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生きることは、食することでもある。そして、人間は食物のモチーフより形作られる。料理が美味いか不味いかは、食物のなかに作り手の愛情がどれだけ詰め込まれているかどうかだと意識せざるをえない。 私は、ワイン愛好家であるが、それほど裕福ではないので、いかに安く、美味いワインを飲むかが、その日課といえるだろう。 たかが酒に数十万、数百万もする、シャトーペトリュスやロマネコンティの2大巨頭などは、眼中にないというか、勿論、手の届かないのもあるが、もはや単なる骨董品のような芸術贅沢品と自分のなかで定義している。 確かに、この馬鹿高いワインは、もはや伝説化しているが、だからといって、ワインの美味さは、その値段に比例しないというのは、ソムリエの衆目一致するところでもあるらしい。 食はその愛情にあるからだと私は思う。ワインは、どこか飲食の芸術品、絵画のようでもある。 そして、美味いワインは、まるで、いつまでも褪めない恋のようである。 そう、ワインは、恋に喩えてみると、なぜかわかりやすい気がするのである。 フランスボルドー地方のワインは、どこか気品があり、飲んだ後の余韻が、よい恋をした後の思い出のように残る。タンニンが格調高く、人をまろやかに甘く酔わせる。どこか貴婦人と恋した後のようである。 対してブルゴーニュ地方のワインは、若々しく瑞々しい、まさにトップモデルのような、甘い初恋のような思い出で人を酔わせる。とくに、芳しい匂いが特徴で、なんともいえない良い香水の匂いが、甘き恋の余韻に浸らせるようである。 ボルドーが、良き恋の余韻を愉しむものなら、ブルゴーニュのは、良き恋の最中を愉しむようなものに思える。 フランスだけでなく、最近話題のオーストラリアのワインは、どこか野性味があり、パンチ力を思わせる。荒々しい野性味ある女性との恋といえるかもしれない。 アルゼンチンは、タンゴの情熱の国といえるほど、どこか野性味に攻撃性がある恋のようだ。行きづりの恋で、長続きはしないが、短期間に愉しむものかもしれない。 日本のワインも最近話題だが、やはり、歴史がない分、まだまだこれからという感じなのだろう。日本のワインは、少し独特という感じで、私はあまり好きでない。やはり、どことなく、個性が感じられないが、だからこそ、異色性を狙うのもいいかもしれない。 なにしろ、真の恋はほとんど日本人なので、ワインに拘る必要もないだろう。ルックスは、とやかく、やはり、精神性において、日本女性は世界一なのではないかとも思う。なにかと、日本女性は、世界的に人気なのも周知の事実でもある。 異色といえば、ハンガリーのトカイの貴腐ワインは極甘の女王という感じである。年季の入った恋というべきかもしれない。あまりに甘いので、たまに飲むという感じになってしまう。濃厚な恋は、体力的に限界なように思える。 残念ながら、イタリア、スペインのワインはあまり飲んだことがない、シャンパンや発泡性に特徴があるようで、マニアックといえるのかもしれない。それはイタリア人が恋の達人といわれるように、マニアックな恋なのかもしれない。何か祝いのときは、必ずシャンパンになるのも、それだけ、恋に飢えている証といえるかもしれない。炭酸が入ると、過度な疲労が回復するのも、恋の秘密なのであろう。 いま、ル・オー・メドック・ド・ジスクール 1998を飲みながら、馬鹿な戯言を書いている。このようなことができるのも、恋の盲目というべき、美味いワインのなせる業といえるだろう。
2007年01月31日
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賞味期限が既に過ぎているのも、本人だけが気がついていない現象が、巷で多発している。不二家の不祥事から、何も学ばない愚か者が、社会を犠牲にして居座っている。その人たちに共通しているのは、爆弾発言である。恐らく、側近をイエスマン、日和見主義者で揃えたために、重要な忠告や諫言をしてくれる者がいないのだろう。 これからは、どうみても、女性の時代である。いままでの論理はもはや通用せず。汚職や口先ばかりで、無責任な男性ばかりが、前面にでては、醜態、生き恥を曝してきた。いまだに、醜態を曝しながらも平然と居座るような、真事に美しい国とは、名ばかりの醜い国日本である。 「日本はこのままいくと滅びる」とは、周囲に問いかければ、皆、衆目一致した意見である。どうせ、滅びるならば、自分だけは、せめて、死ぬまでは、楽に暮らしたいという醜い心の持ち主が、大部分といえる。 そのような人達が、子供の給食費も払わずに、贅沢な暮らしに現を抜かす。 馬鹿な総理は、教育改革と憲法改正に血眼である。 国民は、誰かこのような馬鹿政権を、スッキリと退治してくれる者はいないのだろうか?と心底思っている。小沢民主じゃ頼りなさ過ぎるのである。いっその事、シンジョーなんかが、坂本竜馬のように、日本を洗濯してやくれないかと思うくらいである。 とにかく、いまの醜い政治家連中を、国民の手に届かない超豪華な議員宿舎と共に奈落の底に突き落としてくれないかと思う次第である。 どうせなら、六本木ヒルズ並の家賃が払えるセレブが、そのまま買い取って、宿舎に住み、ついでに政治家になって、税金も沢山支払って貰えば一石二鳥じゃないか?とも思う。 国会議員など、あんなに必要ないし、TVに頻繁に出て票稼ぎしている位なのだから、タレントがそのまま議員になってしまい、議員の特権を無くして、タレントの強みでそのままなればいいのではないだろうか? もし、シンジョーが、「政治家の特権は廃止します。なぜなら、私が政治家をすれば、そんな特権は必要ないですから」といえば衝撃的だろう。スポーツ選手がダメだというのなら、プロレスラーだって無理なはずだろう。 政治家は誰がやっても同じというのは、小泉政権が、打ち立てた証でもある。社会人にもなり切れていない、苦労知らずの若者が、政治家になり、特権を貪っているのだから、地盤を相続してきた議員も似たり寄ったりということだろう。 セレブ党でも結成して、「特権意識を打破します。真のセレブに特権など必要ありません。セレブとは、社会的存在そのものなのですから」と、いまの政治家を追放するような誰かを国民は期待しているように思える。有名なタレントがなれば、少なくとも国会中継の視聴率はあがる可能性は高い。政治の一発屋も出るかもしれないが、本人の暮らしはどうあれ、全体の政治がよくなればそれでいいのである。 とどのつまり、それほど政治は堕落しているということである。 教育改革といっているが、やっていることは、ゆとり教育以前の状態に戻すだけだろう。かつては必要な体罰は赦されており、教師は、特定の立場におかれ、それ相応の責任をもたされていたのである。体罰の判断は教師に任されていた、それだけ人間として責任が重いのである。確かに非常識な教師が増えた面もあるが、教育を競争原理に曝したツケが、イジメを生んだのである。 教育において、現在、最も失われているのは教師への信頼である。だから、マスコミ等で話題になる教師がチヤホヤされてしまうのであろう。これでは、「あるある大事典」というような捏造番組と同じである。 あるある捏造大事件の前に、これはTVだから所詮仕方ないとはいえ、タウンミーティングのヤラセなどは、公然と政府が国民を騙した事例であり、あるあるの何十倍もの大責任を問うべきであろう。それも、なんだか、総理の給料カットにもならないカットじゃ、お笑い番組にもなりゃしない。タウンミーティングヤラセあるある大事典でもやったらどうだ! あるある大事典は、捏造あるある大事典になってしまった!いっその事、反面教師として、捏造の数々を教訓として、知らしめたらいかがだろうか? 人間はいかに捏造で騙されるか? あるある捏造大事典でもやったらどうか? このように人気があるというのは両刃の矢なのである。 憲法改正も変える必要はないといってよい。米国が、自国民を戦場に送りたくないだけで、代わりに日本人ならよいだろうという論理でしかない。しかし、戦争は誰がはじめたのか?ということと、戦争で潤った国はどこなのか?という問題に対する答え無しに、人の良くナイーブな日本人の騙されやすさで、ホイホイ憲法改正などしたら、自衛隊員は愚か、国民はたちまち、戦場に送られるだけであろう。自民党議員の息子が率先して、戦場に送られるのなら、まだわかるが、自分たちは、特権階級に胡坐をかきながら、何が愛国心なのか?いまの政治家こそ、問うべき最重要課題である。 「国民は、戦場で敵を殺すマシンですから」と某大臣にいわれかねないだろう。 彼らは、戦場どころか、その地位に生き恥を曝してまでも固執する強欲ジジババなのである。死ぬ前から既に自縛霊になってしまっている。自縛霊になっても、まだ欲が満たされないばかりか、銅像という偶像まで作る始末である。これでは、未来永劫未成仏地獄行きが確定したようなもんである。その銅像がある限り、出直しの再受肉もままならないであろう。 教育改革も、憲法改正もまるで、絵空事である。
2007年01月31日
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人間の様々の意識レベルに関係する限りにおいての、鉱物界の形態、実質、金属性についてまとめてきたが、ある種の金属実質にまで観察を広げる前に、立場を完全に明確なものにする必要があるという。 これまでまとめてきたことから容易に想像されるのは、通常とは異なる意識状態を引き起こす方法として、これらの金属等の物質を、いわば栄養として摂取することを推奨しているものと勘違いすることである。内的な精神的訓練と規律によって精神的な洞察を達成する方法について議論するとき、よく耳にするのは次のような言葉だという。別の世界の事物や他の意識状態について知るのは大変結構なことだが、推奨されているような訓練を実行するのはあまりに困難で、時間がかかりすぎるのではないかという類のものであるという。 恐らく、このように発言する人々は、そのうち、訓練を始め、しばらくすると、生活上の直接的な要求が介入してきて、自分に染み込んだ習慣を犠牲にしてまで、このような方法を実践したくはなく、次第に情熱を失い、訓練を、いつの間にか止めてしまう。このような人々が何も達成できないのは驚くにあたらず、彼らは、精神的な訓練を要するというのは、あまりにも退屈な事柄と考える傾向にあるといえるという。 このような人たちは、例えば、ある種の金属の性質、ある意識レベルに関係している、というようなことを聞くと安心し、死者との精神的な絆を保つためには、若干の銅を摂取するだけでよいならば、そうしない手はない、微量の銅で、より高いレベルの意識を発達させることができるならば、と安易に考える傾向にあるという。 古代の当時は、当然のことながら、秘儀参入者付き添いの指導の下に行われた、という違いがあったにせよ、古代の秘儀においても採用されていた訓練も、上記のように大体同じようなものだったと聞くと、余計に、上記の安易な考えが魅力的なものになる。 そして、このような人たちは、上記のようなことを聞くと、どうして、この古い訓練を復活させないのかと不思議がるが、このような人たちは、人間の肉体的な組織全体が、古代の当時と、今では、異なって構成されていたという事実を見落としているという。 その当時、そして、古代カルディア時代に至るまでの人々には、現代人のような知性を欠いていたという。人々の考えは、今日のように自分のなかに自ずと浮かんできたのではなく、霊視力を通して、古代人のところにやってきたという。 それは丁度、今日の我々が、自分で薔薇の赤色を創造したのではなく、薔薇の印象を、外界から受け取っているということに気づいているように、古代の人々は、思考が外的な対象物を通して伝達されているということ、つまり、思考が、彼らに吹き込まれ(イン-スパイアされ)ているということに気づいていたという。 このことについては、古代人の肉体組織、いわゆる血液の組成さえもが、異なって構成されていた、というなかにも、その根拠を見いだすことができるという。そのため、人々が精神的な訓練を遂行するのを助けるために、金属を高度に効能化(ポテンシャライズ)した形で、つまり、今日、神秘学者がホメオパシーと呼ぶ処方に従って服用することが可能だったという。 古代カルディア時代の人間が高度に効能化された銅を処方されたと想像してみる。彼は銅を服用する前に(当時、よくやられたことで)ある特別な精神的訓練を遂行するように指導されたという。そのような場合には、高度に効能化された銅を摂取する前、何日間というより、何年にもわたるトレーニングが要求されたという。 そして、彼は、その肉体的な構成が、現代人とは異なっていたために、その訓練を通して、彼の血流に乗って循環する、細かく分散し、高度に効能化された銅が、彼の上半身に及ぼす働きを辿ることを学んだという。この注意深い訓練の後、銅が処方されたとき、彼の言葉に温かさが付け加えられた、という内的な感情を持ったというが、その理由は、彼自身により、彼の喉頭と喉頭から脳に導く神経の中に温かさを生じさせていたからだという。 さて、古代人の彼は、肉体的な成立が、現代人とは異なっていたために、彼の中で起こっていることに対して、非常な感受性を持って反応することができたという。もし、今日、誰かが高度に効能化された銅を同じような条件下で服用したとしても、勿論、効果があるでしょうが、ここでいう喉頭への作用以上のものは生じないという。 このように、当時の人間の肉体的な成り立ちは今日の人間のとは異なっていた、ということを理解することが重要であるという。そうすれば、古代においては普通に行われ、中世においてもなお、よく行われた処方であったとしても、薬剤を服用することによって別の意識状態を生じさせようなどとは、誰も思わなくなるからであるという。 現時点において唯一の有効な方法は、前回示した銅の本性、その本質的な存在を内的に感じ取り、それによって、磨かれた銅の色や硫酸銅溶液中の銅の振る舞いに対する敏感な反応を発達させることであるという。この反応に集中し、瞑想することによって、銅の反応が正しく行われていることを確認することができるという。
2007年01月29日
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神秘学を学ぶと、人生の目的は、ただ人が与えられた人生をありのまま生きるのみであるということがわかる。 そう、人生の目的は、自分に与えられた人生をただ生きることなのだという。 鈴木大拙という禅の学者に、ある記者が、「水の中にいても、溺れない方法は何か」という禅問答を教えられ、何遍考えてもみても、結局、わからずに、とうとうその答えを聞いたときの、その答えは、「それは溺れることだ」という逸話がある。 つまり、この禅問答は、水を、人生に、つまり大きな運命、いわゆる宿命に喩えているわけである。 世の中は、まるで、自分の思い通りにはいかない。考えてみれば、自分と異なる人間が、何億人と同時に存在し、たとえ血縁関係の家族のなかといっても、数人のなかで、自分1人の意見を押し通すことは、困難だろう。 血縁関係の家族のなかでも、自分の思い通りに生活を送ることは困難なのである。人が3人集まれば、法が必要になることはいうまでもなく、更に人数が多くなれば法を超える道徳やモラルが確立していなければ、たちまち、衝突し、戦いのうちに、人類は滅亡していたに違いないだろう。 まして国家という大人数の人間社会には、伝統的文化や社会規律があり、そのようななかに、いかに世の中が変わったといっても、自ら独自の意見を押し通すのは、とどのつまり、水の中で、必死に独力で泳ごうとして、もがくもので、たちまち、周囲の水の抵抗にあい、息ももたなくなるであろう。 神秘学によると、古代人は、人生の意味、目的を、現代人とは比べものにならないほど、非常に熟知していたことが、命名法からわかるという。 古代人は、人間は、霊界からこの世にくることを知っていて、子供の名は、霊界にちなんで名づけるべきだと心掛けていたという。古代人がしばしば、天使の名や、預言者の名をつけるのは、その時代の神々の意向を反映し、その担い手、手足となって働くことを意味したという。 つまり、古代人は、自らの人生を、神々によって与えられたものだと悟っていたという。 そして、古代人は、神々によって与えられたこの世の乗り物である、肉体が、人生のいわば、教科書のようなものであることを理解していたというのである。 だから、古代人は、人生をそのまま受け入れることを基本としたという。 神々によって、与えられた人生を不平、不満もいわず、ただ感謝して、黙々と全力を注いで生き抜いたのである。 古代人にとって、この世は、所詮、物質的に変えられるものではなく、霊的(精神的)に感化していくべきものと捉えていたのである。古代人の使命は、この世を、神々による、霊化(精神化)の世界につくりかえて、神々が降りてくるのに相応しい、つまり神々の国につくりかえようと思ったのであるという。 古代エジプト人は、神々により与えられた叡智、つまり霊化(精神化)した世界、いわゆる幾何学を元に、世界をつくりかえようとしたのである。例えば、全くの直線は、この物質世界には存在しない。どんな直線や円も、細かくみていけば、歪みや微妙な曲線がみられるだろう。そのような真の直線や円は、神々から与えられた、人間の精神(霊)のなかにあり、その精神を元にして、この世界を幾何学からなる世界につくりかえたいと願い、実践したのである。 それらの願いが、ピラミッド等の古代遺跡として後に残されたのである。 古代インド人は、この世は幻(マーヤ)で、真の世界は霊界にあると思い、常に瞑想し、精神(心)の世界を平静、平安にすることを基本にしていた。物質世界を考えることは穢れることだと思ったのである。そして、この世にいながら、あの世を夢見た。古代インド人は、穢れることを恐れ、頻繁に沐浴、水に身体を浸したのである。 古代インド人は、人間という存在は、神々の大河(大きな海)のなかの表面の存在であることを熟知していたと考えられる。古代インド人は、いわば魚類の文化ともいえ、この世の地にあがることを穢れとして、畏れたのである。 この古代インド人の消極的態度とは異なり、古代ペルシャ人は、この世の地を悪と捉え、人間は、この世の地の悪を、積極的に善に変えていくべき、神の使者として考えたのである。古代ペルシャ人は、神々の教え、叡智を積極的に広めていこうと思ったのである。古代ペルシャ人は、魚類から、両生類の文化にかわりつつあったといえる。 そして、古代エジプト人は、神々の叡智から、この世を作り変えようと真剣に思ったのである。両生類から、爬虫類の文化といえるだろう。エジプトのこの文化の象徴が、爬虫類で表されるのは、このことを神秘学的に意味しているという。 つまり、どの時代にも、人間の上にいる天使の存在の意向が反映しているというのである。人間は、つまり、神々の一部なのである。 神秘学では、実は、人間は神々の目であるという。ピラミッドの叡智の目の意味は、人類の存在を意味しているのある。古代の叡智の目であった人類の指導者は、秘儀参入者といわれるが、しばしば目や蛇で象徴化されたのは、爬虫類の文化であるのと、神々の目を意味するものであったと考えられる。そして、神々の目は、もう1つあり、それは月なのである。 西遊記という物語は、このような人間の叡智と、仏教の極意をも巧く伝えているようにみえる。 孫悟空とは、人類の存在そのものを示す。お釈迦さまは神々の存在で、孫悟空は、お釈迦さまの手の上を出ることはできない。お釈迦さまの手とは、人間の人生の素であるカルマのことを表すようである。 カルマは、前世の不道徳な行いにより、次世で課される宿題のようなものである。つまり、この世で、ある程度の道徳的行為を実践しなかった者は、その程度により、落第させられるのである。それは道徳的法則こそ、宇宙の存在を保っているバランス、調和の法則なのであり、万人が幸福に暮らすいわば法律といえるものだから、当たり前の原則といえる。 天使たちは、人間の身近にいて、自らの意向を示しながら、その実践ぶりを観察しているのである。そして、道徳評価に吟味して、いわば、通知表を随時作成しているともいえる。それが、個人のアカシャ記録といわれるものである。この世に現れなくても、しっかりと天使により、逐一神々に報告されているのである。なぜなら、人間は、神々の目でもあるからである。 人間は、神々の目でもあるので、不浄、不義、虚偽のものであってはならない。神々の存在たる真善美を正確に観察しなければならない。天使は、その調整役といえるだろう。 そう、だから、天使や人類の身近な指導者が、孫悟空の師である三蔵法師なのである。 孫悟空が猿なのは、低次元の自我を表している。恐らく、いまの猿が、アトランティス時代の動物人間の堕落した子孫であることを意味しているのだろう。人類も堕落すると、猿になるぞという警告でもある。 三蔵法師がお経を唱えると、孫悟空の頭に頭痛が生じるのは、人間のなかに、神々の意志が働いていることがわかる。 孫悟空が、この妖怪が住む幻の世界で、道徳を実践し、徳を積むと、人間が死後、その徳の積まれ度合いにより、最後の審判が、閻魔様により行われ、判定によりカルマが形成され、次世の転生へと、人間としての度合いに反映される。 つまり、積善は、次世の健康の素となり、不善、つまり悪は、次世の病の素となる。 この世の妖怪たち(妖精)を退治、つまり、悪を善に転化していくことで、人間孫悟空は、段々と、真の人間、つまり神々の目となっていくというわけである。 孫悟空は、三蔵法師の教えを卒業すると、真の人間存在になり、神々の目となるという話である。西遊記は、実は、人類の進化論なのである。
2007年01月27日
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文化的な衝動を秘教に負っていた古代カルディア人たちは、これらの事柄に関して、今日の人間よりも、遥かに深い洞察をもっていたという。注目すべきは、今日の人間が心臓意識の中で生きているのに対し、古代カルディア人たちは、当時、実際、喉頭意識の中で生きていた、という事実だという。彼らにとって自然な意識とは一種の鉄意識だったという。 古代カルディア人の経験は宇宙に関連し、彼らにとって地球は、今日の人間にとって、確固とした一貫性を有していなかったという。彼らが、ある特別の好ましい条件下、例えば、火星存在との親しい交わりの中で生きる場合、現代人が第二の人間の意識によって知覚できる存在たち(死者)を伴って、ある存在たちが月からやってくる出会いの瞬間があったという。カルディア人たちは死後の生活に関する崇高な真実を、このような間接的な仕方で知ったという。つまり、彼らはこれらの真実についての教唆を外なる宇宙から受け取ったという。 例えば、竹取物語のかぐや姫の話は、このことを示唆しているのかもしれない。つまり、古代カルディア人は、彼らが霊的ないわば火星人と交流した際に、死者を伴って、いわば月人がやってきて、出会っていたというのである。 この出会いは、現代人では、眠っているときの睡眠意識のときに相当し、現代人も夢のなかで恐らく出会っているのだが、もはや昼の覚醒意識しかもたないので、人生の日常から類似の人に無理やり辻褄合わせで、当てはめていると考えられる。このことは、カールセーガン監修の映画「コンタクト」をみるとより興味深い。 仲介者の助けなしに死者を追っていくことができる今日の人間にとって、古代カルディア人のような意識はもはや必要ではないという。現代人は、古代カルディア人の経験を逆の順番に、それぞれの経験を逆方向に辿ることができるという。そして、現代の秘儀参入者が、銅の意識における第二の人間と同化するとき、現象世界よりも、遥かに現実的な世界に自分が置かれているのを見出すことが不思議に思えてくるという。現在のこの物質世界と、この物質世界での経験の総計は、銅の意識から参入する堅固で厳格な事実の世界に比べると、まるで幻想のように実体がないように見えるという。 このことは、織田信長が好んだ幸若舞いの敦盛を思い出す。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり…」。どうやら、この敦盛は平家物語を経由して、原典は仏典にあるらしい。下天とは、下位神界のことを指すようである。 また、五十というのは、五重を現す気がしてならない。恐らく、五重塔、五芒星(エーテル体の5つの流れ)の類を現すものなのだろう。要するに、現世とは、夢や幻であり、人間の真の存在は、天国にあるのだから、意識を向上していかなければならないということなのだろう。 上記の方法で死者に同伴するとき、あらゆる事柄を増幅したスケールで経験するという。つまり、あらゆることがより強烈に現実的なものとして現れるという。これは味覚で考えるとイメージしやすい。濃縮エキスを舐めるような感じなのだろう。 死者同伴の世界に比較すると、現象世界は漠とした印象を残すという。秘儀参入の意識を通して死者の世界に関係する人にとって、現象世界は色のついた仮面舞踏会のようなものであるという。瞑想を通して秘儀に参入し、死者とこのように密接な関係を持った人は、現世の出来事を、「お前たちは皆、色のついた仮面だ。お前たちに現実性はない。ただ色のついた仮面が椅子の上に座っているのだ」、というようになるという。 ここにも、日本の古典芸能の能が面を被る一種の仮面舞踏会であることに気がつかされるのである。つまり、古代日本人も、古代カルディア人のように、死者の国(古くは黄泉の国といっていたようである)を知っていたのであり、それを伝承するために、能のようなものが発達したのだろう。 真の現実は物理的な存在領域を超えたところにのみ見出され、その現実は、秘儀参入の銅の意識により、経験することができるという。 実際、シュタイナーは、彼の神秘劇に、実在の人物に基づいた、ストラーダーという人物を登場させ、ストラーダーは19世紀最後の三分の一から20世紀にかけて生きた人物の詩的で非現実的な側面を表現したという。彼は実際、人生において非常に興味深い男で、彼の人生の出発点はカプチン修道士会の見習いだったが、哲学のためにその職業を捨て、しばらくの間ドルナッハの修道院に滞在したという。 シュタイナーは彼を神秘劇の中でストラーダーに仕立てたが、彼を忠実に再現したものではなく、ある程度似たところがもたせたという。その神秘劇の第四番でストラーダーは死ぬという。シュタイナーは、彼のキャラクターを更に展開する可能性を全て使い果たしたために、彼を死なせるより他になかったという。 僧から哲学者へと変えていた当の人物は、神秘劇創作の間に亡くなっていたという。そして、シュタイナーは、その人物に対して深い興味を抱いたために、彼の死の旅路を、銅の意識から精神世界を通して追っていくことができたという。 彼の人物像によってもたらされた印象は、彼の人生よりも遥かに現実的なもので、彼の地上における生活と活動は、彼の死後の生活における経験から与ることができるものに比べると、もはや、彼の人生に何の興味をも起こさせるものではなかったという。 このとき、奇妙な出来事が起こったという。シュタイナーの幾人かの弟子が、上記の次第に気がついたという。弟子たちは、ストラーダーが、歴史上の人物の横顔であることを見つけ出したという。彼らのその探求過程で、ストラーダーのモデルになった人物の未公開原稿や、書き残していた多種の興味深い書類を発見し、弟子たちは、その発見に、師であるシュタイナーが大喜びするものと思って、それを持ってきたが、そのとき、シュタイナーには、もはやほとんど興味のないものだったという。 そのとき、シュタイナーが本当に興味を持っていたのはそのモデルの死後の行為で、このずっと遥かに現実的なものに比べれば、彼が後に残していった外的な物質世界に関する歴史上の記録等のあらゆるものは、何の意味もないものだったという。 弟子たちが骨を折って集めた情報だが、師がほとんど興味を示さなかったことに、人々は驚いたという。上記の銅の意識に関して知っていれば、そのとき、そのような物的資料を必要としていなかったことがわかるだろう。 なぜなら、この物質世界の現実とは、人間が死の門を通った魂を追っていくときに明らかになる崇高な現実に比べれば、空虚なものである、というのが真実であるからだという。死者の魂が死の門の向こうで滞在する世界において、秘儀参入者が肉体を捨て去って、第二の人間と同化するとき、それはほんの短い間とはいっても、経験することが可能な世界であるという。そして、その短時間の間に、秘儀参入者は多くのことを経験することができるという。 現象世界に直接その境を接するこの世界の存在は全く疑いのない存在だという。そこは死者たちがより豊かに生きる世界であるという。秘儀参入者は、肉体を放棄し、第二の人間を通して、死者を理解するが、それは、意識を喪失したというよりも、むしろ、意識がより深く融合したということを意味するという。 もし、瞑想等により、心臓中心よりも上に上昇するならば、意識はボンヤリとしたものになり、無意識の状態に近くなるという。もし、反対に心臓中心よりも下に下がるならば、意識は強められるという。そのとき、秘儀参入者は、現実の世界に参入するのだが、その結果として必然的に生じる痛みや苦しみに耐えることを学ばなければならないという。とはいえ、もし、この現実の世界を取り囲む(物質世界の)壁を、勇気と決意を持って突破するならば、この秘儀への参入は確かなものになるという。 以上のことから、通常の日常的な意識、喉頭における第二の意識、両目の領域(眉間)における第三の意識、頭頂部における宇宙に達するところの第四の意識、そして、空間世界とは関係を持たず、時間の世界に人間を連れ戻す第五の意識に関しての理解へと至ることがわかるという。この第五の意識レベルを達成するとき、死者たちと同じ逆向きの時間軸を共有し、時間の中を旅することになるという。このとき、人間は空間から出て、時間の中へと足を踏み入れることになるという。 これはいわば、意識によるタイムマシンといえる。 なので、全ては、新しい世界を開示する別の意識状態の中に、自分自身を移すことができるかどうかにかかっているといえる。地上における人間は1つの隔離された世界の囚人であるという。何故なら、地上の人間はたった一つの意識状態しか知らず、他の全ての意識において、眠りの状態にあるからだという。もし、通常とは異なった別の意識を目覚めさせ、発達させたなら、別の世界を経験することができるという。 人間は意識を変化させることによって、自分自身を変化させることができる、というのが精神的な探求における秘密であるという。通常の方法による探求や研究によって別の世界へと貫き至ることはできないという。 いかなる手法や方法を用いようとも、その道具がこの物質世界を基準にしている限り、この世界を超えることはできない。それは、例えば、言語が、この世界のものである限りにおいて、いかなることを表現しようとも、最終的に必ず死を迎えるものである。言語自体が、この世界を限定しているからである。 しかし、人間の意識はこの世界、死を超えていくことができる。秘教は、人間自身が、変容を遂げ、意識を通常とは別の新しい形態へと変化させなければ意味がないと説くのである。
