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今の時代は「…と思いきや」、サプライズ、ギャップなど、所謂ヤラセ演出が日常的になっていてそこに興を見出すようです。一般には本当の姿を見ているのではなく、印象操作された結果、別のものに皆が思い込まされていることは多く見受けられます。以前にもバンクシーについて書きましたが、日本での肩書きである「覆面アーチスト」とは何なのか?それは、覆面レスラーのように顔を隠していることです。しかし、それ以外のことはこれまでの情報で判明できそうです。2019年に新交通システム「ゆりかもめ」日の出駅近くの防潮扉に、バンクシーのステンシルによる絵が発見され話題になりました。描かれた防潮扉は都の持ち物であったために、報せを聞いた小池知事がその部分を切り取って都庁に展示しました。バンクシーは宣伝用に軽いジョークのつもりで遺したかと思われます。しかし、防潮扉が都の持ち物だと知っていたかどうかがポイントで、もし個人所有の壁に描いていれば所有主がオークションに出したり、落書きとして被害届を出していればそれはそれで大事になります。1年後の2020年に「なぜ罪に問われない?」という記事があり、2021年にも「どうして捕まらないの?」という記事が別にあります。この記事にはさまざまな作品も写真で見ることができますが、スタイルが明確と言うよりも全体に奇抜なアイディアによるパロディです。その意味でバンクシーは、芸術家と言うよりも社会活動家に近いです。そう言ってもコロナ禍の2020年3月〜9月に横浜でバンクシー展、その後に渋谷でもデジタル公開展が行われています。つまり、バンクシーは有名芸術家として柔軟に交渉されています。そう考えると防潮扉に描いたのは仕組まれていたとも考えられます。東京では街中にもカメラや人目がとても多いわけですから、正式に立ち会って道路工事のように描くほうが無難です。また、元のステンシルシートとスプレーがあれば誰でも描けるため、ステンシルのバンクシーを描く人は世界に何人もいるとも考えられます。これだけの著名人が世界に渡って捕まるリスクを冒すとは考えにくく、国や人によって芸術と落書きの見方や対処が異なることから、ビジネスかどうかは別として合意のうえで描いているように思います。そうでなければ金銭的な部分や著作権でも問題が起こりえます。作品の価値を見る尺度が元来日本にはないと思います。芸術的価値を問うなら”これは芸術作品””これは落書き”と簡単ではなく、何が優れているのかその作品を検証することが重要ですが、結局描かれた側は概ね器物損壊としての倫理観で対処するでしょう。今は”こどもが描いた”と言えば何でも許しがちな風潮があり、”こどもが描いた”というだけで脳が自ずと愛らしさを見出そうとします。大人でもこどもらしい表現はできますし、夢のある表現もできます。同様に、バンクシーの作品を美術作品として共感している人は少なく、その多くはバンクシーの知名度とコンセプトに共感しているわけで、バンクシーの名前やコンセプトを知らない人には単に落書きなのです。
2022.12.30
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「細かいことが気になってしまう、僕の悪い癖でしてねぇ」ドラマ「相棒」の杉下右京の口癖です。このタイプの人はひと昔前まではあまり好感されませんでしたが、今は細かいことに鈍感なほうが好感されない気もします。郵便局は自然体で働く人がもっとも多い職場のように思っています。それでも地域や全世代に密着するのはそれなりのスキルが必要で、相手によって対応の仕方が変わることもあるのだろうと想像します。留学時代も毎日のように郵便局に行っていましたので気になります。もっともよく送る郵便物はゆうパケットで楽譜を送ることです。レターパックライトも利用しますが、この二つの違いは主に重さです。ゆうパケットは1kgまで、レターパックは4kgまで送れます。A4サイズを入れた角2封筒が基本ですから普通の楽譜は適応します。角2封筒は定形外郵便でもっとも多く使われるので、たいていの局員さんは測らなくても見ればすぐにわかります。この手の郵便物であれば長さや重さは測られたりせず、送り状のバーコードを読んでレシートを授受するだけのやりとりです。ところが、最近よく行く郵便局でこういうことがあります。角2封筒で厚さ3cm以内のゆうパケットを送るのですが、そこの局員は必ず長辺(34cm以内)と厚さを確認するのです。しかし、重さは計りません。そこにいつもイラっとしてしまいます。なぜかと言えば…内容物は楽譜と申告明記してあり材質は紙です。紙は厚さ3cmでは重さが1kgをはるかに超えてしまいます。