全31件 (31件中 1-31件目)
1

昨日紹介した写真と同じ日(五月八日)に撮った写真です。遠くに見えるのは富士山です。この後、太陽は段々と北の丹沢山系のほうに沈むようになり、いまは夏至で折り返して、再び富士山の方に戻って来つつあるところです。自然が織りなすカレンダーですね。
2020.06.30
コメント(0)

コロナ禍で外出がままならない中、連休明けの5月8日に撮った写真です。夕陽が延びて、道を綺麗に照らし出しておりました。
2020.06.29
コメント(0)

気分転換を兼ねて、少し遠出します。そのとき撮影した写真。緑深き谷という感じですね。
2020.06.28
コメント(0)

再び、久しぶりの海。遠くに見えるのは江の島ですね。空も綺麗です。絹のような雲が舞う快晴の一日でした。六月二十三日の撮影です。
2020.06.27
コメント(0)

今年のうちの薔薇はまずまずの出来でした。普段、ほとんど咲かない薔薇も花が咲きます。こちらの薔薇もたくさんつぼみをつけてくれました。名づけて「雑草の中に咲く薔薇」ですね。
2020.06.26
コメント(0)

我が家のネギ坊主。と言っても、実はこれはニンニクの花です。大きいニンニクを取るためには、花芽はとらなくてはならないのですが、そのまま伸びて見事な花を咲かせました。でも、ちゃんとニンニクは収穫して、美味しくいただきました。我が家のささやかな大地の恵みです。
2020.06.25
コメント(0)

こちらはゼラニウムの紅白。確か、同じ株ではなく、別々に植えた紅白のゼラニウムが混ぜっているだけだったと思います。ゼラニウムは強いので、よく育ってくれます。
2020.06.24
コメント(0)

再び我が家の薔薇です。昨年までは白いバラだけだったのですが・・・今年から赤いバラも咲くようになりました。「源平薔薇」なんてあるのでしょうか。目下、原因を調査ちゅうです。
2020.06.23
コメント(0)

