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今週配信されたマル激の議論の中で、いじめ問題を巡って宮台氏の次のような発言があった。それは、いじめに限らずセクハラ問題などでも、被害者がそう感じたと言うだけでそこに「いじめ」や「セクハラ」があったと判断するような議論があるが、これをどう考えるかという問題だった。このことは僕も以前から考えていたのだが、この「だけ」ということを前提にすれば、それは論理的には間違いだろうと思っていた。それは、感じるという主観のみに判断をゆだねていて、とにかく被害者が感じた「だけ」で、他のことを二の次にして判断していたら、それは恣意的なものであり客観的な正しい判断にはならない。そもそもいじめという現象は、それが客観的に判断できるものなのかどうか。極端な現れ方をするものについては誰もが一致していじめだと判断できるかも知れない。しかしそれでも、いじめる当人たちはそれをやめないと言うことは、もしかしたらいじめる方はいじめと感じていないのかも知れない。そんなとき、いじめられていると感じていれば、そこにはいじめがあったと判断していいかというのは難しい問題になるだろう。いじめにしろセクハラにしろ、被害者と加害者だと想定される人間は、互いに異なる感覚・判断をしているのではないかと思う。被害者感情としては、確かにそのような不当な扱いを受けたと言うことを思っているだろう。だが、加害者とされる人々は、そのようなつもりではなかったと、単なる言い訳ではなく、心底そう思っていることもあるのではないか。こんな時に、第三者が客観的にいじめやセクハラを判断することが出来るだろうか。いじめ問題がニュースになったときに、文部科学省の基準で調べると、そこにはいじめはなかったと判断されるケースが多いというようなことが報道された。自殺するほどの深刻な思いを抱いている子どもがいたというのに、文部科学省が提出する「客観的」基準ではいじめがあったと判断されなかったりする。これは基準が間違っているのだろうか。基準を正しく設定し直せばいじめは客観的に判断できるのだろうか。僕はそう思えないのだ。いじめというのは実に複雑な構造を持っている現象で、グレーゾーンとなるものがたくさんあるだろうと思う。その全てを正しく判断できる基準などは存在しないのではないかと思う。いじめを客観的に判断することなど、原理的に不可能ではないかと感じるのだ。文部科学省が提出する基準を探したら、「いじめに関する総点検結果」に次のようなものがあった。「※いじめの定義【従前】 「いじめとは、自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」【今回の調査におけるチェックポイント(留意点)】 「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うことに留意する。」従前の定義ではこの判断において、「自分より弱い」「一方的」「深刻な苦痛」などはとても客観的に判断できるとは思えない。わずかに客観性を持つのは「身体的・心理的な攻撃」があったという判断だろうか。暴力や暴言というのは、外から見ていても分かりやすいからだ。しかし、暴力や暴言というのは、それ自体で不当なことが言えるものであり、わざわざいじめだという必要がない。いじめの重要性は、このような目に見える不当性の告発ではない。隠された不当性によって深刻な結果を招くことだ。新たな定義の方は、目に見えない不当性の判断に「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」と言うことが入っている。これは循環定義になっているのではないかと僕は感じる。もしいじめられている児童生徒というのが、本当にいじめられていることが分かっているのなら、それを基準にしていじめを判断するというのはおかしいのではないか。いじめかどうか分からないからこそ、基準を設けて、その現象がいじめかどうかを判断するのではないか。それなのに、どうして判断の前にその児童生徒がいじめられているという予断の元に、その子どもの立場に立つことで判断をしようとするのか。これらの基準は、客観的に正しいものだとはとても思えない。僕は、そもそもいじめを裁こうという発想そのものが間違いではないかという気がしている。それは、裁くことが正しいという判断をもたらすことが出来ない、冤罪を招く可能性の強いものになるのではないか。裁くならば、客観的に判断できることを対象に裁くべきだ。暴力や暴言は、いじめであろうと無かろうとそれだけで不当性が証明できる。それは、いじめと関係なく違法行為として裁かれるべきではないかと思う。いじめは裁く対象ではなく、制度改革でその深刻化を防ぐものではないかと思う。マル激のゲストだった内藤さんの主張が分かりやすく共感できるものだった。戦時中に作られた隣組制度というものがなくなると、それを利用してのいじめが出来なくなり、いじめをしようとする気持ちが起こってもそれを実現する手段を奪うことで深刻化を防ぐことが出来る。隣組制度があれば、そこでの権力関係や、異分子と思われている人間を指摘することで、恣意的ないじめ感情にいじめの手段を与えると言うことが制度的に行われる。学校においても、いじめをしたくなるような子どもが出てきても、それが出来るような手段を与えないような制度的改革をすれば、いじめの深刻化は防げる。いじめ感情というのは、今までなくなることはなかった。これからも決して無くなることはないのではないかといわれている。問題は、それが深刻化をすることを防ぐことではないのか。それは制度改革に答があるのではないか、と言う内藤さんの主張には共感する。内藤さんは、嫁姑の関係を持つ「家制度」というものに対しても、その制度が崩れたおかげで嫁に対するいじめも手段を失ったというふうに解釈しているようだ。「家制度」の崩壊を嘆く人もいるようだが、嫁いじめに関する限りでは、この制度改革はいい方向へ向かったのではないかと思う。ドメスティック・バイオレンスについても、「家制度」の崩壊によってその犯罪性がよく分かるようになっているのではないかと思う。学校における制度改革について言えば、同一の学級に所属することを強制されるという制度の改革が、いじめに関してはかなりの効果を生むように思う。同一の学級に所属して、同級生と仲良く、いい関係を持って生活しなければならないと言うことが、いじめの手段を制度が与えることになるのではないかと思う。いじめられていると感じた子どもが、自由に所属学級を離れて、いじめられないような集団への所属の変更を簡単に行えるなら、いじめの手段が一つ無くなるのではないかと思う。いじめがあったか無かったかの判断は難しい。だから、いじめを理由に人を裁くのはそれが不当だったりすることが考えられる。被害者がいじめられたと感じていても、加害者とされる人間はいじめだと思っていなかったりするからだ。だが、そのいじめだと言われている行為に、暴力や暴言が伴っているのなら、その暴力や暴言は、それだけで裁かれる理由になる。この場合は、それがあったということが証明されれば、裁かれることは正当性を持つ。人は、裁かれることに正当性があることのみによって裁かれるべきではないのか。その正当性が、原理的に証明できないことで裁かれるべきではないのではないかと思う。暴力や暴言で裁かれるべきであって、いじめで裁かれるべきではないと思う。そして、いじめは、制度改革という工夫で深刻化を防ぐものではないかと思う。内藤さんは、個々の具体的ないじめのケースでは、制度の問題に加えて実存の問題がケース・バイ・ケースで関わって来るという。ここでは、被害者感情としての、いじめられているという感覚が重要になってくる。制度によってそれが深刻化するのを防いでいるとはいえ、その感覚を強く感じる子どもにとっては、実存の問題としてそれが重要になってくる。これは、僕もケース・バイ・ケースの問題だと思うが、それ以上に重要だと思うのは、自分がいじめられていると感じている人間がいたら、それを簡単に告発できる環境というのを設けることも大事だと思う。その告発が間違いである場合もあると言うことを前提にして、告発自体は簡単に出来るという状況が必要だと思う。それを、じっと心に秘めて我慢するという形を強いているのが今の日本の状況ではないかと思う。このような状況では、よほどひどい状況に追い込まれない限り告発がされないようになる。だから、告発されたいじめはたいていがひどいものになるのだが、それほどひどくなければいじめでは無いというような逆転した感覚も生まれたりする。いじめの中にも、ひどいものもあれば軽いものもあるという感覚を持つことが必要なのではないかと思う。そして、軽いものであっても、相手がいじめだと深刻に受け止めているようであれば、そのいじめに関わった人間が反省するというきっかけを与えることにもなるだろう。いじめにしろセクハラにしろ、今まではそれが見過ごされてきたものが多かっただろう。だから、告発されたものはたいていがひどいものだったかも知れない。しかし、だからといって、告発さえすればそれがあったとすぐに判断されるようなら、やがてはこれが逆の方向に振れてしまうだろう。これは、かつての差別糾弾主義が主流になってしまった「差別反対運動」の末路を連想させる。差別される側が差別だと感じればそこには差別がある、と言うのが「差別糾弾主義」の論理であり、被害者の告発によって加害者を断罪するのがこれらの運動の常だった。だが、そのような運動は、不当な差別を解消することに寄与することはなかった。むしろ、「差別反対運動」に対する嫌悪感を招いただけだった。いじめやセクハラが、被害者感情だけで判断されて裁かれていくようになったら、同じような末路をたどるのではないかという感じがしている。これらは判断が難しい問題であるから、人を裁くのなら、判断が客観的に出来るような対象で裁くように変えていくべきだと思う。そして、制度変革によって深刻化を防ぐべきだろう。セクハラについて言えば、生殺与奪の権限を、単に仕事や立場の関係だけで大きくするようなことを防ぐ制度改革をすべきだろう。仕事上の地位などで不当な扱いを受けたときに、すぐに告発できて改善されるような制度の設計が望まれると思う。宮台氏は、フランスでのエピソードだっただろうか、大学教授と女子学生の関係でのこんな話を紹介していた。大学での行き過ぎたセクハラの告発は、女子学生が大学教授と恋愛する権利を侵害するから間違いだという議論があると言うことだ。いじめやセクハラには、このような柔軟な視点からの考察が必要なのではないかと思う。
2006.12.30
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「反証可能性」という言葉は、そもそも科学と疑似科学とを区別するための判断基準として提出されたように感じる。「反証可能性」を持っていれば、それは科学としての可能性(将来科学として相対的真理であることが確認されるかも知れない)を主張できる。しかし、「反証可能性」をもっていなければ、それは科学としての資格を持つことはない、という判断が出来る。科学と疑似科学との区別が難しいので、「反証可能性」があるかどうかで判断をしようという発想なのだろうと思う。ところが、この「反証可能性」の判断が、科学と疑似科学の区別の判断以上に難しかったら、最初の意図は達成されなくなる。「反証可能性」という概念はそのようなジレンマに陥っているのではないかと感じる。「反証可能性」がないというのは、それが間違っているということが言えないと言うことだから、論理的な意味でのトートロジーでない限り、そのようなことを示すことが出来そうにないように感じる。「反証可能性」がないものの例として出されていた「適者生存」という法則も、これは論理的な意味でのトートロジーに還元できるからこそ「反証可能性」がないと主張できるものだった。他の場合のほとんどのものは、「反証可能性」がないと言うよりも、反証を受け入れない言い逃れのような屁理屈を語るので、「反証可能性」がないように見えてしまうだけなのではないか。多くの宗教の教義などはそういうものだろうと思う。ある教義を何らかの法則として捉えれば、それに対する反証はいくつでも見つかるのではないか。しかし、宗教の場合は、その主張が科学であると言っているわけではないので、別に反証されたからと言ってあわてる必要はない。「宗教は科学ではない」と言えばそれですむことだ。その主張と事実が違っていても、そこには奇跡が起きなかったと解釈すればそれですむだろう。問題は、その主張が科学であると言いたいとき、それに対する反証というものをどう受け止めたらいいかと言うことだ。それは、科学の限界を見るためのものだと受け止めるのが正しい受け止め方だろう。それは、科学における命題そのものを否定するものではない。科学というのは、一度は相対的真理であることが確立されているのであるから、それを全部否定することは出来ない。主張の全てが否定されてしまう段階は、「仮説」と呼ぶのがふさわしいだろう。「仮説」が主張することに対して反例が示され、反証されることがあれば、その「仮説」は否定されたといっていいのではないかと思う。だが、科学の場合は、正しい限界を超えて適用するような反証が示されると受け止めなければならない。そうでなければ、いったん科学であると判断したことそのものが間違えていると言うことになる。科学において限界が存在するのは、それが現実を対象にしているからである。だから、「ある主張が科学的法則である」→「その法則の適用には限界がある」 →「限界を超えれば法則は誤謬になる」 →「限界を超えたところに反証できる可能性がある」と言うような論理の流れで、ある主張が科学であると認められれば、それは「反証可能性」を持つと言える。逆に言えば、「反証可能性」を持たなければ、それは科学ではないと言うことが、上の命題の対偶として求められる。「反証可能性」がないと言うことは、適用の限界がないと言うことだ。つまり、適用する対象が、未知の例外的な存在であることがないと言うことだ。これは、対象の全てをあらかじめ定義して、それ以外を排除できるという数学においては、定理という主張に対する「反証可能性」はないと言える。だから、数学における主張は、現実を対象にした科学ではないということになる。現実を対象にした主張は、科学である・無いにかかわらず、適用の限界を持つ。つまりそのような主張の全ては「反証可能性」を持つ。「反証可能性」を持たない主張は、原理的には論理的なトートロジーだけではないかと思う。つまり、「反証可能性」という概念では、「科学ではない」と言うことは確かめられるが、「科学である」ということについては何も言えないだろうと思う。論理的には、「ある主張に反証可能性がない」→「それは科学ではない」と言う正しい命題からは、前提が正しいときは、その結論が正しいことが自動的に導かれる。しかし、この命題は、前提が間違っているときには結論に対しては何も言うことが出来ない。つまり、「ある主張に反証可能性がある」と言うことが確認出来たとき、その主張が科学であるか・無いかは決定できないのだ。上の命題は、あくまでも「反証可能性がない」と言うことが確かめられたときのことしか語っていないのだ。「反証可能性」を考えるだけでは、ある主張が科学であるかどうかは分からない。では、その主張が科学であるという確信はどうしたら得られるだろうか。そもそも、科学というのはどういうふうに定義されているだろうか。科学を絶対的真理として定義すれば、そのようなものは現実には存在できないので、科学は存在しない、全ては「仮説」に過ぎないと言わざるを得なくなるだろう。科学とエセ科学の区別がつかなくなるものと思われる。科学とエセ科学を区別して、科学の真理性に有効性を持たせるためには、科学を相対的真理として定義するしかないだろう。相対的真理とは何か?それは、ほんの少し誤謬が張り付いた真理のことを意味する。その誤謬は、普通は「誤差」として例外的なものとして処理されるようなものになる。逆に言うと、相対的誤謬というのは、ほんの少し真理がこびりついている誤謬のことを意味する。たとえば「病気は心の持ち方が悪いから生じる」と言うことを考えてみよう。これは、その主張が正しいときが例外的に観察できる。恋の病などはそういうものだろう。しかし、普遍的に、そこら辺に見られるありふれた病気に対してもそうだという判断をしようとすると、この主張が間違えていることを発見するだろう。つまり、例外的には正しいけれど、ありふれた対象に対しては間違っているというものが相対的誤謬というものだ。これに対して、ある病気の原因がある種の病原菌が原因で起こると言うことが確かめられたとき、それは科学という相対的真理になる。これは、その病気であると診断された人間には、その原因を除去するような治療をすればほとんどが病気を治すことが出来るという観察で、それが相対的真理であることが主張できる。つまり、正しいことがありふれているときは相対的真理というものになる。時には治療が失敗することがあるだろうが、その時は、科学としての主張を疑うのではなく、その病気であると診断した判断を間違えたのではないかを疑うことだろう。それが、科学という相対的真理の資格を獲得したならば、反例は、科学そのもの否定ではなく、条件の否定としてその限界を示すものと理解されるだろう。このような相対的真理であるという判断を確固たるものにするのが、板倉聖宣さんが主張する「仮説実験の論理」というものだ。これは、ある主張が正しいと言うことを、現実にその事実を確認すると言うだけの意味で語っているのではない。その事実を確認する「実験」を、必ず「未知の対象」に対して行って確認すると言うことを条件にする。既知の、すでに結果が分かっていることに対してそれを確かめるようなことをしても、それは「仮説実験の論理」の意味での「実験」とは考えない。ある主張が「仮説」から「科学」になるには、未知なる対象に対して、その主張が成立すると言うことを確かめる「実験」をしなければならない。そして、その実験を経て真理が確認されたとき、その主張は相対的真理としての科学の資格を持つことになる。この「仮説実験の論理」では、未知なる対象に対する実験が「反証可能性」を確かめる実験となっているのだ。未知なる対象は、その主張を覆す可能性を持っている。既知であれば、それは反例にはならないと安心していられるかも知れないが、未知のものは、可能性としては反例になり得るというものを持っている。この「未知」であると言うことが本質的に重要なことであって、「未知」であることが、現実の「任意性」というものにつながってくる。科学というのは、普遍的・一般的な事柄を主張するものだ。任意の対象に対して成り立つ法則を主張する。その「任意性」を「未知」という概念で代替するのが「仮説実験の論理」だ。任意の対象を全て把握できれば、論理的にも完全になるが、これは実無限を把握することになり「未知」という概念に反するもので、現実には不可能だ。「未知」なる対象の全てを把握することは出来ない。未知なる対象に対してある法則が成立すれば、その法則は「任意」の対象に対して成立することを主張できる。そう考えるのが「仮説実験の論理」である。この「仮説実験の論理」で科学であることが確認出来たとき、その法則が、もし成立しないような対象に遭遇したら、それは例外的な対象であると判断する。それを、その法則を適用できると判断したのが間違いだったかも知れない、と考える。この「任意性」は完全なものではないから、いつか誤謬が生まれる可能性があるが、それは相対的真理として、誤謬を克服しながら絶対的真理に近づいていくと考えるのが、「仮説実験の論理」を基礎にした科学の考え方と言うことになる。科学を「仮説」として捉えれば、未知なる対象に対して適用するときは、それが間違えているかも知れないと言うことをいつでも忘れてはいけないことになる。宇宙にロケットを飛ばすときも、それは飛ばしてみなければどうなるか分からないと言うことになってしまうだろう。これから起こることは、何が起こるか分からない、と言うのが「仮説」としてのとらえ方になる。しかし、科学を相対的真理として捉えれば、宇宙にロケットを飛ばすときに考察した科学法則による予想は、間違いのない真理として信頼を持って受け止めることだろう。もし、万一それが失敗に終わったときも、それは科学の否定としての失敗と受け止める科学者はいない。科学を否定するのでなく、何らかの技術的なミスがあったからだと考えるだろう。「仮説実験の論理」で科学を受け止めれば、科学として確立された理論は全て相対的真理として高い信頼を置くことが出来る。それは「仮説」ではない。科学という真理なのだ。「仮説実験の論理」で科学であることを確信できるようになれば、エセ科学をすぐに科学という真理であると鵜呑みにすることはなくなるだろう。「反証可能性」では両者を区別できないが、「仮説実験の論理」なら両者を区別することが出来るだろう。科学を科学として認識できるようになれば、あとはその適用を正しくする技術を磨くことで、科学は素晴らしく便利な道具となってくれるだろうと思う。科学を正しく認識できず、間違っているかも知れないと言う「可能性」だけで否定したりすると、その反動でエセ科学に引っかかってしまうのではないかと思う。
2006.12.29
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科学というものを考える際に、多くの人が頼りにする考えにカール・ポパーの「反証可能性」というものがあるのを知ったとき、僕はこれに大きな違和感を感じた。ポパーが主張することが間違っていると言うことではない。自然科学系(=数学系)から言えば、ポパーが語ることはごく当たり前のことだと感じる。その当たり前のことをことさら声を大にして主張しなければならないのはなぜかと言うことに大きな違和感を感じたのだ。その疑問に答えてくれるような資料を「<科学哲学史(1) 帰納主義>」で始まる科学哲学史の記述の中に見つけた。ここでは、科学を観念的な思い込みでなくし、現実的に有効な理論として構築するために「帰納主義」という考えが提唱されたということから説明が始まっている。「帰納主義」は、判断の根拠を現実に求めるもので、これ自体には何も不当なところはない。しかし、これは判断としては個々の個別的な判断についてしか語れないもので、科学のように一般的・普遍的な命題として語ろうとすれば、個別から普遍への論理の飛躍が必要になる。この論理の飛躍をうまく処理できないと、科学は「仮説」に過ぎないもので、新たな出来事に対してはそれが正しくない可能性をいつもはらんでいるものだと感じてしまう。科学を「仮説」だと思ってしまうと、科学に対する信頼が崩れてしまうし、「疑似科学」と呼ばれる、ある特殊な条件下では正しい言明だが、普遍的な正しさをもっていない「科学もどき」(あるいは「エセ科学」)と「科学」の区別がつかなくなってくる。科学の正しさという普遍性を、現実の対象に対して100%完全に成立すると捉えれば、科学が「仮説」に解消されるのは当たり前ではないかと思う。現実の多様性はいつでも「例外的存在」という「誤差」を含んでいるからだ。この「誤差」に対しても当てはまるような法則を打ち立てようと思えば、全ての科学法則には欠陥があると結論せざるを得なくなる。「<科学哲学史(3) 論理実証主義>」によれば、論理実証主義者はそのような考え方で、科学的な命題を絶対的真理として厳密に検討したようだ。そんなことをすれば、現実の多様性から生まれる「例外的存在」が科学理論を否定することは明らかだ。それで、「論理実証主義のように、厳密に考えてしまえば、相対性理論だろうと、量子力学だろうと、ホンモノの科学(正しいと確実に言える理論)には決してなりえず、「疑似科学の仲間」にすぎないのだ。」と言うことになってしまうだろう。これは、科学というものを「現実の対象に対して100%完全に成立する」絶対的真理だとする前提に間違いがあるのである。これは、エンゲルスが『反デューリング論』に書き、三浦さんが継承した誤謬論の発想で理解することが正しい理解になる。エンゲルスによれば、絶対的真理というのは、相対的真理の極限値としてのみ存在すると理解するのが正しい。それは、近づいていくことは出来るものだが、そこに達することは出来ないものだ。現実に得られる科学としての真理は、相対的真理であり、ある条件の下でのみ「絶対性」を獲得する。その条件をはずれるような事柄が出てくれば、それは「例外」として処理されることになる。そして、その例外によって条件を狭めていくことが出来れば、それは「絶対的真理」に一歩ずつ近づいていることを意味し、そのような相対的真理の連鎖によって実現されるものが、完全な科学としてイメージされている絶対的真理と言うことになる。このような発想の元で考えれば、科学は「相対的真理」であり、エセ科学は「相対的誤謬」に過ぎないものになる。両者の違いはかなり明らかだ。どちらも「仮説」に解消するような、論理実証主義的な厳密性こそが、両者の区別がつかなくなる「味噌もクソも一緒にする」発想になる。ポパーは、論理実証主義が区別をつけられなくなった、科学とエセ科学の違いを、「反証可能性」という概念で区別をしようと考えたらしい。だが、基本的な面で、科学を「仮説」に解消するような、科学的真理に「絶対性」を求めるような発想をしていたらこの区別も現実にはつけられなくなるだろう。科学と科学でないものとの区別は確かに難しいときがあるだろう。だが、その時に「反証可能性」というものを使って区別をしようとすると、この「反証可能性」の方がさらに難しい判断になると言うマンガのような話になってしまうのだ。上記のページで展開されている話はまさにそのようなもので、結果的には、全ての科学はエセ科学と変わりがないという結論になってしまう。「<科学哲学史(7) ポパーの決断>」で語られている最後の結論は次のようなものだ。「ポパーは、「結局、このような疑いを乗り越えて、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点をしなくてはならない」と述べた。「人間は、原理的に、どの観察や理論が正しいかを知ることはできないのだ。だから、人間は、どこかで疑いを止めなくてはならない。どこかで『この観察・理論は絶対に正しい!』というをしなくてはならない。そういうにもとづいて、理論を構築していかなくてはならない。」つまり、科学理論とは、『うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!』という人間のによって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ。(そして、それは、すべての理論体系(哲学、倫理、宗教)について、 当てはまることである。)」これは典型的な不可知論の結論というものだろう。「絶対的真理」というものは現実にはあり得ないのだ。エンゲルスが語ったように、自然科学系にとってはごく当たり前の結論に落ち着いたというわけだ。しかし、僕は「相対的真理」の有効性を感じているので、「絶対的真理」の存在を否定したところで終わる不可知論に対して大いなる違和感を感じてしまう。科学を「相対的真理」として捉えれば、それはかなりの有効性を持ったものとして役立てることが出来るのである。僕はポパーに詳しくないので、ポパーがここで止まってしまったのどうかは分からない。だが、ここで止まってしまったとしたら、それは哲学者の限界を示すものだろうと思う。哲学者は物事を厳密に掘り下げて思考することに優れている。だが、対象によっては掘り下げすぎたら間違いを犯すものも出てくる。程度の問題を正しく判断するには、掘り下げることだけに深い技術を持っているだけでは足りない。もっと多様な視点から、全体像を把握して判断する必要がある。「反証可能性」によって科学を定義しようとする発想は、その根底に科学を「仮説」に解消しようとするものがある。このような発想では永久に科学の何たるかを理解することは出来ないのではないかと思う。もちろんエセ科学との区別もつかないだろう。「反証可能性」というのは「§3 科学とは何か? 反証主義」によれば、「反証不可能」というものを定義して、それではないと言うことから導かれている。「反証不可能を」否定する二重否定によって「反証可能」という概念をつかもうというわけだ。「反証不可能」な命題とは次のようなものだという。「(a)論理的に反駁不可能(論理的に矛盾していない言明) (b)経験的に反駁不可能(如何なる可能な経験的言明とも両立しうる言明)」(a)は、論理的にはトートロジーと呼ばれているものになる。それは、無前提に正しいことを主張するものであるから、もちろん反証など出来るはずがない。トートロジーが反証されてしまえば論理は破綻してしまうからだ。現実を考察する基礎として論理の正しさを前提とするなら、トートロジーは反証できない。(b)の場合には、二つの解釈が出来る。一つは技術的な問題として「経験的に反駁不可能」だというものだ。しかしこれは「可能性」としての反証が出来ないという意味ではない。だから、そのようなものは科学という判断がまだ出来ないと言うだけのものであって、「科学である」とも「科学でない」ともどちらとも言えないと言うだけのものになる。まさに「仮説」として扱っていればいいもので、将来的に技術的な問題がクリアできれば、「科学である」(すなわち条件付きの普遍的な真理である相対的真理)か「科学でない」(すなわち特殊な状況で成立する例外的な事実で、条件が違えば相対的誤謬になる)かが決定できるのだと考えておけばいい。もう一つの解釈は、その反証が正しいかどうかの判断が、常に結果から解釈されるようなときには、反証されなかったという解釈さえしておけば、反証されないことになる、というものだ。「屁理屈と膏薬はどこにでも付く」ということわざが語るように、このような論理では「反証不可能」になる。「§3 科学とは何か? 反証主義」の最後に提出されている<小レポート課題>の「ダーウィンの「適者生存」の主張は、反証不可能である。」という問題は、まさに解釈の問題として反証を拒否するから、「適者生存」という法則は「反証不可能」なものになると考えられる。これは、生存競争において生き残るのは、それが環境に適した性質を持っているからと考える法則だが、「適者」という概念の中にそもそも、生存競争で生き残った存在というものが含まれている。つまり、 現実を観察して生き残った → その生き残った存在は「適者」である → 「適者」は生存競争に勝つと言う解釈をしているに過ぎない。これは論理的には ある個体が生存競争に勝つ個体である → その個体は生存競争に勝つ個体であると言うトートロジー(同語反復)を語っているに過ぎない。これは(a)の場合でもあるというわけだ。これを科学にするには、ある個体が「適者」であるかどうかを、それが生き残ったという結果を見出す前に決定する法則として提出すればいいと言うことになる。結果からの解釈によって反証を拒否することが出来ないようにしてしまうのだ。反証というのは、相手にそれを拒否させないように工夫すればたいていのものは「可能性」としての反証を提出することが出来る。ここでも科学とエセ科学の区別はつかなくなってしまう。科学とエセ科学を本当に区別したければ、科学に対する根本的な発想を変えなければならないだろう。次はそれを考えてみたいと思う。
2006.12.29
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「2006年12月24日 バックラッシュの奥に潜むものと丸山真男」というエントリーのコメント欄に pantheran-onca さんという方から「はじめまして。参考までに。谷沢永一氏の著書によると、丸山眞男は50歳前後からほとんど仕事をしなくなったそうです。その原因は、初期の業績において、丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定したことにより、取り返しがつかなくなってしまったことにあるとしています。ドイツやイタリアは民主的選挙によって選ばれた権力者に対し、議会が全権を委任してしまいました。しかし、日本の場合は翼賛選挙とは言うものの、非翼賛議員も何人も当選しており、しかも、首相が何人も入れ替わっています。ヒトラーやムッソリーニのような独裁者を日本にもそのまま当てはめたことで、彼の業績は致命傷を得たということらしいです。」と言うコメントをもらった。僕は丸山眞男についてはあまり詳しくないのだが、このコメントで語られているような発想は、論理的に考えると面白い面を持っていると思った。以下それを考察したいと思う。論理の展開というのは、ある前提を置いたときに、その前提から推論によって導かれるものを鎖のようにつなげていく。そして、その鎖のつながり方が、論理的に正当性を持っていれば、結論が導かれることの正当性も得られる。結果として、前提の正しさを認めるならば結論の正しさも認められるという論理の展開が見つかる。その前提の一つになるのが言葉の定義になる。現実に関する主張が正しいことを示す場合、その出発点となる前提は一つの事実である場合が多いが、その判断を考えるときにもやはり言葉の定義というものが深く関わってくる。言葉の定義を間違えていても論理的には正しいと言うことはいくらでもあり得る。その場合は、間違えた言葉の定義を、新たな定義として公理的に扱えば論理的には何も問題はない。言葉の定義から感じられる常識という感覚に違和感が生じるだけのことだ。逆に言えば、言葉の定義を正しく設定しても、論理的な推論において間違えていれば、それは結論の正しさを少しも保証しなくなる。結論が正しいか正しくないかは、その論証ではどちらとも言えなくなってしまう。言葉の定義が常識的に見て妥当だと思われると言うだけで、その言説が正しいと信じるわけにはいかない。詭弁である場合も多いだろうと思う。三浦つとむさんは、言語というものを人間が行うコミュニケーションの伝達の場面で見られる物理的現象として捉えた。外見的には、音声であったり、文字であったり、何らかの物理的実体を持っている。そして、それが物理的実体だけではなく「意味」という特殊な属性を持っている「表現」であると言うことを本質として定義した。言語の背後には必ずその言語を「表現」した人間の認識があって、それが「意味」を支えていると考えた。三浦さんのこの定義によれば、物理的実体としての表現が少しもないソシュール的な「内言」というものは言語ではないという言い方が正しくなる。これは、三浦さんが定義する前提から導かれる論理的な帰結だ。しかし三浦さんのような定義を前提にしていなければ、「内言」という判断が間違っているとは主張できなくなる。これは、ソシュール的な言語の定義をすれば、それが言語であるという主張の方こそが正しい結論になってくるだろう。どちらの定義が妥当かという問題があって、シカゴ・ブルースさんの一連の「ソシュール言語学とは何か」というエントリーは、そのあたりを考察したもののように感じる。これに対しては、三浦さんの言語の定義を基礎にした考察としては、僕は全く異論はない。だが、ソシュール的な言語の定義も、一つの視点として成立しうるのではないかという相対的なものの見方をするのが、僕の論理としての観点と言うことになるだろうか。論理としては、ソシュール的な定義を前提としても整合的に展開することが出来ると僕は考えている。そして、多くの人がそのような論理を受け入れて現実を考察したと言うことは、ソシュールが現実の構造の一面を鋭く・正確に捉えていたと言うことを意味しているのではないかと感じている。それは、三浦さんの視点からは抜け落ちてしまう一面ではないかと思う。三浦さんの理論がいくら優れていても、現実の全ての面を捉えることは不可能だ。抜け落ちているところはあるはずで、そこを正しく捉えている理論があったとしてもおかしくない。言葉の定義に拘って理論の全体像を見ないのは、その意義を間違って受け取るのではないかと思うところもある。それで、僕はソシュールに対する関心としては、ソシュールがいったい何を解明しようとしたのか、現実の言語の側面としてどのような構造を把握しようとしたのか、またどのように正しく把握したのかと言うことを知りたいと思っている。正しく把握したからこそ多くの人がそれを支持したのだと思うからだ。後に批判されるようになったのは、正しく把握した面を、限界を超えて展開しすぎたからではないかとも感じる。真理は、その条件の限界を超えれば誤謬に転化するというのは、三浦さんが多くの先駆者(ディーツゲン、マルクス、エンゲルスなど)から引き継いだ優れた知見だと思う。ソシュールや三浦さんのように優れた知性の持ち主であっても、論理の出発点である定義が違えばまったく違う主張を展開することになる。ましてや、普通の知性の持ち主である我々は、定義の違いに気づかずに違う論理を展開していることはたくさんあるだろう。自分の方に、論理の流れである推論そのものには妥当性があることが確かめられると、対立した主張が両立しうると言うことに気づかずに、相手の主張が間違いのように見えてくる。 pantheran-onca さんがコメントで語っていることも、僕には「ファシズム」という言葉の定義を巡る問題を整理しないと、正しさがどこにあるかを勘違いするのではないかと思えた。「丸山が戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定した」と言うことを、丸山が定義した「ファシズム」という意味で理解しているであろうか。「ファシズム」という言葉は、考察を進める人間によって微妙に定義・概念が違ってきているように感じる。これを、丸山が考えたように、丸山の頭の中にあるイメージと概念を正確に把握して、その上で丸山の主張を受け取っているかと言うことが重要だ。これが、もしも自分が抱いている「ファシズム」と違うものであれば、「戦時中の日本を「ファシズム国家」と規定」するという結論が違うものになる可能性がある。そして、それはその前提から考えれば、論理的には整合性を持って反対の結論を導くことも出来るのだ。丸山がどのような意味で「ファシズム」という言葉を使っているのか、詳しいことは僕には分からない。これから調べてみようかという興味はわいている。そして、普通に使われている「ファシズム」という言葉の意味についても調べてみようかという関心も高くなった。何かを勉強しようという動機や意欲は、こういうきっかけから生まれるものかも知れない。いわゆる問題意識というものだ。どこかに問題があることを発見すると、その問題を解決するための学習の動機が生まれてくる。丸山が使う「ファシズム」という言葉の定義が、それまでの常識に反したもので「非常識」だという批判はあまり建設的なものにはならないだろう。丸山が考察した視点が、それまでに見つけられていなかった全く新しいものであれば、古い言葉の定義ではそれを正しく表現できないと思われるからだ。その時は、何か新しい言葉で語らなければならない。全く新しい言葉を作り出すか、それまでの言葉に新しい意味を与えるしかなくなる。問題は、丸山が与えた言葉の定義によって、現実の日本社会を分析したときに、それが深いところまで本質を語ることが出来ているかではないかと思う。もしそれが出来ているならば、丸山は優れた仕事をしたのであり、尊敬するに値する知識人の一人だったと評価できるのだと思う。問題は、丸山が、正しく現実を捉えてそれを理論化していたかどうかと言うことだ。それは言葉の定義が違うと言うこととは違う問題になる。「ヒトラーやムッソリーニのような独裁者を日本にもそのまま当てはめた」と言うことは、言葉の定義ではなくて、分析の内容として評価できることになるだろう。もしこのことが正しければ、丸山は批判されても仕方がないかも知れない。だが、当時の最高の知識人であった丸山が、このようにすぐに欠陥が分かるような単純な間違いをしていたと言うことは、どうも僕には信じられない。そのような人間が、どうして当時最高の知識人として尊敬されるだろうか。当時の人間はみんなバカだったと考えた方がいいと言うことになるのだろうか。古い時代の人間を、現在の視点から眺めた場合に、新しく発見された真理を知らなかったという面が見えてきて、その点でひどく劣った存在のように見えることがある。三浦さんは、アンデルセンが好きで、現在の視点からアンデルセンの差別的な面を見るのは、あまりにも厳しすぎるので大目に見て欲しいというようなことをどこかで書いていた。当時の常識からすれば、知らなかったことがあって当然で、それをもってアンデルセンの芸術家としての優れた面を否定することは出来ないと言うことだ。板倉さんは、科学史の上で創造性の優れた科学者を多く紹介しているが、それは、当時の限られた知識の中で斬新な発想で科学を切り開いたという面を高く評価している。今の視点から、丸山に批判されるべき点が見つけられたとしても、それをもって当時の社会状況の中で丸山が考察した斬新で創造的な理論の価値が落ちることはないと思う。丸山評価としては、どこが間違っていたかよりも、当時としてはどこが新しい視点だったのかという面を僕は見たいと思う。宮台真司氏が評価する面もそのようなところではないかと思う。丸山にも間違いはあるだろう。人間である以上一般的な意味での誤謬からは逃れられない。だからそれはあまり大した問題ではないと思う。問題は、丸山が前提としたことから、丸山が引き出した結論は、論理的に整合性を持ったものであるのか、当時の常識の中ではなかなか発見できない斬新な創造性豊かなものであったのかということを知ることだ。これが否定的に評価されるものであれば、丸山は過去の遺物として忘れられても仕方がないだろう。だがそうでなければ、丸山に対するリスペクト(尊敬)は、歴史上の偉人として持ち続けたいと思う。特に、宮台氏が肯定的に高く評価する人物だけに、その本当に優れた面を発見したいものだと思う。
2006.12.28
