2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全15件 (15件中 1-15件目)
1
昨日は昼から夜まで雨。今日も明け方に雨、昼前から夕方までずっと雨。今日の歳三(父の愛犬)との散歩、朝は小雨降るなか、傘を差して公園を歩いてきました。夕方には雨が止んでいたのですが、空気は湿り気を帯びたまま、ちょっと不快な状態。そんななか散歩をしていたら、知らぬ間に立ち眩みがしていました。こんなに本格的な立ち眩みがするのも久しぶりでしたので、なんだか懐かしいような、それでいて焦るような、つらい状態になりました。夜になって、久々に知人が飲み会に誘ってくれていました。最近になって「調子が上がったよ」みたいなメールを送っていたので、「じゃあ久しぶりに会って飲もうや」と言ってもらっていたのです。18時半に三宮で待ち合わせ。近くの居酒屋に寄りました。私が飲んだのは、ビール中ジョッキ・日本酒コップ1杯・マカのお酒グラスに1杯、それだけです。ところが飲んでいる最中に、これまた立ち眩みみたいな現象が。居酒屋の椅子に座っているのに、立ち眩みです。ちょっとしんどくなったので、2時間経って店から追い出される際に、知人たちには暇乞いをして帰ります。その間も、目の前はブラックアウト寸前。かなりきわどい感じで地下鉄のホームまで歩きました。最寄り駅(それでも遠い)に着いてみると、家から徒歩5分のところにある停留所まで走る、過疎ダイヤのバスが21時にありました。これ幸いと列に並んで、乗って帰ってきました。過疎ダイヤの夜のバスは、かなり空いていました。今日この後は、ぶっ倒れてみます。人気blogランキングへ
2006.01.31
コメント(4)
リンクさせていただいているチェリー0328さんの数日前のブログより。与える物が何もない時はまだこのブログの更新をサボっていた頃ですが、このお言葉を読んで、感銘を受けるとともに、「あ~、これは本当のことを言っている」という共感を抱きました。せこいけど、引用させてもらいます。----- 与える物が何もない時は 神にその ”無そのもの”を差し出しましょうできる限り自分が空っぽでいられるように そうすれば 神が私たちを満たしてくださいます たとえ神様でももうすでにいっぱいになっているものを 満たすことはできません-----理屈を書けば、それだけ自分が小さく見えてしまいそうになりますが、「たとえ神様でも/もうすでにいっぱいにさっているものを/満たすことはできません」この部分に涙が出そうになりました。(いや、引用しなかった全体がいいですので、是非チェリーさんのブログへ!)私は日常、小さな理屈ばかり考えて、それで満足している人間でした。うつ病が快方に向かってきた頃から、自分を空っぽにすることの必要性を感じていたのかも知れません。ただし、そのことは明確に言葉になっていませんでした。ここ数日、ブログの更新をサボり、80年代のPOPミュージックばかりを聴いていました。(インターネットラジオでそういうのがあるんです)何か有意義なことを実行するでもなく、眉をひそめるほどに堕落しきってしまうわけでもなく。ただ、な~んとなく生きている瞬間が、多々ありました。そんななかで唯一はかどったのが、瞑想です。瞑想をしている最中は、自分が「空(くう)」になります。いや、これは格好をつけた言い方ですね。でも、少なくとも「空」を実感しています。その「空」と、マザーテレサのお言葉の「無そのもの」は、どこかで通底しているのではないか、そんな期待を抱いていました。今日の夜になってからも、瞑想を実践しました。充分に「空」を感じてきました。その感覚を忘れたくないので、ここに書き残しておきます。瞑想は、とてもイイですよ。人気blogランキングへ
2006.01.30
コメント(2)
ヘルストロン効果で腸の活動が活発になっていることは、昨日の日記に書きました。引き続き今日も、腸が蠢動して「たまらん」状態にあります。尾篭な話で申し訳ないのですが、とにかく“大”のほうの用を足しに、しきりにトイレに篭りに行ってます。実に昨日に5回、今日はいままで4回です。このあとも行きたい雰囲気が濃厚ですので、昨日の記録に並ぶでしょう。ちなみに、そのような私の状態を眺めていた母親が笑って言いました。「R(妹)のときも、そんな感じやったよ」「私、大腸癌になっているんじゃないの?って心配しとったよ」「でも、腸内がきれいになれば、痛いのん治るからね」だそうです。ともあれ、いままで精神面の安定だけ求めすぎて、身体的な健康をなおざりにしていました。そんなわけで、精神・身体両面での健康を求めていきます。手っ取り早いところで、明日もヘルストロンの無料体験かな。人気blogランキングへ
2006.01.29
コメント(0)
