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三亜から香港啓徳空港まで、1時間ほどのフライトだったと思う。親切な中国民航のスタッフのおかげで、想定していなかった香港への直行チャーター便に乗れ、思いがけず、早く香港に到着した。啓徳空港は滑走路が一本しかなく、ターミナルの中も外も、歩くだけでも疲れるほど人人人で混雑している。香港には北京留学の直前の8月に2週間ほど出張で来ていた。その時は、ホテルと事務所の往復だけしてたこともあるが、特別な印象はなかった。当時、香港女性は若くても腋毛を剃ってない人が多く、ほぼ全員眼鏡をかけていた。食事は、高級な部類の広東料理は、当時の自分には美味しいといえば美味しいが、ものすごく美味しいとも思わなかった。2週間いるだけで日本食が恋しくなった。当時、事務所も宿泊先のホテルも、香港島の繁華街、銅鑼湾にあった。歩道と車道の間には柵があり、歩行者はとにかく歩道をあるくしかない。その割には歩道が狭く、歩くだけで疲れるのだが、強制的に横断歩道を渡るように誘導される。銅鑼湾には、日系の百貨店がSOGO、大丸、松坂屋、三越等があった。大陸からの旅行者は皆無で、街で耳に入ってくる言葉は、広東語が圧倒的な多く、それに英語か。日本語もそれほど聞こえてこなかったように思う。 そんな印象だった香港だが、中国から入った今回は違った。空気がきれい、街は活気に溢れている、物が豊富、日本の食品、本、生活用品が手に入る、レストランも清潔、銀行、イミグレ、交通機関、何もかもが合理的。素晴らしい。東洋の真珠。 とこんな具合に、啓徳空港に着いた時から感動していた。人間の印象なんて、前後の環境によって、こんなに変わるものかと我ながら驚いた記憶がある。
2021.03.26
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目的地の三亜は想像以上に快適だった。先ず、暖かい。暑いくらい。海鮮料理も美味しい。北京では海鮮料理など食べたいとも思わなかったが、久しぶりの海の幸が嬉しかった。宿泊してたのは、広大な敷地の中にビラが点在しており、私とO氏にはその中の一つがアサインされた。同部屋の人がもう1人いた。日本人。詳しくは忘れたが、会社を辞めて中国をバックパッカーで旅行しているらしい。 Y子さんがお世話になった先生が勤めている研究所にもお邪魔したが、その前後だったか、とにかく南シナ海の照り返しとジャンクが印象的だった。何もかもがのどかでした。 何日か滞在の後、先ずO氏が広州行きの船に乗るために出発した。O氏とは香港で落ち合うことにしていた。次に、北京まで汽車で帰ると言うY子を見送った。最後出発した私は、海口までバスで戻り、海口から広州に飛行機で飛び、広州から電車がバスで香港に出ることになっていた。 苦労して空調つきノンストップバスのチケットを手に入れた私は、喜び勇んでバスに乗った。海口のホテルで一泊した後、空港に向かったが、あろうことか予定のフライトは、キャンセルになっており、チェックインカウンターは黒山の人だかり。 カウンターにいる中国民航の担当者は、若いが、誠実に対応しているのがわかった。そんな彼が乗客から責められてた。そんな光景を見ながら、本心から彼のこと、気の毒に思えた。 「大変だね」と思わず声をかけると、「最終目的地はどこと?」と聞いてくれる。「香港」と答えると、「なら、ここから香港への直行便にのらないか?」と聞いてくれる。 旅の醍醐味は移動にあり、と実感したのはこの瞬間だった。
2021.03.24
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87年のクリスマス直前、日本から来た留学生仲間3人で海南島に行くことになった。同行者は、企業派遣のOさんとY子さんの2人。Y子さんは、これまでもバックパックで中国を旅行しまくっていたらしい。Oさんは、寡黙だが親分肌の頼れる兄貴。私は、と言えば、一応リュックは持っていたが、バックパッカーとしての経験はなく、中国の国内旅行もその時が初めての初心者。 Y子さんのモットーは、中国国内旅行の交通手段は、汽車の旅が基本。それも、いわゆる2等硬座。今回、海南島まで飛行機を使うにあたり、ずいぶん葛藤があったらしいが、経緯は知らないがとにかく同じ飛行機で行くことになった。 語言学院から北京空港までのタクシーの中で、自分がハイテンションになっていたことを覚えている。 12月の北京はとにかく寒い。学生寮はその頃までに1人部屋になっていたが、暖房は部屋に備え付けの小さな給湯式暖房器のみ。ただ、窓は二重になっていたし、部屋にいて寒いと思ったことはない。ところが、一旦寮の建物の外に出ると、少し歩くだけで足下から身体が冷え切った。ということで、「中国のハワイ」、「常夏の楽園」海南島に対する期待は膨らむ一方だった。 北京を定刻に飛び立った737は、約3時間で無事海口空港に着陸した。 我々の目的地は、島の南にある三亜の鹿回頭別墅。Y子さんは、海南島には2度目とかで、三亜には以前お世話になった知り合いがいるとか。海口についてからは、Y子さんがリーダー。で、彼女の指示通りにバスに乗って南に向かう。 途中、通什という、少数民族の村がある町に泊まる。この時初めて、ユースホステルの多人房と呼ばれる大部屋に泊まる。文字通りベットがいくつも並んでいる部屋に男女入り乱れて寝ている。若い女性もベッドの上で平気で着替えたりしている。ここではそういうものらしい。 Y子さんのように汽車の旅に固執する留学生は多くいた。私自身は、移動に時間が取られ、目的地の滞在時間減るのがもったいないなとずっと思っていた。この後、三亜から香港に出るのだが、この時の経験で自分の考えは間違っていたことに気づいた。旅行の醍醐味は、少なくとも当時の中国では、目的地までの移動にあった。続きは明日。
2021.03.23
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中国語の勉強について。 前にも書いた通り、北京に行くまで中国語とは全く縁がなかった。初めて生の中国語を耳にしたのは、入社2年目の頃、東京から大阪までアテンドした台湾人のお客様2人がボソボソ相談している声が聞こえた時だった。もちろん、お二人が話してる内容は全くわからない。こんな音で意味が通じることが不思議だなと思っていた。 北京語言学院の初心者クラスの授業では、先生たちは、他の言葉は中国語以外は一切使わなかった。 授業は発音から始まった。ピンインと呼ばれる漢字の発音をアルファベット表記する方法があり、ボー、ポー、モー、フォー、、、と発音するが、日本語のローマ字と違い、母音がセットになっていない子音だけの発音というのは日本人には難度が高い。 anとang、inとingの違いが日本人全員かどうかは知らないが、少なくとも自分には違いがよく聴き取れなかった。 聴き取れないということは、当然違いを発音することもできない。ところが、日本人以外のどの国の人もほぼこれら違いがわかるらしい。スタートの時点では、欧米から来た留学生の方が、日本人の生徒よりも成績が良かったのではないか。ところが、勉強が少し進み、漢字が出てくるようになると、読み書きにおいては日本人の独壇場である。知らない単語がでてきても日本人なら漢字で書かれている限り類推ができる。一方、欧米人にとっては新しい記号にすぎない。外国語を勉強する上で母国語からの類推ができること、でこれほどアドバンテージがあることを初めて知った。イギリス人がフランス語を勉強したり、ドイツ人が英語を勉強するときのアドバンテージもきっと同じ何だろうなと思った次第。段々、中国語の勉強が面白くなっていった。
