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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ カリオストロの弟子たちが失敗したというようなことを述べているのではない。全体として、彼らはアストラル体を理解するには至った。カリオストロは、アストラル体の見方を教えることに非常に長けていた。破局に襲われるずっと前に、彼はリヨンの学堂以外にも、パリ、ベルギー、ペテルスブルク他のヨーロッパの二、三箇所に学堂を設けることに成功した。 後年、それらの学堂出身者のうち少なくとも何人かは、高位メーソンの18、19、20位まで達した人びとに、基本的な認識を与えることができた。ともかくカリオストロ伯爵は、ローマの牢獄で生涯を終える前に、ヨーロッパのオカルト・メーソンに重要な影響を及ぼした。 世間は、カリオストロに対して、本当は何一つ判断を下すべきではなかった。カリオストロについて話すのは、一般的に言って、アフリカのホッテントットが高架鉄道について話すようなもので、カリオストロの一見非道徳的な行為が、世界の出来事とどのように関連しているのかを、ほとんどの人々には洞察ができなかった。そのことを以前にも述べたことがある。 フランス革命はオカルティストたちの秘密の会合から生じ、その流れを遡ると、奥義に達した人たちの学堂にまで至るだろう、と以前述べたことがある。 メーベル・コリンンズの小説『フリッタ』を理解するのは困難であろう。彼女は、ある奥義に達した人が、秘密の場所で世界のチェス盤を前に、どのように駒を動かし、大陸のいわばカルマを、小さな単純な地図の上でどのように決めたのかをグロテスクな形で描いた。 しかしその描き方をそのまま真実であると言うわけにはいかない。『フリッタ』で述べられていることは歪められた模像であり、実際はもっと壮大な形で事が運ばれている。 フランス革命は、実際こうした事情の中から生じた。よく知られているのは、ダデマール伯爵夫人が書いた本に載っている話で、フランス革命が勃発する前に、サン・ジェルマン伯爵が、マリー・アントワネットの侍女であるダデマール伯爵夫人を訪ねた。彼は女王に願い出て、王に謁見しようとした。 しかしルイ16世の大臣が、サン・ジェルマン伯爵に敵対していたので、彼は王に近づけなかった。彼は女王に、どんな大きな危険が待ち受けているか、非常に厳しい口調で、かつ詳細に述べた。しかし残念ながら、彼の警告は重視されなかった。 彼はその時、「風を蒔く者は、つむじ風を刈り取る」と言った。これは真実を踏まえた偉大な言葉である。更に、この言葉を自分は既に数千年前に口にし、キリストは、この言葉を繰り返して言った、と語った。この言葉は第三者には理解できない。 サン・ジェルマン伯爵は正しかった。実際にあった、二、三の事柄だけを付け加える。サン・ジェルマン伯爵について書かれた本を読めば、彼は1784年に、最高位に昇進したドイツのフリーメーソン員の一人ヘッセンの領主の宮廷で亡くなったことがわかる。彼はサン・ジェルマン伯爵が死ぬまで面倒を見ていた。 しかしダデマール伯爵夫人は回想録の中で、1784年より大分年月が経ってから彼が現われ、ずっと後まで合わせて6回も彼に会ったと述べている。実際、彼は1790年、ウィーンで数人の薔薇十字会員の前に現われ、そこで語ったことも真実だった。彼は、自分が85年間東洋に引きこもり、そして85年後に再びヨーロッパで活動する、と言った。 85年後の1875年は神智学協会が設立された年にあたる。こうした事柄は全て、ある形で関係し合っている。 ヘッセンの領主が設立した学堂でも、賢者の石と五芒星形の認識という二つの事柄が重要だった。彼によって当時設立されたフリーメーソンは若干勢力が弱まりながら、今も存続している。今述べたフリーメーソン全体は、エジプト儀礼のメーソンの、メンフィス・ミスライム儀礼のメーソンと呼ばれている。 この儀礼を成立させたのはミスライム王で、彼は東方のアッシリアから移ってきて、エジプトを征服した後で、エジプトの秘儀に参入した。このことはなお古代アトランティスに由来する秘密である。そのときから伝統はずっと続き、新しいフリーメーソンは、当時エジプトで設立された団体の継続にすぎない。(P108-P112) 新しい形式の帝王術 フリーメーソンには太古の象徴の、いわゆるT(タウ)文字がある。 T このT(タウ)文字は、フリーメーソンの中では大きな意味を持っている。それは上部を取り去った十字架に他ならない。この十字架には、鉱物界が省かれている。人間が既に鉱物界を手を入れているからである。 人は植物界に働きかけ、上方に向かう十字架を得る。大地からも魂からも地上を支配する力を得ようと努めるものが、メーソンの未来の象徴なのである。 メーソンについての前回の講義を聴いたなら、ヒラム・アビフについてのフリーメーソンの伝説のことを憶えているだろう。彼は、ある決定的瞬間に、T文字を表してみせた。シバの女王は、もう一度神殿建設に従事する労働者たちを呼び集めるように望んだ。 ソロモンの呼びかけでは、社会共同体のなかで共同に作業する人びとは現われなかった。ヒラム・アビフが掲げたT文字によって、あらゆる方面から人びとが現われた。このT文字は、全くの新しい力を象徴している。その力は、新しい自由な自然力を呼び起こす。 前回の講義の終わりに述べたことを、再度取り上げる。生命なき自然に通暁する結果が何なのかを述べた。空想を豊かにしなくても、1つの例から、なぜそれが重要なのか、を理解できるだろう。 無線電信は遠方の発信所から受信所に働く。人が欲する時に機械を動かし、遠距離に作動するように、意思を通じさせることができる。 この無線電信の場合の作用と似た力が、未来の人間には電信機なしでも自由に使えるようになる。また、その力で、破壊者の居場所が発見されずに、遠方に大きな破滅を引き起こすことも可能になる。もしこの進歩が最高点にまで達したら、遂に進歩が逆転する段階まで来るだろう。 (テレパシーのことか。) T文字により表わされているものは意識力である。それは、無私の愛の力によってのみ動かされる。その力で機械を動かすこともできるが、利己的な人間がその力を使用したら、機械が止まってしまう。 モーターを設計したキリーを知っているなら、そのモーターは、彼が傍にいる時だけ動いたことを知っているだろう。彼は人びとを騙したのではなく、彼は自分の中に、このT文字で表わされる意識力をもっていた。その力は魂から生じるが、機械をも動かすことができる。 John Ernst Worrell Keely http://en.wikipedia.org/wiki/John_Ernst_Worrell_Keely 道徳のみからなる意識力こそが、未来の理念である。それは、文化自らが逆転できないときに、文化に植え付けられるべき最重要な力なのである。機械と道徳は、互いに浸透し合わなければならない。なぜなら道徳でない機械は無意味だからである。 現代人は、機械と道徳のこの境界線のぎりぎりの所に立っている。水や水蒸気だけではなく、未来においては霊力や霊による道徳が機械を動かすだろう。この霊力は、T文字によって象徴化され、すでに詩などのなかの、聖杯の姿により暗示されてきた。 自然が任意で人間に与えたものをただ利用するだけでなく、人間が自然を形成し、改造して、生命なきものの建築師になったのと同じように、やがては生命あるものの建築師にもなるだろう。(神殿伝説と黄金伝説 P294-P295) 近代の民主主義思想とフリーメーソン すでに述べたように、近代のフリーメーソンはイギリスにおいて、もちろんそれまでの伝統をふまえた上で、18世紀初頭にはじめて設立された。以来、大英帝国内ではなく、イギリス王国内でのフリーメーソンは、非常に尊敬すべき形で存続してきた。けれども、他の多くの地域でのフリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いている。 そのような政治的な利害打算をもっとも顕著にあらわしているのは、フランスの大東社〔グラントリアン〕だが、フランス以外の大東社にもこのことは多少当てはまる。 イギリス人は次のように言うかもしれない。「他国では、オカルト的な背景をもつフリーメーソン結社が政治的な傾向をもつからといって、我々に何の関わりがあるのか」。 しかし様々な事実を相互に関連づけてみると、パリにおける最初の大東社ロッジは、フランス人ではなく、イギリス人の手によって創設され、イギリス人がフランス人をそこへ加入させたことがわかる。それは1725年のことだった。 1729年には、この大東社の承認の下に、最初のロッジの一つが同じくパリに創られました。次いで、同じくイギリス人の手で、1729年ジブラルタルに、1728年マドリッドに、1736年リスボンに、1735年フィレンツェに、1731年モスクワに、1726年ストックホルムに、1735年ジュネーブに、1739年ローザンヌに、1737年ハンブルクに創られた。 こう述べていくと、きりがなくなる。いま述べたいことは、たとえイギリス王国のとは違った性格をもっているとしても、イギリス人による同じネットワークの一環として、これらのロッジが創られ、特定のオカルト的=政治的な意識のための外交的な道具にされている、ということである。 もしもこの政治的意識の深い根拠を問うなら、近世史をもう少し広く展望する必要がある。この意識は17世紀以来-既に16世紀から-準備され、民主化運動となって普及してきた。ある国ではよりはやく、別の国ではよりゆっくりと、少数(王族など)の手から権力が取り上げられ、大衆の手に委ねられるようになった。 いまこの話を、政治的な立場から述べているのではない。だから、民主主義を擁護するつもりで語っているのでもない。ただ事実だけを取り上げるなら、この民主化の意識は、近世史を通じて、加速度的に、テンポを速めて普及していった。 しかし、その際に、それとは異なるもう1つの意識の流れも、一緒に形成された。複数の意識の流れが現われているときに、その中の一つだけを取り上げて考察すると、判断を誤ってしまう。 1つの流れが世界中に広がっていく際、常にまた別の、もう一方に意識の流れが生じ、はじめの意識の流れを補完する。歴史の上に緑の意識の流れと赤の意識の流れとが並んで存在するとき、人びとは通常、その一方の意識の流れだけを見るように、暗示にかけられる。 鶏の口ばしが進む方向に沿って餌を地面をまけば、その鶏は餌をまいた線に沿って歩く。そのように人びとは、特に大学の歴史研究者は、一方側に寄り添って歩き、歴史の進行全体を洞察する余裕を失っている。 民主化の流れの背後に、様々な結社の、特にフリーメーソン結社の、オカルト的な力を利用しようとする流れが見え隠れしている。オカルト的な力を利用しようとする動機は、決して精神主義であるとは言えないのにも関わらず、一見精神主義の振りをしている貴族主義が、フランス革命で大きな役割を演じ、あの民主主義と、手に手をとって発展してきた。 ロッジの貴族主義(階級主義)が密かに出現した。 現代人に相応しく、社会に参加し、社会の仕組みに通じたいと思うのなら、民主主義の進歩に必ず持ち出される決まり文句に目を眩まされてはならない。ロッジの儀礼や、その洗脳力とによって、支配力を少数のものにしておこうとする働きに、眼をしっかりと向ける必要がある。 ☆ ☆ ☆ 現代人は、少数のものによる多数の支配を打ち砕き、各々のモラルの意識により、互いの違いや様々な価値観を共有していく新しい平和の認識を確立していく必要が求められている。 全体の組織のなかでの個人というような血縁を基にした古い自己意識から脱皮し、自らのなかに既にある個性を道徳(創造)的に高めていくことで、新しい自己意識を獲得すべき時代に遭遇している。
2014年01月30日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 薔薇十字の道(改変) 叡智へと飛翔する最も新しい道は、薔薇十字の修行法である。この修行道は過去ではなく、未来を修行者に示す。薔薇十字の修行によって体験した状態を、人間は将来生きることになる。ある方法により、人間が自分の中にもつ叡智を発展させるのが薔薇十字の行法である。 (ある方法とは、呼吸法であるらしい。) この修行法は、クリスティアン・ローゼンクロイツと呼ばれている薔薇十字の秘教運動の創始者により与えられたもので、非キリスト教的な道ではなく、現状に適応したキリスト教の修行道であり、本質的には、キリスト教の修行道とヨガの修行道の中間にあたる。 薔薇十字の行法の一部は、キリスト教成立の遥か前から準備されてきた。薔薇十字の行法から、パウロの主宰したアテネの秘教学院の偉大な秘儀参入者ディオニシウス・アレオパギタの創設した修行法や、後代の全ての秘教的叡智と修行法などが発生した。(薔薇十字会の神智学 P192) 賢者の石(改変) 薔薇十字の修行は、人体内で炭素を酸素に変化させる器官を形成する、規則正しい呼吸を指導する。現在、植物が行っていることを、将来、人間は自らの器官を通して行うようになるが、この器官を修行によって今から形成する。 この器官の形成には多くの時間を要す。規則正しい呼吸を通して、酸素を製造する器官を自らの内に形成できる。人間は現在、鉱物的な存在だが、将来、植物と一体となる存在になる。人間は炭素を自らの内に保持し、炭素から自分の体を構築していくようになる。 将来、人体は植物に似たものとなり、神聖なアストラルの愛の槍と出合う。そのとき、全人類は、今日、秘儀参入者が高次の世界へと上昇したときに体験する意識を獲得する。人体の実質は、炭素を基盤とする実質へと変化する。 錬金術により、人体を植物に似たものに構築していく。このことを錬金術師は「賢者の石」の製造と呼び、炭素をその象徴とした。人間が規則正しい呼吸を通して、この器官を作りあげることができたとき初めて、炭素は「賢者の石」になる。 この教えは師から弟子へと伝授されるもので、深い秘密に守られている。そして、自分を完全に浄化、純化した後で初めて、弟子はこの秘儀を受けることができる。もし、今日この行法を公開すれば、エゴイズムに囚われた人間は、この最高の秘密によって最低次の欲求を満たそうとするだろう。(薔薇十字会の神智学 P206-P207) 創造的断念(改変) 物質的な生活において何かをなすとき、通常、その行為の基盤には意志がある。ちょっとした手の動作にしろ、偉大な事業にしろ、人間の行為は意志を基盤としている。人間を行為へと導く全ては、意志から発する。 人々は最初のうち「救済と祝福をもたらす偉大な行為は強力な意志からなされ、あまり意味のない行為は虚弱な意志からなされる」というであろう。行為の偉大さは、意志の強さに比例する、という考えに、大抵の人々は同意する。 しかし、この意志を強めることで、偉大な事業が成し遂げられる、という考えは、限界がある。ある点では、意志の強さと行為の偉大さとは比例しない。特に、霊界と関係を持つ行為は、特別、意志の強さとは関係しない。 確かに、いま現在生活している物質界においては、行為の偉大さは意志の強さに依存している。物質界では、目的に達するための努力や緊張を必要とする。けれども、霊界ではその逆となる。霊界では、偉大な行為、大きな働きをなすには、積極的な意志の強化ではなく、その逆の、諦め、断念が必要なのである。 身近な事象から考察を始める。自分の願望を表に出したり、できるだけ活動に努めることで霊的な働きを行うのではなく、逆に、願望や欲望を抑制し、願望の充足を断念することによって、霊界で何らかの働きがなしとげられる。 霊(精神)的な内的作業を通して、地上において何事かを成就しようとする人がいる、といま仮定してみる。その人は何よりも第一に、自分の希望や欲求の抑制を学ぶ必要がある。物質界では、滋養のある食物を摂ることで肉体が丈夫になる。 しかし、霊界での意味深い行為は、断食などの方法により、望みや欲望を抑制することで達せられる(だからといって、断食を勧めているのではない)。偉大な霊的な行為、魔術的な所業はつねに、このような自分の中に現われる願望、欲求、意志の断念という準備を必要とする。 「意志」を放棄することで、あれこれと希求することなく、人生を流れゆくままに任せ、カルマとその作用を静かに受け入れ、そして、この人生において成し遂げようとしている事柄全てを断念すると、例えば、思考の働きが力強くなる。 美食家が教師や教育家になった場合、その人の語る言葉は生徒には届かない。欲望の多い教師が語る言葉は、生徒の耳を素通りしていく。なのに、このような教師たちは、自分の煩悩を省みないで、生徒の理解の悪さを叱る。 高い次元から人生を理解し、中庸を守り、必要以上の食事を摂らず、特に運命を受け入れるよう心掛けている人は、やがて、自分の語る言葉が霊(説得)力をもつようになっているのに気づく。 言葉だけでなく、視線も力強くなる。それどころか、生徒のそばにいて、晴れ晴れとした思考を持つだけで、生徒を励ますことができる。どれほど深く、自分の要求を断念しているかにかかっている。 高次の世界における霊活動の正道は、断念の道である。ただ、このことに関しては無数の迷妄が存在する。外見上はほとんど区別のつかない迷妄が存在する。迷妄は正常な霊行為につながることはない。 苦行や自虐は、多くの場合、裏返し(アンチ)にされた肉欲に他ならない。霊力を得るために行なう苦行にしろ、他の熱望から行う自虐にしろ、肉欲への意志から発している。だから、霊性に根ざした断念のみが意味を持ち得る。 創造的な諦念、創造的な断念という概念を自分のものにすべきである。この創造的断念を魂の中で体験することは、日常生活の遥か彼方に存在する宇宙進化のイメージを得るために、非常に重要である。創造的断念という概念の把握により、人類の進化の深みの中に歩みを進めることができる。(薔薇十字会の神智学 P251-P253) カリオストロ伯爵とサン・ジェルマン伯爵とフリーメーソン(改変) フリーメーソンの様々な系統と特徴について、ほんの概略だが、述べておく必要がある。まず、あらゆる高位メーソンの源にいる、ある人物を考える必要がある。彼は様々な名で呼ばれ、また非常に誤解されてきた。とりわけ19世紀の歴史家たちに誤解されている。 オカルティストが、生涯どんな困難な状況に陥るのか、彼らには全くわからないからで、その人物とは、少数にだけ認められていた悪名高いカリオストロである。高次の秘儀に参入したオカルティストだけが、いわゆるカリオストロ伯爵のうちに秘められた個性と真実の姿を知っていた。 彼はロンドンで、フリーメーソンを新しい次元に引き上げようと試みた。というのは、フリーメーソンは18世紀の終わりには、以前述べたようなところにまで落ち込んでしまっていたからである。そのときのロンドンではうまくいかなかった。彼は次にロシアで、そしてハーグでも同じことを試みたが、どこでも、ある特別な理由から、うまくいかなかった。 しかしリヨンでは、そこに住んでいたフリーメーソン員たちと共に、オカルト的な「フイラレート・ロッジ」を設立することに成功した。そのロッジは「勝利する叡智」ロッジと呼ばれた。ロッジの目的はカリオストロによって告知されたが、その告知の内容を、現在知るには、何もわかっていない人びとによって書かれたものしか残っていないので、曖昧にしかわからない。 カリオストロは二つの問題を抱えていた。一つは、いわゆる賢者の石の合成であり、二つ目は、神秘の五角形、神秘の五芒星形の意味を知ることだった。いまは、この二つの事柄が持つ意味を、仄めかすことしかできない。嘲笑するかもしれないが、これは単なる象徴ではなく、事実である。 賢者の石の目的は、人間の寿命を5527歳まで延ばすことである、とカリオストロは述べた。無神論者にはこの発言は馬鹿げたものに思えるだろうが、特別の修行によって、肉体によらずに生きることを学ぶと、本当に生命を永遠に継続できる。 ただ、奥義に達した人は通常の意味での死に遭遇しない、と考えるのは思い違いである。また、奥義に達した人は煉瓦に当たらず、当たっても死なない、と考えるのも間違いである。勿論、奥義に達した人なら、自分でそうしようとしたときにしか、そういうことは起きないが、いずれにしろ、ここでは肉体的な死が問題なのではなく、次のことが問題なのである。 賢者の石を認識して、それを取り出すことに習熟した人の肉体の死は、表面的な出来事にすぎない。他の人にとって、死は、人生の大きな節目を意味する現実の出来事であるが、カリオストロが弟子たちに望んだような形で、賢者の石を使うことを心得ている人にとっては、死はただの見せかけの出来事にすぎない。 (物質界に生きることを必要としないという意味。物質的な価値観をもつ故に、物質界に生まれ死を経験しなければならない。つまり、自己意識を変えればいい。) 死は人生に、特別重要な節目というものを決して作らない。奥義に達した人を見上げている人びとにだけ、死は存在し、その人びとは、彼は死んだ、と言う。しかし、彼は、実際には全く死んでいない。もっと正確に言えば、彼は決して肉体によって生きているのではない。 通常、死の瞬間に肉体に突然生じる経過を、生きている間に徐々に生じさせ、死ぬ際に起こるはずの全ての経過を、彼の肉体は既にやり終え、肉体なしで生きることをとっくに身につけたので、彼にはもう死は生じ得ず。レインコートを脱ぐように肉体を脱ぎ捨て、新しいレインコートを着るように、新しい肉体を身にまとうようになる。 この話から少し理解できるだろう。肉体の死を無意味にする賢者の石が、カリオストロの教えの1つである。 二つ目の問題は五芒星形の認識だった。これは人間の五つの体を、各々区別する能力である。誰かが、肉体、エーテル体、アストラル体、カマ・マナス体(霊我)、原因体(自我)と言うなら、それはただの言葉にすぎないか、せいぜいは抽象的な概念である。それだけでは、何も始まらない。 今日生きている人間は、通常、肉体のことをほとんど知らない。五芒星形を知って初めて、五つの体がわかる。肉体を客体として持つときに初めて、肉体を認識でき、肉体の中にいる間は、肉体を認識できない。 五つの体が客体になったことが、そのような修行をやり終えた人間と、普通の人間とを区別する。一般人も、この五つの体の中で生きているが、彼(自我)はその中に存在し、そこから出て、この体を外から観ることはできない。 せいぜい、自分の下半身を眼で見下ろすか、または鏡で見るか、ができるだけで、カリオストロの弟子たちが、その方法を遵守していたら、薔薇十字会員が至った学堂に到達するはずだった。薔薇十字会員の目的も彼らと同じであり、結局は皆一つの学堂に属していた。 それは、五つの体が単なる概念に留まらず、現実となるように導いたヨーロッパの奥義に達した偉人たち学堂だった。この2つ目の認識は、「五芒星形」と「道徳的な再生」と呼ばれている。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月30日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 【肉食と菜食】(改変) 菜食にすると、人間は内面的になり、自立して、自分の存在全体を導けるようになる。菜食中心にすると、自分の内の力が優勢になり、視野が広くなる。肉食中心の人は、狭い範囲の限定された分野に縛りつけられて、一面的な硬直する皮相的な思考をもつようになる。(『人間の四つの気質』p.122) (米国の専門馬鹿の多さと肉食との関係を調べると面白い。) しかし、肉食を完全にやめた場合、全てをアストラル体から遂行するだけの力を持たない人に、ミルクは適している。外(物質)的な事実から、純粋に人体に必要な全てをミルクがふくんでいることがわかる。唯一絶対ではないとはいえ、人間の個性から最も独立しているものがミルクである。(『人間の四つの気質』p.126) (ミルクを飲むと、地に縛られる唯物論的な思考をもつともシュタイナーは述べている。) 【コーヒーと紅茶】(改変) コーヒーを飲みながら世間話をすると、何かを完全にこき下ろすまで、一つの対象に思考がとどまる。それは機智ではなく、コーヒーの作用である。 (新聞記者や評論家にコーヒー飲みが多いのは、このせいである。) 紅茶は正反対の作用を生じさせる。特に濃い紅茶を飲むと、思考は飛び散り、明るくなる。紅茶の作用は、機智ある思考、眩い思考を輝かせるが、その思考の所々(断片)は軽々しいものになる。(『人間の四つの気質』p.125) (外交の席で紅茶「ティータイム」が使われたのは、このせいとシュタイナーは述べている。) 論理的思考や思考を1つに集中させるのを、コーヒーに委ねることになり、人間本来の内的な力は弱まる。(『人間の四つの気質』p.125) 冴えてない時にコーヒーのメリットを生かそうとするのは良くても、コーヒーに依存し過ぎるのは内(精神)的な活動を活発化させるアストラル体の感覚を鈍らせることになる。 【語りかける植物】(改変) パラケルススも植物の治癒力を直接認識した。 ・・・(中略)・・・ 人間の心魂のなかに映る植物のイメージのなかで「私はその病気に効く」と、植物自身が話しかける。植物は、自分を見ている人の心魂のなかに、自分のイメージを認識して、自分のイメージを変化させる。このようにして人間は、その植物がどの病気に効くのかを直接的に知覚する。(『人間の四つの気質』p.135) 喉頭の変容(改変) 現在、魂は人体の中で生きている。人体は感覚を通じて観察できる。 では一体人体はどこから生じたのか? 魂が人体に降りてくる以前の人体は、今日とは非常に異なったものだった。今日の物質的観点からすれば、かつての人体は滑稽なほど現代の人体とは異なっていた。魂が人体の中に入りこみ、どのようにして人間は今日の姿へと発達したのか? 魂が肉体に働きかけることで発達してきた。魂が今日肉体にどのように働きかけているかをみれば、魂がこれまで肉体にどのように働きかけてきたのかが理解できる。現代人は、古代人と比べて、肉体を変える可能性が非常に少ないが、魂が今日、どのようなときに肉体に働きかけるのかを観察してみる。 例えば、何かに驚いたり、不安になったりすると、不安や恐怖のイメージから蒼ざめる。あるいは、また、赤面して顔つきが変わったりする。このような変化はまもなく消え失せるが、この変化がどのように生じたのかを見てみる。 何かが魂に影響を与え、その影響が、血液を通して肉体や顔つきを変える。もっと強烈な影響が生じることもあり得る。霊的な修行生活を送る人の、自らの霊的な創造行為が、その人の顔かたちや容貌に現われることは、よく知られている。人相から、その人が思慮深いか、何も考えずに生きているかを知ることができる。 このように、人間は今もなお自分の外的な表情に働きかけている。高貴な感じ方をする人は、その感情を身のこなしのなかに表現する。これは何千年もかけて人類が自らに働きかけてきたことの、ごくわずかな残余にすぎない。 今日では、血流の変化によって顔が赤くなったり、蒼くなったりする程度だが、かつての人間は、霊界の表現体である形態霊の完全な影響下にあった。今日よりもずっと強力に人体に働きかけることができた。肉体はまだ柔軟だった。 手を伸ばしたり、指で指し示したりできるだけでなく、手の中に自らの意志を送りこみ、手を形成し、指を形成できた。しっかり立てなかった足は、必要に応じて人間の中から発達していった。人間は周囲から受け取るイメージを通して自らの肉体を形成していった。 今日の物質的な時代では、この変形や改造は非常にゆっくりと進行しているが、再び速さを増していくことだろう。将来、人間は再び自分の肉体に対して強い影響力を持つようになる。 秘儀参入者を考察することで、どのような道筋から、この影響力を獲得するのかが明らかになる。一回の人生で、この影響力を獲得できなくても、来世の可能性のために多くをなすことはできる。 それゆえ、人間は自らの肉体の未来の形態を自分で作りだす。硬い固体の領域から離れ、次第に柔軟になることで、人間は未来に向かっていく。将来、人間はかつてのように、自分の生き写しの地上の存在の上に生きるようになる。 (かつての人間は、まるで衛星のように、地上の肉体のなかではなく、上から肉体をリモコンのように操作していたという。) 今日の睡眠中の意識と似ている、かつてのこの状態は将来、自分の意志でエーテル体を肉体から引き出せる状態へと移行する。人間の最も硬い体を地上に残し、人間は外から、この硬い体を道具のように使うようになる。 人間は体の中にあって、体を担うのではなく、体の上に漂うようになる。体自体は現在よりも精妙で希薄になる。このような話は空想にみえるが、天体の法則によって日蝕や月蝕が予測できるように、霊的な法則から確かなものとして知り得る。 そして、何よりもまず、人間は生殖力に働きかける。生殖力が今日とは違ったものになるのは、多くの人々にとって想像を絶するが、生殖のやり方が変わる。今日の生殖や生殖への衝動は将来、他の器官に移行変化する。 将来の生殖器官となるように準備されているのが喉頭である。今日、喉頭はただ空気の振動を作り出すだけ、言葉の内容を空気に伝えるだけで、言葉の振動に相応しているが、やがて、喉頭から言葉の律動を発するだけでなく、言葉は人間や物質に浸透するようになる。 今日、言葉は単に空気の波動となるだけだが、将来、人間は自身の似姿を言葉のように喉頭から発することになる。人間は人間から発生し、人間は人間を話し、作り出す。話し出すことによって、新しい人間が誕生するようになる。 (音から生まれるクラドニ図形のように人間が生まれるそうである。) このような知識は、現在、人間の周囲にあり、自然科学では説明不可能な現象に光を投げかける。生殖への衝動は再び中性的なものへと変化し、かつての生殖機能を担うようになる。性的成熟期に、男性の人体の喉頭に変化が生じ、声が低くなる声変わりと、喉が将来、生殖器官になることとは関係している。 このように神秘学は人生の諸事象を解明し、唯物論的な学問が説明できない現象に光を投げかける。(薔薇十字会の神智学 P184-P185) 心臓の変容 将来、喉頭が変形するように、心臓も変容する。心臓は血液循環と密接な関係を持った器官で、唯物科学は心臓を、一種のポンプと信じている。これはグロテスクで空想的な考え方である。神秘学は決して今日の唯物論のような空想的な主張はしない。 血液の動力は魂の感情である。 魂が血液を動かし、心臓は血液に動かされて運動しているにすぎない。唯物論的な科学がいうことと正反対が真実なのである。ただ、今日、人間はまだ自分の意志で心臓を動かすことができないでいる。不安を抱くと心臓は速く鼓動する。感情が血液に作用し、血液が心臓の動きを速めるからである。 今日、自らの思考に委ねずに、甘受している多くのことについて、将来、高い進化段階において、人間は再び支配力を持つようになる。将来、人間は血液を自分の意志で流れさせ、心臓をあたかも手の筋肉を動かすように運動させるようになる。心臓の独特の組織は現代科学にとっては悩みの種になっている。 心臓は横紋筋でできているが、横紋筋は心臓のほかには随意筋(自己意識下で動かすことの出来る筋肉)にしか見つからない。どうしてなのか? 心臓はまだ進化の途上にあり、将来、随意筋となる未来の器官だからである。そのことの萌芽がすでに、心臓の構造の中に示されている。 このように、人間の魂の中に生起することが、人体の構造を変化させる。発した言葉から自分に似た人間を生み出し、心臓は随意筋となり、その他の器官も変化したのが、地球の次の受肉状態(木星)での人間の姿となる。 地球紀において、人間は鉱物界の影響圏内にまで到達できた。鉱物界は今日ある形態としては、最後に発生したものだが、一番先に再び消え去る。人体はもはや今日のように鉱物素材からは構築されず、未来の人体には植物素材のみが組みこまれる。 (鉱物は次第に不安定になり、放射性となっていくそうである。) 現在、人間の中で鉱物的に作用するものは全て消え去る。卑近な例だが、今日、人間は唾を吐く。唾液は鉱物からなる生産物で、人体が、鉱物的過程の相互作用からできているせいである。しかし、人間が鉱物的な進化を終了すると、もはや唾を吐くこともなくなる。 唾は植物からなり、いわば、人間は花を吐くようになる。腺はもはや鉱物ではなく、植物のみを分泌する。人間が再び植物の存在へと進化することで、鉱物界は克服される。 (人間は光合成を行なうようになるので、人体内で炭素循環をやれるようになり、外から炭素を摂取することなく、食物を食べる必要がなくなる。) 人間は鉱物を全て解消し、植物的な創造へと移行して、木星紀に達する。そして、心臓がさらに発達して創造的な働きができるようになり、今日、鉱物界で創造行為を行っているように、動物界を創造するようになると、-今日とは違った動物を創造することになるが-人間は金星紀に至る。 そして自分に等しい似姿を創造できるようになると進化の意味は完了し、「私たちの形姿に似せて人間を創造し……」〈創世記1・26〉という言葉が成就される。 魂によって体を変化させ得る、という観点からの考察によってのみ、人間に変容が可能になる。神秘学的な、霊的な意味において優れた思考を通してのみ、心臓と喉頭の変形が行われる。今日人類が思考するものが、将来の人類となる。 (「エヘイエ アシェル エヘイエ = 今日人類が思考するものが、将来の人類となる。」) 唯物論的な思考をする人は将来、奇怪な存在を作り出し、霊的に思考する人は未来の器官に働きかけ、美しい人体を発生させる。(薔薇十字会の神智学 P185-P188) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月30日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 秘儀の教育(改変) この世では、人間の本性のどの構成要素がどんな現われかたをしても、その現われかたに有効な働きを及ぼせるのは、現われている構成要素よりも一段階上の高次の構成要素である。人間の本性のどの構成要素も、それよりも高次の要素を通してのみ有効な発達を遂げることができる。 肉体を発達させるには、エーテル体の活動が必要であり、エーテル体を発達させるには、アストラル体の活動が必要であり、アストラル体を発達させるには、自我の活動が有効な働きを及ぼす。そして自我のためには霊我の活動だけが有効な働きを及ぼすことができる。 (略) では一体、この法則は何を意味しているのか? ある子どものエーテル体が何らかの形で萎縮していることがわかったら、自分のアストラル体を使って、子どものエーテル体によい働きを及ぼせるようにしないといけない。 (略) 教育者のエーテル体は、子どもの肉体に有効な働きかけができるような現われかたをしていないといけない。このことができるように、教員養成の中で準備する必要がある。教育者自身のアストラル体は子どものエーテル体に、教育者の自我は子どものアストラル体に有効な働きかけを行うことができなければおかしい。 (子どもの肉体を改善するには、教育者のエーテル体を改善しないといけない。つまり他を変えるには、自分が変わらないといけないのである。このことは、親が挙動不審だと、子も挙動不審になることからもわかる。親のエーテル体に統制がないので、子の肉体に乱れが伝わる。) 次の段階は、教育者の霊我が問題となる。自分の霊我がまだ発達していないと確信している人が多いが、それが子どもの自我に有効な働きかけをしなければおかしい。それが原則である。 そして理想的な教育者ではなく、しばしば酷い教育者でも、当の教育者自身が全然意識していなくても、教育者の霊我が実際に子どもの自我に働きかけを行なってしまっている。このような教育の実践は古来からの秘儀として存在している。 〔シュタイナー「治療教育講義」角川書店/P37-39〕 ☆ ☆ ☆ 教育者は霊我を育成することが肝要であることがわかるが、霊我とは、簡単にいえば、感情のコントロールである。感情を的確に表現することはなかなか困難であるが、次に求められる生命霊となると、人格のコントロールを要するので、更に困難である。 釈迦は、人格をコントロールできるようになったので、仏陀=生命霊(ブッディ)と呼ばれる優れた教師になったことが、この話からもわかる。仏陀のような優れた教師とまではいわれなくても、教育者の立場にある人はせめて、以前紹介したが、次のシュタイナーの4つの気質の話だけは知っておくべきだろう。 ☆ ☆ ☆ 『人間の四つの気質』 ルドルフ・シュタイナー (風濤社) http://blogs.yahoo.co.jp/chanchan_yanagi/52198526.html 【4つの気質】(改変) 「自我」が他の構成要素を支配すると、胆汁質が現われる。 「アストラル体」が他の構成要素を支配すると、多血質の人間になる。 「エーテル体」が支配的だと、粘液質になる。 「肉体」が支配的だと、憂鬱質になる。 永遠(不変)と無常(変化)が混ざり合って、構成要素間の様々な関係が現われる。(p.48) シュタイナーは4つの構成要素に対応させて気質を4つに分類している。整理すると、以下のようになる。 魂 ― 自我 ― 胆汁質 ― 血液循環 心 ― アストラル体 ― 多血質 ― 神経系統 生命 ― エーテル体 ― 粘液質 ― 腺組織 物質 ― 肉体 ― 憂鬱質 ― 肉体 ただし、10歳以下の子供の場合(アストラル体、エーテル体が未発達なため)は、この対応関係が変わる (p.216) とも書かれている。 【思考の産みの親】(改変) 人間は通常、自分の思考が事実に即さず、大部分が思考癖の結果であることを知らない。 ・・・(中略)・・・ 例えば、物質だけしか見ないことに慣れている人は、その思考癖に固着する。 (その思考癖に固着すれば、その思考の王様になれるからである。ある思考に執着すればするほど、事実とは乖離してくる。反論を受け入れる余地がなくなるから。反論が生まれるのは、現実に即していないからである。アホ総理の靖国論をみればわかる。) 今日の人々の主張を導くのは事実に即した根拠ではない。根拠の前に、身に付けた思考癖があり、その思考癖が感情や感性全体に影響を及ぼす。 そのような人々が根拠を述べるときは、自らの感情と感性に、思考癖という仮面を被せている。「願望が思考の父である」だけでなく、「感情と思考癖」が「思考の産みの親」になっている。 人間の生活をよく知る賢者は、事実に即した根拠が人を納得させることがほとんどないことを知っている。事実に即した根拠よりずっと深い思考癖などが、心魂のなかで決定権を持っているからである。(p.39-40) 【アストラル界】(改変) アストラル界とは狭義の日本語でいえば霊界である。 人間のアストラル体は死後も存在する。アストラル体がどのような生を送るのかを明らかにするために、「人間が低次の享楽において体験する全てが、アストラル体に付着する」と、思い描いてみる。 肉体そのものは、喜びや情欲を感じない。肉体はアストラル体の道具で、アストラル体が肉体をとおして、喜びや享楽を感じる。 ・・・(中略)・・・ 肉体を捨てたあとも、享受への烈しい欲望が残る。 ・・・(中略)・・・ 享受を満たす肉体がもはやないので、燃えるような渇きを感じる。様々な宗教が、人間が死後に通過しなくてはならない苦しみを、火(炎)として描き出している。アストラル体は肉体との関連を断ち切るまで、欲界〔煉獄(地獄)〕にとどまる。(p.169) 欲界にとどまらなければならないのに、禁を犯して人間界に行き、人体に憑依し享受の欲望を満たそうとする霊が殆どである。そういうアストラル体に憑依されると、食欲代行やエッチ代行などの人生になってしまう。 人間の性質や病気は、このようなアストラル界の支配下にあって、様々な影響を受けているのが事実である。 【詰め込み教育の問題点】(改変) 詰め込み教育の本質は、心魂やその最奥にある自我と、詰め込まれる情報などとの結びつきが全くないことにある。心魂は詰め込まれる内容に、関心を持てないからである。 ・・・(中略)・・・ 人間にとって、頭(脳)の活動と心魂(精神)が遠く離れていること以上に悪いことは他にない。 (嘘脳科学では、脳と精神を同一視しているので、痴呆症の原因がわからない。シュタイナーは、痴呆症の原因は、若いときの詰め込み教育にあるとも述べている。恐らく昨今の若年認知症は、詰め込み方の幼児教育にあると思われる。教育ママのせい。子どもを賢くさせたいのなら、親が賢くなるべきである。) 繊細で敏感は人だけが混乱するのではなく、まさに人間のエーテル体(生命体)の力、エネルギーそのものに影響が及ぶ。人間の心魂と人間の活動の結びつきが少ないと、エーテル体は弱くなっていく。興味のないものに従事すると、エーテル体は弱くなっていく。(p.63) 【もの忘れを治す方法】(改変) 安全ピンをテーブルの角に置く。「私はこのピンを、この角に置く。そして、ピンが置かれたテーブルの角を、心にはっきりとイメージしよう」と考えながら、ピンを置く。そうして、落ち着いて立ち去る。 ・・・(中略)・・・ イメージづくりを習慣のようによく行なうなら、もの忘れは次第になくなっていく。 「私はピンをここに置く」としっかり考え、自我を自分の行為と結び付け、更にイメージを付け加える。自分の行為の明瞭なイメージを考え、自分の行為を、精神-心魂の核である自我に結び付ける。そうすると、記憶力は根本的に鋭くなる。(p.65-66) (イメージをつくる感情を豊かにする。) ものを置くときに、このような思考の習慣がつくと、それだけでエーテル体(生命体)の力が呼び出される。 ・・・(中略)・・・ 人智学〔アントロポゾフィー〕をとおして、「エーテル体はある意味で記憶の担い手である」と、学んだはずである。(p.66) 「生命力(エーテル体)は記憶の担い手である」は重要なポイント。 落胆し切った経験のある人はよく分かるだろうけれど、人生を投げてしまうと、気が散ずるから、生命力が弱まり、記憶力も無くなってしまう。だったら、逆に、記憶力を鍛えれば、生命力は向上し、肉体も強くなり、人生が輝く。 【もの忘れと病気の関係】(改変) 「人間がもの忘れをすることが少なくなると、多くの病気の発生は避けられる」と言うと、奇妙に聞こえるが、本当である。(p.64) 【装飾と集団心魂】(改変) 「装飾」とは、一体何を意味するのか? 身を飾ることで、人間の精神を外(物質)的に表現している。 ・・・(中略)・・・ 昔の民族は、「グループで一体」と思っていた(集合自我)。ある神霊を自分たちの集団心魂と見なしていた。「この集団心魂が自分たちを結び付けている。自分たちは身体の一部のように、この集団心魂に属している」 と、彼らは考えていた。(p.92-93) (日本人の多くが、この古い集団自我の名残をもっている。) 【衣服】(改変) 衣服は大体、霊魂の必然性から発生した。(p.93) 古代ローマ人とギリシャ人は、裸で歩くとき、「裸体が人間全てではなく、他に超感覚的な身体がある」ということを知っていた。その超感覚的な身体を、彼らはトーガで模倣した。 ・・・(中略)・・・ トガはアストラル体(感受体)を表現したものに他ならない。トガの芸術的な衣紋のなかに、アストラル体の力が表現されている。(p.96) トガ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AC 【菜食:身体の主人になる】(改変) 菜食にすると、体内に摂取された植物は人体に多くのことを要求する。 ・・・(中略)・・・ 人体は自分で脂肪を製造する能力をもち、「脂肪でないものから脂肪を作る」ように要求される。つまり、菜食にすると、人間は、この脂肪作りの活動を展開しなければならなくなる。 ・・・(中略)・・・ 動物性脂肪を摂取すると、そのような活動が省かれる。 唯物論者は、「努力なしに、沢山の脂肪が得られるなら、それは人間にとってよいことだ」と言う。精神的な立場からは、「内(精神)の活動こそ、内(精神)を主とする生命本来の展開」と見なくてはいけない。 自分で脂肪をつくり出す力を呼び起こす必要がある場合、その内の活動のなかで、自我とアストラル体(感受体)が肉体とエーテル体(生命体)に対して主導権を持つようになる。 ・・・(中略)・・・ 菜食にして、自らで活動する機会を得るなら、人間は自由になり、自分の身体の主人になる。(p.118-119) (これと同じで、金持ちは金を出せば自分でやらずに他人任せで楽に暮らせると思い込んでいるが、それでは、人生の落伍者であることに気づいていない。そもそも楽な人生などは精神を磨くことができないから、生きる意味がない。 このようなアホは、生きているのに、死んでいるのである。死んではじめて、自分の思い込みの間違いに気づくわけである。精神の活動を通じて、神のごとき強靭な精神の持ち主になれるのである。 これとは逆に、物質的に豊かになるのは、偽装で、単なるモノマネでしかない。物質的に豊かな社会に幸福感がないのがその証拠。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月30日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 魔、妖怪、幽霊、幻影(改変) 人間は自分の知らない力に人生を導かれている、ということを明確にしておく必要がある。 エーテル体に作用するのは、かつてアストラル界で自らが作り出した形態である。運命に作用するのは高次の神界の、「アカシャ年代記」に自ら記入した記録の実体である。オカルティストはこの実体をいくつかの位階に応じて分類している。 アストラル体と同様に、エーテル体、肉体にも実体の作用が認められる。心ならずも行ってしまうことや行為を促されるようなことは、この実体の作用により喚起されているのである。何もないところから行為が惹起されるのではない。 人間は、実際、絶えまなく様々な他の構成体に貫かれ、浸透されている。秘儀参入者たる導師は、人々に修行を伝授し、肉体、エーテル体、アストラル体に侵入した存在たちを追い出し、自由にすることができる。 アストラル体の中に侵入し、人間から自由を奪う存在は魔(デーモン)と呼ばれている。人間のアストラル体は絶えず魔に浸透されている。人間の魔性の思考、間違った思考から作り出されるイメージが、徐々に魔へと成長していく。 善良な思考から生まれ出た善良な魔もいるが、邪悪な思考、特に不正の虚偽の思考から生まれ出た魔は、恐ろしい、厭わしい姿をしていて、いわば、アストラル体を買収する。 エーテル体に浸透するのが妖怪(スペクトル)、幽霊(ゲシュペンスト)である。このような存在から自由になるべきである。 肉体に侵入するのは幻影(ファントム)である。この三つのほかに、自我を往き来するのが霊(ガイスト)である。自我自身も霊である。 人間がこれらの存在を呼び出し、人間が地上に受肉するとき、これらの存在が内にも、外からも働きかけ、運命を決定する。魔がアストラル体に、幽霊がエーテル体に、幻影が肉体に働きかけているのがわかる。これらの存在全ては、我々人間と密接な関係をもち、再受肉する際に、人間に近づいてくる。(P87-P88) (コンピューターで喩えると、ウイルスのようなもの。コンピュータに喩えると、人類の進化がよくわかる。) 人間の構成要素(改変) 人間は肉体、エーテル、アストラル、そして自我から成っているが、いまだその人間の本質全体を把握できていない。人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我という四つの構成要素を地上へのはじめての受肉に際し、もちながら、輪廻転生を通して、高次の存在へと進化していく。自我がアストラル体、エーテル体、肉体に働きかけることで人間は進化していく。 (だから自我の働き度合いで、進化度合いが異なっていく。古い集合自我をもつ人は、宇宙の進化や、世の中の流れのなかで、段々遅れていく。自分の意見を強要するような人が、この進化に遅れている人の典型例である。) 初めて地上に受肉した遥かな太古の人間は、自分の願望や欲望に全面的に従っていた。この太古の人間も四番目の構成要素、自我をもってはいたが、動物(集合自我)のように生きていた。 このような太古の人間を崇高な理想主義者と比較すれば、太古の人間は自我をしてアストラル体に働きかけていないことがわかる。人間は、自我を自らのアストラル体に働きかけることで、徐々に進化していく。 アストラル体の本性を内面から支配するようになる形で、この自我の働きかけが行なわれる。一般のヨーロッパ人は、アストラル体に衝動(誘惑)を感じたとき、他人が自分のアストラル体に手出しするのは許したくないが、この衝動自体(誘惑)には従ってもかまわないと自分に言い聞かせようとしがちである。 (誘惑に負けやすい) 対照的に、アストラル体の生まれながらの本性を自我の支配下におくと、霊我となる。霊我はマナスという名でも呼ばれ、マナスは自我がアストラル体を変化させた結果生じるものである。アストラル体の本性を整理して霊我へと変容させることが重要である。 (このアストラル体の無垢な本性は、聖母マリアの処女伝説として伝わっている。) 更に進化すると、人間は自我により、アストラル体だけでなく、エーテル体にも直接働きかける能力を獲得できる。では、アストラル体への働きかけとエーテル体への働きかけの相違を明らかにする。 子供の頃から学んできたことは膨大な量になるが、膨大な量の概念を受け入れると、もはや自らの激情や熱情に盲目的に従うことがなくなるが、例えば、短気な人が短気を克服しようとしても、うまくいかずに、よく激昂に襲われることがある。 また、記憶力をよくしたり、個性や良心を微妙に変化させることさえも非常に困難である。このように、個人の気質の変化は、時計のゆっくりとした短針の進みと比較できる。秘儀参入の本質はこの微妙な変化にある。単なる準備のようにみえても、気質を微妙に変化させることは秘儀参入にとっての本質であり、大きな意味がある。 悪い記憶力を良い記憶力に、短気を柔和に、憂鬱質(肉体主導の性質)を粘液質(エーテル主導の性質)に変化させることは、多くの概念を学ぶよりも多大の効果がある。このような変化のなかに、人間の内面に隠れた力の源泉(陰の天体力)がある。このような変化が、自我が単にアストラル体だけでなく、エーテル体に働きかけられた徴(しるし)である。 (キリストは「しるし」とよく述べているが、それは自我が変化する兆候を意味している。つまり、人類進化の歴史に刻まれる、ということである。) 個性の微妙な変化の萌芽(兆候)はアストラル体にも探求する必要があるが、個性を変化させるには、その萌芽(兆候)をエーテル体の中に探求する必要がある。アストラル体だけでなく、エーテル体に働きかけることで、個性を変化させることができる。 自我がエーテル体を変化させた分だけ、人間のなかに、生命体に置き換わる生命霊が存在するようになる。神智学では生命霊はブッディと呼ばれている。ブッディの実体とは、自我により変化させられたエーテル体の霊化の部分に他ならない。 (釈迦が仏陀「ブッダ=ブッディ」と呼ばれる所以でもある。つまり仏陀は個性を変えられる能力をもつ。) 肉体は人間の本質のなかでも最も凝固した(低次の)部分であり、肉体を形成している様々な力は最高次の世界から発している。自我がエーテル体のみならず、肉体をも変化させられるほどに強いものになると、人間は自らの内に、現進化段階では人間の本性の最高次の構成要素であるアートマ(霊人)を作り出すことができるようになる。 肉体を変化させる様々な力は最高次の世界に存在し、呼吸を変化させることで、肉体は変化しはじめる。アートマという言葉は呼吸(アートメン)を意味している。呼吸の変化によって血液の性質が変わる。血液は肉体に働きかけることを通して、人間は最高次の世界にまで上昇していくことができるようになる。 (人体内で光合成を行なうことができるので、もはや食物を必要としなくなる。) ここで、無意識的な変化と意識的変化の二つを区別する必要がある。事実、現代人は無意識のうちに、自我により、それよりも低次の構成要素であるアストラル体、エーテル体、肉体を変化させている。 現在の進化段階では、意識的に変化させられるのはアストラル体だけである。意識的にエーテル体を変化させるには、秘儀に参入する(アストラル界で生活する)必要がある。 各々の人間は、太古の人間も本質としてもっていた肉体、エーテル体、アストラル体をもち、この三つの構成要素の中に自我をもっている。この三つの構成要素の変化がこれから始まる。 長い間、人間は無意識のうちにこの変化を行なってきたが、今からは、意識的にアストラル体を変化させはじめるようになる。秘儀参入者は現在、エーテル体を意識的に変容させている。将来、全ての人間が意識的にエーテル体と肉体を変化させるようになるだろう。 人間は本質的に三つの構成要素、肉体、エーテル体、アストラル体と、そして自我をもっている。自我はこの三つの構成要素を変化させている。既に自我はこの三つの構成要素を変容させ、無意識のうちに、感覚魂、悟性魂、意識魂の種を蒔いてきた。 薔薇十字の神智学では、三つの構成要素を基にして更に、感覚魂、悟性魂、意識魂を区別している。意識魂をもつことで初めて、自我は意識的な変化を行なえる。自我はアストラル体の中で霊我を、エーテル体の中で生命霊を、そして、肉体の中で本来の霊人(アートマ)を発展させていく。このように、人間は本来は全部で九つの構成要素をもっている。 (肉体、エーテル体、アストラル体、自我「感覚魂、悟性魂、意識魂」、霊我、生命霊、霊人の九つ。) 外見上は、(自我の)感覚魂と魂体(アストラル体)の二つの構成要素は刀と鞘のごとく互いに嵌まりこんでいる。感覚魂が魂体(アストラル体)の中に嵌まりこんでいるので、この二つは一つに見える。霊我と(自我の)意識魂も同様に一つに見える。従って、九つの構成要素は七つに還元される。 (肉体、エーテル体、アストラル体=自我「感覚魂」、自我「悟性魂」、自我「意識魂」=霊我、生命霊、霊人の七つ。) 七つの構成要素として、 1 肉体 2 エーテル体、もしくは生命体 3 感覚魂が嵌まりこんでいるアストラル体 その次に、 4 自我(悟性魂) そして、高次の構成要素として、 5 意識魂と一つになった霊我、もしくはマナス 6 生命霊、もしくはブッディ そして、最高次のものとして、 7 霊人、もしくはアートマ が数えられる。 (この7つの構成要素が、人間の7つの進化段階を現わす。土星紀は肉体、太陽紀はエーテル体、月紀はアストラル体、そして、現在の地球紀「前半;火星紀、後半;水星紀」は自我、次の木星紀は霊我、金星紀は生命霊、そしてウルカヌス星紀は霊人となる。 秘儀参入者は、秘儀参入により時代を先取りしているので、地球紀においては木星紀の霊我をいちはやく手にいれている。) 人間の本性の内的な関係性として、これに二つ加えて、本来九つの要素が挙げられる。 従って、薔薇十字の秘儀参入法では、三掛ける三、すなわち九つの構成要素を区別している。この九つは繋ぎあわせると七つに還元されるが、七つの構成要素の中に九つの構成要素を認識しないと、理論だけの観照(机上の空論)に陥ってしまう。 つまり人間は、 9 霊人 8 生命霊 7 霊我 6 意識魂 5 悟性魂(地球紀) 4 感覚魂 3 アストラル体 2 生命体 1 肉体 の九つから成り立っている。 自我は魂を照らし、次に、三つの体への働きかけを開始する。(P37-P43) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月29日
