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佐竹の殿様の家伝薬が、御典医藤井家の改良により一般薬として普及。明治以後は海外の製薬技術も取り入れ、複数の生薬を均一の粒度に調えるオンリーワンの技術で、国内外の超ロングセラーとなっている。これが、龍角散だ。■関連する過去の記事 秋田と龍角散(2013年1月25日)河北新報で今週前半の記事に出ていた。龍角散の考案者が住んでいたとされる美郷町で、甘草の試験栽培が始まった。甘草は、セキを止める効能があるグリチルリチンを含み、医薬品や甘味料に活用されるが、現在は国産は1割だけ。8割を中国からの輸入に頼っている。今年の2月に生薬の里の抗争を打ち出した美郷町が、龍角散社等と連携して安定供給をめざす、という内容。町としては、江戸時代に町内に栽培された記録もあり、耕作放棄地を活用して、町の特産品に育てたいとしている。甘草は近年世界的に需要が高まり、中国の輸出規制のため価格が上昇傾向にあるという。町では、7月に町有地5aに680本の苗を植えて、試験栽培を開始。最適な栽培法を研究し、3年目以降には収穫して、地元農家に本格栽培を呼びかける。龍角散は江戸時代後期に六郷(美郷町)の医師藤井玄淵(-1827)が考案したとされる秋田藩の家伝薬。子孫が江戸に出て改良を加え明治期に製薬業を創業。現在は台湾や韓国、北米などに輸出されている。以上が記事の概要だが、藩政時代からの深い縁をもとに、町おこしや経済効果を狙う取組は、大変興味深い。経営ベースに乗るかどうか、品質の保持や栽培指導体制はどうするか、などおそらく相当な改題はあるとは思うが、龍角散社や薬品業界、学界などが、薬草文化の普及、漢方薬の自給化、創薬事業おこしや町おこしの観点から、前向きに取り組んでいただくことを期待したい。
2013.08.31
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ついにイーグルスもマジック点灯目前! 万感胸に迫りますね。わが子達よりも若い大事な東北の新生児でしたが、やっとここまで...ところで、家の子ども達はマジックナンバーについて誤解があるようです。「マジック点灯とかいうけど、144試合全部勝てばいいのだから、最初から全チーム144なんじゃないの」う~ん。ありがちな誤解。自分も中学生の頃は、そう思っていた。しかし、マジックとは特殊な概念であり、「自力優勝」(これも誤解されがち)とも関連して、ちょっとヒネリの効いた考え方なのです。ここで、マジックナンバーをスッキリと理解するための考え方を、私なりに。------------自チームが残り試合を全勝すれば、リーグ内の他チーム同士の勝敗いかんにかかわらずリーグ一位となる場合、「自力優勝が可能」と表現する。すなわち、リーグ戦開始時点ではどのチームも自力優勝の可能性があるが、成績不調のチームはやがて「自力優勝が消滅」する。(つまり、他チームに首位を叩いてもらわないと浮かび上がれない状態。さらに負けが込むと2位以下が確定する。)他のチームがすべて「自力優勝消滅」した場合に、自チームがあと何勝すれば優勝を確定できるかが、マジックナンバーである。つまり、自力優勝可能性の背比べであるが、(1)他チームがすべて消滅した場合に限って論じることとし、(2)他チーム中で最も(他力)優勝に近いチームを対象にして、対象チームが全勝しても自チームがあと何勝すれば上回るのか、を算出するものである。------------わかりにくいですかね。リーグ戦である以上、自チーム以外の試合でも順位が左右されることから、考え方を絞っているということなのですが。さて、我が子たちはテレビを見ながら、ほかにも素朴な疑問を口にしています。「嶋が得意の右打ちを見せました~!!」(子)「えっ?嶋って前から右打ちだけど...」「大谷の二刀流の挑戦は模索が続きますね~」(子)「大谷だけ騒ぐけど、セ・リーグのピッチャーってみんな二刀流だよ」解説も不要ではありますが、素直な発想というものも大事。その上で、なぜそのように言われているのかをよく理解すれば、日本語の幅も広がり、プロ野球観戦の楽しみも深まるというものでしょう。
2013.08.25
