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シュタイナーの人智学的医術では、糖尿病の病因は自我の弱さにある、と考えているが、その事と関係するような記事が日刊ゲンダイに載っていた。 それは運動持久力が高い人は糖尿病に罹りにくい、というものである。 ★ ★ ★ 「全身持久力」を高めて維持することで糖尿病を予防 https://hc.nikkan-gendai.com/articles/221020 ★ ★ ★ 自我の強さ、ゆえの運動持久力の高さと考えれば、自我と糖尿病の関係が想定できる。自我が強いと、肉体を巧く制御できるので、運動持久力が高いと考えられる。 逆に、自我が弱いと、運動持久力も低く、理屈っぽく頑固で、怒りっぽく、糖尿病に罹り易い、という事になる。 さて、話は変わるが、瞑想について知りたい、というようなコメントを戴いたので、瞑想について少し紹介したい。瞑想の教科書としては、シュタイナーはあまりはっきりと書いてないので、ドーリルの本を紹介する。 その本はドーリルの「ヨガの真義」である。なかなか分厚いのと、訳が古臭い文体なので、読むのに難儀するが、驚くべき事が書かれている。 少し簡単に紹介すると、第1章は、呼吸法とクンダリーニについてである。ドーリル曰く、クンダリーニは、尾骶骨下に眠っている潜在意識の力だという。 クンダリーニを目覚めさせるには、呼吸法をマスターし、自由自在に呼吸できるようにならないといけないという。 以下の話は、この本の難解さから、ある程度の推測も交じっているので、話半分で聞いてほしい。 通常、人は左右の鼻の孔から大体1時間毎に交代で空気を吸い込み、人体に必要な酸素などを取り込んだ後に吐き出しているが、左右の鼻の孔を自由自在にコントロールできれば、両方の鼻の孔を使って呼吸する事で、クンダリーニを目覚めさせられるらしい。 ドーリルによると、空気のなかには現代科学で知られている元素以外のエーテルも含まれていて、驚くべきなのは、シュタイナーも講義などで軽く触れているが、脊柱の左右にイダとピンガラ、中央にスシュムナと呼ばれる3つの4次元の管が、脳の脳橋から、尾骶骨下部の小さな穴まで通っていて、左右の鼻の孔からバランスよく呼吸し、エーテルを取り入れると、左右の管からくるエーテルが釣り合って、中央の管にエーテルが流れ、尾骶骨下部に眠るクンダリーニを目覚めさせられるらしい クンダリーニは三回転半した尻尾を咥えた蛇で象徴化されているが、この象徴化されたイメージはメリクリウスの杖などで有名である。シュタイナーによれば、このイメージは、人類の進化の道であり、生命の樹を表すという。 ドリールによると、左右の鼻の孔や、口や喉頭を自由自在に操り、呼吸する事で、スシュムナの管を通じて、エーテルを満遍なく人体に流せば、不調和や不均衡に陥っている病気を治療できるという。 中央のスシュムナの左の管をイダ、右の管をピンガラと呼び、クンダリーニが隠れている穴をカンダと呼ぶらしい。またそのような呼び名はヨガの伝道師のヨギや流派により色々あるらしい。 ヨガは瞑想の初歩のようで、要約すると、エーテル体と肉体のバランスをとったり、エーテルを集めて、クンダリーニを用いて、未来の人生をつくるのが目的のようである。 要するに、ヨガは、人体に(エーテル)エネルギーを集める方法のようである。 重要なのは、矢鱈にエネルギーを集めても、その使い方が問題で、使い方を決めるのが、瞑想であるようだ。瞑想で、エネルギーの方向性を決めるようで、瞑想を誤ると、創造エネルギーを破壊に使ってしまい地獄をイメージして地獄に堕ちていく羽目になりかねない。 少しでも恐怖感などのネガティヴなイメージが残っていると、増幅されてしまうので、自分で地獄を創り出して、地獄に堕ちてしまうようだ。自殺などがその典型。 瞑想は、メディテーションと呼ばれるが、メディタラは、ラテン語で、「熟考」を意味し、メデリの「治癒」と同源で、その3語は、アーリア語のマドフ「学ぶ」を語源にもち、マは、「人」の事であるという。 また、テンプラム(寺、寺院)は、観察の場という意味らしい。瞑想は、神を感じる、観察する事を意味するようだ。 瞑想については色々と書かれているが、読んでいるうちに訳が分からなくなってくるのだが、結局のところ、御釈迦さんが説いたように、あらゆる欲望を滅する事、つまりこの世の執着心をなくして、一時的な快楽を求めるのではなく、永遠の揺らぎのない安定の平和を求める事が要諦であるらしい。 譬えとして、ある金持ちの息子が、キリストの弟子にして欲しいと願い出た有名な話があるが、キリストは、私についてくるのなら、財産を全て売り払ってきなさいとアドバイスしたが、ドリールによると、それは金持ちだから、悟れないのではなく、その息子が、金に執着し、この世で最も価値があるのは金だと思っている価値観があるうちは、金に囚われ、金に依存し、束縛されているせいにあるという。 自由な意志を束縛しているうちは、神に仕える事は出来ないので、瞑想をしても、徒労に終わる。この世での、名声欲や所有欲などの一時的なものを欲するうちは、そのものに囚われ、自由な意志を明け渡してしまっている。要するに奴隷になっている。 最も価値があると思うものに、束縛されるのだから、永遠に束縛されずに自由にコントロールするには、永遠な存在、つまり神に仕えるのが最も自由になれる秘訣である。 御釈迦さんが説いた永遠の法に仕えるべきである。永遠の法とは神の事である。何者にも束縛されない自由な存在である。 また、瞑想は沈黙を意味するらしい。神は何でも知っておられるので、わざわざ語る必要はないらしい。語ればそれだけで、神から離れる事を意味する。 かつてのギリシア哲学では「汝自身を知れ」と言われたが、瞑想では、自分を知って、自分を捨て、よくいわれる無我の境地に達する事を目指すらしい。 自己というものを人生のなかで探して、その自己を否定する事が解脱のようである。 神に仕えるには身を清めて、謙虚にならないといけない。 というわけで、神に仕えるために、人智学的医術の続きを紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー 「人智学と医学」第13講1920年 4月2日 ドルナハ-------------------------------------------------------------------------------- 最初に、三つの事例を順に取り上げ、唯物論に偏っている医学上の考えを、少しでも人智学の霊的な方向へと導いていきたい。この事例から、腫瘍と、場合によってはその治療を可能にする霊的観察を述べる。 更に、従来、精神病と呼ばれてきた病気の合理的な理解や、人体外からの治療法、つまり軟膏などを塗ったりする際に有用な知識を霊的観察から述べる。 通常の物理的検査では、少なくとも人智学の見解から方向性が与えられなければ、癌に至る、あらゆる腫瘍にアプローチするなどはほとんど望めない。 今日(1920年)、精神医学分野が、かくも悲惨な状態なのは、自然の物質については架け橋が至る処にみつけられるが、精神医学から人間の覚醒意識へと、また従来の病理学から、治療学へと橋が架けられていない為である。 その為、現代人が、人智学の考察に、はじめに入っていかざるを得ないのは、ひょっとすると、この両分野ではないかと思う。 両分野に不可欠なのは、人智学が語る内容を考慮することである。今日(1920年)の人智学の著書に注意を払うだけでも、既に多くの知見が語られている、のがわかる。つまり、エーテル体が物質=肉体に完全に介入する事に注意を払わなければならない。 エーテル体の活動を知るには、絶対的に霊視が必要というわけではない。というのも、エーテル体の活動とは反対に位置する、眼にみえる多くの活動から、エーテル体が、少なくとも正常に働いていない、のがわかるからである。 だから、エーテル体の活動を評価できる為には、物質体に、異常な活動や破壊に導く、炎症性の疾患と、腫瘍性の疾患に、注目するとよい。 腫瘍についても、正当な理由に基づき、外科医のメスを用いない治療を、絶え間なく要求する努力は実際に正しい。ただ今日(1920年)の社会状況こそ同時に変えていく必要があり、予防医学が浸透する社会状況でなければ、まだ実行できない。 重要なのは、外科医のメスでできる事と、できない事を見分け、補完する事である。今日、他に治療法がない、という理由から、外科医のメスを支持している人々の多くが、新しい治療法が見つかりさえすれば、反対側へと転向するのは疑いない。 さて、炎症性の疾患を、器官別に、様々に異なる症状まで述べない。炎症疾患はお馴染みのものだが、霊的観点から捉えた炎症活動はほとんど知られていない。 霊的観点から、炎症の特徴は、次のように良く説明できる。 「大小問わず、炎症から潰瘍に至る症状は、人智学の探究から、エーテル体全体の働きに注目すべきである。」 霊的観点から、ある方向に不活発となったエーテル体の働きを、活発化させて正常に戻し、全体が健全に働くように期待できる。エーテル体の健全な活動は、肉体のあらゆる方向に拡がっていくべきなのに、炎症の場合、特定の方向に導かれ、偏っている。 以上は、また次のような結論に至る。 「例えば、肉体の何らかの臓器で不活発になっているエーテル体が、全体としてはまだ活発なら、この方向に、再び宇宙的な活動を展開していくように、促すような対極の活動を見つける必要がある。」 しかし、腫瘍の場合は、事情が異なる。腫瘍では、物質体の活動が、エーテル体の活動に反抗し、その部位において、もはやエーテル体が活動しない。 とはいえ、エーテル体は多大な再生力をもち、人智学から、次のように観察できる。 「エーテル体の活動に対抗する障害を取り除ければ、腫瘍も治療できる。」 従って、次のような結論に至る。 「腫瘍で大切なのは、エーテル体に対抗する物質体の活動を、外から自然の活動を導入する事で、取り除き、エーテル体が働けなかった部位で、再び働けるようにする事である。」 以上は癌治療で大きな意味を持つ。癌を、霊的に観察すれば、多様な形態をもつにも関わらず、エーテル体の働きに対して、物質体が反抗を示す事にある。 例えば、体内の癌には角質化が現れてくる。あまり目立たないが、皮膚表面にできる癌にも見られるが、これは物質の活動が、当の場所にあるべきエーテル体に干渉する事で生じてくる。 従って、この両者を、正しく研究すれば、次の様にほとんど両手で掴めるような見解に至る、 「炎症[Entzuendungen]や潰瘍[Geschwuerbildungen]は、腫瘍や癌[Geschwulstbildungen]と完全な対極を成す。」 この両者は対極にあり、この事を両手で掴める、と表現したが、次のような経験を思い出して欲しいからである。 「皮膚表面近くに癌ができる場合、疑似潰瘍[Pseudogeschwueren]と、よく混同される。」 だから、このような両極性を、より厳密に探究できるまで、研究を拡張しなければならない。 さて、以上で、よく理解の障害となるのは、古くからの、つまり中世初期からの病名ではない。現代にも通じる、中世後期からの唯物論的な病名にある。 腫瘍を「新生物[Neubildung]」とみなすのは間違いである。新生物といえるのは、腫瘍が、昔にはなかった病気という意味で通用するが、皮膚に覆われた肉体から生じる意味では、新生物ではない。 物質体の活動が、エーテル体に強く抵抗する事で、物質体が外界の、つまり、人間に敵対する自然に従属するようになり、腫瘍の形成は、外からの、あらゆる可能な影響の接近を許すようになる。 大切なのは、腫瘍の対極となる活動を研究する事である。外の自然の、まずは、ウィスクム[Viscumbildung]=ヤドリギの研究を参照する。まず、ヤドリギ類が、他の植物に寄生するのに目を向ける必要がある。 しかし、寄生は研究の本質ではない。植物学の研究では、確かに、ヤドリギの寄生の性質が重要である。けれども、自然に対する人体の研究で、根本的に重要なのは、ヤドリギが他の植物の上に生える事で、一年とは異なったリズムで生長を全うする事にある。 つまり、ヤドリギは、例えば、寄生している樹が、春に葉を生やし始める前に、既に花を咲かせてしまう為、冬期植物となり、また、寄生している樹の葉によって、強い太陽放射や夏の光からまもられ、外界に充分に曝されずに、「貴族的に振舞う」植物なのである。 以前にも述べたように、現代人は、太陽を、常に光の代表として観察しているが、物理学的にはそれでもよいが、人智学の探求には相応しくない。 間違った自然観察から紛れ込んでくる言葉を、完全には回避できないとはいえ、ヤドリギが他の植物に寄生する事で生長し、繁茂する活動は重要である。そのような活動から、ヤドリギは他の植物とは異なる、特別の生長力を獲得する。 ヤドリギが獲得する生長力は、例えば次のように示せる、 「ヤドリギの生長力は、直線(線形)的ではなく、非直線(非線形)的になる。」 次のように理解してはじめて、その生長力が明白になる。 「図で描くと(下図参照)、物質体の活動によって、エーテル体を拒む部位があると、エーテル体は堰き止められ、停滞し、まるで新生物のようにみえる腫瘍が現れる。そして、この部位にできた腫瘍に対抗するのがヤドリギの生長力である。」ヤドリギは、エーテル体が浸透しない場所に、エーテル体を再び誘導する。 以上は、実験により確かめられる。直線(線形)的な成長とは異なる、ヤドリギの非直線(非線形)の傾向を、胎盤の排出に用いて、観察し、研究すればわかるだろう。 ヤドリギは、胎盤を人体のなかに引き留める。すなわち、ヤドリギの性質から、直線的な働きの排出とは反対の、胎盤を引き留めるように働く。つまり通常の進行を止めるのが、ヤドリギの働きなのである。 胎盤を引き留める働きは、エーテル体の活動だが、より精妙な、アストラル体や自我の活動からは、このような働きは滅多に起こらない。しかし、直線的な生長に対抗するのと同じ働きが、ヤドリギの働きからイメージとして現れる。 