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ドーリルの聖書の真義を紹介したいのですが、忙しいので、なかなかできません。コメントにも書きましたが、現代訳の聖書が、少なくとも、次の数多くの点で大きな間違いを犯している。 簡単な間違いは次の2つ。 金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい。 当時のアラムの方言「ガムラGamla」を取り違えて、「ラクダ」と訳しているが、本当は、「綱」である。 だから、金持ちが天国に行くより、綱を針の穴に通す方が容易い、となる。 その意味は、金持ちは、物質的価値観に囚われ、日々の生活を過ごしているので、精神的、霊的な価値観をないがしろにしているから、高い精神性、霊性の天国を目指すことができない、である。 王子の座を捨てた御釈迦さんが説いたように、本来の出家とは、物質的な生活や名誉や権力に囚われない、自由な心の完成を目指すのを意味する。救世主になるには、価値観を自らでつくりだすホームレスにならないといけない。 誰かの既成の価値観に染まる限りは、借り物にすぎない。金持ちとはまさに既成の価値観の借り物のコレクターといえる。カネとは、物々交換を代弁するものだが、それには価値観が一致しないとダメである。しかし価値観の一致とは、それ自体で、既に借り物で、オリジナルではない。カネは既存の価値観の代替物でしかないからである。 だから、オリジナルな生命や生き方はカネでは買えない。医療がなぜ赤字なのか、は生命がカネで買えないからである。バカな経済学者が、医療経営を現代の利潤追求を目指す地獄行きの資本家のハゲタカのような輩に任せればいいとTVで無責任な事を述べていたが、そんなことをすれば、医療費を高く払う患者しか医療行為を施さない社会になってしまい、現在の米国社会の悪しき例である。 医療とは、人類の博愛主義の基に成り立つものである。また経済とは金儲けではない。足らないものを補い合う活動である。現代人は大きく間違っている。 有名な、キリストが死に際し最後言った言葉の、エリ、エリ、レマ、サバクタニを、神よ、なぜ私をお見捨てになるのですかと悪魔のような台詞にしているが、これはラマナをレマとしたせいで、本来の意味は、わが神よ、この死のために、私は生きてきた、である。 つまり、私は、この死のために、この地に生まれる運命を受け入れた、という意味でもある。 そもそも、キリストとは、太陽霊で、霊界の太陽に住んでいたが、太陽霊の子孫である地球やその住人の地球人が、太陽から遠ざかろうとするので、地球の軌道を元に戻すために、やってきたという。 もちろん、霊魂は、地球では何万年おきに転生するのだが、地球に執着する悪霊は比較的短い期間で、地球に転生しようとするので、何十万年おきにやってくる太陽に近い高度な精神性をもつ、如来といわれる霊魂と比較すれば、遥かに地球の低俗な精神に近いので、地球人といわれるわけである。 簡単にいえば、地球が太陽の天国を目指す軌道から逸れ、地獄化していくのを、阻止するために、太陽から遣わされたのがキリストで、遣わされる前の本来の太陽霊のことを、キリストは父と呼んで、地球上の自らの存在を子として区別しているが、人類の迷いを一身に背負って、十字架に架かり、父の子として、地上で死に、聖霊となって、再び父と一体化して元に戻るので、父と子と聖霊の、真善美の三位一体を説いたのである。 つまり、キリストのゴルゴダの死とは、それは単なる肉体の死であるが、同時に物質界からの解脱を意味し、霊魂は、肉体の死により、全く影響を受けない不死の存在であることを、人智学的にいえば、エーテル体で、いまも活動している。 シュタイナーにいわせれば、霊眼さえ獲得できれば、誰でも地上でのいまのキリストの存在がみえるようになるという。