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「改正」された教育基本法では、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」「態度を養う」という文言が入っており、これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られている。この法案反対の気分としては、「愛国心」そのものに反対するのではなく、その「押しつけ」に反対するというものの方が大きいのではないかと思う。「愛国心」という概念そのものが嫌いだという人もいるかも知れないが、それは、その概念の中に不当なものが入り込んでいる「愛国心」のイメージではないかと思う。たいていの人は、「愛国心」そのものは必要だと思っているが、それを押しつけてくることは間違いだと感じているのではないだろうか。それは、何が「愛国心」かという判断について、客観的な基準が設定できないからではないかと思う。それを国家が恣意的に決めることに反対する人が多いのだろう。これは、国家が決める「愛国心」が間違っていると言うことではなく、何が「愛国心」かと言うことは原理的に正しい答を提出することが出来ないのだと思う。マル激での、極右と言われる一水会顧問の鈴木邦生さんとの議論では、「日本がいい国だから愛する」という「愛国心」に関しては、宮台氏が「愚かです」の一言で一蹴していた。これは全くその通りだと思う。宮台氏が語っていたように、何か理由があって愛するような「愛国心」は、その理由が無くなれば愛さなくなるようなものだから、自分の存在の基礎としての「愛国心」というものにはふさわしくないと言える。「愛国心」というものをそのような崇高なものではないと定義すれば、このようなプラグマティックなものとして教えてもいいのかも知れないが、そのようなものを教育基本法で明記するほどの価値のあるものだとは感じないので、「愛国心」をそのように定義するなら、全く教育する必要はないだろうと思う。「愛国心」というのは、自分が日本人であるという存在の基礎を与えてくれる、いわば日本人としてのアイデンティティーの基礎になるものだ。自分が日本人であるという事実を否定できないのなら、日本という国がそこにあると言うことだけでわいてくるような気持ちが「愛国心」でなければならない。「愛国心」をこのように定義すれば、そもそも「愛国心」を教育するなどということは不可能であることが論理的な帰結として導かれるのではないかと思う。「愛国心」というのは、日本人として生まれたという運命的な事実を受け入れるところからわいてくる気持ちだ。つまり、自分が日本人だと自覚したときにすでに持っていなければならない感情の一つでもある。それなのにそれを教育するということは、そもそもそのような感情を持っていないという前提で教育を考えていることになる。運命的に持っていなければならない「愛国心」という感情を、それを持っていないがゆえに教育するということは、本物ではない見せかけの「愛国心」を持てと教育する以外になくなる。「改正」教育基本法で「態度を養う」と書かれているのは、まさに「愛国心」という心を教育することは出来ないので、せめて見せかけの「態度」を身につけさせる教育なのだと語っているように感じる。もし「愛国心」の教育として、嘘でない教育をするのなら、日本人としての自覚をさせるという教育しかないだろう。そして日本人としての自覚をしても「愛国心」がわいてこないなら、そのような日本になってしまったと言うことを憂う「憂国」の情を教えることが必要なのではないかと思う。鈴木邦生さんが『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)で語っていたのもそのようなことではないかと思う。マル激での議論でも鈴木さんは、「愛国」というのは現状を肯定して、今の日本がいい国であることを認めることだと語っていた。それに対して「憂国」というのは、今の日本がこれでいいのかと、批判的に眺めることを意味すると語っていた。これは、日本を本当に愛するがゆえに、もっと素晴らしい国であって欲しいという感情から生まれてくるものだと言っていた。鈴木さんは、三島由紀夫は「愛国」という言葉が嫌いだったと本で書いている。「愛」という言葉には、「愛玩」というような、自分の都合でペットを愛するような嫌らしい響きがあると感じていたようだ。鈴木さんも現状肯定的な「愛国」よりも、時にはクーデターにつながるような、激しい「憂国」の気持ちの方が真に国を思う気持ちが感じられると考えているようだ。そして「憂国」の士にこそ強い共感を感じているようだ。鈴木さんの本から次の部分を引用しよう。「ここでもう一度整理したい。愛国は現状維持的で、憂国は変革的だ。憂国は、このままの日本でいいのかと、破壊的、否定的な情念になる。「反日」と変わらないところまでゆく。 西郷隆盛は明治維新に満足せず「第二維新」を目指し、西南戦争を起こしたが敗れた。その第二維新、永続維新を継承しようと全国各地で自由民権運動が起きた。時には過激な暴発にもなった。この流れの中で頭山満の玄洋社も生まれ、右翼の運動も始まる。西郷の憂国を継承しようとしたのだ。 さらに昭和初期。血盟団事件、5.15事件、2.26事件と流血の昭和維新運動が起きる。これも憂国の連鎖だ。「先を越された」「俺たちも続かなくては」という焦りもある。同士が決起したのに自分はこのままでいいのか、と言う「負い目」「やましさ」もある。だから、「負い目の連鎖」でもある。」鈴木さん自身も、三島由紀夫の「憂国」ゆえの自決と、ともに自決した森田必勝氏に対する「負い目の連鎖」で一水会の運動でそれに続いたのだという。このような人々を真の「愛国者」だと考えるなら、現状肯定をする「愛政府」が、本物の「愛国心」であるはずがないと思うだろう。右翼の方からは極左であると思われている本多勝一氏なども、自分ほど日本のことを憂いている人間はいないと言うことを根拠に、自分こそが本当の「愛国者」だと語るような文章を書いていた。極右と極左が一致すると言うことは弁証法的にあり得ることだろうと思う。鈴木さんは、連合赤軍や東アジア反日戦線<狼>との親交も深い。反権力・反政府の極左の姿にもっとも深い「憂国」の情を見ることが出来たのだろうと思う。そして、それこそが本物の「愛国心」なのだと感じているのではないだろうか。誰が真の「愛国者」であるかと言うことは客観的に決められることではない。だから、そのようなものを教えることが教育の内容としてふさわしいとは思えない。では、「愛国心」を教育するとしたら、どのようなものが出来るのだろうか。それは、「愛国心」の恐ろしさ・誤謬への転落の危険を教えることしかないのではないだろうか。鈴木さんが指摘する次のような内容こそが、もし「愛国心」を教えるとしたらその内容としてふさわしいものになるのではないかと思う。「こう見てくると憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖のように見える。愛国は現状維持的で平和なように映る。しかし、一概にそうは言えない。憂国は、時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。しかし、あくまでも個々人の自発的な意志に任されている。言うなればちょっと荒っぽいボランティアだ。 その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。有無を言わせない。テロやクーデターは憂国から起きるが、局部的なものだし、瞬間的なものだ。愛国は<戦争>に突き進み、全国民を強制する。それも長い年月、強制する。 憂国は部分的で短期的だが、愛国は全体的で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし、「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時は特に顕著だ。その全体の流れに対し消極的な人間は、「非国民!」「売国奴!」と言って袋だたきにされる。つまり、愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も凶暴だし、残忍だ。」鈴木さんが語ることこそが、日本人が先の戦争から学ぶべきもっとも大きな教訓ではないかと思う。「愛国心」が全体主義に通じること、しかも、そうやって他者を迫害して追い込む人間が、自分こそが正義だと勘違いして、そのような残忍で凶暴なことをするのが間違いだと言うことに気づかないことがもっとも問題だと理解しなければならない。鈴木さんは、マル激の議論でも、学校で「愛国心」が教えられるようになったときに次のような事態が起こることを危惧している。たとえば、ある先生の発言が、表面的には「反日」「反政府」のように見えたときに、それを「愛国心」という正義を振りかざして糾弾するような生徒が出てきたとき、それが本当に「愛国心」の教育の成果だと言って喜んでいられるだろうかと言うことだ。自分に絶対の正義があって、その正義の元に他者を叩いて平気でいられるような人間に育てたことが間違いだったと自覚しなければならないのではないかという指摘は、全く正当なものだと思った。そういうものが「愛国心」だと理解されることに鈴木さんは大いなる疑問を語っていた。鈴木さんは「愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えばニセモノになってしまう。そして他人をそしる言葉になる。僕はそう思う。」と書いている。全くその通りだと思う。鈴木さんは極右と言われている。だが、極右だからこそ、「愛国心」に対して正しい認識を語れるのではないかと感じる。たとえ極右の思想家であっても、「愛国心」に関して鈴木さんが語ることは正しいと僕は思う。「改正」教育基本法で「愛国心」を教えたがっている保守政治家は、残念ながら「真正保守」の「真正右翼」ではないようだ。鈴木さんのような極右思想家に、真の「愛国心」について教えてもらった方がいいのではないかと思う。そして、鈴木さんが語る「愛国心」こそが、本当に教えるに値するものだと理解しなければならないだろう。「愛国心」教育が不要になるような努力こそが、真の「愛国心」の発露なのだ。
2006.12.27
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宮台真司氏によれば、現在の日本は近代成熟期になった成熟社会だという。近代成熟期に入る前は、近代過渡期と呼ばれ、ここでは「急激な重化学工業化と都市化の時代」が特徴で、「国民はみな仲間だ」という国民意識が支配していたという社会構造を持っていた。この近代過渡期が終わり、近代成熟期を迎えたと言うことは、社会の構造が変わったと言うことを意味し、その構造に合わせて意識を変え、教育を変えていかなければ社会の秩序というものが保てなくなると言う恐れが出てくる。自民党が提出した教育基本法「改正」案の背景には、戦後の民主主義教育が教育を荒廃させ、日本社会を悪くさせたという思いがあるようだ。そして、それを支えた諸悪の根元が日教組であり、日教組の支えになったのが教育基本法であると言うことで、これを変えることが自民党保守層の悲願であったと言われている。しかし、何かが悪くて教育が荒廃したと言うよりも、近代過渡期から近代成熟期へ向かった社会の変化に対して、教育の方がその変化に付いていけなかったことが結果的に荒廃を招いたと理解する方が正しいのではないかと思う。なぜなら、近代過渡期における日本の経済成長などを見ると、その時代においては日本の教育は時代に合った人材を生み出しており、少しも荒廃を生んでいないように見えるからだ。近代過渡期にふさわしかった教育がどのようなものであり、それがどの点で近代成熟期にはふさわしくなくなったのかを、『世の中のルール』(ちくま文庫)という本の中の宮台氏の「なぜ人を殺してはいけないのか」という文章から学び取りたいと思う。そして、その理解を元に、近代成熟期という成熟社会にふさわしい教育というものを考えたい。近代学校教育のモデルは軍隊と監獄にあると宮台氏は語る。つまり、近代過渡期にふさわしかった教育は、本質的に軍隊と監獄と共通点を持っていると言うことだ。これは、かつてその教育を受けた自分の感覚とも良く一致する。僕は、軍隊と監獄を基礎にした教育は嫌いだったが、近代過渡期を支える人材を輩出するという点で、これを第三者的に眺めてみれば、個人的な嫌悪感があるにもかかわらず、それが存在したという合理性は理解できる。この教育は、近代過渡期にはまさにふさわしかったものだったのだ。近代過渡期の教育の目的の第一のものは「都市労働者を養成する」ことにあると宮台氏は指摘する。都市労働者というのは、「伝統社会と違って雨が降ろうが槍が降ろうが時間通り出社し、規律正しい集団行動で安価な良質品を大量に生産する競争に加わる」という人々を指す。このような特徴を持った人々を養成するには、まさに軍隊と監獄の特徴を利用することが有効だと言うことは合理的だ。軍隊と監獄のイメージを良く実感させるのに学校教育における体育の授業がある。宮台氏は次のように書いている。「学校の準備体操では整列!気を付け!前へ倣え!休め!とやる。これは準備体操にとって必要はありません。では何のためか?号令一下、規律正しく集合的に行動する習慣をつけるためです。むろん軍事教練からの借り物で、体育実技の大半は軍事教練ルーツです。」これは、学校教育というものを研究している人間にとっての常識ではないかと思う。だから、軍国主義教育に本当に反対するなら、学校における体育の内容に反対する必要があったのだが、日教組の活動でもそのようなものがあったというのを聞かない。それは、この時代にあってはそのような教育が時代の要請に合ったものだったからだろうと思う。今は、それが時代の要請に合わなくなってきて、軍国主義教育であることが見えやすくなってきたのだが、時代にふさわしいものの欠点を見て、それに反対することは難しかったのだろうと思う。このような教育で、都市労働者にふさわしい資質を作られた人々は、教育の第二の目的である「人材の選別と動機付け」によって、その能力にふさわしい仕事に就くようになる。「人材の選別と動機付け」に道徳的な感情を持つと、その客観的な存在の意味を取り違える恐れがあるが、これは社会的な教育の機能として、これからは時代を超えて存在するものではないかとも感じる。「選別」が気に入らないと言う感情を持っても、それなしには社会的な職業が成立しなくなるだろうから、この機能を全て否定することは出来ないだろう。近代過渡期以前の時代には、人々は生まれながらにその人生が決まっていることが多かっただろう。教育も、親の世代を受け継ぐためのものだっただろうと思う。それが、時代の要請によって多くの人材を集中させなければならない職業が生まれ、その職業にふさわしい技能を持った人間を養成し、動機づけるために「教育」という社会的な機能が生まれたと考えることが合理的だ。軍隊と監獄には自由がないので、自由を希望する人間にとってはつらい教育になる。僕にとって学校教育があまりいいイメージがないのは、僕が青春時代を生きた1970年代というのは、自由が肥大して価値を持った時代だったからではないかと思う。自由の観念は社会にあふれていたのに、社会はまだ自由を享受するほどの成熟を見せていなかった。だから、自由を熱望するほど現実には自由がなかったので、学校教育はまさに軍隊と監獄のイメージと重なったのだと思う。自由をあまり意識しなかった人は、この時代の教育でも、元々つらさを感じる原因を知らなかったので耐えることがたやすかったと言うことがあるだろう。それに加えて、この「伝統社会にない苦役」を耐えさせたのは、「近代過渡期独特の「社会の透明さ」と「未来の輝き」です」と宮台氏は語る。「頑張れば自分も家族も会社も地域も国家も、全部豊かになり、みな幸せになる」という意識が、この時代の教育を荒廃させなかったと解釈しているようだ。実際に、日本の高度経済成長というものを見てみると、この意識通りに「自分も家族も会社も地域も国家も、全部豊かに」なったように思う。そしてそのことを誰もが幸せだと感じていた。結果として、自由を奪う強い押しつけの教育であっても、その時代にはふさわしいものとして受け入れられていたのだと思う。先駆的な意識を持った人間は、この時代にあってもそのような教育を強く拒否していたのではないかと思う。内申書裁判で有名になった、衆議院議員の保坂展人さんなどはそのような先駆者ではないかと思う。そして保坂さんが先駆者であったと言うことは、このような教育がやがて時代にそぐわなくなり、むしろ時代に逆行する、それを無理に押し進めようとすればその矛盾が抑えきれなくなるような教育になってきたと解釈できるのではないかと思う。近代成熟期にはいると、物が豊かになり、長時間労働をしなくてもすむようになる。労働だけが生き甲斐だという意識を持たずに、余暇を自由に楽しむと言うことが重要になってくる。つまり、「自由」という意識が非常に大切なものになってくる。そうなれば、旧態依然とした軍隊と監獄を手本にした学校教育は、耐えられない「苦役」と感じられる方が当たり前になるのではないだろうか。さらに、近代成熟期には、国民的な目的が消失し、なにが幸せなのかが分化して人それぞれになると言う。努力が報われると言うことが信じられなくなり、「苦役」に耐えるという動機が失われる。かつては時代にふさわしかった教育が、時代の変化に付いていけなくなり、全く時代にそぐわない教育になっていくと言うことが読みとれるのではないかと思う。これに加えて、教育が荒廃する要素として、学習という行為が持つ本質からそのような現象が導き出されるように感じる。次の宮台氏の指摘は実に鋭い点をついているように感じる。「教育とは知識や価値の「伝達」だと考えられがちですが、伝達という事態は理論的には存在しません。子どもは一個の人格システムとして環境から「学習」するだけです。環境には知識や価値を伝達したがる大人も、口でうまいことを言って抜け駆けする大人もいます。 昔のように知識や価値の「伝達」を試みても、環境が変われば、当然うまく行かなくなります。子どもは自分の生存に好都合なことを、環境の全体を見渡して学習するからです。子どもたちの置かれる周辺の環境の中には、子ども同士の関係も、メディアを通じて得られる情報も、含まれます。」現代の大人たちが、昔の価値を守って生きていても、そのような人々の方がむしろ「負け組」になり、「抜け駆けする」大人の方が「勝ち組」になるとすれば、子どもはどのような学習をする方が合理的だと考えられるか。教育の荒廃を嘆く前に、大人が環境を荒廃させた方を反省する方が先ではないかとも思える。現代日本社会は、市民社会の原則を持たず、経済的な利益になることが優先されるという社会になっている。全ての価値が金儲けに還元されるというのが、今の子どもが生きている社会環境ではないかと思う。ジャーナリズムは、市民にとって重要な事実を報道するのではなく、俗情に媚びるようなセンセーショナルな「面白い」ニュースの方が金になるという基準で報道される。そのような毎日を過ごす子どもたちがどのような学習をしているかを考えなければならないだろう。普通の子どもたちの多くが学校教育を拒否したくなっているというのは、今の教育が今の時代に全くそぐわないと言うことを意味しているのだろうと思う。だから、教育の荒廃を本当に解決するには、教育の仕組みそのものを変えるという、制度改革が必要になる。宮台氏はその内容として、「「知識や価値の伝達」から「承認を通じた試行錯誤への動機づけ」への目標変更」と「「一斉カリキュラム制」から「個人カリキュラム制」への手段変項」という二つをあげている。これは、今のところいずれも実現していない。まだまだ教育の荒廃という現象は変わらないように見えるので、今の改革では末梢的な部分の改善しかできていないと言えるのではないかと思う。このような根本的な改革に踏み込めるかどうかは、優れた政治家の決断によるか、市民社会の成長によって我々がこれを要請するしかない。いずれにしても、今までの教育の大枠を変えずに、末梢的な部分の改善では教育の荒廃は止まらないと思う。それは、教員の資質の向上や、親の教育への関与を増やすというような意識変更のような個人的な努力では解決できない問題だ。社会という大きな単位の問題として考えなければこの解決は得られないだろう。宮台氏の抽象的な提起を具体化させる方向にはどのようなものがあるか、鈴木寛氏の話などからそれを考えていきたいと思う。
2006.12.26
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現行制度に何らかの問題があって、それが原因で不都合が起きているとき、その不都合を解決するには制度そのものを変えなければならないと言うことが起きてくる。これは、不都合と言うことを感じなければ問題解決の動機も生まれてこない。まずは、どんな不都合があるかと言うことの認識が大切になる。そして不都合が確認されたとき、それを解決するための行動に出ると、大きな障害として立ちはだかるのが表題にあるような「現行制度から利益を得るステイクホルダー(利害関係者)」というものだ。このステイクホルダーの例として分かりやすいものとして、マル激で神保哲生氏が語っていたのは、記者クラブという制度における大手メディアというものだった。記者クラブという制度が原因で起こる不都合というのは、公的な情報が独占されてしまうことだという。そのステイク・ホルダーにとって都合が悪い情報が流れてこないという問題が起きる。公式発表では語られなかった政治家の言葉が、オフレコという形で記者クラブのメンバーだけには語られることがある。そして、それがどれほど重要な情報であっても、オフレコであれば記者クラブのメンバーである大手メディアが報道することはない。もし記者クラブという制度がなければ、ジャーナリストとしてのセンスに優れている人間が、ある情報が見過ごされているが重要だと発見したら、それを多くの人に知らせるように努力するだろう。そして、それが本当に重要な情報であれば、多くの人から評価され歓迎されることにもなるだろう。記者クラブという制度のステイク・ホルダーは、情報の独占という利益を崩された場合、本当のジャーナリスト・センスでの競争にさらされることになる。公式発表を垂れ流していればすんだ記者クラブのメンバーは、その中で安住していればジャーナリスト・センスが低レベルにとどまるのは必然ではないかと思う。そのような競争にさらされるというのも、大きな利害問題になるだろう。ステイクホルダーとしては利益が無くなるだけではなく、大きな損害も生じる恐れがある。宮台氏に言わせれば、ジャーナリスト・センスのないジャーナリストなどは形容矛盾なのだから、退場してもらって他の仕事をした方がいいと言うことになる。僕も、社会的な職業として、最低レベルの技術を持たない人間は、その仕事には向いていないのだから他の仕事を探した方がいいと思う。記者クラブに疑問を持たず、権力が流す公的情報を垂れ流すだけのメディアなど、ジャーナリズムの仕事をしていると思わない方がいいと思う。記者クラブという制度の問題は、ジャーナリストにとって困ると言うだけではなく、本来のジャーナリズムからの報道ではない情報があふれるという現実が、一般の我々にとっても問題だと感じるセンスも必要だろう。長野県において記者クラブ制度を廃止した田中康夫さんの先見の明を評価しなければならないだろう。記者クラブ制度におけるステイクホルダーの問題は、第三者的に見ることが出来るので僕にとっても分かりやすい。しかし、現行教育制度におけるステイクホルダーとしての教員組合という問題は、自分がその中にいるだけに客観的な理解が出来るかどうかが心配だ。マル激のゲストの鈴木寛氏によれば、今の教育の問題のもっとも大きなものは、「たらい回し現象」が見られて、どこも責任を取るところがないということだという。ある人が、学校の中でいじめが行われているとか、教師が変だ(体罰をしているとか、偏向教育をしているとか)と思ったときに、どこかに訴えても、それを受け止める責任を持つ人間がどこにもいなくなると言う。それは問題が深刻であればあるほど、訴えた相手に判断をするだけの権限が与えられていないことが多いという。まずは一番身近の子どもの担任に訴えても、問題によっては担任の判断だけでは処理できない場合がある。その時は、問題によって、学年主任・教頭・校長へと進み、ここでも責任が取れない場合は、地方教育委員会から最後は文部科学省へと進む。しかし、最後の文部科学省が、「それは地方にまかせている」と答えると、訴えはそこで循環して最終到着地点が無くなってしまう。誰も責任を取らなくなる。鈴木氏に言わせると、私立学校では最終責任は校長で止まるという。校長が問題の解決が出来るかどうかは、その問題によるが、責任の所在は最終的には校長にあり、校長がどこかよそに責任を回すことは出来ないと言う。しかし、公立学校では責任がたらい回しにされて、結果的に誰も責任を取らなくなるという。問題の責任を取らなくてすむというのは、ある意味では制度から得られる利益だと言ってもいいだろう。この問題の解決には、制度そのものの変革が必要だと言うことで、鈴木氏はコミュニティ・スクールの構想などを提出してきたそうだ。責任の最終到着点を地方の教育機関に持っていこうという発想だ。居住地域の狭い範囲の学校理事会というものを設定することを提案していたようだ。そこが、具体的な学校の問題を判断する責任を負うと言うことだ。ある学校が、いじめや暴力の問題などで特にたいへんだと言うことが地域で理解されれば、そこの学校に教員を多く配置したりとか、特にそのような問題に優れた実績を持った教員を配置するとか、人事に関わる決定も理事会が要求できるようにしようと言うものだった。今は狭い地域には人事の決定権はない。都道府県という大きな単位の教育委員会が人事権を持っている。鈴木氏が変革しようとしている制度を支えているのは、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」と言う法律らしい。鈴木氏は、この法律の改正こそが現実の教育問題の解決に結びつくものだと語っていた。教育基本法を「改正」しても、現実の問題の解決にはならないが、この法律を変えれば大きな意味があるという。教育基本法の改正も、この法律の変革につながるような改正ならば意味があるという。この法律に支えられる制度に関してステイクホルダーとなっているのは、まず一番大きな所は文部科学省という行政権力であって、この利権を手放したくない文部科学省は強い抵抗をしているそうだ。この法律の改革につながらないように、教育基本法「改正」も「愛国心」の問題が一番重要だと装ったのではないかということも神保氏などが語っていた。鈴木氏に言わせると、この教育制度の下では、教員組合もステイクホルダーの一部をなすという。表面的には対立しているように見える、行政権力の側の文部科学省と教員組合が、ステイクホルダーとして利益を守るためにある種の談合をしている55年体制が教育制度の下では未だに続いているという。これの意味を当事者としての僕が正確に把握するのはかなり難しい。僕は組合員個人には信頼を置いているが、組合という組織そのものにはあまり信頼を置いていない。それは、以前に養護学校にいたときに、生徒への体罰を一掃するという方針に大いに共感して質問をしたときの落胆が原因している。体罰というのは、普通は教育的効果を持ったものとして受け止められている。そして確かにそのようなときもごくわずかだがある。だが、大部分の体罰というのは、教員の恣意的な判断で行われる暴力に過ぎない。そこには深い教育的配慮などは存在しない。ごくわずかな教育的な「体罰」があるために、大部分の単なる暴力が見過ごされるのは問題だと感じていた。ごくわずかの効果ある体罰を制限してでも、大部分の暴力を防ぐべきだと感じていた。だから、組合の定期大会で、どのような方法で体罰の一掃をするのかを質問した。しかし、僕の質問には全く答がなかった。その時に感じたのは、「体罰の一掃」というのは、言葉だけのスローガンだったのだなと言うことだ。それは当時話題になった「体罰の害」に応えるにはちょうどいいスローガンだったが、どうやって一掃したらいいのか、具体的な方針はなかったのだろうと思う。先日聞いたマル激では、宮台氏が、犯罪的な暴力には生徒・教師の違いにかかわらず警察権力を介入させるべきだと語っていた。もしそのようなことをしていたら、犯罪的な暴力である体罰は一掃されていただろうと思う。組合というのは、個人は具体的な活動を見ているので大きな信頼感を持てるが、組織は単にスローガンだけの見せかけの活動しかしないときもあるので僕は信用していない。さて、その組織としての組合を考えると、これが現行教育制度においてステイクホルダーになっているというのは、どのような制度で利益を得ているのだろうか。鈴木氏が指摘する、責任を取らない体制というのは大きなものではないかと思う。教育というのは難しい活動である。時には、何もしないことの方がいい結果を生んだりする。何かをしてもそれが必ずいいことになるとは限らない。自分の活動にどれだけ責任を負うかというのは、簡単に結論を出せる問題ではない。しかし、この責任を自覚しなければ、教育活動の技術は向上しないと言うことがあるので正確な判断が大切になる。だが、現行制度の下では、上から指令されたことに一応したがっていれば、教師個人には責任がないことになる。だが、これは教師であれば誰でも適用できるので、特に組合という組織についての利害関係ではなくなる。組合という組織は、とりあえずは経済的利益を守ることを目的としている。その関係で、教員個人の身分その他を守ることも目的としている。このあたりに、ステイクホルダーとしての利害が大きく絡んでくるのだろうか。鈴木氏は、教育予算に関して、それが日本で低い比率であることを問題にしていた。そして、現行教育制度においては教育予算の枠を広げないような談合が行われていて、それによって道路予算のような公共事業の予算が削られない仕組みが出来ているという。ここには大きな利害関係があって、ステイクホルダーとしての談合が行われているという。だが、教育予算というのは、それが増えた方が文部科学省にとっても教員組合にとってもいいのではないかとも思える。それを抑えてでも、現行制度を維持する方が利益が大きいという判断があるのだろうか。このあたりのことはまだよく分からない。記者クラブ制度というものが、そのステイクホルダーである大手メディアにとって利益であり、一般国民にとっては不利益であることは分かりやすい。制度の問題がはっきりと出ているように感じる。しかし、現行教育制度と、教員組合がステイクホルダーであるという関係はわかりにくい。それが良く理解できるような材料を探し求めたいと思う。
2006.12.25
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宮台真司氏の「アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景」について書いたエントリーに浩瀚堂さんという方から「宮台真司氏の所説の疑問」というトラックバックをもらった。浩瀚堂さんの論旨をまとめると、次のようなものではないかと僕は受け取った。1 宮台氏は丸山眞男の「亜インテリ論」を間違えている (丸山が語った「亜インテリ」は「宮台氏が言う様な頭の悪いインテリや低学歴を指すのではなく」「義務教育以上の高等教育を享受していたし、経済的にも当時の中間層に属していた人々」を指す)2 宮台氏は『丸山眞男の時代』(竹内洋・著、中公新書)の読み方を間違えている。 (丸山の「亜インテリ論」に対して「竹内先生はこれに対してやや批判的な記述をしている」。それを自説に都合良く解釈している。つまり、丸山の「亜インテリ論」が正しいかのように竹内氏が書いているように引用している。)ここでは宮台氏が間違っていると言うことを二つ指摘しているのだが、正直言って、この二つは僕は考えもしなかった。その理由は二つある。一つは、宮台氏に対する信頼感が大きいと言うことだ。宮台氏ほど論理的に明晰な思考をする人間が、他人が言っていることを間違って受け取ると言うことはほとんど考えもしなかったからだ。もし他人が間違えていたら、それを間違いとして正しく受け取るだろう。間違ったまま受け取ったり、正しいものを間違って受け取るとは考えられなかった。もう一つの理由は、もし宮台氏が上の二つを間違えていたとしても、僕が考えたエントリーではほとんどその影響はないと思われたからだ。浩瀚堂さんがトラックバックを送ってくれたのははてなのダイアリーの方だったが、同じエントリーをライブドアのブログでリンクさせておくと次の二つになる。「2006年03月19日 二流問題」「2006年03月20日 一流の学者と二流の学者をどこで区別するか」ここで僕が論じているのは、「バックラッシュ(揺り戻し・反動)と呼ばれる現象の中に、二流の学者が台頭して権力を握り、一流の学者を駆逐するという面」の考察だ。この現象を合理的に理解したいと言うことから、宮台氏の論説を参考にしてその整合性を見つけていこうとしていた。この理解のための道具として、「亜インテリの、真のインテリに対するルサンチマン」と「複雑な現実の複雑性を失わずに理解する論説の難しさと、短絡的な現象を直結させて単純化した論説の理解のしやすさ」というものを利用した。この二つの言葉で表される現象が、現実のものとして発生しやすいということが言えれば、二流の言説として低俗なものであっても、それが権力を握ったものの大量宣伝によって社会に浸透すると言うことを理解させてくれるのではないかと思った。宮台氏が丸山の「亜インテリ論」を用いて説明したのは、そのような考え方が、宮台氏によって初めて見出されたのではなく、すでに丸山眞男によっても見出されていたのだと言うことを語っただけなのだと思っていた。僕は、宮台氏の説明に説得力を感じ、それが正しいと思っていた。だから、その説明の過程に現れる「亜インテリ論」も正しいと思っていた。だから、これが丸山眞男のものでなくても、それは論理の展開の本質には全く影響がないと思う。丸山のものでないのなら、それは宮台氏のオリジナルだと言えばそれですむことではないかと思う。論理の流れとしては「亜インテリ論」は正しいと思う。それが丸山のものであるかどうかは別の問題ではないかと思う。浩瀚堂さんは「丸山の亜インテリ論は八つ当たりに過ぎぬであろう」と語り、丸山の「亜インテリ論」に関しては批判的に見ているようだ。また、竹内氏の『丸山眞男の時代』からの引用も丸山の「亜インテリ論」への批判として読んでいるようだ。この引用部分の解釈に対しては、僕は若干の異論も感じるのだが、それは別の問題として、宮台氏がエントリーの中で語っている「亜インテリ論」に関しては、直接の言及はないように見える。浩瀚堂さんのエントリーの趣旨は、あくまでも宮台氏が読み間違えていると言うことであって、「亜インテリ論」に関しても、読み間違えた当の丸山のものには言及しているが、宮台氏が提出している「亜インテリ論」に関しては、単に丸山のものとは違うという指摘がされているだけで、それ自体の正しさは問題にされていないようだ。そういう点では、僕が論じたものと「論点」が違うので、宮台氏の文章の受け取り方の視点が違っただけのことなのかなとも思える。だから、宮台氏に代わって、僕がそれは間違いではないと主張するのは変なことになると思うのだが、宮台氏が、ある意味では単純と思えるような間違いをするとは信じられないので、それは本当に間違いなんだろうかという疑問を語っておきたいと思う。幸いにも、僕は竹内氏の『丸山眞男の時代』という本を持っていたので、この中から丸山の「亜インテリ論」の本当の姿を探し求めてみた。だが、残念なことにこの本からは、丸山自身の「亜インテリ論」の本体とも言えるものは見つからなかった。この本に書かれているのは「時代」ではあっても丸山の「理論」ではないからだ。関係していると思われる部分の記述は、「ファシズムの担い手」として丸山が考えていた中間階級に第一類型の「本来のインテリゲンチャ」と第二類型の「疑似インテリゲンチャ乃至は亜インテリゲンチャ」と言う言葉が出てくるところだ。ここで「亜インテリ」として挙げられている具体例は、浩瀚堂さんも引用しているが次のようなものだ。「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」これらの「亜インテリ」こそがファシズムを煽ったというのが丸山の「亜インテリ論」のように竹内さんの本からは読める。ここには、宮台氏が語るような「丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから」というようなルサンチマンの問題は語られていない。だが、「丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です」という判断は、竹内氏の本でも語られているようだ。「大衆を悪玉にせず、擬似インテリを悪玉にしているのである」という言葉にそれがうかがえる。「亜インテリ」の問題を丸山が語ったのは確かで、それこそがファシズムを煽ったものであるという、「諸悪の根元」=「悪玉」であるというのも語っている。問題は、丸山が語った「亜インテリ」の時代と、宮台氏が問題にしている現在の「亜インテリ」の時代とに違いがあると言うことだ。時代背景の違いがあるので、丸山の論をそのまま現代に当てはめることは出来ないだろう。そこには、当然丸山の論の展開があって現在への応用と言うことがあるはずである。僕は丸山眞男に詳しくないので、丸山が「亜インテリのルサンチマン」について語っていたかどうかは分からない。しかしそれを前提にすれば、アカデミック・ハイラーキーの頂点である東大法学部教授を攻撃するという動機は理解しやすい。そしてその攻撃が、リベラルへの攻撃になり、結果的にファシズムを煽り・翼賛すると言うことにつながるのも理解しやすい。これを逆に考えると、まずは「亜インテリ」のファシズムへの翼賛が前提され、それによってファシズムを煽り、リベラルであるアカデミック・ハイラーキーの頂点を攻撃すると言うことが論理的に帰結される。問題は、「亜インテリのルサンチマン」の方が前提として存在することが合理的なのか、「亜インテリのファシズムへの翼賛」が前提として存在することが合理的なのかと言うことになるのではないだろうか。「亜インテリ」と「ファシズム」の間に強い親和性があるのなら、「亜インテリ」という存在が「ファシズム」への翼賛を生むことになる。しかし、「亜インテリ」と「アカデミック・ハイラーキーに煮え湯を飲まされる(学問的にはどうしても一番になることが出来ない、優等生意識の強い「亜インテリ」の挫折感が「煮え湯」と言うことの比喩だろうか)」と言うことの方が親和性が高いのなら、むしろ「亜インテリ」であることは、アカデミック・ハイラーキーへのルサンチマンを生むと理解した方が合理的なのではないだろうか。丸山がこのことを語っていないとしたら、それは二つくらいの理由が考えられる。それはあまりにも当たり前のことなので、書かなくても読者はそれくらいのことを知っていると想定していたというものが一つ。もう一つは、本当にそのことに気が付かなかったというものだ。書いていなくても、それが当たり前のことだと思われていたなら、丸山がそれに言及していなくても、宮台氏が、丸山の「亜インテリ論」として紹介するときにそれを前提にしていてもかまわないだろうと思う。また、丸山が本当にそんなことを考えてもいなかったら、それは不思議なことだが時代の限界なのかも知れない。その時は、宮台氏が語る「亜インテリ論」は丸山の「亜インテリ論」に宮台氏が付け加えたオリジナルなものだと了解すればいいのではないかと思う。また「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者」という宮台氏の言い方は、「亜インテリ論」を現在に適用するための解釈を語ったものとして僕は受け取った。丸山が語った「亜インテリ」を現代において解釈するなら、このようになるのではないだろうか。だから、これは丸山が語ったものとそっくりベタに重ならないからと言って間違った理解とは言えないのではないか。むしろ、ベタに重ねてしまえば、時代背景の違いを無視していると批判されてしまうのではないだろうか。また、宮台氏の定義は、簑田胸喜を「亜インテリ」の特異点として理解するための定義になっているのではないかと思う。丸山の一般的な定義に従うと簑田胸喜は「亜インテリ」から除かれてしまうのではないかと思う。簑田は、東大教授ではないのでアカデミック・ハイラーキーの頂点ではないが、高学歴で私大の教授という「文化人」ではある。簑田はファシズムを翼賛した人間であり、本物のインテリだとはとても言えない。簑田が「亜インテリ」ではないと理解する方が難しい。だからこそ「ないし」という接続語で、簑田のような存在を包含するような定義こそが、本当の意味での「亜インテリ論」を完成させるためにふさわしいと考えたのではないだろうか。丸山が、簑田を「亜インテリ」だと考えていたかどうかは、直接の証拠を見つけていないが、簑田を含む「亜インテリ論」になってこそ、「亜インテリ論」は社会現象を整合的に説明する理論として完成するのではないかと思う。
2006.12.24
