全25件 (25件中 1-25件目)
1
― 「かたちなどは、かの、昔の夕顔と。おとらじや」と、のたまへば、 「「かならず、さしも、いかでか物し給はむ」と思ひ給へしを。こよなくこそ生ひまさりて、見え給ひしか」と、きこゆれば、 「をかしの事や。たればかりとおぼゆ。この君」と、のたまへば、「いかで、さまでは」と、きこゆれば、 「したり顔にこそ、おぼふべけれ。われに似たらばしも、後やすしかし」と、親めき給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「器量などは、あの、昔の夕顔とは(どうなの)。劣ってないかね」と、おっしゃると、 「『よもや、それほどに、どうして(母と同じぐらい)お可愛いということが(あろうか)』と思っておりました。(しかし)たいそう美しく生い育っていらっしゃると、お見受け致します」と、お答えする。 「(それは)けっこうな話ではないか。(して、その美しさは)誰ぐらいだと思っておる。(たとえば)この君(紫の上)は(どうかね)」と、お聞きになるので、「まさか、そこまでは(よう言いませんわ」と、お答えするが、 「(ずいぶん)自身ありげな、口振りではないか。(もっとも)私に似ている(つまり私の子である)なら、(何の)心配も無用だろうがのう」と、(なぜか実の)親気取りである。 と、ここまでは、紫の上と同じ寝室での会話です。倣岸な源氏の振るまいが露わですね。― かく、きゝそめ給ひてのちは、めしはなちつゝ、 「さば、かの人、このわたりに渡したてまつらん。年頃、物のついでごとに、くちおしく惑はしてしことを、思ひ出でつるに、いと嬉しく聞き出でながら、今まで、おぼつかなきも、かひなき心地なむする。父おとゞには、はた何しか、しられん。いとあまた、もてさわがるめるに、かずならで、今はじめて、たちまじらひ給はむに、なかなかなる事こそあらめ。われは、かく、さうざうしきに、おぼえぬ所より尋ね出でたるとも、言はんかし。すき者どもの心、つくさするくさはひにて、いと、いたくもてなさむ」と、語らひ給へば、かつがつ、嬉しく思ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) このように、お聞きになって後、(右近を)別にお召しになって、 「では、その人を、この御殿にお迎えすることに致そう。この年頃、何かにつけて、(亡き夕顔の娘の行方が知れないのを)残念に思い気にもなっておったので、(そなたの話は)とても嬉しく聞いたものの、今まで、対面せずにいるのも、つまらない気がするのだ。父の内大臣には、これまた何を、知らせることがあろう。(あの人は)とても大勢、(お子達がいて)賑やかなうえに、(姫が)大したことのない身で、今回初めて、(その中に)立ち混じっていかれるというのは、なかなか(大変)なこともあろう。私は、このように、子供少なで、寂しいゆえ、思わぬ所から探し出したとでも、言っておいたらどうだね。(この際)好き者たちの気を、揉ませる種にでもして、おおいに、大事に育ててみるか」と、思案顔でおっしゃるので、(右近は)ともかくも、嬉しく思った。 ここの源氏の思案話は、はなはだ自己都合めいて、ことに最後の「すき者どもの心、つくさするくさはひにて、いと、いたくもてなさむ」など、なぜこんな言質が飛び出してくるのか理解に苦しみます。彼には女人の拉致という前科が、紫の上でもあったのですが(厳密に言うと、明石の若姫君も)、これは母親思慕の倒錯した形として、彼の心理が働いたとみることも出来ます。しかしここのは一種の遊び心から出たような軽薄さがあって、心理的な必然性はまったく感じられない。言ってみれば、玩具として人を弄ぶのを面白がっているようなところがありますね。 以前にも、文章博士と居並ぶ殿上人を、源氏が御簾の影から哂い飛ばす場面がありましたが、彼に限らず人は自身の権力や威勢を試すのに、人を弄ぶという性向があるのかもしれません。丸谷さんに言わせると、ヒマと退屈でしょうがない権力者のデカダンス(退廃)ということになるのですが。― つづく ―
2009.11.29
コメント(0)
何となく怪しい雰囲気も漂う光源氏と右近ですが、かんじんの話題は外しません。― 「かの、尋ね出でたりけむや、なにざまの人ぞ。尊き修行者を語らひて、率て来たるか」と、問ひ給へば、 「あな、見苦しや。はかなく消え給ひにし、夕顔の露のゆかりをなむ、見給へつけたりし」と、きこゆ。 「げに、あはれなりけることかな。年ごろ、いづこにかは」と、のたまへば、ありのまゝには聞こえにくくて、 「あやしき山里になん。むかし人も、かたへは変らで侍りければ、その世の物語し出で侍りて、いと、堪へがたく、思ひ給へりし」など、きこえいでたり。 「よし、心知り給はぬ御あたりに」と、隠し給へば、うへ、「あな、わづらはし。ねぶたきに、聞き入るべくもあらぬ物を」とて、御衣して、耳をふたぎ給ひつ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「その、探し出した(人)というのは、どんな人かね。尊い修行者でもたぶらかして、連れて来たのかい」と、お聞きなさるので、 「まあ、人聞きの悪いことを。はかなくもお亡くなりになった、(あの)夕顔の君の縁の方に、お会い致しましたのに」と、お答えする。 「(それが本当なら)まことに、あわれなことよのう。(して、その方は)この長年月どこにいたのだね」などと、仰せになるが、(紫の上の手前、右近は)ありのままには申上げにくくて、 「辺鄙な山里でございます。昔(私といっしょだった)人たちも、幾人かは変わらず仕えておりましたので、その頃のことも話に出まして、とても、たまらない、思いが致しました」などと、申上げた。 「うむ(わかった)、事情をご存じない方も(ここに)いらっしゃるから(それ以上は言うな)」と、隠そうなさるので、紫の上は、「あら、イヤだこと。(私は)眠たくて(たまらなくて)、耳に入るどころじゃございませんのに」と、お袖で、耳をふさいでおしまいになる。 このへんは右近も光源氏も心得たもので、あうんの呼吸で紫の上を刺激しないようにする。しかし紫の上とすれば、本来いちばん分け隔てのないはずの夫婦の間に、こうしたしたり顔の古女房が介在してくるのは、もとより不愉快だったはずで、自身の側付きとはいえ、それは源氏の強い要請によるものであって、決して心から信頼していたわけではないでしょう。 逆に言うと紫の上は、明石の方や朝顔の君と源氏のすったもんだの結果、すでに源氏に対して全面的な信頼というのは寄せることが出来なくなっているので、表面上の六条院の華やかさの裏では、彼女の不安と不満が浸行しているのです。彼女の辛いところは、実の父である式部卿が、須磨流遇の政変のあと源氏に干されていたことで、彼の意向に逆らっても生きていくような社会的経済的裏づけが、六条御息所のようにはなかったことでした。わけも分からず娘の時に拉致されて以来、彼のいない世間というのはありえないように、なかば仕組まれて二十七、八歳に成ってしまったということです。 女性全般の内部に進行する精神の病というのは、今までも御息所に色濃く現れていましたが、あとあと「源氏物語」の主たるテーマになって来ますね。 ともあれ、源氏は構わずに右近に話を続けさせる。以下の話は、紫の上が寝ている(ふりをしている)とはいえ、その横で交わしている会話なのです。― つづく ―
2009.11.28
コメント(0)
じつは先日の日曜日、「日本辺境論」で最近ちょっと話題の内田樹(タツルと読むそうです)という人の講演会が、奈良の県立図書情報館という所であったので、行ってきました。ところがこの県立図書館、以前は近鉄奈良の駅近く、県庁の横の文化会館に付属していて、奈良公園の中でなかなか風格を保っていたのですが、あにはからんや今ははるか市外の場末と言ってもいいような場所に移転していて、私もうかつだったのですが、歯噛みしながらバスに乗って雨の中を駆けつける、という仕儀になってしまいました。 で、その時の内田氏の講演テーマが「現代社会における表現と図書館」なる演題だったのですが、予想どおりまったくテーマとは関係のない話題に終始して、主催の図書館側の希望は演者にまったく共有されていないのが露わな、まことに珍なる講演だったのです。とはいえ、すでに熱心な内田ファンらしき聴講者が会場を埋め尽くしていて(内田さんによれば、すでに「追っかけ」もいるらしい)、私のように先日「日本辺境論」を一読して、フッと出てきたような者の入れる余地など無いという雰囲気だったのですが、内田氏ならずとも図書館というものの、今どきの位置づけというのは、けっこう難しいのではないかという気がします。 この人の本については、久しぶりに出たまともな日本人論として、いずれお話したいと思っています。しかしその前にお話したい本がいくつかあるのですが、なにしろ「源氏物語」が思わぬ「男の深読み」になってしまって、いつ始末がつくのか予測できなくなっています。 さてこの奈良県立図書情報館という命名からして、すでに暗示的ですが、奈良のお役人達はこのたいそうなハコモノを構想したとき、図書館を情報の集積と発信の基地と捉えていたようです。そして情報の集積と発信だけに絞るなら、今どきのテクノロジーは図書館を街の中心に据える必然性は少しもないので、このように佐保川のほとり、およそ奈良公園のような歴史や文化の蓄積地とは縁遠い場所に、立地することに何の痛痒も感じなかったのでしょう。このあたりに奈良県の行政の見識が現れている、と言ったら奈良県の人が可愛そうですから、これ以上触れませんが、要はそういうことなのです。図書館の存在意義とは情報基地ではなく文化そのものではないのか。 さて内田さんは、そこまでハッキリとは(著作の表現と比べて)おっしゃいませんでしたが、ご自身が図書館をメッタに使わないことは何度も触れられて、主催者側は大いに弱ったでしょう。かく言う私も図書館はあまり使わないのです。 最近はハコモノに関してはその利用率のようなことが、さかんに指摘されるせいか、例の事業仕分けの対象にならないためにも、いやに利用者に媚びた図書館が増えている。ひらたく言えば、世のベストセラーや文庫本を並べたり、いつぞやはビックリしたのですが、視聴覚ライブラリーを覗くと音楽や映画のCDだのDVDがタダで借りられる図書館がありました。これでは文化の集積どころか破壊者と謗られてもしかたがない。 そしたら図書館って、いったい何なんだ、ということになるのですが、これってけっこう人の本性にかかわっている問題のような気がします。 図書館と街の本屋さん(紀伊国屋とか三省堂ではありませんよ)を比べた場合に、何が違うのかというと、どうも並んでいる本の乱雑さにあるのではないか、と思うのです。 街の本屋さんの醸し出す乱雑さというのは、大げさな言いかたをすれば、無秩序に向かおうとするエントロピー拡散の圧力そのものであり、現に書架が崩れ落ちて、不幸にして子供が亡くなったという本屋さんもある。本屋さんに行く魅力とは、まさしくそうした無秩序の圧力に抗して、本を自分の意志で選ぶ、その選択の自由の快感に他ならない。無秩序の中からかろうじて秩序を見いだすとは、紛れもなく生きているという実感に結びついているのではないか? 私は田舎育ちでしたから、街の本屋さんと言えば、教科書専門書店を除けば、たいてい雑誌、文庫、専門書のゴッタ煮で、今でもよく覚えていますが、「日本人とユダヤ人」とか「共同幻想論」といった本の下に、エロ本が平積みになっていたりする(ビニ本はもう少し後でした)。高校生の私どもにとっては、本屋に行くとは表向きは知的好奇心という大義がありますが、ホンネはいかにして18禁の本を盗み見るかというスリルにあったので、今でも忘れませんが、そういう本屋のオヤジは大抵機嫌が悪い。驚くほどですが、こういうオヤジは「オマエら、エロ本見たらアカンぞ」と、平気で怒鳴れる人だったのです(「それなら置いとくなよ」とは、なぜか思わなかったですね)。 不思議なもので、だからと言って本屋から足が遠のくというわけではなく、むしろ書棚に雑然と並んでいる本の向こうに広がる世界は、ますます強い渇望に似た感じをともなって、私どもの想像力を刺激していったので、今でも本屋をブラリと見て廻るというのは、私の大きな楽しみの一つであります。