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29日(月・祝日)の午後に子連れでお昼に立ち寄りました。味彩館ふるさと。震災のためしばらく休業、ということですが、建物を新築して、ちょうど前日からプレオープンだったようです。若干順番待ちがありましたが、景色を眺めたり隣接の農産物売り場を覗いたり(食後に買いました)して待ったので気になりませんでした。プレオープンの限定メニューから、娘は「やわらか牛たん定食」、私は「ふるさと定食(牛ロース)」を選びました。かなりお得な値段設定なのでしょうか。子は、エゴマのポン酢やドレッシングにも興味があったようです。この店には、以前も何度か来たことがあります。色麻町の一つのシンボルですから、復活は良かったと思います。
2013.04.30
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加美町に足を伸ばしました。中新田の火伏せの虎舞をみるために。今日やっているという以外に何の事前勉強もせず、休日で遅く起き出してきた下の子を車に乗せて、まずはR457で加美町を訪れ、車の流れの雰囲気に任せると、バッハホール向かいの駐車場(中新田体育館の駐車場のようだ)に乗り入れる。出会った知合いの方や、店の人に聞いて、あの屋根に虎が登るヤツの場所を教えてもらう。ちょうど間もなくだということでした。いつも通過するR457以外にはほとんど中新田の街を知りません。やはり街を知るには歩いてみるものです。R457から役場側に入っていくと、石で舗装された通りがあり(花楽小路)、ここが祭りの中心地。交通規制が敷かれていて、一歩通りの中にはいると、信じられないくらいほどの人の数。出店に並ぶ人やら山車を待つ人やら、大変な人の密度です。目抜き通りの南のあたりで、さっそく虎がいましたので撮りました。わが親子の流れは、さらに人混みをかき分けるように北上していくと、人々やTVカメラが待ち構えている。そして屋根のある建物(寅や)が。その南隣が祭典本部(伊藤歯科駐車場とのこと)のテント。なるほど、ここがよくニュースや観光パンフでみるアレですか、と感無量。そこで2人で待っていました。ほどなくして、山車が南からやってきて留まります。そして、いよいよ、寅やの屋根から6頭の虎が出てきて、演舞です(冒頭の画像)。中学生でしょうか、屋根瓦の上の足場にしっかり乗って、虎の頭を左右に振ったり、尻尾を立てたり。屋根のてっぺんで太鼓をたたいたり、横笛を吹く人たちも。それから、中新田高校の生徒達がゴミ収集などボランティアをしていました。暖かい初夏の日。大変いいミニトリップでした。記念にもらったビラから記念に要点を記載します。------------(まつりの案内と交通規制マップのビラから)平成25年初午まつり火伏せの虎舞宮城県指定無形民俗文化財主催/加美町・中新田火伏せの虎舞保存会 加美商工会・中新田「春まつり」露天運営協議会(中新田グルメ&土産マップ 創刊号平成25年2月11日 から)初午まつり毎年4月29日に開催されている。約650年前、春先の強風により大火の多かったこの地域で、中国の故事にならい虎の威を借りて風をしずめ、火伏せを祈願したのが起源。色あざやかな山車とともに町内を練り歩く虎の姿、ときに高屋根に登り腹いっぱいに風をはらんで立つ虎の姿は勇壮そのものです。毎年2月11日建国記念の日に、うめえがすと鍋まつりin加美が、加美町の花楽小路イベント広場を中心に開催されます。鍋は200円から300円で約20店舗の出店。オープニングセレモニー、酒蔵見学会、チャリティ地酒など盛り沢山の内容です。------------それにしても、鍋祭りの宣伝文句が、酒蔵見学と地酒...と酒づくし。さすが清水の酒の里。ぜひ今度は2月に行ってみたい。
2013.04.29
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昨日(27日)昼のニュースで報道していた。1歳の男児が踏切で貨物列車にはねられて亡くなったといういたましい事故だ。今朝の新聞などによると、IGRいわて銀河鉄道線五日市踏切で、踏切から約10mほどの自宅に住む1歳9か月の男の子が、母親が目を離した間に一人で外に出て事故にあったとみられている。運転士は200m手前で発見したがブレーキが間に合わず、踏切内で衝突。列車のブレーキ音を証言する近所の人の声もあった。列車は踏切の先200mで停車した。この貨物列車は、越谷発で札幌行きという。岩手町五日市第9地割と報道されているだが、地図を見ると同地内には踏切は1つのようだ。国道4号が市街地の北で鉄道と交差するが(たぶんオーバーパス)、それよりも町の中心に近い地域で、市街地中心部からやや北という感じだろうか。ご冥福を祈りたい。
2013.04.28
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衝動に駆られて朝から一路大船渡を目指す。さんまラーメンだ。一関から今泉街道を東へ。摺沢、大原を経由して、トンネルとループ橋の笹ノ田峠を越えて、陸前高田へ。震災後は初めて来るが、本当に町がすっかりなくなっている。そして三陸道で峠を越えて大船渡市へ。人生初めて、だ。碁石海岸ICを降りて下船渡駅近く。マップで見ていた萬来食堂さんにお邪魔する。美味かった。さんまのダシ、カタクリのとろみ、そして、普通では考えられないことだがレモンと梅干しが入っていて、さっぱりとした味が楽しめる。白飯もついて、650円。本当にこれが目標だったが、大船渡に来て良かった。帰りは市内を北上して大船渡ICから三陸道に乗った。途中、岩手開発鉄道の貨車がゆっくり走るのが見えた。陸前高田、気仙沼、本吉、志津川、戸倉、北上、と沿岸部をゆっくり走って河北ICから帰った。仙台までは4時間くらいか。暖かい一日だった。随所に桜が咲いていた。
2013.04.25
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明治以後の全国各地地域の鉄道建設要望のリストとでも言うべき改正鉄道敷設法(大正11年法律第37号)別表の150もの予定路線たち。実現に至ったかどうかは運命がそれぞれに別れている。数日前に記事に記したのだが、中でも私が特に気になった「予定路線」がいくつかある。■関連する過去の記事 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日)今回取り上げたいのは、別表第12号の岩手県一ノ関ヨリ槻木付近ニ至ル鉄道だ。一ノ関駅から西へ国道342号沿いに厳美渓を経て槻木付近までの予定線だという。もちろん実現はしなかった。そもそも「槻木」とは何処なのだろうか。道路地図で見ると、一関市街から西に栗駒山(須川)にのびる国道342号沿線に槻木平という地名が振ってある。本寺や矢櫃温泉から更に磐井川の上流で、真湯(しんゆ)温泉の手前のあたりに表記されている。合併後の一関市は広大だ。中心部から東に向かう国道284号を運転すると、旧室根村を経て宮城県気仙沼市に入る際に、やっと来たかといつも感じるのだが、それと同じくらいの距離が、旧一関市内の西の端(秋田県境)に至るにも要求されるのだ。私自身は厳美渓くらいがやっとで、より西に足を伸ばしたこともない。国道342号は、真湯から須川(県境)までは冬期間閉鎖。今月26日に真湯ゲートが開放されるとの報道があった。当面は昼間だけの通行。2008年6月の岩手・宮城内陸地震で通行止めとなり、10年5月末再開通の後も東日本大震災や12年の大雪の影響で冬季通行止め解除の時期が5月にずれ込んだことから、GW前の開通が期待されていたという。観光関係のポータルサイトによると、厳美渓から西の観光スポットは順に、1 厳美渓2 厳美渓レストハウス3 郭公だんご4 サハラガラスパーク5 矢びつ温泉 瑞泉閣6 厳美渓温泉 いつくし園7 骨寺村荘園遺跡8 真湯(しんゆ)温泉「真湯温泉センター・温泉交流館」9 須川高原温泉10 栗駒山(須川岳)ということだ(骨寺遺跡など若干位置関係が違う気がするが)。国道342号というと、岩手・宮城内陸地震で崩落し、遺構として保存された祭畤(まつるべ)大橋も連想される。この橋は槻木平橋のやや上流部分で、磐井川の支流鬼越沢にかかる橋。震源地に最も近い地域だ。さらに、一関温泉郷協議会のサイトも参考に、温泉場を中心に位置関係を整理すると、(西)県境-須川温泉(須川高原温泉)-真湯温泉(真湯山荘)-祭畤温泉(かみくら)-祭畤大橋-矢びつ温泉(瑞泉閣)-骨寺村荘園遺跡-厳美渓温泉(いつくし園)-厳美渓温泉(渓泉閣)-宝竜温泉(かんぽの宿一関)-(東)となろうか。骨寺村荘園遺跡も是非訪れたい地だ。さて話を戻して予定路線第12号の一ノ関と槻木付近を結ぶ鉄道構想だ。当時の鉄道建設の需要などから考えると、観光地や温泉地がカギだったものと思われる。すると、おそらく、市内から山ノ目方向に北進する東北本線から分岐し、厳美渓に駅を設け、さらに磐井川沿いに西を目指し、本寺、矢びつ温泉、終点の「槻木付近」は祭畤温泉や真湯温泉を想定していたのだろうか。花巻、鳴子、秋保、遠刈田など鉄道ゆかりの温泉場は多いが、一関の西部はそれほど温泉地としての集積のイメージが、私にはない。しかし、かつては複数の旅館が建ち並び賑わっていたのかも知れない。もちろん政治の影響力なども関係していただろう。軽便でも実現はしていないから、結局のところ優先順位は高くなかったのだろう。岩手県南部の鉄道ネタではどうしても大船渡線のナベヅルが有名だが、一関市の西部鉄道の構想については聞いたことがなかった。一関に住んでいる人でも、ほとんどご存じないのではないだろうか。■関連する過去の記事 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日)(大船渡線がナベヅルになった理由) 骨寺村荘園遺跡(07年2月26日)
