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僕は、三浦つとむさんの言語論で言語について学んだこともあり、言語という対象はあくまでも表現されたものという前提を持っている。それは空気の振動による音声であったり、文字による表現であったり、形式は違うことはあるけれども、ある物質的存在を鏡として成立するもので、唯物論的に扱うことがふさわしいと思っていた。だから、ソシュールが言語規範を対象にして言語を考えようとしているという批判を見たとき、表現ではない言語規範を言語として扱うことは間違いではないかと思ったものだ。しかし、言語の現象としての言語規範が言語学の対象として考察されるのはそれなりに理由があることだとも感じる。三浦さんは言語学の前半で認識に対する考察に多くを費やしている。これは、言語の成立する基礎として認識というものが重要であるという判断からだ。認識そのものは言語ではないが、言語が表現する基になるものとして認識を解明しておかなければ、言語の本当の姿は分からない。思考という作用も、認識の中に入るのではないかと思う。認識の中でも、感覚と直結した単純なものは、外界の反映という解釈が取りやすい。しかし、必ずしも感覚的につかめない対象に対する知識が、思考の過程を経て得られることはたくさんある。物質的存在が原子によって構成されているという認識は、その最たるものではないだろうか。これは感覚では得られない。深い思考の末に達する認識だ。この思考と呼ばれる活動は、どのようなメカニズムによって行われるのだろうか。これは論理というものと深い関係があるような気がする。論理は、形式論理にしろ弁証法論理にしろ、そこに論理法則というようなものを設定するが、これはある種の思考の形式を表現しているものと考えられるのではないだろうか。命題と命題の結合を考えると言うことは、我々の思考がそのような過程を経て発展していくことを反省して論理法則としているのではないだろうか。さらに命題を細かく分析していくと、それは何らかの存在する対象に対して、ある属性を結びつけるという概念同士の結合という活動をしているようにも見える。例えばある対象を観察して、それが固体であるとか液体である、あるいは気体であるとか言う判断をするときは、その対象の概念と固体・液体・気体という概念を結びつけてそれが「同じ」であるという判断をしているように見える。さらに、対象が気体であれば、空気との重さの差はどうかというようなことを考えるかも知れない。そうすると、「重さ」という概念が思考の中で対象と結びつけられることになる。言語というのは、三浦さんが指摘したように概念を表現するものであるから、思考の際にこれは活発に利用される。だから、人間の思考を考える上で言語のことを考えるのは重要なことになるだろう。思考というものも言語学の範疇に入ることにもなる。しかし、思考の際に言語が活発に使われると言うことから、思考の際に使われるそれらも「思考言語」という言語の一種なのだと考えると、「言語は表現である」という前提からすると間違ったことのように感じる。この前提を立てないのであれば、このように考えるのも立場の違い・視点の違いだと言うことが出来るような気もするが、何か違和感があって、このような考えは間違いではないかという気がする。以前に障害児教育に携わっていたとき、障害児の場合は、言語として表現が出来ない子どもがたくさんいたのを思い出す。それは音声を司る体の機能に障害があるために、音声としての言語の表出が出来ない場合が多かったからだ。それでもタイプライターなどを使って、文字として表現が出来れば、表現としての言語を確認することが出来る。しかし、音声でも文字でも表現出来ず、その反応がわずかに表情で行えるという子どもの場合は、その子が言語を獲得すると言うことがどういうことなのかが難しい問題だった。言葉による呼びかけに対して、表情による異なった反応があると言うことは、そこに言語の理解があることを予想させる。この言語による理解を、思考言語を持った、あるいは内言語が成立したというふうに呼んでいた。これは、障害児教育に携わる人間の希望的な思い込みだけではなく、理論としてもヴィゴツキーなどが語っていたように記憶している。この現象に見られるような、言語の理解という思考の過程を、言語という対象が存在すると見るのは僕は反対だったのだが、そのような現象があるのは事実だ。言語というのは、対象として考える場合は、あくまでも唯物論的な物質的存在として捉えないと、その本質が見えてこないのではないかと思っていた。理解をするという認識の働きの方を言語と呼んでしまうと、観念的存在を物質的存在のように扱う観念論的な間違いになるのではないかと思っていた。しかし、障害児が言語を持たないと結論するのは、障害児が人間ではないと言っているような感じがして、障害児教育に携わる人間としては抵抗があるだろうという心情的なものも感じる。普通の表出言語は持てないけれど、内言語(思考言語)は持っているのだと言いたい気持ちもよく分かる。思考をするときに言語なしの思考というものは考えられるだろうか。もし、思考の際に常に言語が使われるのなら、そこで使われる言語を「思考言語」と呼んで悪い理由があるだろうか。学術用語の使い方として、このような使い方も許されるのではないかとも言えるのではないだろうか。しかし、言語なしの思考というものが考えられるのなら、思考において言語は本質的なものではないとも言える。その場合は、思考言語という言い方は、本質を取り違える恐れがあるかも知れない。三浦さんの言語学で語られていたのは、思考という認識にとって重要なのは「概念」の方であって、思考で使われる言語は、概念に貼り付けた「ラベル」としての意味で使っているだけで、本来の言語としての使い方をしているのではないというものだった。本来の言語としての使い方は、表現をすると言うことになければならない。表現というのは、何かが「表」に「現れる」と言うことであるが、その何かが表現者の「認識」というものになる。思考の際に現れる言語は、誰かが表現したものではない。例えば犬という対象を見たときに、それが犬であるという判断をするために、頭の中に犬という概念を呼び出す必要がある。その概念に付けられたラベルが犬という言葉になる。これは、本来の言語としての機能を果たしていないのだから、言語と呼ばない方が自然な気がするが、言語と呼びたくなる人が大勢いると言うことの理由はなぜなのだろうか。もし犬という言語を持たないとき、我々は犬について何らかの思考をする、何かを考えると言うことが出来るだろうか。言語のある生活が当たり前の我々にとって、言語なしの生活(思考)というものは考えることが難しい。犬という言葉なしに犬のことを考えるのはほとんど不可能のようにも見える。物質的存在が我々に反映という認識をもたらし、存在の属性として世界を理解すると言うよりも、言語によって世界を切り取って、世界の一部を考察の対象にして理解が進むという方が、何か現実の人間の活動を正しく語っているような気がしてしまう。ソシュール的な発想の方が正しいような気がしてしまう。普通の人間は色や匂いについてあまり多くの言葉をもっていない。だから微妙な差が分からない。似たような色や匂いは同じものにしてしまう。しかし、色や匂いの専門家は、膨大な数の違う色や匂いを認識する。これは、そう言う語彙を持っているのだろうか。もしそのような違いを表現する言葉なしに、概念だけでその違いをつかんでいるとしたら、これは驚きだがどうなのだろうか。北極に住むイヌイットは、数十種類の雪を区別するという。そしてその違いに応じた雪を表現する言葉があるという。日本語だけにある独自の言葉は、外国人がそれを理解するのは難しいと言われる。言葉がなければ、思考をすることが難しいので、対象から得られる概念も言葉に依存していると言えるのだろうか。言葉なしに思考が出来ないとしたら、因果律や必然性の問題も難しいものが出てくる。言葉によって対象の視点を定められ、ある種の限界を持っている人間には、因果律や必然性を本当につかむことは出来ないのではないかという問題だ。因果律や必然性だと思っていることは実は錯覚で、それは概念の中に人間が設定しているだけではないかという考えだ。これは観念論といっていいのではないかと思う。しかし、簡単に否定出来ない観念論ではないかと思う。因果律は、単に時間的な前後関係を語っているだけで、そこに論理的な必然性はないという考えがある。これは、そう言う解釈も出来ると思う。しかし、未来に対する確実な予測が出来る科学を考えると、そこに因果律があり必然性を見ることが出来るから確実な予測が出来るのだと言うことも出来そうだ。しかし、未来というのは、それが起こってみないと予測が正しかったかどうかが判定出来ない。予測はあくまでも予測であり仮説だと考えると、それが真理だと主張する因果律や必然性は危ういものになってしまう。人間の思考には限界があるというのは、ゲーデルの不完全性定理でも語られ、ウィトゲンシュタインの哲学でも語られている。それは深く言語の可能性に結びついているのを感じる。限界があるから確かなことは何も言えないと考えるのではなく、限界をわきまえることによって、確実なことが何であるのかを知りたいものだと思う。ウィトゲンシュタインのように、知り得ないことには沈黙しなければならないと思うが、沈黙しなくてすむような、知り得ることが何であるのかと言うことも理解したいと思う。それが日常生活でも利用出来るような方向で考えてみたいものだと思う。
2006.06.30
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唯物論・観念論というような高度に抽象的な対象について考えていると、それが日常感覚とは別世界のことを考えているような気がしてきてしまう。これを何とかごく普通の現象と結びつけて、哲学的な空想論として終わらせるのではなく、役に立つ知識として利用したいものだと思う。僕はいままでも両者の概念を誤謬論に利用するという意識で考えていた。究極的には唯物論が正しく、観念論が間違っているという前提を持っていたので、ものの見方が唯物論的になるような視点を見つけ、すべてを唯物論で解釈するという方向を探していた。それが観念論的な間違いを避ける一つの方法だと思っていた。しかし究極的な世界のとらえ方に対して、正しいとか間違っているとか言う判断は出来ないのではないかという気がしてきた。それは考えれば考えるほど分からなくなってくるもので、唯物論が正しいというのも、客観的な判断ではなく一つの解釈に過ぎないのではないかと思えてきた。つまり唯物論とか観念論とか言うものは、真理性を判断する対象にするのではなく、一つの発想法として利用する方が有効なのではないかと感じてきた。日常感覚の判断に利用するとしたら、この発想法としての利用が考えられるのではないかというアイデアが浮かんできた。発想法として利用するというのは、どちらが正しいかという判断をするのではなく、どちらの視点でもそれを眺めることが出来るという、視点をずらすことを可能にするような発想法として利用すると言うことだ。あまり日常的ではないかも知れないが、いわゆる「南京大虐殺」に関する二項対立で、それが「あった」か「なかった」かという議論がある。この議論に対して僕は以前からある種の違和感を抱いていたのだが、その違和感を解決するようなヒントを、唯物論と観念論という考え方を発想法として利用するという方向に見出すことが出来た。唯物論的な発想というのは、あくまでも物質的存在の方から、その反映としての認識が訪れるというものだ。その認識は基本的には五感が感じる感覚を基にしている。この感覚が間違いかも知れないという発想は観念論の方から生まれてくるものだが、議論を難しくしすぎるので、発想法としては、素朴に存在の属性が感覚に感じられて反映するというものを唯物論的なものと考える。このような唯物論的な視点というのは、対象が客観的に存在することを前提にしているので、他者との合意が出来る判断が生み出される。存在する対象の属性を、同じように感覚出来るなら、その感覚から生まれた判断は共通のものを持てると思うからだ。「南京大虐殺」の場合で言えば、このような対象の属性としての感覚的判断としては、そこで大勢の人が死んだという事実ではないかと思う。「南京大虐殺」がなかったと主張する人たちも、そこでは多くの人が死んだと言うことまで否定する人はいないように思われる。意見に違いが出てくるのは、その死をどのように解釈するかと言うときだ。戦闘行為の末に死んだという解釈をすれば、戦争である以上やむを得ないものと考えることも出来る。物事を解釈するときは、何らかの価値判断がそこに入り込む。そうすると価値基準が違う人間の間では解釈が違ってくる。他者が合意出来る事柄というのは、基本的には価値判断が入り込まない、純粋に唯物論的な対象の物質的属性の判断においてだけではないかと考えられる。価値基準を同じにする人間同士が合意するのは、他者の合意とは言えないような気がするからだ。解釈という行為が入り込むときは、その判断は観念論的な発想だと考えた方がいいのではないだろうか。つまり、対象の属性をただ反映しているだけではなく、自ら持っている観念的な価値基準というものを対象に投影して、対象の中に価値基準を押しつけているのではないだろうか。「南京大虐殺」が「あった」とか「なかった」とか言う判断は、実は客観的な対象に対する判断ではなく、自らの抱いている「大虐殺」の定義の中に潜む価値基準というものが投影されているのではないかと思われる。だから、その価値基準を前提にすれば、「あった」という判断も「なかった」という判断も、ともに解釈としては成立すると考えた方がいいのではないかと感じる。だからどちらも正しいのだと主張するのではない。むしろ、正しいか正しくないかという主張はあまり意味がないということを言いたいのだ。論理的には仮言命題としてそれを捉えて、ある前提の基では成立すると言うことを主張しているのだと受け取った方がいいと思う。だから大事なのはその前提の方であって、結論としての「あった」か「なかった」かというのは、論理的には重要ではないと言う感じがする。この前提がご都合主義的なものでなく、充分整合的なものであれば、その結論も説得力のあるものになるということになるのではないかと思う。この前提には価値基準のようなものが含まれているだろうから、実は結論から逆に考えてその主張をする人の基本的な人間観や世界観・倫理観といったものがそこから読みとれると言うことになるのではないかと思う。「南京大虐殺」が「あった」か「なかった」かという主張は、客観的な事実としてそれを語っていると言うよりも、実は主張している当人の人間を語っているという受け取り方の方が当たっているのではないかとも感じる。これは観念論的発想だと思う。その言葉が対象について語っていると受け取るよりも、言葉はその発言者の心を語っていると受け取るわけだ。このような考え方は、「南京大虐殺」という重要な事件を曖昧化する議論だという批判もあるかも知れない。しかしそもそも「南京大虐殺」という対象は、その存在を単純に考えることの出来ない複雑な対象になっているのではないだろうか。複雑化していることが問題だという考えもあるかも知れないが、問題だと言っても、現に複雑化している状況ではそれを指摘するだけでは何も解決しない。「南京大虐殺」という言葉はイメージが先行している言葉のように感じる。その言葉を発すると同時に、何か不当な行為が行われたというイメージも生まれる。本来は不当な行為が行われたからこそそれが非難されるという順番でなければならないのだが、「南京大虐殺」という言葉を使うと、それが使われることで非難が成立してしまう。これは、運動的にはスローガンとして人々を煽動するのに役立つ言葉かも知れないが、正しい認識を得たいと思う人は、誤謬に陥る可能性がある言葉として意識しておいた方がいいのではないかと思う。自分の中にある価値基準を存在の方に押しつけるという観念論的な方向になりやすいと思う。この観念論的方向は、それだけで間違っているとは言えないが、他者の合意を得るのは難しくなるだろう。他者の合意を得るには、そこに不当な行為が存在したと言うことを客観的に示すことが必要だと思われる。そしてそのように努力している人はたくさんいるだろうと思う。しかし、「南京大虐殺」という言葉が一人歩きしていると、その努力がなかなか本当に実りある方向へ行かないのではないかとも感じる。センセーショナルな言葉で人を煽動すると言うことをもう一度考える必要があるのではないかと思う。煽動というのは、ある意味では同じ前提を持っている人間にしか効果がないものだと思うからだ。大事なのは、同じ前提を持たない他者と合意することではないかと思う。他者との合意こそが、本来の民主主義の実現になるのではないだろうか。唯物論と観念論を発想法として利用すると言うことは、自分の立場を自由にずらすことが出来ると言うことでもある。これは便利ではあるが、基礎を持たない根無し草のように曖昧な立場になってしまうと言う欠点もある。どちらの立場もよく分かると言うことになると、自分の主張がなくなってしまうという主体性のなさにもつながってくる。この欠点はどう避けたらいいだろうか。最後の主張の時は観念論的に振る舞うことが必要になってくるのではないかと感じる。唯物論的な立場を取ると言うことは、どこまでも他人事のように外から存在を眺めるという視点になる。それを、自らの価値基準を押しつけるような観念論的な視点を持って考えることによって、自分の主張が前面に出てきて主体性を確立出来るような気がする。客観性ばかりを考えていると、世の中はそのようになっているから仕方がないという発想が生まれてくる。主観を意識することによって、「そうしたい」「そうあるべきだ」という自分の価値観が出てくるような気がする。この主観は、自分の思い込みである場合も多いだろう。しかし、それをまずは出してみないと間違っているかどうかも分からない。取り返しのつかない失敗になるのではなく、修正のきく間違いとして自分の主観が出せるようになれば、試行錯誤の末に正しい道が見つけられそうな気がするが、これがなかなか難しいのだろうなと思う。主観は、科学における仮説のようなものとして捉えればいいのだが、主観はどうしても価値観と結びつくので、科学の仮説のような客観性を持てない。失敗が単なる客観的判断のミスにとどまらず、人格的な問題とも結びついてしまう。犯罪行為をしたとして追求されている堀江氏や村上氏は、客観的判断ミスをしただけなのか、人格的にも問題があるかというのは微妙な問題だと思うのだが、マスコミの論調は、この失敗を人格的なものにも結びつけていたように感じる。このような風潮は、失敗を許さない日本社会という特徴を表しているのではないかとも感じる。もしそうなら、日本社会は、なかなか観念論を発想法として使うことが難しいかも知れない。それが単なる発想法なら、間違えることは避けられないし、間違えても大したことではないと思えるのだが、主観的に間違えることがその主観を持っている人間の人格に結びつけられた場合、我々は間違えることを恐れるようになるだろう。僕は、唯物論や観念論を発想法として役立てたいと思っているけれど、なかなか難しい面を持っているかも知れない。もっとよく考えてみようと思う。
2006.06.29
