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ひゃー(これ、釈迦楽さんの真似)、とうとう尻に火をつけられちゃった。新作の締切りの催促の電話。まだ出来上がっていない! 泣きを入れて、2日延期してもらった。ああ、ブログ読者諸兄姉、御免、こんなこと書いていたら怒られてしまうので、制作にもどります。
Mar 28, 2014
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ヤンマーディーゼル提供の「ヤン坊マー坊天気予報」が終了するという。55年間の放送だった。実のところ私は、「えっ、まだつづいていたの?」と、意外だったのだが、YOMIURI ONLINEによれば、東北、四国、九州などの13局が現在も放送していたのだそうだ。 1959年に番組が開始されたというから、私は14歳、我家にテレヴィが入った年だ。そのせいでもあろう、親元を離れていてTVにほとんど縁がなかった私だが、この「ヤン坊マー坊天気予報」の歌は今でもよく憶えている。 「僕の名前はヤン坊、僕の名前はマー坊。二人合せてヤンマーだ。君と僕とでヤンマーだ。小さな物から大きな物まで、動かす力だ、ヤンマーディーゼル。----ヤン坊マー坊天気予報!」 たしか、こんな詞だ。 白黒画像だったが、双子のキャラクターのアニメーション。なんとなく懐かしく思い出す。 放送終了の理由は今の時代に合わないからだそうだ。そう言われればそうだろうとは思うが、新しく創られるキャラクターないしは番組は、たぶん今後55年は保つまい。長くて10年保つようなものが創れるだろうか。まあ、そんなことは私がとやかく言うことじゃないし、関心もない。 ただ、「ヤン坊マー坊」が55年間もつづいたということは、優れたキャラクターだったのだと思う。バカっぽくなかったこと、幼稚ではなかったことが、長続きした要因ではあるかもしれない。【関連報道】YOMIURI ONLINE 「ヤン坊マー坊天気予報」終了へ…55年間放送
Mar 27, 2014
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昨日、午前中いっぱい、小学校の卒業式に招かれて出席した。初夏のような気温の好天に恵まれ、我家から徒歩で15分ほどの学校へ出かけた。近年、2校の統廃合がおこなわれ、校舎が新しく建築されたばかり。しかし小学校としては140年の伝統がある。 もっとも、伝統といっても、小学校の場合、何か古めかしい校歌や仕来りなどが残っているはずはない。そんなものがあっては、学びのためのもっとも大事な時期の障害になってしまうだろう。進取の精神に富んでいることが大事だ。 さて、卒業式。 (ずいぶん時間をかけて予行練習したのだろうなー)格式張った演出の整然としたものだけれど、先生達だけが「どうだ」と見せつけている感じ、と言ったら意地悪すぎるだろうな。緊張で肩がすぼまっている子や行進がぎこちなくなったり、そんなところが可愛らしい。が、後ろに控える在校生(5年生だけが出席。これは私には意外だった)と比べると、ホーっ、と思ったほど体格がおとなだ。1年の年齢差がこんなにも違うのかと、子供の成長にあらためて感じ入った。 卒業証書授与の演出はちょっとおもしろかった。どこの小学校でもやっていることなのかしらん。 壇上で名前を呼ばれると、校長先生の前に進み出る前に、各自「将来の夢」を発表するのだ。曰く、「ぼくの将来の夢はIT関係のプログラマーになって世の中の人の役にたつことです」とか、「わたしは看護師になって病気で苦しんでいる人や身体の不自由な人を助けたいです」とか、「世界に通用するサッカー選手になって有名になりたいです」とか、「漫画家になってみんなを笑顔にしたいです」、あるいは「有名なファッションデザイナーになりたいです」とか、そうそう「バイクで世界中を旅して、本を書きたいです」と述べた少年もいた。「女子プロ野球の選手になりたい」と言った少女もいた。 看護師や保育師になりたいと述べた子が多かったが、その職種は女の子にとっては昔から変わらないようにも思うが、それが何故かというキーワードは違っているのではあるまいか。「みんなを笑顔にしたい」・・・彼女達が最後に付け加えたのがこの言葉。しかし、この言葉、看護師や保育師に限らなかったのだ。根本的な価値基準として「みんなを笑顔にしたい」があるようだった。 それは考え様によっては、自らの選んだ職業の社会における効用、あるいは職業を介しての自他間でフィードバックするものについて、彼ら彼女らに何等具体的なイメージも知識もないので、その職業を自らのうちに成立させる根拠として「みんなを笑顔にしたい」が出て来るのだろうと推測できなくもない。 ただ、「みんなを笑顔にしたい」を最上級の価値と据えなければならない、笑顔でいられない彼ら彼女らの現実、もしくは彼ら彼女らの目に映る現実がほかにあるとしたら・・・。 じつは今日、ある会合があり、小中学校の卒業式・入学式の話が出て、上に述べた「格式張った演出の整然とした」裏側に、それが通常ではない事情もなくはないのだ、という話が出て来た。それが事実なら(事実である学校が存在することは、マスコミ報道で知ってはいるが)、子供達が「みんなを笑顔にしたい」ということを、最上の価値と考えても不思議ではないと私は思いもした。 4月に私は、今日の卒業生の大半が入学する中学校の入学式に出席する。どうか温かい環境のなかで、「夢」を実現するためにすくすく成長してほしい。
Mar 26, 2014
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Death of My Lovely Cat Mariby Tadami YamadaMy cat Mari died of decrepitude at 14 past 12 a.m., 22 March. Born June 1998, she was 15 years and 8 months old.In the morning today I've gone a cemetery park with her body and have took the barrel permit in the Buddhist manner.Mari was a quiet cat though, but going downhill fast from the beginning of this year, and when she wanted tojump up to the high cat-walk, failed, fell on the ground.Mari seemed she couldn't bereave at all her miss.Another day Mari tried jumping again, and succeeded,And she jumped another distant cat-walk, she succeeded.But she couldn't back, ---mightn't remain her power ,Mari fell again on the ground that was observed by my family.Mari was led to scrunch alone so that her sisters became not to play with her,or she came to my studio, slept on my working desk. Such days increased.Still she had a good appetite, wanted to eat a piece of cheese in my lunch.As Mari liked canned chicken, I would always buy many cans for her.But her appetite was recently uneven, no, it was not 'uneven', it seemed she wanted