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終日の雨。時に激しく、時に止むかとも思える降り様。どうやら午前3時ころまではこのまま降り続きそうだ。 先月、我家のかなり近くで崖崩れが発生した。日を置いて何度か起ったようだが、所有権が複雑な土地のため、行政が施策できないでいる。日本の法律の不可解なのは、このような場合でも、死傷者あるいは人家倒壊に至らなければ所轄の行政はまったく無策でいることがむしろ求められているらしいのだ。行政が、住民の危険に対して、常に常に後手後手な由縁である。日本政治の潜在的「棄民」思想だと私は考えている。 崖崩れの現場は、我家の二階のベランダから望むことができる。激しい雨が降るとひどく気になるのは、私が民生委員として見守りしている独り暮らしの老人や、独り暮しではないが高齢者夫婦だけの住居があるからでもある。いざという時、これらの人達をどうやって逃がすか。3.11の津波のときに、救出に向かった民生委員が犠牲になっている。この事例は私にとって他人事ではない。 昼前のこと、警察のパトロールカーがサイレンを鳴らしながらやってきた。崩れたか!?、と私は急いでベランダに駆け上がったが、どうやら崖崩れではないようだった。 3日土曜日に、土木関係の専門家に私的に会う予定だ。 さて、新作2点のための下絵を作っていることは昨日も書いた。今日もひきつづきその詰め。この週末あたりからキャンヴァスに写せればと思いながら。
Apr 30, 2014
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昨日今日と、新作2点の下絵作り。よって他に書く事もなし。 そうそう、映画ファンとしては、アルフレッド・ヒッチコック監督の命日だと述べておこう。1980年4月29日に亡くなっている。享年80。53本の長編映画を創った。
Apr 29, 2014
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シェイクスピアの肖像画と認定され、日本の教科書などにも掲出されているものもあるが、いずれの絵もシェイクスピア本人を目の前にして描いたかどうかは不明で、したがって実際のところ私たちはこの偉大な劇作家にして詩人の本当の顔を知っているとは言いがたいのである。 映画「恋におちたシェイクスピア」を制作するにあたって、イメージ的な拠りどころとしたと言われる若い男の肖像画は、9年前、2005年10月にイギリス国立肖像美術館が、シェイクスピア本人の肖像画とは認めがたいと発表した。 また400年の長きにわたってアイルランドの司教のコレクションとしてその子孫であるコッブス家に代々伝えられて来た肖像画が、近年、シェイクスピア生誕地協会によってシェイクスピアの肖像画と認定された。同協会によれば、この肖像画はシェイクスピアの死の6年前、1610年に描かれ、存命中に描かれた肖像画として唯一現存するものだという。 さて、私は画家としての関心もあってシェイクスピアの肖像画を見てきたのだが、以下に上記の2点を含む全部で5点のシェイクスピアの肖像画といわれる絵、あるいはかつて言われたこともある絵を掲げてみる。 ★ジョン・テイラー作と推定される絵。1610年作(この年号が正しいなら、これも存命中の肖像となる。)、キャンヴァスに油彩。 ★コッブス家伝来の作者不明の肖像画。1610年作と推定。'Principum amicitias!' とラテン語の記銘は「王子たちの同盟」という意味で、Horace(ローマ名、クゥエンタス・ホラチウス・フラックス、65 BC–8 BC、ローマ時代の代表的叙情詩人)の'Ode'からの引用。 ★マーティン・ドロエスホウト作銅版画。1623年に出版されたいわゆる第一フォリオのタイトルページを飾っている。シェイクスピアの死から7年後である。 ★上のドロエスホウト銅版画が刊行されておよそ165年後の1787頃にドロエスホウトを模写して出版された銅版画。作者不明。 ★2005年、イギリス国立肖像美術館によってシェイクスピアとは認められないとされた肖像画。 絵の右上に1588、左上に24と書き込まれていて、かつてこれによってシェイクスピア24歳のときの肖像とされてきた。しかし同美術館によれば、この当時のシェイクスピアは双子の父親になったばかりで、しかもいまだ劇団にも入っていず、描かれているような豪華衣装を着られるような身分ではなかった。したがってこの肖像画の青年をシェイクスピアとは認めがたい、という。
Apr 26, 2014