お寒うございます、慎太郎です。このところ日記の更新をサボっておりました。ひとえに怠惰な生活を送っているためで、うつ病のほうはかなり軽くなってきています。いま、酷い下痢をしていますが、これは体質改善の経過によるものです。1週間ほど前から、歳三(父の愛犬)との散歩の距離を増やしました。具体的には、これまで公園2周だったのを3周にしました。朝夕2回通っていますから、合計すると1日に6周になります。これ、短絡的にいうとダイエット目的です。最近の私は病気自体は症状が軽くなってきたものの、「やる気」が伴わなくて、堕落した生活を送っています。自己弁護をするなら、厳しく自分を戒めながら生活するより、怠惰に暮らしたほうが精神的にラクだからなのですが・・・そんな次第で、生きている楽しみをダイレクトに感じるのが、三度の食事だけになっていました。もう食べる食べる。その割りに運動はしていませんでした。歳三との散歩だけ。なのでどんどんお腹に肉がついています。「これではイカン」という意識が、ようやくやってきました。なので運動ですが、タダで出来るものしかやりたくありません。それで単純に、散歩のときに歩く分量を増やしたらいいだろう、と判断したのです。その結果、公園を3周です。これで1回の散歩に約1時間かかりますので、1日平均2時間は歩いています。かてて加えて、公園の端の斜面部分をたくさん歩くようにしています。当然ですが、歩行距離も増えています。斜面を登り終えたときは、息が弾んで汗ばんできます。ですが、劇的な変化はありません。そこで唐突ですが、白寿生科学研究所という会社の「ヘルストロン」という健康器具の無料体験会場に足を運ぶようになりました。電界を作る器械に座り、その電界の中にいることで、体中の血行を改善するものです。もともと母が通っていたのですが、つい最近になって感化されて、行ってみたいと感じるようになったのです。効果は絶大です。今週の火曜日から4日間連続して通っただけなのですが、手足などの末端の血流が良化され、さらには腸の蠢動が起こりました。抗うつ剤を服用していると、その副作用で便秘になります。私がそうです。その上に食べまくりの生活習慣でしたから、たぶん腸壁に老廃物がこびりついています。いわゆる「宿便」というやつです。これのおかげで、散歩に行って速足で歩いても、身体を重たく感じていたのだと思います。ところが、昨晩辺りから変化が起こり始めました。とにかく腸内でモノが動く感覚が強くなりました。かなりの圧迫感があるのですが、「あ、腸内で宿便が剥がされていっている」という実感が伴います。ですが劇的に変化が起こりすぎました。もう下痢同様にトイレに駆け込んでいます。これを書いている今でも腹が張っていて、なんだかすごいです。あと明確に感じ取れる変化は、リラックスですね。全身がくつろいでいます。精神状態もくつろいでいます。先日の日記で、「朝起きたら夜まで寝なくても大丈夫になった」旨を書きました。が、それすら変化にさらされています。とにかく気持ちが楽、そして平気で眠り込んでしまいます。今日は昼前と夕方に、かなり眠りました。その様子を見た母が、「だいぶ緊張がなくなってきているデ」と言います。母も同様の経験をしているらしいです。ただ、このヘルストロンなる器械、かなり高額のものです。なので無料体験会場に通い詰めて、健康な肉体を手に入れたいと思います。久々なので、今日はこの辺で。人気blogランキングへ
2006.01.28
コメント(0)
えー、最近は更新が不定期です。でも私の調子は悪くありません。毎日を楽しいなと感じながら生きてはいるのですが、返って怠けているのかも知れません。昨夜もだらだらと楽しく時間をつぶしながら、気がつけば日付が変わっていました。「きちんとした生活を送ろう」とは決めているものの、切迫した感じはないので、ついつい気ままに遊んでいます。で、時計の針が段々と午前1時に近づいてきているので、とりあえず眠剤をのみました。その後も布団の中でだらだらと本でも読もうと思っていたのですが、気がついたら眠っていました。そりゃもう、まるで器械のスイッチが切れたみたいな、“瞬速の寝入り”でした。どれくらいかと言いますと、もう布団に横になった瞬間に、眠りに落ちていました。いつもの私なら、江原啓之さんの「スピリチュアルCD」を聴きながら眠りに就くのですが、昨夜はCDのスイッチを入れることすら出来なかったくらいです。かてて加えて、部屋の蛍光灯すら消していませんでした。いつもの手順なら、 布団に横たわる ↓ 蛍光灯を消す ↓ ポータブルCDプレイヤーのヘッドフォンを耳に入れる ↓ 江原さんの声に耳を傾けならが眠りに就くこの手順を踏んでいます。昨日は、 布団に横たわる ↓ 気がついたら午前5時それまでの意識は、まったくありません。あまつさえ、夢を見ていました。ほんとにもう気持ちよーく眠りに就いていたみたいです。午前5時に目が覚めたときは、自分が夢を見た後で、布団にうつ伏せになっており、部屋の蛍光灯が点いたままという状態で、自分が何をやっているのか理解できませんでした。