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神慮に依る「野辺地ものがたり」の番外編 として 「 悦子の唄 」のタイトルで発表した記事に現在ただいまの心境を若干追加した物が、今回のものです。来るものは拒まず、去る者は追わず。人生の達人にして初めて到り得る境地であるが、サルまねしているうちに、自分も達人のような、勿論、まがい物なのですが、それに近い感懐を持つたような気になれた、今日この頃である。旧約は「民数記」を目下読み進めている。 ―― 1952年・昭和27年1月29日に生まれ、2016年・平成28年4月13日に逝去した悦子は、世間で言う 死亡 したわけではない。ただ、それまでの生き方を変えただけにしか、過ぎない…。そう、生きる形式を、変化させただけ。より輝かしく、より美しく、そしてより優しく魅力的に、生きる為に―。 従来の生き方をギアチェンジして、もっと、もっと高次の、人間らしい生き方へと、昇華させたのだ…。そう、昇華させたに過ぎない。そう、そう、昔の人が天女と称していた “こころの貴族” へと、階級を、ステージを上げ、より温かく、より慈しみに満ちた、ハートウォーミングで豊満な眼差しを、地上に向けている、現在只今も、向け続けているのだ。 無論、その優しい眼差しの中央・中心には、私、克征が居る。だから私は少しも孤独なんかではない、当然ながら無い、寂しくなんかない、悲しくなんかない。勿論、無いのさ…。当然じゃないか、当たり前すぎるじゃないか……、 でも、でも、これは内緒の話なのだけれど、ときどき、ひとりっきりで部屋の中に居たりする時に、心無い涙の奴がさ、ぽとりとばかり両の目から流れ落ちたりするのだ。 本当に、仕様のない、気の利かない奴さね。 えつこ、悦子、君も先刻承知しているように、能村さんが亡くなったよ、それも奇しくも四月の次の月の13日の夕刻にだ。 何か胸騒ぎがして、スマホで 能村庸一 氏を検索したら、フジテレビのプロデューサー逝去と記事になっていたので、奥さんに電話したら、悲しげだがしっかりとした口調で、最後の様子などを教えてくれた。入院の際に僕に奥さんが連絡しようとしたら、この前会ったばかりだから、電話しなくてもよいと止められた由。 そして、6月3日の土曜日に練馬区の成増駅近くの居酒屋で、能村氏の雅子夫人と二人で 偲ぶ会を行ってきたよ。つまり、飲み会をささやかに、慎ましく、残された者同士で開催したのです 奥さんのお話では、何でも10月の3日か4日(結局、五日に青山のアイビーホールで行なわれる運びになった)に能村氏自身が生前に希望されておられた、正式な偲ぶ会が盛大に、賑々しく挙行される手筈になっているとか。だから、そのほんの予行演習の真似事をやったわけだね。その会場になったお店が、能村さん好みと言うか、しもた屋風の、外見からすればごく普通の民家と言ったお家で、内部も、昭和レトロの雰囲気を醸し出した、良い感じの内装。店主は年輩と言っては失礼かも知れないが、中年の女性がお一人で切り盛りしている。 夕方の六時に駅前で待ち合わせていたのだが、武蔵野線の遅延で5分程遅れてしまった。お店に入ると既に常連と思しき御夫婦がカウンター席に、並んで座っておられた。このお店は、木・金・土の三日間限定での営業だと、前もって奥さんから伺っていた。あまり醜態は演じたくないと可成用心したのだが、常連客と後からお店に顔を出された店主のお母様との会話など、余りに楽しかったので、例によって後半は余りよく覚えていない為体(ていたらく)振り。支払いも、トイレに私が立っている間に、能村さんの奥さんが済ませてしまっていた。 ( 遺産を、たっぷりと頂いております ) との、奥さんのお言葉でしたが、私のつもりではこの払いはこちらでしたかったが、まあ、成り行きで仕方がない。 ここ迄は以前に掲載済みの部分です。令和と年号が新しくなった年も、今日で大晦日を迎え、また新たな年を迎えようとしている。今年一年の無事を神に感謝したいと思う。本当に有り難いことだと実感する。 一年だけではなく、過ぎ去った76年余の人生に、改めて感謝の気持ちを新たにしたい。善き両親に恵まれ、最良の伴侶に恵まれ、良き理解者を得、佳き子供達を得た。これ以上の幸せが人の一生として考えられない以上、私は全人類の中で最高の果報者だと確信している。終わり良ければ全て吉と言うが、始まり良ければ全てが良いのも、また真実であろう。 どのような未来が待ち受けているかは、知る由もないが、大地震が来ようが、戦争が勃発しようが、その他の所謂凶事・災難が降りかかろうと、何事も前世からの約束事と、昔の人のように潔く観念して、この世で生起する事柄は全て、起こるべくして起こる 嘉き事 と覚悟を決めておこう。 それが、真に神を信じることに直結していると、心底から信じよう。これが私のささやかな信仰の心構えである。
