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自分自身の品格を知るためには他人との 触れ合いを大切にすることが必要なことで あると思う。多くの人達と自由に交流する ことによって、人は自分の能力を正しく評価 出来るからである。そうでないのであれば、 うぬぼれが強くなり、思い上がった傲慢な人 間になってしまうだろう。 経験を積んで人間的に成長した人は、目に つくものをみな正しく判断し、日常生活で おこる課題を把握しようと努めている。 この様な人と付き合わなかったことによって、 自分の本当の姿を見いだすことなく人生を 終わってはならない。 我々は自分を大切にするのみではなく、 社会に向かって心を開いて行くべきである。 そして大切なことは、自分よりも賢明で経験 豊かな人達に教示を仰ぐことを恥と思っては ならないと言うことである。
2011.11.30
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人は生きている間に、世の中に存在している一員として自己のなすべき ことを忠実に果たして行かなければならない。このことを価値ある人生の 目標としたいものである。 このことを自覚して生きることによって、人に満足感を与え、それがなけ れば後悔と失望の念を抱くことになるだろう。 かりに地上での生活が短いものであっても、定められた場所で大きな 目的に向かって最大限の努力をして行くべきである。この大任を果たせるよう 自己研鑽を継続して行くことが重要なことであると考える。
2011.11.29
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この世の中に存在している不幸と悪との殆どすべてのものは、、 優柔不断なことか、あるいは目的意識がはっきりとしていないとかによって 生じいるいるように見られる。別の言葉で言えば、勇気がないからである。 人はみな、正しいことは何かを知っている。 それにも係わらず、正しい ことを行う勇気に欠けていることが多い。自分が果たすべき義務を心得て いながら、それを実行に移すために必要な決断力を奮い立たせる ことをしていない。 意思が弱くて信念のはい人は、あらゆる誘惑に誘導されてしまう。 「NO」と言えずに誘惑に負けてしまう傾向にある。交流のある友達が 悪い人であれば、その悪い見本に刺激を受けて、いとも簡単に悪の道 にはまりこんでしまうのである。 人格は、自分自身の活力ある行動によって生み出され、強化されて いくものと言われている。人格を形作る一番強い力となっている意思は、 決断をするという習慣で鍛える必要がある。もしそうでなければ、悪に 対抗することが出来ないばかりでなく、善に従って行動することすら 出来なくなってしまうだろう。
2011.11.26
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心にわだかまりがないように心掛けると取り越し苦労をすることはなく なる。常に心を現在のむけて行動することである。すべての気苦労は 現在の生活に対してなされるべきで、現在の生活を後回しにして避ける のは好ましいやり方ではない。過去や未来ではなく 現在を賢明に生きる ことである。未知の世界を恐れずに、新しい経験を自分から求めて 現在の一瞬一瞬を精一杯幸福に生きることによって、未来への道が 開かれて行くものと思う。
2011.11.25
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我々が生活して行く上において、勇気ある人達に支えられることが 多いと思う。勇気と言っても、単に身の危険を恐れないような肉体的 な勇気だけを意味するものではなく、重要なのは精神的な勇気である。 つまり、真理と義務を重視するためにあらゆる困難と苦しみに自ら立ち 向かう、内に秘めた静かな努力と忍耐力のことである。 我々の社会において考えられる勇気としていろいろな見方があると 思うが、以下のようなものが考えられる。真理を追究してそれを発表 する勇気、公平な判断を下す勇気、誠実たらんとする勇気、誘惑を 避ける勇気、それから義務を遂行する勇気などが主な精神的な勇気 である。この様な勇気を持つことが大切であり、このような勇気が 備わっていないことには他の美徳を身につけることは難しものと考える。
2011.11.22
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腹が立つことがあっても、それを勇気をもって表に出さない人もいるようである。 怒りを腹のうちにおさめて、言葉にださないが、そのために胃潰瘍になったり、 常に苦悩を抱えているものと見られる。 しかしこのような人でも、周りの人間や物事が自分の思いとおりになるべき だと考えている面では、怒りを外に爆発させている人と変わりないのである。 ともかくあの人達が自分の思いとおりやってくれれば腹を立てずにすむのに と思っているのである。この様な考えを頭の中からなくしてしまうのが、ストレス を取り除く方法ではないだろうか。 一番大切なことは、怒りを生じないような工夫をすることである。 次のように工夫することである。 『あの人が自分で好ましくないことをやりたがっているのだから、なにもこちらが 腹をたてることはない。バカな行為の責任はこちらにあるのではなく、あの人に あるのだ』 『物事は思った通りにはならないのだ。気に食うわないことだけど、 カッとならないようにしよう』 以上のような勇気あるやり方で怒りを解消させる 努力を行うことである。それから、外部の事柄によって自分の心が乱れて しまわにような工夫をすると共に、自尊心を持ち続けて、他人にコントロール されないように留意することによって、怒りで自分を傷つけることはなくなる ものと考える。