そのとき時計を見たら、針は午前5時を少し回ったところでした。「あれー、俺は何をやっていたんだろう?電気つけっぱなしだし」しばらく働かない寝ぼけた頭で過ごしましたが、さっきまで夢を見ていた印象が強かったことと、階下に行ってみたら両親が眠りこけていたので、午前5時だということを、ようやく飲み込みました。トイレで小用を足して、布団に戻ります。今朝はとにかく寒かったです。そこから二度寝をしました。次に目が覚めたのは朝7時半。それから散歩に出かけ、いつもと変わらぬ一日が始まりました。なんでこんな下らないことだけを日記に書いているかといいますと、「そろそろ眠財なしでも眠れるようになったかな?」という期待があるからです。もう7年近く薬漬けの私。今ではすっかり習慣になって、朝と夜の食後に抗うつ剤、眠りたいと感じたときには眠剤を、必ず飲むようになっています。親元に引き取られてから、それを毎日見ている母が、「アンタ、ようそんなに薬を忘れんとのめるなぁ」と感心しています。抗うつ剤などは医師の指示に従って、定められた分量を、定められた時間にのむのが本来の姿です。少なくとも、私はそう信じて療養してきました。が、母曰く「薬ばっかりのんでると、ホンマにおかしくなってまうで」。一応は息子の身を案じていてくれるようです。ですから、「薬をのまなくても済むような状態に戻りたいな」と理屈では考えながらも、それを実行する度胸が無いままで過ごしてきました。ところが昨夜の状態だと、そろそろ入眠時には、睡眠導入剤が要らないかも知れません。まあ、この状態を連続させないことには、それを証明することが出来ませんが。そのための意識的踏ん切りがついたなぁ、そう感じた一日でした。人気blogランキングへ
2006.01.24
コメント(2)
最近は日記の更新をサボっていました。特に悪いことがあったわけではありませんので、ご心配は無用です。先週月曜日に激うつの波に襲われてから、「やる気」というものを失っておりました。とくにやりたいことが浮かんでこないで、怠惰な日常を送っております。朝起きて煙草をくゆらす。それから歳三(父の愛犬)と公園を散歩。帰ってきて朝食。食後にメールチェック、時々コーヒーブレイクを入れて母と他愛もない話。気がつくとお昼御飯の時間。夕方の犬の散歩。ネットサーフィン、その後に瞑想。とくに瞑想は深いレベルに達することが出来るようになって、すること自体に快感が伴います。21時ごろに晩御飯。それから意味なくネット三昧。本も少々読みます。そして、一日を終えたという満足感が得られなくて、なんとなく夜更かし。就寝は午前2時すぎ。学生さんたちの冬休みが終わった後は、だいたい以上に書いたような感じで、変化のない毎日を送っています。だから「退屈」です。でもね、悪くは無いんですよ。平和だし。それに生きていることが「楽しいな」って感じられるようになってきました。意味の無いような生活を送っているのに。ま、この辺のことは明日発行予定のメルマガに書きます。それにしても相棒のメルマガ、木曜配信予定が、日曜の夜になっても届きません。おーい生きているかー、相棒?人気blogランキングへ
2006.01.22
コメント(0)
今週月曜に発行したメルマガには、正直に激うつの波に襲われていることを書きました。で、問題はその後です。完全ではないですが、心が弾みを取り戻しつつあります。歳三(父の愛犬)との散歩も、毎日続けています。散歩のときの掛け声を変えようと模索していましたが、「ゆ~ったりとした気持ちで」「穏やか~に、しなやか~に」というもので安定してきています。「しなやか」ってどんな漢字を書くのだろうと考えましたが、分かりません。IMEで変換しようとしましたが、候補自体がありませんでした。とりあえず「やる気」は起こってきませんが、「つらい・しんどい」精神状態に固定されなくなったので、ここで報告しておきます。そう言えば・・・今日配信予定の相棒からのメルマガ、まだ届いていません。いつ出るんだろう?人気blogランキングへ
2006.01.19
コメント(1)
ずばり書きますが、今日は兵庫県南部地震が発生してから、11年目のメモリアルです。あの震災を体験したものとしては、忘れられない日付です。震災の日、私は神戸市は垂水区というところに住んでいました。震源地になった淡路島北淡町の、ほぼ真北にあります。震源地にかなり近いところでした。そのせいか揺れはかなり激しいものがありました。たまたま断層が、震源地から東北に伸びていたおかげで、深刻な被害には遭わずに済みました。それでも犠牲になった方々のことを思えば、いまでも心が切なくなります。私個人のことを書けば、ちょっとした揺れにもかなり敏感に反応してしまう、「地震トラウマ」になってしまいました。さらに言えば、新潟県中越地震があった当日は、新潟県下越地域に住んでいました。そこでの震度は大したことはなかったので揺れに怯えるだけで済みましたが、中越地域の人たちにとっては、とりかえしのつかない日になってしまったと思います。