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菅前総理は以前に書いたとおり政治理念が明確で実行力が優れていて、進退に対して執着心がなく自らの保身を図ろうともせず、前時代的と見られるかもしれませんが逆にそういう人がいません。短期間にたくさんの仕組みに手を加え自らが盾になりました。メディアは饒舌でない政治家には終始攻撃的ですが、言葉尻やちょっとした失言や噂を狙って批判するので、決まったこと以外は必要最小限しか話さないのが賢明です。菅前総理が寡黙に見えたとすれば、それは彼の自信の顕れだと考えます。やるべきことや言うべきことで如何に仕事をしているかは、安倍元首相の国葬の追悼の辞からも感じ取ることができました。【菅前総理の追悼の辞・全文】長くなりますが、今回の国葬のよかったことを以下に記したいと思います。国葬では入念な儀式としての演出が施されたと感じますが、いつもながら日本らしく儀礼的で、型にはまったものに見えました。儀礼的なのは厳かで演出家の顔が表に見えず創造性を感じさせません。また、日本の場合は仕事目線でことなきに終わることが善しとされ、音楽においても凝った演出で時間をかけて作り上げるより、タイトなリハーサル時間の中で無難な準備ができることに評価が高いです。SNS上で若者は国葬で使われた”音楽がつまらなかった”と言っています。劇版作曲家などを起用すれば臨場感の高い優れた音楽を作れたと言います。旧態依然の印象が強かったのは生演奏の楽隊ではないかと思います。伝統と慣習に縛られている感が強く日常とは温度差を感じるものです。演出が伝統的で、選曲に対してごくシンプルな編曲と凡庸な演奏、華やかさはNGだとしてももう少しやり方はあると思います。これまでが一般的な穿った見方ですが、全体に誤解があると思います。まず、富士山に見立てた祭壇は確かに演出が感じられました。しかし、他においては単に簡素で儀礼的だったのではないでしょうか。テレビ朝日モーニングショーで玉川徹氏は「電通の演出」と言いました。テレ朝・玉川徹氏 安倍氏国葬で菅義偉氏の弔辞に広告代理店の演出指摘テレ朝・玉川徹氏 安倍元首相の国葬は”電通の演出、政治的意図”発言で、ネット紛糾「五輪もこうして騙された」「やっぱり利権がらみ」感動的と報じられた菅前総理の追悼の辞までもが演出だという内容でした。しかし、1日明けた今日の同番組内で玉川氏は誤報だったと謝罪しました。玉川徹氏、安倍元首相の国葬での自身の発言を訂正、謝罪…「事実ではありませんでした」…ネットは厳しい反応玉川徹氏が謝罪「事実ではありませんでした」菅義偉氏の広告代理店の関与指摘でこのことは、彼自身が自分と重ね合わせて国葬の演出を見ていたことを示し、番組内でも事実に対し演出を踏まえて発言していることを明かしています。菅前総理の追悼の辞を演出と言うことは、彼自身も演出だと言うことです。情報番組で情報そのものに演出は要りません。VTRに音楽も要りません。人々はこのような状況に慣らされ過ぎていてもはや日常となっています。本心の言動までもがそれを素直に受け取れない人によって脅かされます。菅前総理が寡黙になる理由もここにあるのではないでしょうか。この国葬を政治利用と考えるよりも一個人の葬儀だと考えると、故人や喪主の好むであろう演出をし、好む音楽を流すのが一般的です。周りでとやかく言うのは失礼なことにも感じるのです。
2022.09.29
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禁酒状態の中、ついに検査を終えました。指定された時間にクリニックに行くと待ち構えられていた感じで、いつもとは違う担当の方から早速検尿のコップを渡されました。この方は検査に熟練した利発な雰囲気が漂っていました。検査を順番に説明していく中で、受検者の反応を想定されていて、ケーススタディが完璧に頭に入っている様子でした。楽しみにしていた採血、何気に出した左腕から選んだ血管は意外な箇所で、採血は取る人によって選ぶ血管の場所が違うことを今日も感じました。血管は大当たりでした。ただ普通に痛かったので尊敬までできず(笑)。いつ刺したかわからないあの感覚は感動に値するのでいつも期待大です。あと、体重計は家にあるもののほうが性能がよく、数値が一定に安定しないうちに「いいですよ〜」と終わってしまいました。自分としては最近体重が増えているので気がかりだったのでちょっと残念。しかも、朝測った数値よりかなり高くて目を疑うものでした。後で訊いたところでは衣服の重さは差し引かないとのこと。いつも同じ体重計で測らなければ比較できないなぁと思いました。待ちに待った検査でしたが、清々しく終わる結果ではありませんでした。しかし、やっと呑めるということで解放感は半端なし!この日は一人ですが久々にゆったり呑みました。翌日からはまた禁酒か量や度数を減らすか…その日のストレスによります。クリニックの受付やパン屋さんで共通して感じることがあって、内向的な人が多いのか、コミュニケーションがうまくできません。クリニックでは、パソコンから目を離してこちらを見てもらうために、まず「こんにちは」と声をかけますが返されず次の会話になります。そして、受付が完了したのかどうかわからず、離れていいか尋ねます。これでは変な人が入ってきてわかるのか?海外ではないことです。以前の病院やクリニックではなかったことですが全く人によります。不思議なのは、隣にも人がいてこの人は様子をわかっているようです。よく行くパン屋さんはパートの店員さんがしょっちゅう変わることも要因で、バゲットを買う時に「保存袋は要らない」旨を伝えても毎回伝わりません。注文を取る人がパンのラッピングまでしますが会計は別の人で、会計時に伝わっていなくてもう一度言わないとそこで袋がついてきます。すぐ隣でやっていることなので、ちょっとした合図で何とかなるはずですが、店員さん同士でもコミュニケーションを取らないことがわかります。おそらく会計の人が注文を聞いた人の袋忘れと判断するのだと思います。諦めてなされるがままに保存袋を受け取ればいいのかもしれません。フランスのパン屋さんで保存袋がついてきたことはなかったのですが、店の人がバゲットを日常的に食べる習慣を持ってないだろうし、保存袋は毎回もらうと家でどんどん溜まっていきます。パンに愛着があると言うよりイメージでアルバイトを選んでいる気がします。些細なことなのですが、ちょっとしたことで元気ややる気が出ます。人の考えや気持ちがわかると悲しいことのほうが多いので、ほんの束の間のやりとりだからこそ優しく接してもらいたいと思います。生きていくということは、人とのやりとりの細かな積み重ねでしかないですから。