霊眼とは、物質界に染まらずに、精神や霊を高める生活をしているかどうかである。 そのような生活とは、価値観を自らでつくりだすホームレスというわけである。水が下へと毒物や汚物を清めて流れるように、そのような誰をも洗礼するような生活を体現する事である。 物質的価値観を克服させるような精神的価値観、安らぎを与えることである。 キリスト霊が、イエス30歳の肉体に降臨したときが、本当のクリスマスの意味である。イエスの誕生日は、1月6日で、実は2人いた。その話はまたの機会にするが、2人のイエスのうち、他方の霊体が、もう一方に移り、強化されたので、高度な精神性をもつキリスト霊を受け入れられる状態になったという。 30歳にヨハネに洗礼を受けたときに、キリストはイエスの肉体に降臨し、キリスト=イエスとなって、3年に渡り、人類に太陽霊=救世主の生き方の見本を示した。 太陽霊のときのキリストを父と言い、地球のイエスに降臨し、活動したイエス=キリストを子と言い、人類の、悪魔に唆されて、嘘や不実をし、道徳に背く知恵を知った罪を、一身に受け入れて、十字架刑に架かり、死という、肉体を捨てる見本を示し、霊体のエーテル体として復活している存在を、聖霊と言うのである。 つまり、エリ、エリ、ラマナ、サバクタニとは、太陽霊の父キリストと、地球に降臨した子イエスと、死後も生き続ける聖霊イエス=キリストが、同じ存在であることを、人類に示す三位一体を明かす儀式の事なのである。 だから、悪魔に唆されたときは、肉体を悪魔に与えなさいという事なのである。なぜなら、霊魂は決して死なない不死の存在だからである。霊魂さえ不死であれば、肉体は何度でも作り直せるからである。 悪魔に霊魂を渡してはならない。というか、悪魔に霊魂を渡す事はできないのである。霊魂のなかに全てを一に帰す神がいるからである。 一から出直せ! 神であれば一から何度でもつくりだせる。 それが、一方の頬を叩かれれば、もう一方を差し出せの意味である。欲しいものには与えなさい。神なら、何度でも、つくりだせるからである。創造こそ神の証である。 ついでに、偽ユダヤ人に警告しておきたい。 アメリカという国を、お馴染みのサイトが端的に表現しているので、以下に紹介する。 ★ ★ ★既にアメリカは世界から孤立しているhttp://my.shadowcity.jp/2018/05/post-13317.html トランプがWTOも無視して関税かけまくっている、という話なんだが、アメリカもこれからは凋落する一方の斜陽国家なので、あまり深入りしない方がいいよ。カネの切れ目が縁の切れ目だ。13億人の中国にモノを売ったほうが商売として美味しい。今の若い人はどんどん中国に入ってるよね。顔が似ているし、宗教的な違いも少ないし、何より漢字文化圏という部分でベースを共有しているので馴染みやすい。おいらがいつもお茶を買っている中国茶の輸入業者は、毎年、雲南省に入って、工場を借りて、自分で薪をくべて釜炒りしてますw 逆に薪炒り番茶KKでは、若い茶師が中国式の製法でウーロン茶を研究している。生活のベースが共通しているのだ。 米輸入制限「理解できぬ」=安倍首相 安倍晋三首相は25日、サンクトペテルブルク国際経済フォーラムで、トランプ米政権の鉄鋼・アルミニウム輸入制限について「日本は同盟国にもかかわらず、安全保障上の理由で関税を掛けることは理解できない」と批判した。その上で「WTO(世界貿易機関)のルールと整合性のある対応を米国に強く求めたい」と述べた。 アメリカはそうじゃない。ユダヤ人が自分の銭儲けのためにだけ、デッチ上げた国家です。ユダ菌は最初、オランダに巣食って世界を荒し回った。続いてはイギリス。そしてアメリカ。移民だらけで国民集団としての統一感が持てないアメリカ人は、食い物にされっぱなしですw ★ ★ ★悪魔は人類を分断させたがっている。