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私がこんな物語上の地理関係にこだわっているというのは、当時の人たちにとって須磨明石は絵空事の地であったとしても、大堰川や嵯峨野は同じ都の内にあって、それが地名で出てくるときは、ただちに風景も位置関係も分かったはずなので、今どきでも都内の地名が出てくるときは、その場所を少し意識してもいいのではないかと思ってみたまでです。 それにしても、源氏物語にはその後の好事家や研究者が、源氏の造った六条夢御殿の図面とか、源氏ゆかりの地めぐりの地図などを、山のように出しておられるので、本文を読んでいない人が観光がてらに、しかるべく説明されれば、ああそうなのかと納得するしかないのですが、私など改めて読んでいると、もう一度その場所をあらましでも確かめておきたい、という衝動に駆られます。というのも、ここのくだり、もし入道の邸が対岸にあれば、「宇治十帖」の八の宮の住処と、(宇治川を挟んだ)薫の別邸の位置関係とよく似ていて、しかもよく似たシーンがこの松風で出てくるからです。 この大堰川、かつてはもっと都内まで入り込んでいたのではないかという話があり、それを堰堤で抑えたのが上古の時代からこの嵯峨、松尾を支配していた渡来人の秦氏で、太秦(うずまさ)とはこの秦氏に由来していますね。爾来、京の都には川と水にまつわる話が、桂川にかぎらず、賀茂川にも宇治川にも数多くあって、今の京都盆地の地下には琵琶湖の水量に匹敵する地下水が眠っているという話からも、1000年前の京都の地形、とくに川の流れていた位置というのは、この物語を読むうえで今と当時を結ぶ一つのよすがになれば、面白いなと思っています(もっともこれは私の個人的な趣味ですから、だからどうしたと言われればそれまでです。今の市内を横切る東西線の地下鉄を掘ったところが、地下水脈を遮ったので、構内に漏水が絶えないとか、上賀茂神社の井戸が枯れたとか、ヤッパリ面白いじゃないですか)。 その話はさておき、このあとにつづく、明石の入道が呼んだ「宿守のやうにてある人」との会話は、例によって唐突に下世話な話になって、これはいったい何なんだ、と思ってしまいます。入道が宿守(やどもり)に、事情を説明して大堰川の旧邸の修理を頼んだところが、その預りが言うには、― 「この年ごろ、領ずる人も、ものし給はず、あやしきやうになりて侍れば、下屋にぞ、つくろひて宿りはべるを。この春の頃より、内の大殿の造らせ給ふ御堂近くて、かのわたりなむ、いと、気騷がしうなりにて侍る。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ、造り営み侍るめる。静かなる御本意ならば、それや、違ひ侍らむ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「この年頃、領主の方が、お出でになるわけでもなく、荒れ放題でございましたのを、(私は)下屋ばかり、繕って住んでおったのです。(ところが)この春頃から、内大臣殿(源氏)が造らせなさる御堂が近くて、かの周辺は、たいへん、騒がしくなっております。厳かな御堂などを建てるのに、多くの人が、集まって造営しています。静かな(場所を)というお考えならば、そこは、当てが外れましょう」 と、どうも来てほしくない態度が丸見え、対する入道は多少色をなして、― 「何か。それも、『かのとのの御蔭に、かたかけて』と思ふことありて。おのづから、追々に、内のことどもは、してむ。まづ急ぎて、おほかたの事どもを物せよ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「なに(かまいはしない)。そのことも、『かの殿のお陰を、願って』と思っていることがあって(のことなのだ)。どちらにしても、いずれは、内々の(細かな修理)ことなどは、するつもりだ。まず急いで、大体の修理をしてもらいたい」 このあたりの話は、物語の本筋とは関係がないのに、いやに話が具体的で下世話な感じなのはなぜでしょう。― つづく ―
2009.06.30
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いずれも下級貴族の娘で(厳密にはそうではないのですが、宮廷内の身分としては低い)、上級貴族に懸想された場合の、生きかたとしての心許なさを悩んでいるわけで、繰り返し取り上げたというのは、彼女にとって身近な問題であるとともに、それは女たちだけでは解決不能な根本問題も含んでいたのでした。 で、それがこの長い物語で、何か解決されたのかといえば、もちろんそんなことはなくて、むしろ繰り返すごとに問題の所在が、より深くなっていくような感じさえしてきます。しかしそれもまた今軽々に話すべきことではないでしょう。 古来、紫式部が自身を仮託したであろう登場人物として、空蝉や明石の方や玉蔓などが挙げられていますが、確かに人物の身分柄から言えば、空蝉も明石の方、玉蔓の境遇は作者とよく似ていて、話の途中まで、ああこれはたぶん彼女自身の体験だろう、と思わせる場面も出てくるのですが、かといってこの人たちがすべて悩みを解決できたわけではない。否、そうした悩みは、話が進むにつれて、むしろ深勝っていくわけで、何度も同じようなシチュエーションの人物を登場させたこと自体、それが簡単には解決されない、多様でやっかいな問題であったからでしょう。 しかしそしたら紫の上はどうなの、ということになるのですが、もちろん彼女はこの物語の一方の主役なのですが、主役というのは光源氏もそうですが、たぶんに理想化されて描かれるぶん、なかなか実体的な生き生きした人間として立ち上げるのは、大変みたいですね。今どきの映画でも主役は、ある程度型の決まった二枚目が演じて、脇にクセのある生きた人間が出てくるのとよく似ています。 悩み深まさる明石の方を見かねたか、その両親の考えついたのが、― 昔、母君の御祖父、中務宮ときこえけるが、領じ給ひける所、大堰川のわたりにありけるを、その御のち、はかばかしうあひ継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを、思ひ出でて、かの時より伝はりて、宿守のやうにてある人を、呼び取りて語らふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 昔、母君の御祖父で、中務(なかつかさ)宮でいらっしゃった方の、御領地が、大堰川のそばにあったのが、その後、しっかり後を継ぐ方もなくて、年経るに荒れたままになっていたのを、思い出して、その頃より代々、そこを預かりのようにしている人を、(入道は)呼び寄せて相談する。 もともとの出身が都であった、この両親が考えついたのが、とりあえず明石の方とその姫君を都の近くに住まわせようということだったのですが、とくに幼い姫君に田舎育ちの不利を避けさせる意味合いが強かったとはいえ、それは同時にこの家族にとっては、痛みをともなう判断でもありました。 しかしその前に、ここに出てくる大堰川のそばの領地というのは、いったいどのあたりだったのだろう、という思いに駆られます。大堰川とは京都の西を流れる桂川の上流のことで、今の渡月橋から桂橋のあたりにかけてこう呼ぶようですが、このあと出てくる光源氏の建てた御堂(桂院)と、この入道の大堰の邸の位置関係は、どう見たらよいのか。 源氏の建てた桂院は、本文によれば大覚寺の南の山里ということになっていますから、まさしく今のJR嵯峨嵐山駅あたり、渡月橋を南に見渡す天龍寺あたりを想定していたかと思われ、してみると入道の邸は、あるいは大堰川の対岸に位置していたのではないか。― つづく ―
2009.06.29
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光源氏と藤壺の女院が、我が子冷泉帝の安泰を狙って、宮廷内での勢力を強めて行っているあいだ、何となく置いてきぼりの感じになっているのが、明石の方とその姫君です。源氏のほうも、もちろん忘れているわけではないのですが、とりあえずは宮廷内の権勢を固めることが先決だったのでしょう。 この帖では、明石の方とその姫君をめぐって、源氏の私生活が中心に描かれるのですが、その差配振り(家政)が逆に彼の公けでの卓越した政治的手腕を、読み手に想像させる仕掛けになっています。 あらすじは、以前から源氏が求めていた、明石の方とその姫君の上京について、彼女が逡巡しているのを、その両親が解決策として、京の西外れ大堰川のほとりにある親戚の領地に、とりあえず住まわせることを考えつく。源氏はその近くの御堂にお参りするのにかこつけて、明石の方と再会を果たす。帰宅した源氏に対し嫉妬も交えた紫の上に、光源氏は明石の方の姫君を養女にすることを持ち出す、といったところでしょうか。 筋としては、これといったことも無くて、光源氏と紫の上、明石の方それぞれの心理が克明に語られるのが、この帖の特色です。 まず以前から増築を進めていた、二条院の新しい私邸が完成して、例の便利屋さんの花散里を住まわせます。西の対に花散里を、東の対に明石の方を、北の対は自身の寝殿として構える形ですが、後々六条に大御殿を造営する雛形のような邸宅ですね。 とはいえ、かんじんの明石の方は、源氏からの再三の上京せよとの便りに、依然として思い惑っているのです。― 明石には、御消息たえず、今は、猶、のぼりぬべきことをば、のたまへど、女は、なほ、わが身のほどを思ひ知るに、「こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなか、さて、かけ離れぬ御有様のつれなきを見つゝ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして、なにばかりのおぼえなりとてか、さしいでまじらはむ。この若君の御おもてぶせに、数ならぬ身の程こそ、あらはれめ。たまさかに這ひ渡り給ふついでを待つ事にて、人笑へに、はしたなきこと、いかにあらむ」と、思ひ乱れても、また、さりとて、かゝる所に生ひ出で、数まへられ給はざらむも、いと、あはれなれば、ひたすらにも、えうらみそむかず。親たちも、「げに、ことわり」と、思ひ嘆くに、なかなか、心も尽きはてぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の君は)明石には、絶えず手紙をお寄しになって、今こそ、何をさておき、都に上るべき旨を、おっしゃるが、女は、依然として、我が身の立場を思いめぐらしていて、「たとえようもなく高貴な身分の人たちでさえ、なかなか、どうして、格別大切になさるご様子でもない(源氏の)つれなさを見せられて、物思いだけが勝っていくようなのを聞くにつけ、まして(私のような者が)、いかほどの寵愛をあてにして、(そうした世界に)立ち混じることが出来よう。この姫君の面汚しに、取るに足らない低い身分ゆえ、(私は)なってしまうのではないか。たまに(姫君に)お会いに参られるついでを待つようでは、他人の物笑いにもなり、はしたなくて、どうしたものだろう」と、思い乱れるが、また、そうかといって、このような(田舎びた)所でこのまま生い育って、(姫君が)物の数にもお扱いいただけないのも、たいへん、可哀そうなので、単純に、(源氏の君を)怨んだり背いたりも出来ない。(明石の方の)両親も、「まったく、そのとおりだな」と、思い嘆くまま、悩み果ててしまった。 この場合、明石の方の悩みのありかは、二つあって、一つは、自分の女という属性に基づく、生き様の不安定さのようなもの二つは、自分の身分柄に絡んだ、社会的不安定さのようなものということでしょうか。 で、この場合とくに出自の身分柄にかんする不安が語られているので、これはおそらく宮中に伺候する紫式部自身の個人的関心事(さらに周辺の大多数の女房たちの)でもあって、同じようなシチュエーションの人物を、彼女はこの物語で二度三度取り上げていますね。挙げていくと、すでに登場した空蝉、このあと登場する玉蔓、さらには浮舟も、あるいはこの系統に属するのかもしれません。― つづく ―
2009.06.28
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今年の正月から、何となく始めた「源氏読み」が、かれこれ半年ほど続いていて、我ながら興味の持続性という意味では、これまでなかったほどのおしゃべりが続いています。 でまた、このあとこれが、どれぐらい続いていくのかというと、書いている本人が分からないから、予測しようがないのですが(明日にでも終わるかもしれません)、これまでの本文読みの進捗状況を、これまでかかった日数で割れば、あと二年ぐらいかかるか、というような話になるのですが、面白味だけが書き続けられる動機という、このブログの主旨からいうと、こういう機械的な割り算は意味を成しません(仕事じゃあるまいし)。 半年前の初読のとき感じた面白味と、今現在感じている「源氏読み」という振るまいの興味は、おのずから変わっているわけで、この先半年経てば、これまた別の味を感じるかもしれず(これはほぼ間違いないでしょう)、同じようなテンポでダラダラ続いていくわけがないのです。 今現在の関心は、実をいうと初読のとき感じたような、描かれている筋とか登場人物というようなことではなく、書かれている本文そのものから立ち上がってくる、気息のようなものに移っています。初めのころ新鮮な感想を忘れないうちにということで、ずいぶんムリをして偉そうな話もしてしまいましたが、ここ最近はあせらなくなって、感想を書くよりも「本文をどう読むか、どう読んでみたら面白いか」という方面に、話の重心が移っているのが、我ながら分かります。 というわけで、やたらと原文の引用と、そのヘタな口語訳が多くなっているのですが、参考にしている岩波文庫本は山岸徳平さんの丁寧な校注が原文の横に付してあって、筋がたいへん辿りやすい。これと円地文子さんの現代訳を絡ませれば、ほぼ原文の意味が古語辞典なしで読めるのですが、それにしてもこうした校注も現代訳も、結局一つの解釈であって、いろいろ逐字的に読んでいると、どうとでも読める(解釈できる)という場面によく遭遇します。そういうとき、こうした研究者や文学者の偉いところは、一つの解釈を一つの字句に行なった場合に、それが他の字句との齟齬を来たさないということで、要は解釈が全体として一貫しているということです。したがって、その明瞭な一貫性が、逆に我々のような素人でも異論というか、違った感想を抱いた場合の所在も明らかにしてくれるということで、とても大助かりなのです。 山岸さんの校注は、ほぼ全文にわたって、主語が()で付してあることと、読点がほとんど「分かち書き」のレベルで打ってあることで、口語で読もうとするときにやりやすい。