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「ロゴスの復活(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 ロゴス(太陽神)の復活その3 1度目のゴルゴダの秘儀は、パレスチナの地で遂行されたが、2度目のゴルゴダの秘儀はコンスタンチヌス大帝の手で遂行された。事実、秘儀が絶滅してしまったことで、キリストは歴史上、再度、十字架にかけられ、殺されたのである。 なぜならば、数世紀に及ぶ恐るべき破壊は、歴史上、宗教上の、様々な最高の記念物を破壊しただけでなく(勿論、この破壊自体も大変な出来事だが)、人類史上、最重要な体験内容をも破壊してしまったからである。 けれども、当時の人々は、何が破壊されたのか、気づかなかった。眼に見えるものが破壊されたわけではなく、認識内容が、根底において完全に失われてしまったからである。 (一種の記憶「意識」喪失といえる。) セラピス神殿やゼウス神殿の偉大な建造物や彫刻作品が破壊されたとき、当時の人々は次のように語りあった。 セラピス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%B9 オリンピアのゼウス像 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%82%A6%E3%82%B9%E5%83%8F 「これらの神殿を破壊した者たちは、正しかったかもしれない。昔から、セラピス神殿が破壊されたら、天変地異が生じる、と言われてきたのに、ローマから来たキリスト教徒がセラピス神殿を粉々に打ち砕いても、何も起こらなかったではないか。」 当時の人々は、以上のように言った。 確かに星々が地に落ちてくるような出来事が生じたりはしなかった。天変地異は何も起こらなかった。けれども、太陽の秘儀を通して、これまで得られてきた叡智が、人間の体験の中から消え去った。 古代人の世界観、人生観の中で、眼に見える青空よりももっと力強く、天空を覆っていた偉大な叡智全てが、セラピス神殿と共に崩壊した。 背教者ユリアヌスもまた、その叡智の余韻をエレウシスの秘儀を通して感じとっていたが、「霊的な太陽と霊的な月が人間の頭上を運行しながら、霊的衝動を人間に送っている」という太古からの叡智は、そのとき崩壊した。 古代人がミトラの秘儀やエジプトの秘儀の中で体験してきた事柄は、全て混乱した形になってしまった。古代の秘儀においては、月と大地がかつて人間内部に開示した秘密を、供犠の儀式を通して、追体験できた。 この事実は、前にも述べたように、自身の認識に至る過程で、いわば魂を極度に凝縮することで、体験された。その全てが失われた、ということは、霊的な意味で、「天地がひっくり返ったこと」に等しい。 その数世紀間に失われたものは、人間が、突然、感覚器官を失い、天地がどこにも見えなくなってしまう出来事と同じくらいの損失だった。 古代世界は史書に述べられている意味で失われただけでなく、遙かに深い、深い意味において、消滅した。 もし失われた叡智を、もはや、とり返しがつかないものと考えたくないのなら、その復活を信じることができなければならない。復活を信じなければならない。 しかし、そのためには、力強く、大胆な思想を身につけなければならない。そのために何より必要なのは、先に繰り返して取り上げた、キリスト衝動の必要性を理解することである。 事実、宇宙カルマ的な必然性により、何百年もの間、人々はある観点からいえば、虚しい人生を送ってきた。そのような事実を、悟らなくてはならない。勿論、これはある観点からのみ言えることだが、人間は空虚な人生を送ってきた。 それは、内的に、自由への要求を強く心に抱くことにより、キリスト衝動を再び見いだすためである。まさにキリスト衝動を見いだすためである。しかし、現代の人々は、様々な方法で、自己満足に耽っている。この自己満足は、しばしば思いがけないところにも現れている。 ベネディクト会の神父ヴィンツェンツ・クナウアは、1880年代のウィーンで、様々な講演活動を行ったが、その中のある箇所をとりあげてみたい。それは、ストア学派についての講演の一節で、ストア学派を代表する人物としては、ツエノ(前342年-270年)、クレアンテス(前200年頃)、及びクリュシッポス(前282年-209年)がいる。 ベネディクト会 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E4%BC%9A ストア派 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE ツエノ(ゼノン) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3_(%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE) クレアンテス http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9 クリュシッポス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%B9 ゴルゴダの秘儀よりも数百年前の人物たちである。この人物たちについて、クナウア神父は何を語っていたのか。 「最後に、ストア学派を讃美するために、なお次のことを述べておきたい。彼らは全人類を包括する民族同盟(国際連盟)をつくろうと努力した。そして全ての人種的な反感や戦争を終らせようとした。 このことから、ストア学派は、彼らの時代だけでなく、遙か未来の今日の人類の非人間的な偏見を遙かに超えていた。このことは、わざわざ述べる必要のないくらい明らかなことである。」 クナウア神父は「国際連盟」をとりあげていた。この講演をとりあげたのは、現在(1920年代)、国際連盟について、ウィルソン他の政治家たちが語るのを聞くとき、紀元前3世紀の古代ストア派の声をいまでも聞くことができなければ、聞いたことにはならない、と思うからである。 とはいえ、古代ストア派の言うことの方が遙かに立派だった。なぜなら、ストア派の背後には、古代秘儀の力が働いていたからである。ストア派たちは内的な確信をもって語った。しかし、現在では、その確信は消えてしまい、その抜け殻だけが残っている。 やがて一段一段と次第に益々抜け殻だけが残るようになってしまった。通常の通俗的な意味での歴史家ではない、クナウアのような歴史家だけが、時おり、抜け殻になった歴史的現象の中に、その内実を見ていた。
2011年01月31日
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「ロゴスの復活(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 ロゴス(太陽神)の復活その2 今日の歴史学を通じては、人生の最重要な事柄を知ることはできないという点に関して、個人的な出来事を述べてみたい。 私(シュタイナー)は18、9才の頃から、ゲーテに絶えず取組んできた。しかし歴史学的、文献学的な意味で、ゲーテを論じようとしたことは一度もない。なぜなら、取り組んだはじめから、本質的に、ゲーテが今も生きている、という考えが、私の心を占めていたからである。 1749年に生まれ、1832年に死んだ地上の人間としてのゲーテだけに注目するのではなく、1832年にゲーテが死んだとき、彼の個性が生き続けるだけでなく、周囲の空気のように、とはいえ霊的存在として生き続けている、と思えることが重要である。 霊的な存在が周囲に生きている。エーテル体は第2の死体として魂から分離するが、そのエーテル体はゴルゴダの秘儀から生じたキリスト衝動を通して、保存される。解消し、消滅するのではなく、保存される。 「ゲーテはエーテル体として復活した」と信じ(信じる意味は既に述べた)、それを踏まえて彼を研究すると、自らの内部で、彼の想いが生きてくる。そして、地上での彼ではなく、今日、生きる彼を論じることができる。 このような体験から、復活の概念を人生に生かすことができるようになる。この復活の概念は、近代の深い秘密と結びついている。 いま、述べたことは、人間の感情や意志に関してはあてはまらない。しかし思考に関しては、次のような結論に至る。 「人間は、望み通りに思考しようとするが、肉体に受肉している限り、その望みは正しく生かされない。」 ゲーテがどんなに偉大な人物であったとしても、本来の彼の想いは、彼自身よりも偉大だった。しかし、その偉大な想いにも関わらず、肉体により、偉大になることを妨げられていた。 その想いが肉体から分離できた瞬間(エーテル体の中に生き続ける想いのことで、彼の感情や意志ではない)、その想いが後世の誰かに愛をもって受け入れられると、その想いは変化し、新しい生命を獲得するに至る。 地上の誰かの心に立ち現われた想いが、常に同じ姿をとっているなどと思わないで欲しい。人間の想いもまた復活する。このような事実を信じれば、血を通して祖先と結びつくだけでなく、霊を通して、魂の祖先とも結びつく。 上記のような魂の祖先が、ゲーテである必要はない。すぐ隣の善良なミュラーさんやシュルツさんでもいい。 キリストの言葉である、「血で体と結びつくだけでなく、霊で魂と結びつくこと」を体験できれば、人生の中に、復活の思想を有効に働かせることができる。 魂を通して過去と結びつく人は、自身の内部に、過去が生き続けている事実を体験する。その事実を体験できれば、キリストとの出会いにいたる瞬間が訪れるのは、時間の問題である。 それは仮説に過ぎないと批判されるだろうが、仮説として受けとって欲しい。もし、既に死の門を通過し、地球上に還った肉体をもつ人の想いと結びつくことができたなら、ある日、次のような事実に気づくだろう。 「この想いが、私の中で生きているのはキリストのお蔭である。キリストが、地上に存在する前には、決して、いまのように生きることはなかった。」 ゴルゴダの秘儀への道は、内的に歩むべき道である。その道を歩むためには、いわゆる客観的な歴史から離れなければならない。なぜなら多くのゲーテ伝が書かれたが、多くのゲーテ伝は、可能な限り忠実に、ゲーテの生涯を描こうとしている。 しかし、そうする度に、著者は自分の中のゲーテを殺した。実際、ゲーテの中に、かつて、ある想いが生じたとする。その想いは死後もまた変化し生き続ける。 キリストの場合にも同じことが言える。「どうすればキリストと出会えるのか」と問う人は、復活したキリストと出会う、という事実を忘れてはならない。必要な忍耐と持続力をもって、今述べた道を歩むなら、正しい時期にキリストとの出会いを必ず持つことができる。 しかし、その出会いに際しては、最重要点を見逃さないで欲しい。既に述べたように、アリストテレスは預言者だった。そして、この預言者としてのアリストテレスから、背教者ユリアヌスは大切な事柄を学びとった。 彼はエレウシスの秘儀への参入を通じて、存在の深い秘密に到達できなかったので、更にミトラの秘儀へ参入しようとした。それがペルシャ遠征の目的だった。彼は存在の秘密の全てを知ろうと思った。 しかし、それは許されず、その結果、ユリアヌスは殺害された。しかし、キリストをエレウシスの秘儀参入法で体験することは、初代の教父たちの願いだった。教父たちをグノーシス派と呼ぶかどうかに関わらず、後世の人たちとは全く異なる方法でキリストとの出会いを求めていた。 すなわちエレウシスの秘儀を通じて、キリストに出会おうとした。従って、キリストを宇宙的事象として受けとめ、繰り返し、次のように問い続けた。 「ロゴスは霊界においてどのように作用するのか?」 そして「天国で、人間と遭遇する存在の本性は何なのか? その本性はロゴスと、どのように結びついていたのか?」 初代教父たちは、上記のような問題に心を傾けていた。 事実、徹底的に根絶されたエレウシスやミトラの秘儀に眼を向けるとき、ゴルゴダの秘儀以来、数百年間、復活した存在自身が秘儀の中に現われて、秘儀を変革しようとしていた、と言わざるを得ない。 だからこそ、背教者ユリアヌスはコンスタンチヌスよりも優れたキリスト者だった。ユリアヌスは、キリストに秘儀を通じて出会おうとした。キリストとの出会いを通じて、アリストテレスの時代にはまだ得られなかった自我を秘儀により得ようとした。 今改めて、この古代ギリシア文化の遺した秘儀参入への道を辿り直さなければならない。古代ギリシアの秘儀を再び復活させねばならない。 資料文献なしに、秘儀参入への道を再発見するべきである。その道は、人間の内側への道でなければならない。その道を辿るときにだけ、相応しい方法で、キリストを再発見できる
2011年01月28日