それじゃあ図書館にブラリと入るかというと、やはりちょっと違うのですね。そんなに気楽に入られては困る、それこそが図書館ではないか? そこで図書館の特徴とは何なのかということですが、これはなかなか言いづらいことなのですが、本質的にはいわば情報の墓場に他ならない、博物館にも似た絶対的秩序に整序された静溢の世界だと思うのです。そこには生気は存在せず(エントロピー極大の)、ほぼ完全に化石化した世界が広がっている。図書館や博物館に時間は存在しないのです。 同じようなことが、電脳空間での検索機能にもあるようで、ここでは雑然とした無秩序世界から、かろうじて秩序を選び取るという、本屋の快感は存在しない。整序された無機質の情報を、システマティックに選ばされているに過ぎないのです。ここには目的のものを、やっと手に入れたという快感は存在しません。そういえば、街の本屋さんでも目的の本を探し当てても、まったく快感を覚えないという区画がありました。受験参考書のコーナーです。手段としての本を手に入れるとき、ドキドキ期待に胸が膨らむなどということは、有り得ないじゃないですか。 生まれて初めてエロ本を買って(レジがうるさいオヤジでも、若い女の子でもないことを何回も確認して)、家まで自転車で走って帰るときの高揚感は、はなはだ下世話な話ですが、生きている触感そのものに他ならないのです。閑話休題 しかしそれでも図書館に博物館とも共通した意義というのを見い出すとすれば、それはたぶん同じ死の静溢であっても、これらが質感を伴った死の世界であって、無機質に宇宙にバラまかれた情報の散乱(エントロピー極大の状態、たぶん死でもない世界)とは自ずから異なる点でしょう。であるならば、人々の墓場がそうであるように、そこには畏敬が払われなければなりません。当地の歴史と文化の神殿として、しかるべく祀り上げなければならないのです。かつての図書館はどんな小さな町の図書館であっても、街の本屋さんと同じく怖い館長さんがいて、子供の我々には何となく居心地の悪い場所でありました。館長さんは間違いなく祭司だったのです。 もしあえて図書館とか博物館の意義を問い詰めていくとすれば、どうもこのあたりから入っていくしかないのではないか、という気がするのですが。 以上、ムダ話でした。
2009.11.26
コメント(0)
以下、光源氏と右近のやりとりは、あいだに紫の上(例の三人目ですね)が絡んで、それぞれの器量や性格が、きわめてよく出ているくだりだと思うのですが、― 「まかでて、七日に過ぎ侍れど、をかしきことは、侍りがたくなん。山踏(やまぶみ)し侍りて、あはれなる人をなん、見給へつけたりし」 「何人ぞ」と、問ひ給ふに、「ふと、きこえ出でむも、まだ、うへに聞かせたてまつらで、とりわき申したらむを、後に聞き給ひてば、『へだて聞えけり』とや、おぼさむ」など、思ひ乱れて、「いま、聞こえさせ侍らむ」とて、人びとまゐれば、きこえさしつ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (右近は)「里下りして、七日余りになりましたが、おもしろいことなど、(何も)ございませんわ。(しかし)山に参りまして、とても懐かしい人に、お会い致しました」 「誰だね。(それは)」と、(源氏が)お聞きなさるのを、「このまま、お話すると、まだ、上様(紫の上)にはお聞かせ申し上げないまま、ことさらに(殿にだけ)お話することになって、後になって(紫の上が)お聞きになった場合、『隠し立てし申したな』とも、お思いになるのではないか」などと、思いあぐねながらも、「今に、お話致しましょう」と言っているうちに、女房たちが参上して来たので、(結局)申し上げかねてしまった。 ということは、右近はこの時、光源氏とだけしゃべっているのです。紫の上のお召しがあって参上したものの、六条院の中で先に彼に出会ってしまったということですね。右近は形上、紫の上の側付きですから、大事なことを直属の上司に言う前に、他人に言うのはまずいのです。今夜は光源氏は紫の上と寝屋を供にするようですね。― 大殿籠るとて、右近に御足参りに、召す。 「若き人は、「苦し」とて、むつかるめり。なほ、年経ぬるどちこそ、心かはして、睦びよかりけれ」と、のたまへば、人々、しのびて笑ふ。「さりや」「誰か、その使ひならい給はんを、むつからむ」「うるさき戯れ言、いひかゝり給ふを。煩はしきに」など、いひあへり。 「「うへも、『とし経ぬる』と、うちとけ過ぎば、はた、むつかり給はん」とや。さるまじき御心と見ねば、あやふし」など、右近に語らひて、笑ひ給ふ。いと、愛敬づき、をかしきけはひさへ添ひ給へり。いまは、おほやけに仕へ、いそがしき御有様にもあらねば、世の中のどやかに思さるゝまゝに、たゞ、はかなき御戯れ事をのたまひ、をかしく、人の心を見給ふあまりに、かゝる古人をさへぞ戯れ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) ご就寝なさるとて、(源氏は)右近に御足(おみあし)さすりを、と召される。 「若い女房達は、『(御足さすりなど)厄介だわ』と、嫌がるようだね。やっぱり、年取った者同士のほうが、気が合って、具合が良さそうだな」と、おっしゃるので、(周囲の)女房達は、忍び笑いしている。「(それは)そうでしょう」「誰よ、そのように使い慣れさせようとなさるのを、嫌がるのは」「うるさい冗談を、(いつも殿が)言ってこられるのですもの。たまりませんわ」などと、言い合っている。 「「紫の上も、『(私達が)年取っているから(かまうまい)』と、仲良くしすぎたら、きっと、お気に召さないだろうな」なんちゃって。(あの人も)そのようなお気配が無いとは言えないから、危ういことだよ」などと、右近に言って、笑っていらっしゃる。たいそう、上機嫌で、冗談事も盛んになさる。今は(太政大臣という)朝廷に仕える身となり、(さして)忙しいというわけではないので、世の中をのどかに思われるまま、もっぱら、軽い冗談もおっしゃり、面白がって、女房の気持もご覧になるので、この(右近の)ような老女房にもおふざけになるのであった。 この会話は、光源氏と紫の上が入っている寝室で、右近に脚をマッサージさせながら、しているのです。時の権力と威勢を手中にした男の余裕は、危ない冗談も平気で飛ばす。周囲の女房達もそのあたりの呼吸は心得ていて、慌てるふうでもない。この辺の女房連には、源氏はほぼ間違いなく手をつけているので、そのあたりは紫の上も公認だったのでしょう。会話そのものが何となくクラブのママ達との戯言のような、隠微な感じもしますね。― つづく ―
2009.11.25
コメント(0)
日が暮れると、(姫一行は)御堂にのぼって、次の日も、勤行に明け暮れなさる。秋風が、谷からはるかに吹き上がってきて、ずいぶん肌寒いうちにも、何とも深く感慨を催して、あれこれ(乳母たちが)思い耽るのは、「(姫は)人並みになるのも、難しい身の上(なのかしら)」と、思い沈んでいたのが、この(右近がした、長い)話の中に、父内大臣のご様子、あちこちの女に(産ませた)、さしたる身柄でもない(女方の)お子達も、皆、取り立てて(きちんと)お育てになっていらっしゃると聞けば、このような日陰の身空でも、(何となく)頼もしくも思えてくるのであった。(参詣が終わって)帰る段になって、互いに、住所を尋ねあうが、(右近は)「もしまた、行方がわからなくなってしまったら(どうしよう)」と、不安でたまらない。(とはいえ)右近の家は、六条院に近い所にあって、(乳母たちの住まう九条にも)ほど遠からず、相談し合うのにも、(ちょうど)都合が良いかと思ったりもする。 というところで、長谷寺での霊験譚は終わるのですが、右近のもくろみと乳母方の希望に齟齬があるのは、ここでも明らかですね。とはいえ彼女の活躍は、都へ戻ってからますます冴えてくるのです。― 右近は、大殿へ参りぬ。「このことを、かすめ聞こゆるついでもや」とて、いそぐなりけり。御門ひき入るゝより、けはひ殊にひろびろとして、まかで参る車、多くまよふ。数ならで、たちいづるも、まばゆき心地する玉の台(うてな)なり。その夜は、お前にもまゐらで、おもひ臥したり。又の日、夜べ里より参れる、上臈、若人どものなかに、とりわきて、右近を召し出づれば、おもだたしく思ゆ。おとゞも、御覧じて、 「など、里居は久しくしつる。例ならずや。まめ人の、ひき違へ、こまがへるやうもありかし。をかしき事など、ありつらん」と、例の、むつかしき戯れ事のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 右近は、六条院に参上した。「(殿に)このことを、チラっとでもお聞かせする機会でもあれば」と、気が急くのである。(この新しい御殿は)御門に(車を)引き入れると、(すでに)様子がことのほか広々としていて、出たり入ったりする車が、(邸内を)たくさん行き交っている。数にも入らぬ(我が身)が、立ち混じるのも、気後れするような立派な御殿であった。その夜は、参上しないで、(あれこれ)思案しながら休んだ。翌日、昨夜のうちに里から参った、上臈(じょうろう、身分の高い女房)や若い女房の中から、とくに選んで、(紫の上から)右近にお召しがあったので、晴れがましく思う。殿も、ご覧になって、 「どうして、(そのように)里居が長かったのだ。あまり聞かんぞ。一人身の(お前が)、うって変わって、若返るようなことでもあったか。(きっと)面白い事などが、あったのであろう」と、例によって、ややこしい冗談をおっしゃる。 お伽話的な筑紫からの帰還の話のあと、六条院に住まう光源氏の話に戻ってくるのに、右近というはなはだ実際的な人物を使って、いったん長谷寺を経由させたのは、物語を本筋の現在(うつつ)の時と場所に戻すのにうってつけではありました。読者は久しぶりに現れた光源氏が、六条院の御殿で相変わらず悠揚たる風情でいるのをみて、あるいはホッとする感覚を覚えるかもしれません。 これは筑紫の話が、大夫の監というはなはだ濃いキャラが出てきたとはいえ、いささか夢幻的な印象を与えるのに対し、六条院というのがこの物語の現実(うつつ)の場所として、すでに読者の記憶に入っているからで、もし筑紫の話からいきなり六条院の話になったら、多少の違和感を感じるでしょう。 こうした現実(うつつ)への転換の感覚というのは、例えば、私が今パソコンに向かって机の前に座っている、という現実(うつつ)ではなくて、物語の中に現れた一つの現実(うつつ)なので、そうした感覚の転換は、すべて紫式部が紡ぎ出している言葉から発しているです。彼女は期せずして十二単のごとく、何枚もの薄絹のように透けた現実(うつつ)を重ねたり、剥がしたりして、我々の目を眩ませますね。― つづく ―
2009.11.24
コメント(0)
