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ここ数日間の小雨模様が、一時の晴れ間となり(明日はまた雨の予想)、残暑がぶりかえしたが、しかし気配はもう完全に秋だ。 いまごろから我家の小庭は、例年だと柿の青い実がたわわに目につくのだが、どうしたわけか今年はほとんど目立たない。昨年はあきれるほどなって、原発事故以後は柿酢の仕込みをやめて全部捨て来たので、毎日のように落柿のしまつにこまった。そして、あまりにも枝が広く繁ったので、思い切ってバサリバサリと伐った。 ---柿はそれに怒ったか、今年は実をつけない。 たぶん、実をつけずに、精力を蓄えているのだろう。そしてまた、枝を剪定すると親木の周囲につぎつぎと「ひこばえ」が芽を出すことに気づいてきた。根をたどってゆくと、親木の根が張って、そこから芽吹き、若木になっている。庭が柿の木だらけになっては困るので、若木は切り取っているが、思えば柿にとっては哀れなこと。私は心が痛まないでもないのだが。 パール・バックが次のようなことを書いている。私の好きな一節だ。 No one knows why the maple sap runs upwards in spring. This force is not explained, but it is powerful enough to move engines if it were harnessed. It is cellular force, not directly propelled from the earth through the roots, for if a maple is cut, the sap still runs upward through the trunk. There is no heart in the trees as in the human body, no pump visible and beating, but a pure force, elemental and almost spiritual in its source. It is life force expressed through matter.【訳;山田維史】 カエデの樹液がなぜ春になると上がってくるか分かっていない。この力は解明されていないけれども、もし利用できるとしたら、エンジンを動かすに十分なほど強力なものだ。それは細胞の力であって、根を通して地から直接促されたものではなく、たとえカエデが伐られたとしても、樹液は已然として樹幹を通して上がってくるのである。樹木には人間の身体のような心臓はないし、目に見えるポンプも鼓動もないが、その根源に、自然のそしてほとんど霊的な、純粋な力が存在する。それは物質を通して表現された生命力である。
Aug 31, 2014
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8月も残すところ2日。きょうの東京は 気象予報士によれば10月の気温だという。我家の猫達はこの2、3日の気温の低下で、私の膝に乗ったり、一緒に体をくっつけて寝たがる。今もさっさと私の寝室に行き、ベッドの上で横になっている。私が行くのを待っているのである。 さて、9月は忙しい。10月半ばまでつづく仕事が待ち構えている。
Aug 29, 2014
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きょうは合唱練習日。8月は夏休みの予定だったが、それを返上しての練習。 前にも書いたが、私はカラオケとやらもやらないし、大声を出すこともない。しかし合唱練習に参加すると、先生が「マックス! マックス!」と、大きな声を出すように叱咤する。いまや私の声もスムーズに出るようになり、練習後は喉がスーっとして気持ちが良い。過日、主治医にお目にかかった時に、「元気に忙しくしていますが、そのうえに今度合唱をはじめました」と言ったら、「合唱!?」と驚かれた。「肺にはいい、腹筋は鍛えられるわで、健康体操みたいなもんです」「そりゃあ、そうなりましょう」と主治医は笑った。 私は一挙両得というのが好きなので、いまでは練習が楽しみなのである。 話は変わる。 報道で驚いたのだが、デング熱に3人が感染し、その感染場所が東京の代々木公園だという。公園は封鎖され、殺虫剤が散布された。感染者はいずれも重症ではなそうだが、それにしてもデング熱発生は約70年ぶり。厚生省は、蚊に刺されて発熱する(もしくは頭痛、筋肉痛、発疹ができる)ようなら、念のため感染症診療科がある病院へ行くように勧めている。
Aug 28, 2014
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午後6時、今しがた夕刊を取りに外に出て、ふと気づくと玄関扉の枠の下方に、なんだか奇妙なものがくっついていた。2cmくらいで、黄色っぽい半透明。 何だろうと、かがみ込んで目を近づけた。蝉の抜け殻だった。地から這い出して、こんなところにしがみつき、脱皮したらしい。殻は背が割れて、きれいに残っている。この大きさだと、チッチゼミか。 きょうは急に涼しくなり、雨がしとしと、初秋の雨という感じだ。蝉の鳴き声もめっきり絶えた。街が静かになる夕暮れからは、地蟲の鳴き音が耳鳴りのように聴こえはじめる。
Aug 27, 2014
