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この世で最も美しい物達こそ、繁栄に繁栄を重ね、次々と栄えて行って欲しいと願うのが人と言うもの。君は美の中の最上のもの、この世の誰もが、憧れ、慕う、それこそ光源氏もそこのけの美々しさとアロマをさりげなく身に着けて、颯爽と風を切って街を闊歩する時に、女たちの視線が君の姿に殺到する様は、春の花の象徴薔薇が得も言われぬ芳香を放ち、その香りに誘われて群がり寄る虫たちそのものだ、君はもしかして紫水晶を凝視したことがあるだろうか、眩いばかりの玄妙な光彩は、人の心を蕩(とろ)かす如くに魅惑して、不可思議の世界へと誘(いざな)うのだが、君の美しい瞳から発せられる魅惑に満ちた光は、遥かにその上を行く、一度君の視線の光を少しでも浴びたならば、誰もが幾千万光年のかなたの蓬莱仙の峰に魂を遊ばせるに相違ないのだ。僕は君に結婚を勧める、君に相応しい見目麗しい乙女と周囲のみんなから祝福を受けて、そして君たちに相応しい世継ぎを生んでくれたまえ、その世継ぎを大切に育て上げ、君が年老いた際に、君がいかに美しく、この世を飾り、女達を有頂天にさせたかを記念するメモリアルとして残すのが、僕の勧める結婚の意味合いなのだ。君はもしかして、若さと美貌とが永遠に持続するなどと考えてはいないだろうね、光陰は矢の如し、玉̪の肌(はだえ)も一夜にして衰える教えを忘れないようにしようではないか、兎角美質を生まれながらに豊富に備えている佳人と言うものは、己を正当に評価出来ず、知らずして大切な宝物を粗末に扱う傾向にある。御自愛下さい、自重なさって下さい、わずかしか天賦の美質を持たない者は傍から何も言わなくとも、その僅少を後生大事に大切に守ろうと努力するものだが、若い浪費家さん、君は惜しげもなく「金銀財宝」をも蕩尽し尽くそうと努めるかのように、「散財」に、これ努めて、明日の事など歯牙にもかけないのだ。それが又、君の長所でもある。美女達もそんな君が益々好きになり、虜になってしまうのだ。僕も嘗ては若かったが、年老いてなお結婚せず、従って僕の正当な子供はこの世にない。ああ、世界一美しい薔薇の花よ、賢明な行動をとり給え。そして、悔いのない安らかな老年を迎え、世継ぎとともにこの世での栄(さかえ)を寿ぐべきなのです。 以上、シェークスピアの有名な十四行詩の最初の聯を、私なりに、創作翻訳してみたものですが、これは実は原典とは何の関係もない、私の勝手な妄想を書き綴ったものにしか過ぎません。従って、沙翁のソネットを読みたいと願うお方は、拙訳はもとより、市販の翻訳を読んで済ますことは厳禁であります。なぜなら散文や論文ならともかくも、韻文の翻訳は、その性格上不可能なのであります。 一国の言葉は、様々な他の言葉とともにあって、長い歴史を背負っているものです。一対一の対応と言うものはありませんで、様々な響きやニュアンスの違いを有し、辛うじて「意味」だけが近似であるだけにしか過ぎません。意味などと言うものは、そもそも文学作品にあっては、それこそ重要な意味を持ち得ていません。How つまり、如何にが全てであります。如何にでは、言葉の音韻が非常に重要である事は誰もが知る所でありまして、例えばクルアーンが他国語に移し換えられた場合には、それはもうクルアーンではないと言われますが、宜なるかなと素直に同感できます。意味など少しも解からない外国人でも、遠くから聞こえて来るクルアーンの音の抑揚や妙なる響きは、アッラーを無条件に信じさせずにはおきません。人は皆、何物かを信じ、頼りたい存在でありますからね。 また、翻訳の問題に戻ります。音韻が最大の要件である歌声の場合に、藤圭子やちあきなおみ、又、美空ひばりの歌声の素晴らしさを、音声抜きで誰かに伝えようとした際に、それが可能だと思う人は皆無だと思いますが、それと韻文の他国語への翻訳不能は同様と御理解頂きたいと思います。 そこで、不可能を承知の上で、敢えて翻訳を敢行する語学の専門家は、意味を、移植可能な部分として中心に据え、その難事業を遂行せざるを得ないのです。 私の様に、どの分野でもプロフェッショナルでない、ずぶの素人は、危険を冒さずに、勝手訳という極めて安全にして、はた迷惑ではない道を切り開き、後は興味を感じた人だけを「原文・原典の奨め」へと誘導する。これ、我が事ながらベストであると自画自賛頻りなのでありました。 シェイクスピアがこのソネットで読者に訴えているのは、自分の心の中には高貴な愛の精神が常に存在しているとの主張が、ここにはある。詩人は常に愛の確立を目指し続ける。自分の愛がどんなにひたむきで、どんなに不変なものであるかを、切々と語るのだ。 朝顔や つるべ取られて もらいひ水 ( 加賀千代女 ) 貰い水とは、現代では考えられない事ですが、井戸を主たる飲み水の本としていた江戸時代の生活で、朝顔の蔓(つる)が巻き付いた釣瓶をそのままにした優しい乙女の心情が、どこかほんわかと伝わり、心がないとされる植物と、人との魂の交流が現実に行われるさまは、実に感動的であります。燃え滾る如き熱情も素晴らしいのですが、淡彩で描いた水彩画の様な淡く、仄かな情愛も又、捨てがたい情趣を湛えて私たちの心を和ませてくれます。激しい愛情の表白を油絵とすれば、爽やかで淡々とした日本画の世界も又非常に魅力あるものでありますね。 「 また逢う日まで 」 また逢う日まで 逢える時まで 別れのそのわけは話したくない なぜかさみしいだけ なぜかむなしいだけ たがいに傷つきすべてをなくすから ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して その時心は何かを話すだろう また逢う日まで逢える時まで あなたは何処にいて何をしてるの それは知りたくない それはききたくない たがいに気づかい昨日にもどるから ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して その時心は何かを話すだろう ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して その時心は何かを話すだろう 尾崎紀世彦の一世を風靡した有名な曲ですが、私にとっても生涯で忘れがたい思い出の一曲であります。ある人との別離を思い出させるから、詳しい経緯などは省きますが、人生とは出会いの数ほどに別れが伴うもの。縁あって出遭った者は必ず、再び悲しい別れの時を迎えなければならない。出会いの時を、大切にしたいと、しみじみと想うのです。 「 惜別の歌 」 島崎藤村 遠き別れに 耐えかねて この高殿に 登るかな 悲しむ泣かれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ 別れと言えば 昔より この人の世の 常なるを 流るる水を 眺むれば 夢はずかしき 涙かな 君がさやけき 目の色も 君くれないの くちびるも 君がみどりの 黒髪も またいつか見ん この別れ 君がやさしき なぐさめも 君が楽しき 歌声も 君が心の 琴の音も またいつか聞かん この別れ 「 小諸なる古城のほとり 」 島崎藤村 小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべはは萌えず 若草も藉(し)くによしなし しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る あたたかき光はあれど 野に満つる香(かをり)も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し 旅人の群れはいくつか 畠中の道を急ぎぬ 暮行けば浅間も見えず 歌悲し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む 「 千曲川旅情の歌 」 藤村 昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命なにを齷齪 明日をのみ思ひわずらふ いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて 河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る 嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ 過ぎし世を静かに思へ 百年もきのふのごとし 千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり ただひとり岩をめぐりて この岸に愁ひを繋ぐ 昔の人は、黒を美の代名詞とは看做さなかった、だが私の思い人はダークレイディー、美人とは決して言われぬ、だが今の私にとっては掛け替えのない恋人、彼女との逢瀬はさながら天国に遊ぶが如し、魂は地上を遊離して遥かなる天空に遊ぶ、あの澄んだ黒い瞳に射すくめられたならば、男は誰でも忽ちにして霊(たま)無しの木偶の坊と化し、手もなく夢遊病者の如く、或いは催眠術師に掛った人そのものに成り下がってしまう。ああ、黒の女よ、闇の中で男を手玉に取る妖女め、昨夜も床の中で手練手管の限りを尽くしてどこかの男を腑抜けにしてしまったらしい。待ちぼうけを喰らったこの私は、地獄に堕ちた欲情の亡者となり果てて、様々な責め苦にもだえ苦しんだと言うのに、今日になればもうあの憎き罪の女を自分の方から先に許し、贈り物を何にしようかなどと、頼まれもせぬのに、あれこれと考えては、時間を空費するのに余念がないのだ、馬鹿な奴め、意気地なしの玉無し野郎、虚仮脅かしの案山子奴、ど腐れ紳士の成り損ないめが、ああ、闇の女よ、修羅の貴婦人よ、一刻も早く私に嘘の恋文を届けて、またいつもの如く騙してはくれまいか、他の伊達男の胸に抱かれるお前を想像するよりも、その方が私のうじゃじゃけた精神はまだしも、平常さを保つことが可能なのだから。 序と言っては何ですが、全部で154聯ある沙翁のソネットの127番目の聯を拡大解釈して、創作してみました。私の妄想の「詩」に失望などなさらずに原典に直接触れる努力を惜しまないで頂きたい。文学作品は一日にして自分の物とは成し得ません。弛まぬ努力こそが必要なのです。 今の若い人に、是非とも刻苦勉励とまでは言いませんが、額に汗する苦しみと、楽しみを是非とも体験して頂きたく、私もなけなしの才能を傾注して「恥」をかいてみました。努力は必ず報われる日が来ます。どうか、自分に与えられた限りある時間を有効に生かし切る努力を惜しまないで、後からやって来る後輩達に良い手本を残して見せてやりましょうよ。
