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晦日(みそか)とは月末のこと。元々は三十日(みそか)から来てるのだろう。別な言い方では晦(つごもり)と言うのがある。これは月が隠れる「月こもり」から来てる由。陰暦の下旬を表わすことから、月の最終日の意味も持つようだ。そして1年の最終日が大晦日(おおみそか)。樋口一葉の小説には確か「大つごもり」と言うのがあったはず。 昨夜も深夜まで読書。「楽毅」の第3巻を読み終え、最終の第4巻まで入った。今朝は遅めの起床だったが、妻はまだ寝ていた。昨夜雨が降ったことは音で分かった。だが、起きてみたら雪も降ったようで、早朝の寒さで道路がすっかり凍っていた。大晦日の朝も普段と変わらず、愛犬との散歩で始まる。 朝食後の仕事は風呂の掃除。時々掃除をしてるため、さほど汚れてはいない。ついでに洗面所の鏡も拭いた。そしてその後は今年最後の買い物。近所のスーパーでミカンなどを買ったが、何とミカンの箱が半分に切られていた。チラシを良く見なかった方が悪いのだが、妻に言わせるとそれでも安いのだとか。 その後は昼食を挟んで、ひたすら読書三昧。走る気になれば走れたほど天気は良かった。でも読書だって悪くはない。運動しなかった分、食事に気をつければ良いだけの話。夕方になる前に愛犬との2度目の散歩。これでもう今年の運動は全て終了。ランニング日記に今日歩いた距離を書きとめ、月の合計と年の合計、そしてこれまでの累計を記す。2011年のノートにもその累計を転記した。 ささやかな夕食の後9時過ぎから格闘技を観、最後は「行く年来る年」で新年を迎える予定。今年も後わずか。健康で大晦日を迎えられたことを感謝したい。そして最後の最後までこのブログを訪れて下さった読者の皆様にも感謝申し上げると共に、皆さまにとって来年も良い年になることを心から願っている。今年一年、本当にお世話になりました。< 今年のラン&ウォーク > 月 (ラン) (ウォーク) (合計) 1月 276km 118km 394km 2月 143km 130km 273km 3月 233km 147km 380km 4月 152km 161km 313km 5月 243km 174km 417km 6月 228km 165km 393km 7月 334km 174km 508km 8月 360km 169km 529km 9月 256km 156km 412km10月 124km 219km 343km11月 240km 138km 378km12月 168km 138km 306kmーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー合計 2657km1989km4646km累計74,678km
2010.12.31
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昨日は北風が強かった。その風に乗って運ばれて来た風花。年末の雪はこの冬の厳しさを予感させる。午後は生協の配達物を取りに行き、その後は玄関周りの掃除をした。夜は愛犬を玄関に入れるため、どうしても汚れてしまう。妻はそのことが気になるようだ。 その妻が四国に住む孫へ、郵便でお年玉を送った。クリスマスには3人の子供それぞれに心ばかりのプレゼントを贈ったようだ。一方、私の方は暇をみて読書に励んでいる。昨夜も11時まで読書し、「楽毅」の第2巻まで読み終えた。 今朝の起床は6時半。風は止み、青空が広がっていた。それを待ちかねていたのか、朝食後妻は大掃除を始め出した。私は布団を干し、照明器具や普段はやらない高所の掃除に取り組んだ。床の間には生け花と鏡餅。そして和室の花瓶にはサザンカの枝。それらは妻の仕事。 私は来年のカレンダーを準備し、主な行事を書き入れた。それは居間用のもの。自室用として買った名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画カレンダーを切り取り、額の中に入れて飾った。カレンダーとしてではなく、美術品として鑑賞するためだ。既に飾ったものと合わせ、3枚の版画はいかにも堂々として見応えがある。 玄関前に注連飾りを吊るす。これで凡そ新年を迎える装いが完成。午後から雲行きが怪しくなり、雪交じりの雨が降り出した。この年末、西日本は荒れ模様で、九州の平野部でもかなりの雪が降るとか。東北ではこれから発達した低気圧の影響を受けるようだ。愛犬を芝生からガレージに移動し、妻と買い物に出かけた。 さすがは年末。スーパーは大勢の買い物客で賑わっていた。買ったのは、かまぼこ、刺身、切り餅、生ソバなどの食料品がほとんど。年末から新年にかけて食べるものばかり。その間、私は極力暴飲暴食は避けようと考えている。それは天候と相まって、十分走れないと予想してのことだ。あまり体力を使わないのに必要以上のカロリーを摂れば、どうなるかは自明の理だ。 「何か食べたいものある?」と聞かれても、「家にあるもので良い」と答えた。唯一注文したのがクジラの刺身。それもそれほど上等なものではないやつだ。リュックに荷物を詰め、私だけ先に帰ったが、その後で妻が何を買ったのかは知らない。ともあれ、今年残されたのは明日1日だけとなった。 年末には身辺を清め、装うことで新しく年神様を迎える。信仰深い私達の祖先はきっとそう考えて来たのだろう。信仰心が薄れた現代、「新年の神」が各家庭を訪れるなどと信じる人はもういないだろうが、清々しい気持ちで新年を迎えたいとの願いは変わらないはず。同様に、来るべき年が、健康で幸いに満ち溢れた年になることを願う心も。
2010.12.30
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アースマラソン中の寛平ちゃんが一昨日の12月27日(月)、ついに青島に到着した。フランスのルアーブルを出発して493日目のこと。ユーラシア大陸を横断した今回の距離は、14669.5kmに達したようだ。そして通過した国は全部で16カ国だったとか。 フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、チェコ、スロバキア、ハンガリー、セルビア、ブルガリア、トルコ、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、そして中国だ。 この間、トルコでは零下18度の極寒の中を走り、トルクメニスタンでは54度の猛暑の中をひたすら走り抜いた。そしてトルコ横断中に前立腺がんが見つかり、急遽アメリカに渡って治療を受けるという危機もあった。彼は持ち前の明るさで乗り切ったが、誰にでも出来ることではない。 大晦日の31日か来年の元旦には青島港をヨットで出発、一路福岡港に向かうようだ。後もう少しで故郷に帰国出来、マラソンとヨットでの世界一周を達成する。前人未到の快挙だ。もう誰もお笑いの一芸人とは思わないだろう。偉大なるアスリートの誕生だ。それでも彼は人を笑わせるはず。厳しい冬の海を乗り切り、無事大阪まで帰って欲しいものだ。 話は変わって、ずっと読み続けていた宮城谷昌光著の「晏子」全4巻を読了し、今度は「楽毅」全4巻を購入した。彼は中国の戦国時代の小国、中山国の宰相の嫡子として生まれた賢人。早速第1巻を読み終えたが、なかなか読みごたえがある本だ。年末年始の休暇中は極力テレビは観ずに読書に勤しみたいと思っている。 さて、妻から年末の仕事を幾つか仰せつかった。妻の場合仕事を休めるのは大みそかと元旦のみ。現役のホームヘルパーとして多忙を極めているため、家事を手伝うのは当然のことだろう。昨日までに終えたのはベランダの掃除、絨毯の拭き掃除、下水の掃除、自室の掃除、そして畑の大根を土に埋める仕事。それに加え、今日は2階の窓ガラスとサッシの拭き掃除をし、玄関とガレージを掃いた。明日は正月用品の買い物に同行する予定。 この間に、内科と歯科へ行った。いずれも今年最後の診察を受け、薬局で血圧降下剤をもらって来た。これで何の憂いもないはず。昨日は来年5月のレースのエントリー料金を振り込んだ。前日に妻の許可を得たため、少し早めだが申し込んでみた。距離は114kmで、連休中に走るのは初めてのこと。寛平ちゃんに比べればあまりにも小じんまり過ぎるが、私にとってはそれでも十分な冒険になるはずだ。
2010.12.29
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先日の日曜日。高校生の駅伝大会が年末の京都でありました。女子は岡山の興譲館高校が5年ぶり2度目の優勝で、男子が鹿児島実業がトラック勝負で逆転優勝でした。いずれも手に汗を握る熱戦でしたね。宮城県代表の仙台育英は、女子が3位で男子が4位といずれも上位入賞。これが両方とも1、2年生が主体だったようで、来年の活躍が楽しみになりました。 女子フィギュアスケートの浅田真央選手、頑張りましたね。全日本フィギュアで堂々の2位。これで来年東京で開催される世界選手権への出場資格をゲットしたようです。今シーズンはコーチが変わって練習内容を変え、これまでの大会では散々な結果に終わってました。一体どうした?と全国のファンが心配していたと思います。それなのに、最後のチャンスで2位に食い込んだのはさすがです。優勝の安藤美姫、3位の村上佳奈子も立派でした。 同じく日曜日には、亀田3兄弟の試合がありました。3男の和毅はタイの選手を相手に3回KO勝ち。次男のWBAフライ級世界チャンピオンの大毅は、同級世界第14位のルーマニアの選手を下して2度目の防衛。そして長男の興毅はベネズエラの選手とWBAバンタム級世界チャンピオン戦を戦い、見事王座を獲得。これでライトフライ、フライに次いで3階級を制覇し、日本人初の偉業を達成しました。悪ガキ3兄弟が何とか汚名返上を果たしたように思いますが、どうでしょうか。 政界では小沢前民主党幹事長がようやく「政治倫理審査会」への出席を決めたとか。野党にはこのことで散々突かれ、党内では分裂模様の中で、最後の最後になってシブシブ決断となったようです。でもそれだけでは終わりそうもない気配ですね。菅総理も頑張るのは当然のことだし、もっと早く決着しないとこれだけ泥沼化してからでは遅過ぎですよね。大きな「喝!」を入れておきましょう。 私も1年間何とか頑張りました。今日で仕事は終わり。明日から年末年始の休暇に入ります。今の会社で働くようになってから8年目になりますが、これまでに一度も病気で休んだことがないんです。その間に今年も含め警備員論文では3度入賞し、安全標語で2度入賞しています。仕事上のミスもなく、無事年末を迎えられて幸いでした。 もう一つ重要なのが来年の出場予定のレースを妻に許可してもらったことです。レースに出るためトレーニングするのは当然のこと。レースに出るため調整して休暇をもらうのも当然のこと。そしてレース出場に必要な経費も自分で工面するのも我が家のルール。そして最後の「関門」が妻の許可なんですよね。レースで気持ち良く走るためには、やはり何と言っても家族の協力と理解が必要です。それが家庭円満の秘訣でしょうか。
2010.12.28