さて、ここまで長谷寺での右近の活躍を、しつこく追いかけてきたわけですが、いささか疲れてきた感じがあります。要するに書いていてあまり面白くないのですが、その原因はどうも先に私が、右近が実の父である内大臣ではなく、玉鬘を源氏方に引き取らせよう、とする根拠がハッキリしないのではないか、乳母もイマイチそれを納得していないのじゃないか、という疑問をたてたことにあるようです。 右近の説得はこの後えんえんと三日ほど続くのですが、仔細に読んでいくと彼女は夕顔と光源氏のてん末を、その禍々しい死に方だけを除いて、ほとんどすべて乳母方にしゃべっているように思え、となると私の疑問はあまり意味のないことというか、ほとんど本筋に影響しないという感じがしてきたのです。紫式部もその方面にかんしては、あまり深入りしないようにした気配がありますね。乳母側の真っ当な疑問をまともに受けると、話が前に進まなくなってしまうわけで、そのあたりをどのように解釈するかは、例の有名な「二本(ふたもと)の杉」の歌も出てくるくだりですが、よろしければ本文を読んでみてください。 しかしここの乳母側への説得性の無さというのが、のちのち六条院での玉鬘のあいまいな行動に繋がっているようにも見え、いっそ姫を内大臣方に渡していたら、よほどスッキリ(読者も)したのではないか、とも思えるのですが、まあそれは無い話。 というわけで、このあとの長谷寺の話は端折って、終りのほう右近の玉鬘に対する見立てというのは、― 「かたちは、かく、いとめでたく、清げながら、ゐなかび、こちごちしくおはせましかば、いかに、玉の瑕ならまし。いで、あはれ。いかで、かく生ひ出で給ひにけむ」と、おとゞを、うれしく思ふ。はゝ君は、たゞ、いと若やかに、おほどかにて、やはやはとぞ、たをやぎ給へりし。これは、け高う恥づかしげに、もてなしなども、由めき給へり。筑紫を、心にくく思ひなすに、皆、見し人は、里びにたるにも、心得がたくなむ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(玉鬘の)容貌が、いかに、とても気高く、整っていても、(お振るまいが)田舎臭くて、洗練されていらっしゃらなかったら、どれほどか、玉の疵になったであろう。ホントに、ご立派なこと。どうやって、このようにお育ちになられたものやら」と、(育て親の)乳母に、感謝したくなる。母君(である夕顔)は、ひたすら、若やいで、おっとり、なよなよと、(女らしく)たおやかでいらっしゃったのに。このかたは、品高くて(こちらが)畏れ入るほど、お振るまいにも、気品がおありだわ。筑紫って、(そんなに)けっこうな所かと思うけれど、(姫以外の)皆、会った人たちは、(すっかり)田舎びてしまっているのだから、(やっぱり)ヘンねえ。 右近は夕顔の乳母娘であったので、どうしても母と比較してしまう。玉鬘は母譲りのなよやかさよりは、あきらかに内大臣系の品高さを備えていたのでした。― 暮るれば、御堂にのぼりて、又の日も、行ひ暮らし給ふ。秋風、谷よりはるかに吹きのぼりて、いと肌寒きに、物いとあはれなる心地どもには、よろづ思ひ続けられて、「人なみなみならむ事も、難き身」と、思ひしづみつるを、この人の物語のついでに、父おとゞの御ありさま、腹々の、何にもあるまじき御子どもも、みな、ものめかしなしたて給ふを聞けば、かゝる下草も、たのもしく思しなりぬる。いづるとても、かたみに、宿るところ問ひかはして、「もし又、おひ惑はしたらむ時」と、あやふくおぼえけり。右近が家は、六条院ちかきわたりなりければ、ほど遠からで、いひかはすも、たづき出で来ぬる心地しけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫)― つづく ―
2009.11.23
コメント(0)
「(私は)このように、つまらない身分ではございますが、まさしく今の太政大臣の御殿にお仕えし申しているので、このような、ちょっとした旅でも、『無礼な目には遭うまい』とは、安心しておるのでございます。(しかし)田舎びた人たちに対しては、このような所では、性根の悪い者どもが、侮ったりするので、(そんなことがあっては)畏れ多いと思いまして」と、(右近は)お話を、もっと(詳しく)したいのであるが、物々しい勤行(の声)に紛れ、(その)騒がしさに引き込まれるまま、(とりあえずは)仏を拝み申し上げる。 このあたりの大勢の喧騒の雰囲気や、その中にあって何とか玉鬘に近付こうとする右近の様子は、何だか映画のように鮮明ですね。以下のような滑稽話も、さりげなく挿んであります。― 国々より、ゐなか人おほく詣でたりけり。この国の守の北の方も、詣でたりけり。いかめしくいきほひたるを羨みて、この三条がいふやう、 「大悲者(だいひさ、観世音菩薩)には、異事申さじ。あが姫ぎみを、大弐(だいに)の北の方ならずば、当国の受領の北の方になしたてまつり給へ。三条らも、随分に栄えて、かへり申しつかうまつらむ」と、額に手をあてて、念じ入りてをり。右近、「いと、ゆゝしうもいふかな」と聞きて、 「いと、いたうこそ、ゐなかびにけれな。中将殿のむかしの御おぼえだに、いかゞおはしましし。まいて今は、天の下を御心にかけ給へる大臣にて、いかばかりいつかしき御仲に、御かたしも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」と、いへば、 「あなかま。たまへ。大臣・公卿も、暫し待て。大弐の御館の上の、清水の御寺の、観世音寺に参り給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる。あな、むくつけ」とて、なほ更に、手をひきはなたず、をがみ入りてをり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (あちこちの)国々から、田舎の人々が大勢参詣しに来ていた。この国の国守の北の方も、詣でている。(その様子が)厳かな勢いなのを羨んで、三条が言うには、 「観世音菩薩様には、他の事々は申し上げますまい。(どうか)わが姫君を、大弐(大宰府の次官のうち、最上位の官位)の北の方が無理ならば、(せめて)この国の受領の北の方にしてあげて下さい。三条なども、しかるべく出世して、(必ず)お礼参りを致しますので」と、額に手をあてて、(一心に)念じているのである。右近は、「ずいぶん、縁起でもないことを言うものだわ」と聞いて、 「何て、ひどく、田舎臭くなってしまったの。(父の)頭の中将殿のかつてのご信任の高さは、どれほどでいらっしゃったことか。まして今は、天下をお心のままに動かされる大臣で、(姫は)そのとても立派なご血縁なのに、その方が(こともあろうに)、受領の妻などという、(低い)身分でいらっしゃるわけがないじゃないの」と、言うと、 (三条は)「もううるさい。黙ってらっしゃいまし。大臣の話も公卿の話も、しばらく待って下さい。大弐の御館の北の方が、清水の御寺の、観世音寺にお参りなされたときの勢いなんか、帝さまの行幸にも負けるものですか。(あなたは、何も知らないくせに)まあ、うっとうしいこと」と言って、よけい殊更に、手を合わせたまま、拝み倒している。 ここに描かれる情景や、やりとりを見ていると、やはり紫式部は実際に長谷寺に行ったであろうし、貴人も平民も貴賎こき混ぜての霊場の様子は、相当面白く印象に残ったのでしょう。筑紫の話とはずいぶん違う気がしてしまうのです。― つづく ―
2009.11.22
コメント(0)
このあと長谷観音の霊場を舞台にして、右近が活躍します。― 右近は、人知れず、目とゞめて見るに、中に、美くしげなる後手の、いと、いたくやつれて、四月(うづき)ののし単衣めく物、着こめ給へる髪の透影(すきかげ)、いと、あたらしく、めでたく見ゆる、「心苦しう、悲し」と、見たてまつる。すこし足馴れたる人は、とく、御堂に参りつきにけり。この君をば、もてわづらひ聞えつゝ、初夜おこなふほどにぞ、のぼり給へる。いとさわがしく、人詣でこみて、のゝしる。右近が局は、仏の御右のかたに、近き間にしたり。この御師は、まだ、深からねばにや、にしの間に、とほかりけるを、「なほ、こゝにおはしませ」と、たづねかはし、いひたれば、をとこどもをばとゞめて、介に、「かうかう」と言ひあはせて、こなたに移したてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 右近が、さりげなく、(乳母の一行を)注意して見ていると、その中に、美しい後姿で、(しかし)とても、ひどく旅やつれしているが、四月の単衣(ひとえ)らしい上衣に、着こめていらっしゃる髪の毛が透けて見えるのが、とても、もったいなく、あでやかに見える、「(その方こそ姫君であろうと)おいたわしく、可哀想に」と、お見守りしていた。多少足馴れている右近は、先に、御堂に参籠する。(乳母一行は)この(疲れ切った)姫君を、介抱差し上げながらなので、初夜の勤行(午後八時頃~午後十時頃)のころに、お参りになった。(御堂内は)とてもそうぞうしく、参籠する人々でごった返して、大騒ぎである。右近の居所は、仏の右方に、近い場所であった。この(姫君一行の)御師は、まだ、馴染みが深くないのであろう、西の間で、遠く離れているのを、(右近は)「もっと、こちらにいらっしゃいまし」と、訪ね合わせて、言ったところが、(乳母たちは)男たちだけはそこに止めて、豊後の介には、「これこれの次第だから」と言い含めておいて、(姫君を)こちらにお移し申し上げた。 参籠の途中や御堂内の喧騒の中で、右近は姫君である玉鬘をじっと観察し、今後どういう方法が最善かをずうっと考えているのです。姫君を近くに寄せたのは、その器量を仔細に見るためだったでしょう。今は紫の上の老女房である右近の立場としては、亡き夕顔の隠し子であり、同時に源氏に対抗する内大臣(頭の中将)の娘でもある、というこの姫君の取り扱いは慎重を期するのです。 大事なのは、右近がなぜ今源氏方に仕えるに到ったのか、その仔細を身も具も全部話すということは、乳母一行にはできないということで、乳母側としては生みの親である内大臣に何とか取り次いでもらえないか、と考えるのはごく自然なのでした。 じつは今回再読していて、そこのところがハッキリしないのです。右近は太政大臣である源氏の権勢をさかんに喧伝しますが、正妻方である右大臣派の脅迫を恐れて、頭の中将から逃げた夕顔が、いくらそのあと偶然光源氏の想い者になったとはいえ、だから亡き母の娘をぜひ養女にしたいと思って探している、という理屈はちょっと説得性に欠けるのです。げんに乳母からは真っ当な疑問が出てくるのですが、まあ先を急がずにもう少し御堂の様子をみてみましょう。 「かく、あやしき身なれど、たゞ今の大きおほい殿にさぶらひ侍れば、かう、かすかなる道にても、「らうがはしきことは侍らじ」となん、頼み侍る。ゐなかびたる人をば、かやうの所に、よからぬ者どもなどの、侮づらはしうするも、かたじけなきわざなり」とて、物語、いとせまほしけれど、おどろおどろしき行ひの紛れに、騒がしう催されて、仏拝みたてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫)― つづく ―
2009.11.21
コメント(0)
以下、多少滑稽感を伴なって、出会いが描かれます。― からうじて、 「おぼえずこそ侍れ。筑紫の国に、廿年ばかり経にける下衆の身を、見知らせ給ふべき京人よ。人違へにや侍らむ」とて、寄り来たり。ゐなかびたる掻練(かいねり)に、絹など着て、いといたく、ふとりにけるに、わが齢も、いとゞおぼえて、恥づかしけれど、 「なほ、さしのぞけ。われをば、見知りたりや」とて、顔をさし出でたり。この女、うち見つけて、手を打ちて、 「あがおもとにこそおはしけれ。あな嬉しとも嬉し。いづこより、まゐり給ひたるぞ。うへは、おはしますか」と、いと、おどろおどろしう、まづ泣く。わかきものにて見馴れし世を、思ひいづるに、隔てきにける年月、かぞへられて、いと、こよなくあはれなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) ようやく(三条が、出てきて答えるには)、 「(何のことやら)分けがわかりません。筑紫の国で、二十年ばかり過ごした下衆の私めを、見知っておいでの京の人などとは。人違いではございませんか」と言って、近寄って来た。田舎びた紅色の絹に、上衣を着て、かなり相当、太っているのを(右近は見て)、自分の齢も、ずいぶんに思いやられて、恥ずかしかったが、 「もっと、注意して見てごらん。私のことを、知っているでしょう」と言って、顔を突き出す。この女は、はたと気付くと、手を打って、 「あのあなた様でいらっしゃったのですか。ああ嬉しや嬉しや。どちらからお出でなさいました。上様(夕顔)は、いらっしゃいますか」と、(こちらが)鼻白むほど、たいそうに、ひたすら泣きじゃくっている。若かった彼女を見慣れていた昔を、思い出すと、遠く去ってしまった年月が、数えられて、(右近も)とても、こよなく哀れを感じた。 この後つづく、乳母一行と右近の再会のくだりは、本文を読んでみてください。何だか田舎芝居のやりとりを観ているような感じですよ。 さてお互いの消息や、姫君の無事、母夕顔の死亡などを伝えあって、ひとしきり懐かしがったり、嘆いたりしているうちに、夕暮れになって長谷寺での終夜の勤行が待っている。― 「日暮れぬ」と、さわぎたちて、御あかしのことども、したゝめはてて、急がせば、いと、心あわたゞしくて、立ち別る。「もろともにや」と、いへど、かたみに、供の人、「あやし」と思ふべければ、この介にだにも、事のさまも言ひ知らせあへず。われも人も、ことに恥づかしくもあらで、皆、おりたちぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「日が暮れます」と、(従者たちが)騒ぎだして、御灯明のことなど、用意が終わって、(参籠を)急がせるので、はなはだ、心がせくままに、立ち別れる。「いっしょに(行きましょう)」と、言うが、お互い、供人が、「変だ」と思いかねず、(乳母は、とりあえず)この豊後の介にも、ことの次第は知らせない。こちらも相手方も、格別気を使うこともなく、皆、外へ出た。― つづく ―