2021.03.22
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当時の北京では、何かにつけて外国人は現地の人たちと区別されていた。 まず、使用する通貨が違った。街で流通している通貨は人民元だが、外国人が使用できるのは外貨兌換券(FEC)だった。FECは、空港、中国銀行、ホテルでパスポートを提示して外貨から交換できる。メリットは、交換時の証明書があれば外貨に戻すことができた。また、市内免税店や友誼商店ではFECしか使えず、当時圧倒的な人気があった日本製の家電製品を購入する際は必需品だった。公式には同価値のはずだが、20%くらいのプレミアムがついて交換されていたように思う。 国内線チケット、電車チケットから紫禁城の入場料に至るまで、外国人料金は別枠で設定されていた。ざっと2倍の差があった。外国人料金の設定がない場所には、入れないと理解していた。タクシーだけは料金に区別はなかったが、当時は現地の人でタクシーを使う人はほとんどいなかったと思う。 一方、一部のホテルでは、パスポートを提示しないと建物の中に入れてもらえないこともあった。パスポートを持っているのはほぼ外国人に限られたので、実質的に現地の人が使えないホテルもあった。 病院も外国人専用の病院しか使えなかったように思う。病気をした場合、市内にある北京協和病院か、少し郊外にある日中友好病院にほとんどの人がかかっていたと思う。 学校の寮に住んでいたので直接は関係なかったが、外国人が住める場所はもちろん限られていた。 当時日本はバブル経済がはじまりかけた頃でイケイケの時代。一方北京では、街中で食事したり、日用品を購入する分には驚くほど物価が安かった。寮に住んで贅沢をしなければ1ヶ月1万円も必要なかったと思う。ところが同じ時期に外国人専用のアパートに住んで日本レストランで昼ごはんを食べる生活をする日本企業の駐在員の生活費は、東京で生活するよりもはるかに多くかかったと思う。外国人というだけで、良くも悪くも特別扱いされた時代、今思えば、矛盾に満ちた不思議な世界、不思議な経験だった。
2021.03.21
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北京で生活するための必需品は自転車だった。当時から、車道と自転車道は、完全に分離されており、走りやすかった。現地の人は、1〜2時間の自転車通勤はなんとも思ってなかったように思う。 北京に着いてから最初の週末に同室のAさんと自転車を買いに市内に出かけた。大使館地区の長安街沿いにあった友誼商店で買った自転車は、Bugatiブランドの変速機付。確か400〜500元だったと思う。Aさんが購入したのはいわゆるママチャリ。 2人で意気揚々とまっさらな自転車に乗って市内から語言学院まで帰ろうと友誼商店からペダルをこぎ始めた直後、後ろにいたAさんの「あっ!」と叫ぶ声が聞こえた。後ろを振り向くと、買ったばかりのAさんの自転車のチェーンがバラバラになって路上に散乱していた。北京に着いてから毎晩のようにAさんとは酒を飲みながらいろいろ語り合ったが、どうしても当地の生活に対する不満ばかりが口から出てくる私に、やんわりと中国のいいところをもっと見るべきだと諭してもらうことが多かった。そんなAさんが、地べたに座り込んで、私に向かって、「○○くん、この国に将来はない。」とつぶやくのを見て、思わず笑ってしまった。 通行人に教えてもらったのか、友誼商店の店員に教えてもらったのかは忘れたが、当時、北京で買った自転車はすぐに修理屋に持っていき、ネジを締め直してもらうのが常識と後で知った。 詳しい手続きは忘れたが、北京では自転車に乗るのに免許証を発行されたように思う。自転車を手に入れてから、行動半径は格段に広がり、免許証を眺めていると、現地の生活に溶け込み始めた実感があり、少しずつ北京生活が好きになっていった。
2021.03.20
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食事は、最初の頃は基本的に朝昼晩、ほぼ毎食学校の食堂を利用していた。 カフェテリア方式だが、ご飯とおかずを2品ほどで、確か2元程度、日本円で約80円くらいだった。日本と比べればもちろん安いが、当地の物価を考えれば、かなり高かったと思う。イスラム教の学生のために、2階には豚肉を使わないコーナーがあったが、彼らはほとんど自炊していた。隣室は、スーダン人だったが、毎食豆のようなものを煮て食べていた。さて、80円の食事は、まずご飯と一緒に炊かれている小石を取り除く作業から始まる。ご飯自体は、大きな琺瑯のトレイの中で炊き上がっており、それをお好み焼きのヘラのようなもので、長方形の形に切り、お皿に取ってくれる。特に美味しくもないが不味くもない。おかずは、豚肉と生姜を炒めたようなお気に入りの料理もあったが、すぐに油が鼻につくようになった。ふりかけ類をもっと持ってくれば良かったなと後悔した。 その後、自転車を手に入れ行動半径が広がり、生活に慣れるに従って地理も含めた地元の情報も集まるようになり、学校の外で食べる機会も増えた。学校の裏に石炭部の経営するホテルがあり、そこの食堂にも時々行ってたが、なにを食べても美味しくなかった。先生の家に遊びに行った時に出してもらった家庭料理が一番美味しかったと記憶している。 翌年の2月に急性A型肝炎に感染し、帰国することになるが、入院先の病院で出てくる肝炎患者用の食事が美味しくて、毎食楽しみだったと言えば、その直前までいた北京での食生活を想像してもらえると思う。もちろん、日本の飽食の生活に慣れた末の贅沢だとはわかっているが、食事時間が楽しみでない生活がどれほど味気ないものか図らずも身をもって経験することになった。
2021.03.19
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翌日から授業が始まったような記憶がある。割り当てられたのは、全員日本人の初心者クラス。クラスメートは約20人いたが、年齢は18歳から40過ぎまで、まさに老若男女の混合クラス。北京留学が決まってからも、日本で中国語の勉強は一切しなかった。ニーハオくらいは聞いたことがあったが、漢字では恐らく書けなかった。初心者クラスを教えてくれる教師は3人。文法を教えてくれる韓先生は50くらいの女性、会話担当の馬先生は、30代の男性、ヒアリング担当も30代の女性だった。3人とも、熱心に教えてくれるいい先生達だったが、3人の共通点は、日本語が全くできないこと。 最初は先生がなにを言ってるのか、当然ながら全くわからなかった。他のクラスメートもそうだったと思う。ところが、授業が始まって1ヶ月ほど経った頃、先生が話し始めると、クラスメートが皆、一斉に教科書の同じ頁を開こうとしているのがわかった時は、ちょっとした感動を覚えた。 自分の話す中国語が初めて現地の人に通じた時のことも鮮明に覚えている。当時学校の構内でタクシーが客待ちをしていた。ある日の午後、授業が終わり、市内に買い物に行こうとそんなタクシーの一台に乗った。ふと、その日習ったばかりの、「今何時ですか?」と運転手氏に尋ねた時、彼は、聞き返すこともなく、ちらっとフロントパネルに付いている時計を見てから、前を向いたまま「2時20分」と答えてくれた。これまた感動ものでした。本来言葉は、赤ちゃんと同じく、耳から学ぶものなんだろうなと改めて思った。
2021.03.18