コロナ禍のせいで、外出の機会が減りましたが、梅雨入り前に久しぶりに海を見に行きました。よく晴れていますね。海も綺麗です。まるで南国の海のようでした。
2020.06.22
コメント(0)
竹内氏の『古事記の邪馬台国』は、「魏志倭人伝」で「伊支馬(いきま)」として登場した「伊久米(いくめ)」こと垂仁天皇の時代を最後にして、終わります。簡単に説明すると、崇神天皇の時代は大物主神を再認識する時代であり、垂仁天皇の時代は大国主神を再認識する時代であったということなのかもしれません。孝元、開化、崇神とニギハヤヒ系の血を濃く入れて、垂仁の時代は大国主系をより重用したということでしょうか。そうかもしれませんね。 いずれにしても、どこの血統かが重視された時代であったことは間違いありません。ヤマトトトヒモモソヒメでは大物主神を祀るのに適していなかったことは、オオタタネコの説話を読んでもわかります。 つまり系図を知ると知らないとでは、雲泥の差がでるということでもあるようです。その意味で『帝皇日嗣』には歴史を正す力があります。記紀を読んでもわからない系図が『帝皇日嗣』にはあるからです。 この後、竹内氏は二〇一七年八月に『古事記の暗号』を、二〇一九年二月には『天皇の秘儀と秘史』を上梓します。 その後、二〇二〇年一月一三日に帰幽されたわけですね。「竹内文書」の一時代が終わった気がします。生前竹内氏は「武内宿禰は第七三世で最後」と話していたそうです。もうこれ以上『帝皇日嗣』が外に出てくる可能性はない、ということかも知れません。もしそうであるならば、これまでに竹内氏が語った『帝皇日嗣』をまとめて、いつか本にできればなと思っています。(終わり)
2020.06.21
コメント(0)
崇神天皇は、影の祭祀王制度を作って、主に幽祭を執行する祭祀王にヒコフツオシノマコトを、伊勢斎宮の顕祭を執行する祭祀王(祭主)にトヨを就任させました。で、幽祭を執行する祭祀王だけ世襲制にしたんですね。そこから武内宿禰が生まれます。同時にオオタタネコも大物主神(ニギハヤヒ)を顕祭で祭る初代祭主、イチシノナガオチを倭の大国魂神を祭る顕祭の祭主としました。 倭の大国魂神とは、謎の神ですが、系図上は大年の子(大国御魂神)であるとみられています。ほとんど同じ名前ですからね。大年はニギハヤヒのことですから、ウマジマジ、アマノカグヤマ、オオヤマクイが候補となりますが、後の二人は明確に大年の系図に入っています。ニギハヤヒの子であることを隠したかった神だとすれば、意外とウマシマジかもしれませんね。あるいは、大和国の地主神とみるならば、大和国を先に支配していた徐福ないしは徐福系のことを指しているのかもしれません。ほかにもスサノオ説、オオナムジ(大国神)説があるように思います。 いずれにせよ、崇神天皇は一大宗教改革を断行した感じがします。さらに、四道将軍を北陸、東海、山陽、山陰の四道に派遣して大和国に従わない者たちを帰順させたといいます。それによって国はようやく治まった。こうして崇神天皇は神武天皇と同じ諡(おくりな)である「初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」を持つことになったわけです。大和建国の初心に返ったということでしょうか。(続く)
2020.06.20
コメント(0)
この辺りの人事関係に関しては、竹内氏は詳しく語っていませんね。『古事記の邪馬台国』でも、卑弥呼がいてその時代の天皇は崇神だったということを念頭において読んでほしいと書いて、大田田根子の話を導入しています。 オオタタネコは極秘伝中の極秘伝だからです。私もそのことに感づいていましたら、一度だけ、竹内氏に「オオタタネコは何者か」と尋ねたことがあります。そうしたら、「言えません。ただ・・・」と言って、ヒントだけくれました。明確な答えをもらえませんでしたが、そのヒントから「なるほど、そういうことだったのか」と思い至る答えを見つけたんですね。それがあっているかどうかはわかりませんが、一応それで全部説明できます。 もしオオタタネコが『先代旧事本紀』に書かれている通りだったら、私にそれを言えばよかった。だけどそれを伝えずに、あのヒントをくれたということは、『先代旧事本紀』の系図が間違っていることを意味します。その答えも追々このブログで紹介することにして、話を先に進めましょう。 影の祭祀王がヒコフツオシノマコトにしたというところまで話しましたね。影の祭祀王は幽祭と顕祭を執行し、表の祭祀王は顕祭のみを執行するという役割分担があったようです。たぶんまだ、卑弥呼ことヤマトトトヒモモソヒメが生存中にそれは始まったように思います。 表の祭祀王と裏の祭祀王。 ただし中国側はそのことを知りませんから、『魏志倭人伝』では、卑弥呼が死んで男が王となったので、国が再び荒れたと書かれています。で、再び女性(宗女=一族の娘)が王になったので、国が治まったとも書いています。 この男王とは、おそらくヒコフツオシノマコトのことですね。そして再び女王となったのは、「台与」ことトヨスキイリヒメです。(続く)
2020.06.19
コメント(0)
卑弥呼に仕え、ただ一人部屋への出入りを許された男とは、それはヒコフツオシノマコト(彦太忍信命)であったと竹内氏は言います。そしてこのヒコフツオシノマコトの異父弟(あるいは実弟)が崇神天皇です。時代考証的にはぴったり合いますね。中国側は、ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメの区別がつかなかったので、崇神天皇のことを卑弥呼の男弟としてしまったわけです。 その崇神天皇が即位してからも実に28年間も第8代祭祀王として君臨した卑弥呼も西暦248年ころ亡くなってしまいます。径百四歩の「大いなる墓」とは、箸墓古墳で間違いありません。かつて箸墓古墳は三世紀後半か四世紀初めの古墳であるから卑弥呼の墓ではありえないとされていましたが、その後の年代測定で三世紀半ばごろの古墳であると認定されました。 ここでポイントとなるのは、卑弥呼が高齢で亡くなる前に、崇神天皇が宗教改革に着手したことです。崇神天皇の時代、悪性の伝染病が流行り、人々がバタバタと倒れ始めたのです。ヤマトトトヒモモソヒメの祭祀王としての呪力では、これを食い止めることができなかったことは、『日本書紀』にヤマトトトヒモモソヒメが大物主神との結婚に失敗した逸話として象徴的に書かれています。大物主大神を怒らせてしまった卑弥呼は、ショックでドスンと座り込み、その際、箸で陰部をついて死んでしまいます。 これは非常に象徴的な話です。というのも、ヤマトトトヒモモソヒメではニギハヤヒの王統を継いだ祭祀王ではなかったからですね。そこでヤマトトトヒモモソヒメを祭祀王としたまま、ニギハヤヒの直系であるオオタタネコを祭祀王の代理にしたわけです。同時に、影の祭祀王としてヒコフツオシノマコトを任命しました。ヒコフツオシノマコトは、ニギハヤヒの直系であるだけではありません。ナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの直系でもあります。徐福の血をひいているわけですね。(続く)
