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今年の干支は、丁酉で、丁は新旧の勢力の対抗、酉は爆発を意味するそうです。どうやら価値観が180度変わる年の到来といえそうです。昨年の暮れからそのような現象が現れてきたようにみえます。 なかなか忙しいので、人智学の研究もここのところお休みしていますが、カルマの研究についてはなんとかまた少しづつはじめました。 研究といっても、シュタイナーの本を独自で解釈するだけの代物ですが、矢張り何度も繰り返し読まないとシュタイナーが何を言っているのか、なかなか理解できないものです。 さて、カルマの読みですが、ケルマの発音に近いようで、日本語にするならクルマ、つまり車の回転、輪廻を意味するようです。仏教でいうところの、因縁の巡りみたいなものです。 東洋哲学でもいわれているように、天(あの世)に主因があり、地(この世)に縁をつくるのが輪廻の働きで、人間の行為が、天と地とを結びつけるそうです。前世の行為を基に、死後、天にて均衡がつくられ、それが来世への要因となって、来世で縁をつくるそうです。 単純な例を挙げると、前世で誰かを殴ったとします。するとその死後、あの世で、殴られた人の気持ちを知り、殴られた痛みを経験しないと、霊的に進化できないと悟り、殴られた痛みを知る機会や縁を来世につくるわけです。 つまり、自分の行為によって、周囲や世界がどういう影響を受けるかを、輪廻転生により探究していくわけです。神話などの話のなかの光の世界が、あの世を、闇の世界が、この世(物質界)を意味しているようです。つまり我々一人一人が光の世界の使者で、闇の世界を照らしていく、伝教大使の一灯照隅というやつです。 譬えるなら、我々一人一人が脳細胞の1つで、全体の脳が、人類というようなものです。脳は思考しますが、その思考そのものがいわば神々ということになるでしょう。量子力学では、観測されない量子は存在しないといわれ、確率を用いて、波動関数で物質の存在を定義していますが、思考が存在を規定している話からすれば、量子力学の観測してはじめて存在するというのは妥当といえます。 特に光は波であり、同時に粒子でもあることから、光が思考の実体であるとすれば、光が物質の存在を規定しているわけで、光の、ある領域にまで到達すると、光源に戻ってくる性質から、照らし出した情報をフィードバックすることがわかります。 つまり光は闇を規定するとともに、その規定した情報を持ち帰るということになります。だから、光の性質から、輪廻転生は説明できるわけです。光の国からやってきて、闇の情報を持ち帰り、再び、光を放射するわけです。♪光の国から僕らのために、来たぞ我らのウルトラマン♪というわけです。 このような観点から、病気と死を考えると、それらは、光が闇を巧く照らし出せない状態を意味します。あの世にいるときに、前世の体験から、来世で克服すべき課題を決めるわけですが、なるべく解決できそうな家系を選び、産まれてくる親を決めるそうで、つまり、肉体となるべき遺伝を選択するわけですが、だから、遺伝は、従来いわれているような元々もつ変えれない特質ではなく、家系や親がもつ特性をあえて選択するわけで、課題を解決する道具というべきものなのです。 遺伝はいわば闇(物質)の性質で、光により克服すべきもので、遺伝は、親から肉体を通じて伝播されますが、親からの肉体を見本(土台)として、自らの肉体をつくりあげるのが幼児のときの課題です。 だから、親に風貌がよく似ているのは、闇、つまり遺伝に囚われやすく、親とあまり似ないのは、遺伝を克服していることを意味します。諺でいうところの、蛙の子は蛙というのが闇に囚われやすい様で、鳶が鷹を産んだというのが、闇を克服している様です。 簡単にいえば、写生のようなもので、モデルに似すぎる絵を書くのが、遺伝に囚われる絵描きで、モデルを超え個性的な絵を書くのが、遺伝に囚われない絵描きというわけです。 親との関係を前世まで辿ると、ほとんどが前世で大体人生の中盤の30~40歳に親しくなった友人であることがわかるといいます。また前世で晩年に親しくなった友人は、今生では、幼馴染になりやすく、前世で親しくなった年齢に達すると、別離が起こるといいます。というのは、前世で親しくなった友人が、どのように成長したのかを、知りたくなるので、来世で、身近に産まれて共に成長することを約束するようです。そして、ある程度前世からの目的を果たすと、また新しい関係を求め、別れるわけです。 遺伝を克服できずに、物質に囚われてしまうと、病気になります。そして、今生ではもはや新たな関係が構築できないと、運命を決めている高次の自我が判断すると、死を迎えることになるそうです。 さて、カルマの話はおいておいて、人智学的医術の紹介をしたいと思います。何度も紹介しているのですが、どうも訳がしっくりいかなくて、また紹介したいと思います。 ★ ★ ★ 人類の進化に有意義な形で医学研究を続けていくならば、この連続講義で示唆した事柄、つまり、健康や病気について、人間全体、つまり自我、アストラル体、エーテル体、物質体の、4つの体と、外界の様々な力とを同時に考えることが広まっていくことが実際に望ましい。 というのも、人智学的な知見が広まることで、病気の診断を体系的に目指している自然科学の方向性と、治療や治癒力を生み出そうとする努力との間に橋が架けられるからである。 しかし、このような道を歩むことで成果を上げるには、肉体だけでなく、霊魂を観る術を獲得し、外界と特定の関係にある現在の物質的な人間という概念に、人智学的な光を当てることが不可欠である。 この外界との特定の関係は、外界との境界域での知覚と相互作用のなかに出現するが、外界の知覚とは、例えば、視覚のように、本質的には、人体内の作用とは僅かしか関わり合わない。 しかし、低次の知覚領域、つまり嗅覚や味覚が関わる領域に入っていけば、外界、つまり環境との交流が、体内化され、体内と大きく関わりを持つ、のがわかる。というのも、実際、人間の消化は、外界に対する知覚活動の継続で、つまり視覚の体内化に他ならないからである。 