分断し統治せよが、メーソンの格言である。小さなつむじ風を起こして、巻き取るというのが、悪魔の遣り口である。 物質界に必須なのが権力である。権力とは量る力だからである。権力はしかし、陽でしかない。表に出ている力にすぎない。現代宇宙論で、ダークマターがトピックとなっているが、本当の力は、目にみえない陰にある。 それは権力ではなく、受容力、器力というものである。 キリストが、三位一体の運命を受け入れたように、受難を受け入れる事である。 真のユダヤ人とは、人類のあらゆる苦悩を受け入れる事である。常にしいたげられる側につくことである。弱者にいる方が、人の心、痛みがわかるからである。痛みから病気がわかるように、人の心がわかる。
2018年05月29日
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ご期待に応えて、ドーリルの聖書の真義を紹介したいのも山々なんですが、どうも毎日肉体的に忙しい生活なので、このブログもなかば放置状態と化してしまっている。しかしまぁなんですが、この国も終わりが近づいているのは、人口ピラミッドが棺桶型間近な事でも明らかなんですが、政治家や官僚をみてもとにかく無責任で、人物が皆無です。勝海舟の最後の一言「もうおしまい!」がこの国の現状に相応しいですね。嘘だらけの大河ドラマで、西郷さんがやられてますが、西郷さんがなぜ当時の人物に恐れられていたかといえば、いつでも一からやり直せる胆力をもっていたからです。実際、西郷さんの人生は失敗の連続です。最後も、島津の殿様も、明治インチキ政府に懐柔され、裏切られ、裏切った殿様に主君を裏切った安禄山と罵られたわけです。さぞ無念だったでしょう。西郷さんといえば、斉彬が有名ですが、斉彬が幕政改革に走れたのは、江戸にいて、江戸を懐柔できたからで、薩摩に籠りきりの久光では、不人気だから、西郷は正直に久光じゃ無理と言ったので、殿様の怒りを買って島流しされたわけです。斉彬も運動工作も、水戸の斉昭とつながり、大奥への不人気も相まって結局頓挫してしまい、西郷は露頭に迷うわけです。江戸しか知らない斉彬は、薩摩に戻っても外様とされ相手にされず、殺されてしまうわけで、それじゃと久光は大久保に誑かされ、京都工作からとりかかりますが、江戸から見透かされて、徳川への忠誠心を試され、家臣を犠牲にしてしまいます。失敗の度に西郷ら部落民出の下級家臣は犠牲にされて、殿様など何の役にも立たないと悟り、一から出直すわけで、玉を確保し、長年の怨み晴らさずとの打倒徳川に燃える長州と共に討幕に乗り出すわけで、その段階で、殿様を廃嫡し、下級武士が実権を握る革命構想が出来上がったわけです。幕府側の勝からしてみれば、倒せば倒すほど巨大になっていく西郷に脅威を覚えたはずです。これは徳川は危ないと見切って、薩長に乗り換えるわけです。黒船が来る前から飢饉が頻発していて、当時の警視総監みたいな大塩中斎なんかが反乱を起こすくらいだから、大不況だったわけで、誰がみても幕府は良くなかったわけです。それでも、信長でも倒せなかった仏教カースト制度がしぶとく残っていたので、中世の奴隷制度はいまだ健在だったわけで、黒船の襲撃とともに、その風穴が開いたわけです。正史では開国なんていう綺麗事を並べてますが、キリスト教解禁の事ですよ。いままでは仏教徒とキリスト教徒が結託して、密貿易で人身売買をしていたわけですが、黒船の襲撃と共に、表向きになったわけです。キリスト教では異教徒は人ではないからです。仏教との整合性がつかなくなった。妾が、売春 婦になるわけです。そういう庶民のストレスや不満が、西郷に集約されていくわけです。後に西郷が神格化されたのは、庶民の不満を海外に散らすためで、それが皇国史観となって嘘西郷ができあがるわけです。だから、とにかく、当時の西郷は恐ろしかったわけです。