例えば、エーテル体が、物質体を適切に掴もうとしない傾向に対して、ヤドリギの働きに気づいて、人体にその活動を実現させると、今度は、エーテル体が、あまりに強く物質体を掴み、痙攣の発作が起こる事がある。 また、別の場合には、始終、自分が転倒するような独特の感覚が、ヤドリギの働きにより生じる事もある。また例えば、ヤドリギは、遺精の促進[pollutionsbefoerdernd]にも関係する。 以上のように、ヤドリギは、人体の活動に対抗する働きを持つのを、例えば、癲癇(てんかん)との関係からも見つけられる。とはいえ、この働きはヤドリギの寄生の性質というより、ウィーンでは有名な俗っぽい表現でいうなら、特別製のソーセージを自然に焼いてもらっている=特別扱いされているのと関係している。 ヤドリギは、春過ぎに花を咲かせ、実を結ぶ、通常の季節に繁茂せず、別の特別な時期、つまり冬期に実を結ぶ点で特別扱いされている。自然から特別扱いされている、ヤドリギは通常の季節に対抗する活動を獲得する。 少し酷い表現だが、ヤドリギを眺めて、自然の活動を観察すると、次のような結論に至る、 「自然の活動は、ヤドリギには常軌を逸している。自然はヤドリギには季節ハズレである。」 しかしながら、他方において、人体の物質体が常軌を逸するとき、例えば、癌には、逆に、このヤドリギこそ用いるべき治療薬なのである。だから、癌になったとき、大切なのは、上述のような理解力を育てる事である。 さて、ヤドリギこそ、その異常な働きを取り出して、外科医のメス代わりに用いるべき治療薬なのは明らかである。ただ重要なのは、ヤドリギの実を薬にするには、腫瘍にまで達するように、人体でエーテル化=免疫化できなければならない。 (この部分の訳が難しいが、ヤドリギを投与する事で、問題の物質体にエーテル体が浸透するようにする事である。) 常軌を逸している、とは、例えば、ヤドリギの種の存続において、その種子の受粉を、鳥の飛翔による移動を頼みにしている点にある。つまり、鳥が、ヤドリギの種子を樹から樹へと続けて運ばなければ、滅亡してしまう。 奇妙にも、ヤドリギの種子は、鳥の体内を通る為、まず鳥に食べられ、排泄されてから、別の樹の上で、あらためて芽を出す。以上は、ヤドリギの生態を、注意深く観察すれば見通せる。 また、ヤドリギの膠(にかわ)質[Leimsubstanz]を、塗布剤などにし、腫瘍の部位に(免疫細胞に外敵と認識されないように)、外から徐々に働くように浸透させていく[Potenzierung]のが大切である。 腫瘍が生じた様々な臓器に応じて、ヤドリギの生える場所、つまり、どんな樹に生えるか、などに従って、異常な働きを、特定していくのが重要である。 また、ヤドリギの膠質を、金属と配合し、もしくは植物に含まれる金属で間に合わせる事もできるが、腫瘍の部位に達するように、人体の(金属と蛋白質の)相互作用に基づいて、薬をつくる必要がある。 例えば、林檎の樹に生えるヤドリギと銀塩を配合し、塗布剤にして、外から徐々に擦り込んでいけば、下腹部の癌に抵抗する働きを生じさせるだろう。 (銀は生殖器と親密な関係をもつ。) 『ヤドリギ:最近のハーブ図鑑の記述によれば、ヤドリギ(学名 ウィスクム・アルブム[Viscum album])には、蛋白質合成、免疫機構、循環器系、心臓に作用する成分も含まれるとされる。内服、外用ともに用いられるが、特に茎と葉はそのまま食すると有毒なので注意が必要。ツンとする、苦甘い、加温性のハーブで、血圧降下、免疫機構を刺激し、心拍低下、鎮痙、鎮静、利尿、抗癌作用があるとされる。 北欧神話では、オーディンの息子、光の神バルドルは、ロキの計略により、ヤドリギの矢で殺されるが、のちに再生する。ヤドリギはまた、ドルイド教で重視され、新年の祝いに関連がある。これは特別な月相のとき、金の鎌で樫の樹だけから採られたという。』 さて、以上について慎重にならざるを得ないのは、人智学の研究に基づいた根拠を有し、絶対に正しい、という確信をもつ一方で、実際に治療を始めるには、ヤドリギを加工し、薬とするための知識がほとんど皆無だからである。 人智学の知見は、他の医師たちの下でも、根拠を有する臨床試験を、共同で実施していく場合にのみ有効となるだろう。 人智学の知見と、実際の臨床への応用へのギャップが、医学への橋渡しを困難にしている。というのも、臨床上の経過観察と、人智学の探究の両者が、今日(1920年)の社会の慣行によって、いまだ余儀なく寸断されているからである。 しかし、ヤドリギから、この両者が互いに結びつけば、本質的に成功する見通しがたつだろう。この方面に向けて経験を集めるのが大切である。というのも、臨床報告等により、検証を与える以外には、いままでとは異なった印象を与えられないからである。 というのも、現代人は、精神=霊的な必然性というより、肉体的な必然性から、治療を必要とするからである。 ヤドリギの異常な働きが、たった今説明した事例に、本当に基づいているのも、そのうち立証されるだろう。ただそのときには治療法が先に進んでいなくてはならない。というのも、次のように言えるからである。 「前にも述べたが、樹の幹の本質は、土の瘤であり、内に植物を含み、通常の植物が生える小さな丘と同じである。」 さて、土の瘤である幹に、ヤドリギが生えると、ヤドリギは樹の上でくつろぎ、地面とは反対に根を下ろす。だから、ヤドリギのように、狂った貴族主義を身につけながら、同時にボヘミアンのような寄生の特性は備えていない植物で実験してみれば、同じような経験が得られる、のが予想できる。 実際、予想通りになるだろう。冬の植物の、正常な活動に反する抵抗力、つまり、病気に向かう傾向を調べると、冬に開花するのが相応しい「冬期植物」はヤドリギと同様の働きをもつ、のが予想できる。 ただ、実験を、例えばヘレボルス・ニゲール、通常自然で見られるクリストブルーメ=クリスマスローズにまで広げていく必要がある。そうすれば、ヤドリギと同じ働きが得られる。 『クリスマスローズ:真冬に白色または紫色の花が咲く、キンポウゲ科の植物。』 ただ、前にも触れたが、男性と女性では働きが反対になるのも考慮しないといけない。すなわち、ヘレボルス・ニゲールは、女性では、はっきりとわかるような働きはほとんど得られないが、男性では、腫瘍に対して、ヤドリギが示したのと同じ抵抗力が得られる。 以上について、次のような特徴を考慮すべきである。 「ある植物が、冬に繁茂するのか、夏に繁茂するのか、また、その植物の働きはヤドリギと同じ状態で得られるのか、或いはヤドリギよりは地面に向かう傾向があるのか、といった事である。」 ヤドリギは地上を好まず、黒ヘレボルス、クリスマスローズは地上に近づくのを好む。従って、前に触れたように、黒ヘレボルス、クリスマスローズは、どちらかというと男性に親和性があり、地上に親和性がある。 他方、女性は、地球外=天に親和性を持っている。 以上のように、男女の性差を考慮しなくてはならない。自然の活動について、洞察力を獲得する必要がある。 だからこそ、これまでのように、外=天の諸力が、どのようなものか、特徴を述べ、示し、理解を容易にするために、ボヘミアン、貴族、狂気などのような道徳的観念を用いた。このような観念は、それほど不適切ではない為によく役に立つ。 さて、このような観念を獲得すると、薬の内外からの働きの特徴的な差異も明らかになるだろう。しかし、この差異を考察する前に、正しく導く観念を、もう少し思い浮かべる必要がある。 例えば、現在(1920年)出現している新種の病気の治療には、次のような事を研究すべきである。 「例えば、植物炭を、長期間メタンに曝し、充分に浸透させてから、体外から擦り込む。植物炭にメタンを浸透させた軟膏薬を獲得できる。この軟膏薬は、その作用を促進する物質を配合する必要がある。」 まず、軟膏薬をつくる技術を見つけないといけない。確実な技術で、例えば、滑石土(タルク、苦土)などを用いて軟膏薬をつくり、外から人体に働きかけないといけない。 全体の活動を見通すのが大切である。最初に、人智学により健全な思考の学習を通して、眼差しを鋭くしなければ、病気を見通す事はできない。俗に「精神病」といわれる病気も次のように考えればよい。そもそも人智学者は、「精神病」という表現を聞いただけで苛立ちを覚える。というのも、精神=霊は、常に健康で、病まないのに、愚かにも、精神病という表現を用いているからである。精神の病を語るのは意味がない。精神自らの表現が、物質体=肉体に妨害された状態にあり、決して精神=霊魂が病んでいるのではない。精神病とは、肉体に生じている障害の徴候にすぎない。 しかし、個々の具体的な徴候への眼差しを鋭くすべきである。例えば、宗教的な狂信やそれに類する精神病、(精神医学分野での病名は究めて混乱している為、正確ではないが、やはり、社会に浸透している以上、このような病名を用いざるを得ない)の徴候がみられる場合を考えてみる。 精神病と呼ばれる病気は、肉体の障害の徴候にすぎない。このような障害の徴候が現れている場合、大切なのは、物質活動全体の病像が得られる事である。 そして、この病像を呈している人の肺の活動の異常、呼吸のみならず、新陳代謝の異常を正確に見通す必要がある。 というのも、精神病を、脳の病[Gehirnkrankheit]とする考えも、本質的には正しくないからである。精神病という表現は完全な間違いだが、脳の病は半分間違っていて、というのも、脳の変性は、副産物に過ぎないからである。 (下半身の不調が脳に現れて、脳が変性するという。) この病気の根本は、人体上部にはなく、人体下部のなかで生じているはずである。病因は、肝臓、腎臓、心臓、肺という四つの臓器のなかにある。 外の生活への関心を失い、思い悩んで妄想に囚われる、といった狂気への傾向を持つような人は、肺に何らかの異常が想定できる。 同様に、我儘で、頑固で、独善と呼べる固定的な思考、いわゆる固定観念に凝り固まる人は、肝臓に異常がないか、を調べるとよい。 というのも、このような人は、肝臓が、化学的に正しく機能していないからである。例えば、俗に言われている、脳の軟化ですら、副次的な症状にすぎない。精神病の観察は困難だが、病気の本体は臓器にある。 本体が臓器にある為に、結局、次のような結論に至る。 「俗に、精神病に心理療法を講じてもほとんど改善しないばかりかむしろ、臓器の病気の方の改善に期待がもてる。」 だから精神病を、薬で治療する習慣を身につけていかなくてはならない。以上が精神病の本質である。そして、この精神病と呼ばれる病の治療が、現代医学の唯物的な方向性を、人智学の霊的な方向性へと転じる道を探す、第二の分野に他ならない。 霊的な観察者は、本質的に、心療分野では熟練した心理学者でもある。というのも、心の中には、しばしば暗示として働く、遥かに多様な霊的要因が存在しているので、正しい観察を一歩一歩獲得していかざるを得ないからである。 1つの事例で次の様に解説できる。人間の能力は、肉体上に組織されて初めて、霊魂の道具となり、能力が発揮されるが、ただ一回の人生で生じるのではなく、何回もの輪廻転生を得てはじめて獲得される。 頭があまり良くない[schwachsinnig]と見られがちな人が、奇妙にも、優れた行動ができるのは、頭が良くない方が暗示にかかり易く、周囲の隠れた霊の影響を受け易くなる=霊媒体質の為である。 この事例から、文化史的-病理学的に究めて興味深い観察ができる。このような観察の成果として、名前を挙げる必要はないだろう。信用は多少揺らぐだろうが、名前を挙げるのは、やはり不名誉で、不都合となるためである。 特にジャーナリズムで、このような奇妙な事が起こる。頭がそれほど良くない人が、良い記者になれる。頭がよくないので、自分の主張ではなく、時代の主張を提示できるからである。時代の主張が、そのような記者を通じて、社会に反映され、従って、例えば、賢くない記者の記事は、知性鋭い[starksinng]記者よりも遥かに時代を反映したものとなる。 自分の意見を作り出そうとしている知性鋭い記者よりも、あまり頭がよくない記者の記事を通じて、その時代の考えを良く知る事ができるので、本来の頭の悪さが隠れて現れてくる。これは極端な例だが、似たような話は人生では頻繁にお目にかかる。 そのような記者は、最初は、記事を通じて、天才的な才能が現れるために、本来の頭の悪さに気づかないが、そのような事は日常生活では取るに足らない。というのも、頭の悪い記者によって新聞が書かれていても、良い記事をもたらすなら、害がないからである。 しかし、もっとラディカルなケース、つまり隠蔽が限度を超えて、病気に移行する場合こそ、人智学の知見から、魂を観察する為に、偏見のない眼差しを自分のものにする必要がある。 このような場合、魂の活動により、本質が隠蔽されているので、診断できない。なので、もっと魂の深い処にある徴候に従って診断しないといけない。だから次のような結論に至る。 「魂を観察する際、錯誤に陥る可能性は極めて高い。というのも、例えば、その人の考えが、良い内容なのかどうかは大きな問題ではなく、考えを表明するのに、必要以上に、何度も繰り返す傾向があるかどうか、といった方が重要となるからである。」 考えの表明の仕方が重要となる。繰り返し何度も表明するのか、飛躍して、つなぎの話がないのか、という表明の仕方が、内容よりも遥かに重要となる。 だから、良い考えなのに、その表現が良くない事もあり得る。つまり、病気ではないが、健康ではないのである。 (漢方でいう未病) 良い考えを表明する人が同時に、精神病への素質をもち、その病の手に落ちる可能性があるかどうかは、その表現に飛躍的な傾向があるのか、それとも、何度も繰り返す傾向があるのか、に注意を向ける必要がある。 何度も繰り返すのは、根本的に、肺の不規則な活動にある。考えが飛躍するのは、肝臓が正しく活動していないからである。これ以外は、この両者の中間に位置づけられる。 次のような事も日常生活のなかで調査できる。