2022.09.27
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学生の頃、作曲をするための理論、また現代音楽について勉強、そして、それらを振り返って30-40年経った今の状況を考えた時、確かなものを学んだ自負、大きく変わった時代の価値観、さらに同じルーツのことを学んだはずが人によって全然異なる表現、それらは混沌としていますが考えを整理してみようと思います。そう思った手がかりは、学生時代に作風の勉強のために購入した、市販されている日本人作曲家の「こどものためのピアノ曲集」で、今、家の整理をするためにフリーマーケットで売っていますが、すぐに売れてしまうものと全く売れないものに分かれることです。このことが作品としての価値に直結するものではありませんが、元大学教授やアカデミックな知見を重視する作曲家の曲集、また、さまざまな作曲家が入っている曲集が売れません。大学教員の場合、多くの学生に認知されているはずですが、ピアノレスナーになった卒業生にも支持されていないようです。こどものための曲集ですから、曲が親しみにくいと言うわけではなく、現代音楽を専門とする作曲家でもほぼ調性的な作品です。逆に即日売れた曲集は何冊もあり、圧倒的な支持者が買うようです。偉い作曲家を尊敬するよりも、作品の愛着や魅力が勝ると感じられます。また、響きに対して幅広く論理的に解釈した場合でも、元大学教授の作品にはこどもが弾けば音を外したと思われるような、誤解を招く音のぶつかりが見られ、避けられるだろう要因があります。理論を敷衍した大胆な発想かもしれませんが受け入れ難いです。ただ30年以上前に出版された楽譜は即日売れた作曲家の曲集でも、明らかに論理的におかしな動きや稚拙な表現が見られるものもあり、曲のクオリティに関して選ぶ側の見識も問われます。結局、作曲家の知名度、支持者の数が人気に関わっているようです。日本音楽コンクール・作曲部門の演奏審査がなくなって久しいですが、楽譜の審査だけで聴くことなしに順位が決まることは「?」となります。審査員が楽譜を読むことにどれだけ長けていたとしても、自分の見聞きしたことのない譜例がある場合に把握できるでしょうか。その意味から、普通はどんな音がするのか一度音を聴いてみたいと考えます。実際に演奏にかかると演奏不可能の箇所があったり、困難であったりと、譜面を見ただけでそれをわかるには相当入念に時間をかける必要があります。裏を返せば演奏によって印象が変われば、評価への影響もありえます。現代の作曲はこのように楽譜が全ての世界だと言えますが、料理で言えば味わうことなしにレシピで順位を決めるようなものです。どんなに精緻で考えつくされたレシピでも食せずに美味しいと言えるのか?美味しいかどうかは関しないのが今の現代音楽だと言えます。そう考えると、楽譜を見て聴いていない一般聴衆は曲の良さがわかるのか?そんな繰り返しを何十年も続けている気がしているのですが、楽譜や奏法の進化はあっても、聴いた印象はデジャヴや退化を感じます。書いている作曲者もそれをあまり意識していない気がします。狭い中のアカデミーで相互理解を図っている感じが拭えず、より広い尺度がなければ他者の理解は得られないのではないかと思われます。それを解消する手立てが調性の復権、引用などですが、ただ昔のものをリサイクルするだけであれば未来はないと思います。
2022.09.24
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世論調査機関がアンケートを実施した結果、安倍元首相の国葬に対して、反対64%賛成27%だそうです。反対理由は①国葬に値しない②不透明な決定③高額な費用、また、テロや事件が起こるのではないかと危惧されています。最近は大きな葬儀が減りましたが、葬儀の意味は弔意だけではなく、誰が参列したかと言うことでは、遺された人のためでもあるでしょう。安倍元首相が遺した海外要人とのコネクションを引継ぐ目的があり、だからこそ国葬であって外交が大きな意味として考えられます。岸田首相が迎賓館で各国首脳30人と個別に会談することで、個別に海外で会ったりリモートや電話よりも圧倒的に意味があります。これらのことは社会人であれば皆わかることだと思いますが、反対理由①は安倍元首相と親交のあった海外要人に対して失礼です。日本は今、物価高、円安など問題が山積で明るい未来が想像できず、日本周辺の国際問題や貿易、経済損失なども予断を許さない現状です。今、国際的なアピールや国交を良いかたちにすることは必須でしょう。ウクライナほどでなくとも自国のために協力を仰ぐのは当然です。その意味では、エリザベス女王の国葬とは全く異なり比べられません。ただ、親交のあった要人を内外から迎えることは業績を示すと共に、亡き安倍元首相の最期の大仕事だと言えるほど理に叶っています。日本の国益をもたらす親交のために行うと言っていいと思います。今行われている国連総会でも盛んに演説が行われ意見交換されています。各国のトップが一堂に会することはそれだけでも意義は大きいです。日本の首相の発言力が各国にどの程度響くものかはわかりませんが、各国がどんなに議論を尽くしても一つになるのは何でも難しいです。安倍元首相より発言力のあった日本人政治家は近年いなかったわけで、好きか嫌いか、評価するしないはともかく、他の人には変えられません。葬儀は安倍元首相の業績や評価ではなく、ひとえに親交のためです。どんなに人のできた優秀な政治家であっても親交の厚さは別です。日本の政治家が不甲斐ないと言っても投票で選ばれたわけですから、首相が不甲斐ないと言うなら指名制度に対して意義を唱えるべきです。今回の国葬に対するアンケートはとること自体が反対表明に思えます。何故なら賛否の結果を出すことに意味がないからです。