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小雨が降って気温が下がり、あの連日の猛暑を忘れる過ごしやすい一日。 昔、大きな仕事が終わって、自分の記念のために花瓶を買った。美術品ではないが、ある作家の工房製品で、丈22cm、胴径24cmの壷である。 亡母が生前元気な頃は、正月飾りなどの生け花は母が池坊だったのでその流儀で活けていた。しかし晩年、それもなかなか大変になったので、私がドサリと投込めるような壷を、という考えでもあった。もう24、5年になる。 玄関に置いたり、居間に置いたり、母の納骨まではあふれるほどの花々を活けて供えたり、とにかく長年、普段使いにしてきた。 ところが、今年になってからだろう、しばらく花をいれていなかったが、気がつくと口から底までヒビが入っていた。割れずに保ってはいるものの、水を入れるとその水圧で、パカっと行ってしまうかもしれなかった。割れないまでも、水は滲み出すだろう。 「さて、どうしよう」---記念品だったので捨てる決心もつかないでいた。いつの間にか、家人が巾広の透明なビニールテープを表面に貼り、二つに割れるのをふせいでいた。 一昨日のこと。私は駄目で元々と思い、内側に成形用の透明樹脂をヒビに添って流し入れてみた。ヒビから樹脂がわずかながら表面に滲み出た。そして、そのまま寝かせた状態で硬化するまで放置した。 まる二日経って、今日、壷を見てみると、どうやら目論見は成功していた。壷の内側で樹脂は硬化し、割れてしまう心配はなさそうだ。 もう花入れとして使うことはないが、買ったときの木箱に納めて、いずれ私自身の骨壺にしようと思った。
Aug 26, 2014
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イギリスの映画監督・俳優リチャード・アッテンボロー氏が亡くなったという。享年90。 映画監督としての代表作は、米アカデミー監督賞を受賞した1982年の「ガンジー」。イギリス人のアッテンボロー氏が、イギリス植民地政策に抵抗するガンジーを、インド人の側の視点で描いたところに、私は氏の偉大な知性を感じた。こういうバランスのとれた精神は、たとえば硫黄島戦をめぐって敵対する両面からの視点で2本の作品を撮ったクリント・イーストウッド監督にも言えること。こういう知性があってこそ真の芸術家。現象の二面を公平に見、語ることができ、なおかつ作品にできた日本の映画監督は、残念ながら私の記憶には故大島渚監督があるばかりだ。 人間存在を偏見無く、あらゆる方向から見ること、すくなくともオポジットの側に身を置いたりマイノリティーの視点に立つてポピュラリティーを獲得するのは、非常に難しいものだ。そのような意味で、1985年の作品「コーラスライン」などを見ても、アッテンボロー氏の鍛え上げられた知性を感得できる。 リチャード・アッテンボロー氏は俳優でもあった。私はむしろ俳優としてのほうが先きに知った。1963年の「大脱走」でのバートレット少佐。捕虜収容所の地下に3本のトンネルを同時進行で掘削を計画、リーダーとして実行し、脱走に成功するものの逃亡中にドイツ軍に銃殺されるという役。まるでアッテンボロー氏自身に重なるかのような、バートレット少佐の物静かな反骨と抵抗精神、そして緻密な計画性に、この映画を観た当時18歳の私は、強く印象づけられたのだった。 俳優としての経歴でおもしろいのは、1993年のスティーブン・スピルバーグ監督「ジュラシック・パーク」の実業家ハモンド役。作品の思想的方向性としては、否定されるべき現代の実業家という役どころである。だが、単なる憎まれ者であってはおもしろくない。現代の実業家にもとめられる人好きがしてエンタープライジング(進取の気性に富んだ冒険心とでも言おうか)をあわせもつ面も、観客の納得ゆくように表現しなければならない。実業家ハモンドがしっかり造形されなければ、この作品は恐竜との追いかけっこ映画におわっただろう。要になる役なのだ。スピルバーグ監督の俳優リチャード・アッテンボロー起用に、私は「なるほどねー!」と頭を下げたのだった。ファンタジー作品のなかで、こういう役を演れる俳優も、日本人俳優にはいません(「ファンタジー」とは、観客だけのもの。俳優にとっては「ファンタジー」は存在しないはず。しかし日本の俳優は、「ファンタジー」を演じてしまうのだ。)。 偉大な知性の映画作家を追慕しつつ、リチャード・アッテンボロー監督のご冥福を祈ります。
Aug 25, 2014
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きょうも汗だくになって民生委員の仕事をしていたが、それでも空気のなかにすでに秋の気配を感じた。遠雷がし、時折ぱらぱらと小雨が落ちてはいた。が、そのせいばかりでもなさそうだ。 八百屋の店先の夏野菜はバカ高いけれど(胡瓜が3本で税抜き240円!)、今年穫りたての林檎が並ぶ。固いピンと張りつめた皮の、どことなく野生さえ感じられる林檎が、美しい。 街路を注意深く見ると、あちらこちらに蝉の亡骸が落ちている。 先日、仕事場の窓を開けていたら、ジジジジと騒がしく鳴き立てて蝉が飛び込んで来た。壁にぶつかり、掛けてある沢山の作品にぶつかり、とうとう本の山の隙間に落ちた。 「よしよし、ちょっと待ってね、いま救けてあげるからね」と言いながら、本を掻き分けて摘み、ギギギギと胴震いするのを庭の木立のなかへ放ってやった。迷い蝉というより、あれが末期のふりしぼったエネルギー。やがて、飛びながら命尽き、落ち蝉となるのだ。 蝉よ,蝉よ、汝が生殖は済みしか?
