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更に、前回の観点から、もう1つ別の事実に注意を向けてみる。例えばラヴェンダー(E)のような植物が持っている、かなり包括的な作用を研究すれば、ラヴェンダーのなかにあるものは、魂のネガティヴな衰弱とでも呼べる、失神、神経衰弱、麻痺全般に対して、強い治癒力をもち、つまり、ラヴェンダーは、人間の生体組織の末端部に作用して、アストラル体を追い出すように、アストラル体が物質体に及ぼす力を失うように働きかけることがわかる。 ラヴェンダー;生体組織の末端部に作用して、アストラル体が物質体に及ぼす力を失うように働きかけ、失神、神経衰弱、麻痺全般の、治癒効果をもたらす。E ラヴェンダーシソ科の多年草。ハーブとしては最も有名なものの1つ。花から取れる精油は香料、薬用に広く用いられる。参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC さて、このような植物、つまり、いわゆるネガティヴな神経衰弱に対抗する作用が見られる、このような物質全般においては、常に、またこの作用とは別の、神経衰弱とは逆のネガティヴな神経状態についても問え、例えば月経不順の有無といったことである。 すると、このような物質は、一方で神経衰弱に治癒作用し、また他方、月経不順にも作用することがわかる。このように両方に、とりわけ強く作用する植物は、例えば、メリッサ(F)であり、眩暈、失神の場合にも強く作用し、また、かなりの程度の月経の促進作用もある。 F メリッサ レモンバーム。香水ハッカの異名も持つ。シソ科の多年草。全草にレモンのような芳香がある。ディオスコリデスの「薬物誌」(紀元前1世紀)にも記され、古代から薬草として用いられた。ハーブティーとしても用いられ、リキュールの原料でもある。パラケルススはこれを「不老不死の霊薬」と呼んだと言われる。参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A0 以上の例に言及したのは、外界の植物プロセスを、人間自身のなかで生じているプロセスとの類似という点において、いかに追求できるか、示す為だった。ただ、はっきりと理解すべきことは、植物が実際に親和性を持っているのは、人間存在の一部分に対してだけである、ということである。 例えば現在、存在する療法を、ファナティック(狂信的)に植物療法だけに切り替えたいと思うなら、この事実をよく考慮すべきである。 人間は実際、自然界全てを自らのなかに含み、自身の人間界以外に、形成されるプロセス(経過)において、つまり発達(進化)の諸段階において、自然界の他全てと親和性をもち、しかも、ある種の形で、自然界の他全てを、自らのうちから外に出した。 そして、場合によっては、自分が外に出した存在を、自然界から再び自分のなかに取り戻すこともある。つまり、それは、以上のような植物から、自分のなかへと(プロセスを)取り戻すことなのである。 植物による療法(勿論、一部分だが)が、自分のなかに(プロセスを)取り戻すことである、ということは大変重要なことである。
2009年01月29日
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ところで、チコリはアルカリ塩、カリウムも含んでいる。特に、このなかに、血液に作用する存在を探究しなければならない。すると、チコリのなかで、どのような力が放たれているかということも同時にわかる。チコリのエキスのなかにある力は、その親和性により、消化器官へと伸びていく。 アルカリ塩の力は、その親和性により、血液に親和性のある器官、或いは血液へと伸びていく。更にまた、本質的に、(チコリのなかには)珪酸も多量に存在し、珪酸は血液を越えて、末端の器官にまで作用し、神経組織、筋肉組織を経て、骨組織のなかまで到達する。 従って、チコリとは、実際、次の事実を示す。 「チコリは、元々、三つに分けられる。だから、人間の生体組織の三つの構成要素全て(頭部、胸部、四肢と腹部)に対して作用を与える」、と。 アニスとチコリの作用は、自然自体が、人間たちの目の前で行なってくれる実験であり、人間自身が行なう実験よりも、実際常に、遥かに意義深いものである。 なぜなら、自然は、実験によって、自然に問いかけを行う人間自身よりも、その意図において、遥かに豊かだからである(人間は、実験により、知的好奇心のみしか満足しないが、自然は、実験によって、人間以外の全ての自然の作用をそのまま満たしている)。 この事実に関連して、また、スギナ(C)も非常に興味深い。スギナにもやはり、消化不良に強く対抗する作用と、末端部まで達する強い作用が見られる。C;スギナ トクサ科の多年生植物。これの胞子茎がツクシ。スギナの全草は利尿薬とされる。いわゆるトクサ(木賊、砥草)は Equisetum hyemale。 地上茎は円筒形で分枝しない。茎は珪酸を多く含み、固いので、18世紀まで、鍋類、特に白銅製品などを磨くのに用いられた。参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AE%E3%83%8A 「スギナにおける、この末端部まで達する強い作用は何によるのだろうか」、と問うなら、またも、「珪酸成分によるもの」、という答えが得られる。 だから、これら植物の比較研究によって(真に医学的な植物学を研究するなら、非常に多様化される)、すぐにわかることは、本来の植物に近い状態と、(消化され)植物エキスとして出現した状態の、両者は、消化管に対して親和性をもつが、既に鉱物界、珪酸への傾向をもつ状態のものは、いわば人間の中心部から、末端部を目指し、そこでは同時に治癒的作用も行う、ということである。 消化管に対して親和性をもつもの;本来の植物に近い状態、植物エキスとして出現した状態 中心部から末端部への治癒作用;鉱物界、珪酸への傾向をもつ状態 しかし、その働きにおいては単純だが、教唆の極めて多い実に素晴らしい植物がある。 それは野イチゴ(D)である。この野イチゴの作用が滅多に観察されないのは、いわば、この野イチゴの作用を、自分たちの生体組織で覆い隠してしまう人たちに食べられているからである(始終食され習慣づけられたため、野イチゴに対して免疫をもってしまう)。D;野イチゴ ワイルドストロベリー。ヤマイチゴ、エゾヘビイチゴ、シロバナヘビイチゴ とも。葉、根、実いずれも用いられ、冷却、収斂、強壮性のハーブとされる。 参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%93%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%B4 実際、この野イチゴの作用がほとんど覆い隠されてしまう作用を、いわば、まだ感じやすい、敏感な人たち、つまり通常、野イチゴをあまり食べない人たちに対して試みれば、たちまち、この野イチゴの素晴らしい意味が明らかになるだろう。 つまり、この野イチゴは、特に血液形成の正常化を誘発させることができる。 野イチゴは、実際、血液形成を多少促進し、あらゆることをするので、通常、好んで食べることで、野イチゴに対して免疫がなければ、下痢の人に、この野イチゴを薬剤として用いることができる。なぜなら、下痢が起こる際、下腹部に間違って出現する力が、(野イチゴの作用によって)、本来の正しい位置に撤退させられ、つまり、血液組織自体のなかに撤退させられるからである。 野イチゴ;下痢の抑制と、血栓予防の作用は、苦味成分による。 さて、野イチゴのなかには、一方で本質的に血液を形成する力があり、他方でやはり珪酸があって、(珪酸によって)生体組織のなかで、末端部を目指す。そもそも、この野イチゴが、いかに素晴らしいものか、よく考察すれば、野イチゴは、珪酸によって、ある種の力の展開を、生体組織の末端部まで進めていく傾向をもっている。 野イチゴ;珪酸によって、生体組織の末端部まで力の展開を図る。 生体組織の末端部で、力の展開が起こるとき、ある種の危険が生じ、つまり、珪酸を、あまりに多く末端部に導いてしまうと、力が、いわばおかしくなり、この末端部に同時に十分多くの栄養分が輸送できず、珪酸によって、いわば産出されたプロセスに、栄養分を供給するのに、十分豊富な血液が同時に得られない、という危険である。 さて、この野イチゴは、珪酸により末端部に輸送すべき血液を自ら準備するという、素晴らしい例証(サンプル)なのである。つまり野イチゴは、珪酸によって生体組織の末端部に引き起こされるプロセスを助ける為に為すべきことを、驚くべき形で表現しているのである。 自然はこのような例証(サンプル)によって(この例証の数は更にずっと増えていく可能性もあるが)、実に驚くべき洞察を与えてくれる。ただし、自然を正しい観点で探究する預言力(預見力)を備える必要がある。
2009年01月28日