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成田を離陸した中国民航が北京首都空港に向けて降下を開始しはじめた時、窓から見た北京の街は、漆黒の闇だった。と書きたいところだが、87年当時、中国はまだサマータイムを導入しており、空港を出た時はまだ明るかったことを覚えている。 どういうわけか、留学エージェントがアレンジしたはずの車がなかなか現れず、薄暗くなり始めてから留学先の北京語言学院に向かった。 当時、北京首都空港は、市中心部から見て北東の方角にあり、空港と市内は、空港路という片道一車線の道路で結ばれていた。乗った車のヘッドライトは暗く、頼りないが、運転手氏は、快調に飛ばす。交通量は少ないが、前に遅い車があると、対向車線にはみ出して追い越す。前から暗いランプの光が見えても、追い抜かそうとする、何度目を瞑ったかわからない。 目的地の北京語言学院は、市の北西部にあるため、空港路で一旦市内の環状線に入ってから、学院路を北西に進む。 寮についたのは、夜の8時頃だったと思う。割り当てられた寮の部屋は、六楼の136号室。コンクリートむき出しの六畳ほどの部屋に、ベットと机が二つずつ置いてある。窓には鉄格子がはまっている。同居人は、日本から同じフライトできた15歳ほど年上の男性。明日からどうなるのやらと思いながら、病院のようなベットで中国第一夜を過ごす。
2021.03.17
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会社に入って4年目の1987年9月から翌年2月まで、中国語研修生として北京に住んでいた。当時の北京では、シトロエンのタクシーに並んで馬が荷車を引いている風景を日常的に見られた。たった30年と少し前のことだが、当時の北京での生活、それも留学生として学校の学生寮での生活は、飛行機でたった4時間の距離にある東京の生活とは何から何まで違いが大きすぎた。日本に帰ると、北京で生活していたことが現実のものと思えなかった、と言えば少し大袈裟か。 2年の予定で気負って始めた北京留学生活は、急性A型肝炎に感染したことにより、突然終わった。 4ヶ月だけの語学留学だが、これがきっかけで、その後14年間中華圏各地に駐在することになる。 明日以降、外国人留学生から見た当時の北京を紹介したい。
2021.03.16
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初回のボトックス治療の順番を待ちながら、他の患者さんと話す機会があった。言葉を交わしたのは、30代の男性、30代の女性、50代の女性の3人だったと思う。発症時期やボトックスの回数は、皆それぞれだったが、3人とも見た目にはほとんどわからなかった。当時の自分の症状は、明らかに首が右を向いていたので、ボトックス治療の効果に期待が膨らんだことを覚えている。ただし、見た目にはわからなくても、首から肩にかけての異常な緊張がどれほど疲れるかは自分がその状態になって初めてわかった。 3人の共通点がもう一つあった。皆さん、真面目で、他人に思いやりのあるいい人だった。この病気にかかる人は、どちらかと言えば真面目な性格の人が多いのかなとその時そう思った。 痙性斜頸については、本やネットでできる限り調べたが、正確な発症原因はわかっておらず、従い、治療も対症療法にとどまるようである。 ただ、治療に取り掛かるのは早ければ早いほど完治する可能性が高いようである。ブログの最初の方にも書いたが、この病気は、症状が出てから正確な病名に行き着くまでに時間が経過することが多いようである。自分の場合もそうだったが、初期の頃は肩凝りが酷くなったとしか考えなかった。友人のアドバイスで比較的初期の段階で病院に行き、神経内科の医師の診察を受けたことが完治につながったと思う。 症状がかなりはっきり現れてからも、香港の地下街を歩いて通勤していた期間があったが、反対方向に歩いている人が、通りすがりに自分を見て、ある人は驚き、ある人は不思議なものを見るような顔をしていた。もっともこれは自分の思い込みに過ぎないかもしれないが、人に会ったり、写真を撮られたりするのが、億劫になることは間違いない。それが続くと、気持ちが塞ぎ込むことも十分考えられる。自分の場合、販売会社の責任者という仕事柄、人に会わないわけにいかず、そのうちなんと思われてもいいやと開き直れたのがかえって良かったのかもしれない。 それと、一番大事だったと今思うことは、症状がいちばん酷い時も、何故か、この先ずっと治らない自分の姿を想像できなかった。根拠はなかったが、必ず治るはずとなんとなく信じていた。 主治医の先生が、よく、「信じるものは救われる」と口にしていた。ずっと冗談かなと思っていたが、意外と一番大切なことかもしれない。 痙性斜頸は、10000人に2〜3人が発症するらしい。何かの巡り合わせでこの病気にかかった人たちには、少々時間がかかっても、決してあきらめることなく、いつか治ると信じて、病気に打ち勝っていただきたい。
2021.03.15
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本帰国後、最後のボトックスから3ヶ月経った6月の診察で、主治医より、治療は一応終わりと告げられる。身体に違和感はまだまだ残っており、左を向くのはまだ辛かったが、ボトックス治療を開始した頃の状態と比べると違いは明らかで、病気のことを知らない人が見ても気がつかない程度には戻っていたと思う。 元々肩凝りが酷かったが、痙性斜頸の間は肩凝りの感覚を忘れていた。もちろん、当時もこれ以上ないくらい凝っていたと思うが、それ以上に首の筋肉が突っ張る感覚が強くて、単に肩凝りの感覚が鈍くなっていただけだと思う。 香港、上海にいる間も日本への業務出張はほぼ毎月あった為、時間がある時は、指圧院に通っていた。これまで受けてきた治療内容をイメージで表すと、ボトックスで、カチカチにかたまっている筋肉の大きな塊をざっとほぐした後、筋肉の繊維一本ずつに指圧で刺激を与え、合わせ技で徐々に正常な状態に戻っていったように思う。従って、主治医から治療終了を告げられてからも筋肉のかたさ自体はなかなか取れず、つい最近になって、指圧の先生から、やっと指が筋肉の奥の方に届くようになったと言われるようになった。足かけ7年は指圧院に通ったことになる。 6月に主治医から治療終了を告げられても、そのうち再発症するのではないかと不安になり、その後もほぼ3ヶ月おきに経過観察のため主治医のもとに通った。 そして、症状の有無を確認するだけの病院通いが、3回ほど続いた後、2015年5月の診療の際、主治医より、「完治」が告げられる。その際、看護師さんが、「寛解ではないのですか?」と聞き直してたことが印象に残っている。 終わってみれば、あっという間の2年半だったが、治る保証はどこにもなく、命に別状はないとは言え、もしこの状態が続いた場合、仕事や生活がこの先どうなるのか?とこれまで経験したことのない大きな不安に押しつぶされそうになる時もあった。 家族と多くの人の助けと幸運のおかけで、最高の医師と指圧師に巡り会え、比較的短期間で完治したことに対しては感謝の気持ちしかない。
2021.03.14
