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中国が現在チベットに対して取っている政策的姿勢は、マスコミなどで与えられている普通の情報だけから考察しようとすると、その論理的整合性・すなわち「中国が正しい」という帰結を導くのは困難である。「中国は間違っている・けしからん」という結論を持っている日本人が大部分だろう。マル激でも宮台真司氏が、素人の人たちが中国のとっている態度の合理性を理解するのは困難だというようなことを語っていた。それは、日本人にとっては、中国がやっていることがかつて日本軍国主義が中国に対してやっていたことと同じものに見えるからだ。日本は、主観的にはアジアの解放をうたい文句にして、過渡的には侵略のように見えるかもしれないが、それは遅れたアジアの近代化を促進するために必要な行為であり、結果的にアジアを近代化して欧米列強の侵略を食い止めることが出来れば日本の行為は正当化されると考えていた。というのが、宮台氏が語る「アジア主義」の思想だと僕は理解している。これは言葉だけで構築した論理としては正しいだろうと思う。しかし、実際に日本が中国で行った行為を振り返れば、そこにもともと住んでいた中国人の権利を侵害し、その土地から得られる利益を日本人が独占し、しかもその不当性を抗議するような中国人に対しては武力で弾圧をするというものだった。理念は立派かもしれないが、実際にやっていることがこんなことであれば、それは「侵略」だと非難されても仕方がないだろう。日本は徹底的な敗戦によって、理念と違う現実の間違いを反省するきっかけを得、かつての戦争が「侵略」であったと捉えられる日本人が多くなった。感情的には「アジア主義」の理念が正しかったと思いたい人も、実際には違ってしまったことに対して間違いを認めている。宮台氏は、立派な理念が現実にはその正しさが大きい分だけ、目的のためには手段を選ばずという行き過ぎにたどり着く危険性を自覚すべきだろうと語っていた。アジア主義の間違いは、日本は身にしみてそれを経験しただけに、ナショナリズムが高まり、正義の掛け声が高まってきたときにも、そこにブレーキをかけようとする人々が登場する。中国の現在のナショナリズムの高まりに対しては、果たしてそのようなブレーキをかける勢力が存在しているかどうか、多くの人が危惧するのはそこではないだろうか。中国にも、かつての日本にあったこの「アジア主義」と同じような考え方があるなら、「遅れたチベットを近代化させることが中華人民共和国の神聖な義務である」というナショナリズムに結びつく可能性がある。中国の矛盾した態度を合理的に理解する前提とすることが出来るだろう。中国の矛盾した態度というのは、かつての日本の行為を「侵略」として批判し、許せないものと結論しているのに、行為そのものは同じなのに、中国のチベットに対する行為を正当化することだ。同じ行為を一方では「侵略」と非難し、もう一方では正当化するというのは形式論理的な矛盾を引き起こす。これが日本人には理解できない「けしからん」事のように映る。これを理解するには、外に現れた「行動」としては同じかもしれないが、そこに内在する意味を含んだ「行為」は違うのだと解釈しなければならないだろう。その一つの解釈は、かつての日本のように「アジア主義」に似た思想があったとするものだ。だがこれは解釈としては困った状況も引き起こす。その思想が「アジア主義」と同じものだということであれば、それによって中国が免罪されるなら、かつての日本も免罪されなければ論理的な整合性が取れない。日本は批判したいが、中国は正当化したいという時は、その前提となる思想は「アジア主義」ではまずいことになる。中国が、自らの態度を反省し、チベットへの姿勢が間違いであったと認めるなら、この状況が理解しがたいものだと思っていた日本人は、それが理解できるものに落ち着いたと感じるだろう。しかしその可能性は薄いようだ。そういうときに、単純に理解しようと思えば、「中国はそういうひどい国なのだ」という「けしからん」という判断になるだろう。そして中国に対する嫌悪感が増してくるに違いない。こういう単純な理解ではなく、あくまでもそこに論理的な整合性があるという視点で見ていくなら、マスコミで与えられているような単純な情報だけでなく、専門家が持っているより複雑な情報を求めて、そこから論理的整合性を手繰っていく努力をしなければならない。そのような解釈として僕は3つのものを見つけた。それは簡単に表現すれば次のようなものになるだろうか。1 中華思想 … 内田樹さんの主張。中国の行動の理解の前提に中華思想の要素を考えることで、その行為としての整合性が解釈できる。2 共産主義イデオロギー … 佐佐木さんの主張。チベットに執着し、それを手放しがたいものとするのは、それを手放すことが共産主義イデオロギーの否定にまで行き着くという解釈。3 清帝国からの歴史的背景(特に近代化の過程で受けた日本からの影響・日本軍国主義の考え方を一部取り入れた) … マル激での平野聡氏(東京大学大学院准教授)の主張。これらを前提にして解釈をすれば、中国の矛盾した姿を整合的に説明できるのではないかということを考えたい。1の中華思想に関しては、内田さんが語る範囲での大雑把な理解が、今まで不合理だと思われていた現象を説明できるかということが重要ではないかと思う。このとき、内田さんが語る中華思想そのものの内容が、中華思想として正しいかどうかを議論するのは、目的とややずれる感じがする。中華思想の持っている一部の特徴が、現在中国の行為の理解に役立つという、考えるためのツールとして利用できるかという面を考えることが重要ではないかと思う。内田さんが語ることが「中華思想を基礎にすればチベット問題が理解できる」という主張であれば、僕はそれにはちょっと違和感を感じる。疑問が生じてしまう。これはむしろ逆ではないかという印象を持つからだ。中華思想をチベット問題に対しても適用するなら、それを近代国家の内側に取り込むのではなく、周辺部の「グレーゾーン」のままにして・中国を立てて尊重するという関係を作ることこそが内田さんが言う中華思想にふさわしいのではないかと思えるからだ。週刊現代の内田さんの文章では次のように書かれている。「周辺に広くグレーゾーンが広がっていることを常態とし、その帰属をはっきりさせようとするすべての企て(たとえばチベットの独立)に激しくアレルギー反応を起こすのが中華思想の本義なのである。」この括弧内の言葉(たとえばチベットの独立)というものに対して、佐佐木さんの「(2)現代中国論は「なぜ中国を好きか嫌いか」の自己分析から始まる」には「HPで「中華思想の本義」を説いた箇所には、その例証として「チベット独立」問題に言及した箇所があったと記憶しているが、HPにはなかった」という指摘がされている。この文章は、もともとの内田さんの文章にはなく、編集の段階で付け加えたものだと思われる。なぜなら、佐佐木さんがここの部分に引っかかったように、僕も、これは論理矛盾ではないかという引っ掛かりを感じるからだ。内田さんがこのような論理矛盾を犯すだろうかということに疑問を感じる。内田さんが語る範囲での中華思想を前提にして考えるなら、チベットが独立するかどうかをはっきりさせることが中華思想に反するのではなく、チベットを自分の国の内側に取り込んで、ここが国境だとはっきりさせることにアレルギー反応を起こすのが内田さんの言う中華思想ではないのか。だから、中華思想が生きているのなら、チベットが中国を尊重してくれるなら、そこは独立してもかまわない、国境があるんだかないんだか分からないようなグレーゾーンでいいのだということになるのではないだろうか。チベット問題に関しては、そこに中華思想が生きていないことが合理的な理解において重要なのではないだろうか。だから、内田さんはここにわざわざ括弧書きでチベットのことを書いたりしていないのではないだろうか。中華思想を基礎にして理解すべきは、具体的な例として提出している台湾や東シナ海のガス田の問題なのではないだろうか。内田さんは、具体的にチベット問題に言及はしていない。だが、内田さんの主張を延長させてチベット問題にも考えを及ばせてみれば、そこには中華思想が生きていないから、チベットに対してあれだけの執着を見せるのだと解釈したほうがいいのではないだろうか。それでは中華思想に変わる、チベットに対する執着が生じるようなもう一つの思想は何だろうか。それが共産主義イデオロギーではないかという佐佐木さんの主張は、今のところ僕にはまだ理解できていない。どのような論理を展開すればそのような帰結になるかがうまくつながらないのだ。むしろ、共産主義イデオロギーを一般的に捉えるならば、そのような具体的な帰結が生じるということに疑問を感じてしまう。また、それは中国共産党が現在持っている特質としての共産主義的イデオロギーなのだということであれば、それを正しく捉える必要がある。それが出来ない間は、この判断は正しいとも間違っているとも断定することが出来ない。今の時点でもっとも整合性を感じる判断は、マル激で語られていたものだ。清帝国が崩壊する歴史的背景から、チベットを中国の中に取り入れなければならないという必然性が生まれてきたというのは、中国の近代化の歴史を求めることによって理解できるかもしれないという感じがする。そして、その近代化は、アジアで最も早く近代化をした日本の軍国主義に学んで行った面がかなりあるという指摘は、アジア主義に似た思想も取り込んでしまったのではないかということも予想させる。平野さんの話にはかなりの説得力を感じる。マル激をもう少し詳しく聞き込んで、この整合性をまとめることが出来ないかを考えてみようと思う。
2008.05.30
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佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」についてその「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」を読んだ限りでの、佐佐木さんの主題と主張について、僕は次のようなものだと受け取った。1 中国のチベットに対する侵略行為の正当化について、それは「中華人民共和国がマルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー的中華帝国>である」という点を考慮することが重要で、この前提から論理的に帰結される。2 現代中国を理解するのに中華思想は重要ではあるが、それのみを理解の中心に据えることは出来ない。「中華思想一本で論じきれるほど現代中国の諸問題とりわけ政治的外交的軍事的諸問題は単純ではない」。カギ括弧で引用しているのは、佐佐木さん自身の表現で書かれている部分で、この二つが、この長い文章の全体を貫いているテーマではないかと僕は理解している。この二つのテーマのうち、僕に関心が高いのは1の方である。マル激での議論においても、宮台真司氏が冒頭で語っていたように、中国のチベットに対する姿勢というものが、今与えられている情報から考える限りではその整合性が理解できない。中国のチベットに対する行為は明らかな侵略行為に見える。それはかつて日本が中国に対して行っていたこととほとんど同じようなものに見えるという。中国が日本の行為を批判しつづけているのは、その侵略行為が不当であり間違っているという主張であるはずなのに、その間違った行為を自分がやっている時はどうして正当化できるのか。その論理的整合性を理解するにはどこを見たらいいのか。マル激の第366回(2008年04月05日)では「中国がチベットを手放せない理由」というテーマでゲストに平野聡氏(東京大学大学院准教授)を招いて歴史的背景を見ることによって、中国がどうしてそのような正当化を主張するかの合理性(何らかの前提があって、その前提の元ではそうすることが納得できるような理由がある)を理解しようとしていた。この合理性というのは、論理的な合理性のことで、前提が正しいと認めた場合に、その帰結を正しいと認めざるを得ないような命題の展開がされているかという点を見る合理性だ。帰結が正しいかどうかの合理性ではない。チベットへの侵略行為は、チベット人の権利を侵害するという点では、事実としてその侵略行為を容認することはできない。そのような意味で、侵略行為そのものに合理性はない。理不尽な行為である。しかし中国はそれを正当化している。これは、結論としてその間違いを指摘するのは簡単であるとは思うが、その指摘だけで中国がその行為を止めないとしたら、このパラドックス状況は、結論の間違いを指摘しただけでは解決しないものになっている。「アキレスと亀」のパラドックスにおいて、実際にはアキレスは亀を追い抜くではないか、という事実を指摘しても、「アキレスと亀」のパラドックスの論理を否定することが出来ないように、侵略行為に見える点を指摘しても、中国自身がそれを「侵略行為」と認めていなければ、この批判は効果あるものにならない。事実の指摘だけでは相手の主張を否定できないのだ。だから、中国の言い分を批判し否定するためには、中国の言い分のほうにどのような論理的正当性があるかを探らなければならない。中国はどのような前提から、そのような不合理だと思われる結論を導いているのか。なぜ、事実と反するような結論が論理的に導かれてしまうのか。それは、中国が論理的な前提としている事柄に問題があるに違いない。マル激では、それを清の時代からの歴史を考察することによって求めようとしていた。内田さんは中華思想の中にそれを求めていたように見える。それに対して、佐佐木さんは中国の持っている国家イデオロギーにそれを求めているように僕は理解した。僕自身も、中国のチベットに対する態度や行為を理解することが出来ないでいた。事実だけを見れば、「けしからん」事をしているという嫌悪感と怒りが湧いてくるので、それをもとにした非難をしたくなる。しかし、中国というのは、そういうわけの分からないことをする嫌なやつだという見方で理解して済ませられる対象だろうか。それほど頭の悪い人間たちがトップに立っているのだと単純に理解してはいけないのではないかとも感じる。矛盾の現れのように見えることが実は、中国を深く理解するきっかけにもなるのではないかと考えられる。そのような意味で、さまざまな観点から、この不合理な事実を合理的に解明することは重要だし面白いだろうと思う。そこでまずは1で主張されている事柄を論証する部分を、佐佐木さんの文章から探したのだが、これが見つからなかった。僕の期待としては、中国が持っている国家イデオロギー(それを社会主義と呼ぶか共産主義と呼ぶかは微妙なところがあるが)がどんなものであるかがまず説明され、その前提を共有したならば、そのイデオロギーからの論理展開で、中国のチベット侵略に見える行為が正当化される、つまり論理的な必然性が帰結されるという展開が見られるものと思っていた。しかし残念なことに、佐佐木さんが、中国のイデオロギーをどう捉えているかという具体的な概念が語られている部分が見つからなかった。これは、社会主義あるいは共産主義というイデオロギーは、それが含んでいる事柄があまりにも広いので、一般的な意味で考えた場合に概念を一つに絞りきれないのではないかと思う。そうすると、前提が確定しないので、論理的な帰結も確定しなくなる。イデオロギーを前提としてチベット侵略を正当化するという論理の展開が出来なくなる。社会主義の概念を一般的に考えれば、それは富の管理を社会全体で行ない、富の分配を公平に行うことだという理解も出来るだろう。そう考えると、マル激で宮台氏が指摘していたように、労働者と農民が低収入の状態にあり、共産党の幹部を始めとする国家官僚が富の大部分を独占するという不公平な状態が、どこが社会主義なのか、どうしてプロレタリアート独裁などといって、労働者の国家だなどと言えるのか、という指摘が正当のように思えてくる。つまり、中国が社会主義のイデオロギーを持ちつづけている国だという前提そのものに疑問を生じるような事実も見られる。このように一般的な概念で考えた場合、その中の一つを取り上げて論理を展開すれば、佐佐木さんが主張するような結論を否定するような論理展開も出来てしまう。だから、佐佐木さんが考えているようなイデオロギーの具体的な内容と、それが中国に存在しつづけているという証明が、その主張の論証の際には必要だろう。なぜなら、佐佐木さんの主張が成立するということを、直感的には僕は理解できないからだ。論証という形の部分は見つからなかったが、関連を語る部分はいくつか見つかった。たとえば「(3)中華思想から現代中国を見ることの<方法>論的問題点」には「マルクス・レーニン主義における民族問題処理の原則は、少数民族の民族自決権、民族の自主自立と民族的伝統文化は原則的に承認擁護されなければならない。しかしその「民族的な利益」とか「民族的な要求」などは、共産主義者の国際主義者としての連帯と団結(民族的な障壁を越えた階級的結合)の原則のもとにおいてのみ認められる。