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「ロゴスの復活(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 ロゴス(太陽神)の復活その1 アリストテレスもまた重要な事柄を後世に伝える可能性を与えられず、教会の手で(キリスト教の手ではない)、原典が短縮され、意味不明なものとなった。 (アリストテレスの原典は、瞑想や運動「体操」の書であったとシュタイナーは述べている。) 従って、不完全な彼の著作は、秘教的な方法で、根本的な修正を受ける必要がある。特に重要なのは、原典のなかの人間の魂に関する内容の修正である。アリストテレスとの関連から、この点について、次の事実を語る必要がある。 著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』他で述べている瞑想生活を通じて、どのような方法で、自身の中に、ゴルゴダの秘儀の源泉へと到る確かな道を見つけ出せるのか? 正にアリストテレスこそ、この問いに答えうる内的な体験を、自身の中から活力的に作り出そうと試みた人物だった。 ところがアリストテレスが、自身の瞑想の方法を述べ始めると、アリストテレスの解説者たちがでしゃばり出て、アリストテレス自身は、言葉少なになる。それは、アリストテレスが、瞑想の方法を書き記さなかったからではなく、後世の人が、書き写して伝えなかったからである。 アリストテレスは内面的方法、つまり神秘道を歩んだ人物だった。彼は自分の魂の中に、魂の不死を確信させる方法を見つけ出そうとした人物なのである。 さて、本当に内面的な経験に、一定期間、誠実な態度で没頭すると、無条件に、魂の不死の力を体験するようになる。人間の内部には、肉体の死とは無関係な、肉体から独立した本性が生きている。 この事実は、アリストテレスにとっても全く自明な事柄だった。従って、彼は更に先に進み、完全に集中し、ある事柄への体験を試みるが、その瞑想方法は、現在では短縮され、意味不明なものにされてしまっている。 ある事柄とは、古代の秘儀を理解するために、これまでしばしば示唆してきたゴルゴダの「内なる孤独」の体験のことである。神秘的な体験をするなら、この孤独を体験し、この孤独の苦悩を通過しなければならない。 この孤独感を本当に体験し、「今、お前の魂は自分の人生の最上部である父、母、兄弟、姉妹、及び他の全世界や、様々な制度などを根本から捨て去った。お前はお前の人生の最上部を捨てた」という結論に達せざるを得なくなることを、アリストテレスは知っていた。 この孤独感の中には、死を超越する存在が生きている。それは、外界とは、いかなる交流も持たない自我のみと関連した存在である。 外界と交流するためには、肉体と、肉体の様々な器官が必要である。しかし、自身と交流するには、それとは別な方法が必要で、だからこそ、孤独になる必要がある。 そこで、アリストテレスは、彼に従う全ての人に必要な言葉を次のように語った。 「今、私は死によっても破壊されない魂を、自分の中に体験した。しかし私を外界と結びつけた全て(肉体)は、死と共に失われた。私は、自身の中にしか存在しない。 それでは一体、死後の私は、絶対の孤独の中で、永遠に、自身だけを体験するしかないのか? お前が霊界について、もっと別な事象を体験しようとするなら、お前自身の力だけでは無力である。そのとき、お前は秘儀に参入するか、もしくは秘儀参入者の言葉に耳を傾けるか、のどちらかである。」 この言葉を洞察したアリストテレスは、一種の預言者になった。つまり、アリストテレスの時代にはまだ不可能だったが、今日の現代人にとっては可能で、重要な事柄を預言する人物となった。しかし、時代の変化を知るために、歴史を概観する必要はない。自身の中で、体験すればいい。 今述べた絶対的孤独という神秘的体験を、再度振り返ってみる。この体験は、しばしば語られている神秘的な体験とは全く異なる。 神秘的な体験はしばしば自己満足的な形で、自分の内部に神を体験することを語る。しかし、これでは完全な神秘的体験とは言えない。完全な神秘体験とは、絶対的な孤独の中で、神を体験することである。神だけと共に自分を体験する。 この孤独の中で生き続けるには、十分な強さと忍耐が必要である。そして孤独は、強い力の1つである。孤独の中で意気消沈するのではなく、孤独を1つの力として自分の中に生かすとき、これにもう1つの体験が加わる。 勿論、上記の事柄は体験するしかない事柄だが、この体験こそが直接の内的確信を与えてくれる。 「お前の体験する、この孤独は、お前自身によって作り出された。お前が作り出した。お前が体験する神は、お前の出生と深く結びついている。しかし、この孤独は生まれつきのものではなく、お前から生じたものだ。この孤独の責任はお前にある。」 上記が第2の体験である。 この体験と共に、自分は、神殺害に連帯責任がある、という感情を持つに到る。魂の孤独が十分な期間作用したとき、神的な存在が人間により殺害され、人間が神を殺した、という罪の意識が生じるようになる。 もし、そのような意識を持たなかったなら、神の子キリストの死について、何も語れない。神秘的体験は曖昧なものではなく、段階を追ってはっきりと生じる。このような意識から、キリストの死をも体験できる。 このキリストの死の体験が十分の強さをもって現われるとき、復活したキリストが現われる。このキリストは先ず内なる神秘的体験を通して現われ、先ず、その死の動機づけを体験する。 しかし、まだ、この孤独-神殺し-復活という3段階の神秘的体験だけでは、ゴルゴダの秘蹟の源泉への道を見つけ出すには不十分である。それには、今日全く見失われてしまっている事柄がつけ加えなければならない。 19世紀に、この事柄が全く見失われてしまったことを、誰よりもはっきりと指摘したのは、フリードリヒ・ニーチェだった。特に論文「生に対する歴史の利害」上である。実際、キリスト認識を不可能にしてしまった点で、歴史に優るものはない。 従って、ゴルゴダの秘儀は19世紀の歴史学により徹底的に否定された。勿論、今日、この歴史学に異義を唱えるものは、愚か者だが、どんなに厳密で、文献資料的でも、人間の魂は歴史学の中では死んでいる。今日の歴史学を通じては、人生の最重要な事柄を知ることは出来ない。
2011年01月28日
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再び、自然のなかの霊的存在との内密な関係のなかに参入していくべきである。宇宙との人間の内密な関係を再び知るようになれば、健康な人間と病んだ人間への真の洞察が再び発見できるだろう。でなければ、どんな薬学を用いようとも、内的な関係が洞察されることがなく、絶え間ない試行が繰り返される状況に変わりがない。 15世紀から今日まで人間の精神の進化において一種の不毛の時代があった。この不毛の時代は人類を圧迫した。というのも、植物や動物や、人間、更には鉱物を見ても、何も理解できない、この不毛な時代は、人間全般を、あらゆる宇宙的関連から引き離したからである。 そして、結局、人間は、混迷のなかに入り込んでしまい、混迷のなかで、今日、自らを知ることなく、宇宙との関係をもはや洞察できない世界に対峙しながら生きている。 宇宙との内的な関係のような事柄が理解できていた時代には、生殖が生じる度毎にマクロコスモス全体が語りかけている事実を、人間はよく知っていた。 生殖可能な胚(卵子)、もしくは種子(精子)のなかに、全マクロコスモスの模写(複製)が生じる。大宇宙は、人間の外にあるが、極めて小さな胚(卵)のなかには、大宇宙の様々な領域からやってくる作用の結果が存在する。 (素粒子なども、全宇宙の模写「複製」なのだろう。) さて、人間のなかでは最初、地球の物質的-中心的な力が共作用している。この物質-中心力は人間の全器官(臓器)のなかで作用しているが、この力に対して、あらゆる領域からくるエーテル力が随所で共作用している。 例えば、肝臓、脾臓、肺などを考察すれば、地球の中心からくる力と、地球の周囲の宇宙の領域からくる力が共作用している、という事実を知るときにだけ、これらの臓器が理解できる。 更に、ある臓器はアストラル体や、自我にも浸透されているが、他の臓器は、これら高次の霊的器官(作用)にはあまり浸透されず、本質的に、睡眠状態には、どんな臓器も、アストラル体と自我には浸透されていない。 では、ある臓器、例えば肺を考察する。例えば、何らかの原因で、万有宇宙の領域からくる力が、人間の肺に過度に強く働きかける状態になったとする。肺は病気になるだろう。なぜなら、肺のなかで地球の中心からの作用と、周囲からくる作用との間に、一種の調和的な均衡状態が生じていなければならないからである。 今、肺のなかで過度に強く働きかけているエーテル力の釣り合いをとる鉱物(ミネラル)を、首尾よく発見できたなら、強く作用しすぎているエーテル力を除去できる治療薬を獲得できる。また、逆に、エーテル力があまりにも弱くなって、地球の中心点から作用する物質力が強くなりすぎる、といったような状態が生じる可能性もある。 その場合、病気の原因となっている臓器を通じてエーテル力を強めるように作用できる薬剤を、周囲の植物界のなかに探求すれば、相応しい治療薬を発見できる。 物質(肉)体を観察するだけでは、当面の処置に対する治療薬を見つけ出すことも不可能で、物質的な人体には、人体の歴史的な成立に関して事実を語る根拠が全く存在しないからである。というのも、人体のなかで起こっている、いわゆる正常なプロセスは、自然のプロセスでもあるが、病気のプロセスもまた、自然のプロセスだからである。 (物質は、用途や目的に応じて存在意味をもつので、用途や目的のない無目的な物質は、無意味である。) 例えば、いわゆる正常な肝臓をもっているなら、自然のプロセスだけが生じている肝臓を持つことになるが、潰瘍を起こした肝臓をもつ場合でも、やはり自然のプロセスだけが生じている肝臓をもつことに変わりはない。 物質体からは、自然のプロセスにおける正常と異常の違いを見つけだすことが不可能である。物質体からは、ある場合は、別の場合とは異なって見える、という事実を確認できるだけで、原因について何も知ることはできない。 もし肝臓に潰瘍があったなら、例えば、アストラル体が、適切な均衡を保つべき程度よりずっと強力に肝臓に介入している、という事実を知ってはじめて、潰瘍の原因が発見できる。肝臓の潰瘍形成の場合、肝臓に強く介入しているアストラル体を、肝臓から追い出す必要がある。 物質体から出て、人間の本性の高次の構成器官にまで参入しないことには、健康な人間と病気の人間に関する真相に迫る可能性が存在しない。結局、次のような結論に達する。 「薬学は、本質的には、人間の物質体を超えて、霊的な高次の構成体に参入するときにはじめて意味をもつ。なぜなら、病気の本質は、物質的な人体からは理解できないからである。」 今回の講義は、歴史的関連からの事実の叙述を意図しているが、古代から近代へともたらされてきた叡智が次第に光を失っていったとき、人間認識一般も、ことごとく消え去っていったことがわかる。 今日、再び人間認識を獲得しなければならないという急務の前に立っている。この人間認識は、人間と周囲にある自然界の関係を再び把握できるときにだけ獲得できる。
2011年01月27日