この主語抜きというのが、原文を読むときの最大の難関かと思われるのですが、山岸さんの付した主語を辿っていくと、ちゃんと筋が読めるようになっているので、これはスゴイ(この主語の付しかたもまた、一つの解釈なのです)。 それと私の口語読みなど、ほとんどシャレみたいなものですが(弘徽殿の大后のおしゃべりを関西弁にしたのは、まさしくシャレです)、「分かち書き」レベルで読点が区切ってあると、どこをどう読むか、おのずと的が絞りやすい。私はその順番を入れ替えないように、訳文の方にも読点を原文と対照できるように打ちました。あとで古語辞典などで調べるとして、場所がすぐ分かるようにするためです(それをやるかどうかは別です)。 円地さんの現代訳は、さすがに小説家ですから、きわめて自由な文体で、ときに驚くほどのしなやかな文章が現れます。これは教科書風の古文訳の文体に慣らされた私などにはショックというか新鮮で、ときに「ホンマかいな」という場面があって、原文をあたるハメになる。というより、そういうことで、山岸さんの校注本を買ったのですが、むしろそういう読み方も出来るのか、ということが分かっただけでも気が楽になったのです。 とはいえ、円地源氏には、そうした自由な訳以外に、大胆な挿入が行なわれていて、何か文体が違うなと思ったときは、たいてい新たな創作が、それもけっこう長文で入っているのです。初めは感心していたのですが、ときにハナにつく場合もあって、その話は本体のほうで追々したいと思います。私はむしろそれほど潔く「私なら源氏をこう読む」と、大胆に中味に踏み込んだ円地さんの自信に敬服してしまうほうで、学校などでの教科書的な逐語訳で、意味は厳密でも面白味とは縁遠い訳文を読まされていた、あの苦痛の時間を考えると、拍手喝さいしたくなるのですが。 というわけで、私ならこう読む、むしろこう読んでみたい、というはなはだ悪趣味な作業を面白がってやっているわけですが、やはりこのブログを読まれる人がもしおられるとして、そんなのにいちいち付き合うのはイヤ!となっては困るので、そのあたり思案のしどころですね。 「夕霧」や「若菜」や「宇治十帖」で、話したいことが山ほど初読のときからあって、ウズウズしているのですが、お楽しみは後回しにして、やはり多少しんどくても、「源氏物語」の本体がもっているもともとの姿、全体のバランスから言って、比較的省みられることの少ない前半の後半部、とくに「玉蔓十帖」をどう読むか、という問題をはずしては、全体を公平に見渡すことはできないだろう、という気がするのです。
2009.06.27
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さてこの話を、源氏がしゃべっている相手は、弟の師(そち)の宮で、この間、例の権中納言がどんな顔をしてこれを聞いていたのかは、描かれません。しかし続くくだりに、― 廿日あまりの月、さし出でて、こなたは、また、さやかならねど、大方の空、をかしき程なるに、書の司の御琴召しいでて、和琴、権中納言、賜はり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 二十日過ぎの月が、さし出でて、こちらは、まだ、光はさやかではないけれども、大方の空は、美しく映え渡ったころに、(帝は)書司(ふみのつかさ)のお琴を取り寄せなさって、和琴を奏するよう、権中納言に、仰せになる。 というところで、どうやら源氏と冷泉帝の世が見えてきたことが、示唆されます。― はかなきことにつけても、かう、もてなし聞こえ給へば、権中納言は、猶、「おぼえ、おさるべきにや」と、心やましう思さるべかめり。うへの御心ざしは、もとより、おぼししみにければ、猶、こまやかに思し召したるさまを、人知れず、見たてまつり知り給ひてぞ、頼もしく、「さりとも」と、おぼされける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (絵合のような)かりそめのことにも、このように(源氏の大臣が、前斎宮に)、おおいに肩入れなさるので、権中納言は、なおのこと、「(弘徽殿の女御に対する、帝の)寵愛が、気圧されてしまうのではないか」と、面白からず思っておられることであろう。しかし帝の(弘徽殿)に対するお心向きは、以前から、非常に馴染んでいらっしゃって、今もなお、細やかにいとおしんでいらっしゃるのを、人知れず、ご覧になって分かっておられるので、頼もしくも、「そうかといって」と、また期待もなさっているのであった。 というわけで、権中納言は弘徽殿の中宮の座を、完全にあきらめているわけではないのですが、ハッキリしていることは、それまで竹馬の友として親友でもあった光源氏と権中納言(頭の中将)は、一応たもとを分かつことになったということです。互いに一族郎党を引き連れている立場柄、私的感情とは別に組織の論理が入り込んでくるのは、致し方がないことなのかもしれません。 「絵合」の帖は、だいたいこんなところで終わるのですが、それは同時に藤壺の女院の最後の晴れがましい舞台でもありました。光源氏との目的を一にした女院の振るまいは一貫していて、何度も言いますが、私は今回彼女を見直しましたね。前後しますが「絵合」のあと、源氏は、 ― その頃のことには、この絵の定めをし給ふ。 「かの浦々の巻は、中宮にさぶらはせ給へ」 と、きこえさせ給ひければ、これが初め、残りの巻々、ゆかしがらせ給へど、「いま、つぎつぎに」と、きこえさせ給ふ。うへにも、御心ゆかせ給ひて思し召したるを、うれしく見たてまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) そのころ人々の話すことは、この絵合のことばかりである。「あの(須磨の)浦々の巻は、藤壺の女院にお納め下さい」と、(源氏の大臣が)おっしゃるので、(女院は)この初めの巻、残りの巻々も、ご覧になりたいとお思いになるが、「いずれ、おいおいに(お目にかけましょう)」と、申上げられる。帝も、お心たいへん満足に思し召したのを、(源氏の大臣は)うれしくお見上げしたのであった。― 源氏1000年 絵合 おわり ―
2009.06.26
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このあとの祝宴で、めずらしく光源氏は自らのことを述懐めいて語りますね。少し気が緩んだということでしょうか。長い引用になりますが、― 「いはけなき程より、学問に心を入れて侍りしに、すこしも、才など、つきぬべくや御覧じけん、院の、のたまはせしやう、『才学といふもの、世に、いと、重くする物なればにやあらん。いたう進みぬる人の、命、さいはひと並びぬるは、いと、難きものになむ。品高く生まれ、さらでも、人に劣るまじき程にて、あながちに、この道、な深く習ひそ』と、諌めさせ給ひて、本才のかたがたのもの教へさせ給ひしに、つたなき事もなく、又、とりたてて、「このこと」と、心得ることも侍らざりき。絵書くことのみなむ、あやしく、「はかなき物から、いかにしてかは、心ゆくばかり、書きて見るべき」と、おもふをりをり侍りしを、おぼえぬ山賤(やまがつ)になりて、四方の海の深き心を見しに、さらに思ひよらぬ隈なく、いたられにしかど、筆の行く、かぎりありて、心よりは事ゆかずなむ、思う給へられしを。ついでなくて、御覧ぜさすべきならねば。かう、すきずきしきやうなる、後の聞こえやあらむ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「幼い頃から、学問には心を入れて励んでまいりましたが、多少は、学才なども、ついているかと思われたのでしょうか、故桐壺院が、おっしゃるには、『才学というものは、世間の中では、たいへん、重要視されるものであろうか。抜きん出て昇進した人で、寿命も、つつがなく全うするということは、たいへん、難しいことなのかも知れぬ。身分高く生まれて、才学によらないでも、人に劣らないで居られるのなら、強いては、この(学問の)道を、深く究めようとはするな』と、お諌めなさって、学問以外のさまざまな趣味のことをお教えになって、(私としては)つたないことも無く、また、とりたてて、「これは」と、得意にできることもございませんでした。ただ絵を画くことだけは、不思議と、「はかない手すさびとはいえ、何とかして、心ゆくばかりに、描いてみたい」と、感じることが多かったのですが、思いがけず山賤のように(さすらいの身)なって、四方の海の風景に潜むその深い心を見つめて、さらに思い至らぬところはないまでに、気付くところがあったのですが、筆のさばきには、おのずと限りがあって、なかなか思うようには描けないものだな、と思い知ったのです。機会がなくて、お見せすることも出来ませんでした。まさかこのように、晴れ晴れしすぎるような場所で(お見せする次第になって)、後々何と言われることやら」 光源氏がこのように自分の性格や考え方を、ながながとしゃべるというのは、全編を通じてもほとんどないので、自己分析といえば、私の知る範囲では、わずかに「夕顔」の帖で右近に「 … みづから、はかばかしく、すくよかならぬ心ならひに、 … (私自身、てきぱきと、しっかりした性格ではないので)」と語っている程度です。爾来、古今東西の英雄というのは自己を語らず(他人のこと、とくに女どもについては、口さがなく批評するのに)、行動だけで、その存在感を植えつけるものですが、そういう意味でもこの部分はめずらしいのです。 ずいぶん謙遜した言いかたをしているとはいえ、「須磨」の絵をここで持ち出した理由を、さりげなく語っているのです。「四方の海の深き心」とは、もちろん須磨流遇の際、嵐にあって意気粗相していたとき、夢見に海から現れた故桐壺院のことを示唆しているので、要は故院を褒め称える言葉になっていますね。 しかし私は、むしろこの前段に語られる故院の教育方針というか、考えかたの記述が面白くて、光源氏自身はそれをどう捉えていたのか。「人に劣るまじき程にて、あながちに、この道、な深く習ひそ」とは、ひょっとすると大陸の故事にもならったかとも思われますが、世間晴れて高い身分で生まれたなら、軽々に学問のような専門の道に深入りせずに、さまざまな道に精通して全体を見知っておくほうが良い、ということでしょうか。 故桐壺院は前にも触れましたが、けっこう世俗的な処世術にも長けたところがあって、まあそれゆえに源氏を(後継争いに巻き込まれやすい親王から)臣籍降下させたところもあったのですが、逆に親王の立場から離れた光源氏に取ってみれば、我が身の高貴を保つのに相当苦心を強いられる場面も、世俗の世ではけっこうあったはずです。そのあたり、故院にかぎりなく尊敬を払いつつ、彼自身は別の考えかたを次第に持つに到ったかとも思えるので、それはこの先、実の息子である夕霧の教育方針に現れてくるようですね。― つづく ―
2009.06.25
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実は、上のパラグラフの … の部分で、この「須磨」の絵がいかにすばらしく、あわれを誘うものであったか、言葉を費やして褒めちぎっているのですが、いかんせん、絵画の妙味を言葉で表現するのは、実在の絵でも至難の業であって、まして現実には存在しない光源氏の絵を、言葉によってそのすばらしさを想像せよと言われても、ちょっと無理なところがあるのです。フェアじゃないかもしれないので、原文だけ上げますと、 ― みこ(師の宮)よりはじめたてまつりて、涙とゞめ給はず。その世に、「心苦し。悲し」と、おもほしし程よりも、おはしけむ有様、御心に思しし事ども、たゞいまのやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々・磯の、かくれなく書きあらはしたまへり。草の手に、仮名の、所々に書きまぜて、まほの、くはしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれるたぐひ、ゆかし。誰も、異事おもほさず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) これとは関係ない話ですが、三島由紀夫でしたか、文学について「セックスとかスポーツの言語による描写は、結局想像力の模倣なので、本質的に意味がない」というようなことを、言っていたような記憶がありますが、確かなことは思い出せません。 ということで、言葉による表現とは何か、というようなことを考えてしまいます。ベートーヴェンのピアノ・ソナタとか、ピカソの抽象画とか、いくら言葉で表現したって、実物がことごとく再現されるわけではありません。絵画は視覚からのアプローチで、音楽は聴覚からのアプローチで、人の想像力を揺さぶるのであって、言葉による音楽の表現とか、絵画の表現というのは論理的に矛盾しているのです。あたりまえですが、言葉で音楽を聴き、絵を観ることはできないでしょう。 「チャングムの誓い」の宮廷料理の競い合いが、なぜ面白かったかといえば、料理番組の中継のような演出だったからでした。という意味で、このドラマはすぐれてテレビ・ビデオ向けの表現をしているので、同じ料理が映画のようなフィルム映像で表現された場合、その面白味は半減したでしょう。このあたり、テレビと映画の表現形式の違いが、同じ映像表現であっても、何となくほの見えるのですが、ここでは別の話ですね。 では言葉とは、何によって人の想像力を揺さぶるのか、ということになるのですが、ちょっと難しい話になりますが、文字通り「言の葉」⇒「コトの端」を表現する力だと思うのです。コトの端をかすめるように言葉が存在する、つまり出来事の移り行きの端っこを、わずかにかろうじて書き記すのが、言葉の本来の字義であって、対するにモノを表現しようとするとき、言葉は常に対象のモノそのものには負けるのではないか。百聞は一見にしかず、という言い方がありますが、その意味するところは結構深いのかもしれませんね。 であるとするなら、コトとは何かということになるのですが、それはモノと対置すればあるいはヒントが見えてくるかもしれません。結論から言うと、コトとは時間のことではないか、時の経過を表わす表現なのではないか、と何となく私は感じているのですが、皆さんはどう思われます? まあしかし、これは「源氏物語」を読んでいて、何となく全編を通して流れているテーマだ、という気もしているので、この話もまたいったん棚上げです。 さて、源氏と藤壺の女院にとって大成功だった絵合の催しですが、これはたんに前斎宮が冷泉帝の寵愛を勝ち取るというだけでなく、もっと大きな意味合いを持っていました。ひと言でいえば、光源氏が前斎宮の後見人であることを、「須磨」の絵を斎宮側(梅壺)から出すことによって、公けにもハッキリさせたということで、これは弘徽殿の女御擁する左大臣一族に対する勝負に出て、しかも勝った、ということを意味するのです。― つづく ―
2009.06.24