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< ランニング編の2:レース > 今年出場したレースは8回。そのうちフルが3回でウルトラが5回でした。数は少なくても充実していたと自分では思ってるのですがどうでしょう。9月の「秋田内陸」は微妙ですが、参加レースを全て完走出来たのも自分にとっては大きな喜びでした。 1月:「勝田マラソン」フル 4時間25分13秒 男子総合4180位当日の早朝にJRの普通列車を乗り継いでの参加でした。今回で5回目で、かつては2月の建国記念日に開催されていました。今回は名物の強い風に悩まされるれることもなく、楽に走れた気がします。完走賞は「完走芋」。ここは干しイモの名産地なんですよ。帰路はJRの車内で大懇親会で盛り上がりました。 2月:「いわきサンシャインマラソン」フル 4時間29分38秒 60代男子83位今回が記念すべき第1回大会でした。走友会のM仙人の車に便乗して参加。コースの途中に結構厳しい坂があって苦しみましたが、海岸を走るなど変化があって楽しめます。沿道には雪が残ってましたね。温泉への入浴券をもらい、ゴール後に訪れたのですがどこも満員で入れなかったのが残念でした。 3月:「伊豆大島ウルトラランニング」100km 13時間36分25秒 男子61位伊豆大島へ向かう桟橋で、走友のT田さんが私を待ち構えていたのにはビックリ。黙ってエントリーし、私を脅かそうと思っていたようです。コースは三原山の中腹に登るなど厳しいもの。途中には「裏砂漠」やキョンを生け捕る「わな」がありました。4つ目と5つ目の関門を制限の12分前に通過し、最後は真っ暗な中でのゴールでした。中国人経営の奇妙なホテルには参りました。 5月:「仙台鉄人会10時間走」 75km 総合3位会場は仙台の台原森林公園。1周3kmのコースを周回するレースです。これが厳しいアップダウンのコースで、1周について約60mの高低差があります。結局私は25周しましたが、単純計算で標高1500mの山を上り下りしたことになります。料金も安く、当日参加も可能で、とても家庭的な雰囲気の大会です。 6月:「いわて銀河ウルトラ」100km 13時間23分24秒 男子261位前半に標高500mを越える峠があり、冷たく暗い3つのトンネルがランナーを悩ませます。中間地点は50kmの部との兼ね合いで66km過ぎにあり、これも精神的にきつい感じがします。今年は気温が高く、リタイヤしたランナーが多かったようです。私は今回で4回完走。後1回完走すれば、自分の希望する「永久ナンバー」がもらえるので楽しみです。 7月:「磐梯高原ウルトラ」100km 13時間30分57秒 総合87位毎回コースが変わるのがこの大会の特徴。今回は磐梯山を廻らず、猪苗代湖を1周半走るものでした。従って最後の17kmは同じ個所を3度通ることになります。おまけにスタッフのミスで全選手がコースアウトし、4km以上余分に走らされました。暑さもあってリタイヤしたランナーが多かったようです。来年は猪苗代湖1周の途中から、標高1000m以上の布引高原を往復するため、今回よりさらに厳しくなります。 9月:「秋田内陸ウルトラ」100km 13時間00分30秒 タイムアウトで記録なし制限時間が13時間と厳しいレースに、5年ぶりに参加しました。66歳以上の完走者には「チャレンジ賞」が授賞されるため頑張ったのですが、ゴール目前で4つの信号が全て赤で待たされ、わずかの差で完走が認められずリタイヤ扱いでした。夏の「峠越え」の猛練習も役に立たなかったようで、ちょっぴり残念です。 12月「NAHAマラソン」フル 4時間50分25秒 4622位参加者数が2万5千人規模のビッグレースです。私は今回レースの前日に知念半島一周しました。沖縄本島一周達成のためです。レース当日は曇りで走り易く、ゆっくり走ったため、前日のマラニックの影響をさほど受けずに完走出来ました。今回で10回目の完走を、宮城UMCの仲間達が祝ってくれたのがとても嬉しかったです。
2010.12.27
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< ランニング編の1:マラニック > マラニックとはマラソンとピクニックの合成語。つまりピクニック気分で長い距離を走る練習みたいなもので、レースとは違います。そんなマラニックを今年はかなり多く走りました。 4月下旬「秋保夢舞いマラニック」:仙台明走会主催のもので距離は31km。私は初めての参加でした。スタート及びゴール地点は仙台郊外秋保温泉のさるホテル。折り返し地点は秋保大滝です。走友会の仲間はスタート地点まで走っての参加でしたが、軟弱な私はバスで。初めて通った秋保の裏道が新鮮でした。 5月下旬「エンジョグinみちのく」:走友会のDさん夫妻などが主催で、今年は多賀城から奥松島の野蒜方面まで34kmのコースを走りました。毎年景色の良いコース、歴史的なコースなど趣向をこらして選んでいます。関東などからのお客様も多いんですよ。今年は資金不足で懇親会を欠席したのが残念でした。 8月初旬「薬莱山とお足マラニック」:宮城UMC主催の合同練習会で、走る距離は各走友会で違います。ゴールは薬莱山の薬師の湯。そこへ12時までに着くのがルールです。我が走友会では深夜の3時ちょうどに仙台市体育館をスタート。距離は55kmになります。途中から自分のペースでゴールを目指し、ゴール後は温泉に入って大懇親会。毎年40人以上の仲間が参加しています。 8月下旬「笹谷峠越え」:9月の「秋田内陸」100kmを意識し、初めて挑戦してみました。仙台の自宅から国道286号線を西に向かい、峠を越えてJR山形駅前までの60kmを走りました。なかなか素晴らしい眺めで、笹谷峠では江戸時代の旧道を散策。「有耶無耶の関所跡」などを探訪したため63kmになりました。山形の峠の茶屋でご馳走になったスイカが美味しかったこと。 8月下旬「蔵王エコーライン越え」:笹谷峠越えの1週間後に挑戦。ゴールは山形の蔵王温泉で距離は74km。途中標高350mほどの鈴蘭峠と、標高1600m近い蔵王エコーラインを登ります。そこから山形県上山市まで下った後再び900mほど登り、15時間10分かかってのゴールでした。厳しい暑さの中でのロング走。最終バスに間に合って良かったです。 9月中旬「二口峠越え」:自宅から山形県の山寺までの53kmです。二口峠の宮城県側では道路工事中でした。ゲートがあって車は通れず、道は荒れ放題の草ボウボウ状態です。山形県側では2か所で土砂崩れ。ゲートが4か所あって、それを乗り越えるのも一苦労です。そこで体長5cmほどのヤマネに遭いました。リスの仲間のようです。最後は雨に降られた冒険の旅でした。なおこのルートは数年後の開通を目指して、今後も工事を続けると聞きました。 12月初旬「沖縄知念半島一周」:沖縄本島一周の一環としてNAHAマラソンの前日に実施。風光明媚で歴史的な遺産が多いこのコースを走れて本当に幸せでした。途中世界文化遺産の「斉場御嶽」(せいふぁうたき)にも寄りました。民家でシークワーサー(沖縄産の小さなミカン)を戴いたのも良い思い出です。これで一昨年の西海岸140km、昨年の東海岸150kmと合わせて322kmを走破。残るは本部半島の50kmだけとなりました。 この他にも30kmから42kmの練習を3回走っています。今年は猛暑でしたが、それだけ晴れた日が多く、峠越えと言う冒険が実施し易かったと考えています。来年も峠越えを含むマラニックを楽しみたいものです。
2010.12.26
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23日の天皇誕生日から書き始めた年賀状。前職を辞してから8年目、もう仕事上義理で出す必要もほとんどなくなった。毎年出す人を厳選し、今年も書きながら減らすことにした。今では「最盛期」の半分ほど。それだけ書くのが楽になったと感じる。 24日は勤務後走って帰宅した。そして昼食後は再び年賀状書き。25日までに投函すると、元旦の午前中の配達が保証されているためだ。一方妻の方は、年末の大掃除が気がかりのようだ。だからヒーターを点けて居間のテーブルで年賀状を書いてると、掃除の邪魔になるらしく、夕方までで止めることにした。 それから日課のブログを書く。昨日はブログのことをテーマにした。この1年、新たに出会ったブログも幾つかある。その反面訪れなくなったブログもないことはない。単なる趣味に留まらず、その人の人生が見えて来るようなブログに私は惹かれるし、向上心を感じるものはなおさらだ。素晴らしいブログと出会えるのはとても嬉しいことだ。 昨日はクリスマスイブ。何とかブログを仕上げた頃、妻が夕食が出来たと私を呼んだ。さほど期待はしてなかった。いつもの夕食でも十分だと思っていたのだが、テーブルの上には心づくしの料理が並んでいた。メインは久しぶりの手巻き寿司。そして小さいけど鶏のから揚げもあった。残り物のワインで乾杯し、ささやかなイブを祝う。ケーキは昼に食べたので十分だった。 外では雪が降り出していた。暖冬傾向の今年は久しぶりの雪。文字通りのホワイトクリスマスになった。夕食後は食器を洗って自室に戻り、ひたすら本を読んだ。この日買った「晏子」の第3巻だ。結局入浴後も読み続け、12時前にようやく閉じた。それだけ面白い本に出会った訳だ。今朝は真っ白な世界。雪の中を愛犬と散歩。 年賀状を書き終えたのは9時半。最寄りのポストに郵便局の人が収集に来るのは10時なので、何とか間に合って良かった。それからバスに乗って買い物。今日こそ念願のランニングシューズを買おう。ただし、安くて良いものがあればの話。2つの店を見比べてから現金を下ろして購入。 少しだけ型が古くなったものが7千円弱で買えたのが嬉しい。これは1年間頑張った自分へのささやかなご褒美の積り。取り敢えず今レース用に履いているのと合わせて、来年の秋までは何とか持つと思う。ただ、次のシリーズは底がこれまでより堅そうなのが心配だ。長い距離を走るウルトラマラソンは、それだけシューズによる影響が大きい。 午後からも読書。そして愛犬の散歩を兼ねた買い物へ。これは妻に頼まれたもの。この他にも年末の仕事として、2階の窓ガラスの掃除と自室の片づけ、下水の点検を頼まれた。さらに30日には正月用品の買い物に付き合う。妻の年賀状は30枚だけだが、まだ書いてないようだ。夕刻に「晏子」第3巻を読了。今夜はいよいよ最終の第4巻に取り掛かる。果たしてどんな結末になるのか。いずれにしても中国史の悠久さには底知れないものがある。
2010.12.25
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< ブログ編 > 私のブログ「マックス爺のエッセイ風日記」を開設して3年半になる。この間の来訪件数は14万件を超えた。1日平均だと111件らしい。これもマラソン仲間やブログ仲間が観に来てくれたお陰で、心から感謝申し上げたい。 私のブログの記載率は97.3%だそうだ。1年365日のうち、355日は日記を書いたことになる。でも、実際はもっと高率のはず。楽天ブログの場合、早朝に書くと前日分として掲載されるからだ。また、後日になって以前の日記を訂正したりすると、訂正した日付に替わり、記載率が下がる。細かいようだが、出来ればシステムを修正して欲しいものだ。因みに、記載率100%の方が居られることを知っているが、毎日日記を書き続ける苦労は並大抵のものではない。 私も出来る限り毎日日記を書くことを目指しており、今年も色んなことを書いた。多分最も多かったテーマは趣味に関すること。中でもランニングが一番だろう。園芸や家庭菜園の話も良く書いた。そして歴史の話も結構多かったかも知れない。その他、仕事の話やスポーツの話。そして最新のニュースの中で、興味を抱いたものも取り上げた。 だが何か書けるうちは良いのだが、書けなくなるとどうしようもない。書こうと思うテーマを日頃から幾つかメモしておいているが、それでもネタに困ることがある。さて、そんな時ブログ仲間はどうやって乗り切っているのだろう。写真が趣味の人なら写真を載せればスペースは塞げる。でも、私のように文章が主な場合は誤魔化しようがなくなる。そんな時は辛い思いをすることになる。 今年も何人かのブログが閉じられた。中には40万件以上ヒットの人気ブログもあった。病気になったり、不幸にして亡くなられた方もいたと思う。だが、ブログを書けなくなって放置した方もいるように感じた。宿命と言えなくもないが、やはり悲しい。まあ無理して続けるよりは良いのかも知れないが。 無理だと思ったら、少しお休みするのも良いのかも知れない。だが、私の場合はまだ何とか毎日書こうと言う気持ちが残っている。きっと「文章中毒」、「ブログ中毒」なのだろう。まあそれだけ打ち込めるものがあるのは幸せなのかも知れない。毎日書こうとすると、つい余計なことまで書いてしまいかねない。例えばプライベートなことなどがそうだ。これも迷惑をかけない範囲で、人間の多様さを紹介したいと自分では思っているのだが。 文章を書く上で困るのはテーマだけではない。歳を取ると字を忘れたり、表現を忘れたり、物の名前が浮かんで来なかったりすることがある。特に人の名前を忘れることが多くなった。だから執筆中に四苦八苦するのはしょっちゅうのこと。それが舞台裏の真の姿なのだ。良く言えば、さらなる「ボケ防止」のため、必死になって文章を書いているとも言える。まあ、読まれる方には迷惑な話かも知れないが。 願わくば私の拙い文の何処かでも、心に残るものであって欲しいと思う。それには先ず自分が感動することが必要だろう。これからも感動出来る柔軟な心を持ち続けたいと願う所以だ。そして色んなことに関心をもつこと。恥をかくのを恐れずに、自分の感じたことを自分の言葉で表現すること。人間修業もそうだが、文章修行にもこれで良いと言うことはないのだ。 さて、今夜はクリスマスイブ。折しも仙台では雪が舞っている。これが本当のホワイトクリスマスだ。どうぞ皆様も良いクリスマスイブを迎えられますよう。
