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前回までで、小周天の基本は出来たと思います。あとは陽気を強めていくだけ・・・、と言いたいところですが。実はここから著書には書いていない口伝の部分があります。本では、小周天の後はひたすら陽気を巡らせて全身に満ち溢れるようになるまで行うとあります。しかし実際にはそのようにはいかないのです。やってみると分かりますが、陽気はアッと言うまに減っていくでしょう。それは外部に漏れてしまうからです。陽気を留めるための一つの工夫が必要になります。影体を球体上に広げて、その内部に陽気を満たすと言う方法を前回に書きました。この時、影体の縁を維持したまま、もう一度小周天を行います。仙道的に言えば、陽気の球体を作り、その中に入ってもう一度呼吸法を行い陽気を作り出すと言う手順があるのです。これは外部に陽気が漏れるのを防ぐだけでなく、外部から中に入り込む邪気を防ぐ意味もあります。ここまで修行が進むと、精神的な影響を受けやすくなるため、防御を行うためのシステムが必要になるのです。気のバリヤーを作ってから陽気発生を行うと、それまで以上に強く作り出せるようになります。再び陽気が強く満ち溢れ、バリヤーの内部を満たすようになってきたら、次の段階への準備に入ります。この状態になった時、陽気を集めると丹田がつぶれることがあります。それはエネルギーが強すぎるからです。ですので、陽気を集める場所を体の外にします。私が習ったのは、組み合わせた足の間、くるぶしのところに陽気を集めて球状にします。それをもう一度体内に取り込んで、いよいよ衝脈に通すのです。衝脈を開く作業は自然に出来るのを待つと時間がかかりすぎるため、強い陽気でむりやりこじ開けていきます。尾てい骨の下から肛門に入れて、ゆっくりと骨盤の中を動かし、徐々に上にあげていきます。背骨の少し前を通すようにします。最終的には頭の上にまで移動させて、また下してきます。これを何度も繰り返すことで衝脈を開発するのです。一応、これで大周天の準備が終わりなのですが、精神的な変化については全く書いていません。それは私の中でまだ論理的な納得が出来ていないからです。不識神と呼ばれる潜在意識が目覚め、超能力が使えるようになるとありますが、それが一体どのような精神状態なのかもう少し調べてから説明していきたいと思います。
2015.10.29
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私が先生に習った高藤式仙道において、全身周天と呼ばれる段階までの手順を説明します。まず、陽気を発生させ、それをいわゆる小周天ルートに沿って流していきます。最初は丹田からですが、これはどこでも良いそうです。もっと上から始めても良いし、腰から始めるのもありだと。ただ、熱を閉じ込めるのに腹で行うと、腹筋などで熱を閉じ込めることが出来るので、最初は丹田で行うのが良いだろうと言う事でした。陽気は、自律で発熱を開始するまで集めます。全身が熱くなるくらいの気を集め、それを数ミリ以下にまで圧縮し、さらにそれを繰り返します。ある段階を超えると、集めた気が勝手に熱くなっていきます。これが陽気の発生と言う段階です。ここまで来たら、意識と筋肉の動きで陽気を導いていきます。恥骨の前、性器を通り越して肛門、そして尾てい骨を抜けて腰まで移動します。ここまでくると陽気が弱まりますので、もう一度呼吸法を行い、気を強めていきます。ここから各ポイント(キョウと呼ばれる部分)で、ある特定の作業を行います。それは呼吸に合わせて外気の中に含まれる気を取り込み、陽気を強化するのです。これは呼吸を行うのですが、肺から取り込むのではなく、直接に大気の中に含まれる気を、集めた陽気に送り込みます。ねじ込むように気を吸い込むと言う方が正しいでしょう。再び陽気が自律で発熱し、動き出しそうになったら背骨の中を通して頭まで上げていきます。肩甲骨の間にもキョウがあり、頭の一番上にもあります。頭の上に来たとき、おそらく陽気の性質は変化するはずです。すがすがしい、とてもすっきりとするような感じになるのですが、もしこの変化が起こらない場合、一度陽気を捨てます。熱で脳をやられる可能性があると言うことです。捨てたら最初からやり直し。変化が起きたら、脳内を移動して鼻底まで(中隔を通します)、そして前歯の根の先から上顎の中、舌、舌骨へと導きます。喉にもキョウがあり、胸の間にもあります。これらを通してから丹田に戻ってきたら小周天の完成ですね。小周天を何のために行うのかと言うと、気の性質を変化させるためです。変化が起こる場所を見つけるための方法が小周天なのです。逆を言うと、変化さえ起これば回す必要はありません。これは書籍にも書いていない事実です。小周天によって変化した陽気を何度も回すことにより、全身へと気が流れていきます。やがて全身に満ちてきた陽気が空間へと放射されるようになってきます。これが全身周天です。これを最初からフナの技術で行ってみましょう。まず、ロウセルフに話しかけます。”影体は分かるよね。君の影体に生命力を満たして変形させたいんだ。まずは影体だけをどんどん広げて大きな球体を作ってくれ。そしてその中に過剰に作り出した生命力を満たして欲しい”どのくらいの強さの生命力を満たすのかは、それまでの練習によります。非常に強い生命力を満たしたいのであれば、何度も練習して強い生命力を集められるようにしておかなくてはいけません。それまでに行ったことがあればロウセルフは理解しますが、行ったことのないことは分からないのです。ですので、地道に生命力を集めて強めると言う作業は必ず行わなくてはいけませんが、ロウセルフの力を借りて行えばそれほど難しいことではないのです。最初から影体を大きく広げ、その中に生命力を満たしてあげれば、即席の全身周天の完成です。
2015.10.24