2020.06.18
コメント(0)
中国側の勘違いは、おそらくヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメを同一人物であると勘違いしたことです。二人は叔母と姪の関係にあります。ですからヤマトトトヒメの「弟」である崇神天皇を、ヤマトトトヒモモソヒメの弟であると思ってしまった。だから男弟としたわけです。 それでも系図に詳しい方は、崇神天皇はヤマトトトヒメの弟ではなく、叔母と甥の関係ではないかと指摘する方もいるでしょう。 正しい見方ですが、それは間違っています。開化天皇が孝元天皇の側室であるイカガシコメを正妃に迎えたことによって、ヤマトトトヒメは崇神天皇にとって義理の姉になってしまうというからくりがあるんですね。 というのも、孝元天皇がイカガシコメを側室にした後、ヒコフツオシノマコトが生まれています。その後、孝元天皇が亡くなった後、開化天皇がイカガシコメを正妃として崇神天皇が生まれています。ヒコフツオシノマコトはヤマトトトヒメの異母弟ですから、崇神天皇にとって異父兄のヒコフツオシノマコトの姉は義理の姉にということになるわけです。 もう一つの口伝では、開化天皇がイカガシコメを正妃とした時には、既にイカガシコメのお腹の中に崇神天皇を宿していたという可能性もあるわけです。そうなると、崇神天皇にとってヤマトトトヒメは異母姉。ヤマトトトヒメにとって崇神天皇は異母弟ということになります。 ヤマトトトヒメも実は非常に重要な「古事記から隠された祭主(伊勢神宮初代祭主)」でしたから、中国側が卑弥呼と勘違いするのもやむをえなかったといえます。ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメを同一人物だと勘違いしたのなら、時代考証的にも、卑弥呼の男弟は卑弥呼の時代に天皇の位にあった崇神であったことがわかるわけですね。 では、『魏志倭人伝』で「唯男子一人ありて、飲食に給し、コトバを伝え、居所に出入す」と書かれている「ただ一人の男子」とは誰でしょうか。(続く)
2020.06.17
コメント(0)
「魏志倭人伝」を見てゆきましょう。景初二年(あるいは景初三年)に、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたという記述があります。西暦でいうと、238年あるいは239年です。崇神天皇の即位年は220年で、次の垂仁天皇は254年ですから、ちょうど崇神天皇の時代に卑弥呼ことヤマトトトヒモモソヒメは「親魏倭王」の称号を得たことになります。 仮に孝元天皇元年(186年)にモモソヒメが10歳だったとしたら、「親魏倭王」をとなったのは、62歳くらいだった計算になります。「年既に長大なりしも夫壻(ふせい)なし」と書かれていますから、まさにその通りとですね。 「男弟ありて、国を治むるを佐(たす)く」と書かれていますが、男弟とは崇神天皇のことです。中国側から見れば祭祀王がトップですから、統治王である崇神天皇は祭祀王の補佐ということになるわけです。 しかし、系図をよく知る人は、ヤマトトトヒモモソヒメは崇神天皇の弟ではなく、孝元天皇の弟であるから記述がおかしいと思うかもしれません。そう、確かに間違っています。だけれども、これにも理由があるんですね。 同時代の巫女であるヤマトトトヒモモソヒメと、開化天皇の実妹ヤマトトトヒメが同一人物であると中国側が勘違いしたと考えると、すべて説明できてしまうんですね。 問題は、この時代の複雑な皇室の系図(人間関係)にあります。(続く)
2020.06.16
コメント(0)
倭国大乱は、中国の『後漢書』「東夷伝倭条」に、「桓霊の間」すなわち桓帝と霊帝が統治した西暦147年から189年にかけてあったと書かれています。孝元天皇が即位した186年ですから、おそらく孝元天皇が即位してほどなく、大乱は収まったことを中国の歴史書も裏付けているわけです。孝元天皇の正式名称は、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくうにくるのみこと)といいます。国玖琉(くにくる)とは国をくくるという意味で、再び国が一つにまとまったことが読み取れると竹内氏は言います。 まさにちょうどこのころ、孝元天皇の異母妹であるヤマトトトヒモモソヒメがイスケヨリヒメ以来、久しぶりに皇女が祭祀王に就任しました。 これがほぼ、『魏志倭人伝』の記述と一致しますね。 「邪馬台国は元々、男子を以って王と為していたが、70~80年後に倭国乱れ、ずっと戦い合っていた。このとき、皆が一女子を立てて王と為したら、国を治めることができるようになった。その女王を卑弥呼と呼んだ」というようなことが書かれています。 ただし、邪馬台国が大和に再び戻ったのは、次の開化天皇の時代だといいます。開化天皇は204年に天皇に即位しています。卑弥呼ことヤマトトトヒモモソヒメはおそらく、孝元、開化、崇神という三代の天皇の時代に祭祀王を務めました。崇神天皇が即位したのが220年で、卑弥呼が亡くなったのは248年ごろとされていますから、崇神天皇になってからも28年間祭祀王を続けたことになります。逆算すると、本当に若くして祭祀王に抜擢されたことがわかりますね。(続く)
2020.06.15
コメント(0)