ゆうパケットは重さの上限が1kgですから、厚さより先に重さを計って1kg以内であれば厚さは3cmを超えません。大量の郵便物を受ける郵便局員なら時間短縮のために手順は重要です。大抵の郵便局員さんは郵便物を見れば大きさを把握し、持てば重さがだいたいわかるので、疑わしい時だけしか測りません。真に合理的なマニュアルはその所作だけで賢明さを感じられます。飲食店でも店員さんは注文を聞くことを中心に台詞は決まっています。しかし、何かにつけお客と話がしたい店主のような人がたまにいて、マニュアルを超えて存在感を出すタイプの人がいます。要点は一つで、話の着地点が明瞭で合理的な内容であればいいのです。コミュニケーションは繊細なもので、必要な時に必要な会話が必要で、限られた時間のやりとりの中でいかに気の利いた話ができるかです。その気の利かせ方こそ欧米に見習うべき粋な文化なのだと思います。数十秒でもユーモアや配慮、もてなす気持ちなどが込められます。人との僅かな関わりの中にさまざまな機微が伝わる言葉の選択、それを楽しむことが往年の音楽人には欠かせなかったと思います。どんな些細なことでもコミュニケーションが面倒だと感じるようでは、人は機械相手のセルフサービスが気楽でよくなってしまいます。人が生きるうえでもっとも重要なアイテムがコミュニケーションです。黙食?そんなことを習慣づけてしまったら取り返しがつきませんよ。実際に会って話すのと、オンライン上のやりとりは似て非なるもの、リードする人の将来どうなるかを見抜く想像力が問われています。
2022.12.14
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月に一度通うクリニックに行きました。まず受付やスタッフの方の配置が変わっていました。受付の方はいつもより積極的に挨拶をされました。診察券、健康保険証を出し、少しして礼を言って返されました。今回は尿検査の予定でした。以前の全体健診の時は受付でコップを渡されたので様子を見ました。しかし、いつものように何も言われないので椅子の方に行きました。指示を待ってもない受付で暫し佇む感じが今回も微妙でした。パソコンで診療室に繋がっていてすぐに診察室から呼ばれました。診察と言っても日々の血圧ノートを見せ血圧を測られます。少し高めの1回目140mmHg、2回目130mmHgでしたが、自分の場合は精神的ストレスで左右されるようです。診察が終わり受付前の椅子に座ったところ、羽なしセラミックヒーターが冷気を出して首を振っていました。すぐに受付の人に「冷たい風が当たるので寒い」と伝えました。他に人がおらず離れた場所に座りましたがそれでも風がきます。受付は2人で「〇〇の時に設定を変えたね〜」とか、他人事のように会話を交わすのみで設定を変えてくれません。そのうち会計に呼ばれ、終了時に受付の一人がやっと動きました。クレームは言わないようにしていますが今回は無理でした。「寒いということを伝えているのに座っている時は何もしないで、自分が帰って誰もいなくなって止めても意味がないですよね!」その受付の人は途端にとても申し訳なさそうに謝っていました。医療機関で患者が寒いと言っているわけですから酷いです。最近は構われなくなり、ぞんざいに扱われることが増えました。特に中高年女性からの見られ方がよくありません。気が利かないなぁと感じることもあるのですが、そうではなく、この人たちは気を遣わない、気を遣いたくないのだと思います。相手が子供や若者、不自由なお年寄りに対しては対応が異なり、親しみやすく自分らしく振る舞うのかもしれませんが、きちんとした言葉遣いで話すことには抵抗があるのでしょう。だからと言って馴れ馴れしく話されるのも嫌なのだと思います。自分の身体の状態を良くするために行く医療機関なのに、行ってストレスを感じ、そこで上がった血圧を測定されるのは、どう考えてもよい状況ではなく自分に合っていません。自分に合い納得できる医療機関を見つけるのは難しいことです。
2022.12.12