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今から16年以上前ですが、仙人の庵ってサイトを主催しておりました。インターネットも黎明期で、HPすら自作で作るのが珍しかった時期です。あの頃は、仙道の技術を習うのに必死で、その内容や理論を疑うことすらせずにやっていましたね。自分が知ってること、習ったことを忘れないためにサイトを作って情報の共有をするためにいっぱい書き込んでいましたが、今から考えると無駄な知識や方法、誤った情報も多く含まれていました。で。フナの技術と理論を知ったことで、仙道の修行がどのように行えるのか試してみようとおもいます。仙道の修行方法は理論とか流派によって大きく違いますし、教える先生の考え方、習う人の体質や素質によっても変化します。良く言うならフレキシブル、悪く言うなら何でもあり。一応、私は高藤仙道の系統を習っていますので、五柳派と言うことになるのでしょうが、日本でもっとも情報が溢れてる流派です。まず第一段階気の発生と感覚化ですね。ここはまじめにやってみましょう。両手を強く擦り会わせて熱を発生させます。少し手を離して、その間に集まっている気を感じます。少し押し込むようにしたり、開いてみて、手に圧力を感じるかどうかを見ます。この段階はまだ陽気を発生させていませんから、それほど強い気ではありません。ですので、しっかりとした感覚としては分からないと思います。わずかでもなにかしら感じられれば良いとしましょう。どうしても気の感覚をはっきりと掴みたいと思うなら、先に陽気の発生を行うようにします。マナも気も同じものなのですが、よく分からないと言う人は、まずこの段階をしっかりとこなしましょう。フナの技術を組み合わせてみます。気とは生命力です。マナも同じです。自分が行う修行を決めて、それに会わせて呼び方を決めます。仙道でいくなら気と呼ぶべきですし、フナで良いならマナです。生命力と言い切っても構いません。私はまず自分の肉体、つまりサブシステムのロウセルフにしっかりと理解させるため、そもそも生命力とはなにかと言う事から話をしています。肉体が生きているのは生命力を作り出しているからであり、それがなくなると死んでしまうこと、生命力は必要最低限しか普段は作っていないけど、たくさん作り出して溜めることができること、それを蓄積すると、影体が固くなり、感覚としてとらえることができることなどを何度も説明します。もう一度言います。何度も説明をしてください。一回では理解しません。理解してくれないから気の感覚が分からないのであり、感覚としてとらえられないのです。同じ説明をロウセルフが理解するまで繰り返します。理解したかどうか、ペンデュラムで確認します。ペンデュラムの動きが悪い場合は、それで会話することも説明します。フナ理論でペンデュラムを使う方法を何度も書いたのですが、そもそもペンデュラムを動かす事を分かっていない事が多いのです。ですので、ペンデュラムを使って会話を行うこと、生命力とはなにか、それをなぜ利用するのか、そういうことを面倒でも最初から詳しく話します。これを丁寧に行ってください。生命力の発生は、ロウセルフガ理解してくれれば非常に素早く行えます。仙道で言う陽気の発生です。”今から陽気(強い生命力)を発生させ、それを肉体と影体に溜めろ、作り出す生命力はいつもより多く、過剰なくらい行え”仙道であれば呼吸法を激しく行わなくてはできない陽気の発生が、ロウセルフへ命令するだけで簡単に行えます。私は5分くらいで全身がかあっと暑くなり、首筋に汗をかくくらい熱が出ます。小周天法で最低でも30分くらい意識の集中を行わなくてはできないくらいの陽気が5分で出てくるのです。これだけでもフナを知っているメリットとなります。そこから陽気を集め、圧縮し、外部からの気を注ぎ込むことは非常に簡単です。すべてロウセルフに教えておけば、あとは監視してるだけで済みます。ここでひとつだけ注意することがあります。仙道の理論はすべて言い伝えです。その通りになると言う保証はどこにもありません。それなのに、肉体の事を知り尽くしているロウセルフに、あたまでっかちなミドルセルフが意味不明な命令を行ったら、ロウセルフはどのように感じるでしょうか。仙道の技術は、その真偽をひとつずつ確認しながら行わなくてはいけません。陽気の発生は私も行っていますし、小周天もできます。ルートを通すだけなので、それを行うのはロウセルフも言うことを聞いてくれます。しかし大周天となると、その意味と存在意義をはっきりとさせておかなくてはならないのです。この部分についてはまたの機会に行いますが、次回は全身周天と言う段階までフナで行ってみましょう。
2015.10.22
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私たちは何のために生きてるのであろうか。歴史を振り返っていると、過去に生きた人々は、”生き延びる”ことに必死だった。どんなに素晴らしい発見をしても、どんなに輝かしい栄光を達成しても、結局は死ぬまでに何かを成したと言う証を残すことに必死だった。この世では、100年も過ぎるとほぼすべての人間が入れ替わる。それ以前の人間の痕跡はなくなってしまうのだ。人は生きている間しか存在できない。変な言い方だが、死んだあともその影響を残せる人はごく少ないと言うことだ。人類が何のために存在しているのかを考えると結果は出てこない。少なくともこの宇宙で永久に人間が活動できないのは分かりきってることだ。死後の世界も含めて考えると、次の魂の段階へと進化するためであると言う考えも出てくる。ハイセルフは人が進化した姿であると言う。ミドルセルフと言う論理的な意識体が進化してハイセルフになったのだと言う。水槽の中の魚に飼育員の考えてることは分からない。動物園の織りのなかにいる猛獣に観客の頭の中は見えない。だが同じ人間から進化したのであれば、少なくともハイセルフの思考や行動基準は見えてくるのではないだろうか。ここで考えることは、ハイセルフの行動パターンを理解し、祈りを効果的に行うための方法である。