代史が好きな私は、その地域が古代から渤海国の使者が度々来航したことも、また「鬼なまはげは異人説」があることも知っていた。昔から混血度が高かったのもそんな理由だろうか。 さて私が考えたのは、結婚式の在り方。ウエディングドレスでの記念撮影。近所への挨拶。両家の家族の顔合わせ。挨拶状。新居での準備。それは心を病んでいると言う彼女の心の安定とより健康的な暮らしを送るための提案をも含んだ。そして妻になる人やわが子への財産分与や、自分の葬式の在り方を含む終活に至るまで。だから疲れる訳だ。そして友人に言った「お嬢さんを嫁にもらいたい」と。 彼は薄々予感していたようだ。趣味の仲間である彼とは家も近く。何でも言い合える良い関係。だが「それは無理だと思うと一言」理由は、お嬢様の障害の程度が高いのと、年下の男性が好みと言うこと。話はそこで終わった。それに対する備えも考えもあった。私の愛は父親にも若い彼氏にも決して果たせないもので、十分な予備知識も、経済的な備えもあった。 私が考え抜いた具体策は書かない。また書く必要もない。それは私と私が信じる神が知ってさえいれば良いものだし。友人の意見を尊重するしかない。そして彼との友情は今後も続くはず。私に対する誤解が彼にあったようだが弁解はしない。ただ幾つかの捕捉説明はした。もうそれで十分。そして私はそこから一歩踏み出そうとした。<恩師の妹> 昨年の大晦日。高校時代の恩師宅を訪ねた時に不思議な体験をした。自転車を停めた後ろから1台の乗用車が急接近。何だろうと思って近づくと、上品な女性が運転席にいた。恩師の家に入ろうとしたら、その女性も後を追って来た。これは何かの間違いと思って「ここはH先生のお宅ですよね」と聞くとそうだと言う。何せ50年ぶりの訪問で家を間違ったのかと思ったのだ。だが「そうですよ」と彼女。 そして玄関に入るなり「お兄さんお客さん」と。叫んだ。「先生Aです」と私も叫んだ。用件は恩師宛の年賀状を届けること。昨年彼から届いた年賀状のゴム印が不鮮明で住所が判読出来ず、投函出来ないたため直接配達に行ったわけ。恩師に住所と電話番号を聞いて手帳にメモし年賀状を郵便受けに投函。帰り際私は恩師に余計なことを言った。「目下美女を娶(めと)る作戦を決行中」と。さっきの話だ。 それに驚いたのか恩師が言う。「あれが妹で独身。元の家をリフォームして1人で住んでる。ところでA遊びに来い」と。何やら風向きが変わった。その日はそれで退散した。だが何か変。恩師は高校時代のクラス担任で何度か人生相談をし、仲人も頼んだ。その用件で恩師の旧宅を訪ねた時、確か恩師の母上と奥様。そして妹さんにもお目にかかっていた。その50年前の記憶と全く違っていたのはなぜ。これは幻か。摩訶不思議な話だ 妹さんはお母さん似で美人とは言えなかった。中学卒で働き出したとも聞き、それ以来私には何の関係もない人との認識が強かった。さて、帰宅後恩師宅に電話し、訪問日の都合を確認した。その時電話を取り次いだのが彼女で、翌日訪問時間の最終確認時に出たのも彼女。それらの印象から何でもテキパキこなす美人と判断。50年前のイメージは全くない。何かおかしい。記憶が混乱してるのか、それとも私の脳が疲労してるのか。 翌日恩師宅を訪ねると、お茶の間に通された。私はお土産の山形の和菓子を差し上げた。炬燵に前歯が抜けたお婆さんが座っている。これは誰だろうと訝しんでいたら、恩師の奥さんだった。あの若くて美しかった奥様が気が抜けたラムネのような顔つきに。恩師の米寿の祝いの集いの時、奥様が認知症になったことは聞いた。私が認知症になった妻が家庭裁所に離婚調停を申し出、離婚したことを話した時だ。 私は恩師に「美女を娶る作戦のその後」を簡単に報告した。恩師の年賀状に、「あまり遊ぶな」と書かれていたからだ。先日私が言った「作戦名」だけが頭に残り、私の真意を疑ったのだろう。それで妻との離婚の経緯。恩師と出会った高校入学までの経緯と卒業後の体験。自分の宗教観、人生観、死生観、家族の状況、終活と人生の閉じ方などについて話した。恩師はとても驚いていた。 恩師も私に話した。