2007年01月27日
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宇宙が顕現するのは頭部中心であり、誕生から死までの人間の条件を決定するのは心臓中心であるという。ある人がよい文章を書くか下手な文章を書くか、ある人の利益が隣の人の不利益になるかどうか、このようなことは心臓中心によって決定されるという。人間の頭部意識が地球のみに限定されていると考えるのは全くの幻想であるという。 何故なら、頭部は、実際には、永続的な無感覚状態にあるからだという。他器官から生じる痛みそのものが解放されることにより、頭部が奇妙に苦しめられるのも、頭部が無感覚状態にある理由によるという。この点についてもう少しまとめると、現状において、頭部が無感覚状態になる理由を見つけるなら、自分の知的な意識が根絶され、つまり、意識全体が崩壊し、完全な無感覚状態に陥るような精神側からの絶えざる危険に、頭部が曝されることにあるという。 いわば痛みの解放が、頭部の無感覚状態に解消されるのである。酷い痛みを伴うと、人間は気を失うのである。つまり、日常の覚醒意識が崩壊し、他意識に転換されるものと考えられる。もし、頭部のみが、地球にあるなら、痛みと共に、意識は崩壊し回復しないものとなるだろう。 このとき、人間存在に関するイメージが可能なのは、人間は喉頭(鉄)において、動物界の原型にまで達する意識を発達させ、それは星々に属する意識で、通常の生活においては、その意識に気づくことはないというようなもので、更により高いところでは、植物界の原型に関する意識が両目の領域(錫)にあり、下方にはそれを映し出すイメージであるという。 全ての頂点に冠せられるのは土星の領域に達する鉛意識の中心で、その頭部中心は、もはや人間が人生において記述する記事の内容には注意を払わないものであるという。人生の諸事項は心臓中心の産物であるという。とはいっても、頭は宇宙空間で生じていることを完全に意識しているという。地上の出来事や活動についての記述は心臓に発するもので、一方、頭が集中することが可能なのは、神的な存在が黄鉄鉱の中、或いは食塩や水晶の結晶の中に自らを顕現する方法に関するものであるという。 秘儀参入者の意識が例えば、聴衆をざっと眺めるとき、聴衆が、講演の内容を心臓で聞き、その間、聴衆がもつ三つのより高次の意識が、地球の外の宇宙にある、ということが明らかになるという。宇宙は通常の地球意識に知られているような活動とは完全に異なる階級に属する活動の舞台であるという。宇宙の中で織りなされるもの、特に、宇宙で活発にされ、遠く、そして広範に放射されるものの中で、人類のために織りなされるものとは、人類の運命の織物、人類のカルマであるという。 このようにして、人間の宇宙に対する関係を通して、徐々に人間存在を理解できるようになるという。つまり、いかに人間が外的な世界と根源的な関係を持っているか、いかに外から、人間存在が根絶やしにされる危険、無感覚へと還元される危険に曝されているか、そして、結局のところ、いかに人間存在が心臓によって支えられているかを理解できるようになるという。 他の種類の金属について瞑想するときの精神的なアプローチは異なっているという。銅についても鉄、錫、そして鉛について行ったのと同様の手続きを踏むことができるという。銅の金属としての性質について瞑想するとき、いわば銅と溶け合い、1つになるという。そのとき、魂全体が銅によって、つまり、銅の色や密度、その奇妙な筋の入った表面によって浸透されるという。 要するに、銅の金属性に対する魂的な反応と、人間存在は、完全に同一視されるようになるが、そのとき、経験するのは、無感覚への段階的な移行ではなく、むしろその反対で、自分の内的な存在全体が何かで溢れるという感覚を持つという。つまり、魂の反応はより鋭敏になるという。 銅について瞑想するとき、銅が、人間の存在全体に浸透する、というはっきりとした印象を持つという。この銅の意識は、心臓より下にある中心から放射し、体全体に分散するという。 それは、まるで自分の中に第二の体、第二の人間をもっているかのようであるという。そして、内的な圧力を感じるという。この意識に至ることは幾らか痛みを伴い、徐々に増加するという。あらゆるものが内的な緊張状態にあるかのようであるという。 秘儀参入者の意識を持って、この状態に向き合うとき、自分の中に第二の人間の存在を感じるという。この経験は重要な示唆を含んでいるという。というのも、人生への誕生と教育の産物であり、世界を理解するための道具である通常の自我は、人生を通して、我々と共にあるが、この意識を得ることで、この第二の人間の中に、活力を与え、訓練と瞑想を通して、知覚能力を目覚めさせることができるからであるという。 この第二の人間は実際、特筆すべき存在で、この人間は目と耳を別個のものとしてもっているのではなく、この人間自体が同時に目であり耳である存在であるという。この人間は繊細な知覚能力を有する感覚器官に似て、通常は知覚しないものを知覚するという。銅の意識に達すると、世界は突然、豊かなものになるという。 丁度、蛇が脱皮するように、わずかの間(いわば2、3秒の間に多くのことが経験されるという)とはいえ、この第二の人間、「銅」人間は体を脱ぎ捨て、精神世界を自由に動き回るという。痛みが増加するという代償を払って、秘儀参入者は体から離れることができるという。体から離れるとき、更に幅広い経験が得られるという。体を捨て去ることができる地点にまで達するならば、死の門を通過した人を追っていくことが可能になるという。 このような場合、亡くなった人との地上的な関係は、全て終わりを迎えるという。死者は埋葬されるか、荼毘に付され、地球との関係を断ち切ったからだという。秘儀参入者が第二の人間と共に、つまり、超感覚的な知覚と共に体を捨て去るとき、死後の魂が辿る旅路を追っていくことが可能になるという。 そして、そのとき、死者の魂が、死後から誕生までの数年、或いは数十年の、地上におけるその人生を逆向きに辿りながら過ごすことを知るという。このことは、秘儀参入者が観察できる事実であるという。何故なら、銅意識に達した秘儀参入者は、死の門を通って、死者の魂を追っていくことができるからだという。 人生を要約するのにかかる時間は、人生の三分の一の長さであるという。60歳で死ぬ人は凡そ20年かけて人生の経験を要約することになるという。死者の魂をこの期間を通じて追っていくことができるという。死後に辿る人間の経験について多くのことを知る。 人生を要約するとき、その経験は逆向きになるという。大雑把な例を挙げるなら、ある人が死ぬ三年前に誰かの横面を引っ叩いたとする、その人は、彼にうんざりし、怒りを爆発させ、彼に物理的、道徳的な痛みを与え、その人は彼が自分を怒らせたという理由で彼に与えた罰によって一定の満足を得た場合を考えてみる。 さて、この人が死後、人生を逆向きに要約する。一年後(人生の約三分の一なので、三年前の出来事になる)は、この出来事にきたとき、その人は、その人のなかに生じた元の怒りの爆発ではなく、その爆発の餌食になった人の物理的、道徳的な痛みを経験することになるという。 その人は正に自分の行為の犠牲者の感情の中に入り込み、横面に打たれた手形の作用を、物理的に経験するという。つまり、その人は自分が与えた痛みを体験するが、同様のことが他のあらゆる行為にもあてはまるという。その人は、自分の行為に巻き込まれた人が経験することを、当時の通りに経験するという。このように、人間の魂が死後に通過する全てのそのような経験を追っていくことができるという。
2007年01月26日
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以前、鉱物の形成、結晶化に関する知見を得たが、いま、その実質、その金属性の知識を得ると同時に、いかに金属質が人間そのものに働きかけるかを認識する。 外的には、鉱物界において金属が結晶として形成されるのが見られ、内的には、地球上に細かく分散した金の力が、人間の心臓を維持し、日常生活における現代人の通常の意識を支えている、ということが分かるという。 金は人間の心臓という中心点に働きかけるという。この知見を基にして、探求をスタートさせる地点に立つなら、もし、既知の金属の金を取り上げ、その色や固さ、そしてその成り立ちや構造に関してのあらゆるイメージを瞑想により集中すると同時に、その体験を内的な現実へと変化させるならば、金は心臓に関係している、ということが見出されるという。 また別の金属、例えば鉄と鉄の性質に、魂を瞑想により集中させるならば、鉄が人間にどのような影響を及ぼすかを見出すことになるという。金には調和をもたらすような、緊張と対立を解消させるような効果があり、人はその金の性質によって平衡状態を取り戻すという。 もし、金の全てのイメージに精通した後、鉄に心を集中させれば、つまり宇宙全体を忘れ去り、鉄という金属だけに集中することによって、いわば内的に鉄と溶け合い、1つになるならば、あたかも自分の意識が心臓の領域から上方に移行するように感じるという。 意識が心臓から喉頭へと上昇するのを追っていくときにも、全く意識的であり、十分に精神的な訓練を遂行していれば、何も害は生じないという。もし、そうでなければ、多少の眩暈を感じるという。意識が上昇するとき、強力な内的活動、高められた意識を発達させている、という事実によって、このような状況を認識するという。そのとき、この上昇する意識の中に徐々に自分を移行させ、動物の集合魂が見られる世界に接触するという。鉄の金属性に集中することによって、アストラル界に参入することができるという。 秘儀参入者が金属の形態に精通するとき、高次の精神的な存在たちの領域に至り、つまり、金属の実質と金属性に精通するとき、アストラル界、すなわち魂の世界に参入するという。意識が喉頭へと上昇すると同時に、新しい領域の中に、自らが現れ出るが、このような意識の移行が起こるのは鉄に意識を集中したからだという。 そのとき、もはや自分が以前と同じ人間であるとは感じず、もし、この状態が十分に明晰な意識の中で達成されたならば、それまでの自分の自我を超越し、エーテル界に参入したと感じるという。地球は消滅し、もはや興味のないものになるという。惑星の領域に上昇し、自らの住居にするという。このようにして、意識により徐々に肉体から退き、宇宙の中に組み込まれるようになるという。金から鉄への道は宇宙へと続く道であるという。 金と鉄に次いで、錫に、つまり錫の金属性、その色や実質に意識を集中することによって、意識が錫と全く同一視されるようにすると、意識が更にもっと高いレベルに上昇するのを感じるという。もし、秘儀参入者が十分な準備無しに、この段階に取りかかるならば、ほぼ完全に気を失い、ほんの僅かな意識の兆候も残らないことになるという。 もし、前もって十分に準備していたとすれば、この減退した意識状態の中でも自分を保持することは可能で、意識が肉体から更に遠くに退き、最終的には両目の間にある眉間領域にまで達するのが感じられるという。宇宙の広大な広がりに包み込まれ、まだ星の領域の中にいる感じを受けるという。とはいえ、地球は遥かな星のように見え始め、そして、地上に肉体を残して、宇宙へと上昇し、星々の営みに与っているのだと確信するという。 このような全ては決してここで言葉にするほど単純なものではないという。このような秘儀参入の道に従うときに経験すること、すなわち、意識が喉頭や頭蓋底部、或いは眉間にあるようなこと、これらの様々の意識が人間の中には常に存在しているという。 人間は皆、これらの意識状態を有しているという。しかし、現代人はこのことに気づいていないという。それは何故か?といえば、人間は複雑な存在で、もし、喉頭組織全体に意識的になると同時に、脳と感覚器官無しですませることが可能ならば、上記のボンヤリとした感情、微かで無意識的な感情から自由でいられなくなるからだという。つまり、上記の意識状態に至った途端同時に日常の覚醒意識を失ってしまいがちになるからである。 その喉頭や眉間の意識は、通常の心臓意識、金の意識によって覆い隠されているという。現代人も全て共通して持っているもので、それは人間として成立させている一部なのだが、人間を構成するこの意識に与る部分は、実際は星々の中に存在していて、地球上には全く存在していないという。 錫の意識は遥かな宇宙の中に横たわり、地球のみが、人類の唯一の住居である、というのは真実ではないという。人類の意識を地球につなぎ止めているのは心臓であって、中心を喉頭にすれば、人類は地球を離れ、宇宙の中に存在することになるという。更に遥かな宇宙の中に位置するには、中心を眉間(錫)にもつとよいという。鉄の意識は火星の領域を包含し、錫の意識は木星の領域を包含しているという。金の意識においてのみ、人類は地球に属すことができるという。人間は常に宇宙に織り込まれているが、金の意識が、この現実を覆い隠しているという。 もし、鉛等同様の金属について瞑想し、その実質と金属性に集中すれば、完全に体を棄て去ることになるという。肉体とエーテル体は地球に取り残され、奇妙で遠く霞んだもののように見え、岩の上にのった石コロが岩にとっては何の興味も与えないように、何の興味も起こさせないようにみえるという。意識が頭頂冠(頭蓋の縫合線)を通って、体から抜け出ているという。 宇宙の中では、どこを見ても微少な量の鉛、鉛の存在が常に見出されるという。この意識形態は遥かな空間へと達するという。そして、頭蓋にその中心を有する意識によって、人は常に完全に無感覚の状態に留まるという。 人間が習慣的に生きるなかの幻想を思い描くと、人間は、机の前に座って計算をしたり、文章を書いたりするとき、頭を使って考えていると思いたがるが、実際はそうではなく、地球に属しているのは、そのような幻想(思考存在)としての頭ではなく、単なる思考の物理的な側面(思考産物)であるという。頭部意識は喉頭から上へと、遥かな宇宙にまで広がっているという。
2007年01月25日
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全く庶民の気持ちを解せない、労働者を奴隷の如く過労死させるような悪徳経営者の方をもつ、国会議員こそ、この法案を適応すべきである。実は国民こそ、議員の経営者なのである。 国会議員は無給で働くべきというのは、太田総理の番組のマニフェストにも取り上げられていたが、それぐらいの自負があってよいと思われる。かつての政治家や、貴族などの一部は、私有財産を、惜しみなく全て政治活動に投じたからである。 大久保利通なども、死後、借金しかその遺族に残さなかったという逸話が残っているのである。かつて一角の政治家は、そういう意味で、無給で働いたのである。 これとは、逆に、政治を私物化し私服化している現代の議員が、当然、国家に寄生し、国民から収奪した富で、自らを飾っていることは明白であろう。ただ、取り締まりの規則がないだけである。取り締まりはなけれど、昔は、なかば政治家の徳目として通用していたものと思われる。つまりは、財政赤字は、現代の議員こそが、最も堕落した者であることを証明しているのである。 それは議員の邸宅をみればわかるし、昨今、巷を賑わせた議員宿舎などは、その醜悪な国家の本質を露呈したものだろう。 無給というと、あまりに非現実的なので、政策を行った後、国会の審議後、法案のその効果を見計らって、いわば、プロ野球の年棒査定のように、国民審査の票数の獲得具合に基づいて、給料を支払うような制度を導入したらいかがだろう。勿論、そのときに、法案に関する諸経費、領収書等を提出してもらうのである。 早い話が、議員は、経営者である国民に、査定して貰うのである。議員は、国民に対する法案成立に対するモチベーションが向上するだろう。 評価が低い議員は、次の選挙に候補を辞して、自然に淘汰されるだろう。選挙は、ただ、政策立案者としての選定でしかなくなるだろうし、不必要な特権を廃することもできるだろう。 毎年、国民審査の高得点を稼ぎ出す人物のなかから、優先して、大臣や総理を決定すれば、当選回数のような利権癒着や、派閥なども自然に解消するだろう。 議員が公約を守らないのは、選挙を通過することが目的になっているからであり、議員の本来の目的は、国民のためになる法案を立法し、運用することにあるのだから、その行為査定に対し、賃金を支払うのが原則のように思われ、そのようになれば、公約を反故にする者も少なくなるだろう。 なにより、議員こそ、法案のプロフェッショナルでなければならないのである。官僚であっては、省庁の利害関係になり、忽ち、庶民感覚から逸脱してしまう。官僚は、社会安定の為にあるのであり、単なる法案や運用の道具でしかない。 だからいま、国会議員こそ、特権剥奪の最たる対象なのである。 構造改革とは、議員から特権を剥奪することなのである。明治維新が武士の特権を剥奪したのと、同様であろう。特権を剥奪された有能な議員が生じ、次なるは、官僚の特権になるだろう。官僚の特権の背後には、学閥があり、これには、官僚養成機関である東京大学を解体して、日本社会から切り離し、大学院大学のようにして、アジア領域の総合国際大学にすべきかもしれない。 いま、日本社会は血縁により、癒着し、いわば血脈が滞っている状態なのである。これを放置しておくと、膿んで血栓が出来、梗塞等の社会麻痺を生じるであろう。
2007年01月24日
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安倍内閣をみていると、どうもマリーアントワネットとルイ16世が思い浮かぶ。連日、首相夫人のセレブぶりが報道され、肝心の安倍総理は、時代遅れの幼稚なスローガンを掲げ、無為無策の無能の一言に尽きる。 ルイ16世とマリーアントワネットも当初、若さ故に、期待された人気ぶりだったのであるが、期待があまりに大きかったばかりに、失望もあまりに大きく、革命につながったわけである。どうも、これは期待が大きかった前政権の小泉とワンセットで、大きな失望として、安倍政権に、今年、嵐が吹き荒れる予感がするのである。 国民は、いま大きく落胆しているのである。本来ならば、フランスのように、革命政権ができてもおかしくないのだが、それでも、いま、現与党政権がとりあえず、維持できているのは、とりあえず後ろ盾として、背後に米国の存在が大きいといえるだろう。しかし、米国の目的は、日本を経済的に搾取することでしかないのである。 それも米国の共和党、至上最低のお馬鹿大統領ブッシュの右翼政権が、単純カウボーイのお調子者ぶりで、日本の自民党に同じ右翼的親近性をもって、とりあえず金庫として利用する価値があるから、後ろ盾になって支援しているだけである。要するに、馬鹿ブッシュは、まだまだ贅沢が飽き足りず、馬鹿息子を演じたいので、ジャパンマネーが欲しいだけなのである。 米国に、福田は嫌われ、安倍が好かれただけにすぎない。ジャパンマネーを利用し、根こそぎ奪うためには、切れ者の福田より、馬鹿で利用価値が高い坊ちゃん安倍がいいと踏んだだけなのであろう。小泉も同じだが、小泉はあまりに北に近づきすぎたので、何をするかわからない狂人にみえたのだろうし、もはや、日本国民を騙すには、賞味期限がとっくに過ぎているのであったわけであろう。最後の売国小泉総理の米国訪問は、あなたの御蔭で、ジャパンマネーを根こそぎ奪うことができた報酬なのであろう。 しかし、同盟を結ぶ同胞の国をも欺き、いわばカツあげし、米国民という同胞を戦地に送り、自分たちは贅沢三昧の怠惰なセレブ生活を送ったツケは、モラルに反し、巨大な悪徳として、本人の今後に押し寄せるだろう。そして、米国は、反世界的国家として、祭り上げられる可能性が現実化してきたといえるだろう。 米国が悪の国探しに血眼になる理由はここにある。つまり、自分たちより悪い国を探し、それよりはマシと証明するしか手がないのである。いま、その第一候補の北でさえも、もはや、米国には北の解決手段ももたないほど、悪に染まってしまったといえるだろう。 いま、かって親米であった中南米諸国が、反米へと大きく変わりつつある。 米国市民でさえも、実は、自分たちの国がタイタニック号だったことに、気づき始めたときといえるだろう。そのうち、米国では、誰が生き残るべきかが議論されるようになるだろう。なぜなら、ジャパンマネーを略奪し、その依存症に陥ってしまったことを自覚していないからである。 米国は、次第に落ちぶれていくだろう。かつてのローマ帝国のように。 少なくとも、米国の現政権は、解体され、その悪徳が明るみになるだろう。 その結果とともに、日本の与党自民は、奈落の底に落とされるであろう。 彼らに政治理念や、精神的向上性など皆無だからである。彼らの意識は、いかに国民から収奪し、特権の上に胡坐をかくかしかないからである。 これまでの自民の政治家がやったことは、いかに日本国民から収奪し、マージンを高くとって、米国政府に年貢を納めるかでしかない。つまり、バッタ屋と同じで、ヤクザ家業なのである。つまり日本の政治家は、ヤクザの親分なのである。これは、米国の一派にも、マフィアがあるのと同等であろう。ここでいう、ヤクザ、マフィアとは差別的意味でなく、モラルの有る無しで問うものである。自分が潤うなら、法を犯し、モラルを無視するような悪徳人格者のことを意味するのである。だから、表では、学者、神父、僧侶であっても、裏では悪い奴をも指すのである。 さてさて、このようなことを嘆いていてもはじまらないので、やはり、理想の社会を考えるべきなのである。 フランス革命の理念は、自由、平等、博愛主義にあるが、これを再び、社会にもたらし、健全化しなければならない。その理想的社会の証としては、万人は平等であり、社会的役割の上で、とくに仕事において、人の上に立ち、責任を持つ者は、普遍的な人格者であらねばならないといったものであろう。 自由とは、人権として本来もつ、人間の精神的自由を意味する。つまり、社会では、教育の自由や思想の自由にあたる。 平等とは、法の上の平等であり、普遍的人格者への到達、達成を意味する。つまり、社会では、国を指導する上層部にいくほど、責任を負うように、法律の上で、罰を明快にすべきである。法の上の平等とは、人格に対する責任、義務の重さを指すのである。立場に伴う責任が重ければ、それに平等な普遍的人格が求められるということである。つまり、物証的に同じ犯罪でも、責任ある立場にあるものは、一般市民よりも重くなければならないのである。 これは、最後の審判において、天秤の一方に人格に応じた悪徳所業をのせ、他方にその罪に対する裁きをのせ、その人間の平衡を保つのと同じ平等の意味である。 現代において、最も堕落が激しいのは、この法の堕落にあるといえるだろう。総理大臣が法を犯すのと、一市民が法を犯すのでは、社会的意味において、大きな意味の相違がある。裁きは、前者に重くあらねばならない。しかし、現代では、この逆で、全く不平等な裁きが行われているのである。これは裁判官自体が、最後の審判において、苛烈で過酷な裁きを受ける素になるだろう。現代の裁判官は、笑うなかれ、神々の裁きは、真に平等であるだろう。 実は、このような現代社会にした多くの責任は、司法制度や裁判にあるといわなければならない。人類がなぜ三権分立を唱え、司法を独立化させたかというと、行政や立法に理性をもたらさせしむことであり、いわば社会の制動装置、ブレーキなのである。 端的にいえば、権力者の監視にある、そのために人類は憲法を生み出したのである。堕落した国家には、堕落した法があり、その責任は司法、つまり裁判官にあるといわざるをえないだろう。 そして、最後の頼みは、博愛にある。自由を失い、平等を失って、同時に、人間の尊厳は失われるが、博愛を失うと、人間はもはや生きられない存在に化すといえるだろう。 博愛とは、人類が生きるべく最後の頼みの綱なのである。神々はこの最後の頼みの綱の種を、人間のなかに蒔いたのである。人間は、最低限度、博愛によって生きなければならない。博愛の灯火をなくしてはいけない。汝の敵を愛し、隣人を愛せなければ、人類はやがて、愛を失い、宇宙に消えてなくなるだろう。最後の博愛の太陽を失ってはならない。 博愛とは、人間が生きる糧なのである。 社会でいえば、経済行為にあたるだろう。博愛主義の精神で、経済活動を行わなければならないのである。経済行為は、自分の幸せと同じように他者の幸せをもたらすものでなくてはならない。人の犠牲の上に、自らの幸せを築くのは、博愛ではなく、人類に悪徳の憎悪をもたらすものでしかない。 大きく稼いだ者は、大きく他に施さなければならないのである。でなければ、博愛の精神を失うだろう。 経済行為に競争は全く結びつかない。それは誤った科学がもたらした今世紀最も醜悪な幻の原理である。共産主義の科学的思想は、競争原理の何者でもなく、共産主義が滅んだのは、この競争原理にある。競争は、人類に怨みをもたらし、闘争を煽り、地獄をもたらすものである。 社会や世界は調和とバランスからなり、勝者がもたらすものではない。勝者は敗者の犠牲の下になり、敗者しかもたらさない。そして勝者はいずれ力が衰え、勝者にとってかわられ、敗者になる。そのとき、勝者は悔いるのである。結局のところ、勝者は、敗者になるために、先に勝者になることでしかない。利用され、捨てられる存在なのである。 敗者を悔いて死ぬならば、はじめから自己犠牲をもたらす方が天と地の差ほどあるといえるだろう。経済的、物質的なものは、所詮幻なのである。墓場までにももっていけない。しかし、博愛ならば、墓場の後でももっていける。博愛は経済を生み出す源泉なのである。 だからして、経済活動は、博愛から発するものでなければならない。 現代社会で最も問題なのは、経済行為に、博愛主義を求めない姿勢にあるだろう。端的にいえば、過当な競争を抑制し、投機的な社会不安を煽るギャンブル行為を調整し、限定しなければならない。ギャンブルとは、博愛精神の逆にある。 博愛に発する経済行為は、養うという視点から論じられるべきであろう。 これとは逆にいまの日本の経済行為のなかに、博愛精神は、ほとんど皆無に近いといえるだろう。それは儲けるためなら、モラルを無視してでも経済行為を行うことに端的に現れている。その証拠は、経済行為に博愛が欠けているから、その経済行為を精神的に引き継ぐ者がいないのである。そして、社会は少子化へと加速するのである。 経済行為、日々の仕事に、愛をもたらさなければならない。 なにより、労働条件に労働者への思いやり、博愛精神を忘れてはならないだろう。 博愛を失った経営者は、最後の審判において、法の上の裁きに加えて、人倫の上の裁き、つまり、永遠なる魂をも失う可能性をもつといえるだろう。博愛を失ったとき、人間の魂は、もはや、人間ではなくなるであろう。裁判官より心すべきは、悪徳経営者だろう。