では、チベット族が「ダライラマ法王様を活仏として仰ぎ奉りたい」などという「民族的な要求」を主張したとしようか?もちろんそんな要求など断じて認められない。なにしろ、中国共産党が周辺の「後れたチベット民族」を、「活仏を拝む」などという「無知蒙昧」状態にしておいては、共産主義者の国際主義者としての神聖な義務(民族的な障壁を越えた階級的連帯と団結)に反するのだから。」という記述が見られる。この記述からは、チベットへの侵略に見える行為は実は近代化の「指導」なのであるという中国の主張が語られているように見える。これは他民族の文化を踏みにじるひどい行為だと解釈することも出来るので、行為そのものの評価は正反対の主張も出来るが、論理的な前提として「「活仏を拝む」などという」のは「「無知蒙昧」状態」だ、というのに賛同すればその論理的な帰結も承認せざるを得ない。だが、これは民族の歴史が築いた文化なのだと理解すれば、この前提はむしろ否定される。この論証は、中国の持つイデオロギーが侵略を正当化している論理展開だと受け取れるだろうか。確かに、中国共産党という指導部としての前衛が、遅れた後衛であるチベットを指導するというのは、「民主集中制のメカニズムは、労働者階級を指導するのは唯一無比の共産党であり、共産党を現実的に指導するのは党中央であり、党中央を主宰するのは党書記長であるという風に、ピラミッドの頂点へと権力が集中収斂していく」と佐佐木さんが語るイデオロギーの一つに当てはまりそうな感じがする。だが、このイデオロギーからそのまま、チベットへの行為が「侵略」ではなく「指導」だということは出てこない。「指導」だというには、チベットの仏教信仰が遅れた「無知蒙昧」状態だということが前提されなければならない。こちらの方がより本質的な前提になる。だから中国の間違いを指摘するなら、民主集中制というイデオロギーの批判をするよりも、他民族の文化を「無知蒙昧」な行為と勘違いしている、近代化概念の間違いを指摘するほうが正しいのではないかという感じもする。残念なことに佐佐木さんの長い論文には僕がもっとも関心を持っている部分は論述されていないのを感じる。その代わり膨大な言葉を尽くして語られているのは、2の主張に関わる部分ではないかと思われる。そのために中華思想をどのように捉えるかという佐佐木さんの見解を述べることに多くの言葉が費やされている。これは、佐佐木さんがこの文章を書くきっかけとなったのが内田さんの文章だったからなのだろうと僕は想像する。内田さんは、中国の行為の理解のために中華思想の重要性を解いていた。それに対して、それは違うのではないかという批判を語ることが佐佐木さんの文章を書くことの動機としてまず浮かんだのではないかと思う。そのため、僕には関心が高かった1の論述ではなく、佐佐木さんにはより関心が高かったのではないかと思われる2の記述が長くなったのではないかと思う。中華思想に関しては、内田さんは中華思想そのものを論じているのではないので、ここまで細かく掘り下げる必要があるかなという疑問が生じる。内田さんは、中国の理解のための道具として中華思想のもっとも中心となるものを取り出そうとして単純化しているように見える。その単純化に対して、中華思想の深さを語って対立した面を取り上げるのは、議論としてはすれ違うのではないかという印象をもっている。もし議論がすれ違っているなら、一見対立しているように見える主張が、実は対立せずに両立するという理解が出来るかもしれない。弁証法性をそこに見つけることが出来るだろう。両方の主張は、実は視点が違っているのだという理解だ。そのような観点で、佐佐木さんの2に関わる論証を見ていこうかと思う。
2008.05.27
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佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」について考えてみたいと思う。まずはそこに書かれている内容の理解に努力を注ぎたい。何らかの主張に対して、それに賛成するにせよ・反対するにせよ、その主張の内容を正確に受け取った上で自分の意見を提出しなければならないだろう。誤解を前提にして論理を展開しても、それは一つの別の見解にはなりうるだろうが、ある主張に対する関連のある主張にはなりえない。佐佐木さんの主張は非常に多岐に渡り、しかも専門的な用語の使い方も多いので、そこで何が語られているかを正確に受け取るのは難しい。まずは細部にこだわらずに、大筋の主張において、本質的には何を語っているのかということを考えてみたいと思う。この理解にはかなり時間がかかりそうだが、まずは分かる部分と分からない部分をはっきりと分けて、分かったと思える部分が正確な理解になっているかを考えてみたいと思う。ポイントになるのは、論理的な言葉の使い方において、解釈が唯一に決定出来るかどうかで、それを考えたいと思う。解釈が複数出来そうな表現では、どの解釈が、前後の文脈から考えて妥当なのかという自分の受け取り方を考えてみたいと思う。最初に、順番どおりに「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」から見ていこうと思う。ここでまず理解が難しいのは、「単なる「中華帝国」」と表現されている概念だ。この概念がつかめないので、それを否定した対象についても、それがどういうものであるのかが頭に浮かんでこない。「中華帝国」というものがどういうものであるのか、それが「単なる」と形容されている特長は、どのような点が単純で「単なる」と呼ばれているのか。「中華人民共和国がマルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー的中華帝国>である」という文章から想像すると、この特徴を付け加えて考えることが「単なる」ではない複雑さをもたらしていると受け取れそうだが、これも具体的にはどのような特質を見せる点をそう呼んでいるのかということがよく分からない。この前提になる命題の内容が理解できないと、おそらくそれからの論理的帰結だろうと思われる「西側資本主義陣営の後発「開発独裁国」の帝国主義的悪行とは同一視できない特異性・特殊性を帯びている」という主張の正当性も判断するのが難しい。この主張は、現象という「事実」を観察して、印象として語ることも出来るだけに、その場合は「そうも解釈できる」という主張になってしまう。もし論理的な帰結であるなら、その前提を認めた場合には、この帰結はどれほど心情的に反対したいことであっても、その正当性を認めなければならない。論理的な展開によって得られるかどうかという判断は、その主張に賛成するかどうかにおいて大きな意味を持つ。そこで「単なる「中華帝国」」という言葉の理解に努めたいと思うが、そのために、もっと一般的な「帝国」の概念から考えてみようかと思う。これならばかなり一般的な思考が出来るので、まずは「単なる「帝国」」の概念がつかめるのではないかと思う。その上で、その「帝国」が「中華帝国」になったときのイメージを考えてみようと思う。さて一般的に「帝国」とはどのようなものを指すだろうか。辞書的な意味は「皇帝の統治する国家」というものらしいが、これでは現代中国には最初から当てはまらなくなる。そこには皇帝がいないからだ。比喩的に、共産党のトップを「皇帝」と呼びたいかもしれないが、比喩を入れた表現は、論理的考察にはふさわしくない。そこで両義的な命題が出来上がり、真偽が明確に定まらなくなるからだ。「帝国」をどのように解釈すれば現代中国にも当てはまる概念になるだろうか。そこでウィキペディアの「帝国」という項目を見てみると、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家。この場合、君主が皇帝とは限らず、王だったり、政体が共和制であることもある」という解釈も語られている。この解釈による概念なら現代中国も「帝国」の仲間入りが出来そうだ。ウィキペディアでは「チベット、新疆ウイグル自治区、台湾、日本に対する政策から蔑称として帝国(中華帝国)と呼ぶことがある。ソ連と同様に「赤い帝国」とも」という記述も見られる。現代中国に対しては、一般的な意味で「帝国」と呼んでいるというよりも、「けしからん」ことをしているという軽蔑の意味で「帝国」と呼ぶことのほうが一般的だということだろうか。佐佐木さんの意図する「中華帝国」は、このような一般的な意味のものや蔑称としての「帝国」という意味からは少し離れているような気もする。一般的な意味というのは、概念としては、多くの似たような具体的な国家に共通なものを抽象したものになっている。したがって、そのままでどの国家にも存在しているという特徴ではなくなっているので、一般的なものを考えている限りの対象を「単なる帝国」と呼べば、どんな具体的な国家も「単なる帝国」ではなくなる。これは、現実を観察することなく、単に定義から得られる言葉の上でのものになるので、内容のない言明ということになってしまう。ある特殊性を際立たせるために、レトリックとして「単なる帝国ではない」と語ることもあるだろうが、この言い方を命題として受け取るなら、「単なる帝国」という具体的イメージがあって、それを否定することで、たとえば現代中国の持っている特殊な特徴をよりクローズアップするという受け取り方が正しいのではないかと思う。佐佐木さんが語っている「単なる「中華帝国」」のイメージを、文脈から探っていくと、「資本主義陣営内の後進国によくある権威主義的「開発独裁」型国家」という言葉が見えてくる。「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する」ということの目的は、そこにあるさまざまな資源を開発して利益にするという目的が、「権威主義的「開発独裁」型国家」には見られるのではないかと思う。中国のチベット政策にも、そのように受け取れるようなところが見られる。日本にいるチベット人のラクパ・ツォコ氏(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所・代表)もマル激の中で、中国が欲しいのはチベット人ではなくて、チベットの土地だということを語っていた。このような土地の収奪という面を「単なる「中華帝国」」の姿として見ているなら、現代中国はこのようなものではないという主張は、佐佐木さんの主張に重なるのではないだろうか。佐佐木さんが否定しているのは、このような姿の「中華帝国」ではないかと僕は解釈する。もし現代中国が、このような意味での「中華帝国」であるなら、資源提供の場としてのチベットを手放しがたいと考えても、それを持ちつづけることと、自治を許して自分にとって有利な付き合いが出来る工夫をする(経済的に見合う方向でということ)ということを比較して、自治を許すほうを選ぶという可能性も考えられる。未来永劫に渡ってチベットを手放さないということはないだろうという考察も出来る。しかし佐佐木さんは、中国がチベットを手放す可能性というものがほとんどないということを主張しているように見える。それこそが「単なる「中華帝国」」ではないことの特徴の現れで、「その特異性・特殊性は、中国の支配地域(中国共産党による“解放”地域)としてのチベット自治区の「手放し難さ」に集中的に現れる」と表現されている。そして、この原因として考えているのが、「中華人民共和国がマルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー的中華帝国>である、という一点」に見ている。これこそが、「単なる」という対象と区別する指標になるというわけだ。そして佐佐木さんは「中国共産党が中国《共産党》であり続ける限り、その依って立つ政治思想イデオロギーからして、チベット独立(またはダライラマ14世の求める「高度な自治」)など<原理原則的>に認め難いということである」と記述している。このことから受け取れるのは、この現代中国が持っている「帝国」としての特殊性が、チベット問題において解決を困難にしている、すなわちチベット人が望むような方向での自治を絶対に許さないという中国の態度を、論理的に導く前提となっているという理解だ。共産主義イデオロギーから、チベットの自治を許さないという政策、チベットの侵略・植民地化を正当化する論理が展開できるという主張ではないかと思われる。このことの論理関係の正当性は、この段階ではまだ考察することは出来ない。それは「この点後述」と書かれているように、後に詳しく述べられるのだろう。今の段階では、そう主張されているということを受け取ることが文章読解としては正しいのではないかと思う。佐佐木さんは、(1)の論述において、中華思想についても語っているが、これは現代中国が「帝国」として持っているという特殊性、その共産主義的イデオロギーの問題とは切り離して、別の話題として今は理解しておいたほうがいいような気がする。佐佐木さんは、現代中国においては、共産主義的イデオロギーのほうが本質であって、中華思想のほうは、その行動の細部を理解するには参考になるだろうが、本質的にその行動を左右するような大きなものではないと判断しているように見える。(1)における論述で、その理解のために本質的に重要な点は、現代中国の「帝国」的行動を理解するために、共産主義イデオロギーこそが最も重要なものだという点ではないかと思う。共産主義イデオロギーのどのような面が、現代中国の行動を整合的に理解するという点で役に立つのか。これが主張の理解において最重要なものではないかと思う。また中華思想については、それは本質的な部分を形作るのではなく、むしろ傍流の要素を説明するのに使われるという主張も感じる。これは、中華思想の内容をどう捉えるかで判断も違ってくるだろう。それは複雑で多様なので、どのようなものとして概念化するかで重要性も変わってくると思われる。佐佐木さんが語る意味での「中華思想」がどのようなものであるか、具体的に思い描けなければ理解は正確にならない。そして、これは、内田さんが語る中華思想との比較も問題になる。その概念に食い違いがあれば、議論はすれ違うからだ。いずれにしても、共産主義イデオロギーの理解と、中華思想の理解というものを念頭に置いて、次の文章を読んでいこうと思う。
2008.05.25
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マル激の第218回 [2005年6月4日]では「今中国に何が起きているのか」というテーマでゲストに興梠一郎氏(神田外語大学助教授)を招いて議論している。ここで語られている現代中国の姿というのは、ある意味では驚くべきことばかりで、そんなふうになっているとは知らなかったというものが多い。これは、『中国 隣の大国とのつきあいかた』(春秋社)という本にも収録されていて、箇条書きにしてみると、次のような話題が語られている。1 トウ小平体制や江沢民体制は、ずっと金持ちよりの路線でやってきたために、かなり階層分化が進んでしまった。貧乏人(農民と下層労働者)はいつまでも貧乏なままだ。2 中国には流動性がない。1958年に出来た戸籍に関する法律によって固定化されている。農民は都市の市民になれない。教育も社会保障も戸籍のあるところでしか受けられないので、都市にとどまって高い賃金のもとに働くことは出来ない。農民はいつまでも低所得のままになる。3 現在の体制は官僚や企業家にとって都合が良く、彼らは大きな利権を持っている。親の官僚が権力を使って子どもに儲かる商売を回す。独裁国家の独裁権力が金儲けも独占しているので、彼らだけが儲かる構造になっている。4 労働者はすべて国家のコントロールのもとにあるので、賃金は安く押さえ、労働争議も鎮圧してくれる。そのため外資にとっては、効率のいい労働市場となっている。5 警察の腐敗。居住地以外から来た人は臨時居住証を持っていなければならないが、それを持っていないことを摘発されると罰金を払う。これが警察の金づるになっていて、狙われることが多い。そのときのトラブルで殴られて死んだ人間もいるが、それは闇に葬られてしまう。6 国有企業はその生産と就業人口はともに30%にしか過ぎないのに、それへの投資や銀行融資はそれぞれ60%、70%に上っている。まったく効率の悪い金の使い方をしている。やがて破綻することは目に見えているが、国家の財政収入のほとんどが国営企業からのものなのでそれを見捨てることが出来ない。7 出稼ぎ労働者への賃金未払いがある。これは直接労働者を抱える末端の企業よりも、最上位にある企業の責任が大きい。そこが金を払っていないことが多い。そしてその企業はたいていが政府系だという。これらの事実を見ると、その権力の腐敗ぶりのひどさにあきれてしまう。そして、そのような社会体制のもとで、底辺の労働者・農民が、いかに惨めな生活を強いられているかという理不尽も感じる。まさに「けしからん」ことのオンパレードといった感じだ。