同級生の消息、自分の両親と奥様の現状、妹さんのことなど。恩師からは妹さんが3人いると聞いていたが、実際は弟さんが3人で妹は1人。つまり50年前に見た妹さんが先日私が外で出会った本人だったのだ。これには魂消た。結局50年前に私が感じた印象は、「偽情報」からで、彼女は高校卒。それも前妻の後輩だった。卒業後ある企業に勤務し、総務畑一筋。最後は総務課長で退職とのこと。 妹さんは恩師の旧宅をリフォームして住まい、時々来宅する由。現役時代は結婚話を全部断り、今は高齢の兄夫婦を助け、ダンスに興じている由。それで全てが氷解した。段取りの良さ、立ち居振る舞い、適切で迅速な判断、所作の美しさなどは、全て実力でのし上がった女性管理職として歩んだことの反映だったのだろう。それにしても恩師がなぜ根掘り葉掘り私に色んなことを尋ねたのか。 最後に恩師は私の腹を見透かすように言った。「妹は結婚しないよ」。それはそうだろう。家もあり、経済的にも困っていない。潤沢な時間を趣味などに充て、爺を面倒見る義理などないのだ。彼女は一瞬のうちに私の力量を見切り、私も同様に彼女の本質と力量を見抜いていた。方や企業の女性管理職。方や研究機関の管理職で妻に逃げられた男。恩師が言う。「Aまた遊びに来い」私は挨拶して退散し、家路を急いだ。だが恩師が言うほど奥様はボケてもおらず、人間味もあった。<続く> ではこれから中国の大連へ出発でござる。では皆の衆もどうぞお元気で~!!
2020.01.11
コメント(3)
<珠玉の玉> 今日もまだ続いていますよ。良く見てね。 まるで百獣の王ライオンのような形の玉。 これは巨大な牛のような。それともガマガエルかなあ。 これは古代の牛乳石鹸かな。チーズではないよ。 まさに青丹(あおに)よしの瑞祥(ずいしょう=おめでたい兆し)ですね。 瑠璃(るり=仏教の七宝の一つで「金緑石」とも)か玻璃(ガラス)のような質感。 「瑠璃も玻璃も磨けば光る」の格言がありますね。 高貴な印章とそれに刻まれた篆書体(てんしょたい)の文字。 これは柘榴(ザクロ)かはたまた赤茄子(ピーマン)か。 ペルシャ産のラプリラズリ=貴石の一種で、宝石にも、砕いて高級な顔料にもする。 皇帝しか持つことが出来ない神秘に満ちた玉の色。 玉製のカップと玉。緑泥色とでも言いましょうか。 様々な玉と貴重な真珠を組み合わせた装飾品。 森のカエルじゃないですよ。ボクたち。 それにしても圧倒的な玉の威力と存在感でしたね。短い滞在の中で良くこれだけたくさんの財宝を撮ることが出来たことに感謝です。「玉」の紹介はこれで終わりますが、台北故宮博物館展示品の紹介はまだ続きますよ。<不定期に続く> 明朝、中国の大連に出かけ4日間留守にします。その間もブログは予約していますので、どうぞお見逃しなく。ただしコメントへの返事も、ブロ友さんへの訪問も出来ません。ではまた。
2020.01.10
コメント(14)
<玉は珠玉> いかがでしたか。玉の存在感と神秘性、芸術性に圧倒されましたね。<明日も続きます>
2020.01.09
コメント(8)
<玉(ぎょく)は珠玉> コレクション名です。古代中国から貴ばれた玉(ぎょく)の紹介をしばらく続けます。 説明はありません。と言うよりも出来ません。そしてどんな下手な説明よりも、ここに並んだ玉製品を眺めたら、素材及び彫刻技術の高さがお分かりいただけると思います。なおyorosiku!さんによれば、玉の彫刻に失敗した工人は首を刎(は)ねられたそうです。それだけ玉と言う石が特別で、失敗が許されない貴重なものだったことが分かりますね。 滑らかな光沢と乳白色の微妙な色合い。そして変幻自在で繊細な細工。やはり中国人が古代から玉の霊力を信じて来た理由が分かりそうな気がします。 まるで蝋細工のような透明感はどうでしょう。 玉の美しさを十分味わっていただけたでしょうか。<明日に続きます>
2020.01.08
コメント(12)