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にわかに決まった催しとはいえ、何しろ帝が列席されるということで、殿上人も女御も一同に介して、いかにも賑々しく絵合の競い合いが執り行われます。このあたり私などどうしても、例の韓国ドラマ「チャングムの誓い」の前半の山場、ハン・サングンとチェ・ソングムの宮廷料理の競い合いを思い出してしまいますね。― 召しありて、内のおとゞ・権中納言、まゐり給ふ。その日、そちの宮も、まゐり給へり。いと、よしありておはするうちに、絵を好み給へば、おとゞの、したにすゝめ給へるやうやあらむ、ことごとしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰言ありて、御前にまゐり給ふ。この判、つかうまつり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) お召しがあって、源氏の大臣と権中納言が、参上なさる。その日は、(源氏の弟である)師(そち)の宮も、お出でになった。たいへん、たしなみ深いなかでも、とくに絵をお好みなので、源氏の方から、内々にお勧めになったのであろうか。改まったお召しと言うわけでなく、殿上にいらっしゃったのだが、帝から仰せがあって、御前に上がられた。(この絵合の)判定を行なうよう、との指示をお受けなさったのである。 引きつづき、読み手(私)の下品さ丸出しで、邪推をたくましくすれば、この師の宮の参上も、あらかじめ仕組まれた作戦と取れなくもないですね。とはいえ先を急ぎます。― 朝餉(あさがれひ)の御障子をあけて、中宮もおはしませば、「ふかう、しろしめしたらむ」と思ふに、おとゞも、いと優におぼえ給ひて、所々の判ども、心もとなきをりをりに、時々、さし答へ給ひける程、あらまほし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 朝餉の間(あさがれいのま、帝の朝食の部屋)の障子を開けて、藤壺の女院もご覧になっていて、「(女院は絵のことは)深く、精通されているだろう」と思いながら、源氏の大臣も、たいへん雅にお思いになって、所々の(師の宮の)判定などで、心許ないような折りには、時々、言葉を添えられるたび、それらは的をついているのであった。― さだめかねて、夜に入りぬ。左、猶、数一つあるはてに、「須磨」の巻、出で来たるに、中納言の御心、騒ぎにけり。あなたにも、心して、はての巻は、心殊にすぐれたるを、選り置き給へるに、かゝる、いみじき、ものの上手の、心のかぎり、思ひすまして、しづかに書き給へるは、たとふべきかたなし。みこよりはじめたてまつりて、涙とゞめ給はず。 … さまざまの御絵の興、これに、みな移りはてて、あはれに、おもしろし。よろづ、みな、おしゆづりて、左、勝つになりぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 決着がつかないまま、夜になってしまった。左方(梅壷側)が、なお、もう一巻ある最後に、「須磨」の巻を、取り出したのを見て、権中納言の心中は、おおいに騒いだ。こちら(弘徽殿側)にしても、十分注意して、最後の巻は、ことのほか優れた品を、選りすぐって置いておかれたのに、このように(源氏のような)、卓越した、絵の上手が、心のかぎり、思いを傾けて、集中してお描きになったのには、比べることも出来ないのである。師の宮をはじめとして、涙を流さないものはいない。 … さまざまな絵の興味は、これに、ことごとく移ってしまい、哀れ深くも、興が尽きない。すべては、みな、(この「須磨」の巻に)圧倒されて、左方(梅壷側)の、勝ちとなった。 というわけですが、ああそうなのか、光源氏という人は、詩歌管弦は言うに及ばず、絵画も人に秀でて(ついでに言えば、お顔も麗しく処世にも長けている)いて、丸谷さんによれば「ダ・ヴィンチのような万能の天才」ということになってしまうのですが、それを納得せよと紫式部は言う。私はどんなふうに語られても、やっぱり納得できません!― つづく ―
2009.06.23
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― かの、たびの御日記の箱をも、とり出でさせ給ひて、このついでにぞ、女君にも、見せたてまつり給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) かの、須磨流寓の折りの絵日記の箱も、取り出させなさって、この機会に、紫の上にも、見せて差し上げなさる。 なぜ今まで、源氏が紫の上に須磨明石の絵日記を見せなかったかというとは、本文には書いてないのですが、まあごく常識的には二人にとって、つらかった生き別れの記憶は、できれば忘れておきたい事柄ではあったでしょう。それをわざわざ取り出したについては、次に挿入されたパラグラフで明らかにされます。― … 中宮ばかりには、みせたてまつるべきものなり。かたはなるまじき一帖づつ、さすがに、浦々の有様さやかに見えたるを、選り給ふ … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (この須磨・明石の絵は)藤壺の女院にだけは、ぜひお眼にかけるべきである。出来の悪くないのを一帖ずつ、さすがに、浦々の様子が鮮やかに画かれているのを、お選びになる … つまり、源氏が流寓の際画いていた須磨・明石の絵日記を、藤壺の女院と協力して、前斎宮の寵愛に活用しようということなので、はたして女院がしばらくして、なさったことというのは、― 中宮も、まゐらせ給へる頃にて、かたがた御覧じて、捨て難く思ほす事なれば、御行なひも怠りつゝ御覧ず。この人々、とりどりに論ずるを、きこしめして、左・右と、方わかたせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 藤壺の女院も、参内しておられる頃のことで、あれこれご覧になりながら、(もともとお好きだった絵の道を)捨てがたくお思いになったか、仏道の勤行も怠りがちになりつつ(宮廷の様子を)見ておられる。女房たちが、(双方の絵について)さまざま論じ合うのを、お聞きになって、左・右と、双方をお分けになる。 というわけで、弘徽殿側、梅壺(前斎宮)側の絵の競い合いが始まるのですが、女院はこのたびの論戦をごく内々に進めて、容易に公けにされない。このあたり、今どきのコマーシャルといっしょで、うわさを先行させれば、かえってこの競い合いの評判は、宮廷内で高まるのです。そこで今度は、― おとゞ、まゐり給ひて、かく、とりどりに、争ひ騒ぐ心ばへども、をかしく思して、「同じくは、御前にて、この勝負さだめむ」と、のたまひなりぬ。「かかる事もや」と、かねて思しければ、中にも殊なるは、えりとゞめ給へるに、かの、須磨・明石の二巻は、おぼす所ありて、とりまぜさせ給へりけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大臣が、参内されて、このように、さまざま、(絵について)争い騒ぐ様子などを、おもしろく思われて、「どうせなら、帝の前で、この勝負をつけることにしよう」と、仰せられる。「こんな事もあろうか」と、以前から思っておられたので、中でもことのほか優れた絵は、(前の女院の絵合では)選り残して置かれたが、(今回の競い合いでは)例の、須磨・明石の二巻を、思うところがあって、お加えになった。 紫式部は、例によって説明抜きで、事柄だけを記述して行くので、ついついスラスラと読めてしまうのですが、事実だけをつなげて行くと、どうしてもこの宮中の絵合大会のくだりは、源氏と藤壺の女院の絶妙のTag Matchで仕組まれたとしか思えません。 しかしこういう読み方は、読み手側(私のことですが)の、イヤラシい人間性も露わにしまうようですね! ― つづく ―
2009.06.22
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こうした中にあって、同じように娘の入内をもくろんでいた兵部卿の宮は、二人の女御が隙間なく帝の寵愛を競い合っているのを見て、当面入内させるのをあきらめる。中宮(皇后)の座の候補は、おのずと弘徽殿の女御と前斎宮に絞られてくるのです。 さて、ここからこの帖の本題である「絵合」の競い合いが始まるわけですが、冷泉帝が絵にかんして、ことのほかご関心がおありで、なおかつ前斎宮がなかなか興深く絵を描かれるということで、自然、帝の足が前斎宮(梅壺)のほうに繁くなるという仕儀になるのです。― … 権中納言、聞き給ひて、あくまで才々(かどかど)しく今めき給へる御心にて、「我、人に劣りなむや」と、おぼし励(はげ)みて、勝れたる上手どもを召し取りて、いみじくいましめて、又なきさまなる絵どもを、二なき紙どもに書き集めさせ給ふ。 ― (山岸徳平校注()筆者、岩波文庫) (弘徽殿の女御の父である)権中納言が、それをお聞きなさって、どこまでも才走って目先を利かせる今ふうのお気質なので、「こちらも、他人に負けてなるものか」とばかり、おおいに気合を入れなさって、優れた絵の名人たちをお召しになり、厳しく要求して、またとはないような絵の数々を、二つとてない貴重な紙などに描かせて集めていらっしゃる。 昔なら頭の中将の、いつもの負けず嫌い、ということになるのですが、ここは弘徽殿の女御が帝の寵愛を得るという、重大な政策的見地が入っているのです。しかし、であるために、― わざとをかしうしたれば、又、こなたにても、これを御覧ずるに、心やすくも取り出で給はず、いといたく秘めて、この御かたに、もてわたらせ給ふを、をしみ領じ給へば、おとゞ、聞き給ひて、 「猶、権中納言の御心の若々しさこそ、改まりがたかめれ」など、笑ひ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) ことのほか念を入れた絵とて、今度は、(帝は)弘徽殿の方にいらっしゃって、それをご覧なされるが、(権中納言は)気安くは取り出されず、たいへん大事に秘して、梅壺(前斎宮)の方へ、(この優れた絵を、帝が)持って行かれるのを、惜しんでお渡しにならないのを、源氏の大臣は、お聞きになって、「なおなお、権中納言のお心の若いのは、相変わらずだな」などと、笑っていらっしゃる。 この場合、権中納言が気合を入れた絵の目的は、弘徽殿に帝に入ってもらうためで、娘の女御が寵愛を得るための手段なのです。したがって気安く帝に絵を、競争相手の梅壺(前斎宮)に持って行ってしまわれたのでは意味がない。 そこで、さてこそと源氏は自邸に保管してあるさまざまな絵の箱を、紫の上といっしょに開けて、優れた絵を帝に送ることにします。― 「あながちに隠して、心やすくも御覧ぜさせず、なやまし聞ゆる、いと、めざましや。古体の御絵どもの侍る、まゐらせむ」と、奏し給ひて、とのに、古きも新しきも、絵ども入りたる御厨子ども、開かせ給ひて、女君ともろともに、今めかしき、それぞれと、えり整へさせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「わざとらしく隠して、心安くもご覧に入れずに、(帝のお心を)お悩ませ申すとは、たいへん、失礼なこと。手元に古い絵がいろいろございますので、お持ちいたしましょう」と、奏上なさって、二条院(自邸)にある、古いのや新しいのや、さまざまな絵の入っている厨子などを、開かせなさって、女君といっしょに、今どき喜ばれそうな、あれこれを、選んではご準備おさせになる。 源氏と権中納言(頭の中将)というのは、つねに権中納言(頭の中将)が先手で、彼のほうから見るかぎり、後から来た源氏が結局すべて好いとこ取り(実は源氏自身は同じ土俵で、勝負しているつもりは無い)、というパターンがほとんどなのですが、今回は源氏のほうから、あえて勝負をしかけたようなフシがあり、彼はこのあと一計を案じます。― つづく ―
2009.06.21
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ところで、こうした宮廷内の動きに、心穏やかでないのが、先にすでに娘の弘徽殿の女御を入内させて、中宮の座をもくろんでいた左大臣派の棟梁、権中納言(かつての頭の中将)でした。光源氏とは無軌道な青春時代のワル仲間で、気の置けない親友でもあった間柄ですが、ここへ来て一族の繁栄を図るべき立場となって、お互いに微妙な空気が生まれてくるのです。 前斎宮(入内後「梅壺」とも呼ばれたようですが、しばらくこのままで呼びます)入内後の、宮廷の雰囲気というのは、― 弘徽殿には、御覧じつきたれば、むつましうあはれに、心安く思ほし、これは、人ざまも、いたうしめり、恥づかしげに、おとゞの御もてなしも、やむごとなくよそほしければ、あなづりにくくおぼされて、御宿直などは、ひとしくしたまへど、うちとけたる御童遊びに、昼など渡らせ給ふ事は、あなたがちにおはします。権中納言は、思ふ心ありて、きこえ給ひけるに、かくまゐり給ひて、御むすめにきしろふさまにて、さぶらひ給ふを、かたがたに安からず思すべし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 弘徽殿の女御には、(帝は)馴染んでいらっしゃって、たいへん睦まじくも、心安く思っていらっしゃったが、こちら(前斎宮)は、人柄も、大変奥ゆかしく、気の置ける感じがして、源氏の大臣の(前斎宮への)お扱いも、世にないほどあらたまっていらっしゃるので、気安くは接し難く思われて、御宿直(夜の御殿への伺候)などは、同じようになさるけれども、うちとけた童遊びなどで、昼などにおいでになるのは、もっぱら(弘徽殿の方)でいらっしゃる。権中納言(頭の中将)は、思うところあって、(娘君を)入内おさせになったのに、このように(前斎宮が)参られて、我が娘と競い合うようなかたちで、宮仕えなさるのを見て、何かにつけて心安からず思われる様子である。 冷泉帝も弘徽殿の女御もまだ、十歳を少し超えた程度の子供同士ということで、気安い関係であったわけですが、前斎宮はこのとき二十歳前後で、いくら母宮の女院が「おとなしき御後見は、いと嬉しかべいこと」とおっしゃっても、帝としてはおおいに気後れするところがあったでしょう。 こうしたさまざまな思惑を秘めた事態が宮廷で進行する中で、光源氏はなぜか兄の朱雀院を訪ねます。― 院には、かの、櫛の箱の御返り、御覧ぜしにつけても、御心離れ難かりけり。その頃、おとゞの参り給へるに、御物語こまやかなり。ことのついでに、斎宮の下り給ひし事、さきざきも、のたまひ出づれば、聞こえ出で給ひて、「さ思ふ心なむありし」などは、えあらはし給はず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 朱雀院は、あの、御櫛箱のお祝いに対する(前斎宮の)ご返事を、ご覧になるにつけても、恋心が去ることはないのであった。