宮台真司氏は、「もともと共産主義や、そのプロセスとしての社会主義は、肉体労働者、すなわち労働者や農民といった、従来虐げられてきた人々の立場や利益を代表するものだった。そのためのプロレタリア独裁だったはずです。それなのに肉体労働者たちが経済的にも完全に下を占めているというのは、どこが社会主義、どこがプロレタリア独裁なのかといいたくなりますね。」と発言している。まったくそのとおりだと思う。今の中国は、建前として社会主義思想を掲げていても、それは実質を伴わない。むしろまったく正反対の結果をもたらしているもののように見える。もっとも、イデオロギーというのは、日本の天皇制イデオロギーに関しても宮台真司氏がよく語ることだが、支配層にとっては「ネタ」にしか過ぎないのであって、それは利用するものであっても、「ベタ」に信じて行動の指針にするものではないのかもしれない。これらの事実は、「中国が社会主義国家であるならば」という前提を設けるならば、その正反対の結果が出てきているので、「ある意味では驚くべきことばかり」という感想も出てくるわけだ。言っていることとやっていることが違うじゃないか、という非難をしたくなるほど「けしからん」ことだと思う。もしこの事実だけを取り上げて書いて、それ以外のことを何も言わなければ、言葉としては「けしからん」と言わなくても、「煎じ詰めれば」そのロジックは「けしからん」という主張につながっているといってもいいだろう。それを「けしからん」と言っているに過ぎないといわれないためには、この事実から、「けしからん」という情緒的判断以上のものを考察する必要があるのではないかと思う。マル激ではどうなっているだろうか。これら「けしからん」と思えるような事柄が、その経緯を考えてみると必然的な面もあるという考察が語られている。ある意味では「仕方がない」という判断も出来るということだ。これは「仕方がない」から許されるという主張ではない。これらの「けしからん」事柄が、単純に誰かの悪意によって引き起こされたものではないという考察をしているという意味だ。誰かの悪意によって引き起こされたものなら、その悪意を持つものを倒すことによって問題は解決する。しかし、悪意ではなく、何らかの必然性から起こってきたものは、その必然性を支える前提を変革しない限り、善意や努力では問題を解決できないし、善意や努力で解決しようとする方向を取ることは人間を疲弊させるだけになる。必然性を見ることによって、「けしからん」と憤慨する以上のことを語ることになる。ゲストの興梠さんは、毛沢東の共産主義思想を大同思想と呼び、「農業を中心とし、みんなと同じものを着、貧しくても憂えない。平等であればいい。だから経済成長なんかもある意味どうでもよく、みんなであるものを分ければいいという思想」と指摘していた。しかし「それがまた官僚層の腐敗を生み、結局は失敗に終わった」とも評価していた。この失敗を問題とし、その解決に努力したのがトウ小平で、「もう一回競争社会を作ろうと、改革開放路線を邁進した」とも語っている。この路線が、経済的には成功を収めたのだが、その成功の原因によって、上の箇条書きのような現象が現れてくる面も同時に生まれてしまったと考えられる。中国に投資する外資にとっては、そこでの安い賃金はコストの削減という点では大きな魅力になる。この魅力があればこそ外国は投資をし、中国に富をもたらす。この魅力を存続させるためには、獲得した富によって国民が平等に豊かになっては困ることにもなる。いつまでも低い賃金で働いてくれる労働者がどうしても必要になる。社会主義あるいは共産主義の思想から言えば、国が獲得した富は労働者に平等に分配すべきなのに、富の獲得を持続させるためにそれが出来ないというジレンマが中国に生じているようだ。それは、単に「けしからん」から考えを変えろというだけでは解決しそうにない。ヒューマニズムの観点から「けしからん」と主張しても仕方がないという面があるのと同時に、これらの問題が、中国が近代民主主義を確立すれば解決できるかという方向にも大いなる疑問が生じるとマル激では指摘している。近代民主主義では、民意が反映して国家の方向が決まっていく姿が普通だ。その民意がたとえ間違っていようとも、多くの人がそれを望むのなら、ある意味では仕方がない。20世紀初頭のファシズム国家も、それらは民主主義的多数を得て発展してきた。近代民主主義というのは、民主主義だから正しい道を選ぶとは限らない。中国は、その民意があまりにも巨大すぎることが懸念されている。間違った世論で民意が偏った場合の弊害の大きさが予想がつかないからだ。大多数の人々が、論理的に正しい判断をすると期待できるだろうか。もしそれが期待できないのなら、少なくとも、今の段階ではきわめて優れた人物が国家の中枢に入るようなシステムになっている、今の独裁国家の中国のほうがましではないかという考えもある。宮台真司氏は、「ある政治体制が末期状態になると、必ず起こる定番的な出来事として、体制存続の方向に力を尽くすのでなく、体制がだめになったときに備えて、自分の富を国外に移転したり、体制に依存しない利権や自分の地位を確保する方向に、社会上層の人々がエネルギーとリソースを使うようになります」と指摘していた。このような状況にもしも中国が陥るなら、国家の崩壊を招き、それによって混乱した人々が引き起こす損害は莫大なものになるだろう。中国は、その巨大な存在であるという現実から、今のままの状態が続いても、それが変化しても大きな影響を与える。単純に「けしからん」と憤慨していればよくなるという対象ではない。また、事実だけを指摘して、こんな問題があると傍観していても問題の解決にはならない。今ある情報を最大限に生かして、どのような方向が問題の解決として、論理的には最も妥当なのかを考えることが重要ではないかと思う。マル激ではそのような議論をしているように感じる。中国に対して単純に「けしからん」という言い方をする言説は、中国が「嫌い」という好き・嫌いで語る人にたぶん多い言い方だろう。これは単純なので分かりやすいが、言葉としては、「けしからん」や「嫌い」を語っていなくても、「けしからん」事実の指摘だけにとどまっている言説は、「煎じ詰めれば」そのロジックは「けしからん」と言っているに過ぎないと判断してもいいのではないだろうか。ある「けしからん」事実があったときに、その事実がどのように理を持っているかを考え、その理に照らして改善の方向を考えることが出来るかどうか。それが出来たとき、「けしからん」と言っているに過ぎないロジックを乗り越えることが出来るのではないだろうか。「けしからん」事実に対して、それがなぜ現実にそうなっているかの理を語っていない言説は、内田さんが語るように「けしからん」と言っているに過ぎないのではないかと僕も思う。マル激の議論は、宮台氏を始め、社会の中のトップの階層のインテリの議論なので、一般市民としてはややハードルが高い感じがするところもある。それに対して内田樹さんの『街場の中国論』(ミシマ社)に書かれている言説は、一般の我々でも考えられる範囲のものになっているように感じる。この中に、「けしからん」を越えるロジックがあるか探してみようと思う。
2008.05.24
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チベット問題を合理的に理解するということは、中国の姿勢・態度を理解してそれを是とするということではない。むしろその逆で、チベットに対する中国の姿勢・態度は明らかに間違っていると思われる。しかしそれにもかかわらず、中国には間違っているという自覚がない。論理的にはおかしいと思われる理由でチベット支配の正当性をごり押ししているに過ぎないように見える。中国はかなり多くの部分で論理的に正当だと思われる行動をしているのに、チベット問題に限っては、かなり無理をしてでもエゴイスティックな自分の利益を守ることに固執しているのだろうか。それは結果的には世界的な不人気を呼び、自らの利益を守る方向に働かないのではないかと、論理的には考えられるのに、その可能性を考えることが中国政府の目からは完全に消えている。この非論理性が、中国内部ではなぜ正当化されるのか。その合理的な理解をしたいというのがこの考察の目的だ。中国はもともとそういう国なのだと受け取ってしまうと、合理的に思考する必要はなくなる。「嫌な野郎だ」という感情的な反応で終わってしまう。それを、結果的におかしいと思われる行動の中にも、なるほどこの原因があればこのような行動に結びつくのも無理はない、と合理的な理解が出来るように論理を構築したいと思う。そのような論理が見つかれば、その原因を取り除けば問題は解決すると思われるからだ。変なことをする人間も、もともとその人間が変なのではなく、普通の状態であれば合理的で納得できる行動をするという前提で考えるのが合理的な理解だろうと思う。変な行動に結びつくのは、そこに普通ではない何らかの原因があると思われるからだ。その論理的な結びつきが、チベット問題における中国には、どのようなところにあるのかを考えてみたいと思う。考察のヒントにするのはマル激の第366回(2008年04月05日)「中国がチベットを手放せない理由」における平野聡氏(東京大学大学院准教授)の話だ。中国のチベットに対する態度が明らかな間違いであると判断するのは、そこにかつての日本が中国を侵略したことと同じ構造を見ることが出来るからだ。日本の戦争を「侵略」と呼びたくないという人もいるだろうが、この判断においては、中国が日本の行為を「侵略」として非難していたということが重要だ。「侵略」という言葉の定義はナイーブなところがあるものの、基本的にはもともとそこに住んでいた人たちの権利を侵害して、外部から侵入してきた人間が利権の大部分を武力によって奪ったという面を見れば、日本の行為は「侵略」と呼ぶことが適当だし、それを非難する中国に正当性がある。日本としては、権利を侵害した部分で謝罪し、今後はこのような侵略行為が起きないことを保障して理解してもらう方向を取ることが正当な道だろう。この、日本と中国における「侵略」をめぐる関係で中国に正当性があると認めるなら、中国とチベットにおける現在の関係においては、逆に中国がチベットを「侵略」していると判断するのが論理的だろう。中国はチベットにおけるチベット人の権利を侵害している。それは経済的な侵害にとどまらず、仏教の弾圧という宗教の自由に対する弾圧もある。近代的な自由概念の発展から言えば、日本の侵害よりもさらにひどいことをしていると言ってもいいだろう。そしてこの弾圧は、警察権力を使って暴力的に行われている。これは明らかな「侵略」であると判断できるだろう。中国がかつての日本を非難するのなら、今の中国がチベットで行っていることも同じように非難されなければならない。そうでなければ論理的な整合性が取れない。日本は非難されるが、中国は正当化されるといえば、矛盾を認める非論理的な思考だと言われても仕方がない。ここに、チベット問題における中国の明らかな間違いというものが見えてくる。中国は、なぜこのような非論理的な主張をしていて平気でいられるのだろうか。日本の戦争は「侵略」ではないと主張して、中国のチベット問題を非難している「右翼」の方々だったら、もしかしたらこの中国の矛盾が心情的に理解できるかもしれない。だが論理的に捉えようと思ったら、この矛盾は、いつまでも形式論理的な矛盾として残り、観点・視点の違いから対立の存在が認められるという、弁証法的な矛盾としては解消できないことが分かる。「侵略」という定義を客観的に設定すれば、日本のかつての行為も、中国の今の行為もともに「侵略」だと判断できる。これは同じ観点からそう判断できるのであって、違う観点で同じように「侵略」と判断しているのではない。そして、「日本の侵略」は不当だが、「中国の侵略」は正当だと判断するなら、その正当性の判断には客観的な基準はないといわなければならない。構造的に同じものが正反対の判断になってしまうのだから、そう思いたいからそう思っているだけだということになってしまうだろう。ここに見られる「侵略である」という判断と「侵略でない」という判断の、肯定と否定の二つの判断は、視点・観点の違いから両立するものではなく、絶対に両立しない形式論理的な矛盾としてのものだとしか言えないだろう。僕は中国の事情には詳しくないので、中国がなぜこのような間違った論理的判断をするのかを想像するのは難しい。しかし日本人だから、日本の「右翼」が、日本の戦争を「侵略」ではないと判断して、中国の現在の行為を「侵略」だと判断する思考については少しは想像できる。心情的な理解は出来る。それをちょっと考えてみよう。それは宮台氏がよく語る「アジア主義」というものに通じる考え方だ。日本は現象的には中国への侵略をしたように見える。客観的に「侵略」を定義すれば、それは「侵略」と判断されても仕方のない現象が、かつての歴史にはある。しかし、それは「アジア主義」というもっと大きな観点から見れば、西欧列強の植民地支配に抵抗し、西欧列強を追い払うという目的のためには過渡的にはそのような現象が起こっても許されるという思考法もあることは理解できる。これは、結果的に迷惑をこうむる人々にとっては、勝手な言い分のように聞こえるかもしれないが、論理としては構築することが出来るものだ。日本が開国したのは、そのまま鎖国状態を続けていても、その当時の西欧列強の軍事力にまったく抵抗できないことが明らかになったので、とりあえず開国して近代化を進めなければならないと考えたからだといわれている。近代化こそが国家存続のための緊急の課題であり、他の問題は近代化の後に取り組むもので、近代化がすむまでは多少の犠牲は止むを得ないという判断だっただろうと思う。そしてまた、日本だけが近代化をしただけでは、日本の主権を守るには足りないと考えた人々が「アジア主義」を唱えたというふうに僕は宮台氏が語っていることを理解している。アジア全体で近代化をして抵抗しなければ、回りすべてが植民地支配されれば日本も危ないと考えるのは、論理的には正当な展開ではないかと思う。ただ、後発の後進国が近代化するには、かなりの無理をしなければならない。まして自国のみではなくアジアの諸国までも近代化しようとすれば、それを無理やり押し付けて、表面的には「侵略」に見えることも生じてくるだろうと思われる。「アジア主義者」たちにとっては、その「侵略行為」は、結果的に近代化されて植民地支配に抵抗できたときに正当化されるのだと考えられていたようだ。歴史の展開が、アジア主義者たちが考えている方向に行っていれば、かつての戦争は今では「侵略」とは呼ばれていなかったかもしれない。しかし、歴史はそのような展開を見せなかったので、「侵略」した部分だけが評価されて歴史の評価となってしまった。かつて「右翼」の音楽家黛敏郎氏は、「戦争に負けたことが非難されているんでしょ」というようなことを語っていたが、この発想は、アジア主義者の理想が志半ばで挫折したから非難されているのだという心情を表しているのだろうと思う。宮台真司氏は、アジア主義者の理想の挫折を、理想を求めながらその手段を間違えたために、結果的に理想とは程遠いものをもたらした論理の展開を、失敗の歴史として正しく受け止めなければならないと語っていた。理想を求めることは正しいが、理想のために手段を選ばずという方向に論理が展開すれば、それは非常に危険な一歩を踏み出すことであり、悲惨な結果をもたらすということを学ばなければならない。日本人としては、かつての戦争を、その結果のみを取り上げて「侵略」だと一方的に非難されるのを、心情的には反発したくなる気持ちは理解できる。そんなつもりではなかったのだと言いたくなる気持は、日本人であれば理解可能だろう。しかし、それは心情的な問題であって、論理的にはやはり「侵略」を認め、結果がなぜこのような正反対のひどいものになったかという原因を論理的に正しく求めなければならないだろう。日本人が、かつての戦争を「侵略」ではないといいたい気持を、僕はこのように理解しているのだが、マル激の議論を聞いていると同じような心情が中国人にもあるような気がする。ゲストの平野さんによれば、中国はその近代化のモデルを明治維新によって成功した日本に求めたところがあったということだ。最も大きな注目点は、国民国家として民族的な統一をして、国を一つにまとめて近代化をした点に求めたらしい。近代国家としての富国強兵を目指すなら、日本のように民族を統一してナショナリズムを高揚させることが課題だと考えたらしい。このような発想を前提にして考えてみると、チベットの仏教の弾圧なども、民族的な統一を図るためには漢民族と同等な習慣・習俗を押し付けることが正しいという発想が見えてくる。中国語を押し付けたということもあったらしい。これなどは朝鮮半島で日本語を押し付けた日本の姿と重なるところだ。それは、日本が朝鮮半島の人々の文化を破壊したひどい行為として今は語られているが、アジア主義的な視点から言えば、朝鮮半島の人々も日本語を学んで日本人になることで国家としての統一が図れると考えたのではないかとも感じる。結果的には、日本語の押し付けはうまくいかなかったのだから、アジア主義者たちの予想は外れたことになる。つまりそれは間違いだったわけだ。この間違いをどう正しく理解するかが、今の中国の間違いを合理的に理解することにつながるのではないかと思う。かつての日本の戦争を「侵略」でないといえば、それは歴史を否定するものだと非難されるだけだった。しかし、あの戦争を「侵略」でないと考える考え方こそが、結果的に「侵略」を生むという論理の皮肉を正しく理解するには、そのような考え方を、考えてはいけないことというようなタブーにするのではなく、そのような発想が生まれてくる可能性を理解することが必要なのではないかと思う。宮台氏は「アジア主義」を学ぶべきだといっているが、それは「アジア主義」に共感して賛成することではなく、その間違いを正しく理解するために学ぶべきだと語っているのだろうと思う。今の中国の間違いを理解するヒントはこのようなところにあるのかもしれない。そして、そこにどのように伝統的な中華思想の蓄積が関わっているのか。その構造が整合的に理解できたとき、チベット問題も合理的な理解が出来るのではないかと思う。