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民主党の「日本国教育基本法」の考察をしたいと思う。基本的に、僕はマル激での鈴木寛氏の見解に感服したので、その鈴木氏が作ったこの法案にも高い評価をしている。さて、参考にするのは「日本国教育基本法案 解説書」で、前回は前文を読んでみた。その時に感じたのは、民主党案は非常に具体性を持っていると言うことだった。それが第1条の「教育の目的」になると一変する。政府案の方が具体的で、民主党案の方は抽象的になるのだ。そして、政府案の方に、多くの人が危惧する「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という言葉が入っている。これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られているものだ。民主党案の方では前文の方に「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」ものが「我々が目指す教育」だと語っている。この民主党案の「愛国心」と政府案の「愛国心」をどう受け止めるかを考えてみた。最初僕は、民主党案が前文に書かれていたのは、理念として立てているという面が強くて、それを実際の教育現場の中に持ち込もうとしていないからではないかと感じた。それに対して、政府案は条文の方に書かれていることから、「愛国心」教育を現場で実践することを求めているのではないかと思った。前文は理念、条文は実際の拘束力ある規定、というふうに考えていた。しかし、法律に詳しい友人に聞いたところ、法律としての拘束力は、前文であるか条文であるかに関係なく、それの解釈をどうするかにかかっていると言うことを知った。そういわれてみると、確かに政府案の「愛国心」にしても、条文を読む限りでは抽象的な理念としての解釈も出来る。だが、「態度を養う」ことを教育の中に取り入れることを示しているようにも読むことが出来る。解釈次第で拘束力の範囲が違ってくる。ということは、どのような解釈の元に法律が提出されているかを考えることが大事だと言うことになる。政府案の方では、実際に「愛国心」の授業のようなものが研究・実践されていると言うことが、マル激の鈴木邦生さんとの議論で出されていたことを考えると、解釈としてはやはり教育の現場で「愛国心」を教えることを意図して出されたと解釈した方がいいだろう。鈴木さんの紹介では、教師の方が日本の優れている点を教えて、「日本はこんなに素晴らしい国だから皆さん愛しましょう」というような形の授業をしていたということだった。これに対して宮台氏は、「美しいから愛する」と言うことは、本来の「愛国心」の本義にもとることだと批判していた。「美しいから愛する」のなら、「美しくなければ愛さないのか」と言うことを問われてしまう。「愛国心」というのは、何か理由があって国を愛するのではない。日本に生まれて、日本で育って、まさに日本が祖国だからこそ愛するのだという気持ちが本物の「愛国心」だというのだ。これには僕も同感だ。そして、宮台氏は、祖国だから愛する日本が、時の政府によって道を誤っていると判断できれば、その政府を討つことこそが「愛国心」の発露ともなると主張していた。これにも同感だ。真の「愛国心」は、時の政府が売国奴的な行為に走らず、愛する祖国の統治にふさわしい政府であるかどうか常に監視する責任を引き受けるものでなければならない。それが公共心というものだろう。もし教育現場に「愛国心」を持ち込むならば、何が本当の「愛国心」なのかという議論をしなければならない。今の政府に協力しましょうなどと言うのは、「愛政府」であって、「愛国心」ではないのである。鈴木氏の基本的な立ち位置は、真の「愛国心」は権力の側が決定できるものではないというものだ。その基本的な考え方があれば、「愛国心」を押しつけようという解釈は出てくることはないと思われる。これは、鈴木氏個人の解釈だという受け取り方もあるだろうから、法律成立の際には、押しつけになるような解釈はしないということを確認しておくことは必要かも知れないが。さて押しつけでない「愛国心」であれば、民主党が前文で書いた「日本を愛する心を涵養し」と言うことはどのように実現されるのだろうか。教育現場で「愛国心」の授業をせずに、このことが実現されるとするなら、鈴木氏はどのような方法を想定しているのだろうか。そのヒントになることをマル激では語っていた。鈴木氏によれば、民主党案の中心となるべきものは実は第2条にあるという。そこでは「学ぶ権利の保障」が語られている。ここでは現行法案と政府案も比較されているが、それらに書かれているのは「教育の機会均等」である。この違いこそが民主党案の理念の本質を語っているという。「教育の機会均等」というのは、もしも何らかの不平等があったときには、それを正さなければならないという解釈が出来る。これは、ある意味ではあまり積極的な行為には結びつかない。不平等でなければいいのだから、ほとんどの人が低いレベルに甘んじているときは、一応形としては機会が均等されているので、改善されなくても仕方がないということになる。みんなが安い給料で働いていれば、不平等だという文句は言えない。平等にしなければならないという規定は、給料そのものが安いという文句には結びつかない。それに対し民主党が主張する「学ぶ権利の保障」は、これは要求することを可能にする。民主党があげている権利には次のようなものがある。「学問の自由と教育の目的の尊重のもとに、健康で文化的な生活を営むための学びを十分に奨励され、支援され、及び保障され、その内容を選択し、及び決定する権利を有する。」「その発達段階及びそれぞれの状況に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境を享受する権利を有する。」この権利こそが、「愛国心」を巡るジレンマを解決し、「日本を愛する心を涵養し」という教育に結びついてくる。鈴木氏は、コミュニティ・スクールの構想も進めているそうだが、それは地方の教育は地方で作っていくという思想に基づいている。つまり、何が「愛国心」であるかは、教育の「内容を選択し、及び決定する権利」によって、コミュニティが決定するというのだ。コミュニティが決定する「愛国心」は「パトリオティズム(愛郷心)」に基づくものであって、愛する郷土を屠るような国家権力の「愛国心」を押しつけてくるようなら、その「愛国心」を拒否する権利を有すると言うことをこの条文が保証していると解釈していた。「愛政府」としての「愛国心」を押しつけてくるようなものを肯定しようとする、タウン・ミーティングにおけるヤラセ行為などは、コミュニティにとっては拒否すべき「愛国心」と言うことになる。その場合は、そのような画策をする文部官僚は、売国奴であり「非国民」だという告発が出来るという。もちろん、これは冗談として語っていたのだが。民主党案の解釈は、書かれた文章だけから解釈するなら、あとからいくらでも変えることが出来るだろう。しかし、鈴木氏が作成した意図を解釈として受け取るなら、これは優れた提案のように僕には見える。鈴木氏が優れていると思えるところは、マル激の議論の中で随所に見られる。鈴木氏は、学校現場に徹底的な地域の自治を持ち込むことに努力しているように感じる。地域の教育にとって、何が本当に大事なのかは、その地域に住んでいる当事者でなければ分からない、ということが基本にある。それは、時に判断を間違えることがあるかも知れないが、その間違いから学んでいって、修正することが出来るという期待もしている。これは論理的にも納得できる。何しろ、地域の当事者は、その教育における利害当事者でもあるのだから、間違いを続けていれば自分に害悪が降りかかってくる。自分の利益になるように考えるなら、間違いを修正する方が論理的な整合性を持っている。それに対して、地方の事情を知らない中央の大きな組織・文部科学省は、一般的に正しいと思えるようなことを押しつけてくるだろう。その時に、地方の事情が、その一般性を正しくするような条件を持っていないとしても、中央の大組織にはそれが分からない。つまり、間違えても修正が出来ないと言うわけだ。教育に対しては地域の自治にまかせるべきだという発想は、教育を捉えるセンスとしても正しいと僕は思う。そして、鈴木さんが感激を込めて紹介した、地域の教育を考える過程での人々の成長というものも、教育において重要なものだと思った。それに感激するセンスも素晴らしいものだと思った。鈴木さんによれば、最初は地域の大人として面倒な役を引き受けたと思った人々が、自分たちの地域の学校を良くするため、子どもたちに少しでも言い教育をしようと考えて、いろいろと勉強し始めるというのだ。その人たちは、そのような機会がなければ、指導要領を読むなどということはおそらく無かったと思う。だが、指導要領を読んでみて、さらに学校のことをよく知るために、学校教育法を読んだという委員のことを紹介していた。この委員は、特に教育を専門的に考えてきた人ではなく、たまたま委員を引き受けたという人だ。地域の名士だったり、地方議員だったりした人でもない。いわば普通のおじさん・おばさんたちだ。このような人々を「市民」と呼んでもいいだろう。コミュニティ・スクールの構想は、子どものための教育を改革するだけではなく、それを通じて大人の教育・市民教育にも役立っている。このような経験で高い公共性を持った大人が増えれば、それこそつまらない押しつけ道徳などをしなくても、公共性というものが「涵養」されていくのではないだろうか。水が自然にしみこむように。鈴木氏は、権力闘争的な政治ではなく、民主主義を支える市民を基礎にした政治の展開において優れた能力を持った政治家だと思う。その鈴木氏が作った「日本国教育基本法」には大いなる関心を引かれる。そして、鈴木氏の解釈にしたがってこの法案を受け取る限りにおいては、僕は、これは現行法よりも優れているのではないかとも感じる。なぜなら、この法案の方が、現在の教育の問題に対処するのに有効なツールとして使えるのではないかと思うからだ。追記本題とは関係ないのだが、宮台氏が最後に語った、「現行の教育制度に関して、教員組合というものが、その利害当事者であり利益享受をしているステイク・ホルダーであることをどう捉えるか」ということが気にかかった。現在の教育問題を解決するには、現行の教育制度を根本から変えなければならない面がある。しかし、現行の教育制度から利益を得ている人々はその変更に抵抗するだろう。教員組合が、本質的な改革の邪魔になるかもしれないということをどう捉えるか、というのは当事者として深刻な問題だ。もちろん全てにおいて邪魔をしているわけではない。だが、本質において邪魔をしているなら、その部分を克服できるかどうかで、教員組合の存在意義が問われることになるだろう。克服できないなら、統治権力の攻撃を跳ね返すことが出来なくなるのではないかと思う。詳しく検討してみたいと思う。
2006.12.23
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「ポストモダン」という言葉は、思想家によってその意味が微妙に違ってくる言葉なのではないだろうか。それは現代の特徴を指していることは確かなのだが、あまりにも抽象的な表現なので、何を抽象しているのかが分からないと、現実のイメージに引きずられてしまって、自分にとってこれが現実だと思えるものが「ポストモダン」のイメージに重なって理解されると言うことになるのではないだろうか。またこの言葉は専門用語として流通しているところもあるので、ある種の専門知識なしに理解することが難しくなっている。たとえば「ポスト・モダン、その簡単な定義と提言」によれば、次のように説明されている。「モダンとは則ち、機械文明下の近代社会における人間性の解体(脱・中世)として出発した思想であり、機能主義的な単純要素によって構成されていたのに対し、ポスト・モダンとは、あらゆる諸要素を複雑に重ね合わせ、過去の諸思想及び、諸作品等から引用することによって構成される、それ故、思想的な面においてはポスト構造主義と対応する思想である。」この文章を一読して理解できる人は、かなりの専門的素養の持ち主ではないかと思う。ここでは表題では「簡単な定義」と書かれているが、これは決して理解が「簡単」だという意味ではない。説明すれば膨大な量の文章になるのだが、短い文章でまとめたという意味での「簡単」な定義になっている。つまり、この定義は、すでに「ポストモダン」を知っている人間が、その知っている内容を確認するために書かれたメモのようなものなのだ。初学者にとって理解が困難なのはこのような「簡単さ」だ。上の「簡単な定義」を理解するためには、「機械文明」「近代社会」「人間性」「解体」「機能主義」「単純要素」「あらゆる諸要素」「複雑に重ね合わせ」「過去の諸思想」「諸作品」「構成」「構造主義」というような言葉の理解を必要とする。これらを辞書的に理解しても上の文章の理解には到達しない。これらの言葉が、具体的に指している対象の具体的イメージが頭の中に浮かんだとき初めて、「簡単」な定義が理解できる。「人間性」というのは、人間が人間であるという本質を抽象したものという一般的・辞書的な理解をするだけでは足りない。近代において考えられていた、その時代に特有の「人間性」というものを知らなければ、上の文章の理解は出来ない。この文章は、初学者に向けて書かれたものではないから、初学者にとっての難しさを批判しても仕方のないことかも知れない。だが、このようなものが「ポストモダン」の意味の全てだとしたら、それを知ることに何の意味があるだろうかという疑問はわいてくる。現代思想を研究している人間にとっては大事かも知れないが、現代を生きている人間にとっては、少しも理解できない概念だとしたら、それはどの程度の重要性を持っているのだろうか。「ポストモダン」という言葉を直接使ってはいないが、現代社会の特徴を「近代成熟期」と表現して、『世の中のルール』(ちくま文庫)という本で宮台真司氏が説明をしている。「近代成熟期」は「ポストモダン」とイコールではないかも知れないが、ともに現代を語る言葉として重なるところがあるだろう。そして宮台氏が語る「近代成熟期」は、難しい用語の知識を基礎にして説明するのではなく、現在生きている我々の感覚から抽象されるイメージを基礎にして説明されている。現代社会を理解したいと願っている多くの人にとっては、宮台氏のような説明こそが求められているのだと思う。藤原和博さんと共同で書いたこの本が、「人生の教科書」として中学生を想定して、社会を構成する全ての人のために書かれたということを考えると、宮台氏のこの表現の仕方というものが頷けるものになる。思想というものが現代社会において力を持たなくなったと言うことを、思想の専門家はもう一度考えた方がいいのではないかと思う。そして、啓蒙思想家としての宮台氏の凄さを、このような説明の仕方に僕は感じる。さらに、啓蒙思想家として宮台氏が分析した「丸山真男問題」のように、宮台氏自身の影響力というものがごくわずかのものにとどまるなら、「丸山真男問題」として提出されたものは、まだ日本では解決されていないのだなと感じる。さて、宮台氏が語る「近代成熟期」というのは「近代過渡期」を経て実現されるものだが、この両者とも日本は経験しているだけに、自分の経験を抽象すれば理解できるという点が分かりやすい。「近代過渡期」というのは高度経済成長の時代に相当する。この時代は、物の豊かさを目指して日本人全体が一丸となって働いた時代だった。その当時の現実は豊かさの不足であり、その不足を埋めるために努力するという動機が得られやすかった時代だ。高度経済成長が達成されて、巷にはものがあふれる時代になると「近代過渡期」は終わりを告げる。そこではもはや、何かが欲しいという動機では人々は努力できなくなる。人々の元に一通りものが行き渡ると、その社会は「飽和した社会」と呼ばれるようになる。「この「飽和した社会」の到来が、近代成熟期の訪れ、すなわち「成熟社会化」の目印になるのです」と宮台氏は説明している。このことを理解するのに、近代思想に関する予備知識は何も要らない。ものが行き渡った社会の状況や、そのものを買い換えるときの自分の動機などを考えて、それが必要だから買うのではなく、何で買っているのか自分でも分からなくなるという状況を、ガルブレイスが指摘した「人がものを欲しがる動機が当たり前のものでなくなった状況」だと理解すれば、「近代成熟期」が理解できる。そしてこのことがもっとも大事なのだが、「近代成熟期」が理解できると、「近代成熟期」だからこのような社会現象が起きてくる、ということを論理的に理解できるようになる。抽象的な理論として社会学的な知見を理解することが出来るようになる。それは、自分がそのように感じているというセンスの問題ではなく、論理としてはっきりと確信できるという問題になる。全ての人が「近代成熟期」という概念を理解すれば、現代社会の持つ複雑さを理解する人が増えるのだ。これこそが、啓蒙思想家としての宮台氏の目的なのではないかと思う。「近代成熟期」という状況から必然的に発生する現代社会の特徴として次のようなものを宮台氏は説明している。「先進各国は70年前後に「成熟社会化」します。すると物の豊かさという国民目標が消えて、そこから先、何が幸いなのか、何が良きことなのかが、人それぞれに分化するようになります。人々がお互い何を思って生きているのか、よく分からなくなってきます。 同じように、それまでは、頑張れば、自分も家族も会社も地域も国家も、みんな豊かになると言う「成長神話」が信じられましたが、資源の限界や環境の限界があらわになってくる70年代には、頑張れば報われるという未来の透明さもまた失われることになります。」「またこの時期以降、コンピュータを使った生産の合理化、続いて流通の合理化や会社事務の合理化によって、人々が労働する時間が、短くなります。分かりやすく言えば、生活の中で「生産」よりも「消費」がしめる時間の割合が、圧倒的に大きくなるのです。 (中略) 人生の大半を占める労働時間を、一丸となって規律正しく働いていた時代が終わると、長い消費の時間をどうやって豊かに過ごすかが重要になります。しかし何が豊かさか、何が幸せかは人それぞれだから、個人的に試行錯誤して自分だけの幸せを見つけることが大切になります。」「成熟社会化は、学校教育や家族にも大きな変化をもたらします。質の良い都市労働者を大量生産するために、集団規律と協調性を重視していた学校教育は、これ以降、自力で試行錯誤して幸せを見つける力を持つ人を送り出すことが目標になります。 成熟社会化以降、重化学工業に加えてサービス産業が著しく発達するので、たとえばコンビニに象徴されるように、専業主婦が払ってきた家事育児の負担が軽くなると同時に、自分の人生を求めて、母親であっても職業を持ち続ける人たちが増えてきます。」これらの現代社会の特徴が、「近代成熟期」という概念で全てが結びついて構造的に理解できるようになる。これは素晴らしいことだと思う。これらの現代社会の特徴は、それまでの伝統が壊れ、社会の秩序がなくなったように見えるので、宮台氏が言う「アノミー」を生む可能性がある。あまりにも急激な時代の変化についていけなくなった人々が、その変化を不安に思い、冷静な受け止めが出来なくなる。だが、「近代成熟期」という概念を使えば、それらの変化を整合的に理解することが出来る。「アノミー」を起こさずに、変化に対する冷静な受け止めが行える「免疫」がつけられるという可能性を感じる。宮台氏のこの文章は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という表題がつけられている章に書かれている。宮台氏は、この「なぜ」に答は無いという。つまり、「人を殺してはいけない」という正当な理由は無いというのだ。こんなことを言われると「アノミー」に陥りそうな人がいると思うが、今までの時代では、そんな理由を問うと言うことはなかったから誰も「アノミー」に陥らずにすんだという。だが、「近代成熟期」は、そのような問いが発せられる時代なのだ。そして「「みんな仲良し」は殺し合いを勧めるメッセージだ」という判断にいたっては、それが理解できなければ、ますます「アノミー」に陥るのではないだろうか。「みんな仲良し」こそは、今までの日本社会でもっとも価値を持ってきたものではないかとも思えるからだ。それが否定されるのが「近代成熟期」なのである。「成熟社会」と教育との関係について言えば、今まで教育の中で良しとされてきたものが否定されることが多い。「成熟社会」の理解なしに急激な教育現場の変化に対して「アノミー」を感じないですますことは難しいだろう。「成熟社会」の理解を経て、「アノミー」に対する免疫性をつけたいものだと思う。「成熟社会」にふさわしい教育の姿とはどういうものか、それをもっと深く考えたい。
2006.12.22
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「論争」もどきではなく、一応マトモな「論争」の勝ち方のテクニックとして仲正さんは『ネット時代の反論述』の中でいくつか語っている。これはマトモな「論争」であるから、そこで使われる論理もマトモなものでなければならない。ということは、ある程度論理というものが分かっている人間にとっては、そこで使われている論理に一応は間違いが無いという確認があっての「論争」になる。かなり複雑な論理になると、その論理展開で間違えるという可能性がないわけではないが、そういうものはふつうは「論争」にはならないのではないかと思う。それだけ複雑な論理展開を巡る「論争」は、よほどの専門家同士でなければ関心を持たない。だから、「論争」のように見えるやりとりが起こるのは、たいていが前提の違いや結論の違いから、意見の相違として「論争」の発端になるのではないかと思う。このような「論争」においては、マトモな論理を使っている側は、自分の前提の基に論理を展開すれば、自分が提出している結論が出てくることを説得しようとする。そして、これは客観的な論理というものが理解できれば、誰もが同意するはずだと思っている。前提に同意できなくても、その前提を仮定した論理の流れは客観的に正しいことを示すことが出来ると思っている。つまり、マトモな論理を使っている側からすると、どこが「論争」に値するかは分からないのだ。相手が間違って受け取っている、つまり前提が絶対に正しいという主張ではないということを示すだけで、その「論争」は終わりだと思っている。視点が違うために前提に同意できないのであれば仕方がないが、前提に同意できれば誰でも結論にも同意するだろうと言うことが「論」なのだ。マトモな論理を使う人間は、「論争」においてはあくまでも論理の流れが正しいかどうかにしか関心がない。その時に、前提としての事実が間違っているとか、結論が間違っているとか言う指摘は、「論争」とは違う次元の指摘として受け取っている。このような問題は、視点・立場の問題、言葉の定義の問題などで一致するかどうかと言うことが重要になってくる。論理の流れとは関係のないいくつかの問題を検討しなければならない。以上のようなことを考えると、マトモな論理を使っている人間にとっての「論争」の勝ち方というのは、相手の勘違いの部分を正すことが目的になる。もしうっかり自分の方の「論」に間違いがあることを発見したら、マトモな論理を使う人間は、これは「論争」をしてはならないだろう。それは自分が間違えているのだから、本当の「論争」をすれば負けるはずだからだ。負けるはずの「論争」を無理やり勝ちに引っ張るには、マトモな論理ではなく詭弁をうまく使わなければならない。これは論理が分かる人間には見破られてしまう。マトモな論理が使えるのだと自負している人間は、このような自殺行為はするべきではないと思う。さて勘違いする相手はたいていがマトモな論理を使っていない。そういう人間は本当は「論争」の相手にしない方がいいのだが、どうしても相手にしなければならないとなったら、相手に無理な詭弁を使わせないような工夫をしなければならない。そのような詭弁の方の声が大きくなって、マトモな論理が押し殺されないようにしなければならない。「無理が通れば道理が引っ込む」というような状況を作らない工夫をしなければならないわけだ。これに対しては、仲正さんは「土俵を選んで「論争」しろ」とアドバイスする。特に、素人がブログで「論争」するときは次のようなことに注意した方がいいという。「ブログの場合は、誰でも参加できるし、テレビや雑誌に出ている著名人の方が必ずしも有利だとは限らないので、民主的だ、対等だと思われがちですが、実はまったく違います。誰のブログ上で“論争”するかがまず問題です。普段から当該のブログを見ている人の数にも影響されますし、オフライン上でつきあっている人たちを動員してこられたら、たまったものじゃありません。一対一の対決のつもりでやっているのに、外野がいろいろ書き込んできたりすることもあるからです。 ブログでなくても、周りに第三者がたくさんいると、ずいぶん心理的に違ってきます。観衆が頷くだけでも、論争の行方が変わってしまうかも知れません。ですから、なるべくだったら、お互いに納得できるような中立的な土俵で、外野の数をなるべく制限することが必要でしょう。」外野の数を制限した中立的な土俵でなければ「論争」などするものではないというアドバイスだ。相手の土俵でやったりすれば、詭弁で押しまくられて、声の大きさで勝ちが決まるような状況になったりもする。部外者の無責任な声がマトモな論理を駆逐するのは2チャンネルなどを見ているとよく分かる。中立的な土俵が見つかるときは「論争」をすることにも意味があるが、ほとんどは見つからないので「論争」はしない方がいいというのが仲正さんの真意ではないかと思う。マトモな論理が使える人間は、そのマトモな論理の範囲では「論争」の余地はないと思った方がいいだろう。相手の勘違いを正すことが出来る土俵があれば「論争」らしきものをしてもいいが、感情のロジックで勘違いしている相手はたいていがそれを理解しない。だからほとんどは「論争」などしない方が賢明な選択だと言うことになると思う。このほか仲正さんは「論点はなるべく自分の有利になるように設定する」と言うことも「論争」の勝ち方のテクニックとしてあげている。これは当然のことであって、少しも卑怯なことではない。何しろ、マトモな「論争」においては、自分の論点であれば(つまり自分が設定する前提であれば)自分が引き出した結論が正しいと言うことを説得することが目的だ。自分の前提でないこと、あるいは自分の前提が間違っているときのことは何の主張もしていないのだ。論点を自分の有利になるように設定すると言うことは、自分の前提が正しいと仮定して、論理の流れを確かめるという「論争」をするということだ。そうでないような「論争」はしないということだ。前提そのものの正しさを証明するのは「論争」ではなく、ある視点からの「主張」というものになるだろう。だから、そういうものは、視点の違いを確認して、「見解の相違」だと言うことが確認出来れば「論争」にはならない。また、相手の論理展開に自分が疑問を持っていたとしても、その論理展開の正しさが、客観的に判断できるものなら、これもわざわざ「論争」することはない。それは分かる人間には分かるから、わざわざ指摘して説得する必要はない。また、対立する相手にそれを分からせるのはかなり難しい。自分が説得するよりも、冷静になった相手が自らそれに気づくのを待った方がいいだろう。それほどの論理能力が期待できないときは、説得も無駄になる。論理が分かる人間は、他人の論理の間違いを指摘して、それに答えてもらうことには関心を持たないのではないかと思う。著名な影響力のある人間が論理の間違いをしているときは、相手が答えるか答えないかなどには関係なく、それを指摘することに社会的な意味があると思えば「批判」を展開することはあるだろう。しかし、それは「批判」であって相手に答えてもらうことを期待しているのではない。「論争」をしたいのではないのである。また、視点の違いから違う主張をするのは、厳密な意味で言えば「批判」ではないと思う。思考の方向として新たな選択肢を一つ提供したという感じになるのではないかと思う。政府が提出した教育基本法「改正」案に対して、これが、現実の教育問題を解決する方向に働くと言うことが論理的な帰結として得られると主張するのなら、それに対して論理の流れとして間違っていると指摘するのは「批判」になるだろう。だが、この法案が、現実の教育問題には何の関心もなく、政府が教育において大事だと思っている理念を表明しただけのものだと受け取るなら、その理念とは違うものの方が大事だという違う視点を提出するのは、「批判」ではなくて、違う主張だと言うことになるだろう。政府与党の方は、政治家として優れていると思われる河野太郎氏や加藤紘一氏でさえこの法案に対する関心が低いという。だから、現実の教育問題を解決するために出した法案ではないということは、政府与党内でさえもそう思っているのではないかと思う。だから、どれほど「批判」をしても聞く耳を持たないのだろう。ある意味では、この法案が通ることだけにしか与党は関心がないとも言われている。単に理念を提出しただけのものに過ぎないのではないかという感じだ。この理念が多数による決定で民主的に成立したと言うことは、この理念に反対の人間もそれに縛られると言うことを意味する。これは困ったことではあるが、民主主義の欠陥として自覚しておく必要があるだろう。そして違う理念が多数の賛同を得るような努力をしていかなければならないと思う。このほか仲正さんは「相手に先に答えさせる」などということもテクニックの一つとして紹介している。これは、論理としての正しさは自分の方にあると確信しているので、相手がどこを勘違いしているかを知るには、相手に答えさせてそれで判断した方がいいということだろうと思う。自分が先に答えると、その答の末梢的な部分を拾われて論点がずれていくことがある。だが、相手に先に答えさせておけば、相手がずらそうとした論点を修正しながら、自分が論じていることの本質が何かと言うことを示すことが出来る。そして、マトモな論理が使える人間にとって、この種の「論争」で示したいことは、自分が何を論じているかというその本質を示すことだけなのだ。その正しさは、この本質を示した時点でほとんど終わっていると言ってもいい。前提そのもの、あるいは結論そのものが違うという指摘は「論争」でない。それは視点が違うだけなのだ。それを論じるのが「論争」だと思っている人間は、「論争」に対する勘違いがある。「論争」というのは、実はその勝ち負けはほとんど客観的に決まっている。論理の流れがマトモであればそこには「論争」の余地はないのだ。論理の前提の正しさに対する主張の違い、それが正しいか間違っているかという見解は、視点の違いを理解すれば「論争」することではないことも理解できる。その視点が妥当であるかどうかの判断は、教養の深さによって決まってくるだろう。深い教養の持ち主の、多様な視点を参考にして考えることが出来れば、その妥当性が間違いなく判断できるのではないかと思う。誰が深い教養を持っているのか、という判断が大事だ。宮台真司氏や内田樹さんは、深い教養を持っていると僕は思っている。その視点や判断を信頼している。だから、それを参考にして様々な現実的な対象の判断をしようとしている。そして、それを前提にして論理を展開しようとしているのだ。いずれにしろ「論争」には実りがない。それが仲正さんの本当の主張であり、僕も同意するところだ。たとえ勝ったとしてもほとんど実りはない。
2006.12.21
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内田樹さんが、「創造的労働者の悲哀」というエントリーで、またまた反発を呼びそうな表現をしている。この反発は、おそらくその表現の内容よりも「書き方」に反応して起こるものだろうと思う。それがどのような文脈で語られているかを読みとらなければならない。しかし、次のような表現を自分の解釈で受け取ると反発を感じるかも知れない。「労働は憲法に定められた国民の義務だから働け」「「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。」「「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」」「ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」これらの表現は、それだけを取り上げて受け取ると、年寄りの説教のように聞こえる。保守的なオヤジが、現在の社会の矛盾をそのままにして、自分たちの責任を棚上げにして若者を叱咤している説教のように聞こえてしまうかも知れない。「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言い方が、高みから人を見下しているように感じる人もいたようだ。文章を切り取って解釈するという読み方が認められるなら、このような感想も仕方がないと思う。「言い方が悪い」という非難も出来るだろう。しかし、文章はその内容を読みとって評価すべきだという前提を置くと、どうもこの部分的な言葉に反応して感情的に反発するのは、思考があまりにも短絡的すぎるのではないかと思う。上のような反発を呼びそうな表現に対して、その文脈から内容を理解すれば、僕はその全てに同意し共感することが出来る。それは、僕が内田さんに近いオヤジだから同じ視点・立場を持っているからというだけではない。この主張には、論理的な正当性があると主張できるから同意し共感することが出来るのだ。まず「義務」ということをどう理解しているかが論理的な理解にとっては大事になる。これを「やらねばならない押しつけられたこと」というようなネガティブなイメージで捉えていれば、「労働は義務だ」と言われると、イヤなことを押しつけてくる説教のように聞こえるだろう。「義務」というのは人間に生まれつき属している性質ではない。社会の中で生活するという条件の下に、社会の存続のための条件として一般的に語ることが出来るものだ。もし「労働」というものが義務でなかったらどうなるだろうか。それは、自由にやるかどうかを選択してもいいものになる。そして、全ての人が「労働」しないという選択をしたらどうなるか。その時はその社会は存続できなくなるだろう。人間は労働によって生産物を生み出さない限り生活を営んでいくことが出来ないからだ。社会の存続のために必要不可欠なものが「労働」だ。そうであればそれは社会の中で生きている人間にとっては「義務」になるだろう。この「義務」を免れることが出来るのは、一つには物理的な条件で「労働」が出来ないということがある。たとえば「労働」をするには年をとりすぎたか若すぎるかどちらかであるとか、障害のために同じ種類の「労働」が出来ないとか言うことがあるだろう。もう一つは、「社会」の外に出てしまえば、社会存続のための「労働」の義務はなくなるかも知れない。「労働は義務だ」と言うことは、社会との関係で抽象的に言えることであって、個別の具体的な「労働」(=仕事)に関して言うことではない。だから、この言葉を、自分ではイヤだと思っている「仕事」を押しつける説教だと受け取るのは、抽象性を読みとらなかった誤読ではないかと僕は思う。これが抽象的・一般的な意味を持っているという判断は、「人間はなぜ労働するのかということの意味それ自体が労働を通じてしか理解されないからである」と言うことを内田さんがヘーゲルを引いて説明していることからそう判断した。「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言い方は、人間の評価は結果を見てするしかないのだという物理的な意味での真理を語っているだけだと思う。可能性だけで人間の評価を正しくすることは出来ないのだという論理を語っているだけだと思う。僕は学生だった頃、自分が興味・関心を引かれない教科はほとんど勉強したことがなかった。教科書を読むのは学校の授業の時だけで、家に帰ってまで興味・関心のないことをする時間を作ろうとは思わなかった。その時に自分の中にあったのは、 <勉強さえすれば、それは出来るようにはなる>という仮言命題だった。今は勉強をしていないから出来ないが、勉強さえすれば出来るようにはなるだろうという、可能性を信じていた。だが、勉強していないので、当然結果的にはその時点では出来ない。だから、評価は出来ないという結果を基にして評価される。この評価に対して僕は不満を持ったことはなかった。実際結果的に出来ないのだから、その結果に対して評価されるのは仕方がないと思ったのだ。このときに、自分には可能性があるのだから、その可能性を評価してくれという人間がいたら、何を甘いことを言っているのだと思っただろう。本当に評価してもらいたかったら、可能性を語る仮言命題ではなく、その可能性を現実化して結果を出して見ろといわれるのが当然だと思っていた。「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」という言葉は、そのような評価というものの持つ普遍的原理を語っただけのものであって、相手の「程度」を低く見てバカにしているのではないのである。正しい評価をするためには結果を見なければならないと言う文脈で読むべき言葉なのだ。「ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」という言葉に関しては「末路」という言葉の響きが気になる人がいるのではないだろうか。「末路」と言われると何か悪い結果に結びついて非難されているように感じるかも知れない。これは、「労働」というものを創造的なものであるとする理解が間違っているので、その間違いの結果として「ニートやフリーター」になるのであれば、「末路」という表現になるという文脈なのだと僕は理解している。内田さんが語る「労働」は「義務」としての「労働」だ。そして、義務は社会的なものであり、この「労働」も社会的なものとして想定されている。個人にとって、具体的に意味を持ってくる「労働」なのではない。それは社会的な意味での「労働」なのだ。社会的な意味での「労働」については、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんが、仮説実験授業の発想とともに語っていたことが正しいのではないかと僕は思う。それは、特別に能力のある人が、特別に実践できるものであってはならないと言うことだ。板倉さんは、教育実践の中での「授業」というものを、それまでの名人芸的なものが優れているという発想を書き換えた。特別に優れた先生が、研鑽に研鑽を重ねてようやく出来る授業ではなく、仮説実験授業の原理を理解した普通の教師が、その原理に則って授業をすれば90%以上の確率で一定水準以上の授業が実現する、というものを作ることを目指した。社会的な職業というのは、特に優れた技術を持った人間だけが集まるのではなく、一定の資格を持った人間が大量に募集される。その最低水準さえクリアしていれば、社会の水準を下げなくて済むような仕事の内容でなければ、社会的な職業とは言えないという発想がある。普通の教師が、普通に仕事をして、ひどく悪くはならないという水準を保つことが出来るというのが、社会的な職業の条件だ。非常に優れた教師が、日々努力を重ねなければすぐに悪くなってしまうような仕事は、社会的な職業としては成り立たない。普通の教師が普通に仕事をして悪くなるようであれば、それはその職業のシステムに問題があるのである。現在の学校のシステムが改善されなければならないのは、それが社会的な職業としての条件を失っていることを意味すると思う。「労働」(=社会的な意味での仕事)は、創造的な営みではない。最低レベルの水準をクリアした人間が義務として行うものである。これが創造的な営みと結びついている幸運な人間もいるかも知れないが、それはごくわずかであって、大部分は最低レベルの技術を持っていれば、その職業がこなせるというものでなければならない。最低レベルの水準に達していない人間は、職業を変えた方がいいというだけのものだ。僕の尊敬する三浦つとむさんは、職業としての「労働」は、鉄筆を握ってガリ切りをするという専門家だった。三浦さんは非常に技術の高い人だったようだ。一日のうちの半分を仕事に費やせば生活するには十分だったという。そして、残りの半分を「創造的な活動」である学問に費やした。三浦さんにとっての学問は仕事ではない。あくまでも自己実現のための創造的な活動だった。学問を仕事に出来れば一石二鳥だと思う人がいるかもしれないが、これは必ずしもいいとは限らない。仕事という「労働」には、必ず創造的ではない部分が含まれているからだ。面倒なよけいな仕事が必ず入ってくる。このよけいな仕事を効率的にこなす技術を持っていれば、創造的な活動に費やす時間も作れるが、下手をするとよけいな仕事の方に一日の大部分を取られてしまう可能性もある。板倉さんの専門の科学史では、金と暇があって余暇に好きなことをするというスタイルで研究していた最初の科学者たちはたいへん創造性が高かったという。しかし、大学に雇われるようになった職業的な科学者は、自分が好きな研究をするのではなく、雇われた大学から要求された研究をするようになるので、創造性という点ではかなり落ちてくると言うことを語っていた。板倉さん自身が創造性を発揮できたのも、国立教育研究所の要請と関係なく仮説実験授業の研究をしてきたからだとも言っていたようだ。「労働」は義務であるから、社会の存続にとって必要なことをすることが第一義になる。自分が好きなことを好きなようにやるという創造性とは相容れない部分がどうしても存在する。だから、「労働」の中で創造性を発揮するのだと思っていたら、それに成功する人間は少ないだろう。内田さんが語るようにそれは「残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない」というのが正しいのではないかと思う。それにもかかわらず、「労働」を創造的なものだと思い込めば、「ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。」ということになるのではないだろうか。反発を感じそうな内田さんの言葉は、論理的な整合性を持って理解できる。感情的に反発を感じるのは仕方ない面もあるが、現実の正しい理解のためには、感情を越えて論理的な理解が出来なければならないのではないかと思う。
2006.12.20