2022.09.22
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もう家でも外でも遠慮なく呑めるようになりました!ただ、最近はお医者さんや管理栄養士さんの監視下!?かなり呑めない状態が続いています。来週の検査が終われば反動がくる予定です(笑)少し前の飲み会写真になります。よく行く焼き鳥屋さん。クーポン券がありました。リーズナブルな焼き鳥をメニューの端から端まで注文。これは中華のお店の揚げレバーです。レバーを揚げるとこんな美味になるんだと驚きます。これぞ酒の肴ということで昼飲みを堪能しました。音楽談義に華が咲きました。次は家飲みでの新オードブルです。クリームチーズの下にあるのはドライ無花果(いちじく)です。上には、胡桃(くるみ)、カシューナッツ、アーモンドで、これはトルコのおやつです。すべてが混ざると美味しいお菓子になります。次は適当な盛り付けのサーモン・カルパッチョです。いつもと違うのはレタスを敷いて濃い味のドレッシングで食べました。ノルウエーサーモンは今や高級品になった気がします。最後は、一人呑み用に作った簡単チリコンカンです。カロリーが高いので一人の時はチーズは乗せません(笑)最近、食が細くなりました。それでもかなり歩かないと体重が減りません。とにかく検査までは細々と禁酒生活を頑張ります。
2022.09.20
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NHK・Eテレの日曜夜のクラシック音楽館。いつものコンサートの収録でこれほど感動することはありません。昨日は「NHKバレエの饗宴2022」と題されたバレエ公演でした。異なるバレエ団から選り抜きのダンサーがハイライトを踊ります。この日にまず良かったのは番組構成・プログラムです。ダンサーのインタビューを少し織り交ぜ、全体の構成が素晴らしいです。特に感動したのは後半に登場した、菅井円加さんです。そして、興味深く観れたのは中盤のスターダンサーズ・バレエ団です。スターダンサーズ・バレエ団はいろいろな種類のレパートリーを持ち、今回のジョージ・バランシン振付「ウエスタン・シンフォニー」も、バレエの技術で踊る集団のダンスで、様式としては新しいバレエです。細かい振付や踊り手が素早く移動していく様は爽快ですが難しそうです。高い技術はすぐに見て取れますが、とにかく楽しい仕立てになっています。残念なことは音楽はテンポが一定で単調、重点が置かれていないかと。その意味では、この後プロコフィエフやチャイコフスキーが出てきますが、バレエ音楽としての気品と拡張の高さを自然と感じてしまいます。バレエに感動するのは伝統に根ざした素晴らしさがあるからです。今、作曲をしたいという人は優れた独創的な作品を作りたいのではなく、料理で言えば大半が「ファストフードを調理したい」という印象です。例えとしてファストフード業の方に失礼かもしれませんがそうなのです。調理師学校に入る意味はあるのか?音楽大学に入る意味はあるのか?「ファストフードならバイトで調理できるんじゃないか?」それを”調理師”と言うなら、作曲でも肩書きに”作曲家”が入ります。美味しいしとても売れているのだから世の中的には充分です。レシピにあまり凝るものではなく、要領を識れば誰でも作れるもの、大方の予想を裏切らず欲した人の期待は裏切らないもの。作曲家としてのハードルはひと昔前よりも格段に下がりました。だからこそ、伝統に根ざし時代と共に進化したものは希少で光ります。
2022.09.19
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小学生の頃、どうしてもオーケストラコンサートを聴きたくて、ひとりで30分電車に乗ってコンサートに行った大冒険の記憶があります。地方に住んでいたので、何を聴きたいなどという希望は許されず、有名外来オーケストラが来たらとにかくそれに行くというわけです。それがクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団でした。メインプログラムはR.コルサコフのシェエラザードでした。それまで聴いたこともなかった曲目でしたがじゅうぶん衝撃を受けました。映画音楽のように映像を感じた印象を今でもよく憶えています。中でも印象的だったのはヴァイオリンのソロでその音色は新鮮でした。オーケストラの響きの立体感はレコードでは気が付かないものでした。また、当時はまだ東ドイツのオーケストラだったこともあり、何か華やかだけではない異文化の音を子供ながらに興味深く感じました。日本人の多くは米英的な明るいサウンドが好きなイメージの根底にあり、深い響きを特徴とする旧共産圏の渋い音色を想定していません。吹奏楽や金管バンドの多くの人が求めるサウンドがまさに明るい音で、フランス近代にあるような複雑な色の変化や一時的な不協和は、識者の意見に同調することはあっても感覚的に好んでいないと感じます。ラヴェルで言えば、「ボレロ」「ダフニスとクロエ」は受け入れても、「古風なメヌエット」のような不協和音程は好まれない傾向です。クラシック音楽は識者の意見や課題曲であれば一時的に受け入れられても、元来の芸術性に造詣を深める人は残念ながらまだ少ないと思われます。近頃は音楽の形容として、偏に「響きが美しい」と「かっこいい」に集中し、一般的に音楽的な深さを説く感想は殆ど聞かれないと言っていいと思います。最近は音楽評論家であっても旧態依然の文献を集めたかのような評論か、アマチュアや若者向けの当たり前のことが大袈裟に書かれているかです。元来楽曲分析は一言一句に拘る研究論文としての重みがありました。そこで既知の大作曲家の名曲の秘密を解き明かすべく加熱しました。