Aug 23, 2014
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今朝方、奇妙なと言うべきか懐かしいと言うべきか、夢を見た。16歳から18歳まで住んでいたアパートの一室を訪ねたのである。両親家族は札幌に居住していて、私一人が親戚も縁者もない会津若松市のそのアパートに世帯主として住み、會津高等学校に通学していた。その当時から42年後、私が60歳のときに、一度、そのアパートを見に行ったことがあった。中学時代の体育教師だった清水和彦先生を訪ねた折だった。 夢の中で--- そのアパートは一文字建築で、南北両端に入口があった。私の部屋へは北口から入った。しかし夢の中で私は南口から入った。数人の主婦が二階への上がり端で記帳していた。その人達のなかにY先生の奥さんがいて、私を不審そうに見た。私は無言のまま、自分も記帳しなければならないのかと、前の婦人(青いワンピースを着ていた)が書いたところを読んでみた。書式があるらしかったが、何を書いているのか理解できなかった。で、私は書式を無視して、名前だけを書いた。 Y先生の奥さんの鋭い視線を感じながら、私はたむろする主婦たちの間を掻き分けるように(なんだか廊下が広いな、と思いながら)、昔、私が住んでいた部屋の前に行った。しんとして、空き室のようだった。ドアの隙間を見ると、鍵がかけられていないようだった。私はドアを開けてみた。昔のままのキッチンがあった。が、ほかの二部屋(私の部屋はいわゆる2Kだった)が、なんだかひどく異様だ。古びているのは当然としても、壁がひっぺがされたようで、四方すべてが押し入れなのだ。窓がひとつもない。 いつの間にか若いあっぱっぱな女の子が私の横をすりぬけて、まるで18世紀ヨーロッパ風なごてごてひらひらした帽子をかぶり、臙脂色のだんだらフリルの衣装で、私を振り返って「私が改装させたのよ!」と誇らしげに言った。「私は出て行くし、ここも壊されるけれど」と笑った。 私は、カビ臭い廃屋が私の記憶とともにガラガラと崩れ落ちるのを、「気配」のなかに感じた----。 そして目が醒めた。私はしばらく異様な感覚のまま、再びすぐには眠れなかった。そのまま夜明けの光のなかで枕元の本を引き寄せた。次の一節が飛び込んで来た。 He has withdrawn from us into the distances of old age. (彼は老年の遙か彼方に私たちから身を退いて行ってしまった。) 9年前、私が現実にそのアパートを訪ねたとき、42年前と変らない姿で建っていたが、すでに住人はいず、窓や入口は侵入できないように板張りされていた。会津若松市在住の先輩E女史と自転車で行ったのだが、近所の主婦がEさんに「間もなく取り壊されると聞いています」と言っていた。私にとっては、まだ存在していただけで驚きだったので、感傷はまったくなかった。というのも、Eさんが前もって電話で「山田クン、浦島太郎だわよ」と言ってたとうり、会津若松市は市街地の大構造改革によって、昔の面影はかろうじて残っている程度だったからだ。 このとき清水和彦先生を訪ねたのは、その直前に偶然に先生と連絡がとれたからだった。「おめーのこと探していたんだ。手がかりをもとめて手紙を出しても、みんな戻って来るから、もしかしたら死んだんじゃあんめかと思っていた。おめー、ひょろひょろしていたからなー」 それでその年、先生の喜寿のお祝いに、私は会津を去って以後初めて里帰りのように出かけたのだった。先生の教え子が経営するホテルを用意してくださったが、チェック・インの前に先生のお宅に荷物を置いて、市内を一巡してみたいと言ったら、なんと先生は私のために新しい自転車を買って待っていてくださったのだ。 その訪問で、私はまったく初めてのことを先生から聞いた。例のアパートの前面は昔は広く敷地が空いていた。再訪したときにはさすがに昔のように贅沢な敷地利用はできなくなったのだろう、別のアパートが建っていた。しかし広場を囲んでいた三方の人家は昔と変わっていなかった。当時、その広場のわきから街路に出ると、真向かいが醤油の醸造所だった。そして醸造所の真向かい、つまり広場の三方のひとつの側をふさぐように大変大きな邸宅が建っていた。醸造所の社長宅らしかった(と言うより、当時私はただ大きな家だと思うばかりで、その住人についてまったく関心がなかったのだが)。 先生の話というのは、「おめーが住んでいたアパートの前の醤油醸造所というのは、チャボと結婚したI先生の実家だ」「えっ? じゃあ、あの大邸宅はI先生の---」「んだ、んだ」 チャボというのは清水先生の同僚、同じ体育教師で、私の体育の実技専門の教師だった。I先生もまた、お二人の同僚の女教師。I先生は私の担任だったことはない。 実は私にはこの3人の先生について忘れられないことがある。 私は中学時代に生徒会の下部組織の新聞部に属してい、清水先生が顧問だった。ある記事を担当することになり、締め切り日を指定された。私は、自分で言うのもバカげているが、几帳面な性格で、たちまち記事を書き上げて締め切りずっと以前に部室の原稿棚に入れた。 ところが締め切り日が過ぎて、清水先生から叱責された。原稿を書いていないじゃないかと言うのだ。私はすでに一番乗りで提出したと抗弁したが、先生は聞き入れてくれない。 放課後、私は部室に行き、あらゆるところを探し、とうとうゴミ箱の中から鉛筆で真っ黒にされた原稿をみつけた。そのままその原稿を持って、職員室に行った。そして、清水先生の机に叩き付けた。「このとおりボクの原稿です。ゴミ箱に棄てられていました!」 私は先生達の驚きの顔を尻目に帰宅した。 しばらく後、校内マラソン大会の日の放課後---その時点で私はもう新聞部に顔も出さず、英語のN先生から生徒会副会長として放送部をやってくれと言われ、---一人でマラソンの録音テープを編集し、翌日の昼休みの放送の準備をすませ、帰ろうと玄関に出たときだった。先生達の慰労会で少し酒が入っていたらしいチャボが私を引き止めた。そして言った。「ヤマダくんよ、きみも今に泥水を飲むようになるんだよ!」 聞き捨てならない言葉だった。私は子供のころから、たとえどんな人であろうと、無礼はゆるさないタチ。 「先生、たぶんボクは、泥水と分かって飲みはしません」 「おとなになれば、飲むようになるんだよ!」 チャボ先生は執拗だった。そこへ相田校長先生が通りかかった。あるいはチャボ先生の声が聞えたのかもしれない。校長先生が間に入って来て「先生、もうヤマダくんを帰してあげなさい」--- このチャボ先生とI先生が結婚することになり、I先生が退職された日のこと。 全校生が校門から通学路に並んで、学校を去られるI先生を拍手で見送った。I先生は教師や生徒たちに会釈しながらゆっくり歩いた。私たちのクラスの前を通り過ぎ、しばらく行き、すると先生はくるりと振り返り戻って来た。どうしたのかと、皆思ったにちがいない。I先生は、私の前で立ち止まったのだ。そして私の両手を握り、「ヤマダくん頑張ってくださいね」と言った。そして「さようなら」と去って行った。 このとき私が何を思ったかなどは書かなくてもよい。忘れてしまった。---そのときの全校生が見ていたという光景以外は。 今朝方の夢からつぎつぎとこんな少年時代を思い出す事になった。 そうそう、清水先生の喜寿の祝が果てて、私は中学時代の後輩のSクンに誘われ、先輩のWさん共々、深夜の街に呑みにくりだした。その酒場のソファで他愛無い話をしていると、Wさんが思いがけない告白をした。 例のゴミ箱に棄てられた私の原稿---、「部室にコウモリが飛び込んで来たことがあって、手近にあった原稿で叩き落したんだ。原稿は血で汚れてしまってさー、鉛筆で真っ黒にしてから棄ててしまったことがあった---」「Wさん、それ、私の原稿だったんです」「えっ! チビの原稿だったのかい!」