2008.05.23
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マル激の238回[2005年10月14日] の放送では「まちがいだらけの東シナ海ガス田開発問題」というテーマでゲストに猪間明俊氏 (元石油資源開発取締役)を招いて議論していた。これがたいへん面白い議論で、マル激の紹介文には次のように書かれている。「東シナ海のガス田開発をめぐる日中対立に解決の兆しが見えない。先の日中局長協議で日本側は、中国側が開発したガス田が日本が主張する権益境界線をまたいでいる可能性があるとの理由で、共同開発、地下のデータ提供、中国による開発の中止を求めている。 しかし、石油・天然ガスの探鉱開発の実務に40年携わってきた猪間氏は、境界線については日中双方に言い分があるとしても、日本の要求は国際的基準や業界の常識からはずれたものだと懸念する。また、日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり 、中国が既に巨額の費用を投じているガス田にこだわればその機会を逸するとも主張する。 なぜガス田をめぐる日中対立は続いているのか。なぜ中国側が提案する共同開発ではいけないのか。日本側が意図的に対立を長引かせている面はないのか。ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている東シナ海ガス田開発問題の深層を探った。」専門家から見れば非常識な要求を日本が突きつけている理由は何だろうか。そこに戦略的な合理性はあるのか。上の紹介文からは、日本の外交姿勢が、日本の利益を損なうのではないかという懸念が語られている。もしこの外交政策の方向が合理的な思考から出てきたものでないなら、それは「煎じ詰めれば」中国に対して「けしからん」という感情で対応しているに過ぎないものと解釈できるのではないだろうか。上の文中には「ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている」という言葉がある。これは、嫌いな中国を非難して貶めることで溜飲を下げるということにならないだろうか。もしそうであれば、好き・嫌いで外交政策を考えていることになるのではないかと思う。東シナ海ガス田問題は、中国との外交の問題の多くの中の一つに過ぎないが、これが典型的な一つであるなら、外交の主流はこのようなものだと判断しても間違いではなくなるだろう。この問題は、内田さんが指摘するような特徴を感じるだけに考察に値するのではないかと思う。まずはこの問題の大雑把な理解をするために、ウィキペディアの「東シナ海ガス田問題」を見てみると、基本的な問題は、海底に眠っている資源に対する権利が中国と日本のどちらに帰属するかということの対立のように見える。それぞれが、権利の及ぶ範囲の主張が異なっていて、中国側の採掘が日本の権利を侵しているというのが日本の主張だが、中国側はそれは正当な権利の行使だと主張していて、双方が歩み寄っていないというのが現状らしい。「問題となっているガス田は両国の排他的経済水域内にあり」と書かれているように、双方の主張は、「排他的経済水域」という言葉の定義を現実に適用したときの矛盾した面が出てきているのが一つの特徴だ。言葉というのは、現実に関係なく定義することが出来るので、それが現実にあわなくなる場合がある。本来なら権利はどちらかに帰属しなければならないのだが、この場合はどちらにも権利があるといえるので、問題はそれをどう調整するか、双方が納得する形でどう「手打ち」をするかということになる。この「手打ち」には唯一の正しい解答はない。どのような「手打ち」をするかは、外交政策の成果として評価される。可能な限りの最大限の利益をあげられる外交的「手打ち」なら、それは現時点での最も高い評価を受けるだろう。マル激では、専門家の猪間明俊氏によれば、日本側の政策は「手打ち」と呼べるような姿勢は感じられず、むしろ問題を解決しないように無理な要求を吹っかけているように見えるようだ。この無理な要求は、いったい何を基礎にして出てきているのか。宮台氏に寄れば、それはナショナリズムというものから出てきているものかもしれないということだった。中国との交渉で、現時点で最大の利益を引き出す方向というのは、中国側の提案による共同開発で妥協することだと、専門家の猪間明俊氏は語る。しかし、中国側の提案を受け入れるということは、ナショナリズムで吹き上がっている人々にとっては、中国側に押し切られて情けない姿をさらしているように見える。嫌いな中国の自由にさせるのは「けしからん」というふうに映っているのではないかということだ。中国側の言い分のほうに理があるということは、専門家としては常識の範囲に入ることらしい。一つには、中国側の海底油田が、日本が主張する海域の外側にあって、油田そのものの位置は権利を侵害していないということがある。だから、日本の主張は、地下でつながっているかもしれない資源が中国側に取られるのが権利侵害だと主張しているようだ。しかし、これに対しても、地下資源の権利に関しては大陸棚条約というもので、基本的には大陸棚が帰属する国にその権利があるという解釈があるらしい。水域という海の範囲では日本に権利があっても、大陸棚という地下資源では中国に権利があるという主張が認められる可能性もある。日本の権利主張はかなり弱いらしいのだ。日本の主張する海域の外で中国が開発しているということは、ここまでは中国のほうがかなり譲歩していると受け取ったほうがいいのかもしれない。マスコミが報道するように、日本の権利が及ぶ範囲で中国が勝手なことをしているのではないと解釈したほうが正確なのではないだろうか。中国側が譲歩しているように見えるのは、もっと強硬な姿勢をとったときの悪影響を考慮しているのではないかと思う。日本が主張している海域の範囲に関しては共同開発を申し出ているのも、中国側の譲歩と受け取ったほうがいいのではないかと思う。そうすれば、この譲歩をうまく利用して交渉したほうが外交的には成果が上がるのではないかと思う。中国側が譲歩してでも開発したいというのは、そこにかなり大きな資源が眠っている可能性があるからではないかとも猪間明俊氏は語っていた。そして、現在の中国にとってはエネルギー源の確保は国家的に非常に重要であるという指摘もあった。そのようなことを考えると、この交渉は状況的には日本に有利な展開が予想される。それなのにどうして、中国側の提案を受け入れることは、日本にとって敗北であるという解釈がされてしまうのだろうか。中国は譲歩せざるを得ない状況にあるのだから、最大限の譲歩をさせて中国側の提案を受け入れるのが外交的には正しいのではないかとも感じる。日本側が強い姿勢を見せるために、この中間的な危険な海域で日本側も試掘を始めようという動きもこの時点であったようだ。これは危険な試みなので、海上自衛隊の護衛艦を伴って試掘が出来るように法改正をする動きもあったようだ。しかしこれは危険すぎる賭けで、結果的には日本の不利益になるだろうと猪間明俊氏は指摘していた。これは一種の挑発行為であり、戦争が起こる危険さえある。だが、猪間明俊氏は、中国側は戦闘行為をするような単純な反応はしないだろうと言っていた。もし、日本側が護衛艦を伴った試掘を、まだ紛争中の海域で行ってしまえば、中国にもそこで試掘をすることの正当な理由を与えてしまうという。日本がやっているのだから、中国がやっても権利的には同じだというわけだ。そのときに、日本側がその中国の行為を阻止できるかといえば、そんなことをすれば戦争のきっかけを作ったのは日本ということになり、国際的な非難を浴びるのは日本のほうになるだろう。中国側は、日本の試掘などは放っておいて、日本よりもさらに強力な海軍の護衛で、それこそ日本よりもはるかにたくさんの試掘をやりまくるだろうというのがマル激の議論だった。もし、日本がそのような行為に出てくれれば、中国側は待っていましたとばかりに、今まで出来なかった海域での試掘ができるということで、むしろチャンスだというふうに受け取るだろうということだった。猪間明俊氏のこの指摘は当たっているのではないかと僕は思う。中国の思考というのは、そのような合理的・戦略的なものではないかと感じるからだ。中国側の思考は、感情的な溜飲を下げるというものではなく、実質を取る頭のいいものではないかと感じるからだ。情緒的な気分のよさを取るよりも、実質的な利益のほうを取るという合理性は、日本人からすると気持ちの悪いものに映るのではないかとも感じる。日本人は、多くの場合、合理性よりも溜飲を下げるほうを選んできたように僕は感じるからだ。日本人が中国人を理解するのが難しいのは、情緒よりも合理性を優先させるという心性があるからではないだろうか。これが中華思想に通じるものなのかは分からないが、日本人の思考は世界標準から見るとかなり特異ではないかと思うので、中国人だけでなく、合理的・論理的に思考する人々を理解するのに苦労するのではないかと思う。東シナ海ガス田問題は、合理的に考えれば、中国側の提案を受け入れて共同開発することが外交的には正しいように見える。これがなぜそうならないのか。そうしない合理的な理由が他にあるのか。宮台氏は、中国側に「嫌がらせ」をするという目的だったら、問題が解決しないことが目的になるので、いつまでも問題に止めておくことは戦略的なものになるといっていたが、「嫌がらせ」をすることが日本の利益になるかどうかは難しいだろう。利益という観点から考えれば、「日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり」と専門家は見ている。中華思想との関連で言えば、中国が合理的・論理的に行動している範囲では、わざわざそのようなものを取り上げて理屈を考えなくてもいいのではないかと思う。普通の論理で理解すれば、その合理性は分かる。しかし、普通の論理ではその合理性の理解が難しい時は、もしかしたら中華思想の持っている、論証抜きの先入観がその思考に影響しているかもしれない。チベット問題においては、中国の思考・行動の合理性は、論理的には理解できないことが多い。このような論理的に理解しがたい行動の問題を理解するためには、中華思想というような歴史的な影響を考慮することがいいのではないだろうか。そのような観点で中華思想というものを見てみようかと思う。内田さんが語るような中華思想を考慮したとき、チベット問題での中国の態度が果たして納得できるものとして説明できるかどうか。考えてみたいと思う。
2008.05.22
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自民党の河野太郎衆議院議員のブログに「大本営発表と提灯持ち」という興味深い一文を見つけた。これが論理的な観点から面白いと思うのは、河野さんが反論している厚労省の言い分というのが、形式論理的には必ずしも間違っているとは言えないのだが、年金の議論の全体の中でその主張を位置付けてみると、河野さんが言うように「省利省欲をごり押ししてきた」と判断するのが妥当のように思えてくるからだ。それだけを個別に取り上げれば、論理的には必ずしも間違っていないのに、年金議論の全体の中で、年金の運営をいかに整合的に行うかという観点から見ると、それは国民一般の利益になるのではなく、厚労省の利益をもたらすような利権を生み出すことに寄与する議論になっている。国民の利益にはならないような主張が展開されている。ある種の主張をもたらす論理をたどってみると、その前提としている「事実」の解釈が一つに決まらないため、どれを前提としての「事実」と設定するかで、結論としての主張が変わってくる。そのような主張の場合は、たとえ正反対の結論が得られて、双方がそれを主張していても、どちらかに決定するというのが難しい場合がある。現在の段階ではどちらも認めて、それぞれに一理があると言わざるを得ないときもある。内田樹さんが主張していた、現在中国政府の政策を批判している人たちが、「「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない」という判断は、それに反対する見解も、今の段階ではともに両立する主張になるのではないかと思う。なぜなら前提とする「事実」を確定することが難しいからだ。おそらく反対の主張は、前提とする「事実」に違いがあるのだろうと思う。これが確定したときに、どちらの主張が正しいかが決定するのではないかと思う。さて、河野太郎さんの主張は、その正反対の厚労省の主張に対して、その前提の選び方に妥当性があるように僕は感じる。厚労省の主張の前提の選び方は、省益に都合のいいように恣意的に選ばれているように見える。客観的な妥当性を感じないのだ。そのあたりのことを考察すると、現段階では主張の正しさが確定しない内田さんの主張も、どのような角度から考えていけばその正しさを確定する方向にいけるのかのヒントが得られるのではないかと思う。河野さんは、以前から年金財源を税方式にすべきだと主張してきたが、これは厚労省の主張と真っ向から対立する。厚労省は、あくまでも年金財源を保険制度として確保していくことを主張している。この決定は、どちらのほうが有効性が高いか、あるいは障害となるものが少ないかによって判断されなければならないだろう。そしてその有効性や障害は、国民の負担と利益のバランスの関係から判断されるのが客観的といえるだろう。国民にとっての負担や利益の観点よりも厚労省の省としての利益が優先されるということはないだろう。もしもそういうふうになっていれば、それは厚労省のエゴであり、年金の議論全体の中では明らかな間違いであるといわれても仕方がないものになるだろう。年金財源を税方式にすれば厚労省の利益が削減されることは確かなことだ。直接的には、厚労省が自らの判断で運営できる資金としての年金ではなくなり、国会での予算審議を経て運営しなければならない税になれば、厚労省として使いたかったところにその金を回すことが出来なくなる。さらに、年金が税方式を基礎にすれば、その運営を担当する社会保険庁という役所は要らなくなる。厚労省としては、そこで抱える役人を削減されるということになるだろう。これも厚労省にとっては利益を損なうということになるだろう。この利益を守るためには、税方式に反対し、今までの保険制度のままで存続させることが必要になる。だが、始めにそのような目的ありきなら、それは厚労省の省益を守ることであり、厚労省のエゴに過ぎないということになる。これを、そうではないという議論にするためには、今までの年金制度のほうが優れているか、あるいは税方式の方がよりまずくなるということを主張して説得しなければならないだろう。未納者の比率が高く、しかもその運営において大きな赤字を作り、さらに社会保険庁の職員について言えばいかに働きが悪いかが報道されている現在の制度のほうが優れているという主張は、いかに厚顔無恥であろうともなかなか出来ないだろう。そうなれば、税方式のほうが悪いということを宣伝するしかなくなるが、河野さんの批判と反論はそこを指摘する。河野さんは「特にひどいのは、毎日新聞で、まるで税方式だと24兆円の増税になるかのような報道ぶりだ」ということを書いているが、厚労省の主張は、税方式にすると国民一人あたりの負担が増えるということをその欠点としてあげるものになっている。これは論理的にはそのとおりに違いない。「年金を支給するためには、財源が必要だ」と河野さんも書いているとおり、お金がなければ年金を払えないので、そのお金を確保するためには、今まで税として予算を立てていなかったのだから、その分増税になるのは論理的に必然だ。そして増税になれば、それが国民の負担になるのも当然だ。国民の負担が増えるという厚労省の主張は論理的には間違いはない。だが、これは個別に税の負担という観点で見たときの論理に過ぎない。