~波乱の予感~ 元旦の午後年賀状が届いた。1枚ずつしみじみと読む。ここ数年間消息が分からなかった人の動向が分かった。皮肉めいたコメントを書いて出した大学時代の級友からは反省を感じさせるコメント。彼らは前妻との離婚後に相談した私を軽んじ、無視していた。きっと私を除いて会合も持ったはず。その会合に私は呼ばれなかった。ほほう、そう来たか。と私は嫌味を書いたのだ。人間時には強く出ないとね。 今年の箱根駅伝は青学の総合優勝に終わった。私は心ここにあらざる状況でTVを観ていたため、途中経過がほとんど分からなかった。若干の波乱はあったのだろうが、やはり総合力に優る青学が最後は逃げ切り、大会新記録(?)での優勝。私はかつての勤務先である筑波大学を応援していたのだが、19位だったかに留まった。国立大学として唯一の出場だったが、やはり選手層が厚い私学には及ばなかった。 驚くべきニュースが幾つか飛び込んで来た。1つ目は保釈中だったカルロスゴーン氏の国外逃亡。トルコの航空会社が所有するプライベートジェットを使ったこと。複数あるフランスのパスポートを使ったこと、元米軍特殊部隊員が関与し、大型楽器を収容する箱に身を潜めてジェット機に詰め込んだことなどが判明している。トルコ政府は関係者5人を逮捕し、国際刑事警察機構がレバノン政府に対して「国際逮捕手配書」を送付し、同政府は受け取ったことを明らかに。 国際的経済人であるゴーン氏はレバノンでは英雄で、今回の逃避行を讃える国民がいる一方、同国上流社会ではびこっている「賄賂」を非難する声が強いのも事実。そのため同国の弁護士団がゴーン氏を告訴する運びもある由。ただしレバノン大統領は、ゴーン氏の日本への引き渡しには否定的とのことだが、ゴーン氏への事情聴取だけはやるみたいだ。 今回の国外逃亡で、14億円ほどの保釈金は没収される見込み。しかし近々始まる予定だった裁判は中止に追い込まれるだろう。また検察側の意見を軽視して保釈を許した東京地裁の責任や、厳格なパスポート保持を守らなかった弁護団の責任が問われるのは必至。来週にはレバノンでゴーン氏の記者会見が行われるが、日本の裁判制度を批判した同氏が、法を犯したことをどう弁明するのか。またレバノンでは政情不安が続き、不正を憎む国民がゴーン氏を暗殺する可能性もあると報じられている由。 米軍がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官、ムハンディス副長官らをヘリで急襲して殺害したことを発表、トランプ大統領はそれらは米軍に対する攻撃を防御するための措置で正当なものであることを表明。合わせて米国兵士の生命を守るため、近く中近東に3千人規模の兵士を送ることを表明した。また一般米国市民は速やかにイランから出国するよう要請した。 これに対してイランの最高指導者であるホメネイ師は必要な反撃措置を取ると直ちに表明、多くの国民は米国および米国人に対する復讐を声高に叫んでいる。ホルムズ海峡での日本のタンカーに対する攻撃も、サウジアラビアの精油基地へのドローンによる攻撃もイラク革命防衛隊の仕業と考えられていただけに、今回の米軍の攻撃は西側諸国には理解を得られるのではないか。トランプ大統領はもしイランが米軍および米国市民に危害を加えた場合は、直ちにイランにとって重要な52か所に攻撃を加える旨をツイートした。 今回の米国の強硬策に肝を冷やしたのはイランだけではないはず。それは交渉期限を昨年末と区切って脅していた北朝鮮もまた然り。不条理な抵抗には断固として戦う姿勢を示したトランプ大統領および米軍の俊敏な動きに。恐らくはビビったはず。そして米国国内ではトランプ氏への支持が高まり、来年の大統領選にも大きな影響を与えるのではないか。 写真は卑弥呼が魏の皇帝から100枚受け取ったとされる「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)だ。だがその説には異論もあり、これは日本で鋳造されたとか、100枚以上出土しているとか言うのがその代表的なもの。因みに三角縁とは鏡の縁の断面が三角形に見えること。「神獣」は文様が神仙思想の神々と不思議な形の獣の組み合わせであることからの命名だ。 