2010.12.24
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< 東北楽天編 > 今年の楽天は弱かった。監督の交代に伴ってコーチ陣もほとんど入れ替わり、シーズン当初から一度も「貯金」を作れなかった。まあまあ頑張ったのは、セパ交流戦の時くらいか。作戦はちぐはぐで負け続ければファンも球場へ足を運ばなくなる。シーズン途中にトレードに出した左ピッチャーの朝井が、巨人で先発として活躍し3勝を上げたのも、球団に見る目がなかった証拠だろう。 私がKスタへ行ったのはわずか3回。そのうち1回は会社の厚生事業によるものだった。小遣いも足らなかったが、球場まで行って応援する気が起きなかったのも大きい。楽天球団は今季18億円の赤字を出したとか。主な原因は入場者の激減。あんな試合をしてたら当然だ。そんな訳で、ここにポストシーズンのことぐらいしか書けないのが淋しい。 結論だけ言えばブラウン監督を1年で解雇し、阪神の星野SDを次期監督として招くことになった。人気のある監督でファンを呼び戻したいと言う球団の本音が見え見えだ。元大リーガーの松井稼と岩村の獲得も同様だが、彼らの加入で得点力が増すことも期待しているはず。 一方、球団にとって誤算だったのは、エース岩隈のポスティングシステムでの大リーグへの移行が不可能になったこと。もし実現していたら楽天球団には15億円以上の譲渡金が入り、今季の赤字を一気に埋められたのだが。岩隈は何が目的だったのだろう。大リーグで活躍することか。それともただ単にお金が欲しかっただけなのか。 シーズン後に戦力外通告を受けた選手もいた。唯一の宮城県出身選手だった小坂はコーチで残れるからまだ良いとして、左の代打の切り札だった憲史はそのまま引退することになるのだろう。巨額の年俸の割には期待外れだった中村ノリへの戦力外通告は仕方ないと思う。そして暴言が多く、チームの和を乱したリンデンの解雇も当然だろう。 FA宣言したキャッチャーの藤井は、阪神との契約が成立した。阪神は正捕手の城島が怪我で来シーズン当初は出場出来ないため、どうしても即戦力の捕手が必要だった。内野手の直人が急遽横浜にトレードで出されることになった。松井、岩村の新規加入で内野手が余ったことと、赤字に苦しむ球団にとっては資金が入るためだ。苦労を共にした選手達の嘆きは、とても大きかったようだ。 このほか、外国人選手の補強も若干あるようだ。果たして来シーズンはどんな戦いを見せてくれるのか。今シーズンが全く奮わなかっただけに、ファンの期待は大きいと思う。来年こそ熱い試合をたくさん観たい。そしてKスタで感激を味わいたい。それが正夢になることを心から願っている。
2010.12.23
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< 映画編 > 2月:「のだめカンタービレ最終楽章」前篇は、タイトルが面白そうだと感じて観に行った。原作は漫画とか。確かに漫画チックな場面もあったが、クラシック音楽の素晴らしさと、ヨーロッパで音楽修行する若者の純粋な魂に触れることが出来た気がする。面白かったので、5月に後編も観た。ハッピーエンドでめでたしめでたし。主演の上野樹里は来年の大河ドラマ「お江」の主役に抜擢されたようで楽しみ。 2月:話題の3D映画「アバター」を観た。確かに奇抜だし面白さはあるが、いかにも「作りもの」と言った感じでさほど感動は受けない。さる映画祭にノミネートされたものの、大賞を受賞したのは別れた元妻の方だった。 2月:仙台出身の小説家、伊坂幸太郎原作の「ゴールデンスレンバー」を観る。仙台を舞台にストーリーが展開するため、見慣れた風景が画面に良く現れた。奇抜な趣向に驚かされた場面も多く、スリリングな展開で最後まで観客を飽きさせなかった。 10月:「悪人」はごく些細なことがきっかけで殺人犯となる男の話。モントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲った深津絵里がヒロイン。主役は大河ドラマ「天地人」で直江兼続を演じて一躍有名になった妻夫木聡。彼のあまりの変貌ぶりには驚いたが、まさか深津絵里があの演技で大きな賞を受賞したのにはもっと驚いた。< 読書編 > 新聞記事がきっかけで新田次郎著「アラスカ物語」を読む。明治初期に宮城県出身の青年がアラスカで大活躍するストーリーだった。これがかなり面白かったため、続けて彼の処女作である「強力伝」や映画化された「剣岳・点の記などを読む。一方、「アラスカ物語」に触発され、幕末期の漂流記を読んでみたくなった。彼らが明治新政府誕生に寄与した部分が多いと感じたからだ。 こうして読んだのが井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」。これは直木賞を受賞した作品の割には考察が甘いと感じた。多分時代のせいでもあるだろう。その点、吉村昭著「大黒屋光太夫」、「アメリカ彦蔵」の時代考証や関連資料発掘には、作者の物凄い執念を感じた。漂流は難破による偶然の結果だが、彼らが幕末にロシアやアメリカに渡って見聞したことが、世界の情勢を日本に伝え、明治維新の実現にも大いに役立ったと言える。 吉村昭の小説の精緻さと面白さに惹かれて読んだのが「ふぉん・しいほるとの娘」。これはシーボルトと滝との間に生まれ、我が国初の女医となったイネ及びその娘で同じく女医となったタカの数奇に満ちた人生を描く名著。さすがに吉川英治文学賞を受賞した作品だった。シーボルトと3人の女性を描きながら、幕末から明治期にかけての国内状況が良く理解出来た。 幕末の状況を外国人の目で記したのがアーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」上下。開国したばかりの日本に来た当時、イギリス人の彼はまだ若く役職も低かったが、それだけに真剣な目で異国を眺め、各藩の武士と本音で付き合った。フランスは幕府側に就いたが、イギリスは薩長側に味方した。そのことが明治維新の実現につながったことが分かる。 その後、彼の上司で初代駐日公使となったオールコック著「大君の都」全3巻の読破に取り組んだが、若いサトウと違って教養人として広範な知識を持っていたオールコックの文章は、とても廻りくどく面白さに欠けているためなかなか進まず、目下中断している。 たまたま読んでいた宮城谷昌光の新聞小説があまりにも面白かったため、「青雲はるかに」上下巻を購入して読破。目下「晏子」全4巻を順次購入して読書中。彼の小説の舞台は古代の中国で、戦国時代や春秋時代。敵に勝利するため智謀を傾けた武将や文官の活躍と、壮大な歴史に思わず引き込まれる。 沖縄の空港で購入した伊波勝雄著「世替わりにみる沖縄の歴史」は、鳩山前総理や菅総理に読んでほしい著書。琉球王朝時代から沖縄がどれだけ日本によって過酷な試練に遭わされ、富を収奪され、犠牲になったかが一目瞭然だからだ。沖縄の痛みを知らなければ、多分米軍基地の移転問題も解決しないと思うのだが。
2010.12.22
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< 美術館・博物館編 > 河北展(5月、Fデパート):東北美術界きっての美術展だが、新人の応募も多い。油絵を描いている妻に付き合い毎年観に行っているが、先ず数の多さと作風の多様さに圧倒される。もっと選定基準を上げて作品数を絞る必要があるように思うのだが。 聖地チベット展(5月、仙台市博物館):チベット仏教の至宝が展示の中心。チベット族への抑圧、チベットへの鉄道の開通、河口慧海など明治期にチベットへ潜入し、我が国へチベット仏教を伝えた先駆者のことなどが脳裏に浮かんだ。人骨で作られた楽器や、男女が絡み合う歓喜仏などから、チベット仏教の神髄を垣間見た感じ。 黄金の都シカン展(7月、仙台市博物館):シカンは古代の南アメリカ大陸で栄えた黄金都市。王が身につけた豪華な黄金の飾りなどが一際目を引いた。地中深く、胴体と首が切断されたまま埋められた王達。しかもその姿は逆様と言うから不思議。この遺跡を発掘しているのは南イリノイ大学の日本人教授だが、今後も謎の解明が続くことだろう。 多賀城・大宰府と古代の都展(9月、東北歴史博物館):これは国の特別史跡である多賀城跡の発掘調査50周年を記念してのイベント。大宰府が西の要として中国との関係が深いのに対して、多賀城は大和朝廷の最北端の出先機関として任に当たった。つまり移民による律令国家の伸展と、蝦夷との融和・戦闘による国土の拡張である。 歴史史料が乏しい中、50年間の発掘によって解明された疑問は数多い。そしてその調査は今後も継続されるはず。蝦夷の襲撃によって焼失しながら、再び建て直された宮殿と付属寺院。未だ地下に眠る膨大な遺物は、謎を解く鍵となるはず。今回は珍しく展示品のカタログを買ったが、多賀城が貴重な存在であることが一目瞭然だ。 11月に沖縄の版画家である名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画と来年のカレンダーを購入したのも、私にとっては記念すべき出来ごとだった。< マウンテンバイク編 > 10月中旬にマウンテンバイクで87kmの旅をした。途中立ち寄ったのが 1)川崎町の龍雲寺。ここには川崎伊達氏の霊廟と共に、陸奥守として多賀城に赴任した中将藤原実方の墓もあった。 2)村田町では全国60名以上の陶芸家が出品しての陶器市が開かれていた。白鳥神社にも立ち寄る。 3)大河原町の大高山神社で休憩。 4)蔵王町では小野訓導顕彰碑、刈田嶺神社、我妻家住宅に立ち寄り、笹谷街道へ抜ける四方峠を訪ねる。旧猿鼻宿から笹谷宿へ抜ける山道は、源頼朝の奥州藤原氏征伐時の古戦場ともなったところで、旧街道の面影が残る貴重な文化財だった。アップダウンの連続で大変疲れたが、実り多い旅だった。
2010.12.21