邪馬台国(大和国、倭国、日本国)が再び大和の地を奪還できたのには、二つの大きな理由があります。一つは竹内氏が言っているように、女性が再び祭祀王になったことです。孝元天皇の妹であるヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)ですね。第百代卑弥呼(日巫女あるいは日御子)です。 初期のころの卑弥呼はこちら。 スメルの女王プアビです。大英博物館に展示されているプアビ像を撮影したものです。初代卑弥呼(日御子)かもしれませんよね。 女性が祭祀のトップに就くことによって、「全員の目的型組織になったから」吉備国に勝てたのだと竹内氏は言います。女王が国を一致団結させたということですね。 もう一つの理由は、孝元天皇が正妃としてミカシキヤヒメの直系であるウツシコメを迎えたことです。ミカシキヤヒメはナガスネヒコの妹ですから、当然徐福の直系ということになります。これは大きいですよね。まさにアラハバキ系と言えます。ここまで理解している人は少ないです。だから、「東日流外三郡誌」を書いた人はよくわかっているな、と思うわけです。 アラハバキ系が正妃になったわけですから、一種の政略結婚であったともいえるわけです。東国の反乱も沈静化したはずです。 でもどういうわけか、竹内氏はそのことを書いていませんね。昨日も書いたように、「物部の一族の方」が嫁に来たと書いています。 実はよく系図を見ると、二代続けてアラハバキ系が天皇家の正妃についています。ウツシコメに次ぐ二人目がイカガシコメ。孝元天皇の側室となり、武内宿禰の祖となったヒコフツオシノマコトを生んだだけでなく、次の開化天皇の正妃となり、崇神天皇をも生んでいます。まさにアラハバキ王朝とも言える状態です。もっとも厳密にいうと、徹底抗戦して東北に逃げたアビヒコとナガスネヒコが後にアラハバキ系になったのであって、和平派として大和国に残ったミカシキヤヒメとウマシマジはアラハバキ系とは言えませんね。ただ広い意味で徐福系をアラハバキ系とみれば、確かに「東日流外三郡誌」がいうように、開化天皇や崇神天皇はアラハバキ系となるわけです。(続く)
2020.06.14
コメント(0)