to eat though, but she couldn't eat.Since her bowels move was very well, I'd no anxiety about it.But she had become less and less in her weight. No good sign.At last I had to bring meals her mouth by my fingers. I bandaged up my hand with packing tape for a protectionagainst her nails, and then forced her mouth open, dipped my fingers with a very little ball of minced soft meat.To eat once, she seemed that she became to want to eat more by herself,then she tried her mouth to get the plate, and ate meal little by little.I gave her favorite cheese which I warmed up and softened,or I had her drunk a raw egg, or gave minced raw tuna fish too.Yesterday I thought Mari was going downhill much more.But I had to go out. She was on her favorite bed in the entrance hall.I said, ''Mari, my dear, take care of this house in a while''Draping herself across the bed Mari looked at me, no saying.When I came back home, Mari still was laying on the bed. Leaving the door open, I went to my carport, and came back again. Mari disappeared.''Mari! Where are you?'', I called.Then Mari showed up from the back yard of the house,tottering, walked a few steps as if it seemed she endeavored to best she could be. I thought so. ''Mari! Where were you going?'', I said.I took up her in my arms.And then the truth burst upon me.She felt her own dying so that she did the last sight of the house, didn't her?I placed gently Mari on her bed, however, since Iwant to go to the studio, she staggered to her feet,got off the bed like tumbling down, and was following me. I took up her in my arm, and went to the studio with her.I lay down her on my working desk on which little blanket was.I whispered, ''Mari, my dear, you are a gentle lady!''Just then Mari made joyful sounds with her throat.It was for the first time in a long time, it moved me deeply.And Mari tottered to her feet again, reached out her right hand for me, tried to come down on my lap. ''Do you want to come on my lap, Mari? Good good, come on''I decided not to go my painting work in the afternoon.When I fed her evening meal, I felt a distinct wrong.Her mouth's muscles became unusually hard. Third lid of her eyes enlarged, and eyeballs were slightly foggy.I looked into her eyes, Mari's reflected my eyes. I couldn't say any words.That night I decided not to sleep, so I made her bed on my desk,and went on stroking softly on her head and her back. She made again a faint joyful sound in her throat. '' Good good, Mari, sleep''It was 12 a.m.. Mari's left leg twitched in a moment.It was like that our eyes were moving in REM sleep.I thought, ''At last the time has come'' After a few minutes her left fore arm twitched now.''Mari, lovely, lovely, you are a strong, strong in mind''I held her hand, felt cold, felt her hand to grew colder and colder.Her face was beginning to become rigid.Her cheeks' skin stuck to the bone.I scented out a faintly putrid smell that wascharacteristic of something like sour.''Mari, I love you, you held fast to now so much''Struggling Mari opened her mouthas if she tried to inhale air though,however, no air. It was her last gasp.I pressed my fore head to her cheek.And I pushed her heart again and again.Her heart moved again, but only once.Mari's life came to the end. '''My lovely Mari, good by. Thank you with me''・・・・・・・・・・・・Since coming back from the funeral, I looked atMari's bed on which her white and brown hairs attached to.Although she was rather small body, butI felt many openings around in my house.