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< 登山・ウォーキング編 > 6月、バスツアーで栗駒山麓にある「世界谷地」へ。この周辺では「岩手・宮城内陸地震」による被害が出て、道路封鎖が続いていた。工事終了で観光が解禁されたためツアーが組めた由。でも3つある湿原のうち2つがまだ通行不能状態。ニッコウキスゲなどの高山植物を楽しんだがウォーキングは1時間で、運動量としては全然物足らなかった。 7月、日本百名山の一つである八幡平縦走登山に挑戦した。コースは比較的アップダウンの少ない初歩的なもの。山道を4時間歩き、大満足。ここはニッコウキスゲなど高山植物の宝庫だった。残念だったのは、途中で雨や濃霧に遭ったこと。それが無ければ一大パノラマが観られたと思う。八幡平付近の藤七温泉の露天風呂の底が泥だったのには驚いた。 9月、前夜は温泉宿に一泊し、泉ケ岳に登山。学生時代以来40年ぶりのことだった。バスの時間が決まっているため、強行スケジュールでの登山。往路は水神コースで復路はかもしかコースを辿る。登り下りとも結構勾配があり、案外きつかった感じ。頂上付近からの眺めは最高だった。 10月、登山服などを購入し、少し難度の高い栗駒山の東栗駒コースに挑戦。雨上がりの後だったため登山コースには水が溢れ、泥んこ、びしょ濡れになった。濡れて滑る岩、頂上付近の強い風に悩まされた。それでも東栗駒山から栗駒山にかけての紅葉が凄く、登山の良さを満喫した一日だった。ゴールの須川温泉で妻が「湯当たり」を起こしたことや、登山の途中で私が眼鏡を忘れて来たのも今は良い思い出だ。 10月末、仙台神室~山形神室~トンガリ山~ハマグリ山の縦走コースに1人で挑戦。ここは中級クラスなので妻は留守番。コースは沢登りや岩登り、なだらかな藪の道など千変万化。紅葉の盛りで眺めも抜群。滑りながら登った仙台神室からは360度の大パノラマ。途中のトンガリ山では走友会のD堂長老にお会いした。ハマグリ山から見た山形側の俯瞰も最高。登山の厳しさと楽しさを実感した一日だった。 11月、裏磐梯の桧原湖をウォーク。この日は4時間も自由に歩けるとのことで喜んでいたが、ガイドさん付きで当初通らないはずの遊歩道を歩いたグループと、単に国道や県道を歩いただけの集団とに別れ、紛糾の元になった。私と妻は五色沼の散策コースを半分だけ往復出来たのでまあまあか。五色沼の水の色と紅葉はなかなか秀逸だった。 こんな風に、今年は久しぶりに夫婦で登山に挑戦することが出来た。これは健康で、まだ体力があるから出来ること。来年も自分達の実力に見合った山に登りたいと願っている。ランニングとは一味違う楽しみを発見した一年だった。
2010.12.20
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< 園芸・家庭菜園編 > 今年もかなり押し詰まって来た。今日は妻にベランダの掃除を頼まれた。そして年賀状もようやく出来上がった。明日辺りから少しずつ書きたいと思っている。それと並行しながら、ブログでは今年1年の思い出について記そうと思う。その第1回目は園芸・家庭菜園編にした。 今年の春先は少し寒さが長引き、農作業が遅れた。夏野菜の苗を植えたのは連休に入ってからだったはず。その間に前年の余り物の種を少しだけ蒔いた。春菊、小カブ、大根がそれ。一方夏野菜の苗は、トマト18本、ミニトマト4本、ゴーヤ4本。種を蒔いたのはキュウリ、モロッコインゲン(蔓性)。トマトは連作障害が出ることを恐れ、畝を変えてみた。 梅雨の時期には結構雨が降った。水を嫌うトマトには初めて傘を差し、雨を避けた。梅雨明け後は一転して高温の日が続いた。これが全国的に野菜の高値の原因になったが、我が家の畑は順調だった。暑さに強いゴーヤは、最高で1日に13本ほど収穫があった。夏の終わりに始末した日も15本ほど獲れた。きっと全体では70本以上は獲れたように思う。食べ切れなくて配るのが大変なくらいだった。 キュウリも大豊作で食べ切れず、妻は今年初めて「古漬け」に挑戦した。これが意外と美味しく出来た。モロッコインゲンも豊作だったが、追加で蒔いた種が「蔓無し」で失敗。ミニトマトは大豊作で、1回に30個も獲れた日もあった。猛暑の時期には夕方の水撒きが日課に。そんな訳で夏野菜は総じて大成功だった。 一冬越した玉ネギの収穫は6月。さほど大玉にはならなかったがまあまあの成果。その跡地には何も植えずに休ませた。秋冬野菜も、大根、白菜、春菊、小カブは前年の種の残りを使用。ただし残暑が厳しく、夏野菜の始末が遅くなり、種蒔きも遅れた。大根は連作障害を防ぐため、畝を変えた。今年はかなり高価な化学肥料を追肥用に買った。これが効いたのか、ほとんどの野菜が大きく育った。 だが、例外は白菜。いつも上手に作る2人の義兄達も駄目だったみたい。暑さが長引き、種蒔きの時期が遅れたためだろう。それでも家で食べる分には差し支えない。玉ネギの苗も例年より1週間遅く入手したが、暑さのせいで枯れた苗が何本か出た。秋口に2cmほどのレタスの苗をもらって定植した。せっせと水やりしたお陰で、12株ほどが成長し食卓を賑わしてくれた。 一方園芸は思わぬパソコンの新調で資金不足となり手抜き。春から秋にかけてはベコニアで凌ぎ、晩秋になってようやく葉ボタンとヴィオラに植え替えた。今年の園芸・家庭菜園に要した経費は9558円。これまででも最低の金額だったはず。 梅、柿、イチジク共に実った実は少なかった。それでも美味しく頂いたし、花々は季節ごとに庭を彩り、心を和ませてくれた。そして木々の木陰は愛犬の格好の避暑地にも。やはり植物の力は偉大で、園芸や家庭菜園は大いなる心の慰めだ。今年も多くの恵みをありがとうね。心から感謝していますよ~。
2010.12.19
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昨夜は温泉に泊って来ました。仙台近郊の温泉で、バスカードで500円ほどの所にあります。ホテルに着いた時はすっかり日が暮れ、真っ暗になっていました。チェックインして、夕食の時間を伝え、部屋で寛いでから第1回の温泉へ。湯船は小さめですが、本物の温泉は良く体が温まりますよね。 でも露天風呂の方は外気に触れているだけさすがに寒く、お湯も温い感じです。改めて内湯とバブルジェットで温まり、部屋へ戻りました。それからレストランで夕食。私達は特別な料理を頼まず一番安いコースでした。それでも内容は立派だし、十分満足出来ました。ちょっと不満だったのは、サービスのウイスキーと焼酎の水割りが薄過ぎたことかな。 部屋へ戻ってニュースを見、暫く休んでから2回目の温泉へ。満腹なのと2度目の入浴で体が温まり、汗が滴り落ちます。そこで冷蔵庫からおもむろに取り出したのがワイン。これはホテルに行く前に買って来たヤツ。つまり知らんぷりの「持ち込み」。これが何と1本298円の超安もの。リカーショップ自体が生産してるワインは甘口で、とっても飲み易いから幾らでも飲めます。 風呂から戻った妻にも勧めると、1杯だけ付き合ってくれました。翌日聞いたら、アルコールの度数が低いように感じたそうです。確かめたら10度しかありませんでした。道理でアルコールに弱い私でも、まるまる1本飲めたはずです。 その夜はエアコンを入れたままにして寝ました。部屋はベッドで、布団が薄いように感じたからです。でもそれは全くの杞憂。暖か過ぎて夜中に浴衣を脱ぎ、布団を蹴飛ばして寝ていました。安もののワインを丸ごと飲んだせいか、私は7時間半ほど眠れたのですが、妻は私のいびきが煩くて、3時過ぎから起きてたとか。私もその頃トイレに起きたのですが、ちゃんと妻は眠っていましたけどねえ。 妻は5時になるのを待って風呂へ行った由。私は6時半ごろ3度目の温泉へ行きました。朝食は7時半から。私の場合平日は5時半には朝食を摂ります。だから7時半まで待つと腹ペコです。その間果物や部屋に置かれていた漬物などを食べていました。ゆっくり目の朝食も、なかなか良心的な内容でしたよ。栄養的にもバランス良く、とても美味しく食べました。 朝食後、妻が4回目の温泉に行く間、私はロビーで新聞を読んでました。そして、9時過ぎにチェックアウト。料金は何と入湯税まで入れて1万5千円ですよ。それが1人分でなく2人分。安いでしょ? ここは元々保険組合の宿泊施設だったところ。それが民間のホテルになったため、とても安いんです。もっとも泊ったのが金曜日で平日料金でした。私は麻雀大会でこれまで何度も使っていた所です。 ホテルを出てから少し歩き、地元のスーパーへ。ここは美味しい「おはぎ」が有名な店。全国放送で紹介されてから、一層お客さんが増えた感じです。今朝も9時の開店を待って大勢のお客さんが入ってました。その大部分が「おはぎ」目当ての客なんですよね。そんな訳で、今日の昼食はおはぎ。私はうどんも食べました。 そうそう。昨夜は愛犬が留守番をしてくれたんです。外の犬小屋に入れての外出でしたが、帰宅したらいつもと変わらず元気そのもの。ちゃんと芝生で日向ぼっこをしてました。遅めの散歩の後は、ほんのちょっとだけ餌を増やして上げました。まあ良い子にしていたお駄賃かな。普段忙しい妻にとって、とても良い骨休めと忘年会になったようで、また行きたいと言っています。
2010.12.18
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今年も残すところ後わずかになりました。最近の仙台は寒いですよ。冬だから寒いのは当然なのですが、かなり本格的な冬になった気がします。街路樹の枯葉がほとんど風で飛ばされ、仙台の象徴であるケヤキの木は、今美しい裸身を寒風に晒しています。今朝はビルの屋上から雪を被った山々が望めました。 そんな中でも、私はまだ防寒着なしに立哨しています。これは警備員をしている第1現場での話。昨日は契約先から来年の手帳をもらい、今日は素敵なカレンダーをもらいました。大きなビルでは大量にカレンダーが余り、要らないのはゴミとして捨てるのですが何だか勿体ない話ですね。 清掃を担当している第2現場では、水が冷たく感じられるようになりました。モップを絞る時の水の冷たさ。それでも早朝に愛犬と散歩をする時の方が冷たいかも知れません。そんな仕事も働くのは後6日間だけになりました。頑張ったせいか、ボーナスをもらいましたよ。わずか3千円だけですけど、それが1日分の稼ぎとほぼ同額なんですもんねえ。 今日は金曜日。たくさんの洗濯ものでリュックが満杯。着替えが入らないため、せっかく晴れているのにバスで帰宅しました。こんなに天気が良い日に走れないとは残念ですね。で、家に帰ると妻が夕食の米を研ごうとしてました。「お母さん、今日は温泉に行くんだよ」と言うと、怪訝そうな顔。どうやら明日と勘違いしていたようです。これには驚きましたね。 幸いこれからの仕事の時間を早めてもらうことが出来たようで、事なきを得ました。まだボケてはいないようですが、こんなことが続くと心配です。さて、これから干している布団を取り込み、愛犬と散歩がてら買い物を済ませ、出かける準備をして、夕方には温泉に行く予定です。 忙しい年の暮ですが、たまには温泉でのんびり過ごすのも良いでしょう。そして明日辺りからボチボチ年賀状を書く準備をしないといけませんね。ど~れ、布団はふっくらしたかな? 暖かい冬の日に感謝ですね。
2010.12.17