2019年12月31日
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最近のニュースで実に痛ましいと言うか、言葉に窮してしまうような出来事が連続して、起こっている。 刑務所に入りたいために殺人を犯した若い男。裁判で無期懲役を宣告されて、万歳をしたという。自分の狙い通りに死刑にはならず、死ぬまで刑務所で「安楽」に暮らせるからだと言う。 高級官僚を勤めた老人が厄介者の息子を包丁で数十回胸や首などを刺して殺した。自分が殺されると直感した、恐ろしかったので咄嗟に犯行に及んだと言う。 人間の世界では、当事者でなければ到底理解出来ないような事件が数え切れない程に起きている。犯罪者と同等の状況に立たされたなら、同様な怪事件を犯すことはほぼ間違いないのだが、同様な状況には絶対に立つことは出来ない。そもそもが人間としてこの世に生まれてきた諸条件が違うのだし、その後の閲歴も異なっている。それを、他者が様々な諸事情などを勘案して、裁く。死刑に値する。無期懲役だ。懲役何年だ、と言った具合に。 難しい仕事だから、法律等に詳しい専門の裁判官が所定の手続きに則って、裁定を下すのだが、最近では外国の陪審員制度を取り入れて、一般人が裁判に加わる制度が導入されている。 神は他人を裁いてはならない。裁くのは自分・神の仕事だからと言って居られる。道理であろう。人が自分と同じ人間をいとも簡単に裁いたり、断罪したりしている。 自分なら、あんな愚かな行動は取らない。もっと賢明で、公正な判断をして云々。 得てして、愚かで、極端に偏った判断力を有した者に限って、いとも気軽に裁決を下し、いとも容易く断罪する。歴史上の君主などと呼ばれた暴君たちが、そうしてきたように。つまりは、誰もが絶対的な権力を握ったと思い上がった場合には、決まってそうするであろうような 愚かな判断 に基づく、実に愚かな行動 を取る可能性が十分なのである。 つまり、愚かさの点で、人は生まれながらに平等であるのだろう。だからこそ、それゆえに、神という絶対の存在者が要請される必然性が生まれる。 人間は、私たちは、誰もが、何も本当のところを知らないし、知るときは遂にやっては来ないのだ。この事実を肝に銘じる必要があるだろう。肝に銘じて、忘れないでいよう。 ソクラテスの真の 謙虚さ を思い出そうではないか。多数決で死に追いやられたことも、同時に心に刻んで置こう、私も、貴方も、貴女も、誰もが。 ところで今日はクリスマスイブである。何事でも西洋由来のものを非常に有難がり、崇拝する傾向にある日本人であるが、ことに祭りごとに関しては、その本質的な意義などはそっちのけで、無礼講じみた馬鹿騒ぎに興じる。昨今ではクリスマスの大騒動はすっかり影を潜めた感がある。 自分の意に添わない者は厳罰に処する「神」よりは、非常に寛大で、慈愛に満ち満ちた聖人・サンタクロースに親しみを感じるのは、何も子供達ばかりとは限らない。 旧約聖書に出てくる神は非常に人間臭い。というよりも、当時の人々に理解が及ぶ範囲内で無限の神が限定された結果、そうなった、と言った方が正しいのだろうか。 旧約の完成として、人間の罪の償いとして贖罪の子羊としてのイエスキリストの出現は、そうした意味からも必然であった。しかし、異邦人として、時代も著しく相違する私には、聖書が暗示している神は、神として親しみを感じ難い。どうしても、極めて人間的な、世俗愛に近しいマリア様の愛情に、無条件で惹かれてしまう。丁度、母性に溢れてイメージされる慈悲深い観世音菩薩に、限りなく魅せられるように。 生きることは無限に厳しい条件下に置かれる事を意味しているのだから、その過酷さを裏側からそっと支えている慈悲心を期待してしまうのが、人間の本音であろう。基本の無慈悲さに、更に神の鉄槌が加えられてしまったら、私の如き懦弱で、優柔不断な凡俗は、恐ろしさに震えおののくばかりで、前へ一歩どころか、半歩を踏み出す勇気さえ持てなくなってしまう。 その私が、とにもかくにも大過なく生きて来れたのは、結果として絶対者、つまりは私の神が慈愛に満ち溢れ、優しさを惜しげもなく分け与えてくださっていた証拠である。間違いなく。 現代では特に、サンタクロースの慈善的な愛が、とても大切なものとして、私には感じられてならない。お互いに人間同士、暖かな愛情を示しあって、有意義な人生を希望を持って構築することができるなら、これに過ぎる幸せは無いのではなかろうか。