Mar 24, 2014
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愛猫マリが、22日を回った午前0時14分に、老衰で息を引きとった。1998年6月生まれの15歳8ヶ月。午前中に動物霊園に行き、埋葬手続きをしてきた。 物静かな子だったが、今年になってめっきり衰えが目立つようになり、高いキャット・ウォークに跳びあがろうとして力およばず墜落することがあった。それでも、まさかそんなことはあるはずがないと思うかのように、別な日に挑戦をこころみ、ようやく成功すると、こんどは高いところから高いところへ跳び移ろうとしてまた墜落するのを家人が目撃した。 他の4匹の姉妹たちが遊ぶのから離れて、独りでうずくまっていたり、私の仕事場にやってきて机の上で眠る日が次第に多くなった。それでも食欲はあり、私の昼食のチーズをねだりもした。鶏肉の缶詰が好きで、私は買い出しのときにマリのためにその缶詰を幾つもまとめ買いした。 食欲にムラが出て来たのは、つい最近のこと。いや、ムラというより、食べたいのだが食べられない、という感じだ。大便も小便もちゃんとしていたので、その点は安心していた。しかし痩せが目立ち始めた。危険な徴候だった。 そしてとうとう、私が指で口に食べ物を入れてやらなければならなくなった。柔らかくした物を指先で小さく丸めて、口角に近いあたり、ちょうどそのあたりは猫に歯がないのであるが、そこを指でこじあけるようにして素早く頬の内側に食べ物を入れるのである。喉を狙うと窒息させる虞れがある。頬の内側に入れると、自分で咀嚼するのだ。私は爪で引っ掻かれないように、あらかじめ指以外にガムテープを巻き付けて防御して・・・。 口に食べ物が入ると、食べようという意欲がわくのか、自ら皿に口をよせほんの少しではあるが食べ始めることもあった。好きなチーズを温めて柔らかくちぎったもの、あるいは生卵を呑ませもした。家人は鮪の刺身を買って来て食べさせようとしたようだ。 昨日、弱り方が一層進んだように見えた。私がしばらくぶりに外出するとき、マリは玄関にしつらえたお気に入りの段ボール箱のベッドの上に横たわっていた。「お留守番していてね」と私は出かけた。帰宅してドアを開けると、マリは出かけたときのままに寝ていた。私は買い物をしてきたので、それを運び入れようと、ドアを開けたまま門前に戻った。マリに食べさせるため、薄切りの溶けるチーズを幾つも買い、ミンチ状の猫用缶詰も買って来た。 買い物をぶらさげたまま玄関内を見やると、マリの姿がなかった。 私はあわてて、「マリ!」と呼び、あとずさりで家の左右に目をくばりながら玄関先を出た。すると家の裏の方からヨタヨタとよろめくようにマリが戻って来た。もう歩くことも困難になっていたのだが、力をふりしぼっているような印象だった。「マリ、どこへ行ってきたの」と、私は抱き上げたが、ふと頭をよぎったのだ。「最期の見納めに、家の周囲を回ってきたのではないか?」 段ボール箱のベッドに横たえたが、私が仕事場に行こうとするとヨロヨロと立上がり、ベッドから転がるように下り、私のあとに付いて来た。私は抱き上げて仕事場に入り、机の上に敷いた小蒲団と毛布の上に寝かせた。「マリ、いい子だね。マリは可愛いね」とささやくと、喉を鳴らした。それはしばらくぶりで聞くマリの喉鳴りだった。私は少し驚き、「可愛い可愛い」と撫でながら、感動もしたのだった。 それからマリはまたヨロヨロと立上がり、右前足を私に差し出すようにしながら私の膝に下りる仕種をした。「抱っこしたいのかい。じゃあ、抱っこだ抱っこだ」 私は仕事どころではなくなってしまった。 「あっ!」と、明らかな異変を感じたのは、夕食を食べさせようと指で口をこじあけたときだった。口の筋肉が固くなっていたのだ。目を見ると目頭にある鞏膜(きょうまく)が普通以上にせりだしている。眼球にうっすら曇りがあった。目をのぞきこむ私の目を、見えているのかいないのか、力なく見返す。そのマリの目にやどっていたものを、いま私は思い返しながら、しかし、表現する言葉がない。 夜、今日は結局一筆も描けなかったなと思いながら、マリを仕事場の机に寝かせた。マリはまたかすかにごろごろと喉を鳴らした。私は寝室へ入ることをやめ、そのままマリを撫でつづけた。 そして午前0時を回った。マリの左後脚が一瞬ピクリと動いた。それはまるでレム睡眠時の瞼の痙攣のような軽微な動きだった。だが私は、「とうとうそのときが来た」と思った。 しばらくすると今度は左前脚がピクリと動いた。右側を下にして横たわっているので、おのずと左側だけが痙攣する。 「マリ、可愛い可愛い。