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唯物論的な意味で認識というものを考えると、それは物質的存在が人間の脳に像として反映してその存在を捉えるというものになる。唯物論はまず物質的存在の方を第一義に考えるので、認識はその存在の反映というものとして捉える。決して、人間の方に何か認識能力というものがあって、その能力が働く作用としてそこに存在を作り出したということは考えない。この反映というものを素朴に考えてしまうとそこにパラドックスが生じてしまうように感じる。だからこそ素朴な唯物論は観念論によって否定されるという歴史があったのだと思うが、素朴な唯物論を克服して、そのパラドックスを解決する道というのはなかなか難しいのではないかと思う。これをもう一度よく考えてみようと思う。素朴な反映は我々の感覚を基礎にしている。それは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚など様々な感覚で捉えられるものがまず反映として捉えられる。例えば馬を見たとき、それが4本足であることは視覚によって捉えられる。馬の足が4本であるという属性は、馬という存在の視覚的反映として、存在が基礎になって得られた唯物論的な判断だと言えるだろう。このとき、視覚には錯覚というものもあるのだから、目で見たからと言ってそれを素朴に信じることは出来ない。それは幻想かも知れないという懐疑論的な議論もあると思う。しかし、それが錯覚であるという確たる証拠がないときは、それは単に疑いがあると言うことになるだけだろうと思う。疑いがあるからその感覚は信用出来ないと言ったらすべてが信用出来ないと言う「懐疑論」になってしまう。すべてが信用出来なくなったら唯物論の基礎を考えることにも意味がなくなるので、ここは素朴に感覚を信用して、感覚で捉えられるものには錯覚があるかも知れないが、角度を変えたり繰り返したりしても捉えられるものは、一応存在していると判断して差し支えないものと考える。そうすると、感覚で捉えることの出来るものは、対象の物質的存在の属性が直接反映したものとして唯物論の正しさを証拠立てるものとして唯物論の基礎をなすだろうと思う。具体的存在に対して我々が何か具体的なことを言うとき、それが錯覚や幻想でない限りでは正しいことを言っていると主張出来るのは、この唯物論的基礎が正しいと言うことから来るのではないかと思う。しかし、具体的存在に対して具体的なことを言うのは、表層的で単純な属性に限られるようにも思う。それが直接表に現れていない属性であった場合、表に現れている何かを手がかりにして、隠れた存在に対して何か言いたい場合があるのではないか。そのような言明は、直接的な反映ではない。これは素朴な唯物論では解釈しきれない。直接的でない反映を唯物論的な反映として解釈する道はどう見つけたらいいのだろうか。馬が4本足であるというのは、直接目で見て確かめられることだが、「馬が動物である」という判断は、視覚による反映で確かめられる判断ではないように感じる。馬の中に「動物」という属性があって、それが視覚に反映して「動物」という像が見えるという構造ではないように感じるのだ。足が4本あるというのは具体的な像だが、「動物」というのは具体的像としては存在しない。それは多くの具体的存在が抽象されて、共通の属性が概念化された観念的対象が「動物」というものになるように感じる。動物そのものはこの世に存在しない。動物という概念が人間の頭の中に存在するだけだ。つまり、「動物」というのは具体的存在ではなく言葉として存在しているだけだ。「馬は動物である」という判断は、「動物」という人間の頭の中の概念を、現実の具体的存在である馬に押しつけて、馬という存在を「動物」という範疇に入るものとして分類したものと解釈出来る。「動物」という属性として元々馬の中にあったものが反映して判断が生まれたと言えるだろうか。それは「動物」という言葉(概念)が生まれない限り見つけることが出来なかった属性ではないだろうか。「動物」という言葉が生まれる以前は、その属性は物自体として馬の中にとどまっており、この言葉が生まれたときに、その物自体である「動物」という属性が存在として確認されるようになったと解釈することも出来るのではないだろうか。これは観念論そのものになってしまう。これを否定して、唯物論的に解釈する反映という考え方が出来るだろうか。現実の具体的存在に対して、抽象的な属性を判断するという場合、その抽象的な属性は、抽象的であるということはそのままの形では存在しないと言うことを意味する。何かが存在するということを判断したいときも、「存在」という抽象的属性が、そのままの形で対象に見つかることはない。それが見つかるようなら、「存在」だけを持っている物自体というものも抽象可能になるのではないかと思う。しかし、「存在」というのは、常に他の属性が確認出来るときに、その結果として「存在」が見えてくるという関係になっているのではないかと思う。それが視覚に反映するときに、視覚に反映した何かがそこに「存在」したと言えるのではないだろうか。視覚に反映しないものであっても、そこに何らかの反応が見えるものであれば、その反応によって、何か反応するものがそこに「存在」したと判断するのではないだろうか。「存在」はそのものとしては判断出来ない。他の媒介によって常に判断される。抽象的判断というものも、常に媒介によって判断されるのではないかと思う。その媒介による判断は、唯物論的だと主張出来るだろうか。媒介において最も重要なものは、抽象的な概念になると思われるが、これは頭の中にある観念であり、観念論的な解釈は簡単に出来るが、唯物論的な解釈が簡単に出来るように感じない。三浦つとむさんは、直接感覚で捉えられない存在を捉えるための鏡について論じていた。特に物質的な存在としての鏡に唯物論的な意味を見出していたように感じた。頭の中に生まれた観念だけでなく、物質的な鏡を媒介にして捉えるので、ここに唯物論的なものも感じることが出来る。例えば電流の流れというのは目に見えない。しかし、電流計という鏡を使うと、針の振れ方という視覚に還元して電流が流れているかどうかを判断出来る。これは物質的な電流計という鏡を用いて、物質的な存在である電気を捉えたと言うことが出来そうな感じもする。実際に電気は便利な存在として利用出来ることを通じて、それが我々の頭の中の観念に存在するだけでなく、現実的に存在するのだと言うことを教えてくれる。具体的な物質的鏡が存在して、それによって捉えられたものは、物質的存在が基礎になっていると言えるだろう。そうなれば、やはり唯物論は究極的には正しいといっていいのだろうか。それには僕はまだ留保を感じる。電流計の針が振れるという現象は目で見ることが出来るが、その針が振れると電流が流れていることの証拠になるという判断の方は、目で見えるものではなく、頭の中で考えたものになる。判断の基準は、依然として観念の中にとどまっているような気もする。抽象的な概念による判断というのは、現実の存在から反映してもたらされるものというよりも、まずは概念として作り上げたものを現実に押しつけて、現実をその概念で切り取っているという感じがしてならない。ソシュールは、言語のこのような機能を見て、言語は現実を反映しているのではなく、現実を分類しているというように考えたのではないだろうか。電流の問題も、もっと素朴に考えれば、直接触ったときに身体がしびれるものというふうに電流を定義してしまえば、それが存在するのを確かめるのに物質的な鏡を必要としなくなる。人間の感覚がそれを教えてくれる。もっとも人間の身体を物質的な鏡だと考えられないこともないが。しかし、抽象的な概念というのは、それをかなりご都合主義的に設定することは可能だ。それが存在すると主張したいときは、そう主張出来るような概念を作れば、対象をその概念で切り取ることが出来る。これは観念論的妄想に陥る危険はあるものの、直接感覚だけの判断で素朴な唯物論にとどまっていたら、物事の本質を捉える深い認識には進めなくなる。ご都合主義的な抽象概念という意味では、「グルー」という面白い概念があることを知った。これは、今までに発見された対象についてはすべて「グリーン(緑)」だという属性があるが、まだ発見されていない対象は「ブルー(青)」だという属性を持っているという概念だ。エメラルドという宝石についてこのような属性を持っていると判断することも可能だという。今まで発見されたものはすべて「グリーン」だ。そしてこれから発見されるものも、発見されてしまえば発見されたものとして「グリーン」という属性を持つ。発見されないものに対しては、確かめようはないけれど、「ブルー」だという仮説を持つことは出来る。これは永久に確かめられないので永久に仮説にとどまるが。このご都合主義的抽象概念が変だと感じるのは、このような発想をすると「グレッド」というものも同じように考えられるからだ。それは発見されたものはすべて「グリーン」であり、まだ発見されないものは「レッド」という属性を持っているものとして想定される。このような抽象概念が許されるなら、色に関するどんな属性も主張出来る。だから結果的には何を言っても無意味になり、何も言っていないことと同じになる。しかし「エメラルドはグリーンだ」という判断を考えたとき、この判断は、物質的存在を反映した唯物論的な言明だと言えるかどうかが難しいと僕は感じるようになった。「グリーン」は抽象概念であり、元々エメラルドが持っている属性にそう言う名前を付けようと考えたのであれば、これは現実の観察から得られた判断ではなく、言葉の定義から得られた帰結のようにも感じる。この判断がご都合主義的なものではないと言えるのかどうか。素朴でない唯物論で反映を考えるというのはかなり難しい問題ではないかと思う。素朴な唯物論は分かりやすい。現実の具体性を離れなければ、素朴な唯物論にとどまっていられそうな気がする。しかし、抽象的なことを考え始めたとたんに、唯物論にとどまるのはかなり難しさを感じる。観念論の方が魅力的に見えてくる。今までは素朴な唯物論で素朴に観念論を否定していたような感じがする。素朴な観念論はそれでも否定出来るだろうが、本当に水準の高い観念論は、素朴な唯物論では歯が立たないのではないかと思う。哲学史の巨人が展開したハイレベルな観念論を、今一度学び直してみたいと思うものだ。
2006.06.27
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昨日本屋で仲正昌樹さんの『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本を買った。この本の帯には「おい! そこの“ラディカル”な左翼(バカ)! うるさいから黙ってろ。」という過激な言葉が書かれている。自分のことを「左翼」と規定している人から見ると、自分の悪口を言われているようでかなり気分が悪くなるのではないかと思う。これは、「左翼」という言葉が指し示す対象の範疇に自分が入るのではないかと、この言葉の意味をそう受け取ってしまうときに起こる気分の悪さだろうと思う。僕も、かつては三浦つとむさんのマルクス主義に共感し、社会的な再配分は正しいと思っていただけに、一応左翼の中に入りそうな感じがする。しかし、僕は仲正さんのこの言葉を読んでもさほど気分の悪さを感じない。この悪口が自分に対するものだとは感じていないからだ。同じ「左翼」という言葉で指し示される対象であっても、仲正さんがここで語っている「左翼」と、僕が自分のことを自覚的に捉えている「左翼」とでは、意味が違うのだという受け取り方をしているからだ。形式が同じでも内容が違うという、「同じ」と「違う」という正反対の性質を背負う矛盾として、弁証法的なとらえ方が出来れば、仲正さんが語ることを、視点が違う見方の一つだと受け取ることが出来る。仲正さんがここで悪口を浴びせている「左翼」とは、抽象的に定義された対象としての「左翼」ではなく、具体的に仲正さんが出会ってきた、生きて行動する人間としての「左翼」なのだ。この具体的な存在としての対象が、仲正さんが悪口を浴びせたくなるような属性を持っていたと言うことを語ったのがこの本なのだと僕は受け取っている。仲正さんが出会った具体的な人間としての「左翼」が、仲正さんが浴びせた悪口がふさわしい相手なら、仲正さんがそう語るのももっともだと共感することが出来る。その反対に、その具体像が、仲正さんが浴びせる悪口にふさわしくないのなら、ちょっと言いすぎだなと感じるだけだ。まだ全体を読んではいないので、総体としての感想は持っていないが、悪口を語った本としての気分の悪さはあまり感じない。仲正さんの語り方が論理的だからなのかも知れない。仲正さんが語る「左翼」と、抽象的一般的なイメージとしての「左翼」は違うものだが、これを重ねてしまうと、仲正さんが語る「左翼」は「左翼」ではないというような非難が生まれてくるのではないか。これは、いわゆる「ネット右翼」論争において、そのようなものは存在しないという言い方があったものによく似ている。「ネット右翼」を語っていた人々は、具体的にネット上で掲示板などを荒らしていく人間たちをそう呼んでいたのだが、具体的な存在ではなく、この言葉に含まれている「右翼」という言葉に反応して、彼らは「右翼」ではないからそのような存在はないというような議論が少なからず見られた。仲正さんはある具体的な対象を「左翼」と呼んで、その対象の属性を非難している。もう少し具体性を絞り込むと、「“ラディカル”な左翼」という言葉で表現出来るだろうか。これはあくまでも具体的な対象であり、抽象的対象としての、カント的な物自体ではない。まず規定としての定義が存在して、その定義に当てはまる存在を想定するというものではない。だから「左翼」という言葉の定義とはまったく関係がない。この言葉は、具体的な対象に付けたラベルに過ぎない。だから、仲正さんに反論するには、仲正さんが具体的に語っている対象が、仲正さんが浴びせている悪口にふさわしいか具体的に指摘する必要があるだろう。それを、そのような「左翼」は存在しないとか、そのような存在は仲正さんの頭の中にある幻想であって観念論的妄想だというのは的はずれな指摘になるだろう。「左翼」という言葉を抽象的に解釈すれば、それはそのままで現実に存在するはずはないので、抽象的な理解はすべて幻想であり、観念論的な妄想に入るようなものになってしまう。仲正さんがここで語っている「“ラディカル”な左翼」とは、帯の部分を見ると次のような具体的存在として書かれている。「ここで私が「サヨク」と呼んでいるのは、「私(たち)が反権力の声を挙げなかったら、世の中の人たちは悪い権力者に騙され、抑圧され続けるだけだ。私(たち)は闘わねばならない」という独りよがりの思い上がった使命感を、誰から頼まれたわけでもないのに抱いているとんまな連中である。」このような人間が実際にいたら、それはやはり悪口を言われても仕方がないだろうと思う。「独りよがりの思い上がった使命感」を謙虚なものにする努力をしなければ非難されても仕方がない。自分が正しいとは思うが、それをパターナリズム的な押しつけではなく、相手にも納得してもらえるような説得力を持って説明出来るようにしなければ「独りよがりの思い上がった使命感」になってしまうだろう。仲正さんが悪口を浴びせる相手がこのようなものだったら、それは悪口を言われても仕方がない。しかし、そうであるなら、悪口を浴びせたい相手をまず設定して、その後で自由に悪口を浴びせるというご都合主義的な論理の運び方にも見えてしまう。同じように悪口を浴びせたいと思っている人間は、その悪口に拍手喝采するだろうが、これがご都合主義的なものだったら客観的な説得力は持たなくなる。仲正さんが語る悪口がリアリティを持つには、その語っている具体的な相手が、世の中に確かに存在しているというリアリティが必要ではないかと思う。頭の中で空想的に作り上げた相手ではなく、確かに現実にそういう人間がいると言うことが、多くの人の経験としてもよく分かり、仲正さんの表現もそれにふさわしいと言うことが納得出来るとき、仲正さんの語る論理がご都合主義ではなく、現実に即した説得力のあるものになるのではないかと思う。僕は、以前にフェミニズムに対して批判しようと思って失敗したが、それは具体的な対象を語らずに、頭の中で空想的に設定した対象に対して論理を展開したことに間違いがあったと思っている。もし抽象的な理論としてのフェミニズムを批判するのなら、その論理構造にまで踏み込まなければならなかったのだが、論理的な整合性については僕はほとんど語らなかった。むしろ、現実的に行き過ぎる「可能性」というものを語って、その「可能性」の結果を空想的に設定して語ったために、現実的なリアリティを失い、妄想的な幻想に非難を投げつけるというご都合主義的な論理展開になってしまった。フェミニズムという対象を、抽象的なものにするのではなく、具体的なものとして捉えていれば、批判をしたとしてもある程度のリアリティを持たせることが出来ただろうが、僕には具体的な対象としての経験がなかったのでそのような論理展開にならなかった。仲正さんは、具体的に「“ラディカル”な左翼」とのつきあいが豊富にあるようだ。だから、ここで語られていることにもかなりのリアリティがあるのではないかと思う。仲正さんは、「本書は、「この世に頭痛の種になるだけの害悪を撒き散らす塵芥のごときサヨクどもは一匹残らず、マルクスの亡霊と一緒に地獄の穴蔵にさっさと戻ってくれ!」、と私が思うに至った理由を、イプシロン出版企画編集部のインタビューに答える形で、けっこう適当に語り下ろしたものである。それほどマジな批判ではない。」とも書いている。抽象的な理論であれば、かなり厳密な論理展開で、論理の踏み外しがないように注意しながら展開していかなければならないだろうが、具体的な対象を語るときは、その具体性が論理を規定してくるので、あまり感情に流されなければ論理的な踏み外しもないのではないかと思う。しかし「サヨク」を語る仲正さんは、かなり感情的にもなっている感じもするので、時には言い過ぎの部分があるかも知れない。それでも、具体的対象を語る論理として、抽象論の名人である仲正さんがどのような語り方をするかというのは面白さを感じる。数学は抽象論の最たるものであり、数学者の藤原正彦さんは、おそらく抽象論の展開については名人級の人ではないかと思う。その藤原さんが、自分の感情のもっとも深いところに触れるような問題では、かなりご都合主義的な論理展開をして具体性を欠いているように感じたのが『国家の品格』という本だった。これは、対象が具体性を欠いた「国家」だったために、そのような論理展開になってしまったのではないかと感じる。藤原さんも、具体的な対象について語るときは、ほとんど常識的には当然とも言えるようなことを語っているのではないかと思う。それが、最後に国家と結びつくときに、どうしてもご都合主義的なものを感じてしまう。仲正さんの論理展開がどうなっているかはまだ読んでいないので分からないが、あくまでも具体的対象に即して、それから離れずに論理が展開されるなら、抽象論の名人が具体論をどう展開するかと言うことで面白い論理を教えてくれるのではないかと思う。そんな視点で仲正さんの本を読んでみようかと思う。
2006.06.26
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実無限と可能無限について考えたとき、無限の全体を把握したと考える実無限については、いろいろと困ったことが起こることが見つかった。いわゆるパラドックスと呼ばれるものだ。パラドックスでなくても、有限存在である人間的な感覚からすると奇妙に感じるものがある。数学では極限の問題として次のようなことを考える。 0.9999…… = 1……の部分は、9がどこまでも続くことを意味している。これは、感覚的には1にどこまでも近づいていく過程を示しているように感じる。しかし、数学的にはこれは1とイコール(=:等号)で結ばれる。これはどうも感覚的にしっくり来ない。これが感覚的にしっくり来ないのは、どんなに眺めても、ちょうど1にぴったり重なる場面が見えないからだ。それは限りなく近づいているという運動をしているので、どこかで切り取ってしまうと、運動が停止して、上の数字が表現している状態が失われるからだ。すっきりするためには、1とぴったり重なって欲しいのだが、そのような場面は永久に見ることが出来ない。見ることが出来るのは、永久に近づきつつある状況だけだ。このようなものが本当に等しいといっていいのかどうか、そこには論理の飛躍を感じる。この論理の飛躍を埋めるには、等しいと言うことの意味を、静止した存在がぴったり重なるというふうに受け取っていたらいつまでも出来ない。一方は静止した状態ではないからだ。等しいと言うことの意味を、運動する存在にも整合性を持つように考え直さなければならない。どのように考えれば妥当性を持つだろうか。数学は運動しているものを、運動したままで取り扱うことが出来ない。それは形式論理一般がそうなのだと板倉さんは語っていた。形式論理というものは、対象を静止したものとして設定し直さなければ取り扱うことが出来ないと言う。なぜなら、形式論理においては、真偽というものは、それが決定したらもう変わることが出来ないからだ。運動する対象は、真偽が決定出来ないので形式論理では扱うことが出来ない。運動する「0.9999……」を数学で扱うためには、これを固定的に設定し直す必要が出てくる。そこで、どこでもいいから任意のところで有限の9を区切って 0.999999999999という数字を考えたとき、その後に一つ9を付け加えることが出来る存在を想定する。これはどちらも有限なので対象としては静止したものとして決定する。しかし、もう一つ9を付け加えた存在をいつでも考えることが出来ると言うことで、これは可能無限を設定したものと考えられる。可能無限は、「0.9999……」という存在を全体としては把握出来ないけれど、その過程としての一部分はいつでも把握出来るとする考え方だ。この過程の部分と1との差を取れば、それは両者とも静止した対象だから数学の取り扱いが可能になる。 1-0.999999999999=0.0000000000001というふうに普通に計算出来る。しかし、これは当然のことながら1との差が存在するのでイコールでは結ばれない。このように過程においては1とイコールになる場面は存在しない。これは感覚とも一致する。では極限としてはどうしてイコールになるのか。極限は静止ではなく運動した状態だ。それを結果として把握することは出来ない。可能無限としては常に過程としての把握が可能だと言うだけだ。その過程において、1との差を取ったときに、その差が常にもっと小さくできる可能性を持つ。つまり、極限を持つ数は、極限とその数との差が確定しないのだ。確定しないだけではなく、それはいくらでも小さくできるという任意性を持っている。差が確定せず、いくらでも小さくできる任意性の可能性を持つ運動した数は、その結果を形式論理で把握することは出来ないが、差が確定しないのだから、それを新たな等しい(イコール:=)という定義にしようと言うのが数学の発想だと思う。このような定義の元では、運動している「0.9999……」は1と等しいと言うことが数学的に言えるのだと思う。板倉さんは、運動というものを静止の論理である形式論理で捉えることは出来ないと語っていたが、それを形式論理で表現せずに、「運動している」と言えば表現においては問題は無いとも言っていた。これは、運動は、形式論理ではなく、真偽が入れ替わる弁証法論理で捉えることが正しいと言うことでもあるだろうと思う。アキレスと亀のパラドックスにしても、それを静止の論理である形式論理で語ろうとするからパラドックスが生じるという指摘もあったように思う。弁証法論理は、一つの対象に対して違う視点を認める論理になる。「0.9999……」という対象に対しても、それを静止した論理で捉えれば、過程として捉えたときは1と等しくない。しかし極限という結果としての対象で捉えれば1と等しくなる。同じ対象が1と等しくもあり等しくもないという反対の結果を背負っている。このような矛盾の存在を認めて考察するのが弁証法論理になるだろうと思う。形式論理的に言えば、仮定としての存在と極限としての存在は違うものだ。同じ存在ではない。