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仲正昌樹さんは、『ネット時代の反論述』の中で、マトモな「論争」のためにはディベート的なやり方をしなければならないと語っている。これには僕はちょっと違和感を感じている。たぶん、ディベートというものに対するイメージが食い違っているからだろうと思う。仲正さんが語るディベートというのは、ルールが明確に決まっていて、そのルールに従って正しい裁定がされ、正しい論理にしたがって前提から結論が導かれ、しかも相手よりも説得力があると判断されたときに勝ちが宣言されるというものだ。相手よりも説得力があるということは、相手の欠点を的確について、相手の論理を崩すと言うことでアピールすることもある。いずれにしてもマトモな論理展開をしている方が勝つというゲームになる。このようなディベートなら、僕も「論争」としては正しいと思う。しかし、日本で「ディベート」という名で呼ばれているようなやりとりは、必ずしもこのようなイメージを持っていないような気がする。僕が持っているイメージというのは、何らかの結論を言いくるめるような「詭弁術」の訓練をするようなものという感じがしている。正しい論理を使って、自分の主張の正しさを証明するというよりも、いかに相手をくじいて、説得すると言うよりも騙しのテクニックを磨くと言うことが「ディベート」という名で呼ばれているように感じる。これは、日本には「ディベート」というものの優れた審判がいないということも原因しているのかも知れない。だいたいディベートの勝利は、あくまでもゲームの勝利であって、主張の正しさの証明ではない。そもそもディベートという論理の訓練で争うのは、どちらかが正しいという主張ではなく、どちらが正しいか決定できないような主張を争う。よく見るのは、「死刑制度は是か非か」というようなものだっただろうか。これは、ディベートが訓練である以上当然のことだと思う。もし、主張する内容として、どちらか正しいものが決定するのなら、ディベートというゲームをする前にすでに勝敗は決していることになる。マトモな論理さえ使えれば、正しい方がディベートで勝つに決まっている。正しい方が負けるのは、どこかで論理的なミスをしたからだと言わなければならないだろう。ディベートは、どちらが正しいかは原理的に決定できない問題を扱うからこそ、その論理展開の善し悪しを判定することが出来るのだと思う。ディベートで、主張していることの正しさが証明されると受け取るとおかしくなると思う。日本ではどうもそのような勘違いがあるのではないかというのが、僕がディベートに対してあまりいいイメージを持っていない原因だ。しかし、ディベートをあくまでもルールの厳格な論理の訓練として設定すれば、それは有効なものになるだろうと思う。日本においてそのようなディベートをするのはかなりの困難があるとは思うが。とにかく、ディベートにおいては、結論となる主張の正しさは関心の外にあるということが大事なことだ。それが正しいかどうかは決定できないが、ある前提を置けば、その結論が論理的必然として導かれるということを証明することがディベートの目的だ。そして、ゲームに勝つには、その証明に説得力がなければならない。仲正さんは、「論争」をディベート的にやらなければならないと語っている。このことの意味は、「論争」においても証明されるのは、主張の正しさではないということだ。「論争」において証明されるのは、ある前提を置いたときに、その前提のもとでなら自分の主張が論理的に引き出せるということだ。しかし、その前提そのものの正しさは「論争」によっては証明されない。ある前提から結論を導く論理そのものに間違いがあったりしたら問題外だが、その論理が一応マトモなものであれば、「論争」というのは、自分の前提を相手に同意させることが目的になり、自分の勝利となる。論理というのはいくつかの論理法則に従っている。これを全く配慮せず、自分のセンス(感覚)で、ある意味では好き嫌いで結論を導くような相手とは「論争」にならない。これは、ディベートにおけるルールを無視しているようなものだから、始めからゲームとして成立していないことになる。だから、このような相手と「論争」するのはあきらめた方がいいだろう。相手が一応論理法則に従っているときは、今度は説得力が問題になるのだが、これは大部分は、自分の前提を認めるための説得力になる。論理法則というのは、ある程度論理を扱う技術があれば、技術を持っている同士で同意するのは容易だ。問題は、前提となる事柄が、自分と同じ立場・観点で正しいと同意してもらえるかどうかということだ。ディベートというゲームの場合は、建前上は審判は全くニュートラルなどちらの立場にも与しないと言う態度を堅持すると思う。だから、ある意味では客観的な意味での説得力という判断をするだろう。だが、ディベートというゲームではない、実際の「論争」においては、立場や視点が何もないということは考えられない。誰もが、ある特定の立場や視点を持って「論争」に入るのではないかと思われる。このような場合、前提への同意を取り付けるのは、「論争」当事者にとってはかなり難しい。しかも、客観的な立場の審判もいないときは、「論争」の勝敗を裁定してくれるものもいない。このときに「論争」の勝敗を決定するのは何かといえば、仲正さんが指摘するように「力関係」というものになるのではないだろうか。そして、民主主義社会における「力関係」は、どのくらいの多数者が賛成するかにかかっている。当然のことながら、少数者の主張は「力関係」によって「論争」に負ける。だがこれは本当の意味での「正しさ」がなかったことを意味するのではない。この負けを必要以上に深刻に受け止めると、絶望とニヒリズムに襲われてしまうが、「論争」の勝ち負けをディベートというゲームの勝ち負けと同程度だと受け止めれば、今は負けたけれど、この次のゲームでは勝てるように実力を上げようという気持ちも生まれてくる。このような「力関係」で決まった「正しい答え」に関して仲正さんは次のように語っている。「しかし、その「答え」がずっと“正しい”ままだとは限りません--単純なヘーゲル主義者やマルクス主義者であれば、一度(見)出された「客観的な答え」は覆らないと信じているかも知れませんが、私は覆らないと言える根拠など無いと思っています。判決文によって「答え」が永久に固定されたわけではなく、一応これがこの場での“正義”だということにしておこうと暫定的に決めるのと同じことです。 でも、それが分からないナイーブな人がいる。議論の結果、自分たちが社会的正義だと信じていたとおりの「答え」が出ないと、完全に絶望して机を叩き、「日本に正義はない」と言い出したりします。直接の利害関係者であれば、そう叫びたくなるのは分かりますが、必ずしもそうでない立場の人、正義感から論争に加わった人なら、全面的にあきらめてしまう必要はなく、「今度は、私たちの思っている方向に“正義”がシフトするよう頑張ろう」と言っておけばいいような気がするのですが、多くの人は、正義の通じない相手に対して、サヨク的に怒りを撒き散らしているうちに、だんだん動機までもがずれていきます。そして、第2章と第4章で話題にしているパターンに変わっていきます。むろんご当人は、ずれていると自覚しないので、ますます炎上していきます。」「第2章と第4章で話題にしている」と語っているのは、「味方の方だけを向いてする論争」と「とにかく相手を潰すための論争」のことだ。これは、論争に負けているときに取る戦術としてはまずいやり方になるだろう。論争に負けているということは、「力関係」では相手の方が上だということだ。その時に味方の方だけを向いて訴えても、「力関係」が逆転することはない。また、「相手を潰そう」と無理な論理を使えば、屁理屈を言っているだけだと多数者からは見られて、論争の当事者である個人には精神的な打撃を与えられたとしても、単に溜飲を下げるだけで結果的には論争にますます負けることになるだろう。このような論争の負け方をしていくと、仮説実験授業研究会の牧衷さんが語っていた「負け癖が付く」ということになるのではないかと思う。客観的な「力関係」が見えなくなって、自分の正義感を通すために、たとえ少数者であろうともとにかく大きな声で論争をしたがるようになる。牧さんは、長く社会運動に携わってきた人だが、運動というものは勝ち目がなければ取り組むものではない、と語っていた。勝てる要素をかぎつけたときが運動に取り組む「時」なのだとよく語っていた。勝てる要素があるということは、「力関係」が変わって、自分の主張が多数者をしめる可能性があると判断できるときだ。そのような運動を重ねて、「勝ち癖」をつけなければならないとも語っていた。運動は「論争」そのものではないが、「論争」も勝てる「論争」だけをすると考えていればいいのではないかと思う。「論争」の勝敗を決するのは、自分の持つ前提を相手が認めるかどうかにかかっている。そういう意味では、自分の前提を認めない相手とは「論争」しなければいいということになる。そういう相手には「見解の相違」がある。視点や立場が違うのである。そういう相手と話し合っても本当の「論争」にはならない。「論争」というのは、仲正さんが語るように、消耗することが多いわりには実りが少ない行為だろうと思う。自分と視点や立場が違うために、自分には気に入らない結論を出している相手にツッコミを入れるよりも、自分と同じ視点を持っている人間の優れた言説に共感する方が実りが多いだろうと思う。それが本当に優れているものなら、やがてはそれが理解されて主流になるだろう、というのは数学系の楽観かも知れないが僕はそのような思いを抱いている。世の中の人間は、その程度の論理性は持っているものだという期待をしている。教育基本法「改正」案が、「力関係」で通ってしまうような現在の状況を、日本社会の論理性を疑う要素だと感じる人もいるかも知れない。だが、これは何か特殊な状況があるために、そのようなことが起こるのだと僕は思っている。マトモな論理能力があれば通りそうもないものが「力関係」で通ってしまうという状況を作り出す、その「力関係」そのものこそが関心の対象になる。それは何か特殊な事情があるに違いないと思う。それを解明することの方が、「改正」案の欠陥を「論争」するよりも実りがあるのではないかと思う。
2006.12.19
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仲正昌樹さんは『ネット時代の反論述』という本の中で、裁判について次のように語っている。「判決文は、“正しい答え”があるかのように書かれますが、実は裁判官も弁護士も、本当の意味で「正しい答え」があるなんて信じてはいません。正義感に燃えて裁判所に出かける人は、社会正義を司法が実現してくれると思い込みがちです。しかし、そんなとき弁護士が、「いや、そういうものじゃない。法の正義というのは、本当は社会的な力関係で決まるんだけど、一応のルールがあるので、その範囲内で、自分の主張を通すんだ」というような言い方で本音を語ったら、きっと驚くのではないでしょうか。プロの法律家なら、裁判における真理としての「正義 Justice」は、その時の力関係や社会通念で決まってくるものであるということを知っています。ただ、最初から力関係だけで、「答え」を落ち着かせるのではあまりにもまずいので、ある程度のルールを決めておくだけなのです。」これが裁判の実態なのだと言われると、何か釈然としない気分を抱く人もいるだろうが、国を訴えて最高裁まで争った裁判がほとんど国側の勝利に終わるという現実を見ると、仲正さんの指摘が正しいと思えてくるだろう。宮台氏も、裁判において証明されるのは、現実的な事実(真理)ではないと語っていた。ある意味では「手打ち」として妥当な結論が出されるのであって、事実(真理)は二の次なのであるとも語っていた。冤罪ではないかと疑われる人が有罪になって重い罰を受けるのも、その犯罪に対して、これだけの処罰をしたということを示さないと、世間との「手打ち」が出来ないと言うことがあるのではないかと思う。裁判で証明されるのが「真理」ではないということは一般的にも結論することが出来るだろう。これは「真理」というものの定義から導かれる論理的結論だ。ある命題が「真理」であるということが、その命題が述べている内容が現実の事実と一致するという定義をすると、無限の多様性を持っていると考えられる現実に対して、完全な一致を証明することは原理的に不可能だ。さらに、深刻な争いになっている裁判では、どうしても証明できないような事実が存在してしまう。元々が「真理」として証明することが無理なことを、「真理」を証明しているかのように争っているのが裁判だとも言えるだろう。しかし、裁判には本当の意味での「論争」は存在しうると僕は思う。それは明確なルールが設けられていて、そのルールに従って意見の交換がされるからだ。前提となる事実や、犯罪行為を被告が行ったという事実の真理性は100%確立することは出来ない。しかし、ある前提を認めたら、必ずこのような結論を引き出さなければならないと言う、仮言命題的な推論に関しては、恣意的な判断ではなく明確なルールの下での判断がされるのではないかと思う。論理に関しては正しい流れを持っているのではないだろうか。正しい「論争」は行われるが、前提や結論の正しさは確証されないと言うのが裁判というものではないか。論争の部分で被告側が正しい、すなわちその前提からでは被告の犯罪であるという結論が導けないと言うようなことが論理的に証明されたら、証拠不十分ということで「無罪」になるのではないだろうか。この「無罪」というのは、被告の犯罪では無いという否定が証明されたのではなく、被告の犯罪であるということが証明されないとき「無罪」と呼ばれるのではないかと思う。それが推定無罪の原則ではないだろうか。疑わしい人間が「無罪」になったときに、感情的な反発を感じる人がいるようだが、それは「疑わしきは罰せず」と言うことの方が近代社会では正しいと言うことを忘れているのではないかと思う。疑わしい人を罰して冤罪を作るということと、真犯人を逃して犯罪者を社会に放置することと、両方を比べて、「疑わしきは罰せず」の方が民主的には利益が大きいという判断から、このような判断がされているのだと思う。力関係によって裁判の「答え」が決まってくると言うことの説明で、仲正さんは面白い説明をしている。論理の展開そのものは力関係に関係なくルールによっているが、前提となる事実が力関係によって変化することがあることを「セクハラ」を例に説明している。仲正さんは次のように書いている。「またセクハラの例で言いますと、たとえ相手が明白にノーと言わなくても、性的なものを強要するのは違法であるという考えが社会的に有力になり、“正義”が明らかにその方向にシフトしているとしても、個々の事件が果たして、それに当てはまるかどうかは自動的には決まっていません。原告と被告の双方が、「当てはまる」、「いや、当てはまらない」とわめいているだけでは埒があきません。 そこで、訴訟のルールに従って、双方、あるいはその代理人が裁判官に対して、「最近の正義の趨勢から見て、我々に勝たせた方が妥当ですよ」と言うことをアピールするための“証拠”を順番に出し合うわけです。いわば、個別のケースを無理やり、社会の現在の“正義”観に当てはめるためのルールなのです。そして、そうした個別のケースにおける判決(判断)が、社会全体の“正義”観に徐々にフィードバックされる形で、“正義”が次第に変容していくわけです。」力関係によって、前提である「たとえ相手が明白にノーと言わなくても、性的なものを強要するのは違法であるという考え」が正しいものと認められれば、その正しい前提から導かれる正しい結論にも変化が起こる。論理そのものは何も変わっていないが、前提が変われば結論も変わってくると言うことが起こる。そして、その前提に変化をもたらすのは「力関係」だという指摘をしているわけだ。論理の前提になる事柄の正しさは論理によって証明することが出来ない。だからそれは力関係によって決まってくる。裁判におけるこのような構造は、一般的な「論争」における前提の正しさ(これは論理的帰結の正しさにつながってくる)も、同じようなものだと仲正さんは指摘する。「論争を通して得られる「答え」も、これと同じようなところがあります。つまり、社会的な力関係で決まってくる「正しさ」が、自分の現在の立場・主張に近いように見せるため、一定のルールに従って、証拠を出し合っているのが「論争」なのです。特に、国や地方の議会、各種審議会、各種団体の役員会、大学の教授会などのように、拘束力のある決めごとをするための「論争」の場では、露骨に社会的な“正しさ”とのすりあわせが図られます。」政治家が行う「論争」が力関係で結論が出るというのは、教育基本法「改正」を巡る「論争」を見ると、その解釈が正しいと思えるのではないか。力関係から言えば、政府案が「正しい」と言うことが民主的に確認されたと言えるのではないだろうか。これは、「現実の教育の諸問題を解決するための改正」という条件があれば、ルールに従って、政府案が間違っていることを証明できたと思うのだが、この条件は力関係によって前提からは抜け落ちていたのではないかと思う。だから、マル激で鈴木氏や宮台氏が指摘するように、政府案は、通すことが最大の目的で中身の問題は二の次だったのだという評価が正しいような気がする。今回の教育基本法「改正」案が成立したのは、論理的には 「政府与党が圧倒的多数を占める」→「政府提出議案は賛成多数で可決される」という仮言命題の正しさを確認しただけのことだったのではないか。中身に対しての「論争」はなかったのではないかとさえ感じる。政治的な「論争」では、今週のマル激で話題にしていた「エイズ」を巡ってでてきた「性教育」について次のような感想を持った。「エイズ」感染の比率は日本でも徐々に上がってきている。この統計的な事実に対して、今後の対策としては、性教育をして正しい知識を与えることが効果的だという提言が出されていた。これは仮言命題的に言えば、 「性教育で正しい知識を提供する」→「エイズ感染の比率が統計的な意味で抑えられる」これはおそらく正しい仮言命題ではないかと思う。個人の行動について言えば、性教育で得た知識が、必ずしも「エイズ」の防衛には役立たないかも知れないが、統計的な多数を対象にした場合には、これは有効に働くと言うことを統計を取れば証明できるのではないかと思う。正しい知識を与えなければ、それは自然に増加するのにまかせていくだけになるのではないかと思う。これは道徳教育よりも、統計的には効果があると思う。道徳によって自分を抑える人間よりも、正しい知識によって抑える人間の方が多いと思えるからだ。しかし、「性教育」には一方で次のようなことを主張する人々もいる。 「性教育で正しい知識を提供する」→「性に対する関心が大きくなり、性行為に走る人間が増える」つまり、性教育をすることは、性行為を奨励していることになると考える人がいると言うことだ。これは一面の真理は語っていると思う。何も知らない状態であれば、性行為に対する関心も生まれないだろう。教えたことによって関心を持つことはあり得る。だが、性教育の実施を主張する人々の目的は、あくまでも「エイズ」予防ということにあるのである。性教育の実施によって何らかの弊害が起こる可能性があっても、予防という面での利益の方が大きいと判断すれば、実施を主張する。つまり、両者の主張は、性教育の是非に関しては対立するが、その前提も含めた仮言命題としては両立しうるものと考えられる。論理的には両者とも正当性を持ちうる。この場合に、決定される要素は「力関係」というものになる。宮台氏によれば、性教育に反対する保守勢力の方が、今の段階では力関係が上のように見ているようだった。この力関係は、「エイズ」がさらに深刻な問題として迫ってきたときに逆転する可能性はある。しかし、今の段階で逆転させておいた方が、将来的な深刻な悲劇は防げるように思う。どうすれば力関係の逆転が早められるかを考えることが必要だろう。力関係は、民主的な多数の力による関係と考えることが出来る。これは、必ずしも正しい主張に結びつくものではない。しかし、社会的な「正しさ」がこの力によっているというのは本当だろう。本当の「正しさ」を争う学者同士の「論争」でさえも「正しさ」は力関係で決まると仲正さんは指摘する。そういった中で、絶望ではなくどうやって希望を持ち続けるかという問題を考えていきたいと思う。
2006.12.18
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マル激のゲストの人選というのは、なかなかすごいと思うものがあるのだが、民主党の参議院議員の鈴木寛氏もなかなかすごい人物だと思った。非常に明快な論理を語る人だし、物事のつながりを深く洞察している人に見えた。教育基本法の問題も、教育の問題として本当に有効なものにするためには、その後の議論・つまり「地方教育行政法」に関わる部分の議論こそが本質的なものだと語っていた。非常に説得力を感じた。「地方教育行政法」が大事なのは、具体的な地方の教育を変えることが出来るのは、実はこの法律によるところが大きいからだ。鈴木氏は、学校(特に公立学校)の問題を、責任がたらい回しにされる構造に見ていた。学校に関して、いじめなどで何か問題を感じた保護者がいたときに、現在の学校制度の下では、どこにその問題を訴えても有効な対策が打てないと言う。責任の所在がはっきりせず、責任を取るべき人間に権限が与えられていないのが、現行の「地方教育行政法」だという。具体的な問題を学級担任に訴えても、それが学年主任に回され、学校長の判断を仰ぎ、それでも決定できずに、教育委員会や最後は文部科学省にまで問題が先送りされる場合もある。そして、最後で文部科学省に、これは地方にまかせてあると言われると、問題はたらい回しにされるだけでどこも扱ってくれないということになる。このようなことを具体的に解決しない限り、今の教育の問題は解決しないと言うのが鈴木氏の持論のようだ。そして、鈴木氏がその提案に大きく関わったというのが民主党の「日本国教育基本法」のようだ。これは、政府案と違って、具体的な問題解決につながるような「教育基本法」の提案になっているだろうか。鈴木氏を高く評価する気持ちとともに、この案に対する関心も高まってきた。「日本国教育基本法案 解説書」として「詳しくお知りになりたい方へ 条文解説及び現行法との比較対照(コンメンタール)」というものがネット上で公開されている。これを参考に、鈴木氏が考える教育というものを考えてみようと思う。ここでは、現行基本法・政府案・民主党案が並べて書かれており、比較が出来るようになっている。まずは前文から眺めてみるのだが、この前文を見る限りでは、民主党案が一番優れているように感じる。これは、鈴木寛氏が優れているという先入観をもったために、民主党案の優れた面が目に入りやすいと言うことがあるかも知れない。政府案というのは、本来は現行基本法を変えたくなかった公明党の間で妥協に妥協を重ねた末に作られたものだと鈴木氏は語っていた。だから、自民・公明双方にとっては非常に不満の残る、中途半端な法案になったようだ。自民党は自分のやりたいことを盛り込むことが出来ず、公明党は変えられたくないところを阻止することに失敗したと思うようなものになっているのではないか。政府案の前文においてあえて変わった部分を見つけるなら「公共の精神を尊び」「伝統を継承し」という文言が加わっているところだろうか。だが、これも一般的・辞書的な意味として受け取っている限りでは問題は生じない。具体的な「公共」「伝統」の中身がはっきりしてから問題が表面化する。どちらの法案も「日本国憲法の精神にのっとり」と語られているので、「改正」案では、文章の格調の高さが失われただけで、中身は何も変わっていないと言うような感じさえ受ける。それに対して、民主党案の前文は、全く新しいことがそこに含まれているのを感じる。「教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の、広義の教育の力」というふうに指摘されている対象は、非常に具体的で、教育の主体を地域に根を持ったものにし、地域で重要なことは地域で決めるという、鈴木氏のマル激で語った方向性を強く打ち出している文言のように感じる。教育の主体を地域に返すという主張に対しては僕は賛成だ。地域のことをよく知らない国の中心にいる文部官僚が、地域の教育の中身にまで大きな権限を持つことは弊害の方が大きいと思う。この方向を進めるような前文の「改正」なら、それは言葉の正しい意味での「改正」になるだろう。また次に語られている「我々が直面する課題」も非常に具体的である。民主党案のキーワードは、このような具体性にあるのではないだろうか。具体性を持っていると言うことは、この基本法が、理念を語るだけではなく、実際の教育の改革をも実現する実効性を持たせたいためと解釈することが出来るのではないか。課題は具体的には次のようなものがあげられている。・「自由と責任についての正しい認識」・「人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成すること」一般論として教育を語るときには、もっといろいろなものを包含する課題が提出されるだろう。その中であえてこの2つを取り出したのは、これが今の最重要課題だと考えているからではないかと思う。「自由と責任」の認識が間違っているために社会の乱れが起こっていると言う考えから、このことが「課題」とされているのだろう。また、「共生の精神」がうまく育っていないことが、様々な国際紛争やテロの温床になっているという認識もあるのではないだろうか。これについては全面的に賛成と言うほどの積極性は感じないが、この2つが重要な課題の中に含まれているだろうことは賛成する。他にもまだあるかも知れないので、これを最重要とするかどうかは判断は保留したい。教育の目的としてあげられている事柄にも、民主党案には新しいものを感じる。現行基本法案と政府案で盛り込まれている・「個人の尊厳」・「真理」・「平和」・「正義」・「人間性」・「創造性」といった目的は、全て民主党案にも含まれている。政府案にはこれに加えて「伝統」というものが入っているが、これも一般的な意味では問題はない。具体的に語るときに問題が生じることがあるというものだ。民主党案では、・「美しいものを美しいと感ずる心」=「人間性」の具体像・「自律の精神」・「個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯して取り組む」=「人間性」の具体像・「公共の精神」=「正義」の具体像・「祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び」=「愛国心」または「伝統」の具体像・「学術の振興」・「他国や他文化を理解」などというものが新たに盛り込まれている。ここでもやはり「具体性」というキーワードが感じられる。ここで提案されている教育の目的はおおむね賛成できる。「愛国心」についても、このような「愛国心」であれば、「愛政府」ではないし、軍国主義化の日本のように弾圧に働くようなものにはならないだろう。鈴木氏は、「愛国心」はだいたい教育できるものではなく、法案でも民主党は「涵養」という言葉を使ったと語っていた。「涵養」というのは辞書では、「水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること」という説明がされている。民主党案が語る教育における「愛国心」がそういうものであるなら、それは具体的に学校教育の中に入ってくることはないと考えられるだろう。上の目的の中で特に、「自律の精神」「個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯して取り組む」というものは僕の印象に残った。これは、日本社会に特に欠けている資質だと感じるし、欠けている原因の中に、このような資質を育てる邪魔をする教育というものを感じているだけに、教育の中身がこの法案によって変化するようなら、このような資質が育つ可能性を期待することが出来るのではないか思ったからだ。パターナリズムが強く、教師からどのような評価をされても、その評価に異議を唱えることが出来ないという今の教育制度の中では、「自律の精神」を養うのはかなり困難だ。他人がどう言おうと、自分はこれが正しいと主張できることを、ある種の「わがまま」と見てしまう日本の学校の中では「自律の精神」を押しつぶそうとしているのではないかとさえ感じる。「自律の精神」に欠ける日本人は、不条理な出来事に連帯して抗議すると言うことがほとんど無い。それが自分の問題として、自分に深刻に降りかかってくるものであれば、連帯ではなく利害関係として抗議するというものは見られる。だが、連帯して抗議すると言うことはほとんど見られない。公共交通機関がストライキをすることは、労働者の当然の権利として理解している人は少ない。迷惑なことをしていると思っている人が大部分だろう。ここにはほとんど連帯と言うことがない。連帯というのを、感情のロジックで行える人もいるだろうが、そのような素質のない人間は、ある種の不条理が、今は自分には関係ないように見えても、それが大きな観点からは自分と関わりを持ってくると言う論理を理解して初めて本当の連帯感が生まれてくるのではないかと思う。この教育は、正しい論理教育によってなされるだろうと思う。民主党案には、鈴木氏の持つ優秀さがよく反映しているように見える。少なくとも政府案よりはずっといいものに僕には見える。それは、現実の教育問題を解決するということに役立てる、という結論に結びつけるためにはいいものだと感じる。しかし、これによって自民保守層が考える学校からの左翼勢力の一掃がなされるようには見えない。民主党案なら、むしろ、「バカサヨク」に分類されてしまう勢力は一掃されるけれど、賢い本物の「左翼」は、さらに力を得て学校の中で重要な位置を占めていくことになるだろう。そうなると、国民が賢くなって、自民党が行っている衆愚政治が通用しなくなるかも知れない。しかし、民主党案に賛成する人は少ないだろう。僕の感覚でも、どうせ変わるなら政府案より民主党案の方がいいとは思うが、現行基本法と比べてどちらがいいかということはなかなか判断が難しい。現行基本法は長い間日本の教育を支えてきたものであり、今の教育に様々な問題があるとしても、その問題の原因が本質的に教育基本法に関わっているのだと言うことが確信を持ってまだ言えないと言うことがある。それが確信を持って言えるなら、問題を生じさせた原因を「改正」することが正しくなるだろう。そういう意味で、やはり教育基本法の問題は、まだ議論が足りないのではないかと思う。民主党案を検討することによって、新たに盛り込まれた部分の意義を考えることで、もしかしたら現行教育基本法の本質的問題が解明できるかも知れない。
2006.12.17
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楽天ブログの「実りのない論争」のmsk222さんのコメントの中で、「風力発電の是非」というものが語られていた。これが「是」であるか「非」であるかというのは、一見「論争」のように見える。しかし、これは対立した主張が語られているだけなのではないかと僕には見える。「論争」と対立した「主張」の違いがどこにあると僕は見ているのか。それは、「論争」の場合は、あくまでも「論」の戦いであり、どちらの「論」が正しいかを巡る対話であるという見方をしている。そして、「論」というのを論理の流れ、すなわち推論の方に僕は見ている。前提そのものの正しさ、あるいは結論そのものの正しさは、論理の流れである推論には直接の関わりはない。推論では、その前提を一応論理の出発点として認めれば、次の命題がそこから引き出されるかどうかという点にのみ注目する。もし、他の前提を必要とするような推論だったら、必要な前提を追加して、その前提のもとでなら結論が引き出せるかどうかを見るのが「論」の働きだと思っている。そして、そこに間違いがないかを争うことが「論争」であるというふうに僕は見ている。論理的に導かれた結論は、それの正しさを直接問題にすることはまず無い。なぜなら、正しい論理で導かれた結論は、その前提の正しさが確認出来れば、論理の正しさが結論の正しさも保証するからである。それに、直接正しいことが証明できるのであれば、わざわざ論理の結論として導く必要もないのだ。現実に見て確認出来ることはあまり論理の対象にならない。もう見ることの出来ない過去の事実や、これから起こる未来の出来事はそれが起こる前に確認することは出来ないから論理の対象になる。このようなものを考察の対象にするとき、論理の威力というものが発揮される。地球上に人類がいなかった時代があったということは誰も見ることが出来ない、つまり直接証明できないにもかかわらず、それを疑う人はほとんど一人もいない。これは論理によって証明されたからだ。郵政民営化法案に多くの人が賛成したのは、それが未来の出来事であるにもかかわらず、郵貯や簡保の持っている問題が解決されると論理的に受け取ったからだ。その論理は間違っていると僕は思うが、それを論理として受け取らなければ、直接証明できない未来のことについて正しいかどうかは判断できるはずがない。論理にとって、結論の正しさを証明することは必要のないことであるが、それと同じように、前提の正しさも関心の外にあるということはあまり知られていないのではないかと思う。論理にとっての前提というのは、正しいかどうかは分からないが、とりあえず正しいと仮定して推論を進めていこうという、論理の出発点に過ぎない。それは、なぜかと言えば、推論にとって間違いかどうかを決定づけるのは、正しい前提から間違った結論が導かれるかどうかと言うことだからだ。前提が間違っている場合は、推論そのものに対しては何の影響もないのだ。推論の正しさは、前提が正しい場合のみを考察すればいい。だから、論理にとっては、前提を置いたら、それは正しいものとして論理を進めていくのが論理の正しさを見ることになる。前提が正しいことを直接言うのは、論理と言うよりも「主張」と呼んだ方がふさわしいと僕は思う。msk222さんが語っている論理は、 「風力発電を建設する」→「我々の利益になる」と仮言命題で表現できるのではないだろうか。この推論の流れに正当性があるかどうかという問題が重要ではないかと思う。これは、見ればすぐに分かるという論理の流れではなく、その間に細かい流れを確認しなければ、その正当性を証明することが難しいだろう。細かい流れの命題としては、・風力発電はクリーンなエネルギーだ。・建設工事などが地元への利益になる。というものが加わって、前提が結論へとつながっていくかどうかが問われる。そして、前提となることを全て認めた場合に、結論が導かれることが説得的に証明されるなら、論理の流れとしては正しいと受け取らざるを得ないだろう。どんなにその結論に反対したくても結論を受け入れなければならない。問題は前提の正しさということになるのだが、これは論理によっては決定できない。だから、論理の正しさを認めたからと言って、それで前提の正しさも認めなければならないという関係にはないのだ。たとえば、前提の正しさを否定する要因として、自然の持つ景観を破壊するというものがあった場合、その条件を前提の中に含めるかどうかで、結論にいたる論理の流れが変わってくる。それを含めない論理の流れの正当性を認めたとしても、それを含んだときの論理は認められないと言うことは、論理としては普通に現れる現象で、これは論理を知っていれば誰でも同意できるケースもあり得る。論理というのは、論理の世界だけでは完結したものだから、その世界の中だけで話している限りではほとんど全てが同意できるものになる。問題は、そこから少しでもはみ出したときは、完結したものではない「視点の違い」「見解の相違」が生じると言うことだ。「景観を破壊する」かどうかは、無前提の時は論理的に証明することは出来ない。もし、「景観を破壊する」と言うことがどういうことであるかを定義して、そこに当てはまる事象のみを「景観を破壊する」と解釈して、そこに当てはまらない事象は「景観を破壊する」ように見えようとも、「景観を破壊する」と判断しないようにすれば、それは論理によって判断できるものになる。論理というのは、これが正しいという前提を置いて、それ以外は正しくないものとして排除したときに、論理としての完結性・完全性をもっとも良く発揮する。それが出来なければ、多様な視点を認めて、論理としては両立しうる「見解の相違」であると認めなければならない。「景観を破壊する」と言うことが、誰にでも賛成できるように客観的に定義できれば、その判断は論理的なものになる。それが出来ないときは、論理の問題にはならない。それが論理の問題に出来ないとき、「景観を破壊する」ということが正しいかどうかで争うのは、論理の問題ではないのだから、僕は「論争」ではないと思う。それは信念あるいはセンス(感覚)の問題になってしまうのではないだろうか。論理の問題は、論理が分かる人間であれば正しい方向というものに賛同してもらえる。だから、そこにあるのはいかに説得するかという問題だけだ。だが、論理ではない問題は、信念やセンスに訴えなければならないので、いかにして感情に影響を与えるか、宮台氏的に表現すれば、いかにして感情のフックに引っかけるかという問題になってくる。小泉さん以来の自民党中枢は、そのような技術に非常に長けているように思う。そして、この感情のフックに引っかけることに成功したとき、大衆動員で勝利をする。それは、民主主義社会においては多数を占めることになり、結果的に民主主義で勝利すると言うことになるのだろう。これは、論理的な勝利ではないから、民主的な決定が、必ずしも正しくないと言うことはたくさんあるだろうと思う。msk222さんが提出した問題も、相手の論理の流れが正しいものであれば、論理としての正しさは認めなければならないだろう。だが、その前提に間違いがあったり、不足があるというのであれば、違う見解を提出すると言うことで反対をすることが出来るだろう。それは論理の流れを否定するのではなく、個別の事実に対して違う「主張」を述べると言うことになる。結論に対しても、「我々」の中に、地元の人間だけを入れるのではなく、日本全国あるいは世界の人々、もっと抽象的には「人類」という対象にとってという意味での「我々」だという「主張」も出来るだろう。地元の人間にとっての利益になるという結論は正しくても、そのような人々の利益になるかどうかはまた別の話になるからだ。ただ、最終的には、「風力発電の建設」という具体的な行動は、民主的に決定される。つまり、多数が賛成すれば建設の方向を取るようになるだろう。だから、これに反対する人間にとっては、いかにして多数者の賛同を得るかが問題になる。これは、論理の正しさと必ずしも一致しない。つまらない宣伝が功を奏する場合も十分あり得る。相手の欠点を必要以上にあげつらう卑怯な手が有効だったりもする。正しくありたいと願う人々にとって、このような大衆動員の手段に自分の手を染めることにためらいを感じるのではないかと思う。厚顔無恥な人間でなければ、なかなかこのような手段をとることが出来ない。しかし、相手がこのような手段を用いて大衆動員に成功しているとき、このような手を使わなければ、民主主義的には負けることは必至だ。リベラルの側が大衆動員において勝てないのは、このようなことが大きな理由なのではないかと感じる。教育基本法「改正」案を巡る対立に関しても、その法案の不備を突く論理的な批判があまり力を持たず、現在の教育が抱えている問題をセンセーショナルに宣伝をして、「とにかく教育基本法を変えなければ教育は変わらない」という気分を生み出すことに成功すれば、大衆動員的には、その法律の中身にかかわらず「改正」の方向へ世論を導くことが出来る。世論は「改正」の方向を望んではいないという意見も多く聞くが、「改正」に対して積極的な「反対」をするほどの関心を呼び起こすことが出来なかったのは、リベラルの側の大衆動員の失敗ではないかと思う。この失敗の原因がどこにあるかは論理的に求めた方がいいだろう。相手が強かったからと言うのでは、強い相手には常に負け続けることになるだろう。言っていることが正しいことは何となく分かるが、言っている奴が気に入らない、というような感情のフックがあったりしないかどうかは重大な問題ではないかと思う。カタカナの「サヨク」が嫌われる風潮があるとき、正しい主張であるにもかかわらず「サヨク」の主張だと見られたら、それだけで感情のロジックで否定される恐れもある。msk222さんが語る「価値観の違った利点欠点を論じ合うことになった場合」というのは、そもそもの出発点に違いがある場合が多いのではないかと思う。だから、それはその出発点からの論理の流れを争う「論争」ではなく、出発点そのものの正しさを争う「主張」の違い、それは視点・立場の違いを反映したものになるのではないかと思う。そして、これは「論争」ではないので、どちらが正しいかが決定できない場合が多い。信念やセンスの争いになってしまうのではないかと思う。そして、常識的に現在の日本で多数を占める方が民主的には勝利することになるのではないか、と僕は思う。反対者が勝利するには、常識の方を変革していく必要があるだろう。
2006.12.17