そのためにはハイセルフがどのような考えを持ってるのかを知らなくてはならない。もしハイセルフが神様であるなら、これはどう考えても無理であろう。神様とはほとんど理解の外にあるからだ。人間から進化したのがハイセルフなら、その思考は少しは読み取れる。全部は無理にしても、方向性くらいは推し量れるはず。まずはわかっていることを整理してみよう。ハイセルフはすべての人間にいる。それは意識体だけの存在で高度な知性と論理力を持っている。そういう意味ではミドルセルフと良く似ているが、決定的に違うのは奇跡のようなパワーを持ってる点である。マナロアと呼ばれるエネルギーを受けとることで、そのエネルギーを物質化し、人の人生に介入する事ができるのだ。また、その洞察力によりはるか未来を見通して、人を導いたりもする。この行動には、一見不合理な事も含まれることがあるのだが、結果を見れば最短で物事を成し遂げるようになっている。卓越した知能と、奇跡を引き起こすパワーの持ち主、これがハイセルフである。ではハイセルフはいったい何を行動規範としているのであろうか。ここはあくまで推測絵しかないが、まず動物と人間の思考を比べて、それをスケールアップして当てはめてみよう。人間は先行きを見通して行動できるが、動物には先が見えない。少し先の未来を考えるので、絶望して自殺もするし、遠い未来に起こる楽しい出来事を想像して喜ぶことができる。ハイセルフは、見守ってる人間の未来が見えている。その人間が良い方向に向かって成長することを喜ぶし、そのための道しるべをおいてくれる(気づけるかどうかは別)見守り、保護し、導くのが役割であり、それに喜びを感じてるのであろうと想像できる。ただ、人間は自由意思を神様から与えられているため、勝手気ままに行動するし、それにハイセルフが干渉する事はできない。遠くを見通してるハイセルフにとって、人間とは広大な敷地で遊ばせている動物のようなものだ。その人間が冷静で知的な判断を行えるのであれば、ハイセルフが時々置く道しるべに気がつくし、ぜんぜん成長していない場合は全く言うことを聞かない。もし人がハイセルフの存在を信じたら、当然だがそれは喜ばしいことになる。そしてハイセルフが望む方向へ進もうとして、その手助けを望むなら、喜んで手を差し伸べるだろう。だから私たちが祈りを行うとき、それはハイセルフの気持ちに沿ったものでなくてはならない。フナの罪悪とは、”人を傷つけること”であるので、”人を助けること”はハイセルフがもっとも喜ぶことである。だから他人の病気を治すためだったり、困窮してる人を助けるための祈りは叶いやすい。自分一人だけの願望を叶える祈りと言うのは難しいのだ。最初に祈りを行う場合、ハイセルフの目的のためにマナを捧げるが、なにかしらハイセルフの験を得たいと思うなら、誰かを助けるための祈りを作ってみると良い。意外なほど効き目がある。それを何度も繰り返してると、やがて自分の中でハイセルフとの接続が明らかに確信される。そのとき、祈りの精度は格段に上がっているだろう。このようにハイセルフは非常に理解しにくい存在であるので、まずはその存在を確信するための祈りを行うのが良いであろう。
2015.10.15
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今回、私がハイセルフに対して考察することは、あくまで私見であり、これを読んだからと言ってフナの祈りの内容が変化するわけでは無い。その点は勘違いしないようにして欲しい。私がどのように考え、思考を巡らせようとも、フナと言う技術の本質は変化しないものであり、ハイセルフの存在も変わらないのだ。ただ、それぞれの人間がハイセルフをどのように捉えるのか、ここは評価もわかれるところだと思う。その範囲内で自分の意見を書くだけである。ハイセルフの理解を難しくしてるのは、その異質性である。肉体上に存在するロウセルフ、ミドルセルフとは違い、影体と呼ばれる透明で感じることのできない身体を持ち、精神的な存在でしかないハイセルフは、いるのかいないのかすら分からない。神様のような存在だが能力は限定されていて、それでいながら奇跡を起こせるパワーを秘めている。人間は自分の理解の及ぶ範囲でしか存在も分からないし、そもそも感覚でとらえられるものでなければ信じられない。だからこそハイセルフの秘密が守られてきたのである。だが、本当にハイセルフは存在してるのだろうか。ここを疑ってしまうと話にならないので、いることを前提で進めていく。”いる”ことを信じるか、確認するためには何が必要であろうか。ここでヒントとなるのは、影体である。ロウセルフもミドルセルフも影体を持っている。これは目に見えない、透明の身体であり、意識と密接にかかわりを持つ存在だ。もっとも分かりやすいロウセルフの影体から説明していこう。仙道の練習を行うとき、まずは気を感じることから始める。両手を強くこすり合わせ、やけどしそうなくらい熱くする。それから両手を少し離し、手のひらを内側に向けてボールを持つような感じにする。すると、両手の間に何かふわふわとしたものがあるような感覚が感じられることがある。仙道では、これが気だと言う。確かにそうなのだが、実はここに少々誤解があった。フナでは影体と生命力の関係についてもう少し詳しく説明している。目に見えない影体は、生命力をため込むことが出来る。生命力が満たされた影体は物質化し、感覚として感じることが出来るようになるのだ。つまり、仙道で最初に行った事は、影体の中に生命力を入れて分かりやすくしたと言う事だ。生命力を入れようと入れまいと影体は存在してるのだが、生命力が入ることで分かりやすくなった。逆に言うと、生命力の入っていない影体は感知することが出来ないと言う事になる。また、影体は意識によってその形を変えることが出来る。もともとくっ付く性質があるが、生命力と意識を入れることで遠くまで延ばすことが出来るし、情報のやり取りも可能になる。仙道では影体と生命力を一緒にして気だと言っていたが、フナではここを厳密に分けている。