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「霊視を通して見た植物と動物と人間 高橋 巖:訳」の意訳 既に学校で学んできたように、人間は周囲の空気を呼吸できなければ、生きられず、その空気は、酸素と窒素からなっている。人間は空気に完全に依存して生きている。 ではもし、この空気に、実際よりも多くの酸素が含まれていたら、身体はどのような変化を受けただろうか? 空気に酸素が多く含まれていたら、生きる速度が速められただろう。つまり現在より寿命が遥かに短くなっただろう。時間がいわば短縮されて、人生が短くならざるを得なかっただろう。 このような言い方は極めて粗雑だが、人間が生きている環境というものは、条件が少しでも変化すれば、人間の生体全体が変化せざるを得ない位、大きな影響を与えている。人間と環境との密接な関係はよく知られているが、人間の魂や霊になると、物質的な身体(肉体)のようには、正確に理解されていない。 物質的身体のことなら、空気中の酸素が少し増えるだけで、人間にどのように大きな影響が生じるか、誰でも理解できるが、人間の霊や魂については、肉体のようには、厳密に考えることができない。 しかし、肉体が空気中の酸素の量に適応しているように、生まれてから死ぬまでの霊や魂も、周囲の環境に完全に適応している。人間の肉体は地上から数マイル(1600km)離れただけでも生きるのは困難だが、思考や感情や意志を司る人間の魂も、地上の環境以外では、生きていけない。 地球と異なる環境では、魂や霊として別の形に組織されないと生きられない。人体が地上から数マイル離れてしまったら、地上と同じように呼吸活動ができないように、人間の魂も地上の環境から離れてしまったら、思考や感情や意志を、地上と同じように働かせることができない。 地上での、通常の思考や感情や意志とは異なる体験を魂が持てなければ、上記のような事柄に関する正確な観念を持つことはできない。著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の読者なら、地上とは、異なる魂の様子を理解できるだろう。 地上での、通常の思考だけでなく、霊視を、思考内容だけでなく、霊的なイメージを体験する魂の様子について理解できる。同様に、霊視を上回る霊聴も獲得できる。その際、肺が空気を呼吸するように、霊や魂の働きは、宇宙に広がっている霊や魂的な成分(要素)を呼吸できる。 呼吸を通じて、酸素を受けとり、生体を維持するように、人間の魂も、高次の認識能力である霊聴により、霊的な生命を維持する。より高次の霊的な認識能力である霊的合一についても、同じである。 上述のように、魂は肉体とは全く異なる内(精神)的な体験を獲得できるが、この体験は、肉体からの魂の離脱と結びついている。霊視、霊聴、霊的合一に至るとき、人間はもはや肉体の中にいるようには感じない。そのときの魂や霊は、まるで肺が通常の空気の代わりに、まるで光を呼吸する器官に変化したかのような存在となる。 さて、肉体には不可能だが、霊や魂の働きにより、肉体から離脱し、地上の観点を離れ、肉体に受肉する以前の観点を獲得することで、人間は宇宙と別様の関係を獲得できる。 地上から宇宙の彼方に眼を向けると、昼間なら、光を見るが、夜なら、星空を見る。そのとき、人間は視力を用いるが、視力には、自らの意志が絶えず働きかけている。視力を働かせるには、常に意志が必要である。 同様に、霊視力を働かせるには、この意志の力を更に働かせる必要がある。意志を強化し、霊視力を働かせれば、宇宙空間を突き抜けて、外から宇宙を見るようになる。地上では、肉体の内から宇宙を見ているが、肉体を離れると宇宙を外から見るようになる。 霊視の際は、通常の視力ではなく、意志力を、見霊化することで、霊的に見ることができる。いわば、意志が広がり、その意志の中に包まれているような感じをうける。 霊視の場合、星々をも外から見るようになる。エーテル界からではなく、アストラル界から、星々を見る。アストラル界は空間であるとも、ないとも言える存在である。空間の有無は、あまり意味がない。むしろ、人間自身が空間を内に持つかどうかの認識にある。 しかし、霊視の場合、星々を見るというよりも、星々のイメージを見るという感じである。星々の全てにイメージを得る。 従って、なぜ古代人が宇宙を表現するのに、星々でなく、そのイメージを描いたのかが突然理解できるようになる。 (星座を、人や蛇や鷲といった動物などのイメージで捉えたことが理解できるようだ。) ところが、宇宙を、様々なイメージを通して見続けると、全てのイメージから作用が地上に働きかけている事実に気がつく。それらの力は集中して働きかけている。 地上から星々を見ると、光が分散し輝いているように感じられるが、外側から見ると、様々なイメージから発する光の効果、また光の効果だけでなく、様々な作用が集中して働いているように感じられる。 では、地上にまで達する、その働きはどのような効果を示しているのか? 例えば、その効果は、植物の形態をつくり上げている。霊視すると、ユリは星々の群れによりつくられた形態を示す。また、チューリップは、ユリとは別の星々の群れによりつくられている。 このように、地上の植物は星空によりつくり出されている。恒星は植物に形態を与え、根から上方に延びていく植物の運動は惑星により促されている。そして、植物自身の行う代謝活動、炭酸ガスを吸収し、同化して、酸素を排出し炭素体を形成するのは、地球の働きによる。 植物を全体として考察すれば、その形態は恒星により、その成長は惑星の運動により、その代謝活動は地球による。 このような見方は、科学者から見れば、荒唐無稽にしか見られないが、真実である。比喩的に言えば、磁石の針と同じである。針は一方が北を、他方が南を示している。磁石の針が北や南の方向を指し示すのは、磁石の針に基づいている、という科学者の見方に似ている。 地球が巨大な磁石であり、磁石の針を北と南に引き付けている事実は、科学者でも知っていることなのに、植物の形態の説明において、宇宙全体の働きを考慮に入れようとしない。 しかし植物は宇宙全体からつくられている。 植物の形態を単なる細胞の働きだけから説明しようとするのは、誤りである。 動物の場合は黄道十二宮までを考慮すればいい。黄道十二宮の外に存在する恒星群は、動物に影響を与えない。動物は植物よりも自立し、その生体形成においては、全宇宙に依存せず、黄道十二宮(領域)以内の力にのみ依存している。 人間は動物よりも更に自立するようになったので、肉体には、惑星の力だけが働いている。人間の魂や道徳的な側面においてのみ、惑星以外からの影響を受けている。人間の形態に関しては、特定の星座ではなく、宇宙全体の天球に対応させることができる。 人間の頭脳は星空全体(天空)の模造である。成長には、惑星の運動が作用しているが、植物や動物のように、個々の惑星ではなく、太陽系全体が作用している。 そして人間の代謝活動には、地球が作用している。以上を表にすれば、以下のとおりである。 形態―星空 植物 成長―惑星 代謝―地球 形態―黄道十二宮 動物 成長―惑星 代謝―地球 形態―天球 人間 成長―惑星 代謝―地球
2011年01月27日
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昨今、鳥インフルエンザが巷を賑わせている。その前は、豚、牛だった記憶がある。それも宮崎だった。そして、その前には、人間のインフルエンザ流行が話題になった。 全ては連動していることを考えれば、一連のインフルエンザ感染や、その過剰な報道をみると、個人的には、恣意的なものを感じざるを得ない。その都度、常に新型ウイルスが悪者とされてきた。 しかし、単純に考えて、現在全てのウイルスを、人間が特定できていない限り、旧型か、新型かは、少なくとも発生の意味ではなく、新しく同定されたという人間側の都合で、型が決められていることがわかる。 単純にいえば、昔から存在していたが、新しく発見され、過去に例がないので、新型としているわけである。少なくとも、人間が同定するかどうかではなく、新しく発生したという証拠をみつけないと、新型というのは意味がない。 もし、新しく発生したのならば、発生させた原因をみつけなければ、探索する意味がないばかりか、かえって、嘘をつくことになる。 新型の発生原因をみつけだせない科学は、一体なんのための科学なのだろうか? さて、別の見方で、この問題を考えてみると、新型ウイルスというのが本当だとすれば、時系列的にいえば、人間⇒豚⇒牛⇒鳥となっている。このような単純化は極めて間違いに導く危険をもっているが、少なくとも、報道のやり方をみると、恣意的なものが感じられる。このように宿主を変えるウイルスがありそうもないからだ。 というか、そもそも、ウイルスは至る所に存在するものと考えるのが普通である。でないと、少なくとも、同時に人間の免疫の対応力が限られることになるからである。新種のウイルスが発生するだけで、理論的には、その免疫をもたない生物は絶滅してしまうことになる。 人類は、少なくとも何万年も地上で生きてきたわけで、単なる新種ウイルス発生で、全滅するなんて、その何万年も生存していた結果が瞬時に無に帰してしまうではないか。全くアホらしい人類である。 いい加減、恐怖心を煽る報道はやめにすべきではないかと思う。 話を変えるが、私は海水魚飼育に熱中している。海水魚飼育から、生態系の仕組みが非常によく理解できる。 海水魚飼育において、海水魚を死なせた場合、その責任は、飼育者にあるのが普通である。なぜなら、飼育環境の管理は、飼育者に責任があるからである。従って、自然環境に近い環境と同時に病原菌に対応する環境を整えてやらないといけない。 それら適切な環境を整えても、海水魚の飼育数は限られる。 さて、一概に、海水魚飼育とは、比較できないかもしれないが、問題となっている鶏のインフルエンザ感染について、飼育環境が問題とならず、ウイルス発生にばかり目がいっているのは一体どういうことなのだろうか? 過去の牛、豚に対する新型ウイルスの感染力すらも問題にされてなかった。 生物は、生存環境に適応している。生存環境が変われば、生物もそれに応じて免疫を変えないといけない。早く言えば、生存環境に偏りが生じ、いわゆる病気になると、それに応じて、生物にも偏りが生じ、病気になる。 この論理を古代人はよく理解していたので、与えられた土地を守ることを信仰とし、それが形骸化し、アニミズムとなった。 やがて、人間はみえるものしか理解できなくなり、責任が目にみえるようにならないと、責任を回避するようになった。現代人の特徴は、一言でいって、無責任にある 責任を他に帰するは非常に容易である。専門家に聞いても、専門分野の過去の事例から類推するしかない。そもそも、新型ならば、過去の事例にすがるしかない専門家の意見など、対処の経験がないのだから、類推力のいかんに帰し、ほとんど無意味である。 挙句の果てには、渡り鳥のせいにしている根拠がよく理解できない。渡り鳥が運んできたのなら、渡り鳥には発症しなかった理由と、渡り鳥が運んできた元の場所にいって、同定しないと、少なくとも科学的とはいえないだろう。 このような理由なら、悪霊のせいであるというインチキ霊媒師と同じである。「科学的」といえばすむという科学的信仰馬鹿のせいで、自らの頭を使って考えずに、専門馬鹿の発言を鵜呑みにする馬鹿、いわゆるB層が増殖中なのが、新型ウイルスよりも、非常に問題である。 このようなB層の増殖により、日本という国体が滅ぼされるほうが深刻である。 国が何を言おうが、何をしようが、全て自己責任で、農畜産を守り、土地を守る人間の方が断然偉いと思う。このような目にみえない偉人たちの努力で、日本の農畜産は守られ、国体が維持されてきたという事実に揺らぎはない。 海水魚飼育を支えるのは目にみえない微生物の生存環境にあることは、海水魚飼育の熟練者なら常識なのである。
2011年01月27日
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さて、人間は、物質(肉)体、エーテル体をもっている。 では、アストラル体とは何なのか? 空間のなかに、もはや第3の力は存在しない。第3の力は空間には存在しない。アストラル体は、その第3の力を空間の外に持っている。 エーテル体の力は周囲の至る領域から入り込んでくるが、アストラル体は、空間の外から力を受け取る。 地球の物質力が、あらゆる方向からくるエーテル力に組み込まれる様子を、自然における特定の場所に探し出すことができる。 では、上記の探求を考察してみる。蛋白質は、物質的な地球に存在する。蛋白質のなかで、硫黄、炭素、酸素、窒素、水素が化学的に安定している限り、蛋白質は、地球の物質力に従う。 蛋白質が生殖の領域に入る(カオス状態となる)と、蛋白質は、物質力から引き上げられ、周囲の万有宇宙の力が、カオス状態に分裂した蛋白質に働きかけ始め、全万有宇宙の摸像(複製)として新たな蛋白質が生じる。 (全宇宙の設計図が、受精した卵子のカオス状態に作用し、複製される。) しかし、カオスという分裂状態に充分に進行できない状態が生じる場合もある。例えば、生殖が生じるためには、全万有宇宙の力が組み込まれるように、産みつけられた卵のなかで、カオス状態が生じるように蛋白質が分裂する(破壊される)必要があるが、ある動物(昆虫)では、生殖のために、全マクロコスモスが本来組み込まれるべき蛋白質を、カオス状態にまで充分に分裂する(破壊される)ことから妨げられている。 生殖可能な蛋白質は全マクロコスモスが組み込まれなければならない。この昆虫とはタマバチで、生殖可能な蛋白質形成から妨げられている。 タマバチ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%90%E3%83%81/ では、タマバチは、この妨害に対して何をするのか? タマバチは、妨害を克服するために、植物の一部に卵を産みつける。タマバチが卵を産みつけた柏他の木々には虫コブ(没食子)が見つかる。奇妙な虫コブが、例えば植物の葉についているのを見つけるだろう。虫コブのなかにはタマバチの卵がある。 没食子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A1%E9%A3%9F%E5%AD%90 なぜ、虫コブが生じるのか? なぜタマバチは卵を、例えば柏の葉に産みつけ、内部に発育しようとする卵が入った虫コブができるのか? 