Aug 22, 2014
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広島県は未曾有の局地的豪雨による土砂災害。死者多数、救助活動も困難をきわめた状況。 我家の近くに、地形的に非常に良く似た所があり、住宅の裏手の崖がこの3月に崩落している。複雑な地権の問題があって、対策がたてられない。広島県で起ったことは、とても他人事ではない。 それにしても、安倍晋三首相、この人、本当にふざけた男だなー。この土砂災害を通報されて、山梨県でのゴルフ三昧の夏休みを切り上げ、急遽官邸に戻ったので、おっ、先きの元首相の失脚の轍を踏まない賢さを学んだな、と思ったら、なんのことはない「万全の対策をとるように」とか何とか指示を出し、ふたたびゴルフ遊びに行っちゃった! 首相という商売、ハハのんきだね、と来たもんだ。これで戦争も辞さないような大上段の政策、後へは退くもんかと、虚仮の一念。---だから私は、ふざけた男だと言うんだ。
Aug 21, 2014
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午前中、民生委員として気がかりな方を訪問。幸いに御元気な姿を拝見し、私も安心した。 午後、仕事場に籠り、先日のパリに送り出す新作の化粧のつづき。一気呵成におこなうべきことは行ったが,まだすべてが終了したわけではない。今日はこれ以上のことはできないので、残りは明日以降2、3日かけて頭に描いている形態までもって行けたらと思う。ここに来て、ちょっと綱渡りのように、新技術を施行している。 ---ブログを読んでくださっている方には、実体が明確にならない奥歯に物がはさまったような記述が心苦しい。画家にも「企業秘密」があり、この作品、写真をブログに掲載することもできない。ご勘弁を。 それにしても、連日の猛暑。じつは仕事場は現在、空気を揺らすことができないので、冷房を切っている。汗だくで仕事をし、途中で水のシャワーで身体を冷やす。ミソギでもあるまいに、そんな想いがちらと胸をよぎる。
Aug 20, 2014
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関東地方は猛暑になると言うので、せめて午前中にと、渋谷の東急ハンズに出かけた。 同店は新宿にもあるが、私の求めるものは品切れ、入荷はお盆休みが明けて20日以降、たしかな日程は約束できないとのこと。それで渋谷に足を延ばした次第。 渋谷駅を中心とした周辺は、現在大規模な構造改革中。ごちゃごちゃと見苦しいほどに通行路が錯綜する。渋谷名物のスクランブル交差点は、相変わらずの混雑振り。外国人観光客が立ち止まって写真撮影する姿もあちらこちらに。フロントがパンダ顔のバスが来ると、それをもパチリ。カンカン照りの中、すでに気温はぐんぐん上昇。おそらく34℃には達していただろう。 私は東急ハンズへまっしぐら。じつは電動サンダーを購入するつもり。大画面の絵の制作に活躍させたい意向。手で磨ぎ出していてはなかなか埒があかない。電動サンダーで一気にやってしまえるのではないかと思っているのだ。 電動サンダーと防塵マスク(国家検定合格品)を購入。それだけで Uターン。途中、自動販売機で緑茶を買って水分補給。あとは脇目もふらずに帰宅。シャワーを浴びて汗を流し、アイスクリームを二つ食べた。そのカロリーは、ええと、合計608kcalか---、意外に多い。
Aug 19, 2014
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かわいい動物たちの写真には心なごむ。毎日新聞電子版が驚きの動画を掲載している。鴨川シーワールドのイルカ「ナック」君が、飼育員の指示する言葉を真似て、8種類の言葉をしゃべっている。是非ご覧になってください。【毎日新聞】 鴨川シーワールド:イルカ「しゃべった」 8種類をまねる 2014年08月18日 14時45分 また、webサイトにこんな写真が掲載されていました。なんとも可愛い。肩にまわした手を見てください!photograph by Frank Rønsholt via; Earth song — Best friends by Frank Rønsholt
Aug 18, 2014
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きょうは先日完成した作品に出荷前の最後の化粧。 ---これが実は、まったく新しい技法を用いることにした。そのために、小さな作品2点で実験をしてきた。うまくゆかなかったら、作品は完全にオジャン。この技法、修復が利かない。 そのため、実験後も3日ほど悩んでいた。とりかかるためには相当の覚悟がいる。夢にまで見た。 熟慮を重ねて、ここは踏み出すべきだと決心した。家人が引き止めたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。私はサッとその場を離れ、仕事場に籠った。 いやー、難しい。小さい作品と大きな作品とでは比べ物にならない。作業は終了したが、完璧をもとめて、3日後に再度手直しをしようと思う。修復が利かないので、手直しと言っても、それが可能かどうか。 新作にとりかかるたびに、毎回、人知れず何かしら技術的な新しい試みをしてきた。それが私のモチベーションの一つだったかもしれない。新しい技術も、頭のなかのイメージに近づくためのシミュレーションを何度も繰り返すことで、手のほうもくっついて来る、という自信があった。---しかし、今回ばかりは、そうもゆかないのだ。To do or not to do. That is a question. って、もうやっちゃったよ。I did. だ。 このつづきは、3日後に!