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前回は、日本にはまだまだ古い集合自我の名残をもっている人が多いことを、シュタイナーの話から紹介した。 シュタイナーの話を理解したなら、古い集合意識の代表は、聖書では、アベルと呼ばれる人物であることに気づく。そして、カインは、現代に通じる個人的な自我で、それは低俗な水準からはじまるものであることを紹介した。カイン(地球紀の自我)は、アベル(アトランティス時代の自我)を殺すことで、個人的な自我の自由を得た。 日本人の多くは、曖昧な自我の、アベルの集合自我の名残をいまだにもっていることが、靖国参拝などからわかる。 なぜ日本人に、このような曖昧な意識が残っているのかを、あるサイトのシュタイナーの話から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 神殿伝説と黄金伝説(改変) ラクシャサ 地上に留まった(天界に昇天しない)アベル(集合自我)の末裔たちは神々の子らであり、神々とつながっていた。しかし、自らが地上のもの(物質界)に関わらないように、注意しなければならなかった。そのために神々に自ら(集合自我)を捧げた人にとっては、1つの原則が生まれた。 (「神々」と複数になっていることに注意。集合自我を意味している。新約聖書では、一人称に置き換わり、「神」となるのは人間の自我が個人的なものになったという意味である。) 禁欲という教義である。 自らを地上(物質界)に捧げた人たちと結び付くのは罪となる。「神々の子ら(集合自我)がカインの系統からでた娘たち(個性的な自我)を好きになったとき」、それは罪になる。 (集合自我が、個人的自我となれば、神々「集合自我」と分離することになるからである。) そこで、一般に公開された旧約聖書では一度も言及されずに、ただ暗示されていただけの一族が生まれた。この一族は、肉眼では知覚できない。オカルトの用語では「ラクシャサ」と名づけられ、インド人の「アシュラ」に似ている、悪魔的な存在たちである。 (ルツフェルとか、蛇とか、龍とか呼ばれる連中である。) それらは実際に存在し、人間を誘惑したので、人類は堕落してしまった。人間の娘たち(個人的自我の持ち主)と神々の子ら(集合自我の持ち主)とのこの「かりそめの恋」は1つの種族を生み出した。 その種族は、特にアトランティス期の第四亜人類期のツラン人(日本人の遠い祖先ともいわれている。「ニムロド」ともいわれる。)を誘惑し、人類を滅亡に導いた。 (この伝説が黄禍論を生んだようである。ツラン人は、皇帝を中心に、他民族を征伐したからである。その記憶が、再度、同じ土地のモンゴルにフビライハンの元を蘇らせたこともわかる。秦の始皇帝も同じ。) しかし、人類のある一部は、新世界に救われた。ノアの洪水は、アトランティス大陸を全滅させた洪水で、ラクシャサたちに誘惑された人間は、次第に消えていった。 今述べたことは、現代の唯物論者には非常に馬鹿げたことに思われるだろう。しかしこのオカルト話を知ることは、きわめて大切で、あまりの重要さ故に、一般人には長い間、秘密にされていたくらいである。 今でもほとんどの人の理解を超えているが、このオカルト話は真実なのである。断言できるのは、どのオカルティストも、アカシャ年代記を真実だと確信している、ということである。 ラクシャサたちは、かつて活動的かつ積極的に、人間の誘惑者として存在していた。彼らは、ナザレのイエスの中にキリスト(新しい高次の個人的自我)が受肉し、彼の肉体の中に仏陀の原理が現われた時まで、人間の欲望に働きかけていた。信じても、信じなくても、これには宇宙的な、地上界を超えた意味がある。 聖書には無駄な表現がない。キリストは地獄の手前まで降りた。そこにはもはや人間は存在しなかったので、キリストは霊魂の存在者たち(悪魔)に働きかけた。それにより、ラクシャサたちは麻痺し、無気力の状態に陥った。彼らは抑えつけられ、身動きできなくなった。 (ミカエルと龍との戦いの伝説として残る。日本では、スサノオの大蛇退治の話。) 悪魔退治は、天界からの2つの働きかけによって生じた。もしナザレのイエスの中で2つの本性が、1つになっていなかったら、それは不可能だった。 イエス(自我=自己意識)の中には、2つのうちの1つは古代の修行者〔チェラ〕の認識が働いていた。彼は完全に物質界に結び付いて、物質界で働くことができ、その力を通してイエスを均衡(独立)状態に保つことができた。 (シュタイナーは2人のキリストの話で、前世がゾロアスターだったと述べている。) そしてもう1つは、純粋な霊魂の存在であるキリスト自身(個人的自我同士を結びつける愛の自我)が働いていた。これはキリスト教の基礎をなす宇宙的な(自我の)課題である。 そして、当時のオカルトで有名なある出来事が生じた。それは人類の敵たちの追放である。 この出来事が反キリストの伝説、すなわち反キリストは捕縛されたが、キリスト原則が彼に対して働かなくなったら、再び出現する、という伝説に余韻を響かせている。 (シュタイナーは、アーリマンの受肉といっている。どうやら白人種に受肉するそうである。究極の利己主義の個人的自我の持ち主だろう。ロスチャイルド家やロックフェラー家などが怪しい。現在の自我をいかようにつくりかえるかが、人類の試練となっている。) 中世の全てのオカルティズムは、ラクシャサの作用が生じないように努めてきた。高次の世界を霊視できる人は、19世紀の終わり、19世紀から20世紀の転換期に、その悪魔の作用が起こり得ることを、既にかなり以前から予見していた。 見晴らしのよい塔で仕事をし、またペストの流行の時に、多くの人を助けたノストラダムスは、未来を予言することができた。彼は多くの予言的な詩句を記した。その中の1870年の戦争や、マリー・アントワネットについての予言は、すでに成就している。ノストラダムスのその『百詩集』の中には、以下のことも記されている。 「19世紀が終わる頃、アジアのヘルメス兄弟団の1つが現われて、人類は再び統合されるだろう」(10.75) 神智学協会は、このノストラダムスの予言の成就に他ならない。ラクシャサに対抗することと太古の根源的な秘儀を蘇らせることが神智学協会の課題である。P36-P39) 薔薇十字会の神智学 アカシャ年代記 秘儀に参入した者は、かつて地球であったもの、これから地球になるもの、そして太陽系外の宇宙と地球を結びつけるものを知っている。 ここで、何よりも、神界(理性界)で遭遇する通常「アカシャ年代記」と呼ばれている記録が重要になる。「アカシャ年代記」は神界で作られるのではなく、それより高次の領域で生じるが、神界まで達すると「アカシャ年代記」と呼ばれる記録が見えはじめる。 では、「アカシャ年代記」とは一体何なのか? 地球上、あるいは、その他の世界で起こったこと全ては、ある精妙な媒体に永続的に記録され、秘儀に参入した者は、この記録を読み取れるのである。通常の死んだ年代記ではなく、生きた年代記といえる。(P56) (記録が書き換え可能だからだろう。) 「アカシャ年代記」は確かに神界に存在するが、アストラル界にまで下ってきているので、しばしば、アストラル界においても、「アカシャ年代記」の映像を蜃気楼のように霊視できることがある。 このアストラル界で見られる「アカシャ年代記」の蜃気楼は往々にしてまとまりのない、不確かなものなので、過去の事象を探究しようとするとき、このことに注意しておくことが重要である。(P58) また、霊媒を使用する(交霊術)と、他の誤謬の原因が生じる。霊媒は「アカシャ年代記」を霊視できるが、ほとんどはアストラルへの反映を見ている。「アカシャ年代記」に特徴的なこととして、ある人を探究すると、その人はまるで生きているかのように振る舞う。 例えば、ゲーテに会うと、彼はかつて語った言葉で答えるだけでなく、ゲーテ的な考えで答える。生存中に書いたことのない詩をゲーテ的な文体と感受性をもって創作することもある。アカシャ年代記の反映像は本質的に、人間の感覚に継続的に作用するほど活動的である。 だから、この反射像をその人物自身と思い違うことがある。霊媒は霊界で生きつづける死者に出会ったように思いこむ。実際に霊媒の前に現われるのは、アストラルでのアカシャ像にすぎない。 例えば、本当のカエサルの霊は既に再受肉しているかもしれない。しかし、カエサルのアカシャ像が交霊会で様々な質問に答える。交霊会に出現するのはカエサル自身ではなくカエサルが「アカシャ年代記」の中に残した記録である。 このために、霊媒交霊会では多くの誤謬が生じる。アカシャ像の中に残る人間の姿(古い自我)と、輪廻転生を通して発展をつづける個人(新しい自我)とを区別しなければならない。これは非常に重要である。(P59) 敵国の霊魂を味方につけて戦う 1904年から5年にかけての日露戦争にアストラルの様々な霊魂の存在が参加したが、その中にはロシアの死者たちもいて、彼らはロシア民族に対抗して戦ったということが霊的な観察から明らかになる。 1904年近辺のロシアの歴史の中で、多くの高潔な理想主義者たちが牢獄や断頭台で命を失った。彼らは立派な理想主義者だったが、自分たちを処刑した者たちを赦すことができなかった。彼らは自分たちを殺した者たちに対する猛烈な復讐心を持って死んだ。 このような復讐心は、欲界期(死後にいく地獄界のこと)においてのみ存在でき、死後、彼らはアストラル界から日本の兵士の魂に、ロシア民族に対する憎しみと復讐心を浸透させた。神界に到達したときにはじめて、彼らは自分たちの敵を赦すことができる。(P77) (このことから、日米戦争も、日本の理想主義者が殺され、大本営に怨みをもっていたことがわかる。だから靖国神社には怨霊がウヨウヨいる。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月29日
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前回は、日本人の弱点ともいえる集団催眠や洗脳に罹りやすい古代の集合自我の名残についてのシュタイナーの話について紹介した。日本人位、「日本人」を持ち出す人が多いのに、そのことがわかる。実はこの話自体も…。 日本には様々な宗教が到来しているのにも関わらずに、皆同じ考えをもっているかのように語るのはおかしい。俗に島国根性といわれるが、何も日本だけが島国ではない。フィリピンだって、マレーシアだって島国だが、島国根性がいわれることはあまり聞かないし、東南アジアには島国が多い。 どうも、日本にはいまだ江戸時代、特に中世以来の集団意識が残っていて、明治維新は表側の看板だけ付け替えたように思えてならない。戦後に至っては、戦時中に前線に送られた者と送った者とが、同じ日本人犠牲者として語られているのは、日本古来の曖昧な自我(集合自我)の認識からくるものと思われてしかたがない。 そういうわけで、洗脳の対象となる集合意識を自らで克服するために、必要な話をシュタイナーの話から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ カイン(神殿伝説)とアベル(黄金伝説)の統合へ(改変) 祭祀の原理の根本は、事実を自ら究明しようとせず、他の誰かに与えられた理由なるものをそのまま受け取り、それに満足する態度にある。 (このアベルの意識は、古代の人間の集合自我「自己意識」のことである。) 人間の能力を超え、人間に与えられた贈り物という言葉の本当の意味は、人間に生殖を可能にした生命の創造力である。 人間は生殖において本当の創造をなせる。しかし、現段階では、この創造力は、芸術や知識といった人間の能力(個人的な認識)には、全く関係しない。 (略) では、カイン(個人的な自我)は神に何を捧げたか? 彼は、(地球の)土地を耕しながら、自ら働いて得たもの(知識)、畑の作物として収穫したもの(芸術)を、神に犠牲として捧げた。彼は人間の技術、知識、叡智を必要とした贈り物を犠牲として捧げた。 その贈り物は、人間が明確に見通せるもので、人間自らで創出したもの、精神の自由と自覚とを基礎にしたものである。 しかし人間は、この贈り物を神に犠牲として捧げるには、自然を破壊すること、つまり罪を犯すことでしか達成できない。 (造物主の神が造り賜った生命を壊すことでしか、人は神に贈り物ができない。) すなわち、自然、もしくは神々の本当の創造力により与えられた生命を、カイン(個人的な自我)が、アベル(集合的な自我)を殺したのと同じように、殺すという罪を犯すことでしか、人間は神々に贈り物ができない。しかし、反面、人間は罪を犯すことで、自由への道にも到達できる。 (神々の贈り物を殺す「拒否する」ことでしか、神々に贈り物ができない。とどのつまり、集合意識を拒否することで、自己意識に目覚めることができる。) 神々により予め宇宙の中に造り出されている全て〔せいぜい後から人間が手を加えることしかできないもの〕や、神々が人間に与えた全てや、人間のたゆまぬ努力で創られたのではないものは、人間自らの意志(自由意志)で支配できない自然界である。 また人間は、植物界、動物界のどれをも、人工的に創り出せない。つまり、生殖力(自己認識力)は、自然により人間に与えられた。 我々人間が、生命あるものを自分たちのために利用し、生命あるものから造られた地球環境を我々の居住地とする限りは、アベル(古代人の集合自我)が自分たちに与えられた獣(精神的な幻想)を犠牲として捧げたように、我々現代人たちも与えられた獣(物質的な幻想)を犠牲として捧げているのに代わりはない。 (与えられたものを土台に創造を行い、事なかれ主義に埋没するな。現存する自然に埋没するのではなく、平和の神殿をつくりあげるべきであろう。新たなる自己意識、つまりエルサレムをつくれということ。どのような人をも愛せる個性を目覚めさせるべきである。) 〔シュタイナー「新しい形式の帝王術」-「神殿伝説と黄金伝説」所収/国書刊行会/P280-281〕 ☆ ☆ ☆ 与えられた自己を自己として認識しているようなら、与えられた自己に埋没しているだけで、それでは自己の奴隷で、没個性になってしまう。人間には、自由な、自分で創り出す真の生殖力、つまり自己開発力が眠っている。これが、キリスト原理の再来、再生、つまり蘇りである。 このことは、サッカーなどの組織的スポーツのなかでよく語られる。日本人選手にチームプレーというと、チームのために自己犠牲になると考える人が多い。代表に選抜された選手にもこのような馬鹿げたことを言う人がいる。 それでは、チームのために犠牲になるような没個性の選手を代表に呼ぶのがおかしいといわれてしまう。チームと個性が戦いの場となり内紛の場となってしまう。こういうチームでは、失敗の度に、誰かを犠牲にしないとすまなくなり、終始、批判合戦になり、プレーが消極的になり、冒険を犯さなくなり、プレーを楽しめなくなってしまう。 犠牲というのではなく、自分を生かすには、他者を生かすことが必須であることに気づくべきである。環境が変われば、いつもやっているプレーができないというのは、本当の個性ではなく、与えられたポジションをこなしていただけで、そのポジションの奴隷であったことで、実は没個性であることに気づくべきである。役割をこなせれば、誰でもいいということにすぎなく、人間ではなく、機械の運動をみているにすぎない。 本当の個性とは、環境が変わっても出てくるものである。むしろ、環境が変わるほど、個性が生きてくるはずである。強いチームとは個性の集まり、それも相乗効果を発揮するものである。個性がチームで生きるから、チームが強くなるのである。 個性がチ-ムに染まるのではなく、個性がチームを染めるのでなければ、見ている側だって楽しめるものではない。 とどのつまり、日本では、以前紹介した「カオナシ君」にしばしば遭遇する。議論にしても、なんだか評論家のような上から目線の意見が多く、個性的な意見はほとんどない。TVでやっている議論などは、聞いている自分が恥ずかしく思うことがよくある。自分の人生を生きていない連中が多い。 またスポーツ選手を題材に出して申し訳ないが、日本の選手は、どこぞの優秀な選手になりたいとよく語るが、将来を夢見る子供ならわかるが、外国の選手はまずそういうことはほとんどいわないことだけでも個性が感じられる。 例えば、メッシはマラドーナとよく比較されるが、その発言をみると、自分はマラドーナではない、とはっきりと応えている。ジーコもペレと比較されると、ペレではないと迷惑そうに応えていたそうである。 日本人選手は、逆に自分から有名選手に準えるのを好むから、没個性である。 日本にはいまだに中世の仲間意識のような集団自我が残っているような気がする。それはイチローがメジャーで活躍しているときは、日本人の代表という仲間意識をもっていたようだが、活躍しなくなると、仲間意識にあまり触れないように無視する姿勢をとるようなもので、日本のマスゴミの態度にはっきり現われている。 良いときは日本人、悪いときは日本人離れしていると差別するのである。 この差別の裏にあるマスゴミの姿勢は、人気で儲かればよいし、かといって損はしたくない無責任な物欲が実体なのである。 この株のように上がったり下がったりするような、どうでもいい仲間意識を克服すべき時代に日本がきていることだけは確かである。 この集団催眠や洗脳で、都市や国家の命運を決めてしまうほど没個性で、馬鹿げたことはないだろう。中世の国々が滅んだのは物質的というよりも、この精神性に負うところが大であるように思えるからである。
2014年01月28日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ ディオニュソスはバラバラに引き裂かれた神として、個人の魂の中に入っていった。ディオニュソスの象徴であるアルコールが人類にもたらされた結果、全体(集合魂)の人間は、多数の個人となって、(神々とつながっていた)人間(アダム)は引き裂かれ、物質(肉体)の中に投げ込まれた。 カナの結婚式の伝承には、偉大な原則が生きている。進化の原則についての教えである。絶対的な真理は確かに存在するが、その真理を直ちに人類に提供することはできない。どの時代にも特定の存在形式があり、特定の真理を持っている。(P114) 洗礼〔バプテスマ〕を水で授けたのはヨハネであり、水による洗礼は「(過去の)記憶を授ける洗礼」であり、「人間(の意識)を過去に向ける」作用をもつ。対照的に、キリストの「聖霊」による洗礼は、未来に向けてのもので、このぶどう酒による洗礼は非常に重要である。 高次の霊性の観点からみれば、人間が個として稚拙な自我を持つことは非常な堕落のように見えるが、そうした低次であっても、個人的な「自我」からはじめ、その状態から「自由」の原則によって成長していくための深い意味を、キリストの自由な自己認識との関係で深く洞察する必要がある。 何事にも時代や場所に相応しいことが行われる必要がある。時代と場所において「正しさ」が適切に作用しなければ、その「正しさ」は破壊を生じるものになってしまう。 シュタイナーは次のように述べている。 我々は次の時代を準備するために人智学を学んでいる。なぜなら、我々の時代が存在しなければ、次の時代も存在しないからである。とはいえ、未来のためと称して、現在を誤魔化してはいけない。 (略) 現在始めなければ、来世に、現在の行いの結果を生じさせることはできない。絶対的な形式をとった真理などは存在しない。人類の進化の各時代に応じて、そのつど真理が認識されてきた。最高の認識といえども、低次の生活習慣のなかにまで降りていく必要がある。 (会社の上層部も、現場にまで足を運ばなければ、現実はみえない。他人任せや机上の空論では落第。) そして最高の真理も、その時代において理解できるような形で語り示される必要がある。だから、キリストは、人類がどのようにして自らを神性にまで高めるべきかを、ディオニュソスの供犠によって、ぶどう酒(アルコール)の供犠によって示す必要があった。(P115-116) これまで正しかったからといって、その正しさを振りかざすことは避けなければならない。だからといって、逆に、現在に迎合してしまっては未来を創造できなくなってしまう。今何が必要であるか、という観点を忘れてはならない。 (日本人のほとんどは、この点について非常に遅れている。中世の意識のままである。靖国参拝がその典型である。) かつて正しいこととして実践されてきたものが、現在において正しい方法であるとはいえない。仏教でも、その時代の形式に応じた正しさを「中道」ということで表現していたように思える。「八正道」ということにしても、あくまでも「中道」ということが考慮されなければ、偽善になってしまう。 (釈迦がホームレスになったのは、下層階級の現実を知るためでもある。少なくとも、上から目線で、過去の古くなった教義を説くことではない。自己意識を物質的な価値観に迎合させると、アーリマン的な利己主義になり、逆に自己意識を、過去の教義に固執させると、ルシファー的な利己主義になる。 自己意識に上下はないのに、自分が正しいと思い込むのは、過去や未来に依存し、現実を生きていないことなので、間違いなのである。) キリストは、現在の中に立ち同時に未来を示すことで、自分は、絶対的な意味(上から目線)ではなく、現代的な意味で時代に働きかけている、ということを明らかにした。 だから、母親が彼に「彼らにはぶどう酒(アルコール)がなくなった」と訴えたのを、次のように応えたのである。 (キリストは、この母の言葉を、「彼らの自我は充分に自立している。」という意味にうけとった。) 「私(キリスト)がいまなすべきことは、古い時代の「私と汝(他者)」の区別が曖昧な集合意識を明瞭に区別し分離することにある。なぜなら、自我が充分に確立した時代、ぶどう酒から、再び水の洗礼に戻る時代はまだ来ていないからである。」 結局、母の言った「アルコールを与えること」にキリストは従っているから、「女よ、私とあなたとの間にどんな関わりがあろうか」などということを、イエス・キリストが言うわけがなく、全くの誤訳であることがわかる。 だから正しい意味をもつ訳にするなら、血の結びつきによって人類が現在の自我の前段階に達したこと、そしてアルコールの飲用によって、血の結合から自立するようになった自我(個人)の時代が到来することを示すために、昔からの風習に従い、キリスト自らが、アルコールによる「シルシ(自己認識の行為)」をなしたことで、つまり、当時はまだ、ぶどう酒によって象徴される古い時代の自我(集合魂)を顧慮する必要があったこと、しかし、キリスト自身の意識のように、「私である」という個人の時代が、未来に来ることを理解しなければならない。(P117-118) 人類がこれまで辿ってきた進化の道筋を否定するのではなく、その意味を認識すべきである。かつては「血縁」が重要な意味を持っていたが、現在ではその「血の結合」では、未来を準備できない。それは民族紛争などにおいても容易に、その問題点が見えてくる。 (集合自我と集合自我の戦い。現在の宗教紛争も、昔の民族紛争と同じ。) また、こうしたテーマに基づいて、西欧の例だけではなく、イスラム世界や東洋、日本などの現代の課題を見据えていく必要がある。 (金儲けばかりしていると過去に戻るだけで、死んでしまえば全て失うということに気づかないアホである。死後も関係を継続できるのは金ではなく愛しかない。それも、個人的自我の土台にたった愛であるから、見返りを求めない愛なのである。 見返りを求めない愛をよく自己犠牲と勘違いしているアホがいるが、犠牲になる必要はなく、逆に自己を生かすことを考えるべきである。) ☆ ☆ ☆ 当時は、集合自我から、個人の自我へと目覚めるために、アルコールは必要だったが、個人の自我が確立した現在では、逆に、水の洗礼が必要となってきている。しかし、なかには、「自分が正しい」と思い込んでいる独善者もいるので、そのような未熟な自我が集団魂と分離するために、アルコールは必要ともいえる。 つまり、洗礼者の自我の進化度合いにより、洗礼の際に、水とアルコールを使い分けられる神父がマトモということがわかる。 上述のシュタイナーについての話からわかるように、神とは、自己意識の総体である。キリストも自己意識の総称である。自己意識があってはじめて、宇宙と対等の能力を得て、宇宙のなかで独立できる。それはヤタ(ユダヤ)の鏡に書かれた「エヘイエ アシェル エヘイエ」の「我あるものは我なり」、つまり「我とは、神の生き写しなり」からもわかる。 人間は神から自己意識を与えてもらい、自己意識をどのように形作るかに拠っている。少なくとも物質愛(欲)を精神愛(理解力)に変えていかないと駄目である。 さて、そのことを、シュタイナーの話から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 「私」と「あなた」(改変) 言葉のなかで、その言葉の本質上、他の全ての言葉とは区別できる言葉が、1つだけある。それは「私(自我)」という言葉である。他のどんな言葉にも、対応する存在が外にあり、いつも使うことができる。 しかし「私」という言葉を使うには、この言葉を自分に向けるときに限られる。外から「私」という言葉が、ある人の耳に、その人の呼び名として聞こえてくることは、決してない。当人だけが、「私」という言葉を自分に向けて使うことができる。 「私は、私にとってのみ、一個の『私』である。他者の「私」は、『あなた』となる。そしてまた、他者全ては、私には、一個の『あなた』でもある。この言葉は、深い真実を表している。 「私」なる本質の存在は、外なる一切から独立している。それゆえ、この言葉は、外にあるいかなる存在からも、私に向けて用いられることはない。超感覚(霊視)的な認識を、意識的に保持してきたユダヤ教の賢者は、「私」という呼び名を、「言葉では表現困難な神の名前」であると述べている。 (略) 「人間の内なる神は、魂がみずからを『私』と認識するとき、語り始める」 〔シュタイナー「神秘学概論」ちくま学芸文庫/P70-71〕 愛別離苦から永遠の愛へ(改変) 物質界において霊(精神)的な働きによって織られた関係(精神的なつながり)は、霊界においても存在し続ける。この世で深く結ばれ合った友人たちは、霊界においても、その結びつきを継続する。 そして人体から離脱したあとは、物質界での生活よりも、遥かに深く結びつく。なぜなら、 (略) ある霊的な存在が他の霊的存在に、その存在の内部を通して自らを現わすように、霊となった友人同士も、互いに相手の内部を通して結びつきを現わすからである。 そして、二人の間で織られた絆は、次の人生においても、その二人を再び結びつける。それゆえ、言葉の真の意味で、人間は死後においても再会を果たすことができる。 〔「神秘学概論」高橋巌訳/ちくま学芸文庫/P124〕 ☆ ☆ ☆ 金銭の関係は、物質界だけのもので、友愛(メーソンで有名なので、この言葉は使いたくないが)の関係は、永遠のもので、輪廻転生も超え得る。シュタイナーは、ギルガメッシュとエアバニ(エンキドゥ)の友情の関係が、アレキサンダーとアリストテレスとして生まれ変わったことを、歴史の講義で述べている。 独立した自己意識から生じる友愛の関係のみが、輪廻転生を超えて永遠のものとなるのである。逆説的にいえば、金銭の関係に左右されない友人の関係こそが、死を超えて存立するものとなる。 友愛を名乗って物質関係で商売するメーソンは堕落したので、悪魔を招きよせ、悪魔により滅ぼされるだろう。
2014年01月27日
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宗教の問題を根本的に考えると、人の下に人をつくる考えに問題があることがわかる。メーソンなんかは、世界を一つにするためと称して、人の下に人をつくるような身分制度をつくろうとする。御馴染みの三角形のピラミッド構造である。 1つにするのなんて、真っ平御免で、人間には自由の意志がある。余計なお世話なんである。 人間は既に自由の意志をもつことで1つにつながっているのであり、わざわざ1つにする必要などない。1つにしようと、1つを押し付ける際に、人の下に人をつくるようになる。 我々は既に1つなのである。その1つとは、唯一神の愛である。その愛に気づくことが各々の人生の修行だろう。 さて、世界を1つにしようと思い上がっている連中はニセユダヤに代表される輩であるが、連中がなぜか日本をターゲットにしてきたことになんだか意味があるような気がしてならない。 そこで、シュタイナーが、日本について述べていることを、あるサイトから抜粋紹介したい。 ☆ ☆ ☆ キリストと日本(改変) キリストは自身を、人間という自由な自己意識の偉大な賦活者である、と名乗った。このキリストの生きた教えを簡潔に言い表すなら、次のようになる。 地球は人間に完全な自己意識の「私である」を与えるために存在している。それ以前の地球の状態(土星紀、太陽紀、月紀)は、この「私である」の自己意識を与えるための準備にすぎなかった。 キリストとは全ての人間が、各々の個性的存在として、「私である」を感じとれるための認識を与える者のことである。 地球という固体が生まれてはじめて、地上の人間を圧倒的な力で前進させる(自己)認識が与えられたのである。このことは、新約聖書と旧約聖書に載っている教えとの比較からも明らかにできる。 旧約聖書のなかの人間の人格のなかでは「私である」をまだ完全には感じていない。古代の夢(潜在)意識の名残りを留めていたので、「私である」と感じないで、今日の動物が集合魂の一分肢であるのと同じように、神の一分肢であると感じていた。 (組織の歯車的な考えのこと) 集合魂から自立した個人となること、そして、「私である」を感じる存在になることが、人間の進歩なのである。そしてキリストは、この自由な「私である」の意識を、人間へともたらす力の総称なのである。 〔シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P61-62〕 シュタイナーの神秘学の基礎には、「自由の哲学」があり同時に、キリスト意識がある。そのことが、特に日本では、シュタイナーがあまり受け入れられない理由になっているのではないかと思う。 (日本人の多くは、いまだに「神の一分肢である」というような動物と同じ感性をもっているからである。靖国参拝問題は、この悪しき典型である。唯物論の時代の科学者でさえも、英霊なんかを信じているからである。幽霊や魂がないという唯物論の学者が、英霊などど馬鹿げている。「こころ」と言って逃げているが、「こころ」を科学で証明すべきである。) それは、また、日本でのニューエイジ運動のなかに紛れ込んで、シュタイナーの説が受け入れられてきたことも大きく影響している。つまり、ニューエイジ運動には、アンチ近代という傾向があり、そこでは、どうしても「自我」を「利己」として罪悪視する傾向もみられるからである。「自我」をエゴと同一視してしまうわけである。 「自我」は滅するのではなく、成長させていくべきものである。最近では、ニューエイジの延長線上にもあるトランスパーソナル心理学でも、例えば「自我の力動的基盤/人間発達のトランスパーソナル理論」〔マイケル・ウォッシュバーン著/雲母書房.1997.10.10〕のように自我の成長ということを重要視する動きがでてきているが、いわば「自我によって自我を超える」とでも表現できるような認識をもっと探究すべきであるように思える。 さて、旧約と新約の対比から、旧約は古代の人間の集合魂(自我)の時代の教え、新約は個人の魂(自我)の時代の教えであることがわかる。 この違いを、日本での魂の在り方について考えていくと非常に興味深いことがわかる。日本では「個」が育っていないとよくいわれる。勿論、西洋の近代の述語とでもいえる個人主義を、日本にもってきてそのままあてはめることで理解するのではなく、例えば、日本のもつ霊性について、一部で語られているような「日本は裏ユダヤである」という表現の意味を、いわば、旧約の集合魂のような霊性が封印されているという形で理解してみることで、見えてくるものもあるのではなかろうか? シュタイナーの神秘学を、西洋だけにしかあてはまらないと考える人もいるが、確かに、シュタイナーは西洋に対して述べているので、そのままでは日本が見えてこないという側面もあるが、日本にも当てはまる重要な観点もあることを忘れてはならない。 西洋も東洋も霊魂の上では同じという観点なしで、日本でのシュタイナーの神秘学の意味を考えることは片手落ちになる可能性がある。 これまでの日本でのシュタイナーの神秘学の解釈は、キリストの意味を省いて考えてきた。けれど、それでは、シュタイナーの神秘学の核の部分が欠落してしまう。キリストと日本というテーマがクローズアップされる必要性を感じる。勿論、キリストというのは、いわゆるキリスト教ではない。 (自由な個性をもつ自己意識のこと。) 日本の文化に含まれる様々な精神的課題。天皇の問題、天神・国神の問題、縄文と弥生の問題などに肉薄していくためにも、シュタイナーの神秘学が与えてくれる視点が重要な鍵になるように思う。 愛の必要条件(改変) 一体、愛には何が必要なのか? 或る存在が他の存在を愛するには、一体、何が必要なのか? 愛するには、愛する存在が完全な自己意識を持ち、完全に独立していることが必要である。もし、愛が他の存在への自由な贈り物でなければ、完全な意味において、愛とはいえない。 例えば、私の手は私の身体を愛してはいない。他の存在から切り離され、独立しているものだけが、他の存在を愛することができる。 (男と女は愛するために分かれている。) 愛すべき存在になるため、人間は自我をもつ存在になった。地球が、愛の使命を、人間を通して成就させるために、自我は、三重の人体(肉体、エーテル体、アストラル体)のなかに付与された。 だから、キリスト教神秘主義の意味では、かつての土星紀の能力、太陽紀の能力、そして月紀の叡智を含め、神々の手で、それぞれ送り込まれたように、地球紀では、愛が地球に送り込まれ、その愛の担い手は、地球紀に形成される自立的な自我となるのである。 〔シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P51-52〕 カナの婚礼(改変) ヨハネ福音書の2.1-には「カナの婚礼」の話がある。まず、この話を「新共同訳」から引用する。 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 (略) イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われた。召使いたちは運んで言った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」 この話は、普通に読めばイエスの単なる奇跡の物語のようにしか読めないが、シュタイナーは「ヨハネ福音書講義」で、その深い意味を述べている。ここでもテーマは「愛」であり「自我」なのである。 「カナの婚礼」とは、ガリラヤでの或る結婚式のことである。なぜガリラヤで結婚式が行われたのか? それを理解するには、キリストの本来の使命を、再度、魂のなかに呼び起こす必要がある。キリストの使命は、完全な自我の自由な認識力、つまり内面的な独立性を人間の魂の中にもたらすことだった。 個人個人の自我が独立し、完全な自己の中で自らを感じながら、自由なる愛の力を通して、人間と人間が結ばれ合わなければならない。だから、キリスト原則の完全に自由な自我を通して、愛が地上での使命に加わった。 愛の使命は、物質を超えて、霊として次第に高まっていく必要がある。愛は低次の感覚と結びついた最下等の形態から始まった。古代では、血の結びつきにより結ばれたもの同士が、互いに愛し合った。血の結びつき、という物質的な基礎に、恐ろしく拘っていた。 そこにキリストが来た。そして、愛を霊化した。従って、一方では、愛を血の結びつきから引き離し、他方では、愛に霊力と(個人的な)認識を与えた。旧約の信奉者たちは、集合魂への従属性を、集合自我のなかの個別自我の本質的な基礎である、と考えていた。 〔「ヨハネ福音書講義」春秋社/P107〕 このテーマに沿って「カナの婚礼」について見ていく。 母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエスは「婦人よ、〔わたし〕とどんなかかわりがあるのです。〔わたし〕の時はまだ来ていません。」と言う。 (「わたし」というのは、個人的な自我(自己認識)のことで、キリスト原理のこと。だから、ぶどう酒がなくなったことと、個人的な自我とどういう関係があるのか?と聞いている。) この発言の意味を理解するには、キリストが、なぜ水をぶどう酒〔アルコール〕に変えたのか、つまり、ぶどう酒〔アルコール〕にはどんな意味があるのかを理解する必要がある。 アルコールは人類進化のなかで、大きな使命を持っていた。アルコールは、人体に働きかけて、「私である」という個人的認識が生じるように、(集合魂の)神との関係を断ち切らせる働きをもつ。 アルコールは、人間が以前包まれていた霊界との関係から、人間を分離する働きを持っている。 (略) 集合魂が人類に与えた役割(血のつながり)とは正反対の役割を、アルコールが人類の進化のために果たした。(P111) (集合魂から、個人的な魂への分離) もちろん、キリストはアルコールを賛美したわけではなく、キリストには時代に相応しい使命があるということが問題である。 (個人的な自我に対する個別的な愛の付与) イエス・キリストの授ける洗礼は、人間を過去(血のつながり)に向けるのではなく、人間の内の霊性(個性)を高めることで、未来に向ける。曇りのない「聖なる霊」を通して、人間の霊性を神性と関連づける。水の洗礼は(過去への)記憶の洗礼だった。 (水の洗礼は、人間を過去に、つまり血のつながりへと誘導するため、集合魂への帰依を意味する。) しかし「聖霊」による洗礼は、未来を指し示す預言の洗礼である。水の洗礼は、現在では全く失われてしまった集合魂との関係を思い出させるが、その関係が失われたことを、ぶどう酒が、供犠を象徴している。 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2014年01月27日
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「カオナシ君」は現代人の没個性の典型ともいえる題材なので、もう少し考えてみたい。こういう没個性の人物は、例えば、西洋では「自分の考えをもたない」人物なので、「何を考えているのかわからない」人物として不気味な対象となるだろう。 没個性は、日本社会特有のものに思われる。八切史観からいう日本史では、日本人の没個性は大陸からきたカースト制度にあることがわかる。原住民を階級制度により厳重に管理した名残なのである。 現代日本人が、いまだに、このカースト制度のなかでないと生きられないという没個性をもっているのは、非常に不思議である。恐らく、日本史の出鱈目ぶりさえ、理解できずに、鵜呑みに受け入れ、権力者に心地好い文句を諳んじてきたためであるとも思える。 例えば、都知事選でのホソカワは、信長の桶狭間を持ち出し、準えているそうである。今川義元は、マスゾエのことだろうか? 都知事選を奇襲戦とでもいいたいのだろうか? しかし、八切史観の桶狭間は、信長が義元を騙まし討ちにしたそうである。義元は京に自軍を損害なしに届けたいので、信長とは和議を結ぼうとしていたという話なのである。信長は、義元と和議を結ぶと、京では義元軍の先鋒として戦わせられるので、織田家が義元幕府の一家臣となってしまうわけである。 しかし、戦うとしても、義元軍の鉄砲隊の数が当時尋常ではなく巨大な戦力だったので、恐ろしく、和議を拒んでいたそうである。それでも義元があまりにせっつくので、仕方なく、人質となる信忠を抱えて、供回りわずかの手勢で、途中まできてみると、大雨が降り、義元の鉄砲隊が使えないとわかり、急遽、和議をとりやめて、義元を襲うことにしたという。 八切氏によると、このとき、後の家康となる世良田二郎三郎たちが、近くに来て情勢を伺っていたので、この者らとともに、義元の手勢を襲ったという。この騙まし討ちを知る者は、後に信長により戦場では最前線に送られ、口封じのために殺されしまい。家康も狙われることとなるが、逆に本能寺で信長を殺してしまうというわけである。 面白いことに、八切史観から、ホソカワといえば、この本能寺の変を手引きし、秀吉に通じたのが、細川藤孝であるそうだ。 いずれにしろ、都知事選が桶狭間とは?意味不明である。 話が逸れてしまったが、カオナシ君の話を続けるために、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログから続けて以下に抜粋紹介する。 それはアベノミクスという虚飾の世界に集う人々のことで、洗脳され、その奴隷に成り下がっている人々のことである。アベノミクス教徒というべきかもしれない。 ☆ ☆ ☆ カオナシ君がやってくる http://golden-tamatama.com/blog-entry-291.html さて、先日このような記事を読みますた。 アベノミクスバブルで潤う友人をうらやむ人の日記ですた。 ■[経済]アベノミクスが僕のお腹に怨嗟の種を植えたよ Add StarTAK_TAKsubekarakuiwwBUNTEN ============================== この週末、高校時代の友人が都心にマンションを買ったので、その新居祝いにみんなで集まって朝から飲んでました。みんなサラリーマンで、ほとんど結婚してて私ともう一人だけ独身。 この友人の奥さんは、才媛で、しかもとっても感じの良い美人さんなのですが、お子さんを連れてちょっとお出かけです。自慢の息子に、酔っ払いのお父さんは見せたくないという気持ちはよくわかります。 大理石張りの玄関、しっとりしたフローリングと高い天井のマンションでブルゴーニュの赤を傾けながら、さてそこで集まった連中は次のようなことを言っていました。 「今年に入ってから株が儲かった」 「円安になったから会社も一息ついたよ」 「給料も上がらないし、安全のためマンションもローンを少なくしようと思ってたらアベノミクスでしょ。チャンスと思ったね。現金は全部株に回して、借りられるだけ住宅ローンを借りた。」 「今の固定金利35年は安い。もし本当にインフレ率2%の時代が来るのなら、フラット35の1%台の金利での住宅ローンは本当のお宝になる。何千万のローンでさやとりができるなんて夢のようだ。」 「あーそうそう、俺も借り換えた。長期ローンが今熱い。」 「このマンションも、契約時より値段上がってるんじゃないか?場所いいもんなぁ。」 そう。こいつらは、比較的「固い」と言われている就職先に勤務して、そこそこ出世しており、そのありあまる社会的信用を利用して住宅ローンを借りています。あまつさえ、人によっては2軒目とかの住宅を手にしています。そいつは、1つ目の物件は人に貸しているらしい。 みんな都心6区(千代田区、中央区、港区、渋谷区、新宿区、文京区)に物件を持っています。そして、住宅ローンを借りていても、こいつらは実際資金繰りに苦しんでいるわけじゃなく、潤沢な貯蓄を持ちながら借金してて、今は株式に投資して順調に儲けているらしいのです。 なお結婚していないのは、転職マニアの男と、会社でうだつが上がらなかった私です。転職マニアは住宅ローンは借りられないので賃貸、私には将来の見込みがないので、あまり地価が上がらなそうな首都圏近県に住んでいます。 何だこの格差は。私の中の黒い情念に火がつきます。 別にこいつらは、起業したわけでもなければ土地持ちの家系に婿入りしたわけではありません。普通の人が努力すれば行き着けるところにいるだけの連中です。それにしても、アベノミクスに乗って、うまく生きています。きっとこの半年だけで、私との資産格差は広がったことでしょう。実にうらやましいことです。 と、その家を午後に辞して、その都心のマンションにほど近い昼下がりの公園を歩いていると、その友人の奥さんが子供と一緒に遊んでいました。桜の花が舞い散る中で小学生の男の子とキャッチボールしたり、近くの奥さんと話したりしています。 相変わらず美人だな、羨ましいな、と思いながらその公園をふと見ると、子供がびっくりするほどたくさんいます。少子化って騒がれるほど少子化じゃないのかな、と思いながらその子供たちのお母さん方を見ると、みんな結構きれいな人ばっかりなんです。 美人さんだったり、スタイルがとってもよかったり。そうそう、外国人の親子もぼちぼち目につきます。ああ、こういう都心に家を買える人たちの奥さんって、きれいな人が多いんだなぁ、国際色豊かな環境で子供を育てるんだなぁ、と思うと、さらに私の中の黒い情念に火がつくわけです。 僕だって、ある時期に仕事へのやる気をなくさなければ、ひょっとしたらこんな人生があったのかもしれない。 そんな昔の話じゃなくても、マンションを首都圏某県に買わずもっと都心に買っておけばよかったのかもしれない。 むしろ、半年前に株式投資をしていれば… そして、今日集まった友人の大半は、さらにアベノミクスが拡大する中で、日銀が金融を緩和する中で、都心のマンション価格の高騰を享受して、超低金利の住宅ローンを持ち続けながら、豊かな財産形成をするのかもしれません。 私には、自分にだってそういうチャンスがあったのに、それをつかむことができなかった自覚があります。だから、それ以上の嫉妬は、自分の中で押し殺してしまおうと思っています。でも、世間の人々はどうでしょう? 都心の高級マンションで恵まれた家庭生活を送るちょっと高めの中堅層の人たちを見て、自分にだってチャンスはあったのに得られなかった世間一般の人たちは、嫉妬を抑えることはできるのでしょうか。 そして、さらにその上に、起業や投機によって大儲けして、六本木ヒルズなどの高級コンドミニアムで女子大生とシャンパンを開けて乱痴気騒ぎする富裕層を見て… やっぱりアベノミクスは間違っていた、金融緩和を主導した日本銀行のエリートは消えてもらっていいよと思う可能性は結構高いと思うのですが、どうなんでしょうか。 ============================== まだ、こんなこと言ってる野郎がいるのか。。 (というより、内閣広報のガセネタの可能性も) 長野で疎開村などやってるワタスにとって、こんな人がいるとは、隔世の感があります。 可愛そうに。。 未だに洗脳から解けない人達がいる。 ワタスはこういう人をカオナシ君と呼んでいます。 ☆ ☆ ☆ このようなカオナシ君の話を聞いて思い浮かぶのは、浦島太郎の話である。浦島は亀を助けたお礼で、竜宮城の過大なもてなしをうけるが、帰ってお土産の玉手箱を開けると、一気に若々しさを失い老人になってしまったわけである。 バブルに投資して、さぞ竜宮城にいるかの気持ちになっているが、果たして現実はどうなのだろうか? ましてや、それを羨んでいるカオナシ君は、浦島太郎というより、花咲爺の悪い爺さんの方というべきか。醜きことこの上ないです。 精神の目、心の目が磨かれていない証拠である。 確かに、そのような生活を羨む気持ちはわからなくもないが、それは所詮、隣の芝生は綺麗にみえるにすぎない。自分にないものを羨んでみても、所詮、ないものねだりにすぎない自己否定になってしまう。というより、表面しかみていない。 非常に滑稽です。それは自分の生き方というものがないからです。 連中の会話をみればよくわかります。それは自分でなくても、誰でもいいといっているにすぎないわけです。ただ、アベノミクスという御伽噺の一つの役割を演じているだけで、少なくとも、自分という個性をもった生き方ではないわけです。仮面舞踏会と同じです。 仮面舞踏会は現実逃避ができるから精神的な意味をもつのであり、それが現実となってしまっては、退屈この上ない退廃です。生きていながら実は死んでいるのです。 例えば、「大理石張りの玄関、しっとりしたフローリングと高い天井のマンションでブルゴーニュの赤を傾けながら」とまるでどこぞの広告の謳い文句で、大理石張りの玄関ともなれば、さぞ固定資産税は高いでしょうし、家が広ければそれだけ掃除も大変でしょうし、高額なワインは、身体に悪い単なるアルコールを偽装しただけの高コストな生活を意味するにすぎません。 夫婦がうまくいっている関係なら、妻はもてなし役となるでしょうが、さっさと子供を連れて出ていることで、カオナシ君らが招かざる来客だったことがわかります。 それにカオナシ君は、美人妻を羨んでいますが、美人は遠くでみるに限るといいますし、美人といっても、老婆になれば、どんどん醜くなるだけで、維持費にいくらかかるのでしょうか? 美人妻が一生美人妻でいるわけではなく、やはり、美人は三日で飽きるともいわれているわけです。つまり、アイドルは糞をしないと信じているのと同じ妄想なんです。 また都心の高級マンションのつきあいほど人間関係が複雑なのはありません。奥さん同士の会話といえば、夫の自慢や息子の自慢などでしょう。だから一戸建てに憧れるわけです。田舎の一戸建ての方が複雑な人間関係よりも遥かにマシです。 なんだか、カオナシ君のオバカさ、その洞察力のなさだけが際立ってしまっています。 むしろ、儲け話しか、人に語れるものをもたない、その人の情けなさに気づくべきでしょう。こんな人間になったらおしまいだなと思わないといけません。霊魂の成長のおしまいです。 儲ける人がいるということは、逆に損している人もいるわけで、いずれ自分も死んで全てを失うということに気づいていないのです。死んでしまえば、儲け話など何の役にも立ちません。 カネで人生をやり直すことはできないのですから。馬鹿らしいですね。そういうオバカさに気づき、個性を育てることです。自分しかできない経験を積むことです。
2014年01月24日
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いつも訪問させて頂いている播州武侯祠遍照院さまのブログで、「黄金の金玉を知らないか?」さまが説く「カオナシ君」というのを知って、マスゴミらの洗脳の強さに驚いてしまった! この「カオナシ君」を、簡単にいえば「自分の人生を生きていない」人のことである。つまり没個性ということである。 以前、シュタイナーの話と絡めて、都市圏の砂糖消費量の少なさから、都市圏の没個性を論じ紹介した。そのときにわかったことは、都市圏ほど没個性で、洗脳されやすく、マスゴミなどが流す出鱈目のゴミ情報に振り回されやすいということである。 そして、その対極にあるのが、自作自農の独立意識で、例えば、砂糖消費量の多い長野県なのである。 都市にいれば、カネを出せば、生活に必要なものを代わりに代行してくれるが、その代わりカネをかせがないといけない。要するにカネの奴隷となる。逆に、田舎にいけばいくほど、独立して生活するので、生きていくには自分自身でなんでもやるしかなくなるわけである。 そうだから簡略化し、逆説的にいうと、都市ではカネの稼ぎ方でしか個性を見つけられないが、田舎では自然に沿って、独立の道は多様に用意され、様々な生き方が個性となるわけである。勿論、昔から分業体制になっている田舎もなくはないが、生活が不便である意味で、個性化の余地がある。 面白いことは、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログで紹介されている「カオナシ君」は、東京から長野にきたというところにある。没個性の土地から、個性の土地にきたわけである。個性の土地では個性が当たり前なので、没個性の人が来ても、帰れといわれるのがオチなのだ! 個性とは、誰それに伝授するものではない。遺伝として既に備わっているもので、それに気づくか気づかないかの問題である。それでも土地の風習からくる砂糖消費量が多くなるかもしれないので、少しは気づくかもしれないが…。 個性とは自分でみつけるもので、他者から与えられるものではない、ましてや、カネなどで、買えるものではない。どんな人も生まれながらにして自己意識をもつように、個性はうまれながらにして見についているものなのである。 だから、金持ちだったら楽なのに、美形ならモテルのに、という願望は、自分の個性を否定し、ますますもって生まれた個性を覆い隠すことになる。 個性とは、自分でしか発見できないことを発見することである。 まず、自分が羨む金持ちや美形にもし自分がなったことを想像してみればよい。それはただ仮面を被っただけで、もって生まれてきた個性を生かすことではないことに気づくはずだ! とどのつまり、自己否定なのである。自己否定から生じるものは、結局、自己否定に終わることに気づいていない。願望どおりの金持ち、美形でいるうちは満足かもしれないが、例えば、金持ちでなくなれば、人生は終わりであり、美形でなくなれば、人生は終わりと否定する余地を生じさせるだけなのである。 なにより人生は、個性を生かすかどうかで自由に生きることができるのに、取るに足らない願望から生じる拘りで、もって生まれた個性を制限し、全否定してしまうことになる。 そういう人には、金持ちでなければ、美形でなければ、人生を生きる意味はないのか?という質問を浴びせたい。生きることを容易く考えてもらっては困る。 ゴキブリだって、ネズミだって、美形でもないのに、一生懸命生きているではないか、そんな考えこそ、不幸の元凶の何者でもない。 そもそも個性を他者に求めるのが間違っている。あらためて考えてみると、職業柄、「カオナシ君」といわれる没個性の人物によく遭遇することがある。特に若者は流行を追いがちなので、没個性なところがある。 「自分が何になったらよいのかわからない」といった発言はその典型である。少しでも親の社会的な暮らしを観察してきたら、そんな発言は出ないはずである。このような発言は大体が親任せの苦労知らずに多い。子供を育てるのにどれだけ労力がかかっているのか、考えてみればよい。 そういう奴には、「何になったらいいのかは、苦労してみて、その苦労が嫌かどうかでわかるだろう」といってやる。 しかし、得意なものがない限りは、嫌だからといって避けることはできない。最低限、生活に関わる苦労は避けることができないからである。魚が水の外では生きていけないのと同じだ。だから、自分でなんでもやってみないかぎりは、何が向いているかどうかなんてわかるわけがないだろう。 学校では習わなかったという言い訳をするアホにもよく出くわす。学校で教わることが全てではない。そういう考えをもつから、学校で習う出鱈目に洗脳されてしまうのである。学校で習うことなど、ほんの一部の最低限度にすぎない。勿論、出鱈目もある。 出鱈目を習うからこそ、その出鱈目を自分で発見することで、自分なりの個性の発見が可能となるのである。要するに学校で習うことは、勉強のやり方であって、真実へのアプローチの一般的な方法である。それを自分なりに個性化するのは自分の役目である。 このような基本を理解していないので、このようなアホ馬鹿は、すぐに答えを聞こうとする。それでは勉強法ではなく、暗記法を習っていることになるではないか? 馬鹿か! そのまま大人になると、自分の人生のことを、他者に聞いたり、問題が生じると、自分で解決せずに、すぐに専門家に聞いて暗記し、洗脳されてしまい、他者の意見の奴隷となり、自分の人生を生きるという自覚がなくなってしまうわけである。 例えば、呆れるのは、哲学(この言葉も問題だが)が、難しい問いを考え出すことだと錯覚している者までいる始末である。哲学は、問いを発することではなく、自分で解決すること、自分なりの回答をみつけることに重点がある。個性の発見である。 このように没個性人間が都会には増殖中で、そのような没個性が都知事選でアホ候補に自分なりの何の考えももたずに投票するから、カネの奴隷になり、自分の人生を生きずに、生活がどんどん苦しくなったと嘆くのである。 そのような「カオナシ君」を、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログから、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ カオナシ君がやってくる 2 http://golden-tamatama.com/blog-entry-1351.html さて、これは1年以上も前の話なのですが。 まぁ、どこの団体でもあることかもしれませんが。 いろんな人に会うと、時々困ったちゃんが来ることがあります。 ワタスが良く言うカオナシ君というか、逆さ人間というか。 以前、こんな記事を書いていました。 カオナシ君がやってくる カオナシ君とは、自分の心の羅針盤がすっかりぶっ壊されて本来の顔がなくなってしまった人です。そう言う人が時々来るのです。 ワタスのブログを見て長野まで来るぐらいなので、陰謀論や現代社会批判は大変詳しい。スピリチュアルだの陰謀だの言ってるのですが、実は、現代社会を批判して抜け出たようでいてまったく抜けきってない。 長野くんだりまで来て、また現代社会とまったく同じ道を歩もうとする人がいます。何かピラミッド的な組織を作って自分達が上に立ちたいという人達でした。 おいおい。 こんな限界集落に来て発展も何もないでしょう。 北海道の夕張市に行って発展したいと言ってるようなもんでしょ。 おバカな価値観を追い求めたければ東京に戻りなさいよ。 ったく。 可哀想に。。 ワタスは、そう言う人を見ると早く治って欲しいと願うのですた。 ワタスが言うカオナシ君とか逆さ人間とはどういう人達を言うのか。 オウム真理教の例を出して、作家の上野千鶴子さんが面白いことを言っていますた。一部、引用します。(リンク先で参照してください。一部抜粋) 他人ではなく自分が自分を評価して生きる新しい時代 『サヨナラ、学校化社会』 上野千鶴子著 太郎次郎社エディタス http://golden-tamatama.com/blog-entry-1351.html 自分の人生に最後に評価をくだすのは、親でも先生でも他人でもありません。自分が死ぬときには、親も先生もこの世にはいない。自分の人生に「ああおもしろかった」「生きてきてよかった」と言えるのは自分だけなのです。だったら、自分が一番納得できる生き方をしてみようではありませんか。 自分が好きなことだけやった結果を第三者が評価しようがしまいが、自分が好きなことだけやって生きてこれたのならそれでOKではありませんか。人に言われたことばかりやって人に頭を撫でてもらう生き方と、人に言われないことを好きなようにやって、自分で「ああおもしろかった」と言える生き方とどちらがいいかなのです。 今の若者たちは、二言目には「好きなことが見つからない」と言います。 しかし親や教師に言われる通りのことをやっているときに感じる違和感の中に、自分がやりたいことのヒントがあるのです。ただそれに確信が持てず、自信がない。誰もそれをサポートしてくれないし、逆に水を浴びせたりする。若者の「好きなことがわからない」を額面どおりに受け取ってもいいかどうかは疑問です。 ある有名校で講演したときに、ある男子高校生が「僕はつまらない学校教育を受けてきたことが、上野さんのお話でよくわかりました。こんなつまらない教育を18年受けてきた僕らは、これからどうしたらいいのだろう」と先生方の前で堂々と発言したのです。私は、「君がそう思ったその時、君はすでにそこから脱しているのだから、これまでの取り返しはいつでもできるよ」と答えました。 本当に好きかどうかはやってみないとわからないでしょう。 やってみて失敗したら、やり直せばいい。それだけのことです。そうやっているうちに、自分はこれしかできないとわかることがあるでしょう。その時は、その道一筋でやって行けばいい。それでも、あれも好き、これもやりたいと気が多かったら、あれもこれもやったらいい。食うためには食うための仕事を必要なだけやればいい。そのためには人さまに役に立つスキルの1つや2つは身につけておいてもいい。 大事なことは、いま自分にとって何が快いか、キモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが「生きる力」なのですから。 いみじくも上野千鶴子さんが言うように。 東京からやってくる逆さ人間さん達。 別にそういう方々を責めるつもりは毛頭ない。 そういう人達は、学校的価値観の被害者だからです。 (確かに学校にも問題はあるが、学校のせいにするのも没個性的意見) 決してあなたが悪い訳じゃない。 (中略) あるがままに。 なすがままに。 疎開村は大きくなんかならない。 どちらかというと、はかなく弱い存在であり続ける。 花はそこにそっと咲いて、励ましてくれる。 やさしすぎて誰も気づかない。 我々は、その波動を広める。 その波動の源になる。 絶対に、この狂った現代社会に飲み込まれたりはしない。 そして一番尊いものは何なのか、多くの人達が気づいてくれるのを待つ。 本当にありがとうございますた。 これは80年代のヒット曲 シャーリーンさんのI've Never Been to Meです。 そして誰もが羨むような幸せを手に入れたけど本当の私がみつからないの ☆ ☆ ☆ つまらない、出鱈目を習ったからといって、無駄にはなりませんし、むしろ、そのことに気づくということが重要なのです。教師が「つまらない」といったのを、「つまらない」と受け取る感性こそ、「つまらない」のです。 「先生はそういったけど、自分はどうだろうか?」と思うのが、明日をつくる学生の個性なんです。