腸の働きによって、消化された栄養分が、リンパ及び血液に引き渡される領域にまで、そして、この領域へ移行しても、栄養分が低次(物質的)であればあるほど人体下部の特定の器官に吸収されるが、それはまだ根本的には味覚が変化したものなのである。 だから、本質的に、リンパおよび血液の領域までは、消化活動のなかに、味覚活動を認めなければならない。 このような事実を正しく評価すれば、食餌療法の基礎や、更には、味覚から、必要な治癒力を認識するための基礎知識も準備できる。この味覚から有害物質も系統立てて少しずつ見極められる。 例えば、アンモニア塩の人体への作用を追求すれば、今日の自然科学の信奉者は、「アンモニア塩を塩化アンモニウムの形で与えると、心筋-(今日の自然科学で語るなら)運動神経に作用を及ぼす」という例を挙げるだろう。 ところが、運動神経と呼ぶのは間違いである。随分と強調してきたように、知覚(感覚)神経と運動神経との間に違いはない。だから、このような区別は間違いで、重要なのは、本質的な違いである。 重要なのは、「アンモニア塩が、血液にまで達する領域内で、味覚として知覚されているうちは、味覚が継続し、この継続した味覚は同時にアストラル体にまで作用し、アストラル体のなかに反作用を、例えば汗の分泌などにみられる条件反射を引き起こす。」ということにある。 消化活動の最初期を、味覚の継続と捉えれば、汗の分泌、ある見方では、尿の分泌にもつながるのがわかる。というのも、このような分泌は、実際次のような意味をもつからである。 「分泌活動の本質は、液体の分泌を通じて、外界の物質を摂取することにある。分泌活動を全体的に観察すれば、本質的には、食物の溶解は体内での液体化の現象に還元できる。」 この溶解には反作用がある。反作用は肝臓、及び脾臓の活動のなかに現れる。従って、肝臓及び脾臓の活動も、本質的には水の、液体化の現象に分類すべきである。しかし、消化の最初期での溶解とは逆に、肝臓の活動には、消化の最初期に生じた変化を再び元に戻す反作用(固体化)の働きがある。 例えば、塩を湯に入れるときに起こる現象(活動)と比べてみれば、この肝臓の働きのイメージが実際に得られる。塩は湯のなかで溶けて分解する。この溶解現象は、食物をリンパや血液に摂取するまでのイメージである。 そのなかに、水銀を数滴たらすと、水銀は球形を保つが、この閉じた球形の水銀は、食物をリンパや血液に摂取するまでの活動と、その活動を支配する肝臓のアストラル体との関係をよく現わすイメージとなる。 この現象を霊的に洞察する必要がある。というのは、外界での、塩プロセス、水銀プロセスなどが、どのように生じるのか、がわかるようになるからである。人体内の活動を、文字どおり外界に読みとれるようになる。だから、人体を外界との関係から観察する必要がある。 さて、アンモニア塩を摂取した場合の、消化から血液への移行を調べ、アンモニア塩を更に追求していくと、アンモニア塩は血液をアルカリ化することがわかる。また、アンモニア塩は、更にその経過の途上で、人体下部(胸から下)から、上部(胸から上)にまで作用を及ぼし、上部に反作用を引き起こすこともわかる。 しかも興味深いことに、人体上部に反作用を引き起こすことで、完全な逆転が起こる。つまり、消化に対して完全な反転が起こる。この反転は、例えば、以下のように特徴づけられる。 「人体上部の知覚活動は、下部の消化活動では、味覚として働くが、他方で今度は逆に下部が知覚活動に向かう傾向を示し始め、上部は、その下部の傾向を抑制する傾向を示し始める」。 すると、この結果、先ほど述べた肝臓のアストラル体から発する反作用に対し、今度は逆に、この反作用が下部から出て、上部へと向かうが、上部では、逆に、その反作用を抑制しようとする作用が始まる。 その結果、上部では(専門用語を用いれば)顫(せん)動上皮が刺激され、例えば、より激しく活動するようになって、肺の分泌が促進される。つまり、消化とは逆の活動が行なわれる。 まず食物の溶解を通じて、肝臓が活動をはじめ、次いで、食物を吸収する肝臓の反作用の働きが促進され、その肝臓の働きを抑えようとして、肝臓より上にある器官、つまり肺の活動が刺激され、結果として人体下部の溶解から、人体上部で分泌が引き起こされる。 以上が、人体での消化、つまり塩プロセスを通じての物質化または鉱物化、またそれとは逆の液体‐気体化の分泌活動へと進む現象の本質である。この分泌活動は、外界での蒸発、及び燃焼過程と比較できる。 つまり、沸騰する液体に水銀をたらせば、水銀は絶えず活発に蒸発(燐プロセス、硫黄プロセスと呼べる)し、このような蒸発し、沸騰する液体(水銀)を、人体内の液体=エーテル体の炎症とみなせる。 体内の炎症とみなせる、蒸発している液体のイメージから、その対極にある、つまり人体下部で展開する消化活動が、上部の分泌活動、つまり肺などの器官で起こる分泌活動(炎症)として現れる、のがわかる。 以上のような人体内での活動像が獲得できれば、外界から、これらの活動に介入できる治癒原理や薬などを発見する方法が得られる。この方法を更に推し進めれば、以下の事実にまで到る。 以前述べた、歯の形成を目的とするプロセス全般は、人体の末端的な分泌活動である、という事実がわかるだろう。だから、人体の、この末端部での活動も、これまで特徴を述べてきたように、分泌後即座に鉱物化するが、歯の形成の本質を鉱物化だけに限定し誤解しないように注意すべきである。 この事実は些か誤解を招き易いが、歯の形成は末端での活動なので、外界に接すると即座に鉱物化するから、歯の状態が悪化したとき、純粋に外科手術や、機械等の歯科技巧的な介入を通じて、歯を改善できるが、外からは、それ以上はできない、と前に述べた。 だから、「外界に接する末端部での鉱物化プロセスは機械的に扱える。」 歯が悪くなったとき、外科的な歯の補填を考えるのは尤もである。というのも、歯については体内からはほとんど介入出来ないからである。歯の悪化については体内からはほとんど介入できないが、歯の形成に関わるプロセスには介入できる。それはフッ素プロセスで、人体に不可欠である。 歯が健康である限り、このフッ素プロセスが継続する必要がある。