2007年01月24日
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そのとき、この秘儀参入者が経験するのは、上方から流れ下る宇宙的な植物のエネルギーとは対照的な、下方から流れてくる宇宙のエネルギーであるという。至る所に流れとそれに対抗する流れ、あらゆる方向から一点に向かう宇宙的なエネルギーの流れを見るという。 植物の場合には、この宇宙エネルギーの流れは上から下に向かい、それに対する抵抗を提供する地球から植物が生えてくるという。鉱物界の場合、全宇宙からやって来る、宇宙の力の流れの自由な相互作用によって創造されたのだ、ということが分かるという。鉱物-結晶世界の場合、植物とは異なり、何も地球から反射されず、全てが自身の要素の中で反射されるという。 例えば、山の中で水晶の結晶を見つけたとすると、それは普通、垂直に立っていて、その元の部分が岩の中に埋め込まれているという。これは、妨害的な要素として働く地球的、アーリマン的な力の介入によって説明できるという。実際には、水晶はあらゆる方向からくる精神的な要素の圧力によって形成されるという。つまり、宇宙空間の中では、反射する結晶面の相互作用による自由な結晶を見ることができるという。その全ての結晶面が完全に形成された夫々の結晶では、結晶自身が1つの小さな世界を形成し、階層性をもち、いわばフラクタル構造になっているという。 さて、多数の結晶形状、立方体、八面体、四面体、斜方晶系、十二面体、単斜晶系、三斜晶系等、実際に考え得るあらゆる種類の構造がある。これらを検証するなら、いかに宇宙のエネルギーの流れが一点に集中し、相互作用することによって、先端が六角錘になった六角プリズム形の水晶や、立方体の形をした食塩の結晶、もしくは十二面体の形をした黄鉄鉱の結晶が形成されるかを記述できる。これらの結晶のどれもが、この宇宙エネルギーの自由な相互作用により形成されるという。そして、宇宙空間には、地球にある様々の結晶の数と同じだけ多くの宇宙的な力が、つまり、本当にそれだけ多くの世界があり、世界の無限性を洞察し始めることになるという。 食塩の結晶を見るとき、その精神的な原則が宇宙の中で働いているのが分かるという。食塩の結晶は全宇宙に浸透する精神的な現実存在の顕現であり、それ自身で1つの世界であるという。そして、十二面体を検証することによって、宇宙には空間世界に浸透する何者かが存在し、つまり、結晶とはある1つの精神的な世界全体が刻印され、顕現したものであるということが分かるという。 我々は結晶夫々がそれ自身で1つの世界である、いわば無数の存在を見つめているという。地上の人間としては、地球の領域とは宇宙にある多数の(精神)世界の活動が、集中する、いわば焦点である、と結論づけることが可能であるという。実に様々な存在の思考と行為が地上における我々の思考と行為の中に映し出されているという。 結晶形態の無限の多様性の中に見られるのは、結晶の数学的-空間的な形態の中にその活動の頂点が見いだされる、多様な存在による表現であるという。このとき、我々は結晶の多種多様性の中に神の創造である存在を認識できるという。この宇宙の崇高な秘密が人間の魂を捉え、宇宙に対する尊敬や崇拝の感情として現れる方が、純粋に知的な基盤から理論的な知識を集約させることよりも、遥かに重要なことであるという。 例えば、神道でいうならば、結晶とは、八百万の神々の力で生まれたものといえるだろう。 この「宇宙と1つである」という感情へと導くものが人間には重要であるという。人間は、この秘儀が理解できたなら、神的な存在が織りなす働きを、どの結晶の中にも、知覚することができるようになるという。そうなれば、宇宙的な知識と理解が人間の魂全体に溢れ始めるという。 知能だけに訴えるのではなく、人間全体を照らし出し、人間が全体として宇宙に包含されていることを示すと共に、宇宙に対する尊敬と崇拝の念を、人間の中に呼び起こすことが重要であるという。世界の中のいかなる対象にも、いかなる事象にも、人間の心と魂から出る無私なる奉仕の精神が向けられるべきであるという。その無私の奉仕に対しては知識や理解という報償が与えられるという。 全ての存在である宇宙と関わりを持ち、結晶-鉱物世界の顕現として個々の結晶が出現するのを見るとき、満足感に満たされるという。しかし、以前に書いた、恐怖と不安の状態がたちまち戻ってくるという。神的に秩序づけられた結晶の世界を見いだす以前、恐れに満たされるという。神的ないわゆる霊感を受けた世界に気づくとき、この不安の感情は消え去るが、しばらくすると不思議な胸騒ぎが、秘儀参入者を捉え、恐怖が、つまり、結晶の形成過程全体が実体のないもので、ただ部分的な支柱を提供するに過ぎない、という感情が戻ってくるという。 二種類の結晶、食塩と金属の結晶である黄鉄鉱を例として取り上げると、黄鉄鉱は、しっかりとした支柱を提供することができ、堅固で耐久性がある、という印象を与えるが、一方、食塩の結晶はいかなる支柱にもならないように見えるという。食塩の結晶は実体がなく、秘儀参入者は、それを突き抜けて落下してしまうかのように感じるという。 なので、ある種の形態に関しては、一度秘儀参入者を捉えた恐怖、つまり、地球が無になり、深淵の上に吊り下げられているという恐怖は最終的には克服されてなかったことがわかるという。この恐怖の感情ははっきりと道徳的なものを示唆しているという。この恐怖が戻ってくるとき、過去に犯した全ての罪だけでなく、これから犯す可能性のある罪にも気づかされることになるという。 恐怖全ては秘儀参入者を引きずり下ろす鉛の重りとして働き、鉱物の結晶が今にも飲み込もうとして広げる深淵の穴のような中へと投げ込む恐れを有するものだという。秘儀参入者は、この時点で、更なる経験に備えて準備する必要があるという。人生の経験の総和は、勇気を持つことを要求するものであることが分かるという。もし、このとき、勇気から確信をもって、宣言するならば、私はしっかりとつなぎ止められている、私は自分が繋留されているところから漂流したりしない、私という存在の重心は私自身の中にいまあるのだ、と言うことができるという。 人生全体を通して、結晶の世界に直面し、利己主義といういわば鉛のような重りが(そして、利己主義とは常に道徳的な罪であるという)魂の上にのしかかる瞬間ほど、自信や道徳的な勇気が必要とされるときはないという。 このとき、秘儀参入者が吊り下げられている透明な無の空間が、恐ろしい警告を発するという。もし、秘儀参入者がしっかりと立ち、自信を保っているならば、次のように言うことができるという。私の中には神の火がある、私は消えたりしない、何故なら、私は神的な本質に与(あずか)っているのだから、と。 もし、この勇気が単なる理論的な確信ではなく、具体的な体験ならば、秘儀参入者は自足し、自分自身の足で立つ勇気を持つことになるという。そのとき、秘儀参入者は決意し、更に先へと進むための準備を整えたことになるという。 さて、鉱物界に関しては、更に学ぶことがあるという。これまで鉱物の結晶に関する話をまとめてきて、既に外的な形態について議論したが、その組成や構造、その実質や金属性に関して知識を得ると共に、ある種の基本的な金属がいかに様々の方法で、安定化要素として働くかを見出すという。 このとき、初めて、人間がいかに宇宙と関連しているかを理解し始めるという。様々な金属の特徴、鉱物存在の実質に関して学び、そして、先に触れた人間の中にある重心を本当に感じ始めるという。 これから記述することに関して、鉱物(物質)界を記述する用語をどうしても使わざるを得なく、言葉の上だけで受け取ると、誤解に陥るという。心臓や頭に関して語るなら、現代の常識的な見方では、物理的な心臓や頭が、いわば魔法のように現れるが、勿論、それらの起源は精神的なものであるという。 なので、人間を全体性において、つまり、体と魂と精神から構成されている実体として見るとき、重心は心臓にあるという、はっきりとした印象が得られるという。この中心は、人間を極端に走ることから守り、外的な状況によって翻弄されることを防ぐと共に、安定性を付与するという。もし、先ほど触れた勇敢な精神を保つならば、結局、自分がしっかりと宇宙に繋ぎ止められているのを見出すことになるという。 意識を喪失している人はそのようにしっかりとはつなぎ止められないという。もし、魂にショックを受けた状態(というのも、そのような条件下では、普通よりも痛みを感じやすくなっており、結局、痛みとは内的な感情が増幅されたものであるという)であれば、普通の意識状態にはないという。痛みのある状態では、通常の意識は排除されるという。 人は生まれてから死ぬまでの間、いわば一種の中和的(無意識と過剰意識の間)な意識状態の下で生き、これは日常生活における通常の目的にとっては都合のよいことだという。ところが、この意識があまりにも弱く、あまりに希薄なものになれば、人間は気を失うという。もし、この意識があまり濃厚に濃縮されるならば、結果として痛みが生じるという。 気絶状態で意識を失うこと、そして、痛みの影響で緊張状態にあること、これらは正常からはずれた意識状態における両極端を示しているという。これらは、正に、鉱物的な結晶の世界の実質が意識できるようになる以前の鉱物の世界に対する人間の反応、つまり、一方では、気絶状態において、自分が絶えず宇宙の中に解消されてしまうかのような感情、他方では、痛みの影響下で、自分が崩壊してしまうかのような感情を示しているという。 我々人間の昼の通常の覚醒意識(気絶状態で意識を失うこと、痛みの影響で緊張状態にあること) このとき、安定性を付与するあらゆるものが心臓の領域に集中していると感じられるという。そして、もし、既に示されたレベルにまで自分の意識を発達させているならば、通常の目覚めの意識を支えているのは、幾らか粗雑な表現になるが、目覚めの意識を「当たり前な」ものにしているのは、地球上に細かく分散し、他のどの器官に対してよりも、特に心臓に対して直接的に働きかける金、金元素である、ということが分かるという。
2007年01月24日
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なんでも、あるある大辞典という番組で、捏造があったらしい。所詮、TVなのに、なぜそれほど、むきになるのかが、私には理解できないところである。TVのいうことを、真に受ける方がどうかしていると思うからである。 関西テレビを訴えた、テレ朝の報道番組でもかつてヤラセがあり、NHKでもヤラセがあるし、何も今回が初めてではないだろう。ヤラセは謝れば終わりで、人々が忘れてしまえば、今度は他を告発でもして誤魔化すのだろうか? それでは、悪徳政治家とまるっきり同じである。 しかし、TVは共通の話題になることが多いので、結構、TVのいうことを真に受けている人が多いから、「TVがこういっているよ」っと、ワザとらしくいうことで、その発言を利用することはある。わかりやすく、人を洗脳しやすいからでもある。 TVは人類が悪徳を学ぶための一種の必要悪といえるだろう。 大体、TVに出ようなどという目立とう精神からして、ガゼネタの匂いがする。なぜなら、真実や真相は、表に出ないからこそ、価値があるのである。そもそも、100%真実というものは、この世には存在しない。100%真実と言い張ることこそ、真っ先に疑わしいものなのである。 これは、科学雑誌の場合はインパクトファクター(一種の索引件数)なるものになり、大学入試のいわば偏差値のような一種の架空の基準である。多種多様のものを、一緒くたに、点数評価する概念こそが、競争の原理に他ならない。遡ると、ダーウィンの進化論、人はサルから進化した説につながるのである。 これらは、誰かが陰で、その評価基準を下に、人を物質化して、自己の立場を優越視することに利用している手口なのである。他を欺き、他の不幸の下に、自らの幸福を追求している悪魔の仕業といえるだろう。 これらは「儲け話があるから、ちょっと乗らないか?」の勧誘の手口そのものである。振込み詐欺が巧妙化しているだけである。この基準によると、君は努力する必要があるといって、他を落としめるのである。ただ、ただ他の不安や恐怖を煽るやり方である。 そんなにむしのよい儲け話なら、他人に言わず、黙ってコッソリとやるのが、人間の性であろう。 報道というが、報道が大衆を煽り、世論を左右し、何千人を地獄に送り込んできたか? 戦中の扇動報道の反省もないままに、前政権でも、無能な総理大臣を生み出した責任をもいまだ反省していないのである。一度問うてみるがいい。知る権利といいながら、被害者の神経を逆なでにし、何人もの人達を自殺に追い込んできたか?、考えてみるがいい。 報道が使命というのならば、せめて一般サラリーマンよりは安い賃金で、なかばボランティアでやってみたらよいと思う。現実はさにあらず、一般サラリーマンの平均賃金の何倍もの給料を貰って、偉そうなことを言っているだけなのである。 イラク戦争だって、煽っておきながら、戦場に派遣した報道機関は皆無で、現地の記者を雇って、お茶を濁す始末なのである。報道のうたい文句は何処吹く風といったところだろう。 なにしろ、一方で、フィクションのドラマをやり、他方で、科学的な実証番組をやろうなどとは、人間で考えれば、どういう神経か、所詮、精神分裂病さながらの変節ぶりというべきものだろう。 TVなどを信じる大衆がどうかしているとしかいいようがないのだが、残念ながら、日本国民はどんどんTVに流されている現状である。 広告業界に資金を提出して貰った点で、制限が加わり、自由な表現なぞできるわけがなかろう。真実というのは、多くの人間に残酷さ、過酷さを与える性質をもつものだからである。 報道は、道を報ずるという字のようだが、その道すらわかっていないのである。 道とは、先入観に囚われない、独自の判断を築く助けになる情報である。モラルの確立である。 人間いかに生きるかということを自覚させるものである。 少なくとも商品を売ったり、流行を追っかけたりするものではない。 それでは、単なる新興宗教と同じである。 いま、私には、TVは、真実の報道という似非の名の下に、新興宗教を行っているとしか思えないのである。 だから、TVのいうことなぞ、お笑い番組のように真に受けてはならないのである。こんな人やこんな出来事も世の中には存在するのだという特異事例の教訓にすべきものだろう。 真に正しきものは、自ら人生を真面目によく生きることで、得られるものである。他に頼る気持ちこそ疑ってかかるべきものである。騙される側にも、一瞬の下心の隙があることを見逃してはならない。マスコミなど、騙されて訴えても無駄な苦労である。マスコミとは、生まれてこの方、ろくでもないことしか行ってこなかったからである。
2007年01月22日
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以前まとめたのは、精神的な訓練と瞑想を通して高レベルの意識を発達させるときの人間の魂の経験に関するアイデアだった。同時に、現代人の通常の意識によく見られる不調和で混乱した夢の経験を、覚醒した生活における完全に意識的で具体的な経験へと変化させることが可能であるということだった。混沌とした夢を、覚醒時の具体的で意識的な夢に変化させることで、通常の意識にある程度連なる夢の意識レベルを達成することが可能になるという。 現代人は、昼の覚醒意識が強いため、夜の睡眠の夢意識を、明確に意識できないが、本来、人間のなかにある精神世界から、外界の感覚に頼らない訓練や、瞑想とにより、身体から肉体を抜け出させ、夜の夢の精神的明確さを、覚醒意識にまで継続可能にし、昼の覚醒意識においても、エーテル体が発するオーラを感じとれるようになるという。 そのとき、例えば、高次の魂世界、いわゆるアストラル平面と関わりを持つ動物界を全体性において知覚することになるという。 次にまとめたのは、現代人の通常の感覚印象を脱ぎ捨てた十全なる覚醒意識、つまり、この第二段階の意識レベルにおいて、星の精神世界に到達し、地球を覆う植物の真実を、そこで初めて知るようになるとき、いかに植物界がその全体性の中で顕現するか、ということだった。 そのとき、地球から生え出ているように見える植物とは、星の世界の中から、植物の上に、露のように輝き出す壮大さと偉大さを映す反射像としてのイメージである、ということに気づくという。実際、天空とそこにあるもの全ては、通常の感覚印象を脱ぎ捨て、高次の意識をもって理解するとき、実質性、現実性、形態、色、そして音さえをも担うようになるという。そのとき、地球を振り返り、植物界が実際には宇宙存在のイメージ、宇宙的な行為を映すイメージである、ということを知覚するという。 一方では星の世界を、他方では植物界を観察するときに出会う特別な現象に注意を払い、これらの事柄を、全くの内的な経験から、正確にそれらが起こるように、直接的かつ精神的な経験や探求によって明らかになるとおりに記述すると、このような話を裏付けるいかなる文献他の伝統も存在しないという。しかし、この方法で精神を探求する人であれば誰でも知っているような特別な現象について、最初に指摘する。 次のような像を思い描く。上方に星の世界が、下方には地球があり、探求を開始する地点を観察地点と呼ぶ。第二段階の意識、つまり、星の世界と植物界を見る意識に達しているならば、宇宙には植物の原型が存在し、その原型が、鏡に写る鏡像ではなく、生命をもった植物の形で地球に映し出されていることを確かめることができるという。 植物は生命のない非現実的で漠としたイメージとして現れるのではなく、地球によって創造された具体的な反射像として現れる。宇宙にある植物存在が地球という鏡から萌え出ることができるためには、地球はいわば植物の生命の鏡というべき働きをもっていなければならないと感じられるだろう。 固い地球がなければ植物も存在し得ないだろう。そして、丁度、鏡が光を遮る遮蔽物として働く(もし遮蔽物でなければ、鏡は何も反射しないだろう)ように、植物が存在するためには、地球は生命の反射媒体として働かなければならないだろう。 地球が生命の反射媒体であることを更に追求していくならば、この第二段階の意識、すなわち感覚印象から独立した覚醒意識を発達させた後、魂の内部の強さ、つまり、全ての被造物、全ての生命に対する愛の精神を発達させることに向けて、第一歩を踏み出すことができるという。この新しい力の獲得が、真実への認識に向かう確かな力であると認められることは滅多にないという。 もし、この窮めて別様に構成されている領域、宇宙がもはや星々で輝いているようには見えず、精神的な存在たちが住む場所になっているような領域に参入した後、この愛の力が、我々の心と魂を満たすならば、もし、いわば宇宙の精神的な大海に乗り出した後、自分の精神的な、魂的な、そして肉体的な自己同一化を保持し、そして、無限の愛と献身の力を、全存在に拡張することができるならば、我々の洞察力と理解力を段階を追って完成に導くことになるという。そのとき、動物界や植物界だけでなく、鉱物界、特に結晶構造をもつ鉱物を超感覚的に知覚する能力をも発達させるという。というのも、鉱物結晶は、高次の世界を探求することを望む人々にとって、素晴らしい観察及び研究分野を提供するからだという。 動物界と植物界に充分に精通したとき、鉱物-結晶世界を探求できる立場に立つという。そのとき、動物界、植物界の理解と同じように、我々の注意を地上の鉱物界から宇宙についての思索に向けるように促されるのを感じるという。そして、そこで再び、生命の現実、植物界の原型に近いものを見いだすが、鉱物界に示される像は、全体として、植物界とは異なっているという。 このとき、宇宙の生命ある現実、つまり、地上で見られる鉱物-結晶世界は宇宙の中で働く精神的な原則が創造したものである、ということを知るようになるという。精神的な原則は、段階を追って地球に下降してくるのだが、地球上、或いは地球によって反射されるのではないという点が、植物界との決定的な相違点であるという。 このときの意識を、鉱物-結晶世界に関する思索から宇宙へと上昇させ、再び地球を振り返るとき、地球は鏡として働くのではなく、いわゆる、地球が我々の視界から消え去っている、という印象を持つという。植物の場合のように、我々の下方にある地球が高次の存在たちを反射している、とはみえないという。地球は反射媒体として働いているのではなく、消滅しているように見えるという。 この意識にある我々が鉱物-結晶世界によって喚起される精神的な光景について瞑想するとき、つまり、我々の精神的な眼差し(心眼)を宇宙空間から地球に向けるとき、恐ろしい深淵の上に、無の上に吊されているように見えるという。我々は忍耐強く待つ姿勢を保持すると共に、自分をしっかりと支え、そこに心が座っているようにしなければならないという。 もし、待つ時間が余りにも長引くなら、我々の恐れは増幅され、恐怖に駆られるようになるという。我々の足下に地面はないという。だから、もし、我々が自制心を、つまり、鉱物-結晶世界の深淵の彼方を見ることに向けて、能動的な歩みを進めることを可能にする心のあり方を維持していなかったならば、全く見知らぬ感情によってパニック状態に陥ってしまうという。 我々の精神的な視界(心眼)にとっては、存在しない地球を超えて、彼方を見なければならない、というのはこのためだという。そのとき、我々は、宇宙に関連した鉱物世界の側面ばかりではなく、環境全体に対する関係についても塾考するように強いられるという。鉱物-結晶世界をみる高度な精神意識では、地球は存在をやめるという。そして、鉱物世界とは1つの全体として見るべきものになるという。
2007年01月22日
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連日、不二家騒動が巷を賑わせているが、我々の世代では、不二家は不味いの定番だった気がする。我々の上の世代は、不二家が、いわば長島茂雄と同じように伝説化してしまっているのかもしれないが、団塊世代の真下辺り(年齢がバレるが)の我々の世代では、不二家がなくなっても、何の未練もないといってよいだろう。 ペコちゃんよりもドラえもんの世代だからである。 要するに、不二家はNHK紅白歌合戦と同じような国民洗脳定番路線に乗っかって、自民党と同じように、真剣な努力なくただ大きくなってしまった企業なのであろう。戦後の日本は、質を求める余裕もなく、それほど、貧しかったといえるのであろう。 そのような貧しい時代において、GHQの3S日本国民洗脳政策は、非常に巧くいったといえるだろう。実際に日本は、米国の資本植民地といえるからであろう。 3S(スポーツ、セックス、スクリーン)が連日連夜、ヤラセ広告マスコミにより報道され、明治維新以来、堕落し続けた政治は、もはや不二家でも売れない代物といえるだろう。 衣食住足りで礼節を知るとは、戦後の日本を象徴している格言だといえる。 恐らく団塊の世代あたりから、戦後日本の貧しさが解消されていったのであろう。団塊の世代の親たちが、丁度、戦争がなくなり、家庭(子供つくり)を築くようになれた世代だからである。 恐らく、不二家の不祥事は、戦後の日本では、質よりとにかく量というような悲惨な時代では、問題にならなかったのだろう。賞味期限等の非衛生を問うような知性や情報すらなかったからである。一部の既得権益者だけが、知っていたのだろう。だから同族経営が長く続いてきたのだろう。 だからといって、このような人達が、無罪かといえば、さにあらず、それだけ罪深きものとなるだろう。無知をいいことに他を欺くことを正当化することはできないからである。 無知はどのような時代でも悪である。だから、無知の知が必要なのである。 このような企業が、巨大企業であるのは、資本主義という、いわば巨大マシンが背後で蠢いている証に他ならない。食品添加物、調味料は、一種の巨大マシンの油である。 我々はその巨大マシンに油を与えられ生きている歯車であるだろう。我々は本当に、人間なのだろうか? 巨大マシンの単なる歯車やネジといっていいのではないだろうか? その巨大資本国家では、人々は戦場に送られ、その犠牲の下に生活を築く、巨大資本家たち。悪魔の総本山であろう。 地球は自然破壊が進み、もはや後戻りすらできない。地球はいま形質転換を起こしつつある。 かつてアトランテイス大陸が、徐々に次第に、沈んでいったように。 何が安全かを真剣に考えるべきときにきている。 いま、表面的には科学でいう温室効果という名の下に、大陸が沈んでいっているのである。 問題は、温室効果というような表面的な言葉で済まされないほど、事態は深刻なのである。事態があまりにも深刻なので、人類にはもはや非常なショックを与えんがために、温室効果という名が考えだされただけである。 論理は、常に後手であり、科学はいつも、真実を歪めてきた。人間は真実を知るのが怖いからである。 もし、あなたが食べたシュクリームが、不二家のものであったとしても、あなたは開き直って言うだろう。「だから、どうしたの? 食べてしまったものは仕方がないだろう。それより、そういうことをいうのは気分が悪いからやめろ」と相手を非難するだろう。 このような無知な人間である限り、真実は常に歪められていくのである。 不二家という現代では、考えられない企業が、不二家を氷山の一角として、いま現に存在しているからである。 彼らは言うだろう。「食べて、良かったと思うならそれでいいんだよ!」と。 それは、「政治に文句を言うな! 選んだのはあなたたちなのだから!!」と、同じである。 しかし、地球や社会の未来を築くために企業や政治はあるのである。地球や社会のためなら、生体における癌細胞が増殖するのを阻止するように、これらの企業や政治は、絶対に改善されなければならないといえるだろう。