また、大作曲家のゴシップを含めた伝記は曲のみならず人格も美化されました。嘗ては天才の異名を持つ作曲家は全ての言動が気高いとみなされました。名曲解説全集では、モーツァルトが単に冗談で書いた音楽にも、当時はまだなかった近代の作曲技法によって説明されていたり、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」の第2楽章での突然の驚愕音は、近年は居眠りをする聴衆を驚かすためと言われていますが、同書では当時の写譜屋さんの問題であるかのような解説が見られました。天才芸術家に見られるエキセントリックな一面を作曲家も持つことも多く、奇行や恋愛遍歴、死因に至るまで人としてさまざまな点において特別な存在です。聴衆や演奏家は、作曲家の音楽のみを理論づけるのではなく、ロマン派の作曲家に見られるような人生と音の密接な関連、なぜその曲をそのような音で作ったのかということに興味があります。しかし、音楽の理論の部分だけで近代から現代への橋渡しがなされ、周辺の人たちは理論は理解できても音には好みとして着いていけなくなりました。教育機関などのアカデミー、音楽に助成する団体によって研究は続けられますが、音楽である以上、真に支持され音楽を好む聴衆や演奏家を獲得できるかが問われ、何を目的としていて影響が何をもたらすのか見えなくなっているかもしれません。結果、演奏や聴くことに楽曲分析が何かをもたらす気配はどんどん薄れてしまい、楽譜から何を読み取るかすらも自由だという世相に変わりつつあります。高尚であった筈のクラシック音楽は、今やその作曲意図とは関係なく、原曲から変えられた形でさまざまなシーンのBGMに使われています。これらは長年、音大生が選曲するコンサートプログラムとその楽曲解説、また大学院生の研究論文における楽曲分析への関心度から感じることです。現代音楽や楽曲分析への関心は知的好奇心から起きることが主で、他の多くの音楽への関心や共感とは程遠いものとなってしまいました。
2022.09.18
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SNSが登場して人々は自分の意見を主張することができた、と言うよりも自分のことが気ままに言えるようになりました。意見としての書き込みは誰が読んでも理解できる内容で、気ままな書き込みは一部の人か本人しか正しい意味が理解し難く、投稿者の一面を曝け出す自分本位なものが多いと思います。書いてはいけないと言うつもりはありません。ただ、何を言いたいのかわからない投稿は読む意味がなく、「いいね」を媚びる前提の書き込みや写真は好きではありません。旬のタイミングで自然な気持ちが顕れていることに良さを感じます。文章を人に晒すことは特定であっても読み手のための筈です。どんな独り言であっても人に聞こえるように言うのは発言です。そうであれば読みやすい文章、適切な言葉遣いが望まれますが、そこにも自分流を出す人は多く流行語や省略形も次々に生まれます。それらはSNSだけのことではなく、言葉を含むさまざまなデザイン、紙であれWebであれ読み手の見やすさよりも作り手の趣味が強く、文字の大きさや色、フォントなど読みにくいものが増えました。文字が小さくて太い線のフォントを選ぶことで、文字が潰れてしまい想像力で読むなどと言うことも増えました。良く言えば機能性よりもデザインを重視しているわけですが、ひと昔前には読み手のことを考えたデザインが求められました。そのようなことを教えなくなり、指摘する人がいなくなってしまった、その結果、読み手のことを考える想像力が欠如し始めたようです。音楽も主張よりも装飾的な音符、装飾的な和声がファッション感覚で、新鮮な個性の主張はなく、今までの流儀を無難に採り入れるものが多いです。また、今の特徴としては歴史的な意味合いを感じることが殆どなく、体系的に捉えることよりも感覚的で理論性も希薄なのが共通しています。最近気になるものに国や自治体がリリースするアプリ、それとAIです。接触確認アプリCOCOAも最初期は役に立つものではありませんでした。また、COCOAへの陽性登録や陽性期間が本当に確かだったのか疑問です。最近ではマイナポータルもスムーズに行かない面がありました。自治体のアプリでも作成の遅延やスムーズに登録できない状況があります。そのためか登録者数が伸びず、本来の目的が達成できるかも不安です。例えば、地元のデジタル商品券を作ってもお店側の参加が少な過ぎたり、設備投資や参加者募集のための宣伝、問合せ対応のための費用が嵩みます。アプリのように立ち上げ段階で不備が起きるのはAIにも感じます。翻訳ソフトが良い例でなぜこの訳?何歳くらいの設定でこの訳になるのか?しかし、AIはもはや人よりも優れているかのような印象が持たれています。AIが誤った判断をすれば人が修正する、それが可能なうちはいいですが、多くの人がAIに制御される反面、AIを制御できる人はごく僅かになるでしょう。自ら作りたくて作られたアプリは開発者の熱意が反映されたものでしょう。しかし、国や自治体から請け負ったものは指示を受けて作られたものです。請負アプリ、専門知識の詰まったAI、いずれも欠けているのは、利用者の気持ちや動向で、その配慮の欠如から利用者は制御されます。アプリやAIには人の気持ちの入り込む隙間がありません。判断ミスが起きた時でもそれに従うか、人の手で逆に制御するかのみです。現代の問題である円安と物価高、コロナ対応、ウクライナ侵攻、異常気象など、人々が制御されるこれまでの出来事にデジタル化も加わる気がしています。
2022.09.17