その頃、源氏の大臣が参上なさったので、さまざまにお話しなさる。ことのついでに、斎宮が伊勢に下向なさった折りのこと、以前にも、(源氏に)おっしゃったことを、例によってお仰せになるが、「(斎宮を)恋しく思っている」というような気配は、もちろん言葉には出されない。 この兄弟、何度も言いますが、微妙な縁で心理的に結ばれていて、兄は兄で斎宮への恋心を、あるいは源氏が取り持ってくれるのではないか、とかつては期待するところがあったのかもしれません。朧月夜の件では、本来この兄は弟に貸しがあるので、多少それを根に持つところもあったのかもしれませんが、それにしても自ら決断しない人ですね。対する源氏は、― おとゞも、かかる御気色、聞き顔にはあらで、たゞ「いかゞ思したる」と、ゆかしさに、とかう、かの御事をのたまひ出づるに、あはれなる御気色、あさはかならず見ゆれば、いと、いとほしく思す。「『めでたし』と、おもほししみにける、御かたち、いかやうなるをかしさにか」と、ゆかしう思ひ聞こえ給へど、さらにえ見たてまつり給はぬを、ねたう思ほす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大臣も、そのような気配を、知っているかのような顔は見せず、ただ「(朱雀院が斎宮を)どのように思っていらっしゃるのか」ということを、興味深く思って、何やかやと、かの(斎宮の)ことを口にのぼされると、(朱雀院が)こよなく切なく思っているご様子が、隠しおおせもなく見えてくるので、はなはだ、おいたわしく思われる。「(院がそれほどまでに)『愛でたい』と、思い染んでいらっしゃる、(前斎宮の)お姿とは、どのような美しさなのだろう」と、ゆかしく思し召されるが、夢にもお見上げすることなど出来ないことなので、残念に思われた。 「知らず顔」で通してきた入内の件を、兄の朱雀院が今どう思っているのか、さらに仔細に知りたくて訪ねたであろう光源氏ですが、切なさそうな兄の様子を見ているうちに、それほどまでに美しい前斎宮なら、なおのこと直接お顔を拝見したいという欲求が、ますます深まってくるのです。 このあたり、光源氏の「またしても、あのビョー気」の始まりかとも思えますが、これまでごく英雄的に説明抜きの行動で、あるいは「憂し」「つらし」といったごく簡潔な間投詞で、語られてきた源氏の微妙な心の動きが、ずいぶん細々と描かれていますね。― つづく ―
2009.06.20
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朱雀院からの贈り物の取り扱いについて、― 「この御返りは、いかやうにか聞こえさせ給ふらむ。又、御消息も。いかゞ」など、きこえ給へど、(側付きの別当は)いと、かたはらいたければ、御文は、えひき出でず。宮は、なやましげに思して、御返り、いと物憂くし給へど、「きこえ給はざらむも、いと、情けなく」「かたじけなかるべし」と、人々、そゝのかし煩ひ聞ゆるけはひを、きゝ給ひて、 「いと、あるまじき御事なり。しるしばかり聞こえさせ給へ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「このご返事は、どうなさるおつもりです。それと、お手紙もあるでしょう。いかがです」などと、お尋ねになるが、(側付きの女官長は)はなはだ、判断がつきかねて、添えられたお手紙は、お目にかけない。前斎宮は、悩ましくお思いになって、ご返事を書くのが、大変物憂くなっていらっしゃるが、「ご返事なさらないのは、これまた、失礼なことです」「畏れ多いことですわ」など、側の女房たちが、催促し困っている気配を、お聞きになって、(源氏は)「よもや、あってはならぬことです。形だけでもご返事はなさいますように」 考えてみれば、この冷泉帝への入内の件は、藤壺の女院と光源氏の話し合いで決まったもので、前斎宮本人の意思はどこにも入っていないのです。彼女本人としてみれば、伊勢下向の折り、太極殿で直接顔を合わせて、ゆかしさで涙も流した朱雀前帝のほうが、十歳も年下で顔も知らず、まだ元服したばかりの冷泉現帝より、親しい気分があったかもしれない。源氏はそんなことにも気を回しつつ、それでも事態を進行させます。― … 胸つぶれ給へど、今日になりて、おぼしとゞむべき事にしあらねば、ことども、あるべきさまにのたまひおきて、… 内裏にまゐり給ひぬ。「うけばりたる親ざまには、聞こし召されじ」と、院を、つゝみきこえ給ひて、「御訪ひばかり」と、見せ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (朱雀院や前斎宮のお気持を、あれこれ考えると)胸もつぶれる思いもなさるが、(入内の)当日となっては、お取り止めすべき事柄でもないので、(源氏の大臣は)さまざまな事を、しかるべく指図なさって、… 内裏に参上なさる。「晴れて認められた親のようには、お思いいただくまい」と、朱雀院に、気兼ねなさって、「ご挨拶だけに(上がりました)」というふうに、装っていらっしゃる。 御息所の残した重い遺言が、隠れた後見人としての大義名分として源氏にあるので、特にこのように政略的な入内の場合は、朱雀院も前斎宮も冷泉帝に関しても、本人の意思というのはあえて無視して、さらには源氏本人の私的感情も抑えて、事柄を「知らず顔で」進行させていくというのが、「大人の振るまい」というものなのかもしれません。 藤壺の女院のほうも、冷泉帝がつつがなく前斎宮を受け入れられるように、御所に参内します。― 中宮も、内裏にぞおはしましける。うへは、「めづらしき人、参り給ふ」と、聞し召しければ、いと美しう、御心づかひしておはします。ほどよりは、いみじうされ、おとなび給へり。宮も、 「かく、恥づかしき人、まゐり給ふを。御心づかひして、見えたてまつらせ給へ」 と、きこえ給ひけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 藤壺の女院も、内裏に参内なさる。冷泉帝は、「めずらしい方が、入内なさる」と、お聞きになって、大変美しく装って、お心使いをなさっていらっしゃる。お歳にしては、気転が利いて、大人びておいでになる。女院も、「このように、ひじょうに格式高い人が、お見えになるのです。いろいろ気を配って、お会いになるのですよ」と、ご助言なさるのであった。 女院としては、源氏を後ろ楯にした前斎宮が、いずれ中宮(皇后)になってくれれば、世俗勢力の均衡が図れて、我が子冷泉帝の安泰となるわけです。幸いに入内のときの印象は帝も、憎からずお思いになったので、さしあたっての源氏と女院の目的は達成されたのでした。― つづく ―
2009.06.19
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「絵合」の帖のあらすじは、前斎宮(故六条御息所の娘)の現帝(冷泉帝)への入内をめぐって、光源氏が前斎宮の後見であることを次第に明らかにし、藤壺の女院と協力して、帝の寵愛を得させようと図る話なのですが、その間に朱雀院の横恋慕、左大臣派や兵部卿の宮の思惑なども絡んで、構図としてはそうした宮中の駆け引きの中で、次第に光源氏が権勢の中心に治まっていくさまが描かれます。 前斎宮の冷泉帝への入内を知った朱雀院が、入内の当日になって、何となくわざとらしく、数々の御衣裳、御櫛箱、御薫物などに、何やら懸想文めいた手紙を添えて、宮にお送りになる。― おとゞ、これを御覧じつけて、思しめぐらすに、いと、かたじけなく、いとほしくて、わが、御心のならひの、あやにくなる身をつみて、「かの、くだり給ひしほど、御心に、おぼしけむこと、かう、年経て、かへり給ひて、その御心ざしをも遂げ給ふべきほどに、かゝる違ひ目のあるを、いかにおぼすらむ。御位を去り、物静かにて、世を『恨めし』とや、おぼすらん」など、我になりて、「心動くべきふしかな」と、おぼし続け給ふに、いとほしく、「何に、かく、あながちなる事を思ひ始めて、心苦しく、おぼし悩ますらむ。『つらし』とも、おもひ聞こえしかど、又、なつかしく、あはれなる御心ばへを」など、おもひ乱れ給ひて、とばかりうち眺め給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大臣は、これをご覧になって、思いめぐらすに、まことに、畏れ多く、またおいたわしくて、自分の、(何かにつけて懸想する)お心映えの、度し難い身のほども省みて、「あの、(斎宮が伊勢に)下向なされる時に、お心に、たいへん恋しく思いなさったところが、このように、年月経て、お帰りになって、その熱い恋心をまさに遂げようというときになって、このような行き違いになることを、どのように思っておられるだろうか。帝位を譲られて、身辺が閑散とした今、(何事も叶わぬ)この世を『恨めしい』とも、思っておられるのではないか」など思い当たり、我が身なら、「心騒ぐことがらであったろう」とも、お思い続けていらっしゃると、(次第に先帝が)お気の毒に思えてきて、「どうして、(私は)このような、無理無体なことを考えついて、申し訳なく思いつつも、結局院のお心を悩ませるのだろう。『(須磨流遇の折の先帝の対応には)恨めしい』とも、お思い申したこともあったが、それでもまた、(あの方の)なつかしく、情け深いお心映えも(私はよく分かっているのだが)」などと、心乱れなさって、しばらくの間物思いに耽っていらっしゃる。 ちょっと、引用が長くなってしまいましたが、もともと異腹とはいえ、故桐壺帝の兄弟の間柄で、期せずして右大臣派の策謀で須磨下りを余儀なくされたときは、優柔不断な兄を恨めしくも思ったりしたことがあったとはいえ、朱雀院の「いと、なよびか」なる気質が、逆に光源氏と気が合うところがあったのは前にも触れました。 このあたり、紫式部は光源氏の揺れ動く心の動きを、けっこう仔細に分け入って描こうとしているので、じつはこれまでこの主人公について、これほど細かな心映えを記述したことはなかったのです。女の気息については、ずいぶん筆を割いてきた彼女ですが、ここへ来てどうやら主人公の心理も、こと細かく描く自信が出てきたのかとも思えますね。 とはいえ、私情と公事を混同しない冷静さを、光源氏は失わないので、その後の前斎宮や側付きの女房に対する指示は冷徹なものでありました。― つづく ―
2009.06.18
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ある程度名声が確立した後、側仕えの書写その他の女房たちが、さまざまに感想を述べ合い、中味にかんする質問もあり、さらには口さがない道長(彼女は結構、道長の手腕を認めていた節がありますね)が、いろいろ意見を言ったであろうことは容易に想像がつくので、それに対して彼女はどう対処したのだろうか、ということを考えた場合、校正とか書き直しが出来なかったとすれば、取り得る方法としては、もとのすでに公けにした話のあいだに挿み込むしかなかったのではないか。 当初の構想はともかくとして、途中から出てきたそうしたさまざまな感想や意見を物語に反映させていくのは、彼女の処世として当然あったであろうし、むしろそちらで評判をとるケースもあったのではないか、と思うのです。 b系と言われる並びの巻とは、そういう意味で周囲の読者の声から出てきた物語とも見えなくはないので、例えば「帚木」の冒頭長々と語られる有名な「雨夜の品定め」の中味や、「空蝉」「夕顔」に描かれる男の失敗談など、おしゃべり道長の夜床の自慢話などを、おおいに参考にしたであろうと、やはり想像してしまいますね。 どうしても男の生理の感覚でないと、分からないだろうという記述があるのです(これは前にも触れました)。ちょっと堅い語り出しの「桐壺」のあと、いきなり具体的記述に富んで、文章が跳ねている「帚木」「空蝉」「夕顔」を読むと、そのあとの「若紫」以下が少し堅い感じがするのは、この三つの巻には恰好の取材源があったからだろうと思えるのです(この中には、道長の話だけでなく、紫式部自身の体験も投影されているでしょう。空蝉で描かれた女の心理もまた、きわめて具体的なのです)。 しかしそれら周囲の声が、すべてうまく紫式部の想像力にフィットするということは、もちろんなくて一生懸命書いても、どうしてもうまく収まらないケースも出てくる。前回あげた「蓬生」や「関屋」の帖など、まさしくあらでもの物語で、繰り返しになりますが、たぶん周囲の女御たちから「空蝉はどうなった」とか「末摘花でもう一回笑わせて」という声があって、止む負えず挿入した、そういう感じがするのです。 しかしそういう流れで出来上がった今あるこの物語が、では源氏物語は宮廷女房や道長たちとの合作か、というと、そうではないということも、これまでの話で明らかでしょう。 要するに個人の意識も権利意識もまったく異なった千年前の宮廷社会に、今どきと同じきわめて独立性の高い芸術性を持ち込んだら、本当の源氏物語は見えてこないと思うのです。 ということで、本文に戻りますと、― 前斎宮の、御まゐりの事、中宮の、御心に入れて、もよほし聞こえ給ふ。「こまかなる御とぶらひまで、とりたてたる御後見もなし」と、おぼしやれど、大殿は、院にもきこしめさむ事を、憚り給ひて、二条院に渡したてまつらん事をも、このたびは思しとまりて、たゞ、知らず顔にもてなし給へれど、大方の事どもはとりもちて、親めき聞こえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 前斎宮の、御入内のことは、藤壺の女院も、ことさらにお心なさって、ご催促なさる。「細やかな心づかいまで、して差し上げる御後見役もいないな」と、お思いになるが、源氏の大臣は、朱雀院の耳に入るのを、憚りなさって、(前斎宮を)二条の自邸にお移し申上げることは、このたびは思い止まられて、ひたすら、知らん顔をなさっているが、たいていのご用意は取り持って、親代わりのようになさっていらっしゃる。― つづく ―
2009.06.17