2007年01月21日
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人間は、好き嫌いや価値判断を、他者に求め、共感、或いは反感することができるが、動物は、そのようなものはないという。端的にいえば、人間は、人間同士で教育し合えるが、動物は他を教育しようとも思わないのである。 ところが、このお互いに対立する自我の領域に接して別の領域が存在しているという。精神世界では、ライオンの魂たちは全く同様なことを行っていて、ライオンにとって個々のライオンは糸の先についた多くの踊るボールにすぎないという。そのため、秘儀参入の第一段階に達した人たちが、新しく獲得した意識を持って動物界の真の本性を見ると、ちょっとしたショックを受けることになるという。 新たな世界に参入すると、次のように感じるという。我々もまた本来この別の世界に属しているが、我々は、これ(自我)を地上に引きずりおろしている、と。動物は自身の中の司令塔のようなものを、いわゆる集合魂、或いは種の魂をこの別の世界に残してきているという。 地上で見ることができるのは四つ足の動物だけで、動物が精神世界に残してきたものを地上に引きずりおろし、その結果、動物とは異なる形態を、我々人間は獲得しているという。我々の中に生きているものもまたこのような高次の世界に属しているのだが、人間存在の我々は、この自我を地上に引きずりおろしているという。 第一段階の秘儀参入者は、このようにして、別世界を知るようになるが、それは動物たちを媒介として知ることになるという。けれども、それには更なる意識形態が必要になるという。つまり、夢の意識を目覚めの生活へともたらす必要が生じるという。このことによって、動物界の内的な成り立ちに対する洞察を獲得することができるという。 この第二の世界は魂の世界、あるいは物理的な世界と区別するために魂界またはアストラル界と名づけられるという。我々は別の意識形態を通して、このアストラル界を知るようになるという。このように日常的に存在する世界とは異なる世界への洞察を、別の意識を通して獲得する必要があるという。 魂の生活をもっと更に強化し、活性化することも可能で、集中や瞑想を行うだけでなく、強化された魂の内容を再び排除するように努力することも可能であるという。魂の生活を強化し、思考と感情を強めるという最も骨の折れる努力の末に、それを再び変化させ、最終的に無に帰すことができる地点にまで至れるという。そのとき、我々は「空になった意識」の状態と呼ばれる状態に帰着するという。 さて、普通、「空になった意識」の状態は眠りを誘起するという。このことは次の実験で確かめられるという。まず、被験者から全ての視覚的な印象を取り除き、闇の中に置き。次に、全ての聴覚的な印象を取り除き、沈黙に包まれるようにする。そして、他の全ての感覚印象を奪うように努めると、被験者は徐々に眠りに落ちてしまうという。 このようなことは、もし、あらかじめ我々の思考や感情を強化していれば、起こり得ないことであるという。我々の意識を意志の働きによって空にしたとすれば、このような場合でも起きたままでいることが可能であるという。そのとき、その人のなかでは、現象世界はもはや存在せず。我々の通常の思考や記憶は忘れ去られるという。 この空になった意識をもつ人間の中には真の精神世界が直ちに侵入してくるという。丁度、通常の意識が感覚世界の色や音、熱で満たされるように、精神世界がこの空になった意識を満たすという。人間は、意識を意識的に空にするときにだけ、精神世界に取り巻かれるという。 ここで、新しい意識とその精神世界との関係を特別に理解するために役立つものが外的な自然の中にあるという。丁度、動物界を普通とは異なる方法で知覚することによって通常の意識よりも一段高い意識に気づいたように、それとは全く異なった方法で構成されている植物界の中で、この新しいレベルの意識を認識することができるという。 通常の意識では植物界はいかに見えるかというと、緑々とした牧場の至る所に鉱物的な地球の中から花々が咲き出ているのが見える。青色や金色、赤や白の花々、そして活力ある緑の中に、目の前に絨毯のように広がる植物界の美しさの中に喜びを感じるだろう。地球が花と植物に彩られたこの光り輝く衣に包まれるのを見て、我々は心を躍らせ、喜びに満たされるのが一般的だろう。 そして、目を上方に向けると、眩しく輝く太陽、透き通った昼間の空や曇った空があるだろう。この天と地球の間に、花々に彩られた野原を見下ろし、そして空を見上げることとの間に何らかの関係がある、ということに人々は気づいていないという。 昼間、目の前に広がるこの花のカーペットを見て強烈な喜びを感じた後、夏の一日が終わって夜の帳が下りるのを待つと仮定するならば、目を天蓋に向け、星々が空いっぱいに広がる様々の輝く星座として配列されているのを見るだろう。そして今、新しい歓喜が上方から魂を捕らえるだろう。 昼間、地上を覆う植物を、心を内的な喜びと歓喜で満たすものとして見下ろすことができ、そして夜空を見上げれば、昼間にはあれほど青く見えた空に今や光り輝く星々が散りばめられているのが見られるだろう。我々は、魂に現れる美しい空を見て内的な喜びを感じるが、これが通常の意識による反応といえるだろう。 もし、意識を空にしたまま、目覚めた意識にとどまり、精神に浸透された意識を完成させたならば、昼間植物に覆われた地球を探求し、夜には煌く星々を見上げるとき、次のように感じることが可能になるという。 確かに、昼間、花々が散りばめられた地球の豊かな彩りが我々を喜ばせ、魅惑したが、本当のところ、人間は何を見ているのだろうかと問うならば、無数の天の星々を見上げると、空になった覚醒意識、つまり全ての地球的な外見的内容を除去された意識には、星々は、輝いたり煌いたりするだけのものでなく、実に様々の形態をとるものとして顕れるという。 何故なら、あの高次の領域には、素晴らしい真髄の世界、すなわち壮大で力強く崇高な動きと流れが至る所に存在しているからだという。このような光景を前にして、感謝に満ちた尊敬と、尊敬に満ちた感謝の中で頭をたれ、その崇高さを認識するという。秘儀参入に至る中間段階にさしかかると、このような認識に至るという。 そして、植物の起源が高次の領域に横たわっていることを知るようになるという。以前では、個々の星々の閃きと輝き以上のものではないと考えていたものが、真の植物存在であり、この段階に達した人は初めて見るのだが、例えば、今までは、すみれそのものではなく、ただ朝露の中にあるすみれの花の上の一滴の露を見ていたかのように感じるという。 我々現代人は、一般的に1つの星の中に1つの輝く露を見るが、実際には、動き、流れる力強い世界がその背後に横たわっているという。秘儀参入の中間段階に達した人は、植物界とは本当は何なのかを知るという。そのとき、植物界の真の姿は地上にはなく、壮大で力強く、崇高な大宇宙の中に見出されるという。そして、昼間、彩り豊かな花のカーペットの中に見ていたものは、高次の世界が反射したイメージであることに気がつくという。 秘儀参入の中間段階に達すると、真の形態や存在たちが動き、流れる大宇宙が地球の表面に反射していることを知るようになるという。鏡を覗き込むとき、自分がそこに映し出されているのを見るが、鏡に反射しているのはただ、我々の外的な形態(外見)であり、魂ではないことを知るだろう。天は地球にそれほどはっきりと反射されるのではなく、黄色、緑、青、赤や白の植物の色として映し出されるという。植物は、いわば、天が地に反射された像、影のように微かな天の反映であるという。 これは、多次元宇宙空間を想定した超弦理論でいうと、バルクと呼ぶエネルギーの源が、天を意味しているように思われる。 中間段階に達し、1つの新しい世界を知ると、その高次の世界には「植物人間」、すなわち自意識を付与された存在が見いだされるという。なので、現象世界とアストラル界の他に、第三の世界、真の精神世界を発見することができるという。星々はこの宇宙的世界の雫であり、植物は雫が反射したイメージであるという。 その外見は、鏡の中の反射像が現実を表現していないように、現実ではないという。すなわち、植物は、地球上におけるその外見的な表現であり、実体ではなく、1つ1つの星々が雫のように輝き出している超越的な世界の無限に多様な豊かさとの関係で言えば、その反射像に過ぎないという。 そして、この中間段階の人間は、高次の領域にある真の植物存在と同じものを自分の内に担っていることに気づくという。植物が精神世界に残してきたもの、というのも、真の植物存在は、精神世界に滞在し、地球に送り込むイメージが、地球により地球実質(固体)で満たされるに過ぎず、そのイメージを鏡像生命として投影しているだけであるという。 人間の魂の本性は、高次の世界に属し、植物界でいう反射像の世界に持ち込むが、人間の魂は、像であるだけでなく、地球上においては、実際、魂を持った精神的な存在でもあるという。なので、人間は地球上において三つの世界に参画しているという。 人間は物理的世界に住んでいるが、自意識を持った動物はこの世界にはなく、同時に人間も住んでいるアストラル界に、動物たちの自意識は存在しているという。人間は、このアストラル界を物理世界の中に引き下ろしているという。そしてまた第三の世界、真の植物存在が住む精神世界にも人間は住んでいるのだが、植物存在が反射像だけを地球に送り込んでいるのに対して、人間は、魂的生活の現実を地上の世界に引き下ろしているといえるという。 なので、ここ地球上において、肉体と魂と精神を有している存在とは人間という存在であるといえるという。ここ地球上において、肉体と魂を持ってはいても、その精神(自意識)は物理世界に境を接する第二の世界にあるため、現実(真実)性のない存在とは動物であるといえるという。物理世界には肉体だけを有している存在、魂は第二の世界に、精神は第三の世界にあるために、地球の実質に満たされた反射像の肉体を持つ存在とは植物である、といえるという。 秘儀参入の初歩段階;アストラル界にある動物の自我(自意識)を知る 秘儀参入の中間段階;精神世界にある植物の自我(自意識)を知る 秘儀参入の中間段階に至ると、自然における三つの世界を理解し、人間が自らのなかに、これら三つの世界をもつことを知るという。植物が星々に至ることを、ある程度感じられるという。植物を見るとき、ここ地球上には、植物の反射像、真の現実性から引き離された像のみを表している存在がいる、と感じるという。 夜、星々に眼差しを向ければ向けるほど、植物の高次の世界の中にある真の存在を益々感じるようになるという。地球から天を仰ぎ、宇宙が地球と1つであることを知覚するとき、自然の世界を1つの全体として見ることになる。 そして、人間としての自分を振り返って、我々は、植物においては、天に至るあの要素(自意識)を、地球的な存在性の中へと取り出した。そして、我々自身の中に、物理世界、アストラル界、そして精神世界を担っているのだ、といえるという。 客観的ではっきりとした知覚を発達させること、様々の領域を通過しながら精神の世界に至るまで自然を追求すること、人間に対する洞察を、精神的な本質に至るまで獲得すること、これらが精神的な探求において踏み出すべき最初の一歩であるという。
2007年01月21日
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昔、誰にでも撮れるカメラのことを、馬鹿ちょんカメラと呼んだ時期があった。この言葉は差別用語を思わせてよろしくないが、要は、誰にでも撮れるようなカメラは、絵画に匹敵する画像表現という写真芸術性において、低評価を免れないという意味なのだろう。そして、カメラという機器は、使い手のカメラマンに芸術創造器として、相応の技術を要求していたのである。 デジタル化の波が押し寄せ、もはや、いまでは、誰もがそれなりの写真を撮ることができ、加工技術の発展により、容易にパソコンで処理してしまえるので、ある意味、撮影する場の空気というか、その場の現実性、事実性の芸術的表現性が、空白になってきているともいえる。 写真といういわば真実の表現媒体においては、撮影者の撮影時の心の中身の一種の記録が問題なのであり、写真はその記録の手掛かりであると思われるからである。 この感覚が失われ、その場にいって撮影しなくても、現実のような絵画で代替できるようになってしまったといえる。これはある意味、日本人の写真に対する真実への感受性が鈍感になってきているように思える。 あまりにも表現が技巧的になったため、抽象的な表現法で、人工的ないわば嘘で塗り固め、現実性と真実性に次第に希薄になりつつあるといえる。 さていま、この国の総理大臣は、美しい国というスナップ写真を、さも、デジタル化された馬鹿ちょんカメラで撮影しようとしているのである。美しい国という抽象的で、人工的な、嘘の塊、虚構の国をつくろうとしているのである。その国に誰が住みたいと思うのであろうか? まるで御伽噺の裸の王様の国みたいだ! このような幼稚な人格者が、国の中枢にいるのは、日本がかなり危険な状態になっていることを現しているように思えてならない。美しい国が欲しいから、国民にねだっているような幼児の心理と何処が異なるのだろうか?総理大臣という要職を、演劇やドラマの舞台の一種のパフォーマンスの場だと勘違いしている傾向が見られるのである。このような劇場といわれる政治になったのは前総理の責任といえるだろう。 前の総理大臣は、全くのエゴイストで、まるで、自分の言葉に酔いしれるような、狂気じみた面をもっていた。ワンフレーズで、大衆を煽り熱狂させ、気がついてみると、その言葉とは裏腹に、何も解決せずに、かえって事態が収拾つかなくなり、一種の扇動家のような感じを与えた。 日本がいまやるべきことは、なにより国民の生活の安定化であり、雇用と社会信頼の回復であるだろう。これまで安全な日本の治安が著しく悪化してきているのである。高所得者の税金を低所得者への社会福祉にあてるのがなにより社会安定化の基本に思われる。日本の歴史をみれば、これが通常の政策理念であることがわかる。そして、やはり、長い歴史からみれば、ある程度の鎖国政策は、国家の防衛路線として重要なのである。 明治維新の開国政策は、当時の外国の植民地政策より、富国強兵への一時的な路線転換であり、一種の対処法である。対外的に侵略されそうだったので、国内への自衛の手段だったのであるが、大正になり、その後も継続してしまった点に、反省点があり、日本国民の島国根性の熱情性、冷静を失ったところに落ち度がある。 いまでも、国際情勢をみれば、北方領土や、尖閣諸島等、特に北朝鮮に対する侵略の不安は拭えないが、軍事というよりは、経済、生活面の侵略という意味において、時代は変化しているのである。北朝鮮やロシアの南下に対しては、中国、モンゴル、韓国と経済的強固な同盟を築き、北九州や、日本海沿岸、北方領土周辺とに自衛隊の防衛力を増強するのが得策だろう。日本の風土を考えると、軍隊というよりも、警備隊を拡充するのがよいと思われる。 海産物の経済圏防衛警備隊を創設すべきである。北朝鮮拉致問題は、勿論、北朝鮮という異質な国家の問題もあるが、北朝鮮拉致船を上陸させた、日本の沿岸海上警備の手薄さや粗末にも問題があるといえ、現にいまでも、潜水艦に、容易に侵入されているのだから、憲法改正のような寝言をいう前に、沿岸警備を充実させた方が現実的であろう。国家の防衛が未整備なのに、米国が手前勝手にやらかす戦争にノコノコ出ていく阿呆な火事場見物はやめて欲しいものである。 日米同盟は、歴史的にみても、北方領土返還がなければ、成り立たない同盟だろう。ロシアが北方領土を返還しないのは、そこに米軍基地を置かれると致命的だからであろう。いっそのこと、北方領土は、かつての長崎の出島のような形にしてしまった方がいいのかもしれない。 さてさて、軍事戦略は、馬鹿ちょん大統領の米国の大失敗により明らかになっただろう。しかしいまだに経済回復がどうのこうのと表面的な利点を持ち上げているが、同胞の米国民を戦地に赴かせ、多量な戦死者を出し、他者の不幸の上に、いかに幸せを築こうが、日本の昔の飢饉のときの、家計負担への食い減らしと同じで、まるで根本的な解決法とはいえない代物なのである。出稼ぎ労働者は、それでも、賃金を持ち帰ってくるが、死んでしまっては、労働力が減るばかりで、親のコネばかりで出世した馬鹿ちょん放蕩息子が大手を振って、無責任な遊び人だけが増えるばかりであろう。 大体がリストラ政策こそ、展望の無い一時しのぎの場当たり的対応なのである。日本の飢饉のときの食い扶持減らしと同じ思想なのである。馬鹿ちょん経営者は、まず減らすことを考えるから、展望が開けないまま、結局、無理が祟り、行き詰るのである。日産のゴーンがいい例なのである。数十年前は持て囃され、引っ張り凧だったが、当時から、ダメ経営者だと私は見切っていた。大体が、文化の違いを考慮していない。郷に入れば郷に従えという諺を舐めていたのだろう。 人間の育成は、まずは苦手な部分を減らすのではなく、得意な部分を増やすのが基本であろう。経営とは、モノを算段するのではなく、人を育て生かすことであるようなことを、松下幸之助がいっているように、少なくとも、日本の文化はそのような歴史から成り立ってきたことを忘れているのである。 挙句の果ての、ホワイトカラーエグゼプトとかいう、またもや外国カブレのものを借りてきて、残業減らしに躍起になっている。これでは、苦手な部分に脚を引っ張られ、得意な部分もなくなっていくだろう。長所を裏返すと短所になることがわかっていないのである。短所を削れば、長所も失われるのである。だから長所を増やせば、短所は増えるが、そのときこそ、公正な判断が望まれるのであるが、はじめから全部カットでは、公正な判断が生まれる余地すらない。 大体が、ホワイトカラーという概念が日本にはない。日本の会社がカンパニーでないのと同じである。日本に最初のカンパニーをつくろうとした坂本竜馬が暗殺されたのをみてもわかるだろう。馬鹿ちょん総理が、馬鹿ちょん経営者の後押しで、座に着くから、厳しい説教ができないのである。精神の堕落の何者でもない。余計で過大な詐欺的広告や、迷惑メールばかりが蔓延し、日本社会の精神はいま高度な腐臭に富んでいる。
2007年01月21日
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夢には別の特徴があるという。周囲がヘビだらけで、体にもヘビが巻きついている夢を見ることがあるという。例えば、コカインの常習者はこのようなヘビについての夢の経験を誇張された形で持つかもしれないという。このような悪徳の犠牲者は起きているときでさえ、身体の至るところからヘビが這い出すのを感じるという。 我々自身の生活を観察するとき、そのような夢が何らかの身体の内的な障害を示しているのに気づくという。ヘビの夢は消化に関する何らかの障害を示しているという。腸の蠕動運動が、のたうつヘビとして夢の中で象徴的に示されるという。 また、散歩に出かけて、白い杭(上部が損傷した白い杭、或いは石柱が立っている場所に出る夢を見る場合、当人は夢の中でこの上部の損傷に不安を感じ、自分の歯が痛んでいるのに気づいて目覚めることがあるという。 無意識の内に、当人は歯の一本に指をやりたい衝動に駆られるという。(これは現代人についての話で、太古の時代には人間はそのようなことから超越していたという。)今日の標準的な人間は歯医者に行って悪い歯を詰めてもらおうと決心するだろう。 このようなことをいかに説明すればよいか?というと、有機的な障害を示す、痛む歯に関連した経験の全体は1つの像によって象徴化されるという。歯は何らかの損傷あるいは腐食の兆候を示す白い杭になったという。夢の像の中で、我々は有機体の中に実際に存在する何かに気づくという。 或いはまた、不安で落ち着かない気持ちで窒息しそうな部屋の中にいるような、生々しい夢を見ることがあり、そのようなとき、目覚めてみると、突然(今まで気づかなかったが)部屋の隅にあるストーブが非常に熱くなっているのが目に入るという。つまりは、夢は、部屋が暑くなりすぎていた象徴だったのだという。 そのとき、夢の中でなぜ息ができなかったのかを知るだろう。つまり部屋があまりにも暑かったわけであるという。我々は、動悸と速い脈拍で目覚めるのだが、夢の中で外的な形で象徴化されたのは異常な脈拍だったという。 我々は夢のなかで、何らかの有機的な障害に気づくのだが、昼間のように直接的な仕方で気づくのではなく、ある象徴的な像を通して気づくという。或いはまた、外から太陽が照りつけている夢を見る場合もあるという、そのとき日差しは邪魔をし、通常ならば日光を歓迎するはずなのに不安になるという。目が覚めて隣家が火事になっているのに気づいたりするという。外的な出来事はそのまま表現されるのではなく、象徴的な形態の衣をまといながら顕れるという。 このように我々は、自然かつ創造的なイマジネーションが夢の中で働いているのを、まるで外的な事象が夢の中に反映されている形で見るという。けれども、このようなことに拘る必要はなく、夢はいわば生命を獲得し、夢自身の内的な意味と本質的な現実性を帯びることができるという。 外的世界のいかなる事物にも関連づけることができないものを夢に見るかもしれないが、この点に段階を追って近づくとき、全く異なる世界が夢の中に示されていると考えられる。すなわち、悪魔的であったり、美しく妖精のようであったりする、日常の世界とは全く別のものに出会う場合は、夢の像の中に現れるのは現象世界だけではなく、全体として異なる世界が、夢の中に侵入していると考えられるという。なぜなら、人間は感覚によって知覚可能な形態において超感覚的な世界を夢に見ることができるので、その範囲を超えていると考えられるからだという。 今日、人間の意識は通常の覚醒した生活に並行して夢の生活をももっている。実際、夢への傾向こそが我々を詩人にするという。夢を見ることができない人々はあまりよい詩人とはいえないという。というのも、詩人或いは芸術家であるためには、夢における自然な素材を目覚めの生活における想像的なファンタジーへと翻訳できなければならないからだという。 例えば、外的な対象物から象徴的な表現を引き出すような夢、窓から部屋に差し込む日差しが隣家の火事を象徴化しているような夢を見る人であれば誰でも、次の日に創作活動をしたいような衝動に駆られるという。このような人は、潜在的な音楽家であるという。心臓の動悸を加熱したストーブとして経験する人は、次の日にモデルの描写や建築デザインに向かいたいような気にさせられるという。このような人は潜在的な建築家、彫刻家、或いは画家であるという。 これらの事柄はお互いに関連しているという。つまり、通常の意識においては、これらは上記のような仕方で関連しあっているという。けれども、更に先に進むことができると、シュタイナー著の「より高次の世界の認識」や「神秘学概論」に書いたような意識は、ある種の精神的な訓練に取りかかることで発達させることができるという。 つまり、ある明確な概念や言語上の関連に心を集中することによって、思考、感情、そして意志の内的な生活全体に新しい生命と活力を与えることができるという。これらの訓練を通して、思考は事実上、はっきりと見ることが可能な現実に、感情は生きた実体となるという。 現代における秘儀参入の第一段階は、我々がみる夢を目覚めの生活へと持ち込むことだという。しかし、この点で容易に誤解が生じ、昼間に自然にみるような夢、いわゆる白昼夢を考えるのではなく、このような夢はさして重要ではなく、感情や思考を他の人よりもより活力あるものにしたことによって、十全なる意識を保持したまま夢を見続けることが可能になった人は秘儀参入者になるための最初のステップを踏み出したといえるという。 この段階に到達した人には次のようなことが起こるという。いままでより変化に敏感になり、目覚めの生活においては他の真面目で感覚が鋭い人のように、仲間の人間に関して、一方では通常の意識に現れるように、鼻の形や目の色、髪がきちんとしているかどうか等々を見、他方では、周囲に何かいままでと別のもの、何か真実のものを夢のように見はじめるという。 つまり、このような人は周囲の人のオーラ、周囲の人の内的な関係についての意味を夢に見るようになるという。この段階に達した人は、いわば精神の目(心眼)を持って見るようになるという。彼は、十分に目覚めた意識において、意味のある夢、現実に合致した夢を見るようになるという。 朝目覚めるときにも彼の夢は終わることがなく、一日中続き、眠りの中で変化させられるとはいえ、意味に満ちているという。秘儀参入の第1段階に達した人は人間の魂の真の性質、行動の精神的な源泉を見るという。そうでなければ単なる夢の名残、或いは通常の夢に関連した活動の中に生きることになるのだが、それでもこれらの夢は精神的な現実として現れたものであるという。 秘儀参入者の第1段階に達した人は、目覚めの意識をもって夢を、見ることが出来るという。 さて次に、第二の意識が最初の意識につけ加えられるという。目覚めて見る夢は日常生活における通常の知覚よりも高次の知覚形態を取るようになるという。十分に目覚めた意識状態において、日常生活の現実に、より高次の現実が付け加えられたものとなるという。 通常の夢においては、何か現実的なものが失われ、つまり、ファンタジーに担われた現実の断片のみが与えられたものになるという。けれども、ここで述べているような目覚めた夢においては、個々の人間の形態、植物や動物等あらゆるものが明示されて、実際存在し、人間の行いは十全なる意味を持ったものとして見られるという。この全てが日常的な現実に何かをつけ加え、豊かなものにするという。 通常の意識による知覚に第二の意識がつけ加えられるという。人は異なった光の中で世界を見始めるのだが、それは動物の世界を見るときに最も衝撃的に示されるという。動物の存在は、あまりにも異なった姿として現れるため、実際、以前、我々は動物のなかに一体何を見ていたのだろう、と疑うほどだという。 この第二の意識が付け加わると、それまでは動物界の一部、その外的な側面だけを見ていたことに気がつくという。そこに1つの全体としての新しい世界がつけ加えられるという。それぞれの動物の種、ライオンや虎、そして、ありとあらゆる種の中には何か人間に近いものが横たわっているというが、これを人間との比較で示すのは困難だという。 例えば、自分の両手の指全部に一定の長さの紐を結びつけ、そのそれぞれのひもの端に様々の色の模様がつけられたボールを付けることによって、自分の体を延長することを想像してみる。自分という人間は今や10本の紐が結びつけられた体となり、ボールがあらゆる方向に動くように指を使ってひもを操作し、今度は足の指でも同じことを行い、同時に次は、空中に跳び上がったり、足の指を上手に使って素晴らしい形が生み出されることを想定すると、それぞれの指と足の指は先端についたカラーボールまで長くなると考えることができる。 このボールのついた身体全てが人間としての形態の一部であり、その全体が魂によるコントロールの下にあると想像する。各々のボールは別々の実体だが、この全てをいわば力学的機能として探求する瞬間、それが1つの全体を構成するものという印象を持つだろう。これらのボールや糸の全ては、実際は指や足の指と違って人間の身体の一部ではないが、その全てが単一の力学的全体を形成し、自分はそれをコントロールしていると考えることができる。 今述べたような方法でボールと糸を操りはじめるとき、例えば上方にあるライオンの魂とそれに結びつけられたボールのような個々のライオンが全体として1つの統一体を形成していると捉えることができるという。もし、以前は、20個のボールがあることだけを見ていたとすれば、それらは、それ自身にとって1つの世界を表していたが、今度はそこに活動の主体である人間を加えると、新しい状況が生まれるだろう。 このような知覚様式に関して類似が見出せ、個々のライオンがそれぞれ独立して動き回っているのを見、これらは、ある種、独立した単位としてそこにあるボールに類似できるという。次に、自意識を付与されたライオンの魂、すなわち精神世界においては人間に似たものに見えるライオンの魂と、一見したところ動き回るボールのように吊り下げられた個々のライオンを見ると、自意識を持ったライオンの魂はこれらの個々のライオンとして、いわば力学的に表現されているのに気がつくだろう。 このような方法で、動物世界におけるあらゆる生き物の高次の形態を知覚できるという。動物はその成り立ちの中に人間に近い何かを、いわゆる人間の魂とは異なる領域に属する魂的な性質をもっているという。我々は、人生において、どこに行くにしても自意識を有する魂の生活を断固として担っていて、自らのなかにある自我を誰かれなく押しつける自由があるが、個々のライオンにはそれがないという。