ところがこの度来日した中国河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハンイヒン氏=曹操高陵を発掘)の鑑定により、九州国立博物館で保管中の「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」(きんぎんさくがんしゅりゅうてつきょう=上の写真)が魏の鏡とされる曹操高陵出土の鉄鏡の特徴とほぼ一致することが確認され、卑弥呼がもらった鏡である可能性が極めて高いことが判明した。 <これは鏡ではなくパイだよ~ん。> 問題の鏡が出土したのは大分県日田市日高町にあるダンワラ遺跡。昭和8年(1933年)九大本線の架線工事中に発掘したもので、2~3世紀に中国で制作され、6世紀ごろに副葬品として古墳に埋葬されたと推定される由。銅鏡や青銅鏡は多いが、鉄鏡の出土は日本国内では極めてレアケースで、「珠龍紋」も滅多にないと思われる。まさに歴史的な発見で、今後「邪馬台国論争」に一石を投じよう。
2020.01.07
コメント(6)
~今年も順調にスタートを~ 結局次男は帰省しなった。連絡がないため電話したら、今年は仕事のため大晦日は出勤の由。体に気を付けて頑張れよと言うと、「連絡が遅れてゴメン」と謝っていた彼。年末年始彼と一緒に飲むためのアルコール類、刺身などを買い揃え、彼の部屋のベッド、こたつ、石油ストーブなどの準備も済ませていたのだが、無用になり早速片付けた。 大晦日に高校時代の恩師の自宅を訪ねた。先生から届いた昨年の年賀状の住所のゴム印が不鮮明で番地が書けずにいた。だが家は分かっていたため、直接訪ねて先生に番地を聞いた。その時偶然出会った女性は先生の妹さんだった由。別な方は知っていたが、初めて見た妹さんだった。恩師に目下立案中の作戦があることを話すと、たまには家に来いとのこと。そのうちひょっこり訪ねて行こうか。 注文していた「おせち料理」が30日に届いた。配達してくれた運転手さんに「届くのは大晦日で、冷凍ではなく「生」のはず」と言うと、内容は聞いてないので、早く受け取ってもらわないとその後の配達に支障があると言われ、仕方なく受け取って署名。最悪翌日にもう1個届く可能性もあってビックリ。 次男が来なくなったため、大晦日の夕刻には2個の重箱を開けて、食べたい料理を皿に盛った。大晦日恒例のKIを見ながら、日本酒でご馳走をぱくつく。深夜「往く年来る年」を布団の中で見ながら新年を迎えた。前日同様たった一人で新年を祝う。海老を解凍して焼き、餡子餅、お雑煮餅を1個ずついただく。どちらも年末に準備して2つの鍋に入れ、元旦は温めるだけで済んだ。 これまでで一番高かった料理はさすがに良い味だった。まあ自分では作れないので、注文して正解。正月はこの残り物で凌ぎ、あとは刺身や焼き魚があれば十分だ。片付けしている間に年賀状が郵便受けに届いた。枚数はちょうど私が出したのと同じくらい。きっと受け取った人が、慌てて私宛に書いたのだろう。 元日から暖かく良い天気。「ニューイヤー駅伝」を見ているうち、これなら走れるかも知れない。そう判断してランニングスタイルに着替え。飲み物のペットボトルを買って帰る途中、裏のSさんがこれから走るんですかと聞くので、暖かいからきっと大丈夫でしょう。そう答えて9kmコースに飛び出した。これが今年のランニングはじめ。やはり体調は良く、ゆっくりと最後まで走れた。これは幸先良いスタートになった。今年も頼んだよ。俺の体。そして俺の両足よ。帰宅途中に近所のKさん、Hさんと遭遇して新年の挨拶を交わす。
2020.01.06
コメント(10)
清朝の芸術及び玉の美 清(大清帝国)は1616年に満州族の愛新覚羅氏が建国した中国最後の統一王朝で、最初の首都は盛京(瀋陽)で後に北京に移った。 長頸型の花瓶。 ここからは故宮博物館が所蔵する玉の名品を紹介します。玉は中国人にとっては聖なる存在で、古代から玉に対する強い憧れを持っていました。 玉製の「白菜」(国宝指定)緑と白の組み合わせが絶妙ですねえ。原石の素晴らしさを繊細な細工でさらに高めています。 国宝の「白菜」をかじっている精巧な蝗(イナゴ) これも色彩と形状がそっくりな肉形石(国宝指定)。沖縄の豚肉料理「ラフティ」とそっくりですね。 玉のうちこのような形のものを璧(へき)と呼びます。つまり完璧(かんぺき)の璧。完全な形の玉と言う訳です。 これも璧形の玉器。 サメ肌の玉器。天然のザラザラ感が絶妙です。 珊瑚のような玉の首飾り 石器に似せた玉の破片もあるねえ。 こちらも玉の残決だが、中には勾玉様の玉器も混じっている。<続く>