2011.11.21
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人生をおくることは決して退屈なものではないけれども、好きこのんで 退屈している人間もいるように思われる。 退屈するということは、つまるところ、現在という時を自分なりのやり方 で充実して過ごす能力がないことである。退屈するかしないかは自分の 選択によって決まるもであり、自分自身によって招くものである。 退屈を抱くことは、自分自身を駄目にしてしまうことの一つにあげられる が、自分がその気になれば自分の人生から取り除くことが出来るのと考え られる。物事を先へ延ばすということは、今何をやるか、あるいは全くやら ないかのうち、やらない方を選ぶことである。やらない方を選択すること なのである。だから、何もしなければ必然的に退屈を感じることになる。 また、人は退屈を環境のせいにしたがる傾向にある。『この街は 本当につまらない街だ』とか、『この人は何とつまらない話しをするのか』 とか言って環境のせいにする。ところが、街そのものや話し手そのものが 退屈なのではなく、退屈なのは退屈を感じている本人である。このような とき、自分のもの頭や体を使って何でもいいから別のことをするように 工夫すれば、退屈しないでもすむものと思う。 今、自分がやりたいことすれは、あるいは、今、自分の頭をこれまでと 違ったやり方で働かせると、退屈するようなことはなくなるのではないだろ うか。そのことを実行するのは、自分自身の決定によるものである。
2011.11.20
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良い成果を目指して物事をおこなうときには、自発的で 柔軟な姿勢が必要なものと考える。 柔軟性のないことはあらゆる面で偏見のもとになってしまう。 偏見と言われるものは、先に判定してしまうこととされている。 偏見のもとになっているのは、特定の人、考え方、行動に対する 憎しみや嫌悪というよりも、気の合った人、いわゆる自分と同類の 人と一緒に行っているほうが安全であるとか楽であるとかという 考え方なのである。偏見は自分にとっては有利なものに見える。 偏見のおかげで不安な未知の世界に入ることによって、もしかして 人に迷惑をかけるような事態から逃避できるからである。 しかしながら実のところ、偏見は自分にとっては不利になると 思われる。未知のものへの探求心がなくなってしまうからである。 自発的になると言うことは、先入観をなくして、はじめての人や 考え方に出合い、つきあって見ようとすることにより、成長への 道が開けることになる。潜入感は、ぼんやりとしていて良くわから ないことの領域に入ることをさけて、成長を妨げているにすぎない のではないだろうか。
2011.11.19
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人は自分自身を信頼しきっているなら、何を行うにしても、自分の 能力を超えるものなどないと思う。いかなる保証もないような分野に あえて足を踏み入れようと決心すれば、人間に許された経験は 殆ど好きなように自分のものとすることが出来る。この発想は世の 偉大な人々が成功を成し遂げたポイントと見られている。 変化を求めて、他の人があえて踏み込もうとしなかった領域に 自ら入り込んでいくには勇気が必要である。変化には不測の事態 が発生する可能性もある。 だからといって、自分が慣れ親しんできたもので我慢するする方が、 わざわざそれを変える努力をするよりリスクが少ないとい言う姿勢を いつまでとり続けると、何か新しい経験に心を開くことは出来ないと 思う。 自分自身に対す見方を新たにし、新しい分野に立ち向かい成長を 求めて行こうとするなら、強い信念のもとに思い切りの良い行動が 必要であると言えよう。
2011.11.18
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我々は、確実性を推奨した声を聞きながら過ごしている。 それは先ず家庭の中で始まり、教育場面において一層 強化される。子供はよけいな実験は回避するように教わり、 未知のことについても近づかないように薦められる。 迷ってはいけいない。正しい答えをだしなさい。付き合い は自分の同類のものとしないさい。 この様な安全のすすめに執着し過ぎていると、新しい 改革は出来ない恐れがある。新いものを求めて発展を 望むなら、固定した観念は捨て去るべきではないだろう か。 自分には、新しい、先の見通しの分からないような行動 を試してみることはできないと言う発想から抜けだし、 やろうと思えば出来るのだからと言う信念を抱くべきで ある。そして、新しい経験を避けてしまう自分の習慣を 改善して行くことからはじめることである。