通常、薬ではない食品、もしくは嗜好品の、例えばコーヒーは、魂に、とても明確で決定的な作用を与える。 本当は、次のような作用は問題にすべきではない。というのも、このような作用に依存すると、霊魂を怠惰にするからである。それでも、次のような作用があるのは確かである。 コーヒーを飲むと論理の欠如を補える。つまり、コーヒーを飲めば、論理を多く引き出せる状態にできる。 だから、思考を論理的に続かせようとして、ストレスでペン軸を強く齧らなくてもすむように、記者たちが、コーヒーを沢山飲むのは、現代の論理を求める手段が習癖化した為だろう。 また他方で、紅茶を飲めば、ペダンチックな論理的思考を妨げる事ができる。 コーヒーを飲み、ペダンチックに思考を結びつけていくと、極端な場合、才気に溢れた表現ができず、自説の論理を披露するだけになり、聞き手が退屈してしまう。対照的に、内向的にならず、できるだけ才気煥発で、社交協定を行う、古い政治体制から与えられてきた職業、つまり外交の場では、紅茶を飲むのが勧められてきた。コーヒーが記者が好む飲物なのと同様に、紅茶は外交官が好む飲物である。紅茶は、飛躍的な思考が湧き出て、才気煥発なように思考を促進する。 このような事を知るのは重要である。というのも、このような事を正しく評価するのを学び、霊魂に必要な道徳性を備えていれば、様々な食餌療法とは別に、道徳生活においても同じ事が奨励されるのがわかるからである。しかし、自然との関係を学ぶには、文化との関係が重要なのと同様に、次のような事が究めて重要である。 「例えば、ロシアでは、砂糖の摂取が究めて少なく、そして西欧、特にイギリスでは砂糖の摂取が非常に多い(1920年)。」以上から、魂の進化によって、霊=自我が麻痺していない場所では、日常生活から摂取している食物などの影響を受ける、のがわかる。例えば、外界への帰依によって、自己を表現するロシア人の場合、個人の感覚に乏しく、せいぜい理論的に後付けされるだけで、それが砂糖の摂取の少なさと関係しているが、対して、個人の感覚が強いイギリス人の場合、それは砂糖への強い嗜好と関係する。しかし、砂糖の摂取量よりは、自我の欲求を見ていく必要がある。摂取量は、自我の欲求や憧れから生じるので、自我に目を向けるのが大切である。 さて、精神病や心の病の真の病因を、人体下部のなかに探究すべきなのを考慮すれば、人体上下の相互作用が示される。この事を、病理学-治療が問題になるとき、見過ごしてはならない。人体上下の相互作用は、病理学でも、治療でも、常に考慮すべきものである。でないと、外から病気に働く影響がどうなのか、正確な見解が得られないからである。病気に対して、足や頭を通じて、熱を与えるのか、水を与えるのかでは、大きな違いがある。しかし、人体の上下間で働く相互作用の大きな違いにまず注意を向けなければ、治療のラツィオ=理念は獲得できない。従って、これから、この分野についてできる限り、外からの人体への影響について述べていく。 1-13 人体を理解するには、下図のような関係が究めて意味深く、重要であるのが、霊的認識では直ちに明らかになる。 外界のシリカを生成する活動が、人間の頭部の活動と関わるのと同じように、今度は、外界の植物の灰化=燃焼活動を、人間の胸部に適用すれば、胸部のリズム=規則的活動もまた2つに分けられ、下図が得られる。上図は、次のように理解できる。「上部の呼吸リズムに注目すれば、胸部をつくる活動の本質は、植物を燃やして灰を得る活動と対極の活動により引き起こされる。」だから、胸部には、植物の灰化と相反する活動がある。つまり植物の灰化活動に対して闘いの継続が胸で起こるが、植物の灰化活動を抑制するには、反対の活動が胸に入り込まないといけない。 呼吸リズムのなかには闘いがあり、つまり植物の灰化に対する闘いがあるが、この闘いは、その反対の対極が、入り込まなければ起こらない。 外界にシリカや石灰が存在する地球に人間は生きている。シリカや石灰の活動が、人間を満たさなければ、人間は地上で生きられない。人間でいられるのは、外界とは対極にある活動を担う事、つまり、外界のシリカの活動に抵抗し、反対の活動を担う事で、石灰に対して、抵抗できる事による。 外界の活動に反対する活動を、頭や人体を通じて、様々な割合で、人間は自らのなかに担っている。呼吸リズムを図示したように、人体には、植物の灰化活動に対抗する闘いがある。人体には、この植物の灰化活動の反対の極がある。 このような事を大まかに表現するなら、打てば打ち返される(打撃が反撃を引き起こす)、というカルマの法則を不思議に思わないだろう。人体でシリカの活動を適度に強化すれば、その反対の活動も強化され、燃焼活動の産物を人体に取り入れると、その反対の活動が引き起こされ、この作用と反作用を、いかに支配下に置くか、という重大な問いが生ずる。 以上を、客観的に表現すれば、自我にまで至る活動がどのようなものか、そして、外界の活動がどのようなものか、を認識する事が大切である。 これらの活動は内と外では異なっている。しかし、内と外で、これらは互いに対極を成している。 ★ ★ ★ 俗世に生きようと俗世に染まる莫れ。永遠に生きよう。
2018年01月16日
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今年は戊戌の年ということで、全てが増加する年なので、せめて悪を除去していかないと、来年は、己亥なので、善と悪が一つに結ばれ、勢いが増すために、革命や暴発が起こる年だからである。 実際、60年前の1959年にはキューバ革命が起こっている。その60年前の1899年は前年からのフィリピン革命が頂点に達している。 つまり、来年までに、今年は悪を成敗する必要がある。地上の悪を、天の恵みにより慈悲を施さなければいけない年なのである。だから、医術の年ともいえる。治療の年である。 さて、人智学的医術が説くのは、人間の死は、肉体を失うだけで、霊魂は永遠に生き続ける、ということである。 では、人間はなぜこの世に生まれてくるかというなら、多様多種のカオスの状態を統一する術を身に着けるためである。 肉体は1つしかなく、物質界を生きるには他と共存共栄していかないといけない。 この1つしかない人生を通じて、多種多様な現象を自分という1つに統一し、体現していくことが愛の働きだからである。 物質界は陽と陰の二元性から1つの一元性として現れてくる。物質界を学ぶことは、二元性を学ぶことで、二元性から多種多様が生まれてくる。 例えば、恋愛は多種多様だが、男女の陰陽からはじまる。昨今は同性愛が盛んだが、その心情には陰陽が絡んでいる。肉体は性は1つだが、霊魂は両性であり、肉体への表現が陰陽の男女をつくっているにすぎないからである。 さて、先日犬HK特集で、人体のネットワークについて述べていたが、免疫がネットワークで制御されていることは、B細胞だが、イエルネがネットワークモデルで既に説明している。 ネットワークということで、唯物論から少しはマシになり、情報論として考える事で、地上の束縛から解放されてきたが、脳で全てを説明しようとする頑迷で堕落的な知性はいまだ健在で残っている。 唯物論では、冷凍保存し、脳だけを残すというクレイジーな事もやられているようだが、人体がネットワークであるのを理解していない。脳だけに人格があるわけではない。また海馬に記憶があるのではない。人智学から考えれば、海馬は、アストラル空間から記憶を取り出しているだけにすぎない。 人智学では、人体の上下は陰陽論で捉え、脳は腸と対極にある。俗に認知症といわれる病気の病因は腸にあると考えている。最近、水を飲むことで、代謝を活性化し、アルツハイマー病を改善させた事例も、出てきたようである。 人智学では、脳の病気の病因は下半身の、特に腸などにあることがわかっている。腸で行うべき消化活動、昨今では免疫提示活動とわかっているが、それが腸でできずに、脳にまで負担が及ぶと、脳で行われるので、その分の思考活動が行えずに、認知症が出てくるのである。 シュタイナーも頻繁に述べているが、現代の唯物論では、人智学は理解困難なので、哲学として捉えると少しは理解できるかもしれない。 シュタイナーはオカルト生理学も講義しているが、オカルトという命名も理解困難にさせる要因の1つだろう。シュタイナーがオカルトという言葉を使う場合、それは眼には見えない隠れた存在を意味する。 人智学では、人体を、眼に見える肉体、つまり物質体のほかに、眼に見えないエーテル体、アストラル体、自我からなるとしている。 これをわかりやすくするなら、コンピュータに喩えて、ハード本体が物質体で、OSと電源=電気がエーテル体、ソフトウェアがアストラル体、使用者=人間という感じになるかもしれない。コンピュータで喩えると唯物論でも少しはわかりやすくなるかもしれない。 コンピュータのハードでないソフト面、いわゆる情報通信機能は、コンピュータ言語からつくられるが、人間も似たように、宇宙言語からつくられるのが、人智学ではわかっている。 唯物論では、人間や人体を物質で解釈するが、人間や人体を宇宙言語からどう解釈するかが人智学の課題である。 物質体は、眼にみえる物質からできているから、わざわざ説明しなくても唯物論でも自明だろう。問題は、眼に見えない人体、宗教でいわれる霊魂=精神である。 霊魂を肉体につなげるのが人智学でわかっているエーテル体で、いわば糊の役目を果たし、光からつくられる。神道の注連縄などの結界は、エーテル界を表現しているようにみえる。エーテルは、物質と霊魂を結び付けるからである。 エーテルは物質ではなく、単純にいうなら、機能を現わし、イメージするなら、不可視な波動といえるだろう。 更にアストラル体は、光の通り道、物理学でいう時空からつくられる。この時空は、時間で仕切られた単なる空間ではなく、様々な出来事や事象が記録された媒体となっているらしい。 現代物理学でいうなら、超弦理論のM(膜)理論のDブレインのようなものだろうが、唯物論では超弦理論が限界だろう。 そして、自我とは、正に神の存在といえる「我(私)は我なるあり」の統一体を意味する。人間一人一人が我(私)という意志をもてるのは、神からこの自我を授かっているからで、この自我で統一の領域を拡げるのが、宇宙での人間の役割というわけである。 自我には、全てをバランスしまとめる能力がある。その自我は、宇宙全体の統一力からきている。さしずめ、太陽系は太陽が統一しているが、人間の自我は、太陽からきている。 太陽系を1つに統一しているのが太陽である。 さて、誰もが幸せを求めて生きている事に異論はないだろう。問題は、幸せというのが、十人十色で、万人共通のものでないところにある。幸せを求める自由という問題を抱えている。 しかし、人類が永遠に幸せであるためには、人類全体の幸せと、各個人の幸せは一致しなければならない。各個人の幸せが、人類全体の幸せでないと本物の幸せではないのである。 つまり、人類全体の幸せと各個人の幸せが一致するところが天国なのである。 人智学的にいうなら、自我が満ち足りた安定状態にある事が幸せである。だから、各個人の自我が、人類全体の集合自我のなかに、満ち足りた安定状態を探さないといけない。 人類全体の幸せのなかに、自分の幸せを探さないといけない。しかも、宇宙は益々多様化していく。 そのために輪廻転生があり、人生での自己認識がある。 神秘学では、人類の未来の集合自我のことを、霊我=マナスと呼び、不死鳥=フェニックスに譬えている。 キリストは、イエスという杯のもとに霊我を携えて、地上に現れ、人類の幸せの見本を示した。 他の不足分を補いあい、共に助け合うことで、誰一人の落第者や犠牲者を出す事なく、人類全体が幸せになるという見本である。 互いに助け合うと人類全体の幸せになる、というのが、カルマの法則である。 クリスマスとは、このカルマの法則が地上に示されたときなのである。だから、キリストが最後の晩餐に弟子たちに謙譲の精神を示したように、上は下を助け、異質なものを遠ざけるのではなく、近づいて世話をし、互いに助け合うことを、人類に約束させた日なのである。 この約束を守るのなら、神に背いて悪魔に靡いた原罪を赦そう、というのがクリスマスなのである。 そういう精神に欠けているのが、いまのこの国の上層部である。特に政府は、このような態度と真逆にある。 この国の昨今の仕事観や教育観をみていると、中世の悪しき伝統を感じざるを得ない。強圧的で非常にわざとらしい。上下断裂の様相を呈している。仕事や教育が押し付けになっているのが、一番の問題である。 中世では、仕事や教育は修行の一環で、霊能力獲得のための手段だったのだが、唯物論が蔓延って、地上生活での物質的幸せを追求するあまりに、精神を忘れ、形骸化し、動物と同じく、単なる調教と化してきた。暗黒の時代といわれるのも当然である。 人類が高貴な精神を忘れ、獣化してきた。 人類全体の幸せのなかに個人の幸せをみつけるのは、なかなか困難だが、例として、日本サッカーの浦和レッズサポーターのコレオが挙げられる。個人サポーターの応援が、競技場全体の美的応援に見事につながっている。 スポーツの報道によれば、サポーターが自主的に応援を行っているという。強制でなく、自主的なのが重要である。 しかし、自主的でなく、与えられたものであれば、ダメである。与えられた安定は、自分でつくりだした安定ではないので、容易に揺らぐ。いろんな困難に出会って、自分で安定をみつけないと、ダメなんである。 この国の教育や仕事をみていると、与えることばかりで、しかも強制であるのは、非常に問題で、まるで中世の悪しき伝統の修行のようにみえる。仏教で譬えるなら、苦行や荒行である。 御釈迦さんは、自ら苦行や荒行をしても、悟り=霊能力は獲得できないばかりか、無意味と悟って、やめてしまって、スジャータに乳を飲ませて貰い、菩提樹の下で、霊能力を獲得したのは有名な話である。 無意味な苦行や荒行を奨励しているのが、この国の現状である。 例えば、それはサービス残業であったり、夏休みの宿題などである。欧米では、休息も重要と考えられていて、休息をとるのも仕事のうちである。 