明治帝が女遊びばかりするのに怒って、元の身分に戻すぞと言っているくらいだから、それは桜島の噴火のようなもんです。その西郷でも結局、最後は長州にやられてしまい、恐らく黒幕は英国でしょうけど、英雄西郷という捏造が残るばかりです。話が大分逸れましたが、最後に言いたいことは、一から出直す勇気というのが肝心という事である。なぜこの世に経済と政治と学術や芸術があるのか?考えてみてください。経済とは、互いの不足を補う事で、互いの愛情を高めるためです。政治とは、互いの立場を理解する事で、平等を経験するためです。そして、学術や芸術は、己を自由に表現するためで、自由とは誰しもがもつ開発すべき能力なのです。能力は生まれつき持っているのです。だから、真の経済とは、愛情の豊かさであり、政治とは、公正さや法の遵守であり、学術技芸は、己のなかにある能力を自由に高めることなのである。自由とは、自分のなかにある一になる能力の事である。それは常に新しく生まれ変わる能力であり、一からやり直す能力なのである。なぜ、自分を信用せずに、一からやり直す勇気を持たずに、古い固定観念に縛られるような愚かな事をするのだろうか?昨今のアメフトの問題の指導者や、アホバカ総理をみていると、本当に人間ってダメになるのがはっきりとわかる。西郷のような失敗しても失敗しても、たとえ失敗の途上で亡くなろうが、失敗を恐れずに立ち向かう勇気が少しでもあれば、失敗が教師として生きてくるように思うのだが。スターウォーズのヨーダが失敗こそ最善の教育者であるという言葉に感動を覚えたのは私だけでないだろう。人生は失敗を経験するためにある!失敗を認めなければ前に進めない事がわからないバカが多いのが現代の特徴である。このようなおバカさんは、何度生まれ変わっても、同じ失敗で精神的進化が停滞するばかりか、退化していく。そして堕落し、自ら停滞の道、地獄で永遠と謝罪する振りをするのを選ぶ。いつも思うのは、この人たちは誰に謝っているのだろうか?せっかく失敗を経験したのに、前向きに生きる機会なのに、恥ずかしいだけであろう。何のために生きているのだろうか?自分の良心に謝るのなら、はっきりと失敗を認めなさい。エジソンが言ったとされる失敗は成功の母であるのを忘れるな。失敗を認めるのが成長の証なのである。
2018年05月24日
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犬HKは、悩みごとは、哲学者に聞け、と言った面白い番組もあるが、特に歴史関係のヒストリアという番組には怒りを通り越して呆れてしまうので、歴史について書きたい。自国の歴史の悪口は書きたくないが、大河ドラマをみてもわかるように、日本史こそ出鱈目だらけのオンパレードである。西洋では歴史は多角的に評価され、他国の歴史との整合性を加味し、検討されているが、この日本だけは全くいい加減で、明治以来、新興宗教のように皇国(広告)史観が通俗史化している。出鱈目日本史の特徴は、全てを美化し、美談にしてしまうことや、出来事の探求が曖昧なので、その責任性が皆無で、特に天皇制や部落民差別問題には全く触れない事などが挙げられる。歴史は勝者が書き残し、権威づけを行うのは古今東西変わりはないが、その検証が全くなされないのが、日本史の特徴である。そして、大きな特徴は、他国との関係を一切省き、自国自慢というか、自画自賛の自慰美談が多いことである。だから太平洋戦争前までは、大東亜戦争と呼び、天皇制を絶賛していたのに、米国に敗戦となると、その敗戦すら終戦と曖昧に濁し、いままで教えていた教科書を黒で塗り潰し、民主主義が何たるかを知らずに、民主主義万歳を唱える変わりようなのである。官僚の書き換えが巷では話題になったが、日本史の書き換えは明治政府から特に顕著であることは、日本史を少し学べばわかることで、どうして書き替えられたり、江戸時代の重要な記録編纂書が置かれていた江戸城の記録が火事でなくなったりするのかは、権力者が出来事に合わせて都合よく辻褄合わせのために、歴史を書き換えたからである。