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自分の意思をもって生きる、近代人の世界はここにはない。それとまったく反対の人生を生きる人の姿だ。アレクセーエフもまた、そのひとりである。でも彼らが時折浮かべる穏やかで、すなおな表情は、ぼくをつよくゆさぶる。そして、こんなことを想う。 文章はなにげないが、注意して読むと仮名の使い方や、文の切り方に独特なものがある。何よりも、最後の言い切りが、譲らない 荒川洋治 を感じさせて、なかなかやるなあ、という雰囲気なのだ。
自分というものをもって生きようとすることは、ある意味でむなしいこと、もしかしたら徒労なのではないか。自分というものをもって生きることよりも、それをもたないで、生きることのほうに、しあわせがあるのではないかと。
アレクセーエフは、オブローモフのそばにいる。オブローモフがどこかへ行くと、ひょこひょこついてくる。二人はとても楽しそうだ。そこには、古い社会を通り越した人には見えないものがある。
子供に読書をすすめる先生のなかには、 相田みつを の詩は読むが、まともな本は読まないという人も実は多い。先生が読まないのに、子供たちに本を読めというのは無理がある。 一般に「先生」は本を読まない。何年も同僚で暮らしたからよく知っている。でも、 「にんげんだもの」 は保健室や図書室の掲示板にあふれている。
読書を語るなら、先生は、しぶしぶ読んだ名作の話をするのではなく、先生がこれまでに読んだ本を、正直に語ることである。その読書のようすがどんなに悲惨、貧相なものであっても、それでいいと思う。
一人の人間が、正直に自分の読書を公開する。すなおな自分を見せることが大切だ。
短歌、俳句は、しっかり覚える。それだけでいいのではないかと思う。そこにあるその文字でおぼえる。からだのなかに文字を入れる。 荒川 のいう「ことば」への信頼が、たとえば、高校の「国語」の時間に通用しているだろうか。「意味」へ「知識」へと、草木もなびいて、しゃべったことの定着率を数値で確認することを授業と呼んでいないだろうか。もう終わったこととはいえ、わが身を振り返っても、お寒い限りだ。
遠山に日の当りたる枯野かな(高浜虚子)
滝の上に水現れて落ちにけり(後藤夜半)
秋風や模様のちがふ皿二つ(原石鼎)
永き日のにはとり柵を越えにけり(芝不器男)
いずれもすばらしい句である。だがしっかり字句を記憶するのはむずかしい。黒板に書くとき、そのたびに迷う。「当り」は「当たり」ではない。よみは同じだが、「当り」である。
ぼくはここのところを「あり」とおぼえる。そうすると「当り」という文字がでる。「現れて」も「あられて」とおぼえる。すると、字句が正しく引き出される。
高校生や学生を見ていると、頭のなかに「いいことば」があまりはいっていないように思える。からからとはいわないが、なにもない感じがある。これからこうしようとかの生活設計はあるが、それは「意味」に属すること。
俳句は「意味」ではない。いわくいいがたいいいものをもった、ただのことばなのだ。しかも、いちいち考えずにすぐにとりだせることばだ。そんなことばを一〇代のころから、あたまにつめておきたい。きっといいことがあるだろう。
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