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書くのを忘れてしまったが、昨日4月23日はシェイクスピアの450回目の誕生日、そして同時に命日でもあった。シェイクスピアは1564年4月23日に生まれ(推定)、1616年4月23日に55歳で死んだ。 劇作家としての作品は述べるまでもないので、厳密なソネット型式で書かれた154篇の詩のなかから第38番目のソネットを掲出し、誕生日と命日とを記念する。Sonnets of William ShakespeareSonnet 38How can my Muse want subject to invent, While thou dost breathe, that pour'st into my verse Thine own sweet argument, too excellent For every vulgar paper to rehearse? O, give thyself the thanks, if aught in me Worthy perusal stand against thy sight; For who's so dumb that cannot write to thee, When thou thyself dost give invention light? Be thou the tenth Muse, ten times more in worth Than those old nine which rhymers invocate; And he that calls on thee, let him bring forth Eternal numbers to outlive long date. If my slight Muse do please these curious days, The pain be mine, but thine shall be the praise.ソネット 38私の詩神よ、如何にして主題を考案されるのですか私の詩に注込むあなたの息、あまりに優れて美しい梗概、通俗な詩稿をことごとく手習いとしてしまう主題を。おお、あなた御自身に謝意を賜りませ、よしや私にあなたの御目にかなう読むほどの価値があるならば;あなた御自身が創造に光をお与えになりますときに誰があなたに書けないなどと黙する者ありましょう数多の詩人が祈願する古き九神より十倍も価値あるあなた様、第十番目の詩神よ;あなたに願いを懸ける詩人にはその数々の詩が長く生きられるように、永遠の強き力をもたらしめませ。 もし私の拙き詩を、詩神よ、この奇特な日々に嘉せられるならば 痛みは私の身にあり、而して讃美はあなたのものとなりましょう (訳;山田維史)
Apr 24, 2014
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愛猫マリが死んで1ヶ月目の今日、午前中に墓参に行ってきた。 「マリ! 来たよ」と言いながら線香と花を手向ける。するとキアゲハがどこからともなくやってきて供養塔の周囲を舞った。じつに小さなキアゲハで、体長3cmもあるまいと思われた。春型にはちがいなかろうが、こんな小さなキアゲハをかつて見たことがない。 ギリシア神話を源流としてヨーロッパの文化的意識のなかに蝶と霊魂を結びつける考え方がある。日本にも、神話にこそ語られていないが、伝統的な神事においてやはり霊魂と蝶とが結びついている。日本の能が好きだったアイルランドの詩人イェーツは、自作の能「影の女」で、蝶と霊魂を結びつけるかたちで東西文化を融合させている。こういう東西の文化における象徴化された潜在意識に対する視点は、日本の現代新作能の作者たちには残念ながらまったくない。 ・・・私は「霊魂」を信じる心などないけれども、そんなギリシア神話などを思い出しながら、小さなキアゲハの舞を見ていると、ふと、・・・私の心にも古典的魂の片鱗が残滓のようにこびりついているのであろうか、・・・どちらかと言えば小さな体格だったマリが蝶に姿を変えてやって来たように思った。 「マリ,また来るよ」
Apr 23, 2014
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「三つ子の魂百まで」と言う。そんなたぐいのことかも知れないと思った。 午後から、ある会議に出席し、終わったのが16時。雨が降り出していた。会場がいささか不便な場所にあり、私の家からだと往復ともに1時間に1本のバスがあるだけ。往くときは、その時間はちょうど中抜きのように2時間に1本という時間帯。それに乗れば会議開始まで1時間半も早く到着するが、しかし次の回の時間だと会議に遅刻する。しかたないので本を携えてゆき、到着後はカフェで読書していた。ちなみに持って行った本は、紀田順一郎編著「『大漢和辞典』を読む」(大修館書店刊)。 まあ、往きはそれで自分自身納得したのだが、今度は帰りだ。