Aug 17, 2014
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午前中に、供物を持って墓参。植えた覚えのない白百合が、一輪咲いていた。百合は球根で栽培する。種が何処かからか飛んで来るというものではない。きっと弟夫婦が植えたのだろう。 話は変わる。 昨夜、浜ちゃん松ちゃんのT V番組で高齢者問題をやるというので観てみた。どうも民生委員として特に高齢者を重点的に担当しているものだから、高齢者問題トピックスはできるかぎり読んだり観たりするようになった。 番組での話題は、---私は専門的にもっと突っ込んだ現実の状況を扱っているので---、注目する点はなかったが、まあ、バラエティー番組の御定まりで「寿命チェック」というのをやった。私も手近の紙に書き取って自分の寿命とやらをチェックしてみた。 おやまあ、であった。私の寿命、103歳! 喜んでいいのか、困ったぞと言うべきか。 私は、常日頃から、自分の死を考えながら絵を描いている。作品の根底に、自分の死を据え置いている。そのことは当面の作品のテーマとは直接には関わりなくとも、私の作画精神に淡い影を落としている。---そして、いつか描けなくなる時が来るにちがいない、と思っている。その時が、私の「寿命」なのではないか、とも。 昨夜、103歳という数字が出て、(出演して解説した医者には申し訳ないが、寿命診断テストの根拠がさほど科学的な精緻さを備えているとは思えないし、統計学的にも粗雑と思うのだが、それはともかくも)、さて私はその歳まで描けるか? と考えこんでしまった。 画家には、意外に長寿者がいる。日常的に「色」を使うためだとも言われているが、特に日本画家に多い。100歳を超えて描き続けた私の記憶にある画伯をあげれば、小倉遊亀(おぐらゆき)さん105歳、片岡珠子(かたおかたまこ)さん103歳、奥村土牛(おくむらとぎゅう)さん101歳。彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)さんは、なんと107歳。100歳には到らなかったが秋野不矩(あきのふく)さんは93歳まで描いて亡くなった。 外国で100歳を超えた画家を私は記憶しないが、ピカソが92歳。ジョルジュ・デ・キリコとジョアン・ミロが90歳。ミケランジェロは89歳。 103歳まで34年。振り返れば光陰矢の如しで、34年前はついこの間のこと。しかし、これから先きの34年間は---。いやはや、えらいこっちゃ。
Aug 16, 2014
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落ち蝉や不戦の誓い聞かずして 青穹この命何に懸くべき桐一葉溝萩や戦に散りし人の墓
Aug 15, 2014
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CNN.co.jp が興味深いNASAの観測について報じている。 X線を放出していたコロナが、ブラックホール「マーカリアン335」の重力に引き寄せられ、ブラックホールに向かって落ち込んで行くのを観測した。コロナの光は落ち込んで行く際、ブラックホールの入口を懐中電灯で照らしたように明るんでいるという。 この記事で私が非常におもしろく思ったのは、マーカリアン335は「超高速で回転しているため、周辺の空間と時間が巻き込まれている」ということ。 時間が巻き込まれている! 宇宙物理学がおもしろいのは、我々の経験則がまったく役にたたず、「時間が曲る」という現象を「感覚的」にとらえられないこと、イメージできないことだ。画家であり、視覚表現にたずさわる端くれとしては、切歯扼腕、地団駄踏む思いで、この想像(すなわち、像を想い浮かべること)が不可能な「時間が曲る」という現象を「想像」してみるのである。CNN.co.jp 光と時空をゆがめるブラックホール、NASA観測 2014.08.13 Wed posted at 16:03 JST
Aug 13, 2014
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映画ファンにとってはまたもや口惜しいニュースだ。大女優ローレン・バコールさんが亡くなった。脳卒中だという。享年89。 出演作、代表作をあげればキリがない。1944年のデビュー作「脱出」に始まり、「三つ数えろ」「キー・ラーゴ」、コメディー「百万長者と結婚する方法」、「動く標的」「オリエント急行殺人事件」のハリエット・ベリンダ・ハバード夫人役、同じアガサ・クリスティー原作の「死海殺人事件」、「ミザリー」「プレタポルテ」、ゴールデングローブ助演女優賞を受賞した「マンハッタン・ラプソデー」、そして私はつい先日DVDで観たばかりだが「ドッグヴィル」、最後の出演作品となるのだろうか、2009年の「マンダレイ」の女主人役。 自伝「私一人」(山田宏一訳、文藝春秋刊)は、全米図書賞を受賞している。私の本棚にもあるのだが、なにしろ25年前の本なのですぐに取り出すことができない。映画俳優の著作は数多いが、サミー・デイヴィス・Jr.の自伝「映画を鞄に詰め込んで」とともに、ローレン・バコールさんの「私一人」は映画ファン必読の本だ。 私たち映画ファンは、「脱出」におけるあなたの知的な上目ずかいを、決して忘れない。 ローレン・バコールさんの死を悼みます。
Aug 13, 2014