2009.11.20
コメント(0)
さてこのあと、玉鬘一行と右近のちょっぴり感傷的な出会いが描かれるのですが、紫式部の筆致は例によってなかなか巧みなので、少し長くなりますが、― 例ならひにければ、かやすく構へたりけれど、かち歩み堪へがたくて、より臥したるに、この豊後の介、隣の軟障のもとに寄りきて、参り物なるべし、折敷手づから取りて、 「これは、お前にまゐらせ給へ。御台などうちあはで、いと、かたはらいたしや」などいふを、聞くに、「わがなみの人にはあらじ」と思ひて、物のはざまよりのぞけば、この男の顔、見し心地す。誰とはおぼえず。いと、若かりし程を見しに、ふとり、黒みやつれたれば、多くの年経たる目には、ふとしも、え見分かぬなりけり。「三条、こゝに召す」と、呼び寄する女、見れば、又、見し人なりけり。「故御方に、下人なれど、久しく仕うまつり馴れて、かの、かくれ給ひし御すみかまで、ありしものなりけり」と、見なして、いみじう、夢のやうなり。 (右近は)いつものこととて、気安く準備して来たけれど、(さすがに)徒歩はしんどくて、(物に)寄り掛かって休んでいると、あの豊後の介が隣の軟障の側まで寄ってきて、お食事なのであろうか、折敷を自分で持って、 「これを、姫に差し上げなさいますよう。膳部などが整わなくて、とても、申し訳ないのですが」などと言っているのを、聞いていると、「(どうやら)私と同じような身分の客人ではなさそうだわ」と(右近は)思って、物の隙間から覗いてみると、(どうも)この男の顔は、(以前に)見たような気がする。(しかし)誰とは思い出せない。とても、若かった頃に見たので、(このように)肥え太り、色黒になってやつれているのを、長年月経ってしまった目には、おいそれとは、見分けられないのであった。「三条、お呼びですよ」と、呼び寄せる女も、見てみれば、これまた、(かつて)知った者である。「亡くなったお方(夕顔)に、下女だが、長くお仕え馴れしていて、あの、(頭の中将から)お隠れなさったお住まいにまで、お供して行った者だわ」と、見て取るや、(右近は)まるで、夢でも見ているような心地がした。 この場面、休息していた右近が、軟障の幕で仕切られた向こうの客の声を聞いて、まず自分より身分が上らしいと見当をつける。で、隙間から覗いてみると、以前見たような気がする、という流れなのですが、これは同時にすっかり老女房になった、右近のベテランとしての振るまいかたもよく表わしているので、光源氏の庇護の下に女房社会を生き抜いてきた彼女にとって、周囲の状況に自然と耳や目を側立たせてしまうというのは、体の髄にまで染み込んだ所作なのです。 それは先に語られた、彼女が何度も長谷寺に参詣している理由、「とし月にそへては、はしたなき交じらひのつきなく」思い悩んでいる、という姿をも、奇しくもありありと表わしていて上手いですね。― 主とおぼしき人は、いと、ゆかしけれど、見ゆべくもかまへず。思ひわびて、「この女に問はむ。兵藤太といひし人も、これにこそはあらめ。ひめ君のおはするにや」と、おもひ寄るに、いと、心もとなくて、この、中隔てなる三条を呼ばすれど、食ひ物に心を入れて、とみにも来ず、いと、憎くおぼゆるも、うちつけなりや。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 主人とおぼしき人を、(一刻も早く)ぜひとも、知りたいが、(とても)見えるようなしつらえではない。思い余って、「この下女に聞こう。兵藤太といわれた男も、(たぶん)この人(豊後の介)だろう。(そう言えば)姫君は(どこに)いらっしゃるのかしら」と、思い至ると、もう、気もそぞろで、この(部屋の)中仕切りにいる三条を呼ばせるが、(彼女は)食事に夢中で、すぐには出てこないのを、(右近が)ものすごく、憎たらしく思うのは、(ちょっと)せっかちすぎるのでは。― つづく ―
2009.11.19
コメント(0)
― これも、徒歩よりなめり。よろしき女二人、下人どもぞ、男・女、数多かめる。馬四つ五つ引かせて、いみじう忍びやつしたれど、きよげなる男どもなどあり。法師は、せめて、こゝに宿さまほしくして、頭かきありく。いとほしけれど、又、宿り取りかへむも、さまあしく、わづらはしければ、人々は、奥に入り、外にかくしなどして、かたへは、片つ方によりぬ。軟障(ぜんじゃう)などひき隔てて、おはします。この、来る人も、恥づかしげもなし。いたく、かいひそめて、かたみに、心づかひしたり。さるは、かの、よとともに恋ひ泣く、右近なりけり。とし月にそへては、はしたなき交じらひのつきなく、身を思ひ悩みて、この御寺になむ、たびたび詣でける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) この客人たちも、徒歩で来たようである。身分の高そうな女が二人、従う下人どもの、男女の、数も多そうである。馬を四、五匹引き連れて、事々しく目立たないようにしているが、身奇麗そうな男たちもいそうである。(例の宿の主の)法師は、ぜひとも、ここに宿を取ってほしくて、頭を掻き掻きウロウロしている。(玉鬘の一行は)すまないとは思うが、今また、宿を変えるのも、みっともなくて、面倒でもあるので、供人は奥に入り、(下人は)別の部屋に隠すなどして、あとは、部屋の片側に寄った。(姫は)軟障(障屏用の幕)などを引いて仕切って、(その内に)いらっしゃる。この、(新たにやって来た)客人も、気の置ける人ではなさそうである。とても、静かにして、お互いに、遠慮しあっていた。これこそ、あの、いつも(姫君の行方を)恋慕って泣いていた、右近なのであった。年月(紫の上に仕えるのが)長くなるにつれ、嘆かわしい(女房同士の)付き合いも果てることがなく、我が身(の行く末)を思い悩んで、この御寺には、たびたび詣出ていたのであった。 というわけで、玉鬘と右近の奇跡の再会となるわけですが、ここで物語もようやく本編の時制と合致するわけです。ずいぶん長くもまた童話的な挿話でしたね。 ところで「古事記」などでは初瀬寺のあたりを、「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の国」というような言いかたもしていたように、大和の国とは別の深山幽谷の奥に籠もった世界とみていたようです。確かに古代飛鳥の地から見れば、大物主神を祀った三輪山の東の背にあたり、また伊勢神宮に通じる古道筋にも当たっていて、古代地母神を想起させる観音霊場としてはうってつけであったでしょう。 私も若いころ飛鳥をあちこち観て歩いたものですが、長谷寺はたまたま行ったのが晩秋の夕まぐれで、乙字の登廊に灯が燈された玄妙な情景は今も記憶に残っています。 平安時代は江戸時代の「お伊勢参り」現象と同じような、「長谷寺詣で」がずいぶん盛んだったようで、都人は一生に一度は貴賎を問わず参詣したもののようです。例の「蜻蛉日記」の藤原道綱の母や「更級日記」の菅原孝標の女、はてはあの清少納言まで、長谷寺参詣の記録を残していて、紫式部も間違いなく詣でたことでしょう。 これは都の貴人達(とくに女達)にとっては、めったに見ることのできない娑婆の光景を、その道中や門前で目にする機会であったわけで、それぞれ印象を記していますね。紫式部は実録ではなく物語の中で、このあたりのとくに色濃い印象を書き記していると思えるので、すでに先ほど出てきた門前宿の法師の皮肉な描きかた(法師の掻く頭に髪の毛はない)など、彼女の面目が出ているようです。それにしても彼女の眼は、前に「薄雲」で出てきた僧都もそうでしたが、売主坊主というか、外見偉そうに中身卑しい人間を、仮惜なく見通して描くのがうまいですね。― つづく ―
2009.11.18
コメント(0)
豊後介は姫に、まず筑紫でもさかんに願を掛けていた、八幡宮に帰参のお礼をさせる。岩清水八幡宮と言えば、今の京都府八幡市男山の石清水八幡宮のことですが、そこの社僧から仏の道では長谷寺の霊験が、とてもあらたかだと言う評判を聞く。 このあたり平安時代はこの「源氏物語」もそうですが、神・仏と総称して神様も仏様も、ご利益信仰の対象として、あまりその違いを詮索することもなく、むやみに有り難がるところがあったようで、げんに奈良時代以降さかんに神仏混合が行なわれて、明治の廃仏毀釈までわりと大らかに共存しあっていたようです。― ことさらに、徒歩(かち)よりと定めたり。ならはぬ心地に、いと、わびしく苦しけれど、人のいふまゝに、物も思えで、歩みおはす。「いかなる罪深き身にて、かゝる世にさすらふらむ。わがおや、なくなり給ふとも、われを、あはれと思ひ給はば、おはすらむ所へ、さそひ給へ。もし、世におはせば、顔見せ給へ」と、仏を念じつゝ、 … かく、さしあたりて、身のわりなく思ゆるまゝに、とりかへし、いみじく思ひつゝ、からうじて、椿市(つばいち)といふ所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着き給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (姫は)ことさらに、徒歩で(参詣することに)と決めた。慣れない心地で、ひどく、わびしくて苦しいけれど、人に言われるまま、無我夢中で、歩いて行かれる。「いかなる(前世の)罪深き身ゆえ、このように(憂き)世をさまようのだろう。我が母上、(もし仮に)お亡くなりになっていらっしゃっても、私を、哀れとお思いになるのでしたら、(母上の)いらっしゃるところに、連れて行ってくださいまし。もし、この世にいらっしゃるのなら、お顔をお見せくださいまし」と、(道中ずうっと)仏を念じて続けておられるが、 … このような、さしあたっての、慣れない(徒歩の旅の)こともあって、何度も、辛い思いをしながら、ようやく、椿市という所に、四日目の昼前ごろに、生きた心地もしないで、到着なさった。 京から長谷寺への行程は、朱雀門から南行して宇治川の手前を東回りにくだり、木幡兎道あたりで宇治川を渡って、さらに山城の西斜面と木津川の間をくだる。上狛(かみこま)あたりで川を渡って奈良盆地に入り、古都の東側を通って、そのあとはいわゆる山辺の道を、椿市(つばいち)までくだったかと思われます(想像ですよ)。直線距離でざっと80km、実際の道のりはおそらく100kmぐらいで、しかも土地の高低を考えれば、慣れない姫君たちの徒歩での三日半の旅程は、結構きつかったでしょう。 椿市とは今の桜井市金屋、初瀬川が山間から奈良盆地に流れ出る出口にあたり、長谷寺参詣の入り口をなしていたようです(今話題の巻向遺跡や三輪山の南側ですね)。― 歩むともなく、とかくつくろひたれど、足も動かれず、わびしければ、せむかたなくて、やすみ給ふ。 … 大御あかしの事、こゝにてし加へなどする程に、日暮れぬ。家あるじの法師来て、 「人宿したてまつらむとする所に、何人の物し給ふぞ。あやしき女どもの、心に任せて」と、むつかるを、めざましく聞くほどに、げに、人々来ぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (姫は)歩くどころではなく、何やかや手当てをしたが、足もよう動かせず、辛いので、どうしようもなくて、休んでおられる。 … (仏前にお供えする)お灯明のことを、ここで買い足したりなどしているうちに、日が暮れてしまった。その宿の主の法師がやって来て、 「(さる)人をお泊め申そうとしている所に、どなたがお入りになっているのか。怪しからん下女どもが、勝手に(部屋に上げてしまって)」と、ブツブツ言っているのを、失礼なと聞いているうちに、なるほど、客たちがやって来た。 わざわざ難行苦行の徒歩で長谷寺にやってくるというのは、当然その対価としてのご利益を期待するところがあるからですが、このたびの姫君の難行は痛んだ脚のかいあって、ただちに霊験を生じたのです。― つづく ―
