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さて、古市憲寿氏の話に戻ると、かれは世界中の戦争に関する博物館を回ってミシュランふうの採点をつけているが、われわれ高齢者は古市氏のような若い世代がかつての戦争についてどういう裁断を下ろすのかについて興味がある。彼の採点によると、中国、韓国、シンガポールなど日本の被害を大きく受けた国はとりわけ被害性を強くアピールして博物館の目的性を果たしているが、そうでない加害側の日本の歴史博物館はいったい歴史の何をアピールしようとしているのか不明であるという。古代の石器や矢尻などをやたらに並べている。これは"物"にたよって歴史を展示しようとしている態度で、梅棹忠夫は日本の考古学の方法を批判している。中学校や高校の歴史の授業ではやたらに縄文時代の話が多く学期末にやっと現代史に入るが、そこは駆け足ですませてしまうから、「誰も戦争を教えてくれなかった」ことになる。しかし日本人の大人でも戦争をどれだけ知っていたかは、疑問である。戦後になってわれわれ高齢者もやっと戦争に至る前後の歴史を知ったわけである。310万人の死者を出し、焼け野原になった犠牲を払ってやっと知るに至った。昭和7年に朝日新聞社が満州国の建国宣言に疑問を呈した国連調査団のリットン報告書全文を出版しているが、当時の報道や書物、講演記録などをみるとリットン報告書をことごとく無視したものが多かった。昭和7年(1932)から12年(1937)の日中戦争の開始までに昭和11年のノモンハン事件、昭和13年の張鼓峰事件などが起こって日本軍はソ連軍から甚大な被害を受けているが、当時こういう事実は報道されなかったからほとんど知ることはなかった。昭和11年の西安事件も知らされることはなかった。つまりリアルタイムではそういうニュースは国民に知らされることはなかった。戦後になって報道も出版も自由になっておびただしい事実を国民は知ることになった。だから大人たちでさえ戦争を戦後になって教えられた。今は戦後生まれの人が98%に達し、戦争を推進したり経験した世代はほとんどいなくなった。孫かひ孫の時代になった。それなのに韓国や中国から日本は謝罪せよ、賠償せよ、といわれると、そんなこと俺たちの知ったことかと若者たちは思うようになり、大久保で反韓のヘイトスピーチが行われるようになった。韓国の方も感情的になって、映画の話だが、まさかの北朝鮮と一緒になって日本にミサイルを打ち込む場面では観客が総立ちになって喝采したそうだ。日米韓というのは長い間一体として見られていたのに、なんという変わり方だろう。今安倍政権は戦争ができる法制度や体制をつくり、いつでも集団的自衛権をやろうとしているが、実際には、戦争の可能性は遠のきつつあり、宣戦布告を伴う戦争行為は人類は行わなくなるだろうと言われている。問題は歴史認識であるが、若い世代がこれをきちんとおこなうことによって事態が変わるであろう。ではどこをけじめとして、してはいけないことは何かである。サンフランシスコの講話条約で日本は多くの国との戦争状態を終わらせ、国連に復帰することになった。このとき、インドネシ、南ベトナム、フィリピン、ミャンマーなどの国を除いて、賠償を免除してもらい、賠償額も10分の1位にさげて日本の経済復興に役立つ役務賠償にしてもらった。戦争犯罪追求では7人の絞首刑と15人の禁固刑がきまった。私はこの講和条約が国際的に約束したひとつのけじめだろうと思う。東京裁判は勝者が敗者を裁いた国際法を無視した裁判であると強硬にいう人がいるが、公平な国際裁判などというものは存在しないのであるから、言っても仕方がない。これはひとつの戦争終結の手続きであり、日本に戦争放棄の憲法を押しつけたのも、戦勝国が決めた手続きであった。日本人は全体としてこの手続きを守ってきた。