フッ素は、内部から作り出せる。ただ、上述した特徴をもつ逆転現象を正しく考慮しなければならない。 では、一体、歯の形成とは何なのか? 歯の形成とは、内から外への鉱物化の活動である。永久歯が全て生え揃ってしまうと、この鉱物化を外へと推進するプロセスは、その目標に到達する。 すると、このプロセスに対して、今度は、逆に内へと進む性的な成熟化が現われてくる。これら二つの、つまり歯の形成と、性的な成熟化は、相互に作用し合う互いに対極(反対)のプロセスなのである。 歯の形成⇔性的な成熟化 歯の形成が完了すると、同じ割合(強さ)で、今度は外から内へと性的な成熟化が起こる。相反する現象を、これまでみてきたように洞察すると、外や前方への歯の形成とは逆に、内や後方へと、歯の形成とは対極に位置し、密接に関係する、性的な成熟化の根底にあるプロセスがわかる。 そのプロセスとは腸の蠕動運動である。この2つは相互に密接に関わり合っている。つまり、この蠕動運動に属するプロセスは、他方では歯の形成を司るプロセスと、密接に関わり合っている。この腸の運動は、人体では、フッ素の利用と密接に関係している。だから、次のように結論できる、 「腸の運動が、あまりにも速く、集中的に進行すると、歯を損なわせ、特に、フッ素の体内での正常な働きを乱すようになる。」 従って、大切なことだが、歯を損なっている患者をみつけたら、消化活動を緩めるように指示すべきで、ときには患者に安静を命じることや、消化活動を鎮める薬を与えることで、腸の運動を抑えるべきである。 歯の形成⇔腸の蠕動運動(フッ素の利用) 腸の運動の調整には特別な意味があり、この運動は既に示唆したが、手足を規則正しく動かすことで促進できるが、特に、私(シュタイナー)が考案したオイリュトミーによる運動がよい。というのも、オイリュトミーの動きは、魂に伝わるからである。 唯物的な生理学から、機械的に体操を行うと、誤った方向に振れてしまい、腸の運動を悪い方向へと容易に導いてしまう可能性もある。 だから、昨今(1920年代)の特に女子たちに流行しているダンスが、歯の形成に有害な作用を及ぼすのも納得できる。だから、盛んに踊る女子たちの歯が男子たちよりも悪いのはどういうわけなのだろう、と問うのは、上述した観点からすれば愚問といえるだろう。 重要なのは、魂から運動が行われ、運動過多にならないことである。また手の運動についても、編み物や鉤針編みなどで、過多な機械的運動になると、健康な歯を損なうこともある。 このような機械的な運動により、実際に歯の損失が起こる。また逆に歯の形成が消化活動に転じる。また非常に重要だが、人間の前進運動、つまり前方に動く能力へと転換されるのは、消化に関わる活動である。 消化活動のなかには、人間を形づくる途方もない多くの源がある。人間が前方に歩けるのは背後に消化活動があるからで、そして消化を刺激するには、人体を内に、後方に向けて動かすことで、これは途方もなく重要なことである。 消化が活発でない人に、体操などで後ろ向きに沢山歩く習慣をつけさせれば、多少の成果が挙げられるだろう。後ろ向きに歩けば、消化活動を刺激できる。以上のような事実から、経験的な知見を蓄積することで、人体内を理解できるようになるには、人智学の光が当てられる必要がある。 更にまた、別の事柄に注目する。人間に対して驚くべき効果が現われるのは、ヌクス・ホミカ(馬銭子 まちんし)(1)である。 この効果は何によるのか? ヌクス・ホミカを研究すれば、その謎の作用に到達し、その作用を人体内に発見できる。(1)ヌクス・ホミカ:Nux vomica 馬銭子(まちんし)。インドなどを原産とするフジウツギ科の馬銭(まちん、英名ポイズンナッツ、ストリキニーネの樹とも言う)という樹木の種子。これはアルカロイドを含み猛毒で、殺鼠剤、また興奮剤などを製する。ホメオパシー療法でも二日酔いの薬として、非常に希釈して用いられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%B3http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/basensi.html ヌクス・ホミカを、二日酔いの人で研究すれば、ヌクス・ホミカの謎の作用がみつけられる。二日酔いの人にヌクス・ホミカを投与し、その作用を観察すれば、他の作用は目立たなくなってしまう。 二日酔いになると、人体の機能が逆転する。二日酔いとは実際、消化活動の最初に起こるプロセスが継続することにある。ワイン、ビール、或いはシャンパンに耽溺し、二日酔いになった場合、アルコールなどの物質が、リンパや血液に行くまでの一連のプロセスを得ずに、消化活動の最初のプロセスにとどまる。すると、溶解が本来の仕事である消化器官が知覚器官に変化する。 すると、通常は、主に知覚活動を外界に向け、外界とコミュニケートし、地上で起こる様々な出来事を眼で知覚する代わりに、自らの過剰な飲酒のせいで、人体内を知覚するように強いられる。 つまり外に類似した知覚活動を体内に求めることになる。そして地球の自転などを感じ取るようになり、酔っ払いはベッドなどが回転し始めるように感じる。 腸の消化活動の反対側にあるリンパ及び血液の活動のなかに、地球の運動、つまり体内化された外の知覚活動が現われる。外界から自らを隔離し、人体を外界にしてしまい、外を知覚しているときには、妨害しなかった作用を、恐ろしいことに体内に知覚してしまう。 人体は地球となるには相応しくなく、人体は地球と適度な距離を保つのが望ましい。ところが酔っぱらうと、体内に正真正銘の地球をつくってしまう。この体内化された地球を、人体から完全に取り出して、外界に置きなおして、外を観察できるように導ければ、酔いから覚めることができる。 だから、酔っぱらうと、人間は、外界を体内に置き換え、体内を外界として知覚するように誘われる。 ヌクス・ホミカは、酔っ払いに生じてくる外界の体内化に対抗する作用をもつので、まずアルコールなどを排泄して薄めるなどの自然治癒力が現われてくるが、この自然治癒力に沿って投与し、この外界の体内化を、ヌクス・ホミカによって抑えることが肝要となる。 