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本質的なことは、医学研究を実り豊かにする方法を試みることである。でないと、あまりに分析専門化し、分類化しすぎて、個別化のなかで、自らを見失いかねないからである。 個別的特質が持つ意味は、結局、常に相対的なものにすぎないからである。しかし、この人間と、人間の外にある自然との関係の方法論的研究こそが、いわば自然のなかに、人間一人一人の観察を行えるような準備に適している。 従って、今回は前置きとして、ある分野にとっては、いわば一種の指標となる可能性を少し述べる。また、その指標の途上で見い出せる事実もある。 当然、人智学的探究による、指標の提示によって、以前のシュタイン博士(1)の講演の意味が、検証されるような発見もできる。一度、この分野に入ると、方向付けが得られる。そこで今回、正に注目に値すると思われる例を幾つか指摘したい。(1) Walter Johannes Stein 1891-1957 シュトゥットガルトの自由ヴァルドルフ学校の歴史教師(1919-1932)。後にイギリスで活動。 例えば(差し当たり、しばらくは植物の領域の解説にとどまる)、アニス(A)が、通常人間の生体組織にどのような作用をするか、いまではよく知られているが、アニスの最も特色ある作用というのは、分泌(排泄)を促進する、すなわち、利尿、乳汁分泌促進、更に、汗の形成である。 アニス;分泌(排泄)を促進する。すなわち、利尿、乳汁分泌促進、汗の形成。A;アニス セリ科の香草。一般的には種子をスパイスとして用いることが多く、甘い芳香に特徴がある。焼菓子に入れたり、リキュール類の原料にも用いられる。多くの図鑑では、アニスの学名は、Pimpinella anisum となっている。ヨーロッパでは民間で催乳薬として用いられる。 参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9 http://www.amazon-herb.com/herb/plant_anise.html この事実が何と関係しているのか? この植物に関して、わかる事は、アニスの働きは、中に含まれている微細に分割された鉄分、或いは鉄塩分と関係し、従って、はっきりとわかるが、アニスの作用の基礎となるのは、通常は血液中の鉄により行なわれるプロセスが、いわば血液から取り除かれ、血液より下部の組織領域に、しばらくの間、押しやられるという事実なのである。 アニス;アニスの鉄分、鉄塩分が、血液中の血液の鉄作用を抑制する。 実際、ある植物の場合、中間部、すなわち、外と内の中間、身体の表面と心臓との中間に、非常に強くその作用が及ぶので、このような植物が、いかに様々な領域まで作用を及ぼしているのかを、良く研究できる。更には、合理的に、薬剤を、見つけ出す際のライトモチーフをも得ることができる。 例えば、この点において、正真正銘の自然の教師とでもいうべき植物、チコリ(B)を観察してみる。チコリを手懸かりにすれば、いわば人間の生体組織に関して、あらゆる可能性を研究できる。B;チコリ キク科、和名キクニガナ。明るい空色の花をつける。若葉は野菜として食される。根をコーヒーの代用品1)とすることでも有名。一般の薬草学においても、葉、花、種子、干した根、いずれも、利尿、健胃緩下等の薬効があるとされている。中国では全草が肝炎や黄疸の薬として用いられる。 1) http://hirogarden.web.infoseek.co.jp/herballifeherbchicory.html参照;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%AA チコリからわかることは、チコリは一方で、消化不良に対抗する薬、つまり、人間の外界に向かって配置される器官(排泄器官)を通じて、出現するプロセスに、直接に、対抗する薬であり、他方でまた、チコリは、血液にも作用し、自らに必要なプロセスを、血液が実行するように、血液の液体性に停滞プロセス(血栓)が出現しないように、血液に作用する。 チコリ;消化不良を抑制し、血栓を阻止する。 チコリにおいて、非常に重要な事は、チコリの治癒作用は、非常に人体末端部のプロセスにまで及んでいる事実で、状況によっては、頭部まで、特に喉と胸の器官、肺器官にまで作用を発現させている、ということである。 チコリ;その作用は人体末端部まで及ぶ。 チコリは人間のあらゆる部分に、強く作用しているので、チコリの研究は、非常に興味深い。チコリの(消化不良の抑制と、血栓予防の)作用が、いわば扇形に拡がっているのを見てとれる。では、「消化不良への対抗作用というのは何によるものだろうか」、と問うなら、チコリのなかに存在する、強い味覚の作用により表現される苦味エキスによるものである事がわかる。 この苦味エキス、つまり、強力に、植物的、物質的性質をもつ、このエキスは、人間のなかの、まだあまり人間によって加工されていない物質、いわば外界にあったときの外観に、類似する存在に強い親和性をもっている。 チコリ;消化不良の抑制と、血栓予防の作用は、苦味成分による。 はっきりと理解すべきことは、人間は、外界の物質素材を、初めは、ほとんど加工せずに、胃の領域まで取り込み、その後、更に加工され、腸を通じて、根本的に改造されて血液中に出現し、そして末端部、つまり骨組織、神経組織、筋肉組織において、最も改造された状態で、現われるということである。そして、このエキスというものは、まだ加工されていない外界の物質と非常に強い親和性をもっている。
2009年01月27日
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臭覚も味覚も無いような物質の場合、感覚を元にした治療法が困難となるのは言うまでもない。しかし、注意すべき事は、特に、医師にとって重要な、一種の自己教育というものが存在するということである。この自己教育とは、精妙な感受能力を養成することで、つまり、外界の珪質形成プロセスを感じ取れるまでに感受能力を導き、養成することである。 確かに一方で、石英は非常に規則的な形態(結晶構造)を見せているが、この規則的形態を見せている岩石、鉱物に、親和性のある形成(珪酸形成)では、他方で、あらゆる可能な結晶形態をとる傾向にあり、珪酸塩の場合、結晶化する際の多様性は、途方もない数となり、そこには実際意味がある。 このような意味を感じ取れる人は、更に、究めて様々な形態形成の可能性のなかで、分散要素の優位性を感じ取れる。 外界の自然では、珪酸塩ほど、(多様性のある)多くの形成物を生じさせる可能性のある(形成プロセスの)場合は、勿論、この分散要素を模範とする必要がある。この事実は、珪酸塩を粉末状にして用いる必要性を示している。 この為に、感受能力を身につける必要がある。これから見ていくように、更に、この感受能力が、薬の評価にも通じていくからである。他方、また不可欠なのは、人間が、自身を、薬の良い反応体として、特に、例えば匂い、つまり臭覚も、視覚の色彩感覚と同様に、本来七つに区分できる処まで感受能力を高め、修得することである。 甘い匂い、刺すような匂い等に対しての識別力を身につけたら、実際、味覚も、臭覚と同様に七つのニュアンスに細分化されることがわかる。 更に興味深いことは、臭覚での、この7つの階梯、いわゆる匂いのスペクトルを修得すると、同時に、可燃性物質に出現する匂いを嗅ぎ分ける教育手段が獲得できることである。 いわば可燃性物質の本質に迫っていくわけだが、その手法については次回見ていくことにする。味覚に対して、ある種の感受力を身につけるなら、例えば、甘い味を、塩辛い味、つまり塩から明確に区別でき、両者の間に、なお五つの味のニュアンスを区別できるなら、自然における塩形成との、一種の内的親和性を身につけることになる。 そして、この内的親和性を身につけたなら、いわば自然から得る印象(イメージ)を基に、次のように感じ取る事ができる。 「これは人間の生体組織のこの面に役立つ、これは人間の生体組織の別の面に役立つ」、 というように、様々な物質の作用については、慎重で厳密な科学的調査が基礎になくてはならないが、それでも、やはり大きな意味を持つのは、科学的調査の成果にも、以上のような主観的な感受能力を添えることを決して無視してはならず、すなわち、自然に対する、ある種の内的親和感情を自らのものにするということである。 以上の議論は、次回更に引き継いで、もっと個別的な事項に入っていく。
2009年01月26日