2007年01月19日
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今日、現代人は朝目覚めたとき、眠い目をこすりながら、「よく眠った」と言うが、古代カルディア人たちは二十一才、或いは二十二才になったとき、はじめて、自分は目覚めた、と感じたという。そのとき、彼らは世界をはっきりと見るようになり、「この瞬間(とき)までずっと眠っていた」と言ったという。 この現代人のような覚醒意識は五十才になるまで保持され、年老いても以前のボンヤリした状態に立ち戻ることはなく、より十全で明確な視界を発達させると信じられたという。そのため、二十才になった後に獲得した現代人のような覚醒意識を保持しながら、眠りの領域に入っても、高度に超感覚的な能力を有する老人たちが聖人として尊敬されたという。 古代カルディア人は、20歳を過ぎると、超感覚的な能力を持ちながら、現代人に類似した覚醒意識を併せ持ったので、聖人として尊敬されたという。なので、20歳までは、現代でいうオカルト知識を教えられ、20歳を過ぎてからは、現代知識に近い科学的基礎知識を教えられたという。 このように、古代カルディア人たちは三つの意識状態に通じていたという。我々現代人は二つの意識状態(昼の覚醒意識と夜の睡眠中の無感覚な意識)を経験するが、それに加えて、夢の状態として特徴づけられる三番目の状態(夜の浅い睡眠中の夢をみる意識)がある。つまり、目覚め、眠り、そして夢の意識である。 カルディア人はこれら三つの意識を我々現代人のように毎日経験したのではなく、減退した意識状態(現代人の夢の意識)を二十才になるまで経験し、そして意識的に目覚めた状態(現代人の目覚めの意識)を五十才になるまで経験したという。 そして、成人した古代カルディア人に関して、地上的な意識を精神世界へと持ち込むような状態、他の人間よりも遥かに多くのことを知り、より賢くなる段階に達した、と言えるような状態があったという。 この成人した古代カルディア人が達した意識は、現代でいう、夢のない夜の眠りの意識であるという。現代人は、あまりに昼の覚醒意識に曝され感覚的に馴れたために、睡眠中の夢のない眠りの意識を、もはや感覚をもって捉えることができないという。 古代カルディア人では、年を重ねた人は聖人として尊敬されたという。今日、現代人では、老人は記憶力がなくなるので、老いぼれと考えられる。この大変な相違は人間存在の正に根幹に関わっているという。このことについて全く明確でなければならず。何故なら、このことは人間存在にとって途方もなく重要なことだからだという。 単に我々人間はたった一つの意識状態を通して世界を探求するのではないという。我々が、真に世界を知るようになるのは、例えば、古代カルディアの子供たちに共通していた、いまでいう夢の意識形態を理解したときだけだという。これは、現代人にとって夢を見る状態に似たものだけど、古代カルディア人にとっては、活動的で、当人を行動へと駆り立てることができたという。この状態は今日では病理的な状態と考えられる、いわゆる夢遊病者と同じであるという。 当時は、今日、現代人があまりにも散文的で当たり前のものと思われている昼の覚醒意識は知られていなかったという。散文的という言葉を使う意味は、人間の物理的な側面(肉体)だけに注目し、それのみしか存在していないかのように表現するのは散文的という言葉が相応しいからであるという。勿論、以上に書いたことは容易に認められるようなことではないが、真実であるという。古代カルディアにおいては、人間は物理的な実体としてだけではなく、これまで記述したようなオーラを付与されたものとして感知されていたという。そして、聖人たちは物理的なものを超えて、実際人間の魂を覗き見ていたという。 このようなオーラを感知できる古代カルディアの聖人の意識は、今日ではかき消されている第三の意識状態であり、夢のない眠りに比肩されるものであるという。もし、このような状況を歴史的に眺めるならば、我々現代人の意識とは非常に異なった意識に出会うのが分かるという。そして、時代を遡れば遡るほどこのような相違は大きくなっていくという。 太古と比較すると、我々の通常の昼の覚醒意識はそれほど自慢できるものではないという。現代人は、誰かが夢のない眠りの中で経験することを全く重視していないが、それは普通、当人が夢のない眠りの体験についてほとんど何も語れないからであり、今日では、夢のない眠りの中の経験について語ることができる人はほとんどいないからである。現代では、夢の生活はファンタジー(空想)であり、単に脳が勝手に作り出したものであり、唯一頼りにできるのは昼の目覚めた意識状態である、と考えるからである。 古代カルディア人たちにとっては、このような態度は与り知らぬものであったという。前向きな行動へと誘う新鮮で活力ある夢の生活に類する古代カルディア人の子供の意識は、彼らがまだ天国に住んでいる状態にあり、彼らが口にするのは神から出た言葉である、と考えられたという。人々が彼らの言うことに耳を傾けたのは、彼らが精神世界からの豊かな情報をもたらしていたからだという。 時の経過の中で、古代カルディア人は地球存在としての意識状態に達したが、彼らのオーラの中ではまだ魂の存在、精神的な存在であったという。見者や聖者が享受したのは天の意識と地の意識を総合した意識状態だったという。人々は、聖者や見者の言うことに耳を傾けるとき、それが精神世界からの伝言であるということを確信していたという。 そして、秘儀において益々高みへと上昇した古代カルディア人たちについては、彼らが五十才になったとき、純粋に太陽的な要素を超越し、精神世界に参入したと考えられ、つまり彼らは「太陽の英雄」から「父たち」になり、人間の精神的な故郷(エデンの園)との交わりを持つようになった、と言われたという。 以上のことをまとめたのは、歴史的な観点から、人間がいかにしてこれらの様々の意識状態に与るようになったかを示すためであるという。 意識状態についての探求を続けるにあたって、今日の人間がもつような夢のない眠りについては、しばらく置いておいて、通常の、充分意識的に、周囲にあるものを見たり、他人が話しかけるのを聞いたり、彼らと会話を交わしたりする、というような通常の目覚めている状態について検証してみる。 続いて、第二の状態、眠っていると想定できる状態を取り上げる。この状態で見る夢は、よく本人を驚かせ、もしくは素晴らしく自由にさせるようなものであるため、もし、当人が通常の健全な状態にあるとすれば、夢は普通の日常生活の一部ではなく、想像力の働きによって創り出された万華鏡のような効果がありとあらゆる仕方で人間の意識の中に無理矢理押し入ってきたものとでも言わざるを得ないようなものであるだろう。 散文的なタイプの人はほとんど夢に注意を払わず、迷信的な人は、夢を外的な仕方で説明しようとするだろう。迷信を信じることもなく、また夢の意識を、当たり前のものだとも思わない詩的な才能に恵まれた人は、まだこの万華鏡のような夢の生活についての意識を有しているという。 というのも、腐敗していない人間本性の深みから現れるのは迷信的な人々によって、何かに帰せられるような重要性ではなく、丁度山が隆起して、長い年月を経て再び消えていくように、体験が本能的な人生から霧や雲のように生じるようなものであるからだという。ただ、夢の生活においてはこのような体験全てが速やかに生じるのに対して、宇宙における夢の像はゆっくりと組み立てられ、ゆっくりと消えていくという違いがあるだけだという。
2007年01月18日
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この種の視覚経験は古代カルディア時代初期にはまだ知られていたが、後の時代になって忘れ去られたという。古代カルディア人たちは昼間、この漠としたイメージの暗い領域だけを見ていたという。そして、彼らは夜にも、それと非常によく似たものを、眠っている状態においても、見ていたという。 何故なら、古代カルディア人の睡眠は、我々現代人の睡眠ほど深くはなく、どちらかというと現代人の夢に類似したものだったという。今日の現代人は、睡眠中に、周囲を知覚できないが、古代には、現代人のような、睡眠中に周囲を知覚できないような深い眠りは知られていなかったという。 古代の人々は左右に続くオーラの雲の視覚的形態を、その中の光の点としての個人と共に見たという。なので、当時、昼と夜における状態の知覚に関して、今日ほど顕著な相違はなかったという。このような理由から、古代人は昼間に日光があり、夜には日光がないという違いすら気づかなかったという。彼らは昼間、太陽を素晴らしいオーラに包まれた光り輝く球として見たという。 つまり、いまでも至る所にある太陽神の信仰は、古代人が実際に、このように昼間、太陽が素晴らしいオーラに包まれた光り輝く球としてみていたことの名残であり、彼らが太陽神を、人間と同じオーラにみたのも、人間も同様に、オーラの雲として捉えていたからだとわかる。 古代人は自ら、次のようなイメージを思い描いていたという。下方に地球、地上の至るところに水、そして高いところには雪があり、そこはユーフラテス川の源と考え、この全ての上に空気、そして高みには、最も美しいオーラに包まれて東から西へと旅する太陽がある、と考えたという。そして、彼らは、今日で言うなら、漏斗に類似したものを想像したという。つまり、夕方になると太陽はこの漏斗の中に降り、朝再び現れ出たという感じだったという。 彼らは実際、この漏斗の中にある太陽を見たという。夕方、太陽は大体次のように見えたという。いわゆる、光り輝く緑青色の中心が、赤味を帯びた黄色の後光に包まれているように見えたという。彼らが太陽に関して抱いていたイメージとはこのようなものだったという。 朝になると、太陽は輝く中心が後光に包まれて漏斗のようなものの中から現れたという。そして、天蓋のようなものを横切って旅し、より深い色合いを帯びて西の水平線から漏斗の中に潜り込み、漏斗を超えて放射する後光を示した後、視界から消えたという。このとき、古代人にとっては、太陽は暗く、黒かったために、漏斗或いは穴のような空間について語ったという。彼らは物事を見たままに、正確に記述したという。 例えば、これは日本の古事記の天照大神の岩戸隠れを意味するだろう。 そしてまた、当時、古代人に深い印象を与えたのは、古代人が幼児期の最初の6、7年を振り返り、幼児期には、彼らが受肉以前に住んでいた霊界ともいえる精神世界の神的な要素に包まれ、そして、7才から14才の間に、その精神的、神聖な卵の中から自らが現れ始め、ついには20才になったとき、いかに自らの顕現、目覚めの過程が最終的に完成するかを知覚したことだという。古代人が、自身を、地上の存在であると本当に感じたのは、ただこの年齢、つまり20歳に達したときだけだったという。そして、この現代でいう成人年齢のそのとき、古代人は、はっきりと昼と夜の間の相違に気づいたという。 古代人は自分の中で、六、七年ごとに起こる人間の発育上の周期的な変化を観察し、月の相に一致することを見出したという。二十八日周期の月の相は、古代人自身の六、七年周期という生活経験の期間に対応したという。 そして、古代人は一ヶ月という月の相が人間の生活においては二十八年(四×七年)という期間に相当すると感じていたという。そして、彼らはこのことを七年ごとに一ヶ月を挿入することによって暦の中に表現したという。要するに、彼らの数え方は月に基づいていたのであって、太陽ではなかったという。 更に、古代人は外的な自然を、今日、我々が見るように、はっきりと規定された輪郭をもつ物体のもので、かつ精神を欠いたものとして見たのではなく、古代人が昼と夜の両方に観察した自然は、精神的なオーラに浸透されていたものだったという。今日、現代人は明確な昼の意識を有するが、夜の睡眠中には何も見えない。このことは我々が昼と夜の交代を生じさせる太陽に重きを置いたことに表現されているという。 日本の八百万(やおろず)の神々という信仰は、正にここでいう古代人の見方であり、それは月をもとにした暦(陰暦)の生活から生じたものといえるだろう。 古代カルディア人たちの秘儀の叡智においては太陽ではなく月が強調されたが、それは月の相が、成熟に向けての彼ら自身の成長を忠実に反映していたからだという。彼らは、自身が、それぞれの段階ごとに(幼児或いは子供、若者、大人)異なった仕方で構成されていると感じていたが、今日、我々現代人は、もはやこのことを経験しない。 現代人が過去の人生を7年毎に振り返ってみても、前の七年とその次の七年の間にそれほど相違があったとは思わないだろう。今日の子供たちはあまりにも賢く、子供とうまくやっていくのは骨が折れる作業なほどで、現代の子供たちに太刀打ちできるためには特別な教育方法が工夫されなければならないだろう。現代の子供たちは、大人と同じくらい賢く、そして、どの年齢層の人も殆ど変わりが無く、等しく賢いように見えるだろう。 古代カルディア人たちはそうではなかったという。当時の子供たちはまだ精神世界に結びつけられていたという。古代人の子供たちは成長しても、この精神世界のことを忘れず、オーラの卵の中から現れ出た後で初めて地上的な存在になったことを知ったという。 なので、古代人の計算は太陽ではなく月、つまり彼らが天上に観察した七つの周期で計算した四つの相に基づいていたという(7日×4週=28日)。こうして、古代人は月の相に従って、七年ごとに一ヶ月を、今で言う閏年として余計に登録したという。 文明史における閏年に関する、この外的な徴候(シルシ)、つまり我々が四年ごとに一日を追加的に挿入するのに対して、古代カルディア人たちは七年ごとに一ヶ月を追加的に挿入したという事実は、古代人の昼の意識が夜の意識から明白に分けられていなかったことに関して、古代人が相前後する人生の七年毎の成長段階の諸期間を通しての意識状態の、大きな相違を経験していたことを示しているという。 つまり古代人は、月の暦から、昼と夜の境界のないボヤけた意識を有し、代わりに7年毎の成長期の明白な意識の相違を有していた。これとは、逆に、現代人は、太陽の暦から、昼と夜の明瞭な境界を有する意識を有し、代わりに7年毎の成長期のボヤけた意識を有するという。
2007年01月16日
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もし、精神的な探求に関する理解を発展させたいと望むなら、第一に、人間の魂が経験可能な様々な意識状態に関する明白な考えをもたなければならないという。今日、地上での通常の生活において、人間は明白に規定される意識を享受しているが、この意識は、人間が覚醒時と睡眠時の間に明確な区別を経験するという事実によって特徴づけられるという。 明白に規定される意識(覚醒時、睡眠時) 時間的にはそれほど一致しないが、およそ太陽が地球の周りを一周する場合を想定した場合の長さ、つまり地球がその軸上で一回転する(自転)長さに対応しているという。とはいえ、現時点では、この対応はある程度遮断され、ぼやけていて、生活システムが秩序立っていた過去(昔)を振り返ってみるならば、人々は、およそ日の出から日の入りまで働き、日の入りから日の出まで眠っていた、ということが分かる。 今日、この秩序は部分的に損なわれている。実際、昼と夜の生活習慣を逆転させていた人々、彼らは昼間眠り、夜起きていたのだが、よくその理由を尋ねると、その多くが詩人や作家であった当の人々は次のように答えたという。 (昼と夜の生活習慣が逆転するのは)仕方がない、どうしても、文学的な執筆活動と切り離せないもので、というような応えだったという。だからといって、夜、彼らと出合ったときに、彼らが詩を書いているのを見たことは一度もない!という。 ここで、強調したいのは、今日の意識に関して最も重要なのは、昼間、或いは昼に相当する時間帯に起き、暗い間に相当する時間帯に眠る、という生活習慣のことで、多くの事柄が、この意識形態に結びついていて、特に、感覚知覚に特別の価値を置くこと、つまり、感覚知覚が、我々にとっては第一義的な現実になるということが、昼起きて夜眠る生活習慣に結びついているという。 なので、感覚知覚から思考に視点を転じるときには、我々は、思考を、感覚知覚という現実を欠いた微かな反映として眺めるようになるという。 今日、我々現代人は、椅子を1つの現実とみなし、椅子を床の上に置くことができ、椅子を立てるときに生じる音を聞くこともできる。また椅子の上に座ることもできる。けれども、「椅子」という名称の思考形態自体は、現実的なものとはみなされない。思考が頭の中に存在していると信じて、それを(思考のなかで)叩いたとしても、何も聞こえないだろう。椅子という思考の上に(実際)に座ることができるとも信じていないが、このように思考産物を非現実として信じることは、現時点での人間の構成(進化度合)から正当とされるという。 そして、この他の多くが、このように太陽の軌道周期に関係した意識を経験することと結びついているという。 つまり、太陽が地球の周りをまわるような地球の自転から、昼と夜の生活習慣が生じ、この2つの差異、区別から明白な、外見的な外界を、現実として、思考を非現実としてみなす意識が生じたという。 この生活パターンが、秘儀、例えば、以前のカルディアの秘儀により秩序づけられ、方向づけられていた人々にとっては、状況は異なっていたという。秘儀に意識を方向づけられた人々は、今日のいわば(外界現実)意識とは非常に異なった意識レベルで生活していたという。 少し卑近な例により、この相違を描き出してみると、現代の暦では、一年に365日が割り当てられているが、これは完全に正確ではなく、もし、一世紀の間、一年を365日で数え続けるとすれば、そのうち太陽の歩調から逸脱してしまい、太陽の軌道についていけなくなるので、そこで、四年ごとに一日を、閏年として、挟みこむ。こうして、比較的長期間にわたって、太陽の軌道と地球の軌道の調節、およその一致を取り戻すわけである。 古代、カルディア人たちはこの閏の問題にいかに対処していたかというと、長い間、現代の方法に似た計算方法を用いたのだが、この方法に別のやり方で到達したという。彼らは一年に360日を割り当て、六年おきに一ヶ月を挟みこんだという。現代では一方、四年ごとに一日をつけ加えて、閏年として計算する。なので、古代カルディア人の場合、それぞれが一二ヶ月からなる六年間の後、一三ヶ月からなる年がそれに続いたという。 現代の学者たちはこの事実を記録し、確認したという。しかし、この年代的な相違が人間の意識に関する奥深い変化に結びついていることに気づかなかったという。四年ごとに余分な一日を置く代わりに、六年おきに一ヶ月を挟みこんだカルディア人たちは、我々現代人とは全く異なる世界観をもっていたという。 古代カルディア人は昼と夜の違いを現代人と同じようには経験せずに、以前に触れたように、古代カルディア人の昼間の経験は、現代人の経験のように明確でなかったという。もし、現代人のように現在の意識を持つ者が、周囲の人々を見回したとき、近くにいる人は近くに、遠く離れている人は遠くに、明確に規定された輪郭を持つ対象物として、人を見るだろう。 古代カルディアの秘儀から霊感を受けていた人々はそうではなく。当時、例えば、今日の我々が、座っている人を見るようには見なかったという。というのも、当時、現代人のように、輪郭と遠近感をもって、はっきりとみえることは稀であり、座っている人は彼の一部であるオーラの雲に包まれてみえていたからだという。 我々は、いわば生活体験的に、明確に規定された輪郭をもって、椅子に座っている個人と、周囲の人々を、人数を数えることが可能なほど、はっきりと見えるのに対して、古代カルディア人たちは、例えば椅子に座っている人々の集団を、流れる霧の固まりに似た一種のオーラの雲に包まれるものを見たという。そして、ここに雲、あそこにも雲として、その中に少し暗い領域があり、その暗い領域が人間を指し示していたという。 つまり、我々がいま空の雲や、森のなかの霧をみるように、古代カルディア人は、人間をそのようなものとして捉えていたという。
2007年01月15日
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古代カルディアでは、いわば現代とは正反対のいまではオカルト的な知識を語ることが日常の常識であって、当時の秘儀参入者や古い教師たちが語る現代の科学的基礎知識を毛嫌いしていたというのである。簡単にいえば、いまと正反対だったという。 だから、現代でいわれる、非科学的という弾劾は、中世でいわれた非教会的という弾劾、更には、古代カルディアでは、非精神的という弾劾と同じであるといえる。時代によってその内容は異なるが、人間の行うことはさして変わらないということがわかる。 つまり、古代カルディア人は見えないものではなく、古い超感覚的な能力を通して明らかになった個人化され象徴化された形態とはいえ、当時、明確に見ることが可能なものだけを探求することを望んだという。彼らは秘儀参入者であった古い教師たちやその弟子たちが獲得した知識を拒絶し、その後に、太古の叡智が東から徐々に広まり、重視される時代がやって来たという。 精神世界の存在たちによる顕現、例えばマーダック-ミカエルの行い等に関して多くの蓄積がなされたが、同時に、図式概念で表現可能なもの(太陽が中心にあり、惑星がその周りを円や楕円を描いて回転するもの)も重視されたという。 そして、時の経過の中で、精神世界、すなわち悪魔や神々の世界に関しての洞察が失われ、理知的な知識、すなわち今日、誇りにされ、我々の時代が始まった頃に絶頂に達した現代の基礎知識が育成されたという。 丁度、精神的(霊的)なものが自明であった人々によって(物質的)現象世界が拒絶されたように、いまや現代人は、精神的(霊的)なものが拒絶される時代に生きている。なので、天文学者や天体物理学者、動物学者や植物学者が教えるものと並行して、再び精神的な洞察から導き出される精神的な現実に関する知識が、再び受容される次の時代を見越す立場にあるべきだと、神秘学は説く。 その精神的(霊的)なものが再受容される時代は今、差し迫ったもので、もし、我々現代人の使命として成し遂げ、とりわけ、芸術の宗教的な源泉と、芸術としての治療を再び見出すならば、そのための準備を行い迎える必要があるという。 太古の時代においては、精神的(霊的)なものが人々の間で受け入れられ、物質的な世界が拒絶されたが、逆に、物質的なものが育成され、精神的なものが抑圧される時代がその後に続いたという。丁度そのようにして、今や我々の外界に関する広範で包括的な知識、確かに十分尊敬に値するものだが、秘儀の教えに関しての新たな知識へと、それが変容させられるべき時代が来なければならないという。 今日の物質的な科学によって古代の壮大な精神性が、いまでも発掘される幾つかの断片を残して、その全体の構造から引き裂かれた今、我々は再びその精神性を見出す必要があるという。ただし、我々が過去の時代の歴史を詳しく検討するとき、光を当てる全てのものに関して十分で明確な理解が必要である。宗教的な感情に染められた新しい創造的な芸術を通して、新しい治療芸術を通して、そして人間存在へと浸透する新たな精神の知識を通して、我々は再び精神へと返る道を見つける必要があるという。 世界の基盤と原則を、全体性において理解させ、偏狭な唯物主義者ではなく完全に統合された人間として仲間の幸福と啓蒙のために働く人間に関しての理解を、与えることができる秘儀を、新たなものにすべく努力することができるように、という希望をもって、秘儀教育は秘密糧に行われているという。
2007年01月14日