飲酒による外界の体内化が抑えられることで同時に、体内化された外界の作用(地球の自転など)から妨害を受けなくなるように、ヌクス・ホミカの作用と、自然治癒力とをうまく結びつけることが重要である。 この治癒力の元になっているのは、消化のなかの味覚の継続が、ヌクス・ホミカの作用により弱められることで、この味覚の継続による妨害が無効になり、治癒力が引き起こされる。 さて、これとは逆の「味覚の継続、つまり消化の麻痺が起こり、溶解が不十分な状態」を仮定する。つまり外界からの摂取物が溶解されず、正しい経路を辿って塩プロセスへと進めずに、消化活動があまりに弱すぎる場合を仮定する。 このような場合、消化の最初期のプロセスが継続するが、このプロセスは、ヌクス・ホミカを与える前と同様の効果を示す。だから、ヌクス・ホミカの性質に基づいて、このプロセスを誘導すると、充分に溶解されないままの物質は、このプロセスに適合しようとするだろう。 これらの未溶解の物質は、出口まで到達できずに、味覚及び消化活動と、造血活動との間にある橋を渡り切れず、向こう側には辿りつけない。従って、これらの未溶解物質は逆方向に道を捜し、もし溶解を促進できれば改善可能な症状が起こってくる。 一方、この消化の最初期の活動を弱めるのはヌクス・ホミカの作用だが、このときの間違った道を捜す未溶解物質に対しては、ニオイヒバ(2)を用いて改善できる。このように、ヌクス・ホミカとニオイヒバの両極的な対立が人体内の消化活動を巡って展開される。これはまた、人体の消化活動全体を洞察していく必要性を示している。というのも、人体内の、この対立は、過小評価すべきでない重要な意味を持つからである。 (2) ニオイヒバ:Thuja ヒノキ科クロベ属の樹木。近縁種にコノテガシワ。 特に人体下部で生じた活動を、人体上部へと転じる活動は睡眠中に高められる。睡眠の特徴を述べるには、非常に慎重でなければならない。というのも、睡眠が最良の薬の1つであるのは正しいが、それは、当人が必要とする睡眠時間が、長くも短くもなく、適度な長さでなければならないからである。 当人にとって長すぎる睡眠は病気を引き起こし、先ほど示した、血液へとつながる消化の橋が穴だらけになる、という事態が起こり、つまり消化の最初部から、リンパ及び造血活動へと、あまりに多くの未溶解物(外界の物質)が入り込む。人間は眠ることで、常に、この危険に曝されている。 人体下部は、実際、絶えず眠っている、と言えるので、人間は、絶え間なく、この人体下部を通じて、血液が病む危険に曝されている。とは言え、人間は自前の治療薬をもち、それにより正常な状態へと適合している。 この治療薬ともいえる正常な状態への適合から、過度な、もしくは過不足な睡眠を通じて、絶え間なく自分を病気にするように努めている。 けれども、この睡眠による病気へのリスクは、血液中の鉄によって完全に相殺される。鉄は何よりもまず、人間にとって最重要な金属であり、人体内で作用し、この病気へのリスクを相殺するように作用し、過剰な形で起こる活動を正常化させる。 血液中の鉄不足による病気を、上述の話から理解できるように、他方で、この鉄を体内で充分に希釈して用いれば、人体上部にその都度生じるホメオパシー化に親和性をもつようになる為、人体を助けて、下から上と起こってくる有害な作用を克服できる。 人間にとって必要な他の金属は、これまで見てきたように、人間の様々な活動によって補充されている。 この方向で、これまでの講義の内容から生じてくる事実をもう一度、手短かにまとめてみたい。再度、人体のリンパ及び血液の働きを示唆した。この働きは、銅の鉱物化で出現する作用の対極を成す。従って、このリンパ‐血液の働きは、銅と親和性をもつ。 このリンパ‐血液の働きはまだ人体下部の最も上位に属し、そのため地上で見られる銅の形成力と親和性がある、という事実を理解することが課題となる。というのも、人体下部に関係する活動は、地球の活動と関係するからである。 従って、銅を通じて人体に作用を及ぼすなら、次のような黄金律が大切である、 「人体下部では、銅をあまり希釈せずに、つまり地上の銅の状態のままで(人体にとって害にならない程度の分量なのはいうまでもないが)用いる。」 さて、リンパ及び血液の働きが銅と親和性を持つように、消化という外界の体内化、つまり人体内の消化活動から血液‐リンパへと食物摂取を促進する働きは、肝臓の働きで、特に水銀と親和性がある。 前者の血液‐リンパの働きが銅と親和性を持つように、この後者の消化活動全般は水銀と親和性がある。ただ、水銀の場合、水銀が球形の調停を担うように、つまり、いわば両方の働きに関わるように注意を払わなければならない。 血液中に多くの未溶解(消化)物を放出しすぎないように促進すべき活動は、ヌクス・ホミカの作用によって生み出され、それはニオイヒバの作用により抑えられ、水銀により調整される。 さて、ここで、ある研究分野が開けてくる。外界の自然を、特に金属のプロセスに従って探究し、人体を、分離された自然として捉え、健康状態と病気状態において、人体下部を通じて密接に関わり合う働きを、自然環境のなかに捉えようとするような研究分野である。 つまり銅と親和性のある人体下部のプロセスを通じて人体上部へと上昇する作用は、反対に位置する鉄によって抑制され、相殺される。この事実から、人間が鉄を必要とし、人体には常に、化学的にいうなら、鉄が有り余るほど充分になければならない、ということがわかる。 銅のプロセス=人体下部→人体上部⇔鉄のプロセス 鉄以外の他の金属(鉛、錫、金、銀、水銀)も、人体のなかにプロセスとして存在している。人間はいわば七つの金属のプロセスから成る。鉄のみが金属のままで存在し、その他の金属はプロセス(金属を生成する過程)として存在している。 リンパや血液の活動を促進するプロセスが銅と親和性を持つように、肺と関係し、喉頭へと外に向かって進行するプロセスなどは鉄と親和性を持つ。 リンパ、血液の活動;銅と親和性 肺から喉頭へと上昇するプロセス;鉄と親和性 更にまた、脳の活動に関わる、上部の消化活動とでも呼べるプロセス、つまり下部の腸からリンパや血液のなかへと進行するプロセスと相対するプロセスは、錫に親和性をもつ。