それらはミステリーとしてオカルトのように後世に語り継がれるが、その大きな1つが天皇制についてタブー視する傾向から生じている。国内では書き換えのために記録が焼失しているので、海外の外国人の見聞、特に宣教師などの記録から探すしかないが、それでも、外国の文化のバイアスがかかっているので、多面的に見る必要があるのはいうまでもないが、そのような検証を試みたのが、このブログでも何度も紹介した八切止夫氏である。八切史観として知られているが、天皇制のタブーや、歴史のねつ造についても割と明白に触れているので興味深く。歴史の美談のほとんどがねつ造で、実像に迫ると、インチキが見破られる。例えば、信長が本能寺で殺されたのは、信長が部落民の出身で、大陸から進駐してきた藤原氏の天皇制をなくし、部落民国家をつくろうとして、安土城を東大寺のような宗教政体の中心地にしようとしていたからである。信長は恐らく当時の尾張のように異文化が混合する土地を地盤に、海外貿易を振興し、西洋のアレキサンダー大王がやったような都市国家をつくろうとしたのだろう。だから天皇制は、多様な宗教政体の1つでしかなく、室町までの朝廷は仏教を中心にした政体だったので、多様な宗教を取り入れて、仏教の権力を抑えようとしたのが、京都を中心とした朝廷の取り巻きや、中国やアジア支配を狙っていたイエズス会に嫌われて、信長と家康の陰湿な関係を利用されて、本能寺で殺されたようである。通俗史では、明智光秀が本能寺の変をやったとされているが、八切史観では、実行部隊は斉藤利三で、利三は、光秀の与力ではあるが、光秀の家老ではなく、光秀の主君は追放されたとはいえ、名目上は足利義昭である。だからまだ名目上は足利幕府であって、光秀が信長を殺したとしても謀反にはなりえない。信長と光秀は当時の身分制では同格なのである。どうして光秀謀反説が主流になったかといえば、後の豊臣政権と徳川政権に都合がいいからである。信長の首も見つかってなく、光秀も農民に殺されたと怪しい記録しか残ってないのをみれば、都合の悪い記録は焼失されたと考えればわかる。八切史観では、当時は信長の正室の濃姫、つまり奇蝶が利三に命じたと考えられたので、信雄などは、敵討ちとして安土城の奇蝶を征伐し、城と共に焼き討ちにした。つまり、秀吉にまんまと騙されて、光秀謀反説に加担させられたのが信雄だと考えられる。光秀謀反説から、秀吉と家康が本能寺の変の黒幕であったとわかる。なぜ家康かといえば、イエズス会の記録にもあるように、信長は当時、家康の生命を狙っていて、利三の率いた兵たちも、家康を討ちにいくと思っていたからである。八切史観によれば、家康を安土城に誘き出して丸腰にして、利三に攻めさせる手はずだったのが、なぜか、家康はその情報を事前に知り、利三が、妹婿の四国の長曾我部への、信長の四国討伐に反対しているのを利用して、味方につけたようである。その見返りが利三の娘のお福を春日局につけるという徳川家への好待遇である。実際、徳川三代の家光から、徳川幕府は斉藤家に乗っ取られた形になる。信長の四国討伐は、当時の金融業を担う吉田神道の銀本位体制を、部落民が金採掘に明るい金本位体制に転換するためであったが、信長亡き後、秀吉が大々的に金を工芸品にして貿易し、引き継いで銀体制から金体制に切り替えた。秀吉の経済力は、金資本にあったようである。八切史観のように、通俗史では、経済から歴史を探ることがほとんどなされていない。当時の火薬に注目し、鉄砲をもつのが非常に高価な事すらほとんど言及していないのである。そして、武田の騎馬隊などという当時、仏教徒に触れ回させた武田信玄の宣伝を鵜呑みにするのである。当時まだ、現代のような蹄鉄を嵌めたサラブレットは、日本にはいない。