2009.11.17
コメント(0)
さて何をさておき、京に舞い戻ってきた乳母一家ですが、十数年を鄙で過ごした彼らにとって、都というのは寄る辺のない所ではありました。― 九条に、昔知れりける人の、残りたりけるを、訪らひいでて、その宿りをしめおきたり。、都のうちといへど、はかばかしき人、住みたるわたりにもあらず、あやしき市女商人のなかにて、いぶせく世の中を思ひつゝ、秋にもなり行くまゝに、来し方・行く先くれて、悲しき事多かり。頼もしき人の豊後介、たゞ、水鳥の、陸にまどへる心地して、つれづれに、ならはぬ有様のたづきなきを思ふ。かへらむにも、はしたなきを、心をさなく出で立ちにけるを思ふに、したがひたりし者どもも、類にふれて逃げ去り、もとの国に帰り散りぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 九条にいた、昔の知人で、まだ残っている人を、探し出して、その(さしあたっての)宿とした。都内とはいえ、しかるべき身分の人たちが、住んでいるあたりでもなく、下賤の市女(いちめ、物売り女)や商人(あきんど)の中にまじって、うっとうしく世の中を思いながら、秋が訪れてくるにつれ、来し方行く末が案じられて、悲しいことばかりがつのって来る。頼りにすべき長兄である豊後介といえど、(ここでは)ひたすら、水鳥が、陸に上がって戸惑っているような感じで、所在なく、馴れない様子も(いかにも)頼りなく思える。(今さら、国へ)帰るのも、みっともなくて、浅はかな気分で出てきたものよと思っているうちに、付き従ってきた者たちも、伝手を頼って逃げ去り、もとの国に帰り去ってしまった。 九条といえば、今の東寺の南に面する通りで、平安京では庶民の界隈でした。こういう所には貴族は足も踏み入れないというのが、当時の常識でしたから、乳母一家が途方に暮れるのも、致し方のないことではあります。それにしても付き従って来た随身たちは、ずいぶんあっさりと主を見限ったものですね。まあ全員ではないとしても、このあたりの主従関係というのは、のちのち戦国時代ごろから現われる強い紐帯というよりは、よほど乾いた間柄だったのかもしれないので、それは鎌倉以降のドライな武士同士の結びつきに近いのかもしれません。― すみつくべきやうもなきを、母おとゞ、あけくれ、嘆きいとほしがれば、 「何か。この身は、いと安く侍り。人ひとりの御身に、かへたてまつりて、いづちもいづちもまかり失せなむに、咎あるまじ。わが身は、いみじき勢ひになりても、わがきみを、さるいみじきものの中に、はふらしたてまつりてば、何心地かせまし」と、かたらひ慰めて、 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 暮らして行く術も無いのを、母乳母が、日がな一日、嘆いて気の毒がるので、(豊後介は)「何の。この身は、いたって気安いものです。姫君一人の御ために、(私が)身代りとなって、いずこへ行方知れずになろうとも、(何の)咎を受けましょうぞ。私の身が、(仮に、あのまま備前で)すごい勢いになったとしても、わが姫君を、あの卑しい(監のような)者たちの中に、放り捨て申したのでは、どんな気持が致しましょう」と、言って慰めた上で、 … というわけで、今度は長谷寺の「霊験譚」の話が始まります。苦しい時の神頼み、ということでしょうか?― つづく ―
2009.11.14
コメント(0)
じつは彼らの心配は杞憂に終わって、大夫の監は二度と現れません。ここの挿話を長々と引用してきたというのは、この人物が端役にしてはずいぶん存在感のある書きかただと思ったからで、この肥前の地で繰り広げられた物語が、昔ながらの「求婚譚」を下敷きにしているとはいえ、紫式部がそれをどのように換骨奪胎しているか、ということを見るためでした(これまた邪推ですが、案外これと似たような経験を、彼女は父の赴任地の越前でしていたのかもしれませんね)。 概してこの「玉鬘」の帖は、このあとにつづく長谷寺の「霊験譚」もそうですが、当時巷間によく知られた説話類の筋をわりあい安直になぞっているようで、本編の主人公の光源氏が、基本的には「貴種流離譚」的な昔物語を下敷きにして語られているとはいえ、ほとんどその痕跡を残さないばかりに拡張変形されているのと対称的ですね。 このあたり紫式部に何か意図があったのかどうか。あるいはこのb系物語で気分を変えてみたかった彼女にたいして、おそらくこのころ宮廷内外の読者からさまざまなリクエストがあったのではないか、という話は前にも何度か触れました。彼女としてもそうした外部からの声を無視するには、自身の立場を考えざるを得ない時期だったでしょう(とくに道長に対しては)。というわけで、ひらたく言えば多少読者に迎合して、一般受けしやすいサービスをしたのかもしれません。 それがどのあたりに現れているかというと、ここまでこの帖の主役であるべき玉鬘本人がほとんど何もしていない、ということが上げられます。というより「帚木」「夕顔」から始まって玉鬘十帖の見事な前奏曲をなしたb系物語が、かんじんの主役の登場になったとたん、ちっともそのキャラクターが冴えて来ないじゃないの、ということがあるのです。 今回このいわゆる玉鬘十帖を、前のb系も含めて再読していて、紫式部がこれを一つのまとまった長編として構想していたであろうことは相当納得でき、また玉鬘本人のキャラクターも「藤袴」「真木柱」の帖に至って、見事な結末が与えられているのですが、少なくとも本帖では彼女はまだ昔物語のお姫様という位置づけを一歩も出ていないという気がします。 これは取りも直さず、ここでは「求婚譚」の昔物語を安直になぞった所から来ているので、「竹取物語」を持ち出すまでもなく、「求婚譚」にあっては主人公というのは最初から唯一無二の理想の姫君であって、物語の面白味というのは姫を争うさまざまな求婚者達の滑稽な失敗話が主なのです。「求婚譚」は結婚(ないし昇天)によって、「めでたし」となるわけで、むしろ結婚後(あるいは契りを交わしたあと)の「うつつ」を、「あまりなるまで」見つめようとしていた紫式部にとっては、このあたりでは主人公は動かしようがなかったのかもしれませんね。 そういう意味では、昔物語というのは基本的に男=オスが作りあげた話で、女をモノにしようとして争うという筋書きが、相手側の女達にとってどんな現実(うつつ)をもたらすか、についてはまったく関心を示さないのです。彼女はそうした指し示された女たちの現実(うつつ)を記録した、女の日記類あるいは随筆類をすでに知っていたので、本編を延々と書き続けた理由の一つは、そうしたさまざまな現実(うつつ)に放り込まれた女たちの生々しい声を、できるかぎり具体的に書き記すことであったでしょう。 玉鬘もそうした結婚後の現実(うつつ)が描かれることで、初めて今ふうの小説的面白味を感じて読める中味になっていると思うのですが、それはまだだいぶ先の話ですね。― つづく ―
2009.11.13
コメント(0)
大夫の監が実際に現れて、その恰幅の良さと強い押し出しを目にして、乳母一家は震え上がる。― 二郎が、かう語らひ取られたるを見るにも、いと恐ろしく心うくて、この豊後介を責むれば、 「いかゞは、つかうまつるべからむ。語らひ合はすべき人もなし。まれまれの兄弟(はらから)は、「この監に同じ心ならず」とて、仲たがひにたり。この監に、あしうせられては、いさゝかの歩きにも、所せうなんある。なかなかなる目をや見む」など、思ひ煩ひにたれど、ひめ君の、人しれず思したるさまの、いと心苦しく、「生きたらじ」と、おもひ沈み給へるが、「ことわり」と、おぼゆれば、いみじきことを思ひかまへて、いで立つ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 次男が、このように(監に)丸め込まれたのを見るにつけ、(乳母は)ものすごく恐ろしく嫌な気分なって、彼女の(長男の)豊後介を責め立てるが、 「いかが、して差し上げたものか。(この地には)相談する相手とていない。数少ない弟達も、『(私が)あの監と賛同しない』ということで、仲違いしてしまった。この監に、睨まれては、多少の出歩きも、このあたりではままなるまい。(ヘタをすると)とんでもない目に合うかもしれぬ」などと、思案に暮れていたが、姫君が、人知れず悩んでおられる様子が、とてもお可哀想で、「(監に連れられていっては、とても)生きて行けないわ」とまで、思い沈んでいらっしゃるのも、「もっともなことだ」と、納得できるので、とてつもない決心をして、(京に)出発することにした。 監に分からないように夜逃げ同然の出発ということで、彼らは家族を残して脱出しようとするのです。このあたり、預かった姫君一人のためとはいえ、いささか説話的に過ぎるような気もします。まあ「伊勢物語」でも京で「えうなき」男どもが家族を放擲して、仲間同士連れだって「あづま」に下っていますから、あながち無かったことでもないのかもしれませんが。 一家のうち上の娘は、子供もすでにあって結局当地に残ることになる。下の娘の「あてき」というのは、夫を残し兄の豊後介と母乳母、それと主だった随身侍女などをともなって、玉鬘と京に上ることになります。多少の生き別れの愁嘆場があったあと、― 「かく逃げぬるよし、おのづから言ひ伝へば、負けじ魂にて、おひ来なむ」と、思ふに、心もまどひて、早舟といふ物にて、様異になん構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、あやふきまで走りのぼりぬ。響の灘も、なだらかに過ぎぬ。 「海賊舟にやあらむ、小さき舟の、飛ぶやうにて来る」など、いふものあり。「海賊の、ひたぶるならむよりも、かの、鬼しき人の、追ひ来るにや」と、思ふに、せむかたなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「このように(ひそかに)逃げたというのが、自然とうわさとなって(監の)耳に入れば、(きっと、ものすごい)負けん気を起こして、追いかけてくるに違いない」と、思うと、気が気ではなく、早船という、特別仕様のを準備していたうえに、思いどおりの風が吹いたこともあって、危ないほどのスピードで走って(都の方へ)上っていく。響灘(ひびきなだ)も、難なく過ぎた。 「海賊の舟でしょうか、小さい舟が、飛ぶようにやって来ます」などと、言う者がいる。「海賊で、(荒っぽいばかりの)よくいる連中でなく、(もしや)あの、鬼のような男が、追って来たのか」と、思うと、(一向は)やりきれない。― つづく ―
2009.11.12
コメント(0)
しかしどんな田舎びた歌であっても、詠み掛けられたからには返しが必要なのは、当時のエチケットでした。― あれにもあらねば、返しすべくもおぼえず、女(むすめ)どもに詠ますれど、「まろは、まして、物もおぼえず」とて、ゐたれば、いと久しきに煩ひて、おもひけるまゝに、 年をへて祈る心のたがひなば 鏡の神をつらしとやみむと、わなゝかし出でたるを、 「いでや。こは、いかに仰せらるゝ事ぞ」と、ゆくりかに寄り来たるけはひに、おとゞ、おびえて、色もなくなりぬ。女たち、さはいへど、心強く笑ひて、 「この人の、様異(さまこと)にものし給ふを」「引き違へ侍らば、つらく思はれむを、なほ、ぼけぼけしき人の、神かけて、聞こえひがめ給ふなめりや」と、解き聞かす。「おい、さり。おい、さり」と、うなづきて、 「をかしき御口つきかな。なにがし、かう、ゐなかびたりといふ名こそ侍れ、口惜しき民に、はた、侍らず。都の人とても、何ばかりかあらむ。みな知りて侍り。なほ、な思しあなづりそ」とて、「又、詠まむ」と思へれど、堪へずやありけむ、いぬめり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (しかし、乳母は)それどころではなくて、返歌しているどころの騒ぎではなく、娘達に詠ませようとするが、「私こそ、もっと、気もそぞろで(とても詠えません)」と言って、(何もようせずに)じっとして、時間だけが経っていくので困り果てて、思いつくままに、― 年をへて祈る心のたがひなば 鏡の神をつらしとやみむ ― (長年祈り続けたあなたの想いに違うなら、鏡の神を恨めしいと思うでしょう)と、恐る恐る詠い返したところが、 「何ですと。これは、いったいどういう意味でござる」と、(気色ばんで)不意に近寄って来る気配に、乳母は、腰を抜かして、顔色も失せる。(頼りなげな)娘達は、そうは言っても、気強く微笑んで、 「この姫君は、お姿が普通でいらっしゃらないのです」「(それで、あなた様の)ご期待に反しましたらば、つらいと思われて(「つらしとやみむ」と詠まれたのですが、そこを祖母(乳母)が、ボケているので、神様のお名など持ち出して、お答えし損ねたのでしょう」と、とりなす。「おお、そうですか。そうですか」と、(何度も、監は)うなづいて、 「(それは)おもしろい詠みぶりですな。私めは、このように、田舎びたる者とは申せ、卑しい民百姓では、決して、ございませんぞ。京の人といえども、何のことがありましょう。何もかも先刻承知でござる。けっして、バカにはなさいますな」と言って、「今一首、詠もう」と思ったが、うまく浮んで来ないのか、(そのまま)帰ってしまった。 かつて紫の上が、光源氏と朝顔の宮の件でもめたとき、源氏がヘタな言い分けに古歌を交えたりして、何となくはぐらかそうとするのに、腹を立てるような場面がありましたね(槿 6.)。こうした和歌のやりとりというのは、たんに雅な社交の道具としてならともかく、うつつの現場では当事者達の生々しい気分を、少し逸らす感じがあって、使いようによっては相手の気を悪くさせたり、困惑させるようなこともあり得るようですね。― つづく ―