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昨日も田中は連勝記録を伸ばすとともに、イーグルスの連敗を阻止。チームの活力を回復してくれたようで、その意味でもエースの真価を発揮してくれた。さて、何日か前に豊田泰光さんが日本経済新聞のコラムに書いていたことを思い出した。読み返していないので不正確だが、大要こんな記事だった。田中が記録塗り替えによって、稲尾や豊田さんの時代に光を当ててくれた。記録達成の時の稲尾は、先発もリリーフもありで、チームより個人記録優先の起用。実際に記録を達成した試合でも、味方が初回3点を取った直後に先発投手を下げて稲尾を登板させたのだ。しかし不思議なことに他の選手に大きな違和感もなく、大記録達成という方向に皆が向いていた。今の楽天も、田中というミコシを担いで行ける時だ。実は私は、毎回先発で連勝する田中の方が、かつての稲尾氏より価値があるのではないか、という感覚的な感想は持っていたが、チームとしてどうなのか、などはあまり深く考えたこともなかった。もし田中で負けたら、最近沈滞のチーム事情に拍車をかけるな、という単純な心配をしていたくらいだ。豊田さんの記事は大変興味深かった。まず、チームの意識だ。たしかに、個人記録優先の起用だったようだが、ミコシを担げる一体感は、担げるミコシ(個人記録)があってこそだ。特に、優勝をあらそう状況にあっては、支柱がほしい。よもや崩れてしまっては祭そのものが終わるから、ミコシをしっかり支えていかなければならない。もう一つは、ものの見方の深さと幅広さ。稲尾氏と田中の連勝記録を単純に価値比較して論じることも、それはそれで楽しかろうが、時代や時勢のことなる両記録は、それぞれの価値があるだろう。当時の野武士軍団西鉄で、連投も当然、年間勝利数も30や40という鉄腕が果たした役割は強烈だったはずだ。今や投手分業制が確立し、一定間隔のローテを守りながら確実に役目を果たすこと、これも何物に代え難い球団の宝だ。プロ野球とは、まことに面白い。個人、チーム、地域、そして時代がどう関わっていたか。豊田さんにとっても、あの熱い時代に光を当ててくれたことへの感謝があったのだと思う。さて、いずれにしても偉大な記録。そんな記録の更新のまっただ中に、今のイーグルスと東北は、あるのです。幸せなことに。
2013.08.24
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七ヶ浜町の高台に国史跡の大木囲(だいきがこい)貝塚がある。隣接する町の歴史資料館には2度ほど行ったことがあるのだが、この貝塚は、松島湾を望む高台に広がる大規模な縄文遺跡のようだ。ここから出土したのが大木式(だいきしき)土器で、主に東北南部で出土するものとして、年代を決める編年基準とされている。縄文時代前期から中期にかけて、1式から10式に細別されている。また、深鉢型のものは新潟県長岡市で初めて確認された火焔型土器(ほとんどが新潟県内に分布する)などの形態に影響を与えたとされている。つまり、縄文時代の土器が阿賀野川流域の会津地方で交流し合っていたと考えられるのである。会津は古代史を考える上で重要な場所だ。特に、会津坂下地区は、阿賀川に只見川が合流する場所でもあり、文化伝播や物流が古くからあった。「古事記」には、崇神天皇の時代に諸国平定の任務を終えた大彦命とその子建沼河別命が、この地で交流したため「相津」の地名となったとしている。街道の要地だったという背景があると思われるが、実際に会津坂下から山越えして阿賀野川沿いに日本海側の越に向かう越後街道がある。会津坂下の分岐点に気多神社がある。本社は能登半島の羽咋市にあり、祭神は大己貴命(大国主命)で海上安全の神とされる。この神社は、主に日本海側の越の地に分布する古代からの神社である。会津坂下で分岐するもう一方の道は、柳津方面に向かう現在の国道252号で、只見川に沿って道は奥に向かい険しくなるが、再奥部で再び分岐して、北関東と魚沼地区に進むが、ここもやはり古代の物流の別筋だった。大木式土器と火焔型土器の関係は、会津坂下が古代の道の分岐点であったことを裏付けるものである。■相原精次『封印された「あずま・みちのく」の古代史 東ニッポン歴史再発見』洋泉社、2011年 から(当ジャーナルで要約)■関連する過去の記事(相原氏上掲書) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日)
2013.08.21