昨日、新刊『世紀の啓示書オアスペの謎を解く』の見本が送られてきました。だいたい、見本が著者に送られてきてから書店に並ぶまでの期間は、一週間ほどです。早いところでは来週の金曜日(19日)には店頭に並ぶことになると思います。この本のあとがきで秋山氏も書いておりますが、今回の本は『オアスペ』が提示した人類7万8000年史に焦点をあてたため、地球最古の言語であるパン語を含む言語の分類や言語史、それにシンボルの意味・分類を扱った第35章の「サファーの書」や、宇宙の起源・進化論や予知・霊能力の開発法などが記された第38章の「宇宙進化論と予言の書」を、図表と簡単な説明だけの、さわり程度しか紹介できませんでした。出版の機会があれば、それらは『オアスペ』の知識編として解説本を出したいなと思っています。言い換えると、今回の本は、『オアスペ』の歴史編の解説書ということになります。しかしながら、この歴史編だけでもものすごい内包力があります。日本には「竹内文書」という気宇壮大な、SFに近い古史古伝があります。ところが、その「竹内文書」ですら、『オアスペ』の中では、ただのローカル史になってしまうんですね。「正統竹内文書」の宇宙観や歴史観も例外ではありません。すべて『オアスペ』が描く宇宙観の手の平の上の小さな物語となります。「竹内文書」がどうして誕生したか、なぜそのように言い伝えられてきたのか、『オアスペ』を読むと本当によくわかるようになります。同時に「竹内文書」や「正統竹内文書」の世界が、神や霊界のことを良く知るイヒンという人種の血が濃い人々によって語り継がれたのだということもわかってきます。当然のことながら、「聖書」を含め世界各地に伝わる聖典や口伝も『オアスペ』の前では一地方史や一民族史、あるいは一宗教史になってしまいます。かといって、我々は『オアスペ』の内容を鵜呑みにしているわけでもありません。そこには何らかの真実があるに違いないと思って、問題点を指摘しながら、丁寧にその真実性を解説しています。英語の原文は上下二巻一万円ほどで手に入ります。ページ数が多いのでどうしてもそのぐらいの値段にはなってしまいますが、その価値はあります。原文を読んでもいいし、我々の解説書を読んでもいいし、20世紀の西洋スピリチュアリズムに多大な影響を与えたとされる『オアスペ』を是非、読んでいただければと存じます。アマゾンはこちら。
2020.06.13
コメント(0)
三人の桃太郎の活躍によりようやく吉備を平定した邪馬台国こと大和国は、九州から大和への東遷を図ろうとします。西暦186年に即位した孝元天皇の時代です。 残る抵抗勢力は、東国の人たち、すなわちアラハバキ軍ということになります。ここで思い出してもらいたいのは、『東日流外郡誌』では孝元天皇はアラハバキ系であったと書かれていることです。「えっ!?」って思いますよね。なんでアラハバキ系なんだ、と。 断っておきますが、この件に関して竹内氏は何も言っていません。ただ、「物部一族の方が竹内家(当時は天皇家)に嫁いできた。その段階で出雲系と大和系(天皇系)の統合があった」とだけ書いてあります。 実はこれが非常に重要なポイントなんですね。孝元天皇はアラハバキ系の王女を正妃に迎えたんです。太田亮の『系図要綱』をよく見ると、浮かび上がってくるでしょ。ナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの直系を孝元天皇は正妃に迎えるんです。一種の政略的結婚です。竹内氏はこれを「物部一族の方」と呼んでいるんですね。間違いではありません。ミカシキヤヒメと政略結婚したのは、物部氏の祖であるニギハヤヒですからね。そうすることによって、孝元天皇はアラハバキ系の抵抗勢力を懐柔したのではないかと私は思っています。このことについては、もう少し詳しく語りましょう。(続く)
2020.06.12
コメント(0)
孝元天皇が本格的に吉備攻略に向けて動き出す前、孝霊天皇の時代にも天皇の兄・オオキビノモロススミノミコト(大吉備諸進命)が軍事王として吉備と本格的に戦ったと竹内氏は言います。名前からしても諸共に吉備に進んでいくぞ、という意味が込められています。 続いて孝霊天皇の息子にも二人の吉備津日子が出てきます。オオキビツヒコノミコト(大吉備津日子命)とワカヒコタケキビツヒコノミコト(若日子建吉備津日子)です。 この三人が、昔話で知られる「桃太郎」のモデルだと竹内氏は言います。伯父と甥二人の計三人を総称して「桃太郎」というわけですね。また桃太郎の一人である若日子建吉備津日子の娘のイナビノオオイラツメは後に景行天皇の皇后となってオウスノミコトすなわちヤマトタケルノミコト(日本武尊)を生みます。つまり、日本武尊の御祖父さんが桃太郎だったという、衝撃的な関係がここで明らかにされたわけですね。 竹内氏によると、『桃太郎』に出てくる黍(きび)団子とは、吉備を攻略したらもらえる領地のことであったといいます。黍団子に釣られて桃太郎に付き従った家来は誰だったかというと、犬養氏(犬)、猿女氏(猿)、鳥取一族(雉)です。戦ったとされる吉備の王(鬼)は、「温羅(うら)」。温羅の牙城(鬼が島)は鬼のように強くて崩せなかったので、和睦を装って宴会を開き、酔っ払って温羅が気を抜いているときに、女装した猿女君(さるめのきみ)が踊りながら温羅に近づき、隠し持っていた刀でバッサリと切り殺したのだそうです。騙して温羅を切ったので、「裏切る」という言葉ができたのだと竹内氏は言います。 この「裏切り」によって、吉備はめでたく平定されたそうです。(続く)
2020.06.11
コメント(0)