2009.11.11
コメント(0)
このあたり、大夫の監(たいふのげん)は間違いなく、肥後訛りでしゃべっているはずですが、紫式部はあえてそのまま書き記すことはしていません。彼女が人の語り口に注意深かったであろうことは、いつぞやの文章博士の儒者言葉を思い出せばすぐ気付くのですが、あえてここで使わないというのは、おそらくそのまま書いても意味が通じないということと、何よりも文字に書き記すに値しないくらい、宮廷で披露するのは汚らわしい、ということだったのでしょう。今どきでも「ダサい」だの「キショい」だのを活字にするのは、何となく品下がるようで憚られるのと同然ということでしょうか。 彼女はここはあくまで、ひどく訛った田舎言葉を文意から想像せよ、と言っているのです。 対する乳母は、― 「いかゞは。かくのたまふを、「いとさいはひある」とは、思う給ふるを、宿世つたなき人にや侍らん、思ひ憚るべきこと侍りて、「いかでか、人には御覧ぜられむ」など、人知れず嘆き侍れば、心ぐるしう、見たまへ煩ひぬる」といふ。 「さらに、な思し憚りそ。天下に、目つぶれ、足折れ給へりとも、なにがしは、つかうまつり、やめたてまつりてむ。国のうちの仏・神は、おのれになむ靡き給へる」など、誇りゐたり。「その日ばかり」と、いふに、 「この月は、季のはてなり」など、ゐなかびたる事を言ひ逃る。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どうしたものでしょう。そのようにおっしゃっていただけますのは、『まことに結構なこと』とは、存じあげますが、(姫は)運の悪いお人なのでしょうか、思い憚るべきことがございまして、(本人も)『どうして、人の妻にさせていただけようか』などと、人知れず嘆いておられて、(私どもも)可哀そうで、お世話しつつ困っておるのでございます」と、答える。 「(いやいや)そのように、ご遠慮なさりますな。まことに(たとえ、姫の)目がつぶれていようが、足が折れなさっていようが、私めは、(きちんと)お世話し申し、直して差し上げましょう。国中の仏や神は、(すべからく)私にのみ味方してくれているのですぞ」などと、威張り返っている。「これこれの日ばかりに(お迎えに上がります)」と、言うので、 「その月は、季節の終りでございます(だから縁起が悪い)」などと、(乳母も)田舎臭い(理由を作って)言い逃れる。 お互いにキツネのバカ仕合いをやっているようなものですが、監は相変わらず自信満々で、出掛けに取って置きの和歌を披露する。― おりて行くきはに、歌詠ままほしかりければ、やゝ久しう思ひめぐらして、 「君にもし心たがはば 松浦なる鏡の神をかけて誓はん「この和歌は、つかうまつりたり」となん、思ひ給ふる」と、うち笑みたるも、世づかず、うひうひしや。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 帰り際に、(監は)歌が詠みたくなったか、ややしばらく思案して、 「 ― 君にもし心たがはば 松浦なる鏡の神をかけて誓はん ― (姫君にもし私の心が違えることがあるならば(どんな罰をも受けようと) 松浦なる鏡の神に掛けても誓いましょうぞ)『この和歌は、(我ながら)上出来だ』と、思います」と、嬉しがっているのも、(ホントに)世間知らずで、初心(うぶ)なこと。― つづく ―
2009.11.10
コメント(0)
乳母家族がどうしたものかと嘆き惑っているのも知らずに、監は懸想文を書いて寄こす。― 「我は、いと思え高き身」と思ひて、文など書きて、おこする。手など、汚なげなく書きて、よき唐の色紙の、かうばしき香に入れしめつゝ、「をかしく書きたる」と思ひたる言葉ぞ、いと、だみたる。身づからも、この家の二郎を語らひ取りて、うちつれて来たり。年三十ばかりなる男の、たけ高やかに、物々しううち太りて、きたなげなけれど、思ひなし疎ましく、荒らかなる振舞など、見るもゆゝしく思ゆ。色あひ心地よげに、声いと嗄れて、さへづりゐたり。懸想人は、夜に隠れたるをこそ、「よばひ」とは言ひけれ、様かへたる、春の夕暮なり。秋ならねども、「あやしかりけり」とみゆ。「心をやぶらじ」とて、祖母おとゞ、いであふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「我は、ことのほか人にも敬われる身だ」と思って、懸想文などを書いて、寄こす。(その)筆跡などは、にくからず書いてあって、高級な唐の色紙に、芳ばしい香を焚き染めて、「上手く書けた」と思っている(らしい)言葉つきが、ひどく(鄙びて)、訛っている。自らも、この(乳母の)家の二郎を仲間に引き込んで、(とうとう)いっしょにやって来た。歳は三十ばかりの男で、丈高く、物々しく太っていて、見苦しくはないが、何となく疎ましくて、荒っぽそうな振るまいなどは、見るのも忌まわしく思える。顔色も良くて、声はおそろしく濁声で、(よく)しゃべり続ける。懸想人とは、夜中に隠れ忍んで来てこそ、「夜這い」とは言うのであるが、(この鄙では)様子が違って、(まだ)春の夕暮れなのであった。(人恋しい)秋(の早い夜)でもないのに、「ヘンなことだこと」と思う。(しかし)「気を悪くさせては(大変)」とばかりに、祖母(ということにしてある)乳母が、応対する。 このあたり、紫式部は乳母一家を応援して、田舎びた土豪の風采や立ち居振るまいを、笑い飛ばしているのですが、それでも自信満々の監の姿は紛れもないので、何となく腰が引けていますね。― 「故少弐の、いと情び、きらきらしう物し給ひしを、「いかで、あひ語らひ申さむ」と、思ひ給へしかど、させる心ざしも尽くさず侍りし程に、いと悲しうて、かくれ給ひにしを。そのかはりに、いかうに仕うまつるべうなむ、心ざしを励まして、今日は、いと、ひたぶるに、強ひて侍ひつる。この、おはしますらむ女君、筋殊にうけたまはれば、いとかたじけなし。たゞ、なにがしらが、「わたくしの君」と思ひ申して、いたゞきになむ捧げたてまつるべき。おとゞも、しぶしぶに思したるは、よからぬ女ども、あまたあひ従ひて侍るを、聞こし召し疎むななり。さりとも、其奴ばらを、ひとしなみには、し侍りなむや。わが君をば、后の位にも、落したてまつらじものをや」など、いとよげに、言ひ続く。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「故少弐殿は、とても情け深く、ご立派でいらっしゃったので、『何としても、親しくお話もし申したい』と、思っておりましたが、そうした希望も果たせずに居りますうちに、大変悲しいことに、お亡くなりになられて(残念です)。その代わりとして、(かの姫君には)ひたすらお仕え申そうと、気持を励まして、今日は、ほんとうに、必死の思いで、強いて伺ったのです。ここに、おいででいらっしゃる姫君様は、お血筋高貴(な方)とお聞きしまして、まことにもったいないことです。もう、手前どもとしましては、『私めの主君』と思い致して、(頭上にも)祀り上げ捧げ奉ろうとさえ(思っております)。祖母殿が、渋っておられるご様子なのは、(私が)つまらない女どもを、大勢かかえ込んで侍らせているのを、お聞きになって嫌っておいでだからでしょう。そうであっても、(この姫君を)そのような奴ばらと、同じように、お扱いすることがありましょうか。我が姫君は、后の位にも、引けは取らせ申すまいとさえ(思っておりますのに)」などと、たいそう良さ気に、しゃべり続けている。― つづく ―
2009.11.09
コメント(0)
以下につづく、乳母一家と大夫の監とのやりとりは説話的で、何となく滑稽めかしく展開しますが、それでも京と鄙の関係を、当時の人がどのように見ていたか、というのを知るよすがにはなるでしょう。 大夫の監(たいふのげん、「はだしのゲン」じゃないですよ)はたんなる「いきほひ厳しきつは者」ではなく、なかなか狡猾でもあって、乳母一家の兄弟を懐柔しようとする。― この男子どもを呼びとりて、かたらふ事は、 「思ふさまになりなば、おなじ心に、いきほひをかはすべきこと」など、語らふに、二人は、おもむきにけり。 「しばしこそ、「にげなく、あはれ」と、思ひ聞えしか。おのおの、わが身のよるべに頼まむにも、いと、頼もしき人なり。これに、あしうせられては、この、ちかき世界には、めぐらひなむや」「よき人の御筋といへど、親にかずまへられたてまつらず、世に知られでは、何のかひかあらむ。この人の、かく、ねんごろに思ひ聞え給へるこそ、今は、御さいはひなれ」「さるべきにてこそは、かゝる世界にも、おはしましにたるを、にげかくれ給ふとも、何のたけきことかあらむ」「負けじ魂に、いかりなば、せぬわざわざもしてむ」と、いひおどせば、「いといみじ」と聞きて、中の兄なる豊後介なむ、 「いとたいだいしく、あたらしき事なり。故少弐の、のたまひ置きしこともあり。とかく構へて、京へ上げたてまつりてむ」と、いふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) この(少弐の)息子たちを(大夫の監、以下監が)呼び寄せて、持ちかけたことというのは、 「(私の)思い通りになるなら、(お前たちとは)心を合わせて、勢力を分かとう(ではないか)」などと、そそのかしたので、(兄弟のうち)二人は、(監に)なびいてしまった。 (兄弟)「初めのうちは、『ふさわしくなく、(姫には)お気の毒だ』と、思っておりました。(しかし)おのおの、我が身の後ろ盾を頼むにしても、(監は)とても、頼りがいのある人物です。彼に、憎まれたからには、かの地の、近在である肥前の地に、居ることが出来ますか」「(姫は)高貴な御血筋とはいえ、親御様に認知し申されている訳でもなく、(このまま)世間に知られぬままとあれば、何の甲斐があるでしょう。この(監という)人が、このように、熱心に想いを懸けて下さることこそ、今となっては、(姫の)御幸いとなりましょう」「しかるべき運命(さだめ)があってこそ、このような(鄙の)地に、いらっしゃったのですから、(今さら)逃げ隠れなさって、どんな良いことがあるでしょうか」「(もし逃げたりして、監が)負けん気を起こして、怒り出したりしたら、(日頃は)しないような(とんでもない)ことも、(我々に)するかも(しれません)」と、(乳母などを)口々に脅すので、「とんだことに(なった)」と聞きつつも、(息子の)中の長兄である豊後介(ぶんごのすけ、だけ)は、 「(やはり、それは)とても不都合で、ありえない話だ。父、少弐の、言い遺された事もあるではないか。(ここは)何としても工夫して、(姫を)京へお上らせ申そう」と言う。 相手の組織を割って、懐柔して行くというのは、今も昔も権力者の常套手段ですが、大夫の監はこの乳母の息子達に対して優しいだけでなく、チラチラと凄味も利かせたのでしょう。弟二人は完全に取り込まれて監のメッセンジャーになってしまっている。長兄の豊後介だけが、かろうじて正気を保っていて、父の遺言どおり姫を京にお連れしようと考える。監の持ちかけたおいしい話は、姫を渡したとたん、どうなるかも分からないのです。― つづく ―