2011.11.17
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何かについてあこがれる感受性が最も強い時期は、人が人格形成期に 当たる若い時期であると言われている。我々は、歳をとるに従って習慣と 言う型にはめ込まれてしまい、何を見ても感動しないようになってしまい がちである。 それに比べて若いころには、性格のうえからも柔軟性があり、あらゆる ものに対して感じやすい特性を持っている。この様な時期に、偉大な人物 に対してあこがれの気持ちを持つように仕向けることが重要だと思う。 感動かなくなると、自分の才能のもっと素晴らしいところを見失うと共に 世の愚劣なものから自分を守る術を忘れてしまう可能性がある。 立派な行いや人物、それから素晴らしい景色を見て感動するなどの 心を磨くことによって、胸をときまかせ、未知の人生に挑戦する喜びを感じ取る ことが出来るであろう。
2011.11.16
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心の不安をなくするためには、不安の背後に横たわって いる理由を知る必要がある。不安が自分の人生の中で 大部分をしめているとするならば、過去のそれなりの理由 があるものと思われる。 それは、自責の念から来るものと同じように神経症的な 兆しである。不安も自責の念も自らを無駄にする行為で あり、両者の違いは、自責念は、過去に、不安は未来に むけられている点である。 不安を抱くと言うのは現在に係わる行為であり、未来に とらわれて、現在のときを金縛り状態にしていることで ある。 不安を一掃する良い方法は、自分の人生から神経症的 な行為を追い出す努力をすることにあると思う。 今を生きること、そして、今このときを過去や未来に 対する考えに縛られて無駄に過ごさないように心掛ける ことである。
2011.11.15
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日常生活の中で色々な出来事で失態を演じることが あると思う。たとえば、ゴミを捨てる、タバコを吸うなど の行為についても、もしかすると自責の念を抱く場合が あるのではないだろうか。タバコの吸い殻や使用した 紙コップを投げ捨てたことによって、赤の他人に睨み つけられるようなことがあれば、そのような下品な 行為をしてしまったと言う自責の念に襲われたりする。 やってしまったことに自責の念を抱く代わりに、二度 と反社会的な行為はすまいと、心に決めることが必要 である。 自責の念にかられてクヨクヨして過ごすのは時間の ムダである。長い間そのようなことを続けていると、 ジレンマに陥り、余計に神経症的になる恐れがある ので留意すべき点である。
2011.11.14
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対人関係において、誰に対しても気むずかしい振る舞いをして、人の 言うことには一々口をはさみ異論を唱える性癖には、興ざめするもので ある。だからと言って、何を言われてもハイハイと承諾の態度を取るのも 不愉快な感じがする。男性らしくなく、誠実さが見られないからである。 ある行為を起こすときに、無関心と淡泊な態度で当然の賞讃を与える ものと、どんな相手でもあたりかまわず挨拶をして回るとの間には、その 使い分けを行うには難しさがあるように思われる。だが、正しいことを 正しく実行するには、明るい気持ちで飾りけのない態度で、、深い思いやり を見せることにあると思う。
2011.11.13
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良い人間関係をつくって行くためには心くばりが大切 である。 心くばりは人間関係をうまくなごやかにすると共に、 仕事を成功へと導くうえでも、大いに役立つものと思う。 その人が礼儀正しいかとうかによって、その人に 対する評価が変わってくるものである。 他人をまとめて一定の方向にリード行くときには、 才能よりも、礼儀正しさの方が一段と強い影響力を 与えることは確かなことである。上品さと言うことだけ でなく心のこもった礼儀の正しさは、社会的な実績を おさめるためにも、何よりも必要なことである。 言い換えると、人に与える第一印象は大切なもので、 態度が折り目正しく、言葉遣いが丁寧かどうかに よって、印象が良くもなれば悪くもなる。 日頃の心くばりを大切にして明るい人間関係をつくり あげ、楽しい人生にしたいと思う。
2011.11.12