2014年01月24日
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物理学とはわかりやすくいえば、予測するための法則をみつける学問である。だからぶっちゃけていうと、占術に近い。そこに金銭が絡むとギャンブルになる。ギャンブルは、金銭をかければかけるほど、ある意味、予想に生活をかけているわけだから、自分の予想に責任を帯びてくる。 天気予報や経済予想は外れて謝っても一銭も損しないばかりか、それで給料をもらっているから、占いもひっくるめて、ギャンブルより遥かに劣る。天気予報や経済予想は外れても、多少は人気が落ちるだろうが、給料が減るわけでもない。だから、金銭をくれるほうに靡く予想をするようになる。要するにヤラセである。 儲かる占者というのは、客が悦ぶでまかせのアドバイスをいって洗脳する輩である。つまり、予想をしているというより、金銭や権威に阿り、奴隷となっているにすぎない。 何がいいたいかというと、不正のないギャンブルほど、それだけ真剣に予想できるということを強調したいだけである。ギャンブルのなかでも、馬という動物が絡む競馬ほど人為的に操作できないものはないと思うから、競馬の予想ほど難しいものはない。 だから我輩は競馬をすることで物理学の予測のカンを養っているわけでもある。 というわけで、茶番を楽しむという意味で、都知事選を、競馬予想風に考えてみたい。 血統背景は不明だが、予想新聞が印(本命、対抗というシルシ)をつけるので、マスゾエが現段階で一番人気となっている。対して、予想新聞がほとんど印をつけないので人気はないが、過去の都知事選の獲得票から対抗馬となるのはウツノミヤだった。そして血統背景から一部の層に過剰人気しているのが、タモガミというわけである。 そこに後から出走表明し、有名オーナーの支援をうけたのがホソカワである。 このようなレースの場合、あくまでギャンブルとして考えるのなら、実力があるのに、人気が低い候補にかけるのが最も良い配当を手に入れることができる。 つまりは、都知事としての実力を発揮できるのはどの候補なのか? であり、最も損失を蒙るのは、人気だけしかない客寄せパンダにかけてしまうことである。 人気よりも実績が上の候補を選ぶのがよいわけである。人気なんてものは、上がったり下がったりで、いいときにかければ、落ちるだけである。不人気なときにかけるから、利益が得られる。 だから、例えば、同じ実積なら、人気がないほうがよいことになる。そこで、これら候補の公約(主張)とその実現性を考えてみる。以下は他サイトからの抜粋である。 ☆ ☆ ☆【細川護熙氏】・東京五輪=簡素な五輪実現。東北地方で関連行事を開催・防災=大規模災害発生時の帰宅困難者対策や建造物の耐震化対策を充実・原発=原発再稼働に反対。省エネと再生可能エネルギー活用で「原発ゼロ」での成長実現・社会保障=子どもと高齢者にやさしい都市モデル構築。待機児童ゼロを達成【舛添要一氏】・東京五輪=史上最高の五輪に。渋滞解消や大気汚染対策も推進・防災=最悪の事態に備え、災害に強い街づくりを展開。老朽化した首都高改修も実施・原発=原発に依存しない社会の実現。都内での再生可能エネルギー利用拡大・社会保障=高齢化対策として介護や医療を充実。子育て環境も整備【宇都宮健児氏】・東京五輪=環境に配慮したシンプルな五輪を実現。競技施設の規模縮小も検討・防災=首都直下地震に備え、建造物の耐震化などの減災対策を重視・原発=原発再稼働に反対。原発のない社会と経済を東京から実現・社会保障=75歳以上の医療費無料化や「ブラック企業」の規制強化を検討【田母神俊雄氏】・東京五輪=危機管理を重視し、政府と共に万全なテロ対策を実施・防災=首都直下地震に備え、自衛隊を中心とした救助体制を確立・原発=十分な安全確保を前提に原発を利用・社会保障=救急医療体制の整備や孤独死防止対策を実現(2014/01/22-21:12) ☆ ☆ ☆ 上記を項目別に「予算をかける」と「かけない」に振り分けると。 予算をかける かけない 東京五輪 舛添、田母神 細川、宇都宮 防災 細川、舛添、宇都宮、田母神 原発 田母神 舛添 細川、宇都宮 社会保障 細川、舛添、宇都宮、田母神 と大まかに分けられる。 この大まかな表でもわかることは、舛添、田母神は予算をかける一方なので、財源の問題をクリアしない限りは、都民税が上がる可能性が高いということである。つまり口先だけで、現実感に乏しいといわざるをえない。 対して、細川、宇都宮は、原発の予算を防災、社会保障にまわすという選択もとれることがわかる。原発依存に対しては、昨年の夏場の時期に、原発稼動せずに、節電で充分賄えることがわかっている。 次に、各候補が主張する公約が守れなかったときに、どれだけ言い訳に近いものになっているか、つまり、どちらともうけとれる官僚特有の曖昧表現になっているかを考えてみる。要するに、どれだけ逃げ道をつくっているのか、である。 特にその典型は、舛添の原発に対するどちらともとれる曖昧な表現である。「原発に依存しない社会の実現」は既に節電でなされていることで、何を今更述べているのかわからないから、不勉強で現状認識に甘いということを示している。 田母神においては、「十分な安全確保」ができていない現状を、これからどのように安全確保するのかを述べないといけないから、妄言に近い。具体性に乏しい表現だらけなのである。 特に「自衛隊を中心とした救助体制」と述べているが、都知事の権限で、国の自衛隊を救助の中心にすえることは、他の地方の公共団体(警察庁、消防庁、海上保安庁)との整合性がとれないし、憲法の文民統制の自衛隊を指揮する総理大臣の権限が宙に浮いてしまい、越権行為とみなさざるを得ない。 では、更に細かくみていくと、 細川氏 東京オリンピック簡素化は少し曖昧だが予算をかけないということはわかるが、東北で関連事業を行なうというのは東北の知事との整合性が問題となるから、実現性が乏しい。 防災については、石原都知事のときからいわれていたことと同じで、目新しさは感じられず、同じことをいうのなら、前知事が公約をいまだ実行していないという批判になる。つまり前知事は公約を履行していないということになる。 現状は原発が稼動していないのだから、東京電力の主の株主として、東京には原発は必要ないということは可能であり、省エネを実現化させる政策を述べるべきである。「再生可能エネルギー活用」については非常に曖昧な表現なので、具体性が乏しく、実現性の見込みはほぼない。せめて現状の火力発電の効率を上げるとかの政策を述べないと公約の意味がない。 社会保障については、財源に言及しておらず、「待機児童ゼロを達成」については、前知事や、国の政策として既に掲げてあり、目新しさはゼロである。つまり何も細川氏でなくともよく、前知事の批判や国の批判であり、実現性もゼロである。 以上をまとめると、予算をかけないという意味の東京オリンピックの簡素化と、原発を再稼動させずに、省エネ対策を推進するということだけが実現性が、60%というところだろう。 舛添氏 「史上最高」の意味が不明だが、過去の他国の五輪と比べてという意味だと、予算規模が増大になることが予測されるから、都民税が確実に上がることを意味する。更に「渋滞解消」や「大気汚染対策」に予算をとられるから、五輪の準備に、他の予算が縮小されるか、増税ということになる。 防災についても、予算規模を増大することになり、財源の問題をクリアにすべきである。「災害に強い」という表現も極めて曖昧で、「老朽化した首都高改修も実施」は何も目新しいものではなく、既定路線を述べているにすぎないので、前知事の批判ともとれる。 原発、社会保障についても、いままでと全く同じで、目新しさなし、むしろ、前知事とどう違うのか、聞きたいところである。 以上をまとめると、五輪と防災に予算を増大させるので、財源をどう確保するのか、税金を上げるのかの説明が必要なので、しかも増大させる根拠も怪しく、実現性はほぼ0%というところだろう。恐らく原発再稼動に対して曖昧な表現なので、再稼動については実現性が非常に高いように思われる。東電と心中路線といえる。 宇都宮氏 五輪縮小、防災、原発についてはほぼ細川氏と同じ(私見だが、細川氏が宇都宮氏潰しのために、パクったように思える)。五輪縮小については、細川氏より言及しているが、JOCとの利権が絡むので、調整が必要なため、都議会をどこまで説得させられるかの手腕が求められる。 細川氏との大きな違いは社会保障の「75歳以上の医療費無料化や「ブラック企業」の規制強化を検討」だが、医療費無料の財源をどうするのか、また「検討」という表現はいかにも官僚用語で、実現性に乏しい。 以上をまとめると、細川氏とほぼ同じで、五輪の縮小の実現性は60%で、原発再稼動については、細川氏のようにアキレスケンをもたない意味では、再稼動を認めない実現性は、80%に近いように思われる。後は都議会次第。 田母神氏 語るに足らない妄言ばかりで、どれも実現性ゼロに近い。どこかの新聞の社説をまとめたもので中学生並みの文章といえる。不勉強が甚だしい。候補資格なしといわざるを得ない。 他にも都知事立候補者はいるが、話にならないことはいうまでもない。都民の税金を預かる身分なので、真剣に都政を考えてほしいものである。 都民ができることは、人気だけで、実力はほぼゼロに等しい客寄せパンダを選ばないことである。客寄せパンダは、上野動物園だけで充分である。このような連中は、せめて今度は競走馬にでも生まれ変わって、八百長でないギャンブルの肥やしにでもなるべきである。
2014年01月23日
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続いて、原発推進のシナリオに乗せられていることがわかる話を以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 細川氏はなぜ出馬したのか http://hakurakutenn.janken-pon.net/%E9%9A%8F%E6%83%B3%EF%BC%88%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%EF%BC%89/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%87%BA%E9%A6%AC%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B 「晴耕雨読」から転載。 非常にまっとうな考え方だと思う。 私も、「宇都宮氏では勝てないだろうから、今回は細川を支持しようかな」などと考え、そのように書いたこともあるが、我ながら馬鹿である。下の想田氏のような明晰な発言を読むと、頭のいい人にはかなわないなあ、と思う。 だが、世間の人間の大半は私と同様に、「宇都宮に投票して死票になるよりは、仕方がないから細川でいいか」と考えるのではないか。あの頭のいい「反戦な家づくり」の山岸飛鳥さんもそれに近いことを言っていたはずだ。 ところで、細川のお殿様が出陣しなければ、宇都宮氏が勝つ可能性ははるかに高かったのではないか。 何しろ、相手は枡添に田母神である。変質者に極右の二人に投票するのは、闇雲に自民を支持するだけの阿呆や拝金主義者ばかりだろう。東京都民の中にそういう人間が過半数を占めているとは考えにくい。宇都宮氏の勝つ確率はこの相手なら6割以上あったのではないだろうか。 とすると、細川のお殿様の出馬は、これはジャパンハンドラーズか何かによる「敵側都民分断工作」だったと見るのが正解なのではないだろうか。そして、その工作はおそらく大成功するだろう、と私は見ている。 推理の対象としては、現実は推理小説などよりも面白いが、現実世界では、庶民は常に殺され、奪われる被害者役である。そして、「悪い奴ほどよく眠る」わけだ。 もちろん、この推理が外れて、細川や小泉が「頼りになる正義の味方・庶民の味方」にいつのまにか生まれ変わっていたという話なら嬉しいことだが、私の勘では、それはなさそうである。人間の本性というものは、まず変わらないものだ。 もっとも、「原発即時廃止」については、当選したら細川はそれらしい活動やリップサービスはたくさんするだろう。そして「官僚の壁」の前にやむなく撤退、というシナリオがすでに書かれているのではなかろうか。そして庶民は「細川氏は頑張った」「官僚が悪いのであり、細川氏に罪は無い」と思うことだろう。 かくしてこの世界を操る連中にとっては「世はすべて事も無し」となるわけだ。 (以下引用) 「分からないことは空欄にしておかないとダメですよ:想田和弘氏」 世界経済のゆくえ https://twitter.com/KazuhiroSoda 脱原発候補に勝たせるためには細川氏に一本化し、宇都宮氏は降りるべきと主張する方々は、なぜ細川さんにそこまで信を置けるのか僕には謎だ。 (詐欺師コイズミがゼロ原発といっているのに…。現実的な話なら、ゼロ原発にする予算はどうするのか?と聞くべきである。妄言である。反原発陣営が騙されているのはしっかり反原発を考えていない何よりの証拠。) 細川氏が政策を発表しておらず、再稼働を容認するかどうかもはっきりしないのに。 細川氏の心が読める超能力者なのだろうか。 もし宇都宮さんに「一本化しろ」と迫り、宇都宮さんが降りちゃった後に、細川氏が「原発ゼロを目指すが当面の再稼働は容認」なんていう腰砕けの政策を発表することだってゼロではないわけで。 人気blogランキング 一本化を主張する方々は、そういう可能性を考えたりしたのだろうか。 いずれにせよ、細川氏の細かい政策は彼自身の政策作りが遅れているせいで、公示日前日まで分からない。 細川氏は宇都宮氏からの対話要請にも応えていない。 それなのに一本化するのは現実的に無理。 その責任は宇都宮氏にはもちろん一切無い。 これだけははっきり申し上げておきたい。> 営業実態がイマイチ良く解らない会社の株を「これ上がります!」と、何も考えずにドヤ顔で勧めて来る方々とどこか重なります。 なるほど。 あと、一本化すべきと主張する方々の多くは、ふだんはおそらく「選挙は政策本位ですべき。知名度頼りの人気投票では民主主義が形骸化する」と唱えているのではないかと思う。 その原理原則は簡単に曲げてもよいものなのか?> 宇都宮さんを応援しながらも、正直迷っています。自民党に席をとられるくらいなら、政策も知らないけれど、脱原発を提示している細川さんに望みをかけるとう あの橋下徹も脱原発を口だけでは言ってましたからね。 すぐに転びましたが。> 橋下さんと細川さんの脱原発発言は同じ重さと考えてよいのでしょうか。 もしかしたらちゃんとしてるかもしれない。 でも、現時点では分かりません。 あなたは信頼のおける人かどうか分からない人に大金を預けたりしますか?> 殿様は、東京版「維新の会」だったのかw いやいや、それも分からないんですよ。 ほぼ何も分からない状態。 なのになんでみんな決めつけられるのか、僕にはホントに分からない。> それこそ何の根拠にもならないただのネガキャンでは? 現時点で信じるのは無謀だと言ってるだけですが。> 大金を燃やすと分かっている人に渡るくらいならば、燃やさないでくれるかもしれない人に預けるかもしれないです…すみません。 そうですか、僕なら信頼できる人に託します。> 詳細な政策発表なし、有名な名前を連呼。 想田和弘監督の映画「選挙」を思いだす。 鋭い連想。 自分の映画だから言う訳じゃないが、いまこそ『選挙』を観ていただきたいんですよ。 あのときは「小泉改革」という魔法の呪文を唱えれば誰でも当選したでしょう。 いまの状況とぜひ見比べて観ていただきたい。 恐ろしくなるから。> 分かります。しかし細川氏へのネガキャンは安倍らの歓迎するところ。今回は舛添が勝てば、日本の平和憲法、民主主義は「一旦終了」という瀬戸 ネガキャンじゃないでしょうに。> 質問です。宇都宮健児が選挙に勝って脱原発を進めるか、細川が公約を守って脱原発を進めるのか。 どちらが可能性が高いでしょうか??? 細川氏の公約の内容さえ分からないので比較のしようがない問題です。> それと、仮に細川が当選を果たした後に、公約を撤回したとしても、東京都民が脱原発を進める候補者を選んだ、現在の自民党の政治に「NO」を突きつけた、という事実は残ります。 細川氏が自民党政治にNoかどうかは分からないです。 分からないことは空欄にしておかないとダメですよ。 空欄のままでおくのが耐えられなくて勝手に妄想して結論出しちゃうから、いろいろとおかしなことになる。> ぎりぎりまで内容を伏せて期待を煽る「ティーザーキャンペーン」、自動車では昭和41年にトヨタ初代カローラが。非常に歴史ある手法ですね。先行した日産サニーを潰すのに使った。> 私見ですが、一本化すべき(宇都宮氏が降りるべき)という人たちは、「脱原発の実現」と「脱原発派の勝利」を混同していて、かつ、後者を優先しているんだと思います。結局「勝ち負け」で考えてるんじゃないでしょうか。この話 ですね。> 一応、こういう記事は出ています。細川氏、安倍政権への懸念強調 http://t.co/ccUnFUl0Qe もちろん知ってます。 しかしそれはまだ公約ではありません。 候補者の口から出た言葉でもない。 ☆ ☆ ☆ 「やってくれそう」という幻想や期待感に騙されてはいけない。そのような幻想や期待感は妄想であるからで、詐欺にかかる術中に嵌るだけなのである。
2014年01月23日
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イシハラの如き売国奴がやっていたアホ草の都知事選挙のことはどうでもいいと思っていたのだが、日本の独立を阻み、首都機能も麻痺させるようなニセユダのジミン傀儡政権が台頭するにあたり、しゃれにならなくなってきたので、連中の策略を見破る話を紹介したい。 イノセを賄賂で除外しておいて、イノセと同じアキレスケンを抱えているホソカワをなぜ出してきたのか、考えれば、事の真相はよくわかる。イノセは、「我々のいうことを聞かないと、このようになりますよ。」というホソカワへの見せしめになるわけである。 だから、ホソカワが「ゼロ原発」を声高く唱えようが、アキレスケンを抱えている限り、その実現性は遥かに乏しいといわざるをえない、単なる客寄せパンダにすぎないことがわかる。 このことは、国民の大半が肩透かしを食らった過去のホソカワ政権退陣のときを思い出せば容易に歴史から学べるはずである。 それに米国資本家に国民の財産を貢ぎ、日本の企業の大半をハゲタカに買収させ、国民の生活をどん底に落とした全く信用のおけない妖怪コイズミが裏で糸をひいているのだから、一度騙された人は、何度も騙されることが、日本の国民によくあてはまることがわかる。 日本人の大半は、自らの頭で、日本史を学ぼうとせずに、権威者の提灯持ちの自称専門家の嘘つきたちの言葉を鵜呑みに、洗脳されていることがわかる。 日本人かどうか不明で、ジミンから除名されたのに、ジミンの推薦の得体の知れない蜃気楼のようなマスゾエでは、危ないのではないかと、極右のトンデモのタモガミをだし、マスゾエは禿だが、同じ禿のこいつよりはマシですよと、票固めをしようとしたが、かえって国民の不信を招き、ホソカワというどっちにころぶかわからない人物をだしてきたと思われる。 要するに宇都宮潰しがよくわかる。というのもイメージの悪い共産党が推薦しているからである。共産党が万年野党と唱えているのも、支配者と陰で通じて、独立しそうな気配を察知して前もって取り込んで潰すためであることが予想されるからである。 しかし共産党はゾンビのような政党で、政党というのは政権をとって政策を実行するために存在するわけで、そのようなことを放棄するのなら、そもそも政党の意味をもたないから、即座に解散すべきである。解散せず、党名を変えないのは、次はこの候補を叩く番ですよと、マーカーを貼るような役目をしているからだろう。 しかも、ここにきて反原発の一本化で、全く信用のおけないホソカワにしろなどという暴論まででてきたのだから、反原発陣営はなめられたもんである。コイズミなんか口からでまかせで「ゼロ原発」なんて言っているにすぎない、反原発実績ゼロの輩である。むしろ、原発推進実績の方が大きいのだから…。また詐欺師がツリの儲かりますよといっているにすぎない。 全く茶番である。 さて、その茶番劇がわかる話を御馴染みのサイトより以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ ユダ金=政府=裏社会の都知事選への思惑と田母神俊雄の正体 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/ 昨日、都知事選のここまでの経過を簡単にまとめましたが、愉快な裏社会のみなさんは、どうやら本気で田母神氏を都知事にしたいようですw ▼都知事選の現在までの経過 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140119/1390133421 ▼ユダヤ朝鮮裏社会がマジに田母神を不正選挙で当選させようとしているようです。 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_100.html もう、戦争捏造&ハイパーインフレ捏造&新通貨発行のトリプルコンボしか、打つ手のないユダ金ちゃんですが、いくら何でもダボハゼは・・・(笑) 敵さんですが、まずはいつものように、マスコミ部隊を使って、インチキ・アンケート&世論調査で世論誘導を開始しています。 影響力の小さそうな媒体を選んでいるのは、まずは、試し撃ちで政治的覚醒者達の反撃とB層国民の反応をうかがっている訳ですね。 ▼田母神氏がトップ 都知事選アンケート http://www.peeep.us/a81d04d3 ▼田母神氏、断トツ本命!? 都知事選アンケートで異変 8割以上の票集め… http://www.peeep.us/f18aea76 ▼「都知事にふさわしい」田母神氏がぶっちぎり1位 ラジオ番組アンケート http://www.peeep.us/140b4d98 なんと、田母神氏は、日刊スポーツのアンケート調査で1位、ラジオ番組のアンケートでは、8割の票を集めダントツ1位だったとか! 誰が見ても分かるような、裏社会の気色悪い戦争担当者ばかりの寄せ集めが、ぶっちぎりで1位??? あんまり笑かすんじゃねーぞ(笑) ▼都知事に選立候補した田母神俊雄陣営に、裏社会戦争担当者が集結! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140109/1389238751 で、国民のそんな嘲笑が田母神ちゃんに届いたからでしょうか? ついに、こんな大切な事をバラして墓穴を掘ってしまいました! 田母神陣営が“泡沫候補”扱いに反発「我々は安倍首相の嫡流だ」 東京都知事選に出馬する元航空幕僚長の田母神俊雄氏(65)の陣営が安倍首相の嫡流を宣言している。 田母神氏は13日に都内で政治資金パーティーを開催。600人以上が駆け付け、支持を確認した。パーティーは盛況のうちに終了。しかし、マスコミの取材はそれに見合うほど多くはなかった。 陣営からは恨み節も出ている。選対関係者は「大手マスコミに無視されていますよ。扱われても泡沫候補みたいに、チョロっと名前が出るくらい。実際にほかの候補者と政策を比べてもらえれば、田母神しか残らないはず。流れは来ていますよ」と訴える。 田母神陣営には「我々は安倍首相の嫡流だ」(前出の関係者)との自負がある。12日に秋葉原で街頭演説をしたのも安倍氏を意識してのことだ。安倍政権が誕生することになった衆院選で安倍氏は最後の演説を秋葉原で行った。昨年の参院選もそう。安倍自民党にとって秋葉原は“聖地”なのだ。このとき日の丸で埋めつくされた聴衆の中に、田母神氏支持をしている人たちもいた。 「安倍さんが秋葉原で演説したときの光景を我々は知っていますから。今後も秋葉原で演説することは考えています」(同)。今回、自民党が支援するのは舛添氏だが、舛添氏と秋葉原には接点がない。聖地演説による“ゲン担ぎ効果”は田母神氏が独占しそうだ。2014年01月16日 08時00分http://www.peeep.us/868d9ca2 なんと、田母神ちゃんたら、あの安倍晋三ちゃんの嫡流だそうです! って事は、3代前から米国ユダヤ金融資本の工作員って事? それとも、日本人のフリした偽日本人って事? それとも、ホモ仲間って事かな? とりあえず、田母神ちゃんの周りに集まっているのを見ると、デヴィ夫人にアパホテルの社長、色とりどりのエセ右翼・・・ おー!なるほどー。 安倍ちゃんと同じ田布施人脈の嫡流って事かー?w ▼TPP参加表明の強行と田布施人脈と明治維新の真実 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130315/1363316406 ▼安倍晋三と岸信介と統一教会 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120927/1348754351 ▼統一教会と創価学会、そしてCIAの関係とは? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120120/1327020002 ▼ユダヤ米国と偽日本人と秘密保護法案の強行採決 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131126/1385429396 ☆ ☆ ☆ 日本の国民ほど騙されやすい人々はいないとニセユダは思っているでしょうね。喉もと過ぎれば熱さを忘れる、忘れやすい健忘症の国民性をもつのが日本人なのだろう。
2014年01月22日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 将軍は彼(家光)の家系(徳川家)も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった! 常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。 1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。古き敵に対して復讐するために、外国勢力を使って、1868年の革命(明治維新)を作り出した。 (ペリーはメ-ソンリーで、中国大陸での麻薬貿易のために、日本に開港を要求したが、当時、親中国大陸の朝廷は拒否したが、幕府が強引に押し切ったようである。) 徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。 (幕府は開港したのに、裏切られた形となった。メーソンの策略に嵌ったといえる。ニセユダが使う両党立ての典型で、いまの共産主義と資本主義と同じ。) 将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。 1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された! 1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。 この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。 彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国〔1895年〕、ロシア〔1905年〕に対する戦争を起こさせた。 (天皇の軍隊をつくったのがイエズス会) 北京の満州(清)王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。 1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。 ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち〔イエズス会の兵士たち〕は、米国と日本の間の戦争を作り出す。 フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。 〔米国〕議会は、この謀略にうまく嵌められて、対日宣戦布告を議決する。 天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。 そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。 (米国のATMと呼ばれている。) 断想The Vatican Holocaust-Part IVLike the brand and concept of "New World Order", the brand "Illuminati" has a history dating back to Jesuit Adam Weishaupt (1748-1830) who first coined the term Illuminati in the publication of his secret Jesuit manifestos concerning secret "cells" of Jesuit priests hidden in society and how to use this apparatus to overthrow governments. He is the father of the Secret Society of Terror Model from which all successful terrorist organizations from the French revolution to the 9/11 Hijackers are based. 日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは “大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。 敗戦革命を遂行した「IPR」に集う貴族達の実態 ⇒「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。 『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、 獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。 ⇒東京大空襲の中、在日ユダヤ人達はなぜか堂々と生き延びている。当時の在日ユダヤ人達はどの機関から情報を入手したのか知らぬが、東京大空襲の爆撃を逃れる地域が米国の守っていた当時の基督の教会であったと当時から知っていた。⇒IPR太平洋問題調査会研究所Research Institute for IPR (Institute of Pacific Relations)の真の目的は、日本を国際協議に参加させて戦争を勃発させて、国際闘争を計画し、日本を潰すという多国間会議の調査機関であり、その役目は日本文化の徹底調査と「自演戦争」の開発である。 チュチェ思想研究の武者小路公秀の愛弟子が猪口邦子議員であり、小泉チルドレンである。参加者の大半が超一級の知識人と財閥系の貴族的人々である。 イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して、何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。 Check Out The Facts & Evidence http://mygodimhit.com/jboys.pdf (PDF) The stated goals of the Jesuits are to crush the protestant reformation and put all humans on Earth under the rule of the Vatican Pope. This reality is not a conspiracy theory but a fact. Check out the facts and evidence. The Jesuits are the true master terrorists with the most powerful weapons of mass destruction on Earth. 1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。「切支丹〔イエズス会〕は、致命的に危険な教義を海外に広め、仏教を根絶し、日本の政府を打倒し、 彼ら自身を全帝国〔日本のこと〕の主人たらしめるために策動して来た」 ☆ ☆ ☆ というように、イエズス会の侵略はキリシタン大名を通じて行なわれ、その代表は信長だが、八切史観では、イエズス会の資料から、本能寺の信長殺しの犯人は、家康となっているそうで、だから、八切氏は、黒幕が家康で、実行者は斉藤利三と述べている。 しかし、上述のようなイエズス会の隠された目的である日本侵略を考えると、家康だけではなく、イエズス会も関係したように思われる。イエズス会の資料には、信長が、西洋船の先端に神の像があるのをみて、安土城に同じ神の像をつくり、自分の像として崇めさせたので罰が当たったというようなことも書かれているそうだが、この記述などはイエズス会の関与を疑わせる怪しいものである。 八切史観によると、信長は、本能寺で、当時最新のマカオ経由の火薬で、爆殺されたそうで、死体が残っていなかったのもそのせい。信長の墓があるという反論は、信長は反仏教の思想の持ち主なので、墓があるのはおかしい。だから、信長の墓は後世の商売道具としてつくられた偽者らしい。 坂本龍馬(才谷梅太郎)の暗殺も以前紹介したが、龍馬(才谷)は仏教徒で、キリスト教をけしからんとした書物だけが残っているというから、後世に伝わる龍馬の話のほとんどは、メーソン御用達の三菱の創作に思われる。宮本武蔵と似たようなもの。 このように日本史の裏事情には必ずイエズス会やキリスト教絡みの話に遭遇する。そこで、イエズス会が、日本でどのような活動をしていたかがわかる話を続けて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 奴隷制擁護〔NWO〕VS 豊臣秀吉とリンカーン 中川氏 NHK --- 誰が秀吉、家康になるか 以下抜粋THE SECRET HISTORY OF THE JESUITS By Edmond Paris ScribdThe following year,the Fathers settled at Nagasaki.They pretended to have converted 100,000 Japanese. In 1587, the internal situation of the land, torn apart by clan wars, changed entirely. "The Jesuits had taken advantage of that anarchy and their close relations with Portuguese merchants." Hideyoshi, a man of low birth, had usurped power and taken the title of Taikosama. He distrusted the Jesuits' political influence, their association with the Portuguese and their connections with the great and wild vassals, the Samurai. In consequence, the young Japanese Church was violently persecuted, six Franciscans and three Jesuits were crucified; many converts were murdered and the Order was banished.Nevertheless, the decree was not carried out. The Jesuits continued their apostolate in secret. But, in 1614, the first Shogun, Tokugawa Ieyasu,became uneasy with their occult actions and the persecution started again.Besides, the Dutch had taken the place of the Portuguese at the business' counters and were closely watched by the government. A profound distrust of all foreigners, ecclesiastics or laymen inspired from then on the conduct of leaders and, in 1638, a rebellion of the Nagasaki Christians was drowned in blood. For the Jesuits, the Japanese adventure had come to an end, and was to remain so for a long time. 安野眞幸氏『バテレン追放令』 以下抜粋 豊臣秀吉 演説 天正15年〔1587年〕6月19日 この教は 悪魔の教で 一切の幸福を破壊するものである。またパードレ(伴天連)達は 大いなる欺瞞〔ぎまん〕者で、教を説くを口実として人を集め、後に 日本において大なる変革を起こさんために来たものである。 彼らは狡猾にして博識の人であり、穏やかな言葉と人を欺く議論をもって、日本人の心を引き付け、多数の大身及び貴族を欺いた。もし智慧なくば 彼自身欺かれたであろう。パードレ(伴天連)等が巧妙なる言葉と尤もらしき理論のもとに欺瞞を隠したことを初めて発見したのは彼で、 もし彼らの企画を抑制せざれば、大阪の坊主が一向宗を説くといふ口実のもとに多数の人を集めた後、領主を殺してその地を収め、大なる領主となって、天下の君である信長を大いに苦しめた如くなるであろう。 パードレ等は 大阪の坊主の如く下賎の人のみを引き付けず、日本の頭立った領主及び貴族を引き付くる故、自ら領主となることは容易で、大阪の坊主よりも 更に危険である。 彼等はキリシタンとなった者を団結せしめ、キリシタンは皆 パードレを尊敬し心服している故、時を待って天下の君に叛起することは容易であり、大なる戦争が起こり、日本は これに苦しむであろう。 パードレ=バテレン=伴天連 キリスト教が日本に伝来した当時のカトリック宣教師の称 バテレン追放令 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4 徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉 乙篇』 以下抜粋 五箇条の詰問〔現代文に編集〕 第一 なぜ秀吉の臣下を、耶蘇教〔ローマ・カトリック教〕に強制するのか 第二 なぜ宣教師らは、その門弟・教徒を勧誘し、神社仏閣を破壊するのか 第三 なぜ僧侶を迫害するのか 第四 なぜ彼ら及びポルトガル人は、耕作に必要な牛を食用とするのか 第五 なぜ耶蘇会〔=イエズス会〕支部長コエルホは、日本人を購買し奴隷としてインドに輸出するのを認容するのか イエズス会支部長コエルホは、答弁の書付を差し出した。秀吉はこれを一覧するや否や、コエルホに向って平戸に退去を命じ、すべての教師らを糾合し、6ヶ月以内に日本国内を立ち去るべく言い渡した。 秀吉がイエズス会に向かって打撃を加えたのは、無理でもなく、無体でもなく、無法でもない。吾人(我々)はむしろ 秀吉の先見の明に感謝せねばならない。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月22日
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以前、「渡部悌治」という人のユダヤ研究を抜粋紹介したが、その内容を簡単にいえば、先の2つの大戦は、偽ユダヤによっておこされたというものである。先の大戦中、日ユ同祖論が流されたのは、どうやらフリーメーソンの策略のようである。 自称ユダヤ人がユダヤ人でないのは、十戒を守らない(金貸しは御法度;キリストが神殿から金貸しを追放したのは有名)その振る舞いからも明らかであるが、さらには、ユダヤ人であるならば、モーセの三種の神器を継承しているはずだが、それが何であるかを、示すことができないのだから、子供騙しもいいところのお笑いものである。 ユダヤ人でないものが、ユダヤ人の振りをしている。ここに日ユ同祖論の裏がある。 以前紹介したが、ユダヤは、古代ヘブライ語では、「ヤウーダ」、「ヤダー」で、日本語の「ヤハン」、「ヤパン」、つまり八幡、八咫のことで、次の意味を持つそうだ。 「知れ」、「偲べ」、「親しめ」、「感謝・感恩」、「頌栄賛美〔しょうえいさんび〕」 ここから、八幡、八咫の鏡は、「この鏡を見る事、われを見るごとくにせよ」という意味をもつそうである。 鏡をみている自分の姿(自己意識)こそが、神(自己意識)の生き写しなのである。 ここから、古代ギリシアのフィロソフィの学院では、「汝、自身を知れ!」という教えが伝えられたのである。 八咫の鏡に記されているとされる「エヘイエ アシェル エヘイエ」は、「あなたの人生(生)を通じてわたし(神=愛)をみつけなさい。」という意味に思える。 というように、日本語には古代ヘブライ語の意味が隠されていることがわかるが、自称ユダヤのニセユダヤにはそのようなところが全く見えないばかりか、以下のような、「渡部悌治」氏の話すらある。 以下にあるサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 遠くを見つめて http://denik-bise.blogspot.jp/2009/03/blog-post.html ザビエル=ローマ法王の僧兵団(イエズス会)の一員 渡部悌治〔わたなべ ていじ〕著の『ユダヤは日本に何をしたか』 以下抜粋 ローマ法王の工作員、ザビエルの挑戦 ザビエルは--黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ教王の領土にするための--尖兵〔せんぺい〕だった。 西暦1549年のフランシスコ・ザビエルの来日は、キリスト教の福音を伝えるものなどではなかった。異教・異端の国々や 民族を殺戮して滅亡させることを目的としたものであった。彼らは ローマ法王の国盗り軍隊であり、その名をイエズス会「イエスの軍隊」と称していた。 ポルトガル軍隊とスペイン艦隊による日本攻略の尖兵たちの狙いは「黄金の国ジパング」掠奪で、ザビエルは、カトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請〔ようせい〕によるものであった。 彼は ローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏〔かんり〕全ての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。 インドにおいて 土民(原住民)をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し従わない者は惨殺・焚刑〔ふんけい=火あぶりの刑〕に処した。富裕の者の財産は強奪して、僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。 多くの民衆をキリスト教の勢力化において支配すること、魂を支配することによって、政治的・経済的支配を確立しようというローマ法王の一貫した勢力拡張政策をとった。 天文18〔1549〕年 夏 日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジパングの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆〔しゅっぱん〕した。 彼(ザビエル)の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもザビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。いずれも日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人(原住民)を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには 島原の民百姓を煽動して 大乱を起こさせている。 しかも 原城に立て籠〔こ〕もって死んだ遺骸〔いがい〕には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も1人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽〔あお〕るだけ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。 (八切氏によると、島原は、幕府の硝石輸入の拠点で火薬基地だったという。) 日本は敵に対する防衛の策に出たのである。それを「切支丹迫害」とは何ごとであろう。異端の地インドにおけるポルトガル宣教師らの土民(原住民)虐殺と財宝奪取、南米太平洋諸国のスペイン宣教師の手引きによるスペイン軍隊たちの人民殺戮と 財宝収奪とは、歴史上顕著な事実であり、西欧諸国のキリスト教宣教師らによる先導によって植民地占拠がなされた事実も覆い隠すことはできまい。 しかし、そのようなことは日本においては果たすことはできなかった。 (太平洋戦争で果たされたといってよいかもしれない。) その理由は下に示すイエズス会のドン・ロゴリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書に記すところである。 「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし。」 と、敵情報告に判断を付して諜報している。この書翰〔しょかん〕に見るように、キリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員であったのだ。 日本をまずキリシタンにしてしまってからキリスト教国の属国として占領してもよく、キリスト教国の属国として占領してからキリスト教化してもよかったのである。 伝道とは、わが国に戦いを仕向ける挑戦であったのだ。キリスト教側は、ザビエルの来日を日本に対するキリスト教の第一次挑戦だといっている。武力占拠は断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を 公許さえる方策に出たのである。いずれも 日本乗っ取りの方策の謀であった。 キリストの居ない”キリスト教” 高橋五郎氏『スパイ「ベラスコ」が見た広島原爆の正体』 以下抜粋 結社はかつてイエズス会の宣教師フランシスコ・デ・ザビエルを派遣して、1549年に日本最南端の小島に首尾よく上陸させている。目的は日本を支配するためだ。 それから400年の1945年ようやく日本を支配したつもりになる。武力に頼る必要はなかったが、原爆の力、つまり結社の凄〔すご〕みだけは見せつけておく必要があったから原爆を投下した。 原爆投下を命じたトルーマン大統領はフリーメーソン第33階級の地位にあった人物だ。 彼は太平洋戦争を勝利させた勲功〔くんこう=功績〕として、結社からミドルネーム「S」を与えられている。Sは、聖書に語られているソロモン王〔イスラエル〕の頭文字Sだ。 日本人が知らない恐るべき真実 イエズス会の正体 エリック・ジョン・フエルプス 『バチカンの暗殺者たち』より引用 彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが、1549年日本に到着するとイエズス会士たちは「大名」と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。 イエズス会士たちは、それから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。 (織田信長も、イエズス会に利用されていたとも考えられる。) 1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。 (家光というより、恐らく、仏教徒の皇室側の意向と、春日局ら幕閣たちのようである。八切史観によると、島原の乱は討幕運動だったが、幕府側が、カトリック、プロテスタントに関わらず、利用して反乱を弾圧させたそうである。) 「切支丹〔イエズス会〕は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教〔仏教〕を根絶し、〔日本の〕政府を打倒し、彼ら自身を全帝国〔日本のこと〕の主人たらしめるために策動して来た」 徳川将軍の切支丹禁止令の結果として、イエズス会は日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、繁栄と、平和とをもたらした。 (渡部悌治氏は、日本史が不勉強なので、江戸時代が平和だったかのように洗脳されているが、幕府の公武合体策による律令カースト制度が厳格に機能していたため、幕末にメーソンによる革命へと進む。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月21日
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播州武侯祠遍照院さまのブログで、現状をよく表現している一文に出会ったので抜粋紹介します。 ☆ ☆ ☆ 「ヤルタ体制の正義構造」(播州武侯祠遍照院さまのブログ) http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ 主たる正義はドイツ悪者ーユダヤ被害者説です。 (人の下に人をつくる策略) 日本悪者説はその付随構造で、デタラメの構造は、ホロコースト神話で作られ、日本は南京虐殺と慰安婦、強制労働というやつです 〔ドイツ民族と日本民族がユダヤ支配者集団の財布です。そうなってんじゃないですか?〕 (実はこの手口はイエズス会のアジア支配構想と同じ。元凶はバチカンにあるようです。昭和天皇が太平洋戦争前、木戸をバチカンに送り、取引きしたのがその証拠のよう。) 戦争史で見てみれば、拡大するだけ拡大させて、被害者をいっぱい作っておいて一挙に殲滅する。 そうすると、アメリカとイギリスが解放軍として正義を持つ事ができるという仕組みかも。 暴走が日本の将軍に与えられた責務であって、五十六や米内がその役をはたした。 ヨーロッパはヒットラーとナチ〔ユダヤ人内閣〕がそれをした。 仕掛けられた暴走、だったわけですね。フランス革命、ロシア革命などの革命もの、もその疑いが濃い。 カネと武器を渡して不満を煽れば貧民は暴走するものである、という仕組み。だから王様のクビはちょん切られるのです 最初はイギリス、次はフランス、そしてロシア。イスラムでいまそれをしてますね。 昭和天皇はこれを恐れて、アメリカに降伏し、占領の継続を希望したわけです。 その裏でソビエトとアメリカは同盟を組んでいたわけで。。スターリンとルーズベルトはユダヤ人ですから。。。 いまも中国と米国は同盟を組んでいて、日本をアメリカの防波堤にしながらカネを使わせて使い捨てる気です。。。 (中国の上層部の資産を米国が止めれるのも不思議な話ですな。茶番です。中国国民が知ったら大変でしょうね。) 中国はもともと勝者連合の一極です。お仲間に決まってんですよ。。。 しかし力を持てば独自の世界構造を構想するのは自然ですから。 日本をアメリカから引きはがして、戦後のヤルタ体制=ユダヤ人体制を日中ロシアと組んで非ユダヤ優位の体制に転換させようというのが コキントウーリコクキョウープーチンーオザワー鳩山路線で日本に武器を売りつけて暴走させて中国に潰させようというのが江沢民一派ーネオコンー組。。 それにのってるのがイシハラ、安倍で、しかし、安倍はあんまりに言動が極ウヨクなのにロシアにしきりに行きたがっていて。。 ひょっとすると、土壇場でころりと日中ロシア連合に転ぶ危険性に気がついて引き摺り下ろそうとしている、と見えますね。〔ブレジン並の日下氏がメンターですから読み切れない。。〕 われわれは虎口〔アメリカの軍事利権〕をどのようにやり過ごしてサバイバルするか? 戦争は恨みを残す。戦後世代が育ってせっかく記憶が薄れたのに、おもいだせ、おもいだせと煽動して 軍事占領しているアメリカへ向かうべき民族の独立心をねじ曲げて中国へぶつけさせようとする策謀に軽々とのらないほうがいいとおもいますよ。 抜粋終わり >戦争は恨みを残す。 受験で恨みの塊になった霞が関エリートは、これ以上の恨みなど屁でもないようです。 >軍事占領しているアメリカへ向かうべき民族の独立心をねじ曲げて中国へぶつけさせようとする策謀に軽々とのらないほうがいいとおもいますよ 正論。 お読みくださりありがとうございます。 ☆ ☆ ☆ 中国保有の米国債を売るのが先か、米国保有の中国上層部の資産を止めるのが先かの問題ですな。同時に行なえば、ニセユダが粟を吹くようにもみえますが。銀行の取り付け騒ぎと同じで、資産家に軍隊が殺到するでしょう。
2014年01月21日
