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金星人であるぼくの今年と来年の運勢は最悪らしい。今年はまさに最悪だったと思う。これが来年まで続くかと思うと気が重くなるが、なんの、合気道の気合で明るく過ごそう。春の来ない冬はない・・・とは誰の言葉なのだろう。言葉だけ記憶に残っているけれど。まぁ、ともかく、彼女の占いでも運勢が悪いのは3年間までということらしいし、明るい将来を信じよう。みなさん、良いお年を。なんども訪れてくれた方々、ありがとうございました。
2004年12月31日
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どん底の一年だったといえる。救いは、底まで落ちて跳ね返ったことだ。ちょっと浮上した。「不惑四十」をことによると、言葉のままに迎えられるかもしれない。惑わず生きていかれるかもしれない・・・という期待を自分にかけられる。多くの人が探し求める「生きがい」は家族の中にある・・・ということを家族を失って学んだ。別の言い方をするなら、誰かのために生きられる自分になったとき、「生きがい」を手にするのかもしれない。「自己中心」から「他者中心」になったとき、多くの景色が見えてくるに違いない。そうおもう。
2004年12月30日
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木・金と、子供たちがウチに泊まりにきていた。楽しいクリスマスを過ごすことができて、また幸せを分けてもらった。一夜明けて、まるで爆発があったような部屋の散らかりように、そして流し台に山盛りになった洗い物に、ちょっと途方に暮れたりする。でもそれが「彼らがここにいた痕跡」でもあるので、気持ちが豊かになる。今日はゆっくり、それらの残滓を味わいながら、片付けていこう。
2004年12月25日
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歴史小説の中では古典ともいえる吉川英治著「宮本武蔵」を読んでいる。まだ五巻だ。文中、主人公がこう叫ぶ。「よく死のう!」吉岡道場の遺恨試合で70数人?を相手にして、単身にて決戦場へ踏み込もうとする場面だ。武蔵は逃げることもできたが、死を覚悟して剣の道を究めることを選んだ。よく死のう!とは、裏を返せば、よく生きよう!ということだ。つまり微塵も悔いなく、決死の覚悟で常に事にあたろう、という張り詰めた「生」である。ぼくは小説を読みながら、死生観を思い巡らせたのだった。ちなみに彼の二刀流はこの時、無意識に生まれたものらしい。切っても切っても襲い掛かってくる新手に対して、一つの刀では足りず、気がついたら敵の刀を左手に持って戦っていたというもの。人は決死の覚悟、あるいは背水の陣をひくと、無意識に最も理にかなった方法を発見するのかもしれない。
2004年12月21日
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二週間くらい前にこたつを買った。現時点でそれは、段ボール箱に入ったまま部屋の隅でむやみに場所を占めているに過ぎないが、いよいよ寒くなったので、今日やっとこたつ布団を買ってきた。これで役者が揃ったのだ。しかし、ダンボールを開いて設置するのが億劫だ。たしかDVDデッキを購入したときは、設置や説明書を読むのが面倒で約二ヶ月も開封せずにほったらかしてあった。物は「こたつ」だから、寒さに耐えられなくなれば嫌でも開封することになるが、何とか早めに決意して設置しようと思うのだ。
2004年12月19日
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郵便局から出ると、寸刻先に出た母子が自転車で立ち去るところだった。自分も自転車に跨ろうとしたところで、「バイバイ」という可愛い声。見れば、母親の自転車の前席から二歳になるかならない女の子がぼくに手を振っているのだった。笑顔で小さな手のひらをヒラヒラと。なんだか嬉しくなり、ぼくも笑顔で手をふり返した。母親は困ったような笑顔を見せた。昨今、子供を標的にした物騒な事件が多いので、愛想の良いのも考えものだし、ぼくを警戒する気持ちが多少起きても不思議はない。でもぼくはちょっと嬉しくなった。そのままの気持ちで自転車のペダルを踏み、公園の前を通り過ぎるとき、上空で50羽ほどの鳩の群れが何度も何度も旋回しているのが見えた。ぼくはペダルを踏む力を弱めて、その光景を仰ぎ見ていたが、それすら何だか気持ちよかった。小さなことで今日一日が良い日になった気がした。
2004年12月16日
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家族で同じものを食べる幸福感は大きい。自分が料理したものを子供が「おいしい!」と言いながら見せる笑顔のスパイスは、美味しさを倍加する。流し台に山盛りになった食器やシチューがこびりついた鍋を片付ける手間を差し引いても余りある幸福感だ。一人の食事が当たり前になったからこそ味わえる幸福感か・・・?ともかく色んな方面で「幸福」に対する触覚が鋭敏になっていることはありがたい。