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結局沖縄でのランニングについては、前日の知念半島一周が4回、「NAHAマラソン完走記」が5回のシリーズになった。沖縄行きの3日間で読み終えた「青雲はるかに」は、勤務を再開した7日(火)に下巻を購入し、金曜日までにはそれも読了した。合わせて千ページに及ぶ大作だが、久しぶりに読んだ歴史小説の面白さに時が経つのを忘れた気がする。その後沖縄で購入した「世替わりに見る沖縄の歴史」を読み始め、ほぼ8割方読み終えた。 NAHAマラソンの際に聞いたY彦さんと彼の走友のブログを、帰宅後に訪ねた。Y彦さんのHNはらんふぉ。ランニングとフォトグラフから採った名前だそうで、文字通り写真が満載のブログだった。私は毎日更新しているブログが好きなので、沖縄の珍しい写真が観られる彼のブログがすっかり気に入ってしまった。また走友の方のHNは「おだまり」さん。今回の沖縄旅行で、今帰仁城から久高島まで探訪された行動力にはすっかり驚ろかされた。 マラソンの当夜、那覇で懇親会を開いてくれたT田さんからは、その後メールと写真が届いた。何でも今回は700枚近くの写真を撮ったようで、その整理に手間取っていたとか。M井さんとは走友会の忘年会で会えたが、レース中に体調が悪かったS木さんのその後が気がかりだ。大事に至らないことを願っている。 先週の土曜日は所属走友会の忘年会だった。何しろ会の行事に出たのは、新年会と忘年会だけ。練習会もわずか1回だけの参加だったため、ほとんどの方とは久しぶりの対面だった。NAHAでお世話になったM井さん、登山でお世話になったD堂さんにお礼を言う。気がかりだったO川さんの「佐渡島一周」での怪我の状況を聞いた。既に全快し、来年は520kmの超ウルトラレース「川の道」に出られる由。 M井さん達は「さくら道」へ再挑戦される由。M仙人が挑戦する「エベレストマラソン」は来年の5月とのこと。従って「かすみがうら」には出ないそうだ。S村さんとは「秋田内陸」以来の再会。彼が出た「福知山マラソン」などの話を聞く。確か来年は「サロマ」に挑戦するとか。S目さんが「NAHA」に出た話は初耳だった。ただしゼッケンナンバーが5ケタ台だったため、混雑してなかなか前に進めなかったとか。 長老K山さんの乾杯で始まった懇親会だが、1人ずつの挨拶ではEちゃんの涙が一際印象的だった。今年は怪我のため、出たレースのほとんどが途中リタイヤだったようで、それが彼女の涙になったのだろう。明走会のM浦さんがゲスト出席していたが、彼女と会うのはNAHAの懇親会以来だった。隣の席のYちゃんは、「伊南川ウルトラ遠足」で100kmを完走したことで自信になったようだ。大いに食べ、大いに飲んだ忘年会。私にとっては数少ない忘年会が、こうして楽しい内に終わった。 15日(水)の仙台では、初雪が降った。昨年より17日遅かったとか。そして今日16日(木)の最低気温は今シーズン初めての零下で、朝はうっすらと雪が積り、道路には凍っている個所があった。最高気温は4度とか。ほとんど気温が上がらない寒い中、長袖シャツ1枚での帰宅ランになった。明日の金曜日は夕方から近郊の温泉に一泊し、妻とささやかな忘年会の予定。
2010.12.16
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< 懇親会と別れ > ホテルに戻って風呂に入り、着替えてから歩いて国際通りへ。レースの後、T田さんと一緒に夕食を摂る約束をしていたのだ。約束の時間より早いけど、彼が泊っているホテル行ってみることにした。フロントから電話してもらうと、早速駆けつけてくれた彼。既に懇親会の場所を予約しており、皆でそこへ向かうと言う。 暫くして仲間がやって来た。T田さん、S木さん、M金さんの古川組3人と、我が走友会のM井さん。ひゃ~。これは嬉しい。国際通りの地下にある飲み屋まで歩く。ここはT田さんの行きつけの店で、3千円の飲み放題とのこと。T田さんのお友達と明走会のM浦さんも一緒で、メンバーは合計7名。 料理が次々と運ばれ、全員そろったところでジョッキで乾杯。T田さんがわざわざ私の「沖縄本島一周達成」を紹介してくれた。1人でしみじみ祝うのも良いが、仲間から賑やかに祝ってもらうのはもっと嬉しい。大いに食べ、大いに飲んで楽しいひと時。途中から泡盛をウコンで割って飲んだが、なかなか美味しかった。ウコンはショウガ科の植物で香料のターメリックのこと。漢字では鬱金と書くが、その鮮やかな黄色に驚いた。 楽しく過ごした懇親会だが、2日間の疲労でかなり酔ったため、早めに退散させてもらうことに。最後まで熱心に写真を撮ってくれたT田さんやM井さんはじめ、皆さんありがとうね。でも次回沖縄で飲む時は、出来たら沖縄料理を食べ、泡盛を味わって欲しいと思った次第です。 ホテルに戻り、ベッドに横になりながら「坂の上の雲」を観ていたのだが、いつの間にか眠ってしまったようだ。この夜も深夜の3時頃に目が覚め、「青雲はるかに」の上巻を読む。結局沖縄への旅の3日間で、500ページを一挙に読了したことになる。朝食後、荷物をフロントに預け、国際通りに出かけた。 最初に訪ねたのが市場内のお菓子屋。楚州(そす)の小母さんは後ろ向きで忙しそうに働いていた。ひょっこり後を向いた小母さんに挨拶。小母さんに会うのはこれが3回目。小母さんもちゃんと覚えてくれていたようだ。お土産用に中国渡来のお菓子クンペン(薫餅)を16個購入すると、いつものようにおまけしてくれた。 「来年も来るの?」。尋ねる小母さんに、「来年は分からないよ」と答えたが、沖縄へ来たらまた寄る積りだ。年齢は私より2歳上の68歳とか。多分学年は1級上だと思う。小母さんと別れ、花笠食堂横の路地から裏を覗く。この岡にはかつて風葬墓があったと思うのだが、今は移転して公園になっている。立ち退きした民家の跡に茂る樹木。そんなうらびれた風景が、私はとても好きだ。 お土産に「ちんすこう」を買ってホテルに預け、さらに辻方面を散歩。王朝時代3人の賢人が遊んだと言うサンモウジ(三文殊)公園から遊郭の跡を通り、波の上宮へ。ここは本来原始神道の聖地だが、明治以降日本式の神社に変わった。裏の海で泳いでいる人を発見。海岸にはシャワー室もある。そして海の上では空港までの新しい道路が工事中だった。 ホテルへ戻る途中、沖縄そばを食べた。出来たらスペアリブが入ったソーキそばが食べたかったのだが、普通のラフティ-(豚の三枚肉の煮物)だった。空港にはモノレールで早めに行った。フライトを待つ間、空港内の書店で1冊の本を購入。伊波勝雄著「世替わりにみる沖縄の歴史」。著者は社会科の先生をしていた人のようだ。 午後2時20分。仙台行きの飛行機が陸を離れた。青い海の向こうに渡嘉敷島が見え、少し離れて粟国島が見えた。そして後は白い雲の中。こうして懐かしい沖縄は全く見えなくなった。10回目のNAHA完走と、合計で322kmの沖縄本島一周を達成した今回の旅。次に訪れるのは果たしていつになるか。それまでサヨウナラ。私の大好きな沖縄の島々よ。今回もたくさんの思い出をありがとうね~!!<完>
2010.12.15
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< それぞれのゴール > 完走証を受け取る。順位は4622位。ゼッケンナンバーが5300番だから、今回も番号よりも早くゴール出来た。NAHAの完走証は月桃で作られた紙。それにカラフルな印刷はとても貴重で、大抵の人はラミネート加工して保存してるのだろう。次に完走メダルを首にかけてもらう。琉球ガラス製のメダルはとてもきれい。私は完走記を書き終えると完走証もメダルも捨てることにしている。思い出は自分の胸中にあれば良いからだが、NAHAのメダルは美術品のように思えて捨てがたい。 最後に飲み物をもらう。レース中あれだけ水分を取った積りなのに、もう喉が渇いている。歩いて仲間の待つコーナーへ移動中に、沖縄出身のランナーY良ちゃんとバッタリ。私がサングラスをかけていたにも関わらず彼は私を見つけ、まるでシーサーのような笑顔で近づいて来た。最初に彼と会ったのが昨年の「八丈島一周」。その後も今年の「伊豆大島一周」や「秋田内陸」でも会えたのだ。 歓談中に通りかかったのが仙台明走会のI藤Eちゃん。彼女も一緒に入って記念撮影。彼が後で送ってくれた写真を見たら、1枚は動画で音声まで入っていたのにはビックリ。さて元の職場仲間で既にゴールしたのは5名ほど。学生の中にはサブスリーを達成した人もいたようだが、職員の方は3時間37分のY彦さんが最高か。彼が廻したノートにゼッケンやタイムなどを記入。 その後、体調が落ち着くのを待って缶ビールをご馳走になる。N村さんの家族が今回も冷たい沖縄式のぜんざい、具だくさんのお握り、サラダ、ミカンなどを差し入れしてくれた。母上は今年79歳になる由。と言うことは彼女が58歳の頃から、私はお世話になってる訳だ。T原先生が戻って来た。彼には15km地点辺りで抜かれたが、ゴールタイムは私より10分ほど速かったようだ。 時間が経つにつれてグラウンドに戻って来るランナーが増える。翌日の新聞によれば出走者は23402名で、完走者は16845名。完走率は72%弱とのこと。私がゴールした後の1時間25分で12223名がゴールした計算だ。制限時間は6時間15分。それまでにグラウンドのゲートを潜れば完走と見なされ、場内にいるランナーは同タイムとなるとか。 「地デジ」ランナーも戻って来た。あの重量に耐え、良く完走出来たと思う。巨大な頭のゴーヤマンもフラフラのゴール。彼とは3年前の宮古島ワイドーで一緒だった。私は100kmの部だが、彼はハーフの部。東平安名岬の強風に煽られながら、ふらついて走っていた姿が目に浮かぶ。アイアンを持った石川遼選手は、良く見たらチョイ悪親父だった。ウエディングドレスとタキシード姿で走った男女はレース後婚姻届を出したとか。 後日NAHAマラソンのニュースを動画で観たら、制限時間直前にゲートの前で倒れた女子選手を必死になって場内へ引っ張ったランナーがいた。あのランナーは、きっと痙攣で脚が動かなかったのだろう。そしてゲートが閉まった後も続々と詰めかけるランナー達の姿も。 なかなか戻って来なかったI礼さんは、6時間を越えてのゴールだった。そして26回連続完走がかかっていたH嘉さんだが、Y彦さんが携帯で連絡したら、やはり6時間以上かかってのゴールだった由。私がNAHAへ出た時は、最後の日に一緒に沖縄そばを食べるのがこれまでの恒例だったのだが、その後彼の姿を見ることはなかった。きっとアップダウンと暑さの厳しい沖縄では、フルマラソン完走に耐えるだけの練習もままならないのだろう。それに加齢による衰えもあるのかも知れない。 ちょっと淋しい気持ちになったが、新たな想いも生まれた。それはY彦さんがまだ40代であることを知ったためだ。後10年間、つまり喜寿くらいの歳までNAHAマラソンに挑戦する積りの私にとって、沖縄にランナー仲間が居り、このグラウンドに来れば必ず会えると言うのが嬉しい。さらに驚いたのは彼がブログを趣味としていること。これも私と共通しており、新たな楽しみを見出せた気になった。4時前。皆に別れを告げ、ホテルに帰る。<続く>
2010.12.14