2019年12月24日
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旧約のレヴィ記を読み始めている。細かな神による祭祀等に関する取り決めが詳細に書かれている。が、現在の私には特別に関心を惹かれる事柄はない。 最近の世相などを見ていると、殺伐とした事柄が陸続と継起している様が相変わらずと言うか、この人間世界では見て取れる。数千年前にも同様の事態が生起していたのであろうか。もしそうであれば、キリスト教の神が、何々をするな、これはどうしろ、あれはこうしろ、と事細かに厳しく命じなくてはならなかった必然性が理解できる。人間たちは生まれながらに 無邪気 だったのであろう。とすれば、今もなお持って生まれた生来の無邪気さは変わっていないのだから、性懲りもなく、無邪気さを保持し、様々な悪と不徳とを繰り返して倦む事を知らないのであろうか…。 我々はとかく個としての視点から物事を見てしまうのだが、神としてはマスと言うか、種として生物を捉え、種族として「産めよ、増えよ、地に満てよ」と応援されたのであって、人より優れていたり、性格がより勝っているからと言って、殊更にその個人を賞賛したり、依怙贔屓したりするような、狭量な考えは持たれてはおらず、もっと大らかで、大きな立場からの采配を取られている。とすれば、人間は所詮ダメな作品であって、この世に生かしておくには値しないと、見切りをつけた際には、情け容赦もなく見捨てるに相違ない。そう感じさせるものが、一神教には秘められている。そう、今の私には感じられてならない。 仏教では仏の広大無辺なる心、慈悲心が強調される。無力な自己の力ではなく、慈悲心溢れる他力に依る救済と言うことが、説かれる。頼りなく、儚い存在者としての個は、絶対者による偉大なる力を待って救済され、成仏する。 殺人者も本心から己の罪科を悔悟する、その赤心によって救い取られ、浄土に生まれ変わることが、保証されると言う。この無際限な優しさ、それと対照的な一神教の神の厳父としての冷厳な程の徹底した厳しさ、酷しさはどうだろうか…。 しかし結局はこの両者は同じものなのではなかろうか。同時併存的に具備されている二つの性質。限りなく優しいが故に、途轍もなく厳格でもある。厳しいは優しい、なのである。 事細かく注文を出すということは、その分だけ際限もなく愛情を注ぎ、決して裏切らない真心の存在をそのままで示している。そう感じるし、事実そうなのであろう。 で、あるとすれば、我々、幸運にして現世での命を授かった者は、授かった命を、溢れるような生命力を、一個の生命体としてフルに享受しつくそうではないか。今を、この瞬間を完全燃焼させようではないか。 生きるとは、罪を犯すことと同義であるとすれば、所詮我々は罪を犯すわけである。しかし、それは進んで罪や悪徳を犯すことを意味しやしない。命の完全燃焼の為に、謂わば止むを得ずして犯すそれは、神や仏の御力を借りて、庇って頂くしか仕方がないこと。自分自身の行動としては、世のため他人のために最善と信じる道を見据えて、邁進するに如くはない。その結果で、踏み迷った悪路であるなら、甘んじてその償いは自己の至らなさ、愚かさの結果と受け止めることも出来ようから。 一個人として出来る事、可能なことは、現在ただいま今に全力を傾注し続ける。このことにしかない。我々に与えられているのは、永遠の現在、この瞬間しかないのであるから。 だからして、徒に過去に拘泥すまい、また、あすのことを思い煩うまい。今現在に我々の全てが託されている。その事の意味をよくよく噛み締めよう。 明るく、元気に、今を生き切ろう! 我々には 希望 という力強い羅針盤が与えられているのだから、その明るい灯火を頼りに勇猛果敢に前進しよう。改めて、そう心に誓う、願う、祈る。
2019年12月17日