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仲正昌樹さんの『ネット時代の反論述』では、「論争」を次の3つに分けて論じている。1 見せかけの論争 (相手に語りかけるのではなく、ひたすら味方にだけ語りかけ、味方が自分を正しいと思い、相手を間違っていると思えば成功)2 「相手」をちゃんと見てする論争 (論理に従って、自分の正しさを証明する論争。これには様々な準備が必要)3 とにかく相手を潰すための論争 (自分がむかついた分以上に相手に不快感を与えて、相手がへこむような結果のみを求める。とにかく相手にストレスを与えれば成功)この中の、マトモに見える「論争」の2について考えてみようと思う。これは、マトモに見える2の「論争」だったら「論争」として実りがあるのではないかと思うのだが、結果的に実りになることは極めて少ないと言うことが見出せると思うからだ。むしろ、この2はよほど注意していないとすぐに1や3の方向に流れてしまう。仲正さんは、1から順番に説明をしているが、2から先に考えた方が、その流れやすさがよく分かるのではないかと思う。もしマトモな論理能力を持った人が、マトモな「論争」をしたら、どのような展開をするかを想像してみよう。おそらく「論争」のある段階でそれは終わるだろう。なぜなら、マトモな論理能力を持っている人間は、どのような展開が論理的に正しいかがある時点で分かってしまうからだ。マトモな論理能力を持った人が「論争」のように見える対立した主張をしているときは、たいていがその出発点の前提が食い違っている。だから、前提の食い違いを確認した時点でおそらく「論争」は終わる。相手の前提で論理を展開すれば、相手の結論が出てくると言うことが論理的に理解できれば、反対する理由は何もなくなる。また、自分が前提としていることを相手に理解させることが出来れば、その後の論理展開に間違いがなければ、自分の主張が正しいことは明らかになる。前提としている事柄は、論理の結果として導かれるものではなく、ある事実を判断したものであったり、数学における公理のような、理論の出発点として合意してもらわなければならなかったりするものだ。それは、視点や立場が違うと食い違う可能性がある。だが、それが一致すれば、その後の論理の展開において食い違いが起こることはほとんど無い。論理とはそういうものだからだ。マトモな論理能力を持っていれば、相手の前提を一度受け入れて、相手の論理展開の正しさを理解することによって「論争」はなくなる。ただ、これは「論争」はなくなっても、相手の主張に賛成すると言うことを意味しない。相手の前提を、仮言命題の条件として設定すれば理解できるが、その条件が正しいかどうかは、論理としての理解とは関係がないからだ。前提の命題そのものの正しさは、論理とは違うもので賛成・反対が決まる可能性がある。仲正さんも「一番根本的なところで本当に「答え」が決まっているかというと、怪しい。「社会的な事象に関しては、答がいくらでも出てくるんじゃないか」と言うことになる」と語っている。論理の前提となることの同意はかなり難しい。たとえ論理の展開に賛成はしても、前提そのもので同意できなければ、「論争」にはならないが、「見解の相違」が確認出来るだけのことになる。仲正さんは、「構築主義」的な例として、「事実」が後から構成されてしまうときの、出発点としての事実の合意の難しさを語っている。具体的には「セクハラ」を例に出して次のような指摘をする。「たとえば、セクハラの場合、同じことをされてもセクハラだと感じる人と、感じない人がいますね。実際に“セクハラ”された本人がそう意識していなくても、周りの人が、「それはセクハラだ」と指摘することがあります。その影響を受けて、「あれはセクハラだったかも知れない」と本人が思うようになってから、「セクハラを受けた」という事実が構成されると言うことになります。」「セクハラを受けた」と言うことを前提に置いて、そこから論理を展開していった場合、論理の展開に対しては全て正しいことが確認出来るなら、ここでは論理に関する対立、つまり「論争」はない。「セクハラを受けた」という前提を仮言命題の前件に置いたときの論理に関しては合意できる場合があるだろう。しかし、この前提が正しいかどうかには合意できないケースもあるのではないか。それが「構築主義」的に、後から無理やり判断されたと感じるようなときはなおさらだろう。ここでは、事実があったか無かったかで対立が起こる。これは「論争」だろうか。僕は、これは「論争」ではないと思う。「セクハラ」の定義としてはどのようなものがふさわしいかは「論」になる。このようなもので対立するなら、そこには「論争」があるかも知れない。しかし、事実が存在したかどうかは、「論」で判断するものではない。これは「論争」ではないにもかかわらず、対立した見かけから「論争」のように見えてくると、マトモな「論争」ではなく、1や3のごまかしやニセモノの「論争」に流れていく可能性が出てくるのではないかと思う。マトモな論理能力を持っている人は、とりあえず前提を認めれば、その前提からは何が導かれるかという論理の関係をたどることは出来る。しかし、そのような論理の流れが正しいと確認出来ても、前提の正しさに賛成できなければ、相手の主張そのものには賛成できない。だから、前提の正しさを巡っては対立するのだが、これは「論」の争いではない。本当の「論争」になるのは、前提の合意が出来たときに、双方がマトモな論理展開だと思っている流れで対立した結論が出てきてしまったときに、どちらの「論」の方が正しいかという争いが起こるのではないかと思う。前提が食い違うときは、結論が食い違っても、それは「論争」ではなく単に両立する二つの主張が述べられているだけだとも言えるのだ。仲正さんは、「慰安婦問題」に関してそのような見解を語っている。「最初の設定が曖昧だったためにとんでもない方向にそれてしまったのが従軍慰安婦問題でしょう。「強制があった」と言っている側は、「植民地支配の過程の中で、身売りしないといけないような女性が出てきたこと自体が、植民地支配の犯罪だ」という。一方、反対派は、「(文字通りの意味での)強制連行はなかった」ことに拘る。一方は構造を問題にして、他方は、個別のケースで法的に強制と言える行為があったか否かに拘ってるのだから、本当のところマトモな論争になるはずがありません。本来なら「あった」と主張している側は、強制連行の話にあまり拘らないで、植民地支配になると従軍慰安婦のような人たちが出てくるんだと言った方がいいかも知れない。そして、「無かった」と言っている側は、植民地支配の影響に拘る必要はないかも知れない。そもそも同じことを「論争」したがっているのかと言うこと自体疑問です。双方とも何かを主張したいことははっきりしているわけですが、相手方と論点を合わせた上で、「論争」したいかどうか分かりません。」「慰安婦問題」は、単に主張が対立しているだけで、ちっとも「論争」ではないと言うのが仲正さんの見解であり、僕もそう思う。仲正さんは、「私に言わせると、「植民地支配の影響で従軍慰安婦になるような人たちが増えた」という論点と、「強制連行という明確なものは制度的になかった」というのは、別に矛盾しません。十分、両立する議論だと思うのですが……。」と語っている。対立でさえも、実は本当の対立ではないということだろうか。なお、「従軍慰安婦」に関する「強制連行」の問題は、「(文字通りの意味での)強制連行はなかった」ということは事実として確認されているのではないかと思う。そして、これが宮台氏が語っていた「左翼の嘘」の内容なのではないかと思う。そして、この嘘は、決して歴史の本質に関わる「嘘」(=間違い)なのではなく、かなり末梢的な部分での間違いのようにも感じる。「強制連行」がなかったからといって、「従軍慰安婦」の問題が無くなるわけではない。ここに間違いがあったとしても、これを必要以上に重要視するのは、逆の方向への行きすぎた間違いになるだろう。ただ、大衆動員という戦術においては、左翼は大きな間違いをしたと反省する必要はあるだろうと思う。この「従軍慰安婦」問題からの教訓として、仲正さんは「自分の意見を多くの人に向かって「主張」することと、「論争」することは違う」ということをあげている。「論争」は「論」を戦わせるので、間違った「論」の間違いが明らかになり、正しい「論」が真理をもたらしてくれるような感じがする。しかし、「論争」ではないものからは、真理は得られない。「従軍慰安婦」問題の対立からは真理は得られないと思った方がいいのではないかと思う。このような最初の設定の曖昧さは、解答が出ない「主張」の対立には見られるのではないかと思う。「南京大虐殺」を巡る左右対立などもそのようなものに見える。この場合の設定の曖昧さは、「大虐殺」という言葉に付随するものと、戦闘行為というものに対する判断や、戦時法という法律に関するものもあるのではないかと思う。また、これらは対立している双方が納得するような客観的な定義が出来ないのではないかとも感じる。憲法9条を巡る「平和」と「安全保障」という対立の言説も、設定の曖昧さが、「論争」ではなく異なった主張の表明を生んでいるだけのような気がする。マトモな「論争」というのは、想像は出来るが、実際にはその可能性はあるのだろうかという気分にもなってくる。仲正さんは本の中で、一見マトモな「論争」に見えるものが、実は全く「論争」などではないということも論じている。それは、真理を求めるものではないということを語っている。裁判における「論争」や、国会における「論争」、学問を巡る学者同士の「論争」など、これらは一見「論争」のように見える。しかし、本当は違うのだと言うことを仲正さんは分かりやすく説明する。この次は、このことを考えてみようと思う。そして、その結果として「論争」などというものは、やはりやるだけの価値のあるものじゃないという気分を確認することにしようかと思う。
2006.12.16
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教育基本法「改正」案が、自公の賛成多数で可決された。「改正」と括弧付きで表現しているのは、この法案が辞書的な意味で本当に「改正」になっていると思えないので僕は括弧付きで表現している。宮台氏を始めとする多くの知識人が、この法案ではいま教育が抱えている問題は何一つ解決しないと語っている。僕もその評価は正しいと思っている。この「改正」が、教育を良くするどころか悪くすると感じている人は、この「改正」案の成立に怒りを覚えている人もいる。僕は、怒りという感情よりも違う種類の思いが浮かんでいる。それは、ある程度マトモにものを考えることの出来る人であれば、そこに含まれている欠陥がよく分かる「改正」案であるのに、それがなぜ賛成多数で可決されてしまうのかという、ある意味では論理的な理解が難しい謎を感じるところに関心を抱く。論理的に考えれば、欠陥のある「改正」案は否決されるのが正しいように思える。それがなぜ否決されずに可決されてしまうのか。それを合理的に理解するにはどうしたらいいのかと言うことが気にかかる。個人の判断と社会の判断が食い違っている原因はどこにあるのか。もっとも単純な理解をするなら、「改正」案を提出した自公の国会議員が頭が悪いからだという理解がある。しかしこのような考え方は、原因を突き止めたように思い込んでいるだけで、実は原因を他に転嫁しているだけのように感じる。頭が悪ければ、「改正」案の欠陥を理解することが出来なくて、ある種の利害関係だけから賛成すると言うことも起こるだろう。だが、このときは、なぜそのように頭が悪い議員が大量に生まれるのかという謎に答える必要がある。ある謎の解答が、他の新たな謎を引き起こすなら、その解答は本当の解決にはならない。問題を先送りにしただけだ。頭の悪い議員を生むという解答は、それを選んだ国民も頭が悪いのだという方向へ考えが流れるかも知れない。しかしそうすると、そのように頭が悪い国民を生んだのはなぜかという謎が生まれる。これは教育が悪いせいだ、ということになる。そうするとそのような悪い教育はどうして生まれたのかという謎がまた生まれてくる。これは教育を司る人間が悪い、ということになるのだろうか。文部科学省の役人が悪いと言うことになるだろうか。それでは、そのような悪い役人が生まれたのはなぜか。というような発想で原因を遡ってもいっこうに謎は解決しない。この原因を遡る発想は、どこかで原因が分からなくなったり、循環した原因の連鎖が出来上がったりする。原因を遡る発想は、ある意味では犯人探しをするようなものと同じになる。このような発想法はかなり不毛な論理を生み出す感じがするのだが、違う犯人を追いかけている人間は、「改正」法案に賛成することもあり得るのかなとも思える。今回の教育基本法「改正」案に賛成する政府の保守層の頭の中には、教育が悪くなった原因を遡っていくと、それは日教組(=学校における左翼)が悪いと言うところに落ち着くのではないだろうか。この「改正」は、何よりも日教組主導に行われてきた公教育の流れにピリオドを打ちたいという保守層の意志の表れと受け取った方がいいのではないだろうか。マル激のゲストで出ていた民主党の参議院議員の鈴木寛氏は、今回の「改正」案に関して、公明党は本当は「改正」したくなかったのだと語っていた。だから、本質的なところは変えないようにかなり抵抗したと言うことだった。自民党の保守層は根本的に変えたかったようだがそれが中途半端になってしまったため、その中途半端さが欠陥として出てきたようだ。妥協して前面に押し出されたのが、戦後教育を悪くした日教組を排除できるような「改正」法案なのではないかという感じがする。そのようなことを感じる報道をいくつか拾ってみると、次のようなものがあるのではないだろうか。「日の丸に向かっての起立、君が代の斉唱。1999年の国旗・国歌法制定後も、拒む教員の処分は続くが、起立や斉唱の強制を憲法違反とする判決も出ている。15日成立した改正教育基本法は、対立が続く現場に影響するのか。関係者は行方を注視する。 改正法は従来の「教育は不当な支配に服することなく」とうたう条文に、「法律の定めるところより行われる」との文言を加える。」(「日の丸・君が代処分にどう影響?=違憲判決引用の条文修正-教基法改正」)「同法成立に伴い、安倍晋三首相が設置した「教育再生会議」(座長・野依良治理化学研究所理事長)は、教員評価制度や「ゆとり教育の見直し」を来年1月の中間報告に盛り込む方針だ。」(「<改正教育基本法>自公などの賛成多数で可決、成立」)「改正教育基本法は前文と18条で構成。「公共の精神の尊重」や「伝統の継承」の理念が前文に新たに盛り込まれたほか、教育の目的に「伝統と文化の尊重」や「わが国と郷土を愛する態度を養う」「豊かな情操と道徳心と培う」ことなど5項目を明記した。 焦点だった「愛国心」をめぐる表現については、与党協議の過程で公明党への配慮から「心」が「態度」となった。」(「改正教基法が成立 「国愛する態度」明記 1月9日から防衛省」)「改正教育基本法が成立したことを受け、伊吹文明文科相は15日、改正法で作成が義務づけられている教育振興基本計画を08年度から5カ年計画で策定する方針を示した。同文科相は関連法案の改正作業について「教員免許更新制は最優先課題」と述べ、導入するため教員免許法改正案を通常国会に提出することを明らかにした。」(「<改正教育基本法>教員免許更新制は最優先課題 伊吹文科相」)「愛国心」教育を踏み絵にして、「教員免許更新制」で圧力をかけるという構造があれば、組織的な抵抗はかなりつぶせるのではないかと思う。特に公立学校の教員は公務員であるから、法律に反するような行為はたとえ思想・信条に基づくことであろうとも結果的には許されないと判断されることもあり得る。東京都の日の丸・君が代強制に関しては、「歌わない」「起立しない」という行為が、法律に規定されている事柄に違反するほどのことではないのに重い処分がされたことが、思想・信条の自由を侵したと判断されたと思う。しかし、法律に規定されたことをやらずに、それは思想・信条の自由だと主張することはおそらく出来ないだろう。公立学校から左翼勢力を排除するという意図が、今回の「改正」案成立への大きな動機の一つであるなら、たとえ欠陥があろうともそれを押し通そうとした自民党保守層の考えは合理的に理解できそうな気はする。マル激でも、自民保守層の「悲願」という言葉で語られていたのは、端的には日教組を潰す最後の一撃と言うことなのではないかと思う。公教育を悪くした諸悪の根元が、日教組という左翼勢力にあり、それを支えたものが「教育基本法」であるという認識は、認識としては間違いだと思うが、そう錯覚させる要素もあったと思う。保守層がこのような錯覚を持つことは、その立場上ある程度理解できる。左翼的な考え方は、保守層が価値あるものとしている事柄を否定するからだ。左翼的な考え方は、それまで虐げられてきた人々が、そのくびきを跳ね返すことを求めて古いものを破壊することを良しとするところがどうしてもあるあるからだ。そのあたりの価値観は真っ向から対立するだろう。しかし、抵抗勢力が何もなくなってしまったら、保守層が間違いを犯したときにその歯止めとなるものが何もなくなってしまう。暴走を止めることが出来なくなり、間違いを小さいうちに訂正すると言うことが出来なくなる。もはや取り返しがつかなくなるまで破綻が明らかにならなければ舵を切り替えることが出来ないというところにまで行ってしまう恐れがある。保守勢力にとって抵抗勢力である左翼を全て潰すと言うことはそのような危険がある、ということをもっと頭のいい保守は気づかなければならないだろう。今回教育基本法「改正」案を通した与党議員は、その欠陥に気づかない頭の悪さを持っていたと言うよりも、もっと頭のいい方向を見失っていると評価した方がいいのではないかと思う。普通の頭の良さで考えれば、「悲願」である左翼勢力の公教育からの排除が達成できると思えるのだろうが、それがこれからの教育にどのようなマイナスの影響を与えるかと言うことを考えるだけの頭の良さはなかったと言えるのではないだろうか。自分たちにとって当面プラスになることが、長い目で見ればマイナスの要素として働くというのは、一方の立場に立っている人間にはわかりにくいことだ。それが分からないことは頭の悪さではないと思う。よほど頭のいい人間でない限り、そのような対立した面の正しさ(矛盾した面の正しさ)を理解するのは難しい。左翼は「公(おおやけ)」にとっての害悪を撒き散らす存在であるという認識は、自民党の保守層にとっての常識でもあるだろうが、これからの保守層を背負って立つと考えられているネオリベ勢力にとっても常識になっているのではないだろうか。マル激で鈴木寛氏は、小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」で育った20代・30代の保守層が、これからの自民党路線の中核を担っていく勢力になるだろうと語っていた。そのことを、小泉前首相とその流れを汲む人々はよく分かっていると言っていた。彼らは「愛国心」にあふれ、「公」の精神を持ち、非常に真面目な人間が多い。そして、おそらく政治的な活動に積極的に取り組んでいくモチベーションを持っているだろう。政治的な中核を担う素質はかなりあると思われる。その彼らの信条や行動を否定しない、むしろ賛同するような世論が多かったら、教育基本法「改正」の方向の流れは、これからも止むことなく加速していくかも知れない。昨今の左翼叩きの風潮が、国民世論を代表しているようなら、ネオリベ路線はまだ続くかも知れない。その現れが教育基本法「改正」案の可決に見ることが出来るかも知れない。そう思うと、怒りと言うよりも、今後「自由」が敵視されるようなイヤな時代が来ないかが心配になる。どんなにとんでもないことであっても、「考えるだけなら自由だ」と言うことが否定され、「ケシカランことは考えてもいけない」という暗い時代にならないことを祈る。左翼的な人であっても、日本人の多くは「ケシカランことは考えてもいけない」という心情を持っている人は多いので、このようなものが世論の中核に据えられたりすると、本当に暗い時代がやってくるなと思う。
2006.12.16
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仲正昌樹さんの『ネット時代の反論述』(文春新書)は、「理不尽な言いがかり」に対して「反論」するテクニックを教えると言うことを謳っている。これは「理不尽」なのであるから無視して放っておくのが一番いいのだが、気持ちはむかつくし、何か溜飲を下げてすっきりさせたいと言うときに使うと便利なテクニックだと言うことで紹介されている。そのテクニックは3つあり、次のように語っている。1 見せかけの論争 (相手に語りかけるのではなく、ひたすら味方にだけ語りかけ、味方が自分を正しいと思い、相手を間違っていると思えば成功)2 「相手」をちゃんと見てする論争 (論理に従って、自分の正しさを証明する論争。これには様々な準備が必要)3 とにかく相手を潰すための論争 (自分がむかついた分以上に相手に不快感を与えて、相手がへこむような結果のみを求める。とにかく相手にストレスを与えれば成功)この3つのテクニックのうち、1と3は、およそ教養がある人間だったらとりたくない選択肢だ。それはたとえ成功したとしても、1の場合は自分のイメージをニセモノにしてしまうし、3の場合は自分自身が「理不尽な言いがかり」をつけた奴以上にイヤな奴だと言うことを示してしまう。2の場合は本当の論争をしているようにも見えるが、これも本物にするための条件はたいへん難しいものを持っている。本当に論点が噛み合う実りある論争というのはほとんど無い。論理的に話を始めたつもりでも、やがては1や2の論争もどきに流れる可能性の方が大きい。実は仲正さんは、このようなことをアイロニカルに(皮肉っぽく)語っているのであって、ほとんど全ての論争は実りがないということが、実は仲正さんが主張したい真意と言えるものだと思う。そもそも「論」というのは、争って勝敗を決するものではないのだ。本当の「論」であれば、それを理解する人間が全て説得されるものでなければならない。これは仮言命題で言えば その「論」を理解する →(ならば) その「論」に賛成するというものが本物の「論」であるはずだ。だから、相手が理解しているにもかかわらず賛成してもらえないのなら、それは自分が提出した「論」が本当のものではない、つまり間違っていると自覚した方がいい。そして、相手が「論」を理解していないのであれば、「論」に賛成するかどうかは決定しない。何か他のランダムな理由で賛成しないことはいくらでもあり得る。自分が間違っているときに、その間違いを説得的に教えてくれる「論争」であればそれは自分にとって大きな利益となるだろう。しかし、自分の間違いを悟ることの出来る謙虚で賢明な人間だったら、論争をする前に、自分でそれに気づくことが出来るだろうし、信頼している人間からのアドバイスで気づくようになるだろう。あえて論争まで発展する可能性は低い。相手が「論」を理解していないときにする論争は、まず相手を説得することは出来ないだろう。論点もかなりずれていくことだろうと思う。それなのに「論」を争うようなことになれば、その「反論」は、上の1か3の方向に行くようになることがかなり必然的ではないかと感じる。仲正さんの皮肉は、「理不尽な言いがかり」を受けてストレスのたまった自分の気分を浄化するために「論争」しようと思った気持ちを、ベタに実現しようとすると、それは自分をますます貶めてかえって「理不尽な言いがかり」の方が正しかったという結果に結びついてしまうと言うことを指摘することなのではないかと思う。それは「理不尽な言いがかり」だと言うことを証明したいのに、「反論」することで正しい指摘だということが正しいことを印象づけてしまう。論争にはそのような皮肉な面があるのだ。仲正さんは、この本の最後に次のように語っているが、深く共感するところだ。「本書を最後まで我慢して“読んで”いただけた人には、今さら言うまでもないことだが、この本は雑駁な構成になっているという点を差し引いて考えてもらっても、全体的に、「反論する技術」の解説本にはなっていない。どちらかというと、何が何でも相手に勝とうとする反論合戦がいかにばからしいか、そのためにいろいろな手練手管を使うことが、いかに消耗させられることであるか、アイロニカルに距離を置いて見るような内容になっている。もっと端的に言えば、「バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ」、というメッセージがこもった内容になっている。」僕は、若い頃は弁証法などをかじったこともあり、対立した言説からはそれを戦わせた結果として止揚された一段高いレベルの真理に到達できるのではないかという漠然とした思いがあった。だから、むしろ論争をすることによって自分は進歩するというような思いも抱いていた。しかし、論争をするなら、自分が信頼を置いている人間とやらなければならないと言うことは自覚していた。本当に敵対的になっている相手と論争をしたら、それは真理よりも、いかに相手を潰すかと言うことの方が大事になってしまうとは気づいていたからだ。しかし、仲正さんのこの本を読んでみると、信頼している相手との論争であっても、論争から実りを引き出すことがいかに難しいかというのが分かってくる。僕が若い頃に、信頼を置く人に論争を仕掛けたのは、論争をしたというよりも、そこである種の教育をしてもらったと受け止めた方が良さそうだと感じる。若かったので、そういう真意までは読みとれなかったが、本当に教育として実りがあったときは、たとえ相手が自分とは違う正反対の主張をしていたとしても、相手に対する信頼は少しも揺らぐことはなかった。若い頃の僕はそれを「論争」だと思い込んでいたようだが、それは「論争」ではなく、「対話」と呼んだ方がふさわしいのではないかと今は思う。それは「論」を戦わせていたのではなく、率直に双方の思うところの「論」を対話していたのだと思う。そして相手に対する信頼があるからこそ、その相手の声を真摯に聴くという「対話」が成り立っていたように思う。今の僕は「論争」には全く関心がない。「対話」になりそうにない、「理不尽な言いがかり」だと感じるような書き込みには一切反応する気がない。ブログのコメント欄などは、「対話」が出来そうな特定の相手とコミュニケーションできればそれでいいと思っている。多くの人からいろいろな意見を聞こうなどと言う気は全くない。ブログを、ある種の宣伝の場と考えて、多くの人の賛同を得たいという目的で表現をしているのなら、そこを訪れる人がどのように感じるかと言うことが気になるかも知れないが、僕は宣伝と言うことは全く考えていない。目的は、自分の考えが表現として形になることだけだ。それは、自分の外に出た表現として、自分自身でも客観的な対象としてみることが出来る。そして、それに対して「対話」出来そうな人がたまたまいれば、そのような幸運に対して感謝すると言うだけだ。普通は、論理的な意味で「対話」が出来る相手などはほとんど見付からないと思っているから、そのような相手に一人でも巡り会えれば、これほどの幸運はないと思っている。仲正さんの本は、「論争」に勝つためのテクニックを教えると言うことを装いながら、「論争」に勝つことがいかに空しいことなのかをアイロニカルに語っている。これは一つ一つ具体的に見ていくとたいへん参考になることが多い。それは、「論争」に勝つために参考になるという意味ではない。世間で「論争」のように見られているものが、実は真理を求めるためのまともな論理の発展とはいかに遠いものになっているかということを教えてくれる参考になる。大衆動員のための見せかけの論理というものが、いかに政治の場面で行われているかと言うことを理解するのに、仲正さんのテクニックは非常に役立つ。正しいことを語っているのではないのに、多くの人を動員するという現象が起きてしまうのはなぜかと言うことを理解するのに役立つ。教育基本法「改正」が成立しそうな感じになっているが、この「改正」によって教育が再生したり、今の教育の問題が解決したりすると言うことを信じている人は、それなりの「知識人」の中には一人もいないだろうと思う。ある意味では、現実の教育の問題とは関係なく、「改正」をするという事実の方にしか意味がない、と政府与党の方は考えているのではないかとも感じる。それでも「改正」は民主的な手続きを経て成立してしまう。この「改正」に賛成・反対の「論争」は、全く見せかけの論争になっているだろうと思う。世の中で論争されていることのほとんどは実りのない論争だと言うことに気づくために、仲正さんのテクニックを利用してみようと思う。特に、本物の論争だと思えるような2のような論理的なケースにおいてさえ、実りがいかに少ないかを自覚することは大切なことではないかと思う。そして、論争そのものからの実りが少ないことを理解しながらも、そこからの実りを引き出す方向がないかも考えてみたい。それはおそらく、対立した主張から得られる視点の違いを読みとることに、実りの可能性が見られるのではないかと思う。一人で違う視点をいくつも考えるのはとても難しい。その視点が、たとえとんでもないものだと感じても、自分とは違うものとして一度その視点に立ってみるということが、何らかの発見につながるという実りをもたらすかも知れない。自分で論争の中に入ってしまうのは実りが無くなってしまいそうだが、他人の論争を外から眺めるのはそれなりに学習が出来るかも知れない。自分でする論争は実りがないが、他人の論争を冷静に観察できれば実りがあるかも知れない。そして、その「論」を理解すれば誰でも賛成できる、という「論」を持ちたいものだと思う。
2006.12.15
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障害児教育との関わりから、以前に津田道夫さんの著書の感想を書いたことがあった。津田さんは戦後マルクス主義に詳しい人なら知っている人で、マルクス主義理論家として三浦つとむさんともつきあいのあった人だ。大西赤人さんが障害のゆえに高校の入学を拒否されたのに抗議する運動に関わってから障害児教育とも関わりを持った人だった。その津田さんから、著書について書くように頼まれ、「十分批判して書いてくれ」と言われたので驚いてしまった。その時の僕のイメージでは、「批判」というのはどこか間違いを見つけてそこを論じることのように思っていたからだ。津田さんの著書に間違いを見つけることは出来なかったし、自分の非力な能力ではとてもできそうにないことだと感じたものだった。しかし、津田さんの言う「批判」というのは、カントの「純粋理性批判」という著書で使われているような、深い吟味の末にその本質を明らかにするというような意味だった。津田さんは戦後まもなく活躍した理論家だが、いわゆる「知識人」と呼ばれる人だ。仲正さんが『ネット時代の反論述』で語っているが、昔の知識人は「批判」というものに対する姿勢が違っていたという。仲正さんは次のように書いている。「少し前の大学の哲学の講義では、必ずといっていいほど、カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書とか、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』などで言うところの「批判(クリティーク)」の語源はギリシア語のクリネインという言葉で、元々は「分離する」とか「裁く」という意味があることを習いました。物事を自分なりの直感だけでぼんやり見るのではなく、細かく切り分け、どういう内容があるのか反省的にきちんと把握していくと言うことが含意されています。自分の思い込みではないかとまず疑ってみて、冷静に判断しないと「批判」ではありません。そういう反省や吟味の姿勢で、お互いの「意見」を検討し合うのが、「対話」や「論争」における「批判」なのです。お互いの言っていることや相手の立場を限界づけて、その論理はここでは通用しないだろうというように相手より少し高い視点に立って指摘する。相手もそれに対して、いや、あなたが言っていることも、こう言うところで限界があるじゃないかと、反省しお互いの立場を切り分け吟味し合うことによって、批判と自己批判をする。マルクス主義の運動では、互いに糾弾して、闘争して潰すことを「批判」と言っていたふしもありますが、マルクスも元々は今いっていたような意味で、「批判」と言っていました。大衆を動員して、相手を罵倒すればいい、ということではなかったのです。」仲正さんが語ることは教養の一つだろうと思う。このような教養が失われてしまったので、言葉尻を捉えて相手の言っていることを単純化して、自分が与えた意味に文句をつけるような、「批判もどき」が増えてきたのだろうと思う。特に、相手がそれなりの教養を持っているときは、その言葉に含意された、直接表現されていない深い意味があるはずなのに、それを知らないで全く見当はずれの文句をつけるような「誤読」が生じる場合がある。もっとも「朝まで生テレビ」などを見ていると、世間では専門家として通用していると思われている人々でさえ、相手の話などマトモに聴かずに、自分で勝手に読みとった意味に文句をつけるという「批判もどき」をしているのが見られる。あれは役割が決められた単なるショーで、バラエティ番組の一つだと受け取っておけばいいのだが、そこに何らかの「批判」があると勘違いすると、同じようなことをするのが「批判」だと思ってしまうだろう。「批判」というのは、直接相手にしている人間の批判になったら失敗するだろう。その人間が、自分が「批判」している言説を語っていると言うことの証明が難しいからだ。言葉というのは何重もの複雑な意味を持っている。相手の真意がこうだという指摘をするのは難しい。「批判」というものは、それが本当に説得力を持つには、対象を抽象理論として設定して、その理論を深い吟味によって正しい部分と間違っている部分とを明確にして分けていくと言うことがいいのではないかと思う。「批判」の対象はあくまでも一つの理論であって、それを誰が語っているかという人間の問題にはしないのだ。その「批判」をした理論が、誰かが言っていることと重なるようであれば、いかに重なっているかを説得的に示せばいいだけのことだと思う。それが重なっていると同意してくれる人は、理論に対する「批判」によって、その人物が語っている言説に対しても疑問を持つことに同意するだろう。言説と理論とが重なっていることに同意しない人間は、いくらその人物を「批判」しても人物に対する「批判」には同意しない。抽象理論というのは客観的存在だから、立場を越えて同意できる可能性がある。しかし、人物に対する評価は、視点が違えば異なる評価・対立する評価があって当然のものだ。だから立場を越えた同意という可能性はないだろうと思う。たとえば、左からは安倍総理という人物に対する「批判」は、その立場上いくらでもでてくるだろう。しかし、その「批判」に同意する右の立場の人間はどれくらいいるだろうか。左の人間は、客観的に安倍総理の間違いを指摘していると思っているだろうが、右の人間がそう思うとは必ずしも言えないのではないか。人物に対する「批判」というのは、論理的に真偽を決定できる問題ではなく、大衆動員的な運動として行うのだろうと思う。そういうものには、あまり真偽に関する関心はないのではないかと感じる。マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』を書いたと仲正さんは語っている。これはヘーゲル個人を批判したものではないのだろうか。これは違うと僕は思う。これは「ヘーゲル法哲学」という理論に対する批判なのだ。「法哲学」一般ではなく、ヘーゲルによって確立された「法哲学」だからヘーゲルの名前が付いているが、「批判」の対象になっているのは抽象理論なのであって、だからこそ客観的な真理だと主張できるのだと思う。抽象理論を「批判」するにはそれなりの教養と能力が必要だ。個人に悪口を言って罵倒するのとはわけが違う。少なくとも悪口や罵倒には教養が感じられない分だけ、まともな「批判」にはなっていないと判断してもいいだろうと思う。このようなマトモでない「批判」に対する仲正さんの次の感想は共感できるものだ。「それに加えて、私は自分の専門である思想・哲学の本だけでなく、軽いエッセイのような本も書きますので、読者の方から、その手の「批判」をネット上、特にブログ日記などで受けることが良くあります。こちらの言っていることをじっくりと読んで、理解しようと努力した上で批判するのではなく、先ほど述べました、学生さんや偉い人のように、さっと斜め読みしただけで、「たぶん、こう言いたいのだろう」と最初から決めつけて、「批判」すると言うことです。印象で決めつけているので、的はずれなことが多いです。著者としては、自分が言ったのではないことを「批判」されている感じがして、かなり不愉快です。出来たら、「反論」したいと思いますが、最初からちゃんと読まないで「批判」している相手ですから、のれんに腕押しになるのは分かり切っています。仮に、「私はそのようなことは言っていません。あなたの批判は△△の誤解に基づいています」と「反論」しても、「いや誤解ではない。私が△△だと理解したのは、あなたの表現の仕方が悪いからだ。誤解であるというのなら、あなたは、人に伝えられるような表現の仕方を学ぶべきだ」という感じで、のれんに腕押しどころか、よけいに傷つけられるような言葉がのしが付いて返ってくるのが目に見えています。だから、本を書いている人はあまり「反論」しないのですが、実際にはかなりストレスがたまっているのではないでしょうか。」相手をちゃんと理解するつもりが無く、最初から罵倒することだけが目的であれば、「反論」などは全く無駄になり、かえって罵倒の材料を増やしてやるだけのことになりかねない。だから、そういう相手は無視できるなら無視していた方がいいのだろうと思う。だが、そう出来ないときにどうしたらいいか、ということのヒントを与えてくれるのが、この仲正さんの『ネット時代の反論述』という本の内容らしい。次の仲正さんの言葉も、同じように理不尽な書き込みに腹を立てた経験のある人は共感するのではないだろうか。ちょっと長い引用になるが最後に引いておこう。こういうことを経験し・感じている人にとって、仲正さんのこの著書は心を静めてくれるのに役立つかも知れない。「これは本を書くことを半ば商売にしている特殊な人間の事例のように聞こえるかも知れませんが、これを一般読者として読んでおられる方の中にも、ブログなどのホームページで真面目な意見表明をしたつもりなのに、書き込み欄に、あまりちゃんと読んでいるとは思えない、文章の中の一言二言の特定の単語とかフレーズに対してだけ過剰に「反応」し、全体の文脈を明らかに取り違えているとしか思えない「不当な批判」を書き込まれて、不快に思ったという体験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。たとえば、「……は自己責任だと思います」という言い回しだけに着目し、どういう脈絡での「自己責任」を問題にしているのかよく読まないまま、反射的に、「自己責任というのは、弱肉強食の市場原理と結びついた危険な概念であり、そういう概念をこう言うところで不用意に使ってしまうあなたの危険な姿勢は……」という調子で、とうとうとまくし立て始める人がいますね。そういう人は、「自己責任」という言葉が権力者によって悪用されているという「強い信念」を普段から持っていて、たまたま、あなたのブログにその言葉を見つけたので、あまり考えずに反応してしまったのでしょう。 あなた自身は、その「自己責任」という言葉にあまり強い意味を込めて使ったわけではなくても、「自己責任」という言葉を批判したくて仕方ない人には、そういうことは関係ありません。「自己責任」という言葉を使ったこと自体が悪いのであり、無自覚的に使ったというのであれば、なおさら悪いと思ってしまうでしょう。日常会話でも、この手のボタンの掛け違え、過剰な深読みは良くあることですが、ネットでは「文字で書かれたもの」に対して「文字で書かれたもの」によって反応することになるわけですから、後で第三者的に読み直すと、行き違いであることが歴然としていることがしばしばあります。しかし、問題の一言を「批判」している人は、夢中になっていて、自分の見当がかなりはずれていることになかなか気づかず、見当のはずれたまま長々と書き込みがちです。ネット用語でそういうのを「脊髄反射」と言います。「条件反射」よりもさらに短絡的で、何も考えないで、反応しているという意味合いで、こんな言い方をしているのだと思います。 言うまでもないことですが、「脊髄反射」する人に「反論」するのはかなり困難です。というのも、相手はあなたの書いた文章を最初からマトモに読んでいないので、「反論」をちゃんと読んでくれるとはあまり期待できません。言いたい放題言って、すでに満足していて、もはや関心がないかも知れません。どうせ本人から面と向かって反論されるわけではない、たかがブログだと高をくくっているかも知れません。そう思うとよけいに腹が立って「反論」したくなりますが、相手がマトモに話を聴いてくれる期待が持てないので、徒労に終わる可能性大です。だから、なかなか「反論」は出来ない。ますます、ストレスがたまってきます。」普段から自分が思っていることを、実に適切に正しく表現してくれていると思う。だから大きな共感を覚えるのだろう。
2006.12.14
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仲正さんの新しい本を買った。僕が仲正さんを知ったのは、宮台氏と対談をしていたのを読んだり聞いたりしたことが最初だった。宮台氏に対しては、これはすごい人だと感じてから、その言説をもっと知るにつけその印象が強まっていくのを感じている。宮台氏の言い方を借りれば、すごさに感染しミメーシスを感じると言うことになるだろうか。その宮台氏との対談と言うことで関心を持ち、その語るところに共感するところが多かったのが仲正さんだった。宮台氏にはすごさは感じるのだが、親近感は感じない。それに対して、仲正さんには共感と親近感を感じる。これは内田樹さんに感じるものと似ているような気がする。宮台氏が語ることからは、「目から鱗が落ちる」というような新しさをいつも感じるのだが、仲正さんや内田さんが語ることからは、「ああ僕も前からそう思っていた」というようなことを改めて適切な表現をしてもらって確認するというような感じがしている。仲正さんや内田さんの表現には、ナイーブなベタな表現と言うよりも、皮肉っぽくネタで語ると言うところがある。そのあたりも何か共感し好きなところだ。これはigelさんがコメントの中で書いてくれたことにも通じるのだが、「この種のアイロニカルな矛盾に満ち溢れているのがわれわれの生きる社会というものの本質的な姿なのであり、それをどう扱えるかが論理には問われていると思います」と言うことを知らせてくれるものとして、特に僕の気に入るような表現になっているのではないかと感じる。さて、昨日購入したこの仲正さんの本で、共感した部分を抜き出して感想を記していこうと思う。まずは次のような文章に僕はとても共感する。「学校と名の付くところで「先生」と呼ばれる職業の人は多かれ少なかれ体験されていることだと思いますが、大学の学生さんも、こちらの言っていることをあまり真面目に聴いてくれないけど、そのわりには「批判」だけは一人前にしますので、非常に疲れます。 授業中に集中して話を聴いて、帰ってから予習・復習しなければ、「分かる」はずなど無いことくらい分かりそうなものですが、「僕たちが分からないのは、先生が分かるように教えてくれないからだ」、と一方的に言い張る子が多い。「君は、ちゃんとやるべきことをやっているのか」と聞き返しても、それに答えようとしないで、「だって、先生が勉強したいと思わせるような、真面目な教え方をしないから……」というような減らず口で返してきたりします。完全になめられている感じです。 最近、名古屋大学の速水敏彦先生が『他人を見下す若者たち「自分以外はバカ」の時代!』(講談社現代新書、2006年)という面白い本を出されましたが、私も授業中に携帯をいじっていたり、お喋りしたりしている行儀の悪い学生さんに注意して、屁理屈を返されるたびに、「バカにされてるなあ」とつくづく感じます。若者にそういう反応をされると、「教える」という仕事がつくづく空しくなってしまいます。でも、見方を変えると、そういう学生さんは、とにかく何が何でも「反論」すると言うことだけは、どこかで学習しているのかも知れませんね。」語り口は穏やかなのだが、ここに含まれている皮肉っぽさを理解すると、自分勝手な若者に対する痛烈な批判を読みとることが出来る。そしてそれが当たっていると感じるだけに、この皮肉っぽさにますます共感するという感じがしてくる。ここでの論理展開は、「あまり真面目に聴いてくれない」という前提があって、「だから分かるようにならない」という結論が導かれている。これは正当な推論であり、正しい仮言命題ではないかと思う。真面目に聞いていないと言う前提からは、どこか聞き漏らすという抜け落ちる部分が生じる。論理の展開において、論理の連鎖のどこかが抜けてしまえばそのつながりである「理論」を理解することは出来ない。だから、真面目に聴いていなければ、結論として「分からない」という結果が出るのは、事実と照らしても明らかだろう。この論理展開からは、「分からない」責任は、真面目に聴いていない学生自身にあるということになるのだが、「先生が分かるように教えてくれないからだ」と「「批判」だけは一人前に」する。これは、「真面目に聴いていない」という前提がなければ、このような「批判」が成立する場合もあるからやっかいだ。仮説実験授業研究会で分数の効果的な学習の授業を作った徳島県の新居信正先生は、自分自身が小学校の時に受けた「先生が分かるように教えてくれない」授業を反省して、本当に分かるようになる分数の授業を作った。新居先生が受けた教育は、分数が出来ない生徒を、放課後教室に正座させて反省させるというものだった。ここには 「放課後の教室で正座させる」 → 「分数の計算が出来るようになる」という仮言命題がある。これが正しくなければ、この教育の効果は証明できない。この仮言命題がバカげたものであることは共感してくれる人は多いのではないかと思う。これは、分数が分かるようになるには、「先生」が努力するのではなく、生徒自身が努力せよと言うメッセージを生徒に伝えているだけだ。おまえの努力によって出来るようにもなるし、出来ないままにもなる、というわけだ。これは、一面の真理を語ってはいるものの、教師の責任を放棄しているものであり、このような教育に対しては「先生が分かるように教えてくれないからだ」という「批判」は正当なものだろうと思う。「先生が分かるように教えてくれないからだ」という「批判」は正しい場合もあり、正しくない場合もある。それを、正しい場合があるということから、いつでも主張できるように錯覚していれば、正しくない場合に主張するような「屁理屈」を言うようになる。このような現象を見ていると、最後に語る「でも、見方を変えると、そういう学生さんは、とにかく何が何でも「反論」すると言うことだけは、どこかで学習しているのかも知れませんね。」という言葉が皮肉っぽく響いてくる。この学習はどうしてこうも効果的に習得されているのだろうか、という皮肉な感想だ。正しいものの考え方は習得が難しく、自分のエゴを満足させるような屁理屈はたやすく習得されるという、まるで「悪貨は良貨を駆逐する」というような現象の方が現実には多いと言うことの皮肉さを感じる。この話に僕が共感するのは、「学校と名の付くところで「先生」と呼ばれる職業」に僕がついているという理由もあるだろうと思う。実感としてよく分かると言うところがあるからだ。また、僕自身が生徒や学生であったときは、あまり先生の話をよく聞かない生徒だったから、聞かなければ分からないと言うことをごく当たり前のこととして受け止めていたので、分からないのは先生のせいだというようなことは思っていなかった。僕は関心のないものは勉強する気がなかったので、関心のない教科は、分かるところまでは先生の話を聴くが、分からなくなったら、勝手に自分で他の勉強をしていた。人間というのは個性を持っているから、自分の感性にうまく合うものでなければ、そう簡単に理解できるものではない。かなり苦労して勉強しなければならないだろう。だが、それほどの苦労をするよりも、他に勉強したいことはたくさんあったので、僕は関心のないものは理解することをある意味ではあきらめた。しかし、どこかでもう一度関心を持つことが出来るようになれば、その時に話を聴くようになれば分かるようになるだろうとも思っていた。「話を聴かなければ分からない」という命題は、「話を聴けば分かる」という命題と対になって正しいものだと思っていたのだ。そして、話を聞けるかどうかは自分の関心の高さにかかっている。だいたい大学生にもなって、自分の関心を自分自身で高めることをしないで、教師が教えてくれることによって得ようとすること自体があまりにも幼稚なのではないかと思う。仲正さんが空しくなるのが良く理解できる。仲正さんの話を僕が好きなのは、ここからいろいろな展開が出来て、自分の関心に従って考えが広がっていくからだ。ここから先のことは仲正さんが書いていることではなく、僕がここから触発されて考えることなのだが、「先生の教え方が悪い」というのは一つの告発として考えることが出来る。告発とその受け止め方と言うことで僕の頭の中には次のような想像が浮かんできた。アメリカは訴訟社会といわれているようだが、たぶん何かの告発をするときに、告発すること自体はたやすいのではないかと感じる。しかし、日本社会ではまだまだ何かを告発すると言うことは、社会の中で白い目で見られることが多いのではないかと思う。僕は、告発すること自体はたやすくできる社会がいいと思っている。自分が何か不当だと感じていることがあったら、そのような声がすぐにあげられる社会がいいと思う。我慢して和を保つという日本的な伝統はあまり好きではない。しかし、告発されたことは厳格な証明の下に裁きがなされるような仕組みが欲しいと思う。「先生の教え方が悪い」という告発がされたとき、本当に教え方が悪いのか、努力もせずに自分の責任を先生に転嫁しているだけなのかを、厳格に調べて欲しいと思う。そして告発そのものの方が不当であれば、告発したものを裁いて欲しいと思う。告発はたやすくでき、それをしてもいいが、それには重みがあるという風にして欲しいと思う。今はいじめ問題が関心を持たれていて、いじめに対しては厳罰化で対処するという方向が取られそうになっている。これはある意味では正しいと思う。いじめの告発はたやすくできた方がいい。いじめられている人間が、自分はいじめられているという告発がすぐに出来た方がいい。しかし、それが本当にいじめであるかどうかは厳格に証明するという仕組みも欲しい。これはかなり難しいと思う。ある現象がいじめであるかどうかを客観的に証明する方法はないのではないかと思う。そうすると、いじめられたと感じた人間の感性の方に頼ることになりかねないのだが、そうすると、普通以上に敏感な人間がいた場合に、いじめの冤罪が起こる恐れがある。実際には、いじめの告発が行われた場合、それがいじめであるかどうかはじっくりと時間をかけて判断すべきだろうと思う。そして、すぐに判断できる部分で裁きと厳罰化を考えるべきだろうと思う。すぐに判断できる部分というのは、暴力行為によってケガをしたとか、脅されて金を取られたなどということが証明できるときだ。これは、いじめかどうかが決定できなくても、「暴行罪」とか「恐喝罪」とか言う犯罪行為として裁くことが出来る。これに対しては警察権力を介入させて厳罰化せよと言うのが内藤さんや宮台氏の主張ではないかと思う。僕はそれに賛同する。告発はたやすく、判断は厳格にというのは、セクハラやドメスティックバイオレンスなどでもそうすべきではないかと思う。今は、告発の方はかなりたやすくなってきているので、判断の厳格さを考えて欲しいと思う。セクハラやドメスティックバイオレンスそのものが成立しているかを判断するのは慎重に、しかし、明らかに「暴力」が行われていると判断できるものは厳罰化すべきだと思う。それを親しい間柄や家族内のもめ事だからということで見過ごしていると、学校におけるいじめ問題のように解決が難しいものになってしまうだろう。仲正さんが語ることは、僕が考えていることと通じているので、それに共感し好きだと思う。