厚労省は年金を今までどおり続けていったときの負担については何も語っていないようだが、河野さんが書いているように、「その財源を税にするか、保険料にするかが問われている」というのが、年金問題の議論での全体的な観点からの考察のポイントだ。税にすれば確かに税の負担は増える。しかし、保険料にすれば税の負担はなくなるが、その他の負担は増えないのか。保険料にした場合の大きな負担は、すでに議論されているように、保険料を支払う世代の負担増だ。年金を受け取る世代に比べて、それを支えて支払う世代が大きく減ってくるというのがこれからの日本社会のあり方だ。この保険料を払う世代は、増税で降りかかってくる負担よりもいっそう大きな負担を受けるだろうことが予想されているのではないだろうか。この負担は受け取る世代の負担ではないから、受け取る世代は問題にしなくてもいいだろうか。これはそう簡単にはいかないと思う。大きな負担を若い世代が受けつづけてくれれば問題は表面化してこないだろうが、年金未納者が増えているということは、その負担は背負いきれなくなってきていると考えなければならないだろう。負担が背負いきれなくなれば、それはやがて年金を受け取る世代にも回ってくる。おそらく年金の支給額を引き下げなければならないときがやってくるだろう。どちらの負担がより厳しいかという議論がされなければならない。河野さんは、「現行の保険料方式でも毎年、厚生年金の保険料率と国民年金の保険料金額は上がっていく。そこはまったくコメントされていない」とも書いている。厚労省は、本質的な議論において都合の悪いところには触れないようにしているように見える。このことだけでも、この議論においては厚労省はまっとうな議論をしていないという感じがする。議論においては厚労省の負けであり、河野さんの主張のほうに正当性があると僕は感じる。また、河野さんは、以前の主張の中では、年金未納者が高齢になったときに年金は支給されないが未収入で生きていくことは出来ないので、それをどう解決するかという問題が生じるという指摘もしていた。年金未納者は野垂れ死にしてしまえというような態度は、近代国家としては取ることが出来ないだろう。当然のことながら、年金がなければ生活保護をはじめとする福祉制度で生活を支えなければならない。年金財源のツケは、最終的には税金の負担のほうに回ってくる。このように年金の問題は、それを税方式にしたときに、増税されるという表面に現れる分かりやすい問題だけで議論が終わるのではない。それを、この分かりやすい不利益の問題だけに絞ってアナウンスするのは、年金の議論としてはやはり間違っていると判断したほうが妥当だろう。河野さんも次のように書いている。「基礎年金の果たすべき役割と現状についてなど、まず議論するべきことをすっ飛ばして税方式か保険料方式かに焦点を当てるというのは、省の利権を守りたい厚生労働省の策略だ。」このような厚労省の主張に対して、記者クラブからのマスコミ報道が、厚労省の主張に沿ったものになっているという。このマスコミの報道が、それしか情報源のない人たちに影響して一つの世論を形成してしまったら、本来の正論は河野さんのようなものであるのに、「今年金制度を議論している人々の主張」は、税方式の批判をしていると解釈されてしまうのではないだろうか。実際にはそうでない人がたくさんいても、社会の「事実」としての解釈はそのようにされる可能性が高い。この年金議論で重要なことは、税方式と保険料方式という違う方法が、どちらのほうが国民の負担が減り、より有効に年金を活用できるかという、合理性の問題を議論して正しい解答を出すことだろう。現状認識として、マスコミによる世論が税方式の批判に偏っていると判断して、その世論の内容は間違っていると批判するのは、あくまでも正当な議論の方向に戻すためのものになる。そのときに、世論はそのようなものではないという議論も生じる可能性があるが、それは年金問題の議論にとっては本質的なものではない。そのような世論が形成されようがされまいが、大事なのはどちらの方式のほうが有効かということを議論することだろう。内田さんの主張の本質も、<中国という国の持っている本質的な部分を理解せずに、好き・嫌いという感情の部分で相手を判断して付き合うような外交ではない考え方をしなければならない>というものだと思う。これはまったくの正論で、この範囲では反対する人はおそらく少ないだろう。問題は、「煎じ詰めれば」そのような外交になっているものを、どう改善していくかという捉え方だろう。表面的には感情的なものではないように見えるものでも、「煎じつめて」その本質を解釈すると、好き・嫌いで判断しているといえるものがあるかもしれない。内田さんの指摘が、すでにそうされていて、もはや好き・嫌いで外交を行っているのではないと言えるものなら、中国との付き合い方の失敗(これは事実として失敗しているように見える問題がかなりあるだろう)は、内田さんの指摘以外の原因があると考えなければならない。年金問題において、税方式にすると悪くなるという厚労省の指摘は、年金問題が悪化する原因を他のものにも求めることが出来るし、その方が妥当性が高いとも思われる。だから、厚労省の主張には間違いがあると判断できるだろう。内田さんの、中国との外交における問題の指摘も、他の原因のほうが妥当性の高いものとして得られるなら、内田さんの指摘は見当はずれということになるだろう。いくつかの中国との外交の問題で、失敗の原因が分析できそうなものを探してみようかと思う。そうすれば、内田さんの主張に対する評価もよりはっきりしてくるのではないかと思う。
2008.05.21
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内田樹さんが2008年04月21日に書いた「中国が「好き」か「嫌いか」というような話はもう止めませんか」というエントリーについて、この文章の内容を論理的にどう受け止めるかということを詳しく考えておきたいと思う。僕のエントリーにコメントを寄せてくれた佐佐木さんという方が「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」というページでこの文章に関連した主張を展開していたからだ。佐佐木さんの文章はかなりの長さで、しかも内容が多岐に渡っているので、それをまず理解するのも大変だ、だから、まずは内田さんの短いエントリーを自分なりに確認しておこうと思う。その上で改めて佐佐木さんの文章も読んでみたいと思う。文章の読解というのは、論理の範囲であれば、誰が判断してもそのようにしか読めないという結論が得られるだろうと僕は思っている。人によって解釈が違ってきてしまう部分というのは、論理だけでは読み取れない、現実とのかかわりのある「事実」の判断が入り込んでくるのではないかと思う。内田さんの文章で、論理の範囲で結論付けられることは何かを考えてみようと思う。その上で、論理では判断できない細部に渡って、佐佐木さんと僕との解釈の違いを考えてみようと思う。おそらく文章の読解において食い違うところがあるだろうと思う。その食い違いはどのような原因から生まれるのか。また、その解釈は、文章の読解の上では仕方のない多様な読み方であるのか。あるいは、文章に書かれていないある事柄を前提とすると得られるような解釈になっているのかどうか。まずは、内田さんのエントリーにおける主題を考えてみようと思う。この主題は、エントリー全体の主題と内田さんが「週刊現代」という雑誌に寄せた文章における主題と、二つを区別したほうがいいだろうと思う。僕がここで求めたい「主題」は、野矢茂樹さんが『論理トレーニング』で語っていた「何について」語っているのかという「何」を主題と考えている。このエントリーそのものの主題は、僕は「とりあえず「中華思想の骨法がわかれば中国は御しやすい」というようなことはどこにも書いていないことを明らかにしておきたいのである」という内田さんの言葉から読み取りたいと思っている。このエントリーで、内田さんは「「中華思想の骨法がわかれば中国は御しやすい」などという愚なるタイトル」を「週刊現代」の新聞広告で目にした、と書いている。そしてそれを見て「誰だ、このバカはと思ってみると、私の名前が書いてある」ということに内田さんは驚いていた。内田さん自身は、そんな内容の文章を書いた覚えがないのに、このタイトルのままでは誤解をされてしまうだろう。そこで、このエントリーで全文を公開して、このタイトルがいかに間違っているかを判断してもらおうというのが、このエントリーの中心にあるものだと僕は見た。つまり、 <週刊現代がつけたタイトル>について書かれているというのが僕の主題の捉え方で、主張は、「それががいかに内容に反したものであるか」というようなものであるというのが僕の文章解釈だ。内田さんは「私はたしかに中華思想の理解が喫緊の課題であることを寄稿には書いた。「中国人を動かす工夫」の必要であること、その必要性を理解している方がきわめて少ないことを私は書いたが、どこにも「御しやすい」などということは書いていない。「御しにくい」から「御し方を研究したらいかがか」ということを書いたのである。13億の中国人が机上の空論ひとつ聴いただけで「御せる」ものなら誰も苦労はしない」と書いている。この文章を読めば、内田さんの意図が、週刊現代がつけたタイトルにあるように「中国は御しやすい」などというものの正反対であることが分かる。ここまでは、論理的に他に解釈の仕様がないので、主題と主張の解釈については同意してもらえるのではないかと思う。そして、この内田さんの意図が、その文章からも客観的に受け取れるものであるなら、内田さんが主観的にそう思っているだけでなく、誰もが、週刊現代のタイトルのつけ方のほうがおかしいのだと同意するだろう。そうすれば内田さんの主張が賛同を得られるのだと思う。さて、実際に週刊現代に載せられた文章の主題はどのようになっているだろうか。この文章は「何」について書かれ、「何」を問い、どう答えているのか。その中心にあるのは「何」か。それは「中華思想の骨法」あるいは「中華思想の本義」と語られているものになるだろう。これを内田さんは「「前後矛盾」のロジック」あるいは「「周辺に広くグレーゾーンが拡がっていることを常態とし、その帰属をはっきりさせようとするすべての企てに反対する」という言葉で表現している。そしてこのことについての主張は、この中国のロジックが、日本人には主観的に理解しにくいものであるということが一つ。そして主観的に理解しにくいものを感情的に拒否するのではなく、そのロジックの合理性を理解して、「私たちとは違う中国人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、中国人を操作する工夫したらいかがか」というものになる。この文章は、週刊現代がつけたようなタイトルを先入観にして読むと、「中国人を操作する工夫」というものが、あたかも、「中華思想の骨法」が分かれば、中国人を自由に操れるという「御しやすい」という低俗な解釈になりかねないものを感じる。しかし、実際には、日本人とまったく違う発想、それは日本人から見ると気持ちが悪くなるくらい感情的に相容れないような発想をするのだから、まずは理解することが大変なものであるという自覚をしなければならないだろう。理解することが難しいからこそ「研究し」、そこから引き出された法則を見つけなければならないのだ。このように考えれば、「中華思想の骨方」などは、簡単に求められるものではないことが分かる。だから、当然のことながら「御しやすい」などという判断が出てくるわけがない。簡単には得られないものを根拠にして「御す」ことを考えなければならないのだから、「やすい」などという接尾語をつけて表現することなど出来ないだろう。このように、実際の内田さんの文章も、「御しやすい」などという解釈は論理的には出来ないだろうと僕は思う。週刊現代は、何らかの意図があってこのようなミスリードをするようなタイトルをつけたのだろうが、内田さんが主張するように、それはまったくの間違いであり、内容を捻じ曲げて解釈して、特集の意図に沿うようにタイトルを捏造したといえるだろう。このエントリーに関する限り、内田さんの主張には論理的な問題はないように僕は感じる。論理的には、内田さんが語ることはまさにそのとおりだと言えるだろう。だが、ここで佐佐木さんが問題にしているのは、この主張と論理的には直接関係がないと思われるが、「中国政府の政策を批判している方々のロジックは煎じつめると「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない」と内田さんが語っていることについてだ。このことは、「御しやすい」かどうかという問題とは直接関わりはない。あえて言えば、現状認識の問題、実際の「事実」をどう受け止めるかという解釈の問題といえるだろう。この内田さんの言葉を理解するには、「煎じつめると」ということをどう理解するかということが問題になるだろう。これは曖昧な言葉なので、解釈の余地をかなり残すのではないかと思う。今「中国政府の政策を批判している方々」の言うことを「煎じつめて」そのロジックだけを取り出して一般化した場合、「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎないと言えるかどうか。このことについては、内田さんは詳しく書いていないので、現状認識として、内田さんが言うような判断が出来るものかどうか自分で考えてみなければならない。佐佐木さんはそのような判断は出来ないと主張しているようにも見えるが、それは見解の違いとして、どちらか一方に決定することが出来ないものとして理解したほうがいいのか、それともどちらかが間違っているものとして、事実のどこかが違っているのか、その判断は今すぐには出来ない。感覚としての印象で言えば、中国が嫌いな日本人はどうも数が多いらしいということだ。それも、インターネットで声が大きい日本人は、日本人一般よりも中国嫌いの割合が多いんじゃないかという感じがしている。個人的な感想で言えば、僕は個人として自分が知っている中国人には悪感情を抱いたことがない。習慣も国民性も違っても、仲良くなればみんないい人だ。仲良くならなければ嫌なやつもいるという、ごく当たり前の付き合いをしているだけのことだ。でも国家としての中国はどちらかと言えば嫌いなほうだろう。個人の自由を許さない全体主義国家は、これだけ自由にあふれた日本に住んでいれば、好きになれなくても仕方がないだろう。中国で国家に支配され(自由を抑圧されという意味)ながら生活をするのは嫌だという意味で中国という国家が嫌いという感情はある。一般的には、国家としての中国が嫌いな日本人が多くてもそれは仕方がないだろう。現実のアメリカは必ずしも平等な民主主義国ではなくても、アメリカの理想イメージが好きな日本人が圧倒的に多いのも無理はないという状況と同じように、イメージとしての中国が嫌いな日本人が圧倒的に多いほうが、論理的には整合性があるだろう。だから、そういう人が井戸端会議的に・飲み屋の親父の会話風に中国政府の政策を批判したら、どうしたって「好き・嫌い」を基礎に「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」と言いたくなるだろうと思う。そういう意味では、内田さんが認識する現状もありそうだという気はする。マスコミの情報を鵜呑みにしがちな庶民の政治談義はそんなふうになるかもしれない。だが、「中国政府の政策を批判している方々」というのが、マスコミに登場する専門家を指すのであれば、その専門家のうちの何人が内田さんが言うような傾向をもっているかは検証しなければならないことになる。この検証は僕には難しい。マスコミの報道であるテレビはほとんど見ないし、今は新聞も取っていない。インターネットのニュースを見るだけだ。せめて、テレビに登場する頻度の大きな人が、中国批判として何を語っているかが分かるといいと思うのだが、ユーチューブなどを利用して探してみようかと思う。中国批判の実態については、内田さんの文章とは独立に、その現在の姿をよく反映している「事実」を探し求めたいものだと思う。
2008.05.19