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2013年12月の初めに上海で撮った写真を見ると、顔はかなり右を向いてるし、全体に痩せこけ、身体が妙に歪んでいるように見える。正面を向くのが精一杯で、左を向く時は相当力を入れないといけなかったと思う。それでも、今回日記を読み返して、人間というものは意外と強いものだと思った。歩く時も違和感は残っていたと思うが、毎日出勤し、人と会い、会食をし、上海の街を散歩したり、水泳に行ったりしている。 2回目のボトックスから3ヶ月後の12月中頃に3回目のボトックス治療を受けに東京の病院に行く。薬は許容量MAXを打ってもらう。筋電図の反応を見ていると、部位によって針の触れ方が大きく違う。まだまだ、固まっている筋肉はありそう。それでも、全体的に最初の頃よりも振れ幅が小さくなっているのがわかる。治療の成果が目に見えるのは、改善の手応えがつかめてありがたい。 年末に上海に移動し、2014年の元旦は上海で迎える。1月2日から新会社の業務開始。決めること、やることが山ほどあり、1日があっという間に終わる。 年が明けてから、急に症状が改善してきた。3回目のボトックスが大きく効いた模様。 1月には、メンバーの友人に誘ってもらい、前から一度行きたかった香港ゴルフでもプレーしている。恐らく、相当疲れたと思うが、歩いて18ホール回れるくらいには回復してきた。別の週末には、香港の日本人仲間で、1時間以上フェリーに乗り、長洲島に海鮮料理を食べに行ったりもしている。少しずつ少しずつ改善している。 3月に4回目のボトックスを打つ。医師の判断で、薬は前回の1/3の量に、減った。やはり、症状の改善は確実に進んでいる。筋電図でも波は明らかに小さくなっている。ボトックスは右に集中して打ったが、左も引っ張られる感じがするので、医師にその旨伝えると、そう感じるのは一種の筋肉疲労のようなものと言われる。 4月に入ってすぐに、6月に本帰国することが決まる。
2021.03.13
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2回目のボトックス注射は、最初の注射から約3ヶ月後に同じ病院で同じ医師から受けた。初回よりも薬の量が増え、打つ箇所も15〜20箇所と増えた。 今回は、かなり効果があった。徐々にではあるが、首の旋回角度が少しずつ小さくなり、しばらくすると外見的にはほとんどわからなくなっていたはず。但し、本人にその自覚はない。右肩、あるいは首の右の付け根は、依然としてものすごく硬いし、痛い。歩く時も力が入るのか、バランスがうまく取れず、少し歩くだけでも疲れた。 そして、毎日出張や来客で忙しい日々が続いていたが、前触れもなく突然気持ちがストンと落ち込むことがあった。自分の意思に関係なく、突然首がほとんど真横を向くという普通想像もできない症状の病気に罹り、この先治るかどうかもわからない不安が先行する中、単身での海外生活に少し疲れていたのかなと今振り返るとそう思う。 日記の字を見ると、2回目のボトックスの後は、病気の初期の頃のような乱れた筆跡は見当たらない。 初回ボトックスを打つ前、一番症状が酷かった頃は、顔が右を向くため、経理のスタッフが持ってきた小切手にサインが出来なかった。スタッフに小切手帳を手で押さえてもらいながら、力を込めて顔を正面に戻してなんとかサインをしていた。手で押さえてくれているスタッフがボロボロ泣いていたことを覚えている。彼女としても上司のそういう姿はさぞショックだったのかなと思う。また、香港の空港で飛行機から降りてからイミグレまでの距離が、歩けなかった。構内を走る有料カートのお世話になっていたが、2回目以降はそういうこともなくなっていた。 当時、新会社の開業準備を上海で進めており、2014年1月からは、新しい会社の責任者として上海に赴任することが決まっていた。
2021.03.11
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最初のボトックス注射の効果は、実はあまり感じられなかった。注射から5日後の日記に肩の周りが少しだけ楽になった気がすると書いてあるが、顕著な改善は見られず。ボトックス注射の際、医師から飲み薬を処方される。人によっては、この薬だけで治ってしまうこともあるらしいが、同じく効果はなかった。 ボトックス注射の後、香港に戻る。香港では、カイロプラクティックは、一旦見合わせることにしたが、鍼はその後も続けた。 症状は大きくは改善していなかったはずだが、日記を読むと、ほぼ毎日お客さんと会食している。恐らく身体的にはきついこともあったかもしれないが、人と話している方が、病気のことを考えすぎず、気が紛れてよかったのかもしれない。 この頃、上海、台北にもよく出張していた。ボトックス注射から3週間ほど経った頃、出張先の上海のホテルで、日本人の書いた痙性斜頸の闘病記のブログを見つける。食い入るように読む。ガツンと頭を殴られたような気がした。ボトックス注射、鍼、マッサージ、指圧、薬、カイロプラクティック、そういったものに頼るばかりで、自分の力で治そうという気持ちが足りなかったことに気づく。 痙性斜頸の症状には、理由は不明ながら、手を当てると症状が和らぐ特徴があり、自分の場合もそうだったがブログの著者と同様、なるべく手を使わずに、そして、できるだけ前を向くように心掛けようと思った。 最初のボトックス注射から約1ヶ月後 日本出張の機会を利用して、経過観察のため、診察を受ける。薬は効果ないと判断して止めることになった。医師からは、「改善している、次回のボトックスで大きく前進すると思う」と言われる。少し期待が膨らむ。
2021.03.10
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痙性斜頸に詳しい日本の医師を紹介してくれたのは、上海から香港に出張で来ていた同僚だった。いや、正確には同僚の親戚だった。近くの日本料理店で一緒に夕食を食べた翌日、彼から私にメールが入った。彼には私の症状が相当酷く思えたらしい。適当な病院を医療関係者の親戚が紹介できるかもしれないので、病状を伝えて相談してもいいか、という内容だった。一も二もなく、痙性斜頸という病名を伝えた上でお願いしたところ、ほどなくして、自宅からアクセスのいい東京の病院を紹介してくれた。 この時、なんとなくそのうち治る気がした。 しかし、現実には、症状は何も変わっていなかった。この頃、よく部屋にあった姿見で自分を見ていた。正面を向いた自分の顔を見るのは一苦労だったが、鏡を見ては、「生死に関わる病気を患ってるわけではなく、食欲もある、睡眠も問題ない。ただ少し顔が横向いているだけ。大丈夫。」とよく自分に言い聞かせていた。 しばらくして、日本に出張で帰った時、ボトックス治療を受けた。最初、私を一目見た医師が「ここまでひどい症状は珍しい」と口にした。続けて、「但し、あなたの場合、旋回だけで、回転はないから治るかもしれない」と言われた。医師の「治る」という一言がどれだけ患者を勇気づけることか、恐らく経験者しか分からないと思う。 電極をつけた注射器をつかった筋電図で収縮が激しい部位を探し出し、部位ごとに薬の量を決めた上で、首、肩周りの筋肉5〜6箇所に打っていく。 打ち終わった後、医師から、「効果が現れるのは3日後から、9日まで徐々に効いてくる。」と言われる。 翌日から注射からの日数を何度も何度も数える日が続く。この医師に鍼、マッサージの効果を聞くと、否定することなく、並行して受ければいいと言われる。この頃、会社を早期退職して指圧学校に通い始めた友人が、腕のいい指圧師を紹介してくれる。以来、今に至るまでお世話になっているK指圧師との出会いはこうして始まった。
2021.03.09