2006.12.13
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「バカ左翼」「バカフェミニスト」「バカ右翼」という言葉についている「バカ」という言葉は、非常にインパクトの強い響きを持っているので、それだけで反発を感じてしまう人がいるかもしれない。だが、内藤朝雄さんや宮台真司氏が語る意味での「バカ」とは、単純な「愚かさ」を指しているのではないような気がする。つまり、あいつは「バカ」だと言って切って捨ててそれですむような存在として考えているのではないような気がする。これらの「バカ」という形容詞をつけて呼ばれる存在の一番の問題点は、本人の善意にもかかわらず、それが戦略的に利用されて結果的には敵を利することになるという点にあるのではないかと思う。そして「バカ左翼」と呼ばれる人たちは、決して単純な意味で「愚か」ではないからこそ利用価値があり、敵を利するに効果的に働いてしまうのではないかと思う。このような意味で「バカ」という言葉の意味を感じたのは、今週配信されたマル激での教育基本法「改正」問題と愛国心問題を聞いたからだ。マスコミの報道や、左翼の運動に関するものでは、教育基本法「改正」の問題は愛国心の問題が一番大きなものとして宣伝されているように見える。ほとんどそれのみが問題ではないかという過剰な反応のようにも見える。しかし、本当に大事なことはそこにはない、というのがマル激の議論だった。愛国心問題は、むしろ国民の眼を逸らすためのカムフラージュの役割をしているのではないかという指摘をしていた。そして、国民の眼を逸らすために有効に働いてくれている人間たちが、「バカ左翼」であり「バカ右翼」だという風に見ているのではないかと感じた。これらの人たちが「バカ」と呼ばれているのは、本質を見ないで末梢的なところの方を重視していると言うところに一種の「愚かさ」を見ているのではないかと思う。マル激の議論では、もっと重要な点は教育の地方分権と言うところにあり、今の教育の荒廃や問題を解決するためには、それを正確に把握できない文科省のような大きな組織の権限を減らして、問題の細かいところを把握して考えることの出来る地方単位の小さな組織に権限を移譲することが必要だと言うことを語っていた。これは非常に説得力のある議論だと思った。これは文科省の権限を減らすことになるので、省益という観点からは文科省は反対してくるだろうと思われる。それに対して、省益というエゴを跳ね返すのは、国民世論という背景で文科省に対抗しなければならない。そして、この本質を知れば、その説得力に国民世論は文科省のエゴを見抜くだろうと思われる。文科省としては、この本質的な問題から眼を逸らすことが省益の一つになる。そこで愛国心教育の問題になるのだが、文科省としてはこの問題は眼を逸らすためのネタとして出しているだけではないかという解釈が出来る。そもそも愛国心教育などというものは、そんなもので本物の愛国心が育つなどと言うことは、真正右翼ならむしろ反対するようなお粗末な内容を持っている。日の丸に敬礼させて、君が代を歌えば愛国心が育つと言うことを論理的に正しいと理解する人はいないだろう。真の愛国心は、そのような形の問題ではなく、内心の問題なのだ。愛国心教育に対して、感情的に吹き上がる「バカ右翼」はいるかも知れないが、マトモにものを考えられる人間だったら、そのような愛国心教育のデタラメさの方をこそ理解するだろう。こういうバカげた提案をなぜ文科省は出してくるのか。文科省が頭が悪いからだとする解釈もあるが、そのように捉えると相手を見くびりすぎるのではないかと思う。文科省が省益しか考えないエゴイストの集まりだとしても、本当に短絡的な愚かさだけしかないのだろうか。実はこれは戦略的に愚かなふりをしているのだと見ることが出来ないか。愛国心教育が本当に成果を上げるなどということは、文科省自身も考えていないのではないだろうか。だから、最終的にはそれが否定されたとしてもそれでいいと思っているのではないだろうか。むしろ、国民の目がそこに向いている間は、教育の権限の分散という文科省の省益の本体に関わる問題は議論されずにすむという大きな利益が得られると考えているのではないだろうか。国民世論がこの愛国心教育を拒否しなければ、この問題は引き続き戦略的に利用し続けられるし、拒否されたとしても重要な目的は達成されたと考えるのではないだろうか。もしそうであるなら、文科省は頭のいい戦略を考えているものだと思う。この文科省の戦略に利用される人々は、どれほど善意にあふれていて、頭脳の明晰さを見せようとも「バカ左翼」「バカ右翼」と呼ばれる理由があるのではないだろうか。それは、文科省の頭の良さを見せてしまうという結果に結びついたときは、比較という意味でも「バカ」と呼ばれる理由があるのかも知れない。このように、愛国心教育の問題が、人々の目をそらせようとする戦略ではないかと感じるのは、それがあまりにもお粗末な愛国心の定義のように感じるからだ。だから、そのようなお粗末さを取り上げて反対するのなら、愛国心教育そのものがいけないという批判ではなく、真の愛国心教育はそういうものではなく、具体的にはこういうものでなければならないというものを提出する必要があるのではないだろうか。だが「バカ左翼」の対応としては、愛国心教育を叫ぶ「バカ右翼」に対して、愛国心教育がいけないと言うことを対置するだけのように見える。それでは、「愛国心など持たなくてもいいのだ」と主張しているように受け取られてしまう。これは多くの人の賛同を得るような主張にはならないだろう。愛国心は右翼の専売特許だから、そんなものは否定するのが左翼だと単純に考えているなら、やはり「バカ左翼」と呼ばれても仕方がないだろう。ネタで振ってきた愛国心教育が愚かなものであるなら、真の愛国心教育を対置することこそが正しい批判ではないかと思う。そうでなければ、利害から距離を置いた人々からは、両方ともバカげたことを言っていると見えるだけではないかと思う。一般の国民に、教育基本法「改正」問題の議論がバカげたものであると映れば、人々はそれに対する関心を失うだろう。そうすると、わずかだけでもその「改正」に賛成する人々が多ければそれは「改正」されてしまうと言うことになってしまう。あるいは、バカげたと思われている部分が「改正」されずに、人々が良かったと胸をなで下ろしていても、本当に改正すべき点がそのままで残されたら、そうしたいと思っていた文科省の意図は達成されたと言うことになるだろう。文科省が頭のいい戦略的な人間の集まりだと考えるなら、「バカ左翼」と「バカ右翼」は実にありがたい存在だと思うだろう。これは、両方がいてその効果が本当に発揮されるという存在だ。そして、本当の目的が達成された段階では、文科省としては「バカ右翼」とは関係がないという姿勢を見せるために、それを容赦なく切り捨てるということも出てくるだろう。本当の戦略から言うとそのようなことがあって、戦略というものは完成するだろうと思う。宮台氏が『バックラッシュ』(双風舎)の中で次のようにも語っている。「ちなみに、実際に日本全体が急速に国粋主義化し、軍部へと権力が集中するに連れて、すでに戦前の段階で簑田胸喜は用済みになり、敗戦後は首をくくります。「新しい歴史教科書をつくる会」の顛末も似ているようです。男女雇用機会均等化から援助交際化まで含めて、実社会のリベラル化が進むように見えた中で勃興した「つくる会」は、小泉自民党的な右傾化の中で用済み化し、今や会の中で「田吾作のツバぜり合い」があるに過ぎません。」権力の中枢の側では、「バカ右翼」は利用できる賞味期限が過ぎれば容赦なく捨てられる運命にある。それは、本格的な右翼化が達成されればもう必要なくなるものなのだ。過渡的に左翼的な力が伸びてきたときにその芽を摘むためにこそ「バカ右翼」は戦略的に必要なのだ。この「バカ右翼」に短絡的に反応する「バカ左翼」がいたとき、国民世論は急速に左翼的なものから離れていく。内藤さんが指摘するように、「バカ左翼」こそがリベラルの側にとっては諸悪の元凶というものになる。左翼は、「バカ右翼」に短絡的・感情的に反応するのではなく、「それは真の右翼ではない」という批判をして、「真の右翼」とこそ論争をしなければならない。そして、真の右翼が論理的に正しいのであれば、それをどんなに感情的に受け入れがたいと思っても論理に従うべきだと思う。「バカ右翼」を相手にしていると、とても論理的には受け入れがたいものになってしまうので、それを叩くことしかできなくなる。しかし、たたき合いに反応していたら、どんなに優れた頭脳を持っていても結果的に「バカ左翼」になってしまうかも知れない。「バックラッシュ」というのも、「バカ右翼」による理不尽なバッシングがほとんどだろうと思う。それに対して、同じようにたたき合っていたら、おそらく「バックラッシュ」を利用しようとする本当に頭のいい人間の思うつぼなんだろうと思う。論争が、「どっちもどっち」というたたき合いに見えないようにする工夫をしなければならないと思う。「バカ左翼」「バカ右翼」を利用して利益を得ようとする人間は、頭のいい人間ではあるに違いないが、自己の利益を最優先するエゴイストであり売国奴であることは間違いないだろう。思想的にはたとえ右と左という対立を持っていても、このようなエゴイスト・売国奴こそが、本当は正しく生きようとする人間の敵ではないのだろうか。右と左、どちらの立場であろうとも、真に深く正しいものを求めると言うことを忘れないようにしたいものだと思う。僕の場合で言えば「バカ左翼」にはならないように、現実を見つめていきたいと思うものだ。右翼は「バカ右翼」を切り捨てるのにあまりためらいを見せないようにも見える。用済みになったものが捨てられるのをよく見るような感じがする。それに対し、左翼は「バカ左翼」であってもなかなか切り捨てられないところも感じる。それは左翼の優しさでもあるのだろうが、闘争には負ける結果になる。権力を持たない側が、その主張に愚かさを持っていたら、たぶんその闘争は絶対に勝てないだろう。「バカ右翼」は右翼の側にとって利用価値があるが、「バカ左翼」は、左翼の側にとっては弱点以外にはならない。内藤さんが言うように、この問題は左翼にとって重要なのではないかと僕も感じる。同じように、フェミニストにとって「バカフェミニスト」の問題は重要だと思うのだが、これは「バカ左翼」の問題と同じ構造を持っていないだろうか。
2006.12.12
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瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに関する最後の雑感として論理や仮言命題の「限界」あるいは「不完全性」について考えてみようと思う。結論から先に行ってしまうと、「仮言命題」というものを、命題論理・あるいは述語論理の範囲で考えるのならば、その論理世界の中では限界もないし完全なものであると僕は考えている。限界が生じるのは、論理世界から外に一歩を踏み出して、論理を適用する世界を広げたときに、適用に限界が出てくると言うことが起こる。つまり、適用出来ない対象に「仮言命題」で表現されている論理を適用してしまったという誤謬が生じる可能性があるだろう。もう一つの不完全性というのは、論理を適用する世界の無限性に関わって、対象の属性の無限性が把握出来ない側面において、論理だけでは結論が出せないような事柄が発見出来て、その部分では真とも偽とも結論出来ないと言う「不完全性」が発見出来ると思う。このように、論理というものが論理だけの世界を踏み出して、対象世界を広げたときには適用の限界と不完全性が生じる。しかし、論理がその対象が命題であるという属性のみを扱う、他の具体性を全て捨象してしまった世界にとどまるなら、論理はその世界では完結したものになり、完全な存在になると思う。ゲーデルは算術の公理系(つまり自然数論)においてはそれが不完全であることを証明した。それは、その体系が矛盾を含まなければ、証明が出来ない命題が存在すると言うことだ。公理系においては証明をすることによって真であることが決定出来るから、真であることが決定出来ないと言う「不完全さ」がここにあるということになる。ついでに付け加えておくと、矛盾を含んだ体系においては、全ての命題が証明されてしまうので不完全さはなくなる。だが、どんな命題でも証明されてしまうので、この場合は証明することに意味が無くなってしまう。意味のある体系であるためには矛盾が生じないことが言えなければならない。矛盾が生じないという無矛盾性に関しても、命題論理・述語論理という論理だけの世界ならそれが証明される。この意味でも、論理だけなら限界はないし完全であると主張することが出来るだろうと思う。そもそも「限界」と呼ばれるものはどのようなものとして考えられているのだろうか。それはある種の境界を語るものではないのか。その境界を越えて「あちら側」へ行こうとすると失敗するという現象が見えたとき、それを我々は「限界」と呼ぶのではないだろうか。「あちら側」へ行ったときに失敗をせずにすますことが出来たら、それは「限界」とは呼ばれないだろう。また、今までは失敗を続けていたが、初めて失敗せずに境界を越えることが出来たら「限界を超えた」と言われるのではないだろうか。問題の本質は、境界線とそれを越えるかどうかと言うことにかかっている。境界線が明確になっている事柄に関しては、その境界線を越えたら必ず「限界」を感じることになるだろう。それは、境界線というものの認識をよく考えれば明らかだ。それを越えたら失敗するところが境界線なのだから、それが明確に分かっているのなら、境界線が「限界」になるのは全く明らかだ。この境界線が明確になっていないときは、それを越えて「あちら側」に行ってみることは一つの冒険になる。そして、冒険がうまくいったときには、その人は先駆者として尊敬されることにもなるのだろう。逆に無謀な冒険をしている人間は、限界を自覚しない愚か者といわれるかも知れない。境界線が知られていないときに、境界線を確定するための努力をする人は、認識の進歩に貢献することになるだろう。ウィトゲンシュタインが「思考の限界」を定めようとしたのは、思考の境界線のあちら側を確定しようとしたのだと思う。しかし、思考の境界線のあちら側は、その定義から言えば思考することが出来ない。思考によっては境界線を捉えることが出来ない。限界を知ることが出来ないのだ。だから、思考は常に限界を超えて、思考によっては捉えきれない失敗をする可能性を持っている。だが、境界線が明確ではないので、それを越えたかどうかは知ることが出来ない。そこで、ウィトゲンシュタインは、思考の際に常に言語が使われていることから、思考の限界と言語の限界が重なると考えて、言語の側の境界線を引こうとした、というのが『論理哲学論考』の問題意識だというのが野矢茂樹さんの指摘だった。我々が表現出来るものと表現出来ないものとの境界を求めようとした。というのが言語の限界を定めるというものだろう。思考というものは論理と重なる部分が多い。そういう意味では思考の限界と論理の限界は関係があるだろうと思う。だが、思考の対象を論理のみに限れば、それはやはり限界がない、完結した世界と言えるのではないだろうか。それは、境界線が存在しないという意味では、球面のようなイメージではないかと思う。同一方向へどこまで行っても境界線にぶつかることはない。だが、やがては元いた場所と同じ地点に帰ってくる。これが僕がイメージする完結した世界のイメージだ。球面という2次元の世界ではそこに限界を見つけることが出来ない。一つ次元をあげて3次元の世界に入ったときに、その球面から抜け出られないという限界が生じてくる。思考の対象を、論理の世界から、現実に存在するもの、あるいは抽象化したものであっても具体的な自然数を対象とした世界を取り込むと、今まで見えなかった一つ上の次元の限界が顔をのぞかせてくるのではないだろうか。「A→(ならば)B」という仮言命題が、現実の事実と整合性を持たないと言うことは、論理の限界ではない。その適用を間違えているだけの話だ。論理の教科書には、次のような推論が良く出てくる。「1 女性には出産能力がない 道元は女性である それゆえ、道元には出産能力がない 2 魚は水中を泳ぐ イワシは水中を泳ぐ それゆえ、イワシは魚である」(『論理学』野矢茂樹・著)1で語られている「道元」という名の人物は普通の意味では男と呼ばれている。だから、1の推論における命題は、3つのうち前提の2つは間違っている。だが、「それゆえ」で導かれる結論は正しい。それに対して、2の推論で語っている3つの命題は、2つの前提も結論もともに正しい。それでは、1の推論が間違っていて、2の推論が正しいのかと言えば、これは全く逆だ。推論としては1が正しくて2が間違えている。推論というのは、論理の形式に対して語るのであって、個々の命題の内容については何も言及しない。個々の命題が正しいかどうかは、推論という論理の対象では捨象されているのだ。推論において重要なのは、個々の命題が正しいかどうかではない。その前提がもし正しい命題であったなら、正しい推論から導かれた結論は全て正しいと主張出来るものが、論理としての正しさというものなのだ。だから、個々の命題が正しくないと言うものは、論理の限界ではないのだ。それは正しくない命題を用いて推論をしたという適用に問題があったということだ。だいたいにおいて論理を適用するのは、結論としての命題が直接証明出来ないときに、証明出来る命題の組み合わせで、直接証明出来ないことの真理性を確定しようという意図が働いたときに適用するものだろうと思う。結論が現実との整合性を持たないと言うことが、論理ではなくて事実を照合すれば分かるときには、そこには論理を使う意味がない。個々の命題に間違いがあるときは、論理の適用の限界が露呈されるが、それは決して論理そのものの限界ではない。論理は、命題が正しいかどうかには関係なく成立する法則として完結しているのである。 A →(ならば) Bという仮言命題は、このままでは真理であるか無いかは決定出来ない。それは捨象されているので、AやBの命題を具体的に考えて、現実にそれを適用したときは、AやBの真理性によって、この仮言命題の真理値が変わってくる。これは、仮言命題の限界ではない。適用によって、Aが真であるにもかかわらず、Bが偽になればこの仮言命題の全体は偽になる。それは仮言命題の限界ではなく、それこそが仮言命題が意味するところなのだ。Aが偽になるときは、この仮言命題の全体は真になる。つまり、その時はBが真であるか偽であるかは、この仮言命題からは決定出来ない。しかし、これは限界ではないのだ。単にそのような場合は捨象されていると言うことに過ぎない。 「母親に子どものシグナルが読める」→「子どもにおむつは要らない」という仮言命題の真理性に関しては、ある特定の母親については、その母親が常に子どものシグナルを正確に読んで、おむつが無くても服を汚さずに処理していれば、「おむつは要らない」という結論を導いてもいいだろう。つまり、個別の対象に関する仮言命題は、個別の現象を観察することで事実的に証明出来る。これが100%の完全性が無くても成立すると言うことを主張したいときは論理が必要になってくる。「子どものシグナルが読めない」と言うことがあった場合、いくつかを特殊な場合として設定しておけば、これは特殊な場合だから捨象するという論理が使える。それが特殊な場合であるというのは設定されるものだから、証明することは出来ない。つまりあらかじめこれは正しいという前提で考えるという宣言をするものだ。その時、その正しいと宣言されたものから導かれる結論は正しいと考えることになる。これは論理による正しさだ。また、個別の母親ではなく、「任意の母親」に対して上の仮言命題を主張したいときは、そこにも論理の適用の問題が生じる。その「任意性」をどう捉えるかをあらかじめ設定して宣言しておかなければならない。そして、この「任意性」は客観的に正しいのだと言うことを証明出来るものではない。そう考えるという前提として設定するものだ。直接証明出来る問題は論理の問題ではない。直接証明出来ないからこそ公理のように前提として宣言するときに、それは論理の問題になる。そして、将来この公理的な前提が否定されたとしても、それは論理の限界を示すものではない。前提が間違っていても、論理は依然として正しい。論理は、前提の正しさを捨象しているからだ。それは、論理の限界ではなく、論理の適用の間違いであり、論理の適用には限界があるということを示すだけなのだ。
2006.12.11
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瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている「因果関係」というのも気になるものの一つだ。瀬戸さんは因果関係については詳しく語ってはいないが、これは仮言命題と深く関わっていると僕は理解している。あまりはっきりとは覚えていないのだが、ヒュームは因果関係の存在を否定したと記憶している。これは、それを実体として存在すると考えるのなら、否定されるべきだろうと僕も思う。つまり、因果関係というものを物質の属性として捉えようとすると、そんなものは存在しないと言わないわけにはいかないだろうと思う。関係というのは実体ではない。あくまでも人間の認識の中に存在する、もののとらえ方の方を指す。だから、それが物質の客観的なあり方だと思ったら間違えるだろうと思う。その意味で瀬戸さんが語る「原因が必然的に結果を引き起こすという関係は存在しない」という言い方は正しい。しかし、ある現象に関して仮言命題が成立する、つまり A →(ならば) Bという命題が成立すると判断したら、このときは認識の中に「Aが成立したときは必ずBが起こる」という判断が存在する。この「必ず起こる」と言うことを「必然性」の定義とするなら、AとBの間には「必然性」が存在すると認識していることになる。そして、この「必然性」を、AとBとの「因果関係」だと定義すれば、この意味で「因果関係」の認識が存在すると言うことが出来る。つまり、「因果関係」は物の属性として、人間の意思と独立に存在はしないが、物と物との存在の関係として意思の中に認識としては存在すると僕は考えている。その認識を支えるのは、仮言命題が成立するかどうかと言うことにかかっている。仮言命題が成立するときに、人間はその両者の間に「必然性」が存在し「因果関係」が存在すると認識するのだと思う。同じ現象を見ても、そこに仮言命題が成立するという視点を持っている人間は、そこから「因果関係」を読みとるが、それを成立しないと受け取る人間には「因果関係」はないと判断するだろう。問題は仮言命題の証明の方だが、これは前件Aが成立するときに限って考察を進めていけばいい。なぜなら、前件Aが成立しないときは、自動的に仮言命題は真となるからである。前件Aが成立しないときは考察から省くことが出来る。対象が有限個である場合は、帰納的な方法で一つ残らず確かめてみればいい。Aが成立する場合が有限の範囲に限られるなら、その時に必ずBが起こるかどうかを経験で確かめることによって仮言命題「A→B」が成立するかどうかを確かめることが出来る。しかし、Aが成立する場合が無限の可能性を持っているときは帰納的な方法では成立を確かめることが出来ない。それではこの場合にはもはや仮言命題が成立しない、従って「必然性」や「因果関係」は存在しないと結論していいのだろうか。現実ベッタリの論理展開をしてしまえばそのように言うしかないだろう。現実を常に肯定する人間は、「必然性」や「因果関係」の認識は持てないといった方がいいかも知れない。「現実とはそういうものだ」と、現実をあるがままに受け入れる人間は、そこに法則性を認識することは出来ない。無限の対象に対して仮言命題の成立を主張するには、そこに抽象の過程を経て、有限の場合を確かめたことが無限の場合を代表するような構造を持たせる必要がある。それが「仮説実験の論理」と呼ばれるもので、ある仮言命題を一つの仮説と考え、それを未知なる対象に対して成立するかどうかを問う実験を行う。この場合「未知なる対象」と言うところに「仮説実験の論理」の本質がある。既知の対象であれば、実験の結果は実験の前に分かってしまう。しかし、未知の対象であれば、実験をしてみなければどういう結果が出るかが分からない。そして未知の対象というのは、特に選ばれた対象ではない。偶然それが未知であったと言うことから選ばれている。ここに「任意性」を代表していると見るのが「仮説実験の論理」である。未知の対象によって「任意性」が確認された仮言命題は、よほどの特殊な対象が選ばれない限りは、一般的に成立することが主張出来る。その時「仮説」は「科学」になる。つまり、条件付き(真理の「領域」が限定されている)の真理となるのである。エンゲルスは、どこかで太陽系の星の間に働く力学的な法則について、未知なる惑星の発見がその真理であることの証明をしたというようなことを記述していた。これなども、未知なる存在が「任意性」を代表するからこそ、それが「仮説」ではなく「真理」となったという判断になっているのだと思う。因果関係で思い出されるのは、マル激で議論していた「狂牛病」についてのものだ。「狂牛病」は、異常プリオンが原因で起こると言われている。つまりここには、仮言命題として 異常プリオンが発生する → 狂牛病を発症するが成立していると考えられている。だが、マル激ではこれに疑問を投げかけていた。それは、この仮言命題を証明する方法がないからではないかと僕は感じる。狂牛病というのは、それが発症する前に発見されたことはないのではないか。それが発症して、牛の行動がおかしいと言うことが明らかになって初めて、その牛が狂牛病であると判断されるのではないだろうか。上の仮言命題が証明されるには、狂牛病が発症する前に異常プリオンが発見される牛がなければならない。つまり、狂牛病にかかる前に牛の検査をしなければならないだろう。その中で、発症をしていないが異常プリオンが発見された牛に必ず狂牛病が現れるなら、この仮言命題の正しさが証明される。前件が成立するときに必ず後件が成立するならば、その仮言命題は正しいものとなるからだ。これは現実には難しいと思われる。現実にはむしろ次のような仮言命題が確認されているのではないか。 狂牛病が発症した → 異常プリオンが見つけられるつまり、異常プリオンの原因として狂牛病の発症が確認出来るという因果関係は見られるということが言えるのではないかと思う。狂牛病発症の原因というような因果関係は求められていないのではないかと感じる。それでも実践的には何らかの対策をしなければならないので、 異常プリオンが餌として与えられる → 食べた牛が狂牛病にかかるという仮言命題が確認された後に、牛に牛を食べさせると言うことが禁止されたのだろうと思う。狂牛病の本当の因果関係は分からないが、感染の因果関係はつかめたので、それが広がらないような対策が出来たと言えるのではないかと思う。これは「因果関係」という認識がなければ出来ない対策ではないかと思う。だから、認識の中には確かに「因果関係」は存在するのだと思う。この因果関係というのを仮言命題と結びつけて考えると、個別の事実に関しては因果関係の成立は言えないと言うことになる。仮言命題というのは、 A → Bという形をしていて、Aが成立するときは必ず、Bの成立が言えるというものだ。これがただ一つの対象「領域」しか持っていなかったら、「必ず」と言うことの意味が分からなくなる。これが複数の対象を持っている「領域」なら、どの対象に関してもという「任意性」が「必ず」という言葉の意味になる。だが、対象がたった一つしかなければ、それがたまたま成立している偶然のことなのか、いつも成立する必然のことなのかの区別がつかない。因果関係は、いつでも仮言命題と結びつけられているのではなく、場合によって感情的に納得するかということとも結びつけられているだろうが、個別の場合には、論理的には因果関係は主張出来ないと捉えると、世の中の見方が変わってくる。例えば、いじめが原因で自殺が起きると言うことも、これは個別の場合には論理的には言えないことになる。むしろ、これは「ひどいいじめを受けた子どもたちは、自殺をしたくなるほど追いつめられる」と言うことが、一般的に仮言命題として主張出来るかどうかを考えることが正しい判断をもたらすのではないかと考えることが出来る。もしこのことが一般的に確かめられたなら、この仮言命題が語る必然性において、「いじめが原因だ」という因果関係の判断が出来ると思う。つまり、ひどいいじめを受けていた子どもは、よほどの特殊な事情がない限り、自殺という事態に至ったのなら、それはいじめが原因なのだと言うことが原則的な了解になる。いじめが原因かどうかを証明するという発想ではなく、特殊な事情があればいじめが原因でないと言えるという発想になるわけだ。因果関係を仮言命題と結びつけて認識するというのは、何が原則的な判断なのかと言うことをもたらすのではないだろうか。仮説実験授業の「ものとその重さ」の授業では、「ものには全て重さがある」と言うことを原則とする。すなわち 物質として存在する → その存在には重さがあるという仮言命題が成立することを前提として、物質としての存在が確認出来るという原因が求められれば重さがあるという結果が導かれるという因果関係の認識が存在する。このような原則の下に思考すると、空気中を上昇していくようなヘリウムガスを入れた風船は、この原則を否定するのではなく、原則を守るためにそれは特殊な存在だと考えることになる。普通の物はみな空気より重いから「重さ」が見えるが、空気より軽い特殊な存在は「重さ」が見えなくなるだけだと考える。どのような仮言命題が成立するかを考えるのは、自分がどのような原則を持っているかを知ることになるだろう。僕は、国家権力というのは民衆を弾圧する存在であるという仮言命題が正しいと考えている。自分が知っている国家という存在は、たいていが民衆を弾圧する姿を発見出来る。そうでない国家はよほど特殊な存在であるか、民衆を騙しているかどちらかだと考える。しかしそういう認識をしない人もいるだろう。そういう人と僕との間にある違いは、原則的な認識としての仮言命題にあるのだろうと思う。そして、それが成立するかどうかの現実的な分かれ目は、そこで主張されている事柄がどのように抽象(=捨象)されているかということに関係している。国家という存在の抽象過程の違いによって、国家が常に民衆にとって危険な存在になるかどうかが決まる。抽象過程の違いによっては、国家は民衆にとって役立つ存在だと抽象出来ることもあるだろう。このときに、どちらが正しいかと言うことを論理的に決定することはおそらく出来ない。抽象の過程が正当なものであれば、それはどちらも正当性を主張出来るものになるだろう。因果関係というのも、抽象の過程に正当性があるなら、それは現実に正当性を主張しうる命題になるのではないかと思う。
2006.12.11
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『バックラッシュ』(双風舎)の中の斉藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という言説における内田樹批判の部分には「方法論批判」というものが含まれている。この方法論批判というのはある種の使いやすさがあるが、方法論というのは全ての言説に適用出来るという面があるので、敵を切った刃が自らをも斬りつけるという危うさを持っている。斉藤さんは、内田さんに対する批判の前に八木秀次批判も語っているが、これは八木秀次氏の言い方に対する「方法論批判」ではなく、語ったことという客観対象に対する批判になっている。その内容は次のように語られている。「たとえば同書の共著者である八木秀次がひところ女帝容認論批判に当たって、男系でなければ神武天皇以来の「Y染色体」の系統が絶えてしまうと言う、ほとんど失笑ものの疑似科学的論法を展開した経緯を見れば十分だろう。」ここで指摘しているのは「Y染色体」というものに関する知識に対してで、その間違いを批判している。内容を十分確かめることが出来ないが、この指摘はおそらく科学的な知識の間違いとして正しいのだろうと思う。調べればどちらが正しいかは決定出来るものだと思う。そして、「バックラッシュ」言説のほとんどは、このように間違いの指摘が比較的簡単に出来るものが多いのだろうと思う。「方法論批判」ではなく、具体的な言説の内容に対する批判であれば、それを客観的に正しいかどうか判定することが出来る場合が多いだろうと思う。問題は、内容的な批判が難しいときだ。内容的になかなか間違いを指摘することが難しければ、その批判の仕方という「方法論」を批判したくなる誘惑が出てくるのではないかと思う。だが、これはかなり慎重にしなければ失敗する恐れがあるのではないかと思う。斉藤さんは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章を批判的に取り上げている。しかし、その内容そのものの批判は見あたらない。語っていることのここが間違っているという指摘による批判ではない。斉藤さんの批判は次のようなものだ。・(内田さんは)「正義の人」を批判している。(内容的にはフェミニズム批判ではない)・「そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。」・「内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行」っている。(これは「為にする議論」である)これは内容に対する批判ではなく、方法に対する批判となっている。そしてこの「方法論批判」は斉藤さんの言説にもそのまま適用出来てしまう。斉藤さんは「バックラッシュ」の批判をしている。「バックラッシュ」する人々=反フェミニストではない。そうであるなら、「バックラッシュ」の代表に内田さんを持ち出す必然性はない。内田さんの「正義の人」批判にフェミニストが登場することがおかしいのなら、同じような理由で「バックラッシュ」批判に内田さんが登場するのはおかしいように見える。ここにも「必然性」というものは無い。ここには一般的(抽象的)な意味での必然性はないが、個人的な意味での必然性はあるだろうと僕は感じる。内田さんはフェミニストが嫌いなのであるから、そのような個人的な理由から「正義の人」批判にフェミニストが登場してくる個人的な必然性はあると思う。僕なら「差別糾弾主義者」を「正義の人」の代表にするだろう。内田さんの言説にフェミニストが登場するのは、一般的な意味では偶然だが、個人的な意味では必然性があるだろうと思う。同じように斉藤さんの「バックラッシュ」批判に内田さんが登場するのは、一般的な意味での必然性はないが、個人的な意味での必然性は存在するだろうと思う。斉藤さんが内田さんを嫌いなのかどうかは聞いてみなければ分からないが、気にかかる人間だからこそ批判の対象として登場してくるのだろうと思う。ここで内田さんの言説の内容に批判すべき内容が含まれているかどうかは、・「正義の人」に批判されるべき点が存在するかどうか。・「正義の人」と「フェミニスト」に共通点が存在するかどうか。・「フェミニスト」の一人として取り上げられている田嶋陽子という人物は「フェミニスト」と呼べるかどうか。ということが肯定的に言えるかどうかにかかっている。そして、この2番目の判断においては、内田さんが定義する「フェミニスト」という言葉に従ってこの言説を受け取らなければならないとしたら、これらは肯定的に判断せざるを得なくなる。つまり、内田さんの言い方は、ここが内容的には完全に間違っているという指摘が難しい言説になっているように感じる。だから、その方法論を批判したくなるのだが、これは批判することそのものが、また同じような方法を使っての批判になるというジレンマのような問題を引き起こすのでやっかいだ。相手を切る刀で自分も切れてしまうという結果を招きやすい。斉藤さんは、村上春樹の小説の中で戯画的に表現されたフェミニストに対しては、文学作品・それも小説の中での姿と言うことで一定の理解を示す。そしてそれとの比較で、思想家としての内田さんの表現は、戯画的に語っていたとしても小説家のそれとは違って批判されなければならないという指摘もしている。これは、小説の中であれば、それが戯画的に描かれていることがそこまでのストーリーの展開という文脈で誤解無く伝わるからという理由で理解を示しているように感じる。そのような文脈なしで、戯画的な姿だけをさらすことに対しては、思想家の文章としては批判されるべきだという指摘だ。しかしその指摘も、内田さんがあえてそのような戦略で、戯画的な表現を使っているとしたら、この批判も弱いのではないかと思わざるを得ない。内田さんは、「うほほいブックレビュー」の中で『フェミニズムの害毒』(林道義、草思社、1999)について書いた文章の中で次のように語っている。「私は林とおおすじでは意見を同じくするが、戦略はだいぶ違う。私はくやしい思いをするのがいやだし、感情的になるのもいやだし、自分が「よくない」と思う人の本を批判のためにがりがり読み込むというのも気が進まない。私は論争しない。フェミニストが論争をしかけに寄って来たら裸足で逃げ出す。フェミニストに言い込められたらくやしいし、私がフェミニストを説得して彼女たちの理論的過ちをみとめさせる可能性はゼロだからだ。無駄なことはしない。」つまり、内田さんは、「フェミニズム批判」というものを、実は「批判」という形の論理では書いていないのである。エッセイとして、いわば文学の範疇で感想を語るという形で皮肉っぽく書いているに過ぎない。内田さんの基本姿勢は、「私はフェミニズムが社会を活性化する対抗イデオロギーにとどまる限りその有用性を認め、それがある程度以上の社会的影響力を行使することに対しては反対する」というものだ。斉藤さんが批判の対象としていた内田さんの文章にしても、そこでは「フェミニズムが嫌い」と言うことを書いているのであって、「フェミニズムが間違っている」という批判としては一言も書いていない。だから、この言説を批判の対象にするのは極めて難しいのだ。そこには批判すべき主張が語られているのではなく、「嫌い」という感情が語られているだけだからだ。「嫌い」という感情が間違っていると指摘してもそれは仕方がない。何の意味もないものになってしまう。斉藤さんは、内田さんは「自分に対する批判には一切回答しないと公言している」つまり、批判を受け付けないものとして捉えている。これは、戦略的にも、批判が出来ないような言説を書いていると言うこともあるのではないかと思う。このような戦略はやり方として卑怯だとか言う感想はあるかも知れないが、戦略としては存在は否定されないだろう。内田さんは、「私がフェミニストを説得して彼女たちの理論的過ちをみとめさせる可能性はゼロだ」と自覚している。だから、この戦略はこれからも変わらないだろう。内田さんは「フェミニスト」の間違いを指摘することはない。しかし、ここは嫌いだということはきっと言い続けるだろうと思う。内田さんは、自分の感情を皮肉っぽくネタで語っているに過ぎない。それをベタに受け取って「フェミニズム批判」だといきり立って反論してしまえば、それは内田さんの戦略にはまってしまっているのではないだろうか。内田さんは、書評を書いた林さんに対しては、ベタに「フェミニズム」と対決している人と感じているようだ。「フェミニズム」とベタに対決してしまうと、林さんの方が戯画的にピエロのように見えてきてしまう。その姿を見ても、内田さんが、戦略的にベタに「フェミニズム」と対決することはないのではないかと思う。内田さんのこのような姿は、「フェミニズム」に対する偏見を助長し、反動に利するものだという批判は成立するかも知れない。斉藤さんの主張にもそのようなものが見られる。だが、内田さんが戯画的な対象にしているものが、本物の「フェミニズム」でないのなら、むしろ困った「フェミニズム」の馬鹿さ加減を知らせて、それを駆逐しているとも受け取れるのではないだろうか。困った「フェミニズム」はむしろ駆逐された方が、「フェミニズム」の陣営にとってもいいのではないか。内藤朝雄さんは、マル激の中でいじめを発生させる学校の持つ全体主義を批判していた。そしてそれを改善出来ない、学校における「バカ左翼」の存在を駆逐すべき存在として批判していた。このときに、ただでさえ右翼的な言説が強い現状にあって、左翼攻撃をするのは敵を利する行為だという批判が内藤さんには来るらしい。だが、学校の全体主義の改革にとって邪魔なのは本質的には「バカ左翼」の存在だと主張する内藤さんにとっては、「バカ左翼」が駆逐されることは、「本物の左翼」にとってもいいことのはずだという確信があるようだ。「本物の左翼」というものを内藤さん自身は「リベラル」と呼んでいたが。「バカ左翼」の駆逐と、「バカフェミニスト」の駆逐は、「バックラッシュ」ではなく正しい一歩なのではないかと僕には感じられるのだが。そのあたりの認識の違いには大きいものがあるようだ。