2013.04.24
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交通事故の件数を比較してみた。まずは、平成24年の発生件数。(岩手県警察本部監修『平成24年交通事故のあらまし』から。以下同じ)------------青森 5221(平成23年との対比増減 -246 -4.5%)岩手 3408(-338 -9.0%)宮城 10409(+510 +5.2%)秋田 2830(-166 -5.5%)山形 7084(-224 -3.1%)福島 9789(+171 +1.8%)東北 38,741(-293 -0.8%)全国 665,138(-26,918 -3.9%)------------交通事故数が宮城と福島の両県で増加。震災復興の車両交通増加の影響だろうか。次に、死者数でみる。------------青森 59(平成23年との対比増減 +5)岩手 83(+17)宮城 64(-3)秋田 42(-15)山形 37(-13)福島 89(-5)東北 374(-14)全国 4,411(-252)------------事故数は宮城が最高だが、死者数になると福島が多い。そして、平成24年の特徴としては岩手が随分増えている。大きな事故があったのだろうか。全国的な傾向としては、件数も死者数も低減の趨勢にあると思うのだが、宮城県民の実感としてたしかに沿岸部では車両交通が激しい。そして、他県ナンバーがかなり多い。道路もまだまだ良くないし、交通誘導の人が随所に立っているが、夜などは危険が多いだろう。こんなことが、3件の平成24年の数字の背景にあるのではないか、と勝手に推測してみた。宮城県警察の資料や解説など、もっと調べてみたい。
2013.04.23
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霊場金華山の異次元の偉容。寒慄を覚えるほどの存在感。石川善助が詩「空観」に金華山をうたった。詩集『亜寒帯』に収められているもの。仙台・宮城と関わる文学の断片を集めたアンソロジーで、出会った。この詩はもちろんのこと、石川善助の名も初めて知った。■仙台文学館監修『ふるさと文学さんぽ 宮城』大和書房、2012年石川善助。寒々とした風の中で、金華山に立っていたのか。高村光太郎は、寒さが充満していたとこの詩人の詩を評したという。1901年仙台に生まれ、1932年に飲酒後に線路脇の側溝に転落。31歳の若さで生涯を終えた詩人。幼少期より歩行の困難を抱えた。仙台商業学校在学中から詩作をはじめ、呉服店、出版社など様々な職に就きながら、1932年東京の草野心平宅の2階に移る。その年の6月に生涯を終えた。なお、この本に収められている作家名を書き出してみる。島崎藤村太宰治井上ひさし相馬国光木俣修いがらしみきお魯迅水上不二石川善助スズキヘキ与謝野晶子斎藤茂吉田山花袋白鳥省吾土井晩翠松尾芭蕉ブルーノ・タウト榛葉英治新田次郎河東碧梧桐菊池寛遠藤周作
2013.04.22
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朝からみぞれ混じり。そのうち本格的に雪になった。午前中のニュースでは平成11年以来の降雪と伝えていた。家にいる下の子が生まれる前のことだなどと教えていたら、今度は昼のニュースでは、仙台は昭和22年以来66年ぶりとなるこの時期の積雪だという。さっきのニュースとの違いは何。と子に聞かれ、降雪と積雪の違いだと教える。昭和22年なんて昔のことだと、「この時期」といっても旧暦とかになって比較できないんじゃないの、と子どもが心配をする。いやいや、明治以前じゃないから太陽暦で大丈夫。しかし、子どもの人生のスパンからすれば、相当昔の感覚なのだろう。ところで、「この時期」とは4月20日を過ぎてからの積雪ということのようだ。以前にも記したが、仙台の降雪の最晩記録は5月3日(1991年)。積雪の最晩記録だと、4月23日(1947年)。つまり昭和22年のことだ。■関連する過去の記事 四月の雪を考える(2010年4月17日) 花と雪(同じ日)
2013.04.21
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前回からつづく■ 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日)改正鉄道敷設法(大正11年法律第37号)の別表に記された予定路線と、それぞれの路線がその後どのような変遷を経たか。(東北関係分だけ記す)■『歴史群像シリーズ 図説 鉄道路線はこうして生まれる』学習研究社、2007年 から(三宅俊彦著作部分)1 青森県田名部ヨリ大畑ヲ経テ大間ニ至ル鉄道大湊線下北より分岐して下北半島北端へ向かう路線。下北-大畑間が開業した後に廃止。大畑-大間間は未開業。2 青森県青森ヨリ三厩、小泊ヲ経テ五所川原ニ至ル鉄道津軽半島を馬蹄形に結ぶ予定だった。東側は津軽線、西側は津軽鉄道が開業したが、北端の三厩から小泊を経て津軽中里間は未開業。2-2 青森県三厩付近ヨリ渡島国福島付近ニ至ル鉄道昭和28年に追加された。津軽海峡線。昭和63年に全通。3 青森県弘前ヨリ田代ニ至ル鉄道弘前から西の岩木山の南側、中津軽郡西目屋村田代までの予定線。未開業。4 青森県三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ル鉄道東北本線三戸から陸奥街道沿いに建設、本線を短絡する目的の予定線。戦後、千曳-七戸間を開業するも平成14年廃止。三戸-七戸間は未開業。5 青森県三戸ヨリ秋田県毛馬内ヲ経テ花輪ニ至ル鉄道東北本線三戸から奥羽山脈を越え、十和田湖の南を通り花輪線と結ぶ。一部は秋田鉄道を経て、花輪線に編入される。三戸-毛馬内間は未開業。6 岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道戦後、南側が山田線の宮古から宮古線として、北側が八戸線の終点久慈から久慈線として部分開業していた。昭和59年、普代-田老間の開業により、久慈-宮古間が全通する。7 岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道大船渡線大船渡-盛間及び山田線陸中山田-釜石間は戦前の開通。戦後、盛側から盛線が開業。昭和59年、釜石-吉浜間の開業により、釜石-盛間が全通。8 岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野ニ至ル鉄道及落合付近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道東北本線小鳥谷から小本街道沿いに三陸海岸を結ぶ予定線で、袰野で第6項の現三陸鉄道北リアス線に接続する構想であった。小鳥谷-葛巻-袰野間は未開業、後半の茂市に至る鉄道は岩泉線として開業する。8-2 岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道花巻から岩手軽便鉄道が762ミリ軌間で建設し、大正4年に花巻-仙人峠間が全通。仙人峠から釜石までは標高差が250メートルあり長い間鉄道で連絡することができなかった。昭和25年に仙人峠を避けてトンネルで勾配を克服し、釜石までようやく全通する。9 岩手県川井ヨリ遠野ヲ経テ高田ニ至ル鉄道山田線川井より国道340号沿いに釜石線遠野を経て、大船渡線の陸中(ママ)高田までの予定線。未開業。10 岩手県一戸ヨリ荒屋ニ至ル鉄道東北本線一戸から花輪線荒屋新町との間を短絡する予定線。未開業。11 岩手県雫石ヨリ川尻ニ至ル鉄道橋場線(現田沢湖線)雫石から南下して繋温泉、湯本温泉を経て横黒線(現北上線)陸中川尻(現ほっとゆだ)との間を短絡する予定線。