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私流の神からの夢のお告げがあった。と、私には感じられることが昨夜の夢の内容であったと思われる。 宇宙飛行士が地球の外部から眺めた地球が、実に美しく、神秘的であったと言う。その様に、まさに神の視点から見た場合の人間の姿は、トータルとして美しく、清潔で、見事に光り輝いている。 つまりは、人間の営みは全部が全部肯定されて然るべきものと、是認される。そう、夢で私の神様は告げていたのでありますね、確かに。 しかし、神の視点を持たない我々凡人の感じる地上の生活は、全肯定出来るどころではない。どこもかしこも醜い争いがあり、いがみ合いや紛争が絶えない。様々なテロ行為、暴力、卑劣な騙し合い、殺人、レイプ、弱い者虐め、経済的な侵略行為、誹謗中傷、これに自然による災害、つまり台風、地震、津波、火山噴火、天変地異、などなど、いちいち数えあげていたらキリがない程の禍が継起し続けている。 聖書に書かれている様々な災厄は、神による人間への戒めや警告として記載されている。つまりは父なる神は子供である人間に、ある種の制裁を加えることで、善導しようと図られるもののようだ。 善き父と無邪気な幼子の関係。善き父は時に厳父として、幼子の無邪気な悪行を咎め、正しい方向に進ませる手段をとる。非常に解り易く、素朴な図式である。 しかし、現代ではこの素朴で牧歌的な、つまり単純な図式には収まらない、複雑にして怪奇な現象が多発して我々人間は苦悩し、迷い、迷走することとなってしまう。つまり、一筋縄では行かない。 誰が悪い。誰のせいなのだ? 答えは極めて単純である。私達人間が悪の元凶なのだから。 諸々の悪を犯すのは私達人間であり、その報いを受けるのも私達である。自業自得そのもの。人間は個人として自由気ままに行動しているので、そしてその行動の大部分が自己のその時々の衝動的な欲望に促されているので、善行ではなく、悪行であると言える。 また、人間は根本的には孤立しては有り得ないし、何等かの社会の構成員として存在せざるを得ない。直接に自身が犯した行為でなくとも、限りない過去にまでさかのぼっての悪行の累積は、それこそ天文学的な数字に及ぶはずなので、身に覚えがないからと言って、その累犯的な罪の咎めを免れる道理もない。一言で言ってしまえば、私たちは皆罪人として生まれて来るのだし、悪人として、又は悪人の片割れとして生きていかざるを得ない存在なのだ。生まれながらに原罪を負っていると表現してもよい。 大処、高所からの大局を見極めた判断は神様がなさる。微塵に過ぎない断片からの判断が我々人間のもの。だから、井の中の蛙の判断しか出来ない。微塵や断片がいくら大勢集まったところで、微塵は微塵であり、断片は断片に過ぎない。ここのところを、よくよく考えてみなければならないだろう。 仏教、なかんずく密教的な対処法として、絶対者との相互交流という奥の手がある。秘密マンダラとか、護摩を焚く秘法を駆使しての微塵や断片からの脱入という、離れ業である。 空海と伝統仏教の化学反応が現実に不可能な奇跡を成就させたのか、真相は永遠に秘密のままでありますが、一即全が真理だとすれば、そしてそれはいみじくも絶対的な真実なのだが、神や佛の絶対者と断片・微塵が合一するには、これ以外の方法は考えられないわけなので、空海の人間離れした偉大さを否定することは出来ないのだ。
2019年11月28日
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創世記を読了した。後半のジョセフの説話は小説のようで、比較的面白く読み進めることができた。 と言うのも、昔の信者にとっては非常に重要な意味にあった筈である、系統や系譜めいた箇所が多く出てきて、私などには無味乾燥に感じられるからである。 ところで、神はしばしば人の夢の中に現れて、謎めいた夢を見させる。その夢に込められた神の意図は常人には決して解釈出来ない。或る特殊な人間、つまり神から特別な祝福を受けている者だけが、大事な夢解きの仕事、正しい解釈が可能なのである。 そう言えば、イエスの父ジョセフも夢の中で神のお告げを受ける。