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数千年前の古代では、世界とその神的な基盤、或いは神的本質に関しては、現代権威ある学識者が語る方法とは全く異なった方法で語られたという。近東の秘儀において崇高で壮大な知識が栄えた数千年前の時代を振り返り、その知識の特徴を簡潔に記述することにより、その本性をより綿密に以下にまとめてみる。 古代カルディアにおいては、人間の魂の力が最大限の可能性をもって引き出され得るのは、人間が眠りの生活(意識がボンヤリ虚ろで、周囲の世界が忘却の彼方にあるとき)と目覚めているときの生活(明確な視力をもって周囲の世界を意識しているとき)との素晴らしい対比に精神の目を向けるときである、と教えられていたという。 魂の力が最大限の可能性で引き出されるとき(眠りの生活、目覚めの生活) 数千年前の古代では、交互に入れ替わる眠りの状態と目覚めの状態は、今日とは異なった仕方で体験されていたという。眠りは今ほど無意識的なものではなく、目覚めているときの生活は今ほど十分に意識的ではなかったという。人は眠っている間、力強く、絶えず変化するイメージ、世界の生きた流れや動きを意識していたという。人間はそのとき、神的な基盤、宇宙の本質に通じていたという。 眠っている間に意識が霞むのは人間が進化した結果だという。数千年前には、起きているときの生活は今日のような明確で、はっきりしたものではなかったという。意識対象は、はっきりと規定された輪郭を持たず、ボンヤリとして、それら対象物は、精神的な特質を様々な形で放射していたという。現在のような眠りの生活から目覚めの生活への不意の移行は存在しなかったという。 当時の人間たちは、まだこれら2つの状態を識別することができ、彼らが目覚めている間の生活環境は「アプシュー」と呼ばれたという。睡眠中に経験する生きた流れと動き、つまり目覚めの生活における鉱物、植物、及び動物間の明確な区別が曇った意識領域は「ティマート」と呼ばれたという。 古代カルディア人(アプシュー、ティマート) さて、古代カルディアにおける秘儀の学院では、人間が眠っている間、つまりティマートの流れと動きに預かるとき、鉱物や植物、動物たちの中で明確で意識的な生活を送っているときよりも、真実や現実の近くにいることが教えられたという。 ティマートはアプシューに比べて世界の基盤、つまり神的世界の近くにあり、人間の世界と深く密接に関連していたという。アプシューはもっと離れたところにあり、ティマートは、人間に近いものを表現していたという。 けれども、時が経つに従って、ティマートは変化を被り、秘儀の学院で学ぶ弟子たちに次のように、この変化が知らされたという。ティマートの生きた流れと動きの中から悪魔のような形をしたもの、人間の頭に馬の体をもったものや天使の頭に獅子の体をもったものが現れ出たという。それらはティマートが織りなすものの中から生じ、人間に敵対するようになったという。 そして、力強い存在、イア(エア)が世界に出現したという。今日、音を聞く耳を持つ人は誰でも、いかに、この2つの母音のつながりが力強い存在を指し示すかを感じることができるという。つまり、これは、古い秘儀の教えによると、ティマートの悪魔が強力になったとき、人間を助けるために人間側に立った存在を指し示すという。 イア(EA或いはIA)は、この語の後に、もし、「ソフ(Soph)」という接頭語を予期するならば、ソフ-イア(Soph-Ea)、ソフィア(Sophia)になるという。イアの凡その意味は「抽象的な叡知、あらゆるものに浸透する叡知」だという。ソフは(大体において)存在状態を示唆する小詞であるという。 Sophia、Sophea、Sopheia、即ち、「全てのものに浸透する、何処にでも存在する叡知」が、当時はマーダックとして知られていて、後にミカエルと呼ばれるようになった彼女(イア)の息子を人間に使わしたという。ミカエルは天使の位階から権威を付与されたという。ミカエルは、叡知であるイアの息子マーダックと同じ存在、つまり、マーダック-ミカエルのことだという。 ソフ(息子)-イア(女神);ソフ-イアは、「全てのものに浸透する、何処にでも存在する叡知」の存在を意味する。 古代の秘儀の教えによると、マーダック-ミカエルが偉大で強力であったために、全ての悪魔的な存在、人間の頭を持つ馬や天使の頭を持つ獅子の形をしたもの、つまり、これら全ての波打ち、蠢く悪魔の形をしたものたちは強力なティマートとして合体し、連合して、ミカエルに対抗したという。 マーダック-ミカエルは充分に強力だったために、嵐に命じて世界中に風を吹き荒れさせたという。ティマートが体現したもの全ては生きた現実のように見え、当時の人々はそっくりそのまま体験し、正しくそのように見えたという。 これら全ての悪魔たちは、人間存在の敵として、すなわちティマート、睡眠中の夜から生まれた全ての悪魔的な力を体現する強力なドラゴンとして思い描かれたという。そして、怒りの火を吐くドラゴン存在がミカエルの前に進み出、ミカエルは初め、様々の武器で、ドラゴンを打ちのめし、ついでミカエルの嵐のような力の全てを、ドラゴンの内臓へと送り込んだために、ティマートはバラバラに砕けて飛び散ったという。 そして、このようなミカエルのドラゴン退治により、ティマートの中から上なる天と下なる地を創造することができたという。こうして天と地が生じたとされる。 秘儀の教えとは以上のようなものだったという。イアの長男、叡知がティマートに打ち勝ち、その一部から上なる天を、別の一部から下なる地を作り出したという。 そして、もし現代人が、目を天空の星々に向けるならば、あのティマートの恐ろしい深淵からマーダック-ミカエルが、人類のために天に造り出した一部を見ることになるという。そして、もし現代人が鉱物化された地球から植物が生え、下方に鉱物が形成され始めるものを見るならば、イアの息子の浸透する叡知が人類のために再創造した別の部分が見出されるという。 このようにして、古代カルディア人たちは世界の形成期を、つまり、無形から有形として形成された時代を振り返ったという。彼らは創造の工房を覗き見ると同時に、生きた現実を知覚したという。これらの夜の悪魔たち、これら全ての夜に出没するモンスターたち、すなわち織り成し波打つティマート存在たちはマーダック-ミカエルによって上なる星々と下なる地球に変えられたという。 太古の人々が、古い魂の属性を通して、彼らの魂にやって来た全てを、イメージ化したのは、このような形態においてであり、つまりマーダック-ミカエルによって輝く星々に変えられたあらゆる悪魔たち、変化したティマートの皮と組織として地球から生え出る全てのものを通してであったという。そのようなイメージからなる情報を、太古人は知識と考えたという。 また、秘儀の祭司たちは、弟子たちが示す魂の力を研究することによって未来を予想したという。そして、弟子たちが十分な魂の力を発達させたとき、祭司らは、今日では子供たちが学校で最初に教えられるような基礎的な科目、つまり地球は太陽の周りを回り、宇宙は星雲から形成される等というようなことを理解する立場に立ったという。 当時、このような現代の基礎知識はしっかりと守られるべき秘密とされていたという。他方、公然と教えられていたのは、上述のマーダック-ミカエルの行為等についてだったという。今日、学校や大学では、勿論このような知識の秘密を守ることが要求されることはなく、小学校においてさえ、コペルニクスの体系や宇宙物理学が教えられている。 しかし、太古の時代においては、現代の基本知識のような課題にあえて取り組み、もしくは取り組むことを許されたのは、聖人たちだけであり、それも長い準備を経た後だったという。今日では学校の教科になり、どの小学生も知っている基礎知識全てを学ぶことができたのは、当時は秘儀参入者たちだけだったという。 古いカルディアの時代から更に時代を溯れば、人々は、イアやマーダック-ミカエル、アプシューやティマートについてだけを語ったという。彼らは、「風変わりな」秘儀の教師たちが、現代の基礎知識である星々や太陽の動きについて教える全般を毛嫌いしたという。
2007年01月12日
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政治家の汚職が連夜のように、報道される。全く、この国の指導者という奴は、一体何を考えて生きているのかあきれてしまう。 お前らの為に、イラクで何人もの血が流されているのか? お前らの為に、これまで、どれだけ日本人が失業に陥り、衣食住を失い、自殺に陥ったのか? お前らのエゴのために、どれだけ、罪のない人々の幸せが奪われたのか? この国の指導者は、本当に人間なのか? 恥を知れ! 一体、いままでに、こんな汚職マミレのアホ指導者の為に、何人の人々が犠牲になったのだろうか? 文部大臣という地位にあるものが平然と汚職を行っている。 総理大臣という地位にあるものが、汚職を見て見ぬ振りをしている。 自分たちの地位を守ることにばかり固執している。 一体、このようなアホ連中が、なぜ、国家という重要な地位に就いているのか、誰か教えてもらいたい。このような人間とも思えない、恥知らずの人間が、なぜ、人の上に立って、偉そうに振る舞えているのか?、誰か教えて欲しい! 連日連夜、人殺しのニュースが巷を賑わす。全く日々地獄の世界だ! 欲深な金持ち連中は、自分たちの罪を知らずに、欲望や快楽に身を委ねる。 吐き気がする世界とは、いまのニッポンに他ならない。 本当に、こんな国はなくなった方がいいのかもしれない。 国がなくなる前に、せめて、あのような汚職をしても、恥知らずな連中をなんとかして欲しい。 フランス革命ならば、断頭台の刑になっていただろう。 江戸時代ならば、切腹になっていただろう。 そんなにカネが欲しいのか?、そんなに人を欺き騙したいのか? あぁ、嫌だ嫌だ! 自分勝手な指導者たちをなんとかできないものだろうか? 真面目に働くのが本当に馬鹿らしくなる世の中である。 犯罪が増えるのもわからなくはないだろう。 国家の指導者が率先して犯罪を行っているのだから。 このようなニッポンが異常といわずとして、なんというのだろうか? 鮫脳の森政権から、この国はどうやら制御不能に陥ってしまったようである。 国を建て直そうとしても、悪い奴ばかりで、もはや手遅れである。 悪党ばかりが幅を利かせる世の中なのである。 人知れず隠れているのがいいのかもしれない。 せいぜい、悪いことばかり、現世利益を追求して、地獄の火で焼かれるがいい。 自業自得なのだから。
2007年01月12日
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ギリシアの芸術家たちは、先輩からの伝承である伝統に基づいて働いたという。けれども、彼らはこれを認めたがらないという。何でも自ら行ったと主張したいという。彼らは古い巨匠たちがいかに能力である認識を模倣し、制作したかを知っていたという。しかし、最初期の古い巨匠たちはこの認識の秘密を秘儀の精神的な洞察から学んだという。ラファエロやミケランジェロは、まだ秘儀に頼ることができた人たちからこの認識の秘密を学んだという。 けれども、真の芸術は精神から創造されなければならないという。他に方法はなく、人間の問題に触れるやいなや、大いなる幻想に関する知覚は人生の諸問題、人間の運命に関する問いに対する答えにはならないだろう。もし、我々現代人が芸術と芸術的な創造の源泉へと遡るべきであるならば、精神世界への洞察を再発見しなければならないという。 さて、第三の例として、植物学者や動物学者は入手可能なあらゆる植物の形態に関する素晴らしく詳細な知識を得ることができる。生化学者は植物体の中で生じるプロセスを記述することができ、新陳代謝の中でいかに食物が消化され、血管によって栄養が運ばれ、壁の中へと吸収され、更に血液によって神経系へと運ばれるかを述べることもできる。 優秀な解剖学者、生理学者、生物学者、或いは地質学者はマーヤの世界を広い範囲に渡りカバーすることが可能である。しかし、もし彼がその知識を治療や医療の目的に使うならば、もし彼が人間の外見的、もしくは内的な構成からでさえ、人間の本質的な存在へと押し進もうとするならば、不可能で、決して到達できない壁にぶつかるという。 しかし、唯物論者であり、精神世界には何の興味も持たない医者も沢山いて、彼らは自然科学の方法に従って患者を処置し、そしてそれでも結果を出しているではないか、という人もいるだろう。 そのことは確かだが、彼らにも治療ができるのは、彼らもまた古い世界観に基づく伝統の上に立っているからだという。太古の治療法は秘儀から導き出され、顕著な特徴を有していたという。もし、現代人がこの太古の処方箋を見るならば、大変に複雑なものであることが分かるという。伝統により規定された特定の目的のために、太古の処方を用いる人には、かなりの能力が要求されるという。 もし、現代人が太古の医者のところに行って、太古の処方箋はどのようにして作られたのかと訊ねるなら、彼は、「まず化学実験を行い、関連する物質がどのような方法でいかに振る舞うかを確かめ、それから、そのノウハウを患者に適用し、その結果を書き留める」というようには、決して答えなかったという。太古の医者には、この種の現代的な方法は思いもよらないことだったという。 現代人は太古の時代には、いかなる状況が卓越的であったかについての、いかなる考えも持ち合わせていないという。太古の医者は次のように答えたという。「私は秘儀の教えに基づいて設置された実験室(現代語で書き示すならば)に住んでいて、処方を思いつくときには、その処方は神に負っているのです、」と答えたという。 太古の医者の立場は、太古の処方に関して、彼が彼の実験室の中に醸し出された雰囲気全体を通して精神世界と密接に交流しているという点について、全く明確なものであったという。彼にとって精神的な存在がそこ(実験室)に居るということは、現代人にとって人間がそこ(実験室)に居るのと同じくらい間違いのないことだったという。 彼は精神的な存在の影響を通して、高次の存在の次元に達しており、それ以外の方法では、多くのことを達成できないということを知っていたという。そして、彼は自然認識からではなく、神の口述に従って、その込み入った太古の複雑な処方箋の作成へと進んだという。秘儀の学院における、人間理解には、マーヤの世界と自分とを同一視するのではなく、神的な世界の真実へと押し進むべきである、ということが知られていたという。 外界に関するあらゆる知識を有しているとはいえ、今日の人間は、秘儀から導き出された知識を有していた昔の人々に比べて神的な世界の真実から、遠ざかりかけ離れたところにいるという。再び神的世界に戻る道が見出されなければならないという。 三番目の例から明白なのは、現代人が治療法を追求するとき、たとえ可能な限り幅広い自然に関する知識(つまり、マーヤの世界に関する知識だが)を有していたとしても、再び、人間の生と運命に関する未解決な問題に直面することになるということで、現代人がいくらマーヤの立場、大いなる幻想の立場から人間を理解しようとしても、或いはまた、治療目的のために要求される「汝自身を知れ」の立場から理解しようとしても、人間存在自体の理解においては、一歩も先に進めないという。 従って、これらの例に照らしてみると、「マーヤの世界」と「汝自身を知れ」の間にあるギャップに橋を架けようとする者が、宗教的な感情をもつか、或いは創造的な芸術家として、或いは治療家や医師として、自らの人間存在にアプローチするとき、もし彼の唯一の出発点がマーヤ(幻想)の世界であるならば、その瞬間に自分が無の上に立っていることに気づかされるという。 つまり、人間は、マーヤ、すなわち大いなる幻想に関する知識からなる外界の自然に関する知識を超越するような知識の形態を見出さない限り、無力であるという。 では、秘儀の精神から包括的な世界認識に至る探求の方法と現代で試行されている方法とを比較してみるなら、この包括的な認識へと導く道との関係のなかで、我々人間は人間存在としての方向性を、再び見出す位置に立つことになるという。
2007年01月12日
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柳生宗矩といえば、忍者で有名である。戦国時代、忍者といえば、「斥候」、「物見」或いは「間者」と呼ばれたらしいので、忍者という言葉が何処からきたのかよくわからないが、柳生宗矩の場合は、何故だか、忍(しのび)という漢字がぴったりくるような気がする。 忍とは、心に刃で表されるが、柳生宗矩の説く、「活人剣」は、正しく、心のなかに常に刃物を置くような、「悪を斬ることで人を生かす」という心の剣を思わせるのである。 幕末の剣士男谷精一郎も、「剣の道は、心を斬る」というようなことをいっているらしい。 江戸時代の狂歌にもあるが、美女は刃物を使わなくても、目で殺すというようなものがある。名前は忘れたが、古代ギリシア神話の女悪魔の目をみると、蛇に睨まれた蛙のように、固まってしまうというようなもので、一種の極意なのであろう。 人間の心の欲望を上手く捉えた表現だと思われる。 柳生の説く、活人剣とは、恐らく、この心の欲望に常に刃物を向けるように注意深く対応するということなのであろう。そして、そのような欲望を常に削いでいくのである。刃を磨くとは、正に、そのような欲望を常に統御していくことに他ならないのであろう。 そのような剣、つまり忍の美学が、柳生の剣、無刃流の真髄なのだろう。無刃というのは、見えない心の刃という意味であろう。物質的な刃物は要らないという意味だろう。 柳生宗矩のこの極意は、沢庵和尚から学んだらしい。 あるとき、宗矩は、幕府の命令から、いわば、騙された形で、無二の友を裏切る結果となり、失意のうちにいたときに、沢庵和尚から、十人の敵が一度に襲ってきたときに破る方法があることを教えられたという。 その方法とは、心を動かさないことであり、いまでいう不動心である。 心は常に動くものであり、不動心とは、また矛盾そのものである。 心とは、ころころ変わるから、こころと呼ばれるが、常に動くもので、動かさないとは、全く相反するのではないかと思われるだろうが、ここに仏教、特に禅の美学があるように思われる。 世は無常である。全ては移り変わり、常にそのままであるものはない。諸行無常である。 しかし、人間のなかには、昨日の自分と今日の自分が同じであるものと認識できる、私(わたし)という存在がある。これは常であろう。常だからこそ、私と同一化できるのである。この認識こそ、無常を超え、不滅であり、永遠へと明日をつくる極意なのである。 いいえて妙だが、自然のままに移り変わるようにして、自らも自然の流れにまかせて、移り変わるのである。波乗りの極意とでもいうべきかもしれない。ただし、常に自分を忘れてはいないのである。これはただ主体性を無くし、周囲に流されるのではなく、自らが主体性をもって飛び込むところに、独自の発見がある。 ただ周囲のままに流されていたら、自分が一体何であるかわからなくなるが、自分が主体性をもちながら、あえて流されているのなら、そこに自由度がうまれ、自分の空間の余地が生まれるのであろう。少なくとも、いままでの自分と、新たな自分の相違、成長がわかるのである。 楠木正成だったかが、あるとき、我が者顔で寺にいったとき禅僧に出会い、禅僧に「お前は誰だ」と問われ、「いかにも楠木正成である」と偉そうな態度で名乗ったので、「さて、楠木正成とは、いかなる者であるか」と再度問われ、嗜められた逸話がある。 問題は、心のなかにある自負心、エゴ、執着心にあるということなのだろう。 心が動くとは、勝負に勝とうとする欲、生きたいという欲等の諸々のエゴのことを指すのである。煎じ詰めれば、自分だけ得をしたいというような幼稚なエゴからきていることをいう。幼児がダダをこねるのとさして変わりがなかろう。ただ、見栄えが大きな身体の大人がいっているから、さも、外見が正当のようにみえるだけなのである。 身体を度外視して、心(魂)でみれば、獣と変わりがないのである。獣がやっていることといえば、親分にゴマをすり、自分だけが得することなのである。動物は必ず群れ、ボスがいるからである。しかし動物は自然と共に滅び行く運命にあり、自然の一部なのである。つまり、「わたし」という常なる自覚や不動心がないのである。 人間と動物の違いはここからくる。人間は自然から独立し、生きることができるが、動物は自然のなかに常に流され、漂う運命しかない。だから動物には、法がないのである。 動物は、自然の法のなかに組み込まれていて、一部であり、それを度外視できない。 人間は違う。人間は法を感じる常なる「わたし」という自覚がある。そして、運命を変えていく力がある。一見、外見からみれば、動物も人間も自然の法に従って生きているようにみえるが、人間のなかでは、心が成長しているのである。 人間には人間そのものを超えた存在を発見できるのである。なにより、無常のなかの常を感じられる意識があり、人間同士の相手の気持ちをお互い推し量る不動心がある。 これがイメージ力を形成するのである。常なる自覚から、イメージ力が生まれ、法となって顕れるのである。 それを示したのが、空海であろう。動物は法に従うしかないが、人間は法を司り、真実へと進むことができる。 だから、空海は真言宗を説いた。 なぜなら、宇宙は言(言葉)からなり、言とは法なのである。人間だけが、「わたし」と言葉を語ることができる。それは常なる「わたし」という意識があるからで、法を認識しているからである。つまり、法は言なのである。 法を言とし、宗(存在)を顕すのである。真実の法を目指し、運命を自ら切り開きなさいと人間に、空海は説くのである。 それは、欲望(エゴ)を捨て、万人の幸せ、平和を目指す心を、一人一人の人生のなかから、つくりあげなさいということでもある。 そして、空海は模範として高野山に理想郷を開いたのだろう。皆、ここにきて平和をみなさい、欲望を捨て、万人の幸せを願い生きる美しい心をみなさい、と。 「心を斬る」とは、外見的にみると、諦め、断念のようにみえるが、その実、悪というエゴ(欲望)を斬るのであるから、実は、全体として万人が平和、幸せに生きる法なのである。 実は、神々のこの諦め、断念により、自由という悪が生まれ、水という物質が生まれたのだが、それは、神々が、人間がこの悪を自らの自由性でもって断念できるのを、同時に願う、慈悲心でもある。 空海という言葉からもわかるように、空(自由)の海(魂)を願うことが人間に、いま課されていることなのであろう。 いま、日本人にはなにより、忍(しのび)が求められるときなのだろう。
2007年01月11日
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ふとTVをつけたら、NHKで、科学論文の捏造の話しをやっていた。科学実験等の予算を配布する役人がコメンテイターで応えていたが、全く的外れな専門的意見に終始していた。終いには、科学とは何なのか?と疑問を大衆に投げかける姿勢で終わったのだった。 そして、当事者2人は、解雇という形で、捏造の真相は闇に葬られたのである。 このようなことは、氷山の一角だろう。大体が、論文を掲載する雑誌の数が五万とあり、それに関わる学会や集会等、いかに研究者が多くとも、その需要を満たすほど、斬新的な研究成果など、土台量的、更には質的に無理なお話なのである。 数年そこらで、慎重に吟味、審査された画期的な研究成果の論文など、捏造可能な流行作家といえど、不可能だろう。逆説的にいえば、数年そこらで、画期的な研究論文を書ける方がその分野の質の低さを物語るだろう。どんなに偉大な科学者であっても、生涯に数本の画期的な論文しか書いていないのである。それも単独で書いたものなどほとんどなく、連名なわけである。しかし、市場はそれを見込んで投資しているので、矢鱈滅多らと商品を生産せずにはいられず、品質は次第に低下せざるをえないといえるだろう。 あまりに期待が大きすぎ、それに見合う予算を大きく見積もるから、当初の見込み違いが生じてくるのである。 とどのつまり、統計学や確率論のようなギャンブル性の、ある意味張ったり、騙しの技術だけが向上するだけの話しである。 このことは物質世界では、一種の限界であり、臨界点に達していることを意味するだろう。 総じていえば、研究の分業体制の限界が露呈してきているのである。 そして、目標は単純明快化され、一致団結して、大衆に明快で受け入れやすい目標に取り組まされ、競争社会に、科学が投入されるのである。本来、科学がもつ現状の不可思議さの提示を放棄し、科学はもはや一種の産業マシン、科学産業と化してしまったといえるだろう。 至高の目標が堕落したら、手段もまた堕落せざるをえない。全ては目に見える結果、大衆にわかりやすい効果、作用、堕落した宣伝効果が成せる業なのである。 では、ここで生じた捏造の詳細を絞って考えてみると、実験者と発表者が異なるのが一番の盲点であろう。ここに人間社会の作為が生じる要因がある。 研究が高度に複雑になると、分業体制になり、高度に機密、秘密性を帯び進展していく。分業に伴って権利意識が生じるからである。実験結果は、実験者の権利でもあり、発表者は、実験者の権利を保証する義務が生じる。更に特許権が関わると経済化、社会問題化してくる。 数年前のある著名な発明研究者の特許権に関わる賃金問題等の闘争は世間を賑わした。更に著名な賞授与による、国家間の政治闘争の道具にされることもありえる。 話しを根本に返すとまた、研究者の昇進制度に問題がある。ここの捏造にあるように、教授が、助手である部下の実験を知らないというのは致命的であるといえる。しかし、世間に知られていないが現状は、このようなことが普通なのである。 だが根本に返って第一、現代の教授というのは一体いかなる存在なのだろうか、何を教えているのかわからず、この捏造の場合、実験の大まかなプランや方向性を練るのが役割としても、実験の込み入った事情や細部を、呼吸のごとくつかみ、体験として同一視できるまでわからずして、プラン全体がいかに成立するのか不思議でもある。それで成り立つとしたら、砂上の楼閣であろう。 要するに、旗振り役といっていいだろう。船頭多くして舟渡れずというのが関の山といえる。ポストばかり目立ち、肝心な部分は、猫の手でも借りるというのが真相だろう。 逆説的にいえば、再現性のある実験ならば、誰がやっても同じ結果にならなければおかしいのであるが、実際は違う。そのために、研究の分業制が確立されたからである。つまり、僅かな条件によって、ここでいう普遍性などモノの数分も役に立たない。 では、そのような僅かで微妙な条件に揺らされる実験の再現性とは、真の普遍性といえるものかどうかという疑問が持ち上がるであろう。更にいえば、観測、測定者の評価技術にも依存するといえるだろう。 得てして、科学といわれる真実への最も近道であるとされる、その現状は、上述のこの国の最高学府の捏造事件と変わりなく、見せ掛けの何大出身とか、米国に留学してハクがついた等の肩書き権威主義がいまだに罷り通っているのである。 何が科学であるかと最後に問うならば、捏造を生み出したのもまた科学であるという真実に行き着くだろう。科学に誇りを持ちたい科学者は、捏造こそは科学ではないとするだろうが、科学の手法によって捏造が生み出された点において、真剣に反省すべきであろう。 でなければ、捏造を未然に防ぐ科学を編み出すしかないだろう。 つまり、科学は、いま反科学を生み出さざるをえない宿命を負ったのである。 このような立場から遠ざかり別の立場からみれば、科学は、真実を探る一手段でしかないといえるだろう。科学は一手段であり、目的は真実に達することなのである。科学を正当化するために、科学があるのではない。 いま、この国の政治家が、自分たちの地位や財産、欲望を守るために、国民や国家を犠牲にしているように。自らの欲望から生まれた政治モドキをやるために政治をやっているのである。 そこには、国民のため、国家のためという至高の理想などない。ただ、現状一点張りである。将来性ある若者に、至高の人類を見せられず、ただ、現状の若者に迎合するのならば、このような民族に未来などはない。 つまりは、出世欲や名誉欲、性欲や食欲、果ては生存欲を保つために、果ては叶えるために、その代償として、科学なるもの、政治なるものをやっているにすぎないのである。 とどのつまりは、現世御利益主義でしかない。 本来、真実を究めるならば、その方法、手段は問わないものであろう。科学は、ただ人類にとって、その一手段にしかすぎないのである。真実の探求のために科学があるのであり、科学があるから、真実があるのではない。 これは、宗教においては、神のために人間があるのであり、人間のために神があるのではないのである。 だから、人間は真実を探求せねばいけない存在であり、神の存在に少しでも近づく努力をなすべきなのである。 捏造を責めるのではなく、捏造から学ぶべきなのである。もはや、科学は真実を探求するものではなく、カネや名誉、果ては欲望を追求する堕落した手段に成り下がっただけであろう。 人類の進化として、現状の科学といわれるものは捨て去るべきなのである。 しかし、科学で唯一証明できたこととは、実験において、実験者のウデが、現象という実験結果を左右しうる最たる要因であるように、この世の物質現象の背後に、実験者と同じなんらかの存在があるということを立証したことなのである。 つまり、捏造をも含む科学が、その行為により、この世の現象を説明できるということは、その行為を成した者の存在が、同等に、この物質世界の背後に隠れているということなのである。 つまり、科学的にいうならば、バックミンスターフラーがいったように、この世界と我々人類は、いわば、神々の実験動物の1つなのである。 実験がプロトコールと呼ばれるプロセスで記述された記録からなるように、見えるものは、見えないものから生じるといえるだろう。科学であれ、宗教であれ、我々の現在のみえない思いが、目にみえる未来を切り開くことに違いはないのである。それは人類の真剣な態度の問題である。 我々人類は、先祖や先輩のパクリから生まれ、そのパクリを辿って遡っていけば、我々は神々のパクリそのものなのである。人類は何1つとして、自ら生み出したものはない。ただ、パクリ続けただけである。人類の所産といえるものは何1つない。だから我々は無から生まれ、無に還るだろう。
2007年01月10日