この分離のおかげで、今まで謎だったことも理解が進んだ。様々な超能力、霊能力の謎、祈りや呪い、呪術と言ったものがなぜ効果があるのか言う事だ。影体と生命力による能力の発生はまた別の機会に詳しく書くとして、ここではそれぞれ三つの意識に影体があると言う事を理解して欲しい。さらにそれぞれの影体にはそれぞれの生命力を満たすことが出来る。ロウセルフであれば、その影体にはマナが入る。ミドルセルフの影体にはマナマナ、ハイセルフの影体にはマナロアだ。そしてもう一つ考えなくてはいけないことがある。それぞれの意識における影体には違いがあると言う事だ。三つの意識が持つ影体は同じでは無い。影体は影物質と呼ばれる物質で出来ているが、意識のレベルによって反応する物質の性質に違いが存在する。ここは今までの私の経験によるが、ロウセルフの影体にマナを入れた場合が最も分かりやすく、ミドルセルフの影体にマナマナを満たしても殆ど感じることは出来ない。ましてや、ハイセルフになるとなおさらだ。これは物質を構成してる周波数の違いによる。ロウセルフに比べてミドルセルフやハイセルフの周波数がけた違いに高いためだ。言い方を変えると、ロウセルフのそれは荒く、上に上がるにつれて細かく微細になっていく。人の肉の感覚器は荒い周波数しか感じることが出来ない。意識体だけの存在であるミドルセルフやハイセルフの周波数を感じるようには出来ていないのだ。高い周波数のエネルギーを入れる器は、やはりその周波数に応じた器でなくてはならない。故にミドルセルフやハイセルフの影体を肉体で感じることは出来ないのだ。ではどのように知るのか。ミドルセルフに関して言えば、意識の変化である。人は何かを悟った時、大きく気の状態が変化する。オーラが変化すると言う風に表現されているが、意識の変化がみられると大きく人格が変わる。たとえるなら、子供から大人へと変貌を遂げたような感じだ。ハイセルフとの接触で何が起こるのかは推測の域を出ない。悟りの境地に至るのか、手で触れたものをすべて食材に替えてしまう奇跡の御業が使えるようになるのか、謎の多いことだらけである。一つ言えることは、非常に高周波のエネルギーに接触し、その影響を大きく受けることになるとだけは言える。このように書くと単純な人間はすぐに短絡思考を行ってしまう。高い周波数のエネルギーを受ければ変化するのではないかと。高レベル放射線を受けても、細胞が傷付くだけで害悪しかないのでそれは止めた方が良い。そうではなくて、思考レベルでの高度な考え方に至ると言う方が正しいだろう。さっきも書いたが、子供から大人へ至ることで変化する思考回路だ。子供では見えない部分を、大人は分かるようになる。それは先を見通して深い洞察を行うと言う事だ。ハイセルフはもともと人間だったので、その延長で考えるなら気の遠くなるほどに深い洞察力を持っていると考えられる。それによって人のはるか未来を見通すだけでなく、どのポイントで何を行えば人生を変化させられるのかを知ることが出来るのだ。私たちも、実験用のマウスが実験用の迷路に入れられて走り回ってるのを上から見て、その先に何があるのかを先持って知ることが出来る。道筋をところどころ変化させ、餌や出口のあるところにマウスを導くことは誰でも出来る。ハイセルフは私たち人間にとって実験室の研究者であり、正しく人生を導ける指導者にもなれる。私たちには彼らが何を考え、何を望んでいるのか知る由もない。実験用マウスに科学者の心が見えないのと同じだ。ただ、マウスが困っていて、死ぬかもしれない状況に陥ったとしたら手助けしてくれる可能性はある。私たちはそれぞれが専属のハイセルフの加護を受けており、正しい方法で祈ることで、彼らの手助けを得られると言う。その方法について次回に考察してみよう。
2015.10.12
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ミドルセルフとロウセルフのつながりを象徴するものは言語である。この二つの意識だけが共通の言語で意思の疎通が行える。私は英語でやってみたが、サブシステムのロウセルフは理解していないようだった。ネイティブの言語でなければ効果が薄いのだろう。もしくは、ネイティブと変わらないくらい精通した言語であれば問題が無いと思える。ミドルセルフはすべての物事を客観的に見られる自意識だろうと私は思う。全てを冷静に考え、自分の行動をつぶさに観察し、そのような状況を完全に他人が行えばどうなるかを洞察して最適な結果を感情を交えずに導き出す意識のようだ。ただ、この意識も能力は後天的で環境と教育によるものだろうと感じている。どんなに冷静に考えても、論理的な思考と言うのは訓練を行わなくては培われない。その点でハイセルフの超越した能力や、ロウセルフの本能とまったく別種の能力である。何か願望や実現したいものを考えるとき、ただ欲望のままに思いつくものではなく、冷静に心を落ち着けて、心の奥底から湧き上がってくる気持ちで判断するようにしなくてはならない。ロウセルフの本能だけが望んでいるのではなく、冷静なミドルセルフもそれに賛同している必要があるからだ。生命力とロウセルフの本能だけで行うロウマジックであれば、このレベルでも十分な願望実現の力を発揮できる。むしろ、私たちにとってはそのやり方の方が理解できるし、実際に行うにしても手ごたえがあるので、感覚的に分かりやすいのだ。しかも注ぎ込む生命力の力に応じて反応が出てくるので、どのくらいの力を入れれば実現できるか、推測も可能になる。ただ、人知を超えた奇跡を引き起こすのであれば、やはりハイセルフへの祈りは必須であろう。うちの趣旨もそれなんだから。ではハイセルフについての考察に入ろうと思う。ハイセルフとはなんだろうか。アウマクアと呼ばれる高度な知性を持つ意識であり、人を見守る存在であると説明されている。ただし、個人の人生を見守ると言うより、人類の進化を見守ってると言う方が正しい。なぜなら基本的に人の人生には介入してこないからだ。その存在に気が付き、人間の意志によってその能力を利用させるのがフナの祈りである。