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野矢茂樹さんが解説するウィトゲンシュタインの発想を考えてみると、「世界」を「成立している事柄」という「事実」から出発していることが分かる。しかし、ウィトゲンシュタインは、この「事実」が何故に「事実」なのか。つまり、どうやってそれが実際に成立していることであるかを確かめるすべについては何も語っていないように見える。ウィトゲンシュタインにとっては、その事がらが「事実」であるかどうかは所与のことであり、関心はそれを使って展開される論理のほうにしかない。「事実」の確認の仕方については何も語っていないようだ。ウィトゲンシュタインは、原理的には「事実」を現実に100%確認することは不可能だったと考えていたのではないかとも思う。現実を観察して、その現象を言語によって表現するとき、それが本当に現実を反映した表現になっているかどうかは、常に解釈の余地を残すだけに確定しないのではないかと思う。たとえばある人物を親切で温かい心の持ち主だと受け取って、それが「事実」であると判断したとする。しかし、実はある利害関係から、そのように振舞っていたほうが得だという場合もある。また、以前は本当に親切で暖かかったけれど、困難な状況が訪れて、とても他人のことなど心配していられなくなって今は親切で暖かくなくなっているかもしれない。「事実」は勘違いがあり得るし、変化して違ってしまうことがある。「事実」はそれを解釈する主体によって違ってしまうということが原理的なことになるのではないかと思う。それでウィトゲンシュタインも独我論というような発想に傾いたのではないだろうか。そして、解釈した「事実」が違えば、それから構成される論理空間が違ってくる。何が考えられるかという思考の展開が違ってしまうので、このような時は「世界」そのものも違うのだと判断したのではないだろうか。実際に「それでもボクはやっていない」で描かれていたように、被告である青年が前提としている「事実」(痴漢をやっていないというもの)は、有罪判決を出した裁判官が前提としている「事実」(状況証拠がすべて、青年が痴漢をやったという結論を導くものになっているということ)と重ならない。二人の「世界」はまったく違うものになっている。青年にとっては「痴漢をしていない」というのは100%確実な「事実」だ。しかし裁判官にとってはそれは「事実」ではない。「事実」として直接確かめることは出来ない。現行犯として目撃していないからだ。だから裁判官は、これを論理によって判断する。その前提となるのはさまざまな状況証拠だ。たとえば被害者である少女の証言について、映画では裁判官は、これは非常に信頼性の高いものとして解釈していた。青年の位置関係や、そのとき手がどの場所にあったのかということも状況証拠として考慮される。これらが「事実」だという前提に立てば、青年の容疑を直接確認することは出来ないが、論理的な帰結としてその容疑は本当に犯行としてあったのだと判断することができる。「事実」の前提が、青年にとってはその容疑は冤罪に間違いないので、少女の証言も論理的な帰結としては「勘違い」であろうということになるだろう。このように「世界」が違えば(所与の「事実」が違えば)論理的な帰結が違ってくる。論理空間がまったく違うものになる。このような発想がウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で展開したものではないだろうか。それは現実の「世界」の出来事を論理を使って考えるもので、抽象的な数学の世界を論理によって構築するものではない。あくまでも現実世界で、どのようなことが思考可能なのかを解明するための論理構造の捉え方を考えた発想だろう。被告の青年の世界では「痴漢をしていない」ということが「事実」として確認される。したがって、「痴漢をした」というような結論が論理的には導かれるはずがない。なぜなら、そのようなものが導かれるなら、ある命題の肯定と否定が同時に結論されるという矛盾が生じてしまうからだ。しかし、この「事実」を前提に持たない「世界」では、「痴漢をした」という結論が導かれても論理的には何ら問題はない。「世界」の違いが論理にもたらす影響は大きい。現実世界では、あることが「事実」であるかは、視点の違いによって解釈が違ってくる場合があるので、原理的には万人にとっての「事実」は確定できない。現実世界で「事実」だと思える事を個人的に解釈するか、一般的には「蓋然性」として確定するしかない。裁判における判決などは「蓋然性」が高いと思われるものを「事実」として認定するという原則になっているのだろう。原理的には100%確実なことはわからないということは、すべてが混沌としているということとは違うだろうと思う。99%確実なことが分かっていれば、それはほぼ100%確実だと思ってもそれほど間違いはないと受け取っていいのではないかと思う。すべてを100%分かろうとする哲学的な姿勢を持っていると、世の中のことというのはすべてあやふやなことばかりに見えてくるだろう。現実世界は混沌としていると思えてくる。だが、大部分は期待通りの結果を示すのが現実世界でもある。期待を裏切られたり、結果が分からなかったりすることに重大で深刻な問題があるから、現実が混沌としているように見えるだけで、つまらない日常的な事実はたいていは予想通りになる。深刻で重大な問題では、所与の事実がどのようなものであるか、それから展開される論理がどのようなものになるかに慎重になったほうがいいだろう。国会では道路特定財源の再可決の問題が論じられていたが、これなども何が事実であるかがわかりにくいものだろう。暫定税率の維持が、道路族の利権を維持させるだけで、国民にとっては本当に必要なところに税金が使われずに、無駄なところ(無駄な道路が作られる)に使われるということが「事実」であるなら、暫定税率の維持に反対するという判断が論理的な帰結としては正しいだろう。だが、これが「事実」であるかどうかの判断は難しい。これが直接確かめられない「事実」であれば、これが他の「事実」から導かれる論理的帰結であるかどうかを考えなければならない。それは一つには、マル激で議論されていたことだが、日本における道路の整備の比率を数値的に明らかにするということだ。マル激によればそのデータはすでに先進国中でも最高の水準になっていて、もはや高速道路整備という点ではほとんど終わっているということを「事実」としてもいいだろうと語っていた。マル激ではこのように判断していたが、これを「事実」として認めていないというのが、国会および地方自治体の長の議論ではないかと思う。そうすると判断を論理的にもう一つさかのぼると、日本では必要な道路というのがどのように評価されているのかという「事実」がまた問題にされなければならない。高速道路というものが本当に必要なものなのかどうか。必要だということが「事実」になるのか、それとも、もう十分だということが「事実」になるのか。だが、これも直接現実を解釈して引き出せる「事実」にするのは難しい。必要だという判断と、十分だという判断の基準が「蓋然性」のある、多くの人が賛成するものでなければならないということがあるだろう。評価という判断には、利害関係が絡んでくると客観性が弱くなる。多くの人にとって必要かどうかよりも、自分の利益にとって必要かどうかという判断が評価に滑り込んでくる。こうなると「蓋然性」の低い判断が導かれてしまうだろう。論理の問題というのは、その前提である「事実」の確認が難しいものである時は、解答を出すことが非常に困難な難しいものになるだろう。深刻な問題はそのようなものが多いように思う。論理的に正しいものという判断は、前提となる事実を考慮に入れずに、形式だけを判断するだけならそれほど難しくない。形式論理の論理計算において間違えなければ、形式論理的には正しいと言えるからだ。だが、前提となる「事実」に間違いがあれば、論理的な帰結の正しさの信頼性はなくなる。ここが、現実と形式論理の大きな違いの問題だろう。数学では、その前提をある意味では任意に設定できるので、前提の正しさをさほど問題にしなくてもいい。とりあえず、これを正しいことにしようということで公理を設定すればいい。しかし、現実の「世界」を論理で解明する時は、「世界」を解釈する「事実」の集まりをどうとるかで、「世界」が違ってしまう。道路特定財源の問題では、現実には政治的に力を持っている人間が「事実」として前提していることから展開される論理的な帰結の方向に向かっていくだろう。民主主義社会であれば、たとえ勘違いであろうとも、多くの人々が前提としている「事実」を元に論理が展開されるだろうが、不十分な民主主義社会では、何らかの意味で力のある存在が、その力を背景にして自らの利益を増大させる方向で「事実」を設定し、論理を展開していくだろう。道路特定財源の問題は、今の時点では「事実」を確認することが難しい。閣議決定のように、それが一般財源化されて、本当に必要なところに税金が回るようになれば結果的には国民の利益になる。しかし、一般財源化されても、結局は道路の方に大部分の金が回るようであれば、閣議決定は国民の目をそらすための嘘ということになるだろう。今の時点では何が正しいのかはなかなか言うことが難しい。特に、情報が限られている一般民衆の立場では確実なことは言えないだろう。だが、まだ結果が出ていないこれからのことを言うのは難しいが、もし将来結果が明らかになるような時が来れば、今は何が「事実」であるかがいえないが、その時は「事実」を語ることが出来るようになるだろう。閣議決定がされたことによって、予定されていた道路建設のための税金が減り、他のもっと必要なところに税金が使われるようになれば、現政府が語っていることが「事実」だということが確認されるだろう。しかし、将来も変わらずに道路への税金の使われ方が同じになるなら、現政府が今語っていることは「事実」ではないと判断できるだろう。その時は、「事実」か「事実」でないかははっきりと言えるようになる。しかし、そのときでは遅すぎるということになるかもしれない。遅すぎるタイミングにならないために、実は論理による思考の展開というものがあるのだが、そのためには、どんな「事実」を確かめて、その「事実」をどう組み合わせて論理的な帰結を得るかということを考えなければならない。かつては道路に特に税金をつぎ込むことは、日本の経済の発展にとっては必要だったし正しかったと言えるだろう。しかし今はどうなのか。それを正しく判断できるような「事実」をつかみたいと思う。論理的な帰結の正しさを信頼できるような、正しさが確信できる・論理の前提としての「事実」をつかみたいものだと思う。
2008.05.14
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ウィトゲンシュタインの基本的発想は、野矢茂樹さんに寄れば、ウィトゲンシュタインの関数概念ではラッセルのパラドックスが生まれるような自己言及文は言語の意味として無意味になってしまうということだ。それは論理形式からは排除されるので、論理的な言い方ではないということになる。このことを解釈すれば、ラッセルのパラドックスは、言語の機能としての論理を、その適用範囲の限界を越えて適用したために、不都合が生じたという感じになるだろうか。ラッセルのパラドックスは、言語適用の間違いによって引き起こされた無意味な命題に意味を与えてしまったということになるのではないかと思う。基本的な発想はこのようなものだと思われるが、フレーゲ・ラッセル的な記号論理に親しんできたものとしては、この発想を納得するのはなかなか難しい。都合が悪いから排除したというような、ご都合主義的な解決に見えてしまうからだ。ラッセルのパラドックスは、言語の意味としてちゃんと理解できる。だからこれが論理形式としては無意味になるということが納得できなければ、ウィトゲンシュタインの解決もすんなりと腑に落ちるというわけに行かなくなる。ウィトゲンシュタインの発想は、あくまでも現実の「世界」を出発点にしているところがフレーゲ・ラッセル的な発想と違うところだ。フレーゲ・ラッセル的な発想は、現実から抽象された論理世界を出発点にしている。それは現実世界の存在物である対象が抽象された、世界の部品からスタートして、それを組み合わせて論理的な表現である命題が構成される。そしてそのようにして作られた命題は、命題を作った時点では関数の値域である真偽はまだ決定していない。それは抽象の土台である現実にもう一度投げ返されて、現実の中にその命題の表現が見つかるかどうかで真偽が決定する。命題を作っただけでは、その命題が論理的な性質である真偽を持つかどうかが決定しない。この現実との照合というもので、ラッセルのパラドックスのように、それが現実に存在すると考えても、存在しないと考えてもどちらも論理が破綻してしまうというような深刻なアンチノミー(二律背反)が生じてしまう。これが二律背反ではなく、どちらか一方の矛盾だけですむのなら、矛盾を生み出した前提を否定するという背理法で片付けることが出来るのだが、肯定でも否定でも矛盾が生じるなら、それはどちらも否定しなければならなくなり、形式論理の大前提である「排中律」を否定しなければならなくなってしまう。これは受け入れがたい深刻な破綻である。ラッセルはこの破綻を「タイプ理論」によって回避しようとしたが、これは考えようによっては、都合が悪いことを排除するための工夫になるので、これもやはりご都合主義的な解決にも見える。ご都合主義的という面では、ラッセルもウィトゲンシュタインもどちらもあまり変わらないようだ。問題は、どちらの都合のほうが整合性があるかということだ。ラッセルは、現実との照合において、その命題が自己言及文になってしまうことにパラドックスの原因を求め、それを排除する工夫をしている。ラッセルのパラドックスでは、「自分自身に述語づけられない」という述語が、自分自身でこのような性質を持っているかどうかを考える。そして、肯定から出発すると否定が導かれ、その否定から出発すると今度は肯定が導かれ、これが無限に繰り返されるループになる。この命題は真偽が決定出来ないものになり、関数としては許されるはずなのに、その値域が決定しないという厄介な存在になる。命題を構成する対象に「タイプ」というものを設定して、命題の言及を「タイプ」の低い対象だけに限定すれば、「タイプ」が同じ自己自身に言及する命題はすべて排除される。しかしこの工夫は、すべての自己言及文も排除してしまう。これは強すぎる制限にならないか。無害な自己言及文というものもあるのではないか。野矢さんが挙げた例では「「曖昧」は「曖昧」である」というようなものは無害ではないのか。ラッセルの「タイプ理論」では、このようなものも排除されてしまう。ラッセルの「タイプ理論」は、現実の日常言語を扱うのではなく、数学での論理を扱うような表現だから、このような制限も正当だという言い方も許されるような気がするが、あくまでも現実世界を問題にし、日常言語が持つ論理性を解明しようとするウィトゲンシュタインにとっては、このような制限は整合性を欠くように見えるのではないかと思う。ウィトゲンシュタインは無害な自己言及文を排除しない。それが有意味なものであれば、関数の定義域に対象が入り、命題表現が値域に入ってくる。ウィトゲンシュタインの「名」の概念にとって「タイプ」は本質的なものではない。関数の表現において 「 x - y 」という形にしたとき、yは述語を表すので、定義域のxに含まれる「名」に対しては、もし「タイプ」があるのなら、yのタイプはxのタイプよりも高いものになる。しかし、それは「タイプ」というものが設定できるならということであって、すべての「名」にタイプがあるかどうかは、解明してみなければ分からない。ラッセルは、これを最初からすべての対象に対してタイプが設定できることを前提にしているが、タイプによって自己言及を避けるという必要のないウィトゲンシュタインでは、タイプのない「名」があっても少しも差し支えないことになる。実際に論理形式として自己言及が許される「曖昧」という「名」にはタイプはないと考えなければならない。それでは、「自分自身に述語づけられない」という対象の「名」はどのように排除されるのか。この「名」が自分以外の「名」を定義域に持つ時は、たとえば 「「厳密」は「厳密」ではない」」 ↓(すなわち) 「「厳密」-「自分自身に述語づけられない」」ということになり、この関数において「厳密」は定義域に含まれる。「厳密」という言葉の使い方のルールから、この論理形式が得られる。それでは、この言葉自身が自らの定義域に含まれるかどうか。つまり、 「「自分自身に述語づけられない」-「自分自身に述語づけられない」」は命題として成立するかどうか。もし、命題として成立するなら、この自己言及は自分自身を定義域に持つ有意味な命題になる。これは実際には解答が得られない。この言葉(「名」)を、このように表現する言語習慣を我々は持たないからだ。なぜなら、この述語である「名」は、現実の「事実」から解明されてきた、世界の現実を反映する我々の表現ではないからだ。それはある意味で、無理やり部品を合成して作り上げた人工の創造物なのだ。我々の言語のルールには、このような表現はまだルールとして確立していない。したがって、この表現はまだ無意味にとどまるのだといってもいいだろう。そして、無意味ならば、この「自分自身に述語づけられない」という「名」にとって、自分自身は定義域に入ってこない。つまり、論理の対象として自己言及の命題を構成することが出来ないのだ。このことは何を意味しているのか。ラッセルのパラドックスは、言語による表現の限界を超えていると言えるのではないか。つまり、言語では表現できないものなのだ。したがって、それは思考の限界も越えている。