2004年12月13日
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まずなにより戸惑うのは、女性と組むことだ。当初、合気道は男の世界・・・と勝手に想像していたが、入ってみると女性が半数だったりする。今日はちょっと可愛らしい人妻に対して、ぼくは後ろへ回り込み、羽交い絞めにしてしまうのだが、遠慮してしまってのっけから腰が引けている。それを彼女が両手を上げながら回転し、反対にぼくの手首をつかんだかと思うとひねり上げ、たちまち畳の上に組み伏せられた上、身動きのできないようなことになる。見事だ。・・・なんて感心しているだけでは仕方ない。「優しすぎるから、もっと力をこめて!」と先生から注意されるが、女性に対しては要所要所で「手加減して」と言われる。むずかしい・・・。しかし、合気道の面白さは体重無差別ということだ。自分より体格の大きな人間も関節技を使えば、身動きをとれなくすることができる。したがって、女性が男性を締め上げることも十分可能で、稽古でも男女混合無差別ということになる。もう「合気道にくびったけ」になっているので、どうしても贔屓目に見てしまうが、自らは決して攻撃しない、という姿勢もいいと思う。あくまで和合するための武道なのだ。攻撃がないために、相手を手負いにして返って噴気を漲らせるということもない。致命傷を与えずに相手の動きを完全に止めてしまう。呼吸と気合の武道にはまっている。
2004年12月10日
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朝、洗濯機を回し、干した洗濯物が夕方になってちゃんと乾いている。乾くかなぁ・・・と気にかかっていたけれど、「乾かしておきましたよ!」と秋風が青空にビュッと吹き渡っていく。そんなとき「ありがたいなぁ」と思う。ぼくが失ったものは大きすぎるけれど、小さなことに目がいくようになり、感謝の念が湧く。そういう自分は悪くない・・・と思う。流し台にたまった洗い物もビュッと秋風が片付けてくれたら・・・なんて贅沢なことは、想像しませんよ。
2004年12月09日
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用事があったので、郵便局まで自転車で走った。秋風が頬に冷たく感じるが、空が気持ち良い。たまに自転車に乗ると、空の美しさに見惚れてしまうのだ。それから街路樹の紅葉に気付き、今年はちゃんと紅葉を見ていないなぁ、と思った。いつもなら山登りに行き、山懐へ深く分け入って一人で錦秋を堪能するのだが、この秋は合気道の道場に通い始めたため、機会がない。ああ、山へ行きたい。
2004年12月06日
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娘の保育園の発表会。ぼくはビデオカメラの撮影のために、ホールのやや後ろで窓際に陣取った。娘の出番がきたとき、録画スタート。画面も気になるが、肉眼でもみたい。彼女は歌いながら、前の方で観ている元妻の姿を見つけて笑顔になる。するとまた目が泳ぎだす。ぼくの姿を探しているのが分かる。(おーい、ここだよーっ!)本当は手を振って叫びたい。劇も終盤になって、また歌のシーン。そこでビデオカメラに大写しになっている娘がぼくを見た。(あっ、気付いた!)ぼくは画面から目を離して、肉眼で彼女を見た。娘と目が合う。ぼくをジッと見ながら大声で歌っている彼女を見て、嬉しいやらホッとしたやら・・・。(お父さん、見てるからね)胸の中で呟く。ちゃんと伝わったと思う。目が合ったから。
2004年12月04日
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明日は娘の保育園の発表会だ。とても楽しみ。ぼくは30km離れたところにある保育園まで娘の姿を見に行くのだ。遠距離恋愛ならぬ、遠距離発表会だ。でもその車を飛ばしている時間も楽しい。日時を知らせてくれた元妻にも感謝せねばならない。父親らしく?ビデオカメラをしっかり撮ろう。合気道の稽古は今日で五回目。まだまだひよっこだが、先輩方が受け入れてくださっているのが嬉しい。毎週一回通えば黒帯まで二年もかからないだろう、とのこと。頑張ろう。
2004年12月03日
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コーヒーのおいしい季節になってきた。ぼくはものぐさで、これまでインスタント・コーヒーがほとんどだった。「ネスカフェ・ゴールドブレンド」がそれなりに贅沢だと思ってきたけれど、一人になってからというもの、もうちょっと自分に良いものを飲ませようと、フィルターで淹れるコーヒーを飲むようになった。これがやはりおいしい。インスタントとは格段に味がちがうのだ。いまもパソコンの横に置いたカップから白い湯気とともに馥郁とした香りが漂っている。こういう小さなことにも微かな幸福を感じるのだ。
2004年12月02日
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