強いねー。頑張るんだ頑張るんだ」 手を握ると、冷たかった。顔は硬直が始まってい、頬の皮が頬骨に張り付くように落窪んでいた。かすかに死臭がした。独特の酸っぱいような臭いである。 「マリ、いい子だ、いい子だ。マリは大好きだ」 「クワーッ」と、吸い込めない息を吸い込もうとするかのように口を開けた。断末魔だった。 「マリ、マリ」私は頬をその顔に押しあてながら、心臓を軽く叩いた。一旦止まった心音が「コトリ」と一瞬動き、そして、すべてが静止した。 「可愛いマリだった、さよならだね。いい子だった、いい子だった」 ・・・・・・・・・・・・ 霊園から帰宅し、玄関ドアを開けると、段ボール箱のベッドの小さな毛布は空っぽで、マリの抜け毛が白々と付いていた。小さな体だったけれど、家中のあちこちに隙間ができていた。
Mar 22, 2014
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ここ1週間ばかり仕事場に閉じこもりきりで、久しぶりに外出すると我家の周辺は春の花盛り。桜が咲き、シュウカイドウ、レンギョウ、ジンチョウゲ、ツバキ、サクラソウ・・・。レンギョウは、すでに散りがてで、鮮やかな黄の花片(はなびら)が風に舞っている。ジンチョウゲは、花は地味だが、強い芳香で自己主張をする。ジンチョウゲの香が春の到来を告げ、同じく強い芳香のクチナシは夏の到来を告げる。渡哲也さんの歌のような寂しい酒場女のイメージは、私には無い。クチナシも自己主張が強い花だ。咲くにはまだ早いが。 「吹け そよそよ吹け 春風よ」と歌はうたうけれど、今日吹く風は山の上にある我家の窓を揺する。山の木々が遠くで波の音のように、押しては返し鳴っている。 強東風(つよこち)や補陀羅(ほだら)の海へ山越ゆる 青穹 東風吹かば草の戸敲く人ありや
Mar 21, 2014
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小雨が降り続いた一日。私は制作に明け暮れた。 少しずつ少しずつ出来上がって行く。 今回の作品は、感情を爆発させて筆の勢いに身も心もまかせるところが一つもない。「ポレポレ」とはスワヒリ語で「ゆっくりゆっくり」という意味だそうだ。気持のどこかに締め切りを睨みつつの焦りがないわけでもないが、筆運びについては、まさにそんな境地だ。
Mar 20, 2014
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ようやく春らしい日の温もりを感じた昨日、東京でも春一番が吹いた。だが一転して今日は気温がぐっと下がって、寒い。桜の咲く前後というのは、こういう気温の変化があるらしい。 高知では何処よりも早く桜開花宣言をした。どうやら東京も、末日という予想よりも数日早まりそうだ。我家の盆栽の桜も、一昨日までの茶色い固い芽とは違い、先端にあわい緑色が見えて来た。樹高20cmほどなのだが、大木の花と同じ大きさの花が、ごっそり咲くのだから面白い。桜の下での花見ではなく、まるでリリパット(ガリバー旅行記の小人国)に迷い込んだ巨人のような錯覚におちいる。一瞬の幻想である。 今日は亡父の命日である。もう9年になる。当時我家の小庭は五月になると2種類の蔓薔薇が沢山咲いた。寝たきり状態だった父に、その頃はまだ元気で毎日読書に精出していた母が、「もうすぐ薔薇が咲きますよ」と言っていた。父の寝ているところからは、大輪の花をつける「羽衣」という種類の薔薇が良く見えるのだった。父も楽しみにしていたようだったが、花は間に合わなかった。・・・そして、五月になって薔薇は咲き、・・・不思議なことに、何百となく見事に咲き誇っていた薔薇は、この年を最後に全滅してしまった。 過日もこの日記に書いたが、父といい、母といい、二人ながら春の花咲く季節に逝き、共に花々を引き連れるように小庭の花は枯死してしまった。いや、不思議でもなんでもない。私や家人が看護に忙しくて、庭の植物に手をかけてやる暇がなかったのだ。花々を枯死させたのは、私だ。 我家のご近所さん宅で、現在、毎年見事に花を咲かせる一本の桜の大木を伐るか伐らないか、大きな問題となっている。当の持ち主はジレンマに立って懊悩し、周囲も同様にジレンマに立って無言で注視している。 'To be or not to be, that is a question' そんな人間の思惑は別にして、今年は間もなく美しく萬朶の花を咲かせるだろう。
Mar 19, 2014