この憲法のおかげで、アメリカから再軍備しろという要求をさける手段にしてきたし、70年間、国際紛争を解決する手段としての戦争に関わることをせず、イラクに自衛隊が行った時も後方勤務ですませることができた。しかし、日本人の中には、今の憲法は日本の国力を根こそぎそぐためにアメリカが押しつけた憲法であるから、作り直すべきであるという意見があり、これは一般論としては正しい。しかし、A級戦犯の処刑は戦勝国が勝手にやったものであり、分祀せずにいつの間にか靖国神社に合祀し、日本の首相が参拝することは正当であり、外国からとやかくいわれる筋合いはないという人がいるが、これは外交を知らない人の勝手な論であり、日本人自身にとってもおびただしい犠牲を強いた戦争に導いた指導者は裁きを受けてしかるべきであり、終戦を1年早めれば100万人以上の人命を救うことができたのに、それをしなかった彼らは全くの無能であったと多くの日本人が感じている。韓国や中国のように日本から深刻な被害を受けた国が戦前の日本帝国の復活を警戒を抗議するのは、彼らの防衛的な論理から言って理解できる。しかしいつのまにか、国のために命を捧げた将兵をお参りするのは当たり前ですという論理にすり替えてしまっている。戦争を推進したり、参加した世代がもはやほとんど死んでしまって、孫かひ孫の世代になってしまった日本人に戦争の責任がまだあるのかという疑問、もうないという論、学校では歴史認識を教える必要はないという言説があるが、世界には歴史を記録した文書や人々の記憶・認識が山のように存在しており、消えることはない。もし、若い人たちが将来日本を背負ってたつ人材になろうとするならば、歴史認識を正しくもっていないとグローバル化した世界で活躍することはできないであろう。したがってこのための教育が絶対に必要である。中国を侵略した欧米先進国が中国にどう謝罪したかを探ったことがあるが、そういうことを聞いたり読んだことはなかった。しかし、第二次大戦で中国側の同盟国として援助したことでそれが帳消しになった。加害した分の半返しがあるかないかである。古市は戦争の記憶は年々薄れてゆくのが人間の自然であって、やがて後百年もすれば、戦争は忘れさられていくだろうとしている。それは自然のながれであるが、それにさおさすように大日本帝国の復活を賛美するような言説をなす者は、被害者に突然かつての恐怖と憎悪を思い出させるのである。
2013/11/24
古市憲寿が回った歴史とか戦争に関する世界の博物館が著書の巻末にでている。国立歴史民俗博物館、平和祈念展示資料館、しょうけい館、昭和館、遊就館、東京大空襲戦災資料センター、在日韓国人歴史資料館、アウシュビッツ博物館、侵華日軍南京大屠殺遇難同志記念館、9・18歴史博物などなど国内外47館を訪れている。それぞれの施設にミシュランみたいに自分で考えた評価店をつけている。それは、エンタメ性(どれだけ来館者を楽しませようとしているか。(目的性(博物館がメッセージを伝えようとする本気度)、真正性(展示している内容の真実性とアピール度)、規模(大きさ、公共性、資金投入量)、アクセス(交通の便利、立地など)の5つである。総合点順ではザクセンハウゼン記念館・博物館(ドイツ)が88点、アウシュビッツツ博物館(ポーランド)が84点、戦争記念館(ソウル)84点、ベルリン・ユダヤ博物館9ドイツ)80点、独立記念館(ソウル)80点、アリゾナ・メモリアル(アメリカ)76点、シロソ館(シンガポール)76点、ヨーロッパ・ユダヤ犠牲者記念館(ドイツ)72点、侵華日軍南京大屠殺遇難同志記念館(中国)72点であう。日本の記念館は点が低く軒並み50点前後。戦争とか戦争被害に関する博物館と言っても、そこに行く楽しさがないと、誰も行かないし、1度行ったら終わりになる。楽しかったり、学習度が満足されればリピーターになる。古市はそれを一番に考えている。古市が日本の博物館の目的性が低いとしたのはいったい何をアピールしたいのかがあいまいではっきりしていないと指摘している。