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Dec 31, 2014
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2014年も残り1時間30分を切った。健康で活動的に忙しく過ごした。ざっと振り返れば、まず民生・児童委員新人としての1年間、ボランティア福祉活動140日、128件の仕事を処理し、高齢者見守りや相談に応じての訪問が128回。地域の方々のためにミニ展覧会をおこない、民生委員合唱団員としての練習と披露コンサートに出演した。そして本業のニューヨークにおけるアートフェアおよびパリにおけるアートフェアへの出品。もちろんその出品作品の制作。そして来年の国際アートフェア出品作の制作等々---休みなしに活動した。 そうそう年の初めに人間ドックに入院して、一応太鼓判をおしてもらった。このとき、極微小の大腸ポリープがあり即座に切除しておいたと、内視鏡検査の麻酔から醒めたときに知らされた。 来年の抱負を語るまでもなく、つぎつぎにスケジュールが入って来ている。来年11月の予定さへもだ。本業のほうは、とりあえずは5月のニューヨーク展である。
Dec 31, 2014
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おせち料理を作りおえたところだ。全部で六品。あとは明日大晦日にちょいと足せば、というところ。 何十年にもわたり、---少なくとも私の記憶に残る子供のころから、我家のスタイルで毎年同じ料理が作られてきた。亡母から引き継いで、まかせなさいとばかりに私がすべてを作るようになってからでも、40年以上になる。もっとも高校生の独り暮しの頃から自炊をしていたので、私の料理歴は53年になる。ベテランなのである。 私は、料理を、物を作る基本と心得ている。絵を描くことと同じ。いや、その創作の原点である。絵を描きつづけてゆくために、料理をしつづけてゆくのだが、このあたりの精神あるいは哲学と言ってもよいかもしれない私のメカニズムは、他人には理解しえないかもしれない。 絵描きとしての私は、風景などを描きはしないので自然に対峙していないと思われるかもしれないが、自然に対峙する方法はほかにもあって、私は食材を通して自然の物質的本質に毎日欠かさず対峙している。それは、絵具の物性理解と何等変わらないのである。 また、当然こうも言えよう。絵描きとしては視覚の能力が突出してゆく。料理することで、嗅覚・味覚・触覚、そして聴覚の能力を補完しているのだ、と。
Dec 30, 2014
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朝から仕事部屋に籠り、一連の4作目の新作に着手。塗りの初期第一層(プリミエル・クーシェ)をやりおえて、一晩寝かせて指触乾燥(指で触れて表面が乾いている状態)を待つことに。 その後はやることもないので読書。 積んである未読の本がなかなか片付かない。家のあちらこちら、私が腰を落ち着かせる場所に、違う本が置いてある。そのなかの一冊を読了。文学書だったが、私としては視覚の特異性と細密描写との関係について基本的な示唆を得た。今後その問題をさまざまな例証を探索しながら自分自身の問題として展開を図ろう。
Dec 28, 2014
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一連の新作小品、第4作目となる下絵をキャンヴァスに写す。明日からその制作に入ろうと思う。 恒例の大晦日のパーティーは、弟一家が来れなくなったと電話してきたので、それならばと、私は仕事に専念することにした。 とはいえ、これも私が作る事が恒例のおせち料理は29日と30日に作ることにする。こういうことはきちんとやっておかないと、年中多忙なので却って日々がだらだらと過ぎてしまう虞れがある。 節季事はなるべくきっちりやるというのが私の方針だ。と言っても、故俗の風習にはとらわれない。宗教臭の強いものや迷信のたぐいは、我家では排除している。他からも一切持ち込ませない。要するに我家の節季事とは、「季節の変わり目」を楽しむということに過ぎないのだが。
Dec 27, 2014
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昨日、私の絵を無断使用して販売している中国のポストカードについて書いた。ほかにも無断使用している例がある。以下に示すのは韓国で出版されているアガサ・クリスティー本2冊。私の絵を表紙に使っている。一番下の画像がオリジナルで、東京創元社刊のディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」である。この原画はミステリー作家の折原一氏が所蔵していられる。 ところで、私が原画に描いているのは、ナポレオンのデスマスク。私はその実物を観ている。ついでに述べれば、この「写実」画と言われるであろう絵は、モデルとした実物が存在するのはデスマスクと卓上ベル、それにブライヤーのパイプだけで、その他の物---かぎ煙草入れも、本も、万年筆も、吸い取り紙も、実際にはまったく存在しないもので、それらは私が絵の中で創りだした。絵の空間そのものがそもそも存在しないのだ。私がやろうとしたのは、写実画と言われる絵がまったくの幻想画だという遊びである。写実って、何? 幻想って、何? そういう問いかけであり、自問であった。絵におけるそのような空間創造が、ミステリー小説の空間創造と、作者の創作精神においておおいに共通するのだということ、それをもって私はこの原画をしてミステリー小説本の表紙としているのである。
Dec 25, 2014
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クリスマス・イヴを如何おすごしでしょうか。私はあいかわらず仕事三昧。その甲斐あって、大晦日までに完成することを目指していた第3作目の新作を早くも完成した。即座に4作目の構想にとりかかる。年賀状用の羊の絵も描き終わった。 年賀はがきで思い出した。どうも私の作品を無断で使ったポストカードが、中国で販売されているようだ。印刷の色が滅茶苦茶なのが、原画作者としては痛恨の極みである。販売用に以下のような解説がついていた。ちなみに作品の本当の題名は「宇宙母;Cosmic Mother」である。
Dec 24, 2014
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自作の解説をするのはどうかと思うが、どうしてもそれを求められる場合も無きにしもあらずである。以下に掲載するのは、昨日写真をご覧にいれたパリのアートフェアのギャラリー資料として書いたもの(英仏語も)。 もちろん拙作を観てくださる方は、私の解説にとらわれずに、それぞれの想いをめぐらしてくだされば、作者としては最もありがたいのである。「黒髪のイヴ」について 山田維史 神話学におけるアダムとイヴは死ぬべき運命(mortal)の存在の象徴である。対極に不死(immortal)としての神がある。つまりアダムとイヴこそ「人間」なのであった。 そして私のイヴは、神学によって貶められた存在ではなく、現代女性として死に到るまでの生命を誇り高くうたいあげる。 現代の破壊的な地球上だからこそ人間としての智慧が必要だ。智慧の実を食べなければならない。美術史では18世紀から19世紀に「読書する女性像」が胚胎する。それは女性の失地回復を意味し、同時に社会的に自己主張をする女性に男はエロティシズムを感じたのだった。18世紀の女たちが手にした「本」は、実はイヴの「りんご」と同系列にあるのだということを私は指摘する。神話のなかでイヴの手から一旦アダムの手に渡されたりんごは、18世紀に本と言う形でイヴの手にもどり、私の作品「黒髪のイヴ」で再びりんごとして姿を現した。 フェミニズムの問題は洋の東西を問わない。そのことを私は作品の様式もしくは技法として表現した。ヨーロッパ文化のイコンと日本美術の琳派とに技法の近親性を見て背景に金箔を用いた。