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東京の桜の開花予想は今月末日となっている。我家の盆栽の桜は、まだ固い芽だ。末日までに咲くかどうか。 近くの中学校から入学式への出席を請う招待状がとどいた。喜んで出席させてもらう。 55年前の私自身の桜が満開の下での入学式を思い出す。私は、そのときをもって親元を離れた。以後、入学式や卒業式に私の親が出席したことはない。私の「子供時代」は小学校で終わったのだった。 そんなわけで、このたびの中学校入学式で、中学生たちは私の目にどのように映るのか。祝福しに出向くのだから、あまり観察者の目にはならないようにしようと思っているけれど。 さて、あいかわらず制作に明け暮れている。だんだん形象が現れて来た。
Mar 17, 2014
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ディクスン・カーのミステリー「曲った蝶番」には、オートマトン(automaton;自動人形)が重要な小道具として登場する。自動人形、あるいはカラクリ人形。ロボットの、また、コンピューター制御のメカニックのご先祖様と言ってもよいだろう。 日本の各地に残っているカラクリ人形芝居を故郷の祭礼とともに懐かしく思い出す人もいるにちがいない。日本では早くも「日本書紀」に、カラクリらしきものの記述がある。祭などでカラクリ人形芝居が見られるようになるのは室町時代あたりからで、17世紀以降のこと。 18世紀末、すなわち1796年には細川半蔵の「機巧図彙(からくりずい)」が出版されている。この中に図説されているのが例の「茶運び人形」で、東京上野の国立科学博物館にその復元がある。ずいぶん昔だが、模型店で組み立てキットが売り出されたことがあった。実物はゼンマイ仕掛に鯨の髭を使っているのだが、模型キットでは何を代用していたのか。 「機巧図彙」については、私に大失敗の思い出がある。 もう40年ほども昔、新宿の南口の裏通り、現在のように奇麗に再開発される以前、汚らしい公衆トイレやポルノショップが立ち並ぶあたりに、みすぼらしい古本屋があった。ゾッキ本が主な売り物だったが、入口右側の書棚には澁澤龍彦のサド選集や桃源社のユイスマンなどが並んだ一画があり、私はときどき立ち寄ってめぼしいものを探すことがあった。入口の左側、通りに面して半間巾の、まるで立付けの悪い出窓のようなショーウインドウがあった。いつもはたいした本も出してはいないのだが、あるとき、立ち寄る気もなく通り過ぎようとしてチラと目をやった。なんと、和本「機巧図彙」が立てかけてあるではないか。私はあわててショーウインドウに駆け寄った。まがうことない細川半蔵の「機巧図彙」である。幾らだ? 高い! 金がない。 すごすごとその場を離れたが、数日後、やっぱり無理をしてでも買うべきだと思った。勢い込んで出かけた。「機巧図彙」は影も形もなかった! ところでヨーロッパの自動人形事情は、おもしろいことにその隆盛時期は日本とほぼ期を一にしている。1770年代、スイスの時計職人ピエール・ジャケ=ドロー(1721-1790)が極めて精巧な数々のオートマタを制作した。なかでも自動書記人形や弦楽器演奏人形は有名だ。これらのオートマタのコレクターとして、フランスのシャンソン歌手ジュリエット・グレコさんは有名だが、私は昔、そうしたコレクターから貸与された20点ほどの展覧会を見たことがる。 アメリカのフィラデルフィア博物館にもすばらしいコレクションがある。ピエール・ジャケ=ドローの自動人形はおよそ6.000の部品から成るが、フィラデルフィア博物館の所蔵品は完璧に整備されていて、みごとな動きを見せる。 じつは今までは長い前置きで、昨日のCNN.co.jpが、フィラデルフィア所蔵の書記人形の動画を掲載していたので、それをご覧いただきたかったのだ。驚異的な流麗さで文字や絵を描く18世紀のロボットを見てください。CNN.co.jp 200年前の人形が絵や字を書く様子 次のようなサイトもあります。http://www.ablogtowatch.com/jaquet-droz-the-writer-automata-awesome-antique-android/ ディクスン・カー「曲った蝶番」 カバー画;山田維史
Mar 15, 2014
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時折小雨がぱらつき、寒さが戻って来た。来週には一気に春らしい陽気になるというが・・・ ここ数日間、ほぼ終日仕事場に閉じこもっていたので、運動のつもりで自転車で3時間ばかり遠出をした。風が冷たいので手袋もはめたが、しかしやはり春は来ているのだ。しばらく走るうちに肌が汗ばんできた。 帰宅して、遅い昼食を摂り、しばらく休憩してから制作にとりかかる。基礎工事は一応終了した。明日からおおまかな描写に入る。集中するため、来週一週間は他の予定をまったく入れていない。