未開業。12 岩手県一ノ関ヨリ槻木付近ニ至ル鉄道一ノ関から西へ国道342号沿いに厳美渓を経て槻木付近までの予定線。未開業。13 秋田県鷹ノ巣ヨリ阿仁合ヲ経テ角館ニ至ル鉄道北側は鷹ノ巣より阿仁合線として阿仁合まで開通し、戦後比立内まで延長になる。南側は角館線として角館-松葉間が開通。2つの線が連絡する前に第三セクター秋田縦貫内陸鉄道(ママ)に転換する。平成元年全通。14 秋田県生保内ヨリ鳩ノ湯付近ニ至ル鉄道生保内線(現田沢湖線)生保内(現田沢湖)より田沢湖の東を回り鳩ノ湯温泉までの予定線。未開業。15 秋田県本荘ヨリ矢島ヲ経テ院内ニ至ル鉄道横手に本社のある横荘鉄道が東線横手-老方間、西線羽後本荘-前郷間を建設していた。昭和12年に西線のみ国鉄に買収され矢島線に。翌年には羽後矢島まで延長された。一方東線は鉄道敷設法記載ルートとは異なるため買収されず、社名は雄勝鉄道、羽後鉄道を経て羽後交通横荘線横手-老方間となるが、全線廃止に。矢島線は現在由利高原鉄道に転換している。羽後矢島-院内間未開業。16 秋田県十文字ヨリ檜山台付近ニ至ル鉄道奥羽本線十文字より南東方向に増田、東成瀬を経て檜山台への予定線。未開業。17 宮城県気仙沼ヨリ津谷、志津川ヲ経テ前谷地ニ至ル鉄道及津谷ヨリ分岐シテ佐沼ヲ経テ田尻ニ至ル鉄道前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は気仙沼線と東北本線田尻を短絡する予定線だった。津谷-佐沼-田尻間未開業。18 宮城県松島ヨリ石巻ヲ経テ女川ニ至ル鉄道記載通りの直通運転はできないが趣旨は生かされて開通している。東北本線松島(山線時代の旧駅)から松島海岸へは松島電車が、石巻-女川間には762ミリ軌間のガソリン機関車牽引の金華山軌道が運転されていた時代もある。現在は仙石線と石巻線でほぼカバーされている。19 宮城県仙台ヨリ古川ニ至ル鉄道仙山線北仙台から陸羽東線西古川まで762ミリ軌間の仙台鉄道が営業していた。度重なる台風の痛手が大きく全線廃止された。20 宮城県仙台ヨリ山形県山寺ヲ経テ山形ニ至ル鉄道及宮城県川崎付近ヨリ分岐シテ山形県神町ニ至ル鉄道前半部は昭和12年仙山線として全通。後半部は仙台と山形を結ぶもう1つのルートの予定線。川崎-神町間未開業。21 宮城県長町ヨリ青根付近ニ至ル鉄道長町-秋保温泉間は秋保電気鉄道がカバーするものの廃止。秋保温泉付近から名取川を遡り川崎を経て蔵王山麓の青根温泉までの予定線は未開業。21-2 宮城県槻木付近ヨリ丸森ニ至ル鉄道東北本線の輸送力増強のためバイパスとして昭和28年に追加された。昭和43年丸森線として全通。現在は阿武隈急行の一部。22 宮城県白石ヨリ山形県上ノ山ニ至ル鉄道東北本線白石より刈田峠を越え蔵王山麓を回り奥羽本線上ノ山(現かみのやま温泉)を結ぶ予定線。未開業。23 山形県鶴岡ヨリ大鳥ニ至ル鉄道羽越本線鶴岡より南に六十里越街道、大鳥川沿いに朝日岳登山口の大鳥までの予定線。未開業。24 山形県楯岡ヨリ寒河江ニ至ル鉄道奥羽本線楯岡から大久保、谷地を経て左沢線寒河江までの予定線。未開業。25 山形県左沢ヨリ荒砥ニ至ル鉄道左沢線左沢から最上川、国道287号沿いに長井線(現山形鉄道)の荒砥までの予定線。未開業。26 山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道開通したのは磐越西線喜多方から福島県側の日中線熱塩まで。その先、米沢街道沿いに奥羽本線米沢までの予定線は未開業。27 福島県福島ヨリ宮城県丸森ヲ経テ中村ニ至ル鉄道及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鉄道内陸部の東北本線福島、白石から丸森を経て海岸部の常磐線中村(現相馬)を結ぶ横断線。戦後東北本線福島-白石間の急勾配を緩和するために第21項の2の槻木-丸森間が鉄道敷設法予定線に加えられ、当初の横断線の構想を縦断線に変更。昭和63年に福島-丸森間が開通し福島-槻木間が全通。丸森-中村間、丸森-白石間は未開業。28 福島県川俣ヨリ浪江ニ至ル鉄道内陸と海岸を結ぶ横断線。未開業。29 福島県柳津ヨリ只見ヲ経テ新潟県小出ニ至ル鉄道及只見ヨリ分岐シテ古町ニ至ル鉄道昭和46年に只見線只見-大白川間が開業したことで会津柳津-小出間全通。只見-古町間未開業。30 福島県須賀川ヨリ長沼ニ至ル鉄道東北本線須賀川より西に向かい長沼までの予定線。未開業。31 福島県平ヨリ小名浜ニ至ル鉄道常磐線平(現いわき)から南下し港町小名浜までの予定線。泉-小名浜間は小名浜臨港(現福島臨港)鉄道として営業。32 福島県石川ヨリ植田ニ至ル鉄道水郡線磐城石川から御斉所街道沿いに常磐線植田までの予定線。未開業。33 栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道及高徳ヨリ分岐シテ矢板ニ至ル鉄道日光線今市と会津若松を結ぶルート。前半部は現在東武鉄道鬼怒川線、第三セクター野岩鉄道、会津鉄道で一本につながる。後半部は東武鉄道矢板線だったが昭和34年に廃止。■関連する過去の記事(主なもの) 南部縦貫鉄道を考える(2013年3月10日) 南部鉄道(五戸鉄道)を考える(2013年3月8日) 悲運の南部縦貫鉄道(2011年12月5日) 鉄道めぐりツアーと七戸のレールバス(2010年3月29日) 南部縦貫鉄道(2009年3月21日) 岩泉線を考える(2010年8月1日) 横荘鉄道構想(07年11月25日) 鉄道廃線跡を歩く楽しみ(06年11月22日) 茂庭のトンネル(2010年11月25日) 山田自由ヶ丘のバス専用道(2010年11月24日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 阿武隈急行の輝かしい「日本初」(2012年10月7日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日) 日本最古の荒砥鉄橋(11年2月13日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 納涼列車 ほろにが号(10年6月26日)(福島市-丸森町)
2013.04.20
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明治23年(1890)の帝国議会開設後は、それまでの薩長中心の政府高官の政策決定から不十分ながらも代議政治がスタートする。他方で、鉄道の幹線区間は、上野青森間が日本鉄道会社が建設するなど、多くが私鉄であったが、明治23年の恐慌で私鉄計画は停滞する。そこで、鉄道庁長官の井上勝は明治24年に私鉄を政府が買収し、他の幹線は官設鉄道として建設する方針を打ち出す。議会では地元選挙区への敷設を叶えたい議員の間に鉄道路線拡張の気風が強まり、もっぱら官設鉄道の路線拡張を目標に鉄道敷設法が明治25年6月公布される。鉄道敷設法第2条では今後全国に官設で敷設する路線を33掲げた。しかし、一斉に着工はできないから優先順位をつけることとなり、同法7条に、まず12年間で着手する第1期線(9路線。東北関係では福島青森間の奥羽線)を再記した。このことから、鉄道実現を求める地方住民の目標は、議会による法改正によって、まず第2条に載せてもらい、次いで第7条に昇格させて着工時期を待つという手順となった。こうして、かつてのように高官の一存で路線を決定するのではなく、地元選出の衆議院議員に依頼する運動が沸き起こったのである。第1期線9路線の建設は日清戦争後に本格化したが、多くは予定より遅れ、奥羽線の完成は日露戦争後の明治38年(1905)となった。遅れながらも第1期線が完成に近づくと、他の路線の沿線地域は第1期線への繰上を求めて運動を強める。こうした要求を中央に投じるパイプ役となったのが明治33年結成の立憲政友会である。政友会は、鉄道、治水、港湾、道路などの要求を吸い上げる利益誘導政治で衆議院で多数を占め続けた。とは言え、日露後の日本は賠償金が得られないことから財政が苦しく、鉄道敷設法に基づく官設鉄道の拡張も進展しない実情であった。そこで地方の短区間の路線は私鉄として建設させる方針が示され、明治43年(1910)に軽便鉄道法が公布される。各地に軽便ブームが起きるとともに、国鉄にも軽便敷設に道を開いた。このため、大正時代に建設される多くの路線は、鉄道敷設法の改正が不要となる国鉄軽便線となった(東北関係では水郡線、大船渡線、大湊線など。北上線は敷設法から削除されて軽便鉄道建設予算に計上されて建設)。第一次大戦後の好景気もあって原敬の政友会内閣は、鉄道建設積極政策に出たが、ライバル憲政会もまた地方の建設要求に積極的に応えるようになる。このため、政党間の綱引きで路線が不自然になるケースもあった。典型は国鉄軽便線として敷設された大船渡線である。陸中門崎と千厩の間は直線で10キロほどに過ぎないが、わざわざ正方形の3辺を通るごとく迂回するため26キロもの路線延長となった。これは、摺沢を地盤とする政友会の政治家が地元を通させたからであるが、摺沢から大船渡に東進すると千厩が素通りされることから、今度は憲政会の大物議員が千厩を通したのである。かくして不自然なナベヅル線となるのは、政友会と憲政会の誘致合戦の結果である。ところで、大正9年の恐慌や12年の関東大震災による不況局面で政友会の積極策も行き詰まる。しかし、各地の建設熱はさめず、原内閣は鉄道敷設法の改正を検討する。新たな法案は、別表に掲げる予定路線について序列を施さず、これらの中から順次予算を計上して着工するとした。そして、別表には実に149の予定路線が一挙に掲げられたのである。原の死後、おなじ政友会の高橋是清内閣がこの法案を成立させ、大正11年に公布。第二次大戦後まで存続した。■『歴史群像シリーズ 図説 鉄道路線はこうして生まれる』学習研究社、2007年 から(松下孝昭著作部分)〔次回(その2))に続く次回は改正鉄道敷設法別表掲載の路線の推移(東北関係分)を予定しています。■幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)