火山列島日本に住んでいるということ自体、地震発生の可能性から逃れることは出来ないのでしょう。みなさんが災害への備えを厚くして、「いざ」というときに犠牲にならないように祈ります。それから、現地兵庫県で被災したものとしてのボヤキをひとこと。当時のあの地震は「兵庫県南部地震」と命名されていました。ところがマスコミがこぞって「阪神大震災」と書き立てて、全国的にはその名称がすっかり定着しました。当時の政府もそれに迎合して、「阪神淡路大震災」と命名を改めました。でもいまのマスコミはどうでしょう。「阪神淡路大震災」の呼び名は一時的なもので、現地の痛みを知らない者たちからは「阪神大震災」と呼ばれるように戻ってしまいました。ここ神戸市では、あの地震のことを「大震災」とだけ呼びます。今日ばかりはうつ病と関係ない話でしたが、誰かに知って欲しくてたまらないことを書き止めてみました。
2006.01.17
コメント(1)
最近は歳三(父の愛犬)との散歩のことが多くなっていますが…今日も歳三と散歩に行っていたときの気付きを書きます。歳三と散歩に行くようになって、もう半年くらいが経過したでしょうか。その頃の日記に何度も書いたのですが、公園で鼻息荒くガツガツとリードを引っ張っていく歳三に閉口した私は、「ゆっくり、ゆっくり!」と声に出して歳三に言い聞かせていました。歳三が少しでもゆっくり歩いてくれるようになって、他所の犬みたいに平然としていて欲しかったからです。どうやら歳三は日本語(関西弁)をずいぶんと理解しているようですが、公園を散歩しているときばかりは、かなり気が立ってしまうようで、ハァハァと荒い息をしっぱなしです。最初の頃は、すれ違う人がある度に背後から飛び掛かろうとしていて、それを止めていたものです。当時は歳三の体重も筋力も軽いものでしたから、余裕で操ることが出来ました。ところが最近は、前肢にも後肢にもびっしりとした筋肉が付いてきて、とても21キロの体重とは思えない、強い牽引力が備わってきました。もう人様に飛び掛かろうとはしないのですが、その牽引力をもって、好き勝手な方向に進もうとしますので、リードで繋がっている私としては、かなりの体力消耗を強いられます。とくに他所のワンちゃんと近づいたときなんか、「ハァッハァッ」息をいっそう荒立てて、そのワンちゃんに飛び掛かろうとします。今となっては、これを力ずくで押さえ込むのに、とても骨が折れます。これまで歳三との散歩の際、声を掛けるのはもっぱら「ゆっくり、ゆっくり!」ばかりでした。最近ではそれだけでは効果がないと気付いて、「力を抜いて~」「落ち着いて~」「リラックス!」とは呼びかけていますが、どうも五十歩百歩で、あまり歳三には聞き入れられていないようです。今朝の散歩の最中、前をゆっくり歩いているワンちゃんがいて、これまでにないくらい興奮されて、リードを引っ張る腕が千切れるのではないか、というほど苦労しました。そこで歳三に「停まれ!」を命じて、こちらがしゃがみ込んで頭や背中を撫で摩りながら、優しく説き聞かせてやりました。曰く、「歳三が力任せに引っ張ると、それを押さえ込むためにこちらが相応の力を加えて押さえ込んでしまう。そのために、どうしても歩く速度が遅くなる」曰く、「かてて加えて、他所のワンちゃんに唸って飛びかかろうとしているばかりでは、いつまで経っても犬の友達は出来ない」こんな説得をしても、犬に通じているのかどうかなんて、さっぱり分かりません。それでも朝も夕も、散歩のときに他所のワンちゃんに飛び掛かろうとする度に、歳三を停まらせて言い聞かせました。そのとき閃きました。「ゆっくり」「焦らない」などの、ただ減速を促すだけの呼びかけだけでは、相手に伝わるインパクトが弱いのではないか、と。そこで少し考えて、「軽やかに歩いて」「すーいすい!」と呼びかけてみました。気のせいかも知れませんが、それを繰り返し続けていると、歳三の歩みも、心なしか軽やかなものになってきました。おかげで今日の散歩は、朝夕とも各1時間を費やしましたが、肉体的には楽でした。さて、夕方の散歩が終わって家に向かう道すがら。私は得意になって「軽やかに歩こう」「すーいすい」と呼び続けながら、これは自分にも使えるのではないかと考えました。これまでは「ゆっくり、ゆっくり!」「焦らずに落ち着いて」と呼びかけてきました。自分の声で呼びかけているのですから、当然、自分の耳にも入ります。考えてみるとこの半年間の歳三と私は、この私の声を聞き続けて散歩をしてきたようなものです。ここで自分を振り返ってみると、焦らないのんびりした性格の人間に、私が様変わりしていることに思い当たりました。これには、何らかの因果関係があるのではないか。ついついそう考えてしまいます。ではそんな自分にもっと好ましい呼びかけはないのだろうか。そう思ってみたら、今日はじめたばかりの「軽やかに歩こう」「すーいすい」は、意外といい線をいっているのではないか。