この錫のプロセスは、脳を魂で満たし、調整するような働きを行う。 脳の活動 ;錫と親和性 脳の活動に対し、神経線維や、人体上部へと継続した知覚に関わるプロセスは、鉛と親和性を持ち、汗、或いは尿の分泌と関係する。 神経線維と知覚、また汗や尿の分泌;鉛と親和性 これらの知見から、人間について隅々にまで光を当てることができ、同時に、人間の周囲にある物質から、反作用を用いて、治癒原理を発見できる、という示唆でもある。 明白に理解すべきことは、精神病と呼ばれる病態が様々なプロセスの調節に根拠をもち、それらが霊魂の働きと密接に関係する、ということを、人智学が、提示しなければならない、ということである。これは非常に困難な問題である。 人体を一個の機械のように扱う唯物論は、物質障害的な病気の場合は、機械的、或いは化学的に進行するので、ある程度成果を収めることができるが、他方で、精神病と呼ばれる機能的な障害を解明するには、結局、心理学と呼ばれる、心的な兆候を記述するだけにとどまっている。というのも、唯物論からは、霊-魂と物質体(肉体)との関係についての概観が失われてしまっているからである。 霊魂と物質との密接な結びつきは、魂と肉体の容態が相互に入り交じって生じることを具体的に調べれば、実際に正しく示される。 では根本的に、精神病と呼ばれる病態進行させるものは、一体何なのかを、考えてみる。 人間が病気になると、主観的な、痛みなどの徴候が現われる。これらの徴候は、急性疾患の場合、究めて明確に知覚できるが、慢性疾患の場合、霊-魂が、あるプロセスに対して制御できずに、何か不具合(悪い処)があるときに生じるので、つまり霊-魂は、そのプロセスから疎外される。 痛みとは、自我とアストラル体が、物質体とエーテル体から後退することに他ならず、この事からエーテル体の後退につながることもある。しかし、痛覚の本質は、何と言ってもアストラル体と自我のなかにある。 プロセスに不具合がある場合、通常、自我が頑固な状態にあるので、自我は、プロセスの反作用、つまり物質体のなかで生じる主観的、意識的な反発を知覚する。 病気が慢性化すると、順当なプロセスが自我から次第に後退し、その結果、魂から生じるプロセスが、アストラル体だけに限定され、つまり自我が、アストラル体とエーテル体とが関わる共同作業に参加しなくなる。このような形で慢性疾患が起こり、急性が慢性に移行する。この自我の不参加は、意識の損失、心の後退として特徴づけられる。 診断を行うなら、患者の霊魂にまで入り込まなくてはならない。いかなる容態か、またどこが傷むのか等を尋ねるだけでなく、よく眠れるか眠れないか、仕事に喜びを感じるかどうか等も尋ねなければならない。つまり、長期に渡り広がっているプロセスの不具合などに関わる多くの作用を、特徴づけて見なければならない。 他方、急性疾患の場合は、その都度、患者のもつ主観的な感情で特徴づけられる。慢性となった場合、主観よりも、患者の生活態度や、人生経歴に注目する必要がある。 さて、一般的に、慢性病になるのは、無意識にアストラル体が、エーテル体の活動を超えて、過剰な働きをプロセスに与え、人体の特定器官に影響している場合である。 アストラル体が、エーテル体を迂回して、人体の器官に異常な作用を与えるのに耐えられる体質をもつ場合、つまり、例えば、アストラル体が肝臓との異常な関係を、警告地点を超えて進行させるような性質をもつ為に、アストラル体が肝臓に異常に働きかけていることに気づかない場合、肝臓はアストラル体の異常な働きかけに慣れてしまう。 この肝臓への異常な働きかけが充分長期にわたって進行すると、魂に対して逆(反作用)のプロセスを作り出す。肝臓の物質摂取の働きを、魂のなかに押し込むのである。そうすると、抑鬱症になる。警告点を超えた形でもちこたえ、アストラル体との異常な関係に至る慢性病から、精神病と呼ばれる病態への素質が与えられる。 いつか精神病と呼ばれる病態が上述のように特徴づけられ、考察されるようになれば、唯物的な生理学(*3)を越えて発展するだろう。今日(1920年)、精神や意志の不規則な経過などについて多くが議論されている。 しかし、人体の最高位の霊魂のなかに、人間の意志として出現するものが、肝臓や脾臓、並びにその他の下腹部の器官との多様な共同作用によって支えられている事実を知らない限り、物質体での精神的病態に関する対応像を、実際に発見するには至らない。 精神病と呼ばれる病態にこそ、外的治療の導入を考えるべきである。精神病と呼ばれる病態に対して、人智学から、外界のプロセスを導入し、外的治療に通じるべきで、他方、物質的障害の(急性)疾患の場合は、逆に、魂との共同作用を示唆し、内的治療を主張することは、一見、矛盾するように聞こえるだろう。 しかし、この主張は、人体下部と人体上部の強力な対立と関係している。外界に対して開始された人体上部の知覚活動が、味覚活動として体内に継続されるように、知覚が体内化されるとき、或いは、体内のプロセスが、顫(せん)動運動のなかで、逆に外に向かって放出されるときに、人体下部に現れる反転と関係している。正しく見通せば、外界への知覚との対極関係が、この反転にあることがわかる。 さて、この講義では、様々な事柄を展開し、人智学から解明できた事実を述べようと苦心した。講義のなかでできる限りを考慮し、概観しようとすると、色々な困難が浮かびあがり、何処から手をつけてよいのか、と色々と考え込み、基本から始めると、短期間では充分な処まで辿りつけないので、結局、示唆的な解説しかできなかった。 高次の方法から始め、オカルトの純然たる真実を持ち出して、霊的な方向性をもって、今日の医学に橋を架けるのは容易ではなく、莫大な時間が必要である。今日遥かに進歩した唯物論の弊害が見つけられる処では、今度は別の面から、この弊害に対抗して働きかける必要性にも気づく必要がある。 これまで述べてきたオカルトの叡智を、党派的、組織的に理解せずに、友愛的に自然に理解すべきである。いかなる方向にも党派を組んではならず、事実を客観的に述べるだけにとどめるべきである。 