フナの一族がどのようにしてハイセルフの存在を知り、それを利用する方法を手に入れたのか、私たちに知る由もない。そしてハイセルフについてだが、実は祈りにはあまり影響が無いのだ。正しくハイセルフについて知識を得ていなければ祈りが届かないと言うなら、この祈りは無意味になる。なぜなら、大昔の人間が理解していたハイセルフの存在と、私たちがロング博士の著書から得た知識によるハイセルフが全く同じとは限らないからだ。だが、祈りの構造はとても単純で、その祈りの中におけるハイセルフの立ち位置は単純明快である。ロウセルフから伸びるアカコードによって接続され、その中を念体とマナが流れていくことで祈りが成就する。これだけである。間違えようのないくらい、とてもシンプルですっきりしている。やはりハイセルフの存在と言うのは、人間にとっては理解しにくいと言えるだろう。神と呼ぶには能力が限定されているし、人間の延長にしては、あまりにも思考能力が突出している。それでいて、人の人生にほとんど介入しないのだから、今まで理解されていなかったのはうなずける。だがしかし、このハイセルフに接続しない事には祈りは完成しないのだ。もしこのハイセルフが私たち自身の精神の一部だと言うなら、それを感知したり理解することは出来ないのであろうか。これについては次回に考察してみようと思う。
2015.10.10
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私のもっとも古い記憶は2才ごろだと思う。1967年生まれなので、69年頃ではないかとは思うのだが、正確ではない。真夏の海辺で砂遊びをしていると、意地悪な叔母に砂を水着のなかに入れられて泣いてる自分だ。1970年の大阪万博を見に行った記憶はしっかりと残っている。父親が肩車をしてくれて、月の石を見るために並んでいた。ソビエト館の前で記念写真を撮影して、そのときに着ていたコートは、母方の叔母がアメリカで買ってきてくれたものだ。その少しあとになると、一番最初に両親が結婚して住んだアパートの前で、カートに乗って遊んでる光景も覚えている。妹が生まれてから家族で六甲山の麓に遊びに行き、ソーメン流しを楽しんでる記憶もある。ひとつの記憶を思い出すと、それから連続して過去の記憶が甦ってくる。相当古い記憶なのだが、すべてに関連してるのは、”感情や感覚をはっきりと覚えてる”ものばかりを思い出していることだろう。ロウセルフに働きかけて、古い記憶を思い出すように命令すると、こんな感じでいろいろと出てきた。前回までで、自分の意識がミドルセルフとは言えないものであり、ほとんどロウセルフに近いものだろうと言う考えに至った。だがおなかの部分はサブシステムなので、それとも別の意識であろうと言うことである。普段、私たちが自分であると意識してる自我は、様々なものが混じりあっている。感情、感覚、反射、サブシステムからの刺激や情報、過去の記憶、そしてミドルセルフからの信号。これらがすべて混じり、自分と言う人格になっている。フナでは一人の精神は三つの意識でできていると言うが、それが混じってるのか、独立してるのか、重なりあっているのかと言う事にはあまり説明がなされていない。独立してるわけではなく、かといって現代心理学のように連続したものであると言う立場もとっていない。ただ、私が考えていることは、”自分と言う自我”は、そのままひとつの意識として考える方が良いのではないかと思う。そのなかにロウ、ミドル、ハイと言う要素、成分があって、それぞれが独自の働きをしてるのだと考える方がすっきりする。それぞれが分離してると思うから変なこだわりや勘違いをするのであり、自分は自分であると思ってる方が思い違いにならない。そのように思い直してから祈りを考えてみる。自分の心のなかには道徳心、常識、モラルと言われる部分が存在する。これは本能ではないし、かといって感情でもない。明らかに教育や環境によって培われたものだ。人が成長する上で周囲の人間や知人、家族からの影響で育まれたものであるのは間違いない。自我の芽生えと共に育ってくるものである。ロウセルフのサブシステムは本能であり、なにもしなくても自動で動いている。だがモラル、道徳心、常識は教育による。つまり、ミドルセルフとは教育によって成長する意識と言える。ミドルセルフが人格や性格に大きく関わっていると言うのはこのためだ。教養と知性は教育によって大きく変化するものであり、人間の社会では基本的でありながらとても重要な意味をもつ。この部分が発達してる人は、ほぼ反射的に良い行いをしようとする。満員電車で座っていても、老人が乗車してきたのを見れば、自然と席を譲るし、落とし物を見つけたら、すぐにそれを持ち主へ届ける方法を考えるだろう。”そのように思う”心の反応こそがミドルセルフが発達してる証拠であり、その瞬間の心の動きがミドルセルフなのである。自分の行動をつぶさに観察してみると、何か行動を起こそうとしたり、何かを考え始めた瞬間に、”~のようにすべきである”と言うものが立ち上がっているはずだ。”~のようにしなくてはならない”ではない。英語の動詞で言うと、have to ではなく、 should で現されるだろう。実際、前者の行動を素直に聞くと、物事がすんなりと進むことが多く、後者だと軋轢や障害を生むことが多い。それは前者が論理的なミドルセルフが導き出した答えなのであり、後者は非論理的なロウセルフの考えだからだ。私たちはほとんどの考えをロウセルフの反射に頼っていて、そこにはしがらみ、感情、思い込み、見栄、野心、妬みと言うものが複雑に絡み合っている。だが、それらをすべて取り去って考えれば物事はとても単純に解決できる場合がある。自分と立場の違う人間に任せれば、すべてのしがらみをはずして最適な方法を考え出すだろう。それと同じなのだ。祈りを行う前に私たちが行わなくてはならないのは、素直な心の動きに自分の意識を会わせることなのだ。真の自我と呼ばれるのがミドルセルフであり、それは完璧に論理的で道徳的である。仏教で言う八正道は、心の導き出す素直な道徳心に従うとき、涅槃に至るとダンマパダで説いているが、まさしくこの事だろう。ロウセルフの考えで凝り固まった心では、ミドルセルフに従うこともできないし、ハイセルフに接続もできない。おそらくフナでは、ミドルセルフとロウセルフの意識を会わせるための技術が存在したはずであり、それは難しくない。心を落ち着け、素直な心を甦らせると成功する。その状態で祈りを行うと、成功率が格段に上がるだろう。ちなみに、ロウセルフによる願望実現ではこれは必要ない。