バスが来るまでちょうど1時間あった。この時間、もうカフェでコーヒーを飲みながら読書して待つなどという忍耐心はなくなっていた。我家まで4km有余、歩けばバスを待つ1時間と同程度の時間で家に帰り着くだろう。雨が降っているが、エイっ歩いちゃえ! いい運動になる。 と、鼻歌まじりで歩き出したのだが、この「べんべんと待つことなどできるか!」という短気、子供のころからまったく変らない。小学2、3年生のころ、スクールバスが待てずに12kmほどの道を歩いて帰った。20代後半から30代半ばまで、しょっちゅう友人達とつるんで深夜まで飲みまわり、終電に乗り遅れて新宿から調布近くまで独りふらふら歩いたこともある。酔っぱらっていても、「待つ」ことが嫌だというコンジョウはあった。何処かで夜が明けるのを待っているくらいなら、歩いてしまえ。そのうち家に帰り着く。事実,夜の白々明けに帰り着いたりしているのだ。 ラーメン屋の前などに行列して待っている人達を見かけると、感心してしまうというより、あきれてしまう。戦時中の飢餓状態における給食なら納得するが、行列してまで食いたい物があるとは私には思う事さえできない。いや、人は人それぞれで結構。要は、私にその忍耐心がないだけだ。 「エイっ、歩いちゃえ!」・・・どうやら私のこれが「三つ子の魂百まで」のようだ。来月、私は69歳になる。100まで残り31年ある。ハハハ。
Apr 22, 2014
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【報道記事】朝日新聞 首相の靖国参拝は「精神的苦痛」 戦没者遺族ら損賠提訴 2014年4月21日22時03分
Apr 21, 2014
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昨夜仕事で中断した「カバヤ文庫」についてだが、昨日も触れたとおり2006年9月15日のブログ日記に書いている。あらためて書くよりも、以前のものを再掲載しよう。その後に、日本経済新聞に載った岡山県立図書館の前副館長・岡長平氏の一文から知ったことを少し補足することにする。--------------------------------- 昭和30年前後にカバヤ・キャラメルというのがあった。岡山に本社があった製菓会社である。このカバヤ・キャラメルが、たしか昭和27年に開始されたと記憶するが、景品としてB5判ほどの大きさの本(ハードカヴァー)を子供達にプレゼントした。詳しいシステムは忘れたが、キャラメルの箱のなかに入っているカードか何かをまとめて送ると、代りに本が送られて来た。それはかなりの数のシリーズで、「カバヤ文庫」という名称だった。 私の読書遍歴は、以前にもこのブログで書いたが、父のなじみの芸者京子に講談社の絵本『虫のいろいろ』をもらったことに始まる。私は4歳か5歳くらいだった。そして同じ頃、すなわち昭和24年に創刊された『おもしろブック』を購読するようになる。雑誌が発売になると、本屋が自宅に届けてくれた。連載ものの山川惣治「少年王者」や「少年ケニヤ」その他に夢中になった。いまでも「少年王者」の登場人物のひとり、エジプト王アメンホテップなどという名前をおぼえている。小学校入学前後に『子供の科学』も購読するようになった。ちょうど「カバヤ文庫」が創刊された頃と重なる。 私はその「カバヤ文庫」を10册ほど持っていた。それらの書名はすべて記憶している。ちょっと列記してみよう。 ◆アミーチス『母をたずねて三千里』 カバヤ文庫第1巻3号(以下同じ) 昭和27年8月10日刊 ◆オルコット『若草物語 ― 四人の少女 ―』 第1巻11号 昭和27年10月12日刊 ◆トルストイ『イワンのばか』 第3巻2号 昭和28年1月25日刊 ◆デュマ『謎の鉄仮面』 第3巻4号 昭和28年3月8日刊 ◆ハウフ『はなの小人』 第3巻9号 昭和28年3月15日刊 ◆ストウ夫人『アンクル・トム』 第3巻11号 昭和28年3月29日刊 ◆ゴーゴリ『隊長ブーリバ』 第3巻12号 昭和28年4月5日刊 ◆セルマ・ラーゲレフ『ニルスのふしぎな旅』 第4巻2号 昭和28年4月12日刊 ◆ピョートル・イェルショク『せむしの子馬』 第4巻10号 昭和28年6月14日刊 ◆フランク・バーム『オズの魔法つかい』 第7巻1号 昭和28年7月12日刊 このほかにも2,3持っていたように思うが、明確なのは以上だ。これを見ると、「カバヤ文庫」が全部で何巻刊行されたかがおおよそ推測できる。1巻が12册のようだから、もしそうだとすると70册以上ということになる。子供の文学集成としては立派なものだ。私が所持していたのは昭和28年に集中しているが、私は長野県南佐久郡川上村立第二小学校の2年生だった。教室には学級文庫が備え付けてあって講談社の絵本が全巻揃っていた。