とはいっても、次のように言うことは許されるだろう、 「今日のアロパシー的医学を概観すると、患者の前面に現れる二次的(副次的)症状に従って、細菌(ウイルス)論などで診断する傾向、つまり二次的(副次的)な病因の探索に偏向していることがわかる。」 細菌(ウイルス)学が、診断を支援するのに使われるなら、実際に究めて役に立つ。病因を探査する為に、細菌(ウイルス)の性質から多くを知ることができる。なぜなら、ある細菌(ウイルス)の性質は、特定の主病因の二次的(副次的)症状に常に出現するからである。二次的な症状から主病因を見つける為の充分な機会が与えられるからである。 しかし、二次的(副次的)症状を、主要とみなす傾向、例えば、人体が、どの程度、細菌(ウイルス)繁殖の担い手になり得るか、もしくは細菌(ウイルス)の人体への影響を調べるなかで、アロパシー的な医学の細菌論で前面に現れる観点だけでなく、他の考察法のなかにも、唯物論的な観点が存在し、それにより酷い弊害が引き起こされ、今日の様々な病気の観点のなかにもみられる。 しかし、だからと言って、試しに、ホメオパシー的医学を概観すれば満足できる、ともいえない。というのも、確かに、ホメオパシー医学は、物質体のみでなく、他の3つの人体全般に関する病像にも注目し、しかも薬による治療へと橋を架けるように努める、といった長所をもつが、ホメオパシー医学の文献には、また別の弊害もみられるからである。 ホメオパシーの文献を取り上げてみると、ほとんど絶望的な気持ちになるだろう。例えば、特にその治療学的な文献では、薬が次々と順番に列挙され、その各々がほとんどの病気に効く、というような記述があるが、これについては絶望感を禁じえない。これでは、文献から、個別の疾患の治療へと到達するのが全く容易ではない。 どの薬もほとんど色々な疾患に効く。確かに、それ以外の記述は困難というのもわかる。とはいっても、このような記述も間違っている。このような記述を改善するには、この講義で、これまで述べてきたなか、最小限試みた、基本的な方法を示し、それを個別的に応用していくしかないだろう。 なので、とりあえず基本的な方法を選び、その最上部の高度な方法は、この連続講義の内容とはしなかった。人間と外にある自然を、これまで述べてきた観察を通して、外界のプロセスから、薬が影響を与える人体内のプロセスの範囲を見究め、薬の影響の程度を見積もることができれば、この漠然とした現状の記述を改善できる。 この記述の改善をなすには、次のような方法がある、 実際、患者に生じる症状のみを薬により研究するだけでなく、万有宇宙を1つの統一体とみなし、その統一に関わっているアンチモン化のプロセスを追求し、外界でのアンチモンの振舞いを見通せるようになると、人体内でアンチモンが成し遂げるプロセスも同時に見通せるようになるが、少しでも、このような研究をすべきである。 人体内でのアンチモンの働きを見通すことで、固体化している部位がわかるが、そのような部位は、外界では液体と固体の境界領域になる。 これまで述べてきたように、この連続講義では、まず前面に基本知識を押し出すように導入したのが、人間と外界との関係であった。自然治癒が、この関係を必須とするのは確かである。つまり、自然治癒は、人間を、再び自然に即して、人体自らが持つ治癒力のなかに置き、この治癒力の根拠が、自然の何処にあるのかを指摘することで目覚めさせるのを可能にするからである。 実際、自然治癒力は、地球(地)と地球外(天)との相互作用に基づいている。そして、自然治癒力は、唯物論では理解できないので、唯物論からは見通せない。自然治癒力についての様々な党派的な議論の方向性全てが唯物論から生じている、のを見通すことができる。 唯物論はほとんどの議論に共通して存在している。従って、重要なのは、この議論全ての霊化である。とはいえ、現代は霊的な事実と真っ向から対立している。専門知識や専門職の側からも、唯物論に対する治療法が出現する事が必須だろう。 というのも、この講義で試みた基本的な方法、そして、今産声をあげた霊的な観点が、何らかの趣向趣味的、興味本位の奨励と取り違えられては困るからである。大切なのは、科学的にも正しい活動と努力が人智学においてなされていることを理解できる人たちが、趣向趣味的、興味本位での推奨のような、有害極りない偏見を克服するために協力し活動してくれていることである。 現代科学が提示できる事実は既に全面的に利用され、常に考慮に入れられる状態となっている。しかし、人智学から意図される事実を見ようとする人はほとんどいない。その為に、相変わらず、上記のような科学者の誤解を生むような事態が起こるので、最後にそのような例を挙げておく。 例えば、オイリュトミーが人体にとって、どんな意味を持つか、実際、医師に的確に説明できる。肉体のような、建築物がどのように立っているのかを、医師に明確に説明でき、この連続講義で詳述したように、人体内全体を、外から(物質として)見る医師に説明できる。 今日、霊魂に無知な唯物論と、因習的な時代遅れの退廃的な方向性に対して、上述してきたように、それらに抵抗する霊的な基盤から語る必要がある。真に考慮に値する事柄については専門的な分野から克服すべきで、さもなければ、次のような出来事が増えていくばかりとなる。 フォン・M氏が、「新チューリッヒ新聞」にドルナッハ建築(3)とオイリュトミーに関する記事を書き、自らの善良な意図を実現し、その新聞に貢献できるもの、と確信していたが、編集者からの返答は次のようなものだった。 「拝啓。地方を侮辱する建物として、ゲーテの名を付した神智学によるドルナッハ建築の記事は除きます・・オイリュトミーに関しては、調査中です。ご送付に感謝します。 H. トローク、学芸欄編集者」(3)ドルナッハ建築:第一ゲーテアヌムのこと。1922年と1923年にまたがる大晦日の夜火災により破壊された。 さて、このような出来事から、霊界から物質界へと入り込んで行く知見を、唯物論的な餌桶が、とても奇妙な妨害をする、ということがわかる。このような出来事が、今日(1920年)起こっている。