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米俳優ロビン・ウィリアムズさんが亡くなった。重いうつ病による自殺らしい。私は民生委員として鬱病の方の相談に携わらなければならないので、ウィリアムズさんの自殺は、他人事とは思えない。 私の福祉の仕事はともかくとして、ロビン・ウィリアムズさんについては映画はもちろんスタンダップ・コメディアンとしての舞台(YouTubeで何本も観ることができる)、そして私が「この方は根っからの役者、エンターテナーなんだ!」とつくずく思った「インサイド・アクターズ・スタジオ」においてジェイムズ・リプトン氏のインタヴューに応えるウィリアムズさん。とにかく演じつづける、機関銃のようにしゃべって客を笑わせ、タオル一本あれば万能の小道具にしてしまう。まるで落語家の手拭や扇子のように。しゃべるだけではない、身体がめまぐるしいほどに動き、その緩急にも驚かされた。「躁」をさえ連想したのだった。 映画俳優としての演技について述べれば、たとえば「グッド・ウィル・ハンティング」における心理学教授の、なんと言ったら良いか、さまざまなシチュエーションにおいてプラスとマイナスとに内面が分裂してゆくときの表情の、なんという素晴らしさ。この作品でアカデミー賞の助演男優賞を受賞じているが、むべなるかなだ。 「ミセス・ダウト」は、女性に成りすますという点ではダスティン・ホフマンも演っている(シドニー・ポラック監督『トッツィー』1982年)。しかし、私がなんとも可笑しかったのは、ウィリアムズさんの女装が、メリル・ストリープに似ていたこと。 それにしても何でも演られたなー。家事ロボットにもなった。1999年、クリス・コロンバス監督の「アンドリュー」。あのロボット、メーキャップだというから、すごい。 ロビン・ウィリアムズさんのコメディーにはペーソスがあった。私はそこが好きだった。鬱病で自殺とは如何にも痛ましい。お悔やみします。
Aug 12, 2014
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読売新聞が、自民党の土屋正忠衆院議員は9日付の自身のブログで、長崎市の田上富久市長が集団的自衛権に言及したことについて、「核の悲劇を繰り返さないためにも抑止力を有効に組み立てることが政治の責任で、集団的自衛権も選択肢の一つ。核廃絶の祈りではなく、政治的選択について語りたいなら市長を辞職して国政に出ることだ」と批判した、と報じている。【読売新聞】集団的自衛権語るなら国政へ…長崎市長を批判 2014年08月11日 19時59分 まったく、これで国会議員だというのだから、あきれるというより世も末だね。バカばっかり。幼稚以下。この首相にして、この議員ありか。 読売新聞はこの発言に対して論評を述べていないが、まあ、読売新聞が憲法改悪と軍備を社是としていることは、賢明なる読者の慧眼は先刻承知。あらためて御説を拝聴することもない。 それはそれとして、首相が愚かだと、その周辺に賢者がいなくなるのは世のならい。日本は今、知性が無化する風潮だ。安倍政権に尻尾を振る、ジャーナリズムの風上に置けないNHK経営委員会人士のバカっぷりは、かつて大本営発表を鵜呑みにして国民を欺瞞し大破局に導いた報道人の罪の歴史をいささかも反省してはいない。地方行政はまた、ここぞとばかりに、強制徴用朝鮮人労働者の追悼碑を撤去したりする。そんなことをしても、罪深い事実は消えるはずもなく、逆に一層日本民族の精神を蝕んで行くだけだ。愛国心と思っているのだろうが、それは謂うなれば病的な精神の現象面。 安倍晋三首相は、ことあるごとに「日本の誇りをとりもどす」と演説するが、これこそ精神の病をかかえている証拠。自己愛の肥大化した愛国主義は、欲望が満足することはない。常に不満と欠落感、あるいは疎外感や誤った正義感をかかえている。愛国主義の行き着く先きが「暴力」なのは、そのためだ。 我ら日本国民の誇りはいつかな失われたことなどない。自他をくらべる必要もなく、厳然として誇り高いからだ。安倍晋三首相は自分の心の病を、日本国民の名ですり替えているのだ。 かくして類は類を招くの謂れのとおり、国会議員どもは烏合の衆と化しつつあるのかもしれない。自民党の土屋正忠衆院議員の発言によって、私が前回の日記に書いたことが、どんな意味をもつか、御分かりいただけるだろう。
Aug 11, 2014
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台風一過、また無風の残暑。画材店にでかけようと思っていたが、どうにも億劫で、外出はとりやめ。冷たいウーロン茶を飲みながら、チャイニーズ=アメリカンについて書かれた英語の原書を読む。ここ数日、就寝前にベッドの中で読んでいるものだ。 そのうち、8日に詠んだ句を英語にしてみようと、読みかけの本を脇にどけて、頭のなかで言葉をいじくりまわしてみる。なかなかうまく行かない。いつもの私流儀で、5語、7語、5語にしようとするのだが--- 頭の中ではしまつにおえなくて、筆記で試行錯誤。どうやっても、句にこめた思いが逃げてしまう。 結局、つぎのように綴って、きょうのところはお預け。 Fire works in a distant The old wife's palm, letters are written with a her husband's finger (老妻の掌に文字を書く遠花火)
Aug 11, 2014
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長崎原爆忌第69年に 毎日新聞は、〈田上富久・長崎市長は平和宣言で、安倍政権が7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認を巡る議論に言及し「『戦争をしない』という誓い、平和の原点が揺らぐことに対する不安と懸念の声に真摯(しんし)に向き合い、耳を傾けることを強く求める」と政府に呼び掛けた。〉と伝えている。【毎日新聞】長崎原爆の日:田上市長「戦争しないという誓い 揺らぐ」 2014年08月09日 11時43分 6日の広島原爆忌、松井一実市長は、憲法の平和主義の下で69年間戦争をしなかった事実を重く受け止めて、今後も平和国家の道を歩み続けるよう政府に求めた。松井一実市長のこの声明に集団的自衛権の行使容認に対する言及はない。長崎市長と広島市長とには集団的自衛権について温度差がある。 国家の平和を祈念しており同じじゃないかと言う意見があれば、それは違う、と言わなければならない。なぜなら、強引なやりくちで集団的自衛権の行使容認を押し進める安倍晋三とその一派の大義名分も、「平和国家」のためにあるからだ。【毎日新聞】安倍首相:集団的自衛権「見解の相違」…被爆者団体に 2014年08月09日 20時25分 戦争遂行者は、およそあらゆる国において、「平和国家」のためと言って来た。ヒトラーのように個人的な精神の深奥にサド・マゾヒズムを抱え込み、血と尻と死臭への憧れを国家体制のなかで実現しようとした政治家さへ、大義名分はドイツ国民の優越性を示しての「平和国家」建設にあった。 