旧約聖書を熟知している信者などは、この一事だけからでも神の人間への意味深い働きかけを、直ちに認識できたに相違ない。 私は今日の早朝に夢を見た。目覚めた後まで覚えている夢の中に、懐かしい能村庸一氏が元気そうな姿で現れていた。この夢でもそうだったのだが、過去の経験そのものではなく、謂わば創造的な、つまり現実では無かった、しかしどこかで関連のある奇妙な内容であった。 そう言えば、最近では悦子の夢を見なくなった。考えてみれば当たり前のことで、現実で私はほとんど毎日のように悦子との交流を行っているのだし、わざわざ夢の中などという迂回道を経由しなくても、親密で濃厚な霊的な交流がなされている以上、何も不満を言う必要もないだろう。 しかし、古の天皇のお妃が亡き夫を忍んで歌った語句ではないが、「目には見れども、ただに逢わぬかな」の痛切な嘆きは、やはり生身の者としては残るので、これは実際に経験した者でないと、分からないことなので、言葉に出してみたところで、どうにも仕方のない事ではある。 私の人生を振り返った場合に、妻との出会いが全てであったと、素直に首肯できるので、この後何年この世に生きながらえることを許されているか分からないけれども、その余生にどのような意味を見出したらよいのやら、皆目見当もつかないでいる。しかし、生きてある限りは、できる限り他人様のお役に立ち、且つ又他人様に迷惑を可能な限りかけないように、生きることが出来るならば、これに過ぎる幸せはないだろうと、密かに念じている。 そのためにも、健康が基本であるから、そして健康には食事に可能な限り気を使って、バランスの良い食生活を心がけたいものと思っている。 元々、私には大志といった野望はなく、自分がこの世に送り出されて来た意味合いを、出来たら知りたいと願っていた。それが、悦子との思いも掛けなかった遭遇によって、生まれて来た以上は幸せに生きて良いのだと、知らず知らずの裡に知らされて、夢幻の如くに、そしてがむしゃらに生きさせられてしまった。振り返れば、何とまあ「悪運の強い」人間なんだろうと、自分のことながらも、感心したりしている。生きるとは、それぞれの立場や環境の中で幸福感を味わうことだったと、知らされた。 劇的な人生も結構なら、庶民としてのささやかな幸せも、それに劣らないくらいに大切なことなのだと、今は安堵の胸をなで下ろしたりもしている。 それにつけても、両親が私のように素直で邪心のない性格に産んでくれたお蔭で、随分と様々な人から過分な好意を被る事ができたことを、しみじみと有難いことだと心の底から感謝している。 捨てる神あれば拾う神ありとは、本当にうまいこと言ったものだと、今更ながらに感心している。 世の中に真の極悪人もいない代わりに、底抜けの善人も皆無に近いのではないかと、感じているが、本当のところは私には解っていない。ただ、あんな嫌な人間に生まれないでよかった、と感じたような人間に数多く出会ってきたが、彼等や彼女もそれなりに良い人間性を付与されていたに相違なく、ただ私との出会いの局面で「嫌な奴」であったにまちがいないのだ。 仏教で言うところの 縁 というものは、実に不可思議なものだと、驚嘆さえしている。
2019年11月22日
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創世記を読みすすめている。信者としては大切な事柄が書かれているのであろうが、門外漢の私には、今のところさして興味を惹かれる要素はない。 しかし、ひとつ感じたことがある。神も 淋しい のではなかろうかという事。 神様が淋しいだなどと、随分と可笑しな事を言うようだが、もともと擬人化と言うか、人間に理解し易いように説話化したものであろうから、神がもし人間であるならば、「とても淋しい」とでも表現するような「感情」を持たれるのではないだろうかと、ふと感じた次第である。 ふと感じたと言えば、どこか日本神話にも似通った要素や雰囲気があるようにも感じた。 神はご自分がお造りになられた人間から、自分の存在を常に意識して貰いたいような、素振りがエピソードの節々ににじみ出ているように、私は感じるのだ。 