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珪化の正反対(真逆)のものは、人間の外の自然においては炭酸形成と呼ばれるプロセス全般のなかに含まれている。炭酸形成プロセスはいわば、珪酸形成の対極に位置する。 従って、治療に際して、炭酸形成プロセスを追求するには、今度は、生体組織において、今特徴を述べたプロセスの反対のプロセスの存在、つまり広義に消化と関わり、その出発点としての起源が、消化系統のなかにあるプロセスが、不可欠となる。 だから、炭酸結合、特に、それを自然自身が形成するような方法で用いるなら、つまり植物により、その形成プロセス(過程)を獲得するなら、心臓より下部組織での病気の場合に、究めて有効に作用する。 心臓より下部の炎症疾患;外界の炭酸結合プロセスの希釈化が治癒となる さて、ここでも、ある関連に注意することが非常に重要となる。まず、臭覚と味覚において、物質が提示するプロセスに従って、物質を追求し(臭覚は、可視世界に人間を導き、味覚は生体組織内の秘密へと導くが)、そして、消化をも考慮するなら、次のように言える。 「消化プロセスの開始時では、諸物質は溶け合い、混ざり合っている。しかし、器官プロセスが進むにつれ、人間は、混合物の再分離に関わるようになり、物質というよりむしろプロセスの再分割がなされる」、と。 そして、この栄養摂取での消化混合物の分割、再分離こそが、生体組織の非常に大きな課題の1つである。生体組織が、第一に取り掛かるのは、消化混合物の、主要分離であり、つまり、一方では腸を通じて排泄に向かい、他方では、尿を通じて排泄に向かう。 この事から既に、ある器官組織にアプローチしているのだが、この器官組織に対しては、治療の際、医師の直観力(預言力)が非常に問題になる。いまアプローチしているのは、人間の生体組織において非常に素晴らしい作用を行っている腎臓組織で、これは、そのプロセスにおいても、全く奇妙な分岐を成している。 しかし、この事に関しては、また後で述べるが、いまの問題は、以前、示したように、腸を通じての全排泄は、頭部のプロセス(経過)と関連し、これら二つは互いに関連し合うことである。 同様に、尿のプロセス(経過)は、心臓の周囲で、つまり心臓組織で生じるプロセス(経過)と関連している。根本的に、腸を通じての排泄は、人間が珪化プロセスを模造することに、尿形成で生じるプロセスは、炭酸プロセスを模造することに関わっている。 腸を通じての排泄;頭部プロセス=珪化プロセスの模造 尿プロセス;心臓プロセス=炭酸プロセスの模造 更に、これらの関係は、健康な人間に生じている事と、病気の人間に生じている事を結びつける。この事実によって、むしろプロセス上の関係を指摘したが、これらの関係は一面的に観察されてはならない。 このような関係全てに精通してはじめて、以前究めて納得のいく手法で、シャイデッガー博士により、類似性の法則として言及された事実を正しく評価できるようになる。 この類似性の法則は究めて重要な事実を含んでいる。しかし、不可欠なのは、たった今、確認したような関係を考察することで、得られた全要素に基づいて、この類似性の法則を打ち立てることである。なぜなら、たった今議論した、あらゆる事実の背後にあるのは、実際、人間と鉱物との関係だからである。 一方で、いわば珪質に関して、人間を形成する存在として語り、他方で、人間を再び解体する炭酸について語るなら、生のプロセスとは、この絶え間なく形成し、解体する傾向のなかにある。 一方で、人間を形成する存在の、珪質プロセスを見るなら、忘れてはならないことがある。 以前の話で、既に、その理由は部分的に暗示したが、人間生体組織での、この珪質に似た部位には、鉱物全般との親和性があること、つまり鉛、錫、鉄に継続される鉱物との親和性がある。要約すると、次のように言える。 「心臓より上部にある部位に着目するなら、人間においては、一方では、珪酸から作用し、他方では鉛、錫、鉄から作用するものに目を向ける必要がある」、と。 鉄は、肺の形成プロセスにより強く関わり、錫は、頭部全般の形成原理に、そして鉛は、骨に局所化される形成原理と非常に強く関わっている。なぜなら、骨の構造と骨の成長は、実際本質的に、上部人間から発するプロセスで、下部人間からではないからである。 鉄;肺形成プロセス、錫;頭部全般の形成原理、鉛;骨に局所化される形成原理 さて重要なのは、このような事柄が、どのように相互作用しているのか、つまり例えば珪酸塩を、どのように使うのか、常に金属が、これら三つの代表的金属と類似するかどうかを調べる必要があるが、このような事をいわば慎重に吟味する術を学ぶことである。 更に、明白に理解すべき事は、下部人間は、銅、水銀、銀と親和性があり、全炭酸プロセスにおいて、これらの金属に親和性のある金属、或いはこれらの金属を、どの程度用いるのか、炭酸形成プロセスと何らかの方法で、いかに結びつけるのか、ということを考慮しなくてはならない。 下部人間の全炭酸プロセス;銅、水銀、銀 この事実から、地上での地球外(天)に起因する金属と、普通は岩石状の、つまり炭酸形成原理の影響下に形成されたものと、珪酸形成原理の影響下に形成されたものとが、統合される。 このような事実から、疾患に至ったときに、人間の生体組織を治癒できるように、生体組織に供給すべき外界のプロセスを、徐々に具体化していく可能性に近づいていくことができる。 その際、常に注意すべき事は、あまり下位の感覚に作用しない存在、つまり臭覚や味覚に、あまり作用しない存在、すなわち、(視覚で捉えられるように)本質が外に向かって、あまり一目瞭然でない存在、非常に希釈した状態でも作用し、希釈状態に対しても、本質が臭覚や味覚において、一目瞭然な存在の場合は、それほど希釈しないで用いることができる、ということである。 臭覚や味覚の強い物質は、治療すべき部位がはっきりわかっている場合には、基本的に、臭覚や味覚自体に訴えるものとして、究めて良い薬である。特に、その治癒作用が通常の食餌療法によって相殺されない場合には、有効である。 とはいえ、このような事柄に更に立ち入っていくには、少なくとも、次のような事を考慮する必要がある。つまり、人間の感覚はどれも、これまで述べてきたように細分化され、 「治癒への反応を見つける為の最良の試薬、最良の薬というのは、根本的に言って、人間そのものである、」ということである。 (つまり、人間は本来、治療薬を本能的に探す感覚をもっているが、まだ眠っている状態であるということである。病気に罹るのは、人間のなかのあるプロセスが過度、もしくは過少に生じたということを意味するので、そのプロセス自体を、元に戻すには、やはり、その人間自身の感覚が拠り所となるという意味であろう。病気に罹ると苦痛や痛みを感じるのは、その反応の証拠といえる。)
2009年01月22日
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さて、人間の内と外の、いわば気象(天候)という言葉で表現できるものに関して、確認できる関係の背後に存在するもの(というのも、人間内部における気象は、肺、肝臓、膀胱、心臓に継続され、外界の気象は、固体としての土壌、空気状、水(液)状、熱に継続されるからである。)は、植物、及び鉱物の形成プロセスである。 この植物、及び鉱物形成プロセスのように、地球外(天)の、天体に近い形成プロセスに、いわば常に対極的に配置されるのが、人間内の気象プロセスの背後に存在する作用、つまり、先に挙げた4つの器官組織よりも、更に内に向かって配置される作用である。 外界の植物や石のなかに存在するものと、人間の肺、肝臓等の背後に存在するものとの関係は、それほど密接ではないので、この領域に由来する治療プロセスの研究は、実際、当然困難である。 だが、人間は、何らかの方法で、常に外界で生じている事象の反対の事象を、人体内の何処かで完遂させる傾向、器官的な形成傾向をもつことを、はっきりと理解することで、合理的な方法を発見できる。 具体的な例を挙げてみる。珪酸プロセスの例である。珪酸プロセスは、第一に、他ならぬ珪酸塩が形成される処、石英や、石英と同類の岩石が形成される場所に、非常に目立って現われる。そこで生じているプロセスに対応するプロセスが、人間の生体組織のなかにもある。 しかし、更に、このプロセスは、ある種のプロセス(経過)の基礎を成すが、残念ながら、今日ほとんど考慮されていないが、耕作地でのプロセス(経過)、つまり、耕作地の、珪質土壌一般と、地中に入り込む植物の器官、つまり根状器官との間で生じているプロセス(経過)のことである。 だから、(植物を燃焼して)灰を取り出すことで、植物から得られる薬剤は、外界での、この珪質プロセスと、密接な親和関係にある。 気象プロセス→珪酸プロセス→植物の根と土壌との作用→植物の灰 さて、この外界での珪質プロセスは、人間の内部に、もう一方の対極を持っている。しかも、この対極は、心臓の活動より上部の、肺の活動に向かい位置する器官にあり、内的器官の形成活動、すなわち肺形成から、頭部に向かう位置にある器官の活動でもある。 つまり、心臓の活動より上部で生じる全器官活動のなかに、外界における珪化プロセス全体の対極がある。この内的な器官プロセスの本質は、既にこれまで述べたことでも示唆したが、外界の珪化プロセスが大いに(再度の表現だが)ホメオパシー化されているという点にある。 心臓より上部の全器官活動;外界の珪化プロセス全体の対極 従って、病気の像(症状)の発病箇所が、心臓の活動より上部にあることがわかったなら(例えば肺の分泌が非常に強いことで、その大まかな場所が明らかになるが、これは髄膜炎や仮性髄膜炎の場合にも少なからず出現する)、当然、生体組織に別のあらゆる障害をもたらす可能性がある。 なぜなら、このような肺の障害は、生体組織では、全てが相互に関連している為に、心臓血管の障害にも作用を及ぼすからである。一方、脳の炎症状態として出る傾向にある障害が、炎症状態として起こらずに、消化器官、或いは消化器官関連組織での炎症状態として出現する可能性もある。 このとき、肝要なのは、元々の出発点を知ることである。この点については、更に述べる。けれども、これら全ての場合に重要なのは、外界の珪質作用(珪化プロセス)を非常に希釈するような薬剤を、生体組織に供給することである。 この関係を正しく眼前に置くことができれば、究めて特徴のある、重要な関係となる。また、この関係は同時に、身体上部に直接観察可能な特徴が存在する場合、自然における重要な珪質プロセスを、粉砕、分割、粉末状に、変形するような、いわゆる希釈化の必要性を示すことになる。 心臓より上部の炎症疾患;外界の珪化プロセスの内部希釈化が治癒となる 相互作用によって発生した障害が、身体下部にあるとき、例えば心臓に障害があるときは、状況によっては、既に珪酸を多く含む植物に導かれるプロセスを用いて、つまり、珪酸に富む植物を変形するか、直接用い、治療プロセスを引き起こすこともできる。 心臓より下部の炎症疾患;外界の珪酸に富む植物導出プロセスが治癒となる 珪質を含む全植物に関して、その植物が、人間の生体組織の、心臓より下部組織で生じる全プロセス(経過)に対して、どの程度作用を及ぼすのか、勿論、他の(上部)組織に対しても、どの程度、それとは逆の作用を及ぼすのかも、綿密に調査すべきである。