そしてまた、注意すべきなのは、このような唯物論の餌桶が、腐敗した餌をまき散らし、鼻のなかにまで侵入してくる悪臭を漂わせ、汚染を広げている、ということである。 このような話が、この連続講義の結び、つまり最後に述べたいことである。というのも、これらの話は、以下に述べる願望を保証するのに役に立つからで、つまり、この連続講義を、寛大さをもって、実際、人智学発展の発端であった、と見て欲しい。 この連続講義の初めに、今挙げたような理由から、この講義を始めるのが困難に思ったが、今、終わりに際して、「このような講義を止めるのは更に困難である」とわかった。 というのも、実際、まだ言うべきことがあるのに、言わない方が遥かに辛いからである。だから、この結びに置きたい「始めるのは困難だが、今日、止めるのはもっと困難である」という言葉により願望を表出したい。 この言葉から、どうか人智学の講義を通じて伝達してきた事実を、寛大な評価のなかに取り入れ、主観だけでなく客観的根拠が、人智学のなかに存在することを理解して欲しい。 人智学の発端に対してどれだけ興味を持ち、また上記の「人智学を語ることは困難だが、語るのを止めるのは更に困難である。」という発言を受諾するとき、つまり、主観だけでなく客観的に、人智学的見地から、霊的な認識が語られる、また同様の機会が、再び訪れることを期待したい! 1-20 診断のために、何らかの物質が、空間の何処かにある、という物質(物理)的検査は、根本的に、病気の本質を知るのに決め手とはならない。 空間の何処であっても、知るべきなのは、何らかの非物質的存在(エネルギー)が活動的に当の場所に正しく存在しているのか、それとも、その存在が本来いるべき正しい場所から、排除され、仕方なく、その場所にいるのか、ということである。 このような霊的な洞察が決め手となる。そして、人体に関しても、健康と病気の状態を理解する為に、上述のような概念を身につけるのが重要である。とはいえ勿論、一般的には、このような知見の助けを要請できなくても仕方がない。 なぜなら、現代においては、物質よりも精密な概念について、一般的な教養にあまりにも乏しい為に、非物質存在の、霊については抽象的に語らざるを得ず、物質の概念からでは理解不能になるからである。 このような事が全く理解できないために、唯物論のなかでの論争となる。現代の科学者に必須の研究分野の為に、調査可能な事実は、科学者の眼前にあるが、この研究分野の特徴づけをおこなうなら、人智学を通じて、物質として分析できる知見から、例えば、物理-化学的な物質科学で研究されるような、「この空間には、この物質がある」という概念は、錯誤以外の何ものにも導かない、ということが証明できるだろう。 (量子力学の観測論などは、人智学からは錯誤しか導かないということ。)
2017年01月30日
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随分と書き込みをサボってしまったが、久しぶりに書きたい。 さて、今年の干支は、丁酉で、丁は新旧の勢力の対抗、酉は爆発を意味するそうです。どうやら価値観が180度変わる年の到来といえそうです。昨年の暮れからそのような現象が現れてきたようにみえます。 世界は大きく移り変わりつつあります。英国のEUからの離脱、米国に日本のおバカ総理と同じ低能の大統領が誕生したことで、第一に欧米の没落が挙げられるでしょう。 強い日本を取り戻す、と言っていたアホ総理が日本経済を崩壊させ、多額の国民の年金を溝に捨てたように、同じように強いアメリカを取り戻す、と就任演説した口先だけの無能大統領にそのような力はなく、破壊しかできないでしょう。 しかし、破壊といっても、いまの歪な米国の格差社会を破壊してくれるのなら、大歓迎です。 英米は世界に格差社会を拡げた元凶ですから、本来自業自得なのですが、8人の地獄行きの大金持ちの欲深さに代表されるように、世界から奪うものは奪って、今度は世界から奪われる番になると途端に逃げだす有様が、いまの英米がもつ反キリスト的な態度なのです。 このことはシュペングラーが記し、トインビーが受け継いだ西洋の没落にあるように、物質文明というのは、限界を迎えると自滅することを示したにすぎないものなのです。 トインビーは、東洋の古い書(易経)のなかに、古代アトランティス文明の残影をみたわけですが、物質というのは死を免れず、だから物質を超えて、精神を再生させる、生の文明を提唱したのでしょう。 だから、北欧の福祉社会などは、どこかしら古代アトランティス文明の匂いを感じさせるものがあります。北欧には北欧神話のヴォーダンが生きているようにみえるのです。 つまり精神を向上させる文明を築かなければ人類は進化できないどころか、現在のサルのように退化を免れないわけで、現にアメリカをみればわかるように、8人のサル山のボスが社会を支配する地獄となっているわけなのです。 アメリカはいわば鎖国を宣言したわけで、日本史でいうなら、徳川家康の時代になるわけですが、家康と違うのは、秀吉が武家社会を既に統一し、公家を無力化し、仏教勢力を金銭で買収し、武装解除していたことが大きく、家康はただ対外国勢力に専心でき、それも徳川家で貿易を占有できたことが大きいわけです。 鎖国が可能だったのは、日本が小さな島国であった地政学上の利点も大きかったわけですが、アメリカが鎖国するというのは不可能に近いので、かえって内乱を誘発するだけでしょう。 この無能大統領の内需の拡大という経済理論は正しくても、アメリカは大きな軍隊を抱えていて、武装解除が困難な上に、キリスト教国といっても、キリストの教えを守らない地獄行きの金持ちがいる限り、思想においても、アメリカ国民の結束は不可能なのです。 だから、鎖国すれば、格差間で闘争が始まるでしょう。そうすると、金持ちたちの行き場がなくなり、国内は勿論、国外でも、既にアメリカは嫌われつつあり、英米は大金持ちとともに没落の一途を辿るしかないでしょう。 英米は世界から尊敬されるどころか、これまでの戦争に関わって利益をあげてきたことが知れ渡り、世界から罵られるようになるでしょう。現に人類に原爆を落としたのも英米なのです。 