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明治の維新政権は、欧米に範を求め近代化を推進する一方で、国民の意識統一のため過去の政体を持ち出す王政復古という、一見矛盾した側面もあった。天皇親政の一元支配をめざした王政復古は、明治政権発足当時と時代背景が似ていた古代の大化の改新に求めたものである。大化の改新の頃は、日本は唐や半島の政変にしばしば巻き込まれ、国際社会で行動するにあたって自国の制度の遅れも自覚された時代だ。この時代を乗り切る上で、国としての体裁を明確にする必要から、中国に倣った律令を取り入れた。社会的な秩序保持ができる国であることをアピールしたかったのである。付随して、国家の成り立ちを対外的に明確に示す必要もあったため、「修史」作業も同時に行った。我が国なりの律令が整い、修史が成って古事記と日本書紀が示されたのはほぼ同時期で、これが我が国「天皇制」の出発でもあった。明治新政府の発足に力を注いだ元勲たちは、モデルとした古代の一時代には「大化改新」の名をつけ、自分たちには「明治維新」との対語をつくり、明治維新における「律令」として憲法制定を、また、記紀の編纂にまねて「国史の修史」作業を急いだ。国史の神話部分は、記紀を基本に再構成し、「明治の神話」を学校教育に取り入れ、神代から万世一系の天皇を戴く誇り高い国民と教えたのだ。この「神話」導入は、近代科学としての歴史学研究とは別のものと考えられたが、とりわけ原始・古代史の研究に際しては大きな制約となった。こうした統制は昭和にますます厳しくなる。昭和12年には文部省が「国体の本義」を著し、神話に始まる大和朝廷を万古不易の国体とし、国内各地の歴史は語る必要のないものとし、とりわけ「あづま・みちのく」は未開の扱いを受けることとなった。中でも、奥羽は戊辰戦争で朝敵の名をかぶせられた。「あづま・みちのく」は記紀では「東夷」「蝦夷」の呼び名で出るが、当時はさほど重大な意味を持っていなかった。中国で使われる四囲の諸国に対する常套用語を日本も真似して使用しただけで、実質的な感覚は「東の人たち」「北の人たち」程度に過ぎなかったと思われる。ところが明治政府はその言葉を持つ意味を、とりわけ「朝敵」が多い東国一帯を指す「東夷」は「あずまの未開地」の意味で利用したのだ。さらに、東北地方を指す「蝦夷」はまさに大和民族とは別の文化果てるところとして語ろうとした。そして、これらの地にあったさまざまな文化を、学問的な成果とは別次元で消し去ったのだ。これは戦前の歴史の扱い方を見れば一目瞭然である。昭和11年に雑誌「ミネルバ」で展開されたミネルバ論争に典型的である。喜田貞吉は、宋銭と亀ヶ岡式土器が同じ場所から出土した事例から、東北の縄文時代の終わりは鎌倉時代頃にまで下がるとした。これは、東北は未開という風潮のなかで実質的検証も足りずに決めつけたものだった。これに対し、山内清男は、縄文文化の終末は日本各地で大差ないと反論した。この論争は縄文時代の概念に関する重大なものだが、その後立ち消えになっていた。明治政府は国の始まりを神話で語ったことで、石器時代はもとより、縄文も弥生時代も一部の学者だけが許された分野となり、一般には全く知らされなかった。歴史を神話で語るには不必要、むしろ害悪だったのだ。近代という時代が、東北の古代史を封印したのである。■相原精次『封印された「あずま・みちのく」の古代史 東ニッポン歴史再発見』洋泉社、2011年 から(当ジャーナルで要約)
2013.08.19
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〔前回から続く〕■前回の記事 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1)(2013年7月20日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その2)(2013年7月25日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その3)(2013年8月15日)宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。陸奥の国が平静になったのと対照的に出羽方面には反乱が起こる。貞観17年(875)11月に「渡島の荒狄反叛し、水軍八十艘、秋田・飽海両郡の百姓二十一人を殺略」(三代実録)するという事件があった。この渡島の荒狄は男鹿地方の蝦夷と考えられるが、次の元慶2年(878)の事件にははっきりと津軽蝦夷が登場する。すなわち3月15日に夷俘が反乱を起こし「秋田城・郡院屋舎・城辺の民家を焼く」という事件が起きた。