2015.10.08
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翻訳本や自分で訳したものを読み返してみると、以外と見落としが多いことに気がつく。ざっくりとした解釈しかしていなかったんだなと改めて気がついた次第です。フナによる人間の解釈では、肉体はミドルセルフとロウセルフの共同利用であるが、その内容はほとんどがロウセルフであり、ミドルセルフはごく一部でしかない。肉体のほぼすべてはロウセルフが制御してるわけだ。人は肉体と意識、精神で出来ている。この精神が実は三つの意識の集合体であると言うのがフナの理論である。私たちは自分である意識をミドルセルフと言う風にフナの理論で学んでいるが、そこに間違いがあるのでは無いかと言うのが今回の趣旨だ。もう少し人の意識について分析を行ってみようと思う。人の意識とは二つの成分で成り立っている。それは記憶と人格である。その二つが合わさって、一人の人間の意識となっている。では、どちらの成分要素が多いのだろうか。これはロング博士の文献を見るとよく分かる。ミドルセルフとロウセルフの分離による人格解離が起こった場合、全く別人と呼べるのは記憶の変化だろう。人格が変化しても、記憶が残っていれば、その人自体は変わっていないと認識できるし、それは周囲も本人もそう思う。つまり人を区別、認識するのは記憶であり、人格ではないと言うことだ。記憶はそっくりそのままで、性格だけが変化した娘を受け入れた夫婦の話もあった。とてもおとなしい性格から活発な少女に変化したのだが、その変化が好ましいものだったので受け入れたわけだ。これが記憶まで変化していたら、家族に受け入れられたかどうかは分からない。フナによると、性格の部分がミドルセルフであり、記憶はロウセルフと言うことになる。私たちの意識の大部分は記憶でできているので、実は私たちが自分だと思ってる意識は、そのほとんどがロウセルフと言うことになる。ここで問題になるのは、おなかの意識との違いだ。いったい何がペンデュラムを動かしてると言うのだろうか。人間の意識は、もともと脊椎動物の延長として発達した大脳に依存している。最新の研究によると、意識は反射やルーチン化された動作、考えでは対処できない場合の判断や選択を行う必要性から発達したと言われている。外から受ける大量の情報を瞬時に判断し、反応を決める必要があったので、神経の束を増やし、記憶も増やして、様々な状況に自動的に反応できるようになってきた。それさえも越えるような状況を即座に決めたり、熟考しなくてはいけない事が増えてきたために、論理的な判断を行う意識が出てきたと思われる。だが、論理思考を必要とするような状況が常に続くわけではない。普段の私たちはほとんど無意識と反射による単純な作業のみで生きている。そういう意味では、私たちの意識の大部分はロウセルフなのだ。ただ、肉体の制御のためには大脳の機能を使うわけにはいかない。そこで肉体制御の部門を独立させた。それが太陽神経叢なのだ。つまりロウセルフには無意識の部分と意識の大部分が含まれることになる。残念ながら無意識の部分は大半が独立経路になっているため、その作業内容を確認することはできない。と言うか、そんなものを全部大脳が制御しようとしたら餓死してしまう。ここで状況を整理する。まず私たちが自分だと思ってる意識とはロウセルフの一部であると言うこと。ペンデュラムなどを動かしてるのはロウセルフのサブ機関であると言うこと。ミドルセルフとは人格、性格、特質と呼ばれるもので、意識とは別であると言うこと。ただ、意識の作用に大きな影響は与えている存在なのは確か。ようやく意識の全貌がかいま見えてきた。さて、今後に考えなくてはいけないのは、祈りの主体についてだ。今まではミドルセルフとしての私たちが祈りを行っていることになっていた。だが、意識の概念が変わったのであれば、祈りも変わらなくてはいけない。これについて次回から考えてみようと思う。
2015.10.06
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人間は動物である。一つの例として、猫を取り上げてみよう。猫だって人間と同じ哺乳類であり、脊椎動物である。肉体を制御する神経系、小脳による運動制御があり、脳幹の生命維持が行われている。では意識はどうなのであろうか。猫も人間と同じように自分を認識していると思える行動をとる。だが、フナで言うならば猫にはミドルセルフが無く、集合的な種族のハイセルフの影響を受けていると言う。一旦、ミドルセルフの存在を脇に置いて、哺乳類の構造からロウセルフを考えて見ると。肉体には二つの神経系が存在する。生命維持、肉体制御の神経系と、意識をつかさどる大脳の二つだ。この二つは肉体に依存している。私はロウセルフには二つの経路があるのではないかと思った。肉体制御の経路と、意識系の経路だ。意識をメイン、肉体制御をサブとしてみる。この二つは密接に関係しているが、意識はサブの経路から発展してきた。そのきっかけはミドルセルフだ。ミドルセルフが論理的な行動や思考を具現化するため、肉体上での思考を導き出すために仕方なくロウセルフからの分離を試みて作られたのではなかろうか。つまり、大脳と太陽神経叢はどちらもロウセルフの産物であり、ミドルセルフは大脳の一部を間借りしてるに過ぎない。あなたは危険で凶暴なチンパンジーである。