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作曲にしろ演奏にしろ目的が明確にあっても、それが音楽としてアカデミックに良いとは言い難いです。音楽にこうでなければならないということはなくても、良い悪いの尺度やこうあるべきという絶対性があります。しかし、それよりも「(コンクールなどに)勝つため」「自分たち(演奏者もしくは作曲者)が楽しむため」「ウケ狙い、人気を得る、聴衆を増やすため」「仕事のため」など、目的がはっきりわかるようになってきました。では、儀礼的な「君が代」や校歌などはどのように演奏するのか?この10年くらいを見ても、「君が代」が演奏される機会は減り、国家的もしくは国際的な催しの演奏をテレビで見る時くらいです。中でもオリンピックを始め、国際的なスポーツ大会が多いです。「君が代」の演奏されるテンポはこの10年でも速くなってきました。旧来の編曲ではスネアドラムが入っていましたがさすがにそれはなく、編曲もいろいろなものが聴かれ、一時期は無伴奏で芸能人が歌うなど、他国の国歌が日本人歌手によって歌われることもありました。他国で演奏される「君が代」の編曲が日本で聴かれるものと違えば、日本人が聴けば違和感を感じるはずで、外人が歌えば尚更です。世界的に機能的な和声が欠片もない「君が代」は個性的です。日本人以外が歌えばかなりの違和感が出るはずです。最近は、テンポの変化だけでなく質の低い編曲や演奏が増えています。「君が代」の音楽的な本質や意味をわからない人は多く、無理やり西洋的な和声を当てはめようとした編曲を聴いた事もあります。「君が代」は日本の特異性を個性的に顕している象徴とも言えるのです。今年のサッカーW杯の「君が代」もテンポが速すぎました。「君が代」は旋律線から強弱の変化が自然に表れるもので、従来の編曲ではフレーズの終わりに下声部の動きがあるため、ディミヌエンドしながらの声部間バランスを取ることが難しいです。テンポを速くすることで演奏はさらに難しくなると同時に雑になります。録音や大きなスタジアムで流すPA装置の問題を加味しても、W杯の「君が代」演奏はよくありませんでした。さまざまなイベントで流される国歌の意味はどこにあるのでしょうか。時に他国の国歌で感動することもあります。それは曲がよいからです。他国の自分がそう感じるのですからその国民としては誇りだと思います。日本人が「君が代」を誇りと感じるのであれば演奏にもこだわるべきです。YouTubeで聴くといろいろな「君が代」を聴くことができます。旧来からの編曲でバランスの良い演奏テンポが速めの2019年のラグビーW杯2021年の東京オリンピック閉会式東京オリンピックの閉会式は宝塚歌劇団メンバーによる歌唱でしたが、アンサンブルや声質で言えば特にいいとは言えません。世界に向けて披露するのであればプロの合唱団を演出して、ヨーロッパのクラシック音楽文化に通用する質にしてほしかったです。「君が代」はテンポが他の国歌に比べて遅いわけですが、諸外国はそもそも国家の演奏時間などは気にしていないと思いますし、日本人が誇りとして世界に発する演奏をしてもらいたいと思います。同じことを考えている日本人はたくさんいる筈ですから。
2022.12.10
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ワールドカップでカタールのことがよく取り沙汰されます。また勝ち抜くたびに宿泊や帰りの便で困っているサポーターが報道されます。昔に比べるとインターネットによって予約はしやすくなっているものの、イスラム圏に旅をすることはひと昔前は一大事だったと思います。コロナ禍による渡航制限や毎日のワールドカップ報道で、行って応援することがこの上ない喜びのようになりました。テレビを見ても試合が始まる頃には日本と変わらない様子で、何ら日本との違和感を感じることはありません。実際には日本とは比にならないトラブルも起きるわけですが、具体的な話はなかなか報じられないし目を向けられていません。これは日本人留学生も同じで、夢に描いている留学とは程遠い、過酷な生活やなかなかスムーズに事が運ばないジレンマだったりです。音高の時に音楽理論を教えていたファゴットの小山佳子さんは、ドイツに留学した後にカタールフィルハーモニー管弦楽団に就職しました。彼女は自信に満ちているため、その苦労を赤裸々に表した記事があります。そこにはカタールよりもドイツのほうがサバイバルだったと書かれています。カタールの隣国にはアラブ首長国連邦(UAE)やバーレーンがあり、今ではドバイを始めとした近未来都市のようなイメージです。雰囲気は日本に近くともイスラム社会ですから実際はまったく違うわけで、人口構成で移民が80%を超えているのも日本とはまったく異なります。移民の労働環境が劣悪で、LGBTQが違法にあたり、治安も悪いと伝えられるも、日本のテレビでは殆ど取り沙汰されていないことには疑問を持ちます。もし日本で同様の事が起きれば大きな問題として取り上げられるでしょう。コロナ予防におけるマスクをしない批判もスポーツバーでは許されます。サポーターはこのサッカーフィーバーに重要な役割を果たしています。彼らがワールドカップに熱狂することで国民的行事としての証明になります。渋谷のハロウィンが若者の喧騒としか取り扱われないことや、梨泰院が事故の時のみ知られることとは取り扱われ方が真反対です。海外とは文化も風習も何もかもが違うにも関わらず、ひたすら海外と比較し追随する日本人の感覚が好きになれません。日本人が日本人の嗜好に合わせることでも、ひいては海外で注目されうるのです。日本人の感性や良さを大切にすることが真の個性に繋がるのではないでしょうか。