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旧約聖書を読み進み、出エジプト記を読了した。 モーゼに語りかける神は、自らを嫉妬深い神と言う。そして、非常に人間臭い要求を次々にモーゼを通じてユダヤ人に要求する。まるで、強権を行使しようする人間の王者さながらの如く、私などには感じられてしまう。 これはどうしたことか? 唯一絶対なる神が唯一つ存在するとして、その絶対者が人間に語り掛ける時には、どうしても歴史的な、或いは地政学的な制約を受けた、ある特定な人間を選択して声掛けしなければならない。ここに人間化される必然性が生まれる。ここに人間の側の都合によるバイアスが持ち込まれる原因があるのであろう。謂わば神の側の妥協の産物として。 だから、神は人間化をしない限りは、人間に理解されることはないわけである。神殿を飾り立てる、神殿を宰領する神官を立派に飾り立てる。捧げ物を吟味する。皆、人間が神の心を忖度するところから発しているのであって、人間臭さが充満してしまう結果を将来してしまう、好むと好まざるとに拘らず。 だから、一般論として言えば、人間の数だけのバイアスが介在してしまう、神と私たちとの間の対話においては。 同様の事が、この拙文、私の自分自身との対話は、どんなにもがいてもあがいても、自己を通じての「私の神」の追求に帰結してしまう。つまり、私は私の肉体や精神を媒介にして、神を探るより仕方がないわけだ。できるだけ客観性や公正さを得たいと思って、バイブルを材料にしているわけであるが、それでも、他者という人間集団の歴史的に作り上げた 神の像 を、そこに見ることになっている。つまりは、人間理解の大きな助けにはなっても、神に直接接近する道ではないのである。 昨日、長男に電話で誘われて浅草でお酒を飲むことになった。序で、と言ってはまことに失礼な話になってしまうが、観音様に手を合わせて祈り、善男善女の一人として行動した。 お前は本心で浅草の観世音菩薩の御利益を信じているのか、と問われたら、半分信じ、後の半分は信じていないと答えるだろう。私の積りでは、自分自身と無心に向き合う、ちょっとしたチャンスとしているのだが、ほんの瞬間的な清涼剤の役割を与えて貰っている。そんな程度である。お賽銭は昔から五十円と決めている。心の中で唱える祈りの言葉は、本当は内緒にしておくのが良いのだろうが、もったいぶっても仕方がないので、吐露してしまうが、「よろしく御導き下さい、有難う御座います」と、お賽銭の高に見合った内容なのだ、と自分では思っている。 それと、誰に向けて発したら良いのか、感謝の気持ちを素直に表明するには、浅草観音しか無いというのが、掛け値なしの本音でもあるから。 偶像崇拝は無意味だと言う。しかし、この世に在るもので無意味なものなどあるだろうか。要は、それと対する人間の在り方こそが、問題なのではないだろうか。問題があるとすれば、それは常に決まって人間の側にあるのであろう。 心は形を求め、形は心を勧める。私を含めて人間とは実に弱いものである。頼りない存在である。窮すれば藁をも掴むであろう。それを笑うのは自由だ。しかし、今笑っている者が、次の瞬間には藁を掴む者に転じないと、誰が言えようか。 肉体も脆弱で儚ければ、精神に至ってはもっと、もっと頼りなく、力弱い。不動心などと、偉そうな言葉を口にするのはよいが、その通りに行ったためしは無いのではなかろうか。理屈ではなく、岩でさえ不動では居られないのだから、人間に不動心が根付くことは金輪際あるまい。 しかし、不動心を求める気持ちが芽生えるのも、極めて自然だし、それ故に人間的だ。 この脆弱極まりない人間存在を肯定することなく、神を云々する資格はないだろう。
2019年12月07日
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出エジプト記を読み進めている。神との契約という意味が少し解ってきたような気がする。 要するに、神も、そして人間も共に相手を必要とした。だからこそ、その両者のあいだに契約という行為が必然的に起こってきたのだ。契約においては当事者は対等の関係でなければならないから。 神の事情はこういうことだった。世界中に生存する人類の種族は、キリスト教が発生する当時には非常な数に上っていた。その信ずる神々も、従って無数にあった。自然神や偶像神といった形をとって。 