2021年02月24日
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国破れて 山河あり 城春にして草木深し 時に感じては 花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを怨ん では鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり 家書萬金に抵(あた)る 白頭掻けば更に短く 渾(す)べて簪に勝(た)えざらんと欲す 杜甫の代表作の「春望」です。学校の教科書などにも載っている程ですので、現代語訳は省略します。 俳聖の松尾芭蕉の、「 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 」はこの詩の影響を濃厚に受けて、芭蕉が異国の詩人に如何に尊敬の念を払っていたかが知れます。 所で、私には女の姉妹が二人、姉と妹が居ります。姉は数年前に脳梗塞を患い、半身不随と言う災難に見舞われていますが、健気にリハビリに明け暮れしています。 妹は、既にこの世に亡く、寂しい限りであります。 扨て、何故この姉妹を此処でわざわざ取り上げるのかは、私の御喋りが過ぎて、何だか私が世界一女性から持てたかの如くに錯覚する記述があったからでしょうか、いいえ、そうではなく、私はもしかしたら世界一の女好き、と言うよりは無類のフェミニストたる所以を、御説明しておきたいと考えたからであります。 姉とはわけ有ってずっと別々に暮らしたのですが、時折は顔を合わせて、一緒に映画を観たり観劇したりした仲でした。映画と言えばかつての銀幕の大スター・美空ひばりが姉にそっくりで、密かに心の中で自慢にしていました。 妹とは長く一緒に暮らし、近所の奥さんから「まるで恋人同士の様に仲がよい」と褒められた程に仲良しでした。 以前にも書いたのですが、私の身近にいた女性はことごとく美人で、聡明で、気立てが良い人ばかりでした。その為に、私は無意識のうちに、女性とは皆がみんなそうなのだと、頭から信じ込んでいた節があります。無類の女好きの誕生には、こんな事情が存在した。 所で、またまた艶聞に類する御話で恐縮なのですが、或る大物の女優さんから告られた経験がありまして、その事を少し吹聴しておきましょう。 なつかしき 瞬間(とき)かな君は さりげなく 心を込めて 熱情(こい)を語りぬ ( 克征 ) 詳しい事はプライバシーに関わることですので、御話し出来ませんが、これも作り話ではなく、実際の体験です。その他にも、ある有名な女性マネージャーさんと「恋仲」との噂も立ったりしています。そして、序に言えば、あの樹木希林さんからサインをせがまれた体験談もあります。どうやら、当時人気絶頂だった逸見政孝アナウンサーと勘違いされた模様ですが、お嬢さんが逸見さんの大ファンで、そのお嬢さんの為に一肌脱ぐ気になったために、こんな珍現象が出来したのでありました。所で、何故、この様に不思議な現象が私に起こり易いのでしょうか? 一つには、相手の美点に直ぐに惚れ込み、入れ上げてしまう質(たち)だからだと思います。但し、入れ込むと言っても恋情ではありませんで、人間一般に対しての強い愛情なのですね。しかしながら、相手は必ずしもそうは受け取らない。まして、若かったり、美人だったり、チャーミングだったりして、しょっちゅう異性から注目を浴び、関心を集めている有名人だったりすれば、なおの事恋がらみの愛情と勘違いすることでしょう。 もう一つ、私は「女性が口説けない」性質なのであります。古風というのでしょうか、何も感じない相手には極めてフランクに、率直に長所を褒めちぎったりする癖に、特に女性ですと「好意」を感じた瞬間から自分の気持ちを強く意識し過ぎて、むしろ心理的に距離を置いてしまう。これが「誤解」を受ける原因ではないかと、自分では思っているのですが、どうでしょうか。兎に角、余程ひどい出会いででもない限りは、犬や猫にも愛される、素直な、気取りのない人柄であることは、間違いのない事実でありましょう。 さて、またもや今朝がた、夢の中で「啓示、もしくは諭し」を受けましたので、それについて書こうと思います。夢の中で、年配の御婦人が「社会的不価値に常に触れている必要がある」と言った、あまり耳慣れない言葉を発しているのを、私は聞きました。夢の中でも、どういう意味なのだろうか、と不審に感じましたので、夢から覚めたあとでも、印象に残ったわけです。 そして、ふと、そうか、姥捨て山のことだな、と思ったのです。これからはこの夢に基づいた私の勝手な解釈ですので、出来れば参考になさって頂き、もっと良い理解が可能でしたら、御教え下さい。 私は、不価値を無価値と受け取った上で、社会的に無価値と化した、私を含めた老人達の存在、に対して若者を中心にした多くの人々が、常時触れたり接触を保ち、関心を持ち続ける事が社会にとって有用であり、必要である。そう読み解いた上で、一般論としても、これは大切なことだなと思いました。 老人に限りません、今現在の社会にとって不要な物であっても、それは嘗て必要であり、有用であったのに相違ないのであって、この世で不必用な物など何もない道理であります。 近代国家に、例を取ってみれば、殺傷兵器を中心とした武力や防衛力は最小必要限度の範囲において必要とされています。所が、我が国の平和憲法は近代としては異例な、専守防衛を宗として、周辺国の善意を専ら尊重する最大限に好意的な信義を重んじて、国是とする人類史上に例を見ない、人間観を採用しています。理想としては最高に素晴らしく、申し分のない態度であります。しかしながら、現実問題としてこれで安心していられるのか、そうなると必ずしも意見は一致しないでありましょうし、むしろ、危険だと感じる方が多いのではないでしょうか。と言うよりも、私などは、不安で仕方がありません。人間と言う動物は、個人でも、集団でも油断がならないものと相場が決まっています。アメリカを相手の戦争にたった一度だけ負けたからと言って、その根本的な人間観を百八十度転換してしまって、よいものでしょうか。はなはだ心もとないものであります。 攻撃は最大の防御だと言います。これは永遠に真理だと思います。この最大の防御を、自らの手で封じる。よほどの自信の表れか、相手をひどく見くびっての事としか、私には思えません。じゃあ、どうすればよいのか? それを論じよう為に、この問題をここに持ち出したわけではなく、国家のあり方として、常識的な知識と見解とを、取り敢えず持とうではないかと、極めて当然の提案をしたいだけであります。 今はコロナ禍が地球上を席捲して、留まるところを知らない状況が続いています。病原菌との戦いは人類が生存する限り続くでありましょう。私は医学の専門家ではありませんが、一番基本の対策は、人体の一般的な免疫力を高める事が肝要でありましょう。莫大な予算を投じての薬剤の開発や予防医学の発展を図る事は、もとより必要でありましょうが、身近な予防策は、各人の健康増進という素朴にして、確実な手段を心掛ける事が第一でありましょう。 人体の免疫力アップと、国家の防衛力の問題、どこか似ていないでありましょうかね。私は、この世に不必要な物など無いことを強調する為に、国家と防衛の問題を例に挙げただけでありますから、これは、この程度にとどめておきましょう。 「 ある女の詩 」 雨の夜来て ひとり来て わたしを相手に 呑んだ人 わたしの肩を そっと抱き 苦労したネと 言った人 ああ あなた 遠い遠い日の わたしの あなたでした 生きる哀しさ 悦びを わたしに教えて くれた人 グラスを置いて 手をとって 痩せた手だねと 泣いた人 ああ あなた 遠い遠い日の わたしの あなたでした 俺の命は 君にやる わたしに嘘を ついた人 死ぬほど好きと 言いながら いつか遠くへ 消えた人 ああ あなた 遠い遠い日の わたしの あなたでした 「 カスバの女 」 涙じゃないのよ 浮気な雨に ちょっぴり この頬 濡らしただけさ ここは地の果て アルジェリア どうせカスバの 夜に咲く 酒場の女の うす情け 歌ってあげましょ 私でよけりゃ セーヌのたそがれ 瞼のみやこ 花はマロニエ シャンゼリゼ 赤い風車の踊り子の いまさらかえらぬ 身の上を 貴方も 私も 買われた命 恋してみたとて 一夜の火花 明日はチェニスか モロッコか 泣いて手を振る うしろかげ 外人部隊の 白い服 「 雨に咲く花 」 およばぬことと 諦めました だけど恋しい あの人よ 儘になるなら いま一度 ひと目だけでも 逢いたいの 別れた人を 思えばかなし 呼んでみたとて 遠い空 雨に打たれて 泣いている 花がわたしの恋かしら はかない夢に すぎないけれど 忘れられない あの人よ 窓に涙の セレナーデ ひとり泣くのよ むせぶのよ さてさて、必要と不必要の話を続けます。この世には不必要な物などは存在しない。不必要だとは、「全体」を俯瞰出来ない部分がそう勝手に判断しているだけであります。此処で言う、部分とは個人であり、一つの社会であり、一国であり、一つの時代であり、全宇宙の中の銀河系であり、さらに言えばビッグバンに始まり膨張を続けている「私達の全宇宙」であります。それでは、「全体」とは一体何物か。全体とは確実に存在するけれども存在を証明することが出来ない、或る物を意味します。人はそれを神と呼び、絶対者とも称しますが、その意味する所は必ずしも私が今申し上げている「全体」を指していないで、むしろ部分の方により近い。 そして、存在するあらゆる物は、霊魂を含めて、全体が欲したから存在する、「在る」のですよ。だから、たまゆらの存在でしかない一人間が「不必要」などとほざく事自体が不敬の極み、罰当たりの最たるものと、全体に成り代わって断じておきますよ。
2021年02月22日