2020.01.05
コメント(8)
771年の洛邑遷都以前を西周と呼び、それ以降を東周と呼ぶ古代中国の王朝。東周からは政情が不安定となり春秋戦国時代に突入する。 <鏡A>こちら側は裏面で、複雑な文様が刻まれ、中央部の穴に黄色の紐(ちゅう=ひも)が通されて、持ちやすくしてある。この裏が表側で金属の表面をツルツルに磨き、鏡の役割を果たすよう細工されている、 鏡の名が記された見出しだが、「字が小さくて読めない」。〇ズキルーペが必要なようだ。 金の龍。架空の動物である龍は権力の象徴として、皇帝以外の使用を許されなかった。 隋(581-618)は漢民族が西周を滅亡させて統一した古代国家で首都は大興城。 唐(618-907)は李淵が隋を倒して建国。首都は長安で、中央アジア、東南アジア、朝鮮半島までを支配し、日本も遣唐使船を送るなどして朝貢した古代の巨大国家。 <鏡B>西周時代の<鏡A>に全体の形がとても良く似てますねえ。 唐三彩の釉薬をかけて焼かれた馬。これは国宝クラスの逸品でしょう。 宋(960-1279)は日本の平安期、鎌倉期に存在した国家。趙匡胤が後周から禅譲を受けて建国。後に金に華北を奪われ北宋と南宋に分離。首都は開封(961-1129)、南京(1129-1138)、杭州(1138ー1276)日本との間で日宋貿易が行われ、宋銭(北宋南宋の貨幣30種以上ある)は日本国内でもかなり後の時代まで通用した。のみならずベトナムやアフリカまでは主に船で、ペルシャへは陸路シルクローで伝わり、それらの国内でも流通していた。 宋時代の絵画。これは南画と呼ばれる画法だろうか。 南宋の白磁の小皿。「ひび割れ」もまた美なのだ。 北宋の白磁の急須。<続く>
2020.01.04
コメント(10)
~師走はとっても忙しい~ 12月末のある日。朝から小雨模様で、冷えると思ったら霙(みぞれ)が降っていた。傘を差してKさん宅へ、可愛いデザインのカレンダーとタオルを入手したので、彼のお嬢様用にと思ったのだが、彼宅にも同じものが届いていたようだった。ひとしきり昔話をして帰宅。 その霙の中を自転車でHCへ。買ったのは台所のシンクの排水口に置くこの籠。名前は知らないが、これにネットを張って野菜などのゴミを収容する器具。これまでの銅製のものが古び、底が壊れていた。今度も金属製だが、ぬめりが着き難い感じ。早速水切り用の袋(?)を被せて、排水溝の底に沈めた。 ずらりと並んだ3本の包丁。一番上の出刃は前日同じHCで買った。これまでの小さなものが脂がギトついて切れなくなっていた。また小さ過ぎてカボチャなどを切るのに苦戦していた。下の2本は別の店先でやっていた「包丁研ぎ」に出した。1本500円で次回100引きの割引券を2枚もらった。これで気持ち良く料理が出来そうで嬉しい。 包丁が研ぎ終わるまで時間があったため、花屋でお正月用の花を購入。帰宅後早速クリスタルグラスの花器に活け、玄関の下駄箱の上に飾った。葉牡丹、千両、水仙の組み合わせ。白い壁紙に映えてなかなかエレガント。次男が帰省したらきっと驚くかも。 帰路、コンビニに寄って週刊誌を買った。新聞の広告に「死後の手続き2020年版」の特集があるのを観て、これは一見の余地ありと判断。これから何が起きるか分からない。頭がまだ動くうちに、今後のために必要な情報を収集しておかねば。 これもHCで買ったものの一つ。リンスタイプの白髪染めだ。先日鏡を見たら、その中に冴えない表情の男が写った。ああこれが今の俺か。これではいけない。気持ちを奮い立たせるためにも、白い頭に少し色でも付けて見るか。これまでは全くの自然体。