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前回は長野県(長野市)の特徴を、シュタイナーの食物と自我の関係から考察してみた。個人的に非常に興味深いので、もう少し続ける。 例えば、以下の肉食1位の大分県(大分市)はどうだろうか? 大分県(大分市)のじゃがいも消費量は、25位で、12024g(全国平均 11348g)と全国平均よりやや高めで、砂糖消費量は、7位で、8,372g(全国平均 7,305g)と全国平均より遥かに高い。 つまり、大分県(大分市)は、長野県(長野市)よりも、遥かに闘争的(肉食1位)で、遥かに唯物論的(じゃがいも食25位)で、没個性(砂糖食7位)だが、全国平均よりは個性的であるといえる。 そこで、長野と同じように大分の県民性を調べる。 ☆ ☆ ☆ 性格は? 《大分男性の性格》 照れ屋で話下手だから誤解されやすいが、内心はやさしい人が多いので、第一印象で判断しないほうが良い。「短気で早口でケンカっ早い」といわれるのは、標準語に近い言葉のせい。誠実で約束を破ることはめったにない。 《大分女性の性格》 真面目で几帳面で控えめ。あまり目立たないし出しゃばることもない。一見無愛想に見えるが、実はとても気さく。柔軟性と行動力も兼ね備えていて、見かけより芯が強くて粘り強い。浮ついたところもない。ファッションはあまり関心がなく、流行に流されることも少ない。 ☆ ☆ ☆ 上述の性格とは、食と自我の関係の「闘争的で、打算的で、個性的な性格」とは、あまり一致しない記述がみられるが、大分県人が「短気で早口でケンカっ早い」といわれているのにはあてはまる。 また、大分女性の「柔軟性と行動力も兼ね備えていて」というのは打算的で、「ファッションはあまり関心がなく、流行に流されることも少ない」というのは個性的であることと大まかに一致する。 肉食1位の「短気で早口でケンカっ早い」大分県人が、そんなに闘争的とはみられないのは、大分県には温泉が多く、恐らく肉食で生じた穢れ(不純物)を洗い流す機会が多いためと思われる。大分県の公衆浴場数3位がそれを物語っている。 大分県といえば昔はキリシタン大名で有名な大友宗麟の土地なので、仏教が肉食厳禁なことから、肉食1位は、キリスト教による西洋カブレのせいにも思える。 キリシタンといえば長崎だが、その話は、以前、紹介した「渡部悌治氏のユダヤ研究」の本に面白いことが書かれてあったので、機会があれば紹介したい。要約をいえば、ニセユダヤのホロコーストの宣伝と同じそうである。長崎にあるキリシタン弾圧の記念碑はニセユダヤの自作自演の代物らしい。 イエズス会のキリスト教は、日本に莫大な損害を与えたが、しかし、やはりいまでも有害なのは肉食で、そのことは、以下の大分県のガン患者数3位に現われている。 勿論、肉食が直接ガンにつながるわけではないことは、免疫力や精神的要素が大きいので、肉食最下位の長野県がガン患者6位になっていることからもわかるが、肉食しないに越したことはないことが、肉食最下位の前橋市の群馬県のガン患者数が下位の39位になっていることからもわかる。 だからといって肉食を禁じているわけではなく、あくまでも個人の裁量で行なうべきである。 しかし食生活がガンを生じさせているとするなら、大分県民の肉食の闘争性、じゃがいも食の若干の打算性、砂糖食の個性化が、ガンを好発にしていることがわかる。だから、大分県民が、じゃがいも食を一層進めると、ガン患者が増えることが予測される。 ☆ ☆ ☆ ガン患者数 [ 2008年第一位 秋田県 ] http://todo-ran.com/t/kiji/14960 全国のガン患者数は152万人で、人口1万人あたりガン患者数は119.47人。人口1万人あたりガン患者数が最も多いのは秋田県で176.86人。以下、山形県、大分県、鳥取県、青森県と続いている。一方、最も少ないのは沖縄県で86.26人。 相関ランキングでは高齢者数と正の相関があり、子供の数と負の相関がある。これは、高齢者が多く子どもが少ないところでガン患者が多いことを意味している。高齢になればなるほどガンにかかる可能性が高く、高齢者が多ければそれだけガン患者も多いということだ。都道府県別の傾向を正確に知るためには年齢調整が必要と思われる。 ☆ ☆ ☆ 上記のようなガン患者という健康から、食と自我の関係を考えるために、ガン患者第一位の秋田県の肉食度、じゃがいも消費量、砂糖消費量のデータを改めて再掲する。 ☆ ☆ ☆ 秋田県 秋田市 肉食26位 秋田市 じゃがいも消費量42位 10206g(全国平均 11348g) 秋田県 砂糖消費量4位 8,856g(全国平均 7,305g) ☆ ☆ ☆ 大分県と比べて、秋田県は、肉食は遥かに少ないがほぼ全国平均で、じゃがいも食は非常に少ないが、全国平均では若干少なめだが、砂糖食が若干多く、全国平均よりは遥かに上位であることがわかる。つまり、シュタイナーの説からいえば、そこそこ平均の闘争性で、若干の理屈好き(賢さ)で、非常に個性的であることがわかる。 つまり、大分県民から、肉食の闘争性を無くし、やや理屈好きにしたのが秋田県民ということになる。そこで、秋田の県民性を以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 性格は? 《秋田男性の性格》 口数の少ない生真面目な照れ屋。人が良すぎて「いや!」といえないところあり。人知れず真面目すぎて悩むこともある反面、お金の面では経済観念がない。見栄っ張りで遊び好きでいい加減な一面も。何だかつかみにくい複雑な性格! 《秋田女性の性格》 全国の男性あこがれの「秋田美人」「角館美人」の地。肌のキメ細かさは化粧品メーカーの折り紙つきだそう。外見的には彫りの深い美人とポチャポチャ系美人の2タイプ。性格はおおらかで結構陽気だが、実は堅実なところも。男と同様、酒豪多し! ☆ ☆ ☆ 上記の県民性と食との関係から、肉食の闘争性が少ない分、「人が良すぎて「いや!」といえないところあり」が出ているとも考えられ、砂糖食が多い分、個性的で、「何だかつかみにくい複雑な性格」となっているようにも思える。 若干の理屈好き(賢さ)で、非常に個性的なのが、「おおらかで結構陽気だが、実は堅実なところも」という性格に出ているようにもみえる。 しかし、大分県の県民性との共通からいえば、砂糖食の多さの個性が挙げられるが、それだけで、ガン患者数の多さに結びつけるのは難しい。恐らく、秋田県の環境からくる日照時間の短さが、影響しているように思われる。 では、今度は、ガン患者数が最も少ない沖縄県はどうだろうか? ☆ ☆ ☆ 沖縄県 那覇市 肉食37位 那覇市 じゃがいも消費量41位 10220g(全国平均 11348g) 沖縄県 砂糖消費量36位 5,924g(全国平均 7,305g) ☆ ☆ ☆ 大分県、秋田県と比べると、沖縄県は、総じて全体的に下位であることがわかる。特に砂糖消費量が非常に少ないから、シュタイナーの説でいえば、闘争的ではなく、理屈好き(賢い)で没個性であることになる。 そこで、沖縄の県民性はどうかというと以下である。 ☆ ☆ ☆ とことん県民性 沖縄 http://www.netricoh.com/contents/officelife/kenmin/column/okinawa_c.html 性格は? 《沖縄男性の性格》 門中(もんちゅう)という血縁一族を取りまとめる制度のため、地域の連帯意識が強く、人間関係は極めて親密。村全体で祝うから、結婚披露宴の出席者数は全国一で、300人、400人はザラ。 ただしお金はそれほどかけない。県人意識、郷土意識も強く、Uターンも多い。言葉の違いを少し気にするため、初対面は気が重く、ちょっとぶっきらぼうな場合があるので、第一印象で判断しないこと。合理的で見栄を張らず、楽観的でおとなしい人が多いが、内面は情熱的。お金にも無頓着。 《沖縄女性の性格》 男がフラフラしているのに対し、女性が一生懸命働いてきた伝統から、頑張り屋が多い。おおらかな性格だから細かいことは気にしない。楽天家が多く、全国第1位の長寿。 ☆ ☆ ☆ 上記の県民性からもわかるが、砂糖食が少なく、没個性で独立意識よりも帰属意識が強いことがわかる。また、じゃがいも食も少ない(さつまいもの消費量も最下位)ので、唯物論に染まらず、「お金に無頓着」であることがわかる。なにより肉食も下位なので、非闘争的なのもよいのかもしれない。 以上の大分県、秋田県、沖縄県の県民性から、ガンが好む性格が、闘争的で、唯物論的で、個性的であることがわかる。このことはガン細胞自体の性格が、闘争的、つまり浸潤的で、唯物的、つまり増殖的で、個性的、つまり、個別的であることからも明らかであろう。
2014年01月21日
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これまで食物が自我に与える影響をシュタイナーの説から紹介してきた。 まとめると、砂糖を摂取すると、個性が促進され、人智学の修行では、自我がこの世(物質界)の認識を失い、迷走しないように、砂糖を摂取するという。 この話から、砂糖摂取量の多いブラジル人が個性的で、砂糖摂取量の少ない日本人が没個性的であることが説明できた。 また、肉食すると、闘争的になり、菜食の消化に必要な力を使わなくなり、持て余すために、その力が体内で不必要な働きを行なうようになり、身体を不健康にするという。 この話から、肉食量の多いアメリカ人の会話が闘争的で、肉食量の少ない日本人の会話が過剰防御的であることが説明できた。 そして、シュタイナーは他の食物にも言及しているが、特にジャガイモについて、大変興味深いことを述べているので、あるサイトから以下に抜粋紹介し再掲する。 ☆ ☆ ☆ ジャガイモが唯物論者をつくる? http://nmitsuda.jp/eating/eating_0037.html シュタイナー曰く、 ◎ジャガイモは実や根、花の部分ではなく、茎が変化した塊茎であり、これは消化するのに最も時間のかかる植物である。◎ジャガイモを消化するためには脳を使うため、本来の思考力が働かなくなる。◎ジャガイモを食べると生殖機能や生命力が低下する。◎子ども時代にジャガイモを食べ過ぎると、大人になって視力、目が弱くなる。◎子ども時代、ジャガイモを食べ過ぎると、味覚が衰え、さらに自分の適量の食事の量が分からなくなる。◎両親がジャガイモばかり食べている子どもは、精神的、霊的活動から遅れてしまう。◎ジャガイモを食べると精神的に周囲の世界を認識できなくなり「霊性などはタワゴトだ」と思うようになる。◎ジャガイモを食べると霊的なことを考える力がなくなり、唯物論的になる。 ☆ ☆ ☆ というように、ジャガイモを食べると皮相的で、唯物論的な思考を好むようになると述べている。ジャガイモは舌や咽頭を刺激する麻薬のようなものと述べている。 さて、では、ジャガイモの摂取量が多い国をネット検索してみると、以下のデータに遭遇する。 ☆ ☆ ☆ 世界のじゃがいも事情 http://www.potato-delica.co.jp/now/now_vol03.html では、1人1年間当たりの消費量ではどうでしょう。 全世界の平均は29キログラムです。一番消費量の多い国はベラルーシの184キログラムです。その他消費量の多い国はスロベニア、ラトビア、ポーランド、ウクライナ、ロシアなどが120キログラムから150キログラムで上位を占めます。イギリスが100キログラム、オランダ80キログラム、フランス70キログラム、アメリカ60キログラム、中国17キログラムなどです。 ちなみに日本は25キログラムです。 ☆ ☆ ☆ 上記のデータから東欧やヨーロッパが多いことがわかり、唯物論の代表である科学が、じゃがいもの消費量の多い地域から起こったことがよくわかる。肉食とあわせて考えると、唯物論と植民地政策が、食を通じて西洋から起こったことがよくわかる。 シュタイナーの話から、ポテトと牛肉を食べることは、唯物論と闘争的な植民地政策の虜にすることを意味する。 さて、ジャガイモの消費量の多いスロベニア人と比較してみようと思ったが、生憎、スロベニア人の日本語で書かれたネット情報が少ないので、ロシア人と、日本人を比較した話を探してみた。 シュタイナーの説によれば、ジャガイモの消費量の多いロシア人は唯物論的で、物質支配的な思考をもち、少ない日本人はそうでない、どちらかというと精神的な思考をもつことになる。 有体にいえば、ロシア人は物質的で打算的で、日本人は精神的で理屈っぽいといえる。 色々とネット検索していると、次のような話に遭遇するので、一部を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 何でも割り切るロシア人 http://roshianow.jp/articles/2012/05/18/14394.html 日本人は、仕事で頑張るのは当たり前のこと。ロシア人は、それができる人が少ない。頑張ると良いことあるよ、と思って楽しみを上げる、そういうイメージだ。日本人と全く違う。日本人は、頑張れば未来が開けると思ってる。 ロシア人から見た日本人 http://www.rosianotomo.com/toko/japontsy.htm 以下はロシア人の意見 日本人の性格についても儒教的な考えからきているのだと私は思います。私が儒教や仏教や神道を知らないという日本人と話すときも、私はその人の血統の中にあるそのような性質を感じずにはいられないのです。 ロシア人の対応と態度 http://netmap.net/nastya/9.htm 日本に住み始めてからほぼ1年経って、ロシア人と日本人の大きな違いに気が付くようになりました。 日本人を客観的に見ると、一生涯を通して非常に職場で忙しくて、仕事に縛られ、時間に追われて、個人的な生活や家族を犠牲にする人が多いと考えられます。どんなに辛くてもなんとか無理をして問題を乗り越えようとする、無理しても頑張ることは日本人の昔ながらの考えでは美徳とされているそうです。けれども毎日のように倒れるまで頑張るのであれば、いつ自分のために人生を満喫するのか、何のために無理をしているのかと尋ねてみたいと思うこともしばしばです。 ロシア人の気質と言えば、この点では丸っきり違います。ロシア人は何のため毎日の仕事を頑張っているかはっきり分かっているのです。それは人生をフルに楽しむためです。だからロシアでは友達との馬鹿騒ぎやいろいろなお祝いは繰り返し何回も、しかも盛大に行われているのです。 もう一つ目立った相違はロシア人と日本人の人との接し方です。 日本人にとって”和”つまり他人との愛想のいい関係、お互いの親切な態度はとても尊いことだと聞きました。日本人ほど「本音」と「建前」を上手く使い分けることが、果たして本当にいいことかどうかは分かりませんが、こんなに礼儀を大切にする民族はいないでしょう。 (礼儀というよりも自分の考えがなく、仕来りに合わせ、没個性なだけ) それに対してロシア人の中では、竹を割ったような性格の人達、言葉や感情をはっきり表白するタイプが多数を占めています。これをある一面から見てよく「ロシア人は愛想が良くない」と非難されているではないかと思います。 けれどもこれは一つのロシア人に対する誤解ではないでしょうか? 日本人から見るとロシア人の他人に対する接し方が礼儀に欠けていると見えるかもしれませんが、ロシアでは儒教の考えもなく、日本人からすれば「礼儀」にかける振る舞い方が昔から定着していて、典型的もしくは「ごく当たり前」とされているのです。逆に、これについて一つ言えることは、率直で、表と裏がなく、いつも自分の心に正直なのがロシア人のいい所であるとも言えるのではないでしょうか。 ☆ ☆ ☆ というように、唯物論的なロシア人からみると、日本人は儒教的にみえるそうである。八切史観によれば、日本人の礼儀は、儒教というよりは徳川幕府が公武合体で朝廷の仏教のカースト制度を継承したせいからきているもので、「お上にたてつかない」という、反抗精神をもたないことを仕草で示すものといえる。 孔夫子の思考を理解してのものではないことは、なぜ挨拶するんだといわれても、その理由を答えられない日本人が多いことでわかる。つまり権力や権威に機械的に従っているにすぎない没個性からくるものなのである。 精神でそもそも説明できないことを身体(肉体)に行なわせるのは、精神が肉体の奴隷になっている証拠になる。 日本でも、昨今の若者に根性論や精神論がウケナイのは、ファーストフードの浸透により、若者のジャガイモ摂取量が増加したせいなのかもしれない。 このように、ロシア人と比較すると、日本人は、目にみえないものを思考で捉える能力があるが、没個性的なので、理屈で割り切れない思い込みの信仰心をもちがちであることがわかる。 日本人の議論が、個人としての意見の応酬でなく、没個性的で全体の意見になり、しばしば精神論や根性論になるのは、このせいかもしれない(個人の意見なのに、「我々日本人」という主語をよく使う)。だからといって、ジャガイモを食べることは唯物論的になるので、あまりお勧めできない。 日本人は、自分の意見が、日本人(特定の集団)全体を代弁しているような錯覚によく陥りがちである。 さて、そこで、日本国内でのジャガイモ消費量を比較してみるために、ネット検索すると、以下のデータに遭遇する。 ☆ ☆ ☆ 都道府県別 じゃがいも消費量ランキング http://www.japan-rank.com/article/192471586.html 1位 静岡市 2位 新潟市 3位 長崎市 省略 50位 青森市 51位 長野市 ☆ ☆ ☆ 上記から、面白いのは、砂糖消費量が多い長野県が、長野市だが、じゃがいも消費量が少ないことである。つまり、シュタイナーの説からいえば、長野県(長野市)の人が、個性的で、理屈っぽいのは、砂糖の消費量が多く、じゃがいものの消費量が少ない食生活のせいであることがわかる。 そのことは、以下の長野県の県民性の話が再現している。 ☆ ☆ ☆ とことん県民性 長野 http://www.netricoh.com/contents/officelife/kenmin/column/nagano_c.html 性格は? 《長野男性の性格》 真面目を通り越して、冗談も通じない堅物。頑固で融通が利かないから、つきあいにくい。理屈っぽく議論好きで、何事にも裏付けを求める合理的人間。規則正しい生活をしているから長寿全国一。ギャンブルはほんのたしなむ程度。オチャラケタた人は決して生きていけない県です。北に行くほど内向的、県南の飯田あたりは情緒的。 《長野女性の性格》 目立たないが、真面目でしっかりとした考え方をもつ現実主義者。 生真面目一本やりの長野男性に比べて柔軟性も持ち合わせています。自分を押さえているわりに、うまくストレスを溜めないから長生き! 一見愛想は良くないのですが、その落ち着きはとっても魅力的。 ☆ ☆ ☆ というように、個性的で理屈好きの性格がわかる。そこで、肉食度はどうかというと、ネットで調べると以下のデータに遭遇する。 ☆ ☆ ☆ 日本一の“肉食系”都道府県は? http://tpdb.jp/townpage/order?nid=TP01&gid=&scrid=TPDB_GF01 1位 大分市 2位 宮崎市 省略 46位 長野市 47位 前橋市 ☆ ☆ ☆ というように、長野県(長野市)は、肉食度は低いから、個性はあっても、他者を巻き込み、個性を他者に強要するような闘争的ではないことがわかる。だから会話も批判的、攻撃的ではないことがわかる。そのことは、上述の長野の女性の性格の「一見愛想は良くないのですが、その落ち着きはとっても魅力的」とあることから伺える。 だから、もし、長野にアメリカ風のステーキにポテトといったファーストフードが流行すると、アメリカのような悪く言えば独善的で、傲慢な性格になっていく可能性がある。
2014年01月20日
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前回は、食物が自我(自己意識)に与える影響のシュタイナーの説から、日本人が全体主義に染まりやすいのは、砂糖の摂取量が少ないことにあることを紹介した。 日本では昔は砂糖が貴重品だったことをよく聞くが、そのために、日本人が没個性に陥り、全体主義的傾向に走りやすかった可能性も挙げられる。面白いことに、薩摩では、砂糖は貴重品ではなかったそうで、薩摩藩の討幕運動も、他と比べて砂糖の摂取量の多さにあったのかもしれない。 さて、非常に興味深いので、砂糖に続いて肉食についても考えてみる。 シュタイナーは、肉食は「勇敢、果敢で、精神を闘争的にする」と述べたことを以前紹介したが、大まかに国別の肉食度を以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ 各国の一人当たりの肉消費量の変化は何を意味するのでしょうか? http://inness.blog112.fc2.com/blog-entry-163.html 1961年の時点での肉の消費量の順位は、多い順に 1位 米国 90kg 2位 西ヨーロッパ 70kg 3位 ヨーロッパ 50kg 4位 南米 40kg と、ここまでが比較的多くて、続いて 5位 アフリカ 10kg 6位 東南アジア 10kg以下 7位 日本 10kg以下 ここからはさらに少なくなり、 8位 東アジア 5kg 9位 南アジア 5kg 10位 中国 5kg以下 と続きます。〔kg数にはすべて「約」がつきます〕 2005年の時点での肉の消費量の順位です。カッコの中は1961年からの増減です。 1位 米国 125kg(+35kg) 2位 西ヨーロッパ 85kg(+15kg) 3位 ヨーロッパ 70kg(+20kg) 4位 南米 40kg(+-0) 5位 中国 55kg(+50kg)* 1961年の約10倍以上 6位 東アジア 55kg(+50kg)* 1961年の約10倍以上 7位 日本 45kg(+35kg)* 1961年の4倍強 8位 東南アジア 20kg(+15kg)* 1961年の4倍強 9位 アフリカ 15kg(+5kg) 10位 南アジア 5kg(+-0) と続きます。〔kg数にはすべて「約」がつきます〕 南アジアを除く、ほとんどの地域で食肉消費はものすごい勢いで伸びていますが、特に、中国と東アジアがスゴイ。 日本は別項目としてありますので、東アジアというのは、具体的には韓国や台湾などを指すと思われますが、この日中韓、東南アジアは異常なほど肉食文化が浸透してしまった、ということだと思います。 また、アメリカはもともと多いのにさらに増えています。 (アメリカ人に血の気が多いのは肉食のせいといえる。) 「何をどうしたらそんなに食べられるのだい?」と、さすがに思ってしまいます。 なお、南アジアの肉食消費の少なさは、インドなど、〔宗教的理由で〕世界でもっともベジタリアンが多い国が集まっているからだと思われます。 ☆ ☆ ☆ 上記の肉食量からいえば、日中韓、東南アジアは異常なほど肉食文化が浸透してしまった結果、東アジア全体が、「勇敢、果敢で、精神を闘争的にする」ようになってきたことがわかる。更に、アメリカ、西ヨーロッパの植民地政策が、肉食と関連している可能性も挙げられる。 上記のデータには魚肉が入っていないので、魚肉も肉食なので、魚肉をいれると、アジアもそれなりの消費量になると思われる。以下ネット検索のデータを紹介する。 ☆ ☆ ☆ 魚の消費量世界ランキング、日本はとっくに1位転落 なおも低下 http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4092.html ■世界主要国の魚介類の1人あたり年間消費量(kg) 1.モルジブ 139kg 2.アイスランド 88.3 3.キリバス 72.4 4.ポルトガル 61.1 5.セーシェル 57.4 6.日本 56.6 7.韓国 56.1 8.マレーシア 53.2 9.ミャンマー 50.8 10.ノルウェー 50.6 11.スペイン 42.9 12.フランス 33.7 13.中国 31 14.ニュージーランド 26.1 15.オーストラリア 24.9 16.アメリカ 24.1 17.カナダ 23.3 18.ロシア 22.3 農林水産省/我が国における魚介類摂取の特徴 国連食糧・農業機関(FAO)統計(2009年)資料より作成 ☆ ☆ ☆ いずれにしろ、上述の肉食データから、アメリカ人が肉食量が高く、日本人は、魚介類消費量が高いとはいえ、アメリカ人ほどではないから、アメリカ人が「勇敢、果敢で、闘争的」で、日本人はそれほどではないという話になる。 そこで、砂糖摂取量のときのブラジル人との比較と同じように、日米の価値観の違いを考えてみる。ネット検索していても、日米の比較論は多いが、ほとんどが抽象論で、なかなか面白い話はみつからず、せいぜい以下の話が肉食と関係がありそうなので、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ハイコンテクストとローコンテクストの違い http://www.pan-nations.co.jp/column_001_006.html ハイコンテクスト文化 聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。 直接的表現より単純表現や凝った描写を好む 曖昧な表現を好む 多く話さない 論理的飛躍が許される 質疑応答の直接性を重要視しない ローコンテクスト文化 話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。 直接的で解りやすい表現を好む 言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す 単純でシンプルな理論を好む 明示的な表現を好む 寡黙であることを評価しない 論理的飛躍を好まない 質疑応答では直接的に答える ここで一例を挙げましょう。 ある商社で「先週のインドネシアでの商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。日本型のコミュニケーションスタイルでは、 「人間万事塞翁が馬。今のインドネシア情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」 のように、問いに対する答えを直接的に伝えることよりも、周囲の状況や自分の感情などを詳細に説明することで共感を求め、肝心の答えは相手に推測してもらおうとする傾向があります。 一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、 "It was so successful. We got two new big contracts there."「非常にうまく いった。大きな新規契約を2つ結んだよ」 (日本社会だと、没個性なので、自慢話にとられる恐れもある。) のように、問いに対する回答や結果などの重要な情報を明確に伝えます。推測しなければならないような回答は、伝達側の努力不足でありルール違反であり、非常に無責任なものととられます。 日本人とアメリカ人が会話をすると、アメリカ人が盛んに話し、日本人が聞き手にまわっているのをよく見かけます。 その理由は、一般には英語で会話しているからだと考える人が多いと思います。ところが実際にはアメリカ人と日本語で会話をしても、相変わらずアメリカ人の話す割合が圧倒的に多いのです。1日の会話量を計測したある調査データによると、平均してアメリカ人は日本人の2倍の量を1日に話すそうです。 ローコンテクスト社会では、日本人が想像する以上に、言葉によるコミュニケーションが重要視されているのです。 ☆ ☆ ☆ ハイコンテクスト、ローコンテクストの用語はともかく、アメリカ人と日本人の会話を比較すると、アメリカ人が、「勇敢、果敢で、闘争的」ということが伺える。その端的な例は、アメリカ人は会議などではできる限り自分の意見を主張する傾向にあるのに対し、日本人は周囲の発言などをみてから、自分の意見を述べ、あまり突出した個性的な意見をいわない傾向にある。 昨今は、肉食文化が浸透し、アメリカナイズされたので、自分の意見をあまりいわないという傾向が日本人にみられなくなったが、それでも、だらだらと会議が長引くのも、日本人が突出した個性的な意見をいわない傾向からくる。 大体、日本語への「ハイコンテクスト、ローコンテクスト」などの横文字用語の急速な増加がアメリカ人の闘争的な精神を物語っているように思われる。同じ用語を使っていても、アメリカ人の考える意味と、日本人の考える意味は、生活環境や文化から大きく異なることを考慮に入れていないのが問題となる。 例えば、昨今話題になっている靖国参拝問題で、米国高官が「失望した(disappointment)」と述べたことが話題になったが、米国の高官がなぜ失望するのか、全く理解できない日本高官が多いことが明らかになった。 つまり、日米間の会話の違いは、「失望」を日本人のなかでの意味に解釈する者と、どういう意味なのか、改めて米国駐在のジャーナリストに聞く者に大別されたので、米国は、「失望した(disappointment)」という意味を、わざわざ「日本批判ではない」と解説していることでもわかる。 日本人が勘違いしやすいのは、アメリカ人は、闘争的なので、個人的な特定の行為を非難する傾向にあり、日本人のように、全体をぼやかして、曖昧に漠然と非難する傾向をもたないということにある。 日本人がする非難は、特定の個人ではなく、全体にむけて曖昧に述べる。しかも前もって、他者が同調するような根回しを行なって、同意を得てから述べる。 つまり、早い話、アメリカはアベ個人の特定の(靖国参拝)行為を非難しているのであって、日本全体を非難しているのではない、ということにあり、ややこしいのは、日本人が、アベを非難することは、総理を非難することなので、日本全体を非難するように考えてしまうところにある。全体主義で洗脳されたネトウヨが騒ぐのがその理由。 日本人は闘争的ではないので、全体の和を重んじるあまり、特定の非難を、全体に対するものと思い込んでしまう傾向にある。どうしてそのような突出した意見をいわれるのか、たちまち思考停止に陥ってしまうのだ! アベ個人の過失なのに、日本全体の過失と考えてしまうアホさにある。 しかも、日本人が陥りやすいのは、アベの靖国参拝を拡大解釈して、先祖の霊を弔うのがなぜ悪いのか、というような個人の行為ではなく、全体の価値観に拡げて考えてしまうところにある。そして、その拡大解釈を強いる傾向にある。これは闘争的ではないが、過剰防御的である。利己主義ではないが、似非利己主義である。 そしてA級戦犯が祀られていて、長州神社という靖国神社設立の経緯など、自分たちの主張に都合の悪い部分を全く無視して考えてしまうところにある。 つまり、早い話、没個性なのである。しかし、最近は、肉食文化が浸透し、悪い意味で、闘争的な意見を述べるクレイマーが増えていることも確かである。個人が犯した過失を全体主義で拡大解釈して責任を追及する傾向にある。 以上の意味で、アメリカ人はもう少し肉食を抑えるべきで、日本人も肉食を控え、アメリカ人の闘争的な意見を拡大解釈せずに、個人の責任や意見として重んじるべく、砂糖をブラジル人並みに摂取すべきであるように思われる。 恐らく、ブラジルの大統領が、非難されても、ブラジル人は、ブラジルを非難したとは思わないはずである。過剰防御は日本人特有のものに思われる。
2014年01月17日
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前回の続き。前回は、食物が自我(自己意識)に与える影響をシュタイナーの説から紹介したが、ブラジル人との比較で、日本人の没個性が、砂糖の摂取量の少なさにあることに言及できる話を紹介した。続ける。 ☆ ☆ ☆ 日本人は自分の気持ちに正直ではなく、人間的ではないとも言える。また、自己の感情をはっきり表に出さないので、ブラジル人から見たら何を考えているか分からない。そして、なぜ自分の利益にならない自己犠牲を好むのかが理解できないのである。 (上記の価値観の違いが、ブラジル人の個性と、日本人の没個性の典型例といえる。) 一言で言えば、価値観・文化観の違い。お互いの国民がこの溝を埋めるのは本当に難しいと思う。ただ、「郷に入れば郷に従え」。日本に住むブラジル人は日本文化に溶け込むべきで、ブラジルに住む日本人はブラジル文化を受け入れるしかないのである。 (ブラジル人が日本文化に溶け込むには、砂糖摂取量を減らすのがよい。) ブラジル人の考え方は基本的に楽観主義である。何とかなるといつも思っている。だから、お金がないから死のうとかいう発想にはならない。日本人は何でも真剣に考え、仕事において責任を感じたりすると、自殺したりする。 日本人の自殺率は世界でも随一だが、ブラジルの自殺率は世界でも下から数えたほうが早い。まあ、自殺しなくても、殺人が多いから死んでいる人の数だけ比較すると同じだと思う。 何事も時間通りにきっちりいくが、融通が利かず、悪く言えば人に冷たい機械的な国の日本。何事も思ったとおりに物事が運ばないが、お金さえ出せばうまくいったりし、協力さえしていればあたたかく迎えてくれる国のブラジル。全く対照的である。 (没個性の日本文化と、個性のブラジル文化の違いか?) 僕の意見では、ブラジル人が日本に適応するほうが日本人がブラジルに適応するより大変だと思うが、どうだろうか? (砂糖摂取量を増やすよりも、減らすほうが困難というわけか) 9年半ブラジルに滞在した末の結論。世界において絶対的にいい国というものは存在しない。それぞれ一長一短ある。要はその国がその人にあっているかどうかの問題だと言うことだと思う。 ☆ ☆ ☆ 一時、日本では個性教育が唱えられたが、上記のシュタイナーの説によるブラジル人との砂糖摂取量の比較から、日本人が砂糖摂取量を増やせばよいことがわかる。 昨今のスイーツの流行はそのせいなのか? そこで、日本人でも地域により個性が若干異なると思われるので、日本の地域別の砂糖摂取量を以下に掲載する。 ☆ ☆ ☆ 砂糖消費量 [2008年第一位 長野県] http://todo-ran.com/t/kiji/11739 ☆ ☆ ☆ 上記のデータから、長野県民が日本一消費量が多く個性的で、東京都民が日本一消費量が少なく没個性的であるということになる。 そこで、長野県の特質を調べてみるのによいサイトを以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ 長野県 地域情報 http://www.cs-h.co.jp/nagano.htm ☆ ☆ ☆ 長野県といえば、戦国時代は信濃で信州と呼ばれ、甲斐の武田氏と、越後の上杉氏の板ばさみにあり、有名な上田城の真田氏は、武田氏から独立したものと思われ、独立志向が強く、群雄が割拠していた土地柄で、昔は他県と比べてまとまりがなく、県歌を歌わせ、教育を施すことでまとまりをつくった県といわれている。集まれば県歌を歌うことは、なにかと星条旗の意味もしらずに、国旗を掲げ、国歌を歌うようなアメリカ合衆国を小さくしたような感じでもあるようだ。 対照的に、東京都民は、地方出身者が多く、生粋の江戸っ子というのは意外と少ないといわれている。東京では江戸っ子というのは下町のイメージがあるようで、山の手では古臭いイメージが先行するようである。独立心とは逆の親方日の丸の長い者にはまかれろ的な、現代でいうところのエコノミックアニマル、社畜というべき地域ともいえる。 このように砂糖の摂取量で、微妙に個性の違いがでてくるのは面白い。 日本人はもっとブラジル人のように砂糖を摂取して、独立心旺盛になり、個性を全面に出すべきかもしれない。 さて、東京都民の没個性は、あまりに馬鹿馬鹿しいので、触れないでいたが、都知事選にも現われているように思われる。候補者のほとんどが東京都出身でないのも、地方出身者の多い東京都民の没個性に現われている。 そのことがわかる話を御馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 都知事選の現在までの経過 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140119/1390133421#seeall このところ、雑務が多く、ブログの更新が滞っていましたが、ここまでの都知事選の経過をまとめたいと思います。 今回の都知事選、数少ないまともな候補は、もちろん宇都宮けんじ氏ですよね? 前回次点だった訳ですし、順当に行けば宇都宮氏が当選してしまいます。都内の街頭アンケートなどでも、ダントツ人気をほこっています。 当然、日本を支配している、ユダヤ&朝鮮&部落=裏社会=政府としては、オリンピックを控える利権の塊の東京都に、まともな知事が誕生しては困る訳です。 そこで、まずは、一番手っ取り早い不正選挙を考えるのですが、政治的覚醒者達の監視や、ネットで騒ぎになる事を考えると、なかなか思い切った不正に踏み切れない。 そして、裏社会が考えついたのが、反原発票を割る事! それには、大きな手先の反原発勢力が必要になります。 それが、細川&小泉グループといった感じでしょうか? さらに、今度は、マスコミ部隊を使って、細川氏と舛添氏にスポットを当てます! すると、反原発票は宇都宮氏と細川氏で割れて、マスコミ漬けのB層の票は、細川氏と舛添氏に集まる事になります。 結果、宇都宮氏の当選は厳しくなり、細川&小泉ちゃん、舛添ちゃん もしくは、漁夫の利で田母神ちゃんあたりを当選させようというシナリオなのでしょうw ところが、それでも安心出来なくなってしまったのか、今度は、マスコミ部隊が期日前投票の割合が多い!という事を言い出しました。 およよー? 禁断の不正選挙に突入ですか??? いずれにしろ、裏社会の皆さんは、順当に行けば勝ってしまう宇都宮けんじ氏の当選を、何とか妨害しようと必死に蠢いている!というのが現在の状況といった感じでしょうか? ☆ ☆ ☆ 面白いことに、過去の都知事の出身地が東京というのは4名しかいないそうである。東京というのは独自の個性をもたない地域なのである。東京都民ぐらい洗脳されやすい人々はいないであろう。官僚のような没個性が個性にされそうである意味恐ろしい。 流行というのは一種の洗脳でもあり、大体の都市では、商業主義なので、過剰な広告宣伝が流される。この手法を逆手にとり、スイーツを流行させて、ブラジル人並の砂糖摂取量にすべきかもしれない。
2014年01月17日
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前回は、肉食、菜食などから、人間と、人間の自我、つまり自己意識との関係について、シュタイナーの話を紹介した。繰り返しになるが、再度、肉食、草食の問題を、また違うサイトから、シュタイナーの話を抜粋紹介し考えてみる。 というのも、国家間の紛争や、金儲けに固執するアホどもを生み出す元凶が、肉食にあるのではないか、と思うからである。肉食が導く軍事産業で金儲けするよりは、菜食産業で金儲けするほうがまだマシでもある。 以下に紹介する話は、シュタイナーの考えをうまくまとめている。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー式とは(改変) http://inedia.jp/steiner.html ルドルフ・シュタイナーは、オーストリア帝国クラルイェヴェク出身の神秘思想家で、プラトン哲学、アリストテレス哲学、ゲーテ自然科学を通して、人智学を樹立していました。スイス・バーゼル市近郊ドルナッハに自ら設計した教育施設・ゲーテアヌムを建設し、普遍人智学協会本部とし、哲学、教育、芸術、農業、医療などの諸分野で活躍していました。 1921年、ルドルフ・シュタイナーは、オランダの女医イタ・ヴェーグマンらと共に、人智学療法に基づいた医薬品や化粧品を作る株式会社ヴェレダをスイスのアーレスハイムに設立。創業以来、体の内側から本来の美容と健康を取り戻すための製品を開発し、ヨーロッパのみならず、世界50ヶ国以上の人々に愛される企業へと成長しました。 人は単なる肉体的存在ではありません。人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我によって構成されています。肉体は、その中で最も粗雑な体と言えます。 幽体離脱や臨死体験というのは、アストラル体と肉体が離れて、肉体は朽ちるもののアストラル体は残り、その波動に相応しい世界で生き続けます。そして、機が熟せば再び新しい肉体に宿ってこの世に誕生し、別の学びに進んでいくのです。 肉体に一番近いのがエーテル体で、これは肉体の感覚体と呼べるものです。エーテル体より微細なのが、アストラル体と呼ばれるものです。これは欲望、あるいは感情を司る体であり、低位精神体と高位精神体(自我)がこの中に浸透しています。これら二つの精神体の上にあるのが霊体(マナス)、直観体(ブッディ)、原因体(アートマン)です。 (全部で7つだが、マナス、ブッディ、アートマンは、現進化段階では、萌芽にすぎない。だから、現段階では、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の4つと考える。) このように私たちの誰もが七つの体を持っています。この七つの体から発散する放射線(光)がオーラ、あるいは磁場を形成しています。オーラの放つ光と色の波動が、多かれ少なかれ、私たちの性格、才能、健康、病気を決定します。 生命体にとっては、肉体よりもオーラの方が大切です。その理由は、病原となる因子がオーラの深くにまで穴を広げ、その触手を肉体の対応部に広げて病気を現わす事にあります。 オーラは色の振動数の不足によって大きく乱されるものであり、本来の光輝を回復するような方法で再編成しなければなりません。オーラを再調整する事がなければ、仮に病気を治したとしても、一時的で、全くの誤謬であると言わざるを得ないのです。 人間が生命を維持するためには、糖質、脂質、たんぱく質、塩が必要です。人間が第一に絶対に必要とするものは、たんぱく質です。人間が第二に必要とするのは、脂質です。人間が第三に必要なのは、糖質です。さらに、人間に必要なのは、塩です。 たんぱく質⇒下腹部組織 脂質⇒心臓と血管 糖質⇒肺、食道、口葢 塩⇒頭 という作用関係があります。 菜食には大きな価値があります。菜食を続ければ、簡単に疲れる事はなくなります。肉食による尿酸塩の分泌がなくなるので、疲れなくなるのです。疲れなくなると同時に、頭に尿酸塩が溜まらないので、物事をよく考える事ができるようになります。 (前回説明したが、菜食に用いられる消化力が、肉食すると用いられなくなり、余剰力となって、尿酸をつくり、尿酸が溜まると、尿酸塩となる。狂牛病で明らか。) アジアの一部の厳格な菜食主義者は、温和な性格で、ほとんど戦争をしません。中近東の肉を食べる人々は、勇敢で、果敢で、堅固で、個人的で、好戦的です。 ヨーロッパには、「肉食は思想と知恵を鈍らせ、菜食は人を温和にし賢者を作る」という考え方があるそうです。 (このような考え方があっても実践しないと無意味。) ルドルフ・シュタイナーは、完全菜食を勧めている訳ではありません。菜食主義者にも乳製品は必要であると説いています。 (これも前回述べたが、菜食主義者が現実離れしないために、乳製品を摂るべきである。釈迦のスジャータの逸話などの例。) ☆ ☆ ☆ 上記の食の話をまた違うサイトから抜粋し以下に紹介し続ける。肉食の話の前に砂糖について考える。 ☆ ☆ ☆ 食事について(改変) http://higuchi08.exblog.jp/6976031 シュタイナーは、次のように述べている。 「私は、どのようなものを食べるのがよいのか、を扇動するつもりはありません。それぞれの食べ物がどのように作用するかをお話しするだけです。菜食主義者がきて、「軽い無力感があります。」と訴えることがあります。そのようなとき私は、「それは肉を食べていないからだ」といいます。客観的に考察しなければなりません。何かを強制することがあってはなりません。」と 砂糖と個性(改変) http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S-note2.html#19●砂糖と個性 人生の秘密を探求しようとすると、全てが複雑であることがわかる。人智学の修行をおこなうなら、誤った没我、つまり人格の喪失に陥らないため、ときどき砂糖を摂取する必要がある。 修行者は砂糖の摂取にあたり、自我が本来もつ道徳(秩序)性の衰微を招かずに、かえってそこに確かさを与えるように摂取すべきである。 砂糖を従来どおりに摂取すると個性が高まってしまう。砂糖を好む人は、そうでない人よりも容易に個性を促進する。砂糖が好きといっても、健全な量に限られることはいうまでもない。砂糖の摂取量から、ある程度、性格が観察できる。 砂糖の摂取量の多い国の人々は、砂糖の摂取量の少ない国の人々よりも個性がはっきりと現われる。個性を現わし、自分というものをはっきりと感じている人々の国では砂糖の消費量が多く、没個性的で、むしろ民族全体がもつ性格に従う人々の多い国では砂糖の消費量が少ないのがわかる。〔シュタイナー「健康と食事」イザラ書房/P146-147〕 ☆ ☆ ☆ 上記の砂糖の摂取量から、シュタイナーは、当時(1920年頃)の英国の人々が個性的なのは、砂糖の摂取量が多いからで、逆にロシアの人々が没個性的なのは、砂糖の摂取量が少ないからだと述べている。 例えば、以下に国別の砂糖摂取量を掲載する。 ☆ ☆ ☆ (一人当たりでない。) (2001年から2003年の頃なのでデータが若干古い) ☆ ☆ ☆ 上述の、現在よりも10年前のデータから、シュタイナーの砂糖摂取量説を当てはめると、ブラジル人、オーストラリア人などは、日本人、中国人よりも、個性的であることになる。更に日本人は、中国人よりは砂糖摂取量が多いので、個性的である、ということになる。 個性を比較するのは困難だが、次のブラジル人と日本人の性格の違いを表わす話からなんとなく感じることができる。 ☆ ☆ ☆ ブラジルと日本の比較 http://blog.goo.ne.jp/yuki-poa/e/695c227271f24396d3bc5c6c061436c9 今日はブラジル人の価値観を日本人の価値観と比較しながら紹介したい。 ブラジル人は過去や未来について深く考えない。基本的には今のことしか考えない。明日の食事の心配より、今日の食事が食べられればそれでいいのだ。つまり、今が楽しければいいという発想である。 だから、将来の家計危機に備えて貯金したりするということはしない。どちらかと言うと、何でも分割払いにして、借金して商品を買って、もし自分が死んだら借金を払わなくてもいいから、得したという感覚を持っている。 何か困ったら、必ず誰かに助けてもらえると信じている。親戚に頼ったり、友達に頼ったりする。そして、頼られたほうは無下にそのお願いを断れない。なぜなら、その人との人間関係を壊したりするからである。この考え方は特に下層階級に顕著である。いい意味で言えば、お互い助け合いの社会であり、悪い意味で言えば、お互い利用し合いの社会である。 家族の中で1人でも成功者が出ると、その周りに遠い親戚がたかってくる。スラム街出身のサッカー選手のロマーリオがプロとして成功してから親戚の数が増えたと言うのは有名な話である。とにかくみんなたかるのである。 また、ブラジル人女性もお金目当てで結婚する人が多い。ローリングストーンズのボーカルのミック・ジャガーの恋人となったブラジル人モデルは子供を身ごもり、それを武器に養育料をせしめ、今はブラジルのテレビで司会者をして成り上がっている。 ブラジル人は裁判が好きである。労働裁判、離婚裁判。ブラジルでは法律上労働者が必要以上に保護されているため、従業員が労働裁判を起こすと大抵の場合雇用主が敗訴する。だから、従業員は何かあったらすぐ裁判を起こすため、雇用者のほうは気がきではない。今日の友は明日の敵なのだから。 この労働裁判も今のお金のことしか考えない短絡的な発想から来ている。同じ仕事を長く続けて給料をもらい続けるよりは、裁判で勝って多少まとまったお金を一度にもらって、後は野となれ山となれ。別にそれで社会的信用を落とすわけでもなく、何もなかったかのように新しい仕事を探すわけだ。多分日本人には絶対に理解できない発想である。 国民がこの発想なのだから、当然政治家も同じである。90年代前半汚職により弾劾裁判で職を追われた大統領は、去年州知事として政界に戻ってきて再選を果たしたのである。日本だったら絶対に起こりえないことだ。人生は何度でもやり直せるという発想である。 他人は利用するために存在する。自分にとって不必要なものは捨てる。我慢して仕事したり、結婚を続けたりはしない。常にその時々で自分の利益にかなうものかを判断し、自分に正直に行動する。良く言えば、人間らしいと思う。でも、悪く言えば、自己中心的であり、モラルがない。 日本人は義理と人情の世界である。もらった恩は返す。会社には尽くす。嫌な仕事でもなるべく我慢して続ける。うるさい嫁でも我慢する。自分に利益にかなわなくても、自己の犠牲を払ってでも頑張る。 (上記から、ブラジル人が個性的で、日本人が没個性的であることがわかる。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月17日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 菜食・肉食、アルコールについて 菜食主義を推奨するつもりはないが、菜食は、霊的思考を促し、精神を温和にし、ほとんど闘争をしないようにするが、肉食は、勇敢、果敢で、精神を闘争的にする。 (闘争的なスポーツ選手のほとんどが肉食であることからもわかる。欧米の物質文明からくる植民地政策は肉食主義に由来するようである。霊的思考とは、自分とは異なる立場の思考や感情がわかることで、例えば、動物や植物、更に地球、宇宙の気持ちが代弁できる。) また、個人的な興味を抱き、共感、反感の感情、情熱をもち、怒ったり、偏見に陥るのは、肉食によるもので、狭い視野に囚われず、自由に思考を整理し、普遍的なものに興味をもち、全体を見通すことができるのは、菜食のおかげである。 (仏教が菜食主義なのはこの理由にあるが、近頃の仏教は末世なので破壊教である。糞坊主がTVで肉食自慢をしていたが、アホである。日本史での肉食人物の代表例は、幕末の徳川斉昭などが挙げられる。八切史観によると、桜田門外の変は、井伊直弼が、安政の大獄により、斉昭の水戸藩への近江牛の献上を中止させたのを怨みに思い、水戸の家臣に殺害させたものだという。) では、菜食、もしくは肉食の際、人体のなかでは、何が起きるのか? おさらいになるが、まず、植物、動物、人間の違いをみておく。植物は物質体と生命体(エーテル体)から構成され、無機的な物質から、太陽光の助けを得て、エーテル体の力で、自らの有機的な形態を作り上げている。 次に動物は、植物がもつ物質体、生命体に加え、欲求や感情に関係する感覚体(アストラル体。人間ももつ)をもっている。人間は、この三つの構成要素に加え、自我をもつ。 (ここで、エーテル体、アストラル体を「もつ」とは、物質界にもつという意味である。植物も、動物も自我をもつが、物質界ではない。) さて、では、植物、動物の肉を食べれば、人体内に何が起こり、どんな影響が生まれるのか? エーテル体の力で有機体となった植物を食べると、人間のなかでアストラル体が働き始める。植物の形成に、太陽光が関係していることを先に述べたが、アストラル体は、いわば人体の内面(精神)の太陽光でもある。 植物を食べると、植物が獲得した太陽光と、人体内の太陽光(太陽神経叢)が向き合い、植物の形成で構築されたエーテル体(設計図)が、人体内で再構築されていく。人体内の太陽光は、外界の太陽光とは逆に働く。 太陽光の植物構築と比較すると、人体内の太陽光は、真逆なので、外界の構築に対する分解で、破壊(再構築)となる。しかし、この働きにより、意識をもつことができる。つまり植物の摂取により、神経組織が構築される。 (知識が分別、つまり分解から生じることがわかる。分別から神経が生まれる。) 菜食の結果、神経組織は、精神(霊)について敏感になり、個人という狭い限界を超え、大きな観点から物事をみることができるようになる。菜食は、人間には自然の営みなのである。 ここでいう「自然の営み」とは、植物がおこなった創造活動を継続することにあたるからである。つまり、外界にあるがままの植物の創造活動を受け入れ、自分のなかで更に再構成していくから、自然の営みなのである。 (菜食とは、外界にある植物を、人体なかで分解し、再構築し、自然の創造活動を継承すること。) では、肉食は自然な営みなのか? 肉食は菜食よりも、物質体への負担が大きい。肉食すると、その肉は強固な異物として人体内に組み込まれる。先に肉食は、勇敢、果敢で、闘争的と述べたが、それは情念と情動のなかを無意識に流れる意志の営みが、肉食によって刺激されるからである。 肉食により、動物のなかに生じたアストラルの力の影響を受ける。肉食により、人間は自分の神経組織に影響を与えるものを摂取することになり、肉食からもたらされる影響が過大になると、ヒステリー・癲癇〔てんかん〕などの様々な神経病を引き起こすようになる。 (植物のアストラル体は「物質界に」ないが、動物のは「物質界に」あるので、動物のもつ感情が、肉食する人間のなかにうつる。コンピュータで考えれば、ウイルスのようなもの。このことは、草食動物が、肉食したことで狂牛病が発生したことからもわかる。) 肉食の場合、菜食の際に使う(消化)力を使う必要がなく、手間を省くことができる。先に菜食の際、植物の創造活動を継続していると述べた。動物は、植物を食べることで既に、植物の創造活動を継続している。つまり、動物は植物の創造活動を継続しているので、人間が、動物の肉を食べる際には、わざわざ一から植物の創造活動を継続する必要性がない。 すると何が起きるのか? 菜食の際に使われる力を、肉食により使わなくなる。すると、人体のなかで使用されない組織は、萎え、硬化する。 (中略) このように硬化した組織を、異物として、一生担っていかねばならなくなる。 肉食はまた別の結果ももたらす。草食動物の牛は、植物を食べて自らの肉を作る。植物を肉に変える力を牛はもっている。もし、牛が植物を食べずに、自らの肉を作るのをやめ、肉食するならどうなるか? 植物を食べ、肉を作っていた力が体内に蓄積することになる。その蓄積した力により、かえって有害な物質が作られる。特に尿酸と尿酸塩〔尿酸濃度が上昇すると尿酸塩になり、痛風や腎臓障害をもたらす〕は、脳に行き、牛は気が狂うだろう。 (シュタイナーは狂牛病のことを、1920年代に見通し、予言していた。) 人間も、肉食は人体内で消費されない過剰な力を生み出し、有害な形で働き、汚物を作り出す。そのような汚物を排出するには、鉱泉にいき、鉱泉に浸かったり、鉱泉の水を飲むとよい。 肉食を、宇宙的観点から説明する。この説明の前提として、人間は宇宙からこの地上に生まれ、死後宇宙に帰るという考え方を理解する必要がある。菜食、乳飲、肉食の3つを比較して考察する。 肉食は、人間を地上に束縛し、地球から解放する力を失わせる。乳飲は、人間を地上に結び付けるが、束縛するまでには至らない。菜食は人間を宇宙に結びつける力を刺激し、惑星の中心である太陽から霊力を受け取る。 肉食により人間は地球と強く結びつき、乳(ミルク)を飲むと、人間の進化の通過段階にすぎない地球に属するように感じる。肉食は、地上での滞在が永続するように思い込ませ、地上が自分に最も相応しい居場所であるかのように洗脳させる。 (中略) 肉食への意志は、「天界(に戻ること)を断念し、地球存在に没頭する」ことを意味する。 しかし、牛乳や乳製品を摂らないと、精神世界に没頭してしまい、人間や地上に関心を抱かなくなってしまう。 (修行中の釈迦が、精神世界に没頭し混迷していたところ、スジャータにより乳を飲まされ、現実に目覚める話は有名。) 魂の発展にむけて独善的に努力する変人にならず、人間的な感情、人間的な衝動から疎遠にならないためには、牛乳や乳製品の摂取によって、多少の肉体の重さを担って、地上の旅人になるのがよい。 いずれにせよ、菜食か、肉食か、何を食べるがよいのか、ということは、個々の状況により、個人が判断することで、何々主義を扇動することが目的ではない。ただ食事の真相を述べているにすぎない。真相を知って、どのような生活をするかは、個人の自由である。 次にアルコールについて考えてみる。アルコールを飲むと人間にどんな変化が起きるか? アルコールを飲むと、例えば、笑い上戸、怒り上戸、泣き上戸、と尋常でない内面が露わになる。まず、アルコールは人の内面の心の営みに作用することがわかる。 アルコールを飲むと、強度の精神錯乱に陥り、思慮分別を失う。続いて、アルコールは血液を興奮させ、血液循環が活発になり、情念が刺激され、怒りが爆発したりする。植物から採取されるアルコールは、本来の植物の創造活動とは異なる影響を人間に与える。 それは肉食よりも大きな影響を与え、菜食の際は、アストラル体が働くが、アルコールはアストラル体に働きかけるのではなく、自我や血液に直接影響を及ぼす。 自我の支配下にある内面を、アルコールに引き渡してしまう。 アルコールに心を司る自我を乗っ取られてしまう。しかし、なぜ、自我=血液なのか? 先に述べたように人間は、目に見える肉体だけでなく、目にみえない、生命体(エーテル体)、感覚体(アストラル体)、自我により構成され、これらが共に活動している。そして、目にみえない生命体、感覚体、自我は、自らを表現するための(物質的)器官をもっている。 栄養摂取や生殖行為を支える腺などの器官は、生命体の表現で、神経組織は、感覚体の表現であり、そして、血液の循環や活動は、自我の表現である。唯物論でも御馴染みな肉体は物質体の表現である。 だから、アルコールが血液に働きかけるとは、自我に影響を及ぼすことになる。 さてアルコールを沢山飲めば、二日酔いになる。二日酔いとはなんなのか? アルコールの血液への働きかけは、心の状態を変えるだけでなく、身体に、過剰な活動をひきおこす。それは、1日24時間かけて、本来おこなう人体の活動を、6時間とか12時間でしてしまうようなもので、力を消耗し、もはや活動が行えない状態にしてしまう。 すると、体内に尿酸が溜まり、頭には汚物が溜まる。これが二日酔いという現象である。先にアルコールは血液に働きかけると述べたが、人体はアルコールの働きかけに抵抗し、血液を守ろうとする。 血液の最も重要な成分は赤血球と白血球であるが、血液は崩壊から強固に守られている。しかし、飲酒により、人体は損傷を負うようになる。アルコールは骨を破壊し、骨のなかに染み込んで、血清を破壊し、骨髄を破壊し、致命的な事態に至る。 では、アルコールは人間には必要のないものなのか? 人間は少量のアルコールを必要とし、アルコールは肉体の腐敗を妨げる働きをするので、通常の食事から、内臓で自らアルコールを作っている。 では、外から人体に入ってくるアルコールとは、どう違うのか? アルコールを摂りすぎると、体内の組織を過剰に保存するようになる。つまり腐敗し、排出されるべきものが、体内に溜まってしまう。血液についても同様で、古い血液が長く体内に溜まることになり、新しい血液を作らなくなり、虚弱体質になる。 アルコールの影響は、アルコールを摂取する本人だけでなく、生まれてくる子どもにも影響を与える。 ☆ ☆ ☆ 以上のように、食事の観点から、自我、つまり自己意識を考察すると、色々と興味深い事実が明らかになってくる。