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「往生要集」は、比叡山中、横川の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に浄土教の観点から多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書である。 後世から見る時に、源信のこの本は日本の仏教を密教から浄土教へと変化させた画期的な著作であり、その「死のロマンチシズムが平安貴族の心を捉え、魅了し尽くしてしまった」と言えるので、「源氏物語」もまたこの思想の絶大な影響下にある。 無常と苦と言う、この世界に対する嘆きは、現在もまた基本的な条件としては変わっていない。私、草加の爺の如き臍曲がりな人間は、娑婆世界という「苦海」をアップアップしながらもどうにかくぐり抜けて、今日只今では居ながらにして、つまり、何の苦労もなく「極楽浄土」に遊んでいる。つまり、人生の戦場という修羅場に従軍記者として従事した、一人のジャーナリストとして、見聞した惨状を、一命を賭して勤め上げた報奨金替りに、思いがけなく手にした褒美が、即身成仏の術としての、即身浄土遊泳の術の体得なのでありました。つまり、楽だけして貧乏生活を押し通しただけではなく、私なりの決死の苦闘が代償として要求されたのでした。その中で、普通の人からすれば、特権階級にだけ許された贅沢三昧という貧民には相応しからぬ大盤振る舞い的な境遇にも、「止むなく」押し上げられた「栄華の時」も少なからずあったのでした。 はっきり申し上げて、私には「往生要集」は必要のない書物であります。しかし、例えば、平安貴族が必要とし、絶対的な信仰心を喚起した有り難い宝書を、現代に生きる貧乏人の小倅如きが偉そうに、自分には必要ない、などとほざく事が一体許されるのか、許されると考えるのですが、その理由を探ること自体は決して無駄ではないと考えます。 そう考えますので、私流の「仏教談義」を少しばかり開陳してみようと思います。 お前の、素人談義など聞く耳持たぬとお考えの向きは、遠慮なくパス、スルーして下さい。 さて、私はその第一の理由を、私が人の忌み嫌う「貧乏神」の思われ人であるからと、規定してみましょう。大多数の人は、と言うよりも、この世に生を受けた者は一様に「死」を唾棄すると同様に、貧乏であることを忌み嫌います。それも、道理であります。何を隠そう、かく申す小生も死と貧乏は大、大、大嫌いであります。しかし、運命の悪戯と言うのでしょうか、私程に貧乏神に愛された者は、一種の突き抜けた開き直りの根性が芽生えて、気がついた時には、貧乏状態を密かに愛している事実に、気づかされていた。貧乏の効用とでも申せば良いのでしょうか。貧乏も悪くはないな、どころか、貧乏ならではの憂き世の風の感じ方とでも言うようなものが、はっきりと我が身に備わっていた。 死に関しても、同じような経験を持っています。私は実は、実際に数えてみる事のできる範囲だけでも、五六回はまさに死の鼻先まで行って、神仏のご加護によって、救われているのです。 生も救いの一種でありますが、実は死も救いなのであります。最近は身近に蚊や蠅がいなくなりましたが、昔は手の平の一襲で、或いは、ハエ叩きの一撃で、虫たちは「八苦の娑婆の苦役」から解放されることが出来た。生も死も自覚できない無明の中で、瞬間に生から死への切り替わりが可能ならば、こんな果報、後生楽は無いでありましょう。 虫達の死を「救い」と考えることが可能ならば、同じ生命を持つ人間の死もまた、理論的には少なくとも神仏の救いの手が差し伸べられたのだと、考えていけない理由はない。現に、死の全部とは言わないまでも、多くの「無駄死に」と見えるそれが、そう解釈した方が、それこそ本当の救いになるケースが見られるのは、否定出来ない。 私達は、私達に限りませんが、命ある物全ては、他の命を自分の体内に取り込み、食料としなければ、己の生を維持できない仕組みになっている。つまり、他者の死が現に生きてある生を支えている。死なくして生は成立しない。同様に、死は、初めに生が存在しなければ、存立し得ないわけだ。死があるのは生の賜物なのだ。この辺の関係を、深く、仔細に凝視する必要があるのだが、それは通常仏道の達人が厳しい己事究明の修行を経た際に、獲得できる究極の境地である。個人の身体を全体と規定したとき、個々の細胞は目まぐるしい滅(死)と再生とを繰り返し、全体の生命体を存続させる営みに余念がない。個人は常に全体の為に己を殺さねばならない。それでこそ、個としての存在意義を主張できるのだ。だから、個人主義は絶対的な見地からは、迷妄であるとみなさなければならない。この全宇宙は、全体である。全体は常に、何時いかなる場合でも、全体を主張し、全体の主体性、正当性を獲得する義務があるのだ。 人間界の「全体主義」が誤謬である所以は、真の全体ではなく、単なる部分でしかないないものが、無理矢理に自己を場違いな身分に祭り上げて、馬車馬の如くに疾走しようと目論むからである。 つまり、死と生とは相互に相手を保証し、支え合う密接な関係にある。と、私如きが御大層に主張しても始まりませんが、実はこれ、私の創見などではなく、偉いお坊さんの受け売りでありました。 真理は、例え地上に落ちた木の葉が語ろうと、真理であることに変わりはないわけでありまして、当然に私如きボンクラであっても、私流の流儀で偉大なる法・普遍の真理に到達して、それを語る資格は有している理屈になる。人間の長年の宿願とでも言うべき「永遠の命」と言う夢も、実は個人単位では永遠に達成不可能であるが、生命体全体として考えれば、既にとっくの昔に実現されてしまっている。この点から言っても、個人主義の思想は全くの誤りだということがわかる。 仏教では言うではありませんか、一は億千であり、億千は一であると。驚くべきことに、個は既に全体を身内に抱え込んだ存在であり、個にして全体であると言う不思議が、現実でははっきりと顕現しているので、見える人にははっきりと見えているのだ。 世の中を 憂しとやさしと思へども 飛び立ち兼ねつ 鳥にしあらねば(― この世の中を生きるのが、耐え難いほどに辛く、その為に身が細るほどに耐え難いと感じているのだが、この地を飛び離れて、どこかへ飛んで行ってしまうわけにはいかないのだ。あの大空を飛んでいる鳥たちが羨ましい、鳥になって天上にあると聞く天国にまで飛翔して行きたいのだがなあ、ああ、この身は残念ながら鳥ではないのだった) 御存知、万葉歌人の山上憶良の今に通じる嘆息が、自然なリズムに乗って、説得力のある名歌となっている。 人の世を 嬉し楽しと喜びて 吾はいながら 極楽人よ ( 克征 作 ) 薔薇の木に 薔薇の花咲く なにごとの不思議 なけれど。 苦悩は 我が霊魂を 光らしむ。 自分の弱さを 心から知り得た時 人は真から強くなる。 上の三行は、明治の詩人・北原白秋の言葉から抜粋したものです。 莫迦なりに 人は善き事いたすなり 平凡ながらに 不思議発せり 歓喜は 人々のオーラを 彌が上にも 輝かせる 自分の強さを 心底信じたとき 人は最も美しくなる 以上、例によって、敬愛する詩人にして歌人たる白秋へのオマージュとして、「反発」の言葉を発してみましたよ。 そもそも、死への認識なり、態度が違っていれば、当然に生への対処の仕方も違ってくる道理であり、個人とはその生まれた時代や周囲の環境によって、様々に影響を受けて常が保てない存在であります。 生をこよなく愛おしみ、愛惜する反面で、醜い世相や人間悪に思わず面を背け、人間としての美しい可能性を開花させきれずにいる、多くの人々に申し上げたい。先ず、自分の身近な所に出向いてみよう。一歩でも場所が変われば、目に見える風景も自ずからに、変化を見せ、するとそれに呼応して心の持ち方や、感情も大きく変わるかも知れないのです。 時代が変われば人の心の持ち方も、それと知らない内に移ろう。風に吹かれれば、思わず鼻歌なども飛び出すかも知れず、無闇に案じてばかりでは、気ばかりが滅入ろうというもの。 藤圭子 の 「 命 火 」 いのちびよ 誰を頼って生きりゃいい 夜の東京は寒すぎる 恋をして傷ついて 想うは母のこと 夕焼けのふるさとが まぶたを又よぎる いのいびよ 明日という日は来るかしら いのちびよ 人は家路をなぜ急ぐ みんなおんなじ顔をして 雨の日は酒を飲み 陽気に騒ぎたい 知っていてふさぎこむ ギターは嫌いだよ いのちびよ 故郷の歌でも歌おうか いのちびよ 肌にタバコを押しあてて 愛の未練をちぎりたい 人の世のしあわせを なんども追いかけて つまずいて又あるく 女の遠い道 いのちびよ 生きてゆくってなんなのさ 先日、テレビで久しぶりに又、再放送で藤圭子の歌を聞いて、日本一の銘酒にでも酔った如くに、熱中して聞き惚れました。普段は夜の十時には決まって寝床に潜り込むのですが、あの時は、陶酔境に遊ぶ夢見心地で、いい時間を過ごさせて貰いました。 私にとっての極楽往生とは、こんなひと時を体験して、うっとりとして、娑婆の憂さを忘れる瞬間に体験するもので、命火を鬼気迫る迫力で熱唱する美人の顔にチャームされる侭に、時間があっという間に過ぎてしまいました。本当に有り難い事と、藤圭子の亡き霊魂に対して深甚なる感謝を捧げたいと想うのでした。言葉とは、人間の声というものは実に素晴らしいものだと、しみじみと感じたのです。 天国は遠い天上にあるとばかりは限りませんで、私の場合などは、この地上の汚辱に塗れた巷の只中にこそ出現するものであります。出現の仕方はあたかも蜃気楼、空中楼閣の如くでありますが、私の浄土・極楽は確固たる地盤の上に構築される、華麗なる建築物のようであり、その種類もほぼ無限でありますよ。修行を積んだり、難しい法典を刻苦勉励して読み解く必要もない。何気ない日常生活を、真面目に、正直に送ってさえいれば良いわけでありまして、この私の如き平凡人に可能な「不思議」なのですから、心掛けのよい心の貴族であったなら、上々吉の福夢さながらの楽土が、居ながらにして体験出来ることは誓って請け合いです。
2021年02月18日