たとえば千葉の国立歴史博物館は縄文・弥生の石器ばっかりスペースを取り、肝心の大正、昭和の展示スペースはほんの一部で、真剣に日本の近代史や現代史を伝えようとしている気がないとしかいいようがないとしている。真正度はきわめて重要であるが、これを如実に伝えているのは、言葉や文書ではなくやはりアウシュビッツに大量に残された犠牲者のメガネとか髪の毛とか靴である。当時の兵器とか銃弾とか、軍服とかの物であるという。古市によると、戦争の被害を生々しく伝えるやり方が次第に緩和してきて、全体的にエンタメ的になって来ているという。だから古市は恐怖感とか嫌悪感というのはあまり生じなかった。古市氏は今28才であり、戦争を全く知らない。したがってこういう遺品を見ても戦慄するとかいうことはなく、想像力が広がらない。かつてこういう被害を経験した人がしばらくぶりに訪問して、過去に見た物を見て思い出して戦慄するというのとは違うのである。中国や韓国の戦争博物館に行ったとき、日本人は古市だけだったが、中国人や韓国人は展示を見て興奮したり怒ったりするそぶりは見えなかった。また古市が自分が日本人であると打ち明けても、人々はアッケラカンとしてとがめ立てなどするようなことはなかったという。これはどういうことだろうか。もはや時間が経ちすぎ、戦争を想像することができなくなったのだといえよう。あの時代は物語の世界に入ってしまったのだ。私が子供の頃、日露戦争に参加した兵士から話を聞いても、そんな昔の話はピンとこなかったのと同じであろう(続く)
2013/11/15
上野公園を散策、幸せの時間を味わう。昨日は上野の芸大に用があって行った。はじめて芸大の中に入った。これほど快適なキャンパスはあり得ないだろうというほど贅沢な広さと緑の豊富な静寂さ。芸術を深めようとする学生たちにとってこれほど恵まれた環境はないだろう。上野中学の方まで行って引き返す。昔よく通った上野の図書館が「こども国際図書館」という名に変わってそこにあった。見るからに古めかしい建物になっている。懐かしいので中をのぞいてみた。学生時代から独身時代、40年くらい前まで何年この図書館に通ったことか。大勢の人が出入りしてするため階段の手すりはすり切れ、漆喰の壁はひび割れ、廊下は薄汚れてえいたのに、今はピッカピッカに修復されてまばゆいばかりだ。かつて大勢の人がひしめくようにして大テーブルで本を読んでいた大閲覧室はこともの本の展示場になっていた。でも、明治の建物の何という贅沢さだろう。天井は9メートルも高く、まばゆいばかりに漆喰が白く、およそ図書館とは思えない。私の青春時代がそこにあった。そこ出て上島珈琲店でコーヒーを飲む。室外にまで電気ストーブがあって、暖を取りながら、おちついた幸せな時間を楽しむ。上野公園の界隈は東京でも出色の空間である。しみついた山の手の文化の香りがあり、人々がそれぞれ文化を携えて集まってくる。帰りに吉祥寺に寄って魚を買って帰る。小熊英二の続きを書くと、小熊は日本は安全にアメリカの家来になったと言っている。小熊は、一番務好き悪しいが一番いい選択は日本がアメリカとの安保条約を廃棄し、東アジア諸国路と共同防衛機構をつくり、戦後補償問題や歴史認識問題について話し合い、各国と交渉のテーブルにつく。戦争の可能性はますます遠のき、自然に憲法の9条も廃棄される。日本はごく自然な国になるのがいいという。私もそうなることをねがっている。
2013/11/14