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前回、「蓬生」「関屋」の帖は、後から挿入されたものだろうという話をしましたが、それは「絵合(えあわせ)」冒頭のくだりが、「澪標」のおわりの部分とそのまま繋がっているから、という話をしました。引きますと、― 前斎宮の、御まゐりの事、中宮の、御心に入れて、もよほし聞え給ふ。 … ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 前斎宮の、御入内のことは、藤壺の女院も、ことさらにお心なさって、ご催促なさる。 … ということで、時系列的にも内容的にも、そのまま繋がっているのです。 ところが、だからといって所謂b系物語が、すべて後からの挿入である、とするのも少し無理があるように思えるので、これまででも、「桐壺」と「若紫」のa系物語の間に、あとから「帚木」「空蝉」「夕顔」の帖がワンセットで挟み込まれたであろうことは、内容からも文体的にも相当説得性があるようにも思えるのですが、逆にa系の筋立てからいうと「桐壺」からいきなり「若紫」に跳ぶと、話が容易に繋がらなくなるということがあるのです。というより「桐壺」で光り輝く皇子として生まれ、十二歳で元服した源氏が、「若紫」で五年後に跳んで、いきなり瘧病(わらわやみ、マラリア?)に悩まされているところから始まるというのは、ヘンでしょう。 ということで、またぞろa系の物語には本来「桐壺」と「若紫」を繋ぐ帖があって、それは「かかやく日の宮」という巻であったろうという話が出てくるのです。で、ついでにその中味は光源氏が、少年から青年になる時期に関係した女たち、つまり藤壺の宮と六条御息所、朝顔の三人とのやりとりが中心だったろう、というので時系列的にも内容的にもかなり説得性があるのですが、これは前にも話したので、結論からいうと、すでに無いもの(あるいは、もともと無いもの)を、いろいろ議論詮索しても仕方がありません。 で、それでも詮議せざるをえないというのは、それが結局この物語の構想とか成立とかの話に関わってくるからで、これは源氏物語全体を理解するうえで、やはり必要になってくるのです。 私がこの「澪標」と「絵合」の繋がり具合をみていて、どうしても想像してしまうのは、以下のようなストーリーです。 今から千年前に一人の傑出した才能が現れた。彼女はある日、それまでの王朝物語の類をはるかに凌駕する、繊細でなおかつダイナミックな物語を書き始めた。で、宮廷でも評判となって道長系の中宮彰子に伺候した。物語の名声が高まるにつれて、読者からのさまざまな反応が返ってきた。なおかつ一番めの読者は紫式部の側で、書写製本をする女房たちであったろうことは、前にも触れました。 で、ここからが問題なのですが、いったいに彼女から渡された原稿が書写されたときに、あとから書き改めるなどということが、当時出来たのかどうか。今どきならずとも、活版印刷が普及した近代社会では常識である、文章の校正とか書き換えなどということが、それでなくても紙も墨も高価であっただろう当時はたして可能であったろうか、ということなのです。もう一つは著作物に対する所有権のようなことで、もちろん今どきのように著作権に守られた権利意識などというのは、どこにも存在しなかったでしょう。 彼女が物語を書くことによって得られる対価とは、もちろん印税などではなくて、道長というはなはだ現世的なパトロンの庇護を受けることでした。当然のことですが、彼を取り巻くさまざまの上達部、女御さらには同格の女房に至るまで、彼女は常に味方にしておく必要があったので、彼女が極めて韜晦癖(とうかい、自分の本心や才能・地位などをつつみ隠す性向)の強い、用心深い女性であったことは間違いないでしょう。― つづく ―
2009.06.16
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光源氏と藤壺の女院が、(我が子)冷泉帝安泰のため前斎宮を入内させて、中宮(皇后)の座を左大臣系の弘徽殿の女御などと争っている話の間に、「蓬生」「関屋」という帖が入り込んでいます。初めて読んだ時に、この二つの帖がある結果、次の「絵合(えあわせ)」の話に入ったときに、これが前々回の「澪標」の話のつづきであることを、思い出すのに時間がかかって、しばらく字面が霞んでいたのを思い出します。 この二つの帖は、例のa系、b系の話のうち、俗に並びの巻とも呼ばれるb系にぞくする中味で、それぞれ以前に登場した末摘花の姫君と、空蝉の後日談ということになっています。それにしてもなぜ、ここでわざわざこの二人の話を出してきたのか。話の筋としては「絵合」の冒頭すぐ前斎宮の入内の話が始まっていることから見ても、「澪標」から「絵合」以下「松風」「薄雲」までが、一連の話をなしていることは明らかです。 で、普通こうした挿話が途中に入ってくるときは、たいていその後の展開の伏線となるべき要素があるのですが、この二つについては中味がほぼ完結していて、その後の話に絡んでくるということもない。もう一ついえば、話の中味自体たいして面白くもないのです。 a系、b系の論争にはいろいろ説があって、深入りするつもりはありませんが、この二つの帖にかんしては、相当強力に後からの挿入という説に肩入れしたくなります。ではこの挿入には何か意味があるのか。少なくともその後の話に絡んでいないことはハッキリしているので、それなら今までの話の始末をつけにかかったということが出来るのではないか。ここまで、数多く登場してきた人物のうち、この後の展開に関係しない人たちを整理して、読者の頭を(作者も?)スッキリさせようとしたのではないか、という気がするのです。 これまた想像ですが、これは紫式部自身の本意ではなくて、例の周辺にはべる女房たちからの要望だったのではないか、と私は疑っています。 というのも、「蓬生」の話の主人公、末摘花の姫君といえば、ヲコ系の醜女の代表として前に取り上げられ、こうした落剥の姫君を積極的にイジメて哂うという文化が、当時の女房社会にはあっただろう、紫式部といえどもそれに加担することに、そう違和感を抱かなかったであろうことは、以前に指摘したことがあります。これは平安時代の女房社会の風俗を表わしているので、紫式部が何が何でも時代を超越した聖女であったとは考えられないのです(これは何も彼女の人間性をくさしているのではありません。イジメの危険を察知している人間が、逆にイジメに積極的に拘わるというのは、今の社会でもイヤほど見られる現象ですよね)。 というわけで、ここの話の中味はパス!ということにしたいのですが、それにしてもこの二つの後日談を、この部分に挿入したというのは苦肉の策という感がしないでもありません。簡単にいうと、源氏物語の始めのほうに出てきた人物のうち、前の帖で御息所が亡くなっており、このあと「薄雲」で藤壺の女院が死亡するのです。云ってみれば、その他のどうでもいい登場人物の始末をつけるとしたら、このあたりに入れておかないと、はなはだ緊張したa系物語の進行が、おおいに弛緩するということになるでしょう(藤壺の死のあとに、この話を入れたと想像してごらんなさい)。 さまざま異論・反論はあるかと思いますが、周囲の熱心な読者から「あの人はどうなった」とか「この人はどうするんですか」とか、口の端に出てきたときに、独立意識の強い今どきの作家ならむしろヘソを曲げて、わざと放っておくというようなことも平気でするのでしょうが、もちろん作家などという立派な認知された職業などなかった時代、読者のうわさというのは我々が想像する以上に大きかったので、彼女はそうした口さがない読者たちに対して、面白い話を提供することに何ら違和感を持たなかったでしょう。 ただそれにしても、とくに「蓬生」はいささかサービス過剰で、新たな挿話を入れたので思いのほか長くなってしまいました。太宰の大弐の奥さんの話で、かつて姉である末摘花のお母さんにイジメられたのを根に持って、体よく末摘花に仕返ししようとする。結局、この姫君は源氏に助けられてメデタシとなるのですが、前にも触れたように、基本的に紫式部はこの姫君に何らのSympathy(共感)も感じていないので、この帖はさながらイジメの過剰の感を呈してしまいました。 「関屋」は、源氏物語冒頭あざやかな引き際を見せた空蝉の話で、むしろこちらこそ面白い後日譚を期待したいところですが、これといった内容もなくて、何だか手紙の追伸のような、つけ足しの感じがしないでもありません。 と言うわけで、次回からはさっそく「絵合」に入ることにします。乞う、ご期待!
2009.06.15
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藤壺の女院の内諾を得た源氏は、ことのついでに前斎宮を、六条から二条の自邸に移り住ませることを考えます。後見としての立場を公にもハッキリさせる、ということもあったのでしょうが、さしあたって、紫の上に前もって話する。― 女君にも、 「しかなむ思ふ。かたらひ聞えて、過ぐい給はむに、いとよき程なるあはひならん」 と、きこえ知らせ給へば、うれしきことに思して、御わたりのことを急ぎ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 紫の上には、「このように考えているのです。お話し相手になさって、この先お過ごしになるのに、ちょうど良いお相手の間柄でしょう」と、おっしゃると、(紫の上は)うれしくお思いになって、お移りになる準備のことをお急ぎになる。 明石の方のことで、おおいに機嫌を損ねていた紫の上が、ここへ来て斎宮の転居については、別段のこともなく納得して迎える準備をするというのは、明石の方が源氏の想い人(しかも娘子までいる)であったのに対し、斎宮は冷泉帝の女御として入内するという前提があったからでしょう。この三人、同じ二十歳前後の女ざかりということで、まともにぶつかればエライことになるはずでしたが、源氏はうまく凌いだのでした。 「澪標」の帖は思っていたより、筋が入り組んでいて、またまた例によって話が長くなってしまいました。大人になった光源氏が、娑婆の世界に戻ってどういう差配をするか、ということをつぶさに眺めてきたのですが、こうした振るまいについて、あるいはこの主人公について否定的な見かたをする人もあるかもしれません。そう言えば、先日の新聞に、生涯に三回「源氏物語」の現代語訳を試みた谷崎潤一郎が、実は光源氏を嫌っていたのではないか、という関係者の話を載せていました(朝日新聞)が、ひょっとするとこのあたりをさすのかもしれません。 とはいえ、人が無邪気な子供から、少々無軌道な青年になり、さらに世を知り尽くした大人になるということは、それまで情や友誼を交わした相手に対しても、ことと場合によっては敵対もし、契りを解くということもする世代になるということなので、この男のどうしょうもなくハナモチならない貴種の意識を別とすれば、壮年期とは一般にこういうものなのかもしれません。あえて言えば、その非情さを知り尽くしたうえで、なおかつ「もののあはれ」を解する心の柔軟さを持てるかどうかというのが、世に長けた大人としての評価というものでしょう。 今どき年甲斐もなく柔軟さだけを売り物にして、ひたすらブレまくる若やいだ大人が多いようで、多少他人に嫌われても、なすべきことはやる、というような非情な大人というのは、あまりいないんじゃないですか? それにしても、今回再読していて、初読のときは筋を追うのに忙しくて、気付かなかったというのが、藤壺の女院の成熟した大人の振るまいで、彼女が若くして源氏と意に染まぬ密通を遂げ、あまつさえ不義の子までやつして、ふつうなら我が身の不運をかこつところ、この人は不条理は不条理として受け入れて、その後の行動は常に一貫していてブレていないように見える。もうお分かりのように、さまざま不本意な経緯があったにせよ、生まれた子については、きちんと始末をつけるということで、この後も彼女の行動の基点は、すべてそこから発しているように思えます(このあたり異論も、おおいに出てきそうですが)。 ものものしく宮中に入ってきた左大臣系の弘徽殿の女御も、例の入内を狙っている兵部卿の宮の姫も、十歳前後と冷泉帝と同じような歳なので、― 「宮の中の君も、おなじ程におはすれば、うたて、雛(ひひな)遊びの心地すべきを、おとなしき御後見は、いと嬉しかべいこと」と、おぼしのたまひて、さる御気色、きこえ給ひつゝ、おとゞの、よろづに思し至らぬことなく、おほやけがたの御後見は更にもいはず、明け暮れにつけて、こまかなる御心ばへの、いとあはれに、見え給ふを、たのもしきものに、思ひ聞え給ひて。 … 少し大人びて、そひさぶらはん御後見は、かならずあるべきことなりけり。 「兵部卿の宮の姫君も、同じ年頃なのは、困ったことで、雛(ひいな)遊びのような感じがするところ、大人のお相手があるのは、たいへんすばらしいことです」と、女院はお考えをおっしゃって、その思いを、(帝にも)お伝えなさり、源氏の大臣もまた、万事思い至らないことはないまでに、(帝の)政務の御後見はもちろんのこと、片時もなく、細やかな心づかいをなさるのが、たいへん行き届いていて、それをご覧になって、頼もしいことと、思っていらっしゃっる。 … (斎宮のような)少し大人びた、お側付きの後見が(幼い帝の)近くにいることは、けだし必要なことなのであった。というところで、「澪標」の帖はおしまいです。― 源氏1000年 澪標 おわり ―
2009.06.14
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この時の源氏の話、自身が死に際の御息所から、斎宮の後見を頼まれたこと、御息所には生前の負い目があることなどなど、煩雑なので少し端折りますが、女院へのお伺いの件とは以下のようなものでした。― 「母御息所、いといと、おもおもしく、心深きさまに物し侍りしを、あぢきなきすき心にまかせて、さるまじき名をもながし、うきものに、おもひおかれ侍りにしをなむ、世にいとほしく、思ひ給ふる。この世にて、その恨みの心とけず、過ぎ侍りにしを、「今は」となりての際に、この斎宮の御事をなん、物せられしかば、… いかで、なきかげにても、「かの恨み忘るばかり」と、おもひ給ふるを。うちにも、さこそ大人びさせ給へど、いときなき御齢におはしますを、「すこし物の心知る人は、さぶらはれてもよくや」と、おもひ給ふるを。御定めに」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「母上の御息所は、まことに、格調高く、思慮深げになさっていらっしゃったのを、私のつまらない好き心に任せて、ありえないような浮名を流してしまい、私をつれない者として、思われたまま亡くなられたのが、まことに残念に、思われてなりません。この世では、とうとうその恨み心は解けないままに、過ぎてしまいましたが、『もうこれまで』と逝かれる間際になって、この娘の斎宮のことだけは(くれぐれも頼みます)、と私にご遺言なさったので、 … (私としては)どうしても、(御息所が)草葉の陰からでも、「あの恨みも忘れてしまいそう」と思っていただけけたら、と考えているのです。帝も、さすがに大人びてこられたとは言え、まだまだ幼いお歳でおられますので、『多少は物事をわきまえた女御が、お側に仕えるのが好いのではないか』と、思いまして。お心のままに(従いますので)」 まわりくどくても、藤壺の女院にとって、この源氏の意見は充分肯える中味でした。それというのも世間的には、冷泉帝は故桐壺帝と藤壺の宮の子、桐壺亡きあと現帝の後見は、藤壺系の家格では不安があるのです。御息所の遺言によって前斎宮の後見人となった源氏は、斎宮が入内することによって、公にも冷泉帝を援護することが出来る(今までは世間的には認知されない支援でした)のです。 そして何よりも、女院にとっては、実際は源氏との不義の子である冷泉帝の安泰こそが、終生変わらぬ目標であったので、その目的達成に向けての女院の考えもまた、多少政治的な色合いが出てこざるをえません。― (藤壺)「いとよう、おぼしよりけるを。院にも、思さん事は、げに、かたじけなう、いとほしかるべけれど、かの御遺言をかこちて、しらずがほに、まゐらせたてまつり給へかし。「今はた、さやうの事、わざとも思しとゞめず、御行なひがちになり給ひて、かうきこえ給ふを、ふかうしも思しとがめじ」と、おもひ給ふる」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「それはたいへん、好いところに思い致されました。朱雀院の仰せに、背くことは、まことに、畏れ多く、おいたわしいことではありますが、その御息所のご遺言にかこつけて、こちらは知らず顔で、帝に入内おさせ申すのがよろしいでしょう。『院は今となっては、そのようなことには、それほどご執着なされず、御勤行に励まれていらっしゃるのだから、(知らず顔で後から)このようになりましたと申し上げても、そう深くはお咎めにはなるまい』と、思われます」 源氏の意図どおり、藤壺の女院の言質をもらったことで、彼は予定どおり前斎宮の入内を、朱雀院には知らん顔で進めようとします。このあたり、彼と女院のTag Matchは息が合っていて、二人にとって相手が朱雀院なら何とかなるだろう、という心根も垣間見えますね。 とはいえ、「賢木」の帖のころ藤壺の宮の御帳台(寝室)に入り込んで、子供のように凍り付いていた光源氏、対するに母のような態度で接した女院の立場は逆転して、今やすっかり源氏のペースで、物事が運ばれて行くのは時の流れというべきでしょうか。― つづく ―