2009年01月21日
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さて続いて、膀胱の働きが不充分なときの、人間の生体組織に出現する事象へと移る。この点について述べる事は、多少素人じみた表現に思えるかもしれないが、今日の科学用語と称する言葉以上に科学的である。 膀胱は元来、その本質において、1つの吸引手段である。膀胱はいわば、人間の生体組織における空洞として作用し、(空洞のなかに周囲を)引き寄せるのである。 膀胱は根本的に、人間の生体組織が、その場所において空洞化されることに依拠している。膀胱の他の生体組織に対する作用は、水中のガス球による作用のようなものである。水中のガス球は希薄な物質から成り、全面を水、つまり、より濃密な物質に取り囲まれている。 この希薄化されたガス球から生じる作用は、人間の生体組織に膀胱が及ぼしている作用に類似する。その結果、膀胱がもたらす全事象に関して、人間が患う事になるのは、次のような場合である。 「正しい内的運動をする機会が少なく、つまり、食物を噛まずに飲み込み、食べる事自体に正しく注意を払わない場合や、消化の間、休息と運動の節度を守らずに、消化プロセス(経過)全体を妨げる場合である。」 内的運動を、内的に妨げる事は、膀胱生活とでも呼べるプロセスをも妨げる。さて、人間は、心臓に、ある不規則さを予感したら、恐らく、何かしら、活気ある運動を適用できるが、当人の内的運動を調整しようとしても、当人の習慣から、運動を受け容れるのは容易ではない。 とはいえ、次のような場合は上手くいく、 つまり、「食物を噛まずに飲み込み、その他消化を妨げる習慣により、身体に必要な休息を与えない傾向の人物を、気象的に治療するというような、つまり、より酸素の多い空気のなかに連れていくというような試みを行う場合である。」 このような空気のなかでは、当人は、より多く呼吸せざるを得なくなり、つまり呼吸プロセスに対して無意識に、より慎重にならざるを得なくなる。すると、この呼吸プロセスの調整が、他の器官プロセスの調整へと移行する。 だから、このように不規則な膀胱機能に悩んでいる人を、人工的、望むべくは自然に、異なった空気、より酸素の多い空気のなかに連れていけば、この生活様式の変化によって端的に、ある種の均衡がもたらされることがわかるだろう。 特に重要なのは、最も広義での外界の気象に関連する第三の器官に注意を払うことである。この第三の器官とは肝臓である。人間の生体組織のなかでは、一見、肝臓は、外界と遮断されているように見えるが、肝臓は、高度に外界に組み込まれている。 肝臓が外界に組み込まれている事実は、肝臓の状態が、いわば常に、当該の場所の水の状態に左右されるという事を確かめれば、わかる。そもそも、ある場所に住んでいる人の肝臓の状態を正しく見ることができるには、その場所の水の状態を、常に研究する必要がある。 味覚(プロセス)は肝臓の発達を促進させるが、過度に起こると、肝臓を退縮させる。つまり、多飲食、過飲食が、肝臓を退縮させるのと同じである。内的な飲食というか、口蓋と舌に限定される消化(よく噛まずに飲み込む)が継続したプロセス、楽しく、共感的に、或いは反感をもって不愉快に、食事を取るにせよ、消化に負担をかけることが、より内面へと継続し、肝臓の退縮をもたらす。 従って、是非、この事に目を向け、実際、この事を確かめるのは非常に困難だが、肝臓生活に何らかの支障がある人々の味覚を研究し、味覚のなかに、何かを見つけるように習慣づける試みを行うことである。 肝臓生活と、いずれかの場所の水の状態との内的関係を、徹底的に研究することは、究めて困難である。なぜなら、その依存関係は究めて精妙で、例えば、そこの水が非常に石灰を含む場所では、水が石灰をあまり含まない場所とは、異なった肝臓疾患が発生する、といったことも考慮しなければならないからである。出来る限り、水から石灰を遠ざけることにより、肝臓生活が促進される、ということに注意し、常に注目すると良い。勿論、水から石灰を遠ざけることを実現する手段と方法を見つける必要がある。 肝臓生活と関係するもの;水質 また肺生活と密接に関連するのは、住む場所の土地の組成によって端的に提供される地質等全般である。例えば、非常に石灰質に富む土壌の地域か、或いは石英質に富む土壌(珪質土壌)、つまり始原岩層か、といったことである。 肺生活と関係するもの;地質 この地質に応じて常に、しかも、かなりの程度まで、人間の肺生活は異なってくる。肺は本質的に、その土地の、固体的な土壌性質に左右されるからである。実際、ある地域で開業を始める医師の最初の課題の1つは、その地域の地質学を徹底的に研究することである。 その地域の地質を研究する事は、そもそも当の地域の肺を研究することに他ならない。だから、肺が環境に全く適応できないのは、(そこで暮らすには)かなり不都合であるということを明確に知っておく必要がある。 さて、このような関連で述べた事を、誤解しないで欲しい。肺と環境とのこの依存関係を確認するにあたって、いま述べているのは、肺の内的構造であって、呼吸のことを言っているのではない。当然、呼吸もまた、(肺の)内的構造に起因し、その機能に左右される。 しかし、今述べていることは、肺の内的構造であり、肺が瘡蓋傾向にあるか、或いは粘液その他の傾向にあるかで、これは本質的に、環境に依拠している。それに加え、肺は、肉体的作業に非常に左右されるので、人間が過労になるまで肉体労働をしなければならない場合は、間違いなく肺が損なわれる。 以上の諸関連が、肺、肝臓、膀胱、心臓のような、体内から、外の気象に向かって開く諸器官の依存関係へと広義に導いていく。従って、これらの器官に発病があったら、治療の為に、常に物質的手段の獲得を試みなければならない。というのも、これらの器官に発病があったとき、物質的手段で獲得できる薬剤は、何らかの形で持続するからである。 だから、肺が弱い傾向にある人が、特定の土地に全く合わない事が確認された場合、別の、より適した土地に住所を定めるように指示するなら、実際、当人にとって最良となる。同様に、肺より上部に位置する器官の為には、住む場所や生活様式を変える事が、素晴らしい成果をもたらすこともよくある。 心臓より下部に位置する器官に対しては、住む場所や生活様式の変化によっては、それほど成果を挙げることはできないが、肺、及び肺より上部に位置する器官組織全般に対しては、住む場所や生活様式を変えることで、素晴らしい成果を挙げることができる。 ただし、生体組織においては、全てが相互作用しているので、普段と異なるものが存在するなら、通常見られない隠れた相互作用が存在していないかどうか、充分に考慮する必要があることは言うまでもない。 例えば、心臓の血管に退縮が見られたら、次のような疑問を提示しなければならない。 「もしかすると、肺の退縮傾向も存在するのではないか? この肺の退縮傾向から、この病気を把握する必要があるのでは等である。」 この事によって少なくとも、人間と気象との関係が暗示される。外界において、天体は、気象の背後に、いわば気象に覆われた形で存在し、人間の内部にも天体(の作用)が存在している。
2009年01月20日