しかし、英米が没落するからといって、中露が相対的に向上するとは限りません。中露は北欧の先進性とは逆に、公害問題や、外への領土獲得の野心をいまだに捨てきれずに、古臭さがいまだに残っているからです。第一政治体制が古く、民主制とは程遠い、いまだに汚職を生みやすい、官僚統制の権力社会だからです。 中露は北欧を手本にすべきですが、西洋文明にかぶれた極東の日本、東アジアを手本にしています。日本は物質文明の恩恵を一番受けている国といえますが、逆に精神の堕落は高度に進んでいます。それは日本人が没個性で、お上の命令には服従で、社畜といわれる奴隷に近い生き方をしていることでわかります。 日本社会は表面的には高度に進んでいるようにみえますが、中身は中世のように集団主義です。日本人のほとんどは拝金主義で、カネでなんでも解決できると思っている人も多く、その精神性の低さは明らかです。 そこで日本を考えてみますと、日本には至る所に中世の名残が見受けられます。昨今問題になっている長時間労働ですが、これは営業時間を拡げれば利益が増大する、という小学生でも考え得る単純な発想に基づいていることがわかります。 なぜ小学生の発想かというと、長時間労働で、成果が上がるわけがないからです。労働者の精神性を無視しています。単純に、営業時間が増えれば、客が増え、物質的に利益が向上するとしても、それだけ人件費を含むコストも増えることになりますし、何より、精神面に与える負担が大きいのです。 例えば、狩猟を考えてみればわかります。ワナを沢山仕掛けて、何度も山に行ったからといって成果が上がるわけではありません。動物もバカではないので、簡単な仕掛けは見抜かれてしまうでしょうし、動物の数は有限なのです。沢山捕れるからといって、必要以上に捕り続けると環境破壊につながります。 つまり、この世界の出来事は非線形現象なのに、線形思考を当てはめても成果は上がらないどころか、かえって負担を増加させるだけなのです。だから長年受け継がれた生活習慣や道徳基準に従う必要があるのです。 滑稽なのは、同じような長時間労働をしてきたと自慢のように主張する人たちが、なぜ過労死せずに今生きているのか不思議です。特攻を他人に命じておいて、自分は命乞いするようなものです。どうして、いま長時間労働をしている人の負担を少しでも減らすように助けないのでしょうか、昔のことは既に過ぎ去ったことで、問題は現在起こっているのです。人間の心を失っています。 小学生でも考えられる解決法を採用する無能な経営者に問題があります。第一、長時間労働は労働基準法を守っていませんし、労働者の人権を無視していることになります。法律を守らないということは、道徳も守っていないわけで、その人は死後、地獄にいくことになるでしょう。 オカルトでいえば、道徳とは、死後、天国に行けるかどうかの裁判基準なのです。精神の向上性の目安でもあります。 法を破って利益を上げても、その場はそれでいいかもしれませんが、死後、地獄にいくことになり、地獄にいけば被害者の気持ちを知り、苦悩し、また人生を改めて被害者としてやり直ししないといけないのです。 オカルトの話は置いておいても、法律を守らないのは人間として生きていないので、論外です。 では、どうして長時間労働のような発想に至るかというと、日本の会社が中世の武家社会を源流としているからでしょう。日本初の会社といわれているのは、坂本龍馬がつくった亀山社中だといわれていますが、これは司馬遼太郎氏の本の洗脳でしょう。 亀山社中というのは、土佐藩の密貿易の窓口のように思います。それはさておき、現代のサラリーマン社会が、中世の農民でなく、既にいなくなった武士に例えるのは歴史的にはあまりにも不自然なのですが、なぜだか、当てはまるような気がするのは奉公などの言い回しが残っているからでしょう。 現代のサラリーマンを中世の武士に例えるのはそもそもナンセンスなのですが、奉公という言い回しから当てはまってしまうのは、日本社会にいまだにその古臭い精神が残っているせいなのです。 実は、日本史を深く調べてみるとわかるのですが、現代のサラリーマンは、戦国時代の足軽ならまだしも、江戸時代の武士というよりも、寺社の人員帳簿に管理された農奴に近い身分といえるでしょう。だから、坊主の主人には服従で、滅私奉公なんていう死語になるべき言葉もいまだに残っているわけです。 元々、武士というのは、武家という肩書をつぐ形式的な役職です。武家は、古代中国から亡命してきた王朝の末裔が日本原住民を征伐し、朝廷をつくり、その武装警護の名目でできたわけで、明治維新で、華族などに編入されて、消滅したわけです。 華族になれなかった武士たちは、西郷が士族の不満を背負って薩摩国を独立させようと反旗を翻したのですが、大久保に騙し討ちにされて、海外に渡るかして、明治政府の棄民政策でほとんど消滅したわけです。 武家という組織は消滅し、寺社が農奴を管理するカースト制度もなくなった現代にいまだに「奉公」のような中世の不自由な主従関係からくる精神的な束縛を求める労働環境は不健全にみえます。 本当は庶民という言葉もなくならないといけないわけで、中世の概念からすれば、庶民とは守る家のない差別を受けた部落民のことですから、戦国時代の戦国武将たちが寺社と戦ったのは、多くが部落民出で、カースト制度を撤廃し、身分制度を平等に改めるためで、だから信長も、外国の宣教師を利用し、内乱に乗じて、中世の身分制を改定するために、部落民の王になって、安土に城を立て、中国からの渡来人の制度に対抗したわけです。 だから昨今の肝心な身分制度打破が抜け落ちている歴史ドラマをみていると冷や飯を有り難く食っているようで滑稽この上ないものです。 ここらへんで、金儲けのための戦争による近代の物質的な身分制度を打破すべきではないかと、信長協奏曲という一風変わったドラマをみていて思う次第なのです。 アメリカが武田信玄の甲斐、ロシアが朝倉義景の越前、中国が浅井長政の近江、日本が尾張とすれば、日本に金持ち打倒の信長が出てもおかしくないな、と思うのです。
2017年01月21日
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