また神話の蛇(イヴの同定に必然的なモチーフ)のかわりに日本の蛇性を表す能装束のテキスタイルデザインを引用した。イヴの黒髪に東洋を感じる観客がいるかもしれない。それは画家が日本人であることの証である。【英語訳】For "Eve of black hair" Tadami Yamada Adam and Eve in mythology is a symbol of the presence of mortal. There is a God as immortal as a counter electrode. This means that Adam and Eve is "human" . And Eve in my painting is not the presence that has been humbled by theology. She sings proudly her life unto her death as a modern woman. Wisdom as human beings we need precisely because on earth destructive modern. We must eat the fruit of wisdom. "Female image that reading" was-bearing in from the 18th century to the 19th century in art history. The reading woman means the recovery of lost territory of women. At the same time it means the assertive social consciousness of woman. Man was felt eroticism to that women who read books. The "book" in women's hand of the 18th century, I point out that fact that was in the same series of as Eve's "apple". The apple that was passed into the hands of Adam once from the hands of Eve among the myth returned to the hand of Eve as the form of book. And the book emerged as the apple again in my painting "Eve of black hair" . Since problem of feminism does not matter the East and West, I was represented as a technique or style of work that was used gold leaf in the background to see the relatives of the technique the Rimpa of Japanese art and icons of European culture. I also cited the textile design of Noh costumes representing the snake of Japan instead of (motif inevitable for the identification of Eve) serpent of mythology. There may be some audience feel the oriental black hair of Eve. It is a testament to the artist is Japanese. 【フランス語訳】Pour "Eve de cheveux noirs" Tadami Yamada Adam et Eve dans la mythologie est un symbole de la présence de mortel. Il est un Dieu immortel comme une contre-électrode. Cela signifie que Adam et Eve est «humain». Et Eve dans ma peinture n'est pas la présence qui a été humilié par la théologie. Elle chante fièrement sa vie vers la mort comme une femme moderne. Sagesse en tant qu'êtres humains nous devons précisément parce que sur terre destructeur moderne. Nous devons manger le fruit de la sagesse. "Femme d'image que la lecture" a été-en gardant à partir du 18ème siècle au 19ème siècle dans l'histoire de l'art. La femme la lecture, la valorisation de territoires perdus de la femme. Dans le même temps, cela signifie la conscience sociale affirmée de la femme. L'homme a été jugé érotisme à ce que les femmes qui lisent des livres. Le "livre" dans la main du 18ème siècle de la femme, je tiens à signaler ce fait qui était dans la même série comme "la pomme" d'Eve. La pomme qui a été adoptée dans les mains d'Adam une fois des mains de Eve entre le mythe renvoyé dans la main d'Eve comme la forme de livre. Et le livre est apparu comme la prunelle de nouveau dans ma peinture "Eve de cheveux noirs". Depuis problème du féminisme n'a pas d'importance l'Est et l'Ouest, je me représentais comme une technique ou un style de travail qui a été utilisé la feuille d'or dans le fond pour voir les parents de la technique la Rimpa de l'art japonais et des icônes de la culture européenne. J'ai aussi cité le design textile de costumes de nô représentant le serpent du Japon à la place de (motif inévitable pour l'identification d'Eve) serpent de la mythologie. Il peut y avoir une certaine audience sentir les cheveux noirs oriental d'Eve. Il est un témoignage de l'artiste est japonais.