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< 21年間で10回目の完走達成 > 摩文仁平和祈念公園に入ると間もなく中間地点。タイムは2時間20分ほどか。制限まで1時間近く残している。公園内のコースが若干短縮した感じ。関門手前で水を飲み、後半戦に入る。国道に出た後は、道路の左側に注意していた。もしかしたら24km地点付近で、かつての走友が私設エイドを開いているかも知れないからだ。 中間地点を過ぎて安心したランナーが大勢歩き出す。中間地点クリヤーが一つの目標なのだろう。私は今日が10回目の完走。だがエントリーは12回目。一度は摩文仁で走るのを止め、収容バスに乗った。疲労骨折の影響がまだ残っていた頃だ。時間は十分あったが敢えてリタイヤした。もう一度は膝の故障のため出走を断念し、走友の応援に回った。沖縄まで来て走れなかったのが悔しかったっけ。 23km地点からは急激な下り。「ひめゆりの塔」手前が24km地点だが、かつての走友の姿は見つからなかった。年齢は75歳近くで3年前にはあまり体調が良くなかったから、もう沿道での応援も止めたのだろう。ASでバナナと小さなお握りをもらい走りながら食べる。だがお握りには塩がついておらず、食べるのに一苦労。 26km過ぎからカーブして北へ向かう。左手に名城ビーチが遠望。28km過ぎから再び下り坂。この先は10kmほど平坦な道が続く。NAHAマラソンに初めて出てから21年。その間にあった思い出が胸に過り、危うく涙をこぼしそうになった。30km地点は糸満市の中央部。31kmの右手に白銀堂。ここは原始神道の聖地で、山上は糸満ハーレー(ドラゴンボートレース)スタートの合図をする場所だ。 32kmの西崎海岸は広大な埋め立て地で、かつては阪急ブレーブスのキャンプ地だった所。33km地点の阿波根(あはごん)は2つ目の関門。大勢の男子高校生がハイタッチしてくれるが、彼らは制限時間と同時に遅れたランナーの前に立ちふさがって「人間の壁」ともなる存在だ。ここも難なくクリヤー。時間は十分に残っている。 35km過ぎで左折し、空港方面に西行。この辺は元々製塩が盛んだった場所。傍の高速道路がようやく完成したようだ。朝から曇っていた空に初めて太陽が顔を出し、気温は24度ほどに上がる。顔や脚に噴き出す塩。ペースは変わらず、25km過ぎからは完走を確信していた。用心のため塩を舐め、エネルギー補給には黒砂糖の塊り。 緩い登りも苦にならない。昔のコースは最後の最後までアップダウンが厳しかった。あれに比べれば楽なもの。前方の岡に大きな貯水タンク。そしてモノレールの軌道が見えて来る。ゴールまで残り3km。さらに登りは続くが、極力日影を走って体力を温存。モノレールの赤嶺駅通過し、奥武山公園駅から左折。左手の山下町は日本最古の「山下人骨」が発見された所。 公園内に入って「沖縄セルラースタジアム」を半周。どうやらコースを変更したようだ。武道館の横をすり抜け、陸上競技場へ。沿道の人々から暖かい拍手。そして場内のスピーカーから賑やかな声が広がる。歓声に迎えられてグラウンド内へ。ラストスパートをかけてゴールへ飛び込み、ストップウオッチを押す。タイムは4時間50分25秒。ネットは4時間46分41秒だった。これで21年かかり、NAHAマラソン10回目の完走達成だ。<続く>
2010.12.13
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< 沿道の風景と応援 > モノレールの下を潜って「ひめゆり通り」へ出、コースはそこから右折し南下する。トイレに行ってる間に抜かれた「地デジ」ランナーにようやく追い着く。幅2m、高さ1,5mほどのテレビはかなり重そうだ。丁寧にも枠の中には「地デジの準備お早目に!」と注意も。ランナーは屈強な若者だった。「地デジ頑張れ~!!」と沿道の応援が凄い。 古波蔵(こはぐら)交差点で左折すると5km地点。最初の給水ポイントだが寄らずに直進。手に持ったペットボトルにはアミノバイタルとアスリートソルトを溶かした水がある。これで当分補給の必要はないからだ。真玉(まだん)橋を渡って東バイパスへ。緩やかな登り坂も全く気にならない。 いつもの場所で子供達が勇壮なエイサーを踊っている。本土のランナーには珍しい光景だろう。この辺で歩き出すランナーがいてビックリ。沖縄の人にとってこのマラソンはお祭りみたいなもの。あまり練習をしないでレースに臨む人が結構多いのだ。豊見城(とみぐすく)市から南風原(はえばる)町へ入り、県道76号線を南下。 旧東風平(こちんだ)村に入ると2つの坂が続く。高低差は30mほどだが結構勾配は厳しい。若い女性のサンタさんが歩き出した。もう1人の姐御サンタは結構強く、袋からプレゼントを出して子供たちに配りながらのラン。赤穂義士姿のランナーは兵庫の人らしい。それを観た沿道の人が「新撰組頑張れ!」と応援。きっと沖縄の人には新撰組と赤穂浪士の区別がつかないのだと思う。 2つの坂を越えると12km辺り。ここで軽い疲労を感じたが、前日の32km走で脚や膝が痛んでないのが嬉しい。ここから20km地点までは登りが続く。それを意識しながらしっかり走る。ある個所まで道路が広くなっていた。前日のマラニックでも感じたが、沖縄も少しずつ変貌しているようだ。 変わらない街並みは懐かしい。そして家並みが途絶えると、サトウキビ畑。葉はそよがないが、所々に白い穂が見える。ゴツゴツと曲がった茎は風に耐えた証しだ。糖度が上がるのは新年になってから。そして厳しいウジトーシ(サトウキビ刈り)が始まる。走っているうちに暑くなって来た。給水所でコップを取り、あまった水を頭から被る。 具志頭(ぐしちゃん)三叉路は17.3km地点。前日はここから左折して知念半島へ向かったが、今日はここから右折して摩文仁平和祈念公園方向に向かう。その3km弱がコース中最も厳しい個所で、高低差60mほどの登りが続く。いつもなら苦しむこの坂も、ゆっくり走れば大丈夫。それに昨年走ったヤンバルの東海岸に比べたら楽なもの。ここでもエイサー踊りの歓迎を受けた。 沿道の人が差し出すミカンやシークワーサーを受け取って食べる。う~む、なかなか美味しい。どうやら体調は良さそうだ。坂道で歩いているランナーを次々に抜く。これがウルトラランナーの強さか。前日の32km走の影響はほとんどない。坂を登り切ると今度は緩い下り。遥か前方に真っ青な東シナ海が見え、右手には数機の風車がゆっくりとプロペラを廻していた。<続く>
2010.12.12
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< 3年ぶりのNAHA > レース当日の早朝。眠れないまま宮城谷昌光著「青雲はるかに」を読む。中国の戦国時代後期の壮大な話で、日本はまだ弥生時代の頃か。あまりの面白さに時間が経つのを忘れるほど。レースの準備を済ませ、6時半に食堂へ行く。バイキング方式とのことだが、おかずの種類が少なくて何だか物足らない。 7時15分頃にはホテルを出、奥武山競技場へ向かった。国道58号線は既に大勢のランナーで埋まっている。グラウンドの第3コーナー付近にある元の職場の集合地点に行く。顔馴染みのメンバーとしっかり握手。だが昔の走友はずいぶん減ってしまった。昨年と一昨年は「本島一周単独走」のため、このレースには出なかったが、その間にも走るのを止めた人がいたようだ。 2人のT良さん、I礼さん、N村さん、H嘉さんなどの他は学生ばかり。私がNAHAマラソンを初めて走ったのが21年前だから、顔ぶれが変わっても仕方がないが、何だかとても淋しい。おまけに一番の走友であるH嘉さんは、どこかへ行ってしまった。彼は26度目の連続完走がかかっている。きっとそのプレッシャーがあったのだろう。 今回は定員を5千人減らし2万5千人とのこと。選手の集合時間も厳しくなったと聞いた。早目にナンバー順に並ばないと、後で入るのは無理らしい。上着を脱いでランニング姿になり、集合場所へ急いだ。ゼッケンは5300番でEブロック。もう大変な人込みの中に無理やり入り、プラカードの所まで進む。巨大な図体のゴーヤマン、幅2mもありそうな地デジ対応テレビの枠の中に治まったランナーにもあった。あんな姿で本当に42km走れるのだろうか。 スタートまで45分もあるが、幸いランパン、ランシャツでも寒くないのが助かる。係の小母さんがEブロック以外のナンバーの人をチェックし、外へ出そうとしている。中には何とナンバーの無い人も混じっていた。先着順で締め切られたため、どうしても走りたい人はゼッケンなしで走るのだろうが、本土ではとても考えられないことだ。8時50分、スタート地点の国道58号線へ移動開始。 スターターは沖縄出身の女性ゴルファー上原彩子さんと巨人軍の阿部捕手。来シーズンから奥武山公園内の「沖縄セルラースタジアム」で初めてキャンプをする巨人の代表として招かれたようだ。空にはヘリコプターが今や遅しと待機中。9時、万国津梁の鐘の音を合図にスタートする。だが5千人以上も前にいるため、ほとんど動けない状態。スタート地点を過ぎたのは、号砲がなってから3分40秒後だった。 阿部捕手の笑顔が見えた。クレーンの上にはテレビカメラ。そして歩道橋からは盛大な声援。国際通りではさらに応援が賑やかになる。前日32km走った脚が、果たしてどこまで持つのか。兎も角マイペースで行くしかない。人混みの中で焦る気持ちを静める。だが腹具合が今一。早速牧志の公衆トイレに飛び込み、事なきを得る。危ない危ない。大丈夫か今日は?<続く>
2010.12.11
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< 「沖縄本島一周」は達成したものの・・ > 知名崎を回ると右手には中城湾。だが、道から遠いためか海は見えない。この道は何度か原付で通っていて不安はないのだが、暗くなると歩道の段差が見えにくくなる。ある停留所にオバーがいた。那覇行きのバスが1時間に1本通るようになり便利になった由。オバーは那覇で立ち退きに会って移転したのだが、田舎の方がずっと暮らし易いと話してくれた。 時々バス停で地名を確認しながら走って行くと、やがて旧佐敷町に入った。道路沿いに高いワシントンヤシの並木。とうとう日は暮れ、足元が見えなくなった。佐敷小学校手前に「上城」(うぃーグスク)の標識。初めて聞くグスクを確かめようと300mほど山手にあるグスクに向かったが、闇の深さにたじろぎ引き返す。 後でタクシーの運ちゃんに聞いたら、上城は月代宮のことだそうだ。道理で大きな鳥居があったわけだ。月代宮は第一琉球王朝の始祖である尚思紹とその子尚巴志を祀るもの。彼らは天然の良港を得て遠く中国と貿易し、その富で兵器を集め沖縄本島中部を抑えた。神社の裏山には「佐敷ようどれ」と呼ばれる王家の風葬墓が残されている。 琉球王朝にとって極めて重要な玉城、斎場御嶽とこの月代宮は、聞得大君が参拝する聖地で、その巡回ルートを「東御廻り」(あがりうまーい)と言い、完走記のタイトルに使わせてもらった次第。ただし私は俗人ランナーのため、単に「東回り」とした。小さい町と思っていた佐敷町(現在は南城市の一部)も案外広く感じたのは、暗さと疲労のせいだろうか。 依然として歩道の状態は悪く、ある個所で突然塀にぶつかった。きっと家主は敷地を歩道とすることに反対だったのだろう。その部分だけは車道を走らざるを得ず、自転車も降りるしかない。道路標識が与那原町に変わった。数キロ先の三叉路が今日のゴール。昨年は最北端の辺戸岬からスタートし、2日間をかけて150kmを走った。その合流地点に間もなく到着する。 7時5分、ついに目的地に到着。32kmを4時間5分で走った計算だ。これで「沖縄本島一周単独走」を3年がかりで達成。走った距離の総計は322km。延べ走行日数は6日間。1日平均54km弱。これに要した経費は30万円以上になる。タクシーを停めて乗り込み、行き先を告げる。運ちゃんにこのことを話すと、大層な驚きぶりだった。それはそうだろう。伴走車と一緒なら兎も角、リュックを背負って島を一周しようとする気違いは沖縄にはいないはず。 ホテルでチェックインしてシャワーを浴びた後、近くの飲食店に入った。頼んだ料理はソーメンチャンプルー、ミミガー(豚の耳)の和え物、ゴーヤのサラダ。そしてオリオンビールと泡盛1合。1人だけでの祝勝会は寂しいが、案外「単独走」に相応しく、安物の泡盛も貧乏ランナーにはちょうど良いのかも知れない。 それにしても心の底から喜べないのは何故だろう。自分では納得していた積りなのに、北部の本部半島約50kmを周回せず、直進したことが引っかかっていた。これでも「本島一周」と言えるのか。やはり本部半島を走るべきではないのか。これは大きな宿題として尾を引きそうな気配。32km走ったせいか、はたまた翌日の「NAHAマラソン」完走10回目の緊張か、5時間ほどの睡眠で未明に目が覚めた。< これで本編は完結し、明日からは「NAHAマラソン完走記」に変わります。どうぞお楽しみに~ >