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「苦労は買ってでもしろ」という諺があります。類似の諺は海外にもあるということですが、最近は「中年の戯言」とか、「苦労も度が過ぎると心が折れる」としなくてもいいと考える人もいます。これは、まさしく”苦労が自分の糧になった人の言葉”です。確かに苦労を敢えてする必要はないと思います。ただ苦労をすることによって、できなかったことを克服したり、将来は苦労を回避できる流れができたり、知恵が身に付きます。最もよいのは「苦労と思わないでできる苦労をする」です。今思えば50年前子供ながらに苦労ばかりしていました。例えば、緊張し過ぎるのか30分に1回くらいの頻尿になりました。すると45分くらいの授業でも我慢するのにひと苦労で、「トイレに行きたい」と申告するのは恥ずかしいし嗜められたりしました。”生理現象だから仕方がない”という考え方はまだなく、休憩時間に予めトイレに行っていないと決めつけられ、行くことを許されなかったこともありました。理由はわかりませんでしたが、小学校から中学の後半まで続きました。今思えばとんでもないストレスを抱えていたに違いありません。遠足や修学旅行も行った記憶がないのは休んだか気が気でなかったからです。苦労は他にもありましたが、大きな苦労があると小さな苦労は吹っ飛びます。苦労と感じるのは個人差があり、苦労と感じる境界線が異なります。今は軽症であってもさまざまな症状で病院を受診することができます。しかもちょっとしたことでも病気だと言えば周りから気遣われます。反して、昭和を生きた人は我慢や苦労を強いられたレベルが違います。世の中がどんどん便利になりそれが当然になる前の時代です。便利になるとは2-3時間歩いて通ったことがバスで30分に変わるようなことで、バスが開通する前は歩くことが当たり前なので苦労とは思っていません。その時は苦労と感じずに普通に受け入れていたかもしれませんが、その過去を知っているからこそ、我慢ができなくなるリスクもわかります。HSP(Highly Sensitive Person)という特有の気質があるそうです。生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質を持った人」のことだそうです。病気ではありませんが、この人は生きづらくなる可能性があると言います。しかも統計的には人口の15-20%で5人に1人が該当するそうです。①深く情報を処理する ②過剰な刺激を受けやすい ③共感しやすい④心の境界線が薄い・もろい ⑤疲れやすい ⑥自己否定が強い大きな特徴については自分にぴったりな部分が多いと感じました。さらに細かい症状例では、それは重症例であまり当てはまりませんでした。SNSではHSPの人が大きい音が苦手だと主張していました。「大きな声で子供叱る声」「遠くの人を呼ぶ声を間近で聞く」「店内でグラスが割れる音」「ドアがバタンッと閉まる」「食器がガチャンと重なる」「運動会のピストル音」「急に吹かすバイク音」「電話の着信音」「地声がでかい人」こよなく静寂を好む穏やかで優しい人が多いそうです。少し考えてみれば音楽に従事している人の一般的な気質です。これらの気質を持っている人は身近にいると思いますが、だからと言ってネガティヴな性格とは限りません。過敏とも言える感性をポジティヴに受け止めれば武器にもなります。どうしようもない我慢、苦労はNGですが、HSPはそれほどのことなのか?海外で国民気質が変わると賑やかな生活環境にもなるがそれは無理?他の8割の人がHSPを配慮してあげるほどのことか?など???です。その意味では「苦労は買ってでもしろ」と言いたくなる気持ちもわかります。
2022.09.14
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若い時に海外に初めて行くと、初日に会う現地の人の印象、これがその国の人の印象として焼き付くことが多いと思います。大抵の日本人は初めて行った国では言葉が話せないことが多く、日本での経験や印象をもとに状況を判断し相手の反応を窺います。これは日本人だけのことではなく、例えばドイツとフランスは隣国ですが、言語や気質が異なりお互いに同じだとはまったく思っていないようです。例えば、たまたま海外で出会った人が優しく接してくれなかった時には、その国の人は冷たいと感じ、その結果「◯◯人は冷たい」と記憶します。しかし、実際はたまたま会った人のタイプがクールな人だったり、習慣が日本とは違っていて常識や表現が異なったりしただけです。印象は同様のことを考える人と出会うとさらに確信となります。現代で言えば、SNSで同じことを感じている人は容易に探せます。確信となった印象はなかなか変わることはありません。しかもその印象は一人の実感を多数に当てはめるという決めつけです。例えば、とても物知りな人がいたとして、その人が東大卒だと知れば、やはりあの人は凄いと納得して、東大卒の人は皆凄い人だと考えます。逆に偏差値が低く問題の多いと感じる△△大学卒だと知れば疑い始め、どこか変なところがあるかも知れないとマイナス面を観察します。悪い印象を持つ△△大を良い認識に改めることはなかなかできません。問題は、大学の印象で人を見るからで、東大であれ△△大学であれ、中には優秀な人もいればそうでない人もいるわけで結局人によります。概して悪い印象のものや人を見るときは減点法で評価、粗探しをし、良い印象を持っているものや人を見るときは良いところを探します。結果的に持っている印象を「やっぱりそうだ」と肯定化する傾向があります。さらに、良い印象を持っている人が良い結果を出せば素直に応援し、悪い印象を持っている人が良い結果を出すと疑念、嫉妬が生まれます。これらは身を持って経験したことでもあり半生変わりませんでした。人の見方を決めつけるわけではありませんが多いのは事実です。今、宗教について政治家との関連が日々報じられています。過去の問題が今も続いているという未解決感がその理由ですが、宗教に関する法律を変えたほうがいいくらいの勢いの批判のされ方です。事実、留学していた当時に宗教の伝播で来ていた日本人は多かったです。異文化の国で生活するには悩みも多く、宗教に頼りたくなる人もいるはずです。自分としては興味がなかったために誘われても断っていました。日本でも高校の同窓生から誘われることがあり、知人だと尚更嫌なものでした。そのうえに高額な出費が必要となればより嫌悪感が増すのは無理ありません。