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2013年5月末頃、日本人部下の結婚披露宴に出席した。当時、身体は日毎に動くことが辛くなっていたので、深センで開かれる披露宴に出席するかどうかずいぶん迷ったが、おめでたい話でもあるので、出ることにする。結果的にはこの判断がよかった。 披露宴には、一応主賓の立場で招待されていたため、お祝いのスピーチをする。自分としては、出来るだけまっすぐ前を向いて話したつもりだったが、実際には右に振れる頭を前に向かそうとしていたため、披露宴に参列した人達から見れば、スピーチの間中、頭が左右に常に動いている異常な光景だったらしい。 皆、さすがにその場でそのことを私に話しかけることはしなかったが、翌日からその場に居合わせた複数の人たちからお見舞いのメールがたくさん届いた。中国や香港の人が多かったので、鍼やマッサージのいいところを紹介するというものが大半だったが、その中で一人の香港人の友人が、西洋医学のお医者さんに一度診てもらった方がいいとアドバイスをくれる。なるほどと思い、4日後、その友人が予約してくれた公立病院を訪れる。 最初、総合科の医師の問診を受け、その後専門医を紹介してもらうシステム。感心したのは、総合科の医師が話を聞いて紹介してくれたのが、整形外科ではなく、脳神経科の専門医であったこと。かなり待ったが、専門医は、1時間以上かけて、問診と知能テストのようなものをした後で、インターネットである病名を英語で検索し、その日本語の翻訳を画面に映して、「まず間違いなく病名はこれだと思う」と話してくれる。その病名が、生まれて初めて聞く「痙性斜頸」だった。日本語で説明してあるその病気の症状を読むとたしかに自分の症状とよく似ている。その後、医師から治療方針の説明があった。念のため、日を改めて脳のCTを撮って、他の病気の可能性がなくなれば、ボトックス注射、内服薬、外科手術の組み合わせの治療を始めることになると説明される。 見るからに賢そうな30〜40代の香港人医師から告げられたのは、「この病気は、治療しても改善はするが、決して完治することはない。」というもの。そう話した後で何故か笑顔で「これからタッグを組んでこの病気と闘っていこう」と握手を求められたが、治らないと言われたショックが大きく、医師の声は遠くで聞こえていた記憶がある。 この医師のことが、どうも信用できずに、病院に行った翌日、別の友人に紹介してもらった香港島の中医を訪れ、鍼とマッサージの治療を受け始める。香港で鍼治療を受けるのは初めてだったが、とにかく鍼が太いことに驚く。アルコールでさっと皮膚を消毒するや否や、まさに、ズブっという感じで首から肩、腕にかけて、十箇所以上鍼を刺し、針にワイヤーをつけて、電気を流す。ビクッビクッと電気が流れる。インターネットで調べた病気の説明にも鍼が効果ありと書いてあった。ツボに刺してあるので痛くはないのだが、なんとも言えず気持ちが悪い。我慢すれば治るかもしれないと思いながら、この中医には10回は通ったと思う。治療からの帰り道、てこでも動かないという感じで、相変わらず顔がしっかり右を向いたままの状態に何度絶望的になったことかわからない。 握手した医師のいる香港の病院にはその後行くことはなかった。だが、彼のおかげで病名がわかっていたことが、その後の展開につながっていく。
2021.03.08
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2013年4月28日に日本で会社関係者の結婚披露宴に出席した際、身体がガチガチに固まっていたと書いている。あれくらいの方が威厳があっていいのかもと続けているが、座っているだけで、かなり辛かった記憶がある。 4月30日には、帰国ついでに母親の家に行き、首の症状のことを話している。わざわざ心配させるようなことを話すということは、傍目にもわかるくらい症状が出ていると自覚していたからだと思う。この段階では、まだ病名はわかっていない。 香港にいる時は、水泳は相変わらず続けている。水に入ってると、あまり首の違和感を感じていなかったような記憶がある。 5月6日から香港のカイロプラクティックに通い始める。藁にも縋る思いだった記憶がある。 この頃から、身体を動かすこと、具体的には歩くことがかなりしんどくなっていた。5月9日にタイに出張に行った際、工場見学で歩くのが辛かったと書いてある。 この頃、香港のアパートの前にあったマッサージ店にしょっちゅう行ってる。大陸から来た女性のマッサージ師が、右胸の付け根が硬いのは、「奇怪=おかしい」とつぶやくのを聞いて、「侮れない」と書いている。 これまでの経緯をまとめると、12月のめまいの後、年が明けてしばらくしてから、朝、徒歩での出勤時、決まった場所にに来ると顔がクルッと右を向いて、最初は気のせいかと思ったが、段々右を向いている時間が長くなり、少しでもまっすぐ見ようとすると、結果的には身体そのものを左の方に捻ることになっていた。そうなると何が起こるか? 答えは、真っ直ぐ歩くのにこれまでの何倍も体力を消耗する。人間の身体は少しでもバランスが崩れると歩くのがこんなに大変になるものかと再認識した。 症状が進行しながらも病名がわからない中で、マッサージ、カイロプラクティックを闇雲に試す。この時点でも、肩凝りがひどくなったくらいに思っていた。 この頃、時々、ふっと肩の力が抜ける瞬間があった。首が自由に回せるってこんなに楽だったのかと思う瞬間だが、楽になる時間は長くて半日と、いつも長くは続かなかった。 病名がわかるまでに時間がかかることが、多くの痙性斜頸患者が経験する特徴の一つ。 次回は、病名がわかるまでの経緯について書くことにする。
2021.03.07
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2012年からの日記を読み直している。記載内容から当時のことを場面場面で思い出すことがある。少しずつ痙性斜頸の症状が出ているはずだが、2013年3月までの日記には具体的な症状についての記載はない。でも、この頃には、名刺を出す時、手が震えたり、朝、徒歩で出勤の際、九龍公園の前を通るといつも顔が無意識に右に旋回していた様な気がする。 相変わらず、海外出張、宴会、ゴルフ、水泳、ウォーキングを続けている。今考えるとかなり無理をしていたのかもしれない。 3月24日の日記に、「肩に力が入る現象治らず」と初めて書いてある。 4月8日には、「朝から首がコチコチに固まってる」と書いてある。 この頃は、症状はまだ固定しておらず、力がスーッと抜けている時もけっこうあったようである。水泳、ゴルフ、海外出張、宴会は相変わらず続けている。この頃から、突然気持ちが落ち込む症状が時々出るようになってきている。 続きは明日。
2021.03.06
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今思い返せばあの時から体の変調が始まっていたのかもしれない。 2度目の香港駐在が始まって一年が経過した2012年12月14日の早朝、前日泊まっていた深センのホテルから車で香港に戻る途中の出来事。中国側の皇崗イミグレを通過して香港側の落馬州に移動途中、橋に向かう螺旋状の道に沿って運転手が大きくハンドルを切った瞬間、視界の景色が変わった。 身体中が火照り、あれっと思った瞬間、車の天井が回り始めた。記憶にある限り生まれて初めて「めまい」を経験したのがこの瞬間だった。 この時から始まり、主治医に完治を告げられた2015年5月25日まで、自分の意思に関係なく(自分の場合)首が右を向くなんとも奇妙な病気「痙性斜頸」に苦しめられることになる約2年半の記録を残しておこうと思う。 2001年12月から昨年7月まで毎日日記をつけていた。日記を辿りながら振り返ることにする。
2021.03.05