Dec 23, 2014
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過日、10月24日から26日まで、パリのルーブル美術館地下街、カルーゼル・デュ・ルーブルで開催された選別画廊によるアートフェア、「アート・ショッピング 2014」の写真が届いたので、一部をご覧ください。会場の様子と、私の作品「黒髪のイヴ ♯2」を観るお客さんです。ⓒ Photograph by Gallery EDEL
Dec 22, 2014
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民生・児童委員の年内の会議等はすべて終了し、地域の高齢者からの相談はあるいはまだ寄せられるかもしれないが、ほっと一息ついたところで、昨日、主治医を訪ねて簡単な検診を受けてきた。心身ともにすこぶる快調、念のためにというわけだ。血圧112ー68。全然問題無し。 病院の待合室で順番をまつあいだ、手帖に詩を書いていた。まだ素案のようなものだが、できあがったらブログにアップしよう。 さて、今日は午前中からずっと仕事場に籠って作品執筆。進行状況、順調。たぶん大晦日までにニューヨーク展用の3作目が完成するだろう。---しかし、午後4時30分、やや集中力がなくなってきた。作品の中心部、大事なところをやっているので、今日はもう執筆終了にした。
Dec 21, 2014
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12月20日の今日、東京駅が開業100周年だそうだ。1914年といえば大正3年。案外遅い開業だったのだなぁ。---日本に初めて鉄道が開通したのは、衆知のように新橋ー横浜間で、1872年(明治5年)。それから17年後の1889年(明治22年)に東海道本線が開通した。東京駅の開業はそのさらに25年後、新橋ー横浜間開通から42年も経っている。 この遅い開業には二つの理由が推測できる。一つは皇居が真ん前にあったこと。二つは、日本橋や銀座は近いけれども、八重洲近辺が今日のように東京の中心ではなかったのではないかということ。 これは私のまったくの推測にすぎないが、ともあれ、東京駅は駅舎そのものの改築を含めて、丸の内周辺はこの25年ほどの間に大きく変わった。そして丸の内側駅舎正面の広場は今後さらに装いを改める計画がすすんでいる。 私個人の思い出には東京駅は特別の居場所を与えられていない。いまでこそ東北新幹線が東京駅始発となっているが、私が会津若松や家族が住んでいた札幌から青函連絡船を乗り継いで東京へやって来た当時は、列車は上野駅に到着した。井沢八郎の歌謡曲「あゝ上野駅」そのままに。あるいは石川啄木の短歌のように。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」---この停車場はまさに上野駅である。東北弁や北海道弁が飛び交っていた。 私の東京駅は、八重洲ブックセンターへ行くための駅であり、丸善や高島屋、そしてひと頃は丸の内に新人物往来社があったので、編集者の故椎野八束氏と仕事の打ち合わせをするために頻繁に通った駅である。そうそう、私がそのたたずまいを気に入っている東京ステーションギャラリーは、まさに東京駅の二階にある。煉瓦が剥き出しになった内装壁、木の床。---がっしり描かれた油彩画が建物の雰囲気ごとまるまるしっくり収まってしまうギャラリーは、もしかすると東京ステーションギャラリーがその数少ないひとつかもしれない。 展覧会といえば、東京駅内の大丸百貨店の大丸ミュージアムが、かつてはユニークな企画を展開していた。ヨーロッパのアンティーク香水瓶コレクションを中心にすえた「香りの美学」展であるとか、ジャン・コクトー絵画展、あるいはヨーロッパの自動人形(オートマッタ)展もたしか大丸だった。そのような展覧会開催のたびに招待チケットをプレゼントしていただいた。うっかり言い忘れるところだった。大丸さん、失礼しました。 ---以上のことは鉄道そのものとはほとんど関係ないのだが、しかしまさにターミナルとしての東京駅が私の東京駅だと、思いをあらたにした今日の記念日である。大丸ミュージアム「香りの美学」展カタログ、1993年2月
Dec 20, 2014
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歌った,歌った。民生委員合唱団「かしの木」の初披露。まあ、良い出来だったのじゃないでしょうか(と、指導の先生が言っていました)。 それにしてもヴォイス・トレーニングの効果は私にとっては覿面で、6月から今月までわずか7回だけだったが、こんなにも声が出るようになるものかと、自分ながら内心驚いている。私は若い頃---大学時代の肺活量が平均よりやや多かった。19歳の頃は6、000あった。平均値が4、300だそうだから、多いと言えるだろう。それが70歳になんなんとして保たれているはずもないが、ヴォイス・トレーニングとともにあるいは少しは肺活量に変化があったかもしれない。---じつは先月、インフルエンザの予防注射をしてもらったときに、主治医に肺球菌ワクチンの接種を打診したところ、「山田さんの肺は非常にキレイなので、ここであえてワクチン接種をする必要はありません」と言われた。 というわけで、ほとんどむりやり合唱団員に組み入れられたのだが、いまのところ時間のやりくりに苦労する以外は、私にとって合唱はとても良い健康維持法のような気がしている。 ともあれ今日のステージは手始め。先生によれば次第にレパートリを増やしてゆき、次の大舞台は、3月の社会福祉協議会主催のイヴェントへの出演だそうだ。