私は友達とグラウンドに出て遊ぶこともなく、ひとり教室に残って黙々とこの学級文庫を読破した。『百合若大臣』などいまでも憶えているが、当時の講談社絵本の刊行目録がわかれば、私が読んだ本はすべて判明する。 ところで「カバヤ文庫」の収集が昭和28年で終わっているのは、この年の9月に父が福島県南会津の住友八総鉱山に転勤となり環境が変わったことによる。いや、カバヤ・キャラメルのカードは集めていたのだが、送ったところ希望する本がなくて、代りに、まるで興味がない漫画か何かを送ってきたのだ。私は子供心に、もうこれは無駄が出ると思い、カードの収集そのものを止めてしまったのだった。「カバヤ文庫」を集めるかわりに、近くの町まで汽車に乗って出かけ、保育社の蝶類図鑑や昆虫図鑑、あるいは植物図鑑を自分で本屋から買い求めるようになった。そのほうがずっと楽しかったのである。 しかし「カバヤ文庫」は私にとっては大切な「蔵書」だった。私が家を出て上級学校に通うようになって、いつのまにかそれらは失われてしまったが、後年、ときどき大きな古書市に出かけると、ふと、「カバヤ文庫」はないかしらと探したものだ。が、今のいままで古書店で見かけたことは一度もない。製菓会社の景品として発刊した文庫なぞ、市場にでまわることはないのだろうか。(追記;2006/9/16) お客様の良次さんが「カバヤ文庫」のWebサイトをみつけてコメントを寄せてくださった。さっそくアクセスしてみたところ、岡山県立図書館がかなりの点数の「カバヤ文庫」を所蔵し、インターネット閲覧ができるようだ(ただしWindowsのみ可)。 同図書館の情報によると、「カバヤ文庫」は全241巻におよび、そのほか「カバヤ・マンガブック」全50巻と「カバヤえほん」があったようだ。同図書館が所蔵する「カバヤ文庫」は213巻で、サイトにはそのすべての書名が掲載されている。また、カードの収集等についても解説している。当り券があり、大当りが10点、カバの券が8点で、50点になったら本と引き替えるシステムだった、と。この「カバヤ文庫」は2000万部も発行されたのだそうだ。 この情報により、私の記憶も確かだったことがわかった。そして私がカード収集をやめるきっかけとなった、希望した本のかわりにマンガが送られてきたという記憶も確かだったことが判明した。「カバヤ・マンガブック」というシリーズがあったのだった。 それにしても、昭和27,8年といえば、戦後のまだまだ物が豊であったとは言えない時代だった。児童書に関して言えば、創元社から分離独立した現在の東京創元社が「少年少女世界文学全集」を刊行開始し、偕成社もまた低学年向けの児童文学全集を発刊した。講談社も「少年世界文学全集」を刊行したはずだ。ようやく児童書もみるべきものが出て来たのだが、カバヤ食品による「カバヤ文庫」の企画は、その2000万部という数字からも分るように、まさに児童文学全集の発刊に先鞭をつけたと言ってもよいだろう。ただ、後発の出版社企画がしだいに「カバヤ文庫」を追い詰めたかもしれないとも推察できる。というのは、私自身が「カバヤ文庫」の収集をやめ、図鑑類を買うようになったのだが、じつは今述べた東京創元社の全集を予約購読しはじめ、弟たちは偕成社の全集をやはり予約購読するようになったのである。偕成社の全集はその昔、親戚の子供たちにプレゼントしてしまって1册も残っていないが、東京創元社の「少年少女世界文学全集」は先年蔵書の整理をしていたら10册ほど見つかった。 私の個人的な思い出ではあるが、昭和30年前後の児童書出版史のようなものが透けて重なっているのである。----------------------------------- さて、以下は岡長平氏が書いていられることから。★ 「カバヤ文庫」は、当時、カバヤ食品の販売促進のために同社の原敏氏が企画して始められた。★ 同志社大学出身の原氏は、著作権が切れた児童文学作品を学生アルバイトを使ってリライトさせ、表紙絵は京都周辺の画学生に描かせた。★ 総タイトル数は174。これを13回に分けて刊行(最終的には完結しなかったと思われる。---これについては山田後記)。★ 1冊125ページ。★ 総発行部数2500万部超え(正確な数字は不明らしい;山田)。★ 児童文庫刊行途中の昭和28年(1953)から昭和29年にかけて、第2弾付録として「マンガブック」が刊行され、50号までつづいた。しかし「マンガブック」は不評だった。(マンガブックの失敗が児童文庫挫折のひきがねになったのではないかと、岡氏は推測している。---山田)★ 岡山図書館は、現在、126タイトル、およびカバヤ食品が保存していた5タイトルをデジタル化し、計131タイトルを収蔵、閲覧できる。 以上の岡氏の一文の要点を私自身の記憶に重ねると、こんなことを思い出す。 