出羽国司藤原興世は、陸奥国からの応援をえて鎮定にあたったが成功せず、政府は田村麻呂の孫坂上好蔭(よしかげ)、藤原保則、小野春風らを派遣する大乱に発展した。「三代実録」の記事によれば、秋田城下の賊地は12カ村に対して、向化の俘地(俘囚の地)は秋田城と雄勝城の間の3カ村に過ぎず、政府軍はこの3カ村を味方として上野国などの援兵をもって応戦の体制をとったが、津軽地方の蝦夷も南下する形勢にあった。出羽の国司は「津軽の夷俘は、其の党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。若し逆賊に速(招)かば、其の鋒当たり難し」(三代実録)として、応援の軍を要請している。しかし結局は津軽蝦夷の南下はなく、8月29日賊300人余が降伏し、12月には渡島の夷首103人が種族3000人を率いて秋田城へ入り、津軽の俘囚で賊と結ばない者100余人とともに帰順して、この大乱は終わった。政府は田村麻呂、綿麻呂らに蝦夷を征討させ植民政策を進めるとともに、俘囚を内国に移して宮廷の労役に従事させたり、九州の防人にあてたりした。同時に、同化政策もとり、俘囚長を任命して間接的な支配組織を作り、賜物や位階授与、郡司、村長への任命などを行い、やがて夷俘の姓をのぞき、口分田を支給して課役の民とし内国の民と同じに取り扱う方針をとった。文献には「出羽の俘囚」「陸奥の俘囚」とのみあってわからないが、津軽蝦夷の大部分は未征服、未教化の俘囚であったから、こういう取り扱いを受けるには至っていなかったであろう。このような経営の進展に連れて東北地方にも律令制度が適用されたわけで、土地区画制度である条里制の跡が、飽海郡、秋田市北郊、仙台平野、胆沢城付近などで認められる。これらは城柵や寺院もあり、東北経営の拠点となった地域であった。開拓の拠点を中心とし辺境の地にも可能な限り律令体制をおしおよぼそうとした有様がうかがえるが、しかし律令制度そのものも平安中期にはくずれ、東北地方は蝦夷の族長を俘囚長として部族的政治組織を形成したのである。伊治公、須賀君、などの「君」「公」の姓は中央政府との関係における族長の地位を示すものであろう。東北地方南部では5、6世紀に米作が一般化したとされ、雷神山古墳(名取市)は6世紀の前方後円墳でこのあたりが農耕社会を形成したことを示す。陸奥、出羽両国の米の生産力はかなりのものだったが、米以外にも馬が大きな役割を持っていた。すでに養老2年(718)に出羽渡島の蝦夷が1000匹の馬を献上したとの伝承があり(扶桑略記)、延暦6年(787)正月の太政官符によると、軍用馬確保のため王臣、国司らが競って狄馬を買うことを禁じる旨の詔がでている。このほか、「延喜式民部」には交易雑物として、葦鹿(あしか)皮、熊皮、砂金、昆布があげられている。それぞれの住民集団による文化の差があろうから、これら陸奥、出羽の両国の一部の状況をそのまま青森県にあてはめることはできないが、田舎舘遺跡や下北郡宿野辺の土器の圧痕による米作の推定(伊東信雄氏)があり、米作文化が東北南部より著しく遅れていたとは断定できない。八戸市沢里の鹿島沢小円墳群は奈良時代末か平安初期とされ、鉄製の太刀と刀子、須恵器の提瓶、横瓶や勾玉、管玉、金銅、銀銅製品などが発掘されたことは、稲作文化の存在を推測させる。これらを総合すれば、律令時代後期の青森県は、狩猟、漁労のほか一部水田耕作を含んだ畑作農業をいとなみ、牧馬をも行う、族長社会を形成していたと考えて良いであろう。青森県には館址が多く、これらのなかには中世も城砦として使用されたものも少なくないが、多くは「蝦夷館」などとよばれて北海道アイヌの「チャシ」と同種のものと考えられている。この「館」が族長の居館であり、それぞれの地域の中心でもあったろうか。■関連する過去の記事 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 白八幡宮(鰺ヶ沢町)(2013年5月27日)(阿倍比羅夫の遠征) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(高橋富雄氏の見解) 青森県民の気質(06年11月7日)(宮崎道生氏の見解) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2013.08.18