Dec 19, 2014
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朝から作品の執筆を始めて午後3時まで。夕方から民生委員合唱団の練習。明日の午後、合唱団「かしの木」初披露のステージがあり、本番前の最後の練習である。 ところで練習中に、栄養ドリンクの差し入れがあった。 じつは、私はサプリメントや栄養ドリンクをまったく飲んだことがない。人工合成飲料のコカコーラさへほとんど口にしない。2、3年に1度くらいなものだ。自然食品だけを口にしているわけではないし、そんなものを神経質に探しまわるほど繊細ではない。第一、そんなものを探している時間が惜しい。サプリメントや栄養ドリンクは探しまわらなくても手のとどくところに売っている。私は全然感心がなかったということ。いや、自分に必要なものでなかったということ。つまり、私の飲食のありかたにとって、不足な栄養などなかったということだ。これについては、ここ2年間ばかりは定期的に血液検査をしてもらっているので、確信をもって言える。 で、差し入れの栄養ドリンクだが、どうしようかなぁと飲むのをためらった。ほんと、飲みたくなかったのだ。しかし、せっかく皆の為にと持って来てくださり、みんなも飲んでいるし、本人を目の前にして飲まずにいるのも気まずいので、「えいっ」と、生まれて初めてそれを飲んだ。そばにいた方に、「生まれて初めて飲みました』と言うと、目を丸くしていられた。「ジュースみたいなものですよ」と。 ついでだから書いておく。 昨年だったか一昨年だったか、アメリカ合衆国の厚生省にあたるところが、栄養ドリンクを日常的に飲んでいる人は飲んでいない人より慢性的高血圧症になる割合が多いという研究結果を発表し、注意を促した。
Dec 18, 2014
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午前9時30分から執筆を開始。手間のかかる一種の工芸的技法の部分をやっつけておく。ここは乾燥に時間がかかるので、先きにやっておいたほうが段取りとしては都合がよい。 昼食後、1時間半ほど外出。帰宅して再び制作をつづける。うまくいったので、乾燥を待つ一両日、空いた時間に年賀状用の油彩画に取りかかった。 年賀状の絵は、長年、その年に完成した作品の中から1点を選んで、美術専門のカメラマンに依頼してスタジオ撮影をしたものを美術印刷所に回して1、000枚を刷って来た。昨年、ふと思い立って、まったく年賀状のためだけに初めて干支の午(うま)を描いた。今後、毎年干支を描きつづければ、---もし、私が元気で執筆していれば---12支すべてが描きおわるとき私はちょうど80歳だ。よし、これは良い目安になる。と、まあ、そういうわけで、かつて一度も干支などに見向きもしなかった私だが、まるで宗旨変えしたかのように馬を描いたのだった。 来年は未(ひつじ)なので、きょうは羊を描きはじめた。さて、どんな絵になりますやら--- ちなみに下の絵は今年の午年用の作品。山田維史《戴冠せる馬》油彩、金箔 18×14cm 2013年Tadami Yamada ''The Crowned Horse'' Oil and gold leaf on canvas, 2013.
Dec 17, 2014
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衆議院選挙結果、事前の予想は覆らなかったが、私が瞠目したのは沖縄県民の小選挙区自民党立候補者を全滅させたその断固たる意志だ。彼らに、経済論議で目をそらせる安倍策略は、まったく通じなかった。このような結果を自民党はおそらく全く予想していなかったであろうし、県民の総意がこのように歴然と表明された選挙というのは、日本の国政選挙史上初めてのことではなかろうか。この結果をふまえて、今後の沖縄問題を注目してゆく必要がある。 さて、私は今日も仕事場に籠って、昨日の日記に書いたとおり新しい作品にとりかかった。構想から、それをまとめ、キャンヴァスに写してプリミエール・クーシュ(第1段階の塗り)まで、一気にやる。大晦日までに完成させたい、と思いながら。 ---今日のBGM、と言ってもイヤホーンで聴くのだが、昨日のつづきでモーツァルト交響曲全集の第32番から最後の41番まで。 全交響曲を作曲年代順に聴いてみると(時間にして約9時間かかる)、20番あたりまでは実のところあまり私の琴線にふれるものはない。早熟な天才が才にまかせて書きまくった曲、という印象だ。曲想も似たり寄ったりというところ。それが、第25番になると、ガラリと変って悲劇性を帯びて疾走しはじめる。40番になると、その悲劇性はあまりの深さゆえに一種のレジグネイションさへ忍ばせている感じがする。 そして、あらためて気づいたのだが、25番や40番など晩年の曲は、最初の数小節は楽器演奏とは無縁の私でも口ずさめてしまうのだ。それほど印象深く、かつ親しみやすい音列ということだろう。---これはどういうことだろう。人生の円熟(モーツァルトはまだ30代だったが)が、音楽の円熟と一致、---奇を衒うことを捨てて、音列の神域に達する、---とでも言えばよいのだろうか。 私は最後の41番まで聞き終わって、ふと「レクイエム」を聴きたくなり、それを聴いた。私が所持しているディスクは、ニコル・マット指揮のプフォルツハイム室内管弦楽団、パメラ・ヘウベルマンス(ソプラノ)、バーバラ・ウェルナー(アルト)、ロベルト・モルヴァイ(テノール)、トーマス・ファイファー(バス)、ヨーロッパ合唱団による演奏。