休みのない生活は、睡眠のない生活と同じで、人間らしい生き方とはいえない。 教育先進国で優秀なフィンランドには宿題はなく、勉強も自主的に行うそうである。シュタイナーも述べているが、自主的な教育、つまり自己教育でないと教育は意味をもたない。 この国の教育に欠けているのが自主性であることは一目瞭然であろう。 子どもを躾けるには、まず親や大人がその見本を示さないとダメである。大人が嘘をつくなら、子どもも嘘をつくのは当然である。7歳までの子どもは大人を真似るからである。 これは大人が教育に自主性をもたないからである。子どもが勉強するには、大人が勉強しないといけない。一緒に勉強するしかない。 というわけで、人智学的医術の続きを一緒に学びましょう。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー 「人智学と医学」第12講 1920年 4月1日 ドルナハ-------------------------------------------------------------------------------- 治療の基本となる感覚は、外界と人体との関係、それは奇妙な形で現れる場合もあるが、霊的な観察から生じてくる。霊的な観察を通じて、治療に有効な薬の本質を見究める重要な洞察力=神通力が生まれてくる。 (「神通力」としたが、人智学では「イントゥイション」と呼んでいる。) 自然のなかには、人体に有益な役割を果たす様々な活動が予め準備されている事実の、身近な例に触れる為に、比較的善い精霊によって、ロンセーニョ水[Ronsegno-Wasser]やレヴィコ水[Levico-Wasser](1)などが、どのように調合されているのか、を調べてみるとよい。 1;Ronsegno-Wasser, Levico-Wasser レヴィコ水(Levico-Wasser)は、北イタリアのトレント郊外のヴェトリオーロにある、鉄、銅、砒素を含んだ鉱泉水のこと。この水については、邦訳のシュタイナー「治療教育講義」(高橋巌訳/角川書店/P122)にも出ている。Ronsegno-Wasser(ロンセーニョ水)も、恐らく、そうした鉱泉水だと思われる。 この鉱泉水については、次回以降に詳しく特徴を述べるが、銅と鉄の活動が驚くべき形で補完し合い、更に、この補完[Abkompensieren](動的平衡)をなるべく拡げるために、砒素の存在を考えてみると、次のような結論に至る、 「外界には、人体が極端な状態に至ったときの為に、予め、それを補完(緩和)するような物質が準備されている。」 このような補完が不都合な場合も必ず出てくるが、後になれば、普遍的な有益さが示されるだろう。 このような極端な状態を観察する際に注意すべきなのは、今日になってはじめて症状が現れた病気に出くわす可能性が出てくる事である。 地球の一部で、特殊な状況が進行すると、特殊な疾病が引き起こされるのが、霊的な観察から認識できる。更に、現代(1920年)に興味深い現象、つまり、今日発生している通常の流感のようなものでさえ、特殊性を持つのがわかる。 この特殊性とは、眠っていた病気を呼び覚ましてしまう事にある。人体に感染したが、通常は抵抗力により隠されたままになっている病気、状況によっては死ぬまで眠ったままでいたはずの病気が、流感に罹ることで表出してしまう。 以上を、まとめて問いの束(たば)にして、次回以降の講義の基礎にする。しかし、できるだけ実り多い知見にするために、別の奇妙な一致を示唆する。それは勿論、人智学者にだけ深い意味をもって現われてくる。 お馴染みのように周囲の大気中には、物理的にも、化学的にも正確に定義できないような緩い結びつきで、酸素と窒素が互いに結合している。地球の人間は、酸素や窒素の循環活動に基本的に織り込まれている為、大気中の酸素が、窒素に対して、基本的にどう関係しているのか、が重要と推測できる。 さて、重要にも、空気の組成の変化が、酸素と窒素の正常な関係を変化させるが、人智学から、この変化と、人間の睡眠の障害が結びつくのが示される。 更に、この結びつきから、その背後に隠されている関係が調べられる。人智学では、人間は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我の、4つの構成要素から成り立つ、のが明らかになっている。更に、自我とアストラル体が、眠りにつく時に、人体から抜け出るのを、力学で理解できれば、目覚めるのと同時に、入り込んでくるのも明らかになる。 従って、次のような結論に至る、 「睡眠状態では、自我と結びついたアストラル体は、エーテル体と結びついた物質体から抜け出るので、覚醒状態では、睡眠状態よりも、アストラル体と自我、エーテル体と物質体の結びつきがそれぞれ緩い。」 覚醒状態では、結びつきが緩いので、両者の関係が、より不安定なのである。上位の2つの、自我とアストラル体と、下位の2つの、エーテル体と物質体との、この不安定な関係は、外界の空気中の酸素と窒素の不安定な関係を、忠実に反映している。 両者の相応は実に不思議で驚くべきものである。外界の空気の組成は、同時に、アストラル体とエーテル体の緩い結びつき、或いは、物質体と自我の緩い結びつきに、比例関係を与える。 {空気の組成:窒素;78.08、酸素;20.95、アルゴン;0.93、二酸化炭素;0.034、ネオン;0.0018、ヘリウム;0.0052} 以上の関係から、更に、空気の組成と、人体がどう関係しているのか、が考察できる。そして、人体を正しい関係にするのに、空気をどう組成して、どう供給するか、などが考察できる。もう少し霊的な生理学ができれば、この相応関係が知覚できる。更に、今日よく知られた人体に関わる物質に通じていくと、物質は、人体のなかで別の物質と結びつくのがわかる。大抵の物質は、結合しては解かれたりしている。ただ、酸素と窒素だけは、人体のなかでは自由に現われている。つまり、空気の主要素の酸素や窒素は、人体でも特別な役割を果たしている。酸素と窒素は、人体の相互作用により、物質の中心を占めている。酸素と窒素は人体の諸機能に関わり、しかも自由に働く。酸素と窒素の活動が、人体のなかで結びつく他物質により邪魔されることはない。従って、外界にある物質の本質から、人体の活動を追求できるだけでなく、その物質が人体で「どのように働くのか」を追求すべきなのがわかる。つまり、独立した働きなのか、他と結びついているのか、といった事である。というのも、奇妙にも、人体の中で物質は互いに独特の類縁性や親和性を獲得するからである。つまり、人体に摂取した物質と、既にあった別の物質との類縁性や親和性が生じるからである。更に、この考えを追求していくと、神通力(霊意識)へと導かれる。人智学は、この神通力を示唆しなければならない。既知の如く、植物、動物、人体の基礎になっているのは、蛋白質である。現代化学では、蛋白質の主要素は、自然のなかの四つの重要な物質の、炭素、酸素、窒素、水素と、更に、これら四つの物質の活動を、隅から隅までホメオパシー(希釈化中和)する、硫黄が加わる。 さて、蛋白質の機能が、どのように現われてくるのか、考察しないといけない。現代化学では、その前提から、恐らく、「物質は、その内力から構成されている」、という方向性にある。そして、その必然的な帰結として、同一でないものが、同一視されてしまう。少なくとも差異が実在すれども、同一性が見いだせない、植物の蛋白質と動物の蛋白質をかなり類似したものとして、化学的に同等と想定するのは、結局、原子論を、蛋白質の構造にまで当てはめた帰結にすぎない。この原子論的考察は見当違いの代物で、正確に観察すれば、次の通りである。「植物の蛋白質は、動物の蛋白質、特に人体の蛋白質を中和させ、両者は互いに対極な関係にあり、一方は、他方の働きを抑え、消し去る。」奇妙にも、動物の蛋白質の働きは、植物の蛋白質の働きにより妨害され、部分的、もしくは完全に相殺される、という事実を認めざるを得ないだろう。すると、次のような疑問が浮上する、「それでは、動物、特に人体で生じる物質と、植物で生じる物質の違いとは何なのか?」これまで、気象や地上の活動に対して、四つの器官=臓器、つまり膀胱、腎臓(火)、肝臓(水)、肺(土)、加えて心臓が重要な役割を果たしている事について話してきた。これら四つの臓器は、外界の気象と人体の関係において重要な役割を果たしている。さて、では、人体の内密な意味で、この四つの臓器は何なのか? 実は、この四つの臓器は、人体の蛋白質の創造者である。この四つの臓器こそ研究すべき対象である。蛋白質は何なのか、と問うなら、蛋白質内の分子力を研究するのではなく、これら四つの臓器の生産物として把握すべきである。蛋白質は、この四つの臓器の相互作用の成果である。この事から、人体の内外の差異について多少の知見が得られる。今日の化学の、外の物質構造内への探究を、内の臓器の探究へと移行しなければならない。従って、人間の蛋白質は、地上では有り得ない構造をもつ。人間の蛋白質は、これら四つの臓器の影響下になければ、構造を維持できず、どうしても変化せざるを得ない。 また植物の蛋白質は、人間(動物)の蛋白質とは異なる。植物の蛋白質は、この四つの臓器の影響下にはないが、また別の影響下にある。つまり、酸素、窒素、水素、炭素の影響、そして、外界の自然や気象の影響、更に上記の四元素を媒介する硫黄による中和(ホメオパシー)の影響下にある。植物の蛋白質については、大気のなかに散在している、この四つの物質元素が、人体の心臓、肺、肝臓他の代わりをしている。人体では、この四つの臓器に含まれる活動が、外の自然では、これら四つの物質元素のなかに存在している。だから、次のように考える必要がある、「酸素、水素という名称を挙げるとき、今日の化学でいう、元素内の活動だけでなく、植物の蛋白質に関わる合成や分解も考えないといけない。」しかも、これらの元素が、地上の様々な存在の為に共に活動する事で、互いに関係し合っている。個別な事例に立ち入り、外界で、酸素(火)が行う(植物蛋白質の)合成を、人体の臓器と一致させるなら、腎臓(火)-尿(空気)になる。また、炭素(土)による合成は、肺(土)となる。ただし、肺の呼吸機能ではなく、合成活動と一致する。また窒素(水)を肝臓(水)と、水素を心臓と一致させなければならない(下図参照)。外界の水素は、心臓の活動を行い、また窒素は外界の肝臓といえる。 以上を、現代人にも認知できるような教育を強いるのではなく、自主的に苦心して獲得するのが望ましい。というのも、心臓が、水素と親和性を持つのに気づいたなら、人体上部での水素の活動の重要性も認知できるからである。というのも、人体上部に向け、水素の活動が進んでいくのに伴い、人体下部の動物性が抑制され、人間の本質となるイメージなどの思考活動に向かうように変化するからである。しかし、水素の活動が頭頂に達する同時に、地球外の鉛の活動と同じ影響に達する。以前、鉛、錫、鉄を、人体上部に関係する活動とみなした。金属と人体の関係を認める傾向は今日まだ大きいとはいえない。人体から外に出ていき、鉛のなかの特別な働き、つまり心臓を通じて、思考器官の制御の担い手となる水素を準備する、のが認知できる傾向は、今日まだ大きいとはいえない。しかし、以上のような事実を、扇動ではなく、無意識に、認識可能にし、人間を進化させるような、自主的な教育へと駆り立てていくだろう。というのも、外の自然のなかで鉛が何らかの役割を果たしていることは、鉛の化学変化に従って観察するだけでも、もはや、否定できないからである。というのも、科学が確認したラジウムの崩壊産物[Umwandelungsprodukute]下に、ヘリウムの分裂と並んで、鉛が発見されたからである。今日(1920年)まだ鉛の原子量には正確に一致していないが、ラジウムの崩壊で、鉛が発見されたように、錫も、また外の自然から、同時に人体にも介入する唯一の金属の鉄も発見された。今日、レントゲン(放射線)科学は、鉛の発見のように、地球上で与えられる安定的な金属だけでなく、金属への地球外からの作用に到達する、という放射線の性質についての素晴らしい指針を提供するが、強制的な教育があってはならない。この指針こそ、今日重要といえるものである。というのは、今日の新種の病気が発生するときに、その考慮の必要性に気づくからである。 当面、興味深いことに、外界の炭素、水素、酸素、窒素は、硫黄が媒介する相互作用により、人体で固有化された四つの臓器に受け取られる。さて、上述の観点で人体を観察すれば、深い本質を覗き込めるのが確実に感じ取れるだろう。人体のなかでは、不随意な、つまり当初は、霊的な機能に直接支配されないように見えるものが、外の自然と関係づけられても、もはや、不思議には思わないだろう。また、次も真実である。「人体は腎臓を持つようにつくられるが、腎臓は、人体の一部ではなく、全体になろうとする傾向を持つ。また膀胱-腎、肝、肺、心臓の四つの組織それぞれが常に、全体になろうと努めている。」つまり、次のような結論に至る、「腎臓はその機能とともに人体全体になろうとする、心臓も、肝臓も、肺も、全体になろうとする。」 さて、いま考察した事柄を確かめるには、外の活動が、人体のなかに観察できるか、という視点をもつとよい。この視点から、自然科学と人智学との境界を、明確に指摘するのが不可避となる。瞑想を進歩させて、人体を霊的に感受できたなら、つまり瞑想を訓練し、潜在意識と調和し、人体を感受するほど、実際に自我の具体的な認識を益々一層獲得できるようになる。この「具体的な自我の認識」は、積極的な課題、例えば人生による、自我の治療が問題になる場合には軽視できない。瞑想が進歩すれば、以前は全く意識できなかった感覚が獲得できるようになる。ただ、その感覚については独特な傾向をもつので、今のところ、公開講演や一般講演などの、公共の場で話すのは非常に困難である。いま注目した、このような霊的な基本知識が、現在の人類の道徳下で、比較的大きな集団に伝わったなら、安易に、「どうして、瞑想を活用しないのか?」