ところで、一般的には自分の宗教を人前で出さない人のほうが多いはずです。人には勧めず日頃は普通に仕事をしているだけなので周りからはわかりません。そんな人が選挙のボランティアをするのは政治家としてはありがたい筈です。宗教の幹部は何を考えているかわからないですが、問題は教徒への風評です。熱心にボランティアに取り組んだだけにも関わらず良いとは言われず、普段はどんなに好感されていても教徒だとわかれば見られ方が変わります。その人自身を信じることよりも情報による印象のほうが大きいのです。人を見るのに自分の見方よりも人からの情報や噂を信じる人が多いです。お客がそこそこ入店していれば売れている筈、美味しい筈と自分も入る、未知の人の書き込みでも「いいね」が多く付いていたら自分もするなど、根拠はなく印象でものごとを決めたり、決めざるを得ない状況があり、自分の意見が希薄で人に同調することに居心地よさを感じる傾向です。ただ、ボランティアのようにポジティブな行動を否定されることは苦しく、全てを印象で判断されることはもっともストレスを感じることです。政治家は宗教団体と関連があったとしても、印象で捉えられることを怖れず、どんな恩恵や影響を受けることがあるのか釈明することが必要なのだと思います。
2022.09.13
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自分には到底及びませんが、作曲家には親しい作詞家がいたものです。もちろん今も声楽曲を専門としている作曲家にはいます。宍戸睦郎先生が1998年7月の月間詩誌「歴程」の高内壮介追悼特集に寄せた、「高内壮介さんと、音楽と、私」を読み返しました。特に興味を持ったのは、高内さんに草野心平が経営していた、新宿のバー「學校」に連れていってもらったと書かれていたことでした。草野心平の詩は大学の文学の授業で興味を持ちましたが、ずっと前の時代を生きていた詩人だと考えていました。ところが今回調べてみたところ亡くなったのは1988年で最近でした。高内壮介氏の代表著書に「草野心平論」がありそれも初めて知りました。宍戸先生が草野心平に会った様子はありませんが、高内氏は草野心平ら二十世紀を代表する詩人たちに愛されていたそうです。そんなことは露知らず、草野心平の詩で何度も編成を変えて作曲していました。最初が1987年が最初ですからその時は草野氏は存命だったことになります。草野心平の詩は文字の意味以上にシュールで視覚に訴えることもありました。そんな詩の境界を超えたところに音楽の境界を重ねることが好きでした。蛙の死に纏わる詩が多く、その中から3-4つの詩を組み合わせ、「草野心平の詩による最期の3つ(4つ)の歌」と題し、2人の歌と打楽器、ソプラノと打楽器、混成合唱と電子オルガン、女声合唱とピアノなど10年の間に編成を変えて作曲しました。詩は「秋の夜の会話」「冬眠」「青イ花」「婆さん蛙ミミミの挨拶」蛙以外の詩では「生の夕暮れが迫ったとき」を扱いました。詩の内容がシュールで本当に面白いと思いましたが、草野心平氏が亡くなった直後に作曲していたとは知りませんでした。当時で言えば「ちゃんと新聞読めよ!」と言うことになりますが、貧乏ひとり暮らしで新聞もとらずテレビもなしだったのです。草野心平の経営していたバーが新宿にあることも知らず、何も知らずに純粋に詩に感銘して作曲していたのです。今考えるとネットやSNSで余計な知識を得なかったのはよかった気もします。ただ2013年10月31日新宿歌舞伎町の「バァ學校が閉校」というニュース、これは今ネットがなければ知り得なかった情報でネットさまさまです。全てが昭和の風情を残していますが、再燃することが望まれます。打楽器伴奏の「草野心平の詩による3つの最期の歌」(メゾソプラノ版)は、奏楽堂日本歌曲作曲コンクールの本選コンサートの後のレセプションで、ある箇所の打楽器用法がよかったと言う間宮芳生氏と古いと言う黛敏郎氏、二人の審査員の間で揉めましたが、審査委員長の林光氏も酷評でした。作曲のコンクールは本選に上がった時には大方勝負はついているものです。黛敏郎氏は当時「題名のない音楽会」の初代司会者で、クラシック通も興味を持つ教養番組で今の趣旨とは全く違うものでした。番組タイトルからすれば何でもありだから長寿番組になるのは簡単です。ただ、黛氏が今生きていれば何と言ったろうか、そんな思いを巡らせます。
2022.09.10
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簡単につくれて食べ甲斐のある肴を考えて、若者たちにたくさん食べさせるのがこれまでの家呑みのかたちでした。ところが最近のその若者たちも三十路になろうとして、その途端少し食が細くなったようです。そこで、これまでによくつくった2品と新たなチーズ1品を載せます。実際はこのほかに鮪のカルパッチョやトマトなども出して2人前です。バゲットもあるのでカロリーはかなり高いです。それでも以前よりは随分品数が少なくなった宴でした。まずは進化形アヒージョ!今回は海老と舞茸です。進化形は使ったオリーブオイルができた時にはとても少なくなります。単に具材を食べてオリーブオイルとバゲットはあまり食べないようにして、食べ過ぎを防ぐためですが、アヒージョとは似ても似つかぬ姿に。メインに出すオーブン料理のひとつが「チリコンカンのチーズ乗せ」です。ピリッと辛いチリペッパーがチーズでまろやかになるうえに味わいが増します。他にも「挽肉と茄子の醤油かつお味」や『鶏肉の黒酢カチャトゥーラ」「じゃがいものブルーチーズ風味」などが焼きもの料理です。チーズはブルーチーズ、ブリー、シェーブル、コンテなどを好きでよく出しますが、この日はこの前の宴でもらったグリルチーズでした。焼いても溶けない不思議なチーズで、薄くすると食感や塩味が新鮮な肴に変身します。トルコ産が主流のようですが、これはギリシャ産でした。見た目はいつも茶色の世界、男の料理になります。その意味では彩やかで繊細な料理が食べてみたくなります。毎回新しい料理を1品増やしています。世の中には知らない料理がまだまだたくさんありますから。