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県警察が警察署管内ごとに事故多発交差点を発表している。発生数は過去10年間(平成15-24)の件数。仙台中央署 国道4号東二番丁定禅寺通交差点 180件仙台南署 国道4号仙台バイパス鹿又交差点 200件仙台北署 県道仙台泉線双葉団地入口交差点 95件仙台東署 国道4号仙台バイパス箱堤交差点 156件泉署 国道4号仙台バイパス運転免許センター入口交差点 115件塩釜署 県道仙台松島線利府町新大谷地交差点 51件岩沼署 国道286号熊野堂入口交差点 72件大和署 国道4号富ヶ丘ニュータウン入口交差点 60件石巻署 国道45号石巻運河大橋線交差点 47件気仙沼署 国道45号上田中交差点 14件佐沼署 国道398号佐沼内町交差点 20件登米署 国道342号登米町三日町交差点 8件河北署 国道45号飯野川橋西たもと交差点 13件南三陸署 国道45号志津川町五日町交差点 10件古川署 国道4号国道47号交差点 48件遠田署 国道108号下道交差点 16件若柳署 県道若柳築館線若柳中学校前交差点 16件築館署 国道398号旧国道文化通交差点 19件鳴子署 国道47号岩出山文化体育センター前交差点 15件加美署 国道347号加美町平柳交差点 12件大河原署 国道4号船岡大橋入口交差点 62件白石署 国道4号雁狩橋線交差点 22件角田署 国道113号錦町交差点 16件亘理署 国道6号亘理町袖ヶ沢住宅入口交差点 23件いずれも、なるほどと思わせる。皆さんご注意を。
2013.08.17
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〔前回から続く〕■前回の記事 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1)(2013年7月20日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その2)(2013年7月25日)宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。奈良時代に入って養老4年(720)に渡島津軽の津司諸君鞍男ら6人を靺鞨国に遣わし、その風俗を見させたことが「続日本紀」にみえる。この靺鞨国は沿海州とも考えられているが、前記の粛慎と同じく中央からみてさらに奥地の意味であろうし、津司は港付近を支配していた蝦夷の族長と見られる。朝廷に帰順した蝦夷をしてさらに奥地を偵察させたということであろう。その後、9世紀後半の元慶の乱(867)まで、「津軽」の蝦夷は直接には正史にあらわれてこない。その間、陸奥の蝦夷は離反を繰り返しながら、南部から徐々に朝廷の支配下に組み込まれていった。すなわち、和銅5年(712)に出羽国が設置され、陸奥・出羽の国司の上に按察使が置かれて両国を一つの軍政地域として開拓が進められた。太平洋側では陸奥柵(後の多賀城と考えられる)に東国各地から良民が移住。白河、玉造軍団も組織され、国分寺、国分尼寺も造営されて律令社会が形成された。出羽方面でも出羽柵が高清水岡(後の秋田城)に移され、雄勝、平鹿2郡が置かれるなど開拓が進められた。しかし青森県は「延喜式」(927年成立)にも郡名が見えず、まだ中央政府の統治下に入っていない「国の外」で、交渉も文化上にとどまっていただろう。中央に帰順して支配下に組み入れられた蝦夷、すなわち俘囚も、8世紀末から9世紀初めに度々反乱を起こしている。宝亀11年(780)伊治公アザ麻呂が按察使紀広純を殺し多賀城を陥れる事件があり桓武天皇の代に3度の蝦夷征討が行われることとなった。延暦8年(789)には紀古佐美が征東大使として、10年には大伴弟麻呂が征夷使として胆沢地方の蝦夷を討ったが、胆沢の俘囚の長である大墓公阿テ流為や盤具公母礼などの抵抗にあって成功しなかった。その後に坂上田村麻呂が登場する。坂上田村麻呂は、前に大伴弟麻呂のもとに副将軍として征討に参加してるが、延暦15年(796)陸奥出羽按察使兼陸奥守に任ぜられ、さらに鎮守府将軍も兼ねた。翌16年征夷大将軍に任命され、一般政務から軍事征討まで一身に東北経営にあたることとなった。同20年(801)9月ついに胆沢の地を平定し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀城から移した。翌22年に志波城が築かれ、同23年には武蔵、上総、下総など関東地方から多量の米を中山柵(宮城県桃生郡)に運んで準備をととのえ、田村麻呂が再び征夷大将軍に任命された。