2006.12.09
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『バックラッシュ』(双風舎)という本の中の齋藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という文章に書かれた内田樹批判を考えてみようと思う。これは「誤読」というキーワードで解釈することが妥当なように僕には感じる。斉藤さんは、内田さんが「フェミニズム」というものを誤読している(誤解、つまり全然「フェミニズム」でないものを「フェミニズム」だと思って、その間違ったイメージに対して批判している)と受け取っているように感じる。それは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章から次のような判断を引き出していることからそう感じる。「一読すれば分かる通り、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義でもない。ようは、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正義の人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。 内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とか言っても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。」この判断に関しては僕は全く賛成出来ないので、「一読すれば分かる通り」と言うことが理解出来ない。しかしそれはまた後で考えることにして、ここでは、斉藤さんが語る「内田さんの誤解」というものが、実は批判というものに必然的につきまとうものではないかという僕の感想を語ることにしよう。「フェミニズム」の意味を誤解しているという指摘は、斉藤さんの立場からは正しい主張なのだろうが、その立場に立たない僕には全く説得力を持たない。むしろ、そのような指摘で批判することにどれほどの意味があるのだろうかと言うことを感じる。内田さんの文章が「フェミニズム叩き」に見えるとき、その「フェミニズム」は本当の「フェミニズム」ではないとする反論がほとんど意味がないと僕が考えるのは、文章の理解というのは、相手の文脈でまず理解するしかないからだ。だから、内田さんの文章をまず理解するには、内田さんが語る意味で「フェミニズム」という言葉を理解すると言うことが前提となる。そうでなければ、それは「誤読」としか考えようがない。内田さんが語る意味で「フェミニズム」という言葉を理解し、自分はそういう定義には賛成出来ないと言うのであれば、それは「見解の相違」という形で語るしかないだろう。それを、内田さんの「フェミニズム」理解が間違っていると批判しても、あまり意味のあることのようには見えない。なぜなら、誰かを批判する表現というのは、自分の定義に従って理解した意味で批判せざるを得ないからだと思うからだ。批判という行為には、自分が定義した意味に従ってやっていると言うことが避けられないものとしてあるのだと思う。だから、定義が恣意的だという批判をしても、それは批判そのものをしてはいけないという主張にしか聞こえない。斉藤さんの主張をこのような論理として受け取ると、斉藤さんの三砂さん批判というものが全くおかしな主張のように見える。斉藤さんが内田さんを批判するのと同じ論理が、斉藤さんが三砂さんを批判する言説にも同じように適用出来ると僕は思うからだ。斉藤さんは、次のように三砂さんへの批判を語る。「まして『身体知』における内田の対談相手である三砂ちづるにいたっては、もはやなにをかいわんや、である。彼女の悪名高い著書『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)において、彼女はおおむね以下のような主張を無邪気に繰り広げている。「社会の中で適切な役割を与えられない更年期女性がオニババ化する」「誰でもいいから結婚して子を産むべし」「子宮を空き家にしてはいけない」「めかけのすすめ」「月経前緊張症は受精出来なかった卵子の悲しみ」……わざとそういうキャラを作っているとしか思われないトンデモ発言の数々は、正面から批判の対象にする気力すら萎えさせるほど、またしても「素朴さ」に終始している。」斉藤さんは、ここでこれらの文章の解釈を詳しくは語っていない。全て「トンデモ発言」という言葉でくくっているだけだ。それから推し量ると、例えば「オニババ」という言葉の意味を、斉藤さんが、その言葉を使うだけで女性を非難・貶めるために使っていると受け取っているように感じる。しかし、これは斉藤さんが定義する「オニババ」の意味なのではないか。三砂さんが、斉藤さんが使う意味と同じ意味で「オニババ」という言葉を使っていると言うことはどう証明されるのだろうか。「オニババ」という言葉に反発を覚える人は、斉藤さんに共感してこの解釈を支持するかも知れない。しかし、それが三砂さんの本意だと言うことは確認されてはいない。斉藤さんが語る意味で言葉を解釈すればその批判は妥当で正しいと思うだけだ。これは、内田さんが語る「フェミニズム」という言葉の意味(イメージも含む)を、内田さんと同じようなものを抱いていればそれに共感する人がいることとどこが違ってくるのだろうか。自分では、自分が定義する意味の言葉に従って批判しているのに、内田さんに対してはそれは間違っていると主張することに論理的な矛盾はないのだろうか。批判をするというのは、そういう論理的前提を逃れることが出来ないのではないか。だから、その恣意的な言葉の定義という前提を認めるならば、批判は立場的には見解の相違に過ぎないと受け取るしかないのではないか。どちらの見解がより現実を的確に捉えているかという問題はあるが、斉藤さんはそう言う語り方はしていない。内田さんの「フェミニズム批判」が間違っているように見える斉藤さんには、内田さんが誤解(誤読)しているように見えるのは理解出来る。なぜなら、斉藤さんの内田批判に賛成出来ない僕には、斉藤さんが内田さんを誤読しているように見えるからだ。だが、この誤読の判断は、僕の立場からの判断だから、同じ立場に立たない人が賛成しないのは仕方がない。誤読という判断も、立場という条件付きの仮言命題としての真理性を主張するものだからだ。結果的には「見解の相違」だという理解をするしかない。なお三砂さんに関しては、僕は内田さんに対するほどの関心を抱いていないので『オニババ化する女たち』は持っているもののあまり詳しく読んではいない。しかし、その中の「めかけのすすめ」に関しては、斉藤さんが非難するほどの「トンデモ発言」とは感じない。むしろ、それは常識的な平凡な判断を語っているもののようにも思える。三砂さんのこの本がベストセラーになったのは、そこに語られていることが「トンデモ発言」で面白いからと言うよりも、平凡で常識的な事柄ばかりなので大衆受けしたのだと理解した方がいいと思う。藤原正彦さんの『国家の品格』と同じ要素を持っていたからベストセラーになったと理解した方がいいのではないかと思う。三砂さんが語っている「めかけのすすめ」というのは、「いつかは妻と別れて君と一緒になるからね」というような男が語る幻想に対して、そんな嘘をつくのだったら正直に「妾にしたい」と言った方がいいという主張だと僕は受け取った。そのような意味での「めかけのすすめ」なのだと僕は理解した。「めかけのすすめ」という言葉だけでは、ここから人によっていろいろなイメージが浮かんでくるだろう。三砂さんが語りたかった真意ではなく、その言葉を受け取る人が、自分でそう理解したい意味として受け取るだろう。この言葉をケシカランと思いたい人は、ケシカラン意味で受け取るだろう。例えば、金のある男に囲われることは楽だし、金があれば好きなことが出来る特権を持ちうるから、容貌という素質を持っている女は妾になってその素質を利用すればいい、というような意味でこれを理解すれば、これは「トンデモ発言」のように見えるかも知れない。妾というのを容認するようなことを三砂さんは言っているのだと理解するだろう。だが、結婚を餌に女性を騙して不安定な地位にいても我慢させるという状態にあるのなら、まだ妾として契約的な関係を持ってドライに対処した方がいいのではないかという主張なら、それは一つの見解として、今の時代なら成り立つのではないかと思う。それは比較の問題だ。今時そんな設定の下にいる女性なんかいないだろう、というような批判だったら、あるいは僕もそうかも知れないと思ったかも知れない。しかし、「めかけのすすめ」という言葉だけを出されて、それが「トンデモ発言」だという指摘だけをされているという文章の流れからは、それが斉藤さんが考えている意味で受け取られているのであって、三砂さんが語っている意味でそうなのかと言うことは分からない。しかし、批判するときにいちいち相手の正しい見解を語れという要求をしようとは僕は思わない。そんなことを書いていたら、本質的に主張したい事柄がぼやけてしまうからだ。それだからこそ、批判というのは、自分の側の恣意的な言葉の定義でやらざるを得ないのだと言うことを、批判という行為の暗黙の前提として了解する必要があるのではないかと思う。斉藤さんが、斉藤さんが定義する意味で批判するのは了解する。その立場からならその批判は正しいだろうと言うことを僕は理解する。しかし、それが本当に三砂さんの真意を捉えた批判であるかというのはまた別に考えなければならないことだと言うことも忘れないようにする。そのような読み方をすればいいのだと思う。内田さんの「フェミニズム」批判に対してもそうだ。それは内田さんが定義する意味での「フェミニズム」に対する批判なのだ。それに対して、「フェミニズム」という言葉の使い方を間違えていると指摘しても仕方がない。批判の言説の前提として、批判者自身の定義に従って批判しているのだと受け取ればいいことだ。その批判に賛成出来ないのであれば、定義に賛成出来ないのか、批判の論理そのものに賛成出来ないのかという区別をして考えればいいのだと思う。「バックラッシュ」言説に関する僕の関心と重なるところがあるのだが、このような批判言説に関しても、それに共感する人が多いか少ないかと言うことの方が僕には興味深い。共感する人が少ない言説であれば、それは取るに足りないものなので、少々問題があると感じても放っておいてそれほど大きな害悪を生まないだろう。無視していればいいと思う。自分が賛成出来ない言説が、大きな反発を呼んでいるようなものなら、むしろその言説が世に出ることを歓迎したくなるのではないだろうか。間違いをよく知らせてくれる言説なのだから、多くの人がそれを知ってくれることがいいことになる。だが、賛成出来ない言説が、多くの人の共感を呼んだりするものだったりしたら、それはどうしてなのかということを深く考えたくなる。反発する自分が間違っているのか、賛成する多くの人が間違っているのか。また、その間違いは、個人的な資質に還元出来るのか、それとも社会的な要素に還元出来るものなのか。批判して溜飲を下げるよりも、僕にはその方が大いに関心がある。
2006.12.09
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僕はちょっと前に『バックラッシュ』(双風舎)という本を買ったのだが、この中に書かれている多くの言説の中で関心を持っていたのは宮台真司氏のインタビューを綴った「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道-バックラッシュとどう向き合えばいいのか-」というものだけだった。だから宮台氏のこの文章しか読まなかった。そして他の文章にはほとんど関心を引かれなかった。これは、宮台氏の文章以外が、何か価値が低いとか、僕が反対の見解を持っていると言うことではない。そこに書かれていることは大部分が正しいのだと思う。専門的なことが書かれているので理解することが難しいこともたくさんあるが、それが大部分正しいであろうと言うことは伝わってくる。だが、その正しいだろう文章を、苦労してでも理解したいという意欲がわいてこないのを感じる。宮台氏が語ることは、ここに含まれた文章の中でもピカイチに難しいものだろうと思われるのに、この文章だけは何度読み返してでもいいから少しでも深く理解したいという熱意がわいてくるのを感じる。この差は、たぶん問題意識の違いから生じるものではないかと僕は感じる。僕が「バックラッシュ」という現象で語られる事柄に対してもっとも関心を持っているのは、それがいかに間違った言説を語っているかではない。たぶん、この本で批判されている「バックラッシュ」する側の言説の間違いの指摘は、正しい指摘だろうと思う。「バックラッシュ」言説というのは、基本的には単純な間違いの中にあると思う。宮台氏が言うところの感情のロジックに惑わされている言説に対する批判ではないかと思う。それ故に「バックラッシュ」だと理解されているのだろう。「バックラッシュ」言説が間違っていることを理解することはたぶんそれほど難しくないと思う。だから、僕の関心はそこにはあまりない。僕の関心は、そのように間違っていることが分かりやすい「バックラッシュ」言説が、現実にはなぜ大きな力を持って人々を支配しているように見えるのかと言うことだ。間違っていることが分かりやすい言説なら、その間違いを理解した多くの人によって駆逐されるのが、論理的には整合性があるのではないかと感じる。だが、現実にはそのようになっていないとしたら、これほど不思議なことはない。この不思議さの整合性はどこにあるのか。僕はそれが知りたいと思う。良く理解出来ることは、一度理解してしまえばそれほど問題意識として自分の中には残らない。なぜなのかが分からないことこそが、問題意識として自分の中に深く残るのを感じる。この問題意識に答えてくれる文章は、『バックラッシュ』という本の中ではほとんど宮台氏の文章だけのように感じた。あとの文章は、確かに「バックラッシュ」言説の間違いを正しく指摘しているのであろうが、自分が感じる不思議さを鮮やかに解明してくれるというような、「目から鱗が落ちる」というような体験を与えてくれるようには感じなかった。「バックラッシュ」言説が間違った言説であるということが証明されてしまうと、多くの論者は、それだけで「バックラッシュ」の問題は解決されたと錯覚してしまうのではないだろうか。間違いが証明された後にもまだ「バックラッシュ」言説を捨てないのであれば、それは間違いを理解しない頭の悪さに問題があるのであって、理解しないやつが悪いのである、としてしまっているのではないか。そこのところを、間違っているにもかかわらず、なぜその言説が多数派を得るかと言うことを宮台氏は正しく分析しているように見える。そこのところが、僕の問題意識に答えてくれるような気がして、宮台氏の言説に大きな関心を抱くことになっているのだろう。宮台氏が、なぜに答えているのではないかと感じるところは次のような所だ。「不安こそは、全てのバックラッシュ現象の背後にあるものです。」「文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力や経済権力と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイラーキーの頂点を叩くという図式です。」「ジェンダーフリー論者も「冷酷なハト」もともに、叩く側から「恵まれた連中」に見えている」「不安をたやすく煽られるタイプの人々が、非常に増えてきたように見えるのです。」「ディプレッシブ(抑鬱的)な人々が、大規模に生まれてきたようにも見えます。」「豊かな社会では、人々が何を不安に思うかは共通でありやすいのに対し、何を幸せに思うかが多様に分岐しやすく、「不安のポピュリズム」のコストパフォーマンスが高くなると言うことです。」「今日では多くの人々が、多様性そのものを、自らを脅かす過剰流動性の帰結だと思いがちだということがあります。」「多くの人々が、多様性から実りを引き出せるのは恵まれた勝ち組だけだと思いがちだ、ということがあります。」「多様性の恩恵から排除されがちな人々こそが多様性に反対すると言うことです。」「「インテリをねたむ亜インテリ(の反動権力へのすりより)」と相似的に、「リベラルをねたむ弱者(の反動権力へのすりより)」が展開しています。」「プラットフォームへの信頼(を支える抵抗史)が統合シンボルを与えてくれないから、統合シンボルを「社会」にでなく「国家」に要求して、拝外主義的政策や愛国主義的教育を待望する」「相対的剥奪感の大きい人々は、多様性への意欲やリベラリズムを「恵まれた連中のイデオロギー」と見なしがちです。」「性の多様性が上昇すると、性に不得意な人々がディプレッシブ(抑鬱的)になり、何かというと統治権力を呼び出して統制を求め始めます。」「そうした者たちを包摂せず、単に批判して排除するだけだと、ルサンチマンやディプレッションを抱えるものが周辺に量産される。」「この統合シンボルが欠落すると、あれやこれやの代替物が登場し、代替しきれないとアノミー-共通前提不在ゆえの混乱-が生じがちになります。過剰流動性への過剰適応や、過剰流動性ゆえの不安不信から、お門違いの敵を見つけることに象徴されるような様々な問題が起こるようになります。」「バックラッシュ系の人々の背後にあるのは、ルサンチマンだと思います。」このように語られた抽象的判断が、どのような過程を経て得られているかの理解を通じて、ここに含まれている豊かな内容をもっと深く理解したいものだと思う。また、宮台氏は、これらの「なぜ」に対して問題の解決の方向も示している。これも、そのようにしたときにどうして問題が解決するかという整合性を考えてみたいものだと思う。この本では、宮台氏の弟子でもある鈴木謙介氏も「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」という文章を寄せている。鈴木氏の言説にも、さすがに宮台氏の弟子だというような、社会の不思議を解明するような問題意識と視点を感じる部分がある。「バックラッシュ」言説そのものの批判ではなく、「バックラッシュ」言説が生まれてくる社会の背景を語る言葉として、次のものはとても参考になるのではないかと思う。「バックラッシュと呼ばれる主張に一定の理解を示す「普通の人々」の存在がなければ、言説に政治的実効性は生まれない。」「バックラッシュや右傾化のような現象に暗黙の承認を与える「普通の人々」の立場に、本来「左」であったはずのものが「右」の方に取り込まれるといったねじれが生じているのである。」「考えれば即座に分かることだが、これだけの人間が性別役割分業を問題だと考えているなら、とうに性別を巡る差別は解消されているはずだ。だが、現実はそのようになっていない。」「バックラッシュ派が望ましいあり方と見なすような家族の形が維持出来ないのは、多様な生き方を求める人々が自己の権利を過剰に主張するからではなく、「普通の人々」からその可能性が剥奪されているからなのだ。」「ジェンダーフリー・バッシングという疑似問題に固執し、ましてバッシングの当事者を「心が弱い人たち」といった形で属人的に非難して溜飲を下げるだけでは、議論にいかなる実りもない。」これらの指摘は、「バックラッシュ」言説の理解ではなく、「バックラッシュ」言説が生まれてくる社会背景の方を理解するのに役立つだろうと思う。「バックラッシュ」言説を理解することはそれほど難しくない。それはほとんどが単純な間違いに過ぎない。難しいのは、そのような単純な間違いが、間違いとして正しく、社会的に認識されないと言うことの理解なのだ。「バックラッシュ」言説の間違いは、ある程度正当な論理が使える技術さえ持っていれば、それを理解することが出来る。「バックラッシュ」する側が、そのような技術さえも忘れてしまうほどなのは、彼らが頭が悪いからではない。むしろ、彼らがマトモに頭を使うことを邪魔するほどの感情のロジックが働くことが原因だろうと思う。その感情のロジックの源泉がどこにあるかということを理解することは、「バックラッシュ」言説の間違いを理解するよりもたぶん重要なのではないかと思う。なおこの本には、精神科医の斉藤環氏による内田樹批判が語られていた。他の「バックラッシュ」言説批判はだいたい理解出来たのだが、この批判だけは理解出来なかった。これは、たぶん内田さんに対する評価の違いがあるからだろうと思う。この批判が理解出来ないのは、僕の方が間違っているのか、あるいは斉藤さんの方が間違っているのか、それとも僕の見解も斉藤さんの見解も両立するものとして「見解の相違」という解釈が出来るものなのか。それも考えてみたい興味深いものではある。いずれにしても、論理的な正しさが必ずしも大衆動員的には効果を持たないと言うことは、僕にとってはけっこう切実な問題として意識されることだ。これは絶望的なことなのか、それとも希望を持って改善の努力を目指していけるものなのか、考えていきたいとは思う。
2006.12.08
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瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている仮言命題の真理性について気になる記述があったので、それについて考えてみようと思う。瀬戸さんは、「前件・後件が真なら結論も真。 前件・後件が偽なら結論は偽。 前件が偽でも後件が真なら結論は真。 前件が真でも後件が偽なら結論は偽。」と書いている。仮言命題「AならばB」は、Aを仮定Bを結論と呼ぶこともあるので、これが前件・後件という言い方と紛らわしいところがあるが、瀬戸さんが語る「結論」という言葉は、仮言命題の全体を指しているのだと思われる。そこで上の文章をそのように解釈すると、次のような意味になるだろうと思う。1 A(真)ならばB(真):仮言命題の全体は真2 A(偽)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽3 A(偽)ならばB(真):仮言命題の全体は真4 A(真)ならばB(偽):仮言命題の全体は偽瀬戸さんは、仮言命題の真偽が「後件に左右されるものと思っていました」と語っているように感じるので、この解釈がおそらく正しいと思う。そして、この真理値は2番を除けば正しい。つまり2番は間違っている。2の場合は、仮言命題の全体は真になる。これは直感的には非常に分かりにくいが、これが形式論理における法則だ。仮言命題というのは推論というものと深い関わりを持っている。「AならばB」という言い方は、Aという条件が成立するときには、必ずBという結果が得られると言うことを主張している。つまり、Aの成立を確認した時点で、Bのことを直接証明しなくてもBが正しいことが導けるという、推論形式を与えるものとなっている。このような推論は、アリバイの証明の時などに典型的にその姿を見ることが出来る。人間は、同時刻に二つの離れた地点に存在することは出来ない。これを絶対的に正しい命題として承認するなら、 A地点にいた →(ならば) B地点(Aと違う場所)にはいないということが仮言命題として成立する。前件が成立すれば、同時刻には他の地点にはいないのだから、必ず後件が成立するからである。犯罪現場をB地点とすれば、そこと離れた場所に同時刻にいたと言うことが証明されれば、B地点にいないことを直接証明しなくても、B地点にいなかったことがこの仮言命題を通じて推論される。形式的には、 Aが成立する かつ A→(ならば)Bが成立するという二つのことが確かめられると、Bが成立すると結論出来るというのが、仮言命題が示している推論形式になる。仮言命題というのは、本質的にこのような推論形式と結びついているものだ。つまり、前件であるAの成立を前提条件としてBの成立を主張するものが仮言命題なのだ。Bの真理性は、Aという条件付きだと言うことを主張することが仮言命題の本質だ。Bは単独で絶対的な真理性を主張することは出来ないと言うことを物語るのが仮言命題である。前件Aが成立するときは必ず後件Bも成立すると主張するのが仮言命題なら、それが偽となる・つまり正しくなくなるのは、Aが成立するにもかかわらずBが成立しなかったときになる。つまりAが真でBが偽の時に仮言命題「A→B」はその全体が偽になる。そして仮言命題が偽になるのはその時に限るのである。仮言命題「A→B」は、実はAが成立しないとき(すなわちAが偽の時)については何も語っていない。Aが成立しないときは、Bがどうなるかは分からないのだ。その時にはBが成立するかも知れないし、成立しないかも知れない。どっちとも決定が出来ないのだ。前出の A地点にいた →(ならば) B地点(Aと違う場所)にはいないという仮言命題は、一人の人間が同じ時刻に、離れた地点に存在出来ないと言うことを認めれば常に正しい。つまり、この仮言命題は真であることが主張出来る。この仮言命題において、前件が成り立たないときとはどういう場合になるだろうか。それは「A地点にいなかった」と言うことになるのだが、その時に、この人物が犯罪現場であるB地点にいたかどうかは、この仮言命題からは何も分からない。「A地点にいなかった」ので、B地点にいる可能性はあるが、いたかどうかは直接証明しなければならないことになる。仮言命題において、前件が成り立たないときは後件については何も言えないとしても、仮言命題の全体に対して真理値は決定しておかなければならない。真理値がないというわけにはいかない。真理値がなければ、仮言命題は形式論理の体系の中では使うことが出来なくなってしまうからだ。だから、形式的にでも真理値を決定しなければならない。そして、まさに形式的には、この場合は仮言命題全体の真理値は真と定めているのである。これは体系の全体の整合性を守るために、形式的にはそう決めざるを得ないと言うところから来ているのだと思う。ちょうど、マイナスとマイナスをかけるとプラスになると言う正負の数の法則が、そうしなければ方程式等の数学の体系の整合性を保てなくなるのと似ている。マイナスかけるマイナスがプラスになるのも直感的には分かりにくいが、かなり無理な設定をしてかけ算を考えると何とか納得出来る。仮言命題の真理値の場合には、その無理な設定による直感も難しい。形式論理の体系からの考察では、「A→B」という推論と同じ形式を与える命題として「Aでない、かまたはB」というものがある。「A→B」という仮言命題は、Aの成立が証明されれば、そこからBが導かれるという推論を与える。同じように、「Aでない、かまたはB」という命題が成立しているとき、Aの成立が証明出来ればBの成立を結論することが出来る。なぜならば、Aが成立するときに、同時に「Aでない」が成立することはない。つまり、「Aでない、かまたはB」が成立しているなら、Aが成立するときは、Bが成立しなければならない。そうでなければ「Aでない、かまたはB」が成立しているとは言えなくなるからだ。「A→B」と「Aでない、かまたはB」とは、命題論理の形式としては同じものになる。そうすると、命題論理の体系の中でこの整合性を守るためには、両者の真理値も一致しなければならないが、それは、Aが成立しないときは、「Aでない、かまたはB」は、常に正しくなるので、真理値は真であると言わなければならない。形式的にはそうなのだが、直感的にはそれが正しいと言うことはすっきりと気分良く納得は出来ない。この真理値の法則からは、明らかに間違っていると分かる前提(形式論理ではこれを「矛盾」と呼ぶ)をおけば、どんな結論であろうとも導くことが出来ると言える。偽であることがはっきりしている命題を前件におけば、仮言命題の全体は真になるからである。これは不思議な印象を与える。明らかに間違っている命題は、それが成立することを決して言えないのだが、その成立を前提にすればあらゆる命題が推論によって導き出されることになる。決して成立しない命題の成立はあり得ないのだが、推論としては仮言命題が正しくなってしまうので論理的には間違っていることが指摘出来なくなる。この場合は、その前件が決して成立しないと言うことを直接証明しなければならないということになる。いずれにしろ仮言命題というのは、前件の成立と結びつけて考えなければその真理性を見誤ることになるだろう。その前件が決して成立しないことが分かっているときは、その仮言命題には意味がないのだと言えるだろうが、前件が成立する可能性がある場合は、その仮言命題は、前件が成立するときに「領域」を限って考察しろと言うことを語っている。さて、内田さんが語る「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という仮言命題は、実は語られていないが、この命題の前提となるような命題が設定されていると僕は解釈している。それは論理的にはあまりにも自明なことなので書かれていないと解釈している。その前提というのは、「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来る」というものだ。この前提の下に上の仮言命題を考えれば、 母親にシグナルが読める ↓ 子どもの排泄処理をする(可能な場合を考えているのでそれが出来る) ↓ 服が汚れる前に排泄の処理が出来る ↓ おむつをする必要がないという流れで推論が展開していくだろう。「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来る」という前提を自明なものとして設定してあえて書かなかったというのは、ご都合主義的だという批判があるかも知れないが、この前提を置かなかったら、そもそも論理の展開として「おむつが必要ない」ということが言えなくなってしまう。「子どもが排泄行為をする前に、服を汚さずに処理することが出来ない」としたら、服が汚れることを防ぐためにおむつが必要だという結論が出ないわけにはいかないだろうと思う。つまり、おむつをわざわざ研究しなくても、論理だけで「おむつが必要だ」という結論が出てしまう。「おむつが必要ない」という主張が、現実の研究なしに否定されてしまうのだ。まともな研究者がその程度のことに気づかないと言うのは、あまりにも見くびりすぎているのではないだろうか。この程度のことは自明の前提なので書かれていないのだと僕には感じられる。仮言命題の真理値との関係でもう一つ考えれば、「出来る」という前提の下で考察していると考えれば、「出来ない」場合のことについては関心の外にあると言ってもいいだろう。「出来ない」場合についておむつが必要かどうかは考察していないと言える。あくまでも「出来る」状況にいる母親、「シグナルを読める」母親という前提の下で研究をしようと言うことだろうと思う。この前提が現実には不可能だという、決してあり得ない命題なら、この仮言命題は意味を持たない。しかし、現実に可能性があるのなら、この前提の下で「おむつが必要ない」という結論が出せるかどうかは研究の余地がある。この研究が「母親」に対してなされることや、「出来る」状況という恵まれた立場にいたり、「シグナルが読める」という能力を持っているという前提は、それに対して反発を感じる人もいるかも知れない。しかし、それは一応仮言命題の真理性とは別の事柄なので、僕はそれを切り離して考えたいと思っている。僕が関心を持つのは、あくまでも論理的な正当性であり、その点に関しては内田さんに間違いはないと思っている。
2006.12.06
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瀬戸智子さんからライブドアのブログエントリーに「仮言命題の限界」というトラックバックをもらった。ここで論じられていることは多岐に渡り、その一つ一つに独立のエントリーが立てられるくらい論理的な問題が多く含まれている。それをすぐに論じるよりも、どこに問題があるかをまとめておいた方が自分でも理解しやすいと感じたので、「雑感」というような題で思いつくことを書き留めておきたいと思う。まずは、僕が問題があると感じた部分は次のようなものだ。なお、これは瀬戸さんが主張していることが問題だと感じたのではなく、瀬戸さんの文章に触発されて生まれてきた僕の中の問題意識から考えた問題だと言うことを断っておこう。1 演繹論理と帰納論理の違いとその本質は何か。2 科学は帰納論理一般の中に含まれるものか。 科学はあくまでも仮説にとどまるのか、普遍的真理としての資格を獲得するのか。3 因果関係は仮言命題の中でどのように解釈されるか。4 仮言命題の真理性5 仮言命題(推論)に限界があるのか。 限界があるのは真理を規定する「領域」の方ではないのか。論理という言葉は、演繹のようにある命題から次の命題が引き出されていくものを論理と呼び、帰納のように多くの事実をまとめて結論を出すものを論理と呼ぶのをためらう人もいるだろう。だが論理というものを、現実が持っている法則性というものを抽象した結果として語られるものという認識を僕はしているので、帰納というのも法則性を語っているものと理解する限りで論理という言葉で呼ぼうと思う。現実の持っている法則性で個別の対象を持っているものは個別科学として成立する。個別の対象を持たず、いわば認識の中にある、ものの考え方の法則として成立するものが論理というものだと僕は捉えている。これは、個別の対象の間に成立する法則を導く方法として、メタ的な法則と言えるだろう。さて、帰納によって得られる法則というのはどういうものだろう。それは本質的には有限の対象に対して経験から得られる法則と言えるだろう。これは、数学でさえも有限の対象に対する法則を求めるなら、演繹は必要が無く、全ての有限の対象に対して実際に試してみるという経験で法則を求めることが出来る。つまり、帰納論理で真理が求められるのは、対象の「領域」が有限の場合に限ると言えるわけだ。対象の「領域」が有限を越える、つまり無限の「領域」に踏み込むときは、その無限を捉えるために演繹論理が必要になる。帰納による法則が、対象「領域」として無限を含むと考えられる場合は、経験していない未知の事象によって帰納によって得られた法則が否定される場合が出てくるので、帰納論理によっては真理が確定しない。帰納論理の場合、無限をうまく扱えないとそこには普遍的真理は見出せないことになる。ご都合主義的に真理の「領域」を狭めてしまえば、帰納論理はあまり信用出来ないものとなる。しかし現実を対象「領域」にした場合、そこでの法則性の認識は帰納論理にならざるを得ない。それでは、数学以外の自然科学は、帰納論理として不完全な真理を語っているのだろうか。数学が演繹論理だけでやっていけるのは、その対象「領域」が、公理として設定した範囲以外は全て捨象してしまうからである。つまり、未知の事象が現れないと想定出来るので、それはある種の論理法則に従うと決めることが出来る。現実の事象では、都合の悪いものを全て排除することは出来ないので、そのままでは演繹論理が成り立たない。だが、自然科学を始めとする「科学」と呼ばれる認識は、実は現実の対象をそのままで対象「領域」にしているのではない。そこには抽象(=捨象)という過程が間に挟まれている。科学の対象「領域」は、現実の中から、いわば都合の悪いものを排除したもので構成されている。都合が悪いものを排除しているのだから、法則を脅かす恐れがないものを対象としている。だから、科学が現実に対して有効性を持ちうるとしたら、この抽象(=捨象)が、現実をよく反映するものとなっているときになる。仮説実験授業の「ものとその重さ」という授業では、「物質的存在は、それを構成する原子が増えたり減ったりしなければ重さは変わらない」という法則が正しいことを認識することを目的とする。これは、無限の対象に関して正しいことを言いたいので帰納論理で証明することは出来ない。仮説実験授業では、この法則が正しいことを示す実験として、一見重さが変わりそうに思える様々な実験を行い、それでも重さが変わらないと言うことを確かめる過程で、この法則の普遍性を認識していく。このとき、この法則がいつでも成り立つのだという認識は、対象が抽象(=捨象)される過程とともに成立していく。実験の一つに、体重計の上に立って、<両足で立ったとき><片足で立ったとき><力を込めて踏ん張ったとき>のいずれがもっとも重い目盛りを示すか、というものがある。これは、重さが分散したり集中したりすることが目盛りに影響を与えるかとか、人間が力を込めることが目盛りに影響を与えるかと言うことを問うものだ。そしていずれも目盛りには影響を与えないという結果が出る。つまり、原子として増えたり減ったりしなければ、他の要素はこの法則には関係ないのだという認識が作られていく。もちろん、この実験だけではなく、他にも様々な実験をすることで、だんだんと原子の考え方というものが抽象(=捨象)されていくことによって、この科学法則が普遍的真理として認識されていくようになる。これが抽象(=捨象)の過程を経ていると言うことは、個別の実験がたまたまそのような結果を出したという受け取り方ではなく、その個別の実験が普遍を代表しているという受け取り方になる。科学というのは、抽象(=捨象)という過程を経ることによって、帰納一般とは違う論理を持っている。つまり、有限の経験の範囲に対しては正しいことが分かるが、未知の対象に対しては何も言えないと言うような、あくまでも仮説にとどまるという帰納一般の特徴を超えるものを科学は持っている、と僕は思っている。科学は仮説に解消されるものではないという認識だ。科学というものが抽象(=捨象)の過程を経ていると言うことは、その反例に対してもその過程を経たものとして考えなければならない。例えば、上の仮説実験授業の実験に対して、普通の体重計を使えば、どのような姿勢をとっても体重計は同じ目盛りを指す。しかし、これを0.1グラムまで計れるような精密な秤で計ってしまえば、正確に同じ目盛りを指すようにはならない。それではこれは法則の反例となるかといえば、そうはならないと考えるのが科学の抽象(=捨象)の考え方だ。人間というのは、常に新陳代謝によって原子の出し入れが行われているという抽象(=捨象)の下に対象を捉えれば、その程度のものは「誤差」として処理される。むしろ「誤差」という認識をする方が正しいと言える。これを「誤差」ではなく、状況によって人間の体重は変わりうるのだという法則にしてしまえば、抽象(=捨象)を無視した、現実ベッタリの帰納的推論の誤りとなるだろう。科学を仮説に解消してしまう論理はたいていがそのような誤りを犯しているものと思われる。三砂さんのおむつ研究に関してもそれが「母親にシグナルが読めればおむつは要らない。ということを科学的に論証しようとする研究だそうである」と言うことであれば、僕は科学として受け取って、そこにはもちろん抽象(=捨象)の過程が存在するのだと理解している。単なる評論や感想であれば、ある特殊な状況に対して感じたことを語っているだけだと受け止めるだろうが、科学として研究するのであれば、そのような前提があると受け止めるのが当然ではないかと思う。だから、提出された反例に対しても、それが捨象されたものとして、ある意味での「誤差」になっているのではないかということが気になる。それが「誤差」であるかどうかは、三砂さんの研究を詳しく知らなければ判断は出来ないだろうが、「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という法則が、一つの反例によって簡単に反駁されるようであったら、そのような研究は、まともな研究者であればやらないと僕は思う。僕は内田さんという人を高く評価しているので、その内田さんが評価する三砂さんがまともな研究者でないとは考えにくい。だから、そのような簡単に反駁されるような反例は、おそらく「誤差」として処理されるのだろうと判断しているのだ。実際にwitigさんが提出している反例として「本当に内田樹がいうように「「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいい」のであろうか。自分のうちでそんなことした日には嫁になに言われるかわかったものではない。街中や電車の中、店の中で「「ほい」と身体から離して、排便させ」ている親子がいたとして、「ああ、あの親は子供の細やかなコミュニケーションができていていい親子だな」と笑ってられるだろうか?」の中で語られているのは、家の中で所かまわず排泄させたり、電車や店の中での状況を語っている。これらの場合は、「子どものシグナル」が読めてもおむつが必要な場合だという反例だ。しかしこれらは、子育ての日常の中で現れてくるありふれた状況だろうか。もし、おしめを早くとろうとして、排泄のシグナルを読もうという意志を持っていたら、家の中で所かまわず排泄させざるを得ないような状況の中でそれをするだろうか。また、子どもが排泄の意志を伝えることが難しい状況にあるような年の時に、頻繁に電車に乗せて店に連れて行くと言うことが日常的な状況として設定出来るだろうか。これは特殊な状況ではないかと僕には感じられる。だから、おむつの必要性を科学的に研究する対象からは捨象されるのではないだろうか。研究の対象としてはあくまでも日常的な育児の場面が選ばれるのではないかと思う。しかも、子どものシグナルを読めるかどうかを研究するのであるから、読もうと意図する親を研究する必要があるだろう。読もうとしない親が読めなくても、これは科学以前の当然の認識になるのではないかと思う。読もうと意図しても読むのが難しいという結果が出れば、三砂さんの研究はその方向性を間違ったと言うことになるのだと思う。最後に仮言命題に関する難しい点を一つだけ書き加えておこう。仮言命題 A →(ならば) Bにおいて、Aが成立しないとき、すなわちAが偽の時は、この仮言命題全体はBの真偽にかかわらず真になるというのが論理法則だ。これは直感的には非常に分かりにくいので、次のエントリーで詳しく考えてみたいと思う。