6月22日発売予定の新刊『しきたりに込められた日本人の呪力』のカバーが出来ました。黒地に黄色。なかなかいいですね。『世紀の啓示書オアスペの謎を解く』は早ければ明日にも見本が送られてきます。アマゾンでの発売予定が6月14日。書店に並ぶのは、それからしばらく経ってからだと思われます。
2020.06.11
コメント(0)
最初に東国からのアラハバキ軍に負けて、西に移動。さらに吉備国との戦いに敗れて九州に遷都を余儀なくされた孝昭、孝安、孝元天皇の時代ですが、その日向国には遷都した痕跡があると、竹内氏は言います。その痕跡こそ、九州にある大和の地名だというんですね。 九州・熊本県の山門(やまと)郡と近畿・奈良県の大和の地名が見事に一致すると竹内氏は言います。北にはどちらも三笠山があり、さらに遠くには志賀島と滋賀がある。九州の耳納(みのう)山は美濃と相対し、日田は飛騨、球磨(くま)川は熊野と響き合います。日向の伊鈴川は三重の五十鈴川、志摩という地名まで同じです。 明らかに大和と日向の間で遷都があったことがわかります。ただし、どちらからどちらへ遷都したかは、これだけではわかりませんね。 ただ状況からして、100年以上住み慣れた大和の地名を、避難先の日向でも使った可能性は十分あると思います。 日向国で国力を蓄えた邪馬台国は、反乱軍を制圧するために反撃を開始します。それが孝元天皇の時代ですね。(続く)
2020.06.10
コメント(0)
孝昭天皇の時代に始まった倭国大乱。竹内氏によると、吉備との戦いでは、孝昭天皇はいきなり「ぼろ負け」でした。その証拠は、孝昭天皇の子供の名前にあるといいます。兄が天押帯日子(あめのおしたらしひこ)で、弟は大倭帯日子国押人(おおやまとたらしひこくにおしひと)です。どちらにも「押」という字が入っています。「国を押している」という意味だそうですが、オシホミミに「勝」という字が三つも入っていたように、「勝」とか「押」が名前についているのは、「負けていることを隠しているとき」であると竹内氏は言います。 竹内氏はまた、東国で反乱があったと『正統竹内文書の謎』で記していますから、やはりナガスネヒコとアビヒコの子孫たちが大和国を取り戻そうとして侵攻してきたことがわかります。西国に吉備、東国に「アラハバキ」という強力な反乱軍がいて、王族たちはしばし大和国を離れなければならなかったのではないかと竹内氏はみています。 おそらく最初は「アラハバキ」軍に押されて、大和を追い出されたのではないでしょうか。その途中で、瀬戸内海での吉備国との戦いに敗れた。そして、そのまま九州(日向国)まで引き上げて、国力を再びつける必要があったのだと思われます。 同じような状況は、孝安天皇、孝霊天皇の時代にも続いたようです。これが竹内氏の言う九州遷都説ですね。次回はその九州遷都説の根拠を挙げてみましょう。(続く)
2020.06.09
コメント(0)
二日前、懿徳天皇の時代の祭祀王は兄のオキソミミで、シキツヒコは祭祀王ではなく軍事王であったと訂正しましたが、2013年に学研から竹内氏が出した『正統竹内文書の謎』ではオキソミミが祭主代で、シキツヒコが祭祀王であったとしていますね。それを『古事記の邪馬台国』で竹内氏が修正・訂正したことになるわけです。つまり私が書いたことも間違っていたけど合っていた、ということになります。 でもどうしてそういうことになるかというと、一面においてはしょうがないわけです。というのも竹内氏は12の長老家からそれぞれ口伝を継承するのですが、それぞれ皆違う口伝を竹内氏に伝授するからです。『日本書紀』でも一書(第五)に曰くとか、次々と別の書が出てきますよね。あれが常に12あると思えばいいわけです。 で、竹内氏の仕事の一つは、それらを全部聞いて覚えたうえで、審神者をして何が本当の歴史かを明らかにすることなんですね。ですから竹内氏は最初のころ(2013年の『正統竹内文書の謎』まで)は神武天皇の即位年を西暦56年としていましたが、その後2017年の『古事記の邪馬台国』までには、第73世武内宿禰としてすべての口伝を勘案したうえで、最終的に西暦57年であると決断したわけですね。 ちょっと脱線しましたが、次からは孝昭天皇の時代の倭国大乱の有様を見てゆきましょう。(続く)
2020.06.08
コメント(0)
倭国大乱の時代、大和国は大変なことになります。天皇の時代でいうと、孝昭、孝安、孝霊、孝元の四代です。竹内氏が指摘しているように、皆、諡(おくりな)に「孝」が付いていますよね。孝昭天皇が即位したのは西暦140年ですから、そのころから開化天皇が即位する204年までの約64年間が倭国大乱の時代であったのではないかと竹内氏は見ているようです。しかもその時代、葦原中国すなわち「邪馬台国」は大和から九州に一時撤退を余儀なくされたといいます。 なぜ「孝」という諡を付けたのか、竹内氏は明らかにしていませんが、「孝」には親をよく思い、親によく仕えることという意味があります。つまり、内乱によって大和国を追い出された形になってしまったが、親(先祖)がせっかく大和につくった国を取り戻すべく、よく頑張って戦ったという意味が込められているのではないでしょうか。 この竹内氏の邪馬台国九州遷都説は、魏志倭人伝の記述とも一致します。「女王国ではもともと男子を王としていたが、70~80年を経て倭国が相争う状況となった」と書かれていますね。神武天皇が即位したのが西暦56年ですから、それから70~80年後というと、西暦126~136年ごろとなります。孝昭天皇が即位した年(140年)とほぼ一致しますね。 ただし、ここにはトリックがあって、「もともと男子を王としていた」とありますよね。これはもちろん神武天皇に始まる統治王のことを指している可能性はありますが、魏志倭人伝の作者が倭人の王のことを祭祀王だとしている場合は、カムヤイミミ以降の祭祀王のことを言っているとも解釈できます。後者の場合だと、まさに孝昭天皇の時代から倭国大乱が始まったことになります。 では邪馬台国はどこと戦ったかというと、それは「造山(つくりやま)古墳」で知られる吉備国であったと竹内氏は言います。でも、おそらく東北に逃れたというナガスネヒコとアビヒコの子孫たちの動静も侮れなかったと思われます。彼らがおとなしく黙っているわけはありませんね ここで思い出されるのは、偽書とされて学界からは見向きもされない『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』です。アビヒコを祖とする東北のアラハバキ軍は、「懿徳天皇の後、南下して、大和王朝を空位ならしめた」としています。『帝皇日嗣極秘口伝』とぴったり一致するでしょ。孝昭天皇は大和国から日向国に逃げたので、大和国の王位はその後、空位となったわけです。 『東日流外三郡誌』はまた、孝元天皇はアラハバキ系であったとも書いてあります。一般の人には何のことか全くわかりませんよね。ところが『帝皇日嗣極秘口伝』もしくは本当の天皇家の系図を良く知るものなら、何のことがピンと来るようになっているんですね。ですから、『東日流外三郡誌』は偽書かもしれませんが、当時の天皇家ならびに王たちの系図をよく知るものが書いた一流の偽書であることがわかるわけです。(続く)
2020.06.07
コメント(0)
再び竹内氏の『古事記の邪馬台国』を解説していきましょう。第四代懿徳天皇まで来ました。兄のオキソミミが祭祀王で、弟のシキツヒコが軍事王になったようです。 2011年に私が書いた『竹内文書の謎を解く2―古代日本の王たちの秘密』では、シキツヒコを祭祀王、オキソミミを祭主代としてしまいましたが、これは間違いだったようです。訂正させていただきます。 言い訳がましく聞こえるでしょうが、そもそもオキソミミは『日本書紀』には出てきますが、『古事記』には出てきません。その場合は隠された祭祀王である可能性が強いということですね。たぶん出自(母親)を隠さなければならなかった。開化天皇の妹のヤマトトトヒメも『古事記』に出てきませんね。ヤマトトトヒメも隠された祭祀王ではないかと思っています。 それはともかく、それほどシキツヒコという人は、重要なポジションにいたことは事実です。シキツヒコの孫にあたるハヘイロネ(姉)から倭人伝の「卑弥呼(ヤマトトトヒモモソヒメ)」、妹ハヘイロドから鬼退治で有名な「桃太郎(キビツヒコ)」が生まれます。また、ハヘイロネは「アレヒメ」という世襲名をもらっていたとも竹内氏は書いていますね。「アレ」とは歴史を担当する文部大臣のような役職のようです。 懿徳天皇の時代に、大規模な農業改革をやったので、お米がたくさん収穫できるようになったそうです。経済的に潤って豊かになったので「徳」という諡(おくりな)をもらったとか。逆に豊かになったがゆえに、周辺国から狙われるようになったと竹内氏は言います。「魏志倭人伝」に出てくる「倭国大乱」に時代に突入したわけですね。(続く)
2020.06.06
コメント(0)