2009.06.13
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さて場面は展開して、斎宮のお姿を実際に見止めて、ただならぬ懸想心を抱いていたのは、源氏の腹違いの兄、例の「いとなよびたる」朱雀院でした。― 院にも、かの、くだり給ひし日、大極殿のいつかしかりし儀式に、ゆゝしきまで見え給ひし御かたちを、忘れがたう思しおきければ、 「まゐり給ひて、斎院など、御はらからの宮々、おはします類にて、さぶらひ給へ」と、御息所にも聞こえ給ひき。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 退位された朱雀院は(帝の時代)、例の、伊勢下向の日に際して、大極殿で執り行なわれた暇乞いの儀式で、あまりに美しかった斎宮のお姿を、忘れがたくお思いになっていて、「こちらにお見えになって、前斎院(朝顔)など、私の姉妹筋の宮様方が、いらっしゃるのと同じようにして、お暮らし下さい」と、御息所にも仰せられたことがあった。 対する御息所が、自身の後見の危うさから、宮廷に立ち混じることを躊躇していたところが、彼女が亡くなった今、改めて前斎宮に院への入内の申し入れがあって、源氏も聞き及ぶことになります。これに対する光源氏の対処は、はなはだ政略的にも狡猾で、いささか兄の朱雀院を見くびったところがありますね。そういえば彼は、例の朧月夜の内侍の件でも、当時帝だったこの兄をコケにしたところがあって、だからこそ大后の怒りを買ったのでした。 彼は今回この件を、藤壺の女院にお伺いを立てる、という形を取ります。― おとゞ、聞き給ひて、院より御気色あらむを、ひきたがへ、よこどり給はんを、「かたじけなきこと」と、おぼすに、人の御有様の、いとらうたげに、見放たんは、又、口惜しうて、入道の宮にぞ、聞こえ給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の大臣は、このことをお聞きなさって、院からの申し入れに、背いて、横取りなさったりすることは、「恐れ多いこと」とは、思われるが、前斎宮の御様子が、ひどく可愛げで、手放すには、これまた、悔しい気もして、藤壺の入道(女院)に、ご相談なさる。 なぜ藤壺の女院なのかといえば、以下の話で明らかなように、彼と藤壺は新帝(実は二人の子)の後見として、目的と利害を共有しているからで、さらに女院の内諾を得ることで、いざというとき源氏個人への批判をかわす、という意図があったのです。― つづく ―
2009.06.12
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辻井伸行というピアニスト 「源氏物語」の話の途中ですが、またまた天才が出てきたので、今の私の印象を話しましょう。私としては一年ほど前の神尾真由子と同種類の興味があって、この「盲目のピアニスト」を見ているわけですが、Van Cliburn国際ピアノコンクールで優勝したことで、にわかに注目が集まっています。 かつて彼が天才と騒がれたときに、私はたんに盲目であるというマスコミ受けのする話題性とは別に、彼にかんしては、むしろ眼が見えないことが、とりあえず彼の音楽にはプラスに働いているんだろうと思っていました。音楽にとって視覚とはいったい何なのかということです。もう少し言うと、音楽芸術というのが、視覚とか言語とかとの関係でどういう位置づけにあるのか、ということを考えていったときに、逆に眼が見えないということが、ヒトと音楽の関係性をある面で(全部ではありません)、明らかにすることがあるのではないか、というようなことをあれこれ例によって詮索していたのです。 図式的にいうと、クラシック音楽とは楽譜という視覚言語を媒介にしないと、本来音楽は立ち現われてこないのですが、聴く側の立場に立てば、私たちは楽譜の介在をまったく意識することなく、音楽を聴いています。では私たちはまったく視覚を捨像して、音楽を聴いているかというと、どうもそうではないらしい。かつてはLPレコードとかカセットテープとか、基本的に視覚を介さずに聴くというのが、音楽鑑賞の主たる享受方法で、私などもそれでとてつもなく大きな空想を描いたりしていたクチですが、ここ最近になってライブ演奏の魅力を知ってからは、むしろクラシック音楽といえども積極的に見る芸術ではないか、と思うようになっています。 前にも触れたことがありますが、ライブとはそのつど演奏者と聴衆との一回かぎりの共有の現場であって、それはその場にいる人同士にしか享受できない、かけがえのない時間感覚の味があるのです。そしてその中には、抽象的に空中に立ち現われてくる音ではなくて、げんに生身の人間が生み出している音であって、まさしくそれは見守っていないと、すべてを聴きとどけることができません。ヘンな話ですが、私は演奏会場でずうっと目を閉じて聴いている人が信じられないのです(まあ、これは好き好きですが)。 神尾のヴァイオリンが神尾真由子の姿で立ち現われるように、辻井伸行のピアノも辻井の風景によってしか聴くことはできないのです。しかしここに眼の見えない演奏家がいるわけで、私たちはどうしてもまた視覚を捨像した音楽とは何なんだ、という命題に突き当たらざるをえません。 ところで彼が本選で選んだ曲というのが、べートーヴェンのピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」のそれも第4楽章だった由で、前にも書きましたが、これは聴覚を失った晩年のべートーヴェンが書いた難曲中の難曲で、とくに第4楽章の長大なフーガは聴覚的というよりは、あきらかに譜面上の視覚的美観で書かれたのではないか、と思わせる部分があり、ずいぶん辻井さんは思い切った選曲をしたものだと思ったものです。 彼は「同じ障害者としての音楽を弾いてみたかった」とか、おっしゃっていたみたいですが、視覚障害が何だ、聴覚障害が何だ、という気分で取り上げられたのであれば、まさしくアッパレということになります(ただしそれと音楽の出来とは別で、それでも耳ざわりの好い向こう受けのする曲なんか弾きませんよ、という気概がエライと思う)。私など素人ながら、できれば第3楽章の長大な緩除楽章を、ぜひとも聴いてみたいと思うたちです。 彼の音楽の特徴とか個性とかを話するのは、神尾さんもそうですが、まだまだ早い。二人に共通するのは卓越した技巧と、驚くほど明晰な音の粒立ちで、こればかりは誰も真似できない、というより生得のものといえるでしょう(もちろんものすごい努力があってのことですが)。くれぐれも望むべくは、例によって妙なマスコミの騒ぎに巻き込まれて、一回限りのシンデレラボーイにはなって欲しくないな、ということです(皮肉にもクライバーン自身そうした運命になってしまいましたね。天才と謳われながら巨匠とか大家になれなかった芸術家は何人もいるのです)。放っておいても日本でも(おそらくアメリカでも)「盲目の天才ピアニスト」という、退屈なレッテルが張り付いて離れないでしょうが、成し得るならばクラシック音楽のピアノ的美観の内奥を、どんどん深掘りしていって欲しいと願うばかりです(その意味では彼の本当の試練は、今始まったと言えるかもしれません。もちろん彼自身そのあたりは充分意識しているでしょうが、勲章をもらうということは同時に、天才ゆえの重い義務を課せられたということです)。 それこそが音楽芸術と視覚言語世界の関係性を明らかにする、たぶん唯一の道であり、真の意味で一般人と視覚障害者とを結ぶ、本当の道を開くことなると思うからです。 何だか難しい話になってしまいました、すいません。
2009.06.11
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冷泉帝にはすでに左大臣系の娘(弘徽殿の女御)が入内しており、さらには兵部卿の宮が娘の入内を策していて、源氏がそれを邪魔しているのはすでに触れました。そこに後ろ楯となって前斎宮を、宮中に送り込むというのは、左右大臣両派の勢力を牽制する意味でも、ごく政治的な思惑が込められているのです。ただし、この時点ではまだ源氏の決心は固まっていないようで、― 女別当、内侍などいふ人々、あるは、はなれたてまつらぬ王家統流(わかむどほり)などにて、心ばせある人々多かるべし。「この、人知れず、思ふかたのまじらひを、せさせたてまつらんに、人に劣り給ふまじかめり。いかで、さやかに、御かたちを見てしがな」と、おぼすも、うち解くべき御親心にはあらずやありけむ。わが御心も、定め難ければ、「かく思ふ」といふ事も、人にも漏らし給はず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (前斎宮の周囲は)仕えている女別当、内侍などという人々、あるいは親戚筋の王家皇孫など、嗜みある女房が多いようである。「このように、私がひそかに、考えている入内を、おさせ申しても、他の宮廷の女御たちに見劣りなさるということはあるまい。やはりどうしても、ハッキリと、お姿を見ておきたいものだ」と、お思いになるのは、はたして本当に気の許せる親心といえるかどうか。ご自身が自分の心を、決めがたいので、「こう思っているのだが」といったことは、当然人には漏らされない。 というわけで、彼はまだ斎宮のお顔を直接見たことがないのです(実はお姿を拝見した人が、一人いたのですが)。お顔を拝見したとたんに、自分の気持がどう変わるか分からない、というのは、ずいぶん手前勝手な話ですが、光源氏というのは、そのあたりの自身の感情には正直な男で、こうした場合彼にとって世間的な倫理基準など、はるかに下位の優先順位にしかなりません。まるでそれこそが、貴種の矜持であるかのようです。 これがはたして平安時代の男=オス通有の振るまいかたであったかどうか。後々出てくる堅物の夕霧とか、「宇治十帖」の薫などをみていると、これと真反対の振るまいが(それもなかば戯画化されて)描かれていて、公平に見てこのあたりは当時の実際というよりは、多少紫式部の創作が入っているのかもしれません。 こうした格式ある家の娘には、しかしさまざまなところから懸想があるので、― さぶらふ人々につけて、心がけきこえ給ふ人、高きも賤しきも、あまたあり。されど、おとゞの、「御乳母たちだに、心にまかせたる事、ひきいだしつかうまつるな」など、親がり申し給へば、「いと恥づかしき、御有様に」「便なき事、きこし召しつけられじ」と、いひ思ひつゝ、はかなき、事の情けも、更につくらず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 仕えている女房を介して、懸想なさる人たちが、身分の高いのも低いのも、数多くいる。しかし源氏の大臣が、「(親代わりの)御乳母といえども、心任せに、勝手なことはするな」などと、実の親のように申されるので、「あまりにご立派な、親のようなご様子だこと」「不都合なことは、お耳に入れないように」と、(女房たちは)気を配って、つまらない、懸想の仲介の手紙も、いっこうに書かない。 何だか、片思いのマドンナの周囲から、いろいろ言い寄ってくる怪しからん男どもを、追っ払おうとする寅さんみたいですね。― つづく ―
2009.06.11