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前回の外界の物体の形成原理、つまり、視覚プロセス(表面)-臭覚プロセス(内部)-味覚プロセス(内部)の反対のプロセスは、他ならぬ消化プロセスである。消化プロセスは、いわば、味わうとき(味覚時)に開示される存在を自らのプロセスにする。消化プロセスは、味わうとき(味覚時)に開示される存在を、逆に生体組織のなかに隠す。 (余談だが、量子力学の、量子化の過程に、ファインマンの経路積分という手法を使うことができる。量子化された場を考察するときに用いるものだが、この経路積分を使って、物体の形成原理を、プロセスから、計算できるかもしれない。 かつて、私は、経路積分を使って、免疫系の細胞の挙動を計算しようと思ったことがある。実際、イエルネという人が、B細胞について、神経細胞のニューラルネットワークで、免疫ネットワークを構築したことがあり、同様に、T細胞についても、考察したものがあるが、ニューラル強化、つまりフィードバック関数が問題となり、どのような関数を選択するかがミソとなる。 その点、経路積分では、指数関数的増減の最小作用の原理を駆使して、問題を簡略化できるかもしれない。いづれにしろ、カオス領域と、秩序と、カオスの縁の3つの領域に、解析値を分類できることはわかっている。) 人間の外の自然を、これまで、まるで無意識な中に存在するように、記述せざるを得なかった事を指摘するのは、究めて重要である。というのも、宇宙全体から構成される、(無意識な)この自然関連は、人間のなかにも存在するからである。 人間は、土星、木星等の天体の力のなかに組み込まれている。しかし、この帰属関係は、人間の生体組織の究めて深部に隠され、今日の思考方式に対して、あまり不興を買わないように、言うなら、 「天文学は、人間においては、最も無意識な存在となる、なぜなら天体の作用は、人間においては、多くの場合、生体組織の背後にあるプロセスとなるからである」、と。 (つまり、シュタイナーがいいたいことは、人間の外の天体の作用、力が、人間のなかでは、プロセスとして、隠されているということである。人体を、プロセス毎に、天体の作用として、ファイマンの経路積分を適応したら、なんらかの器官の数式が表現できるかもしれない。) さて、人間は、生体組織を、ある種の形、いわば再び内部で開く諸器官として、持っている。そして、この人間の生体組織、ある方法で再び開く諸器官は、生体組織を、地球の近傍で展開する天体により関連づけられる。 さて、今度は生体組織を、(最も広義で考えられた)気象学上の存在に関連づける。 (これまでは、生体外の自然界のプロセスを、生体内のプロセスに変換してきた。例えば、物体の形成原理=視覚プロセス(表面)-臭覚プロセス(内部)-味覚プロセス(内部)である。) 治療プロセスにおいて、単に薬物だけに目を向けるのではなく、治療プロセス(経過)を追求し、人間と、最も広義の気象学上のプロセスとの間に成立する関係にも目を向ける必要がある。 味覚プロセスに、治療プロセスを加味する事から、人間の生体組織において、既に天体に深く組み込まれているプロセスと、気象に深く組み込まれているプロセスとを区分できる。とはいえ、更に正確な観察方法が必要となる。 このような区分が必要というのは、最初のうちは、多少、衝撃的かもしれないが、この区分こそが治療の最良の基礎である事が、次第にわかるだろう。気象上に開示されている(人体の内側では、更に深部に配置されるプロセスが、気象より、天体に傾くのと同様)諸器官に着目し、人間の生体組織のなかで、このような最たる器官とみなされるものは、特に肝臓で、更には小嚢状の、つまり膀胱に代表される(しかも病理学上の関連でも膀胱は究めて重要である)全ての器官である。 最初は奇異にみえるが、病理学上の観察では、膀胱は最も重要な器官である。更に肺に着目する必要がある。肺は、呼吸を中継する事で、外界に向かって開いている。更にある意味、生体組織全体を、外界の気象状態に向かって開く諸器官の一つに数えるべき器官は(今までの観察で述べた事実を正しく受け取れば、すぐに理解できる)、心臓である。 しかも、これらの器官は、事実全く特定の気象学上の衝動(気象力ともいうべき)に組み込まれている。この気象のなかに意味されている事実を研究できるのは、人間と周囲の世界との関係全体、特に、人間の活動と周囲の世界との関係のなかに参入していくときだけである。 ここで、特に一寸指摘すべき事は、心臓の障害として出現する全ての原因を、人間の妨害された本来の(意志)活動(行動)に帰する試みを、徹底的に行うことである。 例えば、畑を耕す農夫の作業、この畑を耕すという活動に、類似した作業に従事する人と、例えば、職業上、頻繁に自動車や鉄道に乗る必要がある人の場合とでは、心臓の働きが、いかに異なって形成されるかということに関して、一度調査すると良い。 このような相違に関して、一度徹底的な調査を行うことは、極めて興味深いものになるだろう。なぜなら、心臓疾患への傾向は、要するに、当人が、外的手段によって、動かされている間、本来の自分はじっとしているわけで、つまり、汽車の車室や車のなかに座ったまま移動させられるという事に、依拠していることがわかるからである(エコノミー症候群)。このように人間が、受動的運動に身を委ねる事は、心臓において滞留する、あらゆるプロセスを変形させてしまう。 (受動的運動に身を委ねると、エーテル体が、心臓のなかで滞留し、他に出て行かずに、欠乏し、エーテルのないところで、いわば血栓ができやすくなるという。) さて、このように人間の世界で生じる全事象は、人間が自らを暖める方法と関連している。この事実から、心臓の働きと、人間が関係する現世界の熱の衝動(力)との親和性に気づくだろう。 この事実から、人間が、自身の活動によって、充分に熱を発生させ、この自身の活動による充分な熱の発生の、ある一定の割合が、同時に人間の心臓の健康の尺度となることがわかるだろう。 従って、心臓疾患に関して常に注目すべき事は、正に、自分自身で運動を体験し、引き起こす事なのである。いつか、例えば15年位たったら、このような事柄に関しても、現在(1920年)より、もっと冷静に考えられるようになり、人々は次のように言うだろう、 「それにしても不思議だ、オイリュトミー(シュタイナーの考案した体操)で心臓の働きが良くなるなんて」、と。正に、オイリュトミーは、本質的に、魂に貫かれた自身の運動を規則的に調整するからである。従って、次のように言える、 「心臓の機能の不規則性といった問題においては、他ならぬオイリュトミーのような体操から、健康になる運動が得られ、このような観点から言及しなければならない」、と。
2009年01月19日
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これまで議論してきたことは、人間の生体組織の、人間外の自然へのいわば一種のアプローチ(接近)だった。そして、匂いを嗅ぐ(臭覚)、味わう(味覚)という、二つの感覚が働く場合に存在する相互作用において、人間の生体組織が、人間外の自然で生じる事と、密接な関係を持つことがわかった。 このように人間と、人間外の自然との関係を探求する理由は、人智学にとって、治療と人間の生体の組織化プロセスが密接に関連するという事実が重要だからである。治療に際して、重要な事は、人間が、身体に、化学的、生理学的、物質的等であれ、供給するものが、いわば生体組織が健康状態であれば、有用で、病気状態では、無用になるなかに、いかなる要因があるのかを見通すことである。 つまり、外界に生じているプロセスと、人間の生体組織のなかで生じているプロセスとを一緒に考えることができなくてはならない。 さて、この両プロセスが最接近するのは、匂いを嗅ぐという臭覚の知覚と、味わうという味覚の知覚が問題になるときである。他の感覚全てにおいては、この両プロセスに比べて、互いに遠く隔たっている。例えば、視覚と消化においても、両プロセスは、かなり隔たっている。 この場合、消化という意味で、狭義において、現在理解できるのは、いわば口内で食物を噛むプロセスと、腸腺による加工との間で生じているプロセスである。つまり本来、この狭義の領域だけを消化とみなしたい。 一方、他の消化にみえるプロセスは、排泄(空にすること)の領域とみなすべきである。それが、栄養素を取り入れる為の、生体組織のなかでの消化であれ、排泄と呼べるプロセスへと向かう、外への消化であれ、つまり、腺による加工を過ぎた側にあるプロセスを排泄と呼びたい。 さて、視覚に着目するなら、目の前にある外界の物体は、臭覚プロセスと味覚プロセスを、(物体の)表面側にある(視覚プロセス)のなかに、いわば(物体)自らのうちに閉じこめている。臭覚プロセスにおいては、人間に知覚できるように、人間外の自然から、多く取り出された(排出された)プロセスがある。 この臭覚プロセスは、臭覚に関わらない場合、つまり、人間外の自然の物質内部に閉じこめられている場合には、視覚として目に見える。それらプロセスの形式等において、可視的プロセスを見ることで、外界の形成原理を、臭覚プロセスでは素材として開示される形成原理を、実際眼前に見ているわけである。 匂いを嗅ぐとき(臭覚時)に開示される本質は、植物界、鉱物界まで追求すべきで、そうすれば、匂いを嗅ぐとき(臭覚時)に前面に出る原理が、外界の形成原理のなかに開示される事がわかる。 物体の形成原理;視覚プロセス(表面)-臭覚プロセス(内部)-味覚プロセス(内部)
2009年01月15日