戦国期の美談は、明治以降の国威高揚のためのねつ造である。話が随分と逸れて行ったり来たりとなっているが、信長が家康の生命を狙ったのは、家康が松平元康とは別人で、元康に成り代わって、信長の知る信康を殺したからである。通俗史では、信長の命令で、家康が渋々殺したとされているが、自分の信の字と、娘の五徳を与えた信康を殺すはずがなかろう。信長は家康を殺そうとしていたというのを、信康にして書き換えたと考えれば辻褄があう。信長は家康を殺そうとしたという事実を、それは信康で、家康が代わりに殺したとすればいいからである。後世には忠臣の美談として伝わるからである。戦国期と同じように、明治期もねつ造のオンパレードである。そもそも、明治維新というのは、天皇制や幕府のような世襲制をやめ、アメリカの議会制民主主義のように、天皇や将軍の子孫が何をしているのかわからないような、四民平等の理想的な国家をつくるのが主眼で、だからこそ、福沢諭吉のように、これからは学問をして、身分を興すのが肝要という学問のススメが流行ったわけである。それが結局、幕末の諸藩の権力闘争に明け暮れて、看板の挿げ替えだけで、中身は中世とほとんど変わらないのが、いまでも上級国民という言葉が残り、福沢狂と昌平黌を西洋化した官僚が上位に君臨する事でわかる。天皇という玉を抱えて、中央政権をつくるというやり方は、日本古来から同じで、戦国時代の信長が、足利義昭を掲げて、朝廷工作をしたのと変わりはない。明治維新は、フルベッキ写真で有名な大室寅之助という明治帝を北朝から南朝の替え玉にして、薩長政府をつくったのや、明の末裔の娘を嫁がせて、大陸進出を画策したのは、戦国時代の政略結婚と変わりはない。西郷のほとんどは皇国史観で、本当の西郷の目的は、戦国期の信長のように、薩摩に独立国をつくることだったようである。西郷も大久保も郷士という名目だが、変名を使っていることから、部落民であることがわかる。西郷は英国から独立したワシントンを尊敬していたことからもわかる。そもそも各藩に出入りするには武士は世襲制で不都合なのである。脱藩するか、いまでいう海外留学のように武道留学するわけで、各藩に出入りするには、身元素性を明らかにする京都の朝廷という免罪符を必要とするから、脱藩浪士は身元引受の京を目指す。大体、新しいアメリカのような人種や身分差別なく、実力主義の民主国家をつくろうというのが、いまだに家柄やら、ほとんどインチキな家系図を持ち出して、自分は○○出の子孫でございなどは、中世社会の未発達な幼稚な精神性の表れでしかない。それもアメリカの物真似猿まねで、いまでは米語という英語の植民地語を巧みに話すのがネイティヴでクールなどという、どうも独自の人間性とは思えない島国奴隷制を続けるのはもうやめてほしい。その際たるものが、日本史で、昔からのカースト洗脳ツールなのである。そういうわけで、今も昔も人間のやることに変わりはないが、歴史をねつ造する事だけは巧みになっているのはどうもいただけないから、大河ドラマなどは、あほらしくてまだ水戸黄門や大岡越前のような歴史パロディのお笑いに近いドラマの方が遥かにマシである。とにかく人間を正確に描くというのが、この多民族国家では困難なようである。西洋よりも遥かに造形に富む風貌をもち、遥かに混血しているのに、ただ幼いときから日本語をしゃべるのに慣れているから、日本人が単一民族という風に洗脳されているのは、もうやめにすべき時代ではなかろうか? いい加減目を覚まそう。
2018年05月03日