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そののち、七、八日して御息所は亡くなるわけですが、少年から青年に変わる時期、決定的な影響を受けた女性の一人(西郷さんは御息所は源氏の初めての女だったのではないか、と言われます。そしたら添い伏しの妻の葵の上はどうなるの、という話になるのですが、まあキリがないのでここは詮索しません)であっただけに、源氏は大きなショックを受けて、しばらく内裏にも出仕しない。 しかし御息所の葬儀にかんしては、自ら出向いてあれこれ指図する。この時、前斎宮は二十歳前後、頼むべき父方(前東宮)はとっくに亡くなり、母親の御息所も死んだとなって、おおいに行く末不安なことなのですが、多少齢のわりに幼い感じもしないでもありません。 この時の主な登場人物の年齢を整理すると、光源氏 二十九歳、六条御息所 三十六歳(享年)、藤壺の女院 三十四歳、紫の上 二十一歳、明石の方 二十歳、斎宮 二十歳、冷泉帝 十一歳、明石の姫君 一歳ということで、おおざっぱに、御息所と藤壺の女院が同世代、紫の上と明石の方、斎宮が同世代ということになります。ちなみに朱雀院は源氏より少し上、三十歳前後でしょう。― (斎宮)「何事もおぼえ侍らでなん」と、女別当して、きこえ給へり。 (源氏)「きこえさせ、のたまひ置きし事も侍りしを、今は、へだてなきさまに、おぼされば、嬉しくなん」と、きこえ給ひて、人々めし出でて、あるべき事ども、おほせ給ふ。いとたのもしげに、年頃の御心ばへ、とりかへしつべう見ゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (斎宮は)「今は(悲しくて)何事もどうしてよいやら分かりません」と、女別当(斎宮寮の女官長)を通して、お答えになる。(源氏は)「(故御息所に)こちらから申し上げ、あちらからも仰せ置かれたご遺言もございますので、これからは、分け隔てない身内のように、思ってくだされば、幸いです」と、おっしゃって、配下のものを召しだしては、なすべき事など、次々と指図なさる。いかにも頼もしげで、それまでの年月の(御息所につれなかった)自分の気持を、晴らそうとするかのようである。 というわけで、御息所の葬儀は源氏の主催のような観を呈して、盛大に執り行なわれます。その後も斎宮にはさかんに消息を寄こして、安心させようとする。しかしその心の内は、― 下りたまひしほどより、なほあらず思したりしを、「今は心にかけて、ともかくも聞こえ寄りぬべきぞかし」と思すには、例の、引き返し、 「いとほしくこそ。故御息所の、いとうしろめたげに心おきたまひしを。ことわりなれど、世の中の人も、さやうに思ひ寄りぬべきことなるを、引き違へ、心清くてあつかひきこえむ。主上の今すこしもの思し知る齢にならせたまひなば、内裏住みせさせたてまつりて、さうざうしきに、かしづきぐさにこそ」と思しなる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 伊勢下向のころから、(源氏は斎宮を)そのままでは置かれないと思っていて、「今となっては気持のまま、どうとでも言い寄ることもできるのに」と考えもするが、はたまた例のごとく、思い返して、「つらいことよ。故御息所が、ひどく心残り気にご遺言なさったことは。当然のことだが、世間の人々も、(私と斎宮を)例のごとく想像するだろうし、ここはやはり逆に、心清くしてお世話するとするか。冷泉帝がもう少しものの分別もつく歳になられたら、入内もおさせ申すということで、娘子のない寂しさは、この人の後見としてお世話をするということで … 」とお思いになる。 この時の源氏の心内は、前斎宮への個人的関心と御息所の遺言との葛藤であったのですが、そこに現帝(実は源氏の子)への入内という、はなはだ政略的な発想が入り込んでくるのです。― つづく ―
2009.06.10
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― (御息所)「いと、苦しさまさり侍り。かたじけなきを、はや、わたらせ給ひね」とて、人に、かき臥せられ給ふ。 (源氏)「ちかうまゐりたるしるしに、よろしう思されば、嬉しかるべきを。心苦しきわざかな。いかにおぼさるゝぞ」とて、のぞき給ふ気色なれば、 (御息所)「いと恐ろしげに侍るや。乱り心地の、いと、かく、限りなる折しも、わたらせ給へるは、まことに、浅からずなん。思ひ侍ることを、すこしも、きこえさせつれば、「さりとも」と、頼もしくなむ」など、きこえさせ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者)(御息所は)「ひどく、苦しさがつのってきました。恐れ多いので、早く、お帰り下さいまし」とおっしゃって、側付きの女房に、助けられて横におなりになる。(源氏は)「お側に参りましたかいがあって、お気分がよろしくもなって下されば、私も嬉しいのですが。残念な次第です。どうしたものでしょう」とおっしゃって、(ご様子を)覗き見られる気配なので、(御息所は)「本当に恐ろしいほど(の状態)になってしまいました。苦しい病心地が、ひどくて、このように、今は最後かと思える折も折、やって来ていただいたというのも、やはり本当に、浅からぬご縁のなのでしょう。いつも思っておりましたことを、少しは、先ほど申上げたので、『この先、私がどうなろうとも』と、心強くなりました」と、おっしゃる。 源氏は、たまらず、― 「かゝる御遺言のつらに、おぼしけるも、いとゞ、あはれになん。故院の御子たち、あまたものし給へど、親しく睦び思ほすも、をさをさなきを、うへのおなじ御子達のうちに、かずまへきこえ給ひしかば、さこそは、たのみ聞こえ侍らめ。すこし大人しき程になりぬる齢ながら、あつかふ人もなければ、さうざうしきを」など、きこえて、かへり給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「こうした御遺言を受ける人のうちに、(私を)お考え下さったのは、ますます、肝に銘じるところでございます。 故桐壺院の御子達は、たくさんいらっしゃり、(御息所はその方たちとは)親しく慣れ親しまれることはなかったのですが、(故院は斎宮を)主上の御子達と同様の列に、考えていらっしゃいましたので、私もそのつもりで、お世話させていただきます。(私も)少しは大人親になるべき齢にもなっているのですが、さしあたって育てる子もおらず、寂しくも思っているのですから」などと、おっしゃって、お帰りになった。 育てるべき子は実はいるのです(明石の姫君)が、繰り返しての御息所の言葉は、やはり源氏には重かったのです。これがこの二人の、生前交わした最後の会話になりました。― つづく ―
2009.06.09
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それにしても御息所を描くとき、紫式部の筆致は「賢木」の帖のときもそうでしたが、ずいぶん心を込めているように思える。これはあるいは私の思い込みかもしれませんが、背景の描写がいかにも、という具合に書かれているのです。― … 外は暗うなり、内は、大殿油(おほとなぶら)ほのかに、物より通りて見ゆるを、「もしもや」と、おぼして、やをら、御几帳のほころびより、見たまへば、心もとなき程の火影に、御ぐしいとをかしげに、花やかにそぎて、よりゐ給へる、絵に描きたらんさまして、いみじうあはれなり。帳の東おもてに添ひ臥し給へるぞ、宮ならむかし。御几帳の、しどけなく引き遣られたるより、御目とゞめて、見透し給へれば、頬杖つきて、「いと物悲し」と、おぼいたるさまなり。はつかなれど、「いと、うつくしげならむ」とみゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … 外はすでに暗くなって、内からは、大殿油の灯がほのかに、物越しに透けて見えるので、(源氏の君は)「もしかしたら」と、お思いになって、やおら、御几帳の隙間から、内を覗き見なさると、ゆらゆら心許ない灯影に、御髪を美しく、華やかに切り捨てて、脇息に寄りかかっていらっしゃるお姿は、絵に画いたように、たいへん奥ゆかしい。御帳台の東面に添い臥しておられるのが、前の斎宮であろうか。御几帳が無造作に引き放たれている隙間から、お目を止めて、見透うされると、(斎宮は)頬杖をついて、「ひどく物悲しい」と、思っておられる風情である。ほんのわずかの隙間見ではあるが、「どんなにか、美しい姿なのだろう」とご覧になる。 この時代、女が男に顔や姿を見られるというのは、ほとんど我が身の裸体を見られたのと同然の、恥ずかしさとして捉えられていたようで、それは逆に男=オスからすれば、何としても見てみよう、見てしまいたい、という行動になって現れるのです。 隙間見、覗き見は男=オスの習性をいたく刺激する振るまいのようで、そうした時、実際より?際限なく膨れ上がっていく想像力の圧力に、男=オスは勝てないようですね(それについては今も同じ)。貴婦人方の顔や姿を、じかに見ることのできなかった彼らは、半ば以上周囲のうわさやゴシップをもとに、想像力で女性を追い求めていたわけで、だからこそ和歌のやりとりに使われる紙や香りや筆跡など、ほとんどFetishismに近いようなこだわりを示すのです。後に登場する柏木や夕霧その他も、想い人を無限の想像力で膨らませて、懸想していた気配がありますね。 同様に奈良・平安の世では、男から名を聞かれた場合、女が自分の名を明かすときは、すなわちその男と契りを結んだしるし、ということになったようで、やはり一千年前の社会習慣や人の心を、今どきのNet社会で何もかもDiscloseされて、却って周囲に対する想像力が劣化したような時代に、生き生きと想像するのは難しいのかもしれません。閑話休題 ― どちらにしても、隙があれば覗くという、この時代の男=オスのごく標準的な振るまいを、この期に及んでも源氏はしているわけで、そのもたらす結果はやはり御息所の心配するところであったわけです。― つづく ―
2009.06.08
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さて、尼になった御息所が源氏に語るのは、我が身のことではなく娘斎宮のことでした。彼女もまた藤壺の女院と同様、ある意味不本意ながらも、面倒見の良い光源氏の後見を頼らざるを得ないのです。― 「心ぼそくてとまり給はむを、必ず、事にふれて、かずまへ聞え給へ。又みゆづる人もなく、たぐひなき御有様になむ。「かひなき身ながらも、今しばし、世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまに、物を思し知るまで、みたてまつらん」ことこそ、思ひ給へつれ」とても、消え入りつゝ泣い給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(この姫宮が)いかにも心許ない状態で後に残られるので、何かにつけて、お世話してあげて下さいまし。他にこれといって後見してくれる人もなく、例のないほどおいたわしい身なのです。『何の取り柄とてない我が身でも、今少し、この世に生き永らえるならば、あれこれ、物心がつくまでは、お世話したい』とだけは、思い申し上げていたのですが」とおっしゃる声も、消え入るようで弱々しく泣いていらっしゃる。 源氏は、もとより斎宮の後見を疎かにするつもりはないと、御息所を励ますのですが、そのあと彼女から出た言葉は、彼にとって少し意外なものでした。― 「いと難き事。まことにうち頼むべきおやなどにて、みゆづる人だに、女親に離れぬるは、いと、あはれなる事にこそ侍るめれ。まして、おもほし人めかさむにつけても、… 人に、心もおかれ給はん。うたてある思ひやりごとなれど、かけて、さやうの、世づいたるすぢに、おぼしよるな。憂き身をつみ侍るにも、女は、思ひのほかにて、もの思ひを添ふるものになん侍りければ、「いかで、さる方をもて離れて、見たてまつらむ」と、思う給ふる」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「それがたいへん難しいことなのです。本来頼るべき男親がいて、後の世話を託す場合でさえ、女親がいない場合は、いかにも、あわれなことが多ございます。まして、あなたがいつもの想い人のように(斎宮を)扱ったなら、… 他人に、疎まれることもお出来になるでしょう。言いにくく考えすぎなのかもしれませんが、誓って、そのような、世の色めいた筋の類で、(斎宮に)想い寄らないで下さい。不本意な我が身を振り返ってみましても、女というのは、どうしょうもなく、心悩みを募らせていくものなので、『どうしても、この方だけは(世の好き事とは)分け隔てて、見守り申上げたい』と、私は思っているのです。」 源氏との激しい愛の交歓から、世に耐え難い浮名を流し、はたまたそれでも感情を抑え切れずに、とうとう心病も発した御息所としては、その張本人である光源氏に対しては、どうしても我が娘には同じ地獄を合わせるな、しかし後見だけはかたがた頼みます、ということでしょう。 これを聞いた源氏が、それまで相当本気で悲しんでいたのが、いささか鼻白んだのは、それが図星を突いていたからで、「あいなくも、のたまふかな(ずいぶんハッキリ、おっしゃることよ)」と、心内に思います。 藤壺のときもそうでしたが、源氏にかかわる女性は出家したとたん、わりと彼に対して物事をハッキリ言うみたいで、前にも云いましたが、天下の好き者光源氏といえども、さすがに尼さんには禁忌が働く。女性方はそれを見越して、(この時とばかり)言うべきことをキチンと伝えるという仕儀になります。― つづく ―
2009.06.06
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この六条御息所、すでに何度も触れたように、きわめて情愛の深いぶん、裏返しの嫉妬深さも激しくて、しかもその多量な感情の噴出を、うまくコントロールできない人なのですが、もう一つ彼女に特徴的なのは、普段の趣味というか生活スタイルがきわめて格調高く高貴な人であったということで、彼女の周囲はそうした趣味人の集うサロンのような雰囲気だったらしいことです。この彼女の激しい内面と矛盾するような奥ゆかしい表の顔を、どう理解するかは今のところ私には謎なのです。 ごく月並みに、貴婦人の隠された真実、というようなレッテルでは済まされない存在感が、この人にはあるので、私はそれをもっと紫式部の心象風景に近づけて考えてみたいのです。その一部は以前さんざん書きました。が、このもって生まれた格調の高さ、人が自然に集まって来るような、奥ゆかしさという肖像をどう考えるのかという話は、もっと後にじっくりしたいと思います。というのもこの人、十数年後には死霊となって、再び源氏の前に現われるのです。 さて都に戻って、以前と変わらぬ雅びな生活が復活するかに思えた御息所ですが、にわかに病を得て、それは伊勢下向のあいだ仏道を避けていたせいかと考えます。前にも触れましたが、伊勢斎宮とは天皇の代替わりごと、祖神である天照大神を祀る伊勢神宮に、未婚の内親王または女王の中から選ばれて、大神の巫女となるのですが、神に仕える斎宮は、穢れを避けまた仏教も禁忌とするため、厳しい潔斎を行なったようです。斎宮の母である御息所も、当然仏道を避けた生活を強いられたのでした。 というわけで、平安中期すでに仏教(多分に祈祷的御利益的な要素が強かったとはいえ)が、社会倫理の中心をなしていた当時、仏道を忌避する伊勢神宮というのは、天皇家の本願とはいえ特異的な場所として捉えられていたでしょう。御息所が、我が身が病をえたのは、仏道を避けたせいと考え、そのまま出家してしまったのは、ごく自然のなりゆきでした。 そこで、消息と援助を欠かさなかった光源氏が、驚いて彼女の帰京後、初めて(そして最後に)家を訪ねる場面、― おとゞ、聞き給ひて、かけかけしき筋にはあらねど、猶、さるかたの、物をも聞こえ合はせ人に思ひ聞えつるを、かくおぼしなりにけるが、口惜しうおぼえ給へば、おどろきながら、わたり給へり。あかずあはれなる御とぶらひ、きこえ給ふ。ちかき御枕がみに、御座よそひて、脇息におしかゝりて、御返りなど聞こえ給ふも、いたう弱り給へるけはひなれば、(源氏は)「たえぬ心ざしの程は、みえたてまつらでや」と、くちおしうて、いみじう泣い給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の大臣は、(御息所の出家を)お聞きになって、かつての色事めいた話ではなくても、なお、しかるべき、さまざまな事柄の話し相手として、お考えになっていたので、残念にも思われて、驚いて、お訪ねになった。あふれるばかりあわれなお見舞いの言葉を、おっしゃる。(御息所の)御枕に近く、君の御座をしつらえて、脇息に寄りかかって、ご返事などもなさるのが、ひどく弱っておいでになる様子なので、源氏の君は「私が絶えず思ってきた心の内は、とうとうお見せすることが出来ないのか」と、残念で、激しくお泣きになる。 光源氏という男、須磨から戻ってのち、ごく大人の振るまいを示していて、芝居気たっぷりに泣いて見せたり、いろいろ甘言を弄することなど朝飯前なのですが、御息所に対してだけは、色事だけでなく「物をも聞こえ合はせ人」として頼むところがあったようで、彼女の生霊に何度か凄まじいめに合ったとはいえ、それでも男を惹きつけて止まない妖しさを放っていたようです。その妖しさが源氏に限らず、都のしかるべき男たちをも惹き寄せるところだったことは、本文にも出ていますが、この中味もまた今のところ私には謎です。 いずれにしても、近ごろ大人ぶった源氏が、あいさつ変わりのお見舞いでなく、本気であるらしいというのは、最後の「いみじう泣い給ふ」の句に現れているので、この先たんに「泣い給ふ」のか「いみじう泣い給ふ」のかは、彼の本気度を測る一つの尺度となりそうですね。― つづく ―