2013.04.19
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今回も下記文献からのお勉強。アイヌ語で読み解けるとされる仙台の地名について。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年■関連する過去の記事(同文献からの記事) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)アイヌ語で解ける地名は青森県、秋田県、岩手県に多いが宮城県内でも仙台以北に確認される。多くは、古代城柵のあった地点を結んだ直線の前後から北に分布。仙台市内では次の3つの地名などが、アイヌ語で解けるとされる。(1)案内燕沢と東仙台に統合されて消えたが、案内住宅やバス会社の案内車庫の呼び方が残る。案内は ara-nay で、もう一つの川の意味。燕沢エリアには、北に高野(こうや)川、南の東仙台エリアには藤川が流れ、藤川のそばの高台(東仙台5丁目)に案内公園がある。このあたりが案内住宅とよばれたようだ。高野川は与平沼(ママ)から流れ出るが、昭和4年に井戸を掘った際に湧き出た案内温泉(案内荘)がある。(2)日辺名取川と広瀬川の合流地点に開けた場所。洪水が度々あったのではないか。アイヌ語では nit-pet で、流木がたくさんある川の意味。アイヌ語を話した人が住んだ頃は上流からたくさんの気が流れ着く土地だったろう。(3)茂庭北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ。太白山がそれかも知れない。■関連する過去の記事(案内について) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日)
2013.04.18
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今回も、前2回に引き続いて、仙台・宮城の地名について教えてくれる下記文献から。古代人による移民地名の章から。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年■関連する過去の記事 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)------------朝廷はエミシの同化政策として、関東エリアなどからたくさんの人を移民させて、地元民との融合と稲作普及を図ったと思われる。その証拠のように、遺跡から関東系土器があちこちで出土する。移民は生活用品も持参したのだろう。そして、もと住んでいた地名も一緒に移動してきた。玉造、志田、加美、色麻などがそうだとされている。『続日本紀』などの歴史書では、霊亀元年(715)から延暦21年(802)までに何度も関東から移民があったとされており、土器や地名がそれを裏付けている。(1)玉造(たまづくり、たまつくり)『続日本紀』神亀5年(728)の条に「丹取軍団を改め、玉作軍団となさんことを...」と記載されている。古代の玉造郡にゆかりの人が常陸や下総などから地名も持ってきたと考えられる。東松島大曲浜に玉造神社があるが、下総や常陸から海を北上して大曲浜に到着した古代玉造郡の人々が勧請したと思われる。さらに内陸に向かい江合川(江戸期には玉造川と呼ばれた。もとは前谷地から現在の定川の流路を大曲浜に流れていた。)を遡り鬼首方面へ移住した。旧岩出山町には一栗字玉造の地名が残るが格別遺跡は確認されない。しかし『鳴子町史』には、河内玉造(玉沙)、出雲玉造(瑪瑙)、陸奥玉造(石英)の日本三玉造があった、とされ、さらに「玉作部の集団が駿河の玉造、下総の玉作地方から移住して土着し水晶の玉を製作朝貢したので一躍名玉の産地とうたわれたと伝えられている」と記載される。禿岳は古来水晶の山と知られ、「火の沢」の地名があるが、ヒは鉱脈を示すことから鉱脈のある沢という意味で、実際にこの沢の上流には磁鉄鉱や石英の資源が確認される。玉造の地名でよく知られるのは、島根県、大阪府、千葉県、茨城県、福島県など。(2)志田郡常陸国志太郡の移民と思われる。『和名類聚抄』では古代には志田郡志太郷と玉造郡志太郷があったとある。はじめ駿河郡志太郡が設置され、常陸国へ志太郡の移民があり、さらにそこから宮城県に移民があったようだ。志太郡は「孝徳天皇の白雉4年(653)に物部河内と物部会津が、東国の総統轄する長官に願い出て、筑波と茨城の両郡のうち700戸を割いてもらって、新しく建郡した所」(谷川健一『白鳥伝説』)で、鹿島神社や香取神社を奉斎しながら北上した物部氏や多氏の一族が関係していたと思われる。加美郡城生遺跡からは物部国と書かれた須恵器が出土するなど、江合川や鳴瀬川流域には足跡を確認できる。(3)朝廷の勢力大和朝廷の力が宮城県内に及んできた時期は、前方後円墳の築かれた4世紀末から5世紀初頭に築かれた前方後円墳と関係があるのではないか。大崎市鳴子温泉の石の梅古墳は、確認されたわけではないが前方後円墳でないかとされる。そうだとすると県内最北の前方後円墳である。日本の最北は岩手県の角塚古墳(5世紀末から6世紀初)で、石の梅古墳から約100年を要したことになる。角塚古墳の近くには、大同3年(808)多賀城より移された鎮守府胆沢城があり、胆沢城エリアから「鳥取」と墨書された土器が出土。角塚から少し西の奥州市胆沢区には都鳥(ととり)の地名があり、同市前沢区には止止井(ととい、ととゐ)神社がある。これらは古代の鳥取(ととり)部の移住があったことを伝え、同時に地名も動いたことを物語る。鳥取部とは、『日本書紀』では、垂仁天皇皇子の誉津別王子(ほむつわけのみこ)が成長しても言葉を発することが出来なかったものが、ある時、鳥を見て声を出した。喜んだ天皇から命じられて天湯河棚命が出雲で大鳥を捕まえたことから、鳥取部の姓を与えた。鳥取部派物部氏の一族であったから、土器は物部氏ゆかりの人たちが東北に移動したことを伝えている。(4)移民による地名『宮城県の歴史』(山川出版)には「移民を出した地域は、坂東八国、信濃・甲斐・駿河国・陸奥国南部の磐城・行方・磐瀬・白河・会津五郡である。」とある。移民した人々は、柵(き、さく)という大きなエリアの中で柵戸(きのへ)として普段は稲作を、戦時は戦闘員となり、地元民と少しづつ同化していったと思われる。特に大崎地方を中心に仙台平野から栗原地方まで関東系土器が出土することから、多くはエミシの抵抗の最前線であるこの地方に住まされたかのかも知れない。■『和名類聚抄』にみる陸奥国への移民地名対照(『宮城県の歴史』(山川出版)より)(凡例 陸奥の地名:移民元の地名)賀美郡:武蔵国賀美郷名取郡磐城郷:陸奥国磐城郷宮城郡磐城郷:陸奥国磐城郷小田郡賀美郷:武蔵国賀美郷賀美郡磐瀬郷:陸奥国磐瀬郷色麻郡安蘇郷:下野国安蘇郷色麻郡相模郷:相模国玉造郡:常陸国、下総国宮城郡白川郷:陸奥国白河郷宮城郡多賀郷:常陸国多賀郷玉造郡志太郷、志太郡志太郷、志太郡:常陸郡志太郷新田郡:上野国新田郡牡鹿郡賀美郷:武蔵国賀美郷日理郡望多郷:上総国望多郷(5)東北からの移住古代から中世にかけては関東からの移住だけでなく、東北から移住して行ったこともわかっている。それも国により移住させられたもののようである。例えば、東北で多く出土する蕨手刀は日本刀の原点だが、もともと東北の鉄文化で岩手、宮城の出土が多い。この蕨手刀が九州の福岡、熊本、鹿児島の各県からも出土している。熊本県の製鉄遺跡の中でも荒尾市や玉名市境の小岱山麓の製鉄炉は半地下式で、東北の形であり、近くには「鬼王」という奥州刀の刀工鍛冶名と同じ地名もある。菊池郡だけに納豆文化もあるという。宮城県旧桃生町山田には、蕨手刀と同時期の立鼓柄太刀(りゅうごつかのたち)が出土するが、熊本県八代市のみかん畑からも出土している。平安時代中期の『延喜式』の三大格式のひとつに、俘囚稲の量が国別に記載されている。不思議なことに肥後国が一番多い(173,435束)。俘囚稲とは、その国に配置された俘囚が食料とする稲を生産する量を表したもので、東北の人々があちこちに移配された事実を知る手がかりとなる。肥後国の俘囚稲が一番多いのは、そこに連れて行かれた東北人が一番多くいたこと。なお、「俘囚」とは律令側の政策に力を貸した、あるいは同化した人たちのこと。中間の人たちを「夷俘」、馴染まなかった人たちはそのままエミシと呼ばれていたようだ。