だから、等しいと等しくないという正反対の性質は、違う存在が背負うことになり、形式論理的な矛盾は生じない。これを同じ存在だと見なすことが弁証法論理というものにもなるのだろうと思う。無限を扱うときは、静止と運動という論理にとって重要な性質が関わってくるのかも知れない。それだからこそ難しい問題が生まれてくるのだろう。この断絶が、形式論理にとっては論理の飛躍として出てくるのだろう。この論理の飛躍に関しては、同じような構造が、仮説が科学という真理になるときに生じるように感じる。仮説というのは、それが科学の仮説である限りでは、一般的な任意の対象に対して成立するような法則を語っている。しかし、実験で確かめられるのは、その実験が行われる個別的な事実に関してだけである。ちょうど「0.9999……」の過程に対してだけ形式論理が適用出来る状況とよく似ている。確かめられるのは個別的なその場面だけなのである。しかし、結論としては、無限が並んだ極限の状況に対しても考察しなければならない。仮説が科学となるときも、個別に確かめられた実験結果を越えて、可能なあらゆる実験対象に対してその仮説が真理となるという論理の飛躍を語らなければ、仮説は科学とはならない。任意性というものが実験においてどのように証明されるかが、仮説が科学になる鍵のように思われるが、この論理の飛躍はすっきりと納得することは難しいだろうと思う。科学はどこまで行っても仮説であって、真理とはならないと考える人も多いのではないかと思う。唯物論と観念論という世界観との関係を考えても、個別的な実権から得られる知識は、具体的な存在から反映した知識として唯物論的な感じがするが、まだ実験にかけられていない無数の存在に対しては、それが存在するかどうかも分からない観念的な対象に対して、単に法則という言葉の上での表現(観念)を押しつけているのではないかとも感じるかも知れない。だが、僕は、科学は仮説に過ぎないという主張よりも、科学は仮説実験の論理によって確かめられた真理であると受け取りたい気持ちの方が強い。それは数学の極限のように、可能無限を捉えることによって、過程の運動として科学の認識を捉えることになるのではないかと思う。結果としての極限は捉えることが出来ない。つまり、それは存在しているかどうかは決定出来ないものになる。それを存在していると仮定して考えるのは、観念論的な方向にも見える。存在が確定していないものは非存在として退けるのが唯物論的な感じもする。しかし、そのようにして極限の存在を否定してしまえば、数学の持っている豊かな宝は失われてしまうだろう。極限や科学の真理性も、究極的には唯物論的に解釈出来るという論理も展開出来るかも知れない。しかし、そのような解釈をしてもあまり実りはないのではないかとも感じる。唯物論の正しさを証明することにはあまり意味がないのではないかと最近は感じるようになった。むしろ、唯物論や観念論というのは、発想法として利用した方が役に立つのではないかという気がしている。観念論的な発想で論理が展開しやすいのならどんどん観念論的に考えていいのではないかと思う。そして、それが誤謬に陥る危険性があるところで唯物論の歯止めを考えるという発想が役に立つのではないだろうか。観念論は長い歴史を持って偉大な哲学者をたくさん生み出しているが、それは論理展開の積極性という面で役に立つからではないかとも感じる。その反面で誤謬に陥る可能性も高い。これは長所は短所と背中合わせと言うことではないかと思う。逆に言えば、唯物論は誤謬に陥る可能性が低いかわりに、積極的な論理展開も難しいのではないかとも感じる。歴史上偉大な観念論哲学について学び直してみたいものだと思う。
2006.06.24
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僕は若い頃に三浦つとむさんに出会い、その見事な論理の展開に魅了されて、すっかり唯物弁証法の信奉者になった。これこそが現実の真理を発見する方法だと思ったものだった。数理論理学も真理に至る一つの道だとは思ったが、それは数学という限られた対象の世界での真理性を求めるものだと思っていただけに、広く世界を対象にして現実の物事に対する真理性を判断する道具として唯物弁証法は素晴らしいものだと思った。それと同時に、三浦さんが批判する観念論や形而上学などは、結果的には誤謬に導くものとしてあまり深く考えることなく思考の対象からは捨ててきたように思う。その具体的展開としての構造主義批判やソシュール言語学批判なども、三浦さんの文章を読むことによって、その批判的側面を理解したつもりになって、これも深く考えることなく捨てられるものとして受け取ってきたように感じる。しかし、観念論・形而上学・構造主義・ソシュール言語学といったものは、今の時代の観点からは批判される部分が多いとしても、それが主流を占めた当時は、その時代の最も優れた人々を魅了した考え方だったのではないかと思う。単純に時代が進んでいなかったから間違えたのだという理解ではどうもしっくり来ないものを感じる。実はたいへん魅力的な優れた考え方の近くに誤謬の落とし穴があるのではないかという感じもする。構造主義に関しては、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本で再評価・再発見することが出来た。構造主義というのは思考の枠組みであり、一つの視点を提出するものであるというとらえ方が出来た。構造主義そのものが正しいか間違っているかというとらえ方をすれば、すべてにわたって正しい解答を出すものではなく、時には行き過ぎた逸脱した適用によって誤謬を生むのだから、総体としては間違っていると言わざるを得なくなる。しかし、それの適用の行き過ぎに注意をし、一つの視点を設定するものとして利用すれば、構造主義は発想法として非常に役に立つものになるのではないかと思った。特にそれまでの常識が、構造主義が提出する視点をまったく考慮に入れていなかったりすれば、構造主義の視点によって新しい発見がもたらされるのではないかと感じる。ある種の視点を提出する世界観に関わるものは、その視点を固定して他の見方を排除してしまえば、その視点にふさわしくない対象を考えるときに誤謬をもたらすだろう。それは弁証法といえども、弁証法性を持たない対象を考察すれば、弁証法的に考えることによって間違えるという弁証法性を持つことになる。これは三浦さんも指摘していたことだ。構造主義は大変便利な道具だったから、あらゆる対象を構造主義的に解釈したくなったのではないかと思う。そうすれば当然逸脱した適用の仕方も出てくるだろう。そこが構造主義の間違いとして批判されることになったのではないかと思われる。構造主義の適用を間違えたのか、構造主義そのものに欠陥があったのかは、非常に微妙なところになるだろう。これは、近年マルクス主義も同じ道を歩んだのではないかと思われる。マルクス主義も非常に便利な道具であり、それまでの常識をひっくり返すような斬新な視点を与えてくれる発想法だったと思う。しかしすべての社会現象をマルクス主義的に解釈しようとすれば、それは論理を無理やり現実に当てはめるという間違いを犯すことになるだろう。マルクス主義ではブルジョアジーとプロレタリアートという二項対立的な視点で社会を見る。そして、資本主義社会が否定されて理想とされる共産主義社会が訪れると言うことを歴史的必然性と考える。三浦さんが語っていた理想的な共産主義社会(社会の生産能力が発展し、誰もが必要に応じて社会的な生産物を受け取ることが出来る社会)は、まさに実現されれば素晴らしいものに感じたものだった。しかし、共産主義社会へと向かっていった現実の社会主義国家は、とても理想が実現出来るようには見えなかったものだ。これはマルクス主義の理解と実践に間違いがあるものだと思っていた。三浦さんのように正しい理解があれば、理想に向かって進めるものだと僕は思っていた。しかし、ことはそう単純なものではなさそうだと言うことが年をとることによって分かってきた。いくら理想的な正しい考えだと思えても、それが理想的であればあるほど現実には実践は難しい。そして、理想が理想であるがゆえに間違いに落ち込む道がたくさんあるように思えてきた。地獄への道は善意によって敷き詰められているという感じが実感として分かってきた。三浦さんを通じてマルクス主義を学んでいたときに、他のマルクス主義の文献も読んでみたが、資本主義を評価しているものは無かった。資本主義の否定面ばかりが論じられていた。資本主義には否定されるべき面もあるだろうが、僕はそれが過去の時代を発展させた積極面もあるだろうと感じていただけに、それをまったく評価しないことに違和感を感じていた。板倉さんは、資本の発明と言うことを社会の発展の一つにあげていただけによけいに違和感を感じていた。現実の社会主義国家の崩壊によって、あれほど正しいように見えたマルクス主義も、正しい範囲を逸脱して行き過ぎれば誤謬をもたらすという、ごく当たり前の姿を現実に見せてマルクス主義も終わってしまったように感じる。マルクス主義は、その真理性が完全なものに見えただけに、その崩壊も徹底した極限にまで行き着かなければ起こらなかったという感じもする。そのうさんくささを感じつつ真理性を問題にしていれば、極限に至る前にその誤謬に気がついたのではないかと思う。世界観というものは、その総体を正しいものと思い込むのは危険ではないかと思う。むしろ、それは一つの視点を提出するものであって、常に別の視点を意識しながらその視点を利用するという意識が必要なのではないかと思う。別の視点を意識することで、その視点の固定化や行き過ぎを防げるのではないだろうか。これは弁証法というものがそれを語っているのだが、弁証法も、それだけの視点にこだわっていると弁証法の視点が固定されてしまうという皮肉なことが起こってくる。弁証法に対しては、その反対である形而上学的な視点を意識しつつ、その視点でも時に眺めてみると言うことが必要なのかも知れない。世界観における二項対立というのは、二項対立を解消するのではなく、永遠に二項対立を保ったままらせん状に発展していく道を考えなければならないのではないか、ということを仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』という本を読んで思いついた。世界観においては、どちらか一方が正しいのではなく、どちらも正しい場合を持っているし、間違った場合も持っていると受け取った方がいいのではないだろうか。そして、正しいとか間違っているとか言う判断が出来るのは、抽象的な世界観の範囲ではなく、具体的な対象を考えたときの具体的な判断として出てくるのではないかと感じるようになった。正しいか正しくないかという真理性の問題がもっとも鮮明に出てくるのは、科学の考察においてではないかと思う。科学というのは、世界観のように完全な抽象化をして考える対象ではない。そこには常に現実的対象が存在して、現実に対しての法則性を語るものになっている。しかし、その法則性は、任意の対象に対して成立するという抽象性も持っている。現実性と抽象性の両方を持っているのが科学の命題だ。数学は、現実性を切り捨てて抽象的な対象のみを扱うものとして、科学の中では特別な位置を占めている。これが真理性を主張出来るのは、抽象的対象を限定しているからではないかと思う。数学的な抽象的対象は、あらかじめ決められた対象の範囲にとどまり、それ以外は排除してしまう。だから、真理性を問題にすることが出来るのではないかと思う。それに対して世界観の問題は、世界内存在のあらゆるものを対象にしてしまう。それは、まだ知られていない物さえも含む「実無限」の対象について語ることになるのではないかという感じがする。数学の抽象的対象は、知られていないものは排除しているので、「可能無限」に近いものを対象にしているのではないかとも感じる。自然科学が対象にする任意性も、実験しようと思えばそれが出来るような対象に関する任意性になっているのではないかと思う。まだ知られていないような対象のすべてに関する言明は科学にはない。科学が語る対象は、ある範囲に属するもので、その範囲に属する対象は、実験の対象にしようと思えばどれでも自由に取りだしてこられる対象を扱う。実際には、どの対象を選ぶかで恣意性が生じるので、科学の真理性を検証するには、まだ知られていない未知の対象で、その科学が問題としている範囲に入りそうなものを探して来るというのが、仮説実験授業の発想なのではないかと思う。科学における実験も個別的な経験を積み重ねているだけだ。しかし、その個別的な経験が、いかにして任意性と普遍性に通じるかは、仮説実験の論理に関わっているように僕は思う。それによって科学は真理性を獲得するのだという感じだろうか。それに対して世界観の問題は、個別的な経験を考察するのは科学と変わりがないが、経験を越えた未知の世界を限定せず、世界のすべてを包括して捉えるところが総体としての真理性を語れないところではないかと感じる。科学は対象を限定するので真理性を語れるが、世界観は対象を限定しないので真理性を語れないのではないかと思う。だから世界観や発想法に関するものは、真理性を問題にするのはあまり意味がないような気もしてきた。むしろ今までは真理ではないと感じてきたものに対して、実は真理性をもたらすような場面もあるのではないかという再評価をすることが面白いのではないかとも思うようになった。観念論は、今までは間違った考え方ということで深く考えたことはなかったのだが、これを再評価するのは面白いのではないかと感じている。ソシュール言語学は発想法ではないが、それまでの言語学の対象を変えて、言語学に革命をもたらしたと言われている部分には発想法的な側面がありそうな気がする。今までは、三浦さんの批判によってその否定的側面しか考えたことがなかったが、肯定的な優れた面を再発見したいものだと思う。多くの優れた人々に影響を与えたものが、優れた面を持っていないはずはないと思うからだ。その優れた面が優れているという理解をしたいものだと思う。
2006.06.22
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仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「バカの一つ覚え」という言葉で科学に対する絶対的な信頼感を語るときがある。それは常に成立する絶対的真理であり、常に同じ主張が出来ると言うことから、「バカの一つ覚え」のように繰り返せるものだという主張だ。これは科学というものが、「科」に限られた限定的な真理だからこそ言えることだと思う。その真理の範囲を逸脱しなければ、限定された条件の下では絶対的に正しいという命題が科学というものだと捉えている。しかし一方では、板倉さんは、森羅万象を対象にする哲学の魅力も語っている。板倉さんが考える哲学は、森羅万象を対象にして、世界をあらゆる角度から見る発想法のようなものとして捉えているようだ。森羅万象を対象にすれば、それは限定的な知識ではなくなるので科学としては成立しない。つまりある条件の下での絶対的真理とはならない。それは、条件を逸脱した範囲では誤謬になる可能性がある。しかしまた条件の範囲内に収まっていれば真理ともなる。哲学的な命題は、誤謬でもあるし真理でもあるという、当たらずといえども遠からずという性質を持っている。板倉さんが語る哲学の魅力は、このような発想法が、科学を一歩押し進める仮説を考えるときに、豊かな発想での仮説をもたらしてくれるという面だ。科学を押し進める仮説のいくつかはそれが提出された時代の常識からすると荒唐無稽だと思われるものが多い。森羅万象を対象にする哲学的な広い視野がないと、こうも考えられるという、幅広い豊かな発想は生まれない。その大部分が仮説としては否定されることがあっても、いろいろな仮説が提出されることで科学は新しい面を一つずつ獲得していく。科学が真理であるためには、その適用範囲を限定して論理の逸脱に気をつけなければならない。しかし、それを発展させるためには、広い視野を持って現実を眺める、科学の適用範囲を遙かに超えたメタ的な視点を持たなければならない。この矛盾した活動が繰り返されることによって、科学は同じ地点にとどまることなく、一段高い段階へとらせん状に発展していく弁証法性を持ちうるのではないかと思う。板倉さんは、科学の父としてのガリレイについて語ることが多いが、有名な落下運動の法則の発見について書かれたことは科学の特徴をよく表しているのではないかと思う。ガリレイは、落下運動の速度はその重さ(質量)には関係ないと言うことを、ピサの斜塔から大きさの違う二つの金属球を落とす実験によって確かめたと言われている。それまではアリストテレスが書き残したものによって、重いものほど早く落ちるというふうに信じられていたようだ。ガリレイは落下運動の速度という限定された範囲の知識において正しい結果を出した。それは重力の法則を知っている我々から見れば当たり前のことかも知れないが、当時反対の常識を持っていた人々から見ると、何度繰り返してもガリレイが予想したような結果になることに驚いたのではないかと思う。まさに、限定された範囲内で絶対的な真理を語るという科学の特徴がそこには出ているのではないかと思う。逆にアリストテレスの方を見てみると、これは板倉さんが語っているように、森羅万象を徹底的に考えた偉大な哲学者としての像が浮かび上がってくる。アリストテレスの研究の範囲は、自然科学的なものから、政治学のような社会を扱ったもの、詩などの芸術を扱ったものなど多岐にわたっている。まさに森羅万象の、あらゆる知られたものに対する知識について考えたようだ。重いものが早く落ちて、軽いものが遅く落ちるというのは、鳥の羽のようなものを落とすときに現実に見られる。だから、そのような現象があることは確かなのだが、この現象が一つあるからと言ってそれが哲学的な知識になるとは思えない。森羅万象を対象にして徹底的に考え抜いたアリストテレスがただ一つの現象を元にそれを一般化して普遍的な真理にするとは思えない。僕はアリストテレスを詳しく調べたことがないので、どのような思考過程を経て落下の法則が導かれたのかは分からないが、力と速度の関係で、大きな力を加えるほど大きな速度が得られるという現象を法則化することによって、力と速度が比例するという原理を作ると、その論理の適用範囲を広げることによって落下運動の速度も重いものほど速く落ちるという結論が導けるのではないかと感じる。人間がものを動かそうとするとき、小さな力では少ししか動かないが、大きな力を加えるとそれは速い速度で動く。また、重いものはそれに見合った大きな力でないと動かない。これは、人間がものを動かそうとする運動には、ふつう摩擦が働いて抵抗が大きくなるのでこのような現象が見られる。摩擦に抵抗するだけの大きな力を加えないと運動そのものが起きないと言うわけだ。また、ふつう物の移動は水平方向に動かすことが多く、自然落下のように垂直方向への移動はあまり考えない。このような状況が重なると、物を動かすときに、それが重いものであればあるほど大きな力が必要だと言うことの方が普遍的な真理として見えてくる。この論理を自然落下の場合にも適用すれば、重いものほど運動には強い力が必要だから、重いものほど強い力で下に押されることになり、速度が速くなると結論したくなってくるのではないだろうか。これは、単に羽のように軽いものを見たことによって求められた帰納的な推論と言うよりは、速度は力に比例するという原理を森羅万象に当てはめた演繹の逸脱から生まれた誤謬ではないかとも感じる。これが仮説の段階にとどまっていて、その仮説を検証するような実験を考えるという方向へ行けば、論理の適用範囲を逸脱するようなことはなく、科学の「科」を守ることになっただろうと思う。しかし、知られた事実を合理的に解釈するという、哲学の持っている普遍性(森羅万象を対象にする)という思考法からは、ほとんど同時に落ちるように見える重さの違う二つの物体の解釈を、原理に見合うように変えると言うことで論理の整合性を保とうとするのではないかと思う。二つの物体は同時に落下するように見えるが、実はそれは測ることが出来ないほど微妙な速度の違いがあるのだと解釈出来るかも知れない。羽のように軽いものは、その速度の違いが目に見えるように分かるが、ある程度の重さを持ったものは、微妙な違いをもっているだけで計測が出来ないと解釈することも出来るかも知れない。だから、解釈の問題として言えば、むしろ羽のような軽い物が同じ速度で落下すると言うことが示せなければならないと考えるのではないかとも感じる。これは、現在の我々であれば真空を作って、真空の中で実験をすればすぐに分かるが、当時の人々にはそれは出来なかっただろう。アリストテレスは真空を認めなかったとも言われている。真空を認めなかったので原子論にも反対だったと読んだことがある。そのような諸々の知識の総合として、重いものほど早く落ちると言うことが法則として結論されたのではないだろうか。アリストテレスは、哲学者にふさわしく森羅万象に通じて、その広い知識からの判断であらゆることについての命題を残した。ガリレイは、そのほんの一部に対して絶対的に正しい知識を求めた。ここに科学と哲学の違いのようなものが見えるのではないかと僕は感じる。アリストテレスの考え方が当時の常識になったというのは、それがある意味で理解しやすいものだったからではないかと思う。摩擦力や慣性の法則というものは、感覚的な目で見ることは出来ない。ノーミソの目で見なければ見えてこないものだ。感性的な目には、力を加えて運動している人間の姿は見えやすいが、物質が抵抗している摩擦力や、外から力を加えなければ運動をし続けるという慣性の法則などは、感覚的には分からない。この常識を越える発想をするには哲学的な視野の広さが必要だというのは、皮肉な現象だと思う。哲学にとどまっていれば、それまでに得られた知識を解釈するだけで普遍的真理を本当に獲得することにはならない。しかし、哲学的に広い知識を求めなければ、それまでに知られたことを越える発想をすることも出来ないと言うわけだ。人々が、「重いものは軽いものより早く落ちる」と信じていた時代に、そうではないかも知れないと考えるのは難しかっただろうと思う。単なる変人的な思いつきでそう考えるものもいるかも知れないが、哲学的な視野の広さでこのような結論に達するためには、常識的な視点ではない、新たな視点を獲得しなければならないだろう。常識的な世界の外に出る新たな視点だ。この外に出た視点は、常識から見ると荒唐無稽なものに見えるだろう。実際、多くのものは、単に空想的に世界の外に出ただけの、実質的な基礎を持たない仮説(妄想)の方が多いかも知れない。だが、中にはその視点こそが世界を正しく捉えるものになるかも知れない。科学においては、その視点の正しさを証明するのが実験というものになる。哲学は、博覧強記で過去の事実をすべて解釈しようとするが、これから起こることについては絶対的に確かなことは言えない。しかし科学は、仮説を確かめる実験を、これから起こることの予想という形で設定する。それは、繰り返し同じ現象が生まれるような事柄に対しての命題という形を取る。一回きりの歴史的な事実ではなく、何度でも繰り返し起こる、ある意味では歴史性を持たない現象における法則性を求める。それこそが科学が普遍的真理としての性質を持つことの理由だろうと思う。何度でも繰り返し起こることが、任意の対象に対して実験的に成立することが確かめられる。そのような実験が行われたとき、仮説が科学となるのだと思う。哲学が語る普遍的真理は魅力的だが、それが常に論理の適用範囲を広げて誤謬に陥るという危うさを持っていることを注意しなければならないのではないかと思う。