芸術家には身にしみて良くわかることなのだが、たとえば戦争反対のために戦争の残虐性や死にゆく兵士達を描く。しかし、それによって逆に戦意を鼓舞される人達が必ずいるのだ。「戦争画」及び「作品表現」そのものにおける二面性である。芸術が現実を直視するとき、かならず起る問題なのだ。 ヒトラーは画家の成れの果てだったけれども、れっきとした多くの尊敬をあつめる芸術家が、戦争の機運のなかで己の暗い情念を満足させるのも全然稀なことではない。ナチズムの吹き荒れるドレスデンで、ヒトラーの庇護のもと、腐臭漂う作品を制作したリヒャルト・ミュラーはそのひとり。そして我国で言えば、「海ゆかば」の作曲者Nの暗い情念が、精神分析学の高橋鐵氏によって指摘されている。歌曲「海ゆかば」の底流にある情念は、すなわちサディズムとネクロフィル(屍体愛好)である、と。 松井一実広島市長の声明のトーンダウンは、そのような二重性に絡みとられる危惧をはらんだもの、と私は指摘する。日本国憲法の平和主義を世界に高らかに宣言しつづけて来た広島市としては、戦争への道を開かんとする政府のあらゆる企みに言及すべきであった。 安倍晋三は集団的自衛権の行使容認(ならびに憲法改悪)が、いずれ歴史の審判によって勝利するであろうと言う。だが、戦争に道をひらく機運をつくった者や戦争遂行者が、世界の歴史のなかで永遠に讃美された事など無い。自分の属する国だけが平和だなどということが、あるはずがないからだ。戦争は、何十万、何百万、何億という無辜の人間の怨霊にみちているのだ。「戦争は戦争を招く」---それこそが歴史の示す事実。数千年つづいているユダヤ民族忌避、キリスト教徒とイスラム教徒の闘争に仏教徒が加わっての殺戮の歴史、その民族・宗教戦争に経済戦争が絡まり、いまや地球は地獄。人間界は糞の海。あらゆる宗教は、悪の根源と化して、その指導者といわれる者たちは自らを恥じる事もない。いわんや政治的指導者をや。 日本国は、わずか69年ながら憲法に戦争放棄を掲げて、世界で唯一、他国の人を一人も殺さないで来た。この偉大な事績を---それが歴代政治家の手柄だと言うなら大きな声で言うがよい---安倍晋三は、完全に読み違いをして、まさに歴史に優秀な宰相と名を残す機会を、自ら棒に振ってしまった。「歴史の審判」は、そのように下るはずだ。地球の地獄を解消し、人間を糞から人間そのものに引き上げることに努める者こそ、いまや必要なのだ。 山田維史《壊れ物》Tadami Yamada “Fragile”
Aug 9, 2014
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次の二句は外出先での光景。 老夫婦耳口寄せる蝉時雨 青穹 老妻の掌(て)に文字を書く遠花火
Aug 8, 2014
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山田維史《壊れ物》Tadami Yamada “FRAGILE” 山田維史《人間の門》Tadami Yamada “The Gate of Man” 古本の季寄せにはない原爆忌 青穹 原爆忌真清水汲みて口づけぬ 為政者に御霊取り憑け原爆忌
Aug 6, 2014
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さる日、私は次のようなポスターをつくってwebサイトに投稿した。昨日の毎日新聞が伝えるところによると157人の憲法学者が集団的自衛権の閣議決定撤回を求める声明を発表した。【毎日新聞】 集団的自衛権:憲法学者157人 閣議決定撤回求める声明 2014年08月04日 賛同人の一人の石川裕一郎・聖学院大准教授は「今まで社会に向けた運動に関わってこなかったが、今回は違う」と語ったと、同紙野島記者が書いている。 そうでなくては困る。 日本の学者というのは、およそ現実の政治がらみの重大社会問題には知らぬ存ぜぬをきめこむテイタラク。大声を出したりしゃしゃり出てくるのは、学者というも恥ずかしい半端者ばかり。生涯を懸けているはずの研究のたどり着いた知見は、ヘイトスピーチを繰り広げる心ねじけた馬鹿者とさしてかわりはしない。 私が「憲法学者よ立て」と促すのは、故無きではない。現実の為政者が二枚舌三枚舌で国民を愚弄しつつ国家の大綱である憲法を捩じ曲げるのを、ただ黙然と見ていて、何の学問であろう。何を研究しているのだ、バカめ、と私は言うのだ。 あなたがた憲法学者は、政治に口出しをしてはならぬ人とは違う。護憲が第一の研究のはずだ。 安倍政権の捩じれた憲法解釈について、どんどん論文をお書きなされ。ここを逃して、あなたがたが学者として生きてゆく道はないと、お覚悟なされませ。 あしたは広島原爆の日だ。もう3度目は無いとは言えない危険な国家体制が布かれようとしている。
Aug 5, 2014
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新たに小さな作品を制作する準備を始める。-------------------------------------- 8月1日の日記で、小学生のときの理科学標本作りについて書いた。それで思い出した。 たしか6年生になっていたと思うが、いろいろやって来て、さあ次は何を研究しようかと考えあぐねて、たぶん父に話したのだったろう。父が、「風媒花をやったらどう?」と言った。風媒花、すなわち、種が風によって運ばれて繁殖する植物。たとえだタンポポやモミジなどがそれだ。 私は、「うん、やってみようかな」と応えた。 父も母も私がやり始めたことについて、金銭的なサポートはもちろん、標本箱が必要だと言えば会社の工作課の方に依頼して作ってくれたり、標本に貼付するラベルを印刷してくれたり、母は私が学校に行っている間にみつけた名前もわからない(気味悪い)幼虫を採集しておいてくれるなど、一度たりとも「ノー」と言わずにサポートしてくれたものだ。しかし、父が具体的に助言してくれたのは初めてだった。おそらくそれで記憶に留めたのだろう。ほんの短いやりとりだったが。 ---風媒花の研究は、しかし、着手せずに終わってしまった。小学生には、難しかったのかもしれない。