卵自体では発育できず、植物の葉は、自らのなかにエーテル体をもち、このエーテル体が、全宇宙エーテルに適合し、この葉のなかのエーテルが、タマバチの卵の発育の助けとなるからである。タマバチの卵は卵だけでは発育できない。 従って、タマバチは、既にエーテル体を内部に持ち、全宇宙エーテルに組み込まれている植物の一部に卵を産みつけることで、全マクロコスモスを組み入れる。 つまりタマバチは、自らの蛋白質に、カオス状態への分裂を起こすために、周囲の宇宙から、柏の葉を通じて働きかけることができるように、柏の木に近づく。なぜならタマバチの卵だけでは発育できず、タマバチの卵はあまりに固く結合しているので、分裂できないからである。 (受精後、卵子は分裂しはじめるが、マクロコスモス、つまり全宇宙を受容するためのカオス状態へと進むために分裂するようである。) 上記のような事実は、自然のなかで、いかに不思議な活動が営まれているかを、覗き見る可能性も与える。このような活動を、自然のなかの日常の光景と比べてみる。想像すればわかることだが、この昆虫は、生殖のために宇宙エーテルに曝されるべき胚を提供できないだけでなく、自身のなかで任意の物質を食物に変え、内的な栄養に用いることもできない存在である。 上記のタマバチの例から、ミツバチの生活環がすぐに思い浮かぶ。ミツバチは雑食性ではない。ミツバチの食べ物は、植物により既に準備されたものである。 さて、ここで非常に不思議な事象に遭遇する。ミツバチは植物に近づき、蜜を探し、摂取し、体内で加工し、驚くべきもの、つまり、蜂の巣を、例えば、巣箱のなかに巣房を作り上げる。 ミツバチの生活環から2つの不思議で驚くべき経過を眺めることができる。外で花にとまっているミツバチが花の蜜を吸い、それから、巣箱に入り、他のミツバチと一緒に、蜂蜜で満たすための蜜房を作り上げる。 このプロセスに、何が隠されているのか? ミツバチの蜜房を形(フォルム)から捉える必要がある。蜜房は以下のように形成されている(下図参照、右)。 例えば、上図の左側の図形が、1つ2つと続く。これらは小さな房で、なかは空洞で、勿論、物質で満たされるように作られるが、これと似たような形状をもつ、水晶、つまり珪酸の結晶の形成とは幾分異なって形成される。 例えば、山に出かけ、水晶をみたら、上記のようなイメージが描けるだろう。水晶は幾分不規則なところもあるが、連続した巣房にほぼ似たようなイメージになるだろう。ただ、巣房は蜜蝋で、水晶は珪酸で出来ている違いがある。 上記のイメージを追求していくと、次のようなことがわかる。 「普遍的なエーテル、アストラルの影響下で、地球の特定の進化期に、珪酸の助けをかりて、山のなかに水晶が形成された。」 このような事実のなかに、地球の周囲からやってくる様々な力、いわゆるエーテル-アストラルの力による珪酸における水晶の形成力を発見できる。外界の山地に、驚くべき六角形の形成物である水晶を見つけることができる。 この水晶の中が、空洞になれば巣箱のなかの巣房と同じ構造となる。つまり、ミツバチは、六角形の水晶を作り出す要素を、花から取り出す。この六角形の形成力を、ミツバチは花から取り出し、自身の体を通して、いわば巣房という水晶の複製を作り出す。 ミツバチが巣房をつくるとき、ミツバチと花の間では、外のマクロコスモスで生じた過去の出来事に似たプロセスが生じている。 上記のような事実を述べるのは、炭素、窒素、水素、酸素云々といった、嘆かわしい抽象性を眺めるだけでなく、自然のなかのプロセスのなかに、外界の驚くべき形成プロセスを、内的で親密な関係として見つけることが必要不可欠であることを理解するためである。 上記のような内的関係を発見することが実際、かつての霊視的な科学の基礎となっていた。そのような古代の叡智は15世紀頃から、人類の歴史的進化に伴って失われてしまった。このような叡智を再び獲得しなければならない。
2011年01月26日
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「応身と法身 高橋 巖:訳」の意訳 応身と法身その2 高次(天界)での反映が再び人間にも生じる。 一体、人間が進化するとはどういうことなのか? 古代アトランティス時代、古代レムリア時代をイメージしてみる。そして、更に人間の未来をイメージしてみる。 人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我を(高次の存在から)受けとってきた。そして今、自我により、アストラル体、エーテル体、肉体を霊我(マナス)、生命霊(ブッデイ)、霊人間(アートマ)に作り変える作業をしている。 従って、太古、古代のあらゆる時代において、根本原理である叡智は、次のように教えてきた。 「人間はアストラル体を変化させ、一部は古くからのアストラル体、一部は新しい霊我(マナス)から成立するように作り変えてきた。しかし未来では、アストラル体が自我の働きに全て貫かれるようにならなければならない。」 いまだ、アストラル体が完全に自我の働きに貫かれていない人の場合を考察する。 基本的には、ごく少数を除き、全ての人は上記のような状態だが、既に自我が変化させた部分(霊我)は、永遠に、当人と共存していく。 しかし、まだ変化しない部分、自我の働きを受けない部分は、当人が、死後に、欲界(カーマ・ロカ)を通って行くとき、一種のアストラルの莢(さや)のように、離れざるを得ない。 その部分は、アストラル界の中に飲み込まれ、悪しき欲望や情念から成り立つアストラル体として、邪な行為を呼び起こす働きをする。 (この部分が、欲界で、地獄を演出するわけである。仏教では、この部分を執着心と呼んでいる。) 人間の進化とは、上記のような自分の(汚れた)アストラル体を、アストラル界に戻すことが徐々に少なくなる、ことにある。 では人間の死後の経過を辿ってみる。人間が死を迎えると、ほどなくして、エーテル体が分離する。そして、その精髄だけが自我と結ばれ続ける。人間が欲界(カーマ・ロカ)を通って行くと、自我の作業を受けていないアストラル体の莢(さや)が分離する。 自我の作業を受けた部分(霊我)が、自我の中で永遠に生き続け、新しい受肉を共にする。人間が完全になればなるほど、アストラル界に残してきた部分(汚れた邪な心)が少なくなる。 (霊我が大きいほど、魂に、善悪の判断力があり、善意が発露している状態となる。) 最後には、アストラル体のうちの欲界(カーマ・ロカ)にとどまる部分が何もなくなる段階にまで到達する。すると、地上の誰もが、欲界(カーマ・ロカ)に残された悪しきアストラルによる害を受けなくなる。そのように進化を遂げた人は、そのときには、霊界を霊視できるようになる。 なぜなら、特定の見霊能力をもって、アストラル界(霊界)に参入できる前には、上記のような状態に到達できないからである。その段階に到達すると、アストラル体全てが霊化され、霊我になっている。 (仏教でいう「無」の境地。) アストラル体全てが自我に伴って転生していく。以前(前世では)、悪しきアストラル部分を、後に残さなければならなかったが、(無の境地に到達した)今、アストラル体全てと、その後の転生全てにおいて、共にできる。 アストラル体が自我の作業を全て受け入れる段階に到達した瞬間、新しいアストラル体を形式する霊我が、アストラル体に自己を刻印づける。すると同時に、エーテル体も、この変化したアストラル体の刻印を受ける。 エーテル体はまだ完全に変化しているわけではないが、霊我が、アストラル体の中に刻印づけることで、エーテル体の中にも、霊我を通して、自己が刻印づけられる。 (宇宙において、自己という自立した存在が、次第に認められるようになる、ということなのだろう。誰かに迷惑をかけている段階では、宇宙では、その存在を認めてもらえないわけである。) 上記のように、霊我にまで進化した特別に高次の存在を、東洋の哲学では「応身」(Nirmanakaya) と呼んでいる。 つまり、この高次の存在のアストラル体という身体=カヤ(kaya)は、穢れた残りの部分を、何1つ後に残さない段階まで達している。この(無の境地の)状態が「応身」である。 さて、更に人間は自我の作業を進めていくことができる。最後には自らのエーテル体だけでなく、自らの肉体も作り変えることができる。 では、エーテル体と肉体が作り変えられ、人間の自我の支配下におかれるとき、何が現われるのか? 人間のエーテル体が作り変えられ、アストラル体が霊我となるだけでなく、エーテル体の中に生命霊(ブッディ)が次第に発達を遂げ、その生命霊(ブッディ)が肉体の中に自己を刻印づけるとき、一段高次の進化段階へと向かう一種の中間段階が達成される。 人間は、この中間段階を通して、自らの(自我に作り変えられ刻印されなかった穢れた)エーテル体を何1つ後に残す必要がない段階にまで到る。生命霊(ブッディ)という形態からなるエーテル体を、永遠に保持し続ける。 上記のように、人間は自分のアストラル体とエーテル体を支配できるようになり、そのアストラル体、エーテル体を自由に処理できるようになる。勿論、アストラル体をまだ自我の支配下におけない人は、支配下におけるまで待たなければならないが、支配下にできた人はアストラル体や、エーテル体を自由に処理できるので、次のような結論に至る。 「自我が転生を続けながら、アストラル体とエーテル体を作り変え、エーテル成分、アストラル成分から新しい完全なアストラル体とエーテル体を形成できるようになった。」 新しいアストラル体とエーテル体を形成することで、当人は、自らのアストラル体とエーテル体を、いわば犠牲として供し、それらを、他の人たちに委ねることができるようになる。アストラル体とエーテル体を支配できるようになった後、そのアストラル体とエーテル体を犠牲にできる人間が存在する。 そのような人間は、自分が再び地上に受肉するときには、既にある要素から、自らのアストラル体とエーテル体を新たに形成できるが、完全な状態になると、まだこの世で使命を達成する必要がある人間に、自らのアストラル体とエーテル体を委ねる。 上記のような方法で、後世の人間は、昔の人間の上記のようなアストラル体とエーテル体を受けとり、本性が与えられた。上記のような方法から、昔の人間は、自分の時代に働くだけでなく、自らの中にかつて存在した、俗に言う霊我(純なアストラル体)と生命霊(純なエーテル体)で、未来にも働きかける。 例えば、ゾロアスターは、自らのアストラル体を自由に処理できたので、そのアストラル体を後になってヘルメスの中に組み込んだ。いわば彼は次のように述べた。 「私は生きている。私が今、外からも眺めることのできる人物(ヘルメス)として働くように働くだけでなく、エジプト文化を開くエジプトのヘルメスのために、そのアストラル体を作り上げる作業も行う。」 上記のような人物は、自分がいる場所で働くだけでなく、未来に向かって働きかける身体(カヤ)をもっている。それは未来の進化のための法則を体現する身体である。 未来へ働きかける法則を、ダルマ(Dharma)と言うで、そのような身体を「法身」(Dharmakaya)と呼ぶ。これは東洋の哲学において、しばしば繰り返される表現である。この言葉を通して、古来の根本原理の叡智として常に与えられてきた真の教えを受けとることができる。
2011年01月26日