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大いなる幻想から、真なる自己認識がほとんど不可能であるということが意味するものを偏見なく眺めてみると、唯物論者は、ダーウィン、ハクスレー、スペンサーその他の人々による科学上の発見に対して、精神世界に関する洞察をもつ人が感じるほどの深い賞賛と尊敬の念を感じることはできないという。つまり、これらの人々やジョルダーノ・ブルーノ以降その他の人々は、古代の神秘家たちがマーヤの世界と考えたものに関する洞察を得るために惜しみない努力を行ったという。 だからといって、ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、コペルニクス、ガリレオ他の人々によって持ち出される理論を受け入れる必要はなく、彼らの説いた宇宙論をそのままにして、彼らの議論に引き込まれる必要はないという。だが、これらの人々が示した人間、動物、そして植物の中に見出される特定の器官や鉱物界に関する特別な事項に関する詳細で事実に即した探求への衝動を認めないわけにはいかないという。 彼らの刺激的な探求の結果、腺組織、神経、脳、肺、肝臓等々について、近年多くのことが知られるようになり、確かに彼らは最高度の尊敬と賞賛に値すものであるという。とはいえ、実生活において、これらの知識はただある一定の水準に連れて行くに過ぎず、これらの知識がいかなるものかを示す三つの例を以下に挙げてみる。 例えば、これらの知識から、人間の最初の卵細胞が胎児へと徐々にどのように発達していくか、いかに様々の器官が段階を追って展開するか、そしてどのように周辺部の小さな器官から複雑な心臓や循環システムが構築されるか等を、どこまでも詳細に追っていき、示すことができるだろう。 また植物の有機的な発達を根から花、そして種へと追っていくことができ、そしてこの事実に基づいた知識という情報から全宇宙に適用される宇宙理論を構築することもできるという。 天文学者や宇宙物理学者たちは既にこのことを行い、自律的発生可能な星雲系が、段階を追って明確な形態を取ることによって、宇宙という世界がいかに現れるかを示す宇宙理論を打ち立てたという。しかし、この宇宙体系全般に対する理論形成にも関わらず、人間の本質的な存在に対して、「汝自身を知れ」という定言に対していかに応えるか、という問題に、結局は再び直面することになるという。 もし、ただ、これらの鉱物、植物、動物、人間の腺組織や循環系に関する知識に限定される自分のみを知るだけであれば、人間が誕生に際して入り、死に際して離れる世界だけを知ることに限られることになる。しかし、結局のところ、人間は、自分は一時的な世界に限定されてはいない、と感じているのである。 だから、外界に関する知識が壮大さと完成度をもって産出する全般を前にして、人間はその存在の根本から、この外界全般は誕生から死までの間に限って肯定することができる、と答えざるを得ないことになるだろう。 人間は、生きるという存在をもってして、外界に関する全ての存在を立証するのみである。 しかし、人間は、本質的な自分、真の本質を知っているのだろうか?人間の有する感覚諸器官をもってしては、大いなる幻想の世界だけしか理解できない人間は、人間そのものの存在、つまり「生きること」や自然に関する知識が、道徳的、宗教的関連を持つ瞬間、沈黙せざるを得なくなるだろう。 「汝自身を知れ、汝何処より来たりて、何処へと去るか、汝の最奥の存在において知るべきである」という定言、この認識の問題に対しては、宗教との関連が持ち出される瞬間、限定的な理解度、つまり知識をもってしては答えることができないだろう。 弟子が秘儀の学院に入るに際して確信させられたのは、宗教が問題になるときには、感覚的な観察を通して多くのことをいかに学ぼうとも、その情報は人間の本性に関する大いなる謎に対し、いかなる答えも与えはしない、ということだったという。 更に言えば、人間の頭部の構造、人間の腕や手の特徴的な動き、人間の立ち居振る舞いに関して、いかに正確な知識を有していたとしても、もしくは、動物や植物の形態に関しては、感覚的な観察を通してのみ知ることが可能なことから、それほど敏感には反応することはできないとはいえ、これらの知識情報に対して芸術的な表現を与えようとする瞬間、再び答えることのできない問題に直面することになるだろう。 これまで人間は世界に関する知識を、いかに芸術を通して表現してきたか?といえば、人間はインスピレーションを通じて、秘儀の教えに負ってきたという。自然や様々の側面に関する知識は、その時々の理解の水準に関係していましたが、同時に精神的な洞察によって豊かなものにされてきたという。 このことは古代ギリシアを振り返ってみるだけで分かるという、今日では、彫刻家や画家はモデルを使って仕事をし、少なくとも近年までは、モデルのコピー或いは模倣に取りかかるが、ギリシア芸術家たちは、このようなことをしなかったという。 ギリシアの芸術家は、外にモデルを用いるのではなく、むしろ精神的な人間の形態を自分の内に感じ取ったという。彫刻において、もし彼が腕の動きを表現したいと思ったなら、外界は精神的な内容によって満たされており、あらゆる物質的対象物は精神から創造されたということを知っており、彼の作品の中で精神を再構築しようと努めたという。 つまり、ギリシアの芸術家は、作品を精神の舞台、一種の道場としていたのである。 ルネッサンスの時代に至ってさえも、画家はモデルを使わなかったという。モデルは単に刺激を与える為にだけ奉仕したという。彼らは何が腕や手を動かすのかを先験的に知っていたという。彼らが示す動きの表現に、このことが見て取れるという。 単に外見やマーヤの世界を皮相的に表現しても、我々の理解を前進させることはできず。我々現代人は外見やマーヤの世界によって深く人間を見るのではなく、単に外見に拘り、そして、人間という存在の外にいる傍観者の立場に留まるという。 芸術の観点から言えば、もしマーヤの世界を超越することに失敗するならば、我々は人間本性に関する恐るべき問題に直面し、我々現代人にはいかなる答えも与えられないだろう。 そしてここでも、古い秘儀に参入しようとする弟子に対し、参入に際して、「もしお前がマーヤの世界の中に留まるならば、お前は人間やその他のいかなる自然領域の本質的な存在にも貫き至ることはできず、お前は芸術家になることはできない、」ということが明らかにされたという。芸術の領域においては、「汝自身を知れ」という明確な定言を弟子に思い起こさせ、その後で精神的な知識の必要性を感じ始めさせる必要があることが知られていたという。 だが、全く唯物的な彫刻家もいるではないか、という反論があるかもしれないが、いずれにしても、ギリシアの芸術家は単なる素人ではなく、自分たちが何をしようとしているのかを知っていて、また、どうすれば(刺激を与える)モデルから秘密を引き出すことができるのか、そして、どうすれば作品の人物像や題材に秘密を付与することができるのかを知っていたという。 ギリシアの芸術家たちのこの方法は、武道に類似しているといえる。武道のカタが、一種のモデルで、そこから、自らの動きの根本、精神を再構築するといえるからである。 では、ギリシアの芸術家たちは一体どこから彼らの認識を導き出してきたのか?この能力が芸術家自身から来るのではないということに、気づかないという。彼らは自分たちより前の芸術家たちに認識を負っていたのだが、彼らの先輩の芸術家たちもまた、その先駆者たちから認識を受け継いだという。
2007年01月10日
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シュタイナーは、数多くの講演と書籍を世に出しているが、前回まで、太古の医術、数秘学のものを、自分なりに要約し、言葉は悪いが一種ゲリラ的手法で味付けしてきた。 今回から、秘教そのものへの探求をはじめたい。シュタイナーのなかでは、とくに秘教そのもの、いわゆる、秘儀参入法が、最も数ある神秘学の中でシュタイナー独特のクライマックスというべきものといえる。 では、はじめたい。 自然とは大いなる幻想である。「汝自身を知れ」 超感覚的な世界の認識へと導く道についてまとめると、この超感覚的な世界の認識と、今日の輝かしい成功を基に導かれた何年にもわたる忍耐強く勤勉な探求の果実である現象世界についての認識とは相補的なものであることがわかるという。なぜなら、この現象世界の真実を理解できる人とは、人類のこれまでの知識遺産に、近年になって、自然科学や歴史科学によりつけ加えられた顕著な発見を、精神世界から導かれた洞察力によって補強できる人だからだという。 つまりは、現象(物質)世界の背後にそれを生み出す超感覚的な世界があり、その超感覚的世界を洞察力により認識できた人のみが、現象世界に現れる真実を知ることができるという。 人類が直面する外界は至る所で精神的であると同時に物質的であるという。つまり、あらゆる物質現象の背後には、真の主人公である精神的な作用力が見出されるという。精神的なものは真空中に存在することはできない。何故なら、それは絶えず活動すると同時に何らかの事象(時と場所)にある物質的なものに活発に浸透するからだという。 精神力が主体となり、物質を動かし、そのプロセスの産物が次の物質を形成していくのである。 真実(超感覚的世界認識、物質的現実世界) 人間が住むこの世界を、一方では物理的な環境についての考察を通して、また他方では精神的なものの知覚を通して、いかにその全体性において知り得るか、ということに関してまとめたい。そして、この要約によって、超感覚的世界の認識を達成するための真の方法と偽りの方法について示し、まとめることにする。 実際の主題に触れる前に、超感覚的世界認識から、何を期待でき、目的とは何かについて、何らかの考えを持つことができるように、その導入部分を手短にまとめる。 第一に、何故人類は精神的な探求を手掛けなければならないのか?何故人類は思考し、感じ、実践する人間として、現象世界をあるがままに受容できるようになっていないのか?一体何故人類は精神世界についての認識を達成するように努力するのか?という疑問を深く心に留めることが、この主題に関係するものだという。 この関連から、古来の概念、つまり、人間が思考し、憧れをもち始めた太古の時代から受け継がれ、今日でもなお世界の根底を探求するときに見出される諺に言及する。 何千年の時を超えて、東方から響いてくるのは、人類の感覚によって知覚する「世界はマーヤ、大いなる幻想である」という諺であるという。そして、人間がその進化のプロセスを通して常に感じてきたように、世界がマーヤであるとすれば、人類が究極的な真実を見出すためには、人類は「大いなる幻想」を克服しなければならないという。 しかし、何故、人間はこの感覚的印象の世界をマーヤとして眺めてきたのか?何故、正に人間が今日よりも精神に近いところにいた太古の時代において、科学、宗教、芸術、そして実際生活の育成のために捧げられた秘儀の中心、つまり、純粋に外界の大いなる幻想に対置して、人間の認識と活動の源泉である真実と現実への道を指し示すことをその目的とする秘儀の源泉が生じたのか?太古の聖なる秘儀の場所で秘儀参入者の弟子を訓練し、幻想から真実へと導こうとした著名な聖人たちをどのように説明すべきか?この疑問に答えられるのは、より冷静に、より客観的な角度から人間を考察するときだけだという。 「汝自身を知れ!」とは、過去の時代からやって来る別の古い諺であるという。先の諺とこの諺の2つの、つまり「世界はマーヤである。」という東方の諺、そして「汝自身を知れ!」という古代ギリシャの諺が融合したことにより初めて、後の人類の間で、精神的な認識を目指す探求が開始されたという。そして、結局、太古の秘儀の場における真実と現実を目指す探求もまた、世界は幻想であり、人間は自己認識を達成しなければならない、というこの二重の概念の中に起源をもっていたという。 自己認識を達成すべきという精神的な認識(世界は幻想である、汝自身を知れ) 人間がこの問題に取り組むなら、人生を通して、思考だけでなく、意志をもって、そして人間として直接関わることが可能な現実への十分な参加を通してのみ可能だという。世界中の人間が自分に、「外界というものは、見たり聞いたりすることは可能だが、人間が、なることができないものである」、と言えるには、人間が十全なる意識や、明確な理解をもつからではなく、ただ深い感情をもったときのみに可能であるからだという。 この感情は深いところから来るもので、「汝が汝の五官で、(外界を)感じることは可能だが、なることはできない外界とはそのようなものである」という言葉が示唆する意味をよく考えてみる必要があるという。 植物を見ると、最初に緑の芽が春に出て、夏には花が咲き、秋に向かって熟し、実を結ぶことがわかる。植物が生長し、衰え、枯れるその一生が一年の間に繰り返される。これは一年植物だが、多年植物は、幹を構成するために、一定の物質を土壌から吸収するという。 多くの非常に古い植物は、その一生が一年間に限られるのではなく、より長い期間へと拡張されることによって、その茎の上に新しい成長点を産み出すことができるように、上記のような硬化物質を、土壌から多量に吸収したという。そして、これらの植物がいかに生長し、衰え、枯れるかを観察するのは人間である。 そしてまた、人が動物を観察するとき、人間はその儚さに気づくが、それは鉱物界についても同じであるという。雄大な山々の連なりの中で鉱物が堆積するのを観察すると、身につけた科学的な知識によって、これらもまた儚いものだと気づくという。 そして、人類が最終的に拠り所とするのは、例えば、プトレマイオスやコペルニクスの体系のような概念、或いは古代の秘儀や最近の秘儀から借用してきた概念であり、そして、人類は、「私が星々の驚異の中に見るもの、複雑で驚くべき軌道上にある太陽や月から私に光を投げかける全ては、また儚いものである。」と結論づけるだろう。 しかし、その儚さとは別に、自然の領域には他の属性も存在し、もし人間が自分自身を知る存在であるならば、全ての儚いもの、つまり植物、鉱物、太陽、月、そして星々と、少なくともその儚さを感じている人間が同様に構成されているものだとは仮定できないだろう。 人間存在が儚さと同等ならば、人間は儚さのうちに周囲の幻と共に消えうるからであり、自分自身を知ることなどできないからである。 そして、人間は、自分の中に、周囲に見たり聞いたりする全てとは異なるある性質を有する次のような結論に至るという。私は私自身の存在を理解しなければならない。何故なら、私は私という存在を、私が見たり聞いたりするいかなるものの中にも見出すことができないのだからという結論に至るという。 人間はあらゆる古代の秘儀の中で、彼ら自身の存在の現実性を見出したいというこの衝動を感じる一方で、空間と時間の一時的な現象は大いなる幻想の表現であると感じられていたという。そして、だからこそ、人間の内的な存在の理解に至るために、彼らは感覚知覚を超えて見出されるものに眼差しを向けたという。 そして、太古人は古代秘儀のなかで精神世界を経験したという。ここでは、精神世界への正しい道をいかにして見出すかを主題としてまとめることになる。現代人は、現象世界を探求したときに採用したプロセスと同じプロセスを辿り、感覚的な知覚方法を単純に精神世界の探求へと移行するだろうが、もし、現象世界の探求が通常、幻覚に満ちているものとすれば、現象世界を探求するための方法をそのまま精神世界にも適用するならば、幻覚の可能性は減少するどころか、益々増加することになるだろう。そして、このようなことが実際に行われ、結果として、現代人はそれだけ余計な幻覚の犠牲になるという。 そしてまた、もし、はっきりしない期待、漠とした熱狂、魂の暗い片隅から湧き上がる説明のつかない予感や精神的なものについての夢のような幻想を心に抱くならば、精神世界は永遠に未知なものに留まるだろう。我々現代人は憶測の世界に留まり、信仰にあずかることはあっても、真の知識を持つことはありえず。もし、我々現代人が単純にこの道を採用することで満足するならば、精神的なものをよりよく知るのではなく、益々分からなくなり、こうして現代人は二重に彷徨うことになるという。 精神世界と現象世界に対して同じ探求の道を追求するならば、現象世界が幻想であることに気づくとしても、普通の精神主義者がときとして行うような、精神世界に対して現象世界に対するのと同じ方法でアプローチしようとすれば、益々大きな幻想に陥ることになるという。 他方、別の道に従ってアプローチすることもでき、例えば、はっきりと明瞭な線に沿うのではなく、勝手な思い込みや漠とした熱狂によって精神世界を探求する方法が挙げられるが、当然のことながら精神世界は閉じられた本のままに止まるだろう。 はっきりしない憶測や感情的な熱狂の道をどんなに熱心に追求しても、精神世界のことは益々分からなくなるという。第一に幻想が増幅され、第二に無知が増幅されるからだという。これら二つの偽の道に対して、正しい道を見出すべきであるという。 精神世界への探求の二つの偽りの道 1.物質世界と同様な探求方法を用いること 2.勝手な思い込みや漠とした熱狂による探求方法を用いること ここに書いた大いなる幻想についての知識を真の自己認識に置き換えるのは、ほとんど不可能なほど困難なことであり、更に言えば、たとえ精神的なものを理解するための真正で本物の道に向けて準備しているつもりではあっても、幻想に陥っている状態では、真の自分についての漠とした感情全てを克服し、現実の明確な知覚に至るのはいかに不可能なことであるかを心に留めておく必要があるという。
2007年01月09日
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「集合魂は物質界とアストラル界の間の境界のエーテル的な状態にある」と言っても、1つの境界線を想像するのではなく、物質界から出発し、図にすると、物質界の七つの小区分があり、続いて、アストラル界の七つの小区分がくるという。アストラル界のうち下から三つまでの区分は、物質界の上から三つまでの区分と重なり合っていて、つまり、物質界の上位三区分が同時にアストラル界の下位三区分でもあるというように、アストラル界は物質界にはめ込まれているとみるべきだという。これが、いわば物質界の周辺地帯というべきところで、人間の魂が死後、欲望によって地上に繋ぎ止められているときに、離れられないところで、カマローカと呼ばれるという。 物1-物2-物3-物4-物5(ア界1)-物6(ア界2)-物7(ア界3)-ア界4-ア界5-ア界6 ここで、物X;物質界X、ア界X;アストラル界Xを表す。 周辺地帯(Randzone)あるいはカマローカ(kamaloka)は、物5(ア界1)-物6(ア界2)-物7(ア界3) つまり、物質界は、物1-物2-物3-物4-物5(ア界1)-物6(ア界2)-物7(ア界3)の、いわばエネルギーの遷移状態があり、この7つの遷移状態の間に6つの間がある。これを三位一体の式で表すと、 例えば、物1-2(物1、物2)となり、これらは、いわゆる6次元空間を形成する。 つまり、物1-2(物1、物2)、物2-3(物2、物3)、物3-4(物3、物4)、 物4-5(物4、物5)、物5-6(物5、物6)、物6-物7(物6、物7) 恐らく、物1-2、物2-3、物3-4が、6次元空間のなかの物質の3次元空間で、 物4-5、物5-6、物6-物7が、零的な3つの反次元空間なのであろう。 だから、物5、物6、物7は、アストラル界の下位状態、ア1、ア2、ア3でもあるので、 物4-5、物5-6、物6-物7は、物4-ア1、物5-ア2、物6-ア3となり、この部分がカマローカというべきエーテル界で、物質界と反対の反次元空間となるのだろう。余談だが、スウェデンボルグはこのカマローカを精霊界と呼んでいる。 これに更に上位アストラル界を含めると、更に、ア4-ア5、ア5-ア6、ア6-ア7の3次元が加わり、 全部で、9次元あることになる。 超弦理論のM理論では、11次元空間を提唱しているが、我々の物質界では、3つの反次元が1つの過去から未来へのベクトルの時間軸になるので、6→4となり、M理論の11次元は、本質的には9次元になると思われる。 これは、3つの反次元空間が、三位一体の時間(過去、未来)から生じた、1次元ベクトル場を形成することを意味するものとなるだろう。この時間の1次元ベクトル場が、物質に質量を与える、素粒子物理学でいうヒッグス場となるのであろう。つまり、3つの反次元から三位一体の我々の時間次元が生じ、これが自発的対称性の破れとなるわけである。 1次元ベクトル場の時間(反次元過去、反次元未来) 現代物理学では、数学的に時間は温度の逆数であり、エネルギーの塊としてしか捉えることができない。これは、ダークマターと呼ばれる霊界の鏡構造、つまり未来と現在と過去が鏡像関係にあり、霊界の、未来と過去から、物質界の現在の時間が決まるというわけである。このことを波動で考えれば、イメージできる。現在の時間は、未来からの反作用の波動と、過去からの波動の干渉のもとに形成されるわけである。この干渉は量子化不可能であり、あえて行うならば、観測後、波束の収束面を観測体験から条件として付け加えるしかない。観測する者が観測できるものとして、意識可能な観測量として、後から付け加えるしかないのである。だから観測論問題は、観測そのものに帰されるのである。 このように、ここで最初の例として選び出した神秘学の記号、象徴、封印のなかに、深い神秘学的事実から得られたものを見出すことができる。従って、神秘学の学院における深い過去の叡智を曲解したり、現代知識によって考え出されたものだとみなしたりすると、全く道を誤ることになるという。 神秘学の教えの叡智に記号や象徴のなかに遭遇することは、直接の神秘学的考察によって確認されることが示されるという。神秘学の教えが比較的遠くない時代に作用していた例は、名前や言葉に、象徴的な意味が秘められ、この根底にある真の意味は高次の世界の事実であるという。文献学における言語形成の起源に遡る必要はなく、文献学によって確かめられるものでもないという。つまりは、文献学的に誤りとされたとしても、言葉の象徴学は霊的意味において正しいという。 物質界から出発してアストラル界を通り、デーヴァ(デヴァチャン)神界へと更に高く上昇していくほど、全てが物質界の鏡像として眼前に現われてくるという。まず、この鏡像を読み取ることを学ぶ必要があるという。 学徒たちにとって、数は、最も学び易いもので、この物質界の543という数があるとすると、この数はアストラル界では鏡像なので、345と読みとれるという。同様に他のあらゆる事物や出来事も鏡像として読み取ることができるという。 少々極端な例を挙げると、この物質界において、鶏が卵を生み、その卵から雛がかえる様子を辿ってみれば、アストラル界では、これと同じ出来事を、逆まわしにして、雛がいて、しだいに小さくなり最後に卵の中に入り込むというふうに、時間も逆行するという。 人間から発する情熱は、タブローに描かれたように見えるという。自らが発する情熱は魂の中心点から発し、この情熱の反映は、動物が自分の側に押し寄せてきたように現われるという。低級な情熱は野生の獣たち全般、ねずみやラットのようなものに見えるという。このことを学んでいなかったら、自らの情熱がねずみやラットとなって自分のほうへ押し寄せて来るのを見るとき、これがはじめての体験であれば、容易に迫害妄想その他の病理学的な状態が現われてしまうという。 高次の世界の低次の世界に対する関係についての事実としてこれまで書いてきたことを、人々は言葉遊びとしての進化論のなかに象徴的に表現しようとしてきたという。人間が地球での生存に入ったとき、人間はエヴァ[Eva]を通じて霊的な状態から感覚的な状態に入り込んだという。エヴァのなかに人々は霊的な人類が物質的になった、すなわち罪を負うこととなった状態を見たという。 人類を再び霊的なものへと上昇させ、世界に死をもたらした女性とは反対のものを表現しようとすると、逆に人類に再び不死性をもたらすものが表現されなければならないという。つまり、このエヴァの名前が逆にされなければならないという。 そのため神の天使はマリアに対して、「アヴェ(エヴァの逆読み)・マリア [Ave Maria]!」という言葉で語りかけたという。エヴァからアヴェマリアとなる(Eva → Ave )という。この逆転は象徴的な意味をもっているという。 アヴェマリアとは、肉体をもったマリアに、霊的なマリアになれという意味、つまり処女マリアという意味である。同時に人類にも、処女マリアを通して、肉体を霊的に解き放てといっているのである。 本末転倒の文献学がこのことに対して何と言おうと問題ではなく、重要なのは、神秘学においては、象徴が語の組み合わせにおいて作用を及ぼし、このような言葉を発することで、人間が物質界を、その流れにおいて逆方向である霊的世界に変えうるという神秘学的事実を意識するように求められてきたという。 人間こそが物質世界を、再び霊的世界に戻しえる救世主なのである。キリスト=イエスは、人類一人一人に、救世主の種を植え付けたのである。物質世界を霊的世界にかえるべき収穫の日は近づいているのである。その第一収穫期は、地球紀が終わりを告げる時期であり、新たなる木星紀のはじまりのときであろう。それまでに、霊我の萌芽を、愛により人間は育成しなければならないという。 このことは大変深い意味をもち、この背後に見出せる最良のものは、人間は言葉のなかにある、神秘学的な合法則性を認識することで、人間は言葉を発することにより、このような実習を、意識的にせよ無意識的にせよ、神秘学的修行として行なっているという。 つまりは、象徴学の原理は同時に修行の原理であるという。
2007年01月05日
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戦国時代と幕末が好きな私は、割とその映画やドラマをみている方だと勝手に自負している。従って、自称戦国通な私は、戦国ドラマや映画には自然と五月蝿くなってしまう。 戦国時代ドラマや映画を語る上で、重要なのは、歴史考察と配役だろう。特に、戦国ドラマや映画の質を語る上で重要なのは、脇役の細かい設定である。 そのような意味で、年始歴史大河ドラマ「明智光秀」は、昨今のNHKの大河よりは、出来が非常によかったと思った。少し、光秀に拘りすぎの美化した面と、何より、家康が登場しない点、秀吉の副官等家臣の役が粗雑な点、光秀-秀吉の有名な天王山の戦いが、あまりに演出されたところが、気に入らなかったが、現代ドラマの観点からすれば仕方がなかったかもしれない。 気に入った点は、光秀と秀満の関係と、織田家臣団の描き方、特に、隆大介の柴田勝家がよかった。柳葉の秀吉もよく、勿論、光秀の唐沢もよかったが、やはり少し前田利家を思い出し、信長の上川は、更に山内一豊をどうしても思い浮かべてしまう。 大河の主人公をやると、どうしてもそのイメージがつきまとうのは仕方がないことかもしれない。古くは寅さんの渥美清のように、致命的でさえある。 しかし、総体的にミスキャストは少なく、伝令や注進の細かい設定等、NHK大河よりは数段出来がよかったと思われた。 戦国モノの映画やドラマでは、一番の私のお気に入りは、やはり、黒澤の「影武者」である。もし、勝新太郎と黒澤がケンカさえしなければ、勝新太郎の影武者はハマリ役だったように思えて、非常に残念である。 「影武者」は、武田軍のみならず、徳川軍や織田軍の描き方が些細な点までよく出来ていた。やはり、巨匠の描き方は、なかなか超えられずといったところなのだろうか。巨匠までいかずとも、戦国ドラマとしては秀逸な作品だったように思われる。 亡き黒澤を超えるような大河戦国映画やドラマがみたい今日此の頃である。「ラストサムライ」のようなただ有名俳優が出た映画の評判がいいというのは、日本人が本来の日本的な仕事場を無くす要因なのかもしれない。
2007年01月04日