2006.12.05
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エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしている。「真理と誤謬とは、両極的対立において運動するところ、全ての思考規定と同様、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。これはたった今我々が見た通りである。また弁証法の初歩を、すなわち全て両極対立というものが十全なものでないという、ちょうどそうしたことを扱っているところを少しでも心得ておれば、デューリング氏にもそれが分かることと思う。真理と誤謬との対立を右に述べた狭い領域以外に適用しようものなら、この対立はすぐさま相対的なものになってしまい、従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。だが、もしも我々がこの対立に絶対的な妥当性があるとして、そうした領域以外にそれを適用しようと試みるなら、我々はそれこそ本当に失敗してしまうことになる。対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。」(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理)これは、三浦つとむさんが語っていた、真理とはその条件によって変わりうると言う考えにも通じる。真理は誤謬に転化するという発想だ。エンゲルスが語る「領域」とは、真理関数の定義域のようなものだ。ある命題が語る言明が、その「領域」の対象のみを語っているときには常に真理となるなら、その「領域」は真理関数の定義域になる。だが、この「領域」以外から対象を持ってくれば、その真理関数は真理と対応しなくなり、そのままの形式で誤謬に対応するようになる。これが真理から誤謬への転化というものになるだろう。この「領域」を意識することは、真理というものを考える上では非常に重要なのだが、それはいちいち表現されないことが多い。エンゲルスは上の言葉につなげて、ボイルの法則を取り上げて、「領域」の違いが真理から誤謬の転化をもたらすことを説明している。「有名なボイルの法則を例にとろう。この法則によれば、温度が変わらないでいれば、気体の体積はそれの受ける圧力に逆比例する。ルニョーはこの法則がある種の場合に当てはまらないことに気づいた。ところで、彼がもし現実哲学者だったとしたら、どうしても次のように言わなければならなかったであろう。ボイルの法則は変化しうるものだ、従ってそれは本当の真理ではない、従って何ら真理ではない、従ってそれは誤謬である、と。しかし、もしこんなことを言ったとしたら、彼はボイルの法則に含まれている誤謬よりもずっと大きな誤謬をおかしたことになるであろう。彼の一粒の真理は誤謬の砂山のうちに埋もれてしまったであろう。つまり彼は自分の得た元々正しい成果を一つの誤謬に仕立て上げてしまったことになる。これに比べればボイルの法則の方が、それに少しばかりの誤謬がこびりついていたとしても、まだしも真理だったわけである。けれども、ルニョーは科学者だったから、そんな子供じみたことはやらなかった。むしろさらに研究を進めて、ボイルの法則が一般にただ近似的に正しいだけのものであって、圧力によって液化しうる気体の場合に、特にその妥当性を失うのであって、しかも圧力が液化の起こる点に近づくや否やそうなるのだと言うことに気づいた。こうしてボイルの法則は単に一定の限界内においてだけ正しいものであることが分かった。ではこの限界内でならそれは絶対的に、終局的に真理なのだろうか。物理学者には誰もそんなことを主張するものはいないであろう。物理学者はこう言うであろう。この法則は一定の圧力と温度との限界内で、一定の気体に対して妥当性を持つのである、と。しかも彼は、かようにずっと狭く定められた限界内においても、将来の研究によってそれがなおもっと狭く限界づけられたり、それの解釈が変化したりする可能性のあることを拒みはしないであろう。だから、物理学を例にとってみても、終局的な決定的真理というものは、まずこんな具合のものである。」長い引用になったが、ポイントはボイルの法則が持っている誤謬の側面をどう評価するかと言うことだ。それを重く見るなら、ボイルの法則は間違っている「真理ではない」「誤謬だ」という判断になるだろう。しかし、それが末梢的なものであり、例外規定を語っているだけだと受け止めれば、依然としてボイルの法則は「真理である」「誤謬ではない」という判断になる。誤謬の側面の評価によって、ボイルの法則は「相対的誤謬」と判断されるか、「相対的真理」と判断されるかが決まる。この誤謬の側面は、現実を「領域」とするような命題には必ずつきまとってくるものだ。なぜなら、現実の「領域」はその全てを把握することが出来ないからだ。これは実無限の把握の問題に関わってくる。現実の「領域」の全体は実無限となってしまうのだ。この「領域」を数学的世界だけに限定すると、ここには例外的存在は含まれない。つまり数学的世界は、全体を把握出来る可能無限の世界に限定される。そのような世界では、真理は絶対的真理としての性格を獲得する。だから、現実を対象にした自然科学でも、「領域」を抽象化して、予想外のものを排除することが出来れば、その範囲では絶対的真理を獲得することが出来る。しかし、これも技術の発達によって今までは見つからなかった新しいものが発見されれば「それの解釈が変化したりする可能性のあることを拒みはしない」と言うことになる。このボイルの法則を、それが誤謬であると否定してしまえば、ボイルの法則が持っている有効性も捨ててしまうことになる。この有効性をよく分かっていたルニョーは、ボイルの法則を否定するのではなく、それが誤謬に転化する「領域」を定めることの方を選んだようだ。そして、その「領域」を除いた、ボイルの法則が真理となるような「領域」を確定することによってその真理性を守った。これは科学者として正しい態度だとエンゲルスは語っているように思う。さて、内田さんが「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」と語ったことに関して、いやおむつが必要な場合があるではないかという反論があった。これは、内田さんが語る命題の真理の「領域」という意味で考えるとどうなるだろうか。内田さんが語ることも、現実を対象にした言明である。だから、条件抜きに絶対的な真理性を主張することは出来ないだろう。そこには誤謬がこびりついている「相対的真理」としての性格がある。この誤謬は、内田さんの主張を否定してしまうだけの重さを持った誤謬になっているだろうか。僕にはそうは見えなかった。むしろボイルの法則が持っていた誤謬のように、例外規定に関する末梢的なものではないかという感じがしている。ボイルの法則が持っている相対的誤謬の側面は、普通はあまり顔を出さない。「圧力によって液化しうる気体の場合に、特にその妥当性を失うのであって、しかも圧力が液化の起こる点に近づくや否やそうなる」という例外規定だと考えられる。普通の状態であれば、ボイルの法則は現実に良く妥当するものになる。だからこそルニョーは、この誤謬よりもボイルの法則の真理性の方を守ったのだろうと思う。「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」ということが真理なるのはどのような状況の時だろうか。母親が排泄の処理が可能だという状況があるときだ。そして、逆に言えば、母親が排泄の処理が出来ないときはこの命題は誤謬となる。シグナルが読めても、排泄行為の前に処理が出来ないのであれば、おむつを充てて服が汚れるのを防がなければならない。育児の状況において、母親が排泄の処理をすることが可能な状態の方が普通なのか、それが不可能な状況が普通なのかで、内田さんの主張を「相対的誤謬」として受け止めるか、「相対的真理」として受け止めるかに違いが出てきそうだ。可能な状況が普通だと考えれば、不可能な状況は例外的であり、例外規定として条件を求めれば、内田さんの主張は「相対的真理」として受け止めることが出来るだろう。逆ならば、内田さんの主張は「相対的誤謬」として受け止められる。witigさんや瀬戸さんと僕の違いはおそらくこんな所にあるのだろう。多分、ボイルの法則においてはそれが「相対的真理」であるという解釈に同意する人は多いと思う。それは、対象が自然であり、意志を持たない物質的存在なので、「領域」の観察も客観的に出来るからだと思う。それに対して、内田さんが語る「領域」は、人間の意志が関わってきて変化してくるのでなかなか同意することが難しいのだろうと思う。フェミニズム的な視点では、「母親」という表現にこだわりがあるかも知れないが、それは一応「領域」の問題とは別なので、ここでは「領域」の問題に絞って考えてみたい。現在の社会状況を肯定的に受け止めた場合、その中では子どもの排泄処理をシグナルを読んで行うことが可能だというのは難しい場合がありそうだ。母親が忙しいと言うこともあるし、子どもを保育園などに連れて行かなければならないとか、子どもを同じような環境にとどめておくことが難しいと言うこともあるだろう。しかし、子どもの排泄処理が可能な状況を作ることに出来るだけ工夫して努力したいという意志を持っていたら、これは「領域」が変わってくる。現状肯定の下で「領域」を考えるのか、現状を変えるという視点で「領域」を考えるかでそれが変わってくると言うのが、この問題がボイルの法則に比べて難しい面だろう。同意が難しい面でもあると思う。研究の初期では、条件に恵まれた人間が、「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」ということが真理として見られるかと言うことが考察されることになると思う。これに対して、それは条件が恵まれているから出来るのだという批判は妥当なものになるだろうが、それは「領域」の問題を考えれば、研究の初期はそうせざるを得ないし、そうすることが正しいと思う。たとえ条件に恵まれているからそれが出来るのだとしても、素質に関係なくそれが出来るのだと言うことを証明することの意義の方が大きい。条件さえ恵まれていれば、素質に恵まれていない普通の母親にも「子どものシグナルが読める」と言うことが証明され、多くの人がこの研究に価値を認めれば、社会的には条件を整える方向に運動が向いていくと思われるからだ。そして社会的な条件が整う方向に進めば、おむつを介したコミュニケーションの副産物として、母親と子どもとの深いコミュニケーションが生まれるのではないかと期待出来る。その時は、その深いコミュニケーションに父親も参加させて欲しいと思うものだ。三砂さんの研究が、明らかにまずい結果に結びつくのなら、その研究を制限する方向の動きも理解出来るが、そうでないなら、研究の結果がまだ分からない状況ではそれは自由に行われるべきではないかと思う。それに横やりが入ることに異議を唱えるのが内田さんの本意であり、母親と子どもの深いコミュニケーションに役立つような方向へ研究が進むのなら面白いというのが、内田さんの感想ではないかと思う。
2006.12.03
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バックラッシュというのは、保守的な層からの過剰な反動としてリベラルの側への不当な攻撃がされるというふうに僕は解釈している。それが不当であるという判断をもっていながら、それが起こってくる必然性を考えるのは、バックラッシュの正しさを考えようというものではない。たとえ不当なものであっても、それが現実に存在する限りは、存在するだけの根拠があり合理性があるはずだから、その合理性を理解したいという思いから必然性を考えたいというものだ。学校におけるいじめの問題に関して、善意の人はそれは「あってはならないもの」という考え方をする。しかし、「あってはならないもの」が現実に存在するという矛盾はどのようにして受け止めたらいいのだろうか。多くの場合は、いじめをする方が悪いということで解釈されるだろう。しかし、内藤朝雄さんは、いじめの起こる必然性を中間集団全体主義というものに求めた。そこにいじめが存在することの合理性を解釈することが出来たと言えるだろう。これは、そのような合理性があるからいじめが存在することが仕方がないとか、いじめをする方の責任が薄れるとかいう主張ではない。むしろ、中間集団全体主義の方を改善することによりいじめをなくすことが出来るという合理的な展望を語ることになる。バックラッシュの合理性を理解するというのは、右翼的な保守的思想に大きく揺れている現在の日本の世論の風潮を合理的に理解するということになると思う。教育基本法が「改正」され、憲法が変えられようとしている今の状況は、そのような悪意を持った人々の陰謀ではなく、むしろ論理的には整合性を持った方向にあるのではないかという理解をしたいと思う。そして、その理解をした上で自分の態度を決定したいということだ。宮台真司氏は、『バックラッシュ』(双風舎)という本の中で「今起こっていることは、ホリエモン(堀江貴文)じゃありませんが完全に「想定済み」です。だから昨今のバックラッシュについては驚いてないし、怒りもありません」と語っている。これは、その存在は論理的に「想定済み」だということだ。つまり、宮台氏にはその存在の合理性がすでにつかめているということを意味する。この合理性を宮台氏の言葉から学んでいこうと思う。宮台氏は、上の言葉の前に「今述べてきたような「丸山真男的なものの顛末」を知り、その理由を考察してきた者にとって」という言葉を語っている。つまり、バックラッシュの合理性は、「丸山真男的なものの顛末」というものに、それを理解する鍵があるということだ。これは果たしてどのようなものなのだろうか。宮台氏の言うところを考えてみよう。丸山真男というのは、宮台氏も高く評価している知識人で、「インテリの頂点だった」と語っている。そして、戦後まもなくは啓蒙的な活動に力を入れていた人で、その影響が大きなものになっていれば、世の中はもっと論理的な整合性が確立するような社会になっていただろうと思われている。だが、丸山真男の優れた能力にもかかわらずその影響力は微小なものにとどまり、むしろ反丸山とでも言うべき攻撃(ある意味でバックラッシュと呼べるものだろうか)の方が効果が大きかったという歴史がある。これが「丸山真男的なものの顛末」と言えるものだろうか。本来整合的な展開だったら、優れた人物の優れた言説が多くの共感を呼び、それが世論として形成されるという流れがまともなものだと考えたくなる。それが、何故日本社会では反対の結果に流れていくのだろうか。宮台氏は、丸山真男を攻撃する人物を「亜インテリ」と呼んでいるが、これは丸山真男に比べれば知的水準では遙かに劣る人々だ。「亜インテリ」の人々が、インテリの頂点である丸山真男を攻撃したくなる合理性というのは、宮台氏の説明で良く理解出来る。「亜インテリ」というのは、宮台氏によると次のような特徴を持った人々だ。「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、あるいはアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。」この定義を自ら認めて、自分が「亜インテリ」だと自覚する人は少ないだろう。かなりのマイナスイメージを持った定義になっているからだ。だから、「亜インテリ」とは、自分では「亜インテリ」とは思っていないが、客観的なその位置によって「亜インテリ」となってしまう人と言えると思う。そのような人々は、自分の能力を棚に上げて、自分は「煮え湯を飲まされる」存在だと感じている。不当に不遇な状況にいるというわけだ。この「亜インテリ」にとっては丸山真男のように、実際に頂点に立つ存在は、自分とはあまり変わらないのに不当に高く評価されているように見える。この嫉妬にも似た感情が攻撃性を誘発してバックラッシュが起きるというのは合理的に理解出来ることだ。「亜インテリ」と丸山真男のような頂点の存在の知的水準の違いは明らかだから、「亜インテリ」が丸山真男に代わって知的な世界で頂点に立つことは出来ない。「だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にずれて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです」と宮台氏は語っている。逆に言えば、インテリの頂点は、学問的な水準は高いが、政治的に振る舞う能力は低い。そこで、政治的にはインテリの頂点が負けると言うことがしばしば起こるのだろう。これに対して宮台氏は、「ようは、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力や経済権力と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイラーキーの頂点を叩くという図式です」とまとめている。「亜インテリ」たちは、このような形でインテリの頂点を叩くことで溜飲を下げるというわけだ。「亜インテリ」のバックラッシュをしたくなる心理として、この宮台氏の説明は非常に説得力がある整合的なものに感じる。その行為そのものは不当であっても、その動機が生まれてくる論理的な流れというのは「想定出来る」合理的なものだと感じる。「亜インテリ」にとっては、インテリの存在は現実的な自分の利害に関わっているので、このような心性が生まれてくるのも外から見ていれば理解出来る。だから、外から見ている一般大衆としては、「亜インテリ」の行為の不当性を判断して真のインテリをリスペクト(尊敬)する気持ちを持てば、世論の方は「亜インテリ」に惑わされることはなくなるだろう。だが、日本社会では、世論の方も「亜インテリ」の方にくっついていく傾向を持っている。これは「日本的現象でもあります」と宮台氏は指摘している。「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが存在しないのです」とその理由も語っている。知識人へのリスペクトが存在すれば、たとえ「亜インテリ」が攻撃を仕掛けたとしても、攻撃されている知識人が、真に知的に優れているかどうかを判断して、その攻撃の正当性を考えることが出来るだろう。だが、政治的に力を持って、宣伝力の大きい「亜インテリ」だった場合は、その宣伝で不当な攻撃を正当化してしまうこともあるかも知れない。日本では、「亜インテリ」の攻撃を真に受けて、真の知識人が見分けられない傾向にあるのはなぜなのかについて、宮台氏は次のように語っている。「単純化すれば、日本では「知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ」と誰もが思っています。維新以降の「一君万民論」図式に基づく統治も理由の一つですが、さらに遡れば江戸時代における「士農工商」図式に基づく統治も理由の一つになります。「士農工商」図式の特徴は、身分の高いはずの武士の大半には財力も文化的享受機会もなく、身分の最下であるはずの商人の一部に財力や文化的享受機会があるという「地位非一貫性」です。」知識人も大衆もみんな同じだと思えば、真の知識人と「亜インテリ」の区別もつかないだろう。そうなれば、大量宣伝が出来る人間の方が正しいという世論が生まれてきそうな感じがする。真に優れた人たちと一般大衆は違うのだという認識は、例えばスポーツの世界などではそのようなものがあるのではないだろうか。イチローや松坂は特別の素質と才能を持ったスポーツマンであって、その他大勢の普通の人間とはまったく違うのだというのは、多くの人がそう感じているのではないだろうか。努力さえすればイチローや松坂になれると思う人は少ないと思う。それが学問の世界においては、なぜ「みんな同じだ」という見方になってしまうのだろうか。真の知識人と「亜インテリ」の間には天と地ほどの開きがあると、僕などは思うのだが一般にはそう思われていないのだろうか。宮台氏があげているいくつかの理由で、そう思われなくなっているということがあるだろうが、僕は、それに付け加えて教育の問題も大きいのではないかと感じる。日本の教育における評価というのは、真に優れた思考能力がある人間を評価するようにはなっていない。むしろつまらない機械的な暗記能力が優れている人間が高く評価されているという思いが誰にもあるのではないだろうか。だから、高く評価されている人間も、他のものを捨てて勉強に取り組んでいるだけであって、能力としては「みんな同じだ」という思いがどこかに生まれるのではないだろうか。スポーツなどでは、実際に強い人間が高い能力を持つと評価されるので、評価と才能の間の乖離が少ないだろう。学問(勉強)においては、そのような客観的な評価がなされていない。それが、「みんな同じだ」という田吾作感覚に流れるのではないかと感じる。本当に面白い学問(勉強)をするという経験があれば、誰が優れているのかというセンスはだんだんと身に付いてくるのだが、勉強は我慢してやるものだというイメージがあると、それで評価されたとしても大したことは無いという感覚にもなるだろう。田吾作感覚というものがバックラッシュの底にあることは確かだろうと思う。この田吾作感覚が、どのように間違った主張の宣伝に乗せられて世論形成されていくかというメカニズムについて今度は考えてみたいと思う。バックラッシュを仕掛ける側は、この田吾作感覚を宣伝に乗せていく技術においては長けているのではないかと思う。日本社会で教育を受けて成長した我々一般大衆は、多かれ少なかれ田吾作感覚を引きずっているはずだから、これに意識的に注意を向けないと、容易に宣伝に乗せられてしまうのではないかと思う。小泉さんの非論理的な言い方が結果的には効果的な宣伝であったということを忘れてはいけないのではないかと思う。
2006.12.03
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瀬戸智子さんから「またまた「おむつ」について」というトラックバックを「誤読をしたくなる心理と仮言命題の理解」というエントリーにもらった。この中の、仮言命題に関する部分を考察してみたいと思う。僕が考える仮言命題というのは、ある仮定の下での結論を主張する形の命題で、仮定だけあるいは結論だけの単独の主張ではなく、「もしAならばBだ」という二つの命題の組み合わせでの判断を主張する形のものを指す。このときのAやBに当たるものは、命題であるという条件だけであって、その内容には何も触れていない。これは命題論理の範囲で考えているので、そのような対象を設定している。だから、瀬戸さんが「仮言命題の最大の条件は「変項」を同じくすることです」と語ることの意味が僕には分からない。「変項」というものを設定すると、これは命題論理の範囲ではなく述語論理として考えることになる。しかも、仮言命題の場合に、「変項が同じ」という制限を設けてしまうと、その対象になるものがひどく狭められてしまうのではないかと考えられる。変項として、例えばaというものを設定して、aに関する言明としてF(a)<aはFである>という述語Fを考えると、仮言命題として考察することが出来るものは、G(a)<aはGである>という形のものしか使えなくなる。すなわち F(a)ならばG(a)という仮言命題しか、論理学では扱えないということになってしまう。aと同じではないbという対象に対しては、 F(a)ならばG(b)という論理が扱えなくなってしまう。これは、仮言命題の制限として果たして正しいのだろうか。変更の違う命題は、仮言命題の対象として設定することが出来ないのだろうか。例えば、aとbの二人の中から一人だけを代表として選ばなければならないとき、aが代表として選ばれたとする。その時次のような仮言命題が作れないだろうか。 「aが代表に選ばれた」 ならば 「bは代表に選ばれなかった」これは、前件と後件の変項が違うのだが、仮言命題として成立するのではないだろうか。前件が正しいときは、後件も必ず正しくなる。また、瀬戸さんは「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをする必要はない」という仮言命題に関して、前件の変項は「シグナルを読むのは世話をしている人」つまり大人であり、後件の変項は「おむつを必要としないのは子どもの方」としている。すなわち、これは前件の変項は「大人」であり後件の変項は「子ども」だから、両者の変項が違うという指摘をしている。だが、これは、 F(x,y):xはyのシグナルを読む G(x,y):xはyにおむつをするというふうに二項の変項を持つ述語だと考えれば、この二つの述語においては、xは両方とも大人になり、yは両方とも子どもになる。つまり、二つの述語の変項は同じになる。そうするとこれは、 F(x,y) ならば not(否定) G(x,y)という仮言命題を作ることが出来ると判断するのだろうか。変項の定義の仕方によって仮言命題が成立したりしなかったりしたのでは客観性が保てなくなってしまう。実際には、仮言命題には変項の制限は必要ないのだと思う。 A ならば Bにおいて、AやBは命題でありさえすればいいのだ。これが命題でない場合は、その真偽が決定出来ないので、前件が正しいときに常に後件が正しくなるかどうかの判断が出来なくなる。つまり、この仮言命題の全体の真偽が決定出来なくなってしまうので、論理として扱うことが出来なくなる。仮言命題にとって本質的に重要なのは、真偽が決定出来る命題をその前件と後件に使っているかどうかということになるだろう。仮言命題の典型的な例を数学に求めてみると次のようなものが見つかる。 「対象となる三角形が二等辺三角形である」 ↓(ならば) 「その三角形の両底角は等しい」二等辺三角形であるかどうかは辺の長さを見ることで決定する。それに対して結論は、角の大きさが等しいという主張をしている。角の大きさを直接測って大きさが等しいことを主張するのではなく、まったく違う対象である長さを知れば角についての情報が得られるというところにこの仮言命題の素晴らしさがある。対象となる三角形に対して、それが「二等辺三角形である」とか「二つの角が等しい」という主張を単独にしているのではなく、両者を組み合わせた仮言命題が正しいという主張を、この命題は語っている。ところでこの前件が正しいことは確定出来るだろうか。現実の三角形に関しては、この命題が厳密な意味で正しいという主張は出来ない。測定にはどうしても誤差がでてしまうからだ。数学がこの命題を正しいと判断するのは、抽象的な世界でこの前提の正しさを保証しているからである。それでは、この仮言命題は現実と乖離した単なる空想を語っているだけのものなのか。そうではない。この命題は、現実に応用されるときは、誤差を無視しうる範囲というのが実践的に決定される。1辺が10メートルくらいの三角形に関して考えれば、1センチくらい長さが違っても、角度はほぼ同じと見なしてもかまわないだろう。1センチの違いなどは、実践的には誤差として捨象される。抽象的な数学世界で仮言命題を考えれば、前件の正しさは絶対的な厳密な正しさで判断出来る。しかし、現実に仮言命題を考えるときは、誤差として捨象出来る範囲というものがいつでも問題になると考えなければならないだろう。数値で測定出来る対象に関しては、それは文字通り測定誤差というもので表れる。数値による測定にそぐわないものに関しては、それが特殊なものを捨象した、一般的なもの(いわゆる普通のもの)と考えたものを対象にするという注釈が必要だろうと思う。「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、これは仮言命題の連鎖になっている。 「風が吹く」 →(ならば) 「埃が舞う」 →(ならば) 「埃が目に入る」 →(ならば) 「目が悪くなる人が増える」 →(ならば) 「目が悪くなった人が三味線で身を立てる」 →(ならば) 「三味線をたくさん作るために猫が減る」 →(ならば) 「猫が減るのでネズミが増える」 →(ならば) 「ネズミが増えるので桶がかじられる」 →(ならば) 「壊れた桶が増える」 →(ならば) 「新しい桶が売れるので桶屋が儲かる」これは笑い話のような仮言命題なので、例外的な事実を除けば、そのような結論の場合がほとんどだとは言えなくなるので、仮言命題として成立しないところが出てくる。だから、最後の結論が信じられなくなってしまうのだが、この仮言命題の連鎖が、例外を除けば普通はそうなるだろうと理解されるなら、その例外は捨象されて仮言命題が成立すると考えることが出来るだろう。「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」という内田さんの(三砂さんの?)主張も、このような仮言命題の連鎖を考えてみようと思う。 「母親が子どものシグナル(排便の兆し)を読むことが出来る」 →「兆しの段階で排便の処理をすることが出来る」 →「そのまま服に排便をしないのだから服を汚さない」 →「服を汚さないために使っていたおむつは要らなくなる」さて、この前件から後件へ至る流れの判断において、現実には前件が成り立っているときに後件が成り立たないときが出てくることもあるだろう。現実は数学的世界のように、都合のいい対象だけを集めた抽象的世界ではないからだ。常に例外的存在を含むのが現実世界だ。問題は、それが捨象出来るような「例外的存在」なのか、捨象出来ない重要な存在なのかということだ。瀬戸さんが語る「場所や時間により排便させることができない場合」というのは、「兆しの段階で排便の処理が出来る」ということを否定する場合だ。これが捨象出来れば、上の仮言命題の流れはそのままつながるが、捨象出来ない場合はつなぐことが出来なくなる。もし内田さんや三砂さんの主張が、瀬戸さんが考えるような「場所や時間により排便させることができない場合」も含んで、その時でさえも「おむつは要らないのだ」と主張するものなら、これは例外的なものにならず、仮言命題に含み込まれたものとして考えなければならないだろう。そして、これを仮言命題に含み込んでしまえば、「排便させることが出来ない場合」なのだから、「排便の処理が出来る」ということを否定してしまうことは明らかだ。僕は、内田さんがこのように分かりやすい論理の間違いをするということが信じられない。内田さんが、このような具体例について語っていないとしても、語っていないことで、僕はそれは捨象されていると解釈している。つまり、内田さんにとっては、生後間もないときだとか、電車に乗っているときや、外出先で排便処理が出来ないときなどは、例外的なものとしておむつの必要性を少しも否定していないと思っている。内田さんがおむつの必要性を否定しているのは、二歳まではしていてもいいのだという前提で、シグナルを読むという発想も持たない親を考えているのだと思う。そういう親に対して、必要だと思っているときでも、そうじゃなくすることも出来るということを考えた方がいい、という提言をしているのだと思う。「(二歳まで)おむつをさせる必要がある」→「子どものシグナルが読めない」という仮言命題についても、それがどのような状況で設定されているかということが大事なことだろう。この場合に「普通」として設定されているのはどういうことなのか。また、例外的なものとして捨象しているのはどういうことなのかを考えなければならない。「場所や時間により排便させることができない場合」は捨象されている。つまり、その時におむつをさせる必要があると考えても、それは「子どものシグナルが読めない」ということにはならない。シグナルを読めば排便処理をさせることが出来る状況にあってもなお「おむつをさせる必要がある」と考えている親に対しては、「子どものシグナルが読めない」という判断が出来るのではないだろうか。問題は、抽象と捨象にあるのではないだろうか。それは理論の現実への応用の場合には必ず生じてくる問題ではないかと思う。
2006.12.02
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witigさんに「排便シグナルが読めて対処方法があればおむつは要らないか」というトラックバックを「必要条件と十分条件」というライブドアのエントリーにもらったのだが、これを読んでも、やはり内田さんの文章の文脈を誤読しているのではないかという印象は変わらない。内田さんが語る「必要性」は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という言い方に関連して語られているものだと僕は文脈上の理解をしている。つまり、完全な形でおむつが必要でなくなるまではおむつをつけていてもいい、ということを「おむつが必要だ」という意味に理解し、完全になるまでの過渡期においてもおむつが必要でなくなることもあるよという主張として「おむつが必要ない」という内田さんの言い方を理解している。問題は、子どもが自立と依存の中間点にいるときに、依存しつつ自立するという状態を作るために、排泄のシグナルを読みとろうという発想をしているのだと思う。自立か依存かという二者択一の発想ではなく、失敗をしつつも上手にシグナルを読みとる道が見つからないかを求めることに価値を見出すというのが、三砂さんの研究であり、それに賛同する内田さんの主張だと僕は受け取っている。だからwitigさんが「百歩譲って排便シグナルが読めてかつ、日本でも利用できる排便に対する対処方法が見つかったとしよう。本当におむつは要らなくなるだろうか。赤ちゃんがいつ排便するのかは細やかなコミュニケーションでしかわからないとすると、その細やかなコミュニケーションを24時間とり続けなければならなくなる。自分の経験からすると、まあだいたいこの時間にするだろうという予測はつくし、だいたいその予測どおりにはなるが、はずす場合もかなり多い。やはり、おむつなしでは24時間の監視が必要になるだろう。その場合母親はいつ寝るのか。」と内田さんの言説を非難するのは、やはり誤読だとしか思えない。内田さんは、このような主張はしていない。「おむつは要らない」ということの文脈上の意味を広い範囲に読みとってしまった結果としてこの非難が生まれたように僕は感じる。二歳までおむつをしていてもいいという育児の常識が、一歳でもおむつが取れたとなれば画期的なことだろうと思う。これは24時間母親がつきっきりで子どもを監視していろという主張と結びつくものではない。今までは読みとることの無かった、読みとろうという意志のなかった事柄に目を向けて、上達するような失敗を繰り返すことで読みとり技術を上げれば、おむつをとる時期を早めることが出来るだろうという主張なのだと僕は読んでいる。また、細やかなコミュニケーションというのは、子どものシグナルを読みとるという繰り返しの結果として生まれるものであって、細やかなコミュニケーションをまず作り上げてその結果として排泄のシグナルが読めるようになるというものではない。細やかなコミュニケーションというのは、排泄のシグナルという具体的対象よりも抽象度の高い広い範囲を含むものだからだ。三砂さんの研究の出発点は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という今の育児の常識に対する疑問なのだと思う。おむつそのものの存在を否定するような「必要ない」という主張ではない。もし三砂さんの主張がそういうものであり、内田さんがそのようなものを支持していたら、僕も内田さんは変だと思うだろう。だが、他の文章であれほどの明晰な論理的展開を見せてくれる内田さんが、この件に関してこんな変なことを書くはずがないというのが僕の内田さんに対する信用だ。だから、内田さんの主張が、このような変なものと結びつくような読みとり方は、僕には誤読としか思えないのだ。witigさんの読みとり方は僕には誤読にしか思えないのだが、誤読をしたくなる心理というのは想像出来る。これは仮言命題の難しさにあるのではないかと思う。仮言命題こそは、論理を考える上では最も重要でしかも難しいものだと思うからだ。仮言命題は、形の上では A →(ならば) Bという形式を持っている。AやBで書かれているのは一つの命題だ。これは、AやBの命題を単独で考えて理解してはいけない。あくまでも仮言命題として全体的に把握する必要がある。前提のAや結論のBに、単独では反対であっても、全体としての仮言命題は正しいと賛成出来る場合があるのである。マル激のゲストで出ていた武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)は、「北朝鮮」の核武装に対して、核基地を攻撃して壊滅させることの出来るミサイル防衛システムの必要性を主張していた。これは、仮言命題的に言えば、 「ミサイル防衛システムを持つ」→「日本の平和と安全を守る」というものになるだろう。僕はこの結論「日本の平和と安全を守る」ということに対しては賛成だが、前提「ミサイル防衛システムを持つ」ということに対してはまだ態度保留だ。それが正しいかどうかの判断が出来ない。むしろ危惧の方が大きい。だが、これを仮言命題として考えれば僕はこれは正しいと思うし、武貞さんに賛同する。この仮言命題には、いくつかの但し書きがつくのだが、その一つに「日本が核武装をするよりも」というものがある。武貞さんは、日本の核武装論の非現実性をいくつか指摘していた。これは、リアリティのある、現実理論家としての優秀さを感じさせてくれる論理だった。その但し書きの上で、有効な防衛(つまり平和と安全を守るということ)手段としてのミサイル防衛システムを語っていた。これは非常に説得力があった。その前提に対しては必ずしも賛成ではなくても、仮言命題としての論理には僕は賛同する。前提に対する危惧というのは、「北朝鮮」の現状に対する認識の違いから出てくるものだろう。僕は、「北朝鮮」の現状は、これもマル激のゲストで出ていた吉田康彦氏(元IAEA広報部長)の主張に賛同する。「北朝鮮」の核武装というのは、日本に攻撃を仕掛けようという意図を持ったものではなく、アメリカとの駆け引きの過程でそうせざるを得ないところにまで追い込まれてやむなくそこに至ったものだという理解をしている。「北朝鮮」というのは、訳の分からない非論理的な行動をする国家ではなく、その国家の存続のためにあらゆる情報を駆使して論理的に行動しようとしている国として理解する。そういう理解をすれば、核を持って、日本を攻撃しようということがいかにばかげたことで自滅の道を歩むかということが論理的には分かるはずだという理解をしている。むしろ危ないのは、論理的思考をする努力を放棄して自暴自棄になったときではないかと思う。ミサイル防衛システムの建設が、どちらの要因として働くかがはっきりしないので、今のところ僕には危惧の方が大きい。今の状況でも、日本を攻撃すれば不利だということが分かると思うので、この状況に変化が起こらない限りは、まだミサイル防衛システムの建設に踏み切らなくてもいいのではないかという感想を持っている。状況が変化したとき、例えば在日米軍が全て撤退して、「北朝鮮」との間に深刻な利害対立が起こったときなどに、ミサイル防衛システムの問題は初めて現実のものとして議論されるのではないだろうか。仮言命題の場合は、前提や結論に反対であっても、その全体の表現がどうであるかをまず考えなければならない。その推論に間違いがないのなら、仮言命題としては正しいという受け取り方が必要だ。内田さんが語る仮言命題は 「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをする必要はない」というものだ。これを仮言命題として全体的に理解するのではなく、前提や結論を切り離して理解すると誤読をする。「子どものシグナルが読める」という前提に対しては、そんなことが出来るはずが無いという感覚を持っている人は、これを仮言命題として理解する前に、この前提に反対して、内田さんが語ることを否定してしまうだろう。また「おむつをする必要がない」という言葉の印象が強く目に入る人は、「必要だ」という思いが生まれれば、やはり仮言命題としての理解よりも、結論に対する反対の感情の方が生まれてくる。この仮言命題は、「子どものシグナルが読める」という前提の時のことを語っているのであって、実はシグナルが読めないときのことは何も語っていない。だから、シグナルは読めないと思っている人に対しては、内田さんは何も言っていないのだ。その時は、おむつの必要性は論理的な帰結としては出てこない。必要か必要でないかは決定出来ないというのが、この仮言命題が表すことなのだ。「子どものシグナルが読める」かどうかは、三砂さんの研究によって出される結論であるから、これは内田さんが語ることではない。内田さんが語っているのは、あくまでも「子どものシグナルが読める」という前提の下での結論なのだ。この前提に疑問を持つ人は、三砂さんの研究結果を待って、それを批判した方がいいのではないかと思う。仮言命題を見たときは、その前提や結論が自分の考えと違っていても、それだけですぐに自分の判断を出さない方がいいと思う。仮言命題というのはその全体の主張が、正当な推論の下に導かれているかどうかが問題だ。その推論が正当なら、いかに前提や結論に反対であっても、その仮言命題としての正当性は承認しなければならない。それが論理というものなのである。
2006.12.01
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