2013.04.16
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昨日は、燕沢という地名を自然災害による崩壊地名とみる太宰さんの説明を記事にした。■関連する過去の記事 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 燕沢の名前(06年3月17日)■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年同書には、「縄文海進・海退の跡を知ることができる地名」との一章もある。要点を整理させていただく。------------約5から6千年前の温暖化時代は海面が今より3から5メートル高く、海岸線も内陸に入っていた。やがて海水が引いていくと、土壌のやわらかい所が川や沼となり、残された低湿地が乾いてくると、人々は山から生活の場を移して稲作を始めた。宮城県内の水田地帯のほとんどは低湿地を開発干拓した。江戸時代の新田開発もそうで、従って戦後のアイオン、カスリン台風のように、洪水や大雨に弱い。(1)谷地、大谷地、前谷地など(ヤチ地名)土地がぬかる低湿地帯を新田開発したところ。県内には約400のヤチ地名。ヤツ、ヤヅとも発音される。(2)新田(しんでん)江戸時代後半以降ひろく行われた新田開発でたくさん命名される。特に、栗原、大崎、桃生エリア。県内に170以上の地名がある。(3)新田(にった、にいだ)、新井田(にいだ)地質がニタニタしている地。アイヌ語でもニタッと発音し同じような地を示す。料理のヌタと同じ。新田開発は古代からあったはずで、時代順からすると、新田(しんでん)地名の地より早い時期に開発されたと思われ、それらはコウヤ(荒野、高野、高屋など)と呼ばれ、谷地地帯より少し標高が高い地が先に開発された。ただし、荒谷、御免など新田開発で税が減免された地もある。これから考えると、ニッタやニイダは、新田(しんでん)地名よりわずかに早い時期に開発が始まった地かも知れない。仙台市内では、荒巻字仁田谷地(にたやち)。登米市迫町新田(にった)、東松島市新田(にった)、大崎市古川新田(にいだ)、登米市中田町宝江新井田(にいだ)、多賀城市の新田(にいだ)。(4)沼田、土浮(どぶ)、深田川の近くや沼だった地に多い。以前は沼や川だったところを新田開発したところ。田植えの際にひどくぬかり、また秋の大雨の後には田舟を使用して稲を濡らさぬよう収穫した。(5)曽根、埣(そね)縄文海退後にできた湿地の中でも少し土地が高く石くれが多い土地。谷地と呼ばれる土地よりも早く人の生活があったのでないか。県内では、仙台周辺以北に多く、古川には中埣、李埣、鶴ケ埣。美里町には荻埣、中埣、横埣。石巻市にも中埣、大埣など。(6)針、大針、針田ハリは開墾した地。墾(はり)と同じで、針や張の字を使用する。(7)堰場(せきば、どうば)、筒場、道場稲作に必要な水を分流させるために堰き止めた場所やその付近。(8)五反田、二百刈、千刈田収穫できる面積や広さを示す。四反田、六四反田などもある。カリは刈った稲の一束を示し、一刈は、鎌を一度に動かす「ヒトハカ」分を束ねた量。県南には、種を蒔く量を示す「五斗蒔」「四斗蒔」の地名もある。------------
2013.04.15
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以前、蒙古の残兵の首を刎ねた際に血が飛んだことから命名された(チがハネル沢)との考え方を記事にしたことがある。■関連する過去の記事 燕沢の名前(06年3月17日)県内の地名に詳しい太宰幸子さんの説明はこうだ。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年------------もともと燕沢の丘陵は、古くは西山と呼ばれ東光台方面まで続いていたということでした。現在土地開発や区画整理がなされ、字も「燕沢○丁目」に統一されていますが、昔は「案内」などの小字がもっとありこれほど広いエリアではなかったようでした。地元での地名解は、弘安4年の元寇の際、ここまで落ち延びた元軍の兵士が、鎌倉幕府の知ることとなり首をはねられた。その血がこの沢に飛び散ったのでチバネ沢といった。それが転化(ママ)してツバメ沢となった。あるいは燕沢寺があったからとか、ツバメがたくさんいたのでなどの由来が伝わっています。しかし、ツバメとはツバクラ・ツバケルという言葉につながり、ツバケルは凹凸があるとか崩れるという意味を持ち、クラはクレという古語の転訛で、絶壁や崩壊しやすい崖・くずれるをいいます。善応寺裏山には古墳時代後期の横穴墓古墳群がありますが、調査当日も歩いてみるとひどい崩壊があって、通過することは不可能でした。ご住職の話でも、大雨などが降ると崖崩れのしやすい地質であるということです。------------■関連する過去の記事 学区の外に所在する中学校(2011年3月10日)(西山中学校) 石巻市雄勝の地名「味噌作」を考える(2012年10月27日)(太宰さんの宮城県地名研究会)災害による崩落地名については、大震災の後にも随分取り上げられた。太宰さんもTVや新聞で解説しておられた。しかし、震災の前から太宰さんは、先祖からの大きな伝言であり警鐘である崩壊地名について、丹念に調べて私たちに紹介していたのだ。そこで、上掲書にある仙台の災害にかかわる地名を引用させていただく。【自然災害などによる崩壊地名】○梅田、梅木など 埋まった、埋められたという土地の異変を伝える。○栗原市金成萩野 表土層が滑りやすい。地肌が剥ぎ取られる様に佳字を当てたもの。○小豆坂(大崎市鳴子温泉) 平成19年崖崩れ。アズは崩れやすい地を示す。近くには、半俵山(はんたらやま)があり、一日に半俵分の土地が崩れると地元に謂われがあるが、事実、現在でも毎日のように地崩れがある。○欠山、景佳山、欠ノ上、欠田など崖や欠けた地。川の蛇行する地や急流が曲流する地など。石巻市の北上川流域の景佳山は何度も洪水で土地が削られたようだ。青葉区(旧宮城町)柿崎は、「欠け崎」に佳字を当てた。○笊川 古くは座留川とも書いたという。太白山北麓から流れ、流域は洪水常襲地帯。まるで笊から水が漏れるように度々暴れたからとの地元の解釈もあるが、これは付会。ザルはザレの転訛で、崩れやすい地を示す。急流が下流で呑み込めなくなって吐き出されたのだろう。下流で名取川と合流するがかなりの蛇行を繰り返している。○水押、押切、砂押 洪水や大雨で土手が切れたところに多い地名。上流から大量の土砂を運んで置いていくので、砂押などの地名が生じる。これらは肥えた土なので被害を受けながらも他に移住する人は意外と少なかったようだ。一関市や加美町小野田には川底という地名がある。○要害 中世以降の館や砦の地だが、仙台市以北から岩手県南部まででは、水田地帯の広がるところにも多い。要害は日本書紀で「ヌミ」と読まれ、ヌ(湖沼)とミ(緑、岸辺)の全体で沼や川のほとりの地の意。宮城県地名研究会は県内125か所の要害地名を実地調査し、平成19年に本にまとめた。河川流域の水田地帯で洪水の通り道。これらの地には要害という屋号の旧家が多く、水田が冠水しても居宅は少し高くしてある。 仙台市内では、泉区朴沢字新要害、要害川(八乙女で七北田川に合流)、青葉区芋沢字要害、宮城野区岡田字明神東(岡田要害)、宮城野区福室三丁目(福室要害)、宮城野区福田町田子(田子要害)、若林区沖野6丁目(沖野要害)
2013.04.14