2006.06.21
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僕が論理に関心を持ち始めたのは、数学を本格的にやり始めたときに、その基礎がさっぱり分からなくなったことがきっかけだった。素朴な直感に支えられて数学をしていた高校時代まではほとんど躓くことがなかったのに、厳密に数学を考え始めたとたんにその厳密さが理解出来なくなった。厳密にものを考える訓練として僕は記号論理を勉強し始めた。そしてその時に、数学の基礎においても厳密に考えれば考えるほど奇妙なことが見えてくるという「パラドックス」の世界を知ることになった。集合論におけるラッセルのパラドックスは、ものの集まりを集合とするという素朴な直感的定義の中に含まれる論理の危うさを教えてくれた。集合というのは、とりあえずそこに何が集まっているかが明確に規定出来るもの、すなわちそこに属するか属しないかが明確であれば集合として対象に出来るというのは、素朴な直感としては正しいように思われる。集合の定義として有限集合の場合はこの定義はまったく問題がない。どんなに要素が多くても、有限集合ならばすべてを確かめることも出来るからだ。しかし無限集合を考えると、この定義が「すべて」の要素に対して確かめることが出来るかどうかで、その正しさに危うさが生じてくる。自然数のように、ある要素に対して一つ大きい要素を構成的に作り出して、その無限の対象を具体的に把握出来るようなものは、「すべて」に対して言及しても問題が起こらないように思われる。可能無限に対しては、それを把握出来ると考えられる。しかし、実数のような集合に対しては、それを構成的に作り出すことが難しい。デデキントが切断というような考え方を提出したのは、構成的に作り出せる自然数を出発点として、その自然数で構成的に作り出せる有理数を元に、実数を作り出そうという意図から考えたのではないかと思う。少しでも可能無限の対象に近づけようという努力ではないだろうか。個々の具体的な対象に関しての考察では、数学ではこのように慎重にその無限性を取り扱ってパラドックスを避けると言うことをしているのだと思う。しかし、その理論が、それを成立させている数学的世界の全体に言及するときには、個々の対象を越えた抽象論のレベルが一段上がったところで深刻なパラドックスが生じるような気がする。ラッセルのパラドックスでは、集合論が対象にするあらゆる集合について言及する。そして、集合論の世界全体を二分するような集合を考える。自分自身を要素として持つか持たないかと言うことで集合を考えてみる。この規定は数学的には明確だ。集合というのは、ある要素がそれに属するか属しないかが明確になっていなければ集合という数学的対象にはならない。だから、自分自身が自分に属する要素であるかどうかが明確に出来るはずだ。このような集合は、素朴な定義においては集合として対象に出来る。そこで自分自身を要素として含まない集合を寄せ集めて大きな集合を作ってみる。これは自然によくある集合だ。大部分は自分自身を要素として含まないとも言える。例えば自然数の集合は、対象としての正の整数を含むけれども、自然数という抽象的な対象そのものは含まない。自分自身を要素としては含まないのだ。このようなものを寄せ集めて作った大きな集合は、果たして自分自身に含まれるかどうかを考えるとラッセルのパラドックスが生じる。この集合を仮にXとしておくと、 Xは自分自身を含む → Xの規定によりXは自分自身を含まない集合である Xは自分自身を含まない → Xの規定によりX自身はXに含まれるいずれの仮定の下でも、その肯定と否定が同時に成り立つ命題が生まれる。つまりパラドックスが生じるというわけだ。このパラドックスは、世界の全体を包括するような集合を集合論の対象から排除するような工夫をすることによって避けられている。世界の全体に言及してしまうときは、数学といえどもパラドックスを避けられないと言うことが分かる。ゲーデルの不完全性定理なども、世界の全体に言及したときの論理の限界を語っているのではないかと僕には思える。自然数論で、個々の自然数を対象にした命題を考えている限りでは、そこには矛盾は生じないし、個々の数学的対象に関する性質はかなり完全な形で解明されている。しかし、これを自然数論全体に対する言及を考えると、その無矛盾性と完全性が両立しないと言うことがゲーデルの不完全性定理の内容になる。その体系が無矛盾であっても、その中で真であるにもかかわらず証明不可能な命題が存在してしまう。これは、どの命題がそのような証明不可能なものかは分からないが、無限に多様な命題を持った自然数論の世界の全体をいっぺんに把握出来ないと言うことを物語っているのではないかと思う。無限の対象の中には、我々の論理では捉えきれない対象が存在していると言うことをゲーデルの定理は示しているのではないかと思う。これは論理の限界ではあるが、具体的な対象を考察している限りでは、それは有限の範囲の世界の出来事であるから、このパラドックスは深刻な影響は与えないのではないかとも思う。無限をいっぺんに、その全体性を把握しようと意図したときに、このパラドックスは深刻な影響を持ってくるだろうと思う。カント的な物自体という対象も、このようなパラドックスに似たものであるように僕は感じる。唯物論とか観念論とか言うものは、我々が生きている世界全体がどのような性質を持っているものであるかに言及する、世界の全体性に対する言明だと僕は思う。全体性に関する言及から不可避的に生じてくるパラドックスが物自体というものではないだろうか。物自体は、存在という属性のみを持った対象として抽象されている。具体的な存在ではない。だから、物自体は、他の属性を持ったものとして人間に観察されたときはもはや物自体ではなくなってしまう。その定義に最初から、人間には認識され得ないものであるという規定が含まれている。人間には認識され得ないものであるにもかかわらず、このような対象が、人間の意識とは独立に存在しているかどうかは、唯物論の規定には深刻にかかわっているのではないだろうか。もし、このような物自体というものが、我々には認識されることがないのだから、それは存在していないのだと結論するなら、存在の判断を我々の認識を基礎に行っていることになる。これは唯物論ではなく観念論になってしまうのではないだろうか。少なくとも不徹底な唯物論であるとは言えるのではないか。唯物論も究極の場面では観念論と妥協して共存しなければならないと言うのが、我々の認識や論理の限界というものかも知れない。もしかしたらそういうものかも知れないと言うのが、今の僕の考え方だ。この妥協を嫌って、あくまでも唯物論の立場を守るなら、それは世界の全体に関する記述はあきらめるというか、集合に対してある種の制限をしてパラドックスを避けたように、認識の対象に制限を設けて唯物論の規定を守ることが必要なのではないかと思う。自然科学の世界では、対象になるのは限定された具体的な世界の対象だけだ。世界の全体に対して言及しようという意図は自然科学にはない。だから、自然科学の世界では、常に限定された認識の対象について語るので、ここでは常に唯物論の規定が守られているとも言える。自然科学の世界では物自体の問題は解決されてしまう。それは具体的な有限世界の話になるからではないかと思う。抽象的な無限を扱わずにすむからではないだろうか。しかし、これが自然科学の範囲にとどまらず、哲学の世界の話になってくると、我々の考えの及ばない無限の世界が登場してくることになりそうな気がする。世界の全体を把握するという抽象論は、普遍性を考える上では便利で魅力的な考え方だ。それだけに、その落とし穴としての無限性や物自体の問題は一度考えておくべき価値のあることではないかと思う。普遍性と特殊性を取り違えて間違えるときと言うのは、世界の全体性を考えているときに陥りやすいのではないかと思う。物自体の問題も抽象的に現れるだけでなく、具体的には、自分の頭の中にしかない存在を実在だと思い込むときに、物質的な存在を基礎にしていないという点で、その観念的な存在は物自体だと呼ぶことが出来るのではないだろうか。抽象的な存在そのものに、観念的な属性を押しつけているだけだと。その存在を自分自身で確かめたものではなく、その情報を聞いたり見たりして、ある意味では言葉の上でだけ知っている存在というのは、限りなく物自体に近いのではないかとも思える。人間がまだ存在していなかった太古の地球について、我々はそういうものの知識を言葉の上では知っている。しかし、本当にそのような存在があったのだろうか。そこには人間はいないのだから、人間の認識の対象になるようなものは全くない。物自体の世界だと言ってもいいのではないか。そのような対象に対しても、我々がその存在を信じるのは、何らかの痕跡が鏡として残っているからだと思う。しかし、その鏡を知らないで、言葉の上でだけ、そのようなものの存在を知っているのだとしたら、それは物自体から物になっていると言えるだろうか。素朴な直感はパラドックスにつながる道を持っている。厳密な論理的考えで、その道を踏み外すことなく、パラドックスを克服したいものだと思う。
2006.06.20
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二項対立というものを抽象的に捉えると、それが複雑な構造を持っていて、簡単にどちらか一方を否定するだけでは解決しないものがあるということが分かる。その場合は、否定したと思った一方の側が、意外なところでよみがえって、その時は正しいと思っていた命題が、固定化したことによって間違えると言うことが起こったりする。認識において、観念的な知識(言語など)によって現実を解釈していくというのは、物質と精神の関係から言うと、精神が先行して物質の存在を確認していくように見える。物質的存在がそこにあるから、それを感覚で感じて精神に反映することで物質の存在が先行しているとは必ずしも言えないような場合が想定出来る。原子の存在の認識などにそれを感じる。原子は感覚では捉えきれない存在なので、それを観念によって構成するという前提がないと、原子の存在そのものを認識することが出来ないように思われる。ノーミソの目で原子を見るという観念的な前提なしには、原子はいつまでも物自体にとどまると言えるのではないだろうか。しかし原子は、単に頭の中で空想的に設定したフィクションではなく、その存在を様々な実験で確かめることが出来る。存在を、生の感覚で感じることは出来ないが、ある種の鏡を工夫して間接的にその存在を見ることが出来る。だから、その存在は、観念的な前提を持って問いかけた結果によってもたらされるとはいえ、観念によって作り出されたものではなく、そこにすでに存在していたのだが、それを確かめる方法を人間が得たことによって、物自体から具体的な物になったと言えるのではないかと思う。観念が先行して存在しないと、積極的な意味での新発見などは出来ない。しかし、ある存在が発見されて、存在が確認されれば、今度はその存在がいろいろな属性を教えてくれる。観念と物質の先行は、どちらか一方に決められるものではなく、具体的な場面ではその状況に応じて先行するものが入れ替わるのではないだろうか。つまり永遠に二項対立が続いて、それが発展していくという理解こそが正しい理解ではないかと思えてきた。観念と物質とどちらが先行しているかは、観念論と唯物論という、世界の全体性に関わる言明になる。このようにすべての対象を含むような世界全体に関わる二項対立は、どちらか一方に決められるものではなく、永遠の運動として対立し続けるのではないだろうか。それが世界を過程として理解すると言うことではないかと僕には思えてきた。逆に言うと、世界全体に関する言明ではない、具体的な場面に関わる具体的な二項対立は、その具体性を深く考えることによって、その条件の下ではどちらが正しいかの決着をつけられる二項対立になるのではないかとも考えられる。具体的な条件を考えることが極めて難しい二項対立もあるだろうが、具体的な条件の下での対立の解消という視点で、いくつかの具体的な二項対立を考えてみるのは何かの発見があるのではないかと思う。神保哲生・宮台真司両氏のマル激トーク・オン・デマンドに衆議院議員の河野太郎氏がゲストで出たときに、年金問題を巡る二項対立について語っていた。河野氏の主張は、年金を保険によって制度維持するのではなく、基礎年金は税金でまかなうという方向で改革していくというものだった。社会保険庁の存続が是か非かという点で二項対立を形作っていた。保険でまかなうという年金制度が存続するのなら、それを扱う社会保険庁は必要なものということになる。しかし今の年金制度はすでに破綻していると判断するなら、破綻した制度を維持するためだけに社会保険庁を存続させるのは不合理なことになるだろう。問題は、年金制度が破綻しているのか、それとも改善して続けていくことが可能なのかという判断が、二項対立の条件として大きく関わっているように感じる。河野氏の主張では、年金制度はすでに破綻しているという判断だった。それは人々が年金というものに対する信頼をほとんど持たなくなったという判断から来ている。現行の年金制度では、上の世代の年金を、下の世代の保険料でまかなうという形を取っている。この形が、少子化や年金不払いによって、支出は多いが収入は少ないという状況を生み出している。この状態では、とるべき道は二つしかない。一つは支出を減らすと言うことで、これは年金支給額を下げると言うことだ。もう一つは収入を増やす道で、これは年金保険の徴収を増やすと言うことになる。どちらの道も、当事者である世代にとってはその利害関係は深刻なものになる。誰もが納得して妥協する道が見出せない。社会保険庁によればこのほかにも第三の道があるという。それは、年金支給年齢を現行の65歳から70歳に引き上げるというものだ。確かに、これなら支出を抑えることが出来るだろうが、不利益を被る世代が出るのはこの道でも明らかだ。それが、数としては少なくなるから、その世代だけに不利益を押しつけてしまえと考えるなら、もはや民主国家としての資格を失うのではないだろうか。いずれにしても、現行の年金制度はもはや誰にも信頼されない破綻したものになったと言えるのではないかというのが河野氏の主張だった。これは非常に説得力のある議論だと思った。もはや保険という形での年金制度の維持は不可能だと言えるのではないだろうか。改革の道はない感じがする。そうであれば、保険ではない道での改革を考えなければならない。そうすれば、必然的に社会保険庁は解体されるという形で二項対立は解決されなければならないような気がする。合理的に考えれば、この二項対立の解決の道は見えてきたような気もするのだが、事はそう簡単に運ばないだろうというのが宮台氏の考えだった。年金制度というものを、年金を受け取るすべての人の平均的な感覚から見れば、このような考察の方向が出てくるだろうが、この制度に利害関係を持っている人間は、その利害に絡んだ方向から存続を図るということが出てくるだろうと宮台氏は考えていた。二項対立に対して、利害という、ある意味では主観的なものから離れて客観的な合理性を考えれば二項対立が解決するかも知れないが、利害から解放されないときは、その主観的なものの作用で二項対立が維持されて発展していく可能性がある。しかし、具体的な二項対立は、どこかで解消されなければならないのではないかとも僕には思える。利害という主観から維持されているとしても、その主観が現実にはもはや通用しなくなったときに、劇的な形でそれは破綻して二項対立が解消されてしまうのではないかとも感じる。そのようなギリギリの場面まで行かなければ二項対立が解決出来ないのか、それとも人間は賢さを見せて、決定的な破壊が起こる前に何とか破綻を回避出来るのか、歴史から学びたいものだと思う。年金制度の破綻は、今はまだ劇的な形では訪れていない。今までの蓄えで何とか制度が維持されているような感じがする。だから、今の時点でなら、まだ改革の方向はあるのではないかとも思える。河野氏のような賢さがあれば、決定的な破壊を回避出来るのではないかという希望も持てる。しかし、今はまだ大丈夫だから、大丈夫な間は何とか今の制度を維持しようと考えていると、決定的な破綻を迎えるときが訪れるのではないだろうか。年金制度を巡る二項対立(保険制度で行くのかそれ以外の方法で行くのか、社会保険庁を存続させるのか否かなど)は、いずれどちらか一方が否定されて解消されるのではないかと僕は思う。それは、具体的な存在に関する二項対立だからだ。それが、現実の具体的な結果として決着を見るのか、結果が出る前に、ノーミソの目で見た予想によって判断されるのかは大きな違いがあるように感じる。予想は、まだ現実にはなっていない観念の世界のものだから、「本当にそうなるのか」という疑問が消えることはないだろう。その予想の段階で判断するのは、かなりの賢さがないと出来ないことかも知れない。年金制度に関する二項対立は、その複雑さが大きすぎて、いきなり考えるには難しすぎるかも知れない。もっと単純な二項対立で、現実の二項対立の解決の方向を見る目を養うことが必要だろう。何か、そのような訓練をするための適当な練習問題がないかというのを探してみたい。その練習問題をするときには、それがどのような世界観の二項対立と結びついているかを考えるのは役に立つかも知れない。世界観に関わる二項対立は、解消されて決着するのではなく、互いに条件によって正しさが入れ替わっていくだろうと思うから、問題にしている具体的な場面での条件は、二項対立の発展段階では、どの位置にある段階かというのを考えることが正しい判断のためのヒントになるのではないかとも思えるからだ。あまりにも単純な問題では練習にならないし、難しすぎてもお手上げになるだけで練習にならない。適度に分かりやすく、適度に難しいという問題はないものだろうかと思う。自分の身の回りの二項対立(肯定も否定もどちらも一理あると思えるような主張)の中で、解決可能な問題を探してみたいと思う。思いつくものを箇条書きにしてみよう。・健康のためには食事に気をつけた方がいいが、おいしいものを食べたい。・たばこやお酒の功罪についても二項対立があるのではないか。それは気分的な安定をもたらすかわりに、生理的な害悪もある。・権利や義務の問題。好きなことを優先したいけれども、やらなければならないこともありそうだ。・仕事と遊びの問題。仕事は拘束されるイヤな時間だけれど、遊びはそれから解放される楽しい時間というような二項対立はあるだろうか。・記憶力と思考力の問題。覚えているだけの知識は役に立たない面もあるが、何も知らないで考えることも出来ない。・愛国心(愛郷心)と国際感覚の問題。自分の所属する共同体への愛情と、普遍的人間性に対する思いとの関係。・愛情の二項対立。自分が愛情を感じているほど、その対象になっている人には愛されていないのではないかというような二項対立。愛が憎しみに転化する二項対立。・親切とお節介の弁証法的な二項対立。善意が必ずしも感謝の気持ちにつながらない二項対立。とりあえずはこんなことが頭に浮かんできた。
2006.06.19