ようやく目途が立ってきました。『オアスペの謎を解く!』のほうは、おそらく来週見本が出来上がりそうです。『しきたりに隠された日本人の呪力』の見本ができて、家に送られてくるのは、15日ごろでしょうか。表紙はまだ決まっていませんが、「狐の御面」になりそうとか。なかなかよさそうですね。これも出来上がったら、お知らせしますほぼ同じ時期に二冊が出版されます。それぞれ面白いですよ。「オアスペ」は、スピリチュアリズムに関心のある方はぜひ読んでください。これを知っているのと知っていないのとでは、人生を生きるうえで大きな違いが生じます。オアスペを読めば、自分の人生をかなり達観して見ることができるようになります。本文にも書きましたが、将来的にはぜひ原文を読んでください。今回の本は入門編であると同時に、かなり掘り下げて、事象をわかりやすく解説してあります。我々以外の誰かがもしこういう本を出してくれたら、真っ先に私が買っていたでしょう。「しきたりの呪術」は、とても為になります。普段何気なくやっている所作や繰り返している風習に、そのような呪術的な面があったのかと気づかせてくれるのがこの本です。ご先祖様の知恵は侮れませんね。オカルト的な教養書と言ってもいいかもしれません。神社のお参りなども、この本を読めば、全く新しい観点からできるようになります。是非試してみてください。実はそうこうしているうちに、次の本の執筆が始まっています。それも追々お知らせするとして、今日ご紹介するのは、雲です。まるで豊雲神の行進です。巨大な雲の塊が、次から次へと通り過ぎてゆきました。
2020.06.05
コメント(0)