そのチンパンジーを正しい方向に導こうと、ミドルセルフは声や笛、道具を使ってチンパンジーを正しい方向に誘導しようとするが、集中力が続かないので、すぐに気が散ってしまう。それでも、興味のあるものについてはそれなりに意識を向けることが出来るようになってくる。中にはミドルセルフの思うとおりに行動するサルも出てくるだろう。そう考えて普段の考えや思考をつぶさに見てみると、面白いことに気が付いた。何かを思うとき、意識しないくらい瞬間的に、”こうするべきだ”と言う刷り込みが行われている。だが、自分の意識が強すぎるとそれを無視して独善的な考えで支配されている。感情を抑え、最初の思考の始まりをじっと感じると、そのひらめくような感覚が見えてくる。おそらく、これがミドルセルフからの指令なのだろう。この指令は常に正しく、まっとうな考えだ。これに素直に従う人はとても親切で他人に寛容なように思える。このあたり、仏陀の教えと通じてる。そろそろ仏教の原点も調べないといけないかもしれない。
2015.10.04
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昨日、今までのミドルセルフやロウセルフの認識が間違っているのではと書いた。その考えに沿って考えてみると、いろいろと腑に落ちることが多い。実はロウセルフの範囲は、私たちが自分であると思ってる意識も含まれていて、それと共に太陽神経叢も含んでいる、現代の科学が物理的に人間を解明しようとしてるのと同じく、ロウセルフとは物理的な人間そのものと言うことだ。フナでは人の意識を三つに分類している。それは精神的なものであり、決して物理的なものではないはずだ。もし物理的な分離があるなら、すでに発見されいているだろう。そうではないからこそ今まで理解されずに来た。進化の過程を考えると、大脳が発達して意識のようなものが発生してきたのは解剖学的に分かる。それはあくまで生物としての進化の結果であり、意識ができたからではない。つまり大脳を発達させてきたのも、ロウセルフの発達の延長上にあると言うことであり、ミドルセルフとは関係がないと言うことになる。肉体の進化が大脳を作り出しただけで、精神の発達による意識の進化とは別のものだと言うことだ。おそらくミドルセルフは、”存在するように最初から現れ”、その働きを補完するために大脳が発達してきたと考えられる。論理的な思考や未来を見通す力をミドルセルフは本来もっており、それを肉体で実現するために、ロウセルフである大脳の機能を使って考察してるのだろう。こうやっていろいろと考えているのは、あくまでロウセルフである肉体である。大脳の機能も言語を操るのも、思考するのも、肉体の力なのだ。ミドルセルフはロウセルフに大脳を使わせ、いろんな事を考えさせようとする。それこそ理路整然と理屈の通った物事の道筋を考えさせ、それを具体化させるために動くことを自覚させてるのだ。だが、肉のロウセルフは自らも考える力を持っているので、必ずしもミドルセルフの望むようには行動しない。むしろ、肉の欲望に溺れてしまうことの方が遥かに多い。どんなに頭でわかっていても、悪癖を抜け出せないのはこのためだ。思考をしているのはロウセルフであり、それには様々な肉の考えが混じってくる。そういう意味で、人とはとても不合理な考えに基づいて行動してる。動物はもっと欲に対して素直に動く。だが人は理屈を考え、体裁や面子、顕示欲、あらゆる事を考えて行動する。人のロウセルフとは、普段、私たちが感覚を感じてるほぼすべてと言える。ではミドルセルフはなにか。実は今まで自分だと思っていた意識も、ほとんどがロウセルフの反射的な反応で作り出されたものであると考えると分かりやすい。そこにミドルセルフはいないのだ。良く考えてみてほしい。私たちは毎日の生活のなかで、ほとんどの思考や行動、話す言葉をじっくりと考えつつ行っているわけではないことを。おそらく無意識に行動してる事が大部分だろう。つまり、日常の生活でミドルセルフはあまり関係していないと言うことになる。ミドルセルフは、その存在を意識しない限り、人はほとんど認識すらしていない。どの様なときに人はミドルセルフを感じることが出来るのか。それは集中力と意欲を必要とするときである。端的な例を挙げてみよう。勉強をしなくてはいけない、仕事をしなくてはいけない、だけどどうしてもやる気が起きない。そのときのあなたの意識の大部分はロウセルフが支配している。しなくてはいけないと言う気持ちの部分がミドルセルフだ。あなたは頭のなかでいろいろな言い訳を考える。これがロウセルフの働きである。そのとき、ミドルセルフの働きは極めて弱められている。または、普段の生活のなかで物事の順番として先に行わなくてはいけないことが、ふと思い付いたとしよう。それをそのときに行えば良いのは分かっているが、なぜか後回しにしてしまう。言い訳を考えてやらなかったとする。この、”ふと思い付いた”部分がミドルセルフであり、言い訳を考えているのがロウセルフだ。人は直感的に正しい物事を判断できる生き物であり、今まではその直感がロウセルフであると思っていた。だが、良く考えてみると、直感とは正しい道筋を示してくれる存在なのだから、ロウセルフとは言えない。むしろ、それはミドルセルフの役割と言える。直感を無視してグダグダと考え、結局失敗するのはロウセルフの意識である。私たちのミドルセルフは常に正しい判断を行い、その考えを伝えてきている。それを無視してるのは肉のロウセルフが大脳で考える思考である。私たちは、物事を想起したり、言葉を話したり、そういうことをするときに瞬間的に頭の中で思い浮かんだことを実現しようとする。行動や話すことで実現しようとする。そしてそれは瞬間的な判断こそが正しく、物事の本質を見据えている。その考えをねじ曲げたり、言い訳したり、面倒がったり、正しくない行動をしようとするのが、人の過ちの根本にある。人が物事を考える瞬間、ミドルセルフが出発点を示している。そこからはロウセルフがいろいろと考え出すようになっている。よちよちと歩いている動物や幼児を見て、正しく危なくない方向に導こうと手を出したり、声で教えるのがミドルセルフなのだ。だから人の頭のなかには、正しい物事を考えている時と、窮屈な考えで凝り固まってる時が存在する。いわゆる、”直感”とはミドルセルフのことなのだ。それを正しく受けとるために瞑想が存在している。ここまで考えが及んだとき、最大の問題が残ってしまった。それはロウセルフの支配する思考だ。これについては次回の考察で。