一人勝手に、悦に入ってしまいました。ちなみに、性格改善などを促すために「催眠療法」というものがあります。妻子との別居後、焦りに焦っていた私は、手当たり次第に治療法を求め、この催眠療法の施設をハシゴしていたことがあります。一昨年の12月から昨年の2月にかけてくらいの期間です。それは資金力の無さから、全然効果を発揮しないまま、挫折せざるを得ませんでした。ただ、そのときにプロの催眠療法士に聞いたのですが、「男性を催眠に導入するのには、男性の声が効果的なんです。逆に女性を導入するには、女性の声が効果的なんです」「でも、もっと効果的なのが、ご自分の声を使って自分自身を導入することなんです」とのことでした。これを聞いた直後は何とも思っていなかったのですが、今日になって稲妻に打たれたように、この言葉を思い返していました。ひょっとして、私が歳三に呼びかけていた声は、私自身に届いていたのではないでしょうか。「ゆっくり焦らず」と言い続けて来たから、そんな風な焦らないでいられる性格に変化してきた、そんな気がします。もしこの仮説が当たっているのなら・・・そうです。「かくありたい」と思う自分の姿、その性格に誘導するためのキーワードを見つけさえすれば、多少時間がかかっても、自分で自分を変えていくことが出来るのではないでしょうか。とりあえず、このことを発見した責任を持って、自分を実験台にして試して見ます。人気blogランキングへ
2006.01.15
コメント(5)
睡眠過多の生活から抜け出しつつあります。昨夜は何やかややっていて、布団に入ったのが午前2時過ぎでしょうか。それからちゃんと夢も見ながらの睡眠をとり、目が覚めたのは午前8時過ぎでした。それからは一睡もしていません。ちなみにこの後は、桑田佳祐さんのFM番組「やさしい夜遊び」を聴く予定なので、どんなに早くても日付が変わる頃までは起きています。これって、もう6時間の睡眠だけでも、とりあえずの生活が送れるようになったっていうことですよね。こんな生活リズムで安定してきているので、内心とても嬉しいです。ちなみに今日のタイトルに書いたのは、夕方の歳三(父の愛犬)の散歩に出かけたときに感じたことです。今日は朝からずっと雨でした。昼過ぎにいったんは小止みになったのですが、夕方から夜にかけてはまた降り続いていました。そんな中、16時半頃から、歳三と公園へ散歩に出かけました。朝も強い雨でしたので、いつものようなジグザグコースはとらないで、おもに公園内の遊歩道を選んで歩きました。いったんは止みかけていた雨でしたが、再び降り始めていました。公園に行ってみると、一日降り続いた雨のせいで、いつも歩いている草地がびしょびしょになっています。軽い洪水状態で、地面が水浸しでした。そんな草地を歩いてしまうと、冷たい水がどんどんスニーカーの中に浸み込んでくるので、それを嫌っての遊歩道です。ところが歳三は、そんな生ぬるい散歩に不満だったようです。しきりにリードを強く引っ張っては、草地の上に行こうとします。リードのループ部分の取っ手に通した左手首に、リードの紐がぐいぐいと食い込みます。かなり痛かったです。何度も「ゆっくり、落ち着いて。リラックスリラックス!」と歳三に呼びかけていたのですが、ちっとも言うことを聞いてくれません。靴下まで水浸しになってくるし、歳三に引っ張られて差している傘が役に立たなくなって下半身どころか上半身まで濡れてくるし、リードを通した左手首は痛いしで、かなりイライラしてしまいました。公園を歩いている短時間にこのような有様でしたから、私の機嫌も急速に悪化していきました。ついつい歳三に掛ける声も、イライラと大きな、怒鳴る口調になってしまっていました。同伴している人間がイライラして怒ってばかりだと、連れられている犬のほうもイライラと気が立ってくるのでしょう。公園を2周目に入ったところで、歳三が前進するのを放棄し、同じ場所をグルグルと駆け巡っては、私の方に噛み付いてきます。当然、そのような歳三の攻撃はかわす私なのですが、この歳三の態度に余計に腹が立ち、もう本当に怒声を浴びせかけていました。こうなるともう悪循環です。私が怒鳴る、歳三がうずくまって唸り声を立てる。こんなことを5分くらい続けていたでしょうか。段々とお腹が痛くなってきました。下痢ではありません。何か不快なものに「ぐい」と押さえつけられたような、正体不明の痛みです。それで「あ」と気がつきました。私は悪い“気”を発してしたようです。人間よりそのようなものに敏感な犬ですから、歳三はそれを強く感じ取ったのでしょう。彼も不機嫌そのものでした。怒りをこころのなかに抱くと、本当に害毒を自分や周囲に注ぎ込んでしまっていると直感したのです。ですから、もうそんなことは止めようと判断しました。一度深呼吸をして、気持ちを切り替えます。こちらが歳三に望むことを、穏便に心地よく聞こえるように、軽やかな微笑とともに呼びかけます。「今日はこの公園に雨水が溜まっているから、お前の好きな草地に入ると、俺の靴がびしょびしょになってしまうねん」「俺もゆっくり歩くから、お前も落ち着いて歩いてくれ」「ゆっくりゆっくり。落ち着いて、リラックスリラックス♪」それをしつこく繰り返していたら、どうやら歳三にも通じたみたいです。次第におとなしくなって、最後にはのんびりした散歩になりました。体験から得た教訓ですが、悪い感情は、自分にも周囲にも悪い影響を及ぼすようです。そのためにイライラした精神状態に陥ってしまったら、意図的に気分を切り替えて、朗らかにしたほうが楽ですね。人気blogランキングへ