2014年01月16日
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前回はニュートンの法則から、人間の自我を形成する血液の循環との関係や、自我と食物の関係について大まかに紹介した。続けて、自我(自己意識)と食物の関係をシュタイナーの話から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ シュタイナーの教えたことXVII http://www.megaegg.ne.jp/~moon/steiner17c.html シュタイナーの食に関する考え方(改変) 食物と人間の関係を問われた場合、どのような説明が可能か? この問いには、両極端な応え方がある。1つは人間に大切なことは、霊的な事柄であり、目にみえる物質としての食物を摂る事は、人間の本質にとって、それほど重要ではない、という応え。他方は、人間は、食物、つまり身体が消化したものによって成り立つ、という応えである。 シュタイナーは、「食」について講演をする際、繰り返して述べているのは、特定の食事に賛成したり、反対したりするのではなく、例えば、菜食と肉食について、肉食をやめなさいとは述べず、様々な食物が、身体にどのように働きかけるのか、という事実を説明するだけにとどまる。知りえた事柄の上で、どうするかは、あくまで個人が決めることと述べている。 さて、先の問いに対するシュタイナーの応えは、上記の2つの応えのいずれでもない。確かに、人間は食物により成立することは事実だが、食物は、目に見える物質以上のもので、その背後にある霊性も同時に、身体に取り込んでいると考えるのが、上記の2つの応えとの大きな違いである。 物質界で生じることは、霊界(内界)の表出であると捉える。だから、食物を摂取する過程も、物質ではなく、「精神(霊)の過程の物質表現である」と述べている。 シュタイナー教育を学んでいくと、人間を構成する4つの体によく遭遇する。人間は4つの構成要素によって成り立っている。肉体、エーテル体(生命体)、アストラル体(感覚体)、自我である。 食物の摂取により、どのような化学的経過が肉体に生じるのかという(唯物的な)観点では、人間全体を捉えることにはならない。肉体と肉体を構築するエーテル体、肉体とエーテル体の背後にあるアストラル体、更に自我により成り立つ人間が、食物によって、どのような影響を受けるのか、という観点で臨むときにはじめて、栄養の問題を包括的に語ることができる。 シュタイナーの述べた「炭水化物、たんぱく質、脂質、塩(ミネラルにはいる) 炭水化物 植物界から摂取され、炭水化物は人間の外姿を形成する働きをする。炭水化物を取らなければ、人間の形姿は歪んでしまう。炭水化物は人体の至る所に作用し、外姿を形作るが、胃腸のなかにとどまってしまうと、衰弱し、形姿を維持できなくなる。 また、炭水化物は、後脳に働きかけ、後脳は言語と関連し、例えば、声がかすれ、明瞭に話せなくなった人は、炭水化物が後脳に届いていないのが原因である。アストラル体が、主に炭水化物と関係している。 蛋白質 蛋白質は人間には根源的な基盤となり必須である。蛋白質がなければ、人間は生まれることができない。蛋白質の摂取量が少なかったり、正しく消化できないと疲れやすくなる。人間の誕生と死に関係する。 人間は栄養器官(胃・腸・腎臓・肝臓)を自ら作らなければならないため、蛋白質を摂る必要がある。植物のなかにある(植物性)蛋白質、特に花や果実に含まれる蛋白質が、栄養器官をつくる。植物の果実に含まれる蛋白質は、内臓に働きかけ、身体上部の胸にはいかない。 内臓が適切に働いていれば、植物性蛋白質を摂取することで、力を得ることができるが、内臓が弱っていると、植物ではなく、動物性蛋白質や鶏卵を摂取する必要がある。動物性蛋白質は、内臓にとどまらず、全身に広がり身体を養うからであるが、動物性蛋白質の摂り過ぎは、動脈硬化を招く。 脂質(脂肪) 炭水化物は人間の形姿をつくると述べたが、その形姿のなかにある実質が脂肪である。エーテル体が主に脂肪と関係し、日中起きている時間帯に、アストラル体がエーテル体のなかで、活動することで、脂肪が消化され、正しく堆積される。 しかし、昼間も寝ているような人は、脂肪が消化されずにとどまり、肥満になる。油脂には植物性油脂と動物性油脂があるが、この体内にとどまり肥満をまねく油脂は、動物性油脂である。また、適切に脂肪が消化されず身体の外に排泄されてしまう人は、脂肪が不足して、神経過敏になり、神経が燃え尽き、妄想が生じ、肺病や結核になる。 植物の根は頭に、果実や花は栄養器官に働くが、植物性油脂を含む植物の葉は、胸部、心臓、肺を強める働きをする。 炭水化物は摂取され、消化されることで糖に変化するが、脂肪はこのように簡単にはいかない。人間が摂取する脂肪は唾液、胃液、腸液によって、別のものにかえられ、血液のなかに流れる。摂取した脂肪から力を取り出し、自らで脂肪をつくらなければならない。 人間は脂肪によって力を得ている。弱っているときは、動物性油脂をとると力がでる。 塩 塩は人間が生きていくために必須のもので、食塩がよく用いられるが、他の食物からも摂取できる。塩は単なる嗜好品ではなく、非常に重要なもので、塩は脳にまで達する。そして前脳に堆積する。塩は思考と関係し、また、自我が、塩に関係している。 塩が胃や腸のなかで沈殿し、血液と共に脳まで送られなくなると、精神薄弱になる。 頭が弱っている、よく考えられない、頭がからっぽという感じがしたら、人参をたべるとよい。人参は地中にある根で、塩を沢山含んでいる。胃に入ると血液を通して、頭に働きかける。 植物の根、葉、花・実について、それぞれの人間の体への作用の違い 人間は酸素を吸って、炭素を吐き出し、人間に不必要な炭素を植物は受け入れ、植物は酸素を放出する。これが人間と植物の相互作用である。しかし、人間と植物の関係はこれだけではなく、人間は酸素だけを必要としているのではなく、植物の全てを必要としている。 一年草の植物の場合、構造上、根、葉、花・果実の3つに大別できる。そして、根は人間の頭部に、葉は胸部に、花・果実は下腹部に働きかける。 では、なぜ、人間の頭部は植物の根と結びつくのか? 植物の根は地中にあり、土に結びつき、地中の塩分を含み、根は地球と強く結びついている。人間は胎児期から乳幼児期にかけて、頭部を中心に成長し、人間はまるで頭からできているかのようである。 頭は全宇宙、また地球を模写したもので、頭部は思考のために、塩分を必要とする。根が頭を育て、葉は胸を育て、果実は下腹部を育てる。だから、植物の最下位が、人体の最上位に、最上位が最下位に転じるように形成される。 さて調理の観点からいえば、例えば人間はなぜ穀物を生で食べないのか? 小麦粉を調理してパンを作って食べる。食物を消化しようとすると熱が必要になる。食物を調理して食べるなら、調理の手間だけ、身体は消化を省けるので、その分楽になる。身体自らが(消化に必要な)熱を発する必要がなくなるからである。 調理によって、胃や腸の負担が軽くなる。一方、植物性脂肪を含む葉は、あまり調理する必要はなく、サラダなどにして食べるとよい。サラダを食べると、植物性脂肪が、肺や心臓を養う。木に実るプラムやリンゴなどの果実は、基本的には調理する必要がなく、果実は太陽によって既に煮られ、内的に熟しているからである。 ここで、ジャガイモについて考えてみる。ジャガイモは、植物の構造上では、塊茎〔かいけい〕と呼ばれる部位にあたり、根ではない。ジャガイモを食べると、完全には根にならなかった植物を食べることになる。 ジャガイモばかり食べていると、根ではないので、消化領域にとどまり、根であるアカカブのように頭にまで到達せず、舌と喉にとどまり、特に舌と喉が刺激され、食欲がわくようになる。 (ジャガイモは食欲を刺激する麻薬であると、シュタイナーは説く。) 根のアカカブなどは、霊的な思考を刺激するが、ジャガイモは、霊的な思考を刺激せず、喉や舌を刺激するので、ジャガイモを食べる人には、霊的で強力な思考はやってこず、弱々しい幻想ばかりが現われる。ジャガイモを常食すると、いつも疲れ、眠く、夢をみたいと思うようになる。 植物は物質体と生命体(エーテル体)から構成され、無機的な物質から、自らの形態を作り上げている。無機的な物質というのは、金属・塩類の固体、水の液体、水素・酸素・窒素などの各種の気体を指す。植物は、炭素から自らの器官を形成し、人間とは逆に酸素を放出する。 しかしこのようなことを行うには、太陽光を必要とし、太陽光は植物の有機体の構築を助ける。太陽光の助けを受け、植物を構築するのは、生命体(エーテル体)である。各々の植物は感覚体(アストラル体)をもたないので、感情はないが、植物全体は(下位神界に自我をもつので)、感情をもち、植物の根は、地中の塩類を自分のなかに受け入れ、大地を吸い込む、という感情のなかで、心地好さを感じる。 春の花は根本的に願望の息吹で、春の花は「憧れ」を具現化したものである。植物界全体は、人間の良心を映す自然の鏡ともいえる。人間の内面にある良心の声が、様々な花の形態のなかに現われ、人間に語りかける。 植物の根は、地球と深く結びつき、地球の歴史・時間の流れのなかで、変化してきた。古代、植物は、ほとんど根だけの存在で、今でも根が地球と深く結びつくのは、その名残である。 一方、植物は地球に縛り付けられながらも、宇宙への憧れも抱いていた。ほとんど根だけの存在だった植物が、宇宙へ憧れ、宇宙の光の彼方への憧れを発展させたのが、花となった。 (花の形は、宇宙を模ったものである。だから、花は銀河の構造とよく似ている。) では、植物を食べるとは、どういうことなのか? 植物を食べると、植物は完全に消化され、頭のなかにいき、気体に変化し、霊的な宇宙に向かって上昇し、宇宙と結びつく。植物の花は光に向かおうとし、外界では、花は「憧れ」を表現していたが、人間に食べられることで、人間のなかで、憧れを実現していく。 植物を気体へと高め、植物が身軽な気体のなかで霊的な存在に向かって努力できるようにすべきである。 これまで、根は人間の頭に、花は人間の下腹部に働きかけることを何回か述べてきた。奇妙に聞こえるかもしれないが、植物が人間のなかに入ってくると、逆さまになり、地球という下方に縛られ、地中にあった根が、人間のなかでは、上方の頭部で、霊的な存在(知性)に向かって、努力するようになる。 根は地上に縛られてはいるが、植物の本性全体を内に担っている。地中から分離され、人間に食べられることで、解放され、上方に向けて努力する。 一方、上方の光の具現であった花は、人体のなかでは逆に、下方に向かい、下腹部にとどまる。しかし、植物全体としてみれば、植物は地球を離れ、人間に食べられることで、憧れの宇宙に結びついていく。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月16日
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前回は、ニュートンが物質界だけでなく、高次の世界についての法則を述べていたことを紹介した。つまり、ニュートンはバリバリのオカルティストだったのである。 さて、オカルトでは、神とは、宇宙を1つに統合する叡智のことを指している。日々移り変わる地球の景色、つまり自然も、神の叡智から現われている。 神の叡智の現われである自然をああだこうだと感じることができるのは、神の叡智を受け入れる知性が、人間に宿っているからだ。だから、人間は神の子なのである。この人間の知性を高めていけば、いずれ神の叡智と一体となり、神の気持ちがわかるようになる。そのとき、人間は天使になるそうだ。 人間は、神の叡智という生命の樹の知識の実なのである。人間は、生命の樹の成果の知識の実をとって食べるのではなく、育てることが肝要なのである。 つまり、いずれにしろ、人間が生きているというのは、神の叡智の一部を自分のものとして受け取っていることになる。この自分という感覚が、神の叡智を受け取れる感性であり、喩えるなら、ヤタ(ユダヤ)の鏡である。 ヤタ(ユダヤ)の鏡に記されている「エヘイエ アシェル エヘイエ」は、「我思う故に我在り」でもあるが、大宇宙から切り取られた小宇宙の自己意識というべきものだろう。 では、自己意識とはどうやって生じるのだろうか? 端的にいえば、元に戻ることで現われるようにみえる。例えば、1年は元旦にはじまり、再び元旦に戻るように、植物のライフサイクル(生命環)を考えればよい。人智学では、植物の自己意識、つまり自我は、地球の自我のなかにあるとされるが、それは1年草なら、四季の営みから推測できる。 これと同じように、人間の血液を考えてみる。 上図をみると、よくわかるが、血液の流れは、8の字を横にした「∞」の無限大のイメージになることがわかる。秘密結社が、無限大や8の字を神聖視するのは、これに由来するようだ。つまり、血液の流れから、人間の自我が生じるといえる。 この図からわかるように、人間の血液は、右側の肺で、酸素を取り入れ、全身を巡ることで、二酸化炭素を排出し、酸素を炭化している燃焼過程を行なっているわけだが、逆に自然、とくに植物は、二酸化炭素を取り入れ、光合成で、酸素を放出していることになる。 つまり、簡略すれば、化学的に、人間から炭素が、自然へと行き渡っていることになる。だから、このやりとりを継続するには、人間は、自然から炭素を摂取しないといけないことになる。だから、人間は、植物の光合成の副産物である炭水化物を摂取するわけである。 もし、人体が植物のように光合成を行なえるようになれば、人間は外界から炭素を摂取しなくてもよい。だから、人工光合成が可能になれば、理論的には、人間は人体の7割が水なので、光を浴びるだけで、他は食わずとも生きていけるのである。 人智学によると、実は、人間の腸では、植物の機能(光合成)を代替する菌を繁殖させることで賄っているそうである。腸は、人体が植物化しない一歩手前の状態を保っているという。 さて、以上のことから、人間が生きていくには、炭素が必要であることがわかるが(勿論、炭素だけでは生きていけない)、だから、オカルトでは、炭素のことを、「賢者の石」と呼んでいたのである。原子量の基準が炭素になっているのは、その証である。 だから、炭素の流れを理解することが肝要で、炭素の構造が、情報を担うことがわかる。炭素といえばダイヤモンドだが、日本語では金剛石と呼ばれる。仏像が金張りされるのは、仏陀が覚ったとき(成仏したとき)に黄金の輝きを発したのを模倣したものだが、これは人体が、ダイヤモンドのような輝きを放ったものになったともいえる。 つまり、人体が植物の光合成を手に入れたときに、人体はダイヤモンドのように輝くという伝説なのであろう。 人体の光合成獲得への試みは、薔薇十字の秘儀でもある呼吸法を、シュタイナーはその喩えとして提示している。その話については以下のサイトから興味深い話があるので、紹介する。 ☆ ☆ ☆ ベジタリアン ~ ブリザリアン http://ameblo.jp/spirituals-aikido/entry-11448288479.html 肉食をしない人をベジタリアン。 食事を取らない人をブリザリアンと呼ぶんだそうです。 世界に25000人もいるとのこと タバコも肉食もやめたけど食事まではなぁ。 究極のダイエット。 地球人だと拒食症に成ると思うけど・・・・・。 ブリザリアン、英語でBRETHARIANと綴る。 水を中心とした液体を摂取するだけで生活している人々のことである。その代表が以下に登場するインド人のシュリ・ヒラ・ラタン・マネク氏。 インディアン・ポストによるとシュリ・ヒラ・ラタン・マネク氏は1995年以来食事をしていないという。 水を飲む他には、時折お茶やコーヒーを楽しみの為に飲む程度で、夕方マントラを唱えて祈りながら太陽を見るというものである。 彼の松果体は通常の人間よりも発達しているという。 松果体は太陽光の受容器官である。 かつてシュタイナーは薔薇十字の修行について 「人間の内部の中で酸素を炭素にする器官を形成する規則正しい呼吸を指導する。 現在植物が行っていることを、将来、人間は自らの器官を通して行うようになるが、この器官を今から修行によって形成する。」 「将来、人体はより植物に似たものとなり、神聖な愛の鎗(聖霊)と出会う」と語った。 その言葉にあるように、マネク氏は「光合成」をしているようだ。 食事をしない人々はインドにおいては他にも例があるようで、聞くところ、 25,000人のブリザリアンが存在するらしい。 もともと、インドには太陽を信仰する文化が根付いている。 バガヴァッド・ギーターの冒頭で、クリシュナ〔最高神〕が、教えのはじめに太陽を語ることに由来する。 ブリザリアンの追従者はアジアのみならず西洋文化圏にもいて、さまざまな形態で発展をとげているようだ。 いずれの場合もベジタリアンからの移行というかたちをとっているようだ。 以前、筆者が一ヶ月のファースティングを行った経験では、体が「宙に浮くように」とても軽やかに感じられ調子も非常に良好、精神的にもゆったりと安定し、なにしろ「何を食べようかな」と考えなくても良いのだからカイロス的時間がとてもゆっくりと流れた。 そして想像した程体重に変化は見られなかった。 たしかに固形の食事をしなくても生きていけるのであれば、食べないと生きられない、という恐怖が軽減されるかも知れないし、沢山食べると健康になるという迷信が過去のものとなるかもしれない。 食糧問題への取り組みが将来的に大きく変わる可能性もあるだろうし、先進国で平均的な暮らしを営んでいる人々にとっても「食うために働く」必要がなくなるのであれば、これは大きな精神的・肉体的解放となる可能性がある。 一部の主婦にとっては、今晩のおかずに悩まずにすむのはストレスの軽減になるだろう。 ここではブリザリアンについて言及することで、これを奨励することは意図していない。 食事をしないという選択は今のところ強い信仰や信念に裏付けられた精神修養の過程あるいは結果であり、人間の可能性に対する自己犠牲が伴う実験だろう。 場合によっては、内在をはき違えた精神性至上主義者的な自己欺瞞ともなりうる。 また、これとは別の問題として食事に対する選択性がない飢餓で苦しむ人々が存在するということを忘れることは出来ない。 そして、地球には地球に相応しい進化のステップがあるだろう。 足元から考えれば、農業を中心に築かれるコロニー/コミュニティー・ベースの社会の到来は今ある多くの問題を改善し、21世紀に相応しい人間の在り方の基本となるだろう。 食の自給という直接的な目的以上に、そこから自ずと導かれる社会的体験がもたらすだろう事にこそ学びと恩恵があるのではないだろうか? そして、暖かい会話をもって食卓を共に囲めるということはとても素敵なことであるし、食事は精神へのマナともなりうる。 人と人のつながりや食べることを通して外界とのつながりを考えるきっかけ、そして感謝する機会を与えてくれる。 それでも、シュリ・ヒラ・ラタン・マネクは私たちの可能性を垣間見せてくれる、とても興味深い例である。 大切なことは、彼が個人の精神的・宗教的修行の為に行っているのではないということだ。 彼は慢性的な飢餓があるインドの出身であり、そのモチベーションは福祉の追求及び平和な社会への貢献にある。 飢えている人々に食べずに生きられる事を教えるというよりも、食べ過ぎる人に「足るを知る」ことを喚起することによって、わたしたちが分かち合う優しい社会を選択する事が出来るのであれば、その貢献は非常に大きいのではないだろうか。 マネク氏は太陽エネルギーを有害な目的ではなく安全に利用すること、そしてこのメソッドを個人の福利や発展と人間性を培うために使うようにと訴えている。http://slicer93.real-sound.net/0-it-space-7104.html(リンク先が消去されている。)より ブリザリアンが無理な人は先ずはベジタリアンから始めてみませんか? ☆ ☆ ☆ 唯物論者は、食事を物的に考えるが、本来、食事とは、量子力学でいう観測論で、自己意識に必要な情報(経験)を摂取するためのものである。 例えば、生物を殺して、その肉を食えば、その肉には殺された情報が残っているわけで、もし、自分がその生物を殺したのなら、殺した行為が、情報として自分に返って来ることになる。少なくとも血液に情報が残るので、血抜きをするわけである。 ニュートンの霊的な第1法則の「生命は生命から生じる」から、食物はできるだけ生きた状態で摂取し、生命機能を真似るのがよいわけである。 例えば、植物の機能を植物から取り入れるのが、植物薬による自然治癒力の回復であり、ここに医食同源の意味がある。
2014年01月16日
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さて今度は、植物を食べるときに生じる味覚を考察する。 味覚を生じさせるものは、植物のなか深くにある経過で、嗅覚のように植物のなかの生命力を、周囲に幻影として生じさせるような経過ではなく、生命力を統合し、植物の内部の形成へと導く経過である。 植物を味わうことで、人間の感覚は、植物の内部の形成を知覚するので、更にその奥の変容、いわゆる硬化や塩化の経過に到達できる。いまは勿論、植物を食する場合の考察なので、この変容の経過は、植物の塩化の経過になる。 これまで考察してきたことから、植物のなかには独特な変容があることがわかる。植物のなかには、まず上に向かう芳香の過程がある。これは、いわば止揚された燃焼の過程で、この芳香の過程から、燃焼の過程をはじめることも可能である。 というのも、花が芳香の発生させる経過には、燃焼の過程が組み込まれているからである。この植物の上部の経過とは逆に、下部には、硬化の経過、つまり塩化の経過がみつかる。 植物についての味覚の経過は、止揚された塩化の経過である。植物のなかに塩の過程が組み込まれているので、植物塩を得ることができるが、それは植物塩が、植物となる経過を超え、鉱物となった結果でもある。植物が塩化する場合、上方の燃焼の過程とは異なり、植物は、自身の本質のなかに、幻影を閉じ込めた、ともいえる。 植物についての人間の味覚の経過から、治療の理論[Ratio]が獲得できる。ある意味、植物に光を当てることができる。植物の塩化の経過に注目すべきである。繰り返し強調すべきことだが、具体的な観察が肝要である。 さて、更に進むためには、高度に臨機応変に、人智学的な理由から生まれる議論を、今日行なわれている治療法に結びつけるべきである。人智学が与える知見から、外(物質)的な科学に橋を架けることができればよい。 当然、人智学的な意味から、次のように現に存在している今日の科学に通用する見解を特徴づけ、関連づけていくこともできる。今日の生理学者は、眼の前にある物質について語るが、人智学者にとっては、物質が、眼の前にある必要はない。 物質が目の前にある必要がない、というのと同じ意味で、人智学者は解剖をする必要もない。今日通用している医学に、人智学からの知見を関連づけるために、実際に人間を解剖するなどという暴挙を受け容れる必要もないが、解剖学が既に存在し、その成果を提供している、という事実に対しては、やはり考慮に入れる必要がある。 人智学により自然科学の見識が豊かになれば、解剖というような暴挙も止むだろう。では一例を挙げる。 視覚、嗅覚、特に味覚との間、つまり、視神経の拡がりと、嗅覚、特に味覚の神経の拡がりとの密接な親和性や関係が成立する事実が、人智学から明らかになる。 視覚と、味覚の間には、非常に密接な親和性が成立し、視覚の経過の内的な特徴を示すには、実際、味覚の経過との類似を探せばよいほどである。確かに、味覚の神経が拡がる器官と、視神経が拡がる精緻な器官とが、直接には結びついていないので、視覚と味覚は本質的には別物である。 しかし、眼という精緻な物質構造の背後の、いわば視覚の経過の基点は、内的に、味覚の経過と親和性をもつ。人間は、視覚において、味覚の変容[Metamorphosiertes Schmecken]を実現している。食物を味わう味覚の器官が、味覚の経過を引き起こす前に、眼の精緻な構造により、食物の外観を生み出すことで、味覚の変容がなされる。 (食物を見て食べるのと、眼を閉じて食物を食べるのとでは、味覚が異なる。例えば、ゲテモノを食べるときは、自然と眼を閉じて食べるだろう。)
2014年01月16日
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「集合自我」という単なる抽象的な概念ではなく、この空虚な抽象概念を、感情や感受性へと変化させ、その中に参入すれば、自然の事象とともに生きることが学べる。感情を伴った自然観察は生き生きとした感受性を育成する。 秋に郊外に行き、穀物を鎌で収穫している様子を見れば、作物の茎を鎌で切り取る行為に合わせて、畑の上に何か霊の風のような心地好い感情が吹き渡るような気がする。霊視者は、地球のアストラル体のなかに前回描写した地球霊の心地好い基本感情を読み取る。 この地球の感情を読み取れば、穀物の収穫が重要な出来事となる。ある体験の際に、ある決まった種類のアストラルによる感情が人に起こるのと同じように、秋の畑の上には、地球のアストラルによる心地好い感情が吹き渡るのが感じとれる。 しかし、鍬で地面に畝を立て、植物の根に手を加える場合は、全く事情は異なる。鍬での畝起こしは地球に苦痛を与えるので、この場合、苦痛の感情が立ちのぼるのを感じ取れる。このことについては、容易に次のような反論が起こる。畑に邪魔な植物を切り取るより、根ごと引き抜き、移植して役に立つ場所に移動するほうが良いのでは、というような反論である。 このような反論は、道徳的な観点から考察すれば的を得るものだが、霊的な意味では、全く異なった解釈が適応できる。確かに、白髪になり始めたときに、白髪を抜く方が、美的な感覚から良いと感じるだろうが、髪を引き抜く際には、苦痛を感じるものである。 髪を切るのが人にとって心地好いのと同じように、花を摘むことは地球にとって心地好く、髪を抜くのが痛いのと同じように、植物を根から掘り起こせば、地球も痛いのであり、切るのと、抜くのでは全く異なる感情が起こる。 そもそも生命は苦痛を通して、この世に現われる。生まれてくる子供は、出産する母親に苦痛を起こさせる。このようなことは、外界という環境の中で、単純に抽象的に認識するだけでなく、自然の中に感情移入する術をどのように学ばねばならないか、ということの1つの教えである。 このことは、植物だけでなく、鉱物にもあてはまる。鉱物も自我をもっているが、ただ、鉱物の自我は、植物よりも更に高次の領域にある。神智学文献が、神界のアルーパと呼んでいる高位の神界にある。鉱物の集合自我は、物質界にある人間の自我、アストラル界にある動物の集合自我、低位神界にある植物の集合自我と同様、自身で完結した存在(「私」という意識をもつという意味)である。 物質界には、鉱物の物質体のみ存在するが、鉱物にもアストラル体もエーテル体もある。霊視者は生命的な相関性を読み取れる。例えば、採石場に行って、鉱夫たちが石を切り出しているのを見ると、霊視者たちには、生命体がもつ肉(物質)体を切り取るような感覚をもつ。鉱夫たちが働く間中、鉱物のアストラルによる感情の流れが岩石を貫いている。 鉱物がもつアストラル体は、低位神界にあり、鉱物の自我は高位神界にある。そこで、岩石の自我は苦痛と喜びを感じる。岩石を叩き落とすと、鉱物の集合自我は喜び、満足を感じる。一見、逆のように思われるが、実際に霊視すれば、そのように感じられる。 唯物的な類推で考えるなら、岩石を打ち砕けば、生き物を傷つけるように、岩石が痛がるように思うかもしれないが、岩石は砕かれ、粉々になるほど、鉱物の自我は満足を覚えるのが真相である。 (地震は、岩石が砕かれるので、鉱物にとっては喜びになるが、その上で生きる人間には苦痛である。) さて、「ではいったい鉱物の自我はどのような場合に苦痛を感ずるのか?」という疑問が生じる。 鉱物の自我が苦痛を感じる場面を、次のような例から知覚できる。いま、食塩水が入っているコップを想像する。食塩水を冷やしていくと、塩が結晶となって分離され、塩という鉱物の実質が固体化し現われてくる。このような固体の析出の際に、苦痛が生じる。 同様に、砕いた岩石を全部合わせて、また一つの岩石に戻すときにも、鉱物には苦痛が生じる。鉱物の集合自我は、鉱物が溶解する際には常に喜びが生じ、固体化する際には苦痛が生じる。温水に塩を溶かせば、鉱物に満足感が生まれ、塩水を冷却して塩の結晶を析出すると、鉱物に痛みが生じる。 (砕石は無秩序化で、不可逆の自然の流れ「エントロピー増大」だが、石(結晶)化は秩序化で、可逆の自然の流れ「エントロピー減少」であることから、想像できる。つまり、鉱物は分離の流れには喜びを感じるが、統合の流れには苦痛を感じる。 人間も、本人がやりたい自由な行為なら、喜びを感じるが、他者から命令され不自由な行為なら、苦痛を感じるのと同じと考えればよい。それも、やりたいか、やりたくないかの自我の自由な選択の問題だが…。) このような事実を、より大きな宇宙的な関係性の中でイメージすれば、地球の形成、つまり鉱物の形成が鉱物の集合自我の感情とどのように関係するのかがわかる。地球の形成を、原初まで辿っていけば、地球の温度が上昇し高温になっていく。 そしてついには、レムリア時代の岩石の1つ1つが溶解している状態、つまり現在は完全に固く結晶化してしまった鉱物が、今日の溶鉱炉の中で鉄が液体化され流体のようになっている状態に到達できる。鉱物は、この流体のような状態から、固体へと、つまりコップのなかの食塩水を冷却すると、溶けていた塩が沈殿するような固体化の巨大な相転移を経てきた。 このように、地球上では全てが固体化し、結晶化してきた。このような地球の固体化は、液状の地球のなかに、固体や結晶として、鉱物が次第に沈殿していく形で進行した。このような固体化によってのみ、地球は今日の肉体を持つ人類の住処となり得た。 無論、この固体化はある特定な時期に頂点に達したことが想像できる。今日、ある意味、この頂点の時期は過ぎている。今日すでに部分的には液化の過程が現われている。地球が、自身の目的に達した時には、そしてまた人間がもはや地球から何も学ぶものがないほど、浄化され霊化された時には、地球自体もまた霊化されているだろう。 その時には地球の鉱物全てが、精妙なエーテルになり、地球は、物質化する以前のアストラルの状態に移行できるようになる。物質の液化は、地球がアストラルに到るための移行期の前触れなのである。
2014年01月16日
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前回は、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログより、既知外物理学の前触れのニュートンの法則を抜粋紹介した。 しかし、ニュートンがオカルト野郎だったことでもわかるように、ニュートンは物質界だけの記述式を書いたのではないことを説明します。 例えば、慣性の法則は、霊魂の法則といってもよいもので、物質界は、その上の高次の世界、霊界の影響を受けなければ、物質崩壊の法則に従うという意味に置き換えられます。つまり、物質界は、その上位の世界によりエネルギーを与えられない限りは、崩壊に向かうという意味です。これを唯物論を基にする現代物理では閉じた系を考え、外力として誤魔化しています。 つまり、これは生命の法則をも表わし、「生命は生命より生まれる」という意味も併せ持つわけです。生命より生まれないものは、崩壊に向かうということです。 次に、ニュートンの運動方程式で、作用の法則といわれるものですが、この式を仕事の式に変換して考えれば、物質界で行なった経験を表わすものと考えられます。 「物体が受ける力Fは、物体の質量mと加速度aの積に比例する」が、「人の経験Fは、自己の意識mと行動aの積に比例する」と考えられるわけです。 もっと、オカルト的にいえば、「運動は、霊魂が肉体に課したものに比例する。」というわけで、運動Fは、霊魂mと肉体aの積に比例する。」というわけで、運動(物質界での行為)は、霊魂のもつエネルギーと、それに費やされた肉体の機能の積に比例する。」というわけなのです。 そして、重要なのが、次の「作用・反作用の法則」といわれるカルマの法則で、自己非自己の法則ともいえるものです。 これは物質界で自己がなした行為と、非自己がなした行為は等しい、というものです。自己がなした行為が、自己に返って来る、といういわゆる鏡の法則です。 例えば、「二つの物体A、Bの間に働く力は一方の物体に働くだけでなく、もう一方への反作用の力が働く」とは、「両者A(自己)、B(非自己)の間に働く行為は、一方(A⇒B)に働くだけでなく、もう一方(B⇒A)への反作用が働く」というようになります。 これをニュートンの動的作用反作用の法則にまで拡張すると、輪廻転生の法則になります。 つまり、F1 * v1 = - F2 * v2は、その人が人生で行なってきた全てが、反作用となり、来世の自分を形作る、という意味の最後の審判の式ともなるわけです。 というように、オカルト野郎のニュートンは、オカルトを記述し説明したのですが、後世の弟子とかが馬鹿ばかりだったので、唯物論で解釈して、現在のニュートンの力学の体系をつくってしまったのです。 ニュートンの力学を唯物論でなく、高次の体系として考えれば、量子力学の観測論とも整合性がとれてくるはずです。 以前述べた量子力学では、観測者により、事象が決定するというものでしたが、ニュートンの慣性の法則、ぶっちゃけ、感性の法則とってもいいですが、生命体が、生命を決定するといってもいいものです。 生命体は、子から親に成長し、また子を産み遺伝を継承するという遺伝の法則を含んでいます。だから、感性の法則は、遺伝の法則でもあるわけです。遺伝子をみれば、その個体がどのように成長するか予測できるわけです。 すなわち、量子力学と、ニュートン力学を組み合わせると、多世界理論から、霊界の法則が導かれるのがわかるでしょう。とりあえず、今回はここまでにします。
2014年01月15日
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このブログでは、歴史について云々紹介し、書いていることが多いが、それは歴史がカルマの研究の題材に適しているためでもある。 特に騙す者は騙されるということが、日本の戦国時代からよくわかる。 八切史観によれば、家康は元康になりかわり、信長を騙したので、信長が怒って殺そうとする前に、斉藤利三を唆して、本能寺で信長を返り討ちにしたが、利三の娘の福に、光秀の子光慶との子を、家康との子家光と騙されて、三代将軍にして、徳川家を乗っ取られてしまったわけである。 つまり、信長も、秀吉も、家康も、天下人として、自身一代とそれぞれ跡継ぎの信忠、秀頼、秀忠の2代目半ばで終わったことになる。織田家は豊臣家に、豊臣家は徳川家に、そして徳川家は明智(斉藤)家に乗っ取られたわけである。 そもそも、信長は美濃を道三と子義龍の家督争いから騙まし討ちのような形で奪いとったわけで、その斉藤家の利三から本能寺で討たれるのは、自業自得ということになる。カルマが成就しているわけなのだ。 徳川家は三代家光以降は、明智-斉藤家になっているのだが、8代吉宗が、家康の子頼宣の紀州徳川家から出ているので、家光の明智の血でなく、再び家康の徳川の血に戻ることになる。8代以降は、14代まで吉宗の血だから、家康の徳川家になる。そして、15代では、家康の子頼房の水戸徳川家から出た慶喜になる。 吉宗は、血統からいえば傍流だったのが、運よく将軍になれた背景には、明智-斉藤家に乗っ取られたことを知る者が再び徳川に戻そうとしたのかもしれない。 さて、このような歴史のなかのカルマといったことから、その法則性がみえてくる。 以前、ニュートンが、生命の樹を研究していたオカルティストであることを紹介したが、「黄金の金玉を知らないか?」さまが、既知外物理学を発明しようとしているのと連動し、ニュートン力学を、歴史法則に当てはめてみたい。 まずは、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログを以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ 新春お年玉企画第一弾!!既知外物理学登場! その1 http://golden-tamatama.com/blog-entry-1343.html ヒャッハーー! このハイパーなブログ。 ますますハイパーになっていく展開に皆様は、ついてこれるでしょうか。 お待たせしますた。 2014年新春お年玉企画第一弾!!の告知です。 かなり前にやってたドラマ「ガリレオ」。 福山雅治さんのドラマでしたね。 ワタスも好きで見ていますた。 か、かっこええ。 ガリレオ先生はもちろんドラマの話なのですが。 (所詮ドラマです。あんな格好いい物理屋さんはいません。物理屋は外見を気にしない人が多く、風貌はほぼオタクに近いです。第一、物理は理論屋と実験屋にわかれていて、湯川先生はどちらか不明です。「ガリレオ」よりも、「トリック」の上田教授のキャラの方が現実に近く、理論物理にいそうな感じだが、金銭には無頓着。) 例えば、皆様 過去250~340年間に世界の大数学者達が解こうとして解けなかった世界史的難問 「双子素数予想」 「ゴールドバッハ予想」 「フェルマの最終定理の代数学的証明」 「5番目以降のフェルマ数は全て合成数であることの証明」 この4つを解いたと言われている日本人科学者がいる。 そんな人がいると聞くと会いたいと思いますよね。 ぇえ? そんな人いるの? いや、ワタスは、そのゴールドマンサックス予想とか フェルマーのなんとか定理というのはさっぱり分からないのですが。 実はそう言う人が存在する。 リアル湯川博士は存在した。 佐野博士でした。 佐野千遥(さの ちはる)博士 1970年東京大学基礎科学科卒:数学・物理学専攻 ほとんどの日本人が佐野さんを知らないのは、佐野博士がずっと海外に行ってたからです。海外暮らしの方が長く日本にはほとんどいませんでした。 佐野さんは卒業後、若くしてスペインに留学され、その後はヨーロッパを拠点に研究、1995年からはロシアに拠点を移し1998年からロシア科学アカデミーの一員として2006年までいた方でした。 ロシア科学アカデミーは、聞いたことはあるかもしれません。 ロシア科学アカデミーは、ピョートル大帝時代に作られて、その昔は、数学者のレオンハルト・オイラー、クリスティアン・ゴールドバッハ、ニコラス・ベルヌーイ、ダニエル・ベルヌーイ兄弟がいました。 現在は、正会員約500名、準会員約700名、外国人会員約150名余、ロシア連邦教育省の所管で18の学術分野と約300の研究機関を傘下に有する一大組織、ロシアの最高学術機関です。ロシアの研究者や科学者がこのアカデミーの会員となることを夢見る機関なのです。 こんな凄いロシア科学アカデミーなのですが、ロシアのニュース報道が日本にあまり入って来ないように、西側世界はほぼスルーされてるで日本人にはあまりなじみがありません。 ロシア科学アカデミーの科学者で、唯一、日本人が知ってると言えばあの水爆の父と言われたサハロフ博士でしょうか。 アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフ(露: Андре́й Дми́триевич Са́харов)1921年5月21日-1989年12月14日(満68歳没) 1949年8月29日、ソ連最初の原爆を完成する。 次いで水爆開発に従事し、1953年8月12日水爆開発に成功する。この功績によりサハロフは、32歳の若さでソ連科学アカデミーの正会員となり、社会主義労働英雄の称号を3回も得、「ソ連水爆の父」と称される。 実は、この水爆の父と言われたサハロフ博士でさえ、ノーベル賞は貰っていますが平和賞なのですね。物理学賞を貰ったわけではないのです。サハロフ博士は、核実験による放射能汚染を目の当たりにし、一転、核実験中止を訴えて運動家となったのです。それが西側世界に認められてノーベル賞を貰ったのでした。 他にロシア科学者でノーベル賞を受賞した人と言えば、チェレンコフ光というのを聞いたことがありますよね。あの原発の青白い光をチェレンコフ光と言いますが。このピカピカという青白い不気味な光。 これを見っけたチェレンコフさんのみ、ノーベル物理学賞を貰らいました。 パーヴェル・アレクセイヴィチ・チェレンコフПавел Алексеевич Черенков1904年7月15日-1990年1月6日(85歳没) それ以外は皆無です。 なーんだ。 ロシアって、ノーベル物理学賞貰ったのはたったひとりか。 たいしたことないね。 そうじゃないのです。 水爆を既に1950年代に作ってた国ですよ。 その学術レベルは今でも世界最高峰なのです。 西側世界からスルーされてるだけ、本当は、最先端を行ってるのです。 まぁ、単純に言うとノーベル賞受賞者が少ないのは、ノーベル賞がロスチャイルド賞。 ロスチャイルドに貢献した人が貰える賞だからに他ならないのですが。 さて、佐野さんの話に戻すと、 実を言うとそのサハロフ博士と同時代。1980年代ですが、ロシア物理学会において、サハロフさんを現代物理学〔量子力学と相対性理論〕の雄とするなら、それを真っ向から批判し大論争をしていたスミルノフ博士という人がいました。 スミルノフ博士の情報はほとんどロシア語でしか出て来ません。現在存命中の方で80歳代です。 アナトリ パーブロビッチ スミルノフ(Анатолий Павлович Смирнов 英語:Smirnov Anatoliy Pavlovich) 皆さんはニュートンさんはご存じですね。あのリンゴがニューすとんと落ちて万有引力を発見したというニュートンさん。 ニュートンさんにちなんでこのような科学雑誌も出ています。 ニュートンさんと言えば、プリンピキアですね。プリンピキア=『自然哲学の数学的諸原理』〔しぜんてつがくのすうがくてきしょげんり〕英語:Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica こういう著書です。 プリンピキアは、ラテン語で書かれた本でした。 ニュートンさんは前にも書いたことがありますが、今でこそ物理学で有名ですが、本当は、錬金術と聖書の研究に没頭していたオカルト野郎でした。 オカルトにのめり込むニュートンさんを友人のハレー(ハレー彗星の発見者)が、自然科学の世界に引き戻したのです。 あんた、そんな知識あったら、錬金術なんてオカルトやってないで、本書きなよ! ハレーがニュートンの代わりに出版費用まで受け持って出版したのが、1686年出版のこのプリンキピアでした。 このプリンピキアが、世界に衝撃を与えた書と言われる理由。なんとこのオカルトニュートンさん、それまでの各分野で築きあげられた力学、物理学、天文学の世界を全部まとめて十把一絡げ。一つの体系にまとめあげ、一挙に変革してしまったからでした。 日本語の訳書は岩波や講談社から出ています。 プリンピキアの中でニュートンさんが提唱した運動三法則がこれ 第1法則:慣性の法則 「外部から力を受けない限り、物体はその運動状態を維持する」 〔静止を続ける、または、等速直線運動を続ける〕 第2法則:ニュートンの運動方程式 「物体が受ける力Fは、物体の質量mと加速度aの積に比例する」 第3法則:作用・反作用の法則 「二つの物体A、Bの間に働く力は一方の物体に働くだけでなく、もう一方への反作用の力が働く」 さて、前述のスミルノフさんですが。 実は、このニュートンさんのラテン語の原書プリンピキアから、第3法則に加えて、第4法則とも言うべき法則が書かれていることを発見したのでした。 それが、良く分からないかもしれませんがこれ。 ニュートンの動的作用反作用の法則 F1 * v1 = - F2 * v2 第3法則は、第4法則の特殊な形、つまり静的な形と言うべきものであり、スミルノフさんは、この動的作用反作用の法則、1式が変われば、現代物理学を根底から書き直さねばならない!と主張したのでした。 ふーー。 書いてるうちにめちゃくちゃ長くなってしまいました。 とにかく、ワタスがスミルノフ学派物理学を学ぶに。 今までと全部逆です。 あんたね。。ビックバンなんてないんだよ。。 ぇえ? 逆だよ逆。 始めに光ありきなんだよ。とか。 エントロピー増大の法則も嘘だよ。 逆だよ逆。 エントロピー減少の法則だよ。 とか。 ぇえ? とにかく、この既知外物理学を学ぶと、 ありゃぁ? グレンとひっくり返っている。。 全部逆になってしまうのです。 なんで佐野さんが、この既知の外〔きちのそと〕。 スミルノフさんの既知外物理学派にに携わることになったのかは、次回です。 ☆ ☆ ☆ 実は、このニュートンの法則は、物質界だけのものではないのです。次回に説明します。
2014年01月15日
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前の続き。 ☆ ☆ ☆ 1947年9月20日、天皇が、日本占領軍の指揮官ダグラス・マッカーサーと、マーシャル国務長官に送ったメモが、ワシントンの米国・国立公文書館に存在している。 そこには、『沖縄に米軍の大部分を駐留させ、沖縄を米国領土とすることによって、日本本土を米軍支配から独立させる方法を取りたい』と、記載されている。つまり沖縄を『日本から切り捨て』、『沖縄だけに米軍を置き、犠牲にする事』を、天皇自身が米国に『提言』していた。 太平洋問題調査会に集った人々 太平洋問題調査会は〔IPR〕は、大正15年〔1926〕から日本で常設となった機関であるが、これはロックフェラーとソ連の指令下にあった秘密工作組織である。 「日支闘争計画案」は大正7年〔1918〕にモスクワのイルミナティ会議〔ユダヤとボリシェビキとの合同〕で採択されたが、内容は「日本と支那の内部破壊をはかるとともに、支那に反日運動を起こさせ、日支の武力闘争にまで発展させる。これをソ連とアメリカが参画する戦争にまで発展させて日本を倒し、同時にヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する」というものである。 IPRの日本代表は、新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔 であり、幹事長はキリスト界の斉藤惣一である。 第三回会議は昭和4年に京都で開催され、アーノルド・トインビー、ジョン・ロックフェラーIIIらが参加した。米国代表のオーエン・ラティモアはソ連のスパイ。親英・親米と見せながらコミンテルンに身を置いていた、西園寺公一も参加。 IPRは以後対日・対中謀略ルートとなり、ゾルゲもこのルートをたどった。尾崎秀実もIPRの協力者である。 世界支配の英国諜報網とユダヤの金権情報網が合流したユダヤ・フリーメイソンは、日本の政・財・経・軍の機密の大略を入手していた。それは、フリーメイソン網と、その外郭情報機関であるロータリー・クラブからの報告によるものであった。それらの情報は、上海にあったユダヤ・サッスーン財閥に集められた。 日本は、チャーチル、ルーズベルトによって戦争に引き込まれた。 「フリーメイソンはユダヤの組織である。その歴史も階級も、職務、標語、規則もユダヤのものである」〔ユダヤのラビ、アイザック・ワイズ〕 ユダヤ・フリーメイソンの陰謀が日本で問題視されたのは、ナチスの宣伝やシベリア出兵後のことではなかった。新渡戸稲造や吉野作造らがユダヤ・フリーメイソンであったことが知られていた。 ユダヤがユダヤの砦として造りあげた二つの人造国家、フリーメイソンによるアメリカとマルキシズムによるソヴィエト社会主義共和国連邦とは、表は拮抗対立と見せ、裏は一つに結んでいた。赤と白として見せたほうが、ユダヤが儲かるというだけのことであった。 平沼騏一郎、赤尾敏、大川周明は米国の対日工作員であった。 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。 日本の重臣どもが既にユダヤの虜になっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は断ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川(周明)や石原(莞爾)らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 ルーズベルトは就任早々ユダヤの要請に基づいて、日本に戦争を仕掛ける計画をたてはじめた。計画に参加したのはIPRのヘンリー・スチムソンである。 一方ユダヤは同委員会を利用してゾルゲをはじめ共産主義者らに日本のスパイ網を組織させた。資金はチェースマンハッタンから出た。西安事件は、抗日擁ソのための統一戦線構築のためで、日本の戦力拡散をねらったものである。 宇垣内閣では、ゾルゲグループの一員であった米共産党系の宮城与徳の近親者・矢部秀が秘書をしていた。林内閣ではコンミンテルンの浅原謙三と十河信二が密着していた。近衛内閣では、後藤隆之助による昭和研究会に取り巻かれながら、左翼の風見章を中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていた。 これと前後して、蒋介石を盟主とし日本を米国の1州として、アジアをソ連が支配するという原理にたつ東亜連盟が、石原完爾を表にたてて偽装右翼活動をとりはじめた。石原を林銑十郎に進言して仙台から参謀本部に転出させたのは浅原謙三である。 すべては夷をもって夷を攻めさせるという日支闘争計画を知らないでは理解できない。近衛も米内も、日支の衝突を画策する者のあることを感じてはいたが、その正体を知らなかった。 ユダヤが策した日支闘争計画 1919年〔大正7〕にモスクワでイルミナティ〔ユダヤとボリシェビキの合同〕会議がひらかれ、「日支闘争計画案」が採択された:〇日本と支那の内部破壊〇支那に反日運動を起こさせる〇日支武力闘争から、ソ連・アメリカが干渉する戦争へ発展させて日本を倒す〇ヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する この実行機関となったのがIPR〔既出〕である。 1931年〔昭和6〕の満州事変以来、ユダヤが日本と中国の共産党にとらせた行動とは:〇中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、日本の革命を進める〇中国人民の抗日感情をあおり、国民党と日本の妥協を不可能にする〇戦線を華北から華南にまで発展させ、ソ連包囲体制にひびを入れ、国府軍と日本軍との衝突の間隙に乗じて中共の発展をねらう 南進を決定づけた謀略レポート 1941年〔昭和16〕に独ソ戦が始まると、ソ連は「日本がシベリアに侵攻しないようあらゆる工作をすべし」との指示を日本共産党員にだした。満鉄調査部にいた左翼の佐藤大四郎は、シベリアの農産物と畜産事情のレポートを求められて、「日本軍100万の食料はシベリアでは調達不能」という報告書を提出した。同調査部には尾崎秀実もいて、この内意を佐藤は受けていた。 ユダヤに踊らされた日本人 米内光政の身内や縁故者たちから、国家機密が敵国に流されていたのは事実である。縁故者の中には東条の鎌倉での生活費を賄っていた者もいる。ミッドウエーの敗戦は、ユダヤ問題の犬塚惟重と国際連盟に身を置いた稲垣守克が情報を流したことによって起こった。 大川周明は、裏表が多く、見え透いた嘘が多い扇動家である。北一輝も扇動家であり、北と大川の訣別は安田保善問題が原因といわれるが、金の分け前を巡る争いである。この金銭授受にはユダヤの代理人巖本善治が関係している。 巖本は米英ユダヤの手先となり、私設外交官として暗躍していた男で、大川周明との関係は愛国陣営にまでもユダヤの手が伸びていたことを示す。巖本と大川の資金元は上海ユダヤのハードン財閥である。大川は反英を装いながら親米であり、ユダヤの資金ほしさに巖本に近づいた。 (巖本善治が、「勝海舟」の本を編集しているところがいかにも怪しい。勝もメーソンの可能性あり。) 大川のいわゆる日米経済提携というのは、ユダヤの対日謀略の一環として計画されたもので、ユダヤ資本の援助を受けていた西川末吉からでたものである。 大川は戦後、自分は中国と事を構えるのに反対していたと書いているが、これは明らかな嘘である。 佐々弘雄が戦後に大川周明、楢橋渡、児玉誉士夫の三人がハードン財閥と直結していたことを発表している。 ☆ ☆ ☆ 以上のように、足利幕府までが大陸進駐軍時代、信長を代表とする部落民の独立が起こった戦国時代から、江戸幕末まではイエズス会進出時代、再び西郷らの部落解放運動が起こった幕末討幕運動の明治維新からが、メーソン進出時代という大まかな性質を日本史の裏面がもっていることがわかる。
2014年01月15日