私がせっせとキャラメルの点数カードを集めて、希望するタイトルを申し込んで送っているうちに、私の希望するタイトルが現在無いので代わりに別の物を送りますと手紙が添えられ、「若草物語」と「マンガブック」が届いた。私は女の子が読むような「若草物語」など欲しくはなかった。ましてオマケで贈られた「マンガブック」など、まったく興味がなかった。---この一件で、私の「カバヤ文庫」収集熱は一気に冷めてしまった。マンガブックは、当時小学2、3年だった私の大不評を買ったわけだ。私のマンガ時代は3年生までにほぼ完全に終わっていたのであったから。 私の小さな蔵書は、「カバヤ文庫」から昆虫図鑑や植物図鑑(子供用の図鑑ではない)、および東京創元社の「少年少女世界文学全集」へと移っていったのだった。
Apr 20, 2014
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昨日4月18日の日本経済新聞の文化欄に、岡山県立図書館前副館長の岡長平氏が「カバヤ文庫、心の栄養源 ◇菓子の付録として戦後まもなく大ヒット、収集公開◇」と題するエッセイを寄せられていた。 「カバヤ文庫」と言っても、現物を知っているのは現在68歳の私と同年の方々だけだろう。岡山県の菓子メーカー、カバヤ食品が昭和27、8年頃から2、3年の間、カバヤキャラメルに封入された点数券を送ると、ハードカバーの児童文学本を1冊プレゼントしてくれたのだ。このカバヤ文庫についてはすでにこのブログの初期に書いた。私には懐かしくも、また、私の読書体験の始まりにある重要な本たちだ。 おっと、夜中の1時だというのに、ひとつ仕事が入った。つづきは明日に書く。
Apr 19, 2014
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早朝からかなり強い雨。そのなかを歩いて主治医のクリニックへ。年に1度の定期健康検診のため。今年で4回目である。 血液検査、尿検査、および大腸癌検査の結果が出るのは後日だが、その他は、心臓肥大無し、肺に何等の影も無し、眼底および咽喉等にもまったく異常無し。血圧121/76mmhg。体重59.5kg(昨年より0.9kg増加)。腹囲79(昨年より0.5cm増加)。---主治医曰く、「非常に良く自己コントロールができています」と。 かつて健康診断など受診したことなどなく、第一、自分の健康など毫も気遣ったことがなかった。そんな私が、なぜ3年前から定期検診を受けるようになったか。じつは、亡母が在宅医療になったとき、母の主治医(現在の私の主治医)に初めて面識を得た。そのときの私についての主治医の印象が、後に聞けば、「身体のでかい人」というのだ。それは私にはまったく意外なことで、私は自分自身をごく標準体格、むしろ小さめと思ってきた。で、母が亡くなったとき、私がほとんど外出もできず(1週間か10日に一度、2時間ばかり外出するのが精一杯)24時間看護を3年半にわたりやっていたので、主治医がことのついでにと私のヴァイタルチェックをしてくれた。するととんでもない結果が出た。 血圧が155/90、体重70kg、BMI値25.9。完全にメタボリックシンドロームの高血圧症。---そこから、私のダイエット作戦が始まったのだ。 私は自分で料理するし、簡単な栄養学の知識もあるので(それが亡母の在宅医療にも大いに役立ったのだが)、即座に食生活を変えた。「思ったが吉日」は、ほとんど私のモットーに近い。 ダイエットと言っても、食べることが好きなのだから、まず美味しく充分に食べなければ、ということが私の食生活にとっては大切。そして苦しい思いはしない。そんなことが長続きするはずがない。それから、「努力」などという意識をもたないようにすること。「努力」が傍目にも見えるなんて私のダンディズムが許さない。すべてを日常生活のごく自然の流れのなかに組み込むこと。それが私の流儀。 ---まあ、私にとっては全然難しくはない。自分の科学的知識を自分の身体管理に応用し、結果良好と出るかどうか。さあ、ゲームの始まりだ、楽しんで行こう、というわけ。 しかも、私は画家であるけれども、どちらかといえば感覚的というより観察と記録の志向が強い。毎日自分の朝夕2回のバイタルチェックを記録し、口に入れた物はお茶の一杯、飴の一粒さえすべて記録した。食品のおおよそのカロリーを知ったうえで、特に記録すべきカロリーも記録した。これによって、たとえば炭水化物の摂取の多寡など糖質制限が一目瞭然になった。 ついでに言えば、認知症か否かを判断するときに、その日の食事あるいは前日の食事が何であったかという質問がある。認知症の予防になるかどうかは分からないが、私は記録するために一日三食および間食もすべて思い出すことをしているわけだ。