Dec 15, 2014
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きょうは選挙投票に行ってきた以外は仕事場に籠って執筆。ほぼ予定通り、完成までに一、二歩手前まできた。これから数日乾燥を待って、最終の作業になる。明日からは新たな作品の構想に入る。 今日、都心で初雪が降ったようだ。都心より余程気温が低い筈の我家近辺(今日の最高気温は8℃である)は、その気振りもない。このさい雪無しの年末を私は望む。来週のスケジュールも立込んでいる。民生委員合唱団「かしの木」の初披露となるステージもある。雪の中をあちらこちら出かけるのは、ちょいとキツイ。 さて、ただいま21時45分になるところ。仕事をしながらイヤホーンで一日中モーツァルトの交響曲集を聴いていたが、現在は第30番が間もなく終わる。次に第31番「パリ」を聴いたら、早々と寝ることにしよう。少し疲れた。昔は、「疲れた」は私の禁句で、人にその言葉を漏らしたことはなかったが、このごろはこうやってついつい日記に書いてしまう。
Dec 14, 2014
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きょうは午前中いっぱい、9時から12時30分まで、児童館主催の「餅つき」の手伝い。1臼3kgを8臼。昨年にひきつづき(経験があるので、と)杵を振り上げての搗き方と子供達の体験の介添え役。搗き方には大ベテランのお二人がいるのだが、私はやはり年には勝てないか、帰宅するとドッとくたびれてしまった。「今晩は身体が痛くなりますよ」と言われたが、たぶんその通りになるにちがいない。 今年の餅米は非常にすばらしく、香りといい、味といい、まことに申し分ない。そういう米で搗く餅のできも、ふっくらと艶があって、良いできとなった。見た目からして違うのだ。「米の出来」とは、こういうものかと、驚きの経験だった。 搗き上がった餅は次々に調理室へ運ばれ、次いで配膳係へ。そして子供達の待つ食堂へ。お母さんやお父さんも一緒に、おいしそうに食べていた。私は搗き方が終了したところで、食事会には参加せず、次の仕事場へ駆けつけた。あいかわらず忙しい爺ちゃんである。 というわけで、制作は一旦休止。夜、風呂に入って肩の凝りをほぐして、それから少し執筆することにしよう。
Dec 13, 2014
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ときどきお見舞いかたがた訪問していた100歳におなりの方が亡くなった。ご高齢の方々には大勢お目にかかっているが、100歳の方に接するのはこの方だけで、心ひそかに私自身の生きる励みにさせてもらっていた。じつは先月末にお会いしてきたばかりで、ご家族が医療ベッドの背を傾けながら「山田さんが来てくださったわよ」と言うと、私の目をじっと見ながら、「山田さん」とおっしゃった。---それが私にとっては最後になってしまった。残念である。 逝去の知らせを受けた時、私は制作に取りかかる前に、美術史上のある問題に気がつきメモを執っていたところだった。「---命の儚さ、仮の住みかとしての現世、という思想」---そう書いたところで、電話が鳴ったのである。偶然とはいえ、なんということか、と私は受話器を握りながらジワーっと涙がにじんできたのだった。私は、「命の儚さ」はその通りだとしても、「仮の住みかとしての現世」思想に拒否を試みようとしていたのだけれど--- 川端康成が「末期の目」ということを言っていた。私はいま、100歳のお爺さんが「山田さん」と言って私を見つめた、その目をまざまざと思い出している。
Dec 12, 2014
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午前中、制作の最中に高齢者からの相談あった。話の内容が緊急を要することだったので、制作を中断して、即時、行政当局に問い合わせて救助する方法がないかを検討。可能と思われる制度があったので、相談者に行政の窓口に連絡して申請用書類を発送してもらうようアドヴァイスする。たぶん申請は受理されるだろう。そのほか起こりうる周縁問題を推測し、手当の手段を同時にアドヴァイスした。 さて、再び制作に戻り、予定の仕事に没頭。夕方までに初期描写を終了した。 話を変える。 今日、2014年12月10日、安倍政権によって制定された稀代の悪法の予感をはらんだ特定秘密保護法が施行された。 くしくもアメリカ合衆国では前ブッシュ大統領政権下で、国家安全の名のもとにCIAによって被疑者に対する残酷な拷問による取り調べがおこなわれていた事実が公表された。「アメリカ合衆国の恥ずべき行い」と言っているが、日本でも起らないとは言えないのが特定秘密保護法の存在だ。 戦前、同様の法律によって憲兵によってどれほどの無辜の人達が惨たらしいめに遭わされ、挙げ句の果てに殺されもしたことか。処刑されたのではない。