風にのった種が着地するところを確認しないではおれないのが私の性格だったから。 まあ、そんなことがあったなと、ふと思い出したのだ。子供の頃、父と遊ぶということはほとんどなかったので、わずかな記憶も書き留めておく気になった。 父が亡くなる直前。ほんの数ヶ月前、私は八総鉱山の鉱山学的な事実を病床の父のそばで聞き採りをした。蟻の巣のように地中深く穿たれた坑道の様子が、それを実際に見ていない者にとっては大変わかりずらい。私はなんとか言葉によって影像を結べるようにしようと、根掘り葉掘り問いただすのだが、父は当然の知識とばかりに話すので、私はついつい癇癪をおこしもした。「おとうさん、それじゃ伝わらないよ。言葉で絵を描くように説明しなきゃ!」と。すると父は、「そうかねー」などと、困惑したように言ったものだ。 だが、しばらく後に、書き上げた原稿を見せると、ゆっくりゆっくり読み、嬉しそうだった。---まさか、それが最期になうとは私は思いもしなかったけれど。
Aug 4, 2014
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長々と制作して来た新作も、5日に擱筆と思い定めて、どうやら予定どおり。きょうは午前中にサインを書き入れた。その後は、とりたててすることもなく、しばらくぶりにほぼ一日遊んでいた。新作は九月末にパリに送られる。 閑話休題。 今朝がた夢を見た。---亡母が掃除機を使っている。見ると古い掃除機だ。私はその掃除機を受取り、「新しいのがあるよ」と(事実、先週、新しい機種を購入した)、その使い方を母に教えた--- その夢を思い出しながら、朝の仏飯を供え、私は含み笑いをしたのだった。 七夕を過ぎて絵筆を洗うかな 青穹 【註】「硯洗い」という八月の季語がある。陰暦七夕の前日に文人墨客が筆硯や机を洗い清める故事による。新暦の七夕は7月に移り変ったが、今日、私は作品に名入れが終わり筆を洗ったので、この故事に我が事を重ねてみた。
Aug 3, 2014
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先日の一句を英語俳句にしてみた。いずれも数ヶ月ぶりの句である。Sudden noisy cicada shrill chirps since returning from far way to dream Where wasImaking for?蜩や遠き夢路を帰り来ぬ
Aug 2, 2014
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今朝、軒下に体長5mmほどの小さなクモが、不定形な巣を張っていたので、払い落そうと思った。そのとき一匹のハエが飛んで来て、ガラス戸の表面を上り始めた。ハエの体長は8mmほど。やがてクモまで10cmばかりに迫ったときだった。ハエの脚が一本のクモの糸に触れたのだ。糸が揺れた。上の方でクモがキッと身構えるのが観てとれた。ハエはあばれた。しかし、糸は切れるようで切れない。クモがツーっと下りて来た。一瞬のうちに、もがいているハエの胴体に一巻き二巻きの糸をからめた。ハエは一層暴れた。クモはもとの上方へ退き、じっとハエの様子を視る。 私は最後まで見物することにした。 ハエはなおも暴れた。が、次第に体力を消耗し、動くたびに羽などにも糸が絡み付いた。クモはふたたび下りて来て、確かめるように脚でハエに触れた。ハエは不自由な手足を、動かした。クモは退き、しかし上にはもどらず、途中に留まって獲物が弱るのをまっている。 そのまま4、5分が経過。ハエはほとんど動かなくなった。クモが近づき、(私の目には良く見えないが)新たな糸を繰り出して、巧みな技術でハエの全身を絡めとりだした。ハエのからだが少しずつ白っぽくなってゆく。ハエのからだは黒っぽく透けて見えてはいるが、薄い真綿でくるんだように、繭状になていった。クモは、一旦ハエから離れ、休憩でもするのかそのまま獲物を視ていた。が、それも束の間、やおら獲物に取り付いたのだ。「喰っている」と私は観た。正確に言えば「吸っている」だろうか。----捕獲の瞬間から20分経過していた。 私はクモも巣も払い落さず、その場を離れた。後刻、また見てみようと思って。 クモと言えば、私は小学校5、6年生のときに、クモとその巣とをセットにした標本をつくろうと考え、実際に採集も始めたのだったが、失敗に終わった。それまでに各種の標本をつくり観察を重ねてきた。小学1年生のときの蘚苔類標本(長野県子供科学賞受賞)に始まり、蝶、蛾、山野植物、シダ類、シダの胞子の研究、水棲幼虫、水棲昆虫などである。私の小学生時代はそれがほぼすべてである。そのなかで唯一の挫折が「クモとその巣」の標本だった。 考え方は、現在思い返しても「あれ」で良かったんだ、と思う。まず、巣の標本の作り方だ。巾2cm、厚さ1cmほどの角材で20~30cm四方の木枠を二つ作る。その一つにクモの巣を掬い採り、もう一つの木枠で挟み込む。それから木枠と同じ大きさの板ガラス(当時、アクリル板などは無かった)で木枠を挟むように覆い、ガラスを木枠に固定する。クモそのものは試験管や適当な大きさの透明なガラス瓶に入れる。---こういう計画だった。 なぜ挫折したかというと、コストがかかり過ぎた。私はお小遣いというものは一銭ももらったことがなかったので(我家では子供がお金の話をするのは、はしたないとたしなめられた)、---いや、それ以前に、戦後間もない田舎には現在のようにDIYの店など皆無、子供が角材やガラス板を気軽に入手できなかったのだ。 と、いうわけで今日の日記は早々とクモの話を。 そういえば、水上勉さんの中編小説にジョロウグモを闘わす民俗をめぐっての物語があった。学生時代に文芸誌に掲載されたのを読んだ。題名は失念しているなー。【追記】 水上勉氏の小説の題名を思い出した。雑誌「文芸」に載ったのは「坊の岬物語」(1964年、単行本は1965年)。 水上氏にはこれより先きに「蜘蛛の村にて」という小説、他にも「くも恋いの記」がある。1960年代の半ばころまで、「蜘蛛」に関心があったようだ、と付け加えておく。
Aug 1, 2014
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