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前回の事実から、いわば、植物による治療全般が、とりあえず、原理として特徴づけられたことがわかる。少なくとも植物による療法が、何に依拠しているかがわかるだろう。いま、述べたいのは、内と外との相互作用において生じている実際のプロセス全体を(包括的に)見通すことである。 しかし、この事実から、全く特殊なものにも既に目を向けている。例えば、「香り」というよりむしろ「味覚」への傾向を持つような植物、つまり、当の植物を噛み味わいながら、その植物の「香り」に辿り着けるような、実際、「香り」と「味」との統合を知覚できるような、メリッサ(メリッサ、レモンバーム、西洋ヤマハッカ)やカキドオシのような植物の「香り」を考察できる。 すると、既に、その植物の内部には、多少の塩化が存在し、既に、その内部では、塩化と芳香発生の共同作用が存在することがわかる。この事から、メリッサ他等のような植物に、親和性を持つ器官は、より外に向かう、(下方から)胸に向かう位置にあり、一方、非常に芳香を放つような、菩提樹や薔薇のような植物に親和性を持つ器官は、下腹部にあるか、下腹部に向かう位置にあることが示される。 上腹部器官に親和性がある植物;「香り」と「味」の強いメリッサ等 下腹部器官に親和性がある植物;「香り」の強い菩提樹や薔薇 さて、上部人間において、嗅覚や味覚の領域に位置する全組織間を、器官的に観察すると、ある別のプロセスが、より深い意味で、人間にとって重要な生のプロセスが、組み込まれていることに気づく。この重要な別のプロセスとは、この位置に組み込まれている呼吸プロセスのことである。 この呼吸プロセスに対しても、対極的に組織されているプロセスを探すことができる。この(呼吸プロセスの対極の)プロセスは、消化プロセスが、排泄プロセスに通じ、上部器官の表象(イメ-ジ)プロセスに対して対極となる限り、消化プロセスから、いわば区別できるプロセスでなければならない。 丁度、呼吸が、器官的に見て、嗅覚-味覚プロセスの近くに限定されるのと同じように、器官的に消化プロセスの近傍にあり、上部のように限定される必要がある。これは、リンパ-血液プロセス、血液形成プロセスにおいて生じる全て、或いは、消化から内部へ向かって押し進められたもの、つまり、リンパ腺他のような器官、血液形成に関与する全器官のプロセス全般である。 上部;臭覚-味覚の近傍の呼吸プロセス 下部;消化-排泄の近傍のリンパ-血液プロセス このように、ここに2つの対極的なプロセスを見ることができる。 1つは消化から分離されたプロセス、もう1つは、更に外に向かって配置された感覚のプロセス(経過)から分離されたプロセスで、すなわち、いわば感覚のプロセス(経過)の背後にある呼吸プロセス(表象は魂の栄養であり、その中間に呼吸プロセスが組み込まれる。)と、消化が更に排泄に通じ、消化の前に配置された血液-リンパ形成プロセスである。 本来、このように、プロセスから人間全体を考察していくのに対し、奇妙にも、今日では通常、目の前にある器官からだけしか人間の観察がなされない(現代では、細胞や核酸の遺伝子や蛋白質)。なので、ここでは、プロセスに通じ、人間と、人間の外の世界との関係全体から、人間を認識し、洞察を試みる。 そして実際、真に直接、人間におけるエーテル活動全体の写像(イメージ)の諸関係を見い出すことができる。なぜなら、結局、いままで研究してきたことは、人間におけるエーテル作用に他ならないからである。そして、この二つのプロセス、呼吸プロセスと血液形成プロセスに、再会する。 この出会いは、人間の心臓で起こり、人間の外をも含むという意味において、外界全体が、(外と内との)二重性として、人間の心臓で堰き止められ、人間の心臓において一種の均衡状態を目指す二重性として、現われてくる。 このように、ある独特のイメージ、人間の心臓のイメージに到達できる。この心臓の内面では、体の全面にわたって、外から作用してくるものの統合(融合)がなされ、外界では、分散(分裂)がなされている、つまり心臓のなかで、いわば膨張したもの(統合、融合)が、(外界では)至る場所で拡散(分散、分裂)させられる(図参照)。 ここで、重要な考えに到達する。これは例えば、次のように言い表せる。 「宇宙を見渡し、心臓の周囲のこの円周を目にし、自問する。この円周のなかに、何があるのか、この円周から働きかけてくるものは何なのか。この円周に親和性のある、同じようなものを、私のなかのどこに見い出せるのか」、と自問する。 (自身の心臓を覗いてみよう! この心臓にはいわば、反転した天が、天と対極に配置された存在がある)。 一方で、人間の周囲に、天というべき周辺があり、いわば幾何学的に、無限の彼方へと拡張された点があり、他方で人間の心臓に集中された円がある。宇宙全体が、この構図のなかに存在する。 大雑把な比喩を使うなら、簡単に次のように言える。 「人間が山の上に立って、遥かな彼方を見渡し、宇宙の広大な円周を見ることを想像する。それから、非常に小さな小人を人間の心臓に置いて、この小人が、心臓を通して、そのなかに何を見るかを、思い浮かべてみる。 この小人は、心臓内部の回転のなかに、宇宙の完全像が縮小され、統合(融合)されるのを見る。この事は、単なる具象的な表象、一種のイマジネーションにすぎないものだが、同時に、正しく受容すれば、正規の、調整的なイメージ、調整原理として作用するもので、まさに、個別的に認識できるものを、正しく総括する手引きとなるものである。」 この事で、個別観察の為の大体の基礎を作った。この基本的認識はまた、提出された様々な質問に個々に答える為の土台ともなるだろう。
2009年01月14日
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更に内的プロセスを探究していくと、どこに到達するのか。 視覚から発し、表象(イメージ)のなかにあるプロセスは、視覚が外面(外界)化したもので、思考においては、いわば再度、内部へと反射する。視覚プロセスを、いわば反対向きにして、再び生体組織の方に導こうと努めている。 従って、その反対の極に置かれたプロセスは、視覚継続プロセスを、内部に向かうのではなく、外に向かって導くように努める。つまり、視覚プロセスが上方への変容した味覚プロセスで、それとは、逆の下方への変容した味覚プロセスの消化プロセスは、排泄プロセスのなかに継続され、排泄プロセスは、この事から視覚プロセスの継続した表象(イメージ)の、他方の対極となる。 上方;変容した味覚プロセス→視覚プロセス→表象プロセス 下方;変容した味覚プロセス→消化プロセス→排泄プロセス このように、以前、比較解剖学によって示した事実を、別の、より内密な見地から見たことになる。以前示した事実は、いわゆる人間の精神力と、排泄プロセスとの調整の間に、いかに内的親和性が生じているかで、人間の構成、特に腸菌群落の発生において、何らかの形で、その事実が示唆されているというものであった。 ここでは、その別の面を捉えている。つまり、ここに示す事実は、人間の内に向かっては、思考プロセスのなかに、視覚プロセスが継続し、外に向かっては、排泄プロセスのなかに、消化プロセスが継続しているということである。 さて、少し前に観察した事実、つまり、芳香発生は、抑制された燃焼プロセスで、植物の硬化は抑制された塩化プロセスであるという事実に戻るなら、再度、内部で生じている事象に光を投げかける。ただし、この場合、その反転も生じ得ることを、明確にする必要がある。 いま、上方では、(外面化された)視覚が、内面化に向け反転し、下方では、外面化に向け、(視覚が味覚、更には消化として)反転している。従って、上方では、植物のプロセス(経過)の塩化(外面化)との親和性を認める事になり、下方では、植物のプロセス(経過)の火化、或いは燃焼(内面化)との親和を認めることになる。 つまり、植物における芳香発生と抑制された燃焼プロセスに適合するプロセスを、下腹部に導けば、下腹部(の働き)を助けることができる。 また、植物における塩プロセスを抑制する、もしくは塩プロセスを植物のなかで内面化する使命を持つプロセスを、上部人間に導けば、上部人間のプロセス(経過)を助ける事ができる。この事実を更に個別的に実施していく必要がある。 上方;視覚プロセス→表象プロセス(内面化)=植物の塩プロセス 下方;消化プロセス→排泄プロセス(外面化)=植物の燃焼(燐)プロセス このように、(植物を含む)外界全体が、いわば再び(人間)内部全体のなかに現われることがわかる。だから、人間の内部へと参入していくほど、一層、人間内部に、外(界)の存在を探究しなければならない。消化器官、特に腎臓において生じているプロセスのなかに、芳香発生プロセス、燃焼プロセスに非常に親和性のある、ただし、燃焼プロセスとの対極だが、その対極を探究する必要がある。 更に、肺から始まり、喉頭と頭部を経て上方に向かう人間組織のなかに、植物では塩化となるプロセスを、人間内の自然全般において塩化の傾向を持つ全てと、内的親和にある対極を探究する必要がある。 つまり、次のようにいえる(単に推測ではなく、明白に確信できるが)、 「植物が、塩を集積する様々な方法がわかれば、人間の生体組織のなかに、その方法と対応するものを探せばよい」、ということである。 いまは、この事を概略的に探究したが、個別的には次回以降、追求していく。
2009年01月08日