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少し前のニュースで、青森県民がお花見好き日本一とされていた。ウェザーニューズがスマホや携帯を活用して3月に行った「全国お花見調査」で、有効回答は30,412人とのことだ。まず、お花見の回数は平均が1.6回。全体の90%が行くとのことで、男性1.5回、女性1.6回。そして都道府県別は、福島、山形が1.9回と最高。次に、お花見時間(お花見にかける時間×回数)は1位 青森県 3時間26分2位 大阪府 2時間51分3位 広島県 2時間49分4位 香川県 2時間49分5位 岡山県 2時間48分14位 福島県 2時間36分19位 山形県 2時間35分20位 岩手県 2時間34分21位 秋田県 2時間34分22位 宮城県 2時間31分(平均 2時間29分。最下位沖縄県1時間7分。)となっている。お花見の予算(交通費+食費)では、1位 青森県 2,908円2位 岡山県 2,687円3位 北海道 2,678円4位 岩手県 2,648円5位 秋田県 2,648円11位 福島県 2,425円12位 宮城県 2,410円31位 山形県 2,155円(平均 2,224円。最下位富山県1,736円。)自分の県の桜が一番美しいと思っている県民の割合。1位 青森県 30%2位 奈良県 233位 京都府 234位 福島県 185位 熊本県 158位 秋田県 1210位 山形県 1223位 宮城県 925位 岩手県 8(全国平均8% 最下位徳島県4%)このように、青森県は飛び抜けて他県より指標が高い。まさに、お花見好き日本一の県民性と言えるようだ。面白いと思うのは最後の項目。まったく主観的な回答だと思われるが、青森県民は郷土愛と帰属意識に溢れている。日本文化の土壌的には奈良や京都が特筆されそうだが、両府県を上回っている。そして、福島、秋田も地元愛ではないか。宮城県も名所はあるが、やはりリトル東京意識の仙台文化だからこうなるのか。岩手県の低さは、純朴で控えめの県民性のゆえ。(勝手なODAZUMAジャーナル分析)
2013.04.13
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秋田公立美術工芸短大学長を務めるなど、秋田に縁のある作家の石川好が、書いていた。■石川好『秋田について考えた事』無明舎出版、2010年中国人など外国人観光客が日本経済に多大な貢献をする時代だ。これら観光客を地方がどう迎えるべきか、秋田を例にした私案だという。秋田は鉄道網が充実しているのが特徴。内陸縦貫鉄道、由利高原鉄道、小坂鉄道という3つのミニ鉄道だ。このうち小坂鉄道は現在貨物専用、内陸縦貫と由利高原は利用客減少による赤字で存廃が問題。しかし、スローに山林や草原を走るこれら鉄道には感激した。そこで、3つのミニ鉄道の再活用策として、外港人観光客の秋田県内ツアーにもつながる案を考えたい。小坂鉄道を県とJRの協力で観光列車に変身させる。五能線がJR東日本のアイデアで甦ったように、北秋田の観光スポットである小坂周辺を活用し、車両をモデルチェンジすれば観光列車になりうる。加えて、内陸縦貫鉄道を角館から阿仁経由で東能代に延長し、五能線に接続。さらに逆方向の小坂鉄道とも結ぶ別ルートを作れば、北秋田にミニ鉄道のネットワークが完成。東京から秋田新幹線の角館で乗り換えれば、五能線と小坂鉄道ともつながる。田沢湖、十和田湖、日本海と景勝地を楽しみ観光地にアクセスできる鉄道インフラだ。また、由利高原鉄道も、日本で星が最も美しく輝くという東成瀬まで延長すれば、名物が誕生する。財政的に無理と考えずに、工夫次第でミニ鉄道は再活用できるという気概を持つべきだ。県もJRも攻めの発想でものを考えるべきでないか。待っていても始まらない。美しい自然を持つ秋田は、宝の持ち腐れ状況に甘んじてはならない。以上が内容だ。せっかくのインフラを資源として活用しようとする構想としては面白いが。新聞に連載したものを収めた本だが、この項目が掲載(08年1月)された後に、小坂鉄道は廃止されている。■関連する過去の記事 横荘鉄道構想(2007年11月25日)
2013.04.09
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いやしかし今日の風は強かった。朝はJRが不通と聞いて、全然風がないじゃないかと思ったが、昼から夕方にかけては猛烈だった。今日のアメダスを見ると、仙台の最大瞬間風速は13:13で30.8m/sと。県内の最高は名取の33.4のようだ。ちなみに仙台の記録は41.2で、1997年3月11日とのこと。他地点でも、最大記録は3月や4月が多い。仙台の今日の最大瞬間風速の秒速30.8メートルは、時速に換算すると111キロになるだろう。また、97年の最高記録の秒速41.2メートルは、時速148キロにあたる。プロ野球のストレートの早さだ。いま、Kスタではロッテ戦をやっている。0-4でリードを許す苦しい展開。風に乗りたいイーグルスだが、荒れ狂う春の嵐にとまどっているか。こんな時こそ、AJや牧田の一発で流れを引き寄せて欲しい。(またロッテが満塁... 今から車で出かけますので。)
2013.04.08
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きのう伊達氏先祖の真岡市中村について記した。■土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂、1994年■関連する過去の記事 伊達氏先祖の地は栃木県真岡市(2013年4月6日)土生慶子さんの著作に拠りながら記したのだが、真岡市中村の中村城跡、中村八幡宮、下館市(現在は筑西市)中館の観音寺など、伊達家が伊達に移って伊達を名乗る以前の世代にゆかりの地が紹介されていた。また、伊達綱村が現地を訪問するなど相互の交流もあったが、明治以降は仙台側にはあまり認知されていないながらも、当地の寺社は伊達家の安泰を祈願し続けてきたことが改めて知られることとなり、時を越えて平成の今になって再び交流が深まったというのだ。大変おもしろく拝読したが、この本の中に、伊達家重臣(御一家)で岩ヶ崎に住した中村日向のことが記されていた。とても興味深いので、以下にまとめてみた。1 真岡市遍照寺の掲示板の説明伊達氏ゆかりの真岡市中村の遍照寺の掲示板にはこう説明されている。中村城、朝宗以来、380年間代々中村氏の居城であったが、約450年前の天文13年10月7日、下館城主水谷(みずのや)出羽守正村に攻められて落城、14代城主父入道玄角は居城に於て討死、城主中村小太郎時長は居城を焼き奥州米沢に逃れ、宗藩伊達家に属し、名を中村日向と号し、奥州岩ヶ渕の館を賜り、代々岩沼に住す。文中の岩ヶ渕、岩沼はいずれも誤りで、正しくは岩ヶ崎であろう。住職の話では口伝だが、中村八幡宮は中村城や遍照寺のすぐ近くにあり、伊達氏との関係は最後の藩主慶邦の子息宗基の明治5年の奉賽まで続いたがその後はほとんど交流がない(1981年以降の土生氏の訪問が初めてか)。ただし中村城のことは地元に脈々と伝えられていたのである。2 中村城主中村氏の歴史と伊達領行き建武の新政にはじまる内乱の結果、中村氏がやむを得ず宇都宮公綱(きんつな)の臣になっている。これは、伊達家7世行朝が義良親王と北畠顕家に従い南朝の柱石として転戦し、顕家死後は中村城主中村太郎経長らと伊佐城を根拠に善戦したが、高師冬軍により包囲され、行朝は泉村(中館西部)で戦史、中村経長は中村城に逃れ、ついに宇都宮公綱に降って被官となったものである。被官の際に、経長は持久の策なく、中村の庄をもって芳賀禅可を頼み、宇都宮公綱に降る由、中村の庄の3分の1を賜り累代居住す、と伝える(遍照寺由緒書)。伊佐城は結城直光に略奪され、その他の中村領は宇都宮領となった(興国4年(1343))。戦国時代の天文13年(1544)には、結城氏重臣で下館城主水谷(みずのや)正村(政村)が北方への進出を図り、10月17日宇都宮氏の臣、中村城を攻めた。中村経長10代の裔中村日向入道玄角は防戦し切れず館の内で戦死、子息の小太郎時長は城を焼いて宇都宮に走った。翌14年(15年説もあり)4月23日、宇都宮城主下野守尚綱(俊綱)は中村城を回復しようと激戦を演じて敗れ、中村小太郎時長の領地は水谷に略奪されて、正村の養子(弟)勝俊、その子勝隆の支配地となっていった。(水谷と宇都宮の競り合いは永禄年間、天正年間にもあり、中村庄のうち中村城跡が常州の下館城主の領地となったことが、後に中村城と伊達氏始祖のことが歴史に埋もれる一因となった。)時長が中村城回復の頼みとした宇都宮尚綱は天文18年戦死、嗣子が幼いため一族の芳賀氏ら老臣が権を争い国政が安定しないことから、中村氏は伊達氏に寄るべく奥州米沢に走り、宗藩伊達に属し、同根の好みをもって名を中村日向と号し、伊達氏青運の後奥州岩ヶ崎の館を賜り子孫今に連綿であると郷土史に伝えられる。伊達領行きについては宇都宮氏改易の慶長2年とする説もあるが、主流は天文14年の後まもない時期と推定している。なぜなら、中村日向の先祖義綱は伊達家の稙宗、晴宗、輝宗に仕えたことが家譜からわかり、また、天文22年には晴宗から采地をもらっているからである。3 中村日向について伊達御一家の中村家は5代目まで新田の姓を名乗っていた。中村家の家譜には6代目の中村日向成義が、時の藩主4代綱村に元禄3年9月招かれ、中村氏と雲次の佩刀を拝賜したこと、中村氏は公室先祖の氏であることが記されている。