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肉眼で物質体を観察するように、霊視によってエーテル体を観察すると、人間においてエーテル体は、人-人間、獅子-人間、雄牛-人間、鷲-人間に分かれているのが見えるという。これらの集合自我はアストラル的性質のもので、霊視者はアストラル界における動物の集合自我と進化的人間の個別的自我の中間に、現代の人間の集合自我が位置するのを見るという。 現在の人間の自我(アストラル界における動物の集合自我、進化的人間の個別的自我) 時間的に過去に遡るほど、人間はエーテル体に関しては上記四つのうちの1つの形態をとることが多くなるという。四つの魂のグループは各々1つずつ人間の集合魂、つまり、1つは人間-集合魂、2つ目は獅子-集合魂,3つ目は雄牛-集合魂、4つ目は鷲-集合魂に帰せられるという。 ただし、これらの物質的な動物の形姿からとられた名称にあまりに拘りすぎると、誤った観念を持つことになるという。このような獅子-人間のエーテル体は、物質界の個々のライオンに類似するというよりもずっとライオンの集合魂の方に似ているという。キリスト教は、福音史家たちについて、彼らの魂が通常、現在の人間の魂のようではなく、人間のグループ全体(民族)を含むことを提示してきたという。 内的な魂の性質に従って、マタイは人に、マルコは獅子に、ルカは雄牛に、ヨハネは鷲に比較されてきたという。これらは、キリスト教的な秘教が福音史家一人一人の魂に帰する類似性に由来するものだという。人間が、ある面では(進化の)下降において、またある面では(進化の)上昇において理解されることを見ていくと、このことをもっと正確に理解できるという。 マタイ;物質体優勢の人、マルコ;アストラル体優勢の獅子、ルカ;エーテル体優勢の雄牛、ヨハネ;自我優勢の鷲 人間(進化の下降、進化の上昇) この地球上で唯物主義の最も深まった時点で、人間は個別的魂の原基を獲得したという。人間は1つ1つの集合魂、人-人間、獅子-人間、雄牛-人間、鷲-人間を厳密に区別していた古い時代から下降してきたという。人間が将来再び上昇したとき、人間はその個別的魂を保持したまま、より高次の段階において高次の意識で、以前にはボンヤリとした意識のなかに有していたもの、つまり四つの集合魂を再び発達させるという。そのようなわけで、キリスト教においては、福音史家たちに、これらの特性が付与されているという。 かつてのこの人間(古代人)の集合魂の概念を考えてみると、これらの集合魂は、空間的に、つまり並列的に生きているというよりは、むしろ時間系列の中で相次いで生きているという。動物の集合魂を観察してみると、ライオンのグループや鯨のグループを考えるなら、それら共通の集合魂はアストラル界に並列的に存在しているという。 けれども、人間の集合魂を観察するときは、更に時間に目を向けねばならず、人間の集合魂はエーテル的なもののなかで、いわば物質界とアストラル界の境界領域で、特定の時期に生まれ、再び特定の時期に変化してゆくという。 先に述べた人間の集合魂の類型の四つの集合魂は、四つの主要なタイプであって、無数の中間段階が存在するという。最も特色ある人、獅子、雄牛、鷲という形姿を挙げたが、これらは如何様にも混合することが可能であるという。 1つの人間集団を観察してみると、例えば1つの種族、古代中央ヨーロッパの種族、例として、ヒュルスカー族のような種族は、一旦現れては消えていったという。唯物主義的な歴史観察者は、ヒュルスカー族のなかに、抽象的なもの、種族をまとめる1つの概念しか見えないが、神秘学者はヒュルスカー族の中に1つの集合魂を見るという。 この集合魂はヒュルスカー族が歴史に登場したときに現われ、「生まれ出」て、ヒュルスカー族が勢力を増すとともに成長し、ヒュルスカー族が歴史から消えるときに、「死ぬ」という。進展してゆくヒュルスカー族の背後に、神秘学者は1つの進展してゆくエーテル存在を見るという。当然のことながら、エーテル存在とこの地上の物質的存在の間には差異があるという。 物質的存在は物質界で生まれ、成長し、生の最高点に達して、また死に、誕生と死が物質界の存在の特徴をなすという。しかし、アストラル界の動物の集合魂を数千年に渡って追求してみると、このような生成と消滅は「誕生」と「死」という言葉では表現できないものであるという。これらは全く別のものに基づき、すなわちそれは変化、変容というべきものであるという。 霊視能力をもってアストラル界で今日ある動物の集合魂に出会い、その集合魂の以前の受肉、つまり1500年前にこの動物の集合魂がどうであったかをみるなら、物質界のような年の若い人間を観察するということにはならないという。 確かに勿論、集合魂も青年期、中年期、老年期を経てはいくが、集合魂は老年期の最後に意識を捨てることも、死ぬこともないという。死を通過することなく絶え間なく変化を続けるという。このように、動物の集合魂を遥かに太古の昔まで遡って追求していけるという。つまり、変容があるのみで誕生と死がないからであるという。 ヒュルスカー族のような集合魂の場合にも同様のことがあてはまり、ヒュルスカー族が幾人かの肉体を持つ人間として物質界に現われると同時に、ヒュルスカーの魂が形成されたという。けれどもヒュルスカーの魂が生まれたというのではなく、別の時代から作り変えられ変成させられたという。 この魂はヒュルスカーの勢力とともに成長し、ヒュルスカー族が頂点に達したときに頂点に達し、ヒュルスカー族が物質界における歴史のなかで後退し消えてゆくときには、ヒュルスカーの魂は別の種族の魂となるために新たに若返るという。 つまり、魂は変容するのみだという。高次の世界において魂を観察すると、物質的な誕生と物質的な死は存在せず、我々の知っている誕生と死は物質界のみに存在するのであって、高次の世界には存在しないという。 この魂の変容は、現代理論物理学の超対称性の概念で、フェルミオンとボソンの関係に類似している。数学的にエネルギーが満ちた量子場に生成、消滅演算子を掛けることで、量子(粒子)が生まれ、消える概念を、フェルミオンという物質場、つまり物質界の生と死で表現し、その背後の反ベクトルの複素場を、超対称性のボソンというゲージ場として考えるのである。そうすると、6次元の場が数学的に記述できるだろう。 そして、3つの反次元と3つの空間次元の6次元空間のなかから、3つの反次元が、1つの時間次元をつくりだし、我々の物質空間である3+1次元=4次元空間を現出させると数学的に考えることができる。 3(反次元)+3(空間)=1(時間)+3(空間)=4次元時空間 このとき、3(反次元)は、我々の時空間でいう、未来への方向と、過去への方向と、それらを融合した現在の時間の3つの進化次元を、三位一体の表記で記述できるのである。 反次元空間=現在(過去、未来) つまり、我々の認識する時間の矢は、三位一体の原則からなるのである。霊界では、3つの次元に分かれる。だから、霊界にいくと、過去と未来と現在を同時にみることができるのである。 秘学の叡智はこのことをよく心得て表現していて、その際、数に対しては非常に注意を払っているという。特定の人間集団に属する集合魂がいつ成立して別の魂から変容して成長し、頂点に達して再び下降していき、更にまた別の集合魂に変化してゆくのか、平均の数を決定しようとしてきたという。 人間の寿命を平均75歳と見積もり(この数を大陰暦年とみなして)7を掛けると、四つのタイプにおける人間の集合魂の次の変化までの生命が明らかになるという。ここで、7によってその世代が意味されているという。 75X7世代=525 この場合、大陰暦年であることを考慮するという(およそ500年となる)。従って、神秘学においては、1つの集合魂は別の集合魂に変わり、その意識を失うことなく、新たに自分自身を生み出す、といわれるという。 このような集合魂の自我を観察し、この自我のための外的な表現手段を物質的なものに探すならば、これは血液であるという。血は神秘学者にとって火の現われであり、火で燃え立たされた実質であるという。人間の物質体が土の現われであり、エーテル体が水の現われ、アストラル体が空気の現われであるように、まだ利己主義に縛りつけられていない自我は火の現われであるという。 なので、血は利己主義を通して死を見出したといえるという。人間の自我は自分自身によって「自らの火の中でわが身を焼き付くし」ているという。これは神秘学上の表現であるという。 人間は利己心を克服するときにのみ、不死性に到達し、人間の集合自我は自らの火のなかで身を焼き付くすという。500年が過ぎると、集合自我は燃え尽き、自己自身から新たな形姿を創造するという。 このことが神秘学では、集合自我は一般に500年生き、それから燃え尽きて自らの火から再び命を吹き込まれると叙述されるという。 このことを「不死鳥(フェニックス)」と呼ぶという。フェニックスについての美しい伝説は、このように事実に即した背景を有しているという。フェニックスは四タイプの特性をもつ集合自我で、それは七世代後に燃え尽き(一世代を75大陰暦年と計算して)復活するという。 人間の4つの主たる集合魂(人、獅子、雄牛、鷲)は、75X7世代=525年で、集合魂を全改訂する大きな変化(地上における生と死)を遂げるという。そして、更に次第に、個々の自我へと分離していくわけでもある。 これがフェニックス伝説の真実の背景であるという。このようにして、フェニックスに関する古い伝説が、極めて奥深い神秘学的事実から創られたということの新たな証明が得られるという。何百年にもわたって神秘学の学院で教えられてきたこと、そして実際、神秘学の記号や封印はそれを表現しているのだが、上記のようなことが明示されなければならないという。 このような神秘学の真理の表現を聞き、人類が記号や象徴のなかに保存しているものと比較してみると、人間の意識はいかに多くのことを、自我が悟性的意識となる以前に既に創造していたことが繰り返し思い出されるという。現代人は、今日、既に随分進歩したと信じ込むが、人間の悟性は、過去の世の創造的意識、勿論秘儀参入者のみが有し、彼らはこれを伝説の中に隠したのだが、この創造的意識に遥かに遅れをとっているという。四種の動物についての象徴は考え出されたものではなく、その出発点、起源となっているのは、思考ではなく、観ることであるという。
2007年01月04日
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TVの再放送の「電車男」をみていて、「運命が記されている真珠が何処かの世界にある」という科白がでてきた。勿論、ドラマは、これを物質的な真珠のブラックパールという意味で捉え、南国の島にあるものとしていたが、本意が堕落し、伝説化すると、このようになるのだろう。 神秘学で考えると、この意味は明らかである。運命はおろか全てが記されている真珠とは、恐らくアカシャ年代記のことだろう。アカシャ年代記は、デーヴァ神界(天国)にあるといわれている。その下位のアストラル界でも、アカシャ年代記は読むことができるが、アストラル界では陰を読むことになるので、実際は亡霊や幻を読んでいるにすぎないという。 だから、アカシャ年代記を正確に読むには、デーヴァ神界にまで達する必要があるといわれている。これをホワイトパール、つまりアカシャ年代記を陽に読むことができるといえるだろう。 つまりは、ブラックパールとは、このアカシャ年代記をアストラル界で、陰(黒)に読むことを意味するのだろう。アストラル界とは、人間の魂と同じ性質をもつので、我々は、人間同士の心(魂)のやり取りから、代替的に、このアカシャ年代記(運命)を読むことが可能なのである。 ちなみに、真珠は、貝の傷(異物)を克服することから生まれるので、運命は自らの傷(異物)を克服したことから生まれるという意味にとれる。 ここに、カルマの法則がみえ、カルマとは、前世の傷(異物)であり、自己とは、その前世の傷(異物)を背負った存在といえるわけである。魂は絶え間ない浄化の永遠性を追求しており、浄化できないものを、来世の傷(異物)、いわゆる浄化できなかった異物の核として残すわけである。 我々は皆、異物を含んだ貝である。異物から真珠を生む作業が人生であり、そのプロセスが、デーヴァ神界、つまり天国に記されるのである。 だからして、キリストは、「富を天に積みなさい」といったのである。 さて、話しは少し変わって、本題の「干支」について話したい。 上述したように、運命とはカルマの法則からなる一種の法則である。化学や物理法則と同じように、水素と酸素を2対1で混合すれば、水になるというかのごとく、また、電子を動かせば(電気を流せば)、周囲に磁場が生じるかのごとく、これらと同じ意味を表すのである。 ただ、これらの現象には、抽象的な名前がつけられて物質的に分類されているから、理解できるものとなっているが、カルマの法則や運命の法則には、物的な名がなく、いわば、霊力と一概に呼ばれているのである。 そのような命名がなくはなく、いわゆる干支がその一種であるといえる。 さて、この干支であるが、干と支からなっている。干は幹、支は枝という植物という生命体の象徴学から来ているが、また干を天、支を地、更には干を陰、或いは女、支を陽、或いは男として捉えてもよいだろう。 三位一体の表記でかけば、自然と人間摂理(干、支)となるだろう。 昨年は、丙戌(ひのえ、いぬ)であった。丙は、力が盛んになり、衰えはじめる理を意味し、戌は、末梢的煩雑さ、複雑さ、過剰の理を説くものであるという。 つまり、昨年は、あまりに複雑化すると、力が衰え始めるので、単純化し、原点に戻ってエネルギーを回復させなければいけなかった年といえるだろう。なによりモラルが特に問われる一年であったといえる。 代表的な漢字一字が、「命」であったのも、人間が生命体という原点に戻って考えるべき事象や現象が頻発したせいであるともいえるだろう。 では、今年の丁亥(ひのと、いのしし)であるが、丁は、上と下が対等に相対するという理で、勢力均衡の理であるという。そして、亥は、核という意味もあり、恐らく核兵器に対して、なんらかの均衡作用が働くものと思われる。更に、亥は、男女が相対し、子を孕むという意味もあり、巨大なエネルギーを表すという。 だから、今年は、新旧の勢力が対峙し、些細なことから、猪のような爆発、暴発が生じる年だといえる。 では、丁度同じ干支でいう還暦(60年)前の1947年を振り返ると、以下の出来事があったという。ウィキペディアから抜粋。 できごと 2月28日 - 二・二八事件(台湾)勃発。 3月29日 - ヘクラ火山(アイスランド)が大爆発を起こす。 5月3日 - 日本国憲法施行 5月8日 - 福音電機株式会社(現:パイオニア)設立 6月24日 - ケネス・アーノルド事件、UFOの日 7月1日 - 公正取引委員会設置。 7月2日 - ロズウェル事件 7月3日 - GHQが財閥解体の一環として三井物産・三菱商事の解体を要求。 7月4日 - 旧日本海軍所属航空戦艦『伊勢』解体完了 8月4日 - 最高裁判所発足。初代長官に三淵忠彦が就任。 8月15日 - インド、パキスタンを分離し独立 9月18日 - アメリカで国防総省(ペンタゴン)と中央情報局(CIA)が正式に発足 10月14日 - アメリカの『ベルX-1』が水平飛行で音速を突破 11月20日 - 任天堂設立 11月29日 - 国連総会でパレスチナの分割案が可決(国連決議181号) 11月30日 - 旧日本海軍所属航空母艦『葛城』解体完了 エンツォ・フェラーリが小型スポーツカーを作る。(現・車会社フェラーリの始まり) 国際標準化機構 (ISO) 設立 とくに注目なのは、日本国憲法試行であろう。そして、旧勢力は解体され、新勢力が発足する出来事が多発しているのである。とくに、国防総省と中央情報局という陽と陰の世界的軍事機関や、得体の知れない科学技術、巨大なエネルギーのマシンの発明が相次いで起こっていることに気がつくだろう。 そして、その結果として国連総会で、パレスチナの分割案が可決されているのである。是は将来戦争を国富の原則として発動する20世紀という戦争時代の前触れであっただろう。 このことを鑑みると恐らく、今年、日本国憲法が、改正されるかどうかは、アメリカの新たなる核戦略や、もはや古くなった戦争のシナリオでしか潤えない不良債権と化した国防総省や中央情報局の解体と、新たなる世界的情報機関の創設にかかっているものと思われる。 もはや、時代は、情報戦略や戦争の時代に突入し、激しい文化闘争の時代へと前進していくのであろう。そのなかから、治癒的な反作用として、精神的な躍動、運動が浮上してきて、心の時代が到来するような予感がする。
2007年01月03日
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正月は、なぜだか歴史モノのドラマが多く、そのドラマをみるうちに、信長は、イエズス会の植民地政策の工作員なのではないか?と思ったのである。 小泉政権は、イメージ戦略として、かつての信長政権を標榜していたが、その時代を生きてみて、実感として、背後に、米国共和党のエスタブリッシュ、狂信的なプロテスタントのイデオロギーを感じざるをえなかったからである。 残念ながら、小泉政権に、明智光秀は現れなかったが、ともかくも任期が切れた御蔭で、本格的な米国植民地政策は回避されたが、今度は、行き過ぎた本家の米国共和党政権が、目覚めつつある米国民により、風前の灯火のなかにある。 かつて冷戦時代のソ連共産党のイデオロギーを批判しておきながら、まるで伝染したかのような、狂信的なプロテスタンティズムともいうべきイデオロギーを産んだブッシュ政権は、まるで政治の悪性腫瘍のような存在であったともいえるだろう。 かつての独裁主義は、伝染して、いまは世界的に地域格差化しているといえるだろう。 それは、イエズス会的な顕教からはじまり、ローマ帝国、ローマ法王会、イギリス王室、ロシア革命、ロシア共産党、ヒトラー政権、ソ連共産党、中国共産党、米国共和党政権と、なんらかのイデオロギーを金科玉条にした、植民地支配の土地所有領土拡張政策が続いているといえる。 現代では、民主主義の名を元に、物質主義の所有拡張政策は続いているのである。 かつては、信者獲得の現世利益主義が、領土になり、いまでは総資産強奪主義になっているのである。 つまりは、このようなイデオロギーは、人間のエゴからくる欲望の連帯保証機関とでもいえるものだろう。 話が信長から逸れてしまったが、神秘学では、歴史というものは、包括的に捉える必要があるといわれている。なぜならば、本人にも意識されていない、霊的な意志が働いているからである。無意識の内に、本人に作用するものがあるのである。従って、人間は、常に意識的に、論理的に行動するわけでなく、多くは、本人も矛盾のうちに行動してしまうこともあるのである。 ほとんどの行動は本人の意志に反して衝動から生まれるといえる。 信長が本能寺で家臣明智光秀により暗殺されたのは、信長が朝廷の脅威でもあっただろうが、何より、信長は、イエズス会の布教のみを認めた点にあり、他宗教を、根こそぎ弾圧していることから、恐らく安土城を、アジア植民地政策の中心点としたのであろう。 光秀により、信長の魂胆が露見し、朝廷にとって、最も危険人物となったので、その責任をとって、謀反に至ったのだろう。 信長自体は、イエズス会の戦略に乗らされていることを知ってか、知らずか、それはわからないが、家督と早々と信忠に譲っているところをみたら、イエズス会をなかば利用して、逃げようと画策したのかもしれない。 去年はそのような噛ませ犬のような連中が沢山出てきた、正に戌年だったが、今年は猪で、猪突猛進なので、とてつもない出来事が起こりそうな雰囲気である。
2007年01月03日
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今日、鉱物的な法則に従って時計を製作したり家を建てたりするように、将来人間は生命の法則に従って生物を作り出すようになるという。そのときに人間は生物に生命を刻印できるようになっていなければならないという。そのとき実験室の机の前に立つ者は、自らのなかから、いわば自らのエーテル体のなかにある振動を、生命を与えられるべき生物の中へと導入することができるようになっていなければならないという。 善良な人間であれば善のものを導入するし、良くない人間であれば良くないものを導入するという。ただ神秘学においては次のような教理があって、サクラメンタリズム(秘蹟主義)の秘密を修得しないうちは、生命製造の秘密と呼ばれるホワイト・ロッジの知識は人類に伝授されないとされているという。 サクラメンタリズムとは、人間の行為が道徳的完成、神聖さの炎に燃え上がっていなければならないということを表しているという。人間が作業を成す実験台が彼にとって祭壇となり、彼の行為が神聖なものとなったときはじめて、人間はホワイトロッジの知識を伝授されるに相応しく成熟するという。唯物主義に染まった今日の人間たちには、その実験台がいかに祭壇にはほど遠いものであるかを考えてみれば、このホワイトロッジは隠されたものとなるだろう。 人類がある道徳的進化段階に達すれば、人間の意識は鉱物意識から植物意識へと高められていくという。もう1つ神秘学の教理があり、それは「自分自身の幸せを他の全ての人々の幸せと分離できなくなったときにはじめて、人間は植物意識の状態に到達する」というもので、個々人が他の人々の負担の下に自らの幸せを追求する限り、意識が一段階上に引き上げられるという状態は起こらないという。 つまり、他の犠牲や不幸の下に、自らの幸福を築くのではなく、自他共に、共存共栄の幸福を築くのでなければ、生命創造の秘密は得られないわけである。 生命創造の法則とは、自他共に客観的かつ普遍的な幸福のなかに見出される。 以上のように、現代人は、物質体においてようやく真の人間の段階にあり、エーテル体はいまだ動物の段階、アストラル体では植物の段階、自我においては鉱物の段階であるという。このような事実のうちの1つ、つまり、エーテル体においては動物の段階であることを心に留めておくとよいという。 エーテル体は、現在地球に存在する間に段々と、真の人間の段階へと進化していき、益々一層エーテル体は愛によって、一人の幸せを他の人の幸せから分離できない愛によって貫かれていくという。最初に物質体が仕上げられ人間の段階に到達したように、今度はエーテル体が、そして次にはアストラル体と自我も、真の人間の段階へと高められていくという。現在、自我はまだ鉱物の段階だが、なにしろ、自我は地球上ではじめて人間に組み込まれたからだという。 今度は、人間の魂、つまり感受魂、悟性魂ないし心情魂、意識魂と意識魂の中に含まれた霊我ないしマナスと、エーテル体との関係を、以下のようにまとめると、エーテル体自体は動物の段階にあり、人間の高さに物質体があり、魂の第一の構成要素である感受魂を含むアストラル体は植物の高さにあり、更に、悟性魂ないし感受魂が続き、これら全ては植物の段階にあり、更に上方には、今日の人間に見出せる限りでの霊我ないしマナスを含んだ自我ないし意識魂があり、次のようになる。 鉱物 意識魂、自我/霊我ないしマナス、悟性魂ないし感受魂 植物・・・・・・・アストラル体/感受魂 動物・・・エーテル体 人間---物質体 次に、人間のどの構成要素の中にも、ある一定の方法で、他の構成要素が現れていることを明確にすると、人間の物質体は、第一に物質そのもの(鉱物)の開示を自らのうちに表現し、例えば、その感覚器官を観察すると、物質体のうちに物質原理(鉱物)が表現されているのがわかるという。眼の中には一種の写真機、カメラが、耳の中には一種のピアノがあるという。 つまり、感覚器官のなかに物質原理(鉱物)自体が表現されているという。 次に、人間の腺を観察すると、腺のなかに、エーテル体が表現されているのが見出せ、神経組織の中にはアストラル体、血液の中には自我が表現されているのが見出せるという。「血は全く特性のジュース」であるという。血を所有する者が人間の自我を所有するという。悪魔が人間の血を所有すれば悪魔は自我を得るという。 血液型の特性や吸血鬼の悪魔信仰は、ここからくるのであろう。 このように人間の物質体のなかに他の構成要素も入り込んでいて、それが物質体のなかで表現されているという。血液は無意識に脈打っているが、血液のなかで活動する自我は、自らの物質的プロセスを意識していないから、無意識だという。 物質体の中に他の構成要素の本質が現れているのと同様、エーテル体のなかにも他の構成要素の本質が現れていて、最もこの場合は「人間的に」現れているのではなく、「動物的に」、しかもある特定の動物の形で、外部に存在する動物の形姿と一定の類似を持つ形で現れているという。 このようにエーテル体の下にある物質体が影像のように現れているという。人間本性の物質的部分が現れているエーテル体のこの部分は、「人間」と呼ばれているという。エーテル体の中に現れているアストラル体、感受魂は、そのエーテル形姿が「獅子」に似ていることから、「獅子」と呼ばれているという。エーテル体の中に現れている悟性魂は、「雄牛」或いは牝牛と呼ばれ、霊我を担う意識魂は、霊視でみたエーテル形姿が「鷲」に似ていることから「鷲」と呼ばれているという。 エーテル体(動物状態) 人間(物質体;人間状態) 獅子(アストラル体/感受魂;植物状態) 雄牛(悟性魂;鉱物状態) 鷲(意識魂/自我/霊我ないしマナス;鉱物状態) ここにヨハネの黙示録の四つの徴(しるし)(人、獅子、雄牛、鷲)が、四つの本質的構成要素の、人間のエーテル体における顕現として挙げられるという。人間本性を表すこれらの意味深い象徴(シンボル)形象を考え出した人間の祖先は、空想や哲学、思弁等の知性の明敏さによって案出したのではなく、実際に、存在する霊的世界から、つまり隠された事実の世界から作り出したということが見てとれるという。 ここで明白にすべきことは、これらの四つの表現は、どんな人間にも同等に生じているわけではないということで、ある人の場合、四つのうち一つの表現が優勢であり、別の人の場合にはまた別の表現が優勢となるという。例えば、獅子が優勢の人もいれば、鷲が優勢の人もいる。つまり、4つに大別できる。 勿論、人類全体をその進化において考察すべきで、物質体(人間形状のエーテル体)が最も強く現れている人種は、現在没落しつつある赤色人種、アメリカ・インディアンの場合で、人体のなかの優勢な骨組織の特別な形成の中に見出るという。 赤色人種;アメリカ・インディアン=人間形状のエーテル体(物質体)が優勢で、骨組織の特別な形成が特徴 エーテル体が物質的に特別に顕現しているのは、また別の人種、黒色人種の場合で、腺組織の中に探索でき、それは植物の性質の1つでもある、炭素分離において見出せるという。 黒色人種;アフリカ=雄牛形状のエーテル体が優勢で、腺組織における炭素分離の形成が特徴 特に強く神経組織が物質段階に現われ、同時に敏感さも顕現している人間は、マレー人種の中に見出されるという。 マレー人種=獅子形状のエーテル体(アストラル体)が優勢で、神経組織と共に敏感さが特徴 そして特に血液組織が顕現している人種はモンゴル人種であり、霊我(マナス)の原理を養成しはじめている人間の一部はコーカサス人種に見出されるという。 モンゴル人種=鷲形状のエーテル体が優勢で、血液組織が特徴 コーカサス人種=鷲形状のエーテル体(自我ないし霊我)が優勢で、血液組織のなかの霊我の原理を養成しはじめるのが特徴 このように神秘学的真実から人種の分類ができるという。現代人の中に見出せる人種の場合、このような4つの動物形状のエーテル体のあるものが優勢で他のものは後退しているというように、人類全体に配分されているという。 人種(エーテル体の動物形状状態が優勢、エーテル体の動物形状状態が劣性)
2007年01月01日
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