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サン・テグジュ・ペリの「星の王子」に就いて書きますが、今回改めて読み直したわけではありませんで、嘗ての読後の印象を確認する意味で、スマートフォンで粗筋などをたどってみたに過ぎません。 最初にこの話を読んだのは、国際放映という会社に、同期で入社した中山和記から勧められての事でした。中山は非常に優秀で、且つ又、飛び抜けて優しい男でして、色々と優しくして貰った記憶があります。 少し前に書いた「私の恋懺悔」で触れた二人の女性は、彼、中山の紹介でした。不幸な結末になってしまいましたが、私は勿論の事、お二方共に非常に真面目に、真正面から私と向き合って下さった。従って、後味は少しも悪くありません。ただ、K M さんに関しては、少しばかり残念の感は未だに残っています。K M さんのその後の人生がお幸せであることを、心より願っております。同時に、私がわざわざ彼女の幸福を願わなくとも、あんなに素晴らしいお方が、不幸に成るはずはないと確信はしているのですが、それでも、尚且つ案じられてしまうのは、なぜでしょうか? 兎に角、ご縁が深かったチャーミングな女性ですから、この世での御多幸を願わずにはいられないのですよ。 結婚直後に、悦子に彼女との事を話した際に、「私は、その方の替りだったのね。その方の分まで私は克征さんを幸せにして上げなくてはいけないし、私自身もその方の分も含めて幸福にならないと、いけないわね」と言ったのが、とても印象に残っています。 さて、星の王子様のことですが、私は万年、精神年齢十歳を自称しておりますが、私自身が娑婆という砂漠に迷い込んだ「星の王子」だと思っています。但し、私の星が大空に輝く星のうちのどれだったのかは全く記憶がありません。従って、地上での旅を終えたあとで、何処へ帰るのか、行くあてはありませんので、悦子が胸躍らせながら待っているであろう、天国の星に同居させて貰うつもりで居ります。 それは多分、遠い先の話で、今現在の 星の王子・ Le Petit Prince の心境などを述べておきたいと考えます。 私は今現在、絶好調でして、自分で自分が怖いくらいであります。悦子のいない今、コロナ禍で世界中が大騒ぎしている暗い時に、何でまあ「罰当たりに」一人だけ燥ぐ必要があるのかと、自分でも不思議なのですが、「私の神様」が特別に授けて下さっている故に、それなりの理由があってのことと、謹んで拝受致しておるわけであります。 昨夜、近所の居酒屋「車屋」で家族で飲んだり、食べたり、盛大に楽しんで来ましたよ。 車屋は 菩薩 観音共々に 吾らを饗す 海山の幸 ( 克征 作 ) 良心的な値段で、一流料亭並みの料理と、素晴らしい雰囲気で顧客を饗応する、草加で一押しの居酒屋でしょうか。フジテレビの能村庸一氏が生きておられたら、毎晩でも通いたいときっと仰ったに相違ない実に庶民的な、それでいて高級感の漂う、通好みですから、言うことありません。 序でにと言っては何ですが、このお店を発見したのは私の次男の嫁でして、この女性がまた実にお酒と美味しい料理に目がないという、通人振りを発揮してくれていて、最近の私を元気づけてくれています。 義理チョコを 口いっぱいに ほうばれば 幸せ法悦 身内に満ちる ( 克征 作 ) 私は現役サラリーマンの時に、商売柄でホステスさん始め、山の如くに義理チョコを頂戴していますが、今回、嫁の菓(このみ)さんから貰った日本酒入のボンボンチョコ程に美味しいものは、生まれて初めてのものでした。感謝、感謝であります。 幸福は 身近にあった 嬉しさよ 努力もせずに 極楽に居る ( 克征 作 ) 嬉しさは 自然の中に 幸来る 老いても楽し 生きてある ( 克征 作 ) 白鳥(しらとり)は かなしからずや 空の青 海のあおさにも 染まずただよふ 幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなん国ぞ 今日も旅ゆく 御存知、若山牧水の絶唱でありますが、草加の爺の今の心境にはかなりそぐわない孤独と、生きる悲しさが氷付いた如き心象風景であります。若かりし頃の私には非常にぴったりと来ていたので、今でもなんの苦労もせずに、瞬時に口を衝いて出てくるほどに、心に染み付いている。 海鳥は 嬉しと知りぬ 空に雲 水面に波の 花咲くを知り 幾たりの 佳き人と遭い 契りしか 嬉しさのみぞ いや勝りゆく 上の二首は牧水への私の、老いた星の王子の、オマージュとして捧げる、ささやかな「反抗」の歌であります。素人が即興で詠んだものですから、措辞の稚拙は御容赦願い、御嘉納頂ければ幸いであります。 犬猫も ともに遊べば 楽しいな 生きる仲間で また嬉しいぞ ( 克征 作 ) 子供らも ともに学べば 嬉しいな 教えは学び 学ぶも教え ( 克征 作 ) 今の草加の爺・星の王子の極めて能天気な、そして楽天そのものの境地から眺めた時の牧水歌の、深刻で不幸極まりない心の在り方は、どうでありましょうか。同じ世界での体験とは余りの違いに驚愕せずにはいられません。歌作の巧拙や文学性を云々するのではありませんが、私の駄作の方が、問題なく人間性に於いては勝れている。同じく「浮世の花見」をするのであれば、老いた星の王子に軍配を上げるべきでありましょう。麗々しく、これ見よがしにご披露したのは、人としてのあり方では、凡人と達人程の開きが見られることを、読者と共に公の場、と言いましても、私のブログ上で、一緒に確認したかったから。 私は、表現で大事なのは、「何を」ではなく「如何に」だと過去に主張いたしました。それは今でも、変わっておりませんで、原文 乃至 原典を熟読すべしとの固い信念を抱懐する故に、粗筋とか翻訳とかは却って本物を理解する妨げになる。今でもその信念通りに実行しております。 さて、私はどうして今の如き 爺でありながら「星の王子」を得意げに吹聴して恥ずかしいと感じないのか、それは世界の大偉人達から学んだ以上に、子供や、猫や、犬から多くを教えられたからであります。本能の侭に生きるとされる犬猫も、実は接し方によっては知性があり、教養があり、命を、その魂を生きる生き方を根本の所で弁えていて、私にその奥義を伝授してくれた。 その大師匠の猫のカンナと、遥々飛行機でニューヨークからやって来た犬のトビーの話を、これから少しばかりしてみようと思いますので、お付き合い下さい。 カンナは家内が、子供たちが、長男はアメリカへ、次男は金沢へとそれぞれ外国留学と国内留学に家を出たので、寂しいからと言うので横浜の方の野良猫保護施設から貰い受けてきたもの。十月に我が家に来たので「神無月」のかんなから名付けたもの。オスだったら「オクトーバー」のオクトにしようと、私が予め考えておいたものです。 このカンナ、元々が野良育ちで、幼児体験で虐めを経験していたためか、最初は極端に怯えて、飼い主の私たちに懐こうとしませんでした。色々ありましたが、何故か時期と言い、タイミングと言い、家内にではなく、私にばかり接する時間が多くなり、気づいた時には、寝るときも私の布団に入り込んで、私と同じような姿勢で、同じようにイビキまで私と同じ高いびきで眠るという始末で、性分として、自分の寝床にまで入り込んでくる、猫を素直に受け入れる私でなかったのですが、成り行きで仕方なく、そんな馴れ馴れしい関係になってしまった。大分後になってからですが、「カンナはメスだから、女の私より男の方がいいのですよ」と、家内が私とカンナとの異常接近に嫉妬するまでになってしまった。 このカンナ、中々の美人で、性質もお淑やか、我が家の深窓の令嬢と言ったところ。 ここに、突如、9・11事件で、急遽帰国する運びになった長男と一緒に、ニューヨーク生まれでニューヨーク育ちのナイスボーイのトビーが、颯爽と葛飾区金町の我が家に姿を現した。そのデビューの瞬間のトビーの勇姿は今でも鮮明に目の裏に焼き付いている。 カンナは最初のうち、トビーの余りの颯爽とした姿に気を飲まれたのか、黙って見過ごしていたのですが、暫くすると度々このオス犬を攻撃するようになった。トビーはスムースと言うチワワで、まるでネズミを大きくしたようであり、カンナの本能を痛く刺激した模様で、私たちが留守をしている間、二匹の間を隔離しては置いたのですが、どのようにトビーに接近したものか、彼の長い両耳にピアスの穴のような傷跡が数箇所、名誉(?)の負傷のごとくに残りました。 さて、この二匹に私が教えを受けた次第ですが、これは「企業秘密」でも何でもないのですが、中々人様にお伝えするのが難しい。私の側の無心な「子供心」と「目線の低さ」が鍵でありましょうか。子供たちに接する以上に謙虚に、無邪気に心を虚しくして、彼女や彼と接する。それが全てでありましょうか。それともう一つ、同じく命を、生を共有する親近感の成せる技を、巧みに駆使する。以上に尽きるのですが、私の持って生まれた野生の心が、カンナやトビーのもつ野生・本能と強く、強く共鳴したのだと思われます。 後から考えてみると、この二匹の「偉大」なる教師の後で、草加に引越し、勤務することになった学習塾の講師の仕事に就いたことが私の運が非常に良かったことに直結するわけでありました。 丁度、定年で仕事をリタイアーして、キャリアーカウンセラーとしての勉強をする運びになったのですが、それが後に世の為、人の為を目的とする私の後半生の再スタートを切るきっかけになったのと、同様でありました。 私は今、自由気ままに生きる自由と、限りない幸福感でいっぱいの毎日を送ることが出来ております。数年前の私には想像すらできないことであります。 上に書いた如くに、世界中がパンデミックで大恐慌を来たしていると言うのにです。大体私は昔から世の趨勢とは真逆を行くへそ曲がりな性格を持っていますので、幸か不幸か、今日まで曲がりなりにも大過なく生きてこられたようなもの。あれもこれも皆が皆、神や仏の御計らいに因るものと心得、有り難く、勿体無い事と頭が自然にさがるばかり。 子供らは 皆それぞれに 教師にて 手取り足取り 我に教える ( 克征 作 ) 真夜中の 路上に憩う 子猫らは 軽々ジャンプ 闇に没する ( 克征 作 ) 最後の歌は、季節が夏か、冬かによって状況が少しばかり違うのですが、厳冬と解した方が、野良猫達の置かれている厳しい環境が強調され、尚且つ、「心頭滅却して」、寒風やひもじさを忘れ去って、遊び戯れる姿のいじらしさがクローズアップされると考えますが、如何でしょうか?