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武者小路実篤は毎日のように書を書き、絵を描いたが、ついに上達しなかった。山口瞳さんは実篤の書画の腕前をそう述べて、だから好きだと書いている。 『私にとって「勉強すれば上達する」ということよりも、「いくら勉強しても上手にならない人もいる」ということの方が、遥かに勇気をあたえてくれる』と 新潮文庫 木槿の花 竹内政明の編集手帳傑作選 ハルウララ 2004.3.23 より カラオケ、プレゼン、ゴルフ、気の利いたコメント、いくら努力しても上手くならないことだらけの自分にには嬉しい意見。そうか、人によっては自分を見て勇気を持てるかもしれないと思うと肩の力が抜けて、楽しくなってきた。人に自信を与えるとは、こういうコメントをサラッと言えることなんだろうなと思う。 竹内政明さん、やっぱりいい。
2021.03.04
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先週末、出張のついでに一年振りに、母親の住む実家に帰った。 翌朝、故郷の河川敷にあるマラソンコースに沿ってジョギングした。 この日は風もなく、柔らかい春の陽射しを浴びながらゆっくりと走る時間は幸せな時間だった。子供の頃、故郷の良さってほんとわからなかったな。
2021.03.02
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日曜日の夜、20世紀の末頃、同時期に香港に駐在してた仲間と久しぶりに飲む。但し、リモートで。 あの頃の香港は本当に活気があった。返還前より減ったとはいえ、日本各地の空港と香港新空港とを結ぶフライトが毎日何便も飛んでいた。 香港と広東省を結ぶ主な移動手段は、鉄道かフェリーで、中港城のフェリーターミナルはいつも大混雑していた。 広東省内の流通通貨は実質的に香港ドルがメインで、人民元で払うときは、香港ドル表記価格の2割り増しが相場だった。 香港政府が、中国大陸からの入境を制限していた時代だったので、香港の繁華街でよく聞く外国語は北京語よりも日本語のほうが多かった。 九龍側から見る香港島の夜景で目立つ広告も、中国の会社はまだほとんどなく、日本メーカーと韓国が少しで始めた頃だった。 食事は金さえ出せば、和洋中のんでも一流の味が楽しめた、はず。 日本人学校も香港島と九龍半島側にそれぞれ一つずつあった。 自分が上海に転勤になったのが、2001年の冬。香港から上海への転勤というのはまだそう多くなかった時代。 あれから、もう20年。時間の流れの速さを感じる祝日の昼下がりです。
2021.02.23
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ポカポカ陽気の土曜日。新しいエアコンの据付工事に立ち会う。さすがプロ。手際がいい。 この人ならばと思い、テレビアンテナの撤去をお願いできないか聞いてみると、なんとすんなり受け入れてくれる。もちろん有料だが、長年の懸案が一つ解消。昔なら街の電気屋さんに電話すればなんでも解決したのが、今はどこに頼めばいいのかよくわからない。今の世の中、便利なのか不便なのか。
2021.02.20
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昨日時点では、今日の東京は積雪予報だった。当初昨日の夕方から雪が降り始めると言ってたのが、夜からに変わった時点で降らないかもと思ってたが、朝から雨。 大沢在昌「北の狩人」を一気に読む。暖かい部屋で、好きな作家の本を読んでると幸福感に包まれる。 夕方から焼き鳥を肴にワインを家飲み。アルゼンチンのマルベック、いけます。
2021.01.24
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今日は、日中の気温が18℃と春の陽気のような暖かさ。昨日から、エントリー済のフロストバイトバーチャルレースが始まっている。コロナがなければ横田基地内の滑走路周辺がコースとなっているハーフマラソン。友人に教えてもらって楽しみにしていたが、今年はバーチャル。今日は、自宅周辺のいつものジョギングコースを約9km走る。汗をかいた顔にあたる風が気持ちいい。比較的真面目に走り出したのは、コロナが始まった昨年3月から。出張や懇親会が急減し、走る時間を作りやすくなったことと、もう一つのきっかけが、元々21年5月に開催予定だったワールドマスターズゲーム関西大会のロードレースに申し込んだこと。3月から始めたジョギングの年末までの走行距離は、575.15km。3月に始めたジョギングの成果か、体重も5kg以上減り、体調もよく順調だった運命の10月31日、好事魔多し、4km走った地点の歩道橋の上り口で足がもつれて転倒し、まともに顔をぶつけ、階段の角で前歯4本を折るケガに見舞われた。頭をぶつけていたら、どうなっていたことか。歯が折れただけで、顔も特に傷はなく、身体の他の箇所も擦り傷程度で済んだのは、不幸中の幸いだった。11月から始まった歯の治療も来月には、終了する見込み。なくなった歯は返ってこないが、腕のいい歯科医のおかげで、見た目も機能的にもおそらく元通りになりそう。ありがたい。今年は、還暦、本厄(神社によっては前厄)の年。慎重の上にも慎重にと自分に言い聞かす毎日。
2021.01.16
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仕事始めの朝、会社の隣にある神社に参拝し、おみくじを引く。この神社のおみくじは、自分にとって素直に受け入れられる天の声。久しぶりに大吉。但し、謙虚さを忘れるなと。会社に行こうと出口に向かう途中、ふと気が向いて、本殿での厄除け祈願をお願いした。今年てっきり本厄だと思っていたら、申し込む時に確認すると、本厄は満年齢で61歳らしい。神社によって異なるのも不思議な気もするが、この神社によると今年は前厄らしい。 ご祈祷を受けた後、なんとなくスッキリした気持ちになったので、それだけでも霊験あらたかと十分納得。
2021.01.04
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今年はいよいよ還暦。本厄の年でもある。 昨年7月、あることがきっかけで、2001年12月から約18年続けていた日記をやめた。 久しぶりにブログを再開しようと思う。
2021.01.03
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今年漢検準一級にチャレンジしようと思う。目標は6月の試験。 昨日、神保町でテキストを購入。パラパラめくる。まったく読めない。改めて漢字っておもしろいと思う。 さて、どこまでてきるか、今からスタート。
2017.02.05
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クリスマスイプ早朝の香港。チムトンから望む香港島はもやっている。こころなしか、以前よりツーリストの数が減っている。
2015.12.24
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半年ぶりのシンガポール。ホテルの窓からの景色は変わらず。人間その気になればなんでもできる。赤道上の摩天楼を眺めるたびにいつもそう思う。
2015.12.02
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冬の晴れた日の昼間、新幹線の移動は幸福な気持ちになる。
2014.11.27
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出張先の上海のホテルで元旦の朝を迎える。 いろいろなことがありすぎた2013年は既に過去。どうか今年一年健康に暮らせますように!