比較民俗学とか、比較神話学などの分野が扱う問題からすれば、一つのオリジナルから、様々に枝分かれして色々な説話や神話が成立しているとすれば、どこかに似通ったところが残っていても、少しも不思議はないわけである。 所で、淋しいとか、悲しいとかの感情は恐らく最も普遍的な人間感情でもあるだろう。我々人類は本質的に孤独であるゆえに、寂しさや哀しい情感に包まれて生きている存在なのではなかろうか。 だから、神ともまたこの同じ感情で結ばれていても少しも不思議ではないわけで、この同じ感情で結ばれている点で、同類意識を持ち易いのであろう、多分。 神に対して「同類意識」を持つなどといった不遜な事を敢えてするのは、塵芥にも等しい我々に誠に似つかわしくない、身の程を弁えない傲慢極まりない意識ではあるが、そもそも神は御自分の姿形に似せて人間を造られたと、創世記の冒頭に記されているのだから、許して頂くより仕方がない事なのか。 そもそも、万物の霊長であるなどといった身の程を弁えない自尊意識の介入も、同様な勘違いから発しているとすれば、神の純粋無垢な善意が無意識になされた行為が、結局は仇となっているわけなのである。してみると、人類とはそもそもが何と罪深く、手に負えない厄介な存在なのであろうか。 父なる神よ、あなたはご自分の絶対的な善・正義・完全性・無謬性などを無条件に信じていらっしゃるので、外見上実に似ているアダムの姿形に幻惑されて、戯れの作品である人間を余りにも過大に評価され、子供に甘い親バカぶりを遺憾無く発揮されて、後々深く後悔される羽目に陥られたのではありますまいか。私には、そんな風に思われてなりませんが。 もう少し言わせて下さいな。あなたの親馬鹿は現在でも続いていて、際限もない無軌道さを人類は繰り返し犯し続けてとどまるところを知らない。そういった無軌道・野蛮・暴虐が後を絶たない。 親の心を子どもというものは知らないのです。最初は無垢であり、無邪気だったのですよ、確かに。然しやはり魔が差すのです、それもしばしば。そして気がついた時には、手遅れ。 結局は、行くところまで行かなくては済まないのでありましょう。それも、賢明極まりない神のことですから、とっくの昔から既に折込済みのことなのでありましょうから、私ごときが今更咎め立てするような、余計なお世話は焼かなくてよい。それも承知で、頭の弱い私などは、杞憂を杞憂と感じる事が出来ないで、いらぬ繰り言を、愚痴を並べ立てずにはいられないのであります、はい。
2019年11月16日
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自分との対話とは、つまり神との対話であると思う。 神は言葉を発しない。神の言葉は通常、人間には聞こえない。或いは、人間の言葉には翻訳不可能なくらいに豊饒で広範囲であるから、人間の耳には「無音」と化して、つまりは通じない、聞こえないのだ。 一微小部分にしか過ぎない者に、無限なる存在者が早口に、そして無際限に語っている豊富過ぎる言葉を受け止めることなど、そもそもが出来ない相談なのである。 このように覚悟を決めた上での、本当に拙い、自分勝手な語りかけであり、稚拙な回答にしかなるまい。それを覚悟の上での、無駄なあがきの一環と承知しながらの、駄弁である。が、しかし、私には生きる上で、是が非でも必要な作業なのだから仕方がないのだ。イエスに倣って言えば、人はパン・飯、食物によって生きるだけではないのだから。 と、言い訳しておいて、勝手な事を書く事になるのだが、自分はしみじみと幸運な、それ故に果報者であると感じる。この年になって、人間という者を知れば知るほどに、社会や国や、世界中で起こっている様々な出来事などを耳にすれば、する程にそう実感するのだ。 早急に過ぎる結論から言えば、杞憂さえ思い浮かべなければ、幸福に生きて来られたのだから。謙遜などではさらさらなく、素直にそう思える人生を送って来られたのであるから。 不平や不満は、謂わば身の程を弁えない、傲慢や尊大のなせる業なのだと首肯される。これからも今までと同様に幸せな人生を全う出来るであろう。そう、確信している。これは所謂宗教的な信仰心のなせるわざで、客観性のない、理由のない確信なのだ。