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僕は、弁証法の論理を三浦つとむさんを通じて学び、それが発想法として有効だという板倉聖宣さんの指摘が気に入っていた。三浦さんが語るヘーゲルについて学ぶことはあっても、直接ヘーゲルに関して学ぶことはしてこなかった。それは、ヘーゲルの言い回しが難しくてよく分からなかったからというのもある。三浦さんの弁証法の解説は、あくまでも現実の具体的な世界を分析することによって、現実の弁証法性を理解することによって、現実存在の構造としての弁証法の論理を学ぶというやり方だった。これはとても分かりやすい方法だった。現実の対象が自分にも分かるものであれば、それをどのような視点で見ればどこに弁証法性が見えるかということが分かったからだ。これは弁証法そのものを学ぶには分かりやすかったが、現実を学ぶことで済ませられるので、歴史を学ぶ必要がなかった。だから、三浦さん以前のマルクスの弁証法やヘーゲルの弁証法というものについては、漠然とイメージのようなものはあったが、それがどのようなものであったかという具体的な内容をつかむことは出来なかった。ヘーゲルの弁証法については、世界を結果として見るのではなく過程として見るところに特徴があるというのを漠然とつかんでいたに過ぎない。それが、仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』という本を読んで、ヘーゲルの弁証法というのは、どうやら二項対立というものを過程として捉えたものではないかという具体的な内容が浮かんできた。哲学における究極的な二項対立というのは、精神と物質とどちらが根源的かというものだと僕は思っていた。そして、三浦さん的な唯物論の考え方と、板倉さんの科学の考え方からすれば、まずは物質的な存在があって、それを対象として認識するという精神の作用が生まれると考えるのが自然だと思っていた。だから、この二項対立は唯物論の方が正しくて、観念論は、行き過ぎれば妄想的な精神主義につながったりするので間違いだというのが僕の素朴な感覚だった。しかし、これは素朴すぎる単純な理解だったかも知れない。物質的存在が根源的だと考えた場合、その根源的な存在として、精神の作用のないカント的な「物自体」という存在を想定せざるを得なくなるような気がする。三浦さんによれば「物自体」という存在が持っている不合理性は実践を通じて克服されると語っていた。仲正さんも例として引いているが、コールタールの中のアリザリンという紅色染料が、それが発見されなかった間は、存在してはいたが知られていなかった「物自体」であり、発見されることによって認識される物となったということで、「物自体」が実践によって克服されたと考えるというものだった。しかしこれは本当に「物自体」の克服になっているだろうか。アリザリンの場合はそれが知られることによって認識の対象になった。しかし、永久に知られることのない物は「物自体」にとどまって我々の認識の対象にならない。それすらも根源的な物質的存在と呼ぶのには少しためらいがある。存在が確かめられないものに対して存在だと言っていいものかどうか。存在が確かめられるには、我々の精神の側にも、その存在を確かめるための準備がいるのではないだろうか。何の準備もなしに、いきなり存在が飛び込んでくるということはないのではないか。卑近な例でいえば、「肩こり」というものを感じる人と感じない人がいるという話を聞いたことがある。「肩こり」を感じない人は、精神の作用の中にその認識がないので、「肩こり」そのものが存在しないかも知れない。それを他者が感じるからといって、根源的な物質的存在だと言えるかどうか。感じない人には存在しないとも言えるのではないか。また原子の存在というのは、原子論的なものの見方が出来る人には、目には見えなくても、ノーミソの目という想像力でその存在を見ることが出来る。それは、物質的な存在があるから見えるのだと結果的には言えるだろうが、それが見えてくるには原子論的見方という精神の働きを前提にしなければならないだろう。そのような精神の働きなしに、原子が物質的に存在しているから、それが反映して人間に認識されるといっても、それはあまりにも素朴に単純に信じすぎているのではないかと思われる。精神と物質の二項対立については、それを究極的に決着をつけるのは間違いで、具体的な認識においては常に過程的に対立が存在するのだと理解する方が正しいのではないかと思えてきた。ある場合には精神が先行することがあるし、ある場合には物質が先行する場合もあると理解するのが弁証法的な理解なのではないだろうか。ソシュールが、言語によって現実を切っていくと指摘していたのは、精神が先行している場合を語っていたのではないだろうか。言語によってある種の世界認識の像が先行しているときは、現実の存在をその像に従って切り分けていくような認識が生まれるだろう。そして、その切り分けに従わない予想外の存在が見えたとき、新発見が生まれたと言えるのではないだろうか。板倉さんもその予想論で、予想をしなければ予想外のものは発見出来ないと語っている。人間の認識において積極的な面を見せる「発見」というものは、精神が先行して物質を見るときにもたらされるのではないかとも思える。しかし、ある場面において精神が先行したことを、すべての局面において広げてしまえば、過程的だったものが固定的になり、観念論的な妄想を生むことになるだろう。言葉が存在すれば、その言葉どおりの現実が必ず発見出来ると考えれば、それは言霊信仰になるだろうし、極端な精神主義を生むきっかけにもなる。それは過程的な現象であり、発見のきっかけが精神の働きの先行だとしても、発見した対象は発見する前からそこに存在していたのであり、それが発見によって精神にもたらされたという唯物論的関係は、また過程的なものとして捉えることが出来る。精神と物質の二項対立は、このように過程的なものであり、決して決着がつかない永遠の運動として捉えることが弁証法なのではないだろうか。ヘーゲルの弁証法が「止揚」であるということの意味を、それが過程的構造を保ちながらも一段高い段階へ発展していくことから「止揚」という言葉を仲正さんは使っているように思われる。認識が深まって、対象に対するより深い知識・より本質的な理解が進むというふうに捉えているように感じる。これは板倉さんの仮説実験の論理にも通じるものではないかと感じる。板倉さんの仮説実験の論理では、対象に対して仮説を持って問いかけることによって、対象の持つ科学的性質が一つずつ明らかになっていく。仮説を持たず、予想を持たなければ、どの現象も、単に事実としてそう言うことがあったという経験で終わってしまう。それを、経験にとどめることなく、一般性を持った法則的認識にまで高めるのが仮説実験の論理ということになる。二項対立というのは、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという決着を見せるものもあるだろう。この場合は対立は解消されて解決される。しかし、精神と物質のように、どこかで終止符が打たれるのではなく、永遠の対立を背負って運動し続ける二項対立というものもあるかも知れない。このような二項対立の場合は、二項対立した状態こそが正しい状態で、それを過程的に理解する必要があるのではないだろうか。そして、その対立の理解を深めていくことこそが止揚になると考えられるのではないだろうか。ヘーゲルの弁証法をこのように理解すると、世界を結果ではなく過程と見る見方というのがかなり具体的に頭に浮かんでくる。しかしヘーゲルは観念論者といわれているように、この過程に精神の方が先行するという決着をつけてしまったようにも見える。「絶対精神」という到達点を否定して、この二項対立を過程に引き戻すにはどうしたらいいのだろうか。今までは、それは観念論だったから間違っていたのであって、唯物論を基礎にすれば弁証法が正しい道に戻ると思っていたが、唯物論も究極的なものとして固定してしまえば、同じような二項対立の固定化につながってしまう。逆立ちしているのをちゃんと立たせればいいのではなく、立ち止まっているものを歩ませるという運動の側面を持たせなければならないのではないかと思う。そのヒントとして仲正さんはヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)の考えを紹介している。以下に引用しておこう。「ベンヤミンの仕事は非情に多岐にわたる上かなり複雑なので、その概要を要約するのは難しいが、正当マルクス主義の史的唯物論からの距離の取り方という側面に限定して言えば、1 「始まり」と「終わり」が確定している歴史発展の普遍的法則のようなものを疑い、むしろそのような“法則”を求めようとする主体の願望の解明に焦点を当てる、2 客観的に実在する“物”の普遍的性質を探求するのではなく、「主体」のユートピア回帰願望がどのように「客体」(=“物”)の表面に表象されているのか、「客体」を構成する素材(Material)の微細な構造に即して美学的に分析する--の二つの特徴をあげることが出来るだろう。」「始まり」と「終わり」があれば、それは過程ではなく決着がついたものになってしまうから、過程に注目するには1は大事なことだろうと思う。2は理解するのが難しい。仲正さんも、「これは見方によっては、「客体が主体によって構成される」という前提に立つカント主義に回帰しているようではあるが」と語っている。二項対立を、過程ではなく観念論の方に偏って見ているような感じも受ける。しかし、これは次のように理解することが必要だろう。「ベンヤミンは「主体」の“本質”をア・プリオリに措定して、そこから演繹的に理論体系を構築しようとするわけでもない。「客体」という形で“私”の目の前に現れている“物”をじっくり見ることによって、「主体」としての“私”自身がいったい何を求めているのか、歴史的・社会的パースペクティヴを背景としながら、間接的に解明しようとしたわけである。我々の生きている世界に“存在”する“物”は、“私”たちの願望を映し出す鏡、あるいは媒体(メディア)なのである。ベンヤミンは、都市空間、歴史的建造物、商品、芸術作品などとして社会的意味を帯びて現れてくる“物”を媒体として「私」自身を知ることを、唯物=素材論(Materialismus)の本来のあり方と考えたわけである。」物を鏡として認識するというのは、三浦さんも語っていたことで、これは物が精神によって作り出されると考えるのではなく、物質と精神の働きの相互作用を過程として捉えることになるだろう。「「私」自身を知ること」がどんどん発展して深まっていけば、それは二項対立の止揚につながるのではないかとも思える。ベンヤミンという人に大きな関心が生まれてきたのを感じている。
2006.06.15
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今週配信されているマル激のゲストは衆議院議員の辻本清美さんだ。その前は自民党総裁候補の河野太郎さんだった。またちょっと前には、民主党の保坂展人さんが出ていた。いずれの人にも共通するのは「元気」だと言うことだった。難しい問題に取り組み、逆風が吹いている状況かも知れないのに、彼らはいずれも元気に活動していた。そのさわやかさに大きな共感を覚える。河野さんは自民党総裁という、リーダーの中のリーダーを目指している人だが、国会議員であるということがすでにある種のリーダーとして存在しているとも言える。三浦つとむさんは、「指導者の理論」で指導者はその行動において模範を示さなければならないということを書いている。その意味では、この3人は模範となる行動で、指導者としての資格を獲得していると言えるのではないかと思う。宮台氏は以前に国会議員にプライベートはないと語っていた。すべての行動が公共性を持ったものだという主張だ。それから考えると、この3人の行動は、常にパブリックな活動がプライベートな活動に優先しているとも言えるのではないかと感じる。このあたりも指導者にふさわしい資質を持っているのではないかと感じるところだ。リーダーと言うことで連想が浮かんでくるのは、オーストラリア戦で惜しい敗退をしたサッカー日本チームの中田と中村の二人だ。二人とも高い技術を有し、その冷静でクレバーな頭脳による判断は、充分他のメンバーの模範となっているので指導者としての資格を有していると思われる。しかし何か足りないものも感じる。その足りない何かは「元気」というものに通じる何かではないかと感じた。これは二人の性格や、冷静でクレバーな頭脳を保ちたいと言うことが影響しているのだと思うが、見るからに元気だというカリスマ性はなかなか感じない。熱狂的なオーラを発散するというタイプではないのだ。元気さに欠けていたように感じたのは、あの試合が途中までは勝っていた試合であったにもかかわらず終始重い雰囲気に包まれていたように思えたからだった。あの試合に、ただ一人中山のような元気な選手がいたらちょっと違っていたのではないかとも思って残念だった。かつての「ドーハの悲劇」の時は、思いがけない交通事故にあったときのような感じがあったが、一昨日の試合では、一度切れた糸がつながることなくそのままボロボロになっていくような感じで敗戦までの10分が過ぎたように感じた。元気さを体現するリーダーにはいろいろあると思うが、典型的なのは小泉さんかも知れない。小泉さんが言うこと・やることは、ほとんどが間違っているのではないかという気もするが、小泉さんが言う通りにしていると何かいいことがあるのではないかという気にさせるような元気さがある。そのあたりのカリスマ性は典型的に表れているのでいつまでも支持を失わないと言う感じがする。逆に言えば、小泉さんのような元気さがないリーダーが同じことをすれば、そのメッキがいっぺんにはげて支持を失うだろうというような感じもする。他者を鼓舞するリーダーとしての資質から言えば、ヒットラーでも最高のものがあったのではないかとも思える。そういう意味では、この資質は社会に与える影響は諸刃の剣だと言えるだろう。この元気さの資質はいったい何からもたらされるものなのだろうか。ヒットラーの場合は、狂信的な信念がその元気さの原点にあったとも思える。自分が信じるものに疑いを持たず、それが絶対的に正しいと思っていれば、正しいことをする自分が元気でいないはずが無いという感じだろうか。小泉さんにもそれに近いものを感じる。狂信の対象とされる新興宗教の教祖などもそれに近いものがあるだろうか。どんなことがあろうとも自分の信念が揺るがないと言うことを基礎にした元気さというものがあるのを感じる。冷静でクレバーな頭脳の持ち主は、このような狂信的な信念を持つことが出来ない。だから、このような種類の元気さは資質として持ち得ないと言うことがあるだろう。中田や中村にこのような元気さを期待しても難しいと思う。冷静でクレバーな人間は自分の状況を的確に把握する。不利であり勝てる要素が少ないとなれば、それなりの対応をしようとするだろう。空元気を出すことは出来ない。冷静でクレバーな人間が元気を出すためには、状況を改善して自分に有利なように変えていくか、充分勝てる可能性が高いという判断が出来るときに勝負に出ると言うことが出来るときになるだろう。仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんや、その仲間である岩波映画社で科学映画を作っていた運動家の牧衷さんは、冷静でクレバーな人間であるが実に元気な人間であるように見える。その元気さは、狂信的な信念から生まれる元気さではない。未来に対する大きな信頼感から来る元気さのように見える。牧さんは、運動が好きで他者に働きかけることが好きな元気な人だ。生まれついてのリーダー性を持っている人のように感じる。若い頃は、狂信的な元気さで引っ張ったこともあったそうだが、それで失敗して、運動において「穴に落ちる」と言うことを深く反省して今に至っている。その牧さんは、運動は勝てる運動しかしないということを明言している。勝てる可能性があるところに全力を注ぎ込むので、常に希望を抱くことが出来て元気でいられるというわけだ。勝てない運動には手を出さないのだそうだ。これは今までの運動の考え方とはまったく違う革命的なものだと僕は思う。今まで運動に携わる人たちは、たとえ勝つ可能性が低くても、それは大事なことだから、訴え続けるためにも運動をしなければならないと考えていた人が多かったように感じる。まったく成果を感じられないつらい運動でも、その重要性を自覚した人たちが頑張っているというのが運動の現場であるように僕は感じていた。牧さんは勝てる運動しかしないといっているが、それでは勝てない運動は自分とはまったく関係がないものとして無視するのかと言えばそうではないようだ。旗幟鮮明にして旗を立てておいて寝るというのが牧さんの戦術のようだ。運動というのは、それが大事であり正しいものであれば、必ず勝てる時期というものが訪れる、というのはやや信念のようでもあるが、経験的な真理のようにも感じる。牧さんは、勝つ可能性が少ないときは、それが勝てるようになるまで待つというのが基本的な戦術となっているようだ。今は勝てないかも知れないけれど、将来は勝てるだろうという希望が元気さを保つ秘訣かも知れない。板倉さんの元気さは、科学的真理に対する信頼感から来る元気さのような感じがする。板倉さんは「真理は10年にして勝つ」という格言を語っている。今はなかなか理解されない真理であっても、10年もすれば理解する人の方が多数派になるという希望と信頼がここにはある。問題は、それが真理であるという確信が得られるかどうかと言うことだ。板倉さんは、それが科学であれば100%の信頼を置いて真理であると確信しているのでこのような元気さが出るのだろうと思う。板倉さんの格言に「どちらに転んでもシメタ」というものもある。これは、世の中の構造をよくよく考えてみれば、必ずプラスに転換する方向が見えてくるので、それを見つけることが出来れば「どちらに転んでも」いい方向に転換出来るという意味で「シメタ」なのだと言うことだ。これは、「ものは考えよう」という格言とよく似ているが、板倉さんの発想では、考えるだけではなく、その対象に客観的に存在している属性がプラスになるようなものが必ず発見出来るのだという意味が込められている。フィクションで元気になるのではなく、実質的に元気になるような方向を見つけるということだ。学級崩壊が始まって、子どもたちがわがままになったといわれたときに、板倉さんは仮説実験授業にとってはいい時代が到来したと語ったものだ。仮説実験授業は、子どもが主体性をもって、それが面白いかどうかを自分で判断して授業の中に入ってこなければ成功しない。わがままと紙一重の主体性が明らかに表に出るようになった時代は、まさに仮説実験授業にとっては、その正否が確立される時代が到来したと歓迎したのだった。冷静でクレバーな人間は、先が読めるので、ある意味では先が見えすぎてお先真っ暗という状況にもなりやすい。敗北主義的な元気のなさが襲いかかってくる恐れがある。その時になお元気を保つための技術として「どちらに転んでもシメタ」という発想は有効なものだと思う。人間は失敗することも多い。それだけに、その失敗を乗り越えるためにも「どちらに転んでもシメタ」だと受け止めると元気を失わずにすむだろう。ワールドカップで初戦敗退したチームが決勝トーナメントに進む確率は4%だというニュースがあった。これはお先真っ暗の元気を消沈させる発想だなと思う。これをどうやって「どっちに転んでもシメタ」という発想にするかが、これからの試合で元気を出せるかどうかに影響するのではないだろうか。決勝トーナメントに行く可能性が薄くなったということは、ある意味ではこれからの2試合は勝負というものにあまりこだわらなくてもいい試合として受け止められるのではないかとも思える。これを勝たなければならない試合だなどと考えるとかえってプレッシャーが強くなってまた元気がなくなると思うが、勝負は関係ない、いいプレーをしようというふうに気持ちを切り替えれば、冷静でクレバーな人間はかえって元気が出るのではないかとも思える。人間にとってプレッシャーが動きを悪くするというのは科学的真理ではないかと思う。人間というのは、それくらい精神的な影響を強く受ける生き物だと思う。この敗戦によってよりプレッシャーを受ける方向へ行ってしまうのか、それともプレッシャーを取り除く方向へ行けるのか、どちらへ行くかで「どっちに転んでもシメタ」が実現出来るかどうかが決まるのではないだろうか。僕は子どもの頃学校の勉強は嫌いだったがテストは好きだった。テストの時の緊張感が、普段は出来ない発想が出来たりして、その集中力を高めていく感じが好きだった。テストはまったくプレッシャーにはならず、むしろ実力を高める方向に作用してくれたからだ。しかし、それは、どのような結果が出ようともまったく気にしなかったということがあったからだろうと思う。テストの結果を気にしてそれを受けていたら、おそらくプレッシャーを感じて普段の力も出せなかっただろうと思う。『車輪の下』のハンス・ギーベンラートがプレッシャーに押しつぶされたようになってしまうだろう。たとえ0点を取っても気にならないというプレッシャーのなさが、僕にとってはテストの問題を考えるということに集中することを楽しみと感じられるような元気さをもたらしてくれたのだろうと思う。たとえまったく知らないことであっても、そこに問われている問題に関連して集中して頭に浮かんでくることを考えるというのは、短時間のテストの時間内だけであれば、その集中した頭の状態がとても心地よく感じたものだった。いろいろな意味での元気さを持ちたいものだと思う。信念の中で感じる元気さも、気分的には悪くないだろうなと思う。それが、他の元気さと調和よく保たれるのならいいものではないかと思う。
2006.06.14