2010.12.10
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< 歴史の道ー2 >庭先にランタナ、ブーゲンビレア、ハイビスカス、ユウナ、サンダンカ、ジャスミンなどの花々が咲き乱れている。そしてバナナやパパイヤなどの果物も。とても12月とは思えない南島の風景だ。道端に黄色い実が転がっている。良く見ると塀の中でシークワーサーが鈴なり。思わず枝からもごうとすると、中にいた家人と目が合ってしまった。 「一つもらって良いですか?」。少し間を置いて、男の人が枝から切ったばかりのシークワーサーを3個私にくれた。シークワーサーは「ひらみレモン」とも呼ばれ、甘酸っぱい味。沖縄ではジュースとしてお馴染の果物だ。「ありがとうございます」。思わぬプレゼントをポシェットに入れ、再び走り出す。 間もなく知念城(ちねんグスク)入口。このグスクは切り石の石垣とアーチを持つ立派な城だ。城内には一際古そうな砦もある。時間がないため寄れないのが残念。ループ状の「ニライカナイ橋」が見えたのはこの少し先。ニライカナイは海の彼方にあると伝えられる沖縄の極楽のこと。風変りな橋は「尚把志ハーフマラソン」のコースになっていると聞いた。 海沿いの国道を直進すると、間もなく斎場御嶽(せーふぁうたき)の標識を発見。ここは首里城などと共に世界遺産に登録された沖縄の聖地。入口まで700mほどあるが迷わず脇道へ入った。時間は間もなく夕方の5時になるところ。ここまで17km走り、まだ先がある。ぐずぐずしてたら日が暮れるため急いで御嶽へ向かう。 17年ぶりの再訪だったが、周囲の様子が一変し民家が増えていた。駐車場にはたくさんのバスや車。前は訪れる人がほとんどない静謐の地だったのが、今は大勢の観光客が見学に来ている。200円の入場料を払って中へ。この御嶽は琉球王朝最高の神女である聞得大君(きこえおおぎみ)が王朝の繁栄を祈る場所。大君は王の血族に限られているのも、伊勢神宮の斎宮と良く似ている。 最初の拝所(うがんじゅ)が大庫理(ウフグーイ)。ウナー(お庭)と呼ばれる祈りの場がある。次に向かったのが三庫理(サングーイ)。ここは巨大な岩が斜めに立つ三角形の空間の先に久高島を遥拝する場所がある。 久高島は沖縄の祖先神が上陸した所で、最も神聖な場所。本来は島へ渡って拝むのだが、慶長年間に島津藩の侵攻を受けて以来その支配下に置かれてから、島へ渡ることを禁じられた。木々の隙間から揺籃の地、久高島を遥拝する聞得大君の心中はどうだったのだろう。 最後に寄満(ユインチ)へ向かう。まるで旧石器時代の岩陰遺跡みたいな場所だが、ここは神々にご馳走とお神酒を捧げる場所だ。今は3か所ともみずぼらしい香炉しか置かれていないが、私が沖縄にいた当時は鍾乳石から滴り落ちる水を受けるための壺があった。神様へ捧げる飲み物だったのかも知れない。 17時7分、御嶽前を出発。冬の日は次第に翳って来る。知念崎まで来ると沖合に白州と小さな灯台。潮流の関係で自然に砂が集まるのだ。知名崎付近まで来ると左手に尖った山。恐らく御嶽が置かれているはずだが、誰に聞いても山の名を知らないと言う。後日地図で調べたら須久名森だと分かった。日本神話のスクナヒコナノミコトは別名猿田彦。天上の神を案内する在来神だが、この「スクナ」と何か関係がありそうだ。<続く>
2010.12.09
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< 歴史の道ー1 > 国道331号線を快調に走っていると、やがて雄樋川大橋に出た。橋は結構高い位置にあり、目の前には青い海が。ここ港川集落の石切り場からは旧石器時代の「港川人」の人骨が発掘されている。今から1万8千年前のもので、成人男子1体、成人女子3体分だ。DNAはインドネシア人や、縄文人と良く似ているようだ。 橋を渡ると南城市。かつての玉城村だ。右手の奥武島(おおしま)は漁業基地だが、かつては風葬の島だったようだ。沖縄の民俗学者仲松弥秀によれば、「おお」は死者を嘆き悲しむ声から来ている由。NAHAマラソンのスタート地点である奥武山(おおのやま)公園もかつては風葬の島で、今でもその名残が見られる。宮崎の青島も「おお」の系統を持つとか。 国道331号線の内側(山手)には「グスクロード」と呼ばれる道がある。グスクは城のケースだけでなく、砦や聖地、墓地の場合もある。いずれも小高い山の上に築かれ、古い時代の住居址と考えられるグスクもあるようだ。玉城(タマグスク)は自然の石灰岩からなるアーチを持つ小さな城で、拝所(うがんじゅ)も備えている。仲井真城(ナカイマグスク)は琉球第一王朝の王族が眠る墓地だ。 百名集落の道端に分譲マンションの休憩所。15時50分。ここのベンチに座りお握り、パン、バナナを食べて小休止。説明員の方にこれから与那原まで走り、明日はNAHAマラソンに出ると言うと大層な驚きぶり。さらに昨年は最北端の辺戸岬から与那原までの東海岸を150km走ったことを教えると、人間業ではないと言う。付近の新原(みいばる)ビーチには息子達と泳ぎに来たが、珊瑚の破片で足が痛かった思い出がある。 お礼を言って再び走り出す。眼下には海。エメラルドグリーンの個所はサンゴ礁の内側で、沖縄ではイノーと呼ばれる浅瀬。そしてサンゴ礁の外側は急に深くなるため濃い紺をしている。遥か彼方には平べったい久高島が見えた。あれは沖縄の祖先神であるアマミキヨとシネリキヨが渡って来た島だ。 右手の小道を海岸まで下りると「受水走水」(うきんじゅ・はいんじゅ)がある。沖縄で最も古い稲田と伝えられている小さな沼だ。稲は2人の祖先神が携えた神聖な植物。民俗学者柳田國男は、「海上の道」である沖縄は日本列島への稲の中継地と考えた。現在ではルートは別にあると考えられているが、古代米である赤米などは沖縄を経由した可能性があると思う。 さらに行くと道路の左側から大量の流水。標識によれば山上には垣花樋川(かきのはな・ふぃーじゃー)があるようだ。樋川は地層中の水脈を利用するための人工施設。河川が少ない沖縄では掘り抜き井戸(かー)と共に貴重な存在で、古来より聖なる場所として大切に扱われていた。この周辺には丘陵地が多く、石灰岩に沁み込んだ雨水が崖から噴き出し易い地形なのだろう。<続く>
2010.12.08
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< 「沖縄本島一周」完結の旅へ > 「NAHAマラソンへ行かれるんですか?」。突然仙台空港のロビーでそう聞かれた。福岡便を待っていた時だ。「いや、福岡国際マラソンです」。そう答えるにはあまりにも爺さんの私。「ええ、そうですよ。しかしどうして分かったんですか?」私は逆に質問した。どうやらその人も福岡乗り継ぎで沖縄へ行くようだ。「去年もチケットが取れなくて、そんなランナーが多かったものですから」。 「へえ?」。何だか不思議だ。確かにジャージにランニングシューズでランナーと分かるが、いきなりNAHAマラソンに出ることを当てられるとは。「ホテルはどこですか?」。次の質問には答えなかった。彼は5回目の参加。沿道の暖かい応援が嬉しくてはまったのだとか。「私は12回目のエントリーだよ」と言うと驚いている。もし縁があれば那覇の街で再び会えるだろうし、ホテル名まで教える必要はない。 強い風が心配されたが、福岡便は遅れることもなく仙台を飛び立った。空から見えたのは富士山と中央アルプスと近畿地方の日本海側の海岸。そして次に見えたのは広島市街と宮島と瀬戸内海の島々。四国から九州までの大パノラマを眼下にしたのは初めてのこと。やがて関門海峡と関門大橋が見え、北九州市に続いて福岡湾、海の中道や能古島が見えた。 福岡空港のロビーで沖縄の走友へのお土産を買い、時間まで本を読む。持参したのは宮城谷昌光著「青雲はるかに」の上巻。出だしが悠長なため、暫く放っておいた本だ。これが読み進むうち惹き込まれるほどの面白さに変わった。那覇便も定刻通りの出発。窓際でもなくずっと雲の中だったため、読書のスピードがさらに増した。 那覇空港から直接モノレールで奥武山公園へ。翌日のレースのゼッケンを受け取るためだ。公園内には新しい野球場が完成していた。22年前に赴任した時は、あまりのボロさに驚くほどの野球場。だが、当時は栽監督率いる沖縄水産が甲子園で大活躍した時代で、足繁く通ったものだ。その球場が「沖縄セルラースタジアム」と名を変え、面目を一新していた。 登録会場の武道館には長蛇の列。今や空前のマラソンブームで、今回は定員を2万5千人まで下げて先着順とした由。なんでも県外が1万5千で県内が1万。先着順のせいでとうとう数字が逆転したとか。ようやくゼッケンを受け取ってホテルへ行ったが、まだチェックイン前だったため、トイレ内でランニング姿に着替え、荷物をフロントに預けた。 リュックの中には着替えなどを入れたが、ランニング姿のままタクシーに乗り込む。気温は23度ほどだから全然寒くはない。運転手に行き先まで最短距離で行って欲しいと告げる。多分3千円で間に合うはずだがどうなるか。車窓から南島の風景を眺めながら、私はこれから走るマラニックのことばかり考えていた。今回30kmを走れば、3年越しでの「沖縄本島一周」が達成出来る。だが、NAHAマラソン前日の30km走が無謀な冒険になる可能性もある。 具志頭(ぐしちゃん)三叉路へは3時ちょっと前に着いた。料金は2880円。やはり計算通りだった。自販機でスポーツドリンクを買い、3時ちょうどに走り出す。日はまだ上空だが、風のせいか案外涼しい。これなら楽に走れそうな予感。旧具志頭村役場が、合併後の八重瀬町役場に変わっていた。ここは沖縄本島の南端。今から海岸沿いに知念半島を一周する。アガリウマーイ(東回り)の始まりだ。<続く>
2010.12.07
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3日間留守にしてましたが、今日の夕方沖縄から無事帰宅しました。留守中のご来訪とエールをありがとうございます!! 4日(土)はホテルに荷物を置き、タクシーでスタート地点の具志頭三叉路へ直行。そこからゴール地点の与那原三叉路まで約32kmをゆっくり走りました。風があったせいか思ったほど気温が高くなくて助かりました。素晴らしい景色を観ながら1年ぶりの沖縄を堪能しましたよ。夜は沖縄料理で泡盛とオリオンビールを飲みました。 5日(日)はNAHAマラソン当日です。8時前にはスタート地点の奥武山グラウンドに着き、昔馴染みの走友と3年ぶりに再会。8時15分番号順に集合。9時スタートまでが結構待たされました。スターターは巨人の阿部捕手。来年のキャンプを初めてここの球場で始めるため招待されたようです。 前日32kmほど走っているので、自分の体と相談し、無理しないでゆっくり走ることにしました。曇りで走り易かったこととペースを守ったことが幸いし、途中で痙攣も起きずに最後まで走ることが出来ました。タイムは4時間50分25秒で4622位でした。出走者23402名のうち完走者は16845名で完走率は約72%だったようです。なお男子の優勝は宮城県の早坂光司選手(27歳)でした。今年は4大会ほどで優勝している方のようです。 宮城UMCの仲間は全員完走でした。その夜は古川支部のT田さんの肝煎りで大懇親会を開催。何と3時間の飲み放題で3千円と言う超安値。料理も立派なものでした。前日と合わせて74km走ってクタクタの私は2時間で退散させていただきましたが、残りの皆さんはまだまだ宴を楽しんでおられたようです。マラニックとレースの模様は明日から書く予定です。どうぞお楽しみに~!!