だから、生まれながらの確信なのだろう。有難い事である。 下手な考えは「休むに似ている」と言う。そして、我々は下手な考えしか出来ないのであるから、考えるよりは実践に力を注ぐべきなのである。少なくとも、私のような者は。 では、一体何を実践するべきなのか。自分に出来ることを。自分に可能なことを、心を込めて、誠心誠意、可能な範囲で。 今の私に何が可能であろうか? 心の赴くままに、神との対話を真摯に、真剣に。それから、与えられている時間をエンジョイするように努めよう。今自分に必要な事柄は、自ずから与えられる。既に、与えられている。平凡で、陳腐な日常の中にこそ、本質的な何かが秘められてある事実を、よくよく噛み締め、余計な取越苦労などせずに、こつこつと神に感謝する気持を忘れずに。 人間というものは、とかく 悪事 を犯してしまう存在なのだ、という自覚を己の胸にしっかりと据えて、決して忘れないこと。それだけでも、少しはましな生き方が見えて来るであろうから。 謙虚で、謙遜で、感謝する心を忘れないで生きよう。それを、態度で現すように行動しよう。自分の為に、そして隣人の為に。自分ファーストでよい、神の心を、有難い、慈愛に満ちた愛情を十全に受けている事実を知った自分は、自分 即 他人 を実践する筈だから、である。
2019年11月11日
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これからは旧約聖書の読みに入る。解説書などを含めて、一通りの知識は持っているつもりだが、もう少し読み込んで、私が自分を理解する手掛かりとさせて貰うつもりでいる。 旧約聖書の創世記に拠れば、私達人間は神によって造られた。神は土から男を、男の肋骨から女を造られた。他の諸々の生物、動植物と共に、地上に生き、産めよ、殖やせよ、地に満てよと命じられた。 私の 素朴な疑問 に、旧約聖書はまともに、真正面から答えてくれている。 我々が何故に、この世に生を享け、今私がいるのか。恐らく、これ以上に正しく、ベストな回答はないであろう。神によって造られたから、その結果として今現在の私があるのだった。 だがしかし、私達を造られた神は、一体何処のどなたが造られたのか? どのような原因があって、如何様に宇宙の只中に出現なさったのか? これは全く不問に付されている。 答えようがないからだし、そもそもが、考えようもないからである。が、しかし、私のような人間はその最初の最初、始原について強く拘らないではいられない。どこから、何故に、と。 そもそもが由来などと言うものが全てに有ると考えること、その事に問題の根源がかかっている。原因や由来が分かったからと言って、何が、どうなる訣ではないが、我々、とりわけ私などは、これにこだわり、拘泥しないではいられない。考えてみれば、これにも因縁や原因があるのかも知れないが、時間的にも空間的にも中間に置かれ、宙ぶらりんな存在である人間には、理解や認識が及ぶ所ではない。 仏説によれば、永遠とは即ち一瞬である。瞬間が永遠と同義である、そんな時間の不思議を、人間の浅知恵が完全に理解することなど、不可能事なのだから。 それでも、尚且つ、その深所を追求しないではいられないのが、私の如き臍曲がり者の宿命なのであろうか、只無性やたらに気がかりなのである。仕方のないことだ。 最先端の宇宙物理学の理論によれば、我々の住む大宇宙は、林檎くらいの灼熱した宇宙の種が、激しく瞬間的に膨張を起こし、ビッグバンした結果の延長上の現象なのだという。 ビックバンを起こした林檎の如き 灼熱の如き種 は、シュミレーションすれば、無の真空に何処からともなく、透明な壁を擦りぬけるようにして誕生した、ようなのだ。 つまり、現代の最先端科学では、始原に関しては矛盾に満ち満ちた、結論とも言えない、実に馬鹿げた、子供だましに等しい「御伽ばなし」に陥ってしまうらしい。 始まりの始めに関しては、しばらく横に置いておくとして、人類が営々として築いてきた科学の教える所に拠れば、生物(地球上の生物に限定した場合に)のふるさとは海底であるらしい。深海の海底噴火とか、その種の爆発的な衝撃によって非常に微細で、原始的な生命体の始まりが始動を始めたらしい。