2006.01.14
コメント(0)
最近は朝起きて(でも遅い)、夜(夜中ですが)になれば眠れるようになっていることを、昨日報告しました。今日も午前8時過ぎに起床。昨夜寝たのは午前1時ごろなんで、7時間は眠っている計算になります。最近は私の中から“義務感”が薄らいでいっています。毎朝、歳三(父の愛犬)の散歩に出かけているのですが、以前みたいに「午前7時にきっちりと出発する」というのがなくなっています。今朝も起きた後、家の中で飛び跳ねている歳三を尻目に、ゆったりと煙草を吸ってくつろいでからのお出かけでした。でもね、散歩中に悲しい出来事が起こったのです。歳三との散歩は、最寄の公園をいつも2周しています。公園の中には大きな池があって、池の周囲を取り囲むように遊歩道が敷かれています。でも歳三は土や芝(かつて芝が生えていたであろう草地)の上を歩きたがります。なので自然に道をそれた地面の上ばかりを選んで歩いているようなものです。その1周目の中盤、草地の上を歩いていたら、突如足元が「ぐにゃり」とへこみました。初めて経験する、とても柔らかいものの上に乗ってしまったようでした。新鮮な感動があったので、「いったい何を踏んだのだろう?」と、さっき踏んだ場所をしげしげと眺めました。糞でした。犬の糞。いつも利用している公園は、この近所では犬の散歩のメッカです(そんな大規模ではありませんが…)。その中にはマナーを守らない飼い主も多く、自分の飼い犬がしていった糞をそのまま放置していく者が後を絶ちません。それにやられました。犬の糞を踏んで、新鮮な感動に襲われていたのです。でも、犬の糞だったと知ってからは、悔しいこと悔しいこと。小学生のときでも、私は犬の糞なんて踏んだことはありませんでした。生涯初です。少しだけ言い訳させてください。通っている公園は確かに犬の糞だらけです。でも、大多数の放置飼い主はそれなりの遠慮があるらしく、人がまともに歩けるところには、自分が飼っている犬の糞を放置しません。スコップだけを持って歩いて、犬が糞をするとそれを掬って端のほうに投げるだけはしていく飼い主なら、もう何度も見ました。今日になって気付きましたが、糞を放置してはいても、端によけてから逃げていく飼い主は、まだマシなほうでした。今日は、思いっきり人が歩く(私たち以外にも沢山の人や犬が通っているのを、何度も目撃しております)通路のようなところに、何の違和感もなく糞が落ちているのです。しかもその糞は黄土色で、周囲の枯れ草や土の地面に、見事に色彩的にマッチしているのです。感触だけでした分別できませんでした。初めての経験でしたが、犬の糞を踏んだこと自体は、それほど悔しくありませんでした。ただ、履いている靴がべっちゃりと汚れてしまったのが、とても悲しいのであります。私は現在、靴としては、スニーカーを2足持っているだけです。ひとつはニューバランスの黄土色のやつ。これは越後にいたときに近所のアウトレット靴屋で、至極安値で買ったもので、買ってから2年半が経過しています。履き心地が悪くて、歩いているとかかとがこすれて、靴下のかかと部分が段々と磨り減ってくるシロモノです。でも見栄えだけはいいので、お出かけするときには欠かせないものです。もうひとつはプーマの黒いスニーカー。これは昨年5月ごろに父の仕事を手伝っていたときに、汚れてもいい作業靴として買ってもらったものです。今思えばこちらのほうが質が良くて、足にフィットしていますし、長時間履いていても疲れません。去年の夏ごろからでしょうか、歳三の散歩に出かけるときは、この黒いプーマを履いていました。ニューバランスのは靴下を傷めるので、見栄えが必要な場合にだけ履いていました。でも限界が来ました。靴の内部が擦り切れてきて、見栄えだけの安物ニューバランスは、履いていて足が痛いだけのシロモノになってっしまったのです。仕方がないので、最近はどこに出かけるときにも、黒いプーマを履くようになっていました。それなのに、嗚呼それなのに。残されたプーマの右足の裏が、犬の糞でべったりと汚れてしまっているではありませんか。「しまった踏んだ!」と感じた後に、思いっきり足をそこら辺の地面に擦り付けて、糞を落とそうとしました。でも、かなり大きなブツを踏んでしまっていましたので、靴底のゴム部分の側面側にも糞がこびり付いています。何をやっても取れません。今日は通院日でした。予定では、見た目がくたびれたプーマを履いていくつもりでした。でも実際に履いていったのは、足が痛くなる安物ニューバランスです。ぼくのプーマは、犬のウンチ臭くなっていましたとさ。今度の目標は、新しくて見栄えがして、それでいて履きやすい靴です。それを入手したとき、私の社会復帰は遂げられるでしょう・・・人気blogランキングへ