その中にキリストの神は、謂わば新興の宗教神として自己を主張し、人間たち、つまりユダヤ民族からの確固たる信任を得なければならなかった。そしてまた、ユダヤ人もその苦難の歴史故に、生きる支えとして信ずるに値する真の神を見つけ出す必要があったのだ。 現代とそれ以前とを明確に区別する指標に個人主義がある。そもそも個人主義などとことごとしくあげつらわなくとも、私たちは皆生まれながらに自己本位の行動しか取れないのであって、それは良い悪いの問題を超越して先ずあるのだ。 個人主義などと言って無理やりそれを前面に押し出さなくとも、人は自己中心にしか考えも、従って行動もしないのであるから、それを矯正する行動原理をこそ、むしろ教えるべきなのである。 他人本位のそれと言ってもよい。その究極の到達地点が、神、つまり絶対者本位の思考と行動とである。しかし、所詮人間には絶対者の思考法など理解の埒外にあるのだから、みんなして手探りで少しずつその方向性を探らなければならない。 これが、これこそが、私の言う宗とする教え、本当の意味の 宗教 の意味するものなのである。 そしてまた、当時と言うか、一般に古代の宗教がそうであったように、キリスト教の神も人間生活の中心に据えられるべき最重要な、文字通りに宗とする教えを人々にもたらす存在であったから、単なる信仰の対象ではなく、人々の生活全般を支えるものであった。 何をすべきであるのか、そして又、何をしてはならないのか、憲法、法律、掟、その他諸々が神によって教え諭される。いや、命じられる。それに反すれば命さえもが奪われてしまう。問答無用でだ。 唯一絶対の教えとして、宗教があり、その中心に神が存在した。 これは今となっては二度とは訪れない、実に幸せな時代であったし、奇跡に近い事であった。 現代に何が一体必要かと言えば、こうした神との理想的な関係であろう。入口は各人の自由裁量に委ねられるべきであろうが、究極の対象は、文字通り唯一絶対なる存在者との、パーソナルで、ユニークな、それゆえに独創的な問いかけのみ。答えは、人間には理解不能だと諦めつつも、尚且つ問いかけずにはいられない、真剣そのものの心の在り方なのではあるまいか……。 人間の為すべきことなど、それこそ単純で明快な事柄でしかない。殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、人のものをむやみに羨み、嫉妬するな、云々、かんぬん。 現代の教育に何が欠けているか。これも単純にして明快そのもの。宗とする教えの獲得への真摯なる追求。その心構えや、基礎的な知識を与えること。不可知な対象への真摯にして敬虔な尊崇の念を涵養する一事に尽きるが、行動は至難であるから、先ずは共に学ぶ姿勢が大切であろう。 だからこそ、初心に帰って、ソクラテスに倣え、釈迦に学べ、孔子を見よ、そしてイエスの人生を深く見つめよう! 近代の標榜する個人主義など、何のことはない。ことごとしくあげつらうまでのこともないこと。何故ならば、人は生まれながらにして個人主義で行くしか他に生きようがないのであるから。 私は教育の根本は 一種の他人主義 にあると思う。他人主義の究極にある神・仏・絶対者の意向を正しく、真正面から受け止める手法を徐々に、各自が銘々のやり方で、少しずつやり遂げること。 しかし、絶対者の意向・意思などと言っても、それを理解し体得することは、不可能である。不可能と知りつつ、尚且つそこにたどり着こうと懸命に努力を続ける。それこそが宗とする教えの奥義であり、根本なのだ。 そして人類は既にその確かで確実な入口を手にしてもいる。入口さえ間違わなければ、あとは時間と、従って努力の集積の問題だけだ。人間の一歩は、絶対者から見て、何ほどのこともない。ゼロに限りなく等しいのだから。入口に全てがかかっている。 ソクラテスを入口にするのもよい。釈迦でも、孔子でも、イエスキリストでも、正真正銘の入口でさえあれば、問題はないのだ。後は、各々の心を、自我という堅い 腫れ物 を正しく打ち破って、脱皮すれば宜しい。個人イコール絶対の法則に素直に従いさえすればよい。 ここでも、言うは易く、行うに難いという原則は徹頭徹尾に付きまとうのであるが、案ずるよりは産むが易しと心得て、虚心坦懐に行動するに如くはない。下手な考えは休むに等しいと心得れば済む話だから。
2019年12月03日
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