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さて、いままで考察してきたプロセス(経過)は、味覚と臭覚に大別される。このように、いわば1つのプロセス(経過)が分かれ、一方では、味覚となり、エーテル体と物質体との相互作用の方が活発なプロセスが扱われ、他方では、臭覚となり、エーテル体とアストラル体との関係の方が強いプロセス(経過)が扱われる。 味覚;エーテル体-物質体相互作用の活発なプロセス 臭覚;エーテル体-アストラル相互作用の活発なプロセス 生体組織における、味覚(味わうこと)の継続に対しても、同様の分割を行ない。つまり、一方で、腸による排泄、いわゆる糞便の傾向を持つ消化と、他方で、腎臓による排泄、いわゆる排尿による排泄とに分けられる。 腸による排泄;糞便の傾向をもつ消化 腎臓による排泄;排尿の傾向をもつ消化 この分割から確実に、人間の上部と下部における対応が得られる。二つの対極的に相対する存在が得られる。 味覚と臭覚を分け、通常の消化と内密な腎臓の働きに基づいて、組み込まれる消化として、通常の消化から区別できるプロセスを分けることで、上-下、味覚-臭覚の相対する対極が得られる。 このように、いわば、生体組織の皮膚により隔てられた人体内部に生じるプロセスを、外のプロセスが内面化したものとして観察できる。なぜなら、人間は、上方に向かって継続したプロセスと同時に、より一層、外へと入り込んでいくからである。人間は、外(外界)に向かって開いている。 さて、更に、以上の事を追求し、いわば、人間のなかに魂として生きる存在のなかに、生体組織と結びつき、唯物論的な意味ではなく、別の(霊的な)意味で結びつく存在が、生体組織と結びつき、魂として生きるなかに、変容した視覚をもつ。 また、この変容視覚を、内部の、ある方面に向かって、思考、及び表象(イメージ)の中まで追求すると、表象(イメージ)の根底の器官として、つまり人間の頭の内部器官を、ある方向に向かって変容した視覚器官として考えることができる。 思考のなかに生きる人間の表象(イメージ)の大部分は、視覚表象(イメージ)の単純な継続である。この事は、生まれつき盲目(目の不自由)の人、生まれつき耳の聞こえない(不自由な)人の魂生活と比較すればわかる。人間は、思考のなかに、内部に向かって継続した視覚をもつ。 このように、頭部や脳の解剖学的構造と思考プロセス(経過)との間に生じる独特な相互関係に、更に、一筋の光を投げかけることができる。 例えば、実際、奇妙にも、思考プロセス(経過)に正しく迫り(このような探求も医学学位請求論文となるだろう)、脳の組織と、統合的思考が、どのように関連しているのかを調べるなら、不思議にも、臭覚神経の変形(変容)に見える構造に到達するだろう。 従って、次のように言える。 「人間の散漫な、分析的思考は、内的に見ると、その対極の他方の極の、視覚に類似する。けれども、物事を統合する思考や、観念の連合は、内的、器官的に見て、臭覚に非常に類似する」、と。 視覚;分析的思考 臭覚;統合的(観念的)思考 つまり、この事は、非常に注目すべき形で、脳の解剖学的な構造にも現われている。このようにして、表象、思考の一面に到達できる。
2009年01月07日
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さて、更に進むには、次のようなことを思い出せばよい。 抽象的な神秘主義や唯物的科学に遭遇した場合、臨機応変に、柔軟に対処するというか、具体的に意味をもつというような理由から、議論し、今日の功績と結びつけることである。 このような事に注意を払えば、人智学が与える知識と、外(唯物)的科学に橋を架けることができるようになるだろう。当然、これから議論することを、更に人智学的方向に特徴づけることもできるが、現に存在している今日の科学に通用する考え方に、あえて関連づけていく。 今日、生理学者は、眼前にある対象について語るが、この眼前にある存在は、人智学者にとっては、特に眼前にある必要はない。この事と同じ意味で、人智学者は解剖を行なう必要がない。しかし、今日にも通用する考え方に関連づけていく。 実際、他人を解剖するなどという暴挙を受け入れる必要はないが、既に、解剖学が存在し、その成果を提供している、という事実は、やはり顧慮する必要がある。自然科学が、人智学によって、豊かにされた場合のみ、このような暴挙を止めることができるだろう。 では1つ試してみる。眼のなかに生じているプロセス(視覚)と、臭覚、特に味覚に生じているプロセスとの間に、眼のなかでの視覚神経の拡がりと、他器官への味覚神経の拡がりという点で、密接な親和性、密接な関係が成立しているということが人智学から明白になる。 ここには、非常に密接な親和性が成立し、視覚というプロセス(経過)の内的存在の特徴を示すなら、味覚のプロセス(経過)との類似から、実際多くの類似性を探すことができる。勿論、器官に味覚神経が拡がる場合、眼での精緻な形成力とは結びついていないので、器官に拡がる視神経とは、本質的には全く別物である。 しかし、物質的な眼の精緻な構造の背後で、いわば視覚プロセス(経過)として始まるプロセスは、非常に内的に、味覚プロセス(経過)と親和性がある。 つまり、ここで言いたい事は、視覚において、変容した味覚というべきプロセスが実現されている(味覚を変容させている)ということである。この変容は、味覚で生じる器官プロセス(経過)の前に、眼の精緻な構造により、視覚プロセスとして生み出される全てを、置いた事で、なされる。 さて当然、いかなる意味でも、生体組織が外界に与える作用と、外界が、生体組織に与える作用を区別しなければならない。つまり、血液が眼に流れ込むことで、すなわち、生体組織が眼に働きかけることで、人体内部からプロセス(経過)として起こるものに、着目する必要がある。 このプロセスは、人間と同様な器官を持ち、更に、目のなかに房室や剣状突起、つまり血液器官を持つような動物において、より強力に起こる。この血液器官を通じて、自我(エゴ)が眼球のなかに、より多く送りこまれる。 一方、人間の場合、この自我(エゴ)は後退し、眼球を内的に自由にしている。しかし、人間の場合、血液が全身を巡ることで、組織全体が、眼を通じて、感覚現象全体に作用を及ぼす。 そして、この視覚というプロセス(経過)の内部で、味覚のプロセス(経過)が変容させられ、視覚(見ること)を、いわば、変容味覚(味わうこと)と呼べる。だから、変容味覚(味わうこと)として、いわば、味覚(味わうこと)と嗅覚(匂いを嗅ぐこと)の上部に、視覚(見ること)プロセスを位置づけることになる。 つまり、味覚プロセス(経過)と同様に、視覚プロセス(経過)にも、内部(味覚)と共に作用する、何か外の存在(視覚)が対応している。つまり、これらのプロセス(経過)は、いわば上方に向かい、変容しなければならない。だから視覚プロセス(経過)は、味覚プロセス(経過)が変容した存在である。 だから、更に今度は、身体の下方へ向かっても、同様に、味覚の変容が生じる必要がある。視覚プロセス(経過)において、より外界の方へと上昇していく一方(眼は骨の窪みに、嵌め込まれているだけで、そこから外へ向かい、眼は外の器官なので、視覚プロセス(経過)は、より外に向かって組織されている)、今度は反対の方向へと、生体組織の下方に向かって、味覚プロセス(経過)の変容を考える必要がある。 このように、いわば、視覚のもう一方の極、つまり、生体組織における視覚プロセス(経過)に対応する内部プロセスという存在に到達する。この内部プロセスは、以下の考察で夥しい光を投げかけるだろう。 では、味覚プロセス(経過)の変容を、下方に向かって追求するときに得られるプロセスは、一体、何なのか? つまり、その場合、消化という存在が前提になる。そして、内的消化という存在を正しく理解できるようになるには、一方(上方)において、視覚を、変容させられた味覚(味わうこと)の(上方への)継続と考え、他方(下方)で、消化を、変容させられた味覚の(下方への)継続と考えるときだけである。 視覚プロセス;上方の変容味覚プロセス 消化プロセス;下方の変容味覚プロセス しかも、この概念では、消化を、外に向かった視覚に対しての、完全なる対極として理解できる。外に向かった視覚は、外界における消化に対応する存在、器官的に内へと向かって、消化を成立させるプロセスの認識に導く。 他方、消化プロセス(経過)が、味覚プロセス(経過)に親和性をもつことに気づくだろう。消化プロセス全体を、次のように考えない限り、人間の生体組織における内密な効力、消化プロセスに局所的に見られる効力を理解できない。 つまり、「良い消化とは、いわば消化管全体で味わう能力に基づき、悪い消化とは、いわば消化器官全体で味わう能力の欠如に基づくものと考えられる」。
2009年01月06日