爾薩体(仁佐平、岩手県北部と青森県東南部)、閉伊(岩手県北東部)地方の平定が目的とされたが、やがてこの計画は中止となった。これで桓武天皇の代の蝦夷征討は終わるが、胆沢地方の平定は田村麻呂の功績だった。しかしながら、田村麻呂征討の詳細は不明で文献も少ない。したがって、青森県地域まで進んで都母(上北郡地方)、津軽の蝦夷を討ったとされ、それに伴う伝承もあるが、裏付ける史料も威武追跡も今のところ見いだすことはできない。たとえば、歌枕として有名になる「壷の石文」(日本中央の碑)や、田村麻呂創建にかかるとする寺社が各地に存在すること、また、津軽地方の七夕祭りである「ねぶた」は田村麻呂が蝦夷をおびき寄せるのに用いたのが起源との説もあるが、すべて伝説に過ぎない。ともかく、田村麻呂の経略が東北経営で画期的な意義を持つことを示唆するものだろう。田村麻呂の征討後、平城上皇と嵯峨天皇をめぐる内紛(藤原薬子の乱)に活躍した文室綿麻呂が、弘仁2年(811)征夷大将軍に任命され、爾(弐)薩体、閉伊の蝦夷を平定した。これにより陸奥国は平静となり開拓が進むことになる。〔続く〕■関連する過去の記事 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 白八幡宮(鰺ヶ沢町)(2013年5月27日)(阿倍比羅夫の遠征) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(高橋富雄氏の見解) 青森県民の気質(06年11月7日)(宮崎道生氏の見解) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2013.08.15
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東北の野球が強い。イーグルスだけではない。甲子園の高校野球で、ここまで登場した5校がすべて初戦を突破。一県一代表となった1978年以来初の快挙とのことだ。仙台育英は乱打戦を制圧。初登場の弘前学院聖愛も見事な試合ぶり。日大山形は県勢7年ぶりの初戦突破。聖光学院、花巻東も力を発揮した。今日は8時から第一試合で秋田商業が登場する。相手は富山第一。東北勢唯一の公立でもあるが、6県全校初戦突破、など意識せず(こっちが勝手にしている?)、のびのび自分たちのチームプレーを展開して欲しい。がんばれ秋田商業。
2013.08.14
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日曜の夜はすっかりダウンしていたので、月曜(12日)早朝のニュースで聞いていた。仙台市長選挙の結果。現職が181,735票、新人が62,178票。ここまで聞いて、結構票が入っている、合計25万弱だから投票率も30%台後半まで「持ち直した」と私は直感で思ってしまった。しかし、このあとニュースは続けた。投票率は30.11%で過去最低と。アレレ。私の観念的な誤りの原因は、仙台の未成年人口が3割という昔の感覚があったからだ。検証してみよう。今回の選挙。当日有権者総数840,667人。投票総数253,097(2人の得票のほかに無効票7,184を含む)なので、投票率は30.11%だ。過去の仙台市の人口構成を見ると、次の通りだ。1975 15才未満23.9% 65歳以上5.6%1980 23.6 6.32005 14.1 15.9粗い把握だが、選挙権を持たない20才未満は、1975年頃だと概ね3割と言える。これが最近ではほぼ半減したのだ。さて、投票率は過去最低。それでも何とか30%を切らなかったことは、仙台市民全体でも内心ほっとしているのではないか。やはり20%台というのは大自治体として、はずかしい。当ジャーナルでは宮城の政治意識をしばしば取り上げたが、仙台市や仙台市民がいずれにしても牽引している県だ。皆さん、投票ご苦労様でした、今後も一票を是非行使しよう。投票は 行かないことには 意味がない(小田島駄作)
2013.08.13
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とある用務で、ご町内をめぐることになった。猛暑の日中を避けて、朝の5時台から作業したのだが、それでも少し日が高くなると汗が出てくる。首にタオルを引っかけて歩いていたが、戻ってくるとどうも背中がヒリヒリする。どうも、タオルを巻いたは良いが、ポロシャツの襟との間の隙間から日光があたったようだ。そんなわけで背中の上部が、三日月のように赤くなっている状態。ちなみに、この作業を土曜、日曜とやったら、体重も2キロ近く落ちる思わぬ効果?も。ところで、最近の記事では、今なお県内のあちこちでクマが目撃されており、被害もあったようだ。気を付けよう。わが町内をウロついた逆ツキノワグマは、昼からはすっかり「ガオッて」家で倒れていた。皆さん猛暑の夏にご自愛を。