第二部が「戦後日本の道のりと現代」で始まる。1952年4月、日本はサンフランシスコで各国と講和条約をむすび、調印した国と戦争終結の式を行った。参加した国は49カ国、ほとんど日本との戦争に関係のないような国も含んでいたが、インド、ビルマ、ユーゴ、中華人民共和国、中華民国(台湾)ソ連、韓国は参加しなかった。この条約で決まった主なことは、朝鮮の独立、日本は日清戦争いらい獲得した一切の領土、植民地を放棄した。樺太、千島、台湾、太平洋諸島、および在外特権はすべて失った。沖縄や小笠原諸島はアメリカの委任統治領になった。日本の戦争責任は東京裁判で裁かれ、A級戦犯7人が死刑、16人が終身刑で確定した。東京裁判は勝者が敗者を裁く裁判で法的な根拠に欠けることは明らかだが、当時も今も法的に公平な国際裁判などは存在しないから仕方がない。結果から見たら戦犯の死刑者7人は妥当であるといえる。日本はこの裁判の結果、講和条約を受け入れた。戦争の死者被害は日本310万、韓国・北朝鮮20万、台湾3万、中国1千万、インドネシア200万、ベトナム200万、ミヤンマー5万、フィリピン100万、マレーシア5万、シンガポール8万で戦場になったアジア諸国に大きな被害を与えた。講話条約で、無一文になった日本からは賠償金をとるなとアメリカが圧力をかけ、どうしてもきかなかった被害額の大きいインドネシア、フィリピン、南ベトナムは大幅に要求額を削られたうえに、役務賠償という形で、日本の復興に役立つ形で行われることになった。講話条約に参加しなかった韓国とは1965年に日韓条約を結んで、3億ドルの無償供与、2億ドルの有償援助、1億ドル以上の資金協力で妥結し、賠償問題は解決済みとした。ソ連とは鳩山内閣の時に戦争終結を行い、北方4島はハボマイ・シコタンの返還を保留することで交渉継続になった。最大の被害国中国とは、1972年に田中角栄と周恩来首相との間で日中共同声明を出して国交が復活した。中国は賠償を放棄した。これは大変な決断であったが、周恩来首相は、戦ったのは日本の軍閥政府であり、国民ではない。気の毒な日本国民を賠償で苦しめたくないという理由を挙げた。台湾の蒋介石も賠償を放棄した。 戦敗国としてのくびき日米安全保障条約華やかなサンフランシスコ条約のセレモニーが終わった直後、吉田首相は一人だけ、アメリカの国防省に連れていかれて、軍事官僚の前で、日米安全保障条約に調印させられた。日本はアメリカから押しつけれれた憲法により、憲法9条により自衛のための戦争まで放棄させられた。戦争で疲弊しきった国民からはほとんど抗議はなく、国全体がこぞって平和憲法を世界に冠たる日本の誇りだとことほぎ、国内外に宣伝した。しかし安全保障条約は強国が保護国すなわち植民地を外国から守るという名目で支配権を掌握するというのが国際常識である。ソ連が攻めてきてもアメリカが守ってやる、そのためにアメリカ占領軍は継続して駐留することになった。したがって講話成立後90日以内に全ての外国軍隊は撤退しなければならないのに、アメリカ軍は引き続き駐留し、旧日本軍の軍事基地を自国の基地として継続使用することになった。現在、アメリカ軍を日本から撤退させることは諸処の理由をつけられて至難の状態であり、これを招いたのは、日本がアメリカから求められた再軍備、海外派兵を断るかわりに、基地を貸すことに同意し、そのために巨大は思いやり予算をつけたことが禍した。
2013/11/11
この本は200ページで1200円、やさしく書いてあるので読みやすい。これほどやさしく圧倒的な説得力をもって書くのは相当の学識に裏付けられていないとやれない仕事である。高齢者の私もまったく感心した。この本は第1部 明治の日本のはじまり と第2部 戦後日本の道のりと現代 に分かれている。まず第1部は福沢諭吉の「学問のすすめ」からはじめている。福沢がなぜ学問をしないといけないかを説いたのは、当時は学問などしないでもよい時代だったからだった。農民の子は大人になっても農民で、商人の子は親の職をついで商人になるのが普通であり、身分制度でそう決まっていた。農民なら学問よりも、米の植え付け、草取り、稲刈りなどの仕事を覚えるのが先であり、商人の子はせいぜい字の書き方やソロバンを習って商売の仕方、客のあしらい方などを覚えれば良かった。明治政府ができてから義務教育制度をはじめたが、英語のコンパルソリイ エヂュケイションを「強迫教育」と訳した。つまり強権をもって国民にむりやり課すという感じ。これで農民や商人から、役にも立たない学問のために家業ができなくなると不満が爆発して学校焼き討ち事件まで起こった。