Mar 14, 2014
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終日の雨。仕事場に閉じこもり。 近くの小学校から卒業式への出席を請う招待状がとどいた。卒業式なんて何十年ぶりだろう。喜んで出席させていただく。そして卒業する子供達を祝福しよう。
Mar 13, 2014
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まだ幾分寒さは残るものの、日差しはようやく春らしくなった。梅は盛りを過ぎようとしている。 そんな良い天気だけれど、私は終日、仕事場に籠って制作。締め切りまでにそろそろ尻に火がつく。しかし作品の全体像は頭の中にだけ。基礎工事に手間取っている。今度の作品は、テーマを別にすれば、絵画としては細部だけで存否が決定するかもしれない。私としては、一種の賭けである。完成するまで、まるで暗闇を手探り。・・・まあ、いつものことだ。
Mar 12, 2014
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山田維史「追悼」油彩 2作品合成画像Tadami Yamada 'Lamentaition for Victims of The East Japan Earthquake and Tsunami in 2011'
Mar 11, 2014
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昨夜、本当にたまたまBSジャパンを見ると、京都太秦の街を若い俳優が案内していた。散歩番組かと思っていたら、どうやら映画の撮影所に的がしぼられているようだった。それでしばらく観ることにした。 番組は始まったばかりらしかったが、日本映画界の全盛時代、そのなかでもチャンバラ映画に照準が当てられていると知った。題して「甦る! チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集」。テレヴィ・スタジオに松方弘樹氏と映画評論家・山根貞雄氏を招き、作品の名場面を観ながら思い出話をするというもの。 採上げられたほとんどの作品を、私は子供時代・少年時代に観ている。 私自身の懐かしい思い出もさることながら、しかし、私が面白かったのは松方弘樹氏の話。作り手としての映画愛を私は感じつつ、たとえば、チャンバラ・シーンというのは画面の中で刀の切っ先が動き回らなくてはならいという言葉には、虚を突かれたような新鮮な面白さがあった。切っ先が画面の中で縦横に動き回るためには、俳優は刀さばきに力が入り過ぎてはならないのだ、と。 あるいはこんな話。立ち回りで主人公が上段から、あるいは袈裟懸けに刀を振りおろす。そのとき、普通は右足を引いて両脚は開いている。しかし大川橋蔵さんはちがった。右足を踏み出し左脚と交叉するような型となる。「そういう先輩達の刀さばきの型を、(若い頃の)私は盗むように観ました」と、松方さんはそれぞれの所作を実際にやってみせながら言った。 また、こんな話も。1961年の東映オールスター出演作品「赤穂浪士」は、松方さん18歳のデビュー2作目。大石主税を演じた。大石内蔵助は片岡千恵蔵。 「おんたい(片岡千恵蔵のこと)は、背が低かった。顔は大きかったけれども。・・・討ち入り後に引き上げるシーンで、私はおんたいと並んで歩いているうちに、どうしてもおんたいを追い抜いてしまう。(背丈の関係で二人の)歩幅がちがうし、それに、おんたいは威厳をもってゆっくり歩いています。私には私の理論があって、普通に歩きたい。おんたいを追い抜くたびに、監督に怒られましたねー。おんたいに合せろって。あのシーン、何度撮りなおしたか!」 さらにこんな話も。 「東千代之介さんは、刀さばきが非常に早かったです。パパっと5断ち(太刀)やる間に,私は4断ちがせいぜいです。だからキャメラが主演の千代之介さん狙いで撮るとき、バックの私は4太刀でちょうど尺が合いました」。「尺」というのは、計算しつくされたシーンの秒数(フィルムの間尺)のことである。 さらに・・・ 俳優として松方さんは過去の出演作が、その作品の世間的な評価は措いて、俳優としては観るのが恥ずかしいのだ、と。常に、ああすれば良かったとか未熟さに気がつくからで、次の作品では克服するぞ、と思っているからだそうだ。「映画は残りますでしょ」と、松方さんは言った。そして、石原裕次郎の「影斬り」を観ながら、「裕次郎さんも今これを観たなら、恥ずかしいと思うんじゃないかな。騎乗が、(鞍の上で)身体が上下に揺れているでしょう? ぴしっとしていなければなりません。乗馬に慣れていないことがわかりますよね」 まあ、ざっとこんなぐあいだったが。作り手でなければ話せないことばかりで、私は映画人・松方弘樹氏に聴き入ったのだった。