取り調べの過程で行われたのだ。私たちの国家は、そのように自国民をファナティックに痛めつけ、殺害した過去を、悔いて「恥ずべきことと」清算はしていない。 今日の報道によれば、時を同じくして、最高裁はヘイトスピーチを繰り広げ煽動していた団体に対して、人種差別であると断罪した。この団体に見られるように、無知と無恥によってファナティックな言動に突き動かされるのは、私に言わせれば、日本人の美点と表裏一体の病的な面で、決してこの団体が特異なのではない。私たちの或る人達はその病的な裏面を理性によって抑えているし、学びによって、すなわち知性によって克服する努力をしている。また或る人は、野蛮な血に我と我身をゆだねて自他もろともの破壊へとすすむ。やっかいなのは、人間学を欠いた空虚な言論で武装することで、それこそヘイトスピーチとして現れたとおりだ。---而してどれもこれも日本人なのであり、それがいま自由がなかった戦時中にひとしい特定秘密保護法をもったのだ。地獄の釜開きにならないとは言い切れない。私は、そう考える。
Dec 10, 2014
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12月9日は夏目漱石の98回目の命日。すなわち1916年(大正5年)、50歳で死んだ。50歳という若さに驚く。---それはともかく、私の保存資料のなかに50年ほど前に大々的に開催された「夏目漱石展」のカタログがあったはずと、手近なところを探してみた。画像を掲載しようと思ったのだが、残念ながら見つからなかった。どうやら倉庫の方に置いてあるようだ。 この展覧会が開催された当時、しばしば文学者の展覧会が開かれていた。没後すぐの谷崎潤一郎展や佐藤春夫展、高見順展。それらに10年ほど遅れての三島由紀夫展などだ。本がよく読まれ、売れていた時代だった。豪華な装丁の限定本が頻繁に刊行され、貧乏学生だった私はただ目録を眺めて溜め息ついていたものだ。江戸川乱歩の子息がやっていた小さな出版社が、まさに少部数限定の美術品のような豆本を刊行していた。無名時代の池田満寿夫が装丁をやっていたのもこの出版社の豆本だ。 夏目漱石展のカタログを探しながら、そんなことを思い出していた。私は法学部の学生で、まさか後に自分が出版の一端に関わり、それで飯を食っていくようになるとはまったく思いもしなかったので、これらの思い出はただただ本に飢えていた学生としての懐かしさである。 閑話休題。 さて、きょうも仕事場に閉じこもって終日制作。描写に入り、かなりはかどった。明日から中心の最重要部分の描写の初期段階に移る。ここは対象は単純だが、それだけにソリッド(堅牢)に、がっしり描かなければなるまい。どこまで迫れるか、気力が試されることになろう。
Dec 9, 2014
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外出もせず、一日中制作。今週末に新しい小品1点を完成したいと思いつつ。 しかし、実のところ、小品制作は、大きい作品を描くのと同等の時間あるいは集中力を要する。むしろ大きい作品より費やす労力は大変だ。というのは、観客や絵を欲しいと思う人は、大きい作品と質的には全く同じに、ただサイズを小さくしただけを求めるからで、描く私としては一層細密な描写をしなければならず、技術的には非常に難しいことになる。画面全体を毛筋一本でしあげてゆく大変さ、と言えば分かっていただけるだろうか。 とは言え、それでは細密であれば良いかというと、決してそうではない。それでは作品として力がなくなってしまうからだ。一見のインパクトが必要なのだ。私は、大画面の作品の造り方と小さな作品の造り方とは、全然別ものだ、と考えている。 昔、若い時に、ある美術館で、巨大な作品が並ぶ中に、20cm×27cm程度の小さなルーカス・クラナッハ(1472-1553)を観た。その小さな絵が断然他を圧倒していた。大きな絵が私の視界から消し飛んでしまったのだ。恐ろしい経験だった。それ以来、もう何十年も経つが、私はずっとその問題を考えつづけてきた。いまもなお考えている。---小品というのは、描き手としては徒や疎かにできないのである。
Dec 8, 2014
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今日は午前9時から午後2時30分まで、日野市社会福祉協議会主催「歳末たすけあいバザー」の販売係。売上金150万円を越えたので、民生委員一同なんとかお役に立てたのではないかと思う。 私自身も銅鍋と陶器の香篋(こうばこ)を買った。香篋は10×11×5cmの小箱で、しかしどっしりとしている。蓋に柿がひとつ描かれている。机の上に置いて、小物入れにするつもりだ。 4時帰宅。立ちっぱなしだったので、老骨に鞭打ってとは言わないが、少し疲れた。お茶を飲みながら、ほっと一休みしている。 朝,富士山がくっきりと見えていた。
Dec 7, 2014