2015.10.02
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カフナ研究会をわざわざ立ち上げて、祈りの実験を行ったり、セミナーを開催してるが、その目的はたったひとつ。”効果のある祈りを行うこと”これしかない。すべてはこの実現のために行っている。どんなに理論が優れていても、どんなに有名な人物が説明を行おうとも、結果の伴わないものはゴミ以下です。巷に広がっているホ・オポノポノを批判しても、それによって救われてる人がいるなら、その人にとってはフナの祈りよりも価値のあるものとなる。今までに2回、祈りのネットワークを開催し、効果の出た人もいれば、出ていない人もいる。むしろ、出ていない人の方が多いだろう。これでは意味がない。ではなぜ効果が出ないのか、その理由を考えなくてはいけない。根本的な理論が間違っている可能性はあるが、それを否定してしまっては祈りを行う事が出来ないので、とりあえずはそのままにしておこう。他の理由は何が考えられるだろうか。全般的に考えられるのは二つ。マナが足りないか、ハイセルフに接続できていないか、その両方か。参加者をアカコードで繋ぐのは成功している。気の感覚を利用して繋がっているのが分かるし、練習の時にも確認している。マナが足りないと言うのもあるのだけれど、少なくとも私の分は流してるし、それにマナの質的には十分な量だと思う。ロウセルフに確認したところ、ハイセルフへの接続もできていると言う。ロウセルフの言うことがすべて正しいわけではない。そうなって欲しいと思うことを答える傾向があるので、完全に信じてはいけない。だが、祈りの最中には何度かマナの返しを感じたし、私は接続もできてると思う。念体が正しくできていないとか、念体を送る作業が十分では無かったとかも考えられるが、そんな事を言い出したら切りがない。結局、何が原因なのか分からないのだ。ではどうするか。こう言うときは原点に帰るのが良い。もっとも根本的な部分を確認し、そこから構築をやり直す。祈りは叶う人もいれば叶わない人もいる。その間に明確な差異が見えるわけではない。聖職者の祈りが正しいわけでも無く、悪人が祈っても叶うときがある。自分の事を願って、なぜか家族の願いが叶うこともある。ここで祈りの種類を分けて考えようと思う。瞬間的な奇跡の祈りはハイセルフが行うものであり、それは明確に現象が分かる。時間をかけて叶う祈りは、どちらかと言うとロウセルフの能力によって叶うものだ。では、ロウセルフとは何か。それを考え出した時に、私はとても単純な事を見落としていたことに気がついた。そもそも、”ロウセルフ”とはなんぞや?そうだ、ロング博士の本に書かれているロウセルフ、ウニヒピリやミドルセルフ、ウハネの記述には次のようにあった。現代心理学で言う潜在意識がロウセルフであり、顕在意識がミドルセルフであると。私たちはこの意識の違いについてどのくらい理解してるのだろうか。実は大きな勘違いをしてるのではないだろうか。ロング博士はこのようにも書いていた。”フナのロウセルフは、心理学の潜在意識よりも遥かに広く、数十倍の広さを持っている”と。そしてロウセルフは人の肉体を支配し、全ての制御を行っている。つまり、肉体とは足の先から頭の頂上まで・・・、頭?つまり、大脳ですよね。大脳、小脳も含めた脳の機能をロウセルフが支配してると。脳の機能、生命維持だけでなく、感情、感覚、言語、記憶、それらもロウセルフが関係している。もしかして、”意識を作り出す”のもロウセルフの機能なのではないのか?そこまで考えたとき、ミドルセルフについての記述を思い出した。ミドルセルフとは肉体を間借りしてるお客に過ぎないと。つまり、”ミドルセルフは肉体の中にいない”私と思ってる意識は肉体の内側にいる。だけどミドルセルフは肉体にいない。私とは顕在意識ではないのか???ミドルセルフとは、私だと思ってる意識とは違うかもしれないと言うことか。ここにたどり着いたとき、ものすごく混乱した。今まで正しいと思っていた知識や理論が最初から間違っているかもしれないと言うのだ。フナの言葉を英語に訳し直したのはロング博士だ。彼の功績は称えられるべきであろう。だがその訳が間違っていたら?私たちには検証のしようがない。祈りのメソッドに疑いの余地はなさそうだ。あまりにも単純な図式なので、誰が見ても理解できる。だがそもそもウニヒピリ、ウハネ、アウマクアと言うものについて、明確に現代の人間に説明できるような言語や言葉、論理があるとは思えない。日本人の侘や寂をどんなに言葉で説明しても、独特の感覚を海外の人間に理解してもらうのは至難の技だろう。ましてや失われてしまった心理技術を言葉だけで理解することは不可能に近い。ではどうするか。まず言葉の基本部分に着目し、間違えようのないことにだけ目を向ける。肉体=ロウセルフ とあるならそのまま理解し、ミドルセルフ=お客 ならそれもそのままにとる。目で見えて説明のつくものだけで考えるのだ。心理部分に関しては現代の大脳生理学分野の力を借りるのが良いだろう。機能的な部分について生体の活動記録をかなり見られるようになってきた。そこから導き出される脳と意識の新しい理論は、以前からブログで何度か紹介してるが、フナの考えに非常に良く似ている。理論構築は私が考えれば良いことなので、今までの通りに他の人は祈りを行ってほしい。それはそれである程度上手くいくはずなので。
2015.10.01
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