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このところ忙しくて、人智学的医術の紹介も中途半端で終わってしまっているが、そのうちまた続けたいと思う。唯物論に洗脳されている現代人には理解不能で、思考停止に陥ってしまうので、現代では曲解されている古代ギリシアの哲学から、少しづつ解き明かしていきたいと思う。それと、「ギリシャ哲学の光学という分野と量子力学の観測問題の関係と、エーテルに関して記事できたら」というコメントを戴いたので少し書いてみたい。まず、有名なソクラテスの無知の知だが、現代では曲解されている。ソクラテスの無知の知を、自分は無知であることを知っている分賢い、という謙遜の意味で、解釈しているが、それでは優等生の答えで、80点はとれるだろうが、100点とはいえない。それでは、ソクラテスが無実の罪を着せられて、悪法も法なりと説いて、毒杯を飲んだ生きざまが解釈できないからである。つまり、結論からいえば、ソクラテスは霊能者で、唯物論の知識をいくら集めても、霊能力を身に着けることはできないのを、無知の知で説いたのである。ソクラテスは、霊能者になるには、有能な師につきなさいといいたかったのである。実際にソクラテスは当時のいろんな知識人に出会っているが、ついには自分の霊能力に匹敵する者がいないのを知って、嘆いたのである。だから、ソクラテスは怨みを買ったわけで、歴史に名を残すために、あえて毒杯を飲んだのである。ソクラテスは、物質的な死はただ肉体を失うだけと知っていたし、悪法も法なりと言ったのは、法を守る重要さを説いたので、つまりソクラテスのいう法はカルマの法の事で、この世から去る死刑は確かに悪法だが、あの世からみれば、それも法、つまり運命である、といいたかったのだろう。キリスト=イエスが、「エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ」と言って肉体の死に臨んだのと同じで、これも曲解されているが、本当は、「父よ、わが主よ、私はこの肉体の死を経験するために、生まれてきた」という意味なのである。ソクラテスは、自分は霊能者で、あの世も見れるし、あの世についても知っているが、物質界に執着し、物質的権威をふりかざそうとも、天国は揺らぎもしないし、物質界の知識はいずれ物質と共に崩壊し、無意味なものになると、当時の知識人を非難した。つまり、物質界に溺れる者は、死と共に物質的知識の消滅の元に崩壊する、と断言したのである。現に歳をとるほど、記憶力を失い、特に名詞を思い出す事ができないのを誰もが感じるはずである。これは肉体から、エーテル体が歳をとると共に分離してくるからである。名詞とは逆に、動詞、つまり過去の体験などは割と思い出してくるはずである。エーテル体が肉体から離れるときに、過去の体験を思い出すからである。だから、昔の人は、霊を語るのは名詞ではなく、動詞や体験で語るべきである、つまり死者は名詞で語るのではなく、動詞や功績で語るべきだから、仏教では戒名みたいなものができたことがわかる。老人になると、精神、特に感情がどことなく子どもになるというのも、肉体とエーテル体の分離からわかるし、そのために、病気にもなりやすくなる。さて、話が少しそれてしまったが、古代ギリシアの光の話といえば、現代でいう電磁波の光のことだけではない。宗教でいわれる霊光のことも含むし、簡単にいえば、叡智の事である。叡智とは、一言でいえば、悪を善に転換する行為のことである。数学風にいうなら、変換式である。負のエネルギーを正のエネルギーに変える量子力学のディラックの方程式がお馴染みかもしれない。実際に、素粒子物理学の場の理論は、ディラックの相対論的量子力学の方程式を、ゲージ理論にして、量子の海を空間の場の理論に拡張したものだからである。そこで、量子力学の観測問題は、どうなるかというと、有名なシュレディンガーの猫という思考実験が挙がるが、これはもう唯物論では答えがでないもので、アインシュタインが「神はサイコロを振り給わず」といって批判した確率なんていうインチキをもちだしているが、物質を確率で、いまでは脳で解釈しようなんていうのは、ソクラテスの無知の知を冒涜する知の崩壊を現しているわけで、現代人は脳の奴隷となっているわけである。