2013.08.12
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真夏の夜の9日は、田中の新記録達成で歓喜の坩堝と化したKスタだった。本当に、熱かった。さて、今朝の河北新報では、球団がシリーズに備えて2000席程度を仮設で増築して、9月の主催ゲームから使用するという。我が家の子は、取り壊すのはもったいないというが、今回は時間を優先するのだろう。シリーズに間に合わせるためなのだ。そもそも、Kスタではシリーズはできないという話があると聞いていたが、今朝の記事では「NPBがシリーズの収入源を懸念して、球団に対して2万8千席に増やすよう求めてきた経緯がある」と説明されている。開催場所やチケット価格はNBPに決定権があるため、球団としては最大限の努力を示すことで、仙台開催に理解を得たい考え、との解説だ。たしかに、収容人員は無視できない要素ではある。3万人が、ひとつの目安とみられているようだ。かりに、収容人員が少ないとの理由で、Kスタの試合だけがチケットの価格が跳ね上がるようでは、たしかに困る。また、参入時に三木谷社長が球場の増席を約束したとも報じられている。興行側のカネ勘定や、球団側の怠慢を指摘する向きは、それはそれで重要なことだろう。しかし、大事なことを置き去りにしては行けない。プロ野球は、カネのためだけではない、町や地域や人の心に勇気を与えるものだろう。特に復興に心ひとつに向かう我々東北人にとって、今年のイーグルスの躍進は、格別の意味を持っている。2年前の春。開幕さえ危ぶまれた中で、宮城に戻った選手達は、野球どころではない状況で戦うことになった。遅れてきて申し訳ない、野球をやっていて良いのか。嶋の言葉だった。それでも選手達は時に仮設住宅を訪れては人々を励まし、逆に励まされた。子ども達に教えたり、球場に招いたりもした。9年前に急転直下、東北に生まれた急造球団だが、地域に根付き、震災で一層絆を強くした。地域あっての球団であり、地域に支えられての野球だ。そのチームの最高の晴れ舞台が、わが東北を離れての開催とは、以上からして到底考えられない。プロ野球と地域の関係、あるいはプロ野球そのものを真正面から問う問題だと言えるかも知れない。
2013.08.11
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大間越(おおまごし)、碇ヶ関、野内の3つの関所。大間越関所の跡地は、海岸に突き出た高所に老松が残り、番所や柵の配置を想定できるという。寛文5年(1665)に参勤交代路が碇ヶ関経由に変更になるまで重視された。特に不審者の入国には厳しかった。
2013.08.06
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イーグルスの記録的な大勝、昼過ぎの震度5の地震、そして今日の七夕花火まつりなど、今朝の新聞は盛り沢山だったが、中で気になったのがこの記事だ。岩手県の田野畑村村長選挙。昨日(4日)投票で、村の職員を退職した新人が現職を破って初当選。投票率が87.41%と高いが、もっと驚くのは僅差の結果。当選した新人と破れた現職の票は、それぞれ、1361票と1355票。差はわずかに6票。衆院選の重複立候補みたいに惜敗率で言うなら、99.559%となる。投票に行かなかった又は行けなかった有権者が390人程度いた計算になるが、この中で数名を動員できていれば結果が違ったとも言い得る。岩手日報の解説を引用させていただくと、村民総意の新生を訴えた新人が追い風に乗り、震災復興事業の加速を掲げた現職の地盤を突き崩し逆転劇を演じた、とのことだ。記録は分からないが、首長選挙としてはかなりの僅差の選挙に属するだろう。政治的な面からみると、復興が課題の地域で現職が僅差とはいえ敗れたことは特筆されるだろう。現職への厚い支持が広がらなかった要因、あるいは、復興事業に関連して不満や不安が根強かったのか、同じ被災地を抱える東北人として、気になる所だ。新聞の解説を待ちたい。
2013.08.05
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