2010.12.06
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5時まで寝る積りで目覚ましをセットしていたのですが、4時には目が覚めてしまいました。やはり気持ちが高ぶっているのでしょうね。これからいつものように愛犬と散歩し、朝食を摂ってから空港に向かいます。1年ぶりの沖縄、暑いだろうなあ。さて、あの南の島でどんなドラマが待っていますかねえ?では皆さんさようなら。行ってまいりま~す。
2010.12.03
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あれは3年前のこと。カレンダーを見たら年末年始にかなりの休暇が取れることが分かった。それで考え付いたのが沖縄本島一周だった。だが、妻にその話をしたら一発で断られた。沖縄本島一周どころか、ただの一蹴に過ぎなかった。理由はそんなに家を空けられたら困ると言うこと。仕事を持っている妻は、愛犬の散歩だって負担になると言うのが言い分だった。 試しに距離を計測してみたら360kmほどになった。それを5日間で走破する自信もなかったし、6泊7日の経費をねん出する目途も無かった。そんなわけで最初の夢は全くの空想に終わったのだった。私が何故それほどまでに沖縄本島一周をしたいと思ったのか。第一の理由は大好きな沖縄を自分の脚で走ってみたかったからだ。 第2の理由は私が沖縄を離任した数年後、走ろう会の仲間が駅伝方式で沖縄本島を一周したと聞いたからだ。在任中に職場から本島最北端の辺戸岬周辺まで、縦断駅伝でその一部を走ったことはあった。だが東海岸を含む全島一周は夢のまた夢。自分がそこに立ち会えなかったことが悔やまれたがどうしようもない。 だが一度での一周は不可能としても、幾つかに分けたら実施できる可能性がある。そう考えて企画したのが一昨年の西海岸縦断だった。7月の暑い盛りの縦断は、沖縄の走友から自殺行為とまで言われた。半ばそれを無視しての縦断走の初日は、摩文仁平和祈念公園から那覇市内まで。走り出したのは夕方の5時近かったが、体感温度は35度を超えていた。 第2日目は那覇市内から名護市内まで。道路上は40度ほどの暑さで、汗びしょの靴下が5分で乾いた。第3日目は最北端の辺戸岬から名護市内へ逆走するコース。だが走れたのは朝の1時間と夕方7時過ぎからだった。2度ほど軽い熱中症に罹り、一部の記憶が飛んでいる。こうして140kmの縦断走は何とか成功した。 昨年の東海岸縦断走はさらに困難を極めた。前年の反省で実施は涼しい11月を選んだが、北部の東海岸は極度の過疎地帯で、給水給食が出来ない可能性があった。このためリュックにはかなりの水と食べ物を入れた。スタート直後から強い雨と風で、体感温度は8度以下。沖縄であれだけ寒かったのはこの時が最初で最後だ。そしてスタート直後に道路でハブの死骸をみつけ、おっかなビックリのマラニックになった。初日のゴールは75km先の1泊7万2千円のリゾートホテル。他に宿泊施設がなかったためだ。 2日目のゴールもまた75km先の与那原町。1日目共々ホテルに着いたのは夜の10時半を過ぎていた。11月末と言うのに、途中ではセミの鳴き声も。そして残金を計算しながらの走り旅はなかなか厳しいものがあった。そんな苦労の末に何とか東海岸単独走破も果たせた。そして「沖縄本島一周」で残されたのが、明日走る南部の30kmなのだ。 3回の合計で走破する距離は320kmに及ぶ。それを伴走も無くたった1人で走(る)ったのは多分私が最初だと思う。沖縄の走友が呆れるわけだ。だが過酷な条件にも耐えられるのがウルトラランナー。もし沖縄に住んだ経験も無くウルトラマラソンの経験もなかったら、単独で夜中の東海岸を走るのは無理だと思う。 明日の今頃はきっと暑い中、沖縄南部の道を走っていることだろう。そして明後日は、42kmの長さに悲鳴を上げることだろう。出来れば今夜は十分に眠りたい。今週も何とか勤務を終え、走れるくらいの体力は残せたように思う。では明日から沖縄へ行って来ます。帰宅は6日(月)の夜になります。たくさんの土産話を楽しみに待っていてくださいね。ではでは~。
2010.12.03
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私が初めてフルマラソンを走ったのは45歳の時。今から21年前のことで、出場したのが「第5回NAHAマラソン」だった。走り始めたのが35歳だったから、10年かけてようやくフルに挑戦したことになる。 平成元年4月、私は家族と共に沖縄へ赴任した。気候も違うがもっと違ったのが文化の差。それに初めて管理職として上司に仕え、公私ともに戸惑うことの連続だった。そんなある日、職場の構内で「24時間マラソン」の横断幕を見つけた。そのことが職場の走ろう会に入るきっかけとなった。 「24時間マラソン」は1時間ずつ走ってタスキをつなぐイベントで、私も1時間だけ走らせてもらった。沖縄は何しろ暑さが半端じゃない。夏日と熱帯夜の組み合わせが4ケ月ほど続くような印象があった。クーラーも無い部屋で親子5人が暮らすのは、生き地獄のようだった。ランニングも然り。東北出身のランナーが亜熱帯の島で走るのは並大抵のことではない。それほど暑さが違うのだ。 職員走ろう会と一緒に練習を重ね、何とかNAHAマラソンにエントリーした。42kmの距離を走るのは初めて。給水や給食をどう摂るか、ペースをどう保つかなど知る由もなかった。レース当日は26度の炎天下を無我夢中で走り、37km周辺で倒れた。物凄い痙攣が次々に両脚を襲い、立つことが出来ずに道端で苦しみもがいていた。 時間にして十数分は苦しんだと思う。辺りの人が見かねてスポーツドリンクをくれた。そのお陰で何とかゴール出来たが、5時間22分29秒の苦いデビュー戦となった。それが私のワースト記録だ。実は3時間36分03秒のベスト記録もNAHA。初フルから5年後のことだった。 沖縄を去った後も、何度かNAHAへ参加した。まだ疲労骨折の後遺症が残っていた年は、中間地点の摩文仁平和祈念公園で走るのを止めた。時間はたっぷり残っていたから、頑張ればゴール出来たかもしれないが無理はしなかった。エントリーしながらレースの直前に膝を傷め、35km地点で走友の応援に徹したこともあった。 51歳で初めて100kmに挑戦して以降、ウルトラマラソンでの完走が目標となったが、やはり私にとってマラソンの原点はNAHAしかない。今回は完走10回目の節目だが、沖縄の走友の中には第1回から連続して完走し、今回で26回目を迎える仲間もいる。その仲間がスタート地点の奥武山グラウンドで待っている。 前日沖縄に着いたばかりで30kmを走るため、「NAHA」では相当苦戦するはず。当日の気温は1度上がって24度になりそうだ。出来るならワースト記録を作りたくはないが、その時の体調に合わせるしかなく、今回は初めてファンランになるかも知れない。暑さと疲労に苦しむのも一興。兎も角2日間は南の島を汗だくになって走ろうと思う。
2010.12.02
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今週末の沖縄行きが近づいて来た。天気が良く気温が高い今日は、沖縄でのランニングを想定した練習にはピッタリの日だったが、バスで帰宅した。理由はバスカードの不調。2日連続で使用不可能だったためだ。勤務後駅のバスセンターに寄り、カードを作り直してもらった。これで明日から気持ち良く通勤できるはず。 帰宅の途中、バスの座席ですっかり眠ってしまった。かなり疲れていたようだ。先月は10日連続、7日連続、7日連続で走ったため、疲労が溜まっていたのだと思う。沖縄行きを前に少しでも疲労回復出来て良かったと思うことにした。それに明日は早番と遅番の連続勤務。忙しくてきっとブログを書く暇もないはず。 さて、週末の沖縄は天気が良さそうだ。那覇周辺は土曜日、日曜日とも晴れ時々曇りで、最低18度、最高23度の予報。走るにはもう少し気温が低い方が望ましいのだが、まあ贅沢は言えない。この分では両日ともランパン、ランシャツで走ることになろう。土曜日のマラニックは「宮城UMC」、日曜日のNAHAマラソンは「南仙台走友会」のユニフォームにする積り。 土曜日の30km走は、本島南部太平洋側の知念半島を1周するコース。ここは海沿いの眺めが素晴らしい所。太陽の光線で海がエメラルドグリーンと紺色に見えるはず。ここを走るのは初めて。アップダウンが激しく、東北に比べて高温のため、かなり消耗するだろう。でもここを走り切ると3年越しの「沖縄本島一周単独走」が達成するので、何としてもゴールしたい。 スタート地点の具志頭三叉路まではタクシーで行く積り。そしてゴールの与那原から那覇までもタクシー。当然着替えや水や財布などを入れた小さめのリュックを背負う。恐らくホテルに戻れるのは7時半過ぎのはず。最後は真っ暗な道を走るのも覚悟のうちだ。 このコースは眺めが良いだけでなく、城(グスク)が多いのも特徴。周囲には糸数城、玉城、仲井真城、志喜屋城、ミントン城、垣花城、知念城など、色んなタイプのグスクがある。ただし、グスクは日本の城とは性格がまるで異なる。もちろん首里城など城郭の形態と性格を有するものもあるが、多くは砦や聖地であり、中には墓のケースもある。今でも信仰の対象なので、あまりの神々しさに驚くことだろう。 南部には世界遺産の対象の城はないが、唯一琉球王朝時代の最大の聖地である「斉場御嶽」(せいふぁうたき)が、今回のコースから少し入ったところにある。ここは内地の「伊勢神宮」に相当する場所。ただし、貧弱な香炉があるだけで、巨大な岩が静まり返っている。今回マラニックの途中に寄る時間があるかどうか。 このコースは17年ぶりの再訪。あれから広域合併が進んだが、景色はどう変わったか。もし沖縄本島一周が達成出来たら、翌日は付け足しみたいなもの。それにNAHAマラソンの10回完走記録が逃げることもない。さて、そろそろ旅行の準備に取りかかろうか。それにしても沖縄行きの待ち遠しいこと。
2010.12.01
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