では、どうしたらいいのかといえば、並行宇宙で考えたらよいのである。現に、観測者の思考のなかには、猫が生き続ける世界と、猫が死ぬ世界が共存しているわけである。あなたは道徳的に、どちらを選びますか?というわけなのである。つまり、どちらの世界が、幸せに暮らせますか?というわけなのである。勿論、観測者としては、どちらの立場も選択できる。アルファ線の感度を上げれば、猫を殺せるし、感度が鈍い測定器なら、猫は生きながらえる。人間としてあなたはどちらを選択するのですか?科学の実験のために、猫の生命を犠牲にするのですか?倫理はどうなるのですか?このような問題は、観測者の人生を全く無視して無機質に特定の部分だけを取り上げているので、思考の遊戯にはなるが、ソクラテスが無知の知で説いたように、無意味である。生命と物質とを同等に語り、その違いを問題にしない知識というのは、もはや叡智とはいえない。つまり、何がいいたいかというと、現実の世界をどちらの、猫が死ぬ世界か、猫が生きながらえる世界か、に近づけるのは、観測者という人間の選択の問題なのである。前者のように、ミクロの世界をマクロに拡げて、原子爆弾を使って権威の、悪魔の地獄世界を召還するのか、はたまた、後者のように、ミクロの世界をマクロには拡げずに、自由な精神を精神の領域にとどめ、物質界を共有共存させる世界を召還するのか、それは人間自身の倫理や経験に帰するのである。以上からわかるように、前者は闇で、後者は光である。そして、前者は静的で、後者は動的である。実はソクラテスの無知の知とは、後者の動的な知識こそ、あの世の知識で、前者の静的な知識をいくら集めても、無意味で、闇であるということなのである。第一、前者は、生命は他の生命の犠牲の上で動的に成り立っている、のを忘れているし、箱のなかに猫を閉じ込めるのは、そもそも虐待である。思考実験は思考実験にすぎないのである。そして、エーテルとは何かといえば、静的な安定した物質ではなく、現に物質が安定状態でいられるのは、絶えずエネルギーを吸収しているからで、エーテルこそ、物質を安定状態にしている、陰のエネルギーで、目にみえない非物質な存在である。つまり、猫を生かしている生命体が目に見えないエーテルであり、毒で猫の肉体、つまり、ソクラテスの肉体を殺しはしても、ソクラテスの霊魂は、哲学として、現に今も生き続けているので、ソクラテスの無知の知について、知りえる機会が与えられているわけで、本物の無知の知を知るべきなのである。猫を殺すと祟りが怖いぞ。シュレディンガーの猫の祟りこそ問題にすべきだろう。立派な御託を並べても、日頃のその人の行いこそ問題にすべきである。東洋にはまだこの評価が残っているが、物質主義に走り、近ごろ失われた。経済知識を振りかざして、差別し、弱い者虐めする経済偽学者が横行する現代こそ問題である。年収で差別する社会を、古代人は笑うだろう。なぜ富める者は、貧しき者に施さないのだ?と、そのまま地獄に堕ちるぞ、とね。地獄の沙汰もカネ次第で、カネを施さないと地獄に行くよとね。今日のところは、以上でやめるが、以下にお勧めの本を紹介する。私は、この本を読んで、ヨガは世我だと思った。つまり、この世を自分のように思うことだと思った。この世全体を自分のように思う事、つまりこの世=私である。とすれば、この世のどこかで闘争が起きれば、私は痛く感じ、悲しいわけである。また逆に、どこかの暮らしが安定して平和なら、嬉しくて楽しい感じがするわけで、常にこの世の出来事を自分の事のように思う感性が、ヨガの境地だと思うのである。というわけで、紹介する。 ヨガの喜び 沖 正弘著
2018年05月02日
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