2021年02月17日
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今回は仏典の中でも、大きな影響を今日まで及ぼしている「法華経」について書いてみます。 法華七喩(ほっけしちゆ)、七つの例え話から入ります。 三車火宅(さんしゃかたく) ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で、火事に気づかず、長者が説得するも、外に出ようとしなかった。長者は子供たちが欲しがっていた三つの車を見せて、巧みに子供たちを外にと誘導して、子供達の救出に成功する。 長者窮子(ちょうじゃぐうじ) ある長者の子供が幼い時に家出をした。彼は五十年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らずに門前にたどり着いた。長者は困っている息子を救い出したいと様々に手を打って、実の子を雇い人として自分の屋敷にとどめることに成功し、臨終に際しては、自分と彼とが実の親子であることを明し、遺産を息子に譲り渡すのだった。 三草二木(さんそうにもく) 大地に生える草木は、それぞれの種類や大小によって異なるが、大雲が起こり雨が注がれれば、全ての草木は平等に潤う。 化城宝処(けじょうほうしょ) 宝のある場所(宝処)に向かって気の遠くなるような遠路を旅する人々がいた。険しく厳しい道が続いたので、皆が疲れて止まった。中に一人の導師がいて、幻の城を出現させて、そこで人々を休息させ、疲れを癒した。そして、人々がそこで満足しているのを見て、目的の場所はここではないと告げ、人々を励ましてゴールまで無事にたどり着くことに成功する。 衣裏繋珠(えりけいじゅ) ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔って眠ってしまった。親友は遠方の急な用事で外出することになった。眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼は友の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれと知らずに、起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り、他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て、再び親友と出会い、親友から宝珠のことを聞かされ、始めてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。 髻中明珠(けいちゅうめいしゅ) 武力でなく仏法によって世界を治める転輪聖王は、兵士に対しその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ)のなかにある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので、容易に人に授与しなかった。 良医病子(ろういびょうし) ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人の子供がいた。ある時、良医の留守に子供たちが毒を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供は父親の薬を素直に飲んで治ったが、他の子供たちはそれも毒だと思って、飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じて、一旦外出して、使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供達は大いに憂いて、父親が残した良薬を飲んで、治すことができた。 以上、誠に見事な例え話で、仏教と釈尊の素晴らしさを、誰にでも分かるように、具体的に説明していて、実に舌を巻くような表現の数々であります。 さて、またもや私と教え子とのお話であります。何の喩えになるのかは、今のところ、私自身にもわかっていませんが、やがて自ずから明らかになるでしょう。 最初に出会った時にその女生徒は、私の背丈の三分の一もないほどの可愛らしい六歳の少女でした。左の頬を真っ赤に火照らせている、と見たのは、一瞬だけで、強烈なビンタを浴びた手形の痕だとは、直ぐに知れました。おどおどと、まるで怯え切った小栗鼠(こりす)の様ないじらしさです。 こんないたいけない幼児のような女の子に、こんなひどい仕打ちをするなんて、どんな鬼畜生かと思いきや、「下手人」は我が子に対して愛情いっぱいの、「優しい」天使の如きお母さんだった。 そんな馬鹿な、と誰でも思うのですが、実際の話なのであります。私が作ったものではありません。私も嘗て文学青年の辿りがちなコースとして、小説の真似事を実行したことがあり、可能な限り人々の意表をつく様な設定や、人物のキャラクターの造形などに意を注いだのですが、こんな突拍子もない取り合わせは、思いつく筈もありません。 所で、この女の子ですが、仮に S と呼んでおきましょうか。S は三月生まれで、同じ学年でも同級生の四月生まれからは一年近い年齢のハンデを持っている。その為もあって、成績や授業の理解が非常に悪い。学校から持ち帰ってくるテストの答案用紙やノートに記された内容が、お母さんの期待を大きく外れていた。若くて、元気いっぱいで、その上に、愛情の塊の様なお母さんですから、直ぐに激情が頭にまで登ってしまい、思わず知らず手が動いてしまい、「ビシっ!!」と愛しいわが娘の頬を力一杯に叩いてしまう。そのビンタの音と、「痛ッ」と思わず S が上げる悲鳴が、自営業で隣の部屋で働いているお父さんの耳にまるで矢のように突き刺さる。気の良いお父さんは我が身を鋭利な刃物で切り裂かれでもしたかの如くに、衝撃をうける。この様な「惨劇」が毎日繰り返される。 この仲良し家族に襲いかかった悲劇は、一体全体誰が仕掛け、誰が仕組んだ罠なのでしょうか。無邪気な少女、天使のお母さん、気の良い善人のお父さん、誰に一体どの様な罪があると言うのでありましょう。 そう、誰も悪くなどないし、誰にも罪はない。であるのに、この結末であります。散々に悪事の限りを世の中で働き放題に働いた挙句に、まだ悪事がし足りない大悪魔が、ここでも悪行の限りを尽くそうと言うのでありましょう。 さて、もうお分かりの如く、私のいる学習塾の評判を聞きつけたお父さんが、車で片道小一時間もかけて、通う毎日が開始した。 私は出来の悪い生徒を、或いは御両親を含めての周囲から「不出来の生徒」と称されている「無能なる生徒」を待設ける、厭らしい塾の講師ではありましたが、S の様な不幸を抱えた生徒は、正直、想定してはおりませんでした。後で、親しくなってから「天使のお母さん」とも話し合ったのですが、娘ではなくこのお母さんに、むしろ「授業をして差し上げたかった」のでした。無論、文科省の定める学習指導要領に基づく学科ではなく、例えば「法華経」を一緒に読むなどの、一般教養を通してであります。 これは私の記憶違いであるかも知れませんが、確かお父さんも、お母さんも共に私のブログの熱心な読者の御一人だった筈で、そのご縁もあってか、当時の室長が入塾と同時に担当を私に指名したのでした。 兎も角、S との付き合いは足掛け五年に及びましたが、最後の授業の時に、彼女から「ラブレター」を頂戴しました。「古屋先生、あたしにやさしくしてくれて、ほんとうに有難う。大人になっても、先生のことは忘れません。S より」と、稚拙ですが、しっかりとした文字で書かれていました。 S の事は取り敢えず以上にしておいて、一般論を述べましょう。子供にとって両親の在り方は絶大であります。良くも悪くも、でありますね。私も人の子でありますから、身を以てそれを体験しております。私の父も母も、所謂子煩悩で、それこそ目の中に入れても痛くないと言うような可愛がり様を示してくれました。但し、私は小学校の低学年の頃には学校の成績は中くらいでしたが、木登りや、泥んこ遊びなどが大好きな「手の付けられない」悪ガキでしたから、病的に綺麗好きだった母親からは、それこそ年柄年中叱られてばかりいました。手で叩くと自分の手が痛いので、箒の柄、昔の箒は竹竿で出来ていました、で叩こうと言うので、箒を手にして私を追うのです。しかし、足だけは人一倍に早い私は、脱兎の如くに逃げて竹箒の洗礼は受けずに済んだ。 兎も角、私の幼時の社会は今で言う子供への虐待など、日常茶飯の現象でして、教室では女性教師が生徒にチョークの礫(つぶて)を投げる、往復ビンタや、鉄拳制裁など ざら なのでした。これは文字通りの愛のムチと看做されていました。 さてさて、子供が受ける両親からの影響が絶大であることの話題でした。私のサポート校や学習塾での講師体験で改めて知らされたことは、その深刻さが普通ではないほどに異常になっていることでした。特に虐めに遭って極度に傷ついた子供の心には、耐え切れない程の重圧となり、激しい攻撃性の毒となって作用していると言う現実であります。 例えばの話ですが、大人の社会で恋愛が発展して結婚に到り、直ぐに破局が来て、離婚が発生する。その破局を経験した当事者が、またぞろ性懲りもなく恋をして、再婚する。これが、一再ならず繰り返される。恋や結婚があれば必然として子供が生まれる。大人たちの行動は真剣そのものなんですが、「生殺与奪の権」を握られている子供にしたら、「堪ったものではない」わけでありまして、それこそ学校の教室に居ても、おちおち勉強など出来る精神状態ではない。その子供の能力に問題があるのではない。心、精神がその中心部で「病に犯されている」のですから。 しかし、この事実は当事者は勿論、学校の「無責任極まりない」サラリーマン教師になど、もとより考慮が及ぶ筈もなく、当然に文科省の関知する所とはならないのだ。 つまり「善人」同士の「善的な行為」が健全に行われた結果が、子供の精神がひどく蝕まれる。至極不条理な現象が、現代社会の底辺で瀰漫し続ける。 私は戦争反対を唱える以上に、極めて平和的な行為・行動たる「恋愛遊戯」の根絶を提唱したいと念願する者であります。結婚は「この上もなく神聖なもの」との認識を、誰もがもう一度胸に刻み直す必要があるのであります。町の八百屋さんで大根でも買うように気軽に恋して、自由恋愛して、一時的に結婚して、子供の喧嘩の如くにあっけなく離婚。この悪循環を、直ちに断ち切らなければ、未来の子供たちは永遠に救われる事はないでしょう。神様や仏様が悪いのではなく、明らかに人間様が悪いのであります。 天使の顔をして、天使の振舞いをして、恬然としている「善意の人」の「無邪気さ」ほど、始末に負えないものもない。「悪人でも」よいから、良きことを将来する「悪事」を熟慮の上で、断行する勇気を持ちたい物と、切に願わずにはいられません。 子供たちよ、君たちは皆無邪気で、元気で、明るい。君たちの顔を思い浮かべるとき、爺は、この世が天国だと素直に感じる。しかし、君たちは知らないのだ、この世は地獄だ、煉獄だ、恐ろしい炎が、鼻を衝く異臭があたり一面に立ち込めて、大人たちが苦しみ悶えている様を。嘗ての昔に、大人たちも君たちと同じに、無邪気で潔白な一人の天使として、この世に生を享けた。君たち同様に元気で、明るくて、幸福感に包まれていた。天使の居る所、至るところで笑いがあり、安らぎがあった。誰もが友を信じ、兄や姉を慕い、明るい歌声が周囲に谺していた。