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昨日本屋で見つけた仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』(ちくま新書)という本が面白い。まだ最初の部分しか読んでいないのだが、二項対立というキーワードで世の中の現象を見ていくと、いろいろとその意味が分かってくるようなことが多いのではないかと感じさせてくれた部分が特に面白いと感じた。二項対立というメガネで眺めてみると、今まで見えなかったものが見えてくるという感じだ。二項対立というのは、ある主張とその正反対のものを提出して、どちらに賛成かというものを問うものだ。ある主張に対して賛成か反対かを問うというものになる。ちょっと前の話題でいえば、郵政民営化に対して賛成か反対か、というようなものがあった。今のことでいえば、共謀罪に対して賛成か反対か、というものや教育基本法の「改正」に対して賛成か反対かというような二項対立があるだろうと思う。二項対立というのは物事を単純化して分かりやすくする。郵政民営化に対して賛成するなら、「改革賛成派」であり、それに反対するなら今までの既得権益を守る「守旧派」だという理解を人々に迫る。これが正しいものであるなら、この二項対立は実に分かりやすい論理になる。どちらかが正しいものであり、どちらかが否定されるのなら、形式論理的には「排中律」と「矛盾律」が成り立つというすっきりした世界が現れる。しかしこの分かりやすさは形式論理の世界の分かりやすさということになる。現実を対象にした考察では、このような単純な構造を持った論理にはならない。郵政民営化に賛成することが、それだけで改革という現実の問題を解決する方へ向かうことになるとは限らない。現実の問題は具体的に考えれば矛盾した面を見せる。民営化のある側面は確かに現実の問題の解決になるような改革になるだろうが、他の側面では、現実の問題を解決するどころか、問題を隠蔽し利権を温存するために働く可能性もある。郵政民営化といっても、そのすべてに賛成であるとか、そのすべてに反対であるという単純な立場は少ない。具体的な各論で賛成か反対かが変わってくる。そのような複雑さを、二項対立は覆い隠し、単純化して簡単にすることによって人々の誤った判断を呼び起こすことにもなる。共謀罪に関しても、社会に多大な影響を与える凶悪犯罪に対しては、通常の犯罪に対するものと違う対応が必要だ、という一理ある理屈が存在する。この理屈が正しいとしても、それだけで具体的な共謀罪に賛成出来るわけではない。しかし、これを二項対立の図式にしてしまえば、そのような凶悪犯罪の発生を防ぐことに賛成なのか反対なのか、という単純な図式が生まれる。これに反対することなど出来ないので、共謀罪に賛成する方が当然だという簡単な形式論理的な結論がここから導かれる。しかし、これは現実の複雑さを捨象した、頭の中の世界だけの判断をしている間違いになるだろう。このような二項対立の弊害について、多くの人々は気づいているだろうと仲正さんは指摘している。しかしそれでも二項対立は社会のいろいろなところで見ることが出来る。仲正さんの指摘では、特に左翼的な言説が現状批判をするときに、二項対立的な観点で批判をすることが多いと語っていた。だが、これには仕方がない理由もあるという。孫引きになるが、仲正さんが引用している斉藤貴男さんの次の文章にその理由が語られている。「極端な物言いはしたくない。「テロリストか正義か」とわめき散らすブッシュ流アジテーションを批判しながら、一方で権力対民衆の構図を強調してきた自分自身にほとほと嫌気もさしている。しかし、世界は複雑で、そのような二項対立では片づけられないと語ろうとすれば、何よりもまず、小泉政権の本質を示してみせるしかないではないか。 そして彼の目指すところの新自由主義に基づく構造改革とは、とどのつまり日本社会をアメリカのようなものにしていく過程に他ならない以上、攻撃するこちらまでが単純化してしまうジレンマから逃れられないのである。」簡単で分かりやすい小泉流の物言いがポピュラーになっている現状を考えると、たとえ現実の複雑さを正しく捉えて語ったとしても、それが理解するのに難しければ、人々に訴える力が弱まってしまうというわけだ。だから、まず分かりやすいところから、相手の矛盾をついて批判しなければならないとすると、単純さに単純さで対抗しなければならなくなるジレンマがあるというわけだ。このような理由に対して仲正さんは次のように批判をする。「斉藤が指摘しているように、相手方が単純なレトリックで庶民の目をくらまし、複雑な現実に目を向けさせないようにしているので、自分たちも庶民にまず“目を覚まして”もらうため仕方なく、庶民が振り向いてくれるような庶民にとって分かりやすい単純な言葉で語っている、というのである。しかし、それではまるで、庶民には全然主体性がなくて、右から何か吹き込まれたら右になびき、左から吹き込まれたら左になびくので、たくさん言ったもの勝ちだといっているようなものである。」自分たちが呼びかけて訴えようとする相手をどう捉えているかで、二項対立的な単純さを用いるかどうかが決まってくるような感じだ。それでは、訴えかける相手を主体性を持った相手として捉え直せば、単純さを越えた二項対立ではない、現実の複雑さを反映したような言い方に変えることが出来るだろうか。これはかなり難しいのではないかと思う。人間の主体性を信じると言うことはそれほど難しくはないと思う。わがままも主体性の一種だと捉えれば、どんな人間にも主体性の一端は感じることが出来る。しかし、二項対立を越えるには、立場にとらわれない第三者の位置というものを自覚しなければならない。二項対立のどちらかの立場からの主張に共感する自分を感じている間は、この位置に立つのはたいへん難しい。この難しさは、第三者的な立場に立ったからといって、それが必ずしも正しい判断だとは言えないからだ。時には一方の立場に立って考えることが正しいときもある。それは具体的な検討をしてみないと分からない。一般論では結論出来ないことだ。時には二項対立的に考えることが正しいことがある。問題は、それが正しくないときに、第三者的な立場に立って二項対立を越えることによって正しい判断をもたらすことが出来るかどうかを考えることだ。第三者的な立場に対する拒否感というのもあるようだ。立場を明確にせずに、他人事のように語るのは無責任さのあらわれのように感じることがあるらしい。僕などはそれこそが客観性の表れだと思うのだが、他人事のように語る非情さは自分の問題として深刻に考えていないことのあらわれだと受け取られるようだ。仲正さんも次のように書いている。「しかも、カンタンに二項対立している人たちに対して、私のような人間が第三者的な立場から批評を加えると、必ずといっていいほど、「仲正は自分の問題としてではなく、他人事のように語っている。ああいう文章に触れるのはよくない」などという拒絶反応をする人々がネットに登場したりする。二項対立の一方の側に身を置いていないのは、高みに立ったつもりになって無責任なことを言っている不真面目な輩であり、そういうものを相手にしてはならない、という妙な価値観が働いているのである。私自身は、こういうおバカなカンタン系の人たちをマトモに相手にしたくないので、放っておいてもらった方がいい。今はもう冷戦的な二項対立的発想の時代ではない」と言いながら、自分自身はますます二項対立的な図式にはまりこんでいる大小の評論家が増殖している状況にはうんざりしている。」二項対立を超える最大の難しさは、人間はある立場からの主張しかできないという人間観にあるのではないだろうか。第三者的な立場は、その立場を忘れているだけであって、客観性を装っていながら実は本当の深い部分ではどちらかの立場を代表しているに過ぎないのだという人間観だ。確かに無自覚な客観的立場というのは、構造的無知から自分の立場を忘れているに過ぎないのだろうが、意識的に反対の立場に立つことによって、本来は自分の立場は違うのだが、技術的にその立場を越えると言うことは出来るのではないだろうか。宮台真司氏が言うところの「フィージビリティ・スタディ」というものが、立場を越える客観性をもった立場になるのではないだろうか。左翼の立場から右翼を批判したり、逆に右翼の立場から左翼を批判したりするのは、これは批判があって当たり前だ。二項対立図式の中にあるのだから。しかし、これはどちらかの立場に共感している人間にしか説得力を持たないだろう。このとき、自分の立ち位置が、右翼的あるいは左翼的と言うことであまりにも明らかである場合は、なかなかその二項対立を越えることは出来ないだろう。しかし、自分の立場がそのように鮮明なものでなく、どちらかといえば左翼的であったとしても、その心情をカッコの中に入れて、あえて両方の立場に立つことを思考実験として考えることで、立場を越えた客観性を持たせることが出来るのではないだろうか。だから、客観性を持てるのは、自分が当事者でないことを考えるときだと言えるだろうと思う。宮台真司氏は、都立大の改革が問題になっているとき、そのことに関してはまったくコメントをしなかった。それは、宮台氏が当事者になっている問題であり、すべてが当事者としての発言になってしまい、客観的なことは何も言えないと判断したからだった。当事者としての発言は、その当事者としての責任が重い人間が、立場からの発言をすればいいと思っていたようだ。立場からの発言がすべて間違いではなく、それが必要であり重要である場合もある。だが、それは立場上の発言であるということを前提にして理解した方がいいだろう。自分の発言が立場上のものであるという理解が出来れば、相手の発言も立場上のものであることが理解出来るだろう。そうすれば、立場上はそう考えるのも合理性があると分かれば、立場を越える客観性を捉える可能性も出てくる。第三者的な立場というものをそういうものとして考えるといいのではないかと思う。仲正さんは、「「世界は複雑であり、二項対立では片づけられない」ことを多くの人は抽象的には理解しているが、いざ自分の考えを表明すべき立場に立たされると、何らかの形で「世界」を、自分にとっての「敵/味方」に単純に切り分けて、“分かりやすい答え”を出して、安心しようとする。その安心感を振り切って、複雑さを再認識するのは非常に困難になる。」と書いている。これは肝に銘ずべき言葉だと思う。二項対立という分かりやすさの誘惑を振り切って、複雑な事象は複雑なままで認識することに努めなければならないと思う。それは本質を捉えたときだけ単純化出来るのだと思う。本質を表現するときにのみ、真理としての単純さを獲得するのだろう。
2006.06.13
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お昼をよく食べに行く近所のそば屋にマンガがいくつか置いてある。僕は子どもの頃からマンガをよく読んでいたので、料理が出てくる間にそれをよく読むのだが、ヤクザを主人公にしたマンガに面白さを感じて読むことが多い。僕はヤクザとはまったく関係がないし、ヤクザになりたいとも思わないのだが、マンガに描かれたヤクザはかなり魅力的だと思う。現実のヤクザは暴力的な犯罪集団であり憧れの対象にはならないのだが、マンガや映画に描かれたヤクザは、男にとっては単純明快な純真さのあらわれとして魅力的だ。自分の信念に殉じるような生き方がその魅力の根底にあるのだろうか。子どもの頃にプロレスに引きつけられたことを考えると、男にとって戦うことが本能的な欲求としてあるのかもしれない思ったりする。マンガでは、主人公の敵役として、頭はいいが小ずるい私利私欲を求める悪人というのが登場する。同じヤクザであることもあるし、外見上はまともな社会人という姿として登場することもある。この悪人の理不尽な行為に対して、暴力的な抵抗をして立ち上がるのが主人公のヤクザになる。最後は悪人どもを蹴散らして、主人公の信念に基づく秩序を回復して真っ当な道を確立することに男は拍手喝采する。戦いに勝利することによって価値あるものを守るというのは、ある意味では男の美学ということになるだろう。男にとっては戦いそのものが快感を与える要素を持っている。これは男の感覚にとってはどうしようもない本能的なものを感じるのだが、それがもたらす弊害もあると思う。その時に、この本能的感覚そのものを批判しても弊害を防ぐことは難しいのではないかとも思う。むしろ弊害をもたらすような社会構造の方こそ深く理解しなければならないのではないかと感じる。強い信念を持つヤクザに惹かれる心情というのは男にとってはかなり強いものだというのを感じる。この心情が右翼的なものに通じるとしたら、男にとっては右翼的な資質の方が自然に芽生えるのではないかとも感じるくらいだ。暴力は否定されなければならない害悪を持っているが、時にはその暴力によってより悪い悪を排除しなければならない場合がある、ということは男にとってはけっこう深刻に迫ってくる考えだ。これは自衛のための戦力に通じる考えであり、大切なものを守るために命を捧げるというのは、男にとっては、誰かに押しつけられて持つ考えというよりも、それを名誉と受け止めて気持ちよくなる自然に生まれる考えのようにも感じる。僕は子どもの頃からマンガが好きだったが、もっとも好んでいたのが望月三起也さんの『ワイルド7』というマンガだった。これは、毒をもって毒を制すというような発想で、もっとも凶悪な犯罪者に対しては、同じくらい悪いことを平気でやれるような者たちをぶつけて悪を退治しようとするものだった。7人の「ワイルド7」と呼ばれる男たちも悪人には違いないのだが、信念を持ったヤクザが素人には手を出さないのと同じように、彼らが戦うのは絶対的に悪だと確かめられた存在だけだ。現実には善と悪を単純には線引き出来ないので、これはあくまでもフィクションの世界のマンガの中での話になるのだろうが、悪を退治する「ワイルド7」の活躍には、子どもだった僕は強く惹かれたものだった。フィクションの世界では正義は絶対的な強さをもっている。水戸黄門のようなものだ。絶対に負けない正義が、強い力(暴力)で悪を退治するのは、単純ではあるが溜飲を下げることの出来る姿だ。しかし、これは現実の世界で成り立つものではない。現実の世界はそれほど単純ではないし、たいていは正義の方が弱い。もし力での制圧を正当化してしまえば、フィクションの世界と反対に、たいていは悪の方が力で正義を制圧するということになるのではないかと思う。これは、力による正義の実現を良しとすることの弊害であると思う。力によって実現しようとする正義は、ほとんどがフィクションの嘘である場合が多いのではないかと思う。アメリカのイラク攻撃にしても、それはフィクションの正義を実現するための力の行使だったような気がする。合理的に考えれば、力による正義の実現はあり得ないと思えるのに、心情的にはそれに惹かれてしまうと言うということにはどうしようもないものを感じる。どういう歯止めをかければ力による正義の実現の暴走を食い止めることが出来るだろうか。かつて学校に校内暴力の嵐が吹き荒れたとき、その暴力を抑えるために、より強い暴力による秩序を求めた教師たちがいた。彼らの力による秩序は、確かに学校から校内暴力を一掃した。しかし、そのことによってもたらされた弊害はいくつか指摘されている。一つは、力による正義が、必ずしも悪だと確認されている者たちだけを抑えたわけではなかったことだ。すべての子どもたちが力による支配を受けてしまい、子どもたち自身が主体的に判断する能力を育てられなくなった。力による制裁を恐れて行動するだけで、本当の意味での道徳や倫理観を育てることに失敗したと思う。力による支配が取れてしまったときの反動が、予想以上にひどいものになる恐れがあるだろうと思う。また、校内暴力の沈静とともに、学校では陰湿ないじめが蔓延するようになった。これは力による支配の弊害が形を変えて現れたように僕には思えるのだが、因果関係を認めたくない人もいるかも知れない。旧日本軍では力による支配が絶対的だったといわれているが、ここでも弱いものに対するいじめは日常茶飯事だったと語られている。力による支配と、それをストレスに感じた人間が、より弱い存在にそのストレスの発散を向けるというのは、充分に因果関係が成立するものではないかと思う。たとえ民主的な雰囲気を持っている軍隊といえども、軍隊では力による支配というものがあるはずなので、その弊害としてのいじめがあるようなら、いじめと力による支配の因果関係は確実にあると言えるのではないかと思う。力による支配には弊害があると言うことは合理的に捉えることが出来る。しかし、だからといって力による支配をすべて否定してしまうと、それは無政府状態を生み出し、結局国家権力に取って代わるような力がもっとひどい支配をする状態が生まれる恐れもある。力による支配が弊害を生むとしても、それが回避出来るように、もっともましな支配として国家権力をコントロールするという道が、民主主義としては現実的な選択かも知れない。国家権力を否定するのではなく、それをコントロールする道を見つけなければならないという感じだろうか。はてなダイアリーでのわどさんの書き込みで、権利と権力の問題が書かれていた。権利というのは大事な考え方ではあるけれど、それが一つの力となり、他者を支配するものとしてふくれあがってくると、権力的な働きを持つ可能性が出てくる。人間にとって不当な差別をされないというのは権利として大事なことだ。しかし、差別糾弾という力が、他者の自由を脅かすような力を持てば、それは権利の主張ではなく、他者の支配のための権力に転化してしまう。そうなれば、正当な行為であった差別反対というものが、弊害を生み出すような力の支配に変わっていく恐れがある。弊害を生み出すメカニズムというのは難しいものだろうが、これは深く考える価値があるのではないかと思う。特に、力による戦いが必要な場面が想定されるときは、どんなときに力を行使することが正しいのか、どんなときに弊害を生むのかという具体的な知識を持ちたいものだと思う。それにしても、戦いがもたらす快感というのは、男には強く本能として残っているのを感じる。土日は撮りためた映画のビデオを見ているのだが、ブラッド・ピットの「ファイトクラブ」という映画を昨日見て、僕はこれに強く惹かれるものを感じた。特に惹かれたのは、戦いそのものに引きつけられていく男の姿だった。彼らはもはや勝ち負けにもそれほどの関心がない。むしろ結果が出るまでの殴り合いで、自らが充分戦ったかどうかという点が、彼らが生きているかどうかという感覚に通じているということに僕は強い印象を受けた。ファイトクラブに集まってくる男たちは日常世界では生きているという感覚を失っている。彼らが生きているという充実感を取り戻せるのは、唯一殴り合いをしている間だけなのだ。そして、それはかなりのリアリティを持って僕にも共感出来ることだった。他人を傷つけることに快感を感じているのではない。むしろ自分が充分に戦っているということに快感を感じている。自らが傷つくのは、その快感を身体に刻みつけていることであり、少しもつらいことではない。そして、相手もそのように感じているだろうということで、共感しあい仲間としての連帯感も生じる。勝敗が決したときには、相手の勇気をたたえるような不思議な友情さえ芽生える。憎しみや残虐性から暴力を求めているのではないのだ。暴力は絶対的に否定されなければならないと考える人もいるだろうが、暴力に魅力を感じる男もいると思う。それが男の大部分を占めるのか、それとも少数派なのかは分からない。もし少数派でないとしたら、暴力否定の考え方からだけで戦争に反対するのは難しいのではないかと思う。暴力というのは大きな弊害をもたらすものであるにもかかわらず魅力的なものだと思う。だから、問題はそれを無条件で否定するのではなく、何が弊害をもたらすメカニズムなのかを深く知って、その弊害を生み出すメカニズムを否定しなければならないのではないかと思う。僕は殴り合いに魅力を感じることで、自分の中の男という性質を強く感じた。
2006.06.11