2022.09.09
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「大人になれ」とは大学に入った頃に先生からよく言われた言葉です。当時言われていたその意味は、周りの人にさまざまな側面で配慮する、相手のことを考えて言動する、謙虚で慎み深い行いだった気がします。話が通っていないなど、失礼な対応になるとこっぴどく叱られました。今で言う「神対応」など嘗ての「大人の対応」とは比になりません。常に自分よりも他人のことを優先することを考えていましたから。その後はさらに発展し礼節を弁えた機転の良さを求められました。音楽の世界は他では考えられないほど厳しかったと認識しています。ただ、今はこのような「大人の対応」があまり見られなくなり、年齢に関わらず大人を装った人たちが装わなくなったようです。また、こどもや若者に大人の対応を求めることも減りました。大人はこどもや若者にむしろそのまま子供っぽくいて欲しいのでしょう。人はペットではありませんから、いずれは可愛いがる対象ではなく、大人としての人格が備わりますが、それは早いほうが後々のためです。では、大人になるとはどのように変わることなのか考えた結果、今年から18歳で成人になった作家の鈴木るりかさんの記事があります。この中で鈴木さんは「理想の大人」について、「自分で蒔いた種は自分で刈り取れる人」だと言っています。自分の経験では、確かに若者が責任を取ることを極度に嫌がっていて、相手によって感謝の言葉は伝えても、謝ることは殆どないと記憶します。鈴木さんの小説では大人が登場、つまり彼女は未知の世界を描き、他の若者とは比べものにならない程の奥深さが感じられます。特筆すべきは「一冊の本にはこんなにも多くの人が関わっている」あらゆることで人の手を借り助けらていると達観していることです。SNSで楽器を演奏する若者が「◯◯でリサイタルでもやろうかな」と呟いているのを見て、カッコをつけて願望を言っているにしても、心ある大人だったらそのようには呟かないと感じました。何故なら、リサイタルはあらゆる面で軽くは行わないからです。大抵は自分の全て注ぎ込む内容になるので労力が大きいです。そして人のお世話になることばかりですから感謝する立場です。よく知らない人が見れば「しょっちゅうリサイタルをする凄い人だ」などと勝手に信じ込んで過大評価に繋がるかも知れません。最近SNSで多いのはコンクールを受けた結果報告です。多いのは吹奏楽の敗退報告で、頑張ったが実らずという内容です。中にはすでにプロの楽団に所属しているのに敗退報告する人もおり、特定不特定に関わらず応援してもらったことへの感謝する内容です。挨拶や報告で難しいのはさまざまな立場の人に向けて行う場合に、誰もが理解でき平等に受け入れられる内容にすることだと思います。一般人は個人的なことを言う場合は個別に挨拶や感謝を述べるべきで、公に発信するSNSでは人によって受け止め方が変わってしまいます。敗退報告では、知り合いからは健闘を讃える「いいね」が付いても、同業者や対戦相手は複雑で「いいね」の意味が変わってきます。雇っている側からすれば、上位入選のほうがいいに決まっています。見方によっては情けを乞う発信に見えることを考慮すべきです。さまざまな人を配慮することは、大人にやはり不可欠だと思います。それが欠落することによって、知らず知らずのうちに敵をつくります。特にSNSでは知らない人にまでも嫌われてしまうことがあります。最後に「大人の基準と大人あるある16個をご紹介」記事を揚げます。▼大人とはどんな人?6つの大人の基準1. 精神的に自立している2. 金銭的にも自立している3. 自分一人でもきちんと生活ができる4. 責任感があること5. 世のため、人のために頑張れること6. 一般常識を持っている▼大人になるとわかる16個のあるあるな特徴1. 読書の大切さ2. 新聞やニュースは人生に役立つ3. 交友関係の幅が広がる4. 睡眠の重要性5. 時間の経過が早い6. 健康がとても大切である7. 努力しても成功しないことはある8. お金で買えない幸せがある9. ファッションの傾向が変わる10. 意外と体力が減っている11. 周囲の結婚ラッシュに焦る12. 友達作りが難しくなる13. 誕生日が素直に喜べない14. 子供の頃の夢と遠ざかることが多い15. 趣味など自分の時間が少なくなる16. 親に対する感謝の心を持つようになる▼大人の恋愛ってどういうもの?1. お互いに依存しすぎない2. 心から恋人のことを信頼している3. 意見を言い合える4. お互いに刺激して高め合える5. 将来(結婚)を想像した付き合いをする6. 自分の弱さをさらけ出せる7. 恋人のことを好きになる過程も楽しむ8. 相手に期待しすぎない▼本当に魅力的な大人男女の特徴▷魅力的な大人の男性の特徴とは▷魅力的な大人の女性の特徴とは
2022.09.08
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SNSの多くは自ら意見を発するよりも同調できる意見を探しています。それは共感していなくてもフォローや「いいね」をすることで、社会や属する世界へ意思表示をする、存在を主張する意味があります。日本人は孤立したりハミ出すことを特に避けるのが一般的です。街の歩道でマスクを外している人は未だに少ないです。他人に感染させないようにマスクをするという人がいますが、自分の感染を疑うよりは、周りの人に配慮している意思表示であって、例え別の理由があるにせよマスクをする大義が通るとも考えられます。ところが海外のようにマスクをしないことが日常になっている場合で、マスクを一人だけできるかどうかはまた別問題になります。帰国する際の検査のことを重く考えればマスクをするでしょうし、街中で一人だけマスクをすることに抵抗を感じることもあります。それでも属する世界にべったり順応することは若者を中心に減りつつあり、愛好する対象と義理や忖度は別と考える人が増えていると思います。組織に属することがあっても、滅私奉公することはなくクールです。