というような質問が出るだろう。「瞑想で、あるものが足りないと分かれば、それを与えればいい、簡単じゃないか」、というわけである。確かに、瞑想よりも、足りないものを服用するほうが遥かに容易い。しかし、瞑想を省くと、ある意味、自我を道徳的に滅ぼすことになる。それでもやはり、現在の道徳では、この安易な考えに抵抗せずに、瞑想よりむしろ、外から薬を服用するだろう。確かに薬は、当初は、瞑想に似た効果を与えるだろう。実際、瞑想の代わりに薬で人体を治療できる。瞑想を一定期間継続して、自我の不足分を洞察できる傾向を持つようになれば、通常、モノをつかむ手の感覚や、歩行する足の感覚を意識するのと全く同様に、鉄の放射を意識できるようになる。鉄の感覚が出現するのは、事実である。この感覚は、通常の、腕や脚、回転などして頭があると、はっきりわかるのと同様に明確である。自我を鉄のファントム[eisernes Phantom](2)と感じる意識が生じてくる。(2)ファントム;神秘学的に言えば、物質としての肉体に先立って、本来、不可視な、純粋な形態があり、この眼に見えない肉体形式が、ファントムと呼ばれる。この形式-ファントムに物質素材が入り込んで、通常見ている肉体が成立する。パウロが「コリント書」で言っている「霊の体」も、このファントムのことである。このファントムを理解することで「キリストの復活」を理解する鍵が得られる。 以上について、次のように捉える人もいるだろう、「そうですか、つまり外から何かを服用すれば、固有の鉄に対する自我の鉄の感度や敏感さを高められるわけですね、服用で瞑想と同じ感覚が得られるのですね。」確かに、服用後の初期段階では、瞑想と同じ感覚が得られるが、潜在意識の獲得、いわゆる「霊視」[Hellsehen]獲得の手軽な方法で、このような実験を始めるなら、非常に危険で、実際に様々に行なわれている。このような実験が、人類への供犠として行なわれるなら、話は別である。しかし、単なる好奇心から行うなら、人間の魂の道徳的構造を根底から破壊する。このような間違った方向で、自分を用い、色々と実験し、今日でも、その著作のなかに見られる数多くの発見をした人物が、ファン・ヘルモント(Van Helmondt)だった。パラケルスス(Paracelsus)はこれとは異なり、むしろ、次のような感情を抱かせる。「彼の霊認識は、隔世遺伝の形で現れ、地上を超えた世界(あの世)から、この世に携えてきた。」他方、ヘルモントは、薬を服用し、自分の身体を使って実験し、独特の霊的見解を得ていた。彼の著書から、その事がわかり、様々な箇所に暗示されているのは明白である。もっとも手近に獲得できる感覚は、人体上部から放射され、四肢に分岐していくのを証とする、奇妙な鉄の放射に対する自我の敏感さである。自我が、鉄の放射を感じている事で、鉄の機能や活動から、自我の制御が直観[Anschauung]できる。(血液が赤い理由) しかし、この鉄の放射を、図で示すなら、鉄は、肉体を超えて活動する能力がないのに言及しなければならない。この鉄の放射は、人体に制限され、肉体内にとどまる感じを受ける。この鉄の放射を堰き止める抵抗力を感じる(図参照)。 次のような結論に至る。「この抵抗力は、鉄が陽に人体表面に向かって放射するのに対し、球面波を描くように、陰に反射し、返すように感じる(上図)。」以上は、放射とその抑制の両方、つまり鉄の放射が壁に突き当たり、通り抜けられず、肉体の表面を越えられないのを知覚するのに相当する。この抵抗力が、他ならぬ蛋白質の活動である。従って、人体のなかに、鉄の活動が導入されると、この鉄の活動に対して、四つの臓器から発する蛋白質の活動が抵抗するのが感じられるだろう。鉄と蛋白質の元となる4つの臓器は、互いに抑制し合う。人体では、絶えず、このような闘いが繰り広げられている。以上が、瞑想という、人体の霊視によって、真っ先に知覚される事である。医学史を研究すると、ヒポクラテスの医学、そしてガレヌスの医学でさえも、上述のような瞑想的観察の残滓によって成立したのがはっきりとわかる。ガレヌスは、もはや、あまり霊視できなかったが、当時まだ、古代の霊視の伝統が残っていたので、彼は、それらの残存を書き留めた。彼の著作を霊視すれば、ヒポクラテスとともに没落し始めた古代の霊能力を基にした医学のうちの多くが、ガレヌス(Galen)では、まだ叡智の光を発しているのがわかるだろう。従って、自然治癒力についての重要な見解も、ガレヌスの著作のなかに数多くみつけられる。 さて、以上のような知見を、霊視で追求していくと、人体の二極性、つまり放射とその抵抗を総じて研究する事になる。この二極性は重要である。というのも、この二極性において、蛋白質合成の傾向をもつ活動は、鉄の抑制と関係し、金属の摂取は、鉄の放射と関係するからである。無論、なかには特別な例外もあり、この例外を手懸かりとして、宇宙のあらゆる角度から、人体に働きかけてくる独特な相互作用の全貌を奥深くまで見通せる。この全貌を見通すには、既に暗示した事をもう少し追求し、更に個別化し、形を整えて考察できるようにする必要がある。例えば、次のような事例に言及すると良い、植物の炭素については、前回、植物炭を取り上げ、霊的な観察を行ったが、動物の蛋白質の大半がもつ窒素をもたないのに注目すべきである。この窒素の欠落が、燃焼に際し、動物の炭素とは異なった関係を生じさせる原因となっている。更にまた、この差異により、動物の炭素が、例えば、胆汁や粘液、更には脂肪といった生産の際に関与する傾向を引き起こしている。この動物炭と植物炭の相違が、人体での、金属と、非金属(蛋白質)との二極性に注目するように導く。(金属は天体の活動から生じるが、蛋白質は地上の人体の活動から生じる。) さて、この対極的な相互作用に注目すると、重要な事実に到達する。人智学の説明のなかで、人生のなかの周期をしばしば強調してきた。幼児期から歯牙交替期までの期間(約7歳)、それから性的成熟に至るまでの期間(約14歳)、更に、20代初めまで続く第三の期間などである。これらの周期は、次の様に、人体の内密な出来事と結びつく。歯牙交替をもって終わる最初期の特徴は、自我を制限し、堅固な骨格の分離や付与へと、人体の活動を集中させる事なのである。この期間は堅固な骨格を外に向け、歯を送り出す事で終点に達する。さて、実際はまだ大半が液状の人体のなかで、骨格の形成のように堅固さへの進行が、特に周辺へと向かう活動と関わるのは明白である。そして、注目すべきなのは、この期間と密接に関わる、日常、あまり注意を払わない、二つの物質である。その二つの物質とは、フッ素とマグネシウムである。それらは非常に薄まった状態で、人体に出現し、この幼児期の、歯の生え変わりまで特別な役割を果たす。この固体(骨格)化を進めるのは、フッ素とマグネシウムの絶えざる相互作用であり、その際、マグネシウムは、放射を行い、繊維質などを束ね、そのなかへと、石灰質を導き、組織化し、フッ素は、マグネシウムの放射を抑制し、角を削り、彫刻家のように働く。だから、次のような結論に至る。「歯の周囲のセメント質やホウロウ質は、フッ素が彫刻家として働き、その内部に、マグネシウムが放射し、造形家として働く事で出来上がる。」従って、幼児の初めには、マグネシウムとフッ素の供給間に、釣り合い(均衡)をもたらすのが重要である。この釣り合いがなければ、早期に歯が損なわれてしまうのが経験から判明するだろう。是非とも必要なのは、乳歯が生えてすぐ、ホウロウ質の発達が遅れていないか、もしくは、歯全体の成長が矮小化していないか、観察することである。更に、適した食餌療法によって、両者の均衡(動的平衡)へと結びつくように、フッ素、もしくはマグネシウムの供給により、病気の予防にも気を配るべきである。この両者の均衡によって、人体形成の全体を直接見通せるようになる。この最初の数年間の人体は、外界の一部に他ならないので、その物質の構成に従えば、外的環境の性質が究めて強いが、その中心には、このマグネシウムとフッ素の相互作用がある。この時期の人体は、フッ素を外界から取り出す事で、外の金属の放射に抵抗する。 (この時期にフッ素を摂りすぎると、自然の力に抵抗しすぎ、あまりに賢くなりすぎて、逆に歯を損失するという。歯はフッ素を吸収するので、摂りすぎないために、歯を損じるという。) 人生の第三期を取り上げてみると、同様に、鉄と蛋白質との均衡(動的平衡)を取るのが問題となってくる。この均衡が取れずに、鉄と蛋白質の相互作用が異常になると、萎黄病[Bleisucht]の症状が出る。だから、発達(成長)段階に沿って大凡示される異常だけをみるのではなく、上述のように、幼児期に、歯の均衡を失えば、ダメになる歯が準備されてしまい、後の年齢になって現れる、というように、また委黄病の科学的な特徴だけでなく、根本から理解するには、人体の根底にある隠された秘密へと入り込まなくてはならない。 以上から、人体構築に関与する金属が大まかにわかる。重要な金属として示した、鉛、錫、銅、水銀、銀、金は、人体構築には関与しない。ただし、鉄は例外である。これらの金属は、鉄を例外として、人体構築には直接関与しないが、だからといって、人体に関与しないわけではない。概ね、人体の末端に向けられる活動を追求すると、珪素[Silicium]に至るのは既に述べた。しかし、人体に生じる出来事は、皮膚の内側の活動だけではなく、宇宙全体の活動にも影響を受けている。人体に御馴染みの物質が意味を持つように、外では、以上に列挙した金属が人体に有効で、意味をもつ。ただし、鉄には内外の媒介の役割が与えられている。鉄は、人間について、皮膚の内と外とを媒介する役割を引き受ける。この事から、次のような結論に至る、「肺もまた、人体全体になろうと努めているが、肺の活動は、自然や宇宙の生命活動にも密接に関わっている。」解剖して、眼の前にある(静的な)肉体を見るだけでは、人間の一部を観察しているにすぎない。そのような観察は、生命活動全体ではなく、ほんの一部で、外の活動に対抗する内の活動しかみていない。逆に、外の活動は、外から人体に働く、鉛、錫、銅などの活動から成立する。だから、自然科学の意味づけで観察するときでも、人間を、皮膚で境界づけしてはならない。従って、内から外へと働く活動だけが問題ではなく、外界から、人体(エーテル体)に方向性を与える活動も問題となる。このような問題を考えると、次のような事が深い意味を持ってくるだろう。 御存知のように、人体の物質は、端的にいって、塩基(アルカリ)性、酸性、中性で活動している。つまり、物質は、塩基、もしくは酸と結びついて出現するか、或いはまた、化学で言われるような、中性の塩(えん)として出現するかの、いずれかで活動している。しかし、塩基から酸へと移った後、中性の塩に至るような、対立する塩基や酸の二極性だけでは、状態は言い尽くしえない。この酸、塩基、中性の塩という三重性が、人体の本質、つまりエーテルの方向全体と、どのように関係するのか、を考えるべきである。塩基は、口内や消化などの活動を、前から後ろへと継続させ、支援する傾向をもつ。だから、塩基は前から後ろの方向と関わり、酸は、その逆の後ろから前の方向と関わる。人体の前後の対比に注目すると、塩基と酸の対比に辿り着く。塩(中性)は、地球に向かい、両者の垂直の位置関係にある。上から下への活動には、塩(中性)が関わっている。従って、塩基、酸、塩(中性)が、人体にどのように関わっているのかをよく考えるために、以上の三つの方向を考えるべきである。すると、人体の観察を通して、外の金属の科学と、生理学との間に橋を架けるような事例を再び手に入れるだろう。このようにして塩基や酸と、中性の塩との地球との親和などの知見が与えられる。この事を例えば、図で示せる。地球を中心にすると、塩(中性)は地球に向かう傾向を、塩基と酸は、地球の周りを、円を描いて回転する傾向を持つ。だから、人体に与えられる方向性をよく知り、この方向性に逆に介入できる。この方向性から、塗布や軟膏などの薬で、外から介入する治療が思い浮かぶ。従って、外から、ある方向に働く薬の研究が必要となる。状況によっては、ピリピリする芥子の軟膏や、金属の軟膏を、適切に調合すれば、内服に劣らず、大きな意味を持つ。ただ、軟膏薬を、どのように塗るべきか、などを見ていく必要があり、というのも、ある膏薬を、どこに塗るかで、効果が変わってくるからである。適切な箇所に塗ることで、損傷に対する抵抗力を引き出すことである。ヒリヒリ痛む箇所に、大雑把に塗るのは正しい、とは言えない。 1-12 人智学から、人間の頭を研究し理解するなら、地球の生成に関わる、次の両方の活動(プロセス)、つまり石灰の生成活動と、シリカ、もしくは珪酸の生成活動に注目する必要がある。この両活動は重要である。さて、地球の周辺の、外になく、人体内に向かう活動、つまり、リズミカルな呼吸を行う胸部の活動は、自我とアストラル体の記録制御と、主に物質とエーテル体との相互作用から成っているが、この構造は、自然のなかには存在しない。少なくとも、通常の自然には、人間の胸部のような活動はない。この胸部の、自我とアストラル体(これらは自らの記録を複製した為に、自由だが)の相互作用と物質とエーテル体の相互作用を通じて生じる、独特の混合活動を、外界にみつけたいのなら、人間自らで、人工的につくりださなければならない。植物を燃やし、灰を得る活動、つまり燃焼活動が静止して灰に至る、火(燃焼)の活動と灰の生産活動は、頭部の物質を生じる活動が、シリカの生成活動と似通っているのと同様に、胸部の呼吸活動に似ている。この灰の生産活動によって、呼吸のリズム活動に介入するなら、直接介入できないので、呼吸活動とは対極の活動に介入しなくてはいけない。この事を、図示すると(下図参照)、灰の活動と似た呼吸のリズム活動の対極の、循環リズム活動、つまり代謝という迂回路を通して、効力を発揮させなくてはならない(下図参照)。呼吸リズム活動と対極の活動を生み出すように、循環リズム活動のなかに、この植物の灰の活動を組み込まなくてはならない。 ★ ★ ★ 学ぶことは成長である。