それは、たまたま外で会席料理を食べたときなどは、向付に入っていたもの八寸に入っていたもの、焼き物に添えられていたもの、あるいは清汁の素材など、その一々を思い出して書くのである。松花堂弁当のようなものを食べたときも同様に、わずかな2、3種の漬物さえ一々を記憶をたぐって一日の終わりに書いた。 この食事記録をするに当たって、私が参考にしたのはダイエット面からよりむしろ日常の料理メニューの面白い記録である女優の澤村貞子さんの記録、それに美食の面から小説家の池波正太郎さんの記録だった。ご両人共に、一日一日の食事を大切にされていた。池波正太郎は「死ぬまでにあと何回の食事」と考えていられた。自分の死から逆算して精一杯生き抜くといのは、私自身の精神にぴったりだ。私はそこにジョルジュ・バタイユのエロティシズム論を複合するのだけれども。すなわち、死に至る生命の燃焼、ということを。 というわけで、私の自己管理は坦々と3年間におよび、今日も主治医から「非常に良く自己コントロールができています」という言葉を頂戴した次第。 さて、きょうの夕食は何を食べようか。
Apr 18, 2014
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八百屋の店頭に新筍が出はじめた。我家でも昨日の夕食は筍御飯を炊いた。 朝、裏山を散策したが、ソメイヨシノもヤマザクラもほぼ開花期を終わり葉桜の浅い緑が林を覆い始めていた。山吹が咲き、躑躅も割れた莟の先端に赤い花びらをのぞかせている。タチツボスミレが可憐だ。江戸時代初期の絵にも描かれている野草だ。 話は変る。 CNN.co.jpが、[廃虚マニアが選んだ「ニッポンの名所」]と題した雑話を載せている。そのなかに、神戸市の摩耶山にある1929年建造の摩耶観光ホテルの画像があった。私は37、8年前に訪ね、すでにその当時も廃墟だったのだが、1泊したことを思い出した。 舞踊家の田中泯(たなか みん)氏の舞踊がそこで行われ、それを観にでかけたのだった。その日、まず京大で踊られるというので、私は新幹線で京都に向かい、京大で観て、その後は大坂、神戸と巡演するので田中氏とそのスタッフ一行の車に同乗、同行させてもらったのであった。 ちなみにその当時、私は、田中泯に出逢う数年前から、現代前衛舞踊を集中的に観ていた。暗黒舞踏の土方巽、芦川羊子、孤高の大野一雄、麿赤児と大駱駝館、大駱駝館から作品「金柑少年」で独立した天児牛大(後に山海熟を結成)、天使館の笠井叡、玉野黄市、室伏鴻、あるいはピナ・バウシュ 率いるヴッパタール舞踊団等々である。この舞踊行脚で最後に行き着き、そして私の舞踊行脚の最終点となったのが、舞態と称して独自の活動をしていた田中泯だった。 田中泯の舞踊について私は2篇のエッセイを書いている。「定めなき観客席よりの〈視感〉」を『身体気象圏図譜』(1977.10、田中泯ダンスジム・工作舎発行)に。「田中泯----永遠の歩みを企てる者」を『路上』第30号(1979.2、仙台、路上発行所刊)に。 さて、廃墟となっていた摩耶観光ホテルでの一泊は、駆け出しの油彩画家としての私にひとつの重要な課題をもたらすきっかけとなった。 田中氏が踊の場とした大広間(あるいは元々ボールルーム---舞踏場---であったかもしれない)に、作者の見極めさえ困難なほど崩壊した油彩画が掛けられ、放置されてあった。「無惨やなー」と言いたくなる程に絵具が剥落し、その支持体である汚れたキャンヴァスをあからさまにさらけ出していた。 このホテルが営業をやめて、その時までどれほどの年月が経っていたのだろうか。いま、ウィキペディアを参照すると、それよりちょうど10年前の1967年頃にホテルとしての営業を休止し、その後、1974年から学生のゼミ合宿やサークル合宿専用の「摩耶学生センター」として転用された、とある。ということは、私が田中氏一行と共に宿泊したときは、実質的には「廃墟」の数歩手前だったわけだ。しかし私の目にはすでに廃墟と映じていた。それはもしかすると崩壊した油彩画のせいかもしれない。いや、厳しい言い方だが、そのような油彩画をかたづけるでもなく放置してあったということは、学生センターとはいえ、所有者の精神は廃墟同然だったのだろう。 そんなことはともかく、私はその剥き出しになったキャンヴァスを観察して、この油彩画は手入れされずに放置されなくとも、行く行くは絵具が剥落したにちがいないと思った。プリミエール・クーシュ(第一段階の地塗り)が、キャンヴァスの縷目にくいこんでいないと見て取れたのだ。私はセザンヌの制作に関わる逸話を思い出した。すなわち、セザンヌが絵具をキャンヴァスにごしごしと擦り付けていた、というのだ。彼は一体何をしていたのだろう。最初の下地絵具を麻布の織目にしっかりと食込ませていたのである。 美術館で私たちは、災害をこうむった絵画作品を観ることはない。