2022.12.05
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ひとつまた歳をとりますます頑固になっていく自分を感じます。全てが叩きあげで、絶えず緊張を強いられてきた感が拭えず、30代の頃からは人に厳しくなり過ぎないように気をつけ、忖度する必要がなくなった今、しなやかに頑固になってきました。「時代が変わった」と煽る人が時流に乗っていると感じるのは錯覚で、人は数十年経っても基本的にあまり変わらないというのが結論です。不安になったり同調圧力を受けた時に仮の一面を見せたとしても、別の環境や人間関係になれば本来の姿や別の一面を見せます。それでも技術の練磨、磨くことのできるスキルは、たくさんあります。その意味では、技術として身につけなければならない基本的な事柄を、個性の主張と穿き違えてコミュニケーションに支障をきたすケースが多く、本来あるべき姿や責任を恣意的に歪める人が増えたと思います。〈ケース1〉ドラッグストアAに以前購入した同じ薬を買いに行った時、「液状の塗り薬《◯◯◯DX》をください。」と店員さんに言うと、その店員さんは少し探してわからなかったらしく別の人に伝え交代、その店員さんは「一定期間で薬の入れ替えがあり今はありません」と返答、「では、その薬に代わる薬は何かありますか?」と尋ねると、いろいろ探した結果「《◯◯◯DX》ならあります。」と言われて、「いや、それをくださいと最初に言ってたんです」と説明するも反応なし。前の店員さんはすでにそこにおらず、何と伝えたのだろうか?言い間違いか聞き間違いが原因の気がしますが、似通った名前だったでしょうから少し確認すれば済むことです。その少しの確認やコミュニケーションが足りないだけで後味が悪くなります。まるで外国に来たかのようなやりとりでした。〈ケース2〉大手カード会社のキャンペーンに申し込んだところ不備が多く、データ上のカードをおサイフケータイのIDに登録するために、お客様センターに電話した際、2時間以上時間を要しました。受付、要件を聞く人、実際に遠隔操作で指示をする人、事後説明をする人と、異なる部署4箇所に繋がれますが、それぞれ繋がるまでにも数分要します。こちらの要望が引き継がれているようなのですが、何か怪しいのです。慎重に説明するのは得意なので、こちらが誤ったことを言うことはなく、キャンペーン自体に問題が多いのか、コミュニケーションが悪いために、1回目は間違った処理をされてしまい、そのことでまた電話することになり、初回と同じように電話をたらい回しにされ、2時間以上かかりました。このシステムにも疑問で、対面での処理のほうが絶対いいです。上記の2件は、この数年で分業システムが発達しても、コミュニケーションが追いつかず責任の所在のない質の低下を感じさせます。〈ケース3 〉大手金融機関からNISAのDMが一方的に郵送で届きました。3日後くらいに再度勧誘の電話が直接きました。「少し前に届いたDMの件ですよね?」と尋ねると、「拝見していただけましたか?」と言うので、「《拝見》は謙譲語だから使うならこちらでしょ!」聞き流してもよかったのですが、この時は嗜めてしまいました。大金を扱う業者の営業担当者がきちんと話せないのでは信用に関わります。今は、社内でも言葉遣いを教えない、教えられない時代なのでしょう。〈ケース4〉街の小さな郵便局はいろいろです。高齢者が安心して行ける場所として、窓口での話の長い人や局員がいます。ただ順番待ちをしている人は不愉快です。郵便の窓口では単に発送したいだけでとにかく早く済ませたいこともあります。要領を得ない局員は、A4用の角2の封筒を見ても測らなくてはわからない、厚さ上限が3cmの場合に1cmもないのに測るなど時間がかかります。厚さが3cmもある楽譜はかなり重いので音楽家は持てばわかります。事務や郵便に疎い人が採用されているのだろうとしか思えないです。物を対面や人同士で売るのであれば、顧客へのサービスとして親切なコミュニケーションが必須だと思います。これからの時代には人を介せずに売買することを好む人が増えると思われ、人を介するのであれば介したなりのサービスがもっとも重要です。それは人間味や温かみのある配慮やコミュニケーションだと思います。
2022.12.04
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