2006.01.13
コメント(0)
昨日は愚痴った日記になりました。個人的事情を申せば、物理的に接触できる人物の中で、私のことを肯定的に捉えてくれる人は主治医しかいないので、この場で嘆きをしてみせました。ここでなら私のことを思ってくださる方がいらっしゃるという打算もありました。不満を自分のなかに溜め込まないで出すということが出来ましたので、気分はぐっと楽になりました。ただ、不愉快な日記でした。すいません。それからコメントを下さった皆様、ありがとうございます。この慎太郎、皆様に支えられて生きています。いただいたコメントへの返事は遅くなりますが、うつ病になって以来、私の思考や義務感がスローになっているので、気長にお待ちください。昨日はポエミーなものまで書いてしまいましたが、ちっとも上手くないですね。私には、今書いているような散文が相応しいようです。そんな次第で、今日はもう気分爽快。最近は寝るのが夜中の2時ごろになっていたりと、気分が弛んでおります。それなので朝起きるのも遅くなっています。最近の歳三(父の愛犬)の朝の散歩なんて、9時台が当たり前になりつつあります。そんな中、昨夜は0時半ごろに就寝し、朝8時に起きました。自分としては、結構まともな生活。さらに加えて報告しますと、今年になってから、昼寝をしなくても起きていられるようになりました。今日もバッチリ起き続けております。起きている時間が増えれば、本などを少しずつ読む余裕も生まれますので、楽しさも増えます。音楽などもたっぷりと聴いています。さて、今日のタイトルに書いた文句ですが・・・最近自分でも分かるのですが、笑顔になることが多いです。歳三と公園を散歩しているとき、すれ違う人に対して「おはようございます」「こんにちは」の挨拶。人様の顔を見て話しかけるということが出来るだけでも、もうすっかり嬉しいです。気がついたら笑顔になっています。こちらが笑顔で挨拶するからでしょうか、気持ちよく返事を返してくれる人が増えてきました。また顔見知りになってしまった人も増えてきて、こちらが気付かずに歩いていたとしても、向こうから挨拶してくださる人までいます。嬉しいですよ、不意に挨拶をされるのは。なので気持ちよく返事をします。「こんにちは」「おはようございます」と。すると無意識のうちに笑顔になっているのです。気分も弾むようになっています。タイトルには、「嬉しいから笑うのか」と「笑うから嬉しいのか」と、二者択一的な書き方をしていますが、そのどちらも正解だと思います。心の底から喜びを感じると、笑顔が自然に溢れてきます。笑顔になる場面に出くわしていると、こころも自然に喜んでいます。周囲にありがとう、自分にありがとうです。人気blogランキングへ
2006.01.12
コメント(5)
私は親の家に居候しています。妻から別居を申し渡されて、家を追い出されたからです。暮らしているのは妹の部屋です。妹は大学生で、九州にワンルームマンションを借りているので、普段は空き部屋です。年末から年始にかけて、この部屋の主である妹が帰省していました。ちなみに私は寄生です。その妹もとっくに大学へと戻ったので、いつでもPCは触れる状態になっています。でも、このブログの更新が進みません。メルマガに書いた弟たちとの喧嘩と、私の身売りについてのやりきれなさから、精神的にアパシーになっているようです。気力が失せています。うつ病生活も、今年の5月で満7年を迎えようとしています。その間は、社会から取り残されて生きてきました。向かい合うものが、自分の過去しかありませんでした。うつ病もかなり改善されてきて、働こうという意思が芽生えかけていました。私が社会参加することへの意義を再発見していたと言ってもいいでしょう。どころが、「この世は金が全て」という実情──家族の声──に虚しさを覚えています。うつ病になっている間に“掴んだ”と思った価値観は、実在するこの世の中には通用しないものだと責め立てられましたから。そのためか感情が凍りついてしまって、心はまったく弾みません。 手を伸ばしさえすれば 世界なんて簡単に手に入ると思っていた 世界を手に入れることで 自分が救われるのだと信じていた その世界から拒絶されて 人の波に背を向けて歩いてきた いや 自分ひとりが 歩くのを止めてしまったのかもしれない 闇に閉ざされていた心に ふたたび光が射してきた もういちど手を伸ばそうと 世界に触れてみた 手に触れた世界は 思っていたものとは全く違っていた 光が射しているのに 目の前にあるものは闇だった 手を伸ばしてもいいのだろうか 世界にその価値はあるのだろうか その価値はあるのだろうか 手を伸ばしている自分に以上、とりとめもなく詩のようなものを書いてみました。人気blogランキングへ