2009.11.08
コメント(0)
周囲にビクビクしながらも、乳母一家は玉鬘を預かったまま、何とその後十年を当地で過ごすことになります。ちょっと長すぎるような気もしますが、あとあと彼女が源氏と出会うのを二十歳とするために、逆算してこうなったのでしょう(でないと、母である夕顔の死後二十年という、b系物語の時系列に合わなくなってしまいますね)。 で、そのあいだ一家はどうしていたかというと、玉鬘の分けありの中味を、彼女は不具なのでいずれ尼にするなどということにして、「すいたるゐなか人ども、心かけ、消息がる、いと多かり」という状況を、何とかしのいで来たのですが、― 女(むすめ)どもも、男(をのこ)どもも、所につけたるよすが出できて、すみつきにけり。心のうちにこそ、いそぎ思へど、京の事は、いや遠ざかるやうに、隔たり行く。もの思し知るまゝに、身をいと憂きものに思して、年三(ねさう、年三回行う長精進)などし給ふ。廿(はたち)ばかりになり給ふまゝに、整ひはてゝ、いとゞ、あたらしく、めでたし。この住む所は、肥前の国とぞ言ひける。そのわたりにも、いさゝか由ある人は、まづ、この少弐のむまごの有様を聞き伝へて、なほ、絶えず訪れくるも、いと耳かしがましき中に、大夫の監(げん)とて、肥後の国に、族広くて、かしこにつけては、思えあり、いきほひ厳しきつは者ありけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 娘達も、息子達も、(年月経るうちに)相応の相手が出来て、(当地に)住み着いてしまっている。(乳母は)心の内こそ、急いているが、京の(都に帰る)ことは、ますます縁遠く、隔たってしまった。(姫君は)物心がお付きになるにつれ、我が身をひどく憂鬱に思われて、年三回の長精進などをなさってらっしゃる。二十歳ばかりになられて、(すっかり)成人され、たいそう、美しく、勿体ないほど(のお姿)である。この(一家が)住んでいる所は、肥前の国と言う。そこの近所でも、いささか由緒ある(家系の)人は、何よりまず、この少弐の孫のご様子を聞き知っては、今もなお、絶えず訪ねて来るので、うるさいほどであったが、大夫の監(げん、大弐、少弐の下役で、大夫は監の中の上級)といって、肥後の国で、一族郎党多く、その地では、信望もあって、勢いも恐ろしいほどの武士(もののふ)がいた。 乳母一家は、子供が娘二人息子三人と数多く、それぞれが当地で成長してしまうと、当然しかるべき相手を見つけて独立していく。乳母の願いとは関係なく、彼らは現実を生きていかねばならないのです。弱ってしまうのは一人深窓に取り残されて、恐ろしいほどに美しく育った玉鬘で、仔細が分かってくると、我が身の運命がうっとうしく思えてくるのは致し方のないところですね。 とはいえ、いくら深窓といえども、一家の使用人などとまるきり顔を合わせない、ということは出来ないので、自然と大変な美人に育っている、といううわさは近在に鳴り響いていたのでしょう。そこで、隣国の大夫の監なる「厳しきつは者」の登場となります。このあたりは「求婚譚」説話の筋を、わりとそのまま追っている感じがしますね。― むくつけき心の中に、いさゝか、好きたる心まじりて、かたちある女を、「いかで集めて見む」と好みける。このひめ君を聞きつけて、 「いみじきかたはありとも、我は、見かくして、持たらむ」と、ねんごろに言ひけるを、いと、むくつけく思ひて、 「いかで。かゝる事を聞かで、尼になりなむとす」と、いはせたりければ、いよいよ危ふがりて、おして、この国に越え来ぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (この男は)無骨な心うちにも、多少、好き心があって、容貌(みめ)麗しい女を、「何とか(大勢)集めて侍らせたい」と望んでいる。この姫君(のうわさ)を聞きつけて、 「ひどい不具であっても、私は、目をつぶって、お世話しよう」と、熱心に申しでんでくるのを、(乳母は)ひどく、不気味に思って、 「どうして(そんなことを)。こういう話は(一切)聞かずに、尼になろうとしているのに」と、答えさせたところが、(かえって)ますます不安になって、(自ら)押しかけて、この国にやって来た。 大夫の監の「いよいよ危ふがりて」という気分は、あるいは早くものにしないと尼になってしまう、という不安でしょうか?― つづく ―
2009.11.07
コメント(0)
そうこうしているうちに少弐は結局亡くなってしまう。― 「その人の御子」とは、わが館の人にも、あまねく知らせず、たゞ、「孫(むまご)の、かしづくべき故ある」とのみ、言ひなしければ、人にも見せず、かしづき聞ゆるほどに、かく、にはかに亡せぬれば、あはれに心細くて、たゞ、京の出で立ちをすれど、故少弐の仲悪しかりける国人、多くなどして、とざまかうざまに、怖ぢ憚りなどして、われにもあらで年を過ぐす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (少弐は)「どの人の御子」とは、自分の邸内の使用人たちにも、全員には知らせず、ただ、「孫の中でも、大切にすべき分けありの(子)」とだけ、言いつくろって、人前にも出さず、お育て申し上げているうちに、このように、亡くなってしまったので、(乳母一家は)あわれにも心細く、ひたすら、京へ出で立とうとするが、故少弐とは仲の悪い国人も、多いこともあって、何やかやと、恐れたり憚ったりなどしているうちに、心ならずも(当地で)年月を過ごしてしまった。 少弐がいなくなってみると、乳母の家族というのは、この鄙で寄るべき筋とて無いどころか、むしろ近在の国人たちの中には、故少弐に恨みを持っている者もけっこう多い。このあたり収税や課役する中央役人と、納税その他の取りまとめ役であろう地ばえの国人との間には、常に緊張関係があったのです。ここのとりなしというか、管理力のあるなしが、それぞれの役人の力量の差となって現れるので、うまく差配すれば莫大な財を手にして京に帰ることができますが、少弐はあまり上手に立ち回れなかったみたいですね。 のちのち「宇治十帖」で、十年以上常陸の国を差配した役人が、莫大な財産を築いて京へ錦を飾り、逆に貧乏貴族を手玉に取るくだりが出てきますが、その役人は今度は完全に鄙びた土豪のカルチャーに浸りきってしまって、都人の文化のよすがなど、とっくに忘れてしまった、要は例の雅な会話の通じない男として描かれます。 こうした興味深い描き分けというのが、どこから出てくるのかというと、紫式部はたんに地方帰りの役人や女房たちからの見聞だけでなく、当然彼女自身の体験も込められているでしょう。 よく知られているように彼女は十代の頃、父為時に同行して越前に下ったといわれ、いわゆる受領階級としての父と国人との力関係はつぶさに見ていたでしょう。為時は教養人として第一級の人であったことはよく知られていますが、よくある話でそれが出世とは必ずしも結びつかない仕儀であることを、父も娘も身に染みて感じていたのではないか。越前への赴任自体が遅かったうえ、彼はそこからの帰任後、六十歳を過ぎて今度は越後の守に任ぜられているのです。当時の六十歳といえば、今で言えば完全に晩年であって、父の出発する後姿を紫式部は、どのような思いで見送ったのか(越後赴任の時は、彼女はすでに宮中に出仕していました)。 私は下級貴族の端くれである受領という身分柄で、出世できた一族というのはおそらく数えるほどで、地方周りの悲哀の中で、その多くが落剥したり亡くなったりしていたのではないかと思うのです。ことさらに財を成そうと思えば、都のカルチャーをかなぐり捨てて土豪たちと立ち交じらざるを得ず、都びた優雅な会話などもとより雛の経営には役に立たないわけで、これは藤原為時のような教養人にとってはガマンならないことだったでしょう。 しかもそれは都に帰ってみれば、今度は逆に宮廷内で野蛮人と謗られるハメにもなりかねないのです。 ここに描かれた少弐のしがない肖像には、何となく彼女の父をはじめとした下級官僚の悲哀のようなものがあって、宮仕えとは今も昔もなかなか辛いところがあるみたいですね。― つづく ―
2009.11.06
コメント(0)
昨日の話で、「同じ都人の文化を共有している仲間うちならば、心のひだひだにまで響きあう言語表現」という言い方をしましたが、逆にいえばまるっきりそうした仲間うち言葉の用法の通じない世界というのが、すなわち鄙(ひな、田舎)でありました。この場合の鄙というのは、たんに地理的な隔絶ではなく、おそらく話が通じないという隔絶感なので、「宇治十帖」ではそこを経営する薫の荘園の土豪が、まるきり話が通じない=非文化=野蛮人として、なかば軽蔑、なかば恐怖をもって語られますね。 実は「玉鬘」の以下のくだりも、いわば都人の鄙に対する蔑視と恐れを描いた挿話として読めるので、これは案外、紫式部の本音だったのではないか、と思うのです。 乳母の夫の少弐は六年ほどで、任が解けるのですが、彼にかんする記述はなかなか興味深いのです。― 少弐、任はてて、上りなんとするに、遥けきほどに、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつゝ、すがすがしうも出でたたぬ程に、おもき病して、死なむとする心地にも、 「この君の、十ばかりになり給へるさまの、ゆゝしきまでをかしげなるを、見たてまつりさして、我さへ、うち捨てたてまつりてば、いかなる様にはふれ給はんとすらむ。あやしき所に生ひ出で給ふを、かたじけなう思ひ聞ゆれど、いつしかも、京に率てたてまつりて、さるべき人にも、しらせたてまつりて、御宿世にまかせたてまつりて、見たてまつらむにも、「都は広き所なれば、いと心やすかるべし」と、おもひいそぎつるを、こゝながら、命たへずなりぬる事」と、うしろめたながる。男子三人あるに、 「たゞ、このひめ君、京へ率てたてまつるべきことを思へ。わが身の孝をば、な思ひそ」となむ、言ひおきける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 少弐は、任期が終わって、(都へ)上ろうとするが、遠く離れているうえに、とくに権勢のある人でもなかったので、グズグズして、スッキリと出発もしないうちに、重い病を発して、(今にも)死ぬかという心地がして、 「この姫君の、十歳ほどに成られたお姿の、恐ろしいほどのお美しさを、見申し上げるにつけ、(かしずいてきた)私が、お見捨てしたなら、どのようにも落ちぶれなさるか。(このまま)田舎でご成長なさるのは、畏れ多いと存じあげて、いつかは、京にお連れ申して、しかるべき人(父、頭の中将)にも、お知らせし、御運に任せなさった(行く末を)、見申上げるためにも、『京は広い所ゆえ、(田舎育ちという噂も立ちにくく)よほど気安いことであろう』と、思って準備もしていたのだが、(本意なく、私は)この田舎で、命が終わってしまうとは」と、心配している。息子が三人いるので、 「ただもう、この姫君だけを、京にお連れ申すことだけを考えるのだ。私の供養のことなど、考えるな」とだけ、言い遺す。 少弐は、玉鬘が四歳のとき筑紫に赴任しましたから、六年ほど任地にいたことになります。中央から派遣された役人が、当地で財を成せるかどうかは、今のキャリア組と違って、個人の器量がものを言ったようで、彼は必ずしも仕事のできる人ではなかったようですね。そのあたりは、つづく任地での土豪たちとの関係にも現れているようです。 大事なのは、この少弐がふとした偶然で預かることになった夕顔と頭の中将の娘を、どこまでも(本人の子達より)大事に愛で育ててきたことで、このあたりも竹取の翁夫婦と共通した、貴種に対する無邪気なほどの尊崇の念が見て取れますね。しかし竹取物語のパターンといっしょに考えてみた場合、この有り難がりようの中味は、必ずしも彼女が貴種の血筋だからというのではなく、「ゆゝしきまでをかしげなる」という見た目や生まれの希少性というところにも、その原点があるようで、ここはハッキリと昔物語の筋をなぞっているのです。― つづく ―