2018年01月15日
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戌年ということで、犬HKが大河で西郷さんをやるらしいが、このブログでも何回となく書いたが、通俗史で書かれている西郷さんは、水戸黄門と同じで、皇国史観による教育用西郷論であるらしい。 水戸黄門なる水戸光圀の実像を話した歴史家が老人に罵声を浴びたように、西郷の実像を語れば非難囂々なのは明らかだが、妄想論に走って、現実感をなくして、国土を焦土化した前回の反省をせずに、また妄想に走り、この国を滅亡に追い込もうとしているバカ者アホらに警告するために、あえて、紹介する。 以下が西郷の実像に近い話で、その事を以前紹介したのがその下である。 ★ ★ ★ 花の西郷隆盛 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/saigou.htm ネット情報の活用法 その1374 https://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201709080000/ ★ ★ ★ 私もこの部落史からみた八切史観の西郷話を知るまで、すっかり皇国史観の西郷論に洗脳されていた。 正史とされた伊藤俊輔を中心に盛られた洗脳教育用の通俗史では、明治維新で肝心な事が抜けているのである。 それは被差別部落民による革命闘争という事である。 江戸時代は厳格な身分制度があった、という事がすっかり教育から抜けおち、古来から現在のように表向き身分制度がないかのように語られているが、もちろん、いまでも天下りや天上がり、上級国民という呼ばれ方があるように、表向きは、皇室以外は身分平等だが、実際は経団連ら金持ち連中が皇室と姻戚関係を結んだり、皇室を利用して政治を牛耳り、米国の犬ぶりを発揮していることからも、明らかである。 西郷の実像を他の人物で譬えるなら、割と良くいえば、キューバのカストロに近い人物といえる。 実際、島津久光は、西郷のことを安禄山と罵っている。つまり、西郷は、部落民出の辛い人生の前半期から、身分制度を改めるために、久光を担ぎ、部落民での大室帝を明治帝にすり替えて、部落帝国をつくろうとしたのである。 そのためには手段を選ばない非情な悪人であったようである。 だから、大村も、勝海舟も、西郷を恐れていたようである。 また西郷が猟犬を連れているのは、暗殺を恐れたからだと言われている。西郷は常に複数のいまでいうボディガードを伴い行動し、自分が写った写真を集め、燃やしてしまったので、肖像は後世に残っていない。 上野の西郷さん像は、長州の大村に面目を潰された薩摩派閥が面目躍如で建てた偶像で、鹿児島にある軍服の像の方が、戦を求めた西郷には相応しいようである。 有名な西郷の肖像は、弟の従道のもので、大山巌や、桐野らが影武者のような役割をしていたようである。 西郷の伝説はほとんどが後付けで、身分制度が好きなこの国の上級住人がいかにもやりそうなことである。西郷を軍神化して、朝鮮や清に押し入り、英国偽ユダヤに戦費を借金し、まんまと騙された日露戦争に向かうのである。 幕府が集めた三井のカネを長州が討幕資金に用いたのと全く同じ構図である。 いつの時代も、この国の下級住民は蚊帳の外で、戦場に送られて殺されるのである。 そろそろ目覚めるべきではないか、英雄なんて存在しないことを、八百長を守る相撲業界をみればわかる話を、お馴染みのサイトから以下に紹介する。 ★ ★ ★子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記 {大日本国終焉日記 }http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ 代替案 より上記文抜粋・・・・・・「英雄たちの選択」で語られた武力討幕の闇昨晩(2018年1月3日)の「英雄たちの選択」、全国放送で初めて赤松小三郎が、ほんのわずかの時間ですが紹介された。 イギリスの外交官のオリファントが、留学中の薩摩の寺島宗則に向かって「イギリスの掲げる自由貿易とは、じつはお前たちの国から徹底的にむしり取るためのものなんだぜ」と公然と語っていたエピソードなど、英国の自由貿易帝国主義のダークサイドについても言及されていたのは良かった。TPP問題など現在にまでつながる論点である。 寺島宗則、重野厚之丞といったこれまであまりスポットが当てられなかった人物たちに光が当てられたのはすばらしかった。 番組の前半は島津斉彬・寺島宗則といった薩摩の先進的な知識人たちの「光」がテーマだったとすると、後半は武力討幕に決した西郷・大久保の策謀の「闇」の部分も語られた。その中で、テレビで初めて赤松小三郎の名が登場したのである。赤松小三郎は、必死に西郷に向かって武力討幕を思いとどまるように説得していたが、薩摩は冷徹に小三郎を暗殺するに至ったのだ、と。 中野信子氏は以下のようにおっしゃっていた。「(内乱を起こし武力で権力を奪取するという)この選択、やっぱり腑に落ちないなあ、といつも思うんです。斉彬公の御意志とは違うという、この選択をわざわざ彼ら(西郷・大久保)が取る理由、そのデメリットがそれほど大きいかしらと考えると、そうでもない。まだ見つかっていない何かがあるんじゃないか」 信州出身の歴史学者である岩下哲典氏は「公議輿論の議会をつくりたいというのが赤松の思いだった。薩摩がその師匠をバッサリやっちゃったというのは信州人としてちょっと許せない」と。 磯田道史氏は「今日、政治思想家が、この赤松を斬っちゃったことをすごい惜しむんですよ。ものすごく緻密な日本における議会の作り方を政治思想として知っていたのはこの人だった」と。 日本有数の知識人たちであるこれらの方々が、以上のようなコメントをしたことの意味は大きい。武力クーデターによる王政復古ではない、公議輿論(=議会制民主主義)の別の道があったのだ。 おりしも、安倍晋三首相が年頭所感から明治の精神に学ぼうと呼び掛ける中、ウェブジャーナルのIWJが元日と二日にかけて、昨年の夏に行われた岩上安身氏と私の対談を再配信して下さっていました。 武力討幕による「王政復古」がいかに日本の近代化を歪めたか、興味のある方はIWJのインタビュー記録をご参照ください。 その1からその5まで、フルテキスト(有料)が以下にあります。IWJの会員でない方も単品で購入できます。 何でも昨年のIWJのコンテンツの中で、会員以外に単品としてもっとも売れたものの一つだったそうです。岩上さんと私の対談の、数倍の分量の膨大な注が付けられていて、事実関係が精査されています。注の部分が資料としても価値が高いと思います。IWJのスタッフの皆様に感謝申し上げます。 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/408786・・・・・・・・・・・・・抜粋終わり ★ ★ ★ 明治なんかより、北欧のような未来福祉国家に学ぶべきだと思うけどね。時代錯誤もいい加減にしろ! 大体、明治は、明の末裔を皇后にしたから明治という話だからね。古代中国国家もいい加減にしてほしいな。古い漢字使っているのはこの国の住人だけだよ。 アホ総理がやろうとしているのはアホ友ファーストの忖度カースト制度をつくることだろう。この国を北にしたいらしい。全くあほらしい。
2018年01月05日
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謹賀新年今年もよろしくお願いします。年末年始は大掃除で色々なものが壊れて復旧で大変でした。さて今年の干支は「戊戌」(つちのえ・いぬ)で、漢字をみてもわかるように、似たような戊が並んでいます戌は戊に一をつけた文字で、共に「茂る、繁殖」を意味するようです。陽明学者の安岡正篤氏は干支の活学という書で、戊戌の「戊」を植物が茂ることで、陰が多くなり、虫などが付きやすくなり、枯れ安くなるので、余分な枝葉を剪定、伐採しなくてはいけないと説いている。安岡氏などは政界のフィクサーをやったから、政治の私利私欲に対して度々警笛を鳴らして、公に私利私欲を持ち込んで、公私混同を戒めるために、「剪定、伐採しなくてはいけない」と説いているが、まさに現代は混乱の時代で、この国などはアホのせいで滅亡の道を進んでいる。去年のモリカケ問題は何も解決しておらず、腐敗が進みつつある。戊戌の今年にやらないと、戌は、以下の説のように滅亡の意味ももつので、是非果断に悪を退治してほしいものである。 ★ ★ ★2018年の干支は「戊戌」。十干・十二支が意味するのは繁栄と滅亡、さてどちらに転ぶ?https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00726/十干の戊(つちのえ)が表す繁栄と不安定、どっちに転ぶか分からない?十干の戊は葉が繁る姿を表わし、横溢する生命力を意味する十干の「戊(つちのえ)」は、生命の成長サイクル「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十種類のうちの5番目にあたり、勢い良く葉が茂る様子を表し、繁栄を意味している。 易学の古典によると「戊は“茂”に通じ、陽気による分化繁栄」と書かれていて、人間で言えば仕事をバリバリとこなす壮年期であり、人生で最高の活動時期という事になろうか。 「戊」の文字の成り立ちは、その部首が「戈構(ほこづくり)」であることからも分かるように、先端に斧状の刃がついた矛(ほこ)の象形文字である。これは、農作業で伐採する道具の事を指し、繁りすぎた枝や葉を落す作業に用いられたと言う。 「戊」は、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」に当たる。方位も五行で分類されるが、土は東西南北のどこにも関わらず中心点にある。季節も同じく春夏秋冬のどこにも関わらず、四季の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の直前の18日間ずつが土となる。土用の丑の日で有名な土用はこの期間に当たる。このように五行における「土」は中庸であり、陰にも陽にも属さない。これは一種の安定とも取れるが、他方、陰陽と言う二極に分類されない不安定な境界線上にあり、ヤジロベエの一本の足のごとく、バランスがくずれれば、どちらにも転ぶ可能性がある状態とされている。十二支の戌(いぬ)が表すのは滅亡、戊戌はお互いの威力を最大限に強化十二支の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味している。 「戌」という文字は「一」と「戊」で成り立っていて、刈り取って束にした草と、刈り取りの刃物を表した象形文字であり、「終わり」を意味している。そこから派生し、後に「滅」という字が生まれた。そして「戌」は、陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。つまり「戊」と同じである。このような「陽の土」×「陽の土」という同じもの同志が重なりあう関係を「比和」と呼ぶ。 十干・十二支はそれぞれの意味はもちろん、組み合わせによって表す意味が異なる。例えば、お互いに強め合うもの、打ち消し合うもの、どちらかを凌駕してしまうものなどがあり、この比和の関係は、相互を最強に強め合い、プラスとマイナスであっても互いに打ち消し合うことは無く、どちらかに転んで持てる属性を最大に発揮するものである。つまり2018年の「戊戌」という干支が意味するものは、大いなる繁栄を意味する十干の「戊」と、滅亡を意味する十二支の「戌」が、「比和」という関係によってその威力を最大限に強めつつ、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にある、ということになる。 ★ ★ ★干支というのは、人智学で言うなら、エーテルの活動を表しているようにみえる。エーテルと物質の相互作用の原理みたいなものである。というわけで、続けて、人体の干支ともいえる、人智学的医術を紹介する。 ★ ★ ★ モーガンフリーマンの「時空を超えて」という番組は面白いので、よくみているが、先日、貧富の差は何故生まれるか?というテーマをやっていたが、遺伝やら、動物実験やら、理論物理の熱力学やらで色々な研究がやられているのはわかったが、どれも本質を逸れているのには呆れてしまった。 貧困の解決はキリストが言ったように、金持ちが貧しい人に施せばよいのであり、金銭を独占するのが問題なのである。キリストが神殿で商売してはならない、と言ったように、利益は人類全体に平等に分配しないといけない。 人類全体で獲得した利益は人類全体に平等に分配しなければいけない。 人類は愚かなので、平等を持ち出すと忽ち議論をはじめる。 平等というのは人類で決められるものではなく、第三者がいてはじめて決められるものだから、神がきめるもので、宇宙の法則、つまりカルマの法則となっている。 だから人類に必要なのは、お互いに譲り合って納得するやり方である。感情のシコリを残さない。だから闘って勝敗を決めるのは悪魔のやり方である。 なによりも、金持ちは天国にはいけないとキリストがはっきり言っているのだから、少なくともキリスト教徒を自称するのなら、金持ちであってはいけないはずである。それでは単なる嘘つきで、アンチキリストである。 人類全体がバカになり、低レベルになってきているので、金持ちに憧れたりするのである。 はっきりというなら、生命は金銭では買えないもので、神や霊界を信じないから、物質界での死を本物の死と悪魔に唆されてしまうのである。 神と共に歩めば永遠の生命を学べ、得られる。 さて、悪魔は神が生み出したものだから、悪魔もいずれは神の一員に加わる。確かにその道のりは遥かに長いが、三位一体の原理から、全ては一に帰する。 というのも、世界は陰陽の二極で成立しているからである。