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さて、今度は、臭覚と味覚を一緒に考える。 植物相に対して、匂いを嗅ぎ、味わい、生きることで、実際、エーテル体が、アストラル体と物質体という両方向に向かう関係のなかに生きる。臭覚と味覚に注意すれば、エーテル体、すなわち、宇宙のエーテルが刻印されたなかに、正しく潜入できる。 人間が匂いを嗅ぎ、味わう処では、根本的に、エーテル体が、アストラル体、及び物質体と関わり、物質界に顕現している。このように、臭覚と味覚において生じているプロセスを調べるなら、いわば臭覚と味覚の上で、人間自身が人間の(感覚の)表面(境界)にいることがわかる。 しかし、今日、重要な事は、終局的に、人智学側からの真の科学の結実に向けて、抽象的な神秘主義を抜け出し、具体的な霊の理解へと実際に突き進むことである。相も変わらず、「人間のなかの神性を理解すべきだ!」、と(抽象的に、象徴的に)語るだけでは、その言葉自体は全く無意味で、役に立つことはない。 このような言葉を語るとき、語り手が、「神性」という言葉で理解しているのは、せいぜい、何か全く抽象的な(漠然とした)神性そのものにすぎない。 このような考察法が、実りをもたらすには、具体的な現象に入っていくことが可能となり、具体的な意味で、外界のプロセス(経過)が、(人間の内面と結合し、)内的になっていくのを観察するとき、つまり、例えば、臭覚と味覚のなかで、人間と親和し、外界に生きる存在、いわゆるエーテル体を、実際に観察することで、いかに、このエーテル体が、(人間のなかに)内面化されていくか、つまり、人間の上部の最も粗雑な感覚プロセスのなかに、直接、外のプロセス(経過)が、(人間のなかへと)内面化していく様子を観察するときである。 現代において究めて大切な事は、単なる抽象概念や、神秘主義的概念を抜け出していくことなのである。 さて、これから明らかになっていくが、自然においては、全てが何か(新たな)別の存在へと絶えず移行しているということ、自然における全ては、ある1つの事象が別の事象へと移行する傾向、別の出来事へと自らを変容させる傾向にある。 (諸行無常) では、たった今述べたことを考えてみる。臭覚(プロセス)は、表面部分の方に置かれ、人間の内部の方へと引き入れられるのは(この場合、植物相、植物に関連する存在)、味覚である。そして、臭覚と味覚は、エーテル体が、アストラル体に向かって拡がるか、或いは物質体へと硬化するかという意味で、エーテル体のなかを経過する。 つまり、植物相の場合、外(表面)へ向かって揮発化させ、芳香を発することで生じる全てに向かって進むか、或いはまた、人間等に食されること(味覚されること)によって、芳香から遠ざかり、外界では、硬化に至る全てを、内面化する。臭覚と味覚に着目すると、いわば、外と内が共に流れていることがわかる。 しかし、自然においては常に、1つのプロセスが別のプロセスへと移行している。植物相における芳香を発する存在、植物が、芳香によって、いわば硬化を免れ、この場合、植物は、いわばまだ(素人じみた言い方だが)霊性を大気中に発しているが、この霊性に感覚を向けると、大気中の芳香物質には、幾らかまだ植物状態が含まれていることがわかる。 いわば、外界で、香るなかには、なおも植物の幻影(霊性)が存在している。植物が、その香りの幻影を送り出すとき、植物が、それを硬化へと誘導しないとき、植物が、花から香りの素を、つまり、花になろうとするが、花になることから遠ざかり、揮発的状態に留まろうとする存在を送り出すとき、一体、外界では何が生じているのか。 植物の香りの素、霊性とは、つまり、抑制された燃焼プロセスに他ならない。この芳香発生の変容を、連続的に考えていくと、次のような考えに到達する。 「芳香発生とは、本質的には、抑制された燃焼プロセスである」、と。 一方では燃焼を、他方では、植物の芳香発生を見出せる。すると、そのなかに、両者に共通する統一体の、二つの変容形態(メタモルフォーゼ)が認識される。言うなれば、正に芳香発生のなかには、別段階での燃焼が存在するということである。 では今度は、植物における、味覚を刺激する素を見てみる。味覚の素は、植物の更に深い部分にあり、植物では、その植物形成力を幻影のように、自らのなかから周囲へと追い出すような事態にせずに、植物が、その形成力を、自らのなかで統合するように、内的形成力の為の使用に導く。 味覚において、人間も、この内的形成に加わっているので、植物の硬化の下方にあるプロセス、つまり塩化のプロセスと呼ばれる、硬化プロセスの別段階の変容プロセスに到達する。勿論、いまは植物相の話なので、植物の塩化である。 これまでの話から、植物のなかに独特な変容をもたらしたことになる。植物のなかでは、上方に向かう芳香発生プロセスが見つけられる。これは、いわば抑制された燃焼プロセスであり、ここから燃焼プロセスを始めることも可能である。 なぜなら、花となるプロセスは、芳香発生プロセスに組み込まれた燃焼プロセスだからである。下方に向かう場合は、硬化、塩化が見出される。そして、植物において味わう素は、抑制された塩化(プロセス)なのである。 しかし、塩が植物のなかに組み込まれ、塩を植物のなかに見出すとき、すなわち植物塩が得られるとき、植物塩は、植物において、自身が植物化していく道を、踏み超えてしまった(脱植物化した)部分なのである。この場合、植物は、自身の本質のなかに自身の幻影を押し込めたのである。 植物塩;脱植物化し鉱物となりし成分 ここに、治療薬発見のための理性、理念、原理(ラチオ)が認識される。ある意味、この事から、植物相に光が当たり始める。植物のなかで生じている神性の具体性に着目できるからである。繰り返し強調するが、この具体的な観照こそが肝要である。 芳香発生プロセス;抑制された燃焼プロセス→アストラルに向かうプロセス 植物塩プロセス;脱植物化し、鉱物となるプロセス→物質に向かうプロセス
2009年01月05日
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昨年末は、大掃除のために、ブログ更新を怠っていました。すいません。 謹賀新年 今年もよろしくお願い致します。 さて、それでは、今年の干支の解説からはじめたい。干支とは、神秘学でいえば、いうまでもなく、天の力を干とし、地の力を支として、漢字で、その象(イメージ)を表現したものです。 西洋魔術風にいうなれば、ロゴス、つまり神々の言語ともいえるわけです。 古代東洋人は、漢字として、その表記に記したともいえます。勿論、古代人は、記憶力が異常に優れていたので、モノに書いて残すというようなことは必要なかったので、漢字をつくって残すというのは、古代人が、論理的思考力が優れていくにつれ、記憶力がその分失われていくのを、補う行為ともいえます。 つまり、伝承のためや、後世の論理的思考力を発展させる、進化のために、つくったともいえるわけで、易経として、論理的思考力の種を育て、預言として、神々との絆を残し、また副産物として、未来を占う学問として体系化されています。 ほとんどの民族には、易経のような体型を風習、或いは古代神話として残しているはずなのです。簡単にいえば、宇宙や自然を司る神々の気持ちを読み解く解読法というものです。 さて、今年の干支は、己丑です。 安岡正篤の著書から引用しますと、己という文字は、古代では、3つの横線と2つの縦線との合字で、阿弥陀くじのような形で、古代中国の先奏時代になると、省略され、ミミズや蛇が這っている形になったという。 そして、その意味は、モノが形を曲げて縮まり隠れた象(イメージ)で、外に対して、内なる自身、すなわち「おのれ」を表し、五行観では、木火土金水の中央の土で、土に、戊己をあて、戊を兄(え)、己を弟(と)とするから、土の弟で、「つちのと」と読むという。 古文字の3横線は糸を表し、2縦線は、糸を別ち、糸筋を分けることで、乱れを正しておさめるという意味になるという。すなわち、紀という字を意味する。 己の「おのれ」は他に対して屈曲し、悪が溜まり、乱れやすいから、これらの筋を通して紀律してゆくべきことを表したものであるという。 私という字のムも曲がりを表し、扁の禾はイネだから、収穫を曲げて(誤魔化して)とりこもうという曲事(ひがごと)を意味し、己私の性向を巧みに表現している。 だから、己は悪を溜めずに、紀律してゆくべきことをあくまで旨とすべき文字であるという。 前年の戊(つちのえ)は、茂と同じ意味で、しげることで、紛糾と衰敗を意味し、よろしく剪定賦活すべき文字であった。 己(つちのと)はその後をうけて、筋道をはっきり通す事である。 これに反して、利己的に悪が溜まると、敗を招く事は必定である。 「己に克って礼に復(かえ)るのが仁である。」(論語顔淵) 「己を正して人に求めなければ怨は無い」(中庸) 「己を正すのみ。小識は徳を傷(やぶ)り、小行は道を傷(やぶ)る」(荘子) に喩えがあるという。 さて、支の「丑(うし)」は、又と|との合字で、右手を挙げた形、事を始めんとする義を表し、「はじめ」と読むという。 また丑は、紐で、結ぶという意味を表し、養う意味をももつ。前年の子(ね)に発生したものがやや長じ、これを整え、養うものである。 つまり、「己(つちのと)丑(うし)」は、天の力が、己で、乱れを正して治める力となり、地の力は、丑で、事を始め、整え、養う力となる。 だから、今年は、乱れを正して治めることを始め、整え、養う精神が求められるということになるわけである。 米国は、オバマで、新政権で、新体制が発足するが、日本は漢字も読めないオバカで大丈夫なのだろうか? 昨年の混乱を収拾できる新しい人物、指導者を求めない限り、日本は滅亡への道を辿るのではないか?と思う。 来年の干支は、庚寅で、事態が悪い方向に進むと、天変地異が多発する状況に陥ることになるだろう。 だから、今年中に、去年の金融崩壊による経済の大乱を治めることのできる人物が、大事業をはじめ、来年の五行でいう金(かのえの庚と、かのとの辛)の愛の力を育んでいかねばならない年ともいえる。 恐らく、多くの和平交渉、条約交渉、講和等が行なわれ、世界的に、国内的にも、斬新的な体制に改めて行くべき年となるのだろう。
2009年01月02日
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