Mar 10, 2014
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昨日想い描いた作品のために、新たな画材を求めて画材店に赴く。 4種類を得て、その画材を基点に制作途中の絵が新しい想像を呼び起こしていると感じる。テーマは勿論変りはしないのだが、画面の造り方、あるいは絵肌の構造が違って来る。画材が異なればそれも当然なのだけれど、具体的、触覚的に、想像されるのだ。技術的に厄介な面も予想できるが、そこに、挑戦的なおもしろさを感じる。・・・とにかく、やってみるだけだ。この作品がうまくゆけば、次の作品の構想はすでに決まっている。
Mar 9, 2014
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今日は午前10時から午後5時まで、町内自治会執行役員の新旧交代会議。私も、ひどく忙しく、また責任が重かった、事業計画資産管理担当の仕事から、ようやく解放された。やれやれである。夕方帰宅し、食事を摂ったあと、身体の奥に疲労感が澱のように蓄積しているのを感じた。 と,同時に、頭のなかでは明日の新しい画材の顔料のことを考えていた。すると、目の前の空間に、制作途中の作品が新たな画材で輝いている幻が浮かんで来た。そして、うまくゆくかもしれない、と思った。 今晩ぐっすり眠れば、疲れは消えてしまうだろう。
Mar 8, 2014
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きのうの俳句を英語で。Though I begin to write'spring' in a greeting, hesitate a momentA chill rain outside today (春と書き筆をためらう寒雨かな)People who are quickly goingup and down ----Spring only in nameIt is so cold rain (往く人や春は名のみの寒雨かな)
Mar 6, 2014
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終日の冷たい雨。東京は,今夜、激しい雷雨となるかもしれない。日本海側や北日本では雪の予報が出ている。春は名のみの、である。 5月のニューヨークで開催されるアート・フェアに出品する作品は、画商から新作をと言われている。描いてはいるが、乾きが遅く、間に合うかどうか。・・・「あわてない、あわてない」と、ひとりごと。この台詞、何かのアニメーションにあった。何だったろう。「一休さん」だったかな? 往く人や春は名のみの寒雨かな 青穹 盆桜芽出しためらう甚雨(ひさめ)かな 春と書き筆をためらう寒雨かな
Mar 5, 2014
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我家の近辺ではまだ咲き方が一様ではないが、紅白梅が咲きはじめた。まもなくサンシュウやロウバイの黄が目に入るようになるだろう。半ば過ぎる頃にはハナモモも咲くことだろう。 今年はまた以前のように,我家の小さな庭を花の庭にしようかと思っている。 老母が、生前、外出は全く不可能だけれども、まだ家の中で車椅子に坐ることができた頃、私はたくさんの花の鉢を縁先に並べた。玄関アプローチにも長いプランターを10数個並べた。毎日交互にやってくる、主治医や看護師や理学療法士や入浴サービスのスタッフなどの気持ちを、滅入らせないためにだった。たくさんの花が咲いている家に行く、と心のどこかに感じてほしかったからだ。 しかし、母が亡くなり、それと同時に、小庭も花一つない荒れ庭になった。春一番に萬朶と咲いていた白桃も、木そのものが枯れてしまった。樹高2m以上もあった木だ。木瓜(ボケ)の木も、シュロも、みんな枯死してしまった。不思議なほどに・・・ 私は心身疲れ果てたかのように、ガーデニングどころではなくなっていた。小さな庭は文字通り花のない荒れ庭となり、たくさんのプランターは雑草がはびもるにまかせた。 この月末が亡母の三回忌である。今私は、社会福祉のボランティア活動に、これは亡母の置き土産と思いながら、かなりの時間を割いている。そして,一方に、そろそろ我家の荒れ庭をなんとかしなければという想いが出て来た。 今日、夕食をとりながら、「また、花の植え付けをしようか」と、家人に言ったのだった。