福沢が目指したのは、身分制度は親の仇でござるで、農民でも商人でも学問をして身をたてれば国家の指導者や中堅層になれるし、収入も格段に増える。しかも国を強くするには、このような新しい国民が育ってこなければ、国を近代化できないという考えから発している。なぜ国を強くしなければならないかは、そうしないと西洋の白人国の植民地にされてしまうからだという危機意識からだった。だから脱亜入欧というスローガンができた。福沢は「脱亜論」でこれからは日本も西洋の国のようにアジアの国を侵略する方に回り、近隣国だからといって遠慮せずにシナ、朝鮮を亡ぼすべしと書いている。こうして日清戦争、日露戦争、第一次大戦で日本は朝鮮、台湾を奪って領土化した。明治の40年代になって月給取りというものが現れる。これは日当とか出来高とかとはちがって毎月の収入が保証されるからたいした厚遇で、公務員とか大きな会社がはじめた。小熊が引用している例をみると、小学校の先生初任給6円、中学校の先生15円から30円、大学を卒業した校長60円、大学を卒業した県令という高級官僚250円(これを今の価格に換算したら2500万円というから以下に格差が大きいかがわかろう。たまたまよんでいた「ノモンハンの夏」(半藤一利)に昭和の初め頃の軍人の戦地増俸がのっていたので引用すると、大将545円、中将480円、少将410円、大佐345円、中佐250円、少佐200円、大尉145円、中尉115円、少尉105円、准尉110円、曹長85円、軍曹34円、伍長27円、兵長18円、上等兵14円、一等兵・二等兵12円とあった。この格差はひどい。というように学問をして位が上がるとこれだけの収入があり、農民の暮らしとは段違いだったということがわかるとにわかに進学熱が上がり、みんなミリして学校に行くようになった。日本は大発展して中国の東北部地域に満州国という植民地をつくった時から、中国民衆との抵抗が熾烈になり、やがてそれが第二次大戦になって米英ソと戦い、敗れて、海外の植民地、朝鮮、台湾、樺太もなくなり、国後・択捉も取られ、スカンピンになった。(続く)
2013/11/09
若い人たちのリーダーはこの2人この2人とは、小熊英二と古市憲寿である。小熊は1962年生まれ、慶應義塾大学の教授。古市は1985年生まれ、東京大学の博士課程に在籍している社会学者。小熊は岩波の編集者として戦後出版されたおびただしい著作物を読み、「戦争も知らなかったが、戦後(戦争直後)も知らなかった」という弁で「民主と愛国」という分厚い本を書き、6千円という価格にもかかわらずベストセラーになった。小熊の圧倒的な勉強量と知識量はどんな大人も反論を許さないほどである。最近「日本という国」という若い人たちを対象とした書いているが、今後若い人たちがスタンダードな常識書としてよい好著である。一方の古市は「絶望の国の幸福な若者たち」という本がベストセラーになり、最近「誰も戦争を教えてくれなかった」(講談社)が注目されている。古市は日本にある戦争に関する博物館、平和記念資料館、歴史博物館から始まって、外国の戦争博物館、たとえば真珠湾、アウシュビッツ博物館、ベルリンン・ユダヤ博物館、中国、シンガポール、マレー、香港、韓国と軒並みアジアの戦争博物館や独立記念博物館を訪れている。古市は今28才の東大に籍をおく社会学者で、この人の本をよんでいると若い人の見方や考え方が分かる。古市の本の巻末に、10代の若い女性歌手グループ、ももいろクローバーZに古市が戦争に関する初歩的な質問というかクイズをしているが、彼女たちは日清戦争、日露戦争、第二次大戦の順序もわからない、日本とアメリカが戦争をしたのは1970年頃なんていう答えをしている。彼女たちが習った歴史の授業は縄文・弥生時代がやたらにながく、関ヶ原から現代まであっというまに終わってしまったというから、教育のせいということを強く感じる。