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昨日ぶっつけた左目は、一晩寝たらどうやら眼窩周辺の筋肉の硬直がとれたのか普段どおりに近づいていた。まだ完全とは言えないが、視界の歪みは感じられない。一安心した。眼をやられては、画家はお手上げだ。 眼を心配したのは、絵の制作に関してばかりでなく、じつは今日の午前中と午後とにわたる一連の民生委員のスケジュールが入っていて、重要な案件で何人かの方と面談しなければならなかった。私の眼のせいで延期するわけにはゆかなかったのだ。 というわけで、朝、目が醒めて、視界の歪みもなければ、顔に絆創膏や包帯を巻く必要もなかったので、安心して外出した。 我家の近所からは、日によって、富士山が意外な近くに見えるのだが、昨日は冠雪した富士山がことのほか良く見えた。しかし、今日、同じ場所を通って見やると、富士山はすっぽり雲につつまれていた。おもしろいことに、風の影響であろうか気圧のせいだろうか、雲塊が富士山のような形になっているのだ。 ついでに書くと、日野市を貫く浅川に架かるいくつかの橋、たとえば滝合橋、平山橋、一番橋からは、年に2度---もちろん好天の日の限られた短い時間だが---ダイヤモンド富士を見ることができる。つまり富士山の頂上に太陽が重なる光景だ。ここで見られるのは「沈むダイヤモンド」。今年は、まもなく冬至の頃(12月20日から24日頃の16時から16時30分)である。同じ光景を高尾山からも望めることを付け加えよう。 午前中の青空が午後2時を過ぎには崩れ、雨が降り出した。日本海側は大雪だそうだ。日本海寒帯気団収束帯が関東方面上空にまで張出してきている。寒さはいよいよ厳しくなりそうだ。この雨が雪に変わることはあるまいけれど。
Dec 6, 2014
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危機一髪だった。 落とし物をし、それが少し暗がりの狭間にころがった。かがんで、頭を暗がりにつっこんだ途端、眼鏡が吹っ飛んで左目の上側に激痛が走り、何にも見えなくなった。 手探りすると板きれのような物の角が三角に突き出ていた。そこに目をぶつけたのだ。少しずつ目の前があかるくなり、見えるようになってきた。鈍い痛みはとれず、見えてはいるが焦点が合わない。手で左目をおおいながら、眼鏡をひろった。掛けてみたが、物が歪んでいる。左目の焦点深度と右目の焦点深度とがずれていて、眼鏡の中央、すなわち鼻梁を境に眼前の対象に歪みが生じている。あるいは眼鏡の度が合わなくなったと言ってよいかもしれない。そんな感覚だった。 どうやら眉廂と眼球の間あたりをぶつけたようだ。数十分後に痛みは消えたが、おそらく眼窩周辺の筋肉が少し腫れているか麻痺しているかにちがいない。眼鏡を掛けていると、余計見えにくい。 ---さて、こまったぞ、仕事にさしつかえがでるかな、と思いながら帰宅し、鏡を覗いた。外観はどうということもなかった。「青タン」にもなっていない。しばらく様子をみることにした。しかし制作は休めない。約束の点数を約束の期日までに完成させなければならない。で、細部を考える必要がない小品の下塗りに進行を変えて、すぐに取りかかった。万一の場合があるので出来るだけ進行を早めておこうと--- 一回目の下塗りを終わって、この日記を書いている。まだデスクトップ・コンピューターのモニター画面がヘンな具合に見える。
Dec 5, 2014
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きょうも午前中、午後と、地域の福祉活動。4時から少し制作。 話は変る。 毎日新聞によれば、「東京帝国大の総長を計12年近く務め、昭和天皇の教育にも深く関わった山川健次郎(1854〜1931年)の日記の写本が見つかった」という。 なぜ私がこの記事に留意したかというと、昨年NHKの大河ドラマ「八重の桜」を観た方は思い出すであろうが、山川健次郎は会津藩国家老・山川重固の三男(後に兄・山川大蔵--維新後に浩と改名--が、家督と家老職を継いだ)。鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が起った1868年、健次郎14歳、会津藩校日新館に学び、白虎隊士であった。明治4年、アメリカに渡りイェール大学で物理学の学位を取得した。帰国後は東京大学で日本人として初めての物理学教授となり、その9年後には東京大学の初の物理学博士となった。これらの経歴については「八重の桜」でもドラマ化されていたが、以後、東京帝国大学総長(一度退任するが、再びその職に就いた)、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長を「兼任」した。三つの帝国大学総長を兼任したのは山川健次郎を措いてほかにいない。 私の母校会津高等学校は、藩校日新館を源として明治維新後は私学日新館、さらに旧制会津中学校を経て現在に至っている。明治維新後の会津が時の政府によって悲惨な状況を強制されたことは、これも「八重の桜」に見るとおりだ。学校を開設することも許されず、このとき非常なる尽力をしたのが山川浩(当時、東京師範学校総長だった)と弟の山川健次郎だった。兄弟は奉加帳を持ってまわったと聞く。我が母校の創建者なのである。 会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)が京都守護職に任ぜられた前後の経緯を知る重要な史料が、山川浩が著した「京都守護職始末」である。この著述を完成せずに浩は没し、健次郎が書き継いで完成したといわれている。復刻本が出ているが、近代デジタルライブラリーで原本を読むことができる。 さて、毎日新聞が報じている山川健次郎の日記は、1913年から15年、および1919年から20年まで4冊で、原本は2001年以降所在不明になってい、発見されたのはその写しだという。当時の大学運営に関わる文部省とのやりとりが詳細に書かれていて、貴重な史料である、と発見者の中沢俊輔・秋田大講師と共同研究者の小宮京・青山学院大准教授の評価だ。 なんにせよ、我が母校の創立に尽力された御人の日記である。遠い昔が、また少し私の胸に近づいたような気がする。【関連報道】毎日新聞 昭和天皇:教育に影響 元東京帝大総長の日記写本を発見 2014年12月04日 11時09分