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「応身と法身 高橋 巖:訳」の意訳 応身と法身その1 太陽系内の様々な天体は、各々の形態を独立させた後も、運動し続けるが、その運動を通して「天体のカルマ」を生じさせる。 天体が独自の存在となると、その天体(惑星)に結びついた霊的な存在たちは、宇宙の関係性から、その天体(惑星)が再び消滅すべき時期を、既に考えはじめる。 例えば、地球の過去の姿である古土星紀の発展の後を辿ってみる。古土星紀では、熱の球体が1つのまとまりをもつまでが、進化の上昇期だが、見方をかえれば、その濃縮の過程は、土星進化の下降期でもある。 つまり、土星が進化の初期に、霊的存在たちにより、回転運動を持続させる際、既にその霊的存在たちは、その運動体が、再度消滅していく時期を、考慮せざるをえない。この事実がカルマである。 形成された天体は、いつかは消滅する運命にある。そのように、進化の前半期のカルマが、後半期において成就される。進化の前半期に形成された存在は、その後半期において次第に解体される。 宇宙の成立は、このようなカルマの産出でもある。より広い意味での「宇宙消滅」は、カルマの苦悩であり、またカルマの解消でもある。 どの天体においても、このような宇宙全体の経過が、小規模な形で繰り返され、実際、どの天体においても全体の状況が忠実に反映される。 (フラクタルな階層構造になっているようである。) 民族の場合にも、同じ経過が見られる。エネルギーに溢れ、行動意欲に溢れた青春期にある民族を考えてみる。その民族は時代と共に次々に多様な文化内容を創造していき、やがて1つの頂点に達する。しかし、その全てが達成されたとき、民族のカルマもまた蓄積される。 古土星紀に際し、天体が進化と共にカルマが蓄積されるのと全く同じように、民族も、文化の形成と共にカルマが蓄積される。このカルマは、民族が根源的な力を、自らの内から生じさせ、最高度に発揮する時点で、最も強力に現われる。 さて、地球上では指導霊たちが至る所で働いている。天使、大天使、権天使という高次ヒエラルキア(位階)の霊的な存在たちが降下してきて、人類がまだ独立して進歩を遂げることができないとき、人類を指導し、高みへと導く。 その霊的存在たちは過去において、各々独自で完成、成熟を達成した存在たちである。天上から降下して様々な民族を導く、そのような霊たちが目標に達したとき、別の霊的な存在たちが現われ、新たに、当の様々な民族の指導霊になる。 (指導霊がバトンタッチされる。スポーツのコーチのようなものだろう。) 或る民族が最盛期を過ごした後になっても、なお更に上昇していくなら、その民族の指導的な立場の人間が高次の霊的な存在たちの担い手になることを、自ら進んで引き受けなければならない。 民族の指導者が、高次の霊的存在の担い手となることを引き受けたときにだけ、民族は本来の使命を更に乗り越え、上昇していくことができる。 しかし、この場合、1つの条件が充たされる必要がある。すなわち、民族の指導霊であるべき高次の存在たちに敢えて結びつこうとする人間が、既に蓄積されている民族のカルマを、自分のものとして引き受けなければならない。 これは民族と、人種のカルマを引き受けるときの重要な法則であり、その法則は偉大な宇宙の経過を映し出している。 宇宙の経過の反映について語るなら、更に先まで考察を進めていく必要がある。 座天使(トローネ)が座天使(トローネ)となったのは、被造物から創造主へと、「受けとる」状態から、「与える」状態になったからである。 座天使(トローネ)はかつて、別の太陽系において進化を遂げ続け、自分の本質を流出できる段階にまで達した。それは高度の段階での帰依の状態であり、宇宙に存在する叡智(道徳)を受けとる状態から、自ら捧げうる状態になったことを意味する。
2011年01月25日
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以前から如何わしい報道をしていた日曜朝のサンデーモーニングだが、今日は、与謝野の変節態度を、明治維新の立役者の勝海舟と一緒にするかのような虚偽報道をしていた。 勝海舟の一ファンとして、非常に腹が立ったので、そのいい加減な報道姿勢に文句を言っておきたい! 勝海舟は明治政府に参加する前に江戸無血開城等の数々の実績をあげていたことを全く無視して、なんの実績もあげず、自分たちで立ち上げた政党を潰し、選挙で国民の信任を得ることもなく、財務省の看板になって、猟官運動の先頭にたって、太鼓もちをするような変節漢と一緒にするな! 第一、与謝野がやろうとしている増税は、民主主義社会で国民の信任を得たのか? また、民主党の公約のどこにそのような文言があるのか? 民主党内での意見調整はできているのか? 増税するために政権交代したわけではないだろう。何のための政権交代なんだ! 政府を縮小するためであって、増税するためではなく、それは国民を裏切る行為そのものだろう。 国民のためというよりも、国民への裏切りではないのか? 勝海舟は国民のために江戸幕府を潰したのであって、国民に増税をして馬鹿政府の借金を増やすものではない。全くの正反対だ!! 勝海舟だったら、財務省など、とっくに民営化させ、高給官僚を半減し、政府の言うことをきかない官僚など骨抜きにしていただろう。財政改革は政府を縮小することにあるのだから。官僚に骨抜きにされている馬鹿政府とは正反対だ! 少なくとも国民を愚弄することなど許されることではない。官僚と一緒になって、国民いじめをする変節漢と一緒にするな!馬鹿野郎!! あまりに腹が立ったので、サンデーモーニングは今後一切みないことにしたい!! あのような報道をするから、教育が歪んでいくものと思われる。 被爆者を笑いものにした某国営放送と同じで、日本の精神を愚弄するものに思われる。 話のすり替えで自己自慢しかない石原都知事がでている番組もあまりに馬鹿らしくて見飽きたので、日曜の朝は、TVは見ないほうがいいと思う。 いまこの国は、役人が国民に対して反乱している状態なのである。江戸時代でいえば、老中が、幼少の将軍を傀儡にして、私利私服を肥やしている状態なのである。 島津斉彬のような名君が出てこないとダメだろう。
2011年01月23日
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「反キリストの本質(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 前回述べた主に西洋の悪しき秘密結社の反対側の東洋では、特にインドに様々な秘密結社があるが、これらの秘密結社も人類の進化に対して、少なからぬ役割を演じている。とはいえ、インドの秘密結社は、西洋の様々な秘密結社とは別の目標を目指している。 自分たちのロッジ(秘儀参入の領域)に、死者をも、とり込むために、特定の秘教を発展させることは、東洋の秘密結社の意図の中には存在しない。とはいえ、ゴルゴタの秘儀の衝動が、人類の進化に働きかけるようになることを望んでいるわけでもない。 西洋の秘密結社に関して示唆したような方法で、死者を働かせない東洋の秘密結社は、20世紀に人類の進化に関わろうとするキリストというエーテル的個性を、他の個性の働きにより、無力化しようとはしない。 キリストの働きを無力化するには、死者の働きが必要だが、この秘密結社には死者が協力しないからである。 (スカルズアンドボ-ンズの名前が、なぜ、スカルズアンドボーンズなのかが、わかる。つまり死者を働かせるという意味なのだろう。非常に黒魔術的である。ドクロを象徴とする秘密結社は、悪魔の手先なので注意した方がよいだろう。) にも関わらず、東洋の秘密結社は、キリストから現代の人々の関心をそらそうとする。東洋、特にインドの秘密結社は、キリスト教を表面に出したくないだけでなく、ゴルゴタの秘儀を通過した真のキリストへの関心を表面にあらわしたくないのである。 キリストは1度だけ、それも3年の間、この地上に受肉したが、その存在は、もはや地上に受肉することはない。 東洋の秘密結社は、自分たちのロッジ(秘儀参入の領域)のために死者を利用しないが、生きた人間ではない何者(自然霊)かを利用しようとしている。西洋のロッジ(秘儀参入の領域)における死者の役割を、死者とは異なる霊的存在にやらせようとしている。 死後、人間はエーテル体を、後に残すが、そのエーテル体は、死後まもなく分離し、通常は宇宙の中に吸収される。その吸収の仕方が、非常に複雑であることは、これまでに色々と述べてきた。しかし、ゴルゴタの秘儀前や、その後の、特に東洋の様々な地域においては、ある特別な手順が可能だった。 死後の人間がエーテル体を手離すと、特定の霊的存在たちが、そのエーテル体に結びつくことができたが、今でも可能である。その存在たちは、人間が脱ぎ捨てたエーテル体に結びつき、独自のエーテル存在となる。 今日でも、東洋の様々な地域では、死者ではなく、様々なデーモン(悪魔)たちが人間の脱ぎ捨てたエーテル体を身にまとう。死者のエーテル体を身にまとった、このデーモンたちを、東洋のロッジ(秘儀参入の領域)が取り込む。 西洋のロッジは物質に呪縛された死者を働かせるが、東洋の左道(革新的)ロッジは、デーモンたちを働かせる。そのデーモンたちは地球の進化に属さないのに、人間の脱ぎ捨てたエーテル体を身にまとうことで、地球の進化に関わろうとする。 (妖怪のことだろう。河童などが日本人には有名。) 上記のような事実を、一般の顕教では、崇拝の対象にさえしている。ある種の秘密結社は、幻想を生み出す技法をもっている。 (日本ではお稲荷さん、狐霊の信仰が有名である。ある霊能者によると、日本の神社は危険なものが多いようである。パワースポットなどと称して、御利益などを求めようとすると、見返りに、エーテル体を提供しなければならなくなるので、非常に危険である。生兵法は怪我の元といえる。) しかし、現代の人々は、現実の中に、そもそも幻想がどれほど広範囲に存在しているかを知らない。従って、人工的につくり出された幻想に簡単に騙され、死者や妖怪を崇拝の対象にしてしまう。 例えば、ここにある家族が生活しているとする。もし、邪悪な一員がいたなら、あらかじめ、ある祖先の死後のエーテル体に悪霊がとりつく可能性を生じさせた上で、その祖先を崇拝せねばならない、と肉親たちに語るだろう。 実は、この祖先とは、ロッジの陰謀により、死者が脱ぎ捨てたエーテル体に憑依した悪霊に他ならない。その家族は、祖先を崇拝するが、崇拝している祖先とは、祖先が脱ぎ捨てたエーテル体の中にいる悪霊たちである。 (非常に恐ろしい話である。要は、祖先に御利益信仰し、祈願するのではなく、独力で困難に立ち向かい、道を切り開くことが重要である。また、とにかくあらゆる宗教教団には無関心でいる方がよい。特に新しいものほど怪しい。) 上記のような方法で、東洋の人間は、ゴルゴタの秘儀から隔てられてしまう。キリストから離れることで、東洋の人間だけでなく、全ての人間が、地球に働きかけようとするキリストの個性を無視し続けるようになってしまう。 東洋の秘密結社は 別のキリストを用意するのではなく、イエス=キリストの出現自体を目立たないものにするのである。 上記のようにして、今、エーテル界に現れる20世紀のキリスト衝動に対して、両面から戦いがなされている。
2011年01月22日
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「反キリストの本質(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 人間の魂を、物質界下に呪縛しようとする悪の働きが、様々な社会組織をつくり、今日の文明社会に存在している。 そのような社会組織、いわゆる秘密結社は、20世紀において、キリストの働きが、現代人に気づかれることなく通り過ぎてしまうように、エーテル界で個性となって活動するキリストの出現を、現代人が知らずにいるように、あらゆる手段を尽くして、妨害し、働いている。 この悪の働きは1つの明確な目的意志下でなされている。すなわち、これら悪の秘密組織は20世紀以降、キリストを通じて生じるべき影響圏を、キリストとは異なる霊的存在(悪の存在)のために確保する意図を持って働いている。 キリストと争って、キリスト衝動を、わがものにしようするのは、まだ一度も地上に受肉したことがなく、エーテル界までしか降りてきたことのない個性として存在する、アーリマン的な本性なのだが、上記の悪の組織は、この悪の存在を、キリストの位置につかせようとしている。 (古くはイエズス会、フリーメーソン、昨今、ブッシュとの関わりで有名になったスカルズアンドボーンズなどであろう。) 死者他の霊たちをも、働かせるやり口全ては、ゴルゴタの秘儀を経たキリストから、現代の人々の心をそらし、地上の支配をキリストとは異なる悪しき個性の手に密かに委ねようとしている。 上記の話は、生々しい現実の戦いであり、単なる抽象的理論ではない。この現実の戦いは、現代を含むポスト(後)アトランティス時代である第5期の今後のために、更には、その後の第6、第7期のために、人類史の中で、キリストが果すべき役割を、別の霊的存在(悪の存在)に行わせようとする悪しき意図に対する戦いなのである。 (この戦いが、ヨハネの黙示録に預言された、ハルマゲドンの戦いに思える。 私見だが、ヘブライ人、つまり聖書に記述された正当なユダヤ人とは、日本人のことに思う。またゴルゴダとは、頭蓋骨のことだが、日本列島は、地球を正四面体に捉えたとき、最頂点、つまり人間の頭部に位置するので、日本列島がゴルゴダの丘なのではないかと思う。 ヘブライ=ユダヤ人には、神が約束した土地が与えられると聖書にあるように、そもそも、神が与えた土地が紛争地帯となるのはおかしいわけで、神が紛争の種を与えるわけがないから、紛争を招いている時点で悪魔の仕業か、人為的に決めたものと考えるべきだろう。だから、外国の侵略から守られ、平和糧に統治されている場所なはずである。 ハルマゲドンという言葉も、ハルとメギトという音からなるようで、ハルは日本語のアル、メギトは、日本語のミゴト、つまりミコト、あわせると、アル=ミコトとなり、「現人神」を意味するのではないかと思う。単なるこじつけだが、現人神の戦いというと、意味深いものがある。 