思考の対象にはなりえないものなのだ。ウィトゲンシュタインの言葉でいえば、「沈黙しなければならない」対象ではないだろうか。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、我々が思考できる範囲の限界を示そうとした。それは、あくまでも現実の世界に対して我々が思考できるのはどこまでかという問題意識だった。その問題意識から言えば、ラッセルのパラドックスを、思考の限界を越えたものとして排除するのは、ご都合主義ではなくて問題の設定に適合した判断ではないかと思える。ラッセルのパラドックスは、現実に対しては少しも悪さをするものではない。それは無理やり設定した情況を、現実にどう受け入れるかで破綻が生まれるものだ。集合論でも同じようなラッセルのパラドックスが設定できるが、それは、自分自身をも含むすべての集合というような設定をするところから論理の破綻が生まれる。そんなものは現実にはどこにもないのだが、存在と独立に論理があって、それを形式的に存在に適用すると、そのような困った状況が生まれてしまう。現実を出発点にするとき、現実にそれが存在するような、実現されている「世界」なら、それを表現する論理に破綻は生まれない。論理は、長い間の人類の経験が凝縮された言語表現から生み出されたものだと、ウィトゲンシュタインは考えるからではないかと思う。そこに論理の持つア・プリオリ性も示されているのではないだろうか。論理を論理によって正当付けることは出来ないが、それが現実世界の表現であるということから、ア・プリオリに正当性が導かれるという発想も生まれてくるような気がする。論理の出発点を現実世界に置き、論理の形式であるそのルールを言語表現のルールに基礎を置くという発想が、ウィトゲンシュタインにおいては最も重要なものになるのではないかと思う。それがパラドックスを回避するカギなのではないか。現実においてはパラドックスは存在しない。これは、板倉さんが言っている、「矛盾は現実には存在しない」という言い方に通じるような気がする。パラドックスも矛盾も、思考の展開において頭の中に出現する。それは論理の使用において、これまでの言語習慣になかったような表現に一歩踏み出そうとしたときに発生するような感じがする。そのパラドックスや矛盾は、言語の表現として間違っているとき、つまり論理的に無意味だと判断できれば、思考の誤りとして解決されるのではないか。そして、思考の誤りではなく、新たな論理表現として、そのパラドックス的で矛盾した言い方が許されるなら、それまで前提としていた「事実」のほうに誤りがあることが見出せるのではないかと思う。その時は、それまで「事実」としていた事柄が「事実」ではなく「事態」という可能性にとどまっていることが分かる。この「事実」の構成が変わったとき、ウィトゲンシュタインは、「世界」そのものが違ってしまったと捉えるようだ。ウィトゲンシュタインの「世界」が我によって違ってくる「独我論」と呼ばれることの関連もここにあるのではないだろうか。いずれにしても、ウィトゲンシュタインの発想のほうにより整合性を感じるようになってきたことは確かだ。現実の論理世界を捉えるには、ウィトゲンシュタインの哲学のほうが納得できるような感じがする。腑に落ちるという感じだろうか。
2008.05.11
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野矢茂樹さんが紹介するウィトゲンシュタインの関数の具体例を通じて、その関数概念の把握と、それがどのようにして論理構造の解明に役立てられるのかを考えてみたい。野矢さんは、概念理解の目的のために非常に単純な世界を設定する。名として設定されているのは次の6つの言葉だけとする。 「ポチ」 「ミケ」 「富士山」 「白い」 「走る」 「噴火する」この単純な世界では、これら6つの言葉を用いて表現されるものだけが実現可能な「事態」となる。単純化するために日本語の助詞も省略して、二つの名の結びつきだけで表現を考える。たとえば 「ポチ」-「白い」というなの配列によって、「ポチ」という個体が「白い」という属性を持っていることを表す。現実に「ポチ」(これはたぶん犬の名前だろう)が「白い」ならば、この「事態」は「事実」として、この世界に実現されているものになる。このとき、言語の配列として 「ポチ」-「噴火する」というものも形式的には作ることが出来るが、「ポチ」と「噴火する」という二つの名の論理形式が、このような表現を含んでいなければ、この配列による表現は、この世界では無意味だということになる。つまりこの配列は「事態」にならない。このあたりの解析をもっと厳密に行うために、野矢さんは次のような関数を作る。 「ポチ」-xxは変項で、ここに他の任意の名を入れて考える。そうすると「白い」と「走る」は有意味の表現になるが、他の名を入れた時は無意味な表現になる。野矢さんは次のようにまとめている。 ポチ関数「ポチ-x」…定義域 「白い」「走る」 値域 「ポチ-白い」「ポチ-走る」ウィトゲンシュタインの関数においては、定義域として考えている対象は「名」であって現実の存在ではない。また値域として考えているのは、命題の表現であって、その命題が正しいかどうかという真偽値ではない。フレーゲ・ラッセルの関数とのこの違いが、両者の論理の解明の違いにつながってくる。ウィトゲンシュタインが関数の判断の基準として捉えているのは言語の意味であって、現実世界のあり方がどうなっているかではない。ウィトゲンシュタインの論理の世界はあくまでも言語の使用というものを基礎にしている。現実の「ポチ」が「白い」かどうかを見て「ポチ-白い」が関数として成立するかを判断しているのではない。日本語の使い方の中に、そのようなものが有意味になるということから、これが関数として定義域と値域がどうなるかを決定する。現実が関わってくるのは、これが「事態」ではなく「事実」になるかどうかという判断のときだけである。それが可能性の段階にとどまり、現実化していなければ「事態」であり、現実に「ポチ」が「白い」ならばその表現は「事実」になるということで現実が関わってくる。論理の世界では、そう表現できるかどうかという言語の使い方だけが問題にされる。野矢さんは、「白い」についても次のようなまとめ方をしている。 白い関数「x-白い」…定義域 「ポチ」「ミケ」「富士山」 値域 「ポチ-白い」「ミケ-白い」「富士山-白い」この関数の定義域と値域の判断においても、現実を観察した結果として判断しているのではない。言語の使い方からこのように判断しているだけだ。このように現実と無関係に言語の範囲のみで関数と命題を考えるというのは、それが「事実」という現実世界から解析されてきたということと、何か本末転倒ではないかという印象も感じてしまう。フレーゲ・ラッセル的な、現実の対象の属性から判断するほうが、論理としての信頼性が得られるのではないだろうか。少なくとも現実に成立していることから「正しさ」を感じることが出来る。単に言葉の使い方が正しいというだけで論理の正しさを信頼できるものだろうか。そのような疑問をウィトゲンシュタインはどのように解決しているのだろうか。野矢さんの解説を読むと、ウィトゲンシュタインのこのような発想は、あくまでも論理とそれを表現する言語の解明のための道具として使っているに過ぎないという。我々が語っていることの実質が正しいかどうかという、現実との結びつきの真理性を問題にしているのではなく、我々はどこまで論理によって思考を展開できるかという、思考の限界を求めるために、思考において使われる言語の限界を見極めようということがウィトゲンシュタインの問題意識だということなのだろう。ウィトゲンシュタインによれば、世界とは成立している事柄であり「事実」と呼ばれるものとして現れる。そして、それを表現するものとして言語が使われる。その表現されたものである「命題」を分析して抽出されるものが「名」になる。この「名」の論理形式を解明することが、我々の論理的思考を解明することであり、我々が何をどこまで考えることが可能なのかという限界を捉えることになる。人類の進歩がまだわずかだった頃は、世界はおそらく単純なものだっただろう。それを表現する言語も単純なものだったに違いない。つまり、かつては「名」は多くなかっただろうと思われる。そのような時代は、人類が思考できる範囲も狭く、大部分が「分からないこと」「思考できないこと」になっていたのではないかと思う。だが、だんだんと「事実」として捉えられることが増え、その表現が豊富になるにつれ「名」も豊かになり、言語表現として有意味なものが複雑化し立体的になっていったのではないかと思う。論理も豊かになり進歩したのではないだろうか。現在の人類は高度に発達した言語環境の中で生まれ育つというふうになっている。我々は現実から何かを学ぶ前に、すでに言語によって多くの教育を受けている。我々にとっての真理とは、実際に体験して得られるものよりも、言葉として受け入れた「知識」が圧倒的に多い。他人の経験を追体験して、想像の世界での体験(これが論理と呼べるものになるだろう)が我々の真理の体系を作る。その論理の体系を解明するのがウィトゲンシュタインの目的だと僕は感じる。ウィトゲンシュタインにとっての論理とは、言葉の正しい使い方の解明に他ならない。そして、我々は言葉の正しい使い方を知ることによって、思考を展開し、その結果として体験していないことまでも予想し、しかもそれが真理となることを確信する。我々の言語の使い方には、人類のこれまでの歴史が刻まれている。人類が経験から得た真理が言語を通じて伝えられているという感じだろうか。「ポチ-白い」は日本語の使い方として論理形式にかなっているが、「ポチ-噴火する」は日本語の論理形式にはない。これまでの先人の体験によって「ポチ-噴火する」は現実化しないということが言語規範に、言語のルールとして刻み込まれている。だから、我々は、現実に「ポチ」が噴火するかどうか確かめることなく、この表現が無意味であると判断する。同様に、現実の「ポチ」が白いかどうか判断することなく、「ポチ-白い」は論理形式として存在することを知っている。この論理形式を、我々がどのようにして知っているかは分からない。知っているという「事実」があるだけだ。ウィトゲンシュタインは、「名」の論理形式の解明は、言語に熟達している人間のみが行うことが出来ると語っていたと野矢さんが書いていた。論理というのは言語なしに駆使することは出来ないし、この前提は、現実を捉えるものとしては必要なのではないかと感じる。さて、このようなウィトゲンシュタインの関数において、論理はどのような現れ方をするだろうか。それは合成関数として見えてくるような気がする。野矢さんが提出した単純な世界では「名」の数があまりにも少ないので論理というところまで行かずに、有限個の「名」の組み合わせですべての命題が尽くされてしまうが、もう少し複雑化した世界では、組み合わせの数が多量なので、論理を見通すにはうまく合成関数を作らなければならないのではないかと思う。たとえば 「ソクラテス-人間である」 「人間-死すべきものである」という二つの論理形式があったとき、この両者を関数として捉えて、 「ソクラテス-x」 「x-死すべきものである」とする。このときxが両方の関数に重なる「名」であるなら、ここから合成関数が作られる。そうすると論理形式として 「ソクラテス-死すべきものである」という命題が導かれるだろう。これも「名」の論理形式として存在はしているであろうが、これが「事態」ではなく「事実」になることを、直接現実に問い掛けて確かめるのではなく、 「ソクラテス-人間である」 「人間-死すべきものである」この両方が「事実」であることを確かめて、現実を検証することがなくても確信できるというのが論理の働きではないかと思う。「ソクラテス-死すべきものである」という命題は、「名」の論理形式から、「事態」であることはすぐに確認できる。それが「事実」であるかどうか、つまり現実化していることであるかどうかは、直接確かめれば分かるが、直接確かめなくとも論理を使えば確証できる。さらにいえば、直接確かめることに大きな困難がある時は、論理を用いてそれが「事実」であるかどうかを見る以外に方法がないだろう。目撃者のいない過去の「事実」を確かめたり、まだ実現されていない未来の「事実」を正しく予想したりする時は、論理を用いる以外に真理を求めることはおそらく出来ないだろう。あることが「事実」であるという前提に立てば、論理形式を把握している事柄は、その前提の元での真理を論理によって求めることが出来る。それが論理の持つ威力というものだろう。論理形式を把握している人間は、今までに知られている「事実」から、その世界における大部分の真理を導くだろう。これが「すべて」と言えないのは、ゲーデルの不完全性定理があるからだ。おそらく「すべて」というのは「無限」という厄介な概念に引っかかってくるので、現実世界の把握の範囲を越えるからだろう。いずれにしてもウィトゲンシュタインの発想ならば、現実世界の真理性が把握できそうだ。したがってパラドックスの生まれる余地がなくなりそうな気もする。これがラッセルのパラドックスを解決するカギにもなっているのだろう。フレーゲ・ラッセルの発想は、数学に近いので、何らかの意味で現実を越えて数学の世界に踏み込んでいるような気がする。そのためにパラドックスの発生を許してしまっているようだ。ウィトゲンシュタインの発想が、どのようにパラドックスを防いでいるかを、この次は詳しく検討してみたいと思う。
2008.05.10
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フレーゲの発想は、野矢さんによれば、述語を関数で表現することによって論理の記号化に成功したというものだ。述語は日本語で言えば、動詞あるいは形容詞で表現されるか、名詞に判断の助動詞を伴った形でなされる。たとえば次のように。1 地球は「自転している」。2 海は「青い」。3 小泉さんは「元総理だった」。上の文章の「自転している」「青い」「元総理だった」は、それぞれ肯定判断を表しており、判断を示す述語として機能している。三浦つとむさんは、動詞や形容詞に対して、そこに直接判断を示す品詞がないので、日本語の場合は動詞あるいは形容詞そのものに肯定判断の表現が含まれると考えていた。いずれにしても、判断を伴う表現であり、述語として捉えることが出来るだろう。この述語の記述に対して、フレーゲはその判断が及ぶ対象を変項として捉えてxなどで表す。上の3つはそれぞれ次のようになるだろうか。1 xは「自転している」。2 xは「青い」。3 xは「元総理だった」。このxには、基本的には現実の対象である何らかの存在物が入る。つまり定義域は現実世界ということになる。そして、1のxに「地球」という対象が入れば、1の命題は正しくなり、真偽値は「真」ということになる。この関数は、現実世界を定義域として、命題の真偽値を値域とするものになる。1の関数に「コマ」を入れると、コマは自分で回ることは出来ないのでこの命題は偽になる。1の関数には、現実に存在するあらゆるものをそこに放り込むことが出来るだろう。そしてその対象が、我々が知りうる存在物であるなら、真偽の判断も出来るに違いない。2の命題に関してもそのようなことが言えるだろう。「青い」という判断が曖昧で、肯定か否定が難しいときもあるだろうが、厳密な規定を与えることで判断を決めることも出来るだろうから、判断ができないということはない。すべての存在物が定義域に入ってくることが出来るだろう。3に関してはやや微妙な問題がある。xに人間という対象を入れるなら、普通の意味で3の命題の真偽を考えることが出来る。xに「安倍晋三」を入れれば命題は真となる。「福田康夫」を入れると偽になる。福田さんは現総理であって、元総理ではないからだ。そして、元総理としてまったく名前の挙がっていない無関係な人物、たとえばまったく平凡な日本人の名前としての山田太郎などという名前を入れても、その真偽値を求めることが出来る。これは偽の結果を出す対象になる。しかし、3の命題のxとして人間でないものを入れた場合はどうだろうか。たとえば自動車の「ロールスロイス」を対象xとして関数に入れて3’ ロールスロイスは元総理だった。という命題を作ると、これが正しくないことは明らかなので真偽値は偽であると解釈することも出来るが、そもそも真偽値を考えるほどのこともない、まったく無意味な文章表現であると解釈することも出来る。現実の対象を考えることなく、文章の上で無意味であることが分かってしまう。ウィトゲンシュタインの発想では、このような無意味なものは、論理形式という概念を使って「事態」の中から排除してしまうように僕は感じるのだが、フレーゲ・ラッセルの発想では、このようなものを一般的に認めておいて記号化した論理学を数学のような汎用性を持たせることで一般的な命題を導きやすくしているようにも見える。いずれにしても、1から3までの関数は、対象の領域として現実世界の個体が対象になっているだけだ。