社会全体が、さながらの天国、清浄な蓮の花が咲き乱れる極楽浄土だった。今もなお、至るところに花が様々に花開いている事に変わりはないのだが、不気味な火炎が、硫黄のきつい悪臭があたり一面に撒き散らされてしまった。誰の仕業かって、善意の人の善意の結果なのさ。そんな馬鹿な話があるか、そう君は言うのだね、この爺も、そう思う。しかし、私たちの世界ではそう言う莫迦な事が数多く起こっているのだ。そこが、この娑婆と呼ばれる「天国」の特徴で、君たちが来た、旧里(ふるさと)の土地とは違うのだよ。郷に入っては郷に従がえってね、此処ではここでの流儀に従がわなくていけないのだ。しかし、そればかりでもいけないよ。次第に君たち独自の、輝かしい手法で徐々にではあっても、よりよい世界に作り変える努力を惜しんではいけないのだ。私達大人は、又次の世で君たち同様に純白の魂に生まれ変わって、世直しを心掛け、三千世界を風通しの良いものに、して行く努力を惜しまないだろうから。この世でたった一つ必要なもの、それは忍耐と努力。これだけはどうしても欠かすことは出来ない。けれども、後は、後は何も要らないのだ。足ることを知れと、古代の賢人は教えているが、それは特別の修養を必ずしも必要としない、この爺の経験からも断言できる。勿体無い、とか、有難うとか、神仏に素直な感謝の誠を捧げる心も、君たちの持ち前の魂さえ曇らせないなら、大丈夫、どんな大障壁が行く手を阻止しようが、君たちには絶対的な勇気が身内に備わっているからね、最後は自分自身を信じて、君の菩薩心を遺憾無く発揮して呉れたまえ。及ばずながらこの爺も、命の限りに君たちの涙ぐましい努力に、エールを送り続けるので。では、健闘を、奮闘を陰ながら祈っています。最後の最後には、御仏の慈悲心を信じ、それにお縋りしなさい。そうすれば、諸悪はたちどころに消滅すること請け合いなのですよ。
2021年02月12日
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座禅は本来、身心脱落であり、湛然(水が深く静かな様子、転じて、落ち着いて重みのある様)たる涅槃寂静であると言う。身心脱落した自己が仏であり、涅槃寂静はそういう仏の住み家である。だから、ただ我が身をも心をも離し忘れて、仏の家に投げ入れて、即ち、座禅せよ、そして身心脱落せよ、と主張する。 座禅は、第一義的には「心身脱落」である。つまり、真に座禅することが出来たなら、それがつまりは心身脱落であり、解脱(世俗を解き放って、仏門の悟りを得ること)である。 従って、座禅はまだ真に座禅することが出来ない者にとっては、真の座禅・心身脱落に到達する為の、最も端的、且つ、的確な道となる。真の座禅を行じて仏となった時には、もう仏は必要ではなくなり、その者は生死を離れるのみならず、涅槃に住する必要もなくなる。 彼はただ心身脱落、脱落心身して、底のない仏道を限りなく行じ、生まれ変わり、死に変りして、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界。六趣)を自由自在に遊化(自由に変化する)するのみ。そう言う境地に達すると、日常の生活そのものが仏道の修行にして遊行(恣に遊び回る事)となる。 しかし、この状態は、我々がなにか特別な存在になったことを意味しない。本来、元々から 其れ であったものに帰って来たということに過ぎない。蘇東坡の詩に言う、「到り得て、帰り来たれば別事なし、盧山は烟雨、浙江は潮」となるのだ。 以上の事を道元は平易に次の如くに説く、「仏に成(なる)にいと易き道あり。諸々の悪を作らず、生死に著する心無く、一切衆生の為に憐み深くして、上を敬い、下を憐み、萬(よろず)を厭う心無く、願う心無く、心に思うことなく、憂うることなき、これを仏と名ずく」と。 もう一つ、生から死に移ると考えるのは、誤りであり、「生はひと時の位(くらい)であり、滅(死)も又ひと時の位である」と説く。つまり、この生も、この死も、仏の御いのち、であり、絶対的な全体の絶対的な現成にほかならない。死の時は一切が死である。生の時は生になりきっており、死の時は死になりきっている。「一時」と言っても、単に一時的の意味ではなく、同時に全時であり、尽時であり、全一の時である。 生と言い、死と言うのも、もっと身近に引き寄せて有りの侭に表現すれば、我々の出る息であり、入る息である。一刹那における生滅であり、天を覆い、地を覆う、入息、出息である。 道元の遺偈に言う、「渾身著(つ)くるに処なし、活きながら黄泉に落つ」。 ―― この身には執着する場所がないので、生きていながら、黄泉の国・地獄にも堕ちた (草加の爺、古屋仮訳) で、ありますから、当然に生きて天国にも遊んだわけでありましょうか。つまり、自由自在であった。 春の海 ひねもす のたりのたりかな (与謝蕪村) 行く春や 鳥啼き 魚の目は 泪 (松尾芭蕉) 夕ざくら けふも昔に 成にけり (小林一茶) それぞれに江戸期を代表する有名な俳人の春の句であります。蕪村の俳句は、「春の海」イコール「のたりのたり」だと言うのである。のたりのたり、などという通俗語を使用して、永遠を形象化した見事の一語に尽きる名句でありますね。次の芭蕉の俳句は、「春が過ぎていく、小鳥はそれを惜しむかのごとくに囀っている。しがない俳諧師である私は、これから遠路に旅立つといのに、足の裏に出来た「うおの目」が痛くて、もう涙を流している始末。俳諧の軽みを表現し得て見事でありますよ。最後の一茶の句は、夕日を浴びて妖艶に艶めいて咲く桜の花の姿を眺めていると、これがくり返し毎年起きる現象として直ちに「昔」に変じてしまう。永遠の時を具現化して名手の趣きでありましょう。 道元禅師の説く、或いは自らも実践された「只管、打坐」の修行及び、教えを、上述の三人は俳句を詠むという行為において実現していると、私は考えるのであります。 心身脱落の人生も立派な生き方なら、長い短歌の歴史の末端に立って、それにある意味では激しく対抗して、身を低く下げ、同時に次の瞬間には遥かな上空にまでジャンプして見せる、軽業の如き俳諧師の芸当は息を呑むようなパフォーマンスではありませんか。あれも人生として立派なら、これもまた立派であると、驚嘆の声を発しなければいけません。 またまた、私事の話題で、誠に恐縮至極でありますが、親から見たときには「始末に困る子供、問題児」であっても、生まれながらの「人生の達人」とでも称さなければいけない、舌を巻くような素晴らしい自然児という存在があるものなのです。彼等は神や仏から与えられた自然の仕方で以て、この世を遊行して見せてくれる。厳しい仏道修行を経ずして、涅槃・天国に天然自然に遊び呆ける、実に羨ましい限りの存在なのでありますが、その姿の素晴らしさは、通常は身近にいる人々の目には映らない。従って、困った、問題ある状態として捉えて仕舞いがちなのですね。 今回は、道元禅師の「正法眼蔵」を枕にして、そうした一例を書き始めてみようと思います。つまり、宗教の偉人と同列の突き抜けた様な見事な生き方を、生まれながらして体得している「天才児」の御紹介から、です。 この子は私が出会った時に、中学の一年生でしたから、今では成人して何処かで目立たずに、平和に暮らしている筈です。 私が長年、講師として大変にお世話になった例の学習塾でのこと。私は「手に負えない」出来の悪い生徒の担当になっていた。つまり、普通の講師では手の施しようもない不出来な中学生であったから。 この様な生徒にこそ出会いたいと心底望んでいた私ですから、内心では喜びが隠せないでいた。しかし、私にとっときの教えの秘密があるわけでもなく、暫くは手探りでこの生徒に対するしかありませんでした。ところが、直ぐにこの生徒は例えば、数学の方程式の解法を彼にどの様に指導するのが良いのかを、私に教え示す行動をとったのであります。つまり、彼は与えられた式の次に「=」を書いて、じっと私の顔を見るのです。私は同類項をまとめ、数字は数字で合計するとどうなるかを教える。すると彼は鉛筆を動かして言われた通りに、答案用紙に書く。最後の答えにたどり着くまで、まさに手とり足とりして教え導くのであります。しかし、彼は言われた事が自分の納得のいかないものであると、決して手を動かそうとしない。無言のままで、じっと私の顔をみるのであります。時に私がプラスをマイナスと言い間違えた場合もありますし、計算がややこしくて直ぐに計算が出来ないなど、様々なケースがありますが、とにかく彼は、彼なりの納得や了解がない限りは、前に進もうとしないのでした。 こうして、彼との楽しい二人三脚の時間が開始したのでした。しかし、学校では「手取り足取り」の授業は当然ながらありませんので、ノートには何も記されませんし、従ってテストは決まって零点です。 公立学校の教師に共通の特徴ですが、自分の教える指導法や態度に疑問を向けることは決してありませんで、毎回のテストや授業の態度だけを根拠に、生徒を容赦なく選別し、手に負えないと判断した生徒は切り捨てる。つまり、学習障害とか、過度な知恵遅れの烙印を押して、後は顧みない。 以前に書いた生徒の場合には、賢明なお母様が我が子は「知恵遅れ」などでないと、確信していましたけれど、今問題にしている生徒の場合には、御両親共に、うちの子は過度な知恵遅れではないかと心配して、学習塾に通わせること自体を、無駄な事、お金の浪費と考えていた節があり、再三にわたって面談したのですが、塾では学習が成立していると私が言っても、容易に信じて下さらないのでした。 私が縷々丁寧に塾での学習の在り方を説明し、他の生徒の事例なども交えて説明を重ねたところ、ご両親はようやく安心出来た模様でした。 この御両親との交流の過程で私が知ったことは、生徒は当然のことですが、ご両親の性質をよりよく受け継いでいる事実でした。つまりは、お母さんも、お父さんも、実に人柄の良い、実直なお人達だった。むしろ、良い面をダブルで受けた為に、それが却って災いしたと言っては言い過ぎかもしれませんが、過ぎたるはなお及ばざるが如しで、俗に生き馬の目を抜くと言われるこの娑婆世界では、プラスがマイナスとなって作用することがままある事なのですね。 その後、兎に角、義務教育の中学を卒業するまでは、私の居る学習塾に通わせて、後はフリースクールの様な所で実社会に出る準備をさせようと言う方針になりました。そこでの彼は、実に生き生きと音楽などを通じて仲間と楽しい時間を過ごす事を、御両親を始め周囲の人たちに示し、彼の良さが人生で十分に発揮されるであろうことを予感させるに十分な根拠を示したのであります。何よりも、フリースクールでの彼は常に笑顔を絶やすことがなかった。そう、お母様からの嬉しい報告が私にあったのです。 人生は誰にとっても苦しいものでありますが、その苦しみの中に楽しさを感じることができるか否かが大切でありましょう。その人の持って生まれた美質が周囲の環境とうまくマッチすれば、人生至るところに青山あり、で地獄はそのままで極楽に変ずるのです。つまり、地獄と感じるのも、極楽と感じるのも、その人の心がけ次第なのでして、その心の持ち方を大きく変えることは不可能であっても、少しずつ、少しずつ工夫を重ねる精進を怠らなければ、誰もが人生の幸福長者たる資質は持ち合わせている。 そう考えれば、世の中がどうであろうと、人々の考えがどの様に変化しようと、己の心がけ次第で幾らでもその時を楽しくエンジョイする方法は見い出せるでありましょう。 私は宗教に強い関心を寄せて、時には哲学にも寄り道したりして、自分の人生をどう生きたら良いのかを探り探り、してきていますが、仏門に入ったり、キリスト教徒になったりはしておりません。 しかし、結果として波乱万丈を重ねた人生を送ったそのこと自体が「人生修行」の実践となった、私なりの悟りを得ております。安心立命を獲得し得て、幸福そのものであります。 悲しみを 生きる証(あかし)と 見定めて 日輪の下 一筋の径 ( 克 征 作る ) 年月を 重ねて吾は いと易く 日毎に訪ね 涅槃に遊ぶ ( 同じく 克 征 作 )