陰陽五行説では、陰陽の間に、土、金、水、火、木の5つの段階がある。善悪についても、善悪の七段階ある。 しかし、善と悪と二極が、三位一体で、いずれは最善として一体となる。 というわけで、人智学的医術を紹介する。 ルドルフ・シュタイナー 「人智学と医学」第11講 1920年 3月31日 ドルナハ-------------------------------------------------------------------------------- 前回は、はじめの事例とは全く別の事例に到達したように、今回も、ある具体的な物質からはじめ、更に問題全体の拡張を試みたい。課題については、問題の性質や、講義の時間が少ない為、いわば周辺から円を描くようにアプローチしなければならない。公理から始め、次第に、複雑な問題へと進んでいくという科学的な方法はとれない。 今回は、植物のなかの炭(以下、「植物炭」とする)からはじめ、霊的な観察を、もう少し先に進められるように範囲を拡げる。前回は、チコリ、野イチゴ他を研究したように、今回も、一見奇妙だが、自然界には、どこにでもあるが、奇妙な特質をもつ、「物質」について研究していく。 自然を実際に観察するだけでも、今日の科学が導く以外の知見に、直ちに目を向ける必要があるのがよくわかる。 前回後の講義で、コリスコ博士(1)が、未来の科学は、いまとは全く別のものでなければならない、と指摘し、そして、その際、「生理学」という言葉を好んで用いていたのは興味深い。それは、化学と生理学に橋を架けるべき決意の表明だからである。 橋を架ける為に必要な基礎知識が欠けている為に、この講義で完全に紹介できない、あらゆる事例を考慮せざるを得ない。例えば、人体をつくる炭素という物質を、外の自然にも見つけられる。 では、そもそも大いなる自然のなかには、人体にあるものの他に一体何があるのか? 実は、人体以外には何もない、といってよい。というのも、目の前の外界全ては、人間が進化するにつれ、人体から外に出し、分離し、遠ざけたものだからである。 人間は、新たな進化段階に進む必要があり、その段階に進めたのは、人間に相対する外界の活動が進む事で、ある別の活動を、人体に取り入れる可能性が生じた事による。従って、外界の活動と、人体内の活動との間には、実際、親和と対立が存在する。 さて、これは、前回の講義後に述べた「化学の生理学化」、コリスコ博士の講義を聴けば、この表現の意味が理解できるが、シャイデッガー博士(2)の講義のなかでの興味深い議論において、ホメオパシーは、人智学で把握する必要がある、のが指摘されたが、その指摘と不思議と共鳴し合っていた。 そして、この共鳴の響きは、ある段階で、次のような奇妙な言葉となって消える。この言葉とは数十年来取り組んできた、 「ホメオパシーの医師でも、神秘主義(オカルト)になるのを恐れている、すなわち、神秘主義者(オカルティスト)という評判を立てられる、のを恐れている。」 さて、この言葉と取り組んできた根拠は、あくまで現実へと回帰していく為の特別な見解のなかにあった。 ホメオパシー療法で切に求められる本質を、正確に描写するなら、誤解しやすい、些かラディカルな表現にならざるを得ないが、物質自体の性質というよりも、物質を生成する活動、つまり、例えば、珪酸の生成活動(波動)や、植物炭の生成活動(波動)にある。 物質の本質は、その活動=波動のなかにあり、つまり、生成活動にある。ホメオパシーの薬を適応する際に、本質的に何が生じているのか、随分と取り組んできたが、是非、ラッシャー博士(3)も認めたように、例えば、リッターの治療法(4;光線力学的療法)も、リッター嬢自身が認めなくても、ホメオパシーの療法に含めたい。 問題は、ホメオパシーの薬を適応する際、本質的に何が生じるのか、にある。 求められる薬の効能は、結局、生成活動にある。薬のもつ生成活動を、人体にいかに生じさせるか、にある。例えば、珪酸を用いて、珪酸の生成活動を人体上位にもたらすのに、人体は何をしているのか。 人体は、ある点(動的平衡点)を目指している。外の自然では、全活動は、根本的にリズミカルな(規則的な=量子的な)活動に基づいている。当の物質の本性を前面に出している間は、そのゼロ点を目指す。 例えば、財産を持つ人が、財産をどんどん使い果たし、ゼロになり、更にゼロ点を超えていくと、今度は財産が無くなるだけでなく、更に財産の枠を超え、借金へと移行するが、物質の性質も、同じである。 当の物質の活動に限れば、もはや測定不可能なゼロ点に到達する。更に先に進むと、この活動全体が消え去るだけでなく、反対の活動が現われ、この活動が、周囲の媒質に混在するようになる。 従って、物質を、素粒子に分解し、周囲に混在させる、ホメオパシー(同化作用)によって、当の物質の反対の活動が、媒質のなかに現れる。この媒質は、当初の物質とは、反対の活動を獲得する。 それは、財産から借金に移行すると、社会生活では、金持ちから負債=借金者になるように、物質も、その反対の状態に移行して、以前もっていた性質と反対の状態を周囲に付与する。 すなわち、物質を次第に分解していき、物質の特性がゼロ点(動的平衡)に近づくと、周囲が逆の特性を獲得する。つまり、物質の特性を、周囲に放出するので、その物質を適切に促進する特性を獲得できる。 この促進とは、上述した反対の活動を、人体に直接引き起こす事にあるが、それを可能にするのは、やはり当の物質に、ゼロ点をもたらすか、もしくは光の影響下で、例えば蛍光や燐光を発するような状態にする事で、反対の活動を、人体に生じさせる必要がある。 このようにして、周囲に放射され、反対の活動が引き起こされる。これらを是非考慮すべきである。実際、重要なのは、神秘主義に陥らずに、結局、自然の真の活動[Aktion]を捉え、物質の特性についても、実際のリズミカル(量子的)な活動に入っていけるように、自然を観察する事なのである。 この物質の律動的(周期的)特性の把握が、諸々の活動の源流がどこにあるのか、を認識する為の教科書になる。物質を消化していくと、まずゼロ点に達し、このゼロ点の向こう側には、反対の活動がある。 しかし、以上が全てではなく、今度は、ゼロ点の向こう側にある、反対の(エーテル体の)活動がゼロ点に到達する。この点を超えると、更にもっと高次の(アストラル体の)活動、確かに、当初の物質の特性においては、同じ方向線上にあるが、全く別の性質を持つ、もっと高次な(精神的な)活動に到達できる。 だから、物質の希釈性=ポテンシャルを明らかにする諸活動を、曲線で記述すると、素晴らしい。ただ、この曲線は、独特の数学で記述する必要があるのに気づくだろう。 つまり、最初は上述のような、物質の特性=活動が減少する曲線を描き、次に、低次に活動している、低次の物質の特性をもつ活動が終わり、今度は、高次の霊的な特性をもつ活動を始める一点、つまり第二のゼロ点に達すると、直角に転回して空間の三次元方向に曲線を引いてこなければならない(この幾何曲線はカオスの鞍点のようなもの)。 ホメオパシー(同化)については、これからも更に述べていくが、人間と外の自然との親和性と密接に関わっている。 さて、植物炭の特質に注目できれば、次のような結論に至る、 「植物炭を多量に服用すると、特定の病像を引き起こすが、ホメオパシー(同症)療法の医師の見解に従い、植物炭と同じ物質を、体内で希釈(同化)させれば、治療できる。」 植物炭の本質を、人智学者は、どう捉えるか? 人智学者は、外の自然のなかに出ていって、地上で既に鉱物化し始めた炭[Kohle]の活動や、地中の炭の活動が、どのような状態なのか、探究しはじめる。 そのような探究からわかるのは、炭が本質的に、酸素を用いて、地球全体の活動に関与している、という事である。地球の活動では、地中の炭の含有量が、大気中の酸素の含有量を調整している。 この事からわかるのは、地球を、生命体として捉える必要があり、地中の炭の含有量が、地球の呼吸活動の影響下にある、という事実である。 前回、提示したような生理学化した化学は、地上の炭が、人間、或いは動物の呼吸活動との関わりから観察されるときにはじめて成立する。というのも、土の炭化と、地球の周囲の酸素の活動、すなわち空気との間で生じる活動の根底を成すのは、人智学の観察では、動物化の傾向として明らかになるからである。 この動物化の傾向は、結局、衝撃を与えるような表現でしか、その特徴を述べる事ができない。というのも、次のような表現しかできないからである、 「地上の炭化活動と、地球の周囲の酸素の循環活動との間で生じる活動、つまり外界で生じる活動のなかには、エーテルの存在だが本物の霊たち、動物化とは反対に、地球から絶えず遠ざかり、立ち去り、離れていこうとする霊たちを、地上に出現させる活動がある。」 動物化とは、この霊たちの脱動物化に対抗して、地上に集められる活動、つまり、動物として前面に出る活動として把握しなければ理解できない。 従って、植物炭を、人体に取り入れる場合に、人体の動物化が生じる。 植物炭の摂取により、発生してくる症状は、ゲップから腸内ガスに至るまでの、腐敗性の下痢他、また一方では痔疾の形成、他方では、焼けるような痛みに至る全症状の、その全体像を霊視すれば、人間が進化の過程で、現在の人間足り得る為に、人体から排泄した(押し出した)動物性、つまり、この動物の活動が、人体のなかに再び取り入れられる、のに起因している。 この事から、次のような結論に至る、 「人体に、多量の植物炭を与えると、押し入ってくる動物化から身を守るように促される。」 身を守るとは、周囲の環境に負けないように人体を適応させる事、つまり人間が進化する為に、自らの動物性を、外に出す(排泄する)事でなされた。 さて、人間が進化の過程で、動物性を外に出したのには、驚くだろうが、それは自らの人体のなかで、固有の[originaer]光をつくる能力と関係する。実際、人体下部とは反対に、人体上部は、光の生産者である。 固有の光を生産する能力を身につける為に、人体上部には、完全に動物化するのを防ぐのに必要な器官を備えている。これが、人間を、動物から区別する根本的な差異の1つである。動物も、人間と同じく、他の高次の霊の活動を備えてはいるが、体内で十分な光を作り出す能力はない。 この事から、近代の自然科学の実に痛ましいテーマに至るが、これから述べる事を、隠しておくわけにはいかない。人間と、外界との関係を洞察するなら、このテーマを避けて通るわけにはいかない。 人体のなかの物質全般、特に薬となる物質の活動を把握するのに、大きな障害となっているのが、いわゆる、力、ないしはエネルギーの保存の法則、更には、質量保存の法則である。 これらの法則は、普遍的な自然法則と定められたわけだが、人間の進化活動とは完全に矛盾する。栄養摂取-消化活動全体は、唯物主義的思考により知られているようなものではないからである。 栄養摂取-消化活動全体は、唯物主義的見解では、体内に摂取された物質が、あたかも外界にあるままに振る舞うように考えられている。つまり、炭素の例を挙げると、外界にある炭素を人体に摂取すると、無論、食物の形に調理された後だが、外界から摂取した物質を、分子などに分解した形で、体内にもち、炭素などはそのままの形で携えていく、という風に考えている。 このような唯物的な観点では、外界にある炭素と、体内に担っている炭素との間には違いがないと考えている。ところが、これは大間違いで、というのも、実際の体内では、外にある炭素を、人体下部で完全に破壊し、空間から閉め出して(霊化し)、破壊とは反対の活動で、独自に再び炭素をつくりだしているからである。 この事から、次のような結論に至る。 「人体には、外にある物質をつくりだす、いわゆる竈(かまど)があり、同時に、物質を破壊できる。」 この事が、今日の自然科学では承認できないのはいうまでもない。今日の自然科学では、そもそも物質の活動を、アハスヴェール(永遠のさすらい人)(1)のように、究めて微細なスケールで、分子や元素、素粒子が彷徨うもの、としてしか想定できないからである。 1;アハスヴェール[Ahasver] 刑場に行くキリストを自分の家の前で休ませなかった為、キリスト再来まで地上を流浪する運命を与えられたユダヤ人の靴屋、いわゆる「永遠のさすらいユダヤ人」。 現代の自然科学では、物質の生命、特に物質の誕生と死については何もわかっていない。人体のなかで、物質の死と再生[Wiederbelebung 蘇生、復活]が生じる事実については何も知らない。例えば、この炭素の再生と関係するのが、人体に備わっている光の生成である。 人体の光の生成活動がまた、外界の光の活動に対抗している。人体上部=頭部では、体内の光と、外界の光が、互いに対抗し、共同して働くように調整されている。 そして、人体の本質は、外界の光と体内の光が、共同で活動すべき領域で、両方の光が規則正しく、すなわち順番に働いて、互いに混ざり合わない事にある。 目や皮膚において、外界の光と対峙する為に、体内の固有の光(霊光)と外界からくる光との間に、隔壁が設けられている。外界から体内に入ってくる光の本質は、体内の光の生成を促進するだけにすぎない。つまり、外から光が流入する事で、体内の光の生成が促進される。 さて、重要なのは、この活動を、もう少し先まで見通す事である。体内の炭-実質=炭素の分解に注目するなら、腎臓-泌尿器全般に辿りつく。従って、腎臓の活動に接近(アプロ-チ)するには、外の自然のなかの、炭素に関わる活動に注目するとよい。すると同時に、植物炭を、薬として人体に適用する治療法が得られる。 次のような原理から、劣悪な症状に対する治療法が与えられる。 「植物炭は、人体の動物化、つまり吐き気等に通ずる症状に対抗して、働きかける可能性をもつ。」 そして、植物炭に対して、病像を引き起こす活動の本質は、体内での絶え間のない吐き気(排泄)である。外界での炭の生成活動に対抗する人体の有効な対極は、生成とは反対の(分解)活動を示す。この反対の活動とは、腎臓の活動(排泄活動)である。 