若い人が過去の歴史に目がいくというのは、だいたいまれなケースで、私が10代初めの頃、日露戦争に行った人たちがまだいて、さかんに日露戦争の話などをしてくれたが、35年も前のことなどは、私にとって物語の世界で、自分に関係ない世界だった。だから今の若い人が70年も前の戦争の話を聞いてもピンとこないのは}当然といえば当然である。若い人に対して、歴史を語るにはどういう人がよいかというと、戦争体験のある高齢者などが高い目線で話すよりも、若い人がより若い人に勉強したことを話したほうが、伝わりやすい、それも相当の学識が必要であるということを感じているので、小熊と古市がうってつけの存在であると思う。今、国際的に問題になっている"歴史認識"問題の解説こそこの2人に負うところが大きいのではないか。小熊の「日本という国」、古市の「誰も戦争を教えてくれなかった」について、順に内容を次回から要約してみたい。
2013/11/07
昨日は府中刑務所の38回文化祭があり、久しぶりに行ってみた。在所者たちがつくった製造品の販売がハイライトである。刑務所内には紡績工場から木工工場、皮革工場、金属加工、紙製品などの製造現場があり、在所中に技術を習得して社会復帰するというのがもともとの計画である。靴、鞄などの皮革製品が人気があり、靴などは市販品より2割くらい安くデザインも立派なものに仕上がっている。買えばちゃんと箱につめてくれる。これ以外に木工のタンスやイス、金属でできたアウトドアー用のバーベキュウセット、ノートや便箋などの真美製品、陶器類、裁縫製品など質が非常に高い。私は主にノートや便箋など安い物を購入した。広場でライブで昔の流行歌を演奏していた。在所者が一日も早く自分を取り戻して社会復帰するのを涙ながらに待ち望んでいる家族の心情を歌った歌が心を打った。ところで府中刑務所の年間の入所者すなわち受刑者は2万人程度でピーク2万5千人からこの5年間ほどは漸減している。増えているのは外国人と高齢者で、65才以上の高齢者の入所者は年間2千人ほどでずっと増え続けている。しかも再犯が多い。この前、構想日本が主催した玄秀盛氏の出所者居酒屋づくり計画の講演を聞いた。玄さんは韓国人であるが日本国籍を取得し、最底辺の労働者か身をおこし、一時はやくざ、一時は年商20億円の会社経営者など波瀾万丈の人生を送ってきた。それが白血病保菌者であることがわかり、余命あと10年と言われた。以来それまでの過去を捨て、新宿歌舞伎町で駆け込み寺をひらき11年間で2万人の相談をし、多くの人を助けてきた。映画やマンガ、アニメなどに紹介されて全国で知名度を得ている。この人が余命あと3年だと考えて最後のプロジェクトをやろうとしているのが出所者居酒屋である。刑務所を出た人は、仕事はないし、金はない、家族も友人も離れてしまい、社会に受け入れられず、日陰者としてせいぜい夜警とか3Kの仕事をしているが、生活が辛く孤立しているのでついつい昔の仲間に誘われて再犯してしまう率が高い。玄さんは彼らにとって必須なのは暖かい扱いを受けられる場、互いに助けあって更正できる居場所で、それは居酒屋がいちばんいいと言う。歌舞伎町には居酒屋が多くあり、玄さんはそういうところに出所者を出して実験した結果、なんとか自信があり、歌舞伎町を発信所として全国に30店舗を来年中に開きたい計画を熱心に訴えていた。この計画には元厚生省で障碍福祉課長をやっていた元宮城県知事の浅野史郎氏が玄さんと同じ病気であることを縁に協力を申し出ている。再犯をくりかえすもう一方の人は自分をデザインする能力がなく精神的に自立困難で、出所しても1年以内に在所生活に戻りたくて再犯を犯す障碍者である。浅野さんの専門分野でこれは全国で救護センターができており、収容しているという。私は玄さんの計画を期待し、居酒屋ができたら、知研の人たちを誘って飲みに行こうと思っている。
2013/11/03
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