2014.01.01
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今から上海に行きます。香港の空もなんとなく秋の気配を感じます。
2013.09.11
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当地の友人達と南Y島の海鮮料理を楽しむ。セントラルからフェリーで25分とは思えない。
2013.07.08
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今日の上海は曇り。いつものホテルのいつもの朝食。午後便で虹橋から香港に戻ります。
2013.07.06
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今日、高校の同窓会があった。待ち合わせ時刻の午前11時半に新橋駅烏森口に集まったのは、男女合わせて13名。地方の高校を卒業してから28年。3年前に仕事で住んでいた上海から戻ってきてから年に1、2回開かれるこの会には、できるだけ出るようにしているが、卒業してからの時間を毎回2時間足らずの会話で取り戻すには、高校時代密度の濃い時間を共有できていなかったということか。参加するたびに何となく違和感を感じていたが、高校の同窓会にもかかわらず、周りの会話を聞いていても高校時代の話題があまり出てこないことに気づく。共通点は、同じ年に同じ高校を卒業したことと、今、出身地から遠く離れて東京に暮らしていること。話していても居心地がいいような悪いような不思議な気持ちになるのは、高校時代、何となく学校にも同級生の多くにもなじめなかった自分だけかなと思っていた。でも皆同じような気持ちかもしれないなと今日そう思った。きっと、皆、もっともっといろいろなことを話したくて、聞いてもらいたくて、人生の一番いい時期を共有したことを確認したくて、毎回何かを期待して集まってきているはず。もうしばらくは、ぎこちない時間が続くと思うが、まだまだ時間はたっぷりある。この関係、大事に育てていきたい。
2008.01.26
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現在、現地時間午後10時44分。バンコクのスワンナブーム国際空港で搭乗開始を待っている。アジアと中近東の中継地にあたるからか真夜中に近い時間だというのに空港内は旅行客でごった返している。バックパッカーの白人も多い。昨年オープンした新空港は、かなり広いはずだが、人が多すぎて狭く感じる。市内は相変わらずの交通渋滞。月曜日に街に出ると、朝から老若男女を問わず、黄色い福を着ていることにすぐに気づいた。何でもお誕生日が月曜日の国王に敬意を表しての習慣らしい。微笑みの国は変わらず。
2007.06.26
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昨夜、女子バレーのセルビア・モンテネグロ戦のTV中継があり、家族と観戦。2セット先取された後の逆転勝ちはお見事。観客のほぼ全員が日本の応援団というアドバンテージはあるにせよ、最後まで緊張感をとぎれさせなかったのは立派。特に竹下のプレーには感動した。追い込まれても動揺せず、常に冷静沈着な判断と正確なプレーでキャプテンとしても、正セッターとしてもその役目を十二分に果たした。ただただ、格好良すぎるとしか言いようがない。柳本監督もいい。監督と竹下選手との信頼関係はTVで見ていてもわかる。それとこのチーム、失敗しても選手が暗い表情にならないのがいい。監督の日ごろの指導の賜物だろう。こういうリーダーってどういうふうにして作られるのだろう。生まれつき持っている器の大きさか、あるいは、努力の賜物なのか?ベスト4進出は難しいかもしれないが、日本女子バレーチームの健闘には心から拍手を贈りたい。
2006.11.12
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小泉首相が靖国神社参拝。TV各局は、この日を予想していたのだろう。いずれの局も特番を放映している。今日は天気も今ひとつだったし、家でTVを見ていた人も多かったのではと思う。昨春は、現地で反日デモを経験した。そのとき、自分にとって前の戦争は、太平洋戦争でアメリカにこてんぱんにやっつけられた日本の印象が非常に強く、加害者の意識はほとんどないことに改めて気付いた。そういう教育しか受けてこなかった気がする。これってこれでいいのかな。
2006.08.15
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5日の昼過ぎに成田を離陸した日系航空会社の機体は、定刻より50分ほど早い現地時間で5日の午後4時45分にアムステルダムスキポール空港に到着。11時間のフライト。今の時期は、東から西に向かうときは、向かい風となるため夏場よりも時間がかかると思っていたが、どうして早く着いたのかよくわからない。 航路は、成田を離陸してから北海道の西をほぼまっすぐ北上してからシベリア上空で機種を西に向け、フィンランド湾辺りから南下しているらしい。成田からの北上中に時間の経過とともに、窓からの風景が一瞬暗くなりかけるが、西に向かって飛び始めてからは、ずっと明るい空を見ながらの飛行。 フィンランドの上空に到達したのは、午後3時頃か?もっと薄暗いのかとおもっていたが、意外に明るいのに驚く。 スキポール空港到着時もまだ十分明るい。外気温は7度とのことで、東京とほぼ同じくらいか。 ヨーロッパのハブ空港の一つであるスキポール空港は、とにかく広い。今日は、ここから乗り換えてヘルシンキに行くのだが、EU以外から到着した乗客は、トランジットでもイミグレを通る必要がある。去年の8月に初めてここに来たときは、そのことを知らず、そのまま次のゲートに移動できるだろうと表示板を捜しながら空港の中をうろうろしていたら、もう少しでフライトに乗り遅れそうになった。 アムステルダムからヘルシンキの夜のフライトがどうしていつもこんなに混んでいるのか?旅行なのか、仕事なのか知らないが、とにかくいつも混んでいる。フィンランド人は、国民全体に占める金髪の割合が世界で最も高い国らしい。確かに金髪も多いが、一方、アジア、それもモンゴルの人のような顔をしている人も多い。イタリア人やフランス人に囲まれたときと比べると、親近感を覚えるのか、なんとなく落ち着く。 アムステルダムからヘルシンキまでは、2時間のフライト。夜の11時前に到着。アムステルダムとは、一時間の時差がある。さっき上空を通過してきたばかりなのに損をした気分。 上空から見るとヘルシンキは、雪に覆われている。空港で、ダウンジャケットを取り出し、着る。ここは、EUからのフライトの場合、イミグレも通関検査もない。空港の到着ロビーは、出迎えの人でごった返している。 タクシー乗り場に向かう。何と行列ができている。寒い。かばんを持つ手から少しずつ感覚がなくなっていくのがわかる。それでも、万事にわたって合理的な仕組みになっているこの国のこと、10分も待たずに車に乗れる。 それにしても寒い。気温は、氷点下15度くらいはあるのか? 道の両端には、雪がかなり積もっている。道も凍結しているところもあるが、ベンツのタクシーは、スピードを落とすこともなく、確かなハンドルさばきで約30分でホテルまで運んでくれた。 疲れた。
2006.02.05
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来週の日曜から仕事で北極圏に行くことになった。気温はマイナス30℃前後らしい。もちろん初めて行く場所。どんな服装をしていけばいいかよくわからないが、取り敢えずダウンジャケットは必要かと思い、今日吉祥寺を探しまわった。ない、ない、ない、どこにもない。スキー、山の専門店にも行ったが、今年の異常な寒さの影響で、12月にはフード付のきちっとした防寒用のダウンはほぼ売り切れたとのこと。本来冬山登山用に使うような仕様のダウンが今冬はばんばん売れたらしい。10年以上前、北京に住んでいる時は、それなりの防寒服を持っていたが、日本で着ることもないだろうと、処分してしまった。寒いと言っても東京の寒さにダウンは必要ないとずっと思っていた。全く知らなかったが、3年くらい前からダウンが流行っているらしい。そう言われて初めて、ダウンジャケットを着ている人が多いことに気づく。20年以上前、学生の頃もダウンジャケットが流行っていたような記憶がある。それはともかく、どうしよう。ユニクロのフリースとコートでマイナス30℃が耐えられるか?室内は暖かいだろうから、何とかなると思うが、どうだろう。
2006.01.29