だから、植物炭の多量摂取により病像が現れたら、体内の植物炭の希釈度を高くする事で、腎臓の活動を促進できれば、この病気に対抗する働きかけができる。 つまり、多量の植物炭により生じる病気の薬を研究するには、体内での植物炭の希釈(消化)に対して、腎臓が、どのように働くか、を知る必要がある。 このとき、腎臓は、消化活動の対極の活動を促進する。 植物炭による病像として現われる腸の消化活動の障害に対して、腎臓の活動の回復に従い、消化の対極の活動を促進する。 つまり、植物炭により生じる活動の反対に位置するのは、光の生成活動なのである。 以上の人体について、外界の対極図を描けば、全体像が理解できる。地球の上空を考察すると(下図参照)、地球は空気(大気)に囲まれ、上方には別の層がある。大気層の上方には、熱の覆い、といえる熱層がある。 つまり、地球から離れていけば、地上とは別の熱層に到達するが、この熱層は、地上の熱を思い描くと、大いに驚くだろう。地球から少し離れた上空の熱層は、大気=空気層に類似した役割を果たしている。 しかし、この熱層を境にして、その外側(上方)には、大気層の対極の層があり、大気層とは逆の活動が生じている。この対極の層では、空気が奪われ、真空となり、光が発せられ、地上へと送られてくる(下図参照)。 地上の光が、太陽からくる、と考えるのは全くのナンセンスである。この考えは、物理学者と天文学者のかなり厄介な幻想にすぎない。地上の光は、上述の真空の層からやってくる。光は、この層で生成され、地上で植物が成長するように、この層で成長する(上図参照)。 だから次のような結論に至る、 「人間が自ら、初生の、固有の光を生み出せる理由は、上空で行われる光の生成活動を、人体の光生成活動を通じて前倒し(前借り)している為で、人体のなかに、地球外の起源をもつためである。 この地球外の光の起源が、植物にも、勿論、人間にも働く。ただ、植物には外から働くが、人間では体内で働き、高めている。」 では、大気層よりも少し地球に接近すると、どのような層になるのか? 人体にある対極でいうなら、更に体内深く入り込んでいく事になる。大気層から地上へと接近すれば、液状の、水の層に至る。だから、大気層の下には、液層が想定できる。 この液層も、その対極を、外側(上方)に持つが、この層は、大気層の上の真空層の上にある。そして、その層もまた液層と対置される。その層では、真空層で光が生まれ成長するように、ある何かが生まれ成長する。 この層で成長するのは、化学=変化で、この化学=変化が地球へと活動を及ぼす(上図参照)。だから、地上の化学=変化活動の根拠を、物質のなかに探究するのは全くナンセンスで、化学=変化活動は、この層から地球に向かってやってくる。 この化学=変化活動も、つまり、上空にある層を、人間は体内で創り出している。人間は自らのなかに、いわば化学=変化装置[Chemikator]をもっている。人間は自らのなかに、化学=変化活動の起源となる上空の層をいくらか持っている。そして、この化学活動は、体内では強力に集約され、つまり、この化学活動は肝臓だけに制限されている。 肝臓が人体で展開する独特の働きを研究すれば、肝臓が、一方で血液の性質を奪うかのように働き、他方で、胆汁の分泌を通じて、血液を調整し、血液全体に関与するのがわかる。 この肝臓の血液までに拡張された活動全体を眺め、徹底的に研究すれば、肝臓のなかに本物の化学がみつかるだろう。唯物的な化学は、地上に限られ、化学の真の姿を発見できない。唯物化学は、地上の外界だけに制限された、本物の化学の鏡像と見なす必要がある。 したがって、人間の肝臓の驚くべき活動を研究すれば、地上を超えた本物の化学も研究できる。 ここで例えば、植物炭をアルカリ、つまり例えばカリウムと組み合わせ、炭化カリウムにして摂取させれば、植物炭の特性よりも、更に体内に進んだ活動を引き起こせる。アルカリ性は、全般的に、体内の奥深く、肝臓にまで到達できるのに対し、植物炭は、腎臓の経路に進む。 すると、アルカリ性と、肝臓との間に、明白な相互作用が認められる。アルカリ性を研究するなら、炭性(酸性)が、動物化と関係するのと同様に、アルカリ性が、植物化と関係し、植物を外に排泄する活動に関わるのに気づくだろう。 さて、既に、以前、ある活動を指摘したが、この活動は、人体の活動を、自然の活動から探り出す際に、重要である。その活動とは、牡蠣が殻をつくる活動で、簡略化すれば、牡蠣の殻形成活動(3)である。 3;牡蛎の殻の主成分は炭酸石灰、つまり炭酸カルシウムであり、漢方でも牡蛎(ぼれい)として用いられる。強壮、鎮静の効があり、胃酸の中和、寝汗、心悸亢進などに良いとされる。 この活動から、炭とカリウムの化学合成から更に前進し、炭素とカルシウムとの合成に至る。単なる炭素とカルシウムとの合成活動だけなら、牡蠣の殻形成活動のなかの強い燐の活動で緩和できる。しかし、牡蠣の殻形成活動は、更に別の、海という液体の環境に負う活動が共に働く。 さて、この牡蠣の殻形成活動を観察すると、またも人間と自然との関係のなかに、もう少し深く入っていく事になる。図に描いた上空の水の生成領域=液層から、更に下に向かうと、土の生成領域=固体化=地殻層、つまり、硬化、土=固体形成の領域に到達する。 「水」や「土」のような表現が、今日では、オカルトめいていて使用できないのなら、つまり、「このような表現は、古代人の無知さ故に、土や空気や水について語っていたものである。」という風にみなさなければ、土、水、空気、火の表現で語っても、まるで狂人のように思われる、のを怖れる事はないだろう。 ここでも、次のような事例を少なくとも暗示できる。さて、固い土=固体の形成も、外の遥かな宇宙に、その対極をもっている。そして、この対極こそが、生命の生成であり、実際、生命を与えている源泉[der Ursprung des Vitalisieren]である。この源泉は事実、生命の活動のなかにある。この生命活動は、化学活動より更に遠くの層からやってきて、外界では、地球の内部、つまり土(固体)の内部で、完全に殺され、死滅させられている、のである。 さて、話を少しつけ加える。次のような事に関心があるかもしれないからである。 もし、地球外から、つまり水星から、地球の生命生成に対して、それを調停する水銀の活動が対置されなければ、この地球は、絶え間のない生命生成の影響下に、癌腫(固体)を形成し、膨張を続けてしまうだろう。 このような事実を少しだけでも考察するのは重要である。実体=物質化しながら、増殖する元素とも呼べる土=固体形成全般に生じる活動の、いわば前段階が、牡蠣の殻形成活動のなかに抑制されているのが、霊視できる。 牡蠣の殻形成活動が、土形成活動に入り込むのを妨げているのは、牡蛎の殻が海、つまり水=液体と関係し、土形成の前段階の活動に抑制し、自ら固定する事による。ミミズには、この固体化の抑制ができない。ミミズは殻をつくれないからである。だから、ミミズは固体化の活動をしている。 つまり、「ミミズがいなければ、地中には固体形成の活動が無い」、という発言は正しい。 ミミズは本質的に、土形成活動の進行に関与する。ミミズの世界の活動全体が、いわば牡蠣の殻形成活動を超え、牡蠣の殻と同様に地球の固体形成全体に関わり、共に活動している。ミミズの活動によって、牡蠣の殻だけでなく、耕土などや、それに類似する土壌などが生じてくる。 さて、人体のなかの化学活動と親和性を持つ活動、つまり、肝臓と結びつく活動よりも、更に内にある活動を探すなら、更にまた別の器官=臓器に到達すると、当然、予測するだろう。この別の器官=臓器とは、肺に他ならない。 しかも肺は、人体のなかでは、二重の働きをもつ。第一に、肺は、呼吸という現象に必要な臓器である。ところが、奇妙にみえるが、肺は物質面でのみ、呼吸という現象を司る臓器なのである。 肺は同時に、体内の深くで、土=固体形成を調整する臓器である。外から体内へと入っていくと、栄養摂取-消化活動から始まり、腎臓-肝臓活動を経て、肺が機能上、呼吸の基礎となっているのを度外視して、肺の内での固体形成まで追求し、そこで生じる活動を調べると、この活動は、牡蠣の殻形成活動の対極にあるのがわかる。 人体は、この肺の土形成活動のなかに、外界の、つまり宇宙の化学層の外側にある、生命層からくる生命活動を取り入れている。 この事は、炭酸カルシウムの影響下に発生する病像を観察すればわかる。すると、この病像が、肺の固体形成の活動と強く関係するのがわかるだろう。この活動を、呼吸活動から切り離すのは困難である。 しかし、肺はこの二つの面に向けて、人体に奉仕するので、肺が、外にも内にも機能的任務を担うのを常に考慮しなければいけない。だから、肺の退化を、牡蠣の殻形成活動、或いは同類の巻き貝類の殻形成活動なども勿論だが、そのような活動から現れる同様の事象に探究すべきである。 このように、以前アプローチ(接近)した事に、今回は、いわば別の面からアプローチする事で、以前のアプローチの辻褄が合うのは勿論だが、今回の辻褄を合わせることは次回以降に行う。 以上の事例から、外界の大気(気体)の活動、水(液体)の活動、土(固体)の活動に対応し生じるものを、それぞれ、人体の腎臓、肝臓、肺の活動のなかに見て取るところまで到達できる。 大気の活動は、広義の腎臓の活動、特に泌尿器の機能に対応する。泌尿器の最重要な腎臓に注目し、考慮すべき親和性は、状況によっては、呼吸困難や呼吸障害を引き起こす可能性があり、植物炭の多量の服用後に出る症状とみなせる。 従って、次のような結論に至る、 「呼吸障害や呼吸困難のより深い原因を、腎臓のなかに探究しなければならない。」 水(液体)や液体に関係する症状の、より深い原因を、肝臓のなかに探すべきである。呼吸困難や呼吸障害、呼吸不足が、腎臓と関係するように、喉の渇きは肝臓と関係する。 喉の渇きとの様々な相互関係を一度、肝臓の機能について研究するのは、興味深い仕事かもしれない。更に、肺の内の性質、つまり新陳代謝に密接に関わるのが、飢えである。 体内の飢え、渇き、呼吸不足は、外界で実際に測定可能な、土=固体、水=液体、空気=気体と関係する。外なる宇宙にある空気、水、土の、人体にある対極(人間は内なる宇宙)にはまた他のものも関係している。 それは、人体内で、初生の、固有の光を生み出す活動が弱まっている為に、外なる光による活気づけを必要とするとき、この光による活気づけが得られるのが勿論一番良いのがわかる。 つまり、この事から、光による治療法の正当性を認めるようになる。しかし、実は、日光浴は必ずしも、本来の光による治療法ではない。この点に注目することが大切である。つまり、日光浴は実際、地上に通常居住し曝されるよりも、もっと化学の層に曝される、のを意味する。 大抵の日光浴の本質として、人体に効力を及ぼしているのは、光と共にやってくる化学活動(日焼け)である。以前、図で描写した上空の層からわかるが、この化学の層の背後に、生命の層があるので、生命活動に曝すには、光の活動を2段高めるか、もしくは化学活動を1段高める必要がある。 だから、あまりに強すぎる光の活動が(常に測定が基本なのは言うまでもない)、水星の水銀の調停活動を回避できたなら、光を伴う化学活動と、光を伴う生命活動が、人体に有益に働く。 最後につけ加えておきたいが、今日の自然科学が生命の起源についての見解を持つのに成功していないのがわかっても、もはや全く不思議に思う必要はない、ということである。というのも、今日の自然科学が探究する領域、つまり物質界には、水銀(水星)の活動が働き、生命とは反対の、すなわち、死しかないからである。 生命の起源は、地球の外の宇宙にこそ探究すべきなのに、今日、自然科学は、そこに向かおうともしない。自然科学は、地球の外については何も知ろうとしない。地球の外に探究するしかないときでも、何人かは探究したが、結局、自然科学は、地上の物質に変換してしまう。 このような生命の活動を、無理に物質に置き換えるのは、別の天体から、生命の萌芽が、この地球にもたらされる、という、結構な仮説において、実に見事に達成された。つまり、生命の萌芽は、見事に、物質の形態(いまではDNA、もしくはRNAの形)で、別の天体から、あらゆる障害を乗り越えてもたらされ、この地球に誕生した、というわけである。生命の萌芽を、地球に運んでくるのは隕石、と想像する人さえいる。 現代では、唯物論によって、何もかもが既に説明された、という状況すら実現されている。肉眼で見えるなかに、観察できる全ての物質を、元素、或いは素粒子に還元すれば、全ての説明がついたと思い込むように、生命も、どこか別の場所からやってきたとすれば、説明がついた、と思い込む。 1-11 シリカの形成活動は、逆の意味でも次のような結論に至る、 「シリカとなって静止状態に至る活動は、人間の頭では、物質的に働く。」 霊の(波動)力学でみると、この活動は、最も弱く働く(波動が粗くなる)。しかし、この活動が、最も弱く働く場所では、逆に、物質としては最も強く働き、物質の状態に近づくほど、物質として静止(安定)状態に至る。 つまり、シリカの活動を、眼前にある物質として捉えるなら、この活動は、頭部で最も強い、と言える。しかし、シリカを、外からくる霊の形成活動と捉えるなら、頭では最も弱い、と言える。 物質の活動が最も強いところでは、波動的な霊の活動は弱い。シリカの活動については、胸部では、物質活動と霊活動がほぼ均衡を保っている。そして、四肢-代謝系では、本質的に、霊の活動が優勢である。四肢や腹部では、物質活動が最も弱く、霊活動が最も強い(運動能力が高い)のである。 従って、シリカを生み出す活動は、人体をくまなく構築している。 物質的な頭部をもつ人間と外界の霊環境との相互作用は、どのようなものか、という疑問は、霊的な呼吸リズムの胸部をもつ人間と、外界の物質環境との相互作用は、どのようなものか、という疑問に置き換わる。
2018年01月02日
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