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宮台真司氏は、韓国と日本との大衆の意識の違いについて、徴兵制というものの存在を大きな要因としてあげることがある。韓国には徴兵制というものがあるので、それを経てきた男たちは、国家というものを強く意識し、不条理な世界での生活が日常性を見直すきっかけになるという。韓国では、徴兵によって軍隊の生活をすることによって、男は大きな成長を遂げるという。子どもから大人になる通過儀礼として重要な意味を持つものが徴兵だという。宮台氏の弟子だという韓国人のイ・ヒョンソク氏が原作を書いた『軍バリ』というマンガがあるが、ここでも主人公のキム・ジンという二十歳の青年が成長する姿が描かれている。国家を守るという意識は、個人の利害を超えて公共の利益を考えさせることになる。ある意味での市民感覚を育てることにもなるだろう。旧日本軍のように、滅私奉公の自分をまったく失うような軍隊生活には、主体的に公共性を身につけるという点では弊害をもたらすだろうが、そのようなことがなければ軍隊生活は成長をもたらすという主張にも一理あるような気がする。国を守るという意識は、もっとも大きな公共性に支えられなければ出来ないことではないかと思うからだ。しかし一方では次のような見方もある。神保哲生・宮台真司両氏がやっているマル激トーク・オン・デマンドに弁護士の安田さんがゲストで出たとき、安田さんの死刑廃止論に関連して、日本では凶悪犯罪が少ないということが語られた。安田さんは、その要因の一つとして、日本には徴兵制がないことがあるのではないかと語っていた。徴兵制がないので、殺すということを身近に感じることがない。だから、殺すという行為にまで行き着くようなことが少ないのではないかということだった。これも一つの見方として一理あるものではないかという感じもした。徴兵制あるいは軍隊というものが功罪両面を持っているというのは、現実に存在するすべてのものに共通していることだろうと思う。問題は、どういうときに功の面を現し、どんなときに罪の面を現すかということを知ることではないだろうか。それが分かれば、罪の面を避ける工夫も出来るのではないかと思う。『軍バリ』を読むと、今の韓国の軍隊での生活は、罪の面は少なく、男を成長させるという功の面が強く出ているようにも感じる。それに比べて、映画などで描かれる旧日本軍の軍隊生活は、そこで生活することによって人間的な成長がもたらされるということが感じられない。そこは非科学的な精神主義が支配し、むしろ非人間的な行為によって人間性を破壊するような感じさえ受ける。実際の軍隊経験者は、映画とは違う面があって、男を成長させるところもあったのだと言いたいかも知れないが、映画に描かれているような面が旧日本軍にあったということで考えると、そのような軍隊生活の違いが、男の成長にどう影響するかを考えるのは、軍隊というものの功罪を考える上では何かの発見が出来るのではないだろうか。旧日本軍のような形の徴兵制がなかったことが、安田さんが言うように、日本での凶悪犯罪が少ないことにつながっているのかも知れない。日本の犯罪対策については、ほとんど効果を認められるようなものがないということだ。意識的に行っている有効な政策がないのに、諸外国と比べて極端に少ない犯罪の現状はいったいどこからもたらされているのか。安田さんの予想が正しければ、一つの有効な知識が得られることになるのではないだろうか。映画に描かれた軍隊と言うことになると、アメリカの映画などでも、崇高な理想の元に成長する男が描かれているものがある。若いリチャード・ギアが主演した「愛と青春の旅立ち」などは、男の成長という点がよく分かる映画だった。『軍バリ』でもそうだったが、この映画でもひときわ感動的なのは、若い未熟な青年を指導する教官の素晴らしさだ。軍隊という特殊な場における特徴として、徹底した厳しさというものがあるのはもちろんなのだが、それは成長を見守る厳しさであり、決して相手を選別して優秀な人間だけを拾い上げようと言うようなものではない。残念なことに、旧日本軍を描いた映画では、このように優れた指導者というものが描かれているのを見たことがない。個人的には立派で尊敬すべき人物というのが現れることがあるのだが、軍隊という組織において、そのように立派な人物がいることが普通で、ごく当たり前の振る舞いをしていればそのような優れた指導教官として存在出来るという描かれ方をしていない。「愛と青春の旅立ち」の教官は優れた人物として描かれていたと思うが、それは特に優れている人物と言うよりも、そのような指導者がむしろ普通なのだという描かれ方をしていたように僕は感じた。映画だから、それは理想に過ぎないので、現実は違うのだということも言えるだろうが、少なくとも軍隊での優れた指導者はそういうものだという共通理解がアメリカ人にはあるのではないかと感じた。映画やマンガで描かれているアメリカや韓国の軍隊の姿は、少なくとも非合理的な精神主義に支配されているようには感じなかった。旧日本軍は、非合理的な精神主義が強く支配していたように映画では描かれ、文章でもそのような記述が多いように感じる。ここに両者の大きな差があるのではないかとも感じる。精神主義は、全体的なバランスの取れた成長をもたらさないのではないだろうか。アメリカの陸軍幼年学校を描いた「タップス」という映画では、精神主義の弊害が、アメリカの軍隊教育でさえも大きな間違いの方向へ向いてしまうことがあるということを描いていたように感じた。ここに登場する軍人は、国家のために自らの命の危険も顧みることなく尽くす立派な人物として描かれている。公共性の最高のものを表現している。しかし、このように立派な資質を持っている軍人であっても、自らの信念のために死ぬことがあろうとも、名誉のために死ぬのは正しいのだという精神主義的な考えが支配してしまうと、より大きな世界での判断を間違える、ということをこの映画は描いていたように感じた。この映画では、軍人教育を受けていた少年たちが、学校が閉鎖されると言うことの理不尽さに抗議するために立ち上がる姿を描いていた。その純粋な気持ちは痛いほど伝わってきて、彼らの願いを叶えてやることが出来れば、観客としても拍手喝采をしたくなる。しかし、現実に描かれている姿は、彼らは信念のために死をも辞さない覚悟で抵抗をするという姿だった。その信念は美しいが、彼らが死を恐れない分だけ、彼らを止めようとする人間たちをも死の危険に巻き込むことになる。しかも、彼らを止めようとする人間たち(大人たち)は、彼らの気持ちが痛いほど分かるのだが、止めなければならないと言うこともよく分かる人間として描かれている。最後の最後になって、少年たちの指導者の位置にいる最も優れた少年は、自らの誤りに気がつくのだが、暴走した信念を押さえることが出来ずに、大きな犠牲をもたらしてラストシーンを迎えることになる。犠牲を避けることができなかったのは、成長としては間違いであり、教育の失敗だと言える。立派な精神を持っていたにもかかわらず、このような失敗をもたらしたのはなぜなのか。それは、精神主義というものがそれをもたらしたのではないかと僕には感じられた。彼らを止めようとする大人たちの中に、非常に立派な軍人がいるのだが、その軍人は、少年たちに死を賛美する思想を植え付けたことを非難していた。死ぬことが立派なのではない。生きることこそが大事なことで、本当の軍人というのは、最後まで生きることをあきらめないことだと語るその台詞に僕は共感した。戦争においては結果的に死んでしまうこともある。だが、死ぬことこそが美しい、軍人としての立派な生き方だと考えてはいけないのではないだろうか。目的は立派に死ぬことではないのだ。あくまでも祖国を守ると言うことが本当の目的でなければならないはずだ。祖国を守るためには、死ぬよりも生きて働いた方がいい。無駄に死ぬことが分かっているなら、逃げる方が正しいという判断もしなければならない。逃げることを許さない精神主義が、旧日本軍が男を成長させない原因だったのではないだろうか。もし軍隊というものが、男を成長させるものだとすれば、それはきっと合理的な判断の元に行動すると言うことがあるのだろうと思う。非日常的で、理不尽で非合理が充満している戦争という場面で、もし合理的に行動出来るなら、それはまったく立派な行動だと言えるだろう。
2006.06.09
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昨日のエントリーへのmechaさんの書き込みで、村上氏の違法性ということについて一定の理解が得られたような気がする。確かに違法性というものがあったようだ。だから法的に裁かれるというのは仕方のないことになるのだろう。しかしまだ釈然としない思いが残る。この釈然としない思いをちょっと分析してみようと思う。以前にライブドア問題の時にも、ライブドアの粉飾決算に関しては、その違法性を早くから指摘していた人がいたことを知ることが出来た。専門家の目から見れば違法性が明らかであっても、専門的な知識のない目からは、それがなかなか分からないということも感じたものだ。その一方で、本当に問題だと思うことは違法性として指摘されていなかったということも感じた。それはマル激で神保哲生氏が指摘していたことだが、ライブドアの株分割の問題だった。株分割の本来の趣旨は、あまりにも一株の値段が高くなりすぎた株は、一般の投資家がそれを求めにくくなるので、分割して一株の値段を下げて、投資活動を活発化させるというものだったと僕は理解した。しかし、ライブドアはそのような一般常識を破るような、1万分割というような株の分割をして、株の分割によって株の値段を上げて儲けるという手法を編み出していた。株を分割したからといって、その企業の価値が飛躍的に上がるということはどう考えても論理的な整合性がない。しかし現実には、株の分割をすることでライブドアの株価は分割した値段を上回り、企業資産を増やしてきていた。これは、現実にはない幻想的な価値に人々が群がることによって、多くの人が買い求めたということだけから値段が上がったに過ぎないような現象に僕には見える。多くの人が買い求めたというのは、ライブドアの株価が上がると予想したからだと思う。そういう意味では、競馬の勝ち馬の予想のようなもので、一つのギャンブルとしてライブドアの株が買われたように見える。このギャンブルの幻想を支えていたのが粉飾決算という見せかけの業績だったことを思うと、その違法性の重要さがまた感じられる。だからライブドアが粉飾決算で裁かれるというのは正しい方向だとは思う。しかし、株分割の方は、その時点では違法性がなかったということで裁かれることはない。むしろ今後そのようなことが出来ないように、ライブドアの事件をきっかけに法律が整備されたという結果になったのだと思う。株分割が許されるというふうになったときに、常識を越えるような1万分割をするなどという発想は、思いついても現実にはしないというふうに思われていたのではないだろうか。それは暗黙のルールとしてのモラルでありマナーであると理解されていたのではないだろうか。しかし盲点をついて常識を破る人間が出てきてしまった。このときに、ルールをより厳しくして違反者を取り締まるという対処と、モラルやマナーの水準を上げて、個々のプレイヤーの自覚にゆだねて対処するという二つの方法があるように感じる。宮台氏によれば、ルールを徹底的に厳しくして、ルールで許された範囲では何をやっても自由だが、ルールのハードルをあげるのがアメリカ的なやり方らしい。ヨーロッパ的なやり方は、個々のプレーヤーの水準を上げることで、モラルやマナーの水準の高さでプラットホームを守るというやり方らしい。果たして日本はどちらの道を歩むのだろうか。共同体意識の強い日本では、厳しいルールの下に行動するというのは難しい感じもする。血も涙もないような感じを受けてしまうだろう。しかし、日本の共同体意識にはパブリックな感覚が薄い。仲間内の助け合いや共通感覚はあるが、公共的なモラルの意識が薄いように感じる。そう言う社会では、モラルやマナーの水準を上げるのが困難だ。いずれの道も日本にとっては困難だ。これからどのような道を歩もうとしているのだろうか。村上氏の問題も、インサイダー取引という違法性に関しては、法律に照らして合理的な判断が下されるだろうと思う。しかし、違法性が必ずしも証明出来ないが、常識を越えたモラル違反やマナー違反はなかったのだろうか。それに対して、今後はどのような対処をするかということは考えられているのだろうか。アメリカなどでは、会社のことなど少しも考慮せず、それを儲けの対象にして売買するような所をはげたかファンドなどと呼んで非難していたようにも思う。それは、再建が難しい会社を二束三文の値段で買い上げて、最後の資産を売りさばくことによって、会社を解体して儲けるところからそう呼ばれているように感じた。つぶれる寸前の会社を解体してもなお儲かるというところが素人にはわかりにくいのだが、そう言うことがあるらしい。しかしその儲けはすべてはげたかファンドが吸収してしまうので、本来一番守られるべきその会社の労働者の利益がまったく守られなくなるという。労働者は仕事を奪われ、資産の分け前も何ももらえないということになるらしい。これは合法的な売買行為になるのだろうが、何か釈然としないものが残る。このように労働者を顧みないやり方は、資本主義の健全な発展を阻害するのではないか。モラルやマナーに反するのではないか。村上ファンドの問題は、このような問題とのつながりはないのだろうか。村上氏は記者会見で、「金儲けは悪いことですか?」というようなことをいっていた。僕は、金儲けは悪くないと思う。真っ当な方法で金を儲けるのは資本主義の発展に寄与すると思う。問題は真っ当でない方法で金を儲けることだ。それが違法ではないとしても、真っ当ではないと思えるような方法で金を儲けることは、それを制限することが必要ではないかと思う。それをルールによって制限するか、個々の自覚であるモラルやマナーにまかせるかは難しいだろうが、何らかの制限は必要だろうと思う。そのような問題が今回の村上ファンドの問題にあるのではないかというのが、漠然とした釈然としない感覚だ。モラルやマナーの問題は、健全な常識的判断が出来る、教養を持った第三者が判断しなければならないのではないかと思う。日本社会は、果たしてそのようなシステムを作りうるだろうか。権力を持った当事者がモラルやマナーの判断をしたら、それはご都合主義的な判断に流れてしまうだろう。本当の意味での第三者機関を作るには公共性を持った市民の感覚が必要だ。それが今日本社会でも問われているのではないだろうか。学生時代にバスケットをやってきたという同僚に、トップクラスの試合では、いかにして反則ギリギリのプレイで相手にプレッシャーをかけるかという話を聞いたことがある。身体の流れが、不可抗力で相手に当たってしまったというふうに見えるように、ワザと相手にぶつかるテクニックなどがあるという話も聞いた。これらは、勝つことが第一目的であれば、戦術として合理的なものだと思う。しかし、勝つことが第一目的でない場合は、ルールに違反してはいないがモラルやマナーに反するのではないかとも感じる。アマチュアスポーツでは、勝つことよりも、プレーヤ個人がそのスポーツを楽しむことの方が大切だと考えたら、このような戦術で勝ったとしても本当に楽しめるだろうかと疑問を感じる。勝つという目的は達成出来るかも知れないが、もっと大切なものを失うのではないだろうか。かつて甲子園で、走者が一人もいないのに、当時星陵高校生だった松井秀喜が全打席敬遠されたことがあった。これは勝つための戦術としては正解だった。相手の高校は星陵に勝ったからだ。しかし、彼らはアマチュアスポーツとしての大切な何かを失ったように感じた。それほど勝つことが大事なことなんだろうか。プロは勝つことが大事だといわれるが、プロにとって一番大事なのは「見せる」ことで勝つことではないと僕などは感じる。勝つためにせこい戦術を使うプロは結局は人気を失う。たとえ勝てなくても人々に感動を残すプレーをするプロはたくさんいる。そしてそのプロの方が、人々の人気も高い。これこそがプロとしての本質ではないかと思う。勝つことがプロの一番大事な要素ではないと思う。モラルやマナーを考えるというのは、市民意識の第一歩でもあるような感じがする。モラルやマナーの問題をルールによって縛るというのは、市民としては恥ずかしいことなのではないかと思う。そんなものは、常識と教養で何とかすべきことなのではないかと思う。いろいろな出来事の、モラルやマナーの側面を考えてみたいものだと思う。
2006.06.08
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僕は小学生の頃にプロレスのファンになったが、子どもだった頃は、単純にジャイアント馬場やアントニオ猪木が一番強いものだと思っていた。よく考えてみれば、テレビの中継に合わせて試合が終わったり、どんなにたくさん試合をしても決して負けないなどということが現実にはあり得ないことを思えば、それが本当に強いのだということに疑いを持ってもよかったのだが、子どもの頃はそれほど深く考えなかった。しかし、そのおかげでプロレスファンとしては、プロレスを心ゆくまで楽しめた子ども時代を送れたので良かったとも思う。少し大人になって裏が読めるようになってくると、プロレスの本質のようなものも分かるようになったが、それでプロレスが嫌いになったかというとそうでもなかった。むしろ本物の格闘技である総合格闘技やプライドのようなものがひどくつまらないものにしか見えなかった。ケンカをしたら誰が一番強いかなどというのは、見ていてもあまり気持ちのいいものではないからだ。プロレスの面白さは、見せるための身体の動きの美しさにあると僕は思っていた。本当に相手を倒そうと思っている格闘技では、見せるためのポーズを取れば相手にそのスキをつかれて負けてしまう。見せるということは二の次になることは、そのルールから明らかのように思えた。プロレスは、レスラーの肉体の美しさ(これは単に体型の美しさに限らず、信じられないくらい大きな人間という驚異的な部分を感じる美しさもある。そして、その動きの華麗な美しさも含む。)を観客に見せることで成立している芸術のように僕は感じていた。強さということよりも美しさの方が価値があるという感じだろうか。だから、プロレスのルールというのは、その美しさを引き立たせるためのものであり、強いか弱いかを決定するものではない。5カウント以内であれば反則が許されるなどというルールは、もし強さを決定するのであれば、相手を一撃で倒すような反則を使えばいいことになるが、そのような反則を行うレスラーは人気が出ない。反則というのは、観客の憎しみを集中させて、正義のベビーフェースが悪の反則レスラーを倒すことに気分の浄化を感じる観客の期待を盛り上げるためにある。反則で勝つレスラーは、プロレスの世界では邪道ということになる。時には反則で勝つように見える場合もあるが、それは最後のイベントでベビーフェースが逆転の勝利をすることを盛り上げるための途中の演出としてそのようなことが行われる。力道山の試合なども、試合の大半は相手の技を受けてやられることが多かったという。そして、観客の気分が最高に達したときに、絶体絶命の危地から反逆をして、それまで我慢していた気分を一気に晴らすという試合に観客は拍手喝采したという。ジャイアント馬場やアントニオ猪木の試合も基本的には同じような演出で作られていたと思う。最初から最後まで完全な強さを見せて勝利するのはあまり面白くないのだと思う。だからプロレスラーの資質としては、いかに相手の技をうまく受けるかということや、技を見せる際の身体の動きの美しさ(バランスの良さ)をアピール出来るかということにあるのではないかと感じる。プロレスラーには強さは必要ないとも言えるのではないかと思う。プロレスのルールには、噛みついてはいけないとか、目や男の急所をねらってはいけないとかいうルールがあるが、このルールはしばしば破られる。レフェリーの目の前でやられるときは、それがあからさまなときは反則負けになることもあるが、たいていは5カウント以内では見過ごされる。ルールはあって無いようなものだ。しかしルールには書かれていないが、暗黙の了解のようなモラルやマナーに属するようなものを破ると、プロレス界を永久に追放されるような処分を受けることもある。それは、危険な急所をあえてねらうような攻撃をすることではないかと僕は感じている。かつて前田日明が長州力の顔をねらってキックをしたのは、そのようなプロレス界のモラルに反するような行為だったのではないかと思う。前田は、そのことで当時のプロレス界からは追放されたのではないかと僕は感じている。プロレスというのは自分の強さを証明すればいいものではない。対戦相手との共同で、肉体の動きの美しさを表現する芸術と言っていいものだと思う。対戦相手は、単に倒すべき敵ではないのだ。むしろ、共同で作り上げる芸術として質の高いものを作れる相手は、大事にしていかなければならない相手だ。その相手をケガさせるような恐れのある、急所への攻撃は最大のタブーになる。強さを競う各闘技では、その相手と対戦するのはただ一度だけになるかも知れない。そのような相手との対戦であれば、相手を倒すことだけに集中すればいい。その相手とまた明日も観客を喜ばせるような試合を見せる必要がなければ、運悪く相手にケガをさせたとしても、それは試合の不可抗力として仕方がないものとされるだろう。しかしプロレスでは、同じ相手と何回でも、芸術品としての身体の動きを見せるという試合をしなければならない。強さを見せるよりも、美しさを見せるという目的から、プロレスではルールよりも大事なモラルやマナーが存在すると僕は思っている。宮台真司氏は、人間のいろいろな行為をゲームという比喩で捉えて、そのゲームを成立させているプラットホームという言葉で、ゲーム盤の重要性を語ることがある。このプラットホームの存続に関わるものが、ルールよりも大事なモラルやマナーというものになるのではないかと僕は考えている。プロレスというゲームを支えるプラットホームは、対戦相手を大事にしてケガをさせるような無茶はしないということが、暗黙の前提として存在しているのではないかと思う。もしこの前提が無くなってしまえば、プロレスというゲームそのものが崩壊してしまう。しかし、このモラルやマナーは、あくまでもモラルやマナーでありルールにはならない。もしこれをルールにしてしまったら、やはりプロレスのプラットホームは失われてしまうのではないかと僕は感じる。もしプロレスのルールの中に、相手をケガさせるような無理な攻撃をしてはいけない、などということを入れたりしたら、プロレスはニセモノの格闘技だということを自ら語っているようなものになる。プロレスは、そのような暗黙の前提があるにもかかわらず、幻想的に格闘技として競うことによって、その動きの美しさや気分の浄化を味わう芸術として機能しているのだ。暗黙の前提をルール化することは、そのような幻想をぶちこわすことになってしまう。プロレスの面白さを破壊してしまうのだ。モラルやマナーは、ゲームに参加する人間が、そのゲームを深く知れば知るほどその重要性を認識出来るものとして存在していなければならないと思う。初心者がこれを知らなくても仕方がないが、そのかわり初心者にはルールを厳しくして、モラルやマナーを破らないような配慮をしなければならないだろうと思う。プロとしての技量が高くなればなるほど、モラルやマナーの意識も高くなるということが必要だろうと思う。さて、長々とプロレスについて考えてきたが、実は最近の村上ファンドの問題に関連して、僕は、証券市場というもののモラルやマナーの問題とルールの問題とが気になってこのようなことを考えてみた。村上氏は、単純にルールに違反したから違法として断罪されているのだろうか。それとも、証券市場というプラットホームの存在に関わるモラル違反やマナー違反があったから、厳しいルールの適用がされているのだろうか。インサイダー取引というのは、その判断がかなり難しいものらしい。証券市場で儲けている人間は、大なり小なりインサイダー取引の疑いがある行為につながる恐れがあるともいわれている。村上氏の場合は、その金額があまりにも巨大だったことがルールに違反した行為となったのだろうか。それとも、影響の大きさを考えて、厳しいルールの適用がなされたのだろうか。ルールの問題には、違反者をどう適切に処罰するかということもある。厳しく罰することもあれば、時には見過ごされることもある。そこにはいろいろな判断が関わっているだろうが、論理的な妥当性というものはどう考えられるだろうか。サッカーの試合などでは、ルール違反の反則があった場合でも、反則をされた方がその後の展開でむしろ有利に展開しそうだと判断したら、審判はその反則を摘発せずに、試合をそのまま流すこともあると聞いたことがある。これは妥当な判断ではないかと思う。またルール違反に対して、相手の反省を促し、自らの失敗を深く自覚したなら、それをあえて摘発して処罰することはしないという教育的配慮というものもある。教育的配慮の場合は、処罰することよりも、深く反省させる方が大事だから、それが行われればそちらの方がいいという判断だ。これも妥当なものだろうと思う。村上氏のルール違反がどのようなものであるのか、それはモラルやマナーの違反にも通じるものなのか、また処罰や責任の取り方はどうすることが妥当なものなのかというのは、けっこう難しいのではないかと思う。金儲けしか頭にない金の亡者が悪いことをしたから、見せしめのために重い罰を科せばいいと単純には考えられないのではないかと僕は感じる。資本主義の証券市場というものが健全なものであるためには、そのプラットホームを支えるモラルやマナーというものはどんなものがふさわしいのか。もし、モラルやマナーに関わる部分までルール化してしまうと、証券市場というものが持つ利点が殺されてしまわないのか、そのような問題があるのではないだろうか。ワイドショー的に、気に入らないやつを叩くという方向は、何か誤謬をおかすのではないかと僕は感じる。