Dec 4, 2014
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2012年にイングランド中部のレスター大学遺跡調査チームによって発掘された15世紀のイングランド王リチャード3世の遺骨に関する研究は、その後もいよいよ深化しているようだ。 この件については、私は数度にわたってこのブログに書いて来たが(ページ左のArchivesのカテゴリ「博物学・歴史」をご覧ください)、きょう、CNN.co.jpは、遺骨から採取したDNAから、リチャード3世が金髪で青い瞳だったと推測される発表があったと報じている。 ロンドンの肖像画美術館【後註】が所蔵する画像をはじめ、リチャード3世の肖像画は数点ある。いずれも直に描いたものではなく、想像によるものだ。それらは、どうやらシェイクスピアの戯曲「リチャード3世」に影響されること少なくないようで、いわゆる残忍、冷酷なイメージとなっている。 画家である私にとって興味深いのは、髪の色がどの絵もみな暗い栗色か、ほとんど黒に近く、金髪は1点もない。そこに、欧米文化、特に 'royal' をめぐっては金髪を最上位に置く、したがって「悪」のイメージとしてのリチャード3世の髪の色を黒っぽく描いたことに、一種の「偏見」が透けて見えるような気がすると言ったなら、それこそ私の穿ちすぎだろうか。 尤も、王統(royal family tree)が、本当に混じりけなく受け継がれてきたとすれば、なにも「偏見」と言わなくとも、遙か時間の彼方の金髪の遺伝子が縷々子孫に伝わっているかもしれない。そうだとしても、DNAミトコンドリアが子孫に伝わるのは女性のミトコンドリアだけで、男性の遺伝子は絶滅してゆく。世界中にまたがる同一ミトコンドリアの伝播追跡調査によって明らかになったことである。(このブログの読者諸氏よ、あなたがたご夫婦の遺伝子は、女のお子さんのみによって受け継がれてゆくのです。女性のミトコンドリアを過去に遡ってゆくと、やがて数万年前のアフリカの大地にいた「イヴ」にたどりつくことができます) ---というわけで、万世一系の王統など言うのは、人類の最も愚かな幻想のひとつと言ってよかろう。そのために、あるときは血みどろの殺戮がおこなわれていたのであり、リチャード3世の物語は、まさにその殺戮の歴史の物語である。 さて、リチャード3世の実像が金髪碧眼と判明したからといって、シェイクスピア「リチャード3世」の上演にあたって、今後、俳優達が役作りのうえで何か変化があるとは思えないが、レスター大学の研究から更なる新事実が判明するかどうか、私としては興味がつきない。世界の歴史学がどんどん進化している。まさに「空想から科学へ」だ。いつまでも空想に固執して愛国者を気取る歴史学者は、どこの誰だい!【註】 各国に肖像美術館がある。自国の偉人のみならず世界の偉人(歴史がそれを覆すこともあるが)の人間性を、画家の洞察によって知ろうということだろう。いわば人間学のための美術館だ。 肖像美術館のもうひとつのバージョンと言ってよいだろうが、アメリカのプリンストン大学図書館のローレンス・ハットン・コレクションは、ライフ・マスクとデス・マスクの104点にのぼる貴重なコレクションである。肖像画にしろライフ/デス・マスクにしろ、日本にはこのようなまとまった収集は「美術館」としてはない。これもまた文化の相違、人間をいかにすれば総体的に理解できるかという、人間学が根底にあるかないかに関わっている。
Dec 3, 2014
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午前9時の電話から忙しい日が始まる。電話をしたり、手紙を書いたり、高齢者を訪問したり。午後4時、ようやく作品制作にとりかかった。来年のニューヨーク展のための2作目。下絵をキャンヴァスに転写した。明日から下塗りを開始することに。
Dec 2, 2014
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俳優菅原文太氏が11月28日に亡くなられたという。享年81。 氏は2012年に俳優を引退されていたが、社会活動に精力的に取り組まれていられた。特に脱原発運動、安部政権が強引に押し進める憲法改悪をめざしての集団的自衛権の行使、ならびに特定秘密保護法の制定には、日本が再び戦争へ進み行くきざしと感じて、強く反対の意志を表明されていた。 私は、杉良太郎氏の長年にわたる福祉活動とともに、菅原文太氏の気骨ある社会活動に対して、敬意を感じて来た。いま、このときに、その御方の突然の訃報に接し、まことに残念だ。 菅原文太氏に心から哀悼の意を捧げます。
Dec 1, 2014
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