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自責の念は、過去の出来事のために、現在が金縛りになっている状態 である。この金縛り程度には、軽く動揺しているものから深刻な欝状態に 及ぶものまである。 過去の行動の中から何かを学び取り、ある特定の行為を二度と繰り返さ ないように反省することだけならば、自責ではない。自責の念を感じるのは、 以前に、ある行動に出た結果として、現在、行動が取れなくなっている状態 のときだけである。 自分の落ち度から何かを学び取ることは、成長して行く上で欠かせない 要素である。自責が不健全であるのは、過去の出来事について、傷ついたり、 動揺したり、落ち込んだりしながら、自分のパワーを無駄使いしているからな のである。不健全であると同時に無益なことである。いくら自責の念があった としても、何も元にもどすことは出来ないことを自覚すべきである。
2011.11.11
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良書の一つとして考えられものの中に伝記が ある。 伝記は、人間はいかにあるべきか、全力を出し つくせばいかなる偉業を成し遂げられるかを 教えてくれるものである。 確実に記録して残されている偉大な人物の 生き方は、我々に多大な刺激を与え、人間は 人生をいかにして生き抜ければ良いかを明らか にしてくれる。それは我々の心の中に新鮮な 空気を吹き込み、希望をもたらすと共に、新しい 力と勇気を、自分だけではなく、外の人達にも、 与えてくれる。 偉大な人の伝記に触れることによって、我々の 向上心を刺激し高めて行く効用があり、希望に 満ちた人生の道しるべになるものと考える。
2011.11.10
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交友を深めている友達を見るとその人のことがわかると言われているが、 書籍からも読むことによって、その作者の人格をうかがいしることが出来 る。と言うのは、人と書物との間にも、人間同士と同様な触れ合いが 生まれるからである。それ故に相手が本であっても人であっても、我々は 常により良い相手を選ぶ必要がある。 この様な見方をすると、良書は最良の友であると言える。この事実は、 過去、現在そして未来を通じて変わらないと思う。良書は忍耐強く楽しい 友達である。自分が逆境にあったとしても、また失望のどん底に落ちた としても、見捨てたりすることなく、常にやさしく受け入れてくれる。 若い頃には本を読んで楽しみ、教えられることが沢山ある。そして、 歳を重ねてからは、本は我々を慰め励ましてくれる。趣味が似ている と言うことで友達づき合いはじめることもよくあることである。読書を 愛する心が通じ合って、互いに近親感を深めて行くことができる。 良書を裏切らない無二の友人として明るい人生を歩んで行きたいと 思う。
2011.11.09
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正義感の強い人は、間違ったことや不正な行為 を見逃すことできず、気持ちが高ぶってしまうと、 心中に溜まったものを激しい口調で言い表す特性 を持っているようである。 だからと言って、我々はあわてて外の人を軽蔑 しないように用心しなければならない。善良な人は ややもするとことを急いで行う傾向があり、熱心さの あまり、心の狭さの印象を人に与えてしまうことも あるので、留意する必要がある。 この心の狭さを直す方法として考えられるのは、 学習を積み重ねて知識を増やし幅広い人生経験を 積むことにあると思う。訓練された思慮分別が身に 付くと、道徳的な過ちを許せないほどのせっかちな 人が陥りやすいトラップにはまりこんでしまうことは なくなるだろう。 一般的に思慮分別のある人とは、日常生活で 起こる出来事に対して公平な判断を下し、思いやり のある慎重な行いの出来る人と見られている。 言い換えれば、教養も経験もある人は概ね皆心が 広く、自分を押さえることの出来る人である。 愚かで心の狭い人はいずれも執念深く、かたよった 考え方しか出来ない人である。 心の広さを身につけて、外の人の欠点や弱みを 大目に見てやる余裕を持ちたいものである。
2011.11.08
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自分の良心の赴くままに意思の力によって、低俗なものに惹かれる 衝動をなくしてしまうことは、道徳鍛錬の重要な基本となるものであり、 理想的な人格を育んでいくために必要なものである。 良い習慣を身につけ、欲望と戦いながら、生まれつき持っている利己心 に打ち勝って行くには、長きに亘る辛抱強い鍛錬が必要となってくる。 一旦鍛錬によって経験をつむと、習慣として身についてくるので、 それ以後は大きな苦痛はなくなってくるものである。 勇気もった人は、確固たる自分の信念のもとに自分の意思を働かせ、 善行を自分の習慣となすまでに自分自身を厳しく鍛錬して行ける人 である。 これとは逆に臆病な人は、自分の意思が弱まり、欲望に目が眩み 不道徳な行為にはしる習慣が身につくために、その悪い習慣が一生 つきまとうことになる。 よいことをする習慣を身につけて、悔いのない人生をおくりたい と思う。
2011.11.07