それが初めて白髪染めに挑戦しようと思ったのは、あることがきっかけだった。ゆっくり染まるようだが、これで気分が若返るなら安い物。 先日購入したソーラーの照明灯(左)を針金で縛って固定した。今度のは黄色の照明が夜空にくっきり映る。向かい側の白色(右)のは設置してかなりの年数が経つがまだ点灯している。2基の照明で、かなり階段が見やすくなった。緑内障で視野狭窄がある私には、危険防止として助かり。滅多にはない夜間の来宅者の足元も照らし安全に階段を登れるはずだ。 先日は今年最後の掃除機かけ。大汗をかきながら物を移動させて、久しぶりの大掃除。トイレの便器も掃除し、トイレットペーパーとティッシュペーパーを補充。次男の部屋のベッドとコタツを整え、石油ストーブの石油を補充。それやこれやですっかり草臥れた。そして大晦日は玄関ドアに正月飾りを吊るし、恩師宅の郵便受けに年賀状を投函する予定。住所のゴム印が薄くて、正確な住所が不明で困っていたのだが、恩師の家は知っている。そのため自らが一日郵便局員になろうと思う。これで完了のはずだが、まだ何か残っているかな。何せ最近の私はチョンボが多いものでねえ。
2020.01.03
コメント(10)
<絵画編> 昨年6月下旬から7月上旬にかけて旅した台湾の旅行記については「私が見た台湾」として全26回のシリーズを掲載して来ました。今回のシリーズはその際紹介しなかった、台北にある国立故宮博物館の美術品をジャンルごとに紹介しようとする試みです。最初の今回は絵画を中心に紹介しますね。では始まります。 ここは故宮博物館の裏側(北側)で、私たちは地下の入り口から入館しましたとても広い博物館で、展示物は原則として自由に撮影することが出来ます。ここで懸命に撮ったお陰でデジカメがバッテリー切れしてしまい。この後に行った九份の夜景が撮れなかったと言う苦い思い出があります。 裏口から入って直ぐの階段下にあるのが孫文(1866-1925)の座像です。孫文は政治家、革命家で中華民国の初代臨時大統領。号は「中山」。台湾では「中山先生と呼ばれ、「国父」として国民から今も慕われている。「三民主義」を唱えたことでも有名。大衆を愛した人であった。 孫文の座像下部にあるレリーフ。国民をこよなく愛した孫文の姿が刻まれている。 隋唐時代の絵画。この時代日本から遣隋使船、遣唐使船が向かい、長安の都で皇帝に謁見しすると共に、先進文化や仏教を学びました。皇帝の信頼が厚かった阿倍仲麻呂はそのまま残り、皇帝に仕え日本へは帰国しませんでした。彼が故国を偲んで詠んだ あまのはらふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かもの歌はあまりにも有名ですよね。 明(みん)は「元」の後1366-1644に成立した国家。安徽(あんき)省の貧農の末子として生まれた朱元璋(しゅげんしょう)が建国した。 明代の絵画2点です。 元は1271-1635に成立したモンゴル人によって建国された。騎馬民族であるモンゴル人は東アジアからヨーロッパにまたがる広大な領土を持った。元はモンゴル人の子孫であるボルギジンが建国。始祖「世祖」と呼ばれ、鎌倉時代高句麗軍と共に日本と戦ったいわゆる2度の「元寇」の主だ。 世祖の皇后の肖像 これは美術品ではござらぬ。故宮博物館のトイレで撮った爺の顔じゃよ。こりゃ失礼しました。ではこれからもどうぞお楽しみに。明日からはどんな作品が飛び出すやら。ではの諸君。<続く> お口直しにこんな絵はどうじゃ。これは絹の布に描かれた蓮の花みたいじゃなあ。いわゆる帛画(はくが)じゃよ。ふぉおっふぉ。
2020.01.02
コメント(8)
昨年は大変お世話になりました。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。年頭にあたりこの1年、読者のみなさまおよびブログ友の皆さまには健やかで実り多い年となりますよう心からお祈り申し上げます。 マックス爺
2020.01.01
コメント(12)
全32件 (32件中 1-32件目)
1