現人神とは、人間の形態をとった神を意味し、人間は神の子なので、人間が神になる戦いという意味にもとれる。人間が神になるには、悪魔との最終決戦に勝利しないといけない、という意味になる。 そうすると、皇室が、鍵を握っているように思えてならない。最近になって、アシュケナージユダヤ人は、かつてハザール帝国でユダヤ教に改宗しただけの聖書では偽りのユダヤ人であることが表面化してきている。 聖書で預言された正当的なユダヤ人なら、三種の神器や、少なくとも十戒を納めた契約の箱、つまりアークを保管していないとおかしい。アシュケナージユダヤ人には、その形跡がほとんど皆無である。 また、歴史的な場所を変えることや歴史の記述など、当時の権力者には容易いことだし、現にイスラエル国家だって聖書の記述を元にしたとはいえ、人為的につくられたわけである。そもそも権力により、人為的につくるあたりが悪魔的でもある。) この上なく反キリスト的な上記のような意図を撲滅することは、これからの健全で誠実な霊的進化の課題である。 (あらゆる宗教組織や秘密結社を撲滅することが必要なのであろう。) しかし、この課題に応えるには、明瞭な洞察力(霊視能力)が必要である。なぜなら、上記のような社会組織が支配者にしようとしているアーリマン的存在のことを、連中は「キリスト」と呼んでいるからである。本当に、キリストと呼んでいるのである。 (恐らく、ロスチャイルドやロックフェラーのような存在である。) 従って、これから重要なことは、もはや肉体には受肉しない真のキリストと、これまで地上に一度も受肉したことのない、エーテル界のアーリマン的存在とを、真に区別できるようになることである。 そのため、現代人は一方で、20世紀のキリスト出現を歪曲する者たちとの戦いを、引き受けなければならない。実際、表面的な事象にばかり気をとられ、例えば、キリストやイエスの問題についての議論だけで満足する者は、深層を見ることがないだろう。 現代人に、そのような態度をとらせているのは、本質的に、非常に重要で、深刻な事柄から眼をそらせるために、現代人の前に作り出されている(知的な)霧や霞なのである。 神学者たちがキリストについて議論するとき、そのような議論全ての中に、常にどこからか悪しき霊的な影響が働きかけている。そして、(霊視能力のない)神学者たちは、自分たちの意識が本来信すべき存在とは全く異なる目標や目的に仕えることになる。 (神学論争が始まる由縁である。論争しても、意味がないことに気がつかない。真実は1つではないからである。) 神学的な事柄に対し、現代人が曖昧な見方しかもてないのは、悪しき霊的存在が、無意識に働きかけているからである。悪意をもった社会組織が、非常に意識的に、悪しき目的を追求しているのに、表面的な様々な議論に耽っている現代人は、悪しき目的を無意識下において受けいれている。 しかも、無意識な形で現代人が語る内容は、物事の本質や真相に触れることはない。なぜなら、現代人にとってのいわゆる「無意識」は、通常の覚醒意識という識閾の彼方にあると表現されるだけだが、霊的な事柄に通じる霊能者は、無意識下でも、自らの意図を実現できるからである。 上記が真相である。多くの秘密結社は、上述したように、キリストの働きを、他の霊的な悪しき個性の働きに置きかえようとして、あらゆる試みを行っている。
2011年01月22日
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NHKスペシャルの「第2回の巨大組織陸軍」をみて、現代の官僚と被るのが恐ろしく思えた。 はっきりいって、馬鹿な連中と片付けるしかないほど馬鹿だったという他はない。馬鹿な連中と片付けるしか、現代としての教訓として戒める方法がみつからないからである。 馬鹿は死ななきゃなおらない、というのは本当である。 石原莞爾にしろ、板垣征四郎にしろ、当時は優秀だったかもしれないが、いまからすれば馬鹿そのものである。 象徴的なのは、証言テープでは、これらの連中が、「あれ」とか「これ」というまるでモノを呼ぶかのような表現で、語られていたことである。そこに尊敬など微塵もない。要するに、自己保身や、プライドのために行動していたことが見透かされていたが、陸軍という巨大組織のなかでは、抵抗できなかったわけである。 つまり、陸軍の存在意義は、それぐらい陳腐で一種の虚構だったわけで、そして連中は、巨大組織の縮小ができず、自分たちの権益やプライドに拘り、結果的に、全てを失わせた非国民である。 ここでも、後からみれば、少数派が正しかったことが垣間見られる。 満州事変の間違いと、その間違いを改めることなく、追認した無責任さ、これが後に大きな間違いとなって、天皇をも騙し裏切り、日本国民の100万人の命を犠牲とさせるのである。 もうこのような巨大組織の間違いをおかすことなかれ、とただただ祈るばかりであるが、TVをつけると、そのような予感が的中する兆しであることがただただ恐ろしい。
2011年01月21日
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古代で知られていた真の叡智(受精卵がカオス状態になることで、宇宙の様々な作用を受け入れる状態になること)の代わりに今日では、以下のように信じられている。 例えば、ここに親の鶏がいるとする。鶏は複雑な蛋白質を持っている。その複雑な蛋白質(の構造)は卵という形で、子にもたらされる。卵から子が産まれ、新しい鶏が誕生する。その繁殖の過程は継続され、更に発達させられた蛋白質が生まれ、それからまた胚の実質となり、このような過程が、鶏から鶏へと続いていく。 上記の信仰は間違いである。ある世代から次の世代へと移行が起こる度毎に、蛋白質は破壊され、全宇宙に曝される。従って、次のような結論に到達する。 「人間は、様々な地上的な中心的な力に従う、地上的な物質を持つが、ある意味、その物質はまた、万有宇宙の領域の至るところから働きかけてくる力にも従うものと考えられる。」 この後者の力は、人間のエーテル体のなかで働く力で、エーテル体は宇宙の力に従う。人智学徒は今、物質(肉)体とエーテル体に関する真のイメージを持つ。 物質体とは何か?と問うなら、物質(肉)体とは、地球の中心からくる様々な力に従う存在である。 エーテル体とは何か?と問うなら、周辺の至る場所からくる様々な力に従う存在である。 エーテル体もイメージとして描いてみることができる。例えば、以下のことを考察する。 いま、人間がいる。人間の物質(肉)体は、地球の中心へと向かう様々な力(重力や形成力)に従う(下図の赤色)。人間のエーテル体は、万有宇宙の果ての至る所から入り込んでくる様々な力に従う(下図の緑色)。 上記のように、人間のなかに、力の合力の下に形成される組織がイメージできる。垂直に位置する全ての器官のなかに元々存在し、下降する力と、外からきて、人間へと向かう様々な方向性を持つ(上図の矢印)力から成る組織である。 (物質体には、重力と形成力が働き、重力は、月の力、形成力は太陽の力と呼ばれる。エーテル体には、宇宙からくる様々な力が働き、5つに大別されるという。便宜的に、火星、木星、土星、水星、金星の力として呼ばれ、5芒星で表記している。) 上記のイメージを、一方の力(重力)の性質と、もう一方の力(エーテル)の性質を代表している人間の形体(フォルム)から洞察できる。 例えば、脚を研究するなら、次のように考察するだろう。当然、脚は{周辺の力よりも}地球の力に適合しているという理由から、現在のフォルム(形状)をもっている(下図)。 頭は地球の力よりも、宇宙からくる周辺の力(エーテル力)に適合している。脚と同様に腕も研究できる。脚と同じように腕も研究できるのは興味深い。 腕を動かそうとしないで、身体に任せると、腕は、地球の中心へと向かう力に従う。腕を活発に動かすには、腕を、周辺の至るところからくる力(精神力)に、自身を従わせる。 ここに、脚と腕の違いがある。脚は一義的に地球の中心的な力に従い、腕は、特定の姿勢の条件にのみ、地球の中心的な力に従う。 人間は、地球の中心的な力に対し、腕を引き上げることで、周囲からくる「エーテル」と名づけられる力のなかに、腕を組み込むことができる。腕だけでなく、1つ1つの臓器についても、腕と同じように、臓器がどのように宇宙に組み込まれているか、を実際に見ることができる。
2011年01月21日
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「地球の基本形態 高橋 巖:訳」の意訳 地球の基本形体 今日では、地球がその名の通り球体であると考えられているが、地球が球形である、というのは、正確にいえば、正しくない。 では、実際の形はどうなのか? 地球の実際の形を、正確に理解するなら、四面体をイメージする必要がある。四面体とはほぼ次のような形を指す。 「底面の三角形に、他の3つの三角形が側面を作り、全体がピラミッド形になっている。つまり4つの三角形が組み合わさる構造である。 先ず1つの三角形を置き、その上に他の3つの三角形を合わせて、ピラミッドを作る(下図の赤線)。 ピラミッド(正四面体)の各三角形各々を、外へ向かって丸く膨らませることをイメージする。面だけでなく、線も丸くなり、ピラミッド全体も球のようにイメージする。 丸く膨らませ、球のようになったピラミッド(正四面体)が地球の真の姿である。従って、今日でも、このピラミッド(正四面体)の丸くなった線の痕跡を辿ることができる。 (余談だが、バックミンスター・フラーは、正四面体を、宇宙の基本座標とすべきだと提案している。 バックミンスター・フラー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC) 丸くなった正四面体の略図を描くと、ある頂点に南極があり、多くの火山が集まり(下図の下の頂点)。また、反対の頂点には、アメリカ中部のコリマ山(下図の左上の頂点)があり、そこからアンデス山脈を通って南極に通じる丸くなった線が辿れる。 メキシコ(最も頻繁に噴火を起こすのはコリマ山 (4100m) である。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3 一方、南極からはアフリカの東側を通って、コーカサスの火山帯に達する線と、コーカサスからスイスを通り、ライン川沿いに大西洋を超えて、コリマ山へ到る線とがある(下図参照)。 カフカース山脈 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%B1%B1%E8%84%88 以上の線を辿ると、そこには大きな三角形が見えてくるが、この三角形が、いわば地球ピラミッドの底面をなす。そして、このピラミッドの頂点を求めると、日本にまで辿り着く。 上記のように、地球は、膨らんだピラミッド(正四面体)として宇宙空間に位置している。頂点には、日本があり、日本と反対側に底面がある。この形体が、地球の基本なのである(上図)。 以上に述べた丸くなった線上に沿って、ほとんどの火山帯が存在している。チリ他の南アメリカや南極やコーカサスに較べると、その他の地域に住んでいる土地には火山があまり多くないが、かつては、そのような土地の火山活動も活発であったことが証明されている。 例えば、北シレジアからブレスラウへ到る途上に、巨大な山が孤立して聳え、人々を恐れさせているが、その山の地質を調べると、死火山であることがわかる。ドイツには多くの死火山がある。 シレジア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2 ヴロツワフ(ブレスラウ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AD%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%95 火山国である日本からは、今日でも様々な方向に活火山帯が延びている。従って、地球上の主要な火山を平面ではなく、立体状に配置していくと、面白いことに、地球が四面体として見えてくる。 エトナ山やベスビオ山のように、個々には、この正四面体の稜線から外れた場所にも、幾つかの火山があるが、これらの火山についてはいずれの機会で述べる。 エトナ山 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%8A%E7%81%AB%E5%B1%B1 ヴェスヴィオ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AA そもそも地球はガス球だったものが固まって出来たのではなく、今日、小学校の児童たちが四面体を作るように、いわば外から、宇宙の力(働き)により、幾何学的に、4つの三角形を合成して作り上げたものなのである。 従って、4つの三角形が、いわば互いに貼り合わされて出来た稜線の部分は、地球の中で特に地層の薄い場所でもある。