「性山公(輝宗)治家記録」には、後のこととして、「今新田ヲ称スル事ヲ憚リ玉イテ元ノ御氏中村を賜フ」と出ている。後子孫は岩ヶ崎の鶴松城の館跡の家におられ、(著者の土生さんが)家譜を見せていただいた。一つは清和天皇にはじまる新田氏の系図。一つは伊達世臣家譜(藩撰家譜)と同様に新田三河守を祖とする家譜であった。(土生さんが訪ねた中村あや子さんは平成4年亡くなられた。ご主人の中村小四郎氏は東京大卒業後海軍造船大佐でドイツ留学、日本で初めて潜水艦を作った方。弟の中村貞夫氏は栗駒町の公民館長をしておられた。なお、13代目の中村小治郎氏は明治に初代の岩ヶ崎町長。)元禄3年に中村姓をもらった6代目日向成義は、綱村公の妹(3代綱宗の娘)の三姫を奥方に迎える。更に9代目中村日向義景は、6代藩主宗村の娘認姫を迎えている。中村氏の伊達家に対する忠誠は目を見張るものがある。9代目中村日向義景は27歳で奉行に上がり、明敏で度量があった。8代藩主斎村が寛政8年に没し、生まれたばかりの長子周宗が襲封。堀田正敦が藩政の補佐を託され、奉行の中村日向義景と大内縫殿が藩務を支えた。しかし9代周宗は14歳で病没。ここから中村日向義景の真価が発揮される。当時の幕府の規則で諸侯は17歳に満たないと嗣子を立てることが出来ない。仙台藩存亡の危機に直面し、中村日向は周宗の喪を秘めること3年、はじめて幕府に報告し異母弟の徳三郎を10代斎宗として藩主に立てることに成功した。この3年間は、周宗の飲食起居のこと皆生者の如く他に知らしめず、その苦労は大変なものだったと伝えられる。斎宗はこの功労に千石を加増し、義景は5千石(4千5百石とも)になった。中村氏は元禄7年から明治を迎えるまで最も長い采地として栗駒の岩ヶ崎におり、城は鶴丸城といった。それ以前は、元和5年に采地の宇多郡駒ヶ峯の火災で文書が消失しているので不詳という。鶴丸城は明治以後、小学校ができ、残りは整備された美しい公園となって、一部中村家になっている。館の正面に向かう道は下小路(昭和30年頃までは四軒丁)で太宰式部はじめ四軒の家老が住んでいた。中村家の家譜では、祖である三河守は采地伊達郡新田郷及び羽州置賜郡長井荘、古来伊達一家を称す、とある。この時新田郷をもらったので伊達の先祖が伊達氏を名乗ったように、新田姓を名乗ったのかも知れない。新田氏一代とされる景綱〔おだずまジャーナル注:上記2最終段落でまとめた対象部分の記載では義綱とある〕は、稙宗、晴宗、輝宗に仕え、また天文22年には晴宗公より采地を賜っている。この経緯から、中村氏先祖は天文10年代には米沢入りをしたと思われる。天文24年8月、初代景綱は4人の家士(太宰、赤間、佐藤、泉沢)と紀州熊野本宮を参拝したと特記される。元亀元年には伊達家の存亡に関わる事件がある。宿老家の中野常陸宗時がおごりたかぶり輝宗に疎んじられる。宗時は女婿であった景綱の長子義直を巻き込んで謀叛を計画、息子の義直から聞いた父の景綱は、諌めたが聞き入れられず、義直を捕らえて輝宗に死を賜うよう望み、義直は自決、自家などに放火した中野らは相馬に逃れたという事件である。景綱は嫡子を犠牲にして伊達家の存在を守り抜いたのであり、輝宗公を守った忠誠は高く評価されている。なお、この事件の新田の忠節は遠藤基信の考えにもとづく。中野の謀叛を遠藤は予見し、新田義直を前もって中野の縁者にすれば、父の景綱は忠貞の志深いことから中野を滅ぼす人物になるとして、中野の婿に世話をしたという。また、景綱の武将としての活躍も大きかった。天正13年芦名進攻で新田景綱(新田常陸)は戦死。人取橋や摺上原の戦いでは、2代新田義綱は後藤信康とともに桧原在番として政宗の仙道での活躍に寄与した。天正19年政宗は秀吉の名で岩手沢(岩出山)に移り、これに伴って2代義綱は加美郡柳沢村を賜って移住し(千2百石)、慶長4年宇多郡駒ヶ峯に移り、正保元年に采地千4百4十石を岩手県東磐井郡藤沢邑に賜って移る。6代目中村日向成義のときに元禄7年いまの岩ヶ崎を賜って移る。当初3千5百石、9代義景のとき功績で4千5百石となった。岩ヶ崎は秋田への羽後岐街道が通る要所で、歴代館主をみると、政宗5男宗綱、6男宗信、石母田大膳宗頼、定頼、永頼、2代藩主忠宗の2男田村宗良、古内主膳正重定、重興、茂庭大蔵重実、そして中村日向家と、歴々の人たちが拝領している。
2013.04.07
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伊達氏の先祖は常陸の伊佐庄中村とされる。ただし、伊佐は伊佐城跡のある茨城県下館市中館に比定されるが、中村は北に8キロほどの栃木県真岡市中(旧芳賀郡中村)を中心とする地域である。伊達氏の先祖はこの常陸国と下野国の両地域を領有していた。旧芳賀郡の中村の庄は12の郷からなり、明治以降も芳賀郡内の自治体として中村が存続した。保元元年(1165)に中村朝宗が築いたと郷土史は伝える。中村の庄の総鎮守中村八幡宮のすぐ東南の位置にある。もともとこの地方は下野守源義朝の管轄だったが、保元・平治の乱により高松院蔵人朝宗が中村に下向して、八幡宮社壇の巽に保塁を構え、中村の荘を管領して中村太郎藤原朝宗と称した。その男(子)が、下野国中村荘と常陸国伊佐荘を管領し、常陸介に任ぜられ、中村常陸介宗村と称し、剃髪して中村常陸入道念西と号したと伝えられている。この念西が、頼朝の妾の父であり、また伊達氏の先祖である。(念西が伊達氏の始祖であるが、この念西の実名が朝宗なのか宗村なのか、或いは2人は同一人物なのか、など諸説がある。中村では、朝宗が保塁を築き、宗村が伊達郡に行ったので、宗村が始祖としているという。)中村宗村はよく牧民治水に精通し、勝瓜口用水の始祖を築くなど水利を開拓したという。現在の中村城はほとんどが真言宗遍照寺の領域になっている。中村(真岡市)と伊達氏のつながりはきわめて深く、中村八幡宮にある品々は伊達氏とのつながりを示し、また文書にも記されている。それにもかかわらず多くの人に知られていないのは、伊達家において先祖崇拝の儒教精神が強くて藩主の絶対化をしようとしたこと、また、中村が歴史的に常州下館藩領となった経緯などから常州中村(明治期に中村も実在)と混同されてしまったこと、によるのだろう。■土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂、1994年 から中村では伊達氏のための祈願や法華三昧が継続されてきた。土生氏の現地訪問を機に、仙台藩志会がこのことを知り、真岡市では市を上げて歓迎をすることとなり下館市とともに明治以来の交流が実現したという。
2013.04.06
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今日の午後のこと、市内で市営バスの前面電光板に「閖上」と書かれ、「中野・終点」と併記されている車両を見かけた。あまり見慣れない様に感じたので、市営バスのサイトの説明を見てみた。すると、市営バス閖上線は中野バス停で折り返し運転。つまり、名取川を渡らずに折り返すようで、藤塚から閖上までは「休止区間」ということのようだ。そして、この休止区間が今月1日から変更されているそうだ。つまり、折り返し運転区間が長くなったというのだ。市営バスの説明では井土浜線(450・500系統)とされている。この路線は、運行系統図(25年4月)によれば、交通局大学病院前が起点で、たしかに終点は閖上と明記した上で、「被災により中野発着」と付記されている。昼間にバスを見かけたときには、「中野・終点」とわざわざ断った電光掲示も珍しいと感じたのではあるが、そもそも閖上行きの路線が市営バスにあったのか、というのが実は少し驚きだった。というのも、かつて仙台市域外にも結構路線を持っていた市営バスだが、仙台空港リムジンバスの撤退(アクセス鉄道開業に伴う)により、市域外の路線はなくなっていたはずと、思っていたからだ。これは誤信だったようだ。閖上線があったのだ。あれだけ市街地の集積のある閖上だから乗客も少なくなかったのだろう。閖上の街から見ると、名取駅と結ぶ路線は宮城交通がある。また、名取川を渡って六郷、若林、仙台駅前や市内に直接行くには市営バスがあるということで、通学や通勤に利用されていたのだろうと思う。閖上はそれだけ人口が集積した街だったのだ、とあらためて思うのだ。
2013.04.05