2009.11.04
コメント(0)
私は今年初めに「源氏物語」を、生まれて初めて現代訳で通読したのですが、若いころの付け焼刃的な前知識に幻惑されたり、受験古文の退屈な思い出をできるだけ封印して、なるたけ素で味わえるように、わざと「宇治十帖」から読んでみたり、「若菜」から読んだりした結果、かえって本を初読するときの高揚感があまりなかった、という話はすでに何度もしました。 それで結局のところ観念して、かつて読んだことがあり、多少の前知識で汚れきった冒頭の「桐壺」の帖から、もう一度読み直すというハメになったのですが、そうすると今度は現代訳を読むかぎり「ホンマかいな」というくらいに、巧みな記述やプロットが次から次へと出てくる。前知識的に「源氏物語」がスゴイということは知っていても、それが具体的にどのようにスゴイのか、どの部分で1000年経っても私たちの心に鳴り響く部分があるのか、ということを考えた時に、それまで思いつきもしなかったのですが、これはめんどくさくても、どうしても原文の香りを多少でも味わってみる他はないのではないか、という気がしてきたわけです。 ところがその原文というのが、二、三日前の新聞記事にも出ていたように、紫式部直筆の原本というのは、もちろん今となっては存在せず、さまざま伝承されたいろいろな系統の書写本を基にしているわけで、そもそもキッチリした紫式部の原本などというものが本当にあったのか、あれこれ読んでいると、そんな話にまで発展してしまいそうです。初手が仮に彼女であったとしても、書き足し書き直しそれをつなぎ合わせて、今ある一連の大長編が出来上がった、ということになれば、ここで私がしている長々とした超低空飛行のおしゃべりというのは、厳密にいうと意味を成さなくなってしまいますね。 具合の悪いことに当時の他の物語類では、複数の人間による加筆訂正などというのは日常茶飯事であって、物語類というのはそれほどまでに地位の低い、言わば女子供のためのすさび事に過ぎませんでした。同時代の漢詩や和歌に対しては加筆訂正などということは、当時の平安都人の感覚として有り得ないことだったでしょう。「古事記」「万葉集」「古今和歌集」にみるまでもなく、かつての日本人というのは言葉を大事にしたのです。裏を返せばそれくらい物語類というのは軽く見られていたということです。 おそらく彼女自身も、自分の書いたものが寸分違わず書写されて周囲に読まれ、後生大事に受け継がれていくなどということは、最初から考えていなかったはずで、それは逆に彼女の執筆するときの態度にも反映したかもしれません。 謎掛けのような省略、本来語られるべき中味の欠落というのは、確かに後世での消失の可能性があるとしても、あるいは彼女自身、いずれ他人に加筆訂正されるであろう可能性も意識して書く場合もあったのではないか?この物語の読者の想像力を駆り立てて止まない中味というのは、あるいは彼女がいずれ起こるであろう加筆訂正を意識して、あらかじめ仕掛けた表現方法から来ているのではないか? 平安中期の宮廷文化というものが、何かにつけて物事を婉曲に、露わには言い現さないというのが、エチケットだったにしても、それでもってお互いの意志疎通があいまいで、いい加減だったというわけではないので、むしろ相手の想像力に寄り掛かっているぶん、しかるべき相手なら、その気持や意図は心のひだに到るまでビンビンと伝わっていたでしょう。この場合のしかるべき相手とは、同じ都人の文化を共有している仲間ならば、という意味です。今どきの若い人たちが、若い者同士の絵言語をメールでやりとりするように。 読み手の想像力に、書き手の気持を委ねるというのは、ある意味言語の詩的用法に近いところがあるので、詩は読み手の想像力がなければ成立しません。という意味でも「源氏物語」はやはり和歌文学の系統を、少なくとも文体の上では色濃く引いているので、これだけ多量の言葉に彩られながらも、この物語は本質的には詩的言語で埋め尽くされているのかもしれません。 であるなら、彼女の残した膨大な言語空間というのは、他人の想像力の介在を、意図も簡単に際限なく許す反面、根底的に潜んでいる彼女の内面の歌のようなものばかりは、どれだけ加上が繰り返されようと、やはり変りなく私たちの前に、何度でも立ち現われてくるのではないか?私が今「源氏物語」を読み続けることになった中味というのは、どうやらいくら加上されても、やはり何度でも立ち現われてくる彼女の内面の歌、宣長がいうところの「もののあはれ」というものが、今どきならどのような味がするか、ということを確かめたくて、やっているもののようです。 それにしても原本がなくて各種の伝承本だけを頼りにする以上、「青表紙本」も「河内本」もこれまた、それが編まれたであろう当時の今の読み方であったわけで、してみれば今どき世に出回っているさまざまな現代語訳ともある意味等価に扱うべきものなのでしょうか? ひょっとすると「源氏物語」とは、もともと原本のない1000年物語の集積なのかもしれませんね。― つづく ―
2009.11.03
コメント(0)
「須磨」「明石」の帖が光源氏都落ちの話で、読者の気分を変えるという意味では、おおいにエキゾチズムを刺激するくだりではあったのですが、案外期待に反して、いま一つ鄙の風景が浮んでこないというのは、ここが物語の本筋である「貴種流離譚」というテーマに大きく絡んでいるためで、紫式部としては田舎の風俗をさまざま描くには、少し窮屈だったのかもしれません。まあそれでも明石入道夫婦のやりとりは、とても魅力的でしたが。 こちらの筑紫での話は、本筋に絡むわけでなく純然たる挿話ですから、彼女もよほど気が楽だったでしょう。 それにしても乳母一家(少弐)が、なぜ夕顔の娘を預かったまま、大宰府へ出向したかというと、彼らもまたちょっと辛いところがあったので、要は母の夕顔の行方が右近とともに、まるきり分からないということでした。― 「さらば、いかゞはせん。わか君をだにこそは、御形見に見たてまつらめ。あやしき身に、そへたてまつりて、はるかなる道におはせん事の悲しき事。なほ、ちゝ君にや、ほのめかさし聞えまし」と、おもひけれど、さるべき便もなきうちに、 「はゝのおはしけむかたも知らず。たづねとひ給はば、いかゞ聞こえむ」 「まだ、よくも見馴れ給はぬに、をさなき人を、とゞめたてまつり給はむも、後めたかるべし」「しりながら、はた、「ゐてくだりね」と、ゆるし給ふべきにもあらじ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「では、どうしよう。(せめて)若姫君だけは、(夕顔の)お形見としてお世話申し上げようか。(しかし)卑しい身(の我々)と、いっしょにお連れして、はるか遠い道々をお連れするのはおいたわしいことだわ。やはり、父君(の頭の中将)に、それとなくお伝えしようか」と、(乳母は)思うが、しかるべき伝手もないうちに、 (乳母)「母君(夕顔)がどこにおられるかも分からない。(もし殿が)訪ねてこられてお聞きになったなら、どうお答えしたものやら」 (乳母の娘達は)「まだ、(姫君は、父殿と)さして馴染んでいらっしゃらないのに、幼い姫を、(父君の元に)お残しするのは、気がかりですわ」「(かと言って、母君の行方知れずを)知りながら、また(どうして)、『(姫君だけ)連れて下りなさい』などと、お許しになることがあるでしょう」 というわけで、結局父の頭の中将には知らせないまま、姫君を筑紫へ連れて行くことになるのです。それもこれも、元はといえば、頭の中将と光源氏の若気の至りが出来させた女遊びのせいなのですが、乳母一家はもちろん源氏との禍々しい一件など知る由もない。 このあとしばらく筑紫までの道行きと、赴任地での様子が描かれるのですが、若姫君(玉鬘)はすこぶる美女に生い育って、母、夕顔の可愛らしさだけでなく、父、頭の中将の華やかな品格も兼ね備えて、近在の男供のあいだでも噂になる。― この君、ねびとゝのひ給ふまゝに、はゝ君よりも勝りて清らに、父大臣の御筋さへ加はればにや、品高く美しげなり。心ばせも、おほどかに、あらまほしう物し給ふ。聞きつきつゝ、すいたるゐなか人ども、心かけ、消息がる、いと多かり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) この姫君は、成長なさるにつれ、母君よりも勝って美しく、父大臣のお血筋さえ加わったためであろうか、品格あるお姿になられた。気立ても、おっとりと、申し分なく振るまっておいでである。(噂を)聞きつけた、好き者たちの田舎人が、想いを掛けて、恋文を寄こす者も、たいへん多い。 このあたりは、明らかに例の「竹取物語」を意識していますね。― つづく ―
2009.11.02
コメント(0)
さてここから、その夕顔の娘の話が始まります。― かの、西の京にとまりしわか君をだに、ゆくへも知らず、ひとへに物を思ひつゝみ、又、「今更にかひなき事ゆゑ、わが名もらすな」と、くちかため給ひしを、はゞかり聞えて、たづねもおとづれ聞えざりしほどに、その御乳母のをとこ、少弐になりて、いきければ、くだりにけり。かのわか君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 例の、西の京に残していた(夕顔の)姫君さえ、行方知れずになってしまい、ひたすらあの(夕顔の急死の)事は心に押し包んで、また(源氏の君も)、「いまさら(彼女の死を知らせても)甲斐のないことだから、私の名は洩らすなよ」と、口止めなさったので、ご遠慮して、訪ねて(ことの仔細を)申上げることもできないでいるうちに、その(姫君の)乳母の夫が、太宰少弐になって、赴任したので、(乳母一家は、いっしょに)下ってしまった。かの姫君が四歳になった年に、筑紫へ向かったのである。 ちょっと話がややこしいのですが、この娘は、今の内大臣(頭の中将)が、夕顔のもとに通い詰めていたときに出来た子で、その経緯は「帚木」の帖のはじめ「雨夜の品定め」で、彼自身が語っていたことでした。彼女との関係を正妻である右大臣方の四の君が知るところとなり、おそらくその母大后であろう人から、夕顔に対して脅しが入る。もともと気が小さい夕顔は、縮みあがって右近や娘といっしょに西の京の乳母の家に隠れる。ところが乳母方が方違えということで、夕顔と右近は娘を残して市中に身を隠していたところが、そこでたまたま源氏に見初められた、ということのようです。 ところが源氏との逢う瀬の最中に、夕顔が頓死したために、スキャンダルの露見を恐れて、光源氏は口止めついでに、右近をそのまま自邸の女房にしてしまい、乳母方には二人とも消息不明なまま、右近は自分の所在さえ知らせることが出来ずに、彼らは夕顔の姫君を連れて筑紫へ行ってしまった、という関係になります。 ここから紫式部は、玉鬘の筑紫での生い立ちを語るのですが、ここでもまた彼女は回想譚の面白味を新たに知ったとみえて、けっこう長話になっています。少なくとも「須磨」「明石」の流遇譚よりよほど上手く描けている、という気がするのですが。 ここの記述が面白いというのは、その道行きや任地の肥前の様子が具体的で、本来の意味で紀行文のような味があるからです。で、その理由というのが、ここに出てくるエピソードが、おそらく実際の話や見聞を基にしたものであろう、というところから来ているのではないか。 これは何も紫式部が実際に肥前に行ったことがある、ということを意味するものではありません(おそらく九分九厘ないでしょう。ところが紫式部九州生誕説なるものが、邪馬台国九州説のごとく、世に出ているのを、最近Netで見てビックリしてしまいました)。ただ彼女は肥前や肥後の国の様子を、宮廷内の女房仲間や男共から聞く機会はあっただろうし、何よりも彼女自身が、娘時代に父について越前に行ったことがありましたね。 挿話としての中味に、案外本音というか、実体験のようなものがストレートに描かれるというのは、それが本編には影響しないという点で、けっこうありそうな気がします。これは例えば、彼女が偉い身分の人を描くときより、従者や女房を描くときのほうが、筆つきが伸びた感じで生き生きしているのと、共通する心理が働いているような気がするのですが。― つづく ―
2009.11.01
コメント(0)
全25件 (25件中 1-25件目)
1

![]()
![]()