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前の続き。 ☆ ☆ ☆ 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその手先の者として厳重に監視するように指示したのは、いったいどう解釈したらよいのか。 表面は大川の指示で動いているように見せて、実は大川の動きを封じる策に出ていたとみるべきであろうか。甘粕は「南方に出張しました」と言っては大川宅に立ち寄り、妻女にワニ革のバッグなどを土産として持参していた。 大杉栄殺害の裏にユダヤ禍(159P) 北一輝が刑死して、その遺骸が北家に送り届けられたとき、焼香に来た大川を北夫人が拒絶した話が伝えられていた。その大川は機会をとらえて、北と自分の関係が最後までうまくいっていたように見せようとしていた。 自分が北に信じられていたということを、ことさらに印象づけようとして、極端に作為したのはどうしたことか。それは遠藤無水氏や横山雪堂和尚に尋ねる必要もなかった。愛国陣営の大川に対する不信を糊塗するための作為にすぎなかったのである。 革命者として一家を成した北一輝が、単にその場その場だけの気分に駆り立てられる煽動屋にすぎなかった大川を、どの程度相手にしていたかは、北の腹のうちにあったことであり、私の想像は許されない。 猶存社に堀やす子〔*堀保子。堺利彦の義妹で大杉栄夫人〕がおり、北の弟〔*吉〕が大杉栄からフランス語を学んでいたりしたためか、甘粕が大杉らに手をかけたことを知ったとき、北は激怒したという。 その北一輝がヨッフェ問題では、その来朝を願っていたところの大川や満川亀太郎らとは反対の行動をとり、これが原因で北が大川や満川らと訣別するにいたった、と言われるほどの態度に出たのは何ゆえか。 *北一輝『ヨッフェ君に訓〔おし〕ふる公開状』は、大正12年5月9日付で約3万部が全国に配布されたという。 ヨッフェの来朝の工作をしたのは藤田勇だともいわれ、あるいはその以前に、大杉栄が後藤新平の内意を受けて北京に潜行し、事前の工作をしていたのだとも言われていた。その大杉を死なせた甘粕が、出獄してから川渡〔かわたび〕温泉に身を潜めていた理由は何か。単なる静養のためではなかったはずである。 朝日新聞の国見特派員が甘粕を川渡温泉の高友旅館に探しあてる前に、既に渥美先生の懐刀の熊谷甚平〔寂〕先生が甘粕を訪ねている。そのとき甘粕は身辺に危険を感じ、身を潜めていたという。 甘粕が出獄後、身辺に危険を感じなければならなかった理由として熊谷先生から説明をうけたが、大杉は愛国陣営から好感を持たれていたからだったという。 大杉たちが憲兵隊員に連行されたときも、淀橋署員が尾行していたし、検束されたことが直ちに警視庁に通報されたのも、大杉に対する警察当局の特別の慮りからだったと当時の愛国陣営では考えていたようである。またある者は、大杉は警視庁の特命を帯びて危険思想の陣営に入りこんでいたとも想像していた。 この大杉の★警視庁密偵説の真偽を確かめるため、私が私設秘書をしていた貴族院議員で元警視総監の赤池濃氏に尋ねたことがあったが、氏は言下に否定された。ちょうど会話が大和の水平社や朝鮮人の頭目の鄭寅学のことにふれていたときであった。 「私が警保の当路にあたったときのことであり、間違いない」とのことであり、故意に事実を蔽うふうでもなかった。生前の赤池氏からは、大杉栄と後藤新平との接触のこととか、ヨッフェ来朝の真意などについても聞いておくべきことが多くあったが、空襲を受けて話も中断し残念なことをした。その後間もなく大阪駅で暗殺の厄にあわれ、まったく心残りであった。 大杉栄の警視庁密偵説を赤池濃氏にただしたことには付記することがある。甘粕が大杉を殺さなければならなかった理由を、甘粕自身の口から聞くこととする。 ―上海のガーデンブリッジを渡り、一つ目の四つ角を右に入ったところに、酒池肉林の地下室を持つキャバレーがあり、その奥の部屋に、長身で黒眼鏡に鳥打帽の男が入っては消えてゆき、数日間は出て来ない男といえば、それは上海においての大川周明のことであった。 大川は上海に現われると、その宿舎とされていたホテルやビルには入らずに、大抵は、まずこのキャバレーを通路としていずこへか消え、上海に出先機関を有するユダヤ財閥と連絡を保っていた。 その大川の動静を探らせるための機関員に対して、予備知識を与えるために大川を解剖した甘粕の説明のなかに、甘粕の渡満のきっかけとなった大杉栄事件があった。甘粕の言うところによれば、大杉は★後藤新平の内意を受けて、ヨッフェ来朝に使いし、それが成功したので、いよいよ名声を博するようになった。 甘粕がその大杉を抹殺しなければならなくなった理由は、★大杉がユダヤ財閥と深い関係を持っていたからであり、その殺害は、ユダヤと大杉との関係を絶つためであったという。警視庁は、親英米派である重臣どもの息がかかっていて実行できないから、憲兵隊でこれを始末するしかなかったというのであった。 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。 日本の重臣どもが既にユダヤの虜となっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は絶ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川や石原らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 ローマ法王の工作員、サビエルの挑戦(191P) サビエルは伝道のためではなく、戦いを挑んできたのだ。サビエルはローマ法王の僧兵の一人なのである。ローマ法王は全世界を支配する皇帝であり、この世においては法王の権威に勝るものはないとされていた。サビエルはその法王から、法王の代理としての全権のみならず、ポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権をも与えられていたのである。 それゆえ東方占領地においてキリスト教に改宗しない土民を殺戮し、財産を奪い、焚刑に処し、寺院を焼き払い、暴虐の限りを尽したのである。異端・異教は悪魔の教えであるとして、愉しければ愉しいほどキリスト教の神は悦ぶとした。欧州・東方・南米において、キリスト教によって虐殺された人の教は一千万を超す。 私が20代の頃、仙台の東北学院神学部で講義を受けてい教授に出村剛という教授がいた。キリスト教会史の講義の時間にいつも述懐していたことは、キリスト教のこの異端・異教を虐殺した事実であった。そして教授は、キリスト教による異端虐殺史を集大成して世に問うことを念願していると告白したものである。 異端・異教迫害に関する研究書の頁を開き、挿絵を示してくれたが、女性を全裸にして、陰部から杙〔くい〕を突き刺し、頭蓋まで貫いていたのを裸馬に跨がらせて練り歩いているエッチングであった。「キリスト教ほど、このような罪悪を犯した宗教はない」と幾度も呟いていたのを60年後の今日でも思い起こす。この絵はローマ法王の命によるカタリー教徒皆殺しのときの情景の一つであった。 これは異端皆殺しの例であるが、異教の地インドにおけるポルトガル宣教師らの土民虐殺と財宝奪取、南米太平洋岸諸国のスペイン宣教師の手引きによるスペイン軍隊たちの人民殺戮と財宝収奪とは、歴史上顕著な事実であり、西欧諸国のキリスト教宣教師らによる先導によって植民地占領がなされていた事実も蔽い隠すことはできまい。 しかし、そのようなことは日本においては果たすことはできなかった。その理由は次に示すイエズス会のドン・ロドリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書に記すところである。 「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」 と、敵情報告に判断を付して諜報している。 ザビエルもまたポルトガル国王に、 「軍備においては日本はヨーロッパと同水準にあるため、軍隊をもって征服する望みは抱かぬほうがよろしい。それよりも心に訴えて納得させれば、この上なく忠実なキリスト教の下僕となるのだから、もっと智能の勝れたバテレンを派遣せられたい」 と上申している。 武力占拠は断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を公許させる方策に出たのである。いずれも日本乗っ取りの方策の謀であった。 この書翰に見るように、キリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員であったのだ。日本をまずキリシタンにしてしまってからキリスト教国の属国として占領してもよく、キリスト教国の属国として占領してからキリスト教化してもよかったのである。 以前、アメリカ・ミッションから差遣されていた宣教師たちが帰米するたび、まず軍の関係機関に立ち寄って報告を終えてからそれぞれの地に帰ったという話を、留学を終えて帰国した日本人神学生に聞かされていた。 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2014年01月15日
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前の続き。 ☆ ☆ ☆ かつて国際連盟が開かれていた頃、その会合の開催される前日にかならずユダヤ会議が開かれ、その予備会議で決定されたとおり本会議で議決されていた事実は、会議に参集していた各国の情報官によって伝えられている。 ユダヤと利害をともにすることができなかった国家群が、国際連盟を脱退しなければならなかった原因もここにあったのである。 キリスト教とユダヤ・フリーメイソンとコミンテルン、これらをつらぬく敵性が、歴史と伝統とを保持する国々に革命を起こして滅ぼし、これら敵性に拮抗して自国と民との自立共栄を念願していた国々を地上から抹殺しようとした理由もまた、この「主の道を直くする」ということのなかに意図されていたのである。 「主の道を直くする」というユダヤの寺の教理はその後も永くキリスト教伝道の基調になってきたのであるが、日本における「神の国運動」も、ユダヤの王の再臨を準備するということであって、賀川豊彦らがアメリカ共産党からの資金によって主唱していたものであった。 この運動も日本に敵国の内応者を養成する企みからなされたものだ。キリスト教の単なる信仰上の運動なら問題はなかったのだが、陰に隠された企みがあったのである。 この陰謀は、私が東北学院の神学生だった頃、御殿場の東山荘で開催されたキリスト教青年夏期講習会に出席し、講義の内容と講師たちの密議から体験によって知りえたことである。 「日本人がユダヤの王の前に立つためには、日本という国家を背負った驕り高ぶったままの姿であってはならない。悔い改めによって遜らなけれぱならぬ。日本人はそう簡単には国を捨てない。国を捨てさせるには、国そのものを無くしてしまえばよろしい。それは戦争によって日本を負かすしかないのだ。日本が戦争に敗れて打ちのめされて初めて遜るようになるのである。そうなれば天皇の神格も地に落ち、国民も拠りどころを失う。それによって日本も共和国となりうる」 というのが密議の主旨であった。 回顧すれば、昭和六、七年頃からユダヤ・キリスト教はすでに日米戦争を予定して計画を進めていた。中国・日本に差遣された宣教師らも、その使命をおびての伝道であった。マッカーサーによる来攻の目的もここにあったと断ずることができる。 いつか 賀川豊彦の近親の者が、「何が理由で収監されたのかわからない」と雑誌に書いていたが、収監を進言したのは私なのである。その理由は前述の密議の内容に基づいて、賀川が収監直前まで日本敗北の運動を鼓舞していたからだ。 米国共産党のユダヤ人サムエル・ゴンバース[Samuel Gompers]との関係を保っていた賀川豊彦らが、日本を「反戦ではなく戦争によって敗戦させ、それによって革命を実現する」というユダヤ・フリーメイソンの敗戦テーゼに従ったものであった。賀川らが米国系共産党員としての本性を発揮して、日本の敗亡を目指した神の国運動を展開し、日本の革命を図ったという理由での収監であった。 「迫害」という言葉で惑わす切支丹布教(83P) そもそもキリスト教の日本への渡来は、天文18(1549)年にフランシスコ・デ・サビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たのかといえば、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ法王の領土にするための尖兵として来日したのである。 サビエルはカトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請によるものであった。彼はローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏のすべての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。 インドにおいて土民をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚刑に処した。富裕の者の財産は強奪して僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。 天文18年夏、日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジーペンの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆したのである。 彼の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもサビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。 日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには島原の民百姓を煽勤して大乱を起こさせている。 (八切史観によれば、島原の乱は、直接キリシタンが関係していない。その証拠に弾圧側にキリスト教のカトリックもプロテスタントも味方した記録が残っているという。) しかも原城に立て籠もって死んだ遺骸には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も、一人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽るだげ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。 (島原の乱はメーソンによる威力偵察みたいなもので、徳川体制が意外と磐石なので、徳川家に憎しみを抱く長州を使って、後に政権乗っ取りを画策する。) これに対し豊臣・徳川は布教を禁圧し、宣教師らの国外退去の策に出た。これが国法であり、国禁であり、国をあずかる者の当然の施策である。国禁を犯し、国法を蔑〔なみ〕する者はこれを罰する。 キリスト教が宗教裁判で異端・異教を焚刑・傑刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったまでのことである。それを「切支丹殉教」とか「切支丹迫害」などと称するのはおこがましいかぎりである。日本人自らが発するべき言辞ではない。 彼らバテレンたちは日本の金山・銀山を狙って金堀師らを帯同してきていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭に彫り刻まれた十字の印が見られる。そこには異人の堀り師が潜み、隠れ切支丹らの祈祷所としていたのである。 山本五十六フリーメイソン説(144P) 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。 (略) 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴〔まみあな〕にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。 (略) 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり…、 国全体がユダヤ諜報網の中に(146P) 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。 またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。 日本に張りめぐらされていた敵国のスパイ網は、ミッドウェーの完敗を喫したように、誰かが写真に撮り、誰かが盗聴し、それを集めて誰かが通報するようなスケールの小さいものばかりではなく、はるか以前から計画的に仕組まれ、長年かかって出来上がった全日本的なものが多く、単に一回的なものだけではなかった。 大川に接近した甘粕正彦の真意(156P) 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。 だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏〔周明実弟〕に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。 それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。 つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。 日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである。 鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった。 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2014年01月15日
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前の続き。 ☆ ☆ ☆ 国民新聞より http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1507/1507011apologize.html (上のリンクは削除された模様) ゾルゲ・尾崎秀実の仲間であった西園寺公一も、晩年は中共の党員であった。昭和49年後半と記憶するが、NHKテレビで西園寺が 「あの戦争は俺達がやったんだ」 とニヤニヤしながら語っていたことは、今も脳裏から離れない。腹立たしい事実である。 ハリウッドがなぜこの山本五十六(メーソンリー)を主人公とするトラトラトラ!を褒め称えるのかがわかる。 この情報は、筆者の知る限り、今まで日本で公表されたことはない。 このコールマン情報によれば、一九四一年太平洋問題研究所〔IPR 日本では、これは太平洋問題調査会、と邦訳されて居る〕を通じて、 多額のロックフェラー資金がゾルゲに渡された。 そしてゾルゲは、その資金を、日本の真珠湾攻撃工作資金として、皇族に渡した、と言う。 この「皇族」とは誰か。その実名は分らない。 当時「皇族」の数は、かなり多い。 (秩父宮や久邇宮邦彦王あたりが臭い。対米戦への226の工作資金かと思われる。) しかし、真珠湾攻撃工作と言うことは、これは、日本が対米英開戦を支持するような立場の皇族への工作資金、を意味するであろう。 或る時、海軍軍令部長の職にあった伏見宮は、対米英強硬派、と言われて居た。 皇族も、反米英派と、親米英派に分かれて居たであろう。 ジョン・コールマンによれば、IPR〔太平洋問題調査会〕のすべての文書は、タヴィストックが起草した、と言う。 日本ではIPRの言動についてのまともな研究は、今に至るまで、ゼロに近い。 IPR〔太平洋問題調査会〕は、一九二五年に正式には発足して居るが、もちろん実質的にはその前に活動は開始されて居るであろう。 IPRについては、一九四九年十月、中共が中国政権乗っ取りに成功した前後から、米国上下院で、反IPRの立場からの、かなり激しい批判と調査が行われた。 それは、マッカーシー米上院議員の三冊の著作のうちに、表現された。 しかし、日本では、占領中〔一九四九年八月~一九五二年四月〕も、そのあとも、 IPRに対する批判的研究はゼロである。 IPRの役割は、第二次世界大戦前後、アジアの大部分を共産主義化すること、である。 しかし、このIPRを、ロックフェラーが資金的に支え、そしてその指導は、タビィストック研究所が行った、このタヴィストック研究所は、三百人委員会の秘密の参謀本部である、と言う。 第一次世界大戦後、タヴィストック研究所=三百人委員会は、米国=中国共同で日本を挟み撃ちして壊滅させる方向に状況を演出した。 そしてこれから「彼ら」は、もう一度、米中による日本民族抹殺のための大作戦を実施しようとするのである。 ☆ ☆ ☆ 上記の話をみつけたサイトで、「渡部悌治」なる興味深い人物を知ったので、その人物についてのサイトを以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 渡部悌治氏のユダヤ研究 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/watanabeteijishinokenkyuco.html 渡部悌治氏は、明治45(1912)年山形県生まれ。東北学院神学部から国学院に転学。昭和16(1941)年卒業後、神道大教本局・神道学院に奉職。1943(昭和18)年より1945(昭和20)年の敗戦による解散命令の日まで、当時ユダヤ研究の最先端機関であった「国際政経学会」監事を務める。実際にユダヤの手先・工作員らの動きを丹念に調べた。 太田龍の時事寸評No.2753回(2009.4.10日)は次のように記している。2753回、2009(平成21)年4月10日 渡部悌治先生は、明治四十五年生まれ。國學院大学卒業。国際政経学会(昭和十一年から二十年まで)唯一人の証言者である。しかし、明治四十五年生まれと言うことは今年九十九歳。数年前から、年賀状の交換も行われなくなり、「ユダヤは日本に何をしたか」〔成甲書房刊〕も絶版になっていた。 しかし、今回、成甲書房は渡部悌治先生の娘さんに当たるお方、孫娘に当たるお方と連絡を取り、ご親族との出版契約を結んで正式に復刻出版が実現した。 本書は、日本における民族派有志にとって、必読必見の著作である。本書にはきわめて多数の極秘情報が掲載されている。そのうち一つだけ挙げておけば、それは堀川達吉郎問題だろう。渡部悌治先生によれば、堀川達吉郎は、大正昭和初期、まぎれもない日本におけるフリーメーソンの代表格であった。 と、述べられている。堀川達吉郎が、かつて、日本におけるフリーメーソンの代表格であったとすれば、中丸薫とは何者なのか。渡部悌治著におけるもう一つ重要な情報は、「日支闘争計画」であるだろう。(了) 【注】本書は自費出版として「攘夷の流れ」として最初刊行された。[新版]「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治著、成甲書房。四月十六日発売。 (以下は上記の本からの抜粋のようである。) 日光屋敷の怪(11P) 『昭和の初めのことである。春の穏やかな日の朝、ある友人が、二人づれの外人とボートで横浜港の水際から沖に向かって漕ぎ出していくのを遠目に見ている青年がいた。翌日、一人の若い男の死体を乗せたボートが沖に漂っていたことが報道された。警察当局が、その男の死因を捜査したかどうかは不明であるが、何らかの有力な筋からの証言があったとかで、この男の死は自殺として処理されたのである。 死体で見つかったこの男は、第三国の諜報網に属していた貿易商社の社員であった。その商社は、第三国人であった先代の社主の死後、先代の現地妻と組織、財産とを受け継いだ日本人が経営しているものであった。 自殺と断定されたこの男の死について、彼が外人二人とともにボートを漕いでいくのを遠目に眺めていた青年は、この死を暗殺と断じ、日本を狙う第三国の陰謀と対決する決意をして、その対日諜報ルートを辿っていった。すると、謀略本拠と見られるものが、フリーメイソンの集会所であることを知った。それが横浜の根岸不動坂にあった通称「日光屋敷」である。 日光屋敷とはサンシャイン屋敷のことだ。サンシャインという名称はユダヤのものに多い名である。三越デパートのライオン像に類似のものが、その外部に取り付けられてあった。日光屋敷は後年フリーメイソンロッジと明示して移築されているが、昔はフリーメイソンロッジとは言わず、「ユダヤの寺」と呼ばれていた。 メイソンロッジをユダヤの寺といっていたということは、とりもなおさず世人がフリーメイソン結社がユダヤのものであることを肌で感じていたということであろう。』 真の戦争犯罪人ユダヤ(36P) こう見て来ると、第一次世界大戦もユダヤの世界支配計画によって勃発させられたものであり、それゆえに敗戦によってドイツが賠償の責を負うこともなかったし、第二次世界大戦後の日本における東京裁判もまったく不正義なものであった。 すべてユダヤの為すがままの世界の動きなのだ。今や世界は一つになって、ユダヤのことを考えてみなければならないことになる。まさに「ユダヤ対世界」という図式の問題である。 第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ユダヤが計画し、勃発させたものである。それゆえに英国の元首相チェンバレンも、「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人とである」と言明していたのである。真の戦争犯罪人はユダヤなのだ。 世界支配に邪魔な日本への敗戦指令(76P) その国その民族から国家意識と民族感情を取り去って、いわゆる精神的国際人を作り上げるために「ユダヤの寺」が用いていた観想の法に、「心内の声を聴く」という心霊術系統の念法があった。 聖霊主義を唱えていたキリスト教諸派・終末論的無教会派など、いずれも同じ流れを汲むものであり、心霊術の研究とテオブル・ティピングなども、この寺に出入りする者たちの間で流行していた。 この心霊術系統の諸研究は、その頃の日本の新興宗教の根底をつちかうものになったのであるが、大本教をはじめとして大禮堂、岡田茂吉のメシア教、大本教から出て般若心経の空観に立ち、華厳の実相論を踏まえ、カールメニンジャーとクリスチャン・サイエンスの体系を作り上げた谷口雅春にいたるまで、いずれも「心内の声を聴く」系統につながるものである。一般に実相論起こりて国滅ぶといわれるように、インドも大乗実相論が普及して国家が滅んでいる。 心内の声を聴くには国境はない、という考え方になると国家を脱することとなる。信教の自由を唱えるフリーメイソンはそこを狙っている。心内の声によって国を失い、やがてきたるべき神の子の天降りを待ち望むこと、これ旧約の書と新約の書であるキリスト教教典の示すところだ。 キリスト教会で使う児童向けの絵カードに、白衣に緋色の衿姿の少年が、天空から射る光の中に座した姿のものがあった。聖公会で目にしたものだ。これはイエスの再臨を表現している〔引用注:実は反キリスト世界王ですかね〕。 これが昭和初期のキリスト教の「神の国運動」であり、ユダヤの寺で説いていた「主の道を直くせよ」との意味なのである。そして、「天降るべきユダヤの王」のために直くされた道とは、すなわち国際連合を意味するのである。 人種、民族、国境は人為にすぎず、国際連合によって主の道を直くし、そこにユダヤの王が天降る、ということは、とりもなおさずユダヤの世界支配を意味する。 主の道を直くするためと称して、ユダヤは第一次世界大戦を勃発させ、それによって国際連盟を作り、各国に主権と軍備とを認めてしまったためにそれは失敗に終わったとして第二次世界大戦を計画し勃発させ、それによって第二次の国際連盟、つまり国際連合を樹立したのである。 昭和十六年(一九四一年)二月の、世界ユダヤ人会議[World Jewish Congress]議長ゴールドマン[Nahum Goldmann, 1895-1982, Polish/Israeli Zionist. President, World Jewish Congress, 1948-1977. President, World Zionist Organization, 1956-1968.]の言明どおりである。 このゴールドマンの言葉を受けて、イスラエル初代首相ベングリオン[David Ben-Gurion]は次のように発言している。 「すべての国々は世界支配されるようになり、国際警察のもとに管理される。すべての軍隊は破壊され、もはや戦争は存在せぬ。エルサレムで本当の意昧での国際連合が、世界連邦のための預言者の神殿を造るであろう。これは世界連邦のすべての論争を解決するための人類の最高裁判所の座を占める。」 それゆえに、ユダヤ・フリーメイソンとキリスト教とコミンテルン〔国際共産主義〕の三つは三位一体のものであり、これらに対してわが愛国陣営の先覚は等しく攘夷の態度をとり、その適性からわが国を守ろうとした。すなわちわが国の愛国陣営は、既に早くから敵の正体を見すえていたのである。 (結局、日本の上層部がメーソンで占められたので、そうともいえない。山本五十六が代表である。) ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2014年01月15日
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八切氏、鬼塚氏などの史観を紹介してきたので、学校で習う日本史がいかに出鱈目で、この世でいかに高い位に伸し上がり、他者を支配しようとする欲の深い愚か者、悪魔といってよいが、その連中が与えられた人生を真面目に生きようとせず、インチキを行なってきたことがわかる。 人生を真面目に生きようとするなら、少なくとも人の下に人をつくるような権威者にはなろうとはしないものだろう。 お釈迦さんは、出家のことを出世といったが、それは、血縁関係に拘らずに、人類全体を平等に愛するためには、血縁関係から派生したカースト制度を抜けることであり、実際、釈迦は王子として生まれたが、最下層のいわゆるホームレスの部落民になることで、カースト制度の誤りを指摘したのが、仏教である。 しかし、弟子たちが出来損ないのアホばかりだったので、もはや仏教が一種のカースト制度になってしまっているわけである。 キリストも同じで、最下層のホームレスとなり、人の下に人をつくろうとする自意識過剰な自己意識を抑制するために、災いの種となる聖書の説くユダヤ人の家系に生まれ、ニセユダヤ人に殺されることで、ユダヤと自称するニセユダヤ人の自意識過剰を戒めたのである。 イスラムも祈りにおいて、唯一アラーだけが人の上にたち、人類は皆平等であることを説いているわけである。そのため偶像崇拝を一切禁止したのである。 つまり、天は人の上に人をつくらないように教え諭し、人生を与えているのに、愚かで傲慢な人間は、人の下に人をつくろうとし、人間に都合よく法をつくろうとしてきた。それが宗教である。 だから、本来、いかなる宗教もあってはならないもので、ただ自然の生き方、生活の仕方、つまり、真剣に人生を生きるという意味においてのみ、各個人個人に教条、信条として宗教はあり得るものだろう。だから信仰心を語れば、それは嘘になる。 ましてや金儲けのために、カースト制度をつくって上位に君臨しようなどというのは、見苦しく恥ずべき行為である。人の下に人をつくるのが、ルシファーの本性なのだ! 要するに、自惚れを戒めよ!ということなのである。しかし、世間には自惚れのアホバカばかりが跋扈するので、難儀な話になってしまっている。それはいい加減な権力者に都合のよいインチキな歴史を教え、若者を洗脳しているからである。 さて、明治維新以降の歴史は、三菱の金儲けのための偽装工作であったことが、八切史観や、鬼塚史観から、わかる。戦争をすることで大量虐殺を行い、タンマリと金銭を稼いできたのが、この悪党の本性なんである。 本気で先の大戦の戦犯を裁くのなら、戦争に加担した三菱らやマスゴミの資産全てを没収し、考えられる戦争被害者全てに補償しなければいけないだろう。そして、歴史を歪めた責任で一切文筆業や出版ならびに広告等を禁止しなければいけないだろう。それぐらいやらないと、戦争はなくならないと思うからである その証拠ともいえる話が、ネットゲリラというブログに載っているので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ イマどきウヨクの正体はこんな程度 http://my.shadowcity.jp/2014/01/post-933.html 自衛隊の幕僚長がどんだけ偉いのか知らんが、三菱重工に行くと「天下り室」というのがあって、元将校がズラッと並んでいるそうで、何十人もいるんだが、仕事なんかないので、お茶飲んで、新聞読むだけ。それで恥ずかしいとも思わないらしいw 貧乏人はヤダねw 金欲しさに、そこまでやるw まぁ、金持ちは職業軍人にはならんからw 今の日本じゃ、自衛隊なんざ、お役人の典型だし、役人といや、薄給の典型。貧乏人が金持ちの傭兵になって、立場もワキマエず増長してるとしか思えないw まぁ、イマどきウヨクの正体はこんな程度ですw ☆ ☆ ☆ 「仕事なんかないので、お茶飲んで、新聞読むだけ」というのは、要するに暇つぶしで、この人の人生は、ただの暇つぶし、ということを意味する。仕事というのはどれだけ他者に施しができるか、そして愛を育てることができるか、ということすらグータラ生活で忘れてしまったのだろう。 こんな奴らが、タモガミのように、戦争になったらどうするとか、若者を説教恫喝し、洗脳し、喧々諤々ほざいているのが実体だから始末に負えない。こんな奴らが、若者の派遣社員の数十倍もの給料や待遇を得ているから、世の中若者が真面目に生きるのが馬鹿らしくなって、安易に振り込め詐欺のような犯罪に走ってしまうわけである。 「このドラマはあくまでフィクションで実際のものとは関係ありません。」と同じように、「TVに出るような大人は皆悪い見本だから真似しないように」と注意書きを出さなければ日本の将来が危ういように、若者が自分の頭で考えず、洗脳漬けになってしまった。 若者に説教する時間があったら、紛争地帯に調査でも行くべきだろう。戦争という現実を少しでも経験しておくべきだろう。「仕事なんかないので、お茶飲んで、新聞読むだけ」という自分がしている行為そのものが平和ボケであることすら気づいていないのである。 さて、このような権力塗れで腐った大人を唆して、ニセユダが、日本に傀儡政権をつくるために、行なったのが明治維新であることが、八切史観や鬼塚史観からわかる。 かつてアメリカ大陸を先住民から略奪し支配したのが米国だが、このような支配はメーソンを通じて様々な大陸に及び、この日本列島も、イエズス会がその尖兵だったようである。だからこそ、イエズス会を通じて、バチカンに日本の戦国期の詳細な記録が残っているのである。 そのことがわかる話をネットにみつけたが、その前に、先の大戦の戦犯が明らかになる、以前紹介した話を再掲する。 ☆ ☆ ☆ 太平洋問題調査会と真珠湾攻撃工作 http://satehate.exblog.jp/15625945/ 1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。・・・連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。〕 一九四一年、ロックフェラーの多額の資金が太平洋問題調査会〔IPR〕を通じて、日本の真珠湾攻撃工作のために、ゾルゲ経由、日本の皇族に渡された、とのジョン・コールマン(元MI6のジャーナリスト)の説。 「一九四一年、ロックフェラーの別のフロント組織、太平洋問題研究所〔IPR〕が、東京の関連機関に多額の資金を拠出した。その資金は、ロシアスパイの大立者=リヒャルト・ゾルゲ[Richard Sorge]を経て皇族に送られ、日本の真珠湾攻撃工作資金となった。再度言うが、タヴィストックがIPRのすべての出版物を起草している。」 〔ジョン・コールマン著『タヴィストック洗脳研究所』、第一章 p040-041。成甲書房から平成十八年三月下旬刊予定〕 第三章 ユダヤが策した日支闘争計画 実施機関は太平洋問題調査会 「西紀一九一八(大正七)年九月一七日、モスクワにおいてイルミナティ(ユダヤとボリシェビーキとの合同)会議が開かれた。そして「イルミナティの荘厳な会議において、一五名の会員、国民ソヴィエトの五委員、全連盟共産党中央委員会の秘書一名が署名して交付するもの」という「日支闘争計画案」を含む文書が交付された。 この文書には、「一九一八年八月中旬、イルミナティ大会は、ユダヤ世界最高会議より発せられた教書を受領した。この教書は今後におけるヨーロッパ及びアジアの同時闘争の決定計画を指示するものである」と冒頭に注意書きしてあったという。 この案の日支関係についてを要約すると、「直ちに日本と支那との内部破壊を図るとともに、支那に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともにヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する」というものであった。」 p96 中略 「このいわゆる「日支闘争計画案」なるものは、その後永く日本の親英米・親ソ容共派の行動を内面から指導し続けた原理であった。 その原理を実施するための機関をと目されるものも、既に甘粕事件発生のころから日本に設置されている。太平洋問題調査会(IPR)であり、本格的には大正一五(一九二六)年から常設となった。 ロックフェラーとソ連の司令下にあった秘密工作機関である。もちろん表面は公設機関と見せて、民間機関と称していた。 日本代表は新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔らであり、幹事長はキリスト教界の斉藤惣一であった。 第三回会議は昭和四(一九二九)年十月、京都で開催され、アーノルド・トインビー[Arnold Joseph Toynbee CH (April 14, 1889 ? October 22, 1975)]やジョン・ロックフェラー三世[John Davison Rockefeller III (March 21, 1906 ? July 10, 1978)]らが出席していた。 米国代表はゾルゲ事件のバックとなった男であり、コミンテルン・ソ連スパイであったオーエン・ラティモア[Owen Lattimore (July 29, 1900 ? May 31, 1989) ]であった。 親英・親米と見せながら、実はコミンテルン〔引用注:現在では不思議でもなんでもなく、コミンテルンの中心地はオックスフォード-ロンドンシティ-ニューヨークだったわけで、あたりまえですが〕に身をおいていた西園寺公一らもこれに参画し、 また米・英と特にソ連との対日・対中謀略ルートもこれを主流とし、後に日本の国政の主軸を狙ったゾルゲ[Richard Sorge (Russian: Ри?хард Зо?рге) (October 4, 1895 - November 7, 1944) ]もまたこのルートを辿っていたのである。 すなわち、西園寺公望、牧野伸顕らを表面に立てた術策にも、実はこのルートを通じた原田熊雄及び西園寺公一らの工作が絡んでいたのである。」 p97-98 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2014年01月11日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ それに七福神は七曜神風俗ですが、今はアラブじゃなくサンカの信仰です。だから、渥美半島になぜ米軍の彼らが上陸したかは、伊良子岬で有名な半島全体が、今も毘沙門さん大黒さんと七福神の御旗がはためく土地。 今でこそ鯨のことで騒ぐけれど、江戸時代はアメリカの捕鯨船がみな日本へきていて、あそこだけは特別地域で薪とか水をアメリカ捕鯨船に配るのを大目に認められておったせいです。だから田原藩の家老渡辺華山が、「慎機論」や「西洋事情御答書」を書いて、蛮社の獄に連座して割腹。 つまり(渥美)半島全体が、江戸時代にあっては特殊地でした。それに、家康四天王の大久保一族の出身地で半島の中間にはバス停で兵助畑っていうのがあるんです。大久保彦左衛門が若い頃、女の子を引っ張ってレイプしていた畑だといいます。----兵助というのは大久保彦左衛門の若い頃の名前ですか。講談で有名なので、バス停留所名‥‥----日本では古代史はテレビや芝居であまりしないから、判らぬ侭で今になってます。が書かれているからといって全然ひどすぎるものが多い。徳川時代の朝廷の歴史を書いたものに『皇統紹運録』という本があるけれど、これは監督官庁の京都所司代の検閲のものだから全部デタラメです。 「謎だらけの日本史」[日本シェル出版]の本に詳しいけれど、華族令が出た時に、畏れ多くも明治大帝が、華族は皇室の藩屏なりと仰せられ、為に徳川時代の歴史は何ひとつ解明されず、みな嘘ばかり今もまかり通っている。明治の歴史屋は華族さま御抱えゆえ解明もしてない。 ローマのバチカン法皇庁の法皇みたいに至上は今では象徴でいらっしゃるから、たとえば自民党の世の中だと自民党の天皇でいらっしゃるのは仕方のない話です。 七世紀の白村江の戦いで郭ムソウが日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時、というより明治の日清戦争からです。今だってアメリカにもフォードもあるし、コダックもあります。失業率がいまや二割ともなれば日本は邪魔というか不用でしょう。 といって、またアトムを落としてしまうよりは、アメリカの国益のために活かして使おうとするのだろう。そのうちには海外派兵も命じてくるだろう。敗戦国民ゆえ「ノオ」とはいえまい。その時に、まさかアメちゃん万歳と叫んで死んでゆけぬ。どうしても昔通りだろう。 今は敗戦の結果、国ぐるみでアメリカの奴隷だが、日本の古代史をよく見直せば、やはり、原住民古代史は、どうしても奴隷史といえよう。となると、せめて外国の為に戦死せねばならぬ者たちの為にも、隠さない真実の日本の古代史を、よく知っておかない事には、殺される日本人の彼らとしても、どうしても、やはり死んでも死にきれまい。 さて、「クダラにあらざれば人にあらず」とされて、今でもクダラヌ奴とかクダラナイ事とされている桓武時代は、みな金大中の全羅南道の百済だが、周防とか安芸のように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことで大陸系であるが正しい。 (Y染色体アダム説でも大まかにいえば、西日本は中国-朝鮮系で、東日本が原住民系である。東北人が、関西弁を嫌うのも、このせいなのかもしれない。) なにしろ皆だれも黄色人種ゆえに区別をはっきりさせるのは、当て字の逆転しかないだろうとは、タタラを踏むの言葉からの考究である。 皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島にきた進駐権力に対して帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してしまった百済人らがそうで、彼らは忠誠を示そうと高麗系新羅系を蕃族と日本原住民を追討目標にして人間狩り。 よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないというのが、これまでの日本の古代史である。それに五代将軍の徳川綱吉の神仏混合令によって生まれた吉田習合神道が、異也を夷也としてしまった。 が、今では稲荷で、狐とされている。伏見稲荷の神官荷田春満は出府して、赤穂の討入りを当局のヤラセとはみずに、加担するようは反体制志向に走ったのも、やむにやまれぬ原住民の血の流れであるといえよう。つまりこれまでの古代史はみな作為されている。 また淀川畔に幕末まであった淀姫宮の御神体はサマとワカとオノさまの御三体で、貝原益軒の紀行文には、淀殿と秀頼と大野修理の木像三体が、ご神体として信仰をあつめているとある。いわば、この信仰は女上位の原住民のもので、オカミのいう賎民の臭いがつきまとって興味深い。 同時に信長は部落解放をしたが秀吉は部落差別を非常に強化したゆえ、淀どのは大野修理の子をうんで、日本原住民系の世にしようとしていた謀みでもあったわけらしいとみられます。----部落出身の人は出自を隠すためか部落の人を非常に嫌うものです。いま何とかリサーチとかいうところで、部落別の判る本を何万円で売ってるとかっていって、騒ぎまくっているが、部落出身の社長は、絶対に己が会社には部落の人間は採用したがらぬ方針のゆえだそうです。----前の己が素性を隠したがるわけです。しかし案外と民間では随筆などで明記しているようです。初めは部落解放をした家康も、大坂落城後は豊臣一族の再起を恐れ死期が近かったせいか、主だった生き残りを集め、九州に「豊臣松園」といった新しい部落さえも作っています。 さて、蘇民将来すらも訳もわからずに、俳句の季題にさえも奇麗事にされて今は入れられている。が、それならば伊勢二見ヶ浦の「蘇民将来 来福之守」などという御札は、現代でも配布されていて、伊勢市の各戸の入口に掲げられ出ている筈はないのにも気づかないらしい。 「蘇民将来とは、後に源氏系になる蘇我の民の後裔をさすもの」と、真実を解釈しなくては、てんで辻つまが合わぬ。それを疫病除けなどとゴマカシはコジツケも甚だしいもので、ただ兄弟だなどと美化したり恰好づけだけしていては、てんで話にも何にもならぬ。 己れらの生まれ育った国は、愛し護ってゆかねばならぬ。それには明治大正みたいな押しつけの義務教育では駄目。いいころ加減なゴマ化し歴史で恰好づけなどせず、真実の古代史をはっきりさせるべきだろう。七世紀からはトウ政権に苛められた。今度も、ベトナムみたいに国内戦にもちこんだら枯れ葉作戦をやられたかも知れぬが、結局は勝てたかも知れなかった。 それなのに、それができなかったのは、好いころ加減な歴史しか教えていなかったゆえ、本土決戦となったら、国民の八割以上をしめる賎の民が暴動を起こし、良を捕らえるのではないかと自信がなく、水際で無条件降伏をしてしまった事への反省を、改め愛国心で新たにすべきだろう。 (どうやら八切氏は、ニセユダの策略までは研究できなかったようである。) ※「同時代批評」5号誌による八切止夫氏インタビュー対談。岡庭昇、太田竜の両氏 ☆ ☆ ☆ 以上のような歴史的な背景がわかると、現代とのつながりがわかってくる。日本史は原住民の奴隷史であり、戦国以来、奴隷解放が行なわれてきたが、結局中途半端なままで終わっていることがわかる。
2014年01月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ ヤ号はその名残り、つまり天下布武とはいっても、居付地に収容されていた原住民の「八」が解放され新武器の火銃で、延暦の昔は失敗したけれども、今度は天の王朝を復活させようと信長へ協力し守りたてたのです。 秀吉の頃からは、出征にはどこどこを攻めろといい軍資金は出しています。だが織田信長は軍資金なんてものは一文も出してないんです。だから、例の勝軍地蔵といわれる愛宕山へ行って蜷川一族の金[かね]を借り、武将どもは出陣しているわけです。 (秀吉は、当時使い道のない金を外国に売って軍資金をつくったようである。部落民は山金の民とされ、金だけは大量にもっていたそうである。当時は金より銀が高価だったので、銀閣寺は、銀張りでないそうである。対して金閣寺は金張り。金の使い道は装飾品しかなかった。だから秀吉が金商売の元祖といえる。) しかし、今日行って銀行の窓口と一緒で、今日すぐは貸してくれない。そこで待たせている間に、あんまり金がかかることやって、ご馳走するのはもったいないからというので、費用のかからぬ連歌の会かなんかをしていた。 つまり愛宕詣りするということは、当時は金を借りに行くことです。武将は攻め占領、何かそこの物資を奪うと、銀にかえてそれで借銀を返しているわけです。それが秀吉の時代になると、各武将に、銀をちゃんと軍資金に与えています。家康の時になると、もうまた違うんです。やはり原住系を使っても吝な男ゆえ貸したのはちゃんと証文とって、がっちり返させています。 つまり信長の天下布武というのは結局のところ「八」の連中たちがやった仕事なのです。----信長には一つの明確に、藤原体制とは別個の枠組みたいなものがあったんでしょう。そうすると、やっぱりそういうものは書き物とか文書とかそういうもので‥‥残っていますか。----何もかも秀吉の代で焼かれてしまい残っていません。それに信長という存在は江戸時代においても、絶対に避けられていた人物。秀吉の方は『絵本太閤記』みたいに、茶化したものは許されたけれど、いま桑田忠親の『信長公記』の本が出てますが、これは全部彼の鑑定用の茶器茶道具の宣伝です。 よく読めばまこと呆れてしまうが、朽木越えに信長が浅井長政に裏切られて逃げる敗戦の大変な時なのに、『信長公記』では「お茶会を召さり松風の茶碗や何とか何とかの名器を集められて」と、まったく考えられぬことが出ているし、それから本能寺の変の時だって、「その晩は、お茶会を開いて夜分遅くまでなしたからやられたのである」というように書かれているが、これはやはり茶器の宣伝と、忠臣蔵の芝居からの思いつきでしょう。 (八切氏によると、利休も後年の創作で、茶人ではなく、宗易で、タダ同然の竹細工などを暴利で売って商売にした部落民の親玉だったらしい。秀吉は大陸侵攻した後の反乱を恐れ処罰したという。秀吉に殺されて、暴利の商売が出来なくなったので、「利」が「休」みになったで、「利休」と渾名されたのが後世に残ったという。) さて切腹は、出血多量で死なせる酷い刑罰だが、その作法というと全部これまた芝居の、「仮名手本忠臣蔵」の塩谷判官の腹切りの場からの模倣で、三宝を尻にあてる。 だが、あの三宝というのはデパートへ行って、結婚結納売場へ行けば実物が桧の薄皮でつくってある。あんなものを尻の下に敷いたら、ペチャンコになってひっくり返るだけ。 あれは芝居の場合は、マス席といって一番前のお客が高い金を払ってるからお腹を切って血綿を引っ張りだしたところをよく見せなきゃならないので、背後から黒子が黒塗りの風呂の腰掛けみたいなのを後ろから腰にあてがって見せるから、薄い桧の三宝でも潰れず恰好がつきます。 テレビでも小説でも切腹作法とされているのは、全部この芝居からきているわけです。 日本の歴史は全部、芝居とテレビからといわれるのもこの訳です。 信長は後年ポルトガル船の船首についていたアポロの神像を自分に似ると、全部の者に安土城で礼拝させてたから、『フロイス日本史』には、カリオン神父は「悪魔の如くおそれられていた信長が、ついに髪の毛一本残さずふっとんだ」と、ああよかったよかったとは書いてないけれども、そういうふうになっているのが読みとれる。 と言っても、まさか信長が己れの神像だとアポロを弁天涯の安土城で拝ませる訳はない。恐らくこれまで藤原体制によって奴隷とされ酷使され殺掠された先祖の霊として祀り、解放運動に成功した信長は一般に礼拝させたのを、日本の古代史を知らぬイエズス派の宣教師が、イエスこそ唯一の神と信じこんでいるから異教を崇めると批難して悪魔として本国に報告していたのではありましょう。 信長につき従って天下布武をしたのは「八」の連中であって代々の臣ではない。それに「八」の殺された先祖を拝礼するのゆえ民族的儀礼(白山信仰)だから、信長を拝む気遣いではなく誤報であるといえます。徳川中期以降の近世ではなく、まだ宗教戦争の中世紀のことである。そこをよく考えねばならぬようであります。 さて家康も部落解放だが三代家光から反対になった徳川だが、松平元康ではない世良田の二郎三郎が松平元康だと偽って、守山崩れで元康が殺されたあと築山御前から頼まれ、人質になって熱田の加藤図書頭のところへ行っていた後の岡崎三郎信康を、清洲城へ受け取りに行った時に、熊野権現の誓書を書いて、信康を取り戻すために彼は松平元康として欺き通した。 しかし家康は信長に露見していると後には気づき、何事も彼の言いなりに臣従したが、天正十年五月には、許しを乞うため首代として金五千両をもって安土へ行った。 しかし信長は許すといわず京へ送った。だからカリオン神父は六月二日早朝に本能寺に集まった一万三千の丹波兵は、家康を討つためだといっていたと本国へレポートを送っている。もちろん家康も戻された黄金を斉藤内蔵介にわたし、五月二十九日の夕刻に信長が上洛するや挨拶にもゆかず即刻京を逃げ出している。 堺から船で逃げようとしたが、堺の政所松井友閑にとめられ、やむなく伊勢のカブト山越えに服部半蔵らに守られ白子浦まで逃げ、渥美湾へでて本国へ戻り、すぐさま兵を集め斉藤内蔵介救援の軍勢を、酒井忠次を先手にして津島まで出しているのである。 しかし秀吉が早手廻しに光秀の娘婿の細川忠興の山崎円明寺川畔の勝竜寺城で、まんまと瞞し討ちにして光秀勢を始末し、京に入ると、謀反随一の斉藤内蔵介を討ちとった。 まぁ和平交渉は相当早くしていないと、六月二日に本能寺の変があった翌日に、備中高松を開城させられぬ。早々に姫路城へ戻った秀吉が、どうも信長殺しの黒幕としては、やはり臭い‥‥と言われたのも、あまりにも早手まわしのせいである。 明智光秀が庇っていた時の正親町天皇の後継ぎの誠仁親王を秀吉がホウソと称し殺したと、「多聞院日記」の中にも明白にでている。そして、である。 今までの御所では狭苦しいと京の中央の人家や社寺を取り払って豪華な聚楽第を建て、己が新御所とし、自分は後奈良帝の遺児なりと帝位を求め、自分が日本国は統治するからと、兵を出し中国を征服して、御所にはお里帰りをしてもらおうと進言し、御所には中国の中央にて四ヶ国、各公家にも、それぞれ一ヶ国ずつ進呈しますといって‥‥承認をうけているのです。----ちょっと誇大妄想ですね。----中国よりの藤原政権に苛められた仕返しだと思ったんでしょう。フランシスコ派から新開発のチリー新硝石を入手できるものと九州の名護屋で自分も渡海するため待機していたんです。 (結局、秀吉はイエズス会に裏切られる。)----中世の仕上げをなした権力者は、三人ともアプローチは違うわけですか‥‥ 古代史解明の必要----日本シェル出版で刊行している「徳川合戦資料集大成」の中に全文収録されている処の、根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。 信長には弱みのある家康は、いざという時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時などは、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、家康の味方をして勝ってのけたのである。 (三段構えの鉄砲隊は虚構という説もある。) 秀吉は後奈良帝の遺児と自称した程ゆえ千の宗易に味方するササラ衆を「茶せん」とし部落へ収容したけれど、信長に次いで部落解放を部分的だが敢行したのは家康であったといえる。 このことの裏づけとして、小田原征伐後関東へ移された家康は、江戸の荒川というのは、現在の川幅の四倍ぐらい大きい川だったわけで、そこの中州島には武蔵七党のくずれ、つまり騎馬民族の「四つ」の三河島衆が前述のごとく何千と押しこめ居付限定地の橋のない川の処だった。 領地が三倍から四倍に増えて、人手もない時だから、これを全部、御家人とか旗本にしたわけです。『野史辞典』をみると、三河譜代は太郎左と与五郎の二人になっている。これはいつの間にか、三河譜代というのは島の字を抜いたせいで、本当は江戸創業に働いた三河島譜代です。----最初に『日本原住民史』という本をお出しになりましたね。それで、公けの今までの歴史に対し、日本原住民史というのがあるんだということを打ち出された。最初はこんがらがるから、白対黒という一つの対立として出したけれども、実は白といっても、原住民の中には白と赤と、それから雑色とかに分かれるのですが‥‥そうなると、日本原住民の中の最も純粋な、最も頑強に抵抗したのがサンカという‥‥ことになるのでしょうか。----それを庶民と分けて、日本純民と名付けたわけです。今でこそ、庶民は容貌が落ちるからとか何とかいって、子供一人か二人のところが多くても、総人口の八割五分おるけど、片っ方は十人以上の子供を作っているわけですから、何年かたてば比例は違ってくる。 だけど、かつてナポレオン戦争の時にオランダがナポレオンに負けて、世界中どこにもオランダの旗は立っていなかったのに、日本の出島だけがオランダの旗を立てていた歴史があるが、唐が契丹に滅びても、唐は藤原氏として、日本では厳然たる勢力を発揮しておったのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ そういう策謀が実行されたのは、とりもなおさず、薩長の下級武士ども〔というより、部落かそれに近いものども、と鬼塚氏はきっぱり言う〕が、孝明天皇を弑殺し、幼い明治天皇を毒殺し、長州の田布施の朝鮮系部落の人間だった大室寅之祐を明治天皇にでっち上げた、史上最大のスキャンダルを隠蔽するために、すべては諮られたのである。 本気で国を変えなければと蹶起した青年たち〔武士〕は、みんな殺され、ユダヤから資金提供を受け、使嗾された部落出の西郷、大久保、木戸、伊藤博文らに乗っ取られたのである。 (メーソンの目的は、世界各地に自分たちの傀儡政権をつくり、ゴイムの世界人類農場をつくることだからである。) また、鬼塚氏は大室寅之祐が南朝の末裔であるというのは真っ赤なウソだと断言している。大室天皇は、千代田城に幽閉され、酒と女をあてがわれて天皇を演じさせられた。彼は決して日本国民のために安寧や平和を祈っていたのではない。 部落出身の教養のかけらもない「志士」どもに、いいようにお飾りにされただけのことである。 われわれが今日、官許歴史によって教えられてきた維新史は、田中光顕の創作によると鬼塚氏は説くのである。 ☆ ☆ ☆ というように、これまでの通説とは、鬼塚氏の見解は全く異なっているが、通説が、歴史上の人物をあまりにも美化し、偶像化していることから考えれば、どちらが真相に近いかが、自分の頭を使って、経験から考えれば自ずと明らかだろう。 ともかく権威者のいうことを鵜呑みにしないことである。記憶量と記憶力がいいからといって、真実を知っているわけではなく、デマを信じていることもあるわけだ。 このように明治史は、田中光顕らのインチキがほとんどのようで、面白いことに、それ以前の江戸時代も似たようなものであることが、以前紹介した、タモガミに集う226の亡霊のなかに「チャンネル桜」なるものから、怪しいものをみつけたので、続けて紹介する。その226の亡霊は「山岡荘八」である。 山岡荘八の書いた「徳川家康」は出鱈目だと、八切氏は以下のように述べている。 ☆ ☆ ☆ 信長は部落解放者----戦国時代と幕末が庶民の憧れなのは、下克上といわれる恵まれぬ底辺の者達が浮かび上がれる唯一の機会だったからである。つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地住まいの素性。 それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松がササラ衆の、桶屋の職人の伜だし、これも原住系に相違なく限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人。----家康も原住系の部落の出身ということですが‥‥----勿論そうです。これはまだ、もう一回やらなきゃならないけども、明治三十五年に村岡素一郎という、直木賞をとった榛葉英治の外祖父にあたる方で多摩書房刊の「明治論叢」にも原文で収録されている『史疑徳川家康事蹟』という本を徳富蘇峯の民友社から出した処、当時の華族会の圧力でもって警保局が全部、これを押さえてしまったんです。 そこでその外孫の榛葉英治が今から二十年前の昭和三十八年に吉川弘文館からまた現代語訳で本を出した。 処が、これも不思議なことに、どこかに全部、定価でみんな売れちゃった。その代り絶版です。[1996年4月現在、入手可能です] 不思議といえば正確には村岡素一郎の本が出た二年後の明治三十七年刊なのに、七年前に発行年をさかのぼらせた「松平記」が「東大蔵版」と朱印つきで青山の青山堂より木版刷り三百部が、紋入りの桐箱で各華族や歴史屋に配布された。 この内容を水増しして現代語で大河小説にしたのが、故山岡荘八の「徳川家康」で、内容はまったく松平記と同じゆえ、発禁や絶版にもならず大ベストセラーになりNHKで三度も大河ドラマとしてテレビ化された。 なにしろ東大をはじめ官立大学の歴史学会は、華族会の援助をうけていたので、確定史料と認知された。そのため岐阜城館主郷浩が、信長の美濃攻略は永禄七年といくら訴えても「松平記」には永禄十年とあると、いまだに相手にされない始末である。 せっかく岐阜城内の古資料を二十年も掛って調べあげた苦労も無駄である。 さて日本原住民について八切史観を始める時には、判りやすくと、占領軍が黒で、被占領軍が白であると、これは足利時代の室町御所の記録に、「白旗党余類」という言葉で、彼らは被差別されておるので、ゲットーへ入れられている被占領民つまり賎の賊軍扱いされているのと、官軍の黒と白の争いにし八切史観を判りやすくしたんです。 ところが、どうしても赤をやらないと、私の出自血脈では困るから、「特殊部落発生史」を書き、お稲荷さんとか祇園さんとかいった赤系をやったわけです。紅殻塗りのお宮ですね。これやらないと日本原住民には白と赤がいるから話の辻褄が合わない。 それがいわゆる庶民。ところが純民がいるんです。日本にはあくまでも頑強に反藤原勢力の‥‥民族です。----その純民の観点からすると、庶民とはなんでしょう。信長も死ぬ時は平姓ですが‥‥----秀吉も平の秀吉で死んでます。北条政子も源の頼朝の妻でも平政子として死んでます。これは例の『大乗院寺社雑事記』という活字本にもなってますけど、あの中に、西南より渡来せるものは堀川三条小路の囲地に収容し、僧籍に入らざるは古来より風習にて平氏。 要するに京都はお寺が多いから、今でいうとタレントみたいに目が青いのだとか、一見毛色が変わったのを連れてって、それぞれの寺の目玉商品にしたわけです。言葉は通じないから執事が色んなカッコウして手真似で何とかこうこうとやるわけです。 ところが、いつまでたっても不器用でノースピーキング、ノーヒアリングの者は結局、京都から追い払われ高崎へ行って、面壁九年ってのも、何も壁が好きで九年も向き合ってたわけではない。あれは全然ヒアリングもスピーキグも苦手で、だからいくらいじめられても、じっと我慢しておったからでしょう。 さて、山芋からつくる芋アメは、これはシノガラ特有のもので、ベッタラ漬もそうです。サンカ用語でベッタラっていうのは特別の意味。上野のアメ横の入口に近くに電話局があり向かえの角のところを入った通りのところまでは、浅草からかけて朝鮮人町です。焼肉屋があったり、浅草瓢箪池の前などは堂々と朝鮮服屋が並んでいます。 ところがアメ横は一町入って通りまで入ると、全然もう違います。現代では終戦時の事は何も知らないから、ヤクザがアメ横を守ったなどというけれど、あれはウソで、アメリカ兵の中の日系シノガラ部隊が機銃をもってきて防いだんです。 はじめは芋のアメを売っていたから、アメ屋横丁になったのですが、その頃はアメリカ製のタバコなんかも持っていると、MPにぶんなぐられ、沖縄重労働だぞと怒られた時分に、シノガラのアメリカ兵がどんどんあそこにはPXから流したから、アメリカ製のものはアメ横へ行けば買えるといわれたのも、そういうつながりがあったんです。 ただ言いたいことは、一般庶民の家庭は子供を沢山産むと、器量が落ちるからといって、一人か二人で子供をつくるのをやめます。ところが、シノガラの方では、本当の純粋な日本種族ですから民族を増やさなきゃならないため、子供を沢山つくっています。 有名な方では、九州でこの間奥さんが癌で死んだ江口さんですが、あすこは十六人。名古屋では伊東さんって方が十四人目の子供をうんでいます。なにも好きでつくるのではなくて民族の使命なんです。だからマンションなんか住んでいて隣同士でも口もきかない人がいるのは、まぁシノガラの方達でしょう。----さて八切史学では、私の読み方が判らない不勉強のせいなのかとも思ってるんですけれども、乱暴な質問をしますと、土地所有の問題はあまり多くは‥‥でていませんが‥‥----藤原体制の時は賎には私有を認めず、みな公家のものでしたが、下克上の戦国時代がおわり、江戸幕府になると土地は私有制ではなかった。青森弘前の殿様が九州へ国替えになると、土地が私有だったら不動産屋を通し九州で居抜きの城と武家屋敷をセットで出物を探し買ってから行かなきゃならない事になる。領民は奴隷で私有だが、土地はオカミのもの。----農地、農民の場合ですけれども、質に入れたり売買したりしてますね、中世から盛んに‥‥----江戸中期から旗本が知行地でも入れなくなる。そこで、大庄屋が全部代わって代行することになった。つまり大庄屋が年貢米を集めるから土地が誰から誰へ行こうが関係なしです。 つまり吉村虎太郎の天誅組みたいに、非生産的な武士など廃止し、天皇と百姓とを直結せん。そうすれば日本の国は豊かになると。農本主義というんですか。これが討幕の最初のテーゼ。 そもそも信長があそこまで行ったのは、まず桶狭間の合戦で、‥‥あの時、今川義元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやっておくのが常識。彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ困るわけ」なのゆえ、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけだから、あの時点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。 ところが桶狭間というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の領地織田信長の生家です。 休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。(今川の)先発隊には全然一挺も鉄砲をもたせず、本陣に五百挺の鉄砲をみな置いていたのをば、信長は雨がふってきたので思い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出世はしてないです。 『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。信長の主目的は鉄砲をふんだくるだけでした。永禄初年ではまだ国産はできず貴重品で、鉄砲ゆえに降伏していた信長は(義元軍の鉄砲を奪って)戦力を増したことになるわけです。 ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。そのせいか永禄七年に「上総介布令」なるものが「駿河[掛川?]志稿」の中には残ってます。「今後、印地院内のもの、つまりこれまでゲットーのものに限り商売を許すものとす。 その他のものは、いくら困っても大根一本売りの商いもしてはならぬ」と、商売というものは全部、原住系の八に限ったわけです。要するに当時、遠州の掛川は朝比奈三郎兵衛の城で、今川義元の伜の今川氏真がおったところです。 そこへ秘かに布令を出すというのは、今でいうと、今川方の残存勢力を崩す宣伝戦です。つまり信長が強くなったのは、次々と居付き地部落を解放し、原住系の「八」をみな自分の味方にしてしまい、それで結局、いわゆる天の王朝がかつてあったとされる弁天涯への道は、「八」の連中がつくったようなものです。 (信長軍が、他大名と異質なのは、部落出を兵にしていたこと。「兵農分離」と学校で習うが、部落民は百姓ではなく、〇〇屋「八」の商売人だったわけで、全くの出鱈目。仏教徒が、自分たちに都合よく、歴史を創作したという。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 新説・龍馬暗殺事件の真相 http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/20131012-1.html 坂本龍馬は幕末の英雄とされている。高知の人間は軽薄にも空港の名を「高知龍馬空港」と命名している。真実がわかってくると大恥をかくことになるのに…。 薩長同盟を仕組み、大政奉還を企画したのが一介の浪人、龍馬だったとされているが、そんなことはなかった。 とりわけ薩長同盟には龍馬も無関係ではなかったが、そういう動きは少し前からあったし、具体的に動いたのは土佐藩の脱藩志士・土方久元である。 土方久元は同じ土佐の中岡慎太郎に薩長同盟の必要性を説き、自らは長州・萩に行って桂小五郎〔のちの木戸孝允〕を説得し、中岡は薩摩に行って西郷隆盛を説得した。 ちょうど第二次長州征伐が企図されていたが、薩摩が「討つ理由がない」と言って不参加を表明していた。土方と中岡は、西郷が京都へ行く途中で下関に寄るよう合意をとりつけた。西郷が、桂と土方の待つ下関の豪商・白石正一郎邸に行くと、たまたまそこに居合わせた坂本龍馬もその薩長連合の話を聴いて賛成した。 だから龍馬は、薩長同盟には遅れて参加したのだ。 司馬遼太郎ごときが、坂本龍馬を主人公にした小説を書いて、ウソを広めたのである。 (司馬氏は、「龍馬」ではなく、「竜馬」にしているところに注意すべきである。八切氏は、坂本龍馬は当時全くの無名者で、才谷梅太郎が本名だと述べている。中岡慎太郎は有名で、本名は、石川清之助という。龍馬と中岡の仲も小説のようではないようで、中岡の日記にわずかに「才谷くる」とあるだけだというから、有名な中岡と龍馬の写真も、本人たちなのか怪しい。) 次に、今も龍馬が起草したとされる「船中八策」。これもウソである。最近もこれにあやかろうとて、維新の会の橋下徹が起草公表したことがあったが、まったくお笑いぐさであった。 龍馬が大政奉還のシナリオを書いたとするデタラメがまかり通っている。 「船中八策」は龍馬が大阪へ赴く船上で後藤象二郎に示した腹案で、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ政令宜しく朝廷より出ずべき事」にはじまる、公議政体論を骨子とした幕府終焉を勧める綱領、となっている。 しかし龍馬がそんな綱領を起草した事実はどこにもない。ただの伝説にすぎないのだ。 すでに幕府内や親藩の高官から大政奉還論が出ており、15代将軍慶喜も乗り気だった。ただ後藤象二郎〔土佐藩筆頭家老〕が進言したことは確かなようであり、後藤から聴いた龍馬が口の軽い男だったから、あちこちで大政奉還論を吹聴していただけのことであった。 (後藤ではなく、福岡孝悌のようである。) 龍馬が大政奉還の後、維新政府に入るかと問われて、これからは貿易だ、貿易で国を豊かにする、自分は海運業に専念すると抱負を語ったとするのも、デタラメ。 龍馬がこれからは、刀もピストルももういらん、国際海事法が「武器」になる、貿易の時代じゃと言ったなんてのも創作話である。 龍馬が素浪人の身にも関わらず、江戸に出て千葉周作の道場で剣術を修め、勝海舟を斬るつもりで行って逆に説得され開明派に転じ、あまつさえ勝が作った海軍伝習所で操艦を習得し、海援隊を組織して、貿易を始めたというのも、かなり事実とは異なる。無一文の浪人がどうやって食っていたというのか。 彼は銃火器の密貿易で稼ごうとしていた、きわめてうさん臭い男なのである。 土佐藩の密命をうけた密貿易の船が、紀州藩の船と海上でぶつかる事故を起こした。賠償金を龍馬が受け取るはずだったが、直前に暗殺された。代わりに莫大な賠償金を手にしたのが、土佐藩とその配下だった岩崎弥太郎である。この資金をもとに、岩崎は三菱財閥を作る。 このことから、龍馬暗殺の黒幕として土佐の後藤象二郎と岩崎弥太郎がいたことは確実である。 こういったこれまでの龍馬伝説をことごとく打ち破ったのが、鬼塚英昭氏の新著『日本の本当の黒幕』〔成甲書房〕であった。上下巻あわせて690ページ以上もある大冊である。 この本では、日本の本当の黒幕だった男は田中光顕だと説いている。 その龍馬伝説を創って流布させた張本人がこの田中光顕であったと鬼塚氏は解き明かす。 (背後に三菱の宣伝がある。) なぜかならば、当の田中光顕が龍馬暗殺の黒幕だから、であった。 田中光顕は、土佐藩の最下級武士〔武士とは言いがたい〕で、坂本龍馬が最下級武士の「郷士」だったとされるがそれ以下の身分の出自であった。脱藩して志士の仲間入りをしている。2流以下の志士として出発する。 田中はやがて長州の奇兵隊に参加し、伊藤博文、ついで山県有朋といった重臣の腰巾着として出世していき、宮内大臣として明治天皇〔大室寅之祐〕を支配し、大東亜戦争直前までさまざまなテロルを仕掛け、黒幕として権勢をふるった。 田中光顕は、日本史の汚点である、孝明天皇暗殺、明治天皇睦仁暗殺、大室寅之祐の成り済まし、龍馬暗殺、伊藤博文暗殺などに加担もしく真相を知り得る立場に身を置いてきた。結局逃げ切って死んだ。同じく土佐藩の下級武士だった岩崎弥太郎が、三菱を起こして巨万の富を築くと、田中は三菱から無尽蔵のカネを援助してもらっている。 興味ある方は鬼塚英昭氏の『日本の本当の黒幕』をお読みいただきたいが、では極め付きの龍馬暗殺の真相を、鬼塚氏はどう捉えたかを紹介してみよう。 京都の見廻組〔幕府警備隊〕の犯行とする説があるが、維新後に犯行を自供した今井信郎や渡辺篤は、売名行為であったことがもう明らかになっている。 (実行者の谷干城が怪しんで検分しにいったくらいである。恐らく、自分たちの犯行がバレルのを恐れたのだろう。その後、今井信郎は西郷に釈放された。) フリーメーソンの作家・加治将一は、中岡慎太郎が龍馬をおびき寄せて斬ろうとしたが相討ちになったとする説を唱えている。 新撰組説、後藤象二郎説などいろいろあるが、決め手はない。 鬼塚氏は、こうした混乱を生じさせるような巧みな工作をしたのが、田中光顕だったろうと言う。田中光顕が龍馬の死後、刀の鞘の傷とか下駄とかの小道具を考え出し「捜査」を妨害したのである。府中市で起きた3億円事件とか、世田谷一家殺害事件とかも、証拠がたくさん残されながらかえってそれが邪魔をして真相に辿りつけないのと似ている。 龍馬は維新後は忘れられた存在だったが、にわかに有名になったのは、日露戦争直前に昭憲皇太后の夢枕に、龍馬の霊が現れ戦争は大丈夫といっていったと発表されてからであった。だが、この話も田中光顕の作り話である。 龍馬を英雄に仕立て、悲劇の暗殺の主人公にしたのは、大衆の眼をそこに向けさせ、孝明天皇と明治天皇の暗殺事件を影薄いものとするためであった。 推理小説の常道は、殺人事件で一番儲かる男が犯人である。 その伝でいえば、龍馬が死んで一番得をしたのが岩崎弥太郎だった、岩崎が主犯ではないだろうが、陰謀に加担した可能性は非常に高い。その秘密を握った田中光顕に三菱は多額のカネを与え続けた。田中は豪邸に住み、別荘を建て、国宝級の書画を数千点も持った。みんな三菱が龍馬暗殺の「お礼」として…。 鬼塚氏は、龍馬と中岡慎太郎は毒殺されたと見ている。刀傷は偽装だと。 そもそも龍馬が暗殺された慶應3年11月15日は、彼の33歳の誕生日であった。すなわち、11月15日の夜、京都の醤油屋近江屋二階で龍馬の誕生パーティが開かれていたのである。その場で龍馬は毒殺された。 刺客数人に襲われたというのは、のちに田中らが流した真相をごまかすために工作である。 暗殺に関わった主要人物は、福岡孝悌、谷干城、田中光顕、睦奥宗光。彼らを操ったのはイギリス公使の外交官アーネスト・サトウであり、直接にはサトウの命令を受けていた吉井幸輔〔薩摩〕であった。 坂本龍馬には3册の自著がある。『閑愁録』『藩論』『和英通韻以呂波便覧』。『藩論』は、政治とはいかにあるべきかを龍馬が語ったものを、長岡謙吉が筆記し、死後に出版された。 生前〔慶應3年4月〕に京都で出版されたのが『閑愁録(かんしゅうろく)』である。これはキリスト教を排撃し、仏教をすすめる本であった。龍馬が語り、長岡謙吉が筆記した。 『仏教徒坂本龍馬』〔長松清潤著〕によると、『閑愁録』の内容は「人心荒廃を嘆き、開国後に浸潤してきたキリスト教に孤惑されてはならぬ、そうならないために日本人の心に深く根ざしている仏教によって国と人を安んじるべきである」と主張していた。これが龍馬の生前、唯一出版された書物であった。 これを踏まえて鬼塚氏はこう説く。 「私は、イギリス公使のパークス、そして外交官アーネスト・サトウが、この『閑愁録』を読み、坂本龍馬を危険人物と見なし、島津久光に「殺害命令」を出し。西郷隆盛と大久保利通がこの命令に応じ、吉井幸輔が動いたと見る。そして吉井幸輔は『閑愁録』を手にし、高知の土佐藩に入り、後藤象二郎と山内容堂に坂本龍馬なる人物の危険性を説いたと思う。」 ちなみに、土佐藩主・山内容堂は隠れキリシタンであった。 「サトウは西郷隆盛と後藤象二郎を動かした。そこで智者桐野利秋がプランを練り吉井幸輔が実行の責任者となった。吉井幸輔は後藤象二郎に会った。後藤象二郎は山内容堂が隠れキリシタンであることを知っていた。山内容堂は『龍馬のみならず慎太郎も殺せ』と言ったにちがいない。後藤象二郎は福岡孝悌と谷干城を呼びつけ作戦プランを説明した。 こうして慶應三年十一月十五日、龍馬と慎太郎は暗殺された。これが私の結論である。」 幕末、イギリス人やユダヤは日本をキリスト教化しようとしていた。だからキリスト教を否定する人物を危険視し排除していった。英国やユダヤが単に、開国と貿易を求めていたなどとする、官許歴史は間違いである。 幕末に、藤田東湖や吉田松陰らはキリスト教を排撃したが、みんな亡くなってしまった。そして維新後、重臣どもはこぞってキリスト教に改宗していく。 維新後、隠遁した山内容堂は酒と女と風流の日々を送り、明治5年に死去する、その翌明治6年に、キリスト教禁制の高札は撤去され、各県で禁獄されていたキリシタンは釈放される。 と同時に、それまでの古神道とは縁もゆかりもない神道国教化政策が始まる。廃仏毀釈運動は、慶應4年3月から始まり、明治4年ごろの終息まで続いたが、土佐藩では苛烈で、寺は破壊され坊主は追放された。 鬼塚氏はこう語る。「廃仏毀釈、国家神道、キリシタン禁制の高札撤去は、日本がヨーロッパの奴隷国家となっていく道程なのである。」と。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 田中光顕は、ボスである山縣有朋が失脚した後もカネに不自由していないことに鬼塚氏は注目し、その裏付けに三菱マネーがあっただろうと推測している。その根拠として鬼塚氏は、村本喜代作の著作を上げている。 このマネーがあったからこそ、宮内大臣という立場で宮内省から機密費を引き出すことができなくなっても、活動資金に困らなかったのではないかという見立てである。 山縣は晩年には椿山荘も手放している。鬼塚氏は、岩崎家に対する便宜供与の一例として、「陸軍会計監督の任にあった西南戦争における三菱への便宜」を上げている。(下巻88ページ) また、鬼塚氏は明確に書いていないが、私はこの本を読むことで、田中光顕は三菱マネーを受け取ることで、三菱の代理人として政界におけるフィクサーの役割を果たしていたのではないか、と思った。 その中には、頭山満やその仲間の内田良平のような右翼を「管理」していくことも含まれているのだろう。田中光顕は、宮内省を去ってから恩給以外に収入はないのに、次々と明治天皇にまつわる史跡や、土佐の維新の志士を顕彰するプロジェクトにカネを支出しているという事実を列挙している。 いったいそのカネはどこから出たのかといえば、三菱ではないかと推測している。(下巻88ページ) また、田中光顕は、静岡県に2つの別荘を持っている。一つは宝珠荘〔静岡市清水区〕と古谿荘〔こけいそう、静岡県庵原郡富士川町〕であり、重要文化財に指定されている。本邸は目白の蕉雨園であった。 権力地勢学としてみれば、田中自身が院長も努めた学習院の至近であり、ボスであった山縣有朋の椿山荘の近くになる。田中光顕の墓は護国寺にある。そして、古谿荘は現在、護国寺近くにある講談社の創業一族である野間一族の財団が管理している。 ☆ ☆ ☆ というわけで、後の話は、大室替玉明治帝の話である。この話を強請りとして、どうやら右翼団体ができたようである。そのようなことがわかる話を、「国柱会」をネット検索してみつけたので以下に抜粋紹介する。しかし日本の上層部は悪党ばかりである。 ☆ ☆ ☆ 八紘一宇の闇 http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/378294688.html 「八紘一宇」は戦前に唱えられた国家スローガンであった。 この言葉は最近の造語である。創ったのは田中智學〔たなか ちがく〕である。 「八紘一宇」とは、『日本書記』にあった神武天皇の宣言文のなかの「掩八紘而為宇」からの造語であり、「八紘を掩いて宇〔いえ〕と為さん」と読み、その意味は「道義的に天下を一つの家のようにする」である。 〔日本書記じたいが江戸時代に書かれたものだということは既にブログに書いた〕 八紘とは8つの方位であり、世界を意味する。「一宇」とは家の屋根である。田中智學が熱心な日蓮宗の“学徒”であったため、「日蓮を中心とした世界統一」のことではないかと言われる場合もあるようである。 しかしこの四字熟語が人口に膾炙するようになったのは、軍部が軍国主義のスローガンとして積極的に採用したことにある。 軍部が使用した発端は、二二六事件の反乱軍将校らが蹶起趣意書に使ったところからで、以後、文部省やら近衛内閣やらで使用された。 最近は、保守派がこの戦時中のスローガンの見直しを求め、遠く神武天皇が掲げた「世界は1つ」の理想だと主張する向きも見られる。併せて造語された「大東亜共栄圏」とセットで、言及されることがある。復活させようという意図があるようだが…。 さて、八紘一宇については話の枕であって、主題は田中智學である。 1939年に77歳で亡くなっているが、大正から昭和初期にかけて暗躍した「宗教家」とでも言うべきか。 日蓮宗の僧侶であったが後に独立し、「日蓮主義」を標榜して国柱会を創った。 (悪魔はすぐに思想洗脳のための宗教団体をつくりたがる。) 日蓮宗 国柱会の狂信的な信者として有名なのは、宮沢賢治である。 誰でも知っている『雨ニモマケズ』は、賢治がネオ日蓮宗にのめり込んで手帖に書き留めておいたメモである。彼は詩として発表するつもりだったのではない。自戒の言葉であった。だから手帖にはそのあとに「南無妙法蓮華経、南無無辺行菩薩…」と続けて書かれていた。 それを賢治の死後に、弟が見つけて「作品」にしてしまった。 日蓮宗臭くて、あまり学校教育で推奨するのはいかがなものかと憂える。 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…」はいいとしても、粗食に耐え、「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル…」 さらに最後には 「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 で終わるのだ。 アホかいな。なんで木偶の坊が良い? 『雨ニモマケズ』は戦前の学校の修身の教科書に載せられた。 なぜかなら、この作品には忍耐と自己犠牲の尊さがうたわれている。戦前の、ヒロヒトをトップとする政府・軍部はこの自己犠牲の精神を、国民を戦場に駆り立てるための道徳教育に使った。兵隊として丈夫な体を作り、粗末な食事に耐え、お国のために献身的に尽くせ、に変えられた。 戦後になっても『雨ニモマケズ』は国語の教科書に載せられ続けた。日本国民に焦土から立ち上がるために質素と愚直を説いた。決して世の中が悪いとか、政治を変えようとか思わずに、褒められもせず、腐さされず、居ても居なくてもいい、黙って仕事だけしている、「そういう者」になれ、というのだから。 (奴隷の養成である。ニセユダのシオンの議定書を読めばわかる。ゴイムの養成である。) 志とか野望とかを持ってはいけないよ、等身大がいいんだよと、庶民をバカにするために利用されてきた。 宮沢賢治がこういう愚にもつかぬ思いに毒された元は田中智學の宗教思想である。 田中智學のネオ日蓮宗にイカれた有名人は多い。作家としては高山樗牛、姉崎正治がいて、石原莞爾ら満州事変を起こした軍人らに信者が多かった。 (いまのタモガミなんかもこの手の類だろう。) 戦後、日本医師会会長になった武見太郎もそうだし、近衛篤麿〔近衛文麿の父〕なんかもいる。 昭和初期の右翼テロリストであった、血盟団の井上日召や小沼正の師が田中智學である。 血盟団事件のテロと、石原莞爾ら軍人の満州進出の背景にこの田中智學の新日蓮宗があり、それを利用したのが日本の黒幕だった志士くずれの田中光顕であり三菱だったのである。三菱財閥が満州に侵出したくて石原らを利用し、三菱のためにならない政治家をテロリストを使って抹殺した。 田中光顕のことは10月12日のブログ「新説・坂本龍馬暗殺事件の真相」で紹介した。土佐藩の貧乏百姓から倒幕運動に参加し、伊藤博文や山懸有朋にくっついて出世していった男だ。 孝明天皇弑殺と明治天皇(本物)の毒殺、それに坂本龍馬暗殺に関わり、明治天皇制と維新政府の闇を知りつくしていたのが田中光顕であった。 彼は伊藤博文の暗殺、原敬暗殺、宮中某重大事件などにも容喙した。 三菱をつくった岩崎弥太郎の利益になるよう龍馬を殺したその恩で、生涯、三菱から援助を受けて豪勢な暮しをし、三菱の利益になるよう便宜をはかり、皇室に介入し、日本を大東亜戦争にまで導いた暗黒の帝王である。 こうしたつながりを見てとると、なぜ宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が教科書に載って、政府が国民に暗唱させたかもわかってくる。 田中智學は、民主主義〔大正時代は民本主義〕を真っ向から否定する。徹底した、狂信的な皇室尊王主義であった。日本を一握りの陰謀家が支配する国にしておきたい連中には、智學の宗教は好都合の「思想」だった。 田中光顕は田中智學を援助した。三菱からカネを引き出して、巨大な立正護国堂という建物を作ってやったりした。 ただ、田中光顕は智學の日蓮宗の信者ではなかった。根っからの陰謀家だからだ。 もう一人、田中智學の日蓮宗にかぶれた男がいた。北一輝である。ただ北一輝は皇室を尊崇しなかった。利用しようとしただけ。 北は「宮中某重大事件」〔ヒロヒトの結婚相手をめぐる妨害工作〕のときに山県有朋に怪文書をつくって脅した男であった。つまり北も明治天皇が大室寅之祐であることを知って、ばらずぞと脅した。北は頭山満の玄洋社などの右翼とは関わらない一匹狼的な存在で、別個に皇族を関係を持ったが、二二六事件で裏切られ、死刑にされた。 二二六事件は、秩父宮が裕仁から皇位を奪うために企図したクーデターだった。決して青年将校たちの反乱ではなかった。彼らは利用されただけだ。 再三言うが、青年将校が「八紘一宇」の言葉を遣い、以後の軍部も遣ったということは、すなわち田中智學、田中光顕、頭山満〔玄洋社〕、内田良平〔黒龍会〕、大本教らの右翼が団結して、秩父宮を擁立して天皇にしようとしたのであった。 秩父宮や久邇宮邦彦王〔昭和天皇の后、良子の父〕らは「青年将校」を裏切って、裕仁の側についた。裕仁はこのクーデターを匠みに利用して陸軍皇道派〔対ソ連派〕を潰し、戦争で「南進」を諮る統制派に覇権を握らせ、日米戦争へ向かうのである。 そうした歴史の背後で、田中光顕や田中智學の新日蓮宗、玄洋社などの右翼が動き回ったのである。 三菱財閥は、右翼を使って裕仁の結婚相手として結婚させ、天皇家と縁戚関係を結ぶことに成功する。 現在の渋谷区広尾にある聖心女子大学の敷地は、久邇宮邦彦王〔くにのみや くによしおう〕(メーソンリーという噂もある)の邸宅だったが、それは田中光顕の口利きで、三菱が敷地を買ってやり、大邸宅を建てた処である。 久邇宮邦彦王は貧乏貴族だったので、娘の良子〔ながこ〕を天皇家に輿入れさせられなかった。だから三菱は大邸宅を与え、そこから良子を嫁がせる形にした。三菱が天皇家と縁戚関係を結び、裕仁に戦争を起こさせて軍事費でぼろ儲けするためであった。 ☆ ☆ ☆ 我々は学校で出鱈目の歴史を教わってきたのである。呆れて何もいうことがないが、坂本龍馬という伝説をつくったの悪党田中光顕であることがわかるので、次回に続けて抜粋紹介する。
2014年01月10日
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前回の続きだが、今回紹介するのは再掲になるかと思う。 ☆ ☆ ☆ 『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。 ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』 『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。 共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。 彼ら、この国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』 (長州-メーソン-三菱でわかる。後に、勝共連合、紅卍字会、統一協会となる。) 『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。 国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。 その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』 (事実を知る者は戦場に送って口封じした。) 『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。 日本人だけが、昭和天皇を「無私の人」だと思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。 田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーディン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。 その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、マネー・ゲームは続くのである。』 ☆ ☆ ☆ 要するに、他人の命より自分の儲けが大事の人間失格という人物に、日本は操られてきたのである。操る道具は、歴史の捏造で、自らの頭で考えず、権威者の言うことを鵜呑みにし、その暗記で済ます歴史教育にある。 明治維新以来、日本史を捏造してきたのは田中光顕であることを以前紹介したが、以下の話では、田中は226事件の若手将校を助けようとしたそうである。 ☆ ☆ ☆ 鬼塚英昭という人の『日本の本当の黒幕』という本の感想を書く http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1690 私(中田安彦)がこの本が重要だと思うのは、一般には維新の志士という認識しか持たれなかった田中光顕という人物が、実は宮中の秘密を握ったり、皇室の結婚ごとに口を出したり、挙句の果てには、昭和維新を断行しようとした、5.15事件や2.26事件の容疑者を弁護したり、実行犯の井上日召との直接的な交友があったり、大陸進出を指導した右翼の大物であった頭山満や内田良平とつながっていたりするところだ。 重要なのは明治天皇〔それが果たして本当に睦仁親王であるかはともかくとして〕にきわめて親しい関係にあったのが田中光顕であり、宮内大臣であった時、元老以外は田中を通さなければ天皇に謁見できなかったということである。明治の立憲君主制下では天皇という「玉」〔ぎょく〕にいかに近づいて、それをコントロールするかというところに元老の権力の源泉がある。 田中は元老には含まれていないが、宮内大臣まで務めたのだから元老候補だろう。山縣、伊藤博文、西園寺公望、牧野伸顕〔大久保利通の息子〕らと同様に、宮中から追い出されなければ、元老になりおおせたはずの人物である。 田中光顕が宮中から追い出されて野に下る、つまり宮内大臣を追い出したのは伊藤博文であると鬼塚氏は書いている。しかし、鬼塚氏は田中光顕の辞職の理由を明確に書いていない。収賄が理由だとも、醜聞が理由だとも言われている。 醜聞というのは、当時65歳の田中と19歳の町娘との縁談が「宮内相の醜聞」と新聞に書き立てられたことである。この縁談は周囲からの反対もあって破談となり、宮内大臣も辞任したという。 また、収賄というのは、鬼塚氏が詳しく書いている。それは、「西本願寺の別荘を田中光顕が大谷光瑞の依頼を受けて宮内省に買わせた事件」に関わるものである。地価十万円のものを二十六万円で宮内省に買い上げさせたという事件らしい。 この疑惑を元老の伊藤博文が知り、田中光顕を宮内省から追いだそうとする。その過程で伊藤博文は暗殺されている。鬼塚氏はこの伊藤博文暗殺についても詳しく書いているが、真偽を確かめようがない記述が多いので触れない。〔第8章:田中光顕、宮内大臣を罷免される〕 鬼塚氏は、明治末期の宮中を「玉」をめぐる元老の3すくみの権力闘争として見ている。1つ目の勢力が暗殺される伊藤博文の勢力であり、2つ目の勢力が、山縣有朋、桂太郎、田中光顕の勢力であり、3つ目の勢力が西園寺公望(と原敬)の勢力だとみている。田中光顕は山縣有朋の勢力であった。 ところが、元老の山縣は昭和天皇が皇太子時代の后候補の選定をめぐる、「宮中某重大事件」〔1921年〕で失脚することになる。この時、山縣を外から攻撃していたのが田中光顕と親しかった頭山満である。また、西園寺系の政友会の政治家・原敬も田中光顕を毛嫌いしていた。鬼塚氏は、宮内大臣をめぐる権力闘争は、機密費というカネを巡る争いであると分析している。 (中略) 鬼塚氏は宮内大臣を辞めた後の田中光顕が、右翼の大物の頭山満とも近くなったことを本書の至る所で述べている。村本の記述を引いて、田中光顕が同郷の岩崎弥太郎が設立した三菱から年金をもらうほどの関係になっていることを考えると重要な話である。 三菱財閥の炭鉱経営と頭山満につながりがあり、三菱財閥の大陸進出は、頭山満の様なヤクザ・任侠によって人足を管理してもらうことで成り立っていたのだと鬼塚氏は解説している。 財閥経営にも表と裏があって、裏の汚れ仕事を引き受けたのはヤクザであり任侠であるというのは、今の原発労働者が結局はヤクザによって手配されているという現実を知れば違和感はない。 さらに、田中光顕は、三井の団琢磨が殺害された血盟団事件の実行犯である井上日召とも深い関係が有ることを、直接、井上日召の『一人一殺』〔1953年〕から引用することで明らかにしている。 なお、血盟団事件といえば、若手評論家の中島岳志〔なかじまたけし〕が文藝春秋からそれを題材にした本を出している。高井徳次郎〔桜田門外の変を指揮した水戸藩士・金子孫二郎の孫〕が田中光顕の秘書をしており、高井が井上を田中に引きあわせたという記述がある。 井上は、『一人一殺』のなかに「田中光顕伯と私」という項目を設け、その中で「謀反をやる積り」という小項目を設け、田中光顕に「謀反」をやるつもりであると話したことを書いている。 謀反とは、「一方には赤化思想を駆逐し、同時に財閥・政党の弊害を打破して、日本を根本的に改革する」計画のことだと井上は書いている。鬼塚はこの部分を長く引用しているが、井上の協力要請を聞いた田中光顕の返答は以下のようだったという。その部分だけを引用する。 (引用開始) 「そうか!」と伯は語気も強く「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている。君達もしっかりおやり!」と励まして、快く記名調印してくれた。そうして、私は大変御馳走になり、宮内省の腐敗を概〔うれた〕く話などを聞いた。(中略)爾来、私は光顕伯の知遇を得て、何事かあると、伯は「日召はどう云う意見だ?」とか「日召に相談したか?」と高井に言われたと云うことだ。私はこの知遇に感激していた。 井上日召『一人一殺』から 鬼塚英昭『日本の本当の黒幕』(下)219ページ (引用終わり) 田中光顕は、5.15事件や2.26事件の首謀者の助命嘆願をしていた。田中は、井上日召の弟子である小沼正〔井上準之助を暗殺〕が書いているが、田中光顕が明治維新の水戸藩の功績を高く評価していることから、茨城県大洗に「立正護国堂」を建設することになり、昭和3年にこの護国堂と常陽明治記念館という明治天皇の等身大の銅像を安置した明治天皇ゆかりの記念館を設置したという。 (田中光顕が黒幕である可能性も?) いずれにせよ、井上日召や小沼正が田中光顕の部下で合ったことは確かだと鬼塚氏は書いているが、私もその通りだと思う。さらに、ここにつながってくるのが、田中智学〔たなかちがく〕という日蓮宗の宗教家で井上日召はこの人物にも敬服していたようだ。 田中智学というのは国柱会〔こくちゅうかい〕という宗教団体の創始者として知られる。今はどうかわからないが、かつては靖国神社の社内には田中智学の言葉を印刷したチラシが常に置かれていたのを私はよく覚えている。その時は何者だと思ったものだ。 田中智学は田中光顕にも影響を与えていると鬼塚氏は書いているが、本を読むだけでは関係がよくわからなかったので、インターネットで検索してみると、国柱会の公式サイトがあった。ここには、「田中智学先生に影響を受けた人々」のひとりとして田中光顕の名前がある。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』〔注 白洲次郎は取締役〕という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。 ◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。 『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』 『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』 『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。 しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』 ◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。 『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦〔東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた〕が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔〔注 白洲の岳父〕の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。 牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降〔注 白洲が日本水産の取締役になった年〕その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン-後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など-との交渉も頻繁になっていった。』〔青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より〕 この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。 『私は〔通説とは〕逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート〔たぶん野坂参三のルート〕で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』 『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』 『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。 8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。 統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部〔天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち〕を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』 『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。 牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常〔終戦時の鈴木内閣書記官長〕が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』 『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』 『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリティをもたせるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』 『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派-あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派-の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。 秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』 『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。 2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』 『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。 近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』 (この発言は、当時の三菱の上層部の発言とも一致しているそうである。) 『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。 天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』 『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行〔BIS〕により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。 戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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「自分が正しい」と信じ込んでいる馬鹿こそ恐ろしいものはない。そのような愚か者を洗脳するために、自意識過剰の悪魔は宗教をつくったといえる。そのような亡霊にとり憑かれている連中が都知事選で不正を行おうとしているという噂が巷に流れているそうである。 どうも226事件の臭いがするので、少し考えてみたい。その前に御馴染みのサイトから、亡霊に憑かれた民主主義破壊テロリスト連中の話を以下に抜粋紹介する。毎度のことながら、憲法を無視し、改正しようとするとんでもないアホたちである。 亡霊にとり憑かれているかどうかは、憲法を守るかどうかで判断できる。 ☆ ☆ ☆ 都知事に選立候補した田母神俊雄陣営に、裏社会戦争担当者が集結! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140109/1389238751#seeall 元航空幕僚長の田母神俊雄氏が都知事選に立候補するそうです。 維新の石原慎太郎氏が、早々に支援を表明したほか、選挙対策本部長は、なんとチャンネル桜の水島総氏だそうですw 田母神俊雄氏が都知事立候補表明 選対本部長は「チャンネル桜」水島氏 航空自衛隊の元航空幕僚長の田母神俊雄氏(65)は2014年1月7日、都内で記者会見し、猪瀬直樹前知事の辞職に伴う東京都知事選挙(1月23日告示、2月9日投開票)に無所属で出馬すると正式に表明した。日本維新の会共同代表の石原慎太郎元都知事が個人的に支援することも明らかにした。選挙対策本部長は水島総氏が「日本文化チャンネル桜」社長を辞任して務める。 田母神氏は2020年の東京五輪に向けて「東京の強靭化対策」を固めたいとし、自衛隊を中心とした災害救助体制を作るべきだと主張。「自衛隊の経験を持つ私は極めて適切な都知事ではないかと思っている」とした。 都知事選には、前日本弁護士連合会長の宇都宮健児氏(67)がすでに立候補を表明している。2014/1/ 7 19:46http://megalodon.jp/2014-0109-1217-05/www.j-cast.com/2014/01/07193587.html その他にも、支援者並びに賛同者は・・・ 加瀬英明氏、すぎやまこういち氏、中山成彬氏、西村眞悟氏、西尾幹二氏、西部邁氏、三橋貴明氏、元谷外志雄氏、渡部昇一氏etc. おー、おー、おー! 凄まじい面々ですねー(笑) ホモ神さんの元に、朝鮮部落ホモの極東戦争担当者達が集結! といった感じでしょうか?w ▼金融ユダヤ人に頼まれて、統一CIA北朝鮮協会傘下の戦争キチガイ総動員で、ダボハゼを都知事にする... http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_41.html ▼ユダヤ米国と偽日本人と秘密保護法案の強行採決 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131126/1385429396 って事は・・・ ・東京オリンピックの「東京の強靭化対策」 ・自衛隊を中心とした災害救助体制を作る っという名目で、コツコツと戦争準備でもなさるおつもりでしょうか? まあ、いずれにしろ、こんな気持ちの悪い連中が選挙で支持される訳ないので、都知事選も不正選挙が決定ですね? って事で、次の戦場は都知事選だそうですので、しっかり戦闘準備を整えましょう! ☆ ☆ ☆ この人たちが愚かなのは、高齢なので自分たちは戦場には行かされることはないと思っていることです。若者を戦場に送って、自分たちは金儲けや地位や名誉の贅沢塗れの生活をしたいというわけです。そのために若者にゆとり教育を施し、洗脳してきたわけです。 要するに、「自分さえよければよい」という考えの持ち主です。散々贅沢な暮らしをしてきたのが、身に染み付いてしまっているので、往生際が悪いのです。引き際を知らないアホです。 孔夫子も説いているように、老いては子に従えで、本当なら、姥捨てにしないといけないような老害たちです。 若者を扇動して天皇気分なんですな。自分が英雄かなんかだと錯覚しているわけです。大川周明なんかは、自分が天皇を操っているような発言をしていたそうですから。こういう思想により若者を大量虐殺をする悪魔が一番怖いのです。 このような大人になっては人間失格なので、どうしてこのような愚か者ができたのか226事件から考えてみましょう。226事件のせいで、北進論と南進論の均衡が破れ、南進に決まり、日米開戦となり、米国の参戦を決定的にしたからです。226の首謀者は殺されずに代わりに若者が殺されました。以下抜粋紹介します。 東條英機は、226が成功していたら、日米開戦はなかったというようなことを述べていたそうです。東條は米国ニセユダに自分が嵌められていたことを東京裁判で自覚したようです。 ☆ ☆ ☆ 鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密-2・26事件 これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。 2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。 笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。 あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。 秩父宮が安藤輝三〔てるぞう〕という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。 そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。 しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか? 彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか? 結局2・26事件を起した連中は-それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。 そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇(メーソンリーで有名)が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。 で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリィですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。 これは大まかなストーリィですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実〔ほつみ〕というのと、さっきいいました西園寺八郎の息子の公一〔きんかず〕というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリィです。 しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。 ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。 ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。 (スターリンはニセユダで有名。恐らくメーソンだったと思われる。) 天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリは最初から作られた、ということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。 (太平洋問題調査会で決定されたようである。 以下を参照に http://satehate.exblog.jp/15625945/) 昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。 これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。 で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。 「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。 (米国側が参戦を望んでいた。英国のチャーチルとルーズベルトが約束したため。要するに金儲け。) ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。 なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月10日
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前回の続き。前回は、量子力学のエヴァレットの解釈から、人間が物質界だけにいるわけではないことを紹介した。 つまり、人間は、高次元世界からアイデアを拝借し、物質界で実現しているにすぎないのである。それを自分がさも行なった決定かのように錯覚しているだけにすぎない。では紹介を続ける ☆ ☆ ☆ というわけで、これを多世界解釈と呼ぶ。ちょっと、こんなふうに考えてみて欲しい。 カチコチの粒子だと思われてきた「1個の原子」が、実は、そんなものではなく、「ここにあるかも、あっちにあるかも」という可能性が重なり合った「波のような存在」であるというコペンハーゲン解釈が正しいのなら、人間も含めて、すべての物質〔宇宙〕も「あらゆる可能性が重なり合った波のような存在」と考えることができる。 つまり、宇宙とは、波のように漂う「巨大な可能性の塊」であるといえる。 そうすると、宇宙における、あらゆる可能性は、今ここに、重なり合って存在していることになる。 だから、可能性としては、「生きている猫を観測する私」も存在しているし、「死んでいる猫を観測する私」も存在しているし、「林原めぐみと結婚している私」だって存在しているといえるのだ。 (可能性の海のなかから、実現しそうなものを、物質界に取り出してきているのである。図書館から、読みたい本を借りるのと同じである。) まとめよう。〇「電子が多重に存在するなら、猫だって多重に存在するはずだ!」という「シュレディンガーの猫」の思考実験について、「だったら、それを見ている人間だって、多重に存在するはずだ!」と、誰もが見落としていたことに、ひとりの学生が見事に気付いた。〇「見ている人間が、多重に存在する」ということは、『私がいる世界』が多重に存在しているということであり、それはつまり、『多世界』が存在しているという結論になる。 エヴェレット解釈とは、パラレルワールド解釈。 今あなたがサラリーマンをやっていて妻子もいて平凡だが幸せに暮らしているとします。しかし、平行世界では、あなたは、結婚もできずにコンビニバイトでひーこらいいながら暮らしているかもしれない。 あなたには複数のバージョンがある。 今、この時点。 このワタスのブログを見てる時点で、あなたは、いく万通りの現実から、自分で世界を選択している。 (無限のストーリーが用意されているが、自己意識の実現に必要なものしかみれない。) さてさて。 引き寄せの理論武装を終えたあなた。 無限に広がる平行宇宙。 その中から、あなたのイシキ、ココロは楽しい世界を選択できてるでしょうか。 本当にありがとうございますた。 ☆ ☆ ☆ このように量子力学のエヴェレット解釈を用いれば、神秘学の自己意識がよくわかる。物質界に実現していることは、自己意識が必要とし、選択しているにすぎないのである。人間の自己意識も、非自己と自己があるわけで、非自己が客体、つまり他者として現われていることになる。 物質界に生きているということは、非物質界では死んでいることになる。物質界で自己が死ねば、非物質界で自己は生きることになるので、物質界での非自己(他者)が、非物質界での自己となる。 だから、物質界での自己の行為が、非物質界で自己に返ってくる。つまり、生前の行いが、死後の運命を決定するわけである。 自己意識は、輪廻転生を通じて、自らで自らを裁き、自己意識の中立性を獲得していくわけである。