今日も引きつづき我が家の薔薇。いつも我が家では、一番たくさん咲いてくれる薔薇の一つです。出版社からの一回目の問い合わせも終わり、ほぼ校正が終了したようです。といっても、今週いっぱいは出版社のほうで最終校正で忙しくなると思います。私はちょっと一息ついております。ただし、この後、まだまだ執筆活動は続きます。
2020.06.04
コメント(0)

速攻で著者校正終了。32か所直しがったので、それを出版社に送りました。大詰めの作業が続きます。今日紹介するのも、我が家の薔薇です。アプリコット系の薔薇ですね。これも我が家の玄関のそばに咲いております。
2020.06.03
コメント(0)

『しきたりに込められた日本人の呪力』の最終校正中のため、ブログのアップは不規則になります。カバーが出来たらご紹介します。今日ご紹介するのは、再び我が家の薔薇。黄色いバラです。我が家の玄関のそばで、頑張って咲いてくれています。
2020.06.02
コメント(0)
神武天皇は後漢の光武帝から57年に「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」をもらった「倭奴国王(わのなのこくおう)」の可能性があります。「な」は「ぬ」とも「の」とも読みますから、神武の別名である狭野命(さののみこと)の「の」ではないかと竹内氏は言います。そうかもしれませんね。 でも本当に偉かったのは、イスケヨリヒメのほうであったと竹内氏は言います。どういうことかというと、当時は統治王と祭祀王がおり、祭祀王のほうが上席にあったからだそうです。つまり神武天皇が統治王で、イスケヨリヒメが祭祀王だったわけですね。 タギシミミの乱の後、統治王になったのは、綏靖天皇。祭祀王は神八井耳(カムヤイミミ)です。天下を安んじて治めることができたので、奈良時代の漢学者で、『帝皇日嗣』を知る淡海三船が「綏靖」という諡(おくりな)を付けたそうです。 次の安寧天皇は兄弟がおらず、兄弟間の揉め事もなく安らかに統治王になったので「安寧」になったとか。この時代に祭祀王を務めたのは、タギシミミの息子のキスミミです。謀反を起こしたタギシミミの息子が祭祀王になれるわけですから、何か深い事情がありそうですね。その辺の事情はわかりませんが、タギシミミも実は殺されておらず、逃げたか流刑になった口伝もあるようなことを竹内氏は話しておりました。安寧の本名である師木津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の「師」が、倭の国王「帥升(すいしょう)」と名付けられた理由ではないかと竹内氏はみているようです。 安寧の次の統治王は懿徳天皇。祭祀王は息石耳(オキソミミ)です。耳という字がやたら目につきますが、ミミとは神の声を聞くことだそうです。つまり、まさに「祭主」「祭祀王」ということになりますね。そうなると、ミゾクイミミの別名を持つタケツノミも祭主だったのでしょうか。(続く)
2020.06.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
![]()