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「レンタサイクルでまわろう♪白石城下史跡処マップ」という手書き感満載のパンフレットを見ている。しばらく前にたしか白石城の売店でもらっていたもので、今頃部屋の隅から出てきた。作成(H20.9)白石市観光案内所、とある。城下町と近代の歴史を思わせるさりげない見所がたくさん書き込まれていて、大変良いマップだ。白石市観光協会サイトにも、このマップが紹介されています。(ただしよく見ると協会HPの方が若干の加筆がある。私のもらった時点の版より更新しているのでしょう。)裏には、横丁の由来が書かれている。神明横丁 --- 明治32年白石大火まで長袋神明社の神主屋敷があった電信横丁 --- 明治17年白石電信局があった。それ以前は猿曳横丁と呼ばれた。警察横丁 --- 明治18-35年に警察があった。彦助横丁 --- 豪商の阿子島彦助さんが長屋を作って人を住ませていた。妙見寺横丁--- 妙見寺への門前町生酒横丁 --- いきざき横丁。造り酒屋があり、その名が生酒屋だったから。天神横丁 --- 昔天神様があった。今は、神明社に移してある。鼠横丁 --- 今では想像できないが狭くて薄暗く鼠が出そうだったから。ほかにも(表面のマップに)桜小路、清水小路、後小路、本鍛冶小路、東小路、外北小路などの名が見える。城下町と小路。いいですね。
2013.04.03
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以前記事にした。福田町二丁目の十一面観音堂だ。■過去の記事 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)を久々に読んでいて、あるページに四野山観音堂とある写真をみて、もう6年前にブログ記事にした際の写真を思い出したのだ。以下は上記文献の説明だ。------------四野山観音堂は、延暦年間坂上田村麻呂の創建、あるいは天平宝字元年の勧請とも伝えられている。木ノ下の国分寺より宮城野原を通り、旧四野ヶ原(現卸町・扇町)から四野山観音堂に至り、雲洞院に北上する道を古街道といい、原町、苦竹を経て福田町に至る道は新道街道といっている。宮城野原から続く地帯は、新田開墾のはじめ頃には、四軒の家すなわち四家(よつや)があったとのことで、同音文字の四野(よつや)によって、四野(よつや)ヶ原といわれたという。(菊地勝之助『みやぎ郷土小辞典』)四野山観音堂の本尊は十一面観音で、もと高さ一寸八分(約5.4cm)の黄金仏だったとのことであるが、一時紛失したが後堂前の柳の樹の空洞で発見したが、再び紛失したという。現在のは木像である。このいわれによって、当観音を柳の観音ともいっている。安永3年の風土記には、観音堂の別当は羽黒派修験四野山不動院で、繁応が慶長3年に開院したこと、またこの観音堂は奥州三十三番札所の七番と書出されている。しかし他の文献では奥州三十三観音の中には入っていない。境内には十五基の石仏が造立されている。弘安9年の板碑は裏面は庚申塔に利用されている。彫りくぼめに一面六臂の青面金剛を浮き彫りにし、邪鬼を踏み、下には三猿、上には日月瑞雲が刻まれている。------------
2013.04.02
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センバツでは今日仙台育英が惜敗した。昨秋の神宮で優勝して期待も高かったが、まずは善戦をたたえたい。ところで今年のセンバツのTV中継で、試合と試合の合間に過去の名場面を見せる。その中に大逆転勝ちというテーマの一コマがあって、逆転サヨナラ本塁打が従来2回しかない(?)という説明のもとで、あの04年(平成16年)第76回大会の準々決勝、済美×東北が取り上げられた。8回まで6-2で東北のリード。9回裏に大逆転を喫するのだが、マウンドにいたのはダルビッシュではなくマカベッシュだった。ああ、そうだった、と思い出した。あの年、宮城県民は東北高に全国制覇の夢を本気で託していた。仙台を選んでくれた超高校級の天才ダルビッシュ有と、地元宮城出身の実力派で黒メガネの真壁賢守の2人が投手として人気だった。それに加えて、投手では采尾もいて層があつく、打撃では加藤、横田、大沼、森などがいたと思う。頂点を十分ねらえる布陣だった。ダルビッシュが1年生の年、東北高校は秋の東北大会で優勝。03年(平成15年)第75回センバツでは3回戦で惜敗。その年の夏第85回選手権は、ダルビッシュと真壁を中心に勝ち進む。初戦の筑陽学園戦はダルビッシュが2回で降板するも真壁がロングリリーフした。3回戦の平安戦はダルビッシュが延長11回154球で勝利。続く準々決勝光星学院戦は先発真壁が6回追いつかれるとダルビッシュを投入して逃げ切る。準決勝江の川戦は采尾と真壁で見事に勝利。そして迎えた初の決勝では、炎症をかかえたダルビッシュを先発に立て、常総学院に4-2で敗れる。そして、県民の期待を受けた04年春のセンバツは、初戦の熊本工業を相手にダルビッシュが見事にノーヒットノーラン達成。2回戦の大阪桐蔭は真壁のリリーフで逃げ切る。迎えた準々決勝は、真壁がマウンドを任されていた。9回裏の大逆転劇に、ダルビッシュをなぜ送らなかったのかとの意見も、たしかにあった。しかし、当時の若生監督はこう説明している。(若生正廣『日本最強右腕の原点 東北の名将が授けた「大投手への10ヵ条」』ベースボール・マガジン社、2012年)------------2回戦は優勝候補と言われた大阪桐蔭との対戦である。だが、めいっぱいの投球だった1回戦の後、ダルビッシュはやや肩に来ていたらしい。(中略)ただ、桐蔭の強力打線に対してはダルビッシュが頼りだ。真壁にしても、腰に痛みがあって本調子ではない。ダルビッシュで行けるところまで行って、真壁につなごうとハラをくくった。(中略)2回以降は球速が140キロにも達しない。6回にもふたたび中村君にホームランを打たれ、7回からは真壁にスイッチした。試合は結局2対2と同点の8回裏に大沼が決勝2塁打を放ち、ベスト進出。(中略)ただ、どうも、ダルビッシュの肩の具合が思わしくない。(中略)登板すれば中2日となる済美戦前にはとことん話し合った。「行けるか?」「(中略)ダメですね」(中略)投げたいという自分のエゴを押し通すとチームに迷惑がかかると考えたのだろう。そこで私はダルビッシュを投げさせるわけにはいかない。よしっ、先発は真壁。済美との準々決勝は東北のペースで進んだ。序盤に4点を奪い、6、8回にも加点して、真壁が好投する。9回の守備についたとき、6対2と4点リードである。(中略)9回裏、済美の反撃で2点差に迫られたが、2死走者なしまでこぎつけた。(中略)真壁は腰痛を抱えながら、ここまですばらしい投球を見せていた。8回に146キロを計測するなど気迫もあふれていた。一番打者が(略)右翼ファウルグランドに飛球を打ち上げる。(略)風に押し戻されて二塁手がグラブに触れながら落球。次のタマを右前に運ばれる。さらに次打者が左前ヒットで2死1、2塁。三番打者を簡単に2ストライクに追い込む。ここからはまるで狐につままれたようだった。私の目論見は(略)2-2からシンカーで勝負だ。(略。ファウルで粘られてカウント2ストライクからの5球目で)サインは当然「はずせ」。だがシュート回転して内側に入った真壁のボールが完璧に捉えられる。逆転3ランをレフトの守備位置で見送ったのはダルビッシュだった。この試合に関しては、なぜダルビッシュを投げさせなかったのかという疑問の声をよく聞く。確かにこの時ダルビッシュは6回頃から「肩は大丈夫です。行けます。」といっていたし、9回にはレフトの守備位置で肩をぐるぐる回しリリーフ登板をアピールしていたのだ。だが、なぜダルビッシュをというのは、私に言わせれば何も知らない外野の無責任発言である。まず、真壁の調子が尻上がりに良くなっていたこと。ボールも走っていたし、6回から8回は三者凡退だった。また、リリーフをアピールはしても、ダルビッシュの肩はかなり深刻だったと思う。ベンチ前でのキャッチボールを見ても、ボールは山なりだったのだから。真壁の9回の投球を見てチラッとかすめたとすれば、ダルビッシュよりも采尾への継投だった。それよりなにより、ダルビッシュは日本の野球を背負う大投手になる可能性を秘めているのだ。その宝を高校野球で終わらせてもいいのなら、いくらでも投げさせた。(略)この大会は優勝できる自信があった。もし済美戦に勝つことを優先し、東北に初大旗を...という野望に目がくらむ監督だったら、有を投げさせていただろう。でも、私は違うのだ。そのことは、強調しておきたい。------------そしてその年の春季大会は真壁が中心となってダルビッシュを休ませる。夏の甲子園は満を持してダルビッシュが活躍する。初戦は北大津と続く遊学館戦をダルビッシュが連続完封。3回戦は初出場の千葉経大付。ダルビッシュは9回2死まで無得点に抑える。あと1人。しかし雨でぬかるんだグランドに内野手横田が足を取られて1-1と同点を許す。大会初失点のダルビッシュは、10回表にあっさり勝ち越しを喫してしまう。そしてその裏の最後の打者として三振をしたのも、ダルビッシュだった。
2013.04.01
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