Mar 4, 2014
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桃の節句、ひなまつり。桃はまだ咲かないが、梅が咲いている。 この日になると、ふと思い出す。昔、亡母が某家のために製作した木目込みの雛人形は、今頃どうなっているだろう。娘さんと一緒に嫁ぎ先に連れていってもらったのだろうか、などと。 現在、我家には母の作った人形が2体残っている。もう45、6年も前の作品なので、少し修理しなければならいと思っている。当時、北海道新聞社だったと記憶するが、その人形をポストカードにした。それをここに掲載しよう。今日は、雛祭りだ。
Mar 3, 2014
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劇団民芸の公演「アンネの日記」のパンフレットをご覧ください。今から52年前、1962年11月11日の公演のときのものです。私は16歳、高校1年生だった。 この芝居は、「アンネの日記」を原作として、フランセス・グッドリッチとアルバート・ハケットが脚色。日本語訳および演出は菅原卓。装置・河野国夫。証明・穴沢喜美男。出演・信欣三(アンネの父オットー・フランク)、小夜福子(母エディス)、牧理恵(アンネ)、他。なつかしい名前がならぶ。 ナチスの強制収容所から奇跡のように生きて解放された、アンネの父オットー・フランクが長旅から窶れ果てて帰ってきたかのように、アムステルダムの昔の「隠れ家」にたどりつく。そして娘アンネの日記を渡される。13歳だった娘の日記を読みながら、あの恐ろしい時代の「隠れ家」生活を回想しはじめる・・・ 昔の「隠れ家」にやって来た、信欣三のたたずまいが素晴らしかった。人倫にもとる悪逆非道を見つくし、心身ともに窶れ果て、家族の最期さへしらぬ孤独な父親が、人っ子ひとりいない街角にぽつりと現われる。その、出(で)に、私は驚嘆してしまった。52年後の今でも、目に浮かぶ。 昨日、映画「第五福竜丸」のパンフレットと一緒に出て来たパンフレット。デザインは巨匠山城隆一である。
Mar 2, 2014
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1954年3月1日午前3時42分、米国がおこなったビキニ環礁における水爆「ブラボウ;万歳」の実験により、静岡県焼津港所属の鮪漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆して、今日がちょうど60年目になる。「ビキニ死の灰」という言葉で語られることになるこの事件は、広島・長崎以後わずか9年で新たな原水爆被爆とそれによる死者が出たことで、世界に衝撃を与えた。 この事件の経緯を詳しくのべる余裕はないが、被爆した「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区の東京都立第五福竜丸展示館(かつて夢の島と称していた場所)に展示されている。 ちなみに「第五福竜丸」被爆事件と被災した23人の乗組員については、最初に死亡した無線長久保山愛吉さんを中心に据え、新藤兼人が映画作品にしている。事件からまる5年後のことである。出演は宇野重吉、乙羽信子、小沢栄太郎、千田是也。 公開時、私は会津若松の若松大映で観ている。たしかワラ半紙のような紙に印刷した二つ折りのパンフレットを保存してあるはずと、幾つもの資料保存箱のうち、これか?と目星をつけて開けてみた。図星が当たって、意外に早く探し出せた。私が中学2年生の時だから、54年前の若松大映のパンフレットである。たぶん、現在残っている唯一の物ではないかしらん。ごらんいただくことにしよう。 一枚の紙の表裏に印刷していて、内側となる頁の囲み記事の執筆者に、原水爆禁止日本協議会理事長・安井郁氏の名がある。私の大学時代の国際法の教授である。もちろん映画を観た時には、数年後にはこの人が私の教授になるとは思いもしなかった。
Mar 1, 2014
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