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今の自分は、本当の自分ではないとの考えから、 もっと良い自分を見つけようと活動している人を 見かけることがある。 そのような人の多くは、本当の自分の良いところを 探しだそうとして、いたるところで開かれている 講演会やセミナーに参加して勉強を続けているのが 実情のようである。 このような「自分探しの活動」が、その人の向上心 から生じてきていることはとても良いことだと思う。 しかし、「自分探しの活動」をあまりやりすぎて しまうと、一番重要な「実践」することが、忘れられる 可能性があるのではないだろうか。 多くの人から多くのこと学び、その勉強が自分の 日常の言動に繋がっていないとしたら、それは 意味のないことである。 「自分探しの活動」の 結果は、日常の実践に役立つものであってほしい ものである。
2011.11.06
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信仰の強い人は、よこしまな精神と戦い、この世に存在する邪悪に 全面的に立ち向かう自己修養と自制心によって支えられていると 言われている。 ビジネスに長じた人も、厳しいルールや手順に従って行く必要がある。 仕事して行く上でも、人生と同じように道徳的な要素が大きな役割を果たす ものとみることが出来る。ビジネスを成功に導くには、自分の性癖を規制し、 自分のことだけではなく外の人にも優れた指示を出せるような注意深い 自己訓練が必要である。 忍耐と自制心は人生を歩んで行く上での地ならしの役割を果たしてくれる と共にまだ未開発の道を切り開いてくれるものと思う。 自制心を持とう。自制心がなければ忍耐力も弱く、思いやりにも欠ける から自分のことすらコントロールすることが出来ず、他人を指導して行く 力も弱まってしまうものと思う。
2011.11.05
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無理が行かないようにして適度に働けば、 体のためにも精神のためにも良いと言われている。 人間は、肉体によって支えられ、みずみずさを 保有している知性的存在である。体を動かすことは、 健康のためになるのである。 害となって現れてくるのは働き過ぎの場合であって、 働くこと自体ではない。それから、厳しい仕事よりも もっと悪いのは退屈な仕事、体力を消耗してしまい そうな激しい仕事、先の望みが全くない仕事である。 健康的なのは、将来が期待できる仕事である。 程よく頭を使う仕事は、外の仕事にくらべても 決して疲れるものではない。ちゃんと節度を守って 規則正しく実行すれば、体を鍛えるのと同じように 健康を増進させることができる。また、体の調子に 充分注意をしておれば、自分の能力以上に負担は 掛けられないものだ。ただ、 飲んで食べて寝るだけで、ダラダラと一生を送って しまう方が、はるかに有害である。仕事に励むこと よりも意味のない生活をする方が、はるかに早く 人間を消耗させてしまうものである。だから、ダラダラ とした生活にならないよう留意すべきである。
2011.11.04
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日常生活の中において、その人に良いと思ってやったことが、逆に 相手をひどく傷つけてしまうケースがあるのではないだろうか。 人間関係は難しい問題なので、頼まれもしないことは、自分の判断で 何かをしてさいあげようとするのは、やめたほうが良いと思う。 頼まれたら、いつでも快く引き受けたら良いのだが、頼まれもしない のに自分の勝手な思いこみで「この人はきっと喜んでくれるだろう」 というような関わり方はしないほうが賢明だと思う。それは良く言わ れる「小さな親切・大きなお世話」ということになるからである。 人間関係を保つめには、やはりある程度相手との距離感をもって 対応することが、トラブルを少なくする方法ではないだろうか。
2011.11.03
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どのような人を親友と言えるのだろうか。 人に施すのは少ないのに、人から貰うときには 出来る限り多く得ようとしたり、自分の利益のみ を考えような人は、「友」とは言えないと思う。 おべんちゃら言って人に取り入ったりする人、 事態が目前に迫ってくると都合が悪いと言って 逃げてしまうような人、裏で人の悪口を言う人、 放蕩なことをする仲間などは「友」とは言えない。 元気を失っているときに何かと面倒を見て くれたり、困ったときに助けてくれる人は親友 である。楽しいときだけの友は沢山いるが、 つらいときにも一緒にいてくれる友は少ない ものである。また、悪い方向に走らないよう 忠告したり、新情報を教えてくれたりするのも、 落ち目になったときに心配してくれ、上り調子 になったときには共に喜びを分かち合い、人が 悪口を言ってきたらそれを弁護してくるのも 親友である。多くの親友をつくりだし、楽しい 人生をおくって行きたい。
2011.11.01
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