2006.06.07
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土曜・日曜はケーブルテレビで撮りためた映画を見ることが多い。僕は、だいたい好きな俳優が出ている映画を見ることが多い。日曜日もカーク・ダグラス主演の「巨大なる戦場」という映画を見た。映画の感想を語るにはどうしてもそのストーリーにも触れなければならない。だから、ストーリーの面白さを映画の楽しみの一つにしている人は、ここから先はあまり読まない方がいいかも知れない。ストーリーよりも、何がどう表現されているかに関心がある人には、人が語る感想も一つの見方として参考になるかも知れない。さて、この映画は、イスラエルの独立の頃に、軍事顧問として独立戦争の指揮をするためにアメリカから招かれたミッキー・マーカスという人物の伝記を描いたものだった。この人物は優れた軍事家で、知性と勇気を併せ持った合理的精神の持ち主として描かれていた。映画の主人公であるから、その魅力的な点を描くのは当然であるとしても、完全無欠のヒーローになってしまうと、何か安っぽいSF映画を見ているような気分になってしまう。そこはさすがに名優を配した映画なので、そのような安っぽさはない。いかに優れた指揮官といえども困難な状況では失敗もするし、自らの使命感に忠実に生きていても、それを必ずしも共有出来ない妻との心の溝が広がっていくというような描写があり、何もかも理想的でいいことばかりが描かれているという映画ではない。このような失敗や欠点を描くことによって、かえってリアリティを増して、主人公の人間性をより深く描くことでさらに魅力的に表現するという映画的な手法もあるのかも知れない。僕がこの映画を見ていて気になったことは二つあった。一つは、これが中東戦争をイスラエルの側の視点に立って描いていたことだ。映画では、最初から最後までイスラエルの独立戦争を戦う側が、虐げられた抵抗者として描かれていた。独立戦争は正義の抵抗戦争として描かれていた。これは、イスラエルの側に立てば当然のことではあるのだろうが、現在のパレスチナとイスラエルの姿を見ている目からは、ちょっと一方的な描き方ではないだろうかという疑問はわいてくる。アラブの側は、独立を弾圧する理不尽な存在として、600万人を虐殺したナチスドイツと重なるようなイメージで描かれているように感じた。アラブの側の重火器に対して、イスラエルの側がライフルだけで戦車に挑む姿は、愛国の精神だけで強大な敵に向かう恐怖を克服しているという、何かナショナリズムを高揚させるような描き方をされている。現在では、イスラエルのミサイルに対して、石を投げるパレスチナの子どもたちの姿を見ていたりするので、これはまったく逆のことを描いているという感じさえしてしまう。イスラエル独立の頃は、この映画に描かれたような状況だったのかも知れない。しかしそうであるなら、アラブとイスラエルの互いの心に深く刻み込まれた恨みと不信は、そう簡単にぬぐい去ることは出来ず、和平ということもかなりの困難を伴うのだろうなと思った。歴史というのは、立場が違えば違って見えるというのは、「新しい歴史教科書をつくる会」でなくても、そう主張したくなることはたくさんあると思う。だから、歴史はそれを必要とする人々が自分たちの誇りを込めて作るものだという主張もある。この主張にも一理あるとは思うが、何か釈然としないものも感じる。歴史が物語であるなら、この映画などは、歴史を描いたものとしてイスラエルの側からは歓迎されるだろう。だが反対の側からは、本当のことが描かれていないと思われるのではないだろうか。反対の側のことは考慮する必要がないといってしまったら、和平ということはまったく可能性が無くなってしまう。スピルバーグが最近作った「ミュンヘン」という映画も、立場的にはまったくイスラエルの側に立った表現だったといわれている。これを、両方の立場に関係のない第三者は、「憎しみの連鎖」というものがいかにむなしい結果に結びつくかというメッセージとして受け取っているようだ。しかし、そのメッセージは、あくまでも憎しみを持った当事者ではない第三者が感じるもので、当事者は、そのようなメッセージのニセモノ性を感じてしまうのではないかという批判があったように感じた。映画の表現としては、あくまでもイスラエルの側に感情移入して共感するようなものになっていたといわれている。ミッキー・マーカスという人物の個人の描き方としては、様々な側面を表現して、そのリアリティを出しているのに、国家間の関係では一面的でリアリティを失っているような感じが僕にはしたのでそのことが気になった。政治的な側面は、立場抜きで表現するのは難しいのだなということも感じた。もう一つ気になったのは、主人公のミッキーが死んでしまう最後の場面だった。これは事実を元にして作られているので、事実がそのように不条理なので、フィクションとして感動的に作ることが出来ないということがあるのだと思うが、ミッキーの死は、華々しい名誉の戦死というものではなかった。それは一つの間違いで殺されてしまうという、まったく不条理な死だった。イスラエルの独立がアメリカに承認されて、独立戦争の方向がある程度期待通りに行くと感じたミッキーは、ここが潮時だということで帰国する決心をする。ある意味では、仕事をやり遂げたという満足感とともに、新たな出発をしようという門出でもあった。妻とのギクシャクした関係も改善の方向を見出して、何かの希望を抱いていたと思う。映画的には、そのようなハッピーエンドを示唆して終わるという物語も作れただろうと思う。しかし、現実はそのような幸せにはつながってくれなかったので、映画としても史実に忠実に合わせたのだろうと思う。もし、この映画が、実在する人物に材料を取ったとしても、それを実名で伝記的に描かなければ最後を変えることも出来たと思う。でも、僕はこの最後の終わり方の方が芸術としてはより深みがあるような気がする。ハッピーエンドで終わってくれれば、映画を見ていい気分に浸りたいと思っている人は、それなりに満足するだろう。しかし、それは感情のフックに引っかけて、感情を刺激して気分をよくさせただけに過ぎない。そのような感情的な気分の良さは、映画を見終わったらすぐに忘れるようなものになるだろう。しかし、見終わっても必ずしもいい気分に浸りきることが出来ず、何か引っかかりが残るとしたら、そこから違う種類のメッセージ性を受け取ることが出来る。このメッセージ性こそが芸術としての映画に通じるものではないかと思う。この映画は、主人公が不条理な死を遂げることで、戦争の持つ不条理さをも表現しているのではないかと僕は感じた。ミッキー・マーカスは優れた軍事家であり、敵を殺し、味方が犠牲になったとしても、それだけで非難されることはない。それは、戦争においてはやむを得ないこととして人々に承認される。むしろ、勇気を持って作戦を実行する姿に、指導者としての偉大さを見ることが出来るだろうと思う。ミッキー・マーカスの偉大さは確かなことではあるけれども、それでもなお戦争という行為は多くの不条理さを持っているのだということが、彼の最後によって描かれているのではないかと思った。彼が死んでしまったのは一つの間違いだった。しかし、その間違いを犯した人間も、誠実さや真面目さのゆえに間違いを犯したとも言える。そのような間違いが戦争という行為には不可避につながっているのではないかというのが、戦争の持つ一つの不条理だと思った。ちょっと前に見た、若いティモシー・ハットン、ショーン・ベン、トム・クルーズが出ていた「タップス」という映画では、この若い陸軍幼年学校の学生たちに、ある軍人が語る言葉があった。それは、勇気を持って死をも恐れない自分たちに誇りを持っていた若者たちに対して、軍人というのは死を恐れるものこそが本当の軍人なのだと語るものだった。死を賛美してたたえるのは本物の軍人ではない、というその言葉は印象に残った。軍人にとってもっとも大事なことは、どうやって生き延びるかということだと、その軍人は若者たちを諭していたのだ。このような発想こそが、戦争の不条理を克服するものではないかと僕は感じた。かつての軍国主義の日本では、死というものをあまりにも美しく賛美しすぎたのではないかと思う。このような発想が日本の軍隊にもあれば、多くの間違いは避けられたのではないかと思う。映画と違って、現実のアメリカの軍隊は、このような発想はもしかしたら少ないのかも知れない。しかし、映画の中でこのような描かれ方がするということには、人間の偉大さに対する一つの期待にもなるのではないかと思う。「巨大なる戦場」も「タップス」も、いわゆる面白い映画ではないかも知れないが、立ち止まっていろいろと考えることが出来るという意味では、とてもいい映画ではないかという気がする。少なくとも、単純にヒーローが活躍するだけの映画ではなかった。
2006.06.05
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以前に宮台真司氏が、昭和天皇には戦争責任がないということを話していたことを記憶している。その時にちょっと違和感を感じたので記憶に残っているのだが、宮台氏は昭和天皇に対しては個人的な好感の感情を抱いているということも言っていた。そう言うことも影響しているのかな、と漠然とは思っていたが、その時にはこのことを論理的に考えてみようとは思わなかった。国家の最高権力者であった昭和天皇が、戦争という国家の行為に対して責任がないということは、論理的にはあり得ないこととしか僕には思えなかったからだ。その言葉が、宮台氏ではなく、右翼的な立場にいる人が語ったものなら、公平な第三者的な主張ではなく、立場から来る主張だから仕方がないなという受け取り方をしていただろう。宮台氏が語ったことなので、客観的にそう主張出来る要素もあるのかなとは思ったが、深く考えてみようという意欲はわかなかった。しかし、この問題を指導者の影響や、指導者の影響で行動した人々の行為に、指導者はどのように責任を負うかという一般論として立て直してみると、今までは当然だと思っていたことも、もしかしたら他の考えも出来るかもしれないと思うようになった。戦争責任というものを我々はあまりにも大雑把に捉えすぎているかも知れないと感じるようになった。責任というのは、抽象的に捉えるのではなく、具体的な行為において考えなければならないものではないかと思った。戦争責任についても、抽象的に戦争が行われた全般に関しての責任というものを考えてしまうと、それは頂点に立っていた人間に責任があるのが当然という、抽象的な結論が出てきてしまう。昭和天皇が亡くなったときに、アンケートの調査で「昭和天皇に戦争責任があったと思うか」という質問があったというのを記憶している。仮説実験授業研究会で板倉さんが語っていたのを思い出す。その時の話では、若い世代(戦争を知らない世代)ほど、天皇に戦争責任があると思う人が多いという結果が出ていたと語っていた。このアンケートの結果を、僕は、論理的に考えればそうなるのだから、若い世代ほど直接の感情に影響されずに論理的な判断をしているのだと受け取っていた。しかし、戦争を知らない世代ほどそう判断するということは、実は具体的な戦争を知らないほど、抽象的な戦争責任を論理的に導きやすいということを意味しているのではないかとも考えられる。天皇の戦争責任について、抽象的に考えた方が正しいのか、具体的に考えた方が正しいのかは、簡単に結論出来ないことだと思う。具体的に考えると、末梢的な部分を取り上げて本質を見落とすという間違いの可能性もある。しかし、抽象性が高すぎると、条件を無視して適用範囲を広げるという、普遍性と特殊性の混同の間違いを犯す可能性もある。どちらも間違いを犯す可能性がある難しい考察だと思うが、どちらか一方の思考しかしていないとすれば、間違いを犯す可能性がより高まるのではないかと思う。間違えないためにも、今まで考えてこなかった方を、フィージビリティ・スタディとして考えてみる価値はあるのではないかと思う。もしかしたらこの面においては昭和天皇には責任がないと言える部分があるかも知れない、という発想で戦争責任について考えてみようかと思う。これは、全体として昭和天皇に戦争責任が無いという主張ではなく、昭和天皇の戦争責任という難しい問題に関して、より正しい方向を求めたいがゆえに行う考察だと考えたい。まず戦争責任の中でも、その責任を問うのがもっとも難しいのは、日本軍が具体的に行った残虐行為の責任というものだろう。残虐行為に対しては、本質的には直接の実行者が責任を負うべきものであり、その再発防止には、日本の軍国主義が持っていた精神主義という非科学性や、人権を奪われた兵士の抑圧状況、兵士の不満が直接支配権力に及ばないようにするという支配の論理の問題などを考えなければならないだろう。天皇という地位は、日本軍の最高権力者に位置するものであり、その地位に伴う責任というのは当然発生すると思うが、個人的な行為のすべてに責任を取るということになると、責任の範囲としては広すぎるのではないかと思う。残虐行為に対してもし責任があるとしたら、それを支配の道具として容認していたということが確認されなければならないのではないかと思う。同じような構造にあるものに、学校における暴力行為の容認というものがある。これはしばしば「体罰」という言葉で呼ばれ、教育としての効果があると考えられて容認されることがある。この暴力行為が容認されると、その影響として、生徒同士の暴力による支配構造というものが生まれる場合が多い。教師の「体罰」は、「懲戒行為」であるなら単純な暴力ではなく、秩序維持のために必要な行為にもなるのだが、そのためにはある種の権威を背景にして「懲戒行為」が成り立つということがなければならない。この権威が失われて、暴力の力が「懲戒行為」の背景にあるすべてになってしまうと、生徒の側はしばしば間違ってこの行為を受け止める。本来なら権威があるからこそ「懲戒」の正しさを認めて、形の上では暴力に見えるようなことでも指導される側が受け入れるということがなければならない。しかし、力による支配が失墜した権威を支えるようなことになれば、力による支配が「懲戒」を支えるということになり、力による支配を肯定するような方向へ行ってしまう。力による支配を肯定してしまうと、生徒によって行われる力による支配の構造も、秩序維持に役立つということで容認するような方向へ流れる恐れがある。こうなると、一見静かな学校が出来上がるが、見えないところでは陰湿ないじめが横行するという、力による支配の欠陥が出てくるようなことにもなる。力による支配は、その行動の正しさを元に行動するということが難しくなるからだ。支配する側は、その行動の正しさを反省する機会を失っていく。このような状況にある学校では、秩序維持のために力による支配を容認していれば、それに対して指導する側に責任が生じることになるだろう。力による支配は、それを是正することはたいへん難しく、容認しないという姿勢でいてもなかなか改善は出来ないだろうが、その姿勢を見せなければ、指導する側に責任が生じるものだと思われる。僕は、昭和天皇が、いわゆる残虐行為を容認していたと言うことは聞いたことがない。直接個人を指導する立場にはいなかったので、それに対して注意をすることもなかったかも知れないが、少なくとも容認していなかったのであれば、残虐行為に関しては責任を問えないのではないかと思う。それは、直接の実行者と、その直接の指導者に責任が帰するものだろうと思う。次に開戦の責任についてはどうだろうか。これは、日本軍というよりも、日本の権力構造の頂点にいた人間として、国家が開戦したということに対しては何らかの責任が存在するということは自明のように思われる。そうでなければ、最高権力者という地位が不思議なものになってしまう。しかし、天皇という地位は、実は最高権力者であるということが不思議な感じを抱かせるような地位ではないかと最近は思うようになった。天皇が、自主的に自らが判断するという意志の自由を持っているのなら、その決定に対して責任が生じると思うのだが、果たして天皇はそう言う自己決定権を持っていたのだろうかということに疑問を感じている。平成天皇である明仁天皇は、すべての判断において、自分の恣意的な気持ちよりも、国家にとってどのような方向が望ましいかということを基準に判断しているように、宮台氏のマル激の議論を聞いているとそう感じる。それがたいへん優れた判断で、リベラリストとして申し分ない判断をしていると感じて僕は尊敬感を抱いているのだが、あまりにも完全すぎて、そこには個人の判断が入っていないのではないかとも感じる。これは、敗戦の事実を間近に見てきた明仁天皇が、そのような失敗は二度と繰り返してはならないと言う考えから、リベラリストとしての判断をしているようにも感じる。平和な時代の明仁天皇は、自らの意志で国民をリードするというよりも、正しい判断をする姿を示すということで、模範となるという意味で象徴としての自分を表現しているように見える。平和な時代の天皇はこのように見えるが、戦争の時代の昭和天皇は果たしてどうだったのだろうか。現人神として君臨していた昭和天皇は、神のごとくに、自らの意志を強く示してすべてにおいて指導者として振る舞っていたのだろうか。もしそうであるなら、当然開戦の責任を問われなければならない。しかし、現人神としての役割を演じるという意識の方が強かったときは、その役割を演じさせた部分に責任の一部が帰属するのではないだろうか。このあたりの事実はどうなのだろうか。宮台氏は、昭和天皇が、戦後の人間宣言によって救われたというのを自らも感じていただろうと語っていた。役割から解放されたというホッとした感じといえばいいだろうか。日本の天皇という存在は実に特殊な存在であるように思う。ナチスドイツのヒトラーのように、自らの意志で国家権力者となり戦争を指導した人間は、当然開戦の責任を負わなければならないだろうし、ユダヤ人虐殺の行為に対しても、それを容認していた部分が多々あるのを感じる。ヒトラーが直接ユダヤ人を殺していなくとも、その優生思想が、ユダヤ人の虐殺を容認していたと読めるからだ。昭和天皇は、神のように自らの全能感によって行動した人間だったのか、それとも、神であるという使命感のゆえに、自らの行動を正しいものとして律することに努力した人だったのか。それを詳しく知らなければ、開戦の責任ということも単純に判断出来ないのではないかと感じるようになった。その地位から責任を引き出すには、日本の天皇という存在はあまりにも特殊でありすぎる感じがする。敗戦における日本民族や、中国を始めとする侵略したアジア諸国に対しては、戦争によって被害をもたらしたことは明らかだ。だから、あの戦争は大きな失敗であると反省しなければならないだろう。開戦に対して責任があるのなら、その責任を取る何らかの方法を考えなければならないと思う。失敗を失敗として認めるなら、この失敗を繰り返さないための誤謬論が必要だ。支配者の間違いがそのまま国家の間違いにつながってくるようなら、支配者の間違いがすぐに反映しないような国家権力のシステムというのを作らなければならないだろう。その一つが憲法による国家権力の制限になるだろう。しかし、昭和天皇が、正しい判断をするために努力していたにもかかわらず、開戦し敗戦を迎えるという失敗をしたとしたら、努力したにもかかわらず避けられなかった失敗をどう回避するかという問題を考えなければならない。昭和天皇が単に一指導者として失敗しただけなら、システムの問題として考えるだけで足りるかも知れないが、努力したにもかかわらず失敗したとなると、これは意志の問題も関わった難しい考察になるだろう。昭和天皇の戦争責任の問題はそのようなことにもつながってくるのではないかと思う。今までは、一般論として昭和天皇に戦争責任があるのは自明だろうと思っていたが、具体的な責任を考えてみるとなかなか難しいのを感じている。一般論として考える方が正しいのか、具体論として考えた方が正しいのかというのもまた難しい問題として存在する。宮台氏が語っていた「昭和天皇には戦争責任がない」という判断が、客観的に成立するものかどうか、さらに詳しく考えてみたいものだと思う。
2006.06.02
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