2006.01.11
コメント(7)
いや、私は無職なんです。だから年中休みなんですが・・・昨年12月25日から今年の1月5日まで、息子が遊びに来ていました。小学6年生なんですが、もうすぐそれも終わりを告げるので、冬休みの宿題が大量に出されていたんです。私個人としてはのんびりとした人間に育って欲しかったので、「あれをしなさい」「これをしなさい」ということは強制してこなかったんです。おかげで、のほほーんとした子供になってしまいました。それはそれで、彼の魅力なんですが。ところが妻が怒ること。なにせ去年の夏休みに息子がやってきたときはまともに宿題をやっていなかった(監視していないと、すぐにサボるのです)ので、「冬休みの宿題は多いんだから、ちゃんと毎日やらせておいてよ」との注文が妻から出されていました。なので息子の滞在期間は、ほとんど宿題の世話に明け暮れていました。その間はそれなりに充実していたのですが、のんびり自分の時間を持つことも出来なかったわけですね。さて、過去の回想はそれくらいにしておいて。息子が新潟県に戻っていき、帰省していた妹(私が借りている部屋の主)も大学に戻っていきました。だからこうやってブログを更新できているんです。ようやく自分の時間が戻ってきたという感じで、ほっとしています。趣味の競馬のほうですが、かなり久しぶりにブログ「競馬ファン!」を更新しました。ポイント還元サイトでもらったお金をイーバンク銀行経由で、JRA-PAT(家にいながら馬券が買えるシステムです)用の銀行に振り込んでおき、それで昨日今日と競馬を楽しんでます。とはいっても銀行口座に振り込めたのは400円だけですから、1日あたり200円(つまり2点)だけ買って遊んでいます。昨日は30円の利益が出たのですが、今日はまるまるマイナス200円です。とほほ。そんな次第で、抑うつ感をほとんど感じなくなった私は、「~せねばならない」という枷を自分に課さずに、お気楽適当に生きています。こんな態度が、四弟からみたら「甘ったれている」ということで怒られるんですけれどね。ま、仕方ないさ~人気blogランキングへ
2006.01.08
コメント(3)
ご無沙汰しております、慎太郎です。昨年末に妹(私が借りている部屋の主)が帰省して来てから、この日記の更新が滞りました。一時は携帯メールを利用して更新をしていたのですが、携帯入力に慣れていない私は、すぐに挫折しました。やっぱりキーボードがいいです。ちなみに今週月曜日(1月2日)に発行したメルマガには、このブログを消去しようか悩んでいるというようなタイトルをつけました。下記のURLを参照してください。http://blog.mag2.com/m/log/0000152056/106813054?page=1#106813054そこに「さわり」だけ書いていますが、いまの私は、弟たちによって人生のレールを決め付けられようとしています。私の自由意志は通用しません。だって7年近く無職で無収入の私は、「他人に迷惑かけているだけ」の存在で、意思決定の権利がないのです。それ以上の詳しいことは、来週月曜日のメルマガに書く予定です。うつ病患者としては、かなり安定していました。抑うつ感がほとんどありません。主治医から指摘されている「不安障害」による自己否定感が強まって、自分に価値を見出せなくなっていただけです。この間、私は自分で自分を追い込んでいました。「弟たちが指定してきた職に就いて、今月末には働いていないといけない」「ブログの更新が滞っているので、早く記事を書かなければいけない」「たくさん頂いているコメントに返事を書かなくてはならない」気がついたら「~せねばならない」という観念に、頭の中が染まっていました。一時はここから脱却したと思っていたのですが。だもんで、開き直りました。「無理に毎日ブログは更新しなくても良い」「コメントには返事を書くのが礼儀だけど、遅れても構わない」「仕事に就いてみて、駄目だったら辞めればよい」これで、かなり楽になれました。もともとうつ病になる人物は、責任感が強すぎる傾向にあるそうです。これが度を過ぎてしまって、苦しくなるのです。自分を追い込むのです。だったら脱却しよう。そう考えるのは簡単ですが、実感レベルに落とし込むのは大変時間がかかりました。でもいまの私の意識は、比較的楽に実感レベルで受け止めることが出来るようになっています。これが出来ていない人は、「分かんないよ」と言われることと思います。このことは、今後のブログ・メルマガを使って、じっくりと言葉にしていきます。これからも末永いお付き合いをお願いいたします。人気blogランキングへ
2006.01.07
コメント(1)
全15件 (15件中 1-15件目)
1