それから気の遠くなるような期間の経過を経て、今日の様々な動植物が、進化発展を遂げて、今日に至っているらしい。 結論めいた事を言ってしまえば、旧約聖書の説くところも、科学の解説も、似たりよったりだ、と言う事になるようだ。で、あるとすれば、モーゼ由来の創世記の説くところが、既に述べた如くベストの説明であり、完璧な解釈だと言えるのではないだろうか。 つまり、バイブルは本質的に最も信頼性のある言い伝えであると、断定して差し支えない。我々人類の手になる如何なる類似の説話よりも、信ぴょう性のある書物であると仮定して、それほど問題はなさそうなのだ。後に残るのは、細部の一つ一つのエピソードの「客観的な真実性」を、読み手が正しく読み込めるか、だけが謂わば詮議され、重要視されなければならない。 要は、読み手の人間としての真価が問われる事を、正しく意味しているようだ。 益々、心して読み進む必要があるようだ。素人である私にしてもである。いや、素人であるからこそ、真剣に、真摯に読み解く責任があるのだろう、きっと。
2019年11月07日
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新約聖書を一通り読了した。イエスが弟子達に伝えたかった事の一番は、自分がイエスキリストであり、天にまします父の意志を体して自分はこの世に出現したのだ、と言うこと。この世は闇の世であり、自分は世の闇を照らし出す光である。自分の言葉、即ち、神からの言葉に素直に従うならば、弟子達は永遠の生命を授かるであろう。 自分は旧約に記されている諸預言者達の言葉を体現して、その預言を実地に、君たちの目前に示す。自分の罪を悔い改めて、直ちに自分の教えに従うがよい。 自分、神の子イエスキリストはこの世に自分を遣わされた父の意を受けて、十字架上の死を遂げ、三日後に復活する。 イエスは自分の言葉通りに、死後に復活し、弟子たちの前に姿を現す。しかし、弟子たちはその事実を容易には信じることが出来ない。彼等はまだ完全には 闇の中 から抜け出すことが出来ないでいるから。 以上のような非常に雑駁な理解から、私・草加の爺は以下の様な、感想を現時点で抱くに至った。つまりは自己流の解釈である。 生物の一種である我々人間は、他者の「生命」を自分の身体の中に取り入れて、この世での仮の生を生きる。そのように謂わばあらかじめプログラミングされている。生きるためには自分以外の尊い命を犠牲にして、物質としての他者を自己の肉体に取り込まなければならない。よい、悪いの、つまり善悪の問題ではなく、実存としての我々人間にも与えられている、厳然たる現実である。 この世、現世とは所詮は物質・肉体第一の世界であり、そのための秩序や掟が成り立っている。殺してはいけない。貪り喰らってはならぬ。姦淫、つまりは過度な肉欲は、これを慎まなければダメだ、云々。 この謂わば低次元のレベルを早々に脱して、永遠の存在する霊の世界に入らなければいけない。一刻も早く…。そう、父なる神は絶えず我々に呼びかけている。早く目を覚ましなさい、幼子たちよ。無邪気に犯す自ずからなる罪は、私が清めて、救済して上げようから。 悔い改めて、天国に入る準備を今日にでも、始めるがよい。君たちは本質的に 善い者 なのだから。エデンの園で、自分の裸体を恥じたように、素直に自分の欲望の節操のないことを、恥じたらよいのだ。その後の事は、徐々に好転するであろう。その為にこそ私、神は展望のよい天上から君たちに慈しみ深い、そして暖かな眼差しを向けて、一喜一憂しているのだからね。 物質の支配する現世は、結局は量が第一で、質はあまり重要視されない世界だ。大切なのは質なのだから、少しでも早く質ファーストの霊の世界を、天国を目指すべき事を、強く、固く、自分の心に言い聞かせるべきなです。ここでも、言うは易く、行うに難い。 もっとも大切な事は、知ることが即行うことに直結する、直裁で、正しい実践である。 イエスはいみじくも仰っおられる、狭き門から入れ、と。
2019年11月02日
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