残念ながら個人主義を貫かなければ生きにくい社会になりました。今は全ての物事において正しい情報が提供されているかどうか疑わしく、従来であれば銀行や医療機関などは任せきれる安心感がありましたが、今や社会のため、お客のためという方針はなく、皆が個人営利主義です。個人的に有利な立場に身を置くことが何をするにも第一要因です。時と共に礼節や義理人情が失われていますが、これは大人の仕業です。大人が子供にきちんと躾けることが礼節や義理人情だと言えます。義理人情など昭和のことだと一笑に付されるかもしれませんが、ヤクザもの映画に出てくるようなことではなくごく単純なことです。義理人情に厚い人に共通する8つの特徴1. 飲み会には必ず参加する2. お返しを忘れない3. 約束を必ず守る4. 埋め合わせをする5. 人助けを進んでする(損得勘定を考えない)6. ほめ上手である(人のことを正当に評価することができる)7. 相談を受けやすい8. 人の心に配慮できる日本人の個人主義について、残業が多い理由として、「上司や同僚の仕事が終わらない間は帰りにくい雰囲気がある」そんな記事からすれば、「他人がマスクをしていたら自分も外しにくい」という考えが成り立ちます。これは人のためではなく自分のためです。日本人のタイプは個人的な居場所を安定させるために集団主義を装う、立場を守るためには議論を避け本心を明かさず長いものに巻かれるのです。これまで書いたことを裏付ける記事があります。国民性の面白い例として「沈没船ジョーク」「鰻弁当」が紹介されています。世界各国の人々が乗った豪華客船が沈没しかかっています。しかし、乗客の数に比べて脱出ボートの数は足りません。船長は乗客を海に飛び込ませようとしますが…さて船長が各国の人を飛び込ませるために放った言葉とは何でしょう?アメリカ人に対して→「飛び込めばヒーローですよ」ロシア人に対して→「海にウオッカの瓶が流れていますよ」イタリア人に対して→「海に美女が泳いでいますよ」フランス人に対して→「決して海に飛び込まないでください」イギリス人に対して→「紳士なら海に飛び込めますね」ドイツ人に対して→「規則ですので海に飛び込んでください」日本人に対して→「みなさんはもう海に飛び込みましたよ」(同調を促す)お昼ご飯に無償でお弁当が支給されました。お弁当は全部で10個。10個のうち一つだけ特上の鰻弁当(5,000円)、残りは普通のノリ弁当(500円)、あなたならどっちを選びますか?前提条件によって答えは異なり、何を選んだか他の人にわからない条件下だと、50%の人が鰻弁当を選びました。しかし、他の全員が見ている前で選ぶ状況ではほぼ100%がノリ弁当を選びます。誰も見ていなければメリットを選び、人目があると妬みを買うリスクを避けます。人は多面性を持っていて状況によって印象が変わることがあります。ですから、人の一面を見てその人全てや属する組織を批判することはできません。ただ、こう考えると礼節を重んじ義理人情に厚いことはいいに違いありません。面倒がらずにコミュニケーションを大切にしていくことがここでも重要です。
2022.09.06
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本来は当事者同士が話し合って理解を図るのがあるべき姿でしたが、今はこれを通り越してSNSで第三者に広めることが普通になっています。上司や先生に物申せないのは昔の話で今は誠意をもって話すべきです。話合いをせずに憂さを晴らすことは結果的に関係の修復がより難しくなります。何かの組織に属せばそこにルールがあるのは当たり前。そのルールに従わないでルールがおかしいと言うのは基本的にNGです。組織のルールはゲームのルールとは異なり原則的に必要なことであって、それまでの歩みの中で支障をきたしたことが知恵として詰まっています。文化や風習が異なればルールも異なるのは当然で、国や宗教が異なれば全く異なるのがその良い例です。第三者がそのルールをとやかく言うのはおかしいです。ルールをとやかく言うには、まずそのルールのルーツを明確にすべきです。しかし、昔の人はルールを絶対として権威的に振りかざす道具と考え過ぎ、時代と共にアップデートすることや、なぜそのルールがあるのか説明をせず、ブラック校則などと揶揄され、結局外的な力で変えざるを得なくなります。ただ、本来その学校の校則が気に入らなければ入学しなければいいのです。そうは言っても、校則を生徒募集時に明示する学校はなかなかないでしょう。だからと言って、入ってみて校則が気に入らないと言うのなら、まずはその校則がなぜ必要なのか学校に聞いてみるべきだと思います。世の中が何と言おうと当事者同士の話し合いしか真の解決はありません。問題なのは校則の内容ではなく、なぜ社会的な話題になるのかです。極端に言えばよその家庭のルールに口を出しても仕方がないのと同じです。ルールはさまざまでいいのであって、他と比較するものではなく、本来はその学校の校風や個性として捉えられるべきものでなくてはなりません。好き嫌い、合う合わないは皆にあるわけで、考え方も人それぞれです。特に服装や髪型など外見上のことは職業上でもルールがあるわけで、制服なども含めてその組織の個性ですから批判の対象にはなりません。一方で、圧力として従わせるだけのルールと感じられた時に反発を招きます。伝統と個性として見られている例としては宝塚音楽学校などで、校風、校則、外見の全てにおいてどう見ても限定的で厳しいと思われます。また、全国高校野球大会を見て丸刈り以外の選手を見たことがありません。これらは昔のままの伝統ですが、実はどこの学校でも伝統はあるはずです。歴史や伝統を知ればその組織の個性を窺い知ることができます。人の見方も生き様や履歴を知ることによって人柄を理解することができます。相互理解があれば双方に受け入れられることは増えることが多いはずです。「こんな変な校則がある」と他人が揶揄するのは解決になっていません。
2022.09.01
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