まして画家ではない一般の人達が、油彩画がどのような災害をこうむるかを、実際的に目にすることは滅多にないと思う。油彩画の災害には、何らかの外的な作用によって損傷することとともに、画家の技術的な不手際によっておこることもある。日本人が大好きなゴッホは、嵐の中で何点も描いたとか、狂気のなかで描いたという逸話に彩られた画家である。そのような状況で制作された作品は、年月を経てさぞかし多くの損壊が発生しているのではないか。通常はそうだ。しかし、ゴッホの作品は違う。災害をこうむっているものは、わずか数点にすぎない。死後125年を経て、まるで描いた当時と変らない絵具の「物質的」な輝きを放っている。これは何を意味しているのか。油彩技術、絵具それぞれに異なる物質的特性を完璧に理解し、なおかつ狂気のなかの素早い筆さばきにおいても失われなかった「肉体化」した技術をもっていた、ということを意味している。 私が37、8年前に廃墟同然の摩耶観光ホテルの一夜で思いめぐらしたのは、そのようなことであった。そのころから私は、一般の方々に油彩画について話をもとめられると、まずは、「油彩画技法というのは、道路工事、土木工事みたいなものなんです」と言うようになった。「現象だけをとらえているわけではないのです」と。---もちろん、人に話すというより、自分自身に言っているのであるが。
Apr 13, 2014
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【新聞報道】読売新聞 首相の靖国参拝「平和的生存権を侵害」市民提訴 2014年04月11日 20時59分
Apr 11, 2014
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昼前まで民生委員の仕事で外出していたのだが、いやー暑かった。気象報告によれば初夏の陽気だったとか。 しかし、この陽気がこのままつづくのかと思ったら、夜も更けて急に気温が下がってきた。猫たちは敏感に察知して、隙あらばと私の膝にのって暖をとろうとする。抱いてみれば、なるほど、震えているのだ。それで、もう仕舞時と思っていた電気カーペットを入れてやった。 さて、午後は、構想している次の作品のために心の勉強。 職業人としての画家には、人生で絵を描く「根拠」があるのだけれど、何十年と描いて来て今あらためて自分自身にその「根拠」を問うている。それを問うことを、恐ろしいと思いながら。 ・・・今私は、それぞれの様々な人生を歩みその晩期に到った大勢の方々に、直に会っている。しかも単に会うというのではなく、まさに人生の晩期における個々人の深い想い,あるいはのっぴきならない状況で会うのである。私が自らの絵描きとしての「根拠」を自らに問う由縁である。
Apr 10, 2014
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好天気に恵まれ、近くの中学校の入学式に出席してきた。 二週間前に小学校の卒業式で送った顔が、もう、少し大人びていたのは、制服(校長先生は、「常服」と言っていた)の所為だろうか。来賓席側は男子生徒たちだったが、上下の紺色のスーツはおそらくサイズがいくつかのパターンできまっているのだろう、身の丈にぴたりの子もいれば袖丈や着丈がいささか大き過ぎる子もいる。ご両親が、じきに大きくなるのだから、と考えられたのかもしれない。伸び盛りだもの、夏休みが終わって秋の衣替えのころには、きっとぴったりになっていることだろう。 感心したのは、2年生3年生達による新入生歓迎の歌「Let's serch for Tomorrow」の合唱。上手なのだ。指揮は男子生徒、ピアノ伴奏は女子生徒。10月の学校行事に「合唱祭」というのがあるようで、普段から全校生による合唱を練習しているらしい。その成果は充分うかがえる出来栄えだ。 ちなみにこの中学校は校歌も混声2部合唱曲で、女声が主旋律を、男声が低音部をうたう。校歌としてはかなりめずらしい作りである。校歌は指揮も伴奏も女生徒。国歌斉唱の先生のピアノ伴奏より上手。さすがに中学生ともなれば、先生達、うかうかできませんな。ふふふ。 式が終わっての帰り道、桜並木の花の絨毯を踏みながら歩いていると、住宅街の道の真ん中でお婆さんが、なんだかトロケソウな表情で50mほど先の少し大きな通りの方を見やっている。20人ばかり幼稚園児たちが、お揃いの上着と帽子で、カルガモの雛のように行列をつくって歩いていた。前後で先生たちに護られながら、おそらく通園路の確認か昼食前の運動を兼ねた散歩なのだろう。 お婆さんは、私を振り返り、見知らぬ同士「こんにちわ」と挨拶をかわす。お婆さん、「可愛いねー!」。私も、「可愛いですねー!」するとお婆さん、「こっちには来てくれない・・・」と、いかにも残念そう。 そうかそうか、お婆さんはさっきから道の真ん中に立ち尽くし、あのヒヨコのような幼稚園児のお散歩が、自分の家の前も通りはすまいかと待っていたのかもしれない。ひ孫のような子供たちである。