2011年01月21日
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人間の成り立ちを探究して、一種の分類、いわゆる一般的な進化計画とでも呼べる描像を与えるために、人智学では、人間は、物質(肉)体、エーテル体、アストラル体、自我から成る、と述べている。 これらの用語は言葉にすぎないが、このような言葉から始めれば、なんらかのイメージを思い浮かぶだろう。しかし、これらの器官に対する言葉を、人生の実践面、つまり人間の認識から追求できる最重要な生命に対する実践である「治療」に用いるなら、これらの用語にとどまっていてはいけない。 治療に用いるなら、上記の言葉を、真の内容で満たす世界に参入しなければいけない。 では最初に、物質(肉)体について問う。どのように物質体のイメージ(設計図)に辿り着くか? いまなぜ、このような概念を展開するのか、後に、すぐわかる。 では、どのように物質体のイメ-ジに辿り着くか? さて、地上では、人間の外にある何らかの対象、例えば、石があるが、石は地面に落下する。石は重いので、地球に引き寄せられ、石には重さがあると、現代人は考える。その他にも、作用(力)が見つかる。 結晶へと石が形成されるとき、石のなかには形成力が働いている。これらの力は、地上の様々な力に親和性がある。要するに、周囲の世界を見ると、地上的な本質に従っている物質がある。この地上的な本質に従っている物質を、人間は、物質(肉)体として所有している。 上記のような事実に着目していない人間が、例えば、1個の黒い炭(炭素の結晶体)を見せるとする。では実際、黒い炭とは何なのか? 地球の近く、つまり地上でのみ炭という(結晶の)存在であり、この炭を比較的短い距離であっても地球から離す瞬間、炭ではなくなる。地上で炭を炭としている構造は、地球の様々な力全てである。従って、次のような結論に至る。 「ここ地球では、地球の様々な力は、この地上的な存在のなかにあり、この地球上で、人間が持つどの対象のなかにも存在する。」 人間の物質体は確かに『複雑に』組み合わされているが、根本においては、地球の物質的な形成力や、地球の中心からくる力(重力)に従う対象である。人間の物質体は、地球の中心からくる様々な力に従う(下図の中心から放射される外向きの矢印)。 しかし、地上には、また別の様々な力も存在する。 別の様々な力は、地球の周囲からくる(上図の外側の内向きの矢印)。いまもし、人間が地上を離れて、未知の遠方に出かけていくことを考察してみる。 そのとき、地球の力とは逆に、遠方から不定な力がやってくる。この力は、遠方では至るところから働きかけてくる。遠方では、至る所から作用してくる力、宇宙のあらゆる方向から地球の中心に向かって働きかけてくる力がある。 地球の周囲からくる力について、全く確かで具体的なイメージを得ることができ、結局、以下のような結論に達する。 (現代物理学でいう電磁気力や核力のことであろう。) 植物、動物、人間の生体組織の基礎を成す最重要物質は、蛋白質である。また蛋白質は、植物、動物、人間の新たな生体組織の基礎でもある。受精した胚細胞(生殖細胞)から、植物、動物、人間の生体組織などが発達し、発生する。 蛋白質は物質である。今日、現代人は、古代の叡智である真の科学の代わりに、(唯物的に)空想し、以下のように思い描いている。 「蛋白質は、いわゆる炭素、酸素、水素、窒素、硫黄、多少の燐から複雑に構成される物質である。蛋白質のなかに、原子論者が考えるような、理想の組み合わせが得られる。非常に複雑に原子と分子を描写しなければならない。それから、動物、或いは植物の母胎のなかで、この複雑な蛋白質分子が形成され、現代に好まれる表現でいえば、この母胎が更に発達していって、純粋な遺伝によって新たな動物が発生する。」 しかしながら、上記の内容全ては、霊眼(霊視)の前では、ナンセンスで、完全な間違いである。本当は、動物の母胎のなかの蛋白質は複雑に組み合わされているのではなく、構造が完全に損なわれ、カオスになっている。 (老子の玄牝「げんぴ」に近い。) 通常、身体のなかに含まれる蛋白質は、まだ多少秩序が存在するが、生殖の元となる蛋白質の特徴とは、内的に完全にカオス状態で入り乱れ揺り動かされ、完全にカオスへと物質(状態)が引き戻され、もはや何の構造もなく、内部で完全に寸断され、引き裂かれ破壊されているために、地球(の力)に従わない物体の堆積にすぎない状態になっている。 (精子は、卵子をカオス状態にする、いわば爆弾というイメージになる。) 蛋白質は、なんとかまだ内的にまとまっている(秩序がある)限りは地球の様々な中心からくる力(重力)に従っている。蛋白質が内的に分裂(破壊)させられる瞬間、蛋白質は全宇宙領域の影響下にうつる。 (構造がなくなるとは、物理的には質量がなくなるということだろう。) 宇宙の至るところから、様々な力が入り込み、生殖の元になる小さな蛋白質の塊が生じ、はじめて全体像を見通すことのできる万象全宇宙の写像(複製)となる。 (全てが破壊されるために、全宇宙の様々な力を受け入れる状態となるようである。超新星の爆発と似ている。老子のタオ神の働きの解説を髣髴とさせる。) どの蛋白質の塊の1つ1つも、万象全宇宙の写像(複製)である。なぜなら、蛋白質の実質は分裂させられ、破壊され、カオスへと導かれることにより、宇宙の塵として、全宇宙に従うような相応しい状態にされるからである。 上記の事実については、今日(1923年)、ほとんど全く何も知られていない。
2011年01月20日
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「月の脱出から月の帰着まで(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 「シュタイナーの預言」 月紀の月の分離から、地球紀最後に予定されている月の融合まで(後半) 前半で述べた状況にある現在、人類は、全体として、本質的にどのような態度をとっているのか? 宇宙から地上に降り、勿論、徐々にゆっくりとだが、姿を現してきている超地上的な存在たちに対して、人類は実に霊的にガサツな態度で、その存在を無視している。 (UFOやUMA問題に置き換えている場合もあるし、擬似宇宙船をつくって情報を操作し、世界統合を企てる悪人もいる。その背後には勿論、悪魔の存在がある。) 従って、地球は益々悲劇的な状態に陥らざるを得ない。これから数世紀の間、地球人にとって、言葉に耳を傾けるべき霊的な存在たちが益々人類の間に姿を現わすようになるだろう。 超地上的な存在の福音に由来する人智学の内容の理解に努めるときにだけ、その存在を理解できる。 超地上的な存在が、人間に与えようとしている福音を、学問として正しく扱い、その学問が地上生活の社会的行為に置き換えられるようになることを望むべきである。 19世紀の7、80年代以後、宇宙から霊的存在たちが本当に地上に降りてきている。はじめは月と水星の中間領域に居住する存在たちだった。その中間領域に居住する存在たちは、既に大挙して地上に降りてきている。 人間が、宇宙の霊的存在たちへの思いに充たされることで、地上に地歩を占めようとしている。だからこそ、現代人の影のような知性を、人智学のイメージで賦活すべきである。 抽象的に言えば上記のようになるが、具体的に言えば、霊的存在たちが地上の生活の中へ降りてきて、人間に受容されようとしているが、もし、人間の態度が、この事実に対立し続けるなら、地上には不安や動揺が続き、最後には地上が社会的な混乱状態に陥るだろう。 これらの存在たちは、月が地球に帰着するときに、地上で生じる事柄の準備を行っている。 もし、人間が鉱物界の理解だけで満足し、植物や動物、人間のなかの鉱物(物質)を考察するだけで得られるオートマティック(無機質)で、没生命的な思考内容をいくら扱っても、今日ではまだ比較的、無害であるかのように見えるが、もし、人間が、このような思考をもち続け、八千年紀の月の帰還にまで至ったら、一体どうなるのか? しかし一方では、ヴルカン(ウルカヌス)星の霊的存在たち、ヴルカン星の超人たち、金星や水星や太陽の超人たちが次第に地上に降りてきて、地球での生活を共にするようになる。しかし、人間が、対立し続けるなら、地上生活は、次の数千年間にカオス状態に陥るだろう。 地上の人間は知性を益々オートマティック(無機質)に発達させ、残酷さにおいても知的になっていくだろう。そして地上で人間に奉仕しようとしている霊的存在たちと、何の関係ももたなくなるだろう。 (文面からは判断できないが、私的には、高次の霊的存在たちは、人間としては転生していないように思える。高次の存在が転生するには、受肉するためのイエスのような聖杯が必要である。端的にいえば、ソフトを生かせるだけのハードが必要になる。) そして、そのような現実に関わりをもたない、影のような人間の思考内容が、月と地球との合体に際して、一挙に現実のものとなるだろう。 地球から一群の恐ろしい存在たちが出現するだろう。その恐ろしい存在は、鉱物界と植物界の中間に位置するロボット的な存在だが、並はずれた知性の持ち主である。 地上を跋扈する、その恐ろしい存在の活動によって、地球は巨大な叡智を備えた恐るべき蜘蛛たちの張り巡らす巣によって覆われてしまうだろう。 この蜘蛛たちの身体組織は、植物にも達していないが、互いに絡み合って、人間の影のような知性の考え出した全てを模倣する。 (どうやら、想像するに、インターネットの進化版のようである。) 地球は現在空気の層に覆われているが、その時には、イナゴの大群に覆われるだろう。そのように、いつか、地球は恐ろしい鉱物的=植物的な蜘蛛たち、非常に知的で、互いに絡み合う非常な悪意をもった蜘蛛たちに覆われる。 (映画「マトリックス」を彷彿とさせる。シュタイナーは1920年に述べているので、80年も先取りしている。) そして知性を賦活できなかった人間たちは、この蜘蛛たちと合体せざるを得なくなる。蜘蛛たちと一緒に暮しながら、自らも蜘蛛となって、生きていかなければならなくなるだろう。 (携帯電話を手放せなくなった人間は、この蜘蛛たち「ネット」と精神的に合体していることになる。) 以上の事柄を、色彩の講義と同じように、真剣に受けとるべきである。以前述べたように、色彩の認識を、抽象的な物理学ではなく、色彩の本質を理解している芸術家のファンタジーや感性が、人智学的世界の直観と結びつく領域から取り出さなければならない。 なぜなら人間の周囲の自然は芸術的に創造されているからである。そして、この事実が理解できぬ限り、人間の世界観に救いはない。 時折、現代人の心の中に、未来に生じる事柄に関する予感が現れることがある。 ニーチェが『ツァラトゥストラ』の中で描いた、死の谷の最も醜い人間のことを、読者がどんな気持ちで読んできたかは、知らないが、実に印象深い、悲劇的な文章である。 ツァラトゥストラはこう語った http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E8%AA%9E%E3%81%A3%E3%81%9F 勿論、ニーチェは、蜘蛛の大群が地球を覆うとき、地球が、そのような死の谷に変じることなどは考えていなかっただろう。 しかし死の谷に関するファンタジーが、ニーチェの心の中に生じたとき、その心の中に、そのような未来像が生きていたことは確かである。そして、ニーチェは、この死の谷の中へ最も醜い人間を置いてみせた。 そのニーチェのイメージは、影のような知性を追い続ける人間が、地球に落下する月によって取り込まれ、最も醜い姿をとって蜘蛛の大群の仲間入りを果たし、遂には蜘蛛と合体するに至ることの予感だった。 (人類は将来、インターネットに知性を明け渡し、インターネットと生活を共にせざるをえなくなる位、醜い存在に堕ちるのかもしれない。携帯を手放せない子供が生まれているように、表面的にはまるで深刻にはみえないが、本質的には深刻な問題である。 最近の若者をみると、自分で問題を解決するという態度に欠け、すぐに何かに依存し、すぐに解決法を尋ねるという姿勢に驚かされる。麻薬問題などは、その最たる性質のものである。ゲーム脳なども、この類なのだろう。 神秘学では、月には、悪魔が住むとされ、そのような悪魔が、地球にやってくる前に、ウルカヌス星に住む高次の存在が、いわばワクチンのように、人類の善への免疫強化のためにやってきていると、シュタイナーは述べたいのだろう。 月に住む連中は、かつての地球で、人類を統治した存在であるが、あまりに利己的なので、神々が、地球から、月を分離することで、人類を保護した。この存在たちはルシファーと呼ばれている。 人類が独自で充分に善に目覚めた段階で、月を再び地球に融合することが計画されているようだが、そのとき、悪につく人間と善につく人間に分かれることが、ヨハネの黙示録に語られていることである。 現代的な感性からすれば、トンデモなSF話と思われるだろう。)