したがってラッセルの言う「タイプ0」の範囲で考えているだけなのでパラドックスが発生することはない。この対象の定義域を、固体を表す名詞から、判断を表す動詞・形容詞にまで範囲を広げると、自己言及文という論理においてはヤバイものに近づいていく。述語を対象にした述語というのは、それがまったく現れないものなら何も問題を引き起こさないのだが、言語はそのようなものも表現できるようになっていて、それが表現の豊かさをもたらしてもいるので厄介だ。野矢さんは次のような例を提出している。4 xは「神経質だ」。5 xは「人に嫌われる」。4のxには普通は人という存在が入るだろう。「神経質」というのは人の性質だからだ。だが、人に近い動物にそれを感じることもあるかもしれないから、そこまでは意味のある命題になるだろう。このxに野菜の「トマト」などを入れて考えるとどうなるか、というのを野矢さんは書いているが、これを無意味と捉えるか命題として偽であると捉えるかは難しい。汎用性を考えれば偽としたほうがいいだろうが、そのように無制限に定義域を広げると自己言及文を認めなければならなくなりそうだ。5の関数には、xとして「神経質」という述語を入れることも出来る。述語の述語という、入れ子の関数表現が許されるし、現実にもそのような表現が言語の中にはたくさんある。そうすると前回考えた次の関数6 xは「自分自身に述語づけられない」。における述語「自分自身に述語づけられない」というものが、このx自身として定義域に入ってしまうように解釈できる。そうするとラッセルのパラドックスを引き起こして6は真偽値を確定することが出来なくなる。論理の体系が破綻してしまう。フレーゲ・ラッセルの関数においては、対象の定義域は現実世界であり、それは無限に多様になっているので、後から新たな対象がその定義域に放り込まれることになる。この弁証法性がパラドックスに向かって矛盾が導かれる可能性を開いているような感じがする。この弁証法性に制限を設けて矛盾の発生の可能性を排除したのが「タイプ理論」ということになるのではないだろうか。フレーゲ・ラッセルの関数の発想では、「タイプ理論」によるパラドックス回避の道は必然的なものであり、それしか方法があり得ないのではないかとも思える。この関数を、ウィトゲンシュタインは、野矢さんの表現を借りれば「ノミナル」に捉えて、パラドックス発生の可能性のある表現を無意味として排除することで解決しているようだ。ウィトゲンシュタインも、形としては命題の一部をxとして、そこにある対象を入れることで関数を考えている。しかし、ウィトゲンシュタインの対象は現実世界の存在ではなく、あくまでも言語表現としての「名」というものになっている。命題のxに入ることが出来るのは「名」として取り出されたものだけなのである。「名」にならないものはxとして対象の定義域に入らない。また、関数の値域になるのは、ウィトゲンシュタインの場合は命題の真偽値ではない。真偽値を問題にすれば、それはやはり現実世界を対象にして考えざるを得なくなる。ウィトゲンシュタインの場合は、関数の値域は命題そのもので、そこで表現された文章が、「名」の論理形式にふさわしいものであれば、命題として有意味なものとして存在できる。その存在できる命題そのものが関数の値域になる。ウィトゲンシュタインの関数は、現実とのつながりを持っていない。徹底的に言語の範囲内で捉えられている。言語表現としてそれが意味を持っているなら、ウィトゲンシュタインの言葉で言えば、それがある「事態」を表現しているなら命題として有意味なのである。問題は、我々の言語の使い方にある。これが解明できたとき、ウィトゲンシュタインの関数も解明できる。言語の範囲で徹底されるこの発想は、野矢さんが言うように「ノミナル」という感じがするのではないかと思う。ウィトゲンシュタインは、世界をまずは命題の集まりとして考えることから出発する。その構成部分である物から出発しない。物は、命題表現から取り出されてきたとき「名」の資格をもつことになる。だが、世界の出発点である命題が正しいかどうかということはウィトゲンシュタインは言及しないし、問題にもしない。それはある意味では知りえないことであり、所与の事実として前提にするしかないものと捉えているのかもしれない。論理においてはそのように発想しなければならないと考えているのかもしれない。そして、そのような前提のもとに論理を解明していけば、それは最終的には我々の言語の使い方を解明することで明らかになるというのがウィトゲンシュタインの発想ではないだろうか。我々の言語の使い方においては、ラッセルのパラドックスは生まれようのないパラドックスとして排除されると考えているのではないかと僕は感じる。ラッセルのパラドックスは、論理の汎用性を数学的に捉えようとしたために、言語の使用範囲を越えて論理を適用しようとしたために生まれたというのがウィトゲンシュタインの発想ではないかと感じる。後のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という発想も、なぜ人々がそのようなルールに縛られているのか、日本的な言い方で言えば「空気」に支配されているのかということは分からないが、とにかくそのような状況があることは確かで、それを「言語ゲーム」という言い方で指摘しているのではないかとも思える。言語の使用が高度に発達した現代の人類においては、現実の事実をそのまま受け入れるのではなく、言語化された論理がまず教育されて、そのメガネをかけて現実を見ることしか出来なくなっているのかもしれない。ウィトゲンシュタインの発想は、徹底的に現状肯定をした後に、現実をどう解釈するかという分析において威力を発揮しそうな感じがする。この現状肯定がご都合主義にならないように気をつけなければならないだろう。どうしてそのような現状になっているかはあまり言及せずに、その現状の構成が論理的に整合性を持っているかどうかが解釈されるのがウィトゲンシュタイン的な「ノミナル」な論理の捉え方になるのではないだろうか。「名」の解明によって論理形式が明らかになり、現実の世界の姿が見えてくるというウィトゲンシュタインの発想は難しい。野矢さんは単純な世界を構成して、「名」をいくつかの有限なものに限定して、それのみが存在する世界で論理形式を捉えることでその雰囲気を伝えようとしている。次回は、その具体例を通じてウィトゲンシュタインの関数がどのようなものであるかを考えてみたいと思う。それが、フレーゲ・ラッセルの関数とどのように違うのかがもっと明らかになるように考えてみたいと思う。
2008.05.08
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ラッセルのパラドックスというのは、「嘘つきのパラドクス」と同様に、自己言及によって矛盾が導かれてしまう種類の論理的なパラドックスになっている。現実を誤って認識したために、現実存在に反する判断が生じてしまったような、「ゼノンのパラドックス」のようなものではない。現実に反する判断は、どこかに論理的な間違いが生じているのか、論理の出発点となるような現実の把握(つまり事実の認識)において間違っているのかどちらかだということになる。論理的な間違いであれば、それは正しくない論証であり、論理の出発点の把握が間違っているのなら、それを否定した判断が正しいという背理法を示すことになる。ゼノンは運動を否定したという言い方もされるようだが、その真意は空間が多くのもので構成されていて無限に分割できるものではなく、一つの存在として捉えなければならないという主張を証明するための背理法として提出したのだという。存在は「多」という性質を持つという前提を否定しようとしたらしい。間違い・あるいは背理法として処理できるパラドックスに対して、論理的なパラドックスは、そこに間違いを見つけることが出来ない。ある意味では論理の限界を示すものとして、論理を無制限に適用してはいけないという警告と受け取らなければならない。どのような制限を設ければパラドックスを回避できるのか。ラッセルは「タイプ理論」というもので一つの解答を提出したが、ウィトゲンシュタインはそれとまったく違う発想でもう一つの解決を提出したというのが野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で展開していることだ。これを詳しく考えてみようと思う。そこには、パラドックスというものの本質が見えるのではないかと思う。まずは、ラッセルのパラドックスをもう一度確認しておこうと思う。このパラドックスでは、「自分自身に述語付ける」という概念が重要になる。ある述語概念に対して、その述語概念自身が肯定的に判断されるなら、その述語は「自分自身に述語づける」と判断される。たとえば次のように。 「曖昧である」は「曖昧である」…「曖昧」の基準が明確でないから「曖昧である」という述語に対して、その言葉自体が「曖昧である」かどうかを考えると、それは肯定的に判断される。「曖昧」の基準が時と場合によって変化し明確でないからだ。逆に、 「厳密である」は「厳密」ではない…「厳密」の基準が明確でないからというふうに、「厳密である」という述語は、その述語自身は「厳密」ではない。つまり「曖昧」である。これは「自分自身に述語づける」ものとなっていない。「自分自身に述語づけられない」ものになっている。論理的に少々ややっこしいものになっているが、まとめると次のようになる。・自分自身に述語づける…自分自身に対する判断が肯定的になされる。・自分自身に述語づけられない…自分自身に対する判断が否定的になされる。ここで記号を導入することにしよう。「曖昧である」という判断を、「Aimai」の頭文字を取ってAで書くことにする。ある対象xに対する判断は「A(x)」と書くことにする。また、「厳密である」は「Genmitu」の頭文字をとってGと書くことにする。以下は同様にして記号化すると、次のように書かれる。・自分自身に述語づける…A(A)である(肯定判断)・自分自身に述語づけられない…G(G)ではない(否定判断)このとき、「自分自身に述語づけられない」という述語をWで表すと、AとGに対する判断はそれぞれ次のようになる。 W(A)ではない…(Aは自分自身に述語づけられない)ではない(つまり二重否定) だから Aは自分自身に述語づけられる。 W(G)である……Gは自分自身に述語づけられない。Wは、自分自身に対して言及しない限りでは、対象に対して肯定か否定かのどちらかの判断をもたらす。しかし、これが自分自身に対する適用の自己言及をしてしまうと、 W(W)である ならば Wは「自分自身に述語づけられない」 ↓(すなわち) W(W)ではないとなり、逆に「W(W)ではない」を前提にして論理を展開すると、 W(W)ではない ならば Wは「自分自身に述語づけられない」ではない ↓(すなわち) Wは「自分自身に述語付けられる」 だから W(W)である。いずれにしても、肯定の前提からは否定が導かれ、否定の前提からは肯定が導かれるという矛盾が生じる。そして、この論理はどこにも間違いがない。これこそがまさに論理的パラドックスと呼んでもいいものになるだろう。ラッセルはこのパラドックスを回避するために、述語に「タイプ」という性質を設定した。個体そのものを指す言葉を「タイプ0」と呼び、その個体だけに言及する述語を「タイプ1」とする。そして、「タイプ0」と「タイプ1」に言及する述語は「タイプ2」とする。以下同様に、述語は自分自身よりタイプの低い対象にだけ言及するという制限を設ける。そうすれば、自分自身に言及するという、同じタイプの対象に言及するような自己言及は論理的に回避できる。この方法はパラドックス回避の一つの方法ではあるが、制限としてはちょっときつすぎるかなという印象も受ける。この制限ではすべての自己言及が許されなくなるのだが、「「曖昧」は「曖昧」である」というような自己言及はまったくパラドックスを起こさないのだから、この種のものまでも制限されてしまうと、論理の適用範囲が狭くなってしまうのではないかという危惧も感じる。パラドックス回避の方法が、これ以外にないというのであれば、この制限も止むを得ないとも言えるのだが果たしてどうだろうか。このラッセルの方法に対して、違う発想で答えたのがウィトゲンシュタインではないかと、野矢さんの本を読むとそう思える。ウィトゲンシュタインは、自己言及の中に有意味なものと無意味なものを区別し、無意味なものを排除するという方法でラッセルのパラドックスが生じないような工夫をしているように感じた。ラッセルのパラドックスを生じさせるような「自分自身に述語づけられない」というような自己言及は、ウィトゲンシュタインの体系ではそもそも意味を持つことが出来ないようになっているようなのだ。それは無意味な言い方だから、そもそも真偽を考える対象にもなっていない。このあたりのニュアンスをつかむのはたいへん難しいのだが、ラッセルの体系(これはフレーゲの枠組みも基本的には同じようだ)では、このパラドックスが述語として生じてくるのを避けることが出来ないようなのだ。だから「タイプ」というものを設定して、論理そのものに制限をかけなければそのパラドックスを回避できない。それに対して、ウィトゲンシュタインの体系では、「有意味」と「無意味」というものがキーワードになり、パラドックスそのものが「無意味」になってしまうので、論理体系の中に入り込まないようになっている。それでは、「有意味」と「無意味」とはどのように区別されるのだろうか。これが分かれば、ウィトゲンシュタインの発想も理解できるのではないかと思われる。そのカギは、ウィトゲンシュタインが「世界」(現実世界)を分析するときに使った、「事態」や「対象」という概念、それから発生してきた「名」という概念などが、フレーゲやラッセルが論理を分析した際に問題にした現実世界や対象と違っていることを理解することにあるようだ。フレーゲやラッセルは、論理の判断を、命題としての真偽の判断を基礎にして展開しているようだ。しかしウィトゲンシュタインは、現実世界を実際に実現された「事態」という、すでに真であることが確定している命題の寄せ集めから展開している。ウィトゲンシュタインが問題にするのは、この命題群の真偽ではなく、むしろ命題が言語的に意味があるかどうかという、ウィトゲンシュタインの用語で言えば「論理形式」を問題にしているように見える。フレーゲやラッセルの体系にパラドックスが生じるのは、それが言語の範囲での判断にとどまらず、現実の対象との結びつきを入れた、現実の対象が定義域になるような関数が導入されるからだということも野矢さんは語っている。現実世界というのは、知り得ない部分がどうしてもある。すべてを把握することは有限の存在である人間には出来ない。現実世界には、常に未知の可能性がある。既知のものから積み上げた論理が、未知の存在によってひっくり返される可能性を消すことが出来ない。現実存在を、その対象として設定しなければならない体系は常にパラドックスを配慮しなければならない。これが、弁証法的思考の重要性を物語るものでもあるのだろう。それに対して、ウィトゲンシュタインは、現実対象に対しては、それが存在することをまずは肯定的に把握しておくことを前提としているように見える。そしてその前提のうちに、その表現としての言語を分析することで論理の体系を打ち立てているようだ。ウィトゲンシュタインにとっての論理は、純粋に言語の範囲のものであるような感じがする。ウィトゲンシュタインにとっては、それが言語として適切に表現されているなら、そこに展開されている論理が正しいかどうかの判断は適切に出来るし、非常に信頼性の高いものになっているという感じがする。論理の判断は、言語の適切性として判断されるという感じだ。それに対して、フレーゲやラッセルの判断は、論理を言葉としてのみ扱うのではなく、何らかの意味で現実世界との結びつきも問題にして判断しようとしているのではないかと感じる。そのどちらが論理にふさわしいのかはまだよく分からない。言葉の法則としてのみ展開したほうが、論理としては純粋な感じがするが、現実を無視した空論のような印象も消えない。現実を対象にした思考は「科学」が扱い、言葉の法則のほうは「論理」が扱うという分業のほうがいいのかもしれないが、どちらも相互の足りない部分を補うという意味では協働しなければならないだろう。いずれにしても、ウィトゲンシュタインの発想の細かいニュアンスはまだ詳しく考えていない部分もあるので、この次は、どのような発想が「言語論的展開」と呼ぶにふさわしいものになっているのかという具体的な部分を考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのどのような部分が、論理を純粋に言語の側面から見ることになるのかということを考えてみたいと思う。
2008.05.07
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