2021年02月09日
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吉川英治の小説で有名な剣豪・宮本武蔵(1584ー1645)が書いた「五輪の書」は剣術書中の白眉とされる。書名の由来は密教の五輪(五大)からで、地・水・火・風・空の五巻からなる。 地の巻、自らの流れを 二天一流 と名づけ、生涯のあらましと、兵法のあらましが書かれている。 水の巻、心の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。 火の巻、戦いのこと、個人対集団、集団対集団も同じとする。 風の巻、他の流派について書いている。 空の巻、兵法の本質としての「空」について書いている。 私は子供の頃、チャンバラごっこが大好きで、講談本やラジオの徳川夢声の名調子で、宮本武蔵の活躍を胸を躍らせながら読んだり、聴いたりした覚えがあります。また、テレビドラマのプロデューサーになってからは「二人の武蔵」を俳優の藤岡 弘と江守 徹の主演で制作しています。その時の脚本が前回に書いた長坂秀佳でした。特に藤岡 弘は真剣を使いこなす実際の武道家で、その剣さばきには鬼気迫る迫力がありましたが、視聴率が大成功というわけにはいかず、テレビ版の長坂オリジナルのシリーズ化は実現しませんでした。しかし、時代劇の二時間ものでオリジナルの超現代劇調の劇伴を使用し、又、オリジナルの主題歌まで創作した話題作で、放送後の視聴者には普段は時代劇を見ない若者を交えて大きな反響を得ています。その時の音楽を担当してくれたのが、当時キングレコードの専属で、アルバイトで銀座のクラブでピアノ弾きをしていた桜庭伸幸でした。 私と長坂さんとの深い友情を知っていた C X の能村庸一氏が、無条件で発注して下さった思いで深い作品であります。 剣豪と言えば塚原卜伝の名前が自然と頭に浮かんで来ますが、子供の私が熱狂した卜伝と武蔵の対決と言う名場面は実は後人の創作で、史実では塚原卜伝は武蔵が生まれる前に亡くなっていますから、残念な事でありました。 所で、切った張ったは遠の昔に御法度どころか、口に出すのさえ憚られる現代であります。国を防衛する役割の自衛隊は、未だに軍隊として憲法上公認されておらず、謂わば日陰の存在として、冷や飯を食わされている。誠にお気の毒様と言わざるを得ません。 建国記念日を一週間後に控えたから、殊更に言うわけではありませんが、理想を最高度に謳い上げた憲法の理念と、現実は、国際情勢は余りにも乖離し過ぎている。少々の憲法改正を施して、厳しい現実に対峙し直すのは当たり前に過ぎるどころか、このままでは世界中から軽蔑され、不当に軽視され兼ねない。 理想は理想として誠に尊いのですが、たかだか五六百年の昔の野蛮が、この世から全部消え去ったと考えるのは、実に幼児な思考であって、儼然たる銃社会を患部の如くに抱え込んでいるアメリカ合衆国に見る通り、混迷は永遠に続くと見るのが、賢明と言うよりも、常識であります。備えあれば憂いなし。必要最小限度の備えのない我が国に、また国民に、死んでも大丈夫という、立派な武士の覚悟は出来ているのでしょうか。それに、その様な非常な覚悟を、普通人に迫るのは酷と言うものであります。 嘗ての武士だって我々と何ら変わらない人間です。死ぬのはやはり非常に怖かったのであります。いつ死んでも後悔しないように自分を不断に鍛え上げる。平和の世に生きて尚、乱の時にある如くに油断せず、一寸先の闇に備えておさおさ怠りなかった。先人の心がけは誠にあっぱれと言わざるを得ないのであります。治に居て乱を忘れず。今日も生きている。いや、今日こそ、忘れてはならない大事な座右の銘でありましょう。 山本常朝の「葉隠」がありますね。江戸時代中期に肥前の国佐賀鍋島藩藩士の常朝が述べた、武士としての心得であります。「朝毎に懈怠なく死して置くべし」、常におのれの生死にかかわらず、正しい判断をと説いた。特に「武士道とは死ぬことと見つけたり」の文言は有名である。これは、武士に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生き抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張するもので、飽くまでも武士としての教訓(心構え)を説くのである。 平和な時代に一般の武士ですら非常に困難であった 覚悟 を、現代の社会は、我々一般人に突き付けようと言うのでありましょうか。人類史上に希に見る高い理想を掲げる我が日本国憲法は、それだけを取り上げてみれば、たとえその成立の経緯に遺憾な点があったとしても、人々から絶賛されて然るべき素晴らしい内容を備えています。しかし、先にも述べた如くに、過酷極まりない生きた国際社会の現状に照らせば、余りにも無謀そのものであります。物語を読み耽って現実を忘却したドンキホーテ以上に、滑稽であり、ただの田舎娘を高貴この上ない、理想の姫君と幻想する様は、現代の日本国国民の真の姿を彷彿とさせてあまりある物がある。そう、私は断定致しますよ。 だから、速やかに憲法改正を断行して、核武装を実行せよと、私が主張するのだと早とちりしないで下さい。国民の一人ひとりがよく勉強して、一個の現代人としての教養を先ず以て、身に着けようと言いたいのであります。とりわけ、近代史の中での日本が歩んできた道筋を、冷静な世界人的な常識の眼を以て見直し、反省すべき点は反省し、評価し直すところは素直に評価しようではありませんか。 戦争に勝者も敗者もありません。共に人間としての道に外れたのであります。殺傷兵器の制作に血道を上げるような近代国家のあり様は、誰がどう見ても立派な人間の立派な所業とは言えないのであって、たとえそれが避けようもない必然であったとしても、断じて神仏からは受け入れては貰えない、大罪を犯してしまったことに違いはないのであります。 「君死にたまふことなかれ」 与謝野 晶子 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて ああをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも、 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしえしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。 堺の街のあきびとの 舊家(きうか)をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば、 君死にたふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり。 君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血をながし、 獣(けもの)の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。 ああをとうとよ、 戦ひに 君死にたまふことなかれ、 すぎにし秋を父ぎみは、なげきの中に、いたましく わが子を召され、 家を守(も)り、 安(やす)しと聞ける大御代も 母のしら髪はまさりぬる。 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻(にひづま)を、 君わすするや、思へるや、 十月(とつき)も添わでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、 この世ひとりの君ならで ああまた誰をたのむべき、 君死にたまふことなかれ 与謝野晶子の弟を思う気持ちが切々と読む者の胸に迫ってくる、素晴らしい詩でありますね。反戦歌、天皇批判の文として問題視されたようですが、武器を持たないか弱い身でありながら、武器を持って戦う男子以上の勇猛さで、聖戦に抗して一命を投げ出している。ここには大和撫子のたおやかさは見られず、又、華やかで夢見る乙女そのままの抒情性の欠片もありません。これぞ真の勇気、真の熱情を内に秘めて、表面は悲しみに静かにたゆたっている。真の歌人、本物の詩人だけに許された 人間の本質的な野蛮 否定の抗議の声なのでありました。私は敢えて、傑出した女性の豪傑と呼びたいと思うのですが、如何でしょう。最も平和的な文学は、核兵器よりも強力な威力を発揮することを、与謝野晶子は身を持って、一命を賭して証明して見せたのであります。実に、あっぱれ千万と称さなければならないでありましょう。 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。 (神の)命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。全てに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」、これこそ、人間のすべて。 ―― 「コヘレトの言葉 の 一部」 私は、草加の爺・古屋はキリスト教信者でも、バイブルの信奉者でもないけれど、このコヘレトの言う言葉は全面的に正しいし、誰もが信じなければならないと思う。私は私流の「神」を信じ、その穏やかなる「呼び掛け」、命令と言っても構わないが、私の神は呼び掛けるだけで強制はなさらないので、私は呼び掛け、又は啓示・導きと受け取っている。 人は奢り高ぶるものであるが、賢者とか、王者とかを僭称する者は、必ず手酷い報復を覚悟しなければならない。人とは、そもそも「神」の目から見れば単なる木偶の坊にしか過ぎないにも、かかわらずだ。その浅知恵の塊にしか過ぎない猿の類が、どの様な深遠そうな知恵や知識をかき集め、我がものとしたからと言って、何程のことがあろうか。己の昂ぶり奢ろうとする心を静めて、周囲の自然が無言のうちに囁いている言葉に、謙虚に耳を傾けるがよい。風も、静かに呟いているではないか、すべてこの世のことは虚しく、それ故に後腐れもない、と。 虚しい、とは我々人間の心がそう感じるだけで、空即是色で、御仏の慈悲愛で充満しているのだ。色はそのままで空と悟った釈迦牟尼は、円満具足の境地に達した。それが涅槃の、この世での体験なのだ。 砂を掴むような虚しさ、空虚さだけを感じる者は、人生の半分の意味合いをも感じ取れていない自己証明のようなもの。 生かされてある今に感謝しつつ、充実した人生を輝かせて、希望の明日に望みを繋ぐ。その為にも、現在の平和日本をより安定した、揺るぎないものにする。これは今に生きる我々に課された責務なのであります。未来ある青少年の為にも、平和ボケ、惰眠癖を直ちに治し、現実を、迫っている幾多の危機を直視し、同時に自己啓発にそれぞれの立場から励もうではありませんか。 私は、耄碌爺いの分際を弁えずに、いや、弁えているからこその、憎たれ口をきいているのです。皆さん、日本は本当に素晴らしい国なのですよ!