2014年01月09日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、ここにまた既知外博士が登場します。 ノイマン博士です。 スタンリーキューブリック監督の「博士の異常な愛情」という映画のモデルとも言われる科学者。 コンピュータの発明に貢献し、「コンピュータの父」と呼ばれるフォン・ノイマン博士が、「シュレーディンガー方程式という数式」をどんなにいじくりまわそうと、物質の状態が確定するような答えを導き出せないことを数学的に厳密に証明した。 そう。結局、量子力学の数式のなかでも、物質の状態がひとつに決まることはなく、やっぱり可能性のまんまだということが数学的にも証明されたのである。 そこで、数学者のノイマン博士は考えた。 「はっ!わかったぞ!」 「どうしたんだ、ノイマン」 「謎がとけたんだよ。 いいか、まず、量子力学では、猫は「生きている/死んでいる」という状態が重なり合って、多重に存在している、と述べている。 だが、その状態を確定させる要因が、量子力学、つまり物理学のどこにもないんだ。 「ああ、そうだったな」 「でも、それなのに、『人間』が観測したときにだけ、猫の状態は決まっているんだ。 いいか!『人間』が観測したときだけだ!」 「ま、まさか、ノイマン!」 「そう。人間の『ココロ』が、『多重に存在していた猫の状態』を決めたんだ!」 上記の話は、笑い話ではない。 ノイマン博士は、「ココロ」や「イシキ」といった現代物理学では語れないナニカが、可能性の決定を引き起こしている、と本気で主張したのだ。 もちろん、この主張は、多くの科学者や常識人から、たくさんの批判を受けた。 しかしだ! 物理学で想定している世界観〔世界は、「ミクロの物質」と「力」で構成されている〕では、説明不可能なことが現実に起きているのだから、これは、もう、物理学の世界では想定してしない「未知のナニカ」を持ってくる以外にはありえない。 そのナニカが、ノイマン博士の場合、「ココロ」とか「イシキ」とかだったりしただけである。〔ちなみに、ノイマンは、それを「抽象的自我」と呼んだ〕 どちらにしろ、問題を解決するためには、物理学では想定していない「未知のナニカ」を持ってこないといけないわけだから、ノイマン博士の発想を、単純に笑い飛ばすことはできない。 最後に、もう一度、要点をまとめよう。〇量子力学が正しいのであれば、ミクロの物質は、ずっ~と「可能性のまんま」であり、位置とかの状態が決まることはない。〇でも、事実として、『人間(この私)』は、どの物質を観測しても、「位置Aにある」とか「位置Bにある」とか、ひとつの可能性だけを認識している。 というわけで、この矛盾のツジツマを合わせるために、 「人間のココロは、量子力学(物理学)を越えた特別な存在であり、人間が観測すると、物質の状態は決まるのである!」 と考えたのである。 それは、あまりに『人間』を特別視しすぎた突飛な主張のように思えるが、この考え方だって十分にツジツマがあうのだ。 さてさて、恐ろしい話になって来ますた。 物質ってさ、観測した時だけ振る舞いを変えるんだよ。 それも人間が観測した時だけなんだよ。 これが怖い。 つまりその。。 あんた。それって。。 引き寄せ科学 その3 この世界はパラレルワールド http://golden-tamatama.com/blog-entry-1288.html さて、イベント事も落ち着いたのでまた既知外話を書いて行きましょう。今回長い間、東京に行ってたのですが、お会いする人達から口ぐちに言われたことがあります。 まぁ、ワタスがお会いする人は一般人ではなく、頭のネジが5本ぐらい飛んでる既知外さんが多いため、そうなるのかもしれませんが。皆様口ぐちにこんなことを言っていますた。 最近、思いが現実化する速度が早い。 た、確かに。。ワタスも確実にそう思います。 さて、前回の続きなんですが。 あなたが引き寄せ等々言ってたら、そんなわけないでしょ。 速攻で突っこみを入れられます。 ワタスもいつも妻からもっと現実を見なさい。 そんな夢みたいなことばっかり言ってないで働きなさい。 嫌というほど突っ込まれます。 そうですか。。 では、もっと現実を見ましょう。 もっと科学的に現実を語りましょう。 そうやってワタスは永遠と量子力学の話をします。 ワタスの妻はそうすると、掃除しなくちゃ。 といってどっかに消えて行くのですた。 勝った。 くほほほ。 このシリーズは引き寄せの法則の理論武装なのです。 皆様も、このシリーズを読んで、迫りくる凶暴な現実家に打ち勝って下さい。 本当に宜しくお願いします。 さて、前回まではこう言う話ですた。 物質とはフワフワ存在するかのようで存在しない波のようなエネルギー体。 そして、その存在を確定させる要因が物理学のどこにもないのに人間が見たときだけ確定している。 人間の意識がそうしてる。 これは、そんじょそこらの科学者が言ったことではありません。 皆様が現在も使ってるパソコンはノイマン型コンピュータというのですが。 そのコンピュータの父と言われた、フォン・ノイマン博士が言ったことなのです。 ノイマン博士 「人間が観測したときにだけ、猫の状態は決まっている。いいか『人間』が観測したときだけなんだ。」 それはつまり以下ということです。 量子力学が正しいのであれば、ミクロの物質はずっ~と「可能性のまんま」だ。位置とかの状態が決まることはない。でも、事実として、人間は、どの物質を観測しても「位置Aにある」とか「位置Bにある」とかひとつの可能性だけを認識している。この矛盾のツジツマを合わせるためには、人間のココロは、量子力学〔物理学〕を越えた特別な存在であり、人間が観測すると、物質の状態は決まると言う以外にない。 ノイマン博士はそれを「抽象的自我」と呼んだ。 これが前回までの結論でした。 うぐっ。 であれば、普通に類推できるかと思うのですが。。 つまりその。。 あんた。それって。。 我々って、夢の中に住んでるんじゃないの? 我々は、3Dホログラムの中に住んでいる。 (超弦理論になると、トーラス状のホログラム構造をとることがわかってくる。) こんな感じです。 我々の現実とは、自分が作り出したイメージ。夢だった。 映画マトリックスではバーチャルリアリティという描き方をしています。 量子力学では、コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈。 有名な2つの解釈があります。 次はもう1つのエヴェレット解釈を説明しましょう。 エヴェレット解釈とはヒューエヴェレット三世という何だか物々しい名前の人が発見した解釈のことです。 Hugh Everett III、1930年11月11日 - 1982年7月19日 革命的な解釈を世に残しながら給料の安い物理学会を嫌い軍需産業に就職した。酒癖が悪く51歳で世を去った。 「シュレディンガーの猫」の思考実験の問題について、1957年、当時、プリンストン大学の大学院生にすぎなかったヒュー・エヴァレットから、とてつもなく画期的なアイデアが提示される。 そのアイデアはとてもシンプルなものだった。 「電子も猫も、あらゆるミクロの物質は、可能性のまんまで、重なり合って多重に存在している、ってのが、量子力学の結論なんでしょ? でもさぁ、『猫を観測している人間』だって、同じミクロの物質で作られているんだよね? だったら、なんで、その量子力学の結論を『人間』にも適用してあげないのさ」 それを聞いて、誰もが、はっとした。それは、当時のどんな天才科学者たちも、みな見落としていたことだった。 よくよく考えたら、「猫を観測している人間」だって、電子や猫と同じ物質で出来ているんだから、「人間」にも量子力学を適用しなければ、公平ではないだろう。 「なぜ、誰も気がつかなかったのだろうか!」と思うぐらい、あまりに妥当な発想である。 さてさて。では、実際に「人間(観測者)」にも、量子力学を適用したら、結局どうなるだろうか? 人間も、猫と同じように、「複数の状態の重ね合わせ」として存在していることになる。 つまり、猫は、「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なり合って、同時に存在しているのだから…、それをそのまま「人間」に適用してやれば、人間だって、「生きている猫を見ている状態」と「死んでいる猫を見ている状態」として、同時に存在していることになるのだ。 たとえば、「シュレディンガーの猫」の実験を実際にやって、ボクが「生きている猫を見た」とする。 そこで、ボクはこんな疑問を持つ。 「量子力学の数式のうえで、猫という『ミクロの物質のカタマリ』は、『生きている状態』と『死んでいる状態』の2つの状態が、同時に存在しているんだよね? で、猫という『ミクロの物質のカタマリ』に、重力が働こうが、電磁気力が働こうが、どんな『力の作用』が起きても、『どちらかの状態だけになること』はないんだよね? でも、現実に、ボクは『生きている状態の猫』を見ているよ!じゃあ、いったい、『死んでいる状態の猫』はどこにいったのさ!?」 これについて、エヴァレットの解釈を用いれば、こう答えることになる。 「いやいや、『生きている猫』も『死んでいる猫』も、そこにちゃんと存在しているんだ。それどころか! この実験の観察者である『キミ』も、『生きている猫を見ている状態』と『死んでいる猫を見ている状態』として、同時に重なって存在しているんだ。だって、『キミ』も、猫と同じ物質から作られているんだからね」 「ちょっと待ってくれよ! それは、つまり、『もうひとりのボク』がいるってことなのかい?そんなバカな話があるか!」 「でも、『右のスリットを通った原子』と『左のスリットを通った原子』が、同時に存在しているんだったら、なにもおかしい話じゃないだろ? 同じように、『生きている猫をみているキミ』も、『死んでいる猫をみているキミ』も、同時に存在しているんだよ!」 「そんなことって……!それじゃあ、それじゃあ、そんなのまるで……、パラレルワールド〔多世界〕じゃないかぁ~~!!」 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。多世界というのは、高次の世界で、つまり、人間は物質世界だけに生きているのではないのですね。神秘学では自明のことなのです。
2014年01月09日
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前回の続き。前回は、量子力学のエヴェレット解釈を用いると、神秘学の自己意識がわかり、聖書が、古い自己意識からの脱皮、つまり新しい自己意識の獲得を説いていることがわかる。 つまり、聖書とは、新しい物理学の教科書であることがわかる。 さて、前回の素晴らしくわかりやすい「黄金の金玉をしらないか?」さまの量子力学の話の抜粋紹介を続ける。 ☆ ☆ ☆ 引き寄せ科学おさらい その2 良く考えると怖い量子力学 http://golden-tamatama.com/blog-entry-1284.html さて、ちょっと間が開いてしまいますた。前回の続きです。 量子力学が導きだす答えははっきり言えば異様です。 よくよく考えると怖くなってくる話なのです。 ぎゃ、ぎゃぁぁ ガクガクブルブル。 書いていてワタスも怖くなってきてしまいますた。 震えつつも、分かりやすく書こう努力しますたので読んで見て下さい。 さて、前の二重スリットの話は結局何が不思議かというと 波なら普通に以下のような干渉縞ができますよね。 これは普通に直感で分かる話です。 でも、電子は粒(つぶ)。粒子でしょ? なんで波と同じように干渉縞が出来るんだ? 1個1個、電子を発射しているのに、粒子が壁に当たった跡の場所の分布が、なぜか干渉している。。 これはどういうこと?という不思議な話なのです。 つまり、干渉縞が起きると言うことは、電子はスリットを通る前は1つの粒子だけど、スリットの前で波になって 同時に2つのスリットを通り抜けて干渉を起こす。 そしてまた、スクリーンにぶつかる時に1個の粒子に戻ると言う話になってしまうのです。 で、本当に同時にスリットを通ったか確かめようと観測を始めたとたん、電子の振る舞いは普通の粒子に戻ってしまい、干渉縞がおきなかったのです。 この二重スリット実験により、科学者たちは、1個の粒子が、観測していないときは波のようになって、2つのスリットを同時に通ったのだというヘンテコな解釈をせざるえなくなったのでした。 つまり電子はあそこにもここにもある。見てない時には、どこにでも同時に存在するもの。 物質とは観測されていない時点ではフワフワ、モヤモヤ。何だか訳の分からないどこにあるか分からない波で、誰かに観測された時点で粒子となる。 こういうだるまさんが転んだみたいな解釈をせざる得なくなった。 これをコペンハーゲン解釈と言います。 デンマークのコペンハーゲン大学の人達が唱えた解釈と言う事でそういう名前がついたのでした。 さて、その後、シュレーディンガーさんという人が出て来ます。 シュレーディンガーさんは波動方程式というものを発見した人でした。 シュレーディンガーは ド・ブロイの物質波 (ド・ブロイ波) の アイデアに興味を持ち、 この波動がどのような 方程式で 記述されるのか検討した結果、1つの波動方程式を得ました (1926)。 これがシュレーディンガーの波動方程式です。通常は単にシュレーディンガー方程式と呼ばれています。 シュレーディンガーの波動方程式 (「δψ=Hψ;Hはハミルトニアン」と省略して書ける。導出は以下を参照に。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410981074 最小作用の原理を用いてラグランジアンを組み立て導出している。) 上に示した シュレーディンガー方程式 をさまざまな系 (例えば水素原子) に適用し、その結果が 実験データに 見事に一致することが わかり、シュレーディンガー方程式が 「量子力学」の基本方程式 であり、ミクロの世界を支配する 基本原理であることが 分かって来ました。確かにこの基本方程式 を使ってミクロの世界の様々な構造が見事に説明できました。 この波動方程式によって電子やら原子やらの粒子はどこら辺で観測される確率が高いのかを計算することができた。 しかしシュレーディンガーさんという人は変わった人で、自分でこのような波動関数を発見しておきながら、この量子力学の考え方が好きではなかった。結局、シュレディンガーさんはこんなヘンテコな量子力学などという学問に携わって損したと後に量子力学をやめてしまいました。 シュレーディンガーさんが、このだるまさんが転んだ解釈=コペンハーゲン解釈をやりこめるために以下のようなパラドックスを考えました。 これは、有名なシュレーディンガーの猫というパラドックスの話です。 良い説明があったので張ります。 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/index.html この「シュレディンガーの猫」の思考実験では、 ・電子が位置Aにあるとき → 毒ガスでる → 猫は死ぬ。 ・電子が位置Bにあるとき → 毒ガスでない → 猫は生きる。 というように、「電子の位置で、猫の生死が決まる」ように関連付けられた装置を想定している。 ここで、量子力学のコペンハーゲン解釈では、観測していない電子は、『位置Aにあるかも』『位置Bにあるかも』といった複数の可能性として、同時に存在していると考えているのだから、 「その電子の位置によって、生死が関連付けられている猫」だって、当然、『生きているかも』 『死んでいるかも』 といった複数の状態として、同時に存在しているということになるはずだ。〔だって、電子の状態で、猫の状態が決まるのだから〕 しかしながら、「生きている猫」 と 「死んでいる猫」が同時に存在するなんて、日常的な感覚としては、「ありえない」ように思える……。 結局、目に見えないミクロの電子が、「複数の状態で、同時に存在している!」 と言われても、「へぇ~、そんなもんなんだ~」ぐらいの印象しか持たない人だって、電子が猫に置き換われば、「ありえないよ!こんなの明らかにおかしい!」と思うわけで、シュレディンガーの狙いもそこにあった。 ようするに、シュレディンガーは、「量子力学というミクロの物質についての不可思議な理論が、 猫とかのマクロな物質にまで影響するような実験装置」を考えることで、量子力学が、いかにメチャクチャなものであるかを示したかったのだ。 つまるところ、結論として、量子力学のコペンハーゲン解釈が正しいのだとしたら…、観察する前の1匹の猫が、『生きている』 『死んでいる』 という複数の状態として、同時に存在しているという、あまりに常識ハズレなことを受け入れなくてはならない…。 普通に考えれば当たり前の話です。猫は観測しようがしまいが、死んでるなら前から死んでるんであって、生きてるなら前から生きてる。 観測する前は生きてるのと死んでるのが重なった状態。猫を観測した時点で、生きてるか死んでるのかどちらか確定するなんておかしい。そういう至極当たり前の突っ込みをシュレーディンガーさんはしたのですた。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年01月09日
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前回の続き。前回は、宇宙は、様々な自己意識の集合体であることを考察した。そして、最高度で究極的でかつ原始的な自己意識が唯一神といわれるホア、もしくはアインということを神秘学から紹介した。 つまり、聖書の説く、「はじめのアルファであり、おわりのオメガである存在」とは、自己意識である。キリストは、自己意識の存在というわけである。だから悪魔をも、過剰な自己意識として受け入れ、自らの自己意識を十字架にかけることで、許したというわけなのだ。 だから、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とは、自意識過剰になった自己意識を戒めたわけなのだ! つまり自意識過剰となった自己意識は、「神(自己意識)よ 神(自己意識)よ なぜ、私(過剰になった自己意識)をお見捨てになるのですか」と叫んだのである。 自己意識は、自己意識を捨て去ったのであり、それ故に、均衡が図られたわけで、自己意識は、再度新しい自己意識として蘇ったわけである。 簡単にいえば、古い自己意識を捨て、新しい自己意識になったということである。 さて、前回述べたとおり、これまでの古い物理学に代わる新しい物理学を紹介していこうと思う。それは量子力学による認識論からはじまるものである。 ☆ ☆ ☆ 引き寄せ科学おさらい ド・ブロイおじさんさんの動画 http://golden-tamatama.com/blog-entry-1260.html さて、久しぶりに書いておこうと思います。 ワタスが何度もこのブログで引き寄せの法則について書きました。 あなたが自分の世界を作り出しているんだ。 未来は複数ある。その中から、自分で選択するんだよ。 考えるな!感じるんだ! もう、このブログで何度書いたことでしょうか。 数百回は書いたかと思います。 それなのに。 ぁあ、それなのに。 ワタスがシンクロだの引き寄せの法則など書くと。 単なる妄想でしょ。 遂に本物の妄想老人になったか。 思考が現実化する等々。非科学的なことを言うんじゃない。 人が何を思おうが、どう考えようが、人の思考に関係なく世界の出来事は決まっていくんだよ。 (唯物論に洗脳されている人々が多いから) そういう突っ込みが絶えないのです。 こ、このスカポンチンどもが。。 なんたる非科学的な突っ込みでしょうか。 引き寄せの法則はれっきとした科学です。 引き寄せの法則がないと言う人の方が完全に非科学的なスカポンチンさんです。 未来は複数あり、自分で選択をする。 (自分というのは「自己意識」のことで、この自己意識は様々な段階があり、神の名で呼ばれている。過剰なのは、悪魔で、例えば、ルシファーやアーリマンなど。) 量子力学でいうとこれを、エヴェレット解釈と言います。 量子力学で言うコペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈の話。 以下、その昔、大峠の超え方シリーズとして書いてた話です。 おさらいとして書いておこうと思います。 以下、過去の記事より。 皆様はヤングの干渉実験というのをご存じでしょうか。 1805年ころトーマス・ヤングと言う人が光は干渉するということを示した実験のことです。 水でも、何でも波はお互いに干渉します。 例えば水面に石をポンポンと2つ投げれば、お互いの波が干渉しあって波の山どうしが重なったところでは強めあって山がさらに大きくなり、山と谷が重なったところでは弱めあって消えて、波の高い場所と波がない場所が縞々模様になると思います。 こんな感じ。 波なら何でもこういう現象が起きる訳です。 (波は、自己意識と考えられる。波が重なると自己が生まれ、波が打ち消しあうと、非自己になる) それで光でも起きるのかと思ってやったら光でもやはり干渉して、このような縞しま模様になった。 だから光も波なのが分かった。ヤングさんがそう実験で見つけたのですた。 さて、光は波だと分かった。 (光は、自己意識が自己だと認識したもの) しかし、それで話は終わらない。光は波でもあり粒子でもあった。 あのアインシュタインさんがその後に実験をやりますた。 金属に光を当てて、その光が金属の中の電子を弾き飛ばすという実験でした。 これを光電現象と言います。 アインシュタインさんは相対性理論でノーベル賞を貰ったと思っている人も多いかもしれませんが、こちらの光電現象で1921年ノーベル賞を取ったのですた。 つまりアインシュタインさんが証明したのは、光は波でもあるけど、電子をはじき飛ばすんだから粒子でもあるんだよね。 ということを発見したのですた。 (人間は自己意識の光により自己認識しているわけである。) さて、こうやって光は波でもあり粒子でもあることがヤングさんとアインシュタインさんの実験で分かりますた。 さて、その後です。 凄いのはド・ブロイさんという物理学者さんです。 変態さんのすごいのをド変態と良く言いますが、ブロイさんのすごいのをドブロイと言ったのでしょう。 冗談ですが。 その人が光は粒子でも波でもあるんですよね? だったら、もしかしてこの世の物質って今まで粒子と言われてきたけど、波でもあるんじゃないの? と言い始めたのですた。 ドブロイさんが出て来るまで人間やら鉄やら、石やらいろんな物質はつきつめると細かい粒々の小さい粒子で出来ていると思われていますた。 ドブロイさんは光が粒子でもあり波でもあるなら、物質も粒子であって波なんじゃないの?とすごいことを言い始めたのですた。 そういうことを言ってドブロイ波という説を言い始めたのです。 普通に考えるとトンデモ学説ですよね。 しかし、その後、今まで粒子と思われていた電子。 実験したらやっぱり電子が干渉してしまった。 波じゃなければ干渉などしないのです。 以下、ド変態のド・ブロイおじさんの動画です。 (動画は省略;転載先http://golden-tamatama.com/blog-entry-1260.html) 動画中言っているのはこういうことです。 電子を最初は1つバキューンと打ったらこういう1個の点が出来た。 一個の点ができるということは、つまり電子は粒。スリットAを通り抜けて向こう側の壁に当たった粒子だということを示していますね。一つの粒子が観測された。 まぁ、当たり前の話です。 不思議なのは電子をバキューン、バキューン、何個も打つとしましま模様になっていった。干渉縞が出現したのですた。 別に電子だけではなく原子を使って2重スリット実験をしても同様の結果になりますた。電子に比べたら巨大な、フラーレンという分子(炭素原子が60個集まってできたサッカーボール状の分子)でも同様の結果になってしまった。 つまり、粒子と思っていたものは波なのです。 みんな波なのです。 長くなってしまったので、次に続きます。 本当にありがとうございますた。 ☆ ☆ ☆ 粒子(自己)は波(自己意識)の重ね合わせで生まれるわけである。次回に続く。
2014年01月09日
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歴史を学べば、人の下に人をつくろうとする権威者というのが、支配欲が旺盛で、その支配欲が、傲慢なエゴに由来することがわかる。だから、人類が平和に暮らすためには、エゴの研究が必須であることがわかる。 シュタイナーが説く「万人による万人の戦い」は、偶像崇拝により、エゴが肥大していく結果想定されることに思われる。単純にいえば、我侭である。例えば、現代人の最たる特質は巨万の富を築きたがるが、それが虚像であることを理解できないでいることにある。 天文学的な資産を築いていても、人類平和に何一つその資産を費やそうとはしない、税金逃ればかりをする馬鹿で愚かな金持ちが沢山いることがその証である。その正体は、人類が滅んでも、自分だけは生き残りたいというような幻想を抱くエゴの持ち主である。 国家が滅んでも、自分が生活できればいいというのが、このエゴの持ち主なのである。このようなエゴの持ち主が、人生で挫折して自ら悟らない限りは、悪事を繰り返すだけである。 このような愚か者は、国家があるから自分もあることに気づいていないのである。国家と自分が運命共同体であることに気づいていない。あのお馬鹿王のルイ14世だって、「朕は国家なり」といっているではないか? いわんや平民をや、である。平民がいなければ王もないし、国家もない。 さて、俗にいうエゴとは、行き過ぎた自己愛に由来するものと思われるが、自己というものがなんなのかがわかれば、愛の本質もわかるように思える。 そこで、神秘学的に、自己を考えてみる。 そもそも、なぜ人は、自分を自分と選別できるのだろうか? つまり自己の意識とは何なのかである。 この宇宙から、なぜ、一つの自分というものを切り取れるのだろうか? 一連の天体運動や自然の営みのなかから、なぜ自分という生命体を選出できるのか? それこそ、神ではないか、と思うわけである。 神のツールというべき、自己の意識を、人間が与えられているから、自己があると、神秘学では考えられる。 その答えが、「エヘイエ アシェル エヘイエ『I am that I am』」であろう。 つまり、意訳すると、「神が〔私〕と思うからこそ、人が〔私〕と思える。」となるようにみえる。 そこで、この意識の働きを、以前紹介したドリール著の「カバラの真義」からの生命の樹を用いて考えてみる。 ☆ ☆ ☆ 原初には、「ホア(Hoa)」という「原始の一者」、「秘密のなかの秘密」、「神々の神」、「アイン(Ain)」と呼ばれる存在のみがあった。宇宙は、ホアが、様々な側面をもって表現したもので、それは、宇宙根源「生命の樹」が存在する領域のことを云う。 (このホアを、自己の意識と考えると興味深い。) アイン(ホア)は、総ての存在の根源であり、大なり小なり総てのものに浸透している。だからアインは、総ての創造と非創造の両者なのである。 実質、本質、知性は、アインの非創造からの顕現で、純粋な本質のアインは、創造も非創造もどちらも持たず、ただ、法則そのものを体現している。 (アインの非創造とは、自己の意識を捨てる意識で、純粋の本質のアインは、自他の区別すらない全自己の意識と考えられる。) 総てのものは、アインから生まれ、最後にはアインへと帰る。「アイン」とは、宇宙根源の「生命の樹」が誕生した場所で、地球の物質(3次元)界は、非創造から顕現した世界である。 (全てはアインの自己の意識から生まれ、自己の意識が展開する見取り図が生命の樹に思える。自己の意識が土台となって、自己の意識が様々に展開する生命の樹、つまり多次元世界が誕生した。物質界は、自己意識を捨てたことから、現われた暗闇の世界といえる。だから、物質界は「無」から生じるといわれる。) アインとはまた、あらゆる側面の中立的な状態を保ち、どちらか一方に偏ることはない。 それが、宇宙の法則というものである、と告げられている。 (宇宙という自己の意識から全てが生まれたので、全てが自己なので、自己が自己に帰るには、カルマが生じ、必ずバランスがとられるようになっている。つまり、自己に埋没しすぎると、自己を捨てざるをえなくなり、逆に自己を捨てると、自己に戻ってくる。簡単にいうと、自己と非自己をバランスするのも自己ということである。) 生命体の原初の姿は、宇宙根源の「生命の樹」が誕生した場所に、大きな水辺があり、魚型生命体として生息していた。それは、今現在(西暦2012年)から遡ること、3191億9998万2366年前である。 宇宙根源の「生命の樹」が誕生してから、正確に、7年後のこと。アインは、「古代のなかの古代」であり、古代の象徴では、「閉じた目」として象徴化されていた。 アインが、創造、顕現した時には「開いた目」で象徴された。 既存の地球物質(3次元)界では、「ひとつ目」とは、闇の勢力により悪用されて来たので、「邪悪な(ルシファーの)目」の象徴となっているが、本来の意味においては、「創造の目」である。 (アインの自己意識が、非自己とした際に、闇が生まれ、物質界ができた。) アインはまた、永遠のシンボルたる円によって象徴され、それは単に宇宙の中心だけでなく、その領域をも象徴する。 アインの中に形成された総てのものは、結局は、分解崩壊して「第一原理」たるアインに帰属してしまうのだから有限なのである。 既存の地球物質(3次元)界は、有限の代表的な世界である。 だが、アインそのものは、総ての原初と究極の双方であるから、無限なのである。 アインの外側には何もない。真空さえもない。だから、総てのものは、アインのシンボルたる円の円周内にある。円の内部で総ての創造と分解とが起こる。 (自己意識のなかで全てがおこなわれる。) こんなわけだから、この円は、しばしば、「宇宙卵」で象徴される。この「宇宙卵」は、必要な周期(営み)が終わるまでは不滅で、いつか、総てのものは究極根源にまで帰る。 アインは、あらゆるものから、究極の結界によって守護され、全宇宙の何者であろうとも、結界を破ることは出来ない。つまり、この結界と、また、アインの外側については、究極の秘密がある。 この秘密について、どうしても知りたいのなら、地球の「内部世界(心)」に入るしかない。 アインとは、「一なる存在のいる場所」である。 「一なる存在のいる場所」が、宇宙根源の「生命の樹」が存在する場所である。 アインは、第1の三光球(ケテル、コクマー、ビナー)を顕現させた。この三光球もまた、「アイン、つまり、ポジティヴ創造の始まり」、と呼ばれる。だから「原始の一者」は、時によっては、三光球の顕現、つまり、ポジティヴの存在に対して非顕現、つまり、非存在となるので、三光球は、アインのアインだから、「アイン・アイン」とも呼ばれる。 (自己のなかの自己というべきか。) ケテルは、陰も陽も統合する両性をもち、ケテルから、外面的に男性で、内面的に女性を秘めるコクマーが生まれるので、父性、もしくはヤーと呼ばれる。更にコクマーから、外面的に女性、内面的に男性を秘めるビナーが生まれ、母性、もしくはヤハウエと呼ばれる。 第2の三光球(ケセド、ゲブラー、ティファレト)を生じることで、アインは無限になり、無限の根源という概念をアインに与えるので、それらは「アイン・ソフ」と呼ばれ、低位への発生を伝える。 (「ソフ」とは、「浸透する」という意味をもつから、アインが浸透する、という意味になり、「アイン・ソフ」は、逆さ読みすると、ソフィエアー、つまり、「ソフィア」の意味の「神の愛」、もしくは「叡智」を連想させる。) そして、第3の三光球(ネツァク、ホド、イエソド)を生じることで、アインは無限光になるので、それらはアイン・ソフ・アウルと呼ばれ、物質界のすぐ上の形成(4次元アストラル)界を生じさせる。 (光球群の全体でもって、聖なる人、アダムカドモンの体を形成し、第1の光球が頭部、第2の光球が両手と胸部、第3の光球が両脚と腹部、残った光球のマルクトは、物質界に立つ両足となり、この体は、10の光球(セフィロト)より成る。 物質界では、マルクトは、陰陽(正負)に分かれ、2つの黒光球となるので、物質的な数え方だと、12の光球となる。だから、霊(意識)的には、10次元だが、物質的には、12次元となる。) アイン・アイン(Ain Ain)とは、均衡(バランス)の中心であり、ポジティヴ(光)とネガティヴ(闇)との均衡の中心でもあり、これは、「真ん中の人」を指す。 (アインという自己の意識がポジティヴだと、自己になり、ネガティヴだと、他者になる。しかし、自他を統合するのも自己である。) 聖なる人「アダムカドモン」とは、10の光球=10のセフィロト=宇宙根源の「生命の樹」のことである。従って、宇宙根源の「生命の樹」は、アインの中に存在し、アインは、ホアの中に存在することになる。 三光球(三つ組)が、常に、1セットであることが、宇宙の真なる教えが三位一体であることを告げている。 人類が、当面、向かってゆく場所とは、「アイン・ソフ・アウル(Ain Soph Aur)の形成(4次元アストラル)界」であり、弥勒の世=地上天国=約束の地といった場所が、その入り口となっている。 「アイン・ソフ(Ain Soph)の世界」へ向かうのは、約束の地の3036年間を通り抜けた後の、更に先の段階となる。 ☆ ☆ ☆ という文面から、読者は、恐らく呪文か御呪いのように感じるだろうが、次から、新しい物理学をつくろうとしている「黄金の金玉を知らないか」さんのブログの内容が秀逸なので、抜粋紹介して、自己の意識の考察を続ける。 ☆ ☆ ☆ 黄金の金玉を知らないか? http://golden-tamatama.com/blog-entry-1339.html ☆ ☆ ☆ 量子力学を学べば、神とは、自己の意識であることがわかる。宇宙には叡智が浸透しているが、そこから自己という現実を選択しているのが、自己の意識で、神である。神が、人間に自己の意識を与えている。次回に続く。
2014年01月08日
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八切氏などの書やネット情報により、先の大戦の戦犯が、三菱らの大企業をつくった人物にあることがわかる。問題なのは、これらの人物が、歴史捏造を行い、いまだにそれが信じられていることにある。才谷梅太郎の変名の坂本龍馬などがその代表である。以前紹介したが、重要な部分を、再掲する。 ☆ ☆ ☆ 歴史を隠蔽&捏造した真犯人は? 坂本龍馬(才谷梅太郎)暗殺、三菱財閥急成長の裏事実は、歴史に登場しない。 (坂本龍馬の話とともに、三菱の裏事実が隠蔽されている。福岡孝弟の子孫が、孝弟が「いってはいけないことになっている」と発言した証言がある。) 田中光顕が幹部として深く関わっていた日本史籍協会が、1915年から1935年までの間、187冊に上る維新関係の史料類を刊行している。これが、田中光顕の創作した歴史の出所であり、多くの歴史家がこの捏造歴史に翻弄されてきた。 ここで書いた様な、三菱財閥急成長の源流は、とても大衆に受けられるものではない。三菱グループのHPを見ると三菱財閥の歴史は美しく取繕われている。現代は、この大衆受けする「綺麗な」歴史が共有されてしまった。 歴史小説やノンフィクション、マスコミ〔NHK大河ドラマetc〕、歴史教育も悉く、この捏造歴史に染められているのである。 (ゼロ戦などもそう) 岩崎弥太郎と田中光顕は龍馬暗殺頃から密着し、工作資金は三菱財閥〔弥太郎〕、政治家との関係は田中光顕といった〔おぞましい〕二人三脚で明治時代をのし上ってきた。 田中光顕は長寿(95)であった事も有り、この歴史捏造をやり遂げた。 財閥の中で唯一明治以降の新興勢力である三菱財閥は、日本において金貸しの手法を最先端で実践してきた。武器商人、人身売買、政商として国家に寄生してきたのである。そして仕上げは、歴史の捏造で、全てを美化しておく。 岩崎弥太郎と田中光顕は日本における最強の金貸しタッグだったのかもしれない。 ☆ ☆ ☆ 歴史を真剣に学べば、美化する背景には隠したい事実があることがわかる。例えば、木戸日記にある「日米開戦すれば、1年しかもたないといわれた石油」が、なぜに4年ももったのか? 実は、パナマ経由で、米国のスタンダード石油から、三菱の子会社が運搬していたそうである。石油を買うカネは、日本軍が南方の中国、ビルマ、タイに攻め込み、金銀財宝を略奪して、金貨や黄金をインゴットにしてスイスに送り、スイスでスイスフランかドルに換え、国際決済銀行をつくって充てたそうである。 つまり、三菱は戦争を商売にして伸し上がったわけで、その遣り口は、明治維新の長州らの手口と同じである。それを隠すために歴史捏造したわけである。捏造の最たる代表が東京招魂社の靖国である。長州-グラバー-メーソン-三菱というわけである。 三菱といえば、歴史通には土佐と思わせるだろうが、悪党が後で尻尾を切るための恐らくダミーに思われる。長州が本体で、土佐は末端であろう。石川(中岡慎太郎)と才谷(坂本龍馬)が殺されたことでわかる。この2人は長州のアキレス腱を知っていたのだろう。 いずれにしろ、長州、薩摩、土佐を背後から操ったグラバーなどの外国資本により討幕が行なわれたことがわかる。 八切氏の話によると、坂本龍馬(才谷梅太郎)は福岡孝弟のダミーではないかと思われる。土佐藩は、表立って討幕はできないので、才谷(龍馬)には薩摩、石川(慎太郎)には長州との連絡をやらせ、密かに討幕軍を育成していた節があり、それが海援隊、陸援隊になっていたと思われるからである。 しかし、慶喜が山内容堂経由で大政奉還すると、薩長は、土佐を討幕側に引き入れるために、才谷、石川を暗殺する。薩長はすでに自藩の殿様を見限り、西郷藩、桂藩となっており、土佐も慌てて、殿様を見限ることになり、海援隊、陸援隊は、土佐藩の正規軍となる。才谷、石川らは、田中、福岡らの土佐上層部から使い捨てにされる。 結局、最後に笑ったのは、最後まで生き残った歴史捏造の主の田中光顕と、グラバーなどのメーソンから、外国資本を引き継いだ岩崎の三菱である。この2人が日本人を大量虐殺してきた戦犯といってよいだろう。 面白いことに、三菱のマークが、ベンツのマークとほぼ同じなのが、昔から気になっていたが、メーソンとのつながりから、なんとなくわかる。三菱は、記憶では、山内家の家紋が由来というような逸話を宣伝していたようだが、ネットで調べれば違うことがわかる。 ベンツのマークは、メッサーシュミットのツバメの図を真似たものという話もあるが、3つの陸海空を制覇するという意味に由来しているそうで、三菱のマークとの相似性に注目すれば、正三角形が浮かぶことがわかる。正三角形といえば、御馴染みのメーソンの万物を見通す悪魔の目で、正三角形は、3つの60度をもつから、666の悪魔の数をもつことがわかる。 上記のように正三角形ではないが、ナチスのハーケンクロイツも、円を「卍」(左まんじ)近づけると、666が隠されていることがわかるだろう。Vサインにも、3つの6が隠されている。Vサインはチャーチルがはじめにやり流行らせたものらしいが、チャーチルは先の大戦を長引かせた悪人だったこともわかる。 さて、三菱を背景に、田中が権力を握る話は、鬼塚英昭氏の『日本の本当の黒幕』という本に載っているそうである。その本の感想が、以下のブログに載っているので参照して欲しい。 ☆ ☆ ☆ 「1399」鬼塚英昭(おにづかひであき)氏の『日本の本当の黒幕』(下)を読む http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1690 ☆ ☆ ☆ 昨今の戦争美化には、田中光顕が行なった歴史捏造が感じられてしまう。ゼロ戦が脚光を浴びているようだが、よく調べてみれば、三菱の宣伝の類であることがわかる。中嶋のエンジンの性能ははじめは良かったようだが、搭乗員を人扱いしない防弾装備を省略したことが、かえって逆に運動性能を高めただけにすぎない代物で、急降下や急上昇すると、機体が不安定で、壊れることもあったそうである。 搭乗員の技術が、つまり決死の覚悟が、ゼロ戦神話を生んだにすぎず、後に特攻に使われたのは、単なるミサイルで、戦闘機としての意味をもっていないことを自ら明らかにしたも同然である。要するにいまの遊園地のジェットコースター以下の安全性といえる。 つまり、三菱は欠陥品を売りつけていたことになる。特攻を美化するのは、ゼロ戦の性能が劣悪なことの口封じで、世間にバレナイために思われる。ゼロ戦パイロットの生存者の少なさから明らかだろう。 高性能の安全性が高い戦闘機で、戦場に送られるならまだしも、人をモノ以下の欠陥品で送るわけだからブラック企業も極まりなく、そのような宣伝が戦後の仕事中毒といわれる社畜エコノミックアニマル日本人をつくったともいえるだろう。 戦犯の孫が総理になり、家族を守るためと騙され、戦犯に戦場に送られ、残った家族も爆撃等で、悲しみも醒めやらぬうちに、経済競争を強いられ、その子供たちが、社畜とされたから、ゼロ戦パイロットは浮かばれずに、死に切れない思いだろうが、嘘の歴史に洗脳された皮肉というほかはない。
2014年01月08日
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周囲を取り巻く自然のなかに、動物の集合自我が現われるのを、どうやって感じとるべきか、深く知ろうとするなら、周囲を取り巻くもの全てが、隠れた霊の顕現である、ということを思い起こす必要がある。当然、霊視力を備えていなければ、アストラル界を「散歩」することはできない。 霊視力をもてば、この地球上で物質を纏った人間-自我に出会うように、アストラル界に住む動物の集合自我と出会う。けれども、霊視できなくても、この集合自我の行為や影響を、この物質界でも知覚できる。 例えば、鳥たちが、毎年、秋が近づくと、北東から南西の暖かい地方へ向かって飛翔し、夏が近づくと再び決まったルートを通って帰ってくるのが観察できる。 各々の鳥の種について、高度と方角に従って、そのルート一つ一つを比較してみれば、鳥の種の中に、深い叡智が隠れていることが洞察できる。 この鳥の種全体の行為を導くものは何なのか? それを導くのは鳥という動物の集合自我である。様々な動物の種が、この地球上で成し遂げる全ては、動物の集合自我の行為であり、影響なのである。これらの動物の集合自我の行為を追求すると、本質的に、動物の集合自我は地球の周囲に広がり、地球の周囲で力となって展開していることがわかる。 これら動物の集合自我が、様々にうねり、直線や曲線、蛇行線などをなし、多種多様な力として、地球を取り巻き、囲んでいる。霊視力がなければ、その顕現のなかに、これらの力の影響のみを洞察できる。これらの顕現が実感できれば、動物の集合自我へと導く、霊視力が何なのかが推測できる。 (動物の性質、気性を洞察することが霊視力につながる。動物の飼育は、霊視力育成によい。動物の行動を予測して、農業を営めば、収穫を動物に邪魔されることはない。動物が村に出てこないように、例えば、奥地で、餌付けを行なうとかである。奥地にある神社に食料をお供えするのは、動物が出てこないことに通じる。) このようにすれば動物界で起こる叡智に満ちた事象に踏みいっていく術を学べる。動物の種全体の行為は、動物の集合自我の振る舞いの一部を垣間みさせてくれる。 (動物の行動から、その動物の集合自我が推測できる。) 植物界では事情は異なる。秘教学者は、植物にも一連の自我の顕現を霊視できるが、植物の自我は動物よりも遥かに少数で、有限である。植物もやはり種全体が1つの共通の自我に属し、植物の自我を探すなら、動物よりも高次の世界に到達する必要がある。 (ヤタの鏡で有名な、エヘイエ アシェル エヘイエ『I am that I am』とは、自我のことで、私「神」は、私を「人」に与えるものである、という意味にとれる。人間が、「私」と認識できるのは、宇宙を統治する唯一神の「私」という意識が与えられているからである。 私が、私を愛するのは、私「神」が、私「人」を、「私」という意識を通じて愛するからである。この「私」の意識が、低次元になると、洞窟に閉じ込められたようになり、近くにあるものしかみえなくなるので、人の「私」と神の「私」が異なるものになってくる。すると、多種多様の「私」という核が生まれてくるのである。 低次元での多種多様の「私」が、再び高次になるにつれ、神の全体の「私」の意識に戻り、彩を与えるようになる。私「人」が、私「神」を愛するようになり、個別的な「私」が完全なる無我の「私」になる。それは宇宙が、フラクタル構造をとることからもわかる。) 動物の集合自我がアストラル界にあり、地球を取り巻き流れるアストラルの中に生きるのに対し、植物の集合自我は下位の神界、神智学徒たちが神界のルーパ(色)界と呼んでいる(精神)領域に見つけられる。植物の集合自我は、その(精神)領域で、完結した個性をもちながら生きている。 (究極の「私」という意識、つまり究極の自我が、宇宙神、つまり唯一神で、全ての生命体は、この唯一神の「私」という意識からくるようである。いまシュタイナーは、生物種の違いにより、この「私」という自我の違いを解説している。) 物質界での人間と同じように、ルーパ界では植物の集合-自我が逍遥している。物質体を持たない他の存在たちと共に植物の集合-自我は低次の神界に住んでいる。 では、どのようにすれば、植物の集合自我を知覚する術を獲得できるのか? つまるところ、知覚そのものは霊視力の発達と結びついている。この発達は低次の段階から次第に、高次の段階へと進んでいく。そもそも、この能力を獲得するために最初に発達すべきものは、物事に対する感情と感受性である。 実際、霊視力は第一に感情と感受性の養成に基づいている。ただし、浅薄な利己的な感情ではなく、深く敬虔な感情である。この2つの感情は全く異なるものである。 例えば、植物を観照する際、特に植物が根を地中に発達させ、茎を上方へ伸ばし、葉を上に向けて広げ、次第に萼葉、花冠へと形を変えていき、そのなかに果実を生むという経過に注意を向けるだろう。この植物の構造を、単純に、次のような人間の構造との比較をしないことが重要である。 植物の花冠を、人間の頭に、植物の根を、人間の足に置き換えて比較してはいけない。この比較は間違いである。秘教学院では、以下のような比較を教えられてきた。 植物と人間を比較するには、人の頭を、植物の根に当てはめて考えるべきである。 植物が根を地球の中心に向けているように、逆に人間は頭を宇宙に向けている。また植物が花と果実を割りと控えめに太陽に向けているように、人間は生殖器官を恥じらいながら、植物が根を向けている方向、つまり地球の中心に向けている。 従って、秘教学では、「人間は逆立ちした植物である」と説かれてきた。霊視では、植物は、逆立ちした人間のように見える。動物は両者の中間になる。 植物と呼ばれる生物のなかには、通常、植物の物質体とエーテル体だけがある。けれども、植物もアストラル体と自我をもっている。では植物のアストラル体はどこにあるのか? 霊視力がなくても、その問いの場所を探すことができる。植物の集合-自我は低位神界にあると言うのは、単に便宜的な定義に過ぎない。植物のアストラル体と自我がどこにあるかを正確に示すことができる。植物のアストラル体は、つまり、地球上にある全植物のアストラル体は、地球のアストラル体と同じものなのである。 従って、植物は地球のアストラル体の中に浸されている。アストラル体の場所によると、植物の自我は地球の中心にある。秘教学の観点から、地球を1つの大いなる有機体として、アストラル体をもつ生命ととらえることができる。 そして、地球上にある個々の植物はその一部であり、植物は個々に独立したものとして、物質体とエーテル体を養成した。個々の植物、つまりユリやチューリップなどの一つ一つは意識をもたないが、代わりに地球が植物の意識であるアストラル体や自我を担っている。 しかし、地球という生命体には、植物の自我だけが存在するわけではない。まだ他に別の霊の存在がいる。けれども、その存在たち皆に、場所があるのか?という問いは無意味で、それらは混じり合い、非常に仲良く暮らしているからである。 このように個々の植物を観察すると、それらに物質体としての特性は認められるが、個々の存在としての意識があるとはいえない。けれども、植物は意識を持っている。その意識は地球の意識と結びついていて、地球の意識の一部なのである。 人間が喜びと悲しみを顕わし、互いに浸透させあう意識をもつように、植物の個々のアストラル体が地球のアストラル体に浸透し、植物の自我は地球の中心点を貫いている。 例えば、牛という動物の有機体のなかで、牛乳が占めるのと同じ意味あいを、植物という生命体は、地球の有機体のなかに占めている。地球から、植物が芽を出し、緑に萌え、花を咲かせる経過も、牝牛が乳を与える経過も、同種のアストラルの力が基礎になっている。 例えば、植物の花を摘み取っても、地球は不快な感情をもたない。地球は(植物の)アストラル体を持ち、アストラル体で感じとるが、花を摘み取ると、子牛が乳を吸う時に牝牛が感じるのと同じ感情を持つ。つまり、一種の心地好さを感じる。 地面から生える植物の花などを摘み取っても、地球-個々の植物ではなく-は心地好さを感じる。しかし、植物の根を引き抜くと、地球は、動物が、自分の肉をもぎとられるのと同じく、一種の痛みを感じる。
2014年01月08日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。 それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。 フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。 で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。 ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。 じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。 イタリアはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリアは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。 戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。 あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウェデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウェデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやスティムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。 それがなぜ延びたか? 上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。 チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。 で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが〔戦争終了に〕反対するわけです。 僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。 予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ~だだよ」とスティムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。 それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。 まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元〔はじめ〕という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。 すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。 井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました〔彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・〕と。 これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな〔以下〕同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。 この歌は井沢匡〔ただし〕というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道〔あすかいまさみち〕という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。 『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞〔はらから〕」というのは「同胞〔どうほう〕」なんですよ。「四海同胞〔しかいどうほう〕」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞〔どうほう〕」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。 (四海とは、四つの源氏の原住民という意味。「はら」は原のこと。) 足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所〔べっしょ〕」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。 閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。 だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。 八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ〔戦意高揚の歌として歌ってきた〕。 戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると〔今度は〕ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。 で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。 (権威者の言うことを鵜呑みにして、この世で生きながらえても、あの世で地獄で、悪魔に魂を奪われる。地獄での権威者は悪魔で言うことを鵜呑みにすれば霊魂を食われるからである。) ☆ ☆ ☆ というわけで、金貸し屋に魂を売っているわけですな。十年前まで、洗脳されていた自分が恥ずかしいですな。
2014年01月07日
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