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7年ぶりに中華街に行く。15年來の友人K君が来月から北京に駐在することになったので、中華街で送別会を兼ねて久しぶりに二人で食事をしようと誘ったもの。考えてみれば、もうすぐ北京に行く人の送別会に中華というのも気の利かない話のような気もするが、恐らく自分が久しぶりに中華街の雰囲気を味わいたかったのだと思う。春節を控えた中華街、信じられないほど人通りが少ない。メインストリートから少しはずれたところにある台湾料理店に入る。K君は、生まれは中国だが、中国の大学を卒業してから日本で博士課程を修了した優秀なエンジニア。日本に来てから勉強したという日本語はほぼ完璧に話す。5年前帰化し、今は日本の国籍となっている。奥さんとお子さんと一緒に暮らしながら、日本の社会に溶け込もうと一生懸命頑張ってきた。そんなK君のこと、尊敬もし、友人であることを誇りに思っている。今回の北京駐在の話があったとき、K君から相談を受けた。先ず、心配したの生まれは中国だが、国籍は日本のK君の微妙な立場。いつあってもおかしくない反日デモの際、K君や家族が中国人社会、日本人社会両方からいやな目に遭いはしないか。今回駐在の話を受けたのは、奥さんと何度も何度も話し合い、彼なりに考えに考え抜いた結論だった。そんな彼に、会社の同僚の多くは、「北京に行く」ではなく、「中国に帰れてよかったね」と声をかけてくるらしい。恐らく彼の同僚に悪気はないと思う。K君もわかっていると思うが、それでも彼にとっては、日本人社会の中で認められようと15年間必死に頑張ってきた結果が、「中国人だから中国に帰る」と決めつけられたことがショックだったようである。K君が帰化することを決めたと聞いた時、日本人になることを選んでくれたことが本当に嬉しかった。何年か先駐在を終えて日本に帰ってきた時、「おかえりなさい。」と暖かく迎えてあげたい。
2006.01.27
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天気予報どおり、朝から快晴。昨日は、都心でも8cm近く積もったらしい。都心からずっと離れている家の周辺は、もっと多いはず。それでも夕方までには道路の雪はほとんど溶けてしまった。夕方、娘と二人でウォーキング。30分ほど歩いたが、表道は、ほとんど雪が残っていない。一旦家に戻り、今度は自分ひとりで図書館まで返却期限の過ぎた本を返しに行くことにする。図書館は自転車で10分ほどの距離。この時間に行くのは初めてだが、6時半には閉館になっていることを初めて知る。館内の自習室で勉強をする人もいるはずだし、図書館ってもっと遅くまで開いてるのかと思っていた。玄関に設けられている返却用ポストに本を入れる。上海から帰国してから7ヶ月が過ぎたが、図書館は重宝している。古本屋を何軒まわってもなかなか見つからない絶版になっている本でも図書館に行けばあっけないくらい簡単に借りられる。インターネットで予約もできるし、入荷したことも連絡してくれる。こんなありがたい図書館使わない手はないのだが、返却期限があるので、買った本のようにとりあえず積んどくわけにもいかず、ほぼ毎週のように入荷連絡のある本すべてを期限内に読みきるのは結構大変。でもまあ、考えてみれば贅沢な話かも。
2006.01.22
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朝起きると一面の雪景色。子供たちは、喜んでいる。家の前の道にはそれほど積もっていない。やはりアスファルトには積もらないのかと思っていたら、時間の経過とともに降雪量が増えてくると、道路の上にもどんどん積もっている。道路の上に積もらないのは、単に積もるほど降っていなかっただけということがわかる。犬を外に出してやる。普段室内で飼っている小型犬だし、生まれて初めて経験する雪にしり込みするかなと思っていたら、何のことない、雪の上を小さな足跡をつけながら元気に走り回っている。歌詞の通り、犬は喜び駆け回っている。週末、それも土曜日に降る雪というのも外出の予定がない限り、なかなかいいものだとわかる。普段より静かだし、外出する選択肢はないので、どうやって休みをすごすかあれこれ考える必要がないのがいい。
2006.01.21
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昼の新幹線で京都に移動し、日帰り。片道2時間少々の新幹線での移動、行きはそうでもないが、帰りはかなり疲れる。本を何冊か持っていくが、帰りは読む元気もなくなる。かと言って眠ろうにも狭い座席での同じ姿勢に名古屋をすぎたあたりから身体のあちこちが痛み出しすぐに目が覚める。品川から在来線に乗り換えてからがさらに大変。他の多くの人も自分と同じかもっと疲れる目に遭っているであろうことはよくわかっているが、それにしてもどうして真夜中の電車にこんなに大勢の人が乗っているのか?最寄駅に着いて電車からホームに降りると冷たい風が気持ちいい。思ったほど寒くない。とっくに日付は変わっている。今日が金曜日であることが唯一の救い。
2006.01.20
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夜間フライトで成田に着いたのは、朝の7時前。この時間東南アジアからの帰国便が多いのか、空港は結構混んでいる。バスにするか、電車にするか、ちょっと考えて、渋滞のない電車を選ぶが、これが失敗。どこかの駅で発生した車両故障の影響で東京駅まで2時間近くかかる。車内放送で何度も事情を説明していたが、車内にはそれなりに外人もいるが、説明は日本語のみ。仕方ないといえば仕方ないが、状況もわからず突然電車が止まってしまい相当不安に思ったのではないか?こういうとき昼間だとたまに親切な人がいて、近くの外人に事情を説明してあげているのを見る。ただし、朝は無理。日本人も外人も夜間飛行の疲れと寝不足で疲れきっている。今日は、晴れていたのが救い。日本の冬の晴れた日は、誰もが気持ちが良いと思うのでは。成田からの電車に閉じ込められ、来日のスタートでつまづいた彼らの残りの滞在中、いいことがたくさんあるようにと思わず願う。
2006.01.19
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正式名称があると思うが、知らない。オープンして10年近く経つのか?クアラルンプールの巨大な新空港。とにかく広い。業務を終えて空港に着いたのが7時頃。9時すぎのフライトまで日本から一緒に来た同僚と空港の中華レストランで時間をつぶす。空港が広いからそう思うのか、閑散としている。これまで日本では、あまりゆっくり話す機会がなかった同僚と、搭乗時刻ぎりぎりまで話しこむ。時計を見て慌ててイミグレに向かうがここもガラガラ。何もかものんびりしていて気持ちが和む。クアラルンプールとシンガポール間にJALが飛んでいることは知らなかった。その便自体は、シンガポール経由で関西空港行きだが、シンガポールでほとんどの乗客が下りていた。西風の強い今の時期、シンガポールから成田まで6時間弱で着いてしまう。ぐっすり寝るには中途半端なフライト時間。と思いながらも結局は、離陸するなり、すぐに眠ってしまう。
2006.01.18
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夕方のフライトでマレーシアのペナンに移動する。ペナンは初めて。老舗リゾートとしても有名なペナンとはペナン島のことだとばかり思っていたが、橋でつながっている対岸の一部もペナンと呼ぶらしい。空港からホテルまでタクシーで移動したが、先ず、思いのほか都会であること、交通事情が良い(助手席に乗っていても思わず目をつむったり、声をだしたりすることがない)ことにちょっと意外な気がする。ホテルにチェックインしたのは、9時半頃。関係者4人で夕食をとりに外にでる。ホテルのレセプションで教えてもらったとおり、ホテルから歩いておどのところに屋台が並んでいるオープンエアのレストランがあった。目当てのヘッドフィッシュカレーもある。一緒にいたシンガポーリアンが交渉して料理を注文してくれる。屋台の主も中華系のようで広東語で会話している。ローカルビールで乾杯の後、カエルの足のスープ、2種類の野菜の炒め物、エイのフィレソテーヘッドフィッシュカレーを楽しむ。ステージもあり、カラオケなのか、素人っぽい人が代わる代わる歌っている。ちあきなおみの「喝采」のマレー語版も歌われていた。風は涼しい。そういえば蚊もいなかった。ゆったりとした時間が流れている。東南アジアってやはりいい。
2006.01.17
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今年最初の海外出張は、シンガポール。いつもと同じ時間に家を出て、新宿から成田エクスプレスに乗る。NEXが出る新宿の3番ホーム、もう少し歩きやすくして欲しい。向こうから来る人を掻き分けながら荷物を持って歩くのは結構疲れる。出発のかなり前から入線しているのはありがたい。それにしても車内の温度は高すぎる。来ていた上着、セーター全部脱いで、シャツを腕まくりしてもまだ暑い。成田には定刻に到着。時期をずらしたお正月休みも一段落したのか、成田は、チェックインカウンターもイミグレも空いている。但し、JALの機内はほぼ満席。隣はインド系の乗客。7時間のフライト、慣れているとは言え、やはり長い。着陸態勢に入ってから、赤道直下の海を眺める。太陽の照り返しが力強い。チャンギ空港、いつもながら入国手続きは空いている。この空港でイミグレで並んだ記憶がない。飛行機を降りてから空港を出るまでの距離も短くて気持ちが良い。少し前にスコールがあったのか、タクシーの屋根も道路も少し濡れている。ホテルで関係者と合流。ホテル横のリバーサイドのイタリアンレストランで食事。何処に行っても結局は、飲んで酔っ払って寝るだけ。こんなのでいいのかなと思いながら、見えるはずの南十字星を探す。
2006.01.16
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