2021年02月06日
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東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 御存じ石川啄木(1886 - 1912)の有名な歌であります。 不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心 教室の窓より 逃げてただ一人 かの城跡に 寝に行きしかな やわらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 馬鈴薯の 薄紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に 頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし 人を忘れず 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもい出づる日 たわむれに 母を背負ひて そのあまり 軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず はたらけど はたらけど猶(なほ) わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく やはらかに 柳あをめる北上(きたかみ)の 岸辺目に 見ゆ 泣けと如くに 私に限らず、若者は皆一様に一読して忘れがたい感銘を受け、一度は啄木のファンになってしまう。 こころで好きと 叫んでも 口では言えず ただあの人と 小さな傘を かたむけた ああ あの日は雨 雨の小径に 白い仄かな からたち からたち からたちの花 「 幸せになろうね あの人は言いました わたしは 小さくうなずいただけで 胸がいっぱいでした 」 くちづけすらの 想い出も 残してくれず 去りゆく影よ 単衣(ひとえ)の袖を かみしめた ああ あの夜は霧 霧の小径に泣いて 散る散る からたち からたち からたちの花 「 このまま 別れてしまってもいいの でもあの人は さみしそうに目をふせて それから 思いきるように 霧の中へ消えてゆきました さよなら初恋 からたちの花が散る夜でした 」 からたちの実が みのっても 別れた人は もう 帰らない 乙女の胸の 奥ふかく ああ 過ぎゆく風 風の小径に 今は遥かな からたち からたち からたちの花 「 いつか秋になり からたちには黄色の実が たくさんみのりました 今日もまた 私はひとりこの道を歩くのです きっとあの人が帰ってきそう そんな気がして 」 長い短歌の歴史から言えば、石川啄木や同時代の女流歌人・与謝野晶子の出現はある種画期的な出来事であったと言えます。それは、革新と称するよりは低俗化の極み、歌の劇画化、乃至、漫画化と言ってよい現象でもありますが、それは世の中の世俗化・低俗化に正しく呼応している、謂わば必然の現象でありました。 今日は劇画や漫画の世界的な一大ブームを将来していますが、その先駆けとしての意義は非常に大きかった。 さて、歌謡曲の「からたち日記」でありますが、中学生の私が大好きだったものでありますし、啄木はこの様な面でも、大きな影響を知らず知らずのうちに与えている、偉大なる抒情詩人であり、センチメンタリストでもありましたよ。 私が「からたち日記」をここに引き合いに出したのは、もう一つ意味合いがありました。こう見えても私は中学に進学すると直ぐに、級長・ホームルーム代表として、「起立、礼、着席」の号令を教室での授業の開始と終了の際に発することを、クラス担任から命じられていましたから、一クラスに60人いたクラスメートから一目も、二目も置かれる存在でした。そんな私が、ホームルームの時に、何かの話題の序に担任から「音楽では、何が好きか?」と訊かれて、「島倉千代子の唄が好き」と答えた所、教室中が期せずして大爆笑になった。その時、私一人がきょとんとして、その笑いの意味が理解出来なかった。 後にして思えば、秀才の私からは「モーツアルトの何々、ベートーベン、或いは大バッハの何々の曲」と言った答えを予想していたところへ、通俗な歌謡曲の名前が出たので、あの爆笑になったのだと、得心がいった次第であります。 ここで私のとっときの「初恋ものがたり」を御披露致しましょうか。と言っても、他人には何の面白さも感じさせない、極めて地味な内容でありますが。 私・古屋克征は東京北区の神谷小学校で一年生から四年生まで生徒として過ごしました。その四年間ずっと同じクラスであった女生徒の K Y との全く恋とも呼べない淡い淡い慕情にしか過ぎません。家庭の事情で五年生の一学期になると直ぐに、板橋区に引越ししましたから、それこそ「さよなら」の一言さえ言えずに別れてしまった。それだけの事ですが、後日談があります。二十歳前のひどく落ち込んでいる頃の事、何故か K Y の事を急に懐かしく思い出して、彼女の実家に電話をしたのでした。住所は大体見当がついていたので、電話帳で調べると直ぐにわかりました。震える指で公衆電話のダイヤルを回して本人が電話口に出ることを念じましたが、電話に出たのは母親でした。K でしたらこの番号の方に電話して下さいなと教えて貰った。迂闊な私は何の気もなく、教えられた番号に電話していた。ただ無我夢中で、相手が自分の事を忘れてしまっていたら、どうしようなどと考えて、気もそぞろだった。電話に出たのは若い男性の声だった。「 K Y さんはいらっしゃいますか?」と取次ぎをお願いしたが、鈍い私は何も感じ取ってはいなかった。「古屋君なの…、あの、ちょっとお待ち下さいね」と元気そのものといった懐かしい彼女の声であった。私はいっぺんに嬉しさと懐かしさが込上げて、有頂天になってしまった。ややあってから「お待たせいたしました。さっきのはお店の方の電話でしたから、お部屋の方にきりかえたのです。それにしても、お電話下さって有難う」と淀みなく昔通りの溌剌たる、聡明その物の彼女の声である。「あのォ、私、結婚したのよ。さっき電話を取り次いだのが夫です」と、鈍感な私を少しばかり窘める。それで、私は自分の迂闊さにようやく気が付いた次第でした。それからはどんな話になったのか、殆ど上の空だった。彼女は「○ ○ 食堂」という自分の店の場所を説明して、是非とも近いうちに来て、顔を見せてくれないかと言うので、「ああ、そうするからね」と答えて電話を切った。 以上で御しまいです。プロデューサーになってからも、何度か、一人の客として店を訪れようかとも思ったが、結婚した以上は相手の男性に対しても儀礼上慎むべきだと考えて、約束は果たしていない。 古ぼけた遠足などの記念写真には、決まって私の傍に彼女の姿が写っている。中々の美人だし、聡明その物、彼女との実に幼い 御まま事 の様な遊びの数々、多分、私が転校せずにあのままで北区に住んでいたならば、結婚に自然に移行したに相違なく、私の初恋の人は永遠に幼い美人のままで思い出の中にだけ、生き続けるのでありました。 呼吸(いき)すれば胸の中にて鳴る音あり。 凩(こがらし)よりもさびしきその音! 眼閉(めと)づれど、 心にうかぶ何もなし。 さびしくも、また、眼をあけるかな。 途中にてふと気が変り、 つとめ先をやすみて、今日も、河岸(かし)をさまよへり。 咽喉(のど)がかわき、まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。秋の夜ふけに。 遊びに出て子供帰へらず、 取り出して 走らせて見る 玩具(おもちゃ)の機関車。 本を買ひたし、本を買ひたしと、 あてつけのつもりではないけれど、妻に言ひてみる。 旅を思ふ夫の心! 叱り、泣く、妻子の心! 朝の食卓! 家を出て五町ばかりは、 用のある人のごとくに 歩いてみたけれど―― 痛む歯をおさへつつ、 日が赤赤と、 冬の靄の中にのぼるを見たり。 いつまでも歩いてゐねばならぬごとき 思ひ湧き来ぬ、深夜の町町。 なつかしき冬の朝かな。 湯をのめば、 湯気(ゆげ)やはらかに、顔にかかれり。 次に、多感な中学時代の旧友の女生徒に抱いていた、これも仄かで微かな、純な恋情の如き感情を述べてみましょう。啄木の感情過多なセンチメンタリズムに釣り込まれた形ですね。 一人はクラス一番の優等生で、少し青ざめたもやしの如き少し成長が足りないような印象の N A と言う少女でした。当人同士はそれほど意識していた感じはなかったのですが、周囲が優等生同士の男女の筆頭ですから、どうしてもそういう風な目で私たちを見ていた節がありました。次は、S S です。中学生ながらに大人の色気を自然に発散している、グラマラスな女生徒。一緒にテニスなどを会話も交わさずにプレイするだけの、恋心を相互に抱いていたのかどうかは定かではない、関係でした。三番目は、トーテンポールと綽名されて、男の子から非常な人気を博していた T S ですが、私は色の浅黒い、眼のぱっちりとした彼女を、美少女だとは感じていても、特別に心惹かれると言う事はありませんでした。 以上、懐かしさの余りに調子に乗って書いてしまった感はありますが、肺結核で二十代半ばで若死にした石川啄木に比べて私は何と幸運で、女性運の強い人生を送って来たかと、我が事ながらに感動を新たにしております。喜寿七十七歳の老人である身も顧みず、初恋談議にうつつを抜かすとは、我ながらにあっ晴れだと自画自賛しておりますよ。 それにしても、人が人を好きになる、この恋と言う素敵な現象を私たちに与えて下さった神様に、改めてお礼を申し述べたいと思うばかりであります。 金色の 小さき鳥のかたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に ( 与謝野 晶子 ) いにちなき砂のかしさよ さらさらと 握れば指の間より 落つ ( 啄木 ) 一方は、実に乙女チックで劇画調であり、片方は、また実にセンチメンタルで孤独の、又、不幸の塊を絵に描いたような自己観照でありましょうか。
2021年02月03日
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