Apr 8, 2014
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東京の桜は盛りをすぎ、私の町のあちこちでも桜吹雪が舞っている。が、我家の盆栽の桜は、今日が開花だ。一時は枯れ庭だったし,今でもさほど変わりはないけれど、紅椿、夏茱萸、木瓜、富貴草、そして盆栽桜と、多少の彩りがでてきた。作品制作が終わり、ニューヨークへ向けての、まずわ画商への出荷もすんだので、週末にでも草花の鉢植えをしようかと思っている。
Apr 7, 2014
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愛猫マリが死んで2週間が過ぎた。ときどき思いがけない時に、ふとマリの姿を家の其処此処に見る。視野の片隅を過ったような気がして、一瞬、死んだことを忘れているのだ。 他の猫たち用のドライフードや缶詰を買いに行き,あれッ? とヘンな気持になった。マリが好きで、いつもほとんどマリだけのために買っていた鶏肉の缶詰が、商品棚から完全に撤去されていたのだ。念のために、ペットフードを扱っている5軒の店に行ってみたが、いずれでもその缶詰は販売されていなかった。 ・・・マリの死とマリの好物だった缶詰の販売中止は何の因果関係もない。しかし私は、「もしマリが生きていたなら、この事態に当惑しただろうなー」と思ったのだった。 愛猫の棺にも入れよ春の花 青穹 花野にて逝く人送る無常かな 瞬毫を生き生きてみん花吹雪 行く道や花野と見立てん俄雨 春雷や何処めぐりて此処の宿 春雨や濡れた昔をわすれけり 散るもあり咲くもありての面白さ
Apr 6, 2014
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コスタリカで開催された十七歳以下の女子サッカーW杯は、日本対スペインの決勝戦を、2−0で、我がリトルなでしこが制し、みごと初優勝。世界のトップに立った。前回2010年のW杯では惜しくも韓国に敗れて準優勝。その雪辱をここに果たした。女子サッカーは、2011年のW杯優勝とともに二つの世界タイトルを獲得した。日本の女子サッカーが実質的に大きく成長している証だろう。 決勝で獲得した2点について書いておこう。 試合開始4分、DF松原志歩の浮きぎみのミドルシュートがクロスバーを叩いた。ゴール前に跳ね返ったボールをMF西田明華が力強く蹴り込んだ。 その後は、決定的なチャンスを活かせず、日本は我慢がまんの時間がつづく。 後半戦に入り、24分、FW小林里歌子のパスでゴール前に抜け出したFW児野楓香が冷静なシュートでGKを破る。2−0。日本は勝利を大きく引き寄せた。 体格では圧倒的なスペインに対し、小柄なリトルなでしこが、迫力のある攻撃と防御で見応えのある試合運び。シュート数においてはスペインの3倍。---3倍のシュートにして獲得点が2というのは、効率が悪過ぎるのではないか、という批評もあるかもしれない。しかし、滅多矢鱈にボールを蹴っていたわけでは全然ない。ポストに阻まれた、あるいは相手キーパーの反応が見事だった、と言うべきだろう。敵にボールを与えない、そのボール保持力と各選手のポジション取りの確かさを評価すべきだろう。この決勝戦まで5戦全勝、全21得点、失点はわずか1点という戦いぶりは見事というほかはあるまい。
Apr 5, 2014
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昨夜からの雨は今日も一日中止む気配がない。 盆栽の桜の莟がわずかに花弁の紅色をにじませているが、さて、冷たい雨の中、明日咲くか明後日咲くか。ふと気がつけば夏茱萸(なつぐみ)の小さなラッパ状の白い花が若葉にうもれるようにたわわに咲いている。紅椿が咲いては散り、散っては咲いている。昨年、思い切った剪定をしたら、花の付きが良くなったようだ。アガパンサスも勢い良く葉を伸ばしている。もっとも、これが花を咲かせるのはまだ1ヶ月も先きのことだ。 さて、私はといえば、完成した作品に黙然と対峙している。サインは入れた。もう2日間じっと見つづけ、6日には出荷しようと思う。残念ながら写真スタジオで撮影する時間はない。
Apr 3, 2014
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ニューヨークへ送り出す新作が、ようやっと完成した。 2,3日様子を見て、サインを入れることにする。
Apr 1, 2014
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