2009.06.05
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かつての政敵に仇をもって返すのではなく、表向きことさらに礼儀を尽くす。ことを為すに何かにつけて「籠めたるところおはせぬ本性」であった右大臣一族に比べて、はるかに一枚上手で「大人の」振るまいでもって彼らに接するというのが、本人たち以上に世間に対して、自分に対する畏怖の念を与えるということを、彼は充分に心得ていたのでした。 一方では、紫の上の実父である兵部卿の宮に対しては、本編では政治向きの話ということで詳しくは語られませんが、源氏の官位剥奪や当時の東宮(現冷泉帝)廃位の陰謀などに、直接加担してはいないとは言え、毀誉褒貶のあいまいな動きをしたということで、きわめて厳しい態度で当たっている。義理の親戚筋であることで、むしろことさら仮借ない態度を取るというのは、むしろそうでない政敵に対して恐怖を与えるのに効果的なのです。さしあたって、新帝の后として兵部卿の宮は、娘の中の君の入内を目論むのですが、源氏は歯牙にもかけません。 対するに、左大臣一族の頭の中将(今は権中納言)の娘は入内させる、という仕儀になります。しかし彼の真意はさらにその向こうにありました。このあたりの政略家としての源氏の肖像には、あきらかに藤原道長のような政治的策謀に辣腕を振るった人物の振るまいが投影されているので、紫式部は身近に宮廷内の男たちの振るまいを観察していたでしょう。 さてこのあと、源氏は住吉詣でを行なうのですが、大願成就のお礼とはいえ、大勢の殿上人、上達部を引き連れての参詣というのは、自身の威勢を世に示す好い機会でした。たまたま同じ時に来合わせた明石の方が、その威勢に気圧されて参詣をずらしてしまうというのは、その後の明石の方と源氏の関係を予告するものでした。すれ違いに終わった今回の邂逅を後で知った源氏は、明石の方に再び早く都へ上ることを勧める。これはもちろん娘君の養育のことがあるのでした。彼の目的は唯一の実の娘である明石の姫君を、どうやっていずれ東宮妃にするかということだったのです。 場面は展開して、伊勢から戻った六条御息所とその息女斎宮の話になります。― まことや、かの斎宮も、かはり給ひにしかば、御息所、のぼり給ひて後は、(源氏が)かはらぬさまに、なに事も訪らひ聞え給ふ事は、ありがたきまで、情けをつくし給へど、「昔だにつれなかりし、御心ばへの、なかなかならん名残は見じ」と、思ひ放ち給へれば、渡り給ひなどすることは、殊になし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) そう言えば ― 、あの伊勢斎宮も、(帝の譲位で)お変わりになったので、御息所は、いっしょに都にお戻りになったのであるが、(源氏の君が)昔と変わらない様子で、何かにつけてお見舞いなされ、世にないほどの、気遣いをなさるとはいえ、「昔でさえあれほどつれなかった、源氏の君のお心ばえを、今再びその名残りなど見ることはすまい」と、心に決めておいでになったので、源氏の君のほうからお訪ねになるということは、とくになかった。 なつかしくも凄まじかった六条御息所、最後の登場ですね。― つづく ―
2009.06.04
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花散里訪問の後も、かつていろいろ関係した女の人の消息が気になるけれども、源氏は身分が高くなって、なかなか気軽に訪ねるというわけにはいかない。そこで、― 「心やすき殿造りしては、かやうの人集へて、もし、おもふさまに、かしづき給ふべき人も、いでものし給はば、さる人の後見にも」と、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 気兼ねのいらない邸を造って、このような人々を集めておいて、思いどおりに守り育てたい人でも出来たら、そういう方面の後見にもとお思いになる。 ― (円地文子訳、新潮文庫) いちいち言い分けして、出かけなくてもいいような邸を造って、思いをかけた女たちを、まとめて住まわせようというのですが、さしあたって二条の自宅の東に邸を増築することになります。これは後々の六条の大御殿造営の伏線になるのですが、はたしてそれが、女たちにとって夢御殿であったかどうか。 さて、このあとしばらく源氏の政治的動向が記されます。 御所内の政治的動きの基本的な構図は、冷泉帝の中宮(皇后)の座の争いであり、帝の外戚となることで、世俗の実権を握ることにあります。もう一つは東宮の后候補で、いずれこれもまた新帝誕生の際に外戚になる布石となるものでした。 冷泉帝は前にも触れたように、世間的には源氏の腹違いの弟なので(実は源氏と藤壺の子)、外戚にはなれないのですが、なるべく有力貴族の介入は避けたい。一方、東宮は右大臣系の朱雀院の子で、こちらは外戚になるチャンスがあるのです。 というわけで、ここから光源氏と新帝の母である藤壺の女院の、絶妙なTag Matchが繰り広げられます。 まず源氏は東宮の御所での寝殿(梨壺)が、自分の宿直所(桐壺)の隣であることを利用して、気楽に訪ねては後見のような役をする。さらには長年の仇でもあった右大臣系の弘徽殿大后にもあいさつを欠かさない。このあたり、光源氏の政治的図太さがよく出ているので、引きますと、― … おほ后は、「憂きものは、世なりけり」とおぼし嘆く。おとゞ(大臣、源氏)は、事にふれて、いとはづかしげにつかまつり、心よせ聞え給ふも、なかなかいとほしげなるを、世の人も、やすからず聞こえけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) … 大后は、(ついに光源氏を、政界から排除できなかったので)「面白くないのは、まさしくこの世のことよ」と思って嘆いておられる。(源氏の)大臣は、何かにつけて、(大后が)気恥ずかしくなるほど丁寧にお仕えになって、いろいろお心を遣われるので、(それまで源氏を、さんざん痛めつけてきた大后にとっては)かえってずいぶん辛いのではないかと、世間の人々は、穏やかならず噂し合っていた。 これは、かつての政敵である大后のご機嫌を取っているのではなく(むしろ、あてつけでしょう)、世間に対して彼の凄味を見せているのです。― つづく ―
2009.06.03
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というわけで、いささか紫の上とのやりとりに倦んだ光源氏は、忙しい公務のなか、思い立って花散里を訪ねます。身分剥奪という政変の最中に唐突に現れた花散里という人、源氏物語全編を通じて比較的存在感の薄い人で、決して美人ではなく影のような存在なのですが、唯一嫉妬心や世俗的欲望から免れている人物として描かれています。 紫式部がこの人を挿入したのは、源氏の公と私の狭間にあって、一種慰安所のような場面の設定を必要としたかとも思われ、となると何だか今どきのサラリーマンが、退社して家に帰るまでの途中に立ち寄る、一杯飲み屋の女将さんみたいな感じがしないでもない。後々、この人は源氏が次々持ち込んでくるややこしい用事も、嫌な顔一つせずに引き受けることになる(それはまた彼女が源氏の庇護を受ける、唯一の手段でもありました)のですが、さしあたって源氏としては、寝所に戻ると紫の上にチクチクやられるのがイヤで、とりあえず避難した気配があります。 女性方から見れば、いかにも都合のいい話で、「許せないっ!」ということになるのですが、「山の神!?」が怒った場合、男=オスというのは帰る場所がないのです。今どきの男系社会のサラリーマンは、家族に責任があるので、それでも家に帰らなくてはならないですから、気を取り直す意味でも途中の一杯飲み屋が必要なわけですが、まだまだ母系性社会のシステムが生きていた平安時代では、男=オスというのは、ある意味生きている間はずうっと女=メスの間をさまよう存在であったのかもしれません(責任がないということは、どこにも所属が許されない、ということにもなるのです)。 おおいに結構じゃないか、という声が聞えてきそうですが、これは逆に言い換えれば、男=オスとは基本的に安寧の所在地を持ち得ない存在だということで、古代母系性社会というのはサルやクマのような動物の社会システムに近い部分があったのではないか。今よりはるかに自然界の動物と接する機会が多く、またその自然界の人智の及ばぬ力を畏れ奉っていた古代なら、サルやクマの母系性社会を周囲に観察する機会も多かったはずで、それが人間社会の営みにもマッチするシステムであることは、同じ生き物としてごく自然に理解されたでしょう。彼らの社会では、若いオスは成人するとその社会からはじかれる(追い出されて、自分で新しいメスを探さなくてはならない)のです。 しかしそれは同時に、男=オスという存在が地上の安息地を、永遠に奪われるということも意味するので、倭建命(ヤマトタケルノミコト)に代表される「古代英雄」というのは、古代社会が経験した男=オスに対する挽歌でもあったのです。倭建命の示す狂気のような荒ぶる振るまいと、子供のような故郷への思慕の同居というのは、それが生きている間は、ついに達成されないという予感に満ちているからで、彼が死んでのち白千鳥になって天高くいずこかヘ去っていったというのも、あるいは男=オスが地上では永遠に所属を拒否された存在であることを象徴しているのかもしれません。 平安時代はもちろん古代母系性社会ではなく、形上は大陸由来の男系のシステムが入り込んでいるのですが、実際社会は子育ても相続も母方の家を中心に回っていたのです。というふうにみてくると、男系社会というのは、放っておくとフワフワ舞い上がって仕方がない男=オスを、うまく飼いならしてムラ社会につないでおく古代農耕社会の必然が生んだ仕組みとも言えますね(それは同時に女性から地母神的聖性を奪うことも意味します)。 光源氏は、もちろん古代英雄ではなく、はるかに洗練された平安社会の、しかも頂点に立つべき貴公子なのですが、尽きせぬ女遍歴の振るまいの底に、古代英雄の残像を見るのは、そう難しいことではありません。私が源氏物語a系全般の展開を「宮廷内オデュッセイ」という所以です。― つづく ―
2009.06.02
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姫君誕生五十日のお祝いを、源氏はねんごろに明石に送るとともに、稚児を連れて、一刻も早く都へ来るように、という手紙をしたためる。明石ではそのおかげで盛大な祝儀が行なわれて、例の都から派遣された乳母が、口をきわめて光源氏を褒めそやす。乳母としては、源氏の密命を待つまでもなく、明石の方の上京の決心をつけさせることが、我が身の安泰にも繋がるわけですから、否が応でも力が入るわけです。 明石の方から、お礼と稚児の後見に対する手厚いお願いの手紙が、源氏に届きます。― (源氏が)うち返し、見給ひつゝ、「あはれ」と、ながやかにひとりごち給ふを、女君、後目(しりめ)に、みおこせて、「浦よりをちに漕ぐ舟の」と、しのびやかに、ひとりごちながめ給ふを、 「まことは、かくまでとりなし給ふよ。こは、ただ、かばかりの、「あはれ」ぞや。ところのさまなど、うち思ひやる時々、来し方の事忘れ難きひとり言を、ようこそ、すぐい給はね」など、うらみ聞え給ひて、上包ばかりを、みせたてまつらせ給ふ。手などの、いと故づきて、やむごとなき人、苦しげなるを、「かゝればなめり」と、(紫の上は)思す。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (源氏が手紙を)何度も開けて、ご覧になりながら、「あわれな事よのう」と、感に堪えたように一人呟かれるのを、女君は、尻目使いに、ちらと眼に止めて、伊勢集の歌の一部を「浦よりをちに漕ぐ舟の …」と、しのびやかに、口ずさんであっちを向いていらっしゃるので、「本当に、そこまであれこれ気をお回しになるのですか。これは、そんな、たいしたことのない、「あわれ」ですよ。須磨の浦の辛かったさまなど、ふと思いやる時々、来し方の忘れがたい思い出とともに出てくる独り言まで、そのように、お聞き逃しにならないのですか」などと、多少お恨みになって、手紙の上包みばかり、姫君にお見せになる。明石の方の筆跡が、たいへん趣があって、高い身分の人でも、気恥ずかしくなりそうなのをご覧になって、「だから源氏の君も心を通わせていらっしゃるのだろう」と、紫の上は思われた。伊勢集の歌とは、― みくまのの『浦よりをちに漕ぐ舟の』 我をばよそにへだてつるかな ―(熊野の浦から離れて漕いでゆく舟のように、あなたは私をはるか遠くに隔ててしまったのですね)という内容で、もちろん紫の上が強調したいのは、歌いさした「我をばよそにへだてつるかな」という下の句でした。当時の貴人の教養として、当然源氏はその真意にただちに気付いたので、ようやく本気になって色をなすのです。 飼い犬に噛まれた、と言っては紫の上が可哀そうですが、源氏にかぎらず男というのは、一般に図星の事柄でもチクチク何回もつつかれるのは、もっとも苦手で、最初は「怒った顔も可愛い」などと、余裕でいなしていた源氏も本気にならざるを得ない。しかしこれは源氏と紫の上の、大人の付き合いの第一ラウンドみたいなもので、この先こうした夫婦の確執は、死に別れるまでずうっと続くのです。 考えてみれば、嫉妬心というのは、優れて大人同士の心理なのかもしれません。― つづく ―
2009.06.01
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