2011年01月20日
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第7講 人類の進化における最後の大きな歴史的な転換点は、これまでしばしば言及した15世紀はじめの3分の1までの頃(約1433年)の、悟性魂、もしくは心情魂と呼ばれる魂から、意識魂への移行が起こった頃である。 15世紀 http://ja.wikipedia.org/wiki/15%E4%B8%96%E7%B4%80 (この魂の移行期「悟性魂から意識魂」から、古代ローマ帝国が滅亡し、大航海時代がはじまる。日本では戦国時代に突入する。) 現代人はもっぱら意識魂の発達が起こっている時代に生きているが、この時代には、自然のなかの奥底にある深い精神的衝動や精神力、すなわち自然のなかの精神的な衝動や霊力と、人間とを関係づける真の洞察(霊能)力が失われてしまった。 現代人は、今日、人間や、人間のなかの物質的構成について語るとき、例えば、化学者が今日でいう、いわゆる元素と定めている化学物質について語る。 しかし、例えば、食物が、炭素や窒素云々を含むことを知ったところで、時計がガラスや銀(鉄)他の幾つか別の素材から構成されている、という時計のメカニズムに対して持つ以上の人間の認識を超える知性的な価値はない。 (要するに、物質的な知識以上の精神的な意味を見いだすことはない。物質的な知識では、生命の本質を理解できない。) このように、水素、酸素云々というような、きわめて外(物質)的な抽象的存在に、実体を還元する全ての試みは結局、人間のなかに真の認識をもたらさない。 時計のメカニズムを、動力学との関係から理解しなければいけないのと同じように、人間の本質も、宇宙のなかで別様に作用する様々な(精神的な)衝動や霊力が様々な自然の領域に分割され、人間のなかで、どのように発現しているか、その発現の形(仕方)を理解する必要がある。 既に退化したとはいえ、生まれつきの霊能力に恵まれた人物たちにより、14、15世紀までは、まだ霊(精神)的存在に関する幾らかの認識が可能だったが、それでもまだ比較的残余していた古代の叡智からくる人間と宇宙との関係を、真に見通せる者は、パラケルススやヤーコプ・ベーメなどの少数の例外の人物を除いて、少しずつ、完全に消滅していった。 では、15世紀以来、徐々に形成されてきた近代科学は、例えば、植物界、動物界と人間との関係について何を知っているのか! 科学は、植物の化学的成分を調べ、それから、この化学的成分の人間(人体)に対する意味(作用)をなんとかして研究し、場合によっては、健康な人間と、病気の人間への物質の作用についてイメージを形成する(その多くは放棄される)。 結局、これら全ての知識は、人間を巡る認識に、闇をもたらすだけである。歴史的な洞察(霊能)力に基づいて、人間の真の認識において、前進したいことを願うなら、今日、大変重要なことは、人間の外にある自然と人間との関係について理解することにある。 15世紀の最後の大きな飛躍(歴史的転換)までは、まだ人間は明確な感情を持っていた。 外の自然のなかの金属や、人間(人体)のなかの実質的な存在や物質的な存在に目を向けるときに現れてくる金属、例えば、人体組織のなかで様々に結合して現れる鉄、もしくはマグネシウム塩などといった金属との間に、どれほど大きな違いがあるか、という事実についての明確な感情があった。 マグネシウム塩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0 人体組織を調べれば見つけ出せるような金属と、人体組織を調べても、まずは見つからない金属が存在し、地上の金属として見つけ出せる、という事実の違いについて、15世紀までは、深い、根本的な感覚が存在した。 というのも、人間は、ミクロコスモス(小宇宙)である、と言われていたからである。マクロコスモスである外の世界に見つけ出せるものは全て、何らかの方法で、人間のなかにも見つけ出せる。 この格言は、現代でいうところの、普遍的で抽象的な原理ではなく、かつて秘儀参入に何らかの方法でアプローチした人間(秘儀参入者)にとっての、人間の本質と宇宙の本質に必然的に結びついた事実として認識していたイメージ(叡智)である。 というのも、自然全体を、その精神的衝動(霊力)や、物質的内容全てと関係づけるときにだけ、人間を真に認識できるようになるからである。そのとき、人間の本質に対するイメージが、霊視として得られる。 そして、もし人間のなかに見つけ出せないもの(金属など)が、外の自然のなかでみつかるなら、霊視によるイメージが不完全であると、9、10、11世紀の初頭の自然に関する研究者(自然哲学者)は、考えた。 けれども、人間が、物質的な食物として摂取するもの(金属等)は、人間の物質的な生体組織全般を維持する一部に過ぎず、ほとんど重要なものではない、ということも当時よく知られていた。 さて、呼吸も、いわゆる新陳代謝だが、物質的な栄養摂取から、呼吸へと上昇することは容易に想像できる。ところが、今日の現代人には、呼吸より、更に上昇していく(新陳代謝的な)現象には、思い至らない。 15世紀の自然に関する研究者(自然哲学者)は、呼吸よりも上のいわゆる頭部による摂取、つまり知覚に着目すれば、単に目で見るだけでなく、知覚プロセスが続く間は、限りなく微細に分割された物質が、万有宇宙から、目を通じて摂取される、ということをはっきりと理解していた。 (知覚を一種の新陳代謝と捉えていた。脳は、腸と類似の存在で、知覚は、脳による摂取と捉えていた。) このように目や耳を通じて、知覚は生じるが、生体組織の他の部分を通じても、知覚は生じる。 そして、最重要事項と見なされたものは、粗雑(物質的)な状態では、自らのなかにもたないもの、例えば鉛などだが、それらを、予想もできないほど微細に分割された状態から摂取する、ということである。 鉛は、さしあたり体内には検出されない微量な金属である。けれども鉛は、人間の思慮の及ぶ限りの全宇宙にまで、非常に希薄な状態で拡散した金属なのである。そして、人間は鉛を、呼吸におけるプロセスよりも遥かに精妙なプロセスを通じて、宇宙から摂取する。 (アルツハイマー病と鉛との関連の研究が昨今あるが、現代の認識では、一般的に鉛は神経毒とされている。恐らく、神経細胞死に、鉛が検出されるからだろうが、腸を開いたときに、食物が検出されるのと同じともいえる。) また人間は絶えず、周辺に、物質を分泌している。例えば、爪を切るだけでなく、皮膚から絶えず物質を分泌している。しかし、人間は、物質を分泌するだけでなく、一方で他の物質を摂取する。 このように中世の9、10、11、12世紀の自然に関する研究者(自然哲学者)は、まだ上記のような思考のなかに生きていた。当時はまだ、様々な物質や力が、どのように作用しているかを定めるのに、秤などの測定は必要なく、無骨な測定器もなかった。 自然の内なる特質(霊性)のなかや、自然の内なる(精神的な)衝動と、自然と人間との関係のなかに(霊的に)参入(同化)することが、研究だった。このような研究から、この15世紀までには、多くの叡智を獲得していたが、その叡智をまた獲得することを始めなければならない、今日の現代人が全くの無知だからである。
2011年01月19日
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「月の脱出から月の帰着まで(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 「シュタイナーの預言」 月紀の月の分離から、地球紀最後に予定されている月の融合まで(前半) 土星紀、太陽紀、月紀の人間は、自分という存在の中に、鉱物という要素を含んでいなかった。まだ地上では生活できない、全宇宙に属する存在だった。地球紀になっても、古代レムリア時代に、月が地球から分離するまでは、人間は地球に属しているとはいえなかった。 当時の地球の指導霊たちにとって、大きな課題は、人間にそのような状態を続けさせるべきなのか、それとも地球上に移住させるべきなのか、ということだった。月が地球から分離することで、地球全体が、そして人間が、自らの存在を変化させるようになったのは、人類の進化を指導する霊的な存在たちの決断によるものだった。 粗雑な月の物質成分が排除されたことで、人体の組織は、地上生活に適した存在となった。しかし、人間は同時に、地球の重力下に生きることになった。もし、重力下で生きるようにならなかったら、人間は決して自由を獲得できなかっただろう。 地上に住む以前の人間は、人格をもっているとは言えなかった。人体を形成する様々な力が結集しなければ、人格は生じないからである。人格が生まれたのは、様々な力が、月の分離によって、鉱物界とも関わるようになったからである。 その後、人類は様々な時代を経験したが、魂的な存在としては、依然として古い見霊的イメージを保っていた。月が分離した後、決定的な変化が起らなかったなら、今日に至るまで、人間は古い見霊体験を保ち続けていただろう。 (この見霊体験は、月紀の月意識と呼ばれる。) しかし、人類の進化過程は、人類がもっぱら地球に拘束され続けることを許さなかった。いわば再び逆戻りが始まり、そして、それが19世紀に至って頂点に達した。 (宇宙への旅行、月面への宇宙探索である。) 以前の講義の中で、繰り返し取り上げてきたが、古代において、人間の代謝系は全く地球の重力下に従いながら、人間の頭部は既に再び宇宙的な存在への志向を示すようになった。 すなわち、人間は、宇宙的存在への志向を示す意味で、知性を発達させてきた。しかし、西暦4世紀に至るまで、古い見霊的イメージが、この知性の中に組み込まれるようになり、15世紀以降は、その知性が益々影のような存在になっていった。 人間における知性は、霊的な存在全てからくるが、もはや、霊的な存在としての性格を示すことをやめ、影となり、単なる映像としてだけの性質を示すようになった。 今日の人間が知性だけで思考するとき、その思考の内容は現実を反映していない。もっぱら、現実とは異なる影の領域で働いている。この傾向は19世紀に至り頂点に達した。 従って、今日の人間には真の現実的感覚が欠落している。人間は、本質的には、霊的な存在である筈なのに、唯物主義者になった。つまり霊的な観点から見れば、思考内容は影に過ぎず、ただ物質存在だけを志向していることになる。 以上が第2の出来事(決定的変化)である。 人間は、再び、それまで以上に、霊的になっていくが、かつて物質が人間に霊的な内容として提示していた存在は、人間の魂をもはや満足させなくなった。人間は自分の霊的な能力で、もっぱら物質だけを思考の対象にするようになった。 そこで、人智学徒なら知っているように、月はいつか再び地球と合体するようになる。その月の帰着の時期は、今日の科学の常識では遠い何万年も遥か先のこととされているが、それは妄想である。実際の時期はそれほど遠い先のことではない。 人類は、精神的成長という意味で、益々若返ってきている。その身体の発達も魂の発達も、ある年令以上には及ばなくなっている。 (要するに、昔に比べて、幼稚になっている、ということ。だから、「昨今の若者は、」と年長者が愚痴るのである。ローマ以来愚痴られている理由であろう。) かつてキリストの時代の人間は、33歳まで、身体も魂も成長を続けることができたが、今日(1921年)では27歳までになっている。そして西暦四千年紀には、21歳までしか成長を続けることができなくなり、七千年紀になると、身体は14歳で成長をやめてしまい、女性は子を産めなくなってしまうだろう。 (次第に早熟になってきている。日本の芸能界をみてもわかる。) 地上の生活は全く別様になるだろう。その時期に、月が地球に近づき、地球に帰着する。 現在、このような天文学的な事象にも眼を向けるべきである。ただ抽象的に神の存在を夢見るだけではなく、人間の進化に関わる事象にも眼を向けなければならない。 月はかつて地球から分離し、そしてやがて再び地球に帰還する事実を知るべきである。月が地球と再び合体するときも、勿論、人間は地球上で生活している。しかし、もはや、それまで存在したような形で、この世に生まれてくることはできない。 そして、今、知性が影のようになってしまっている事実を、月が地球に再び帰還するという大事件と関連づけて考察すべきである。 人間の知性が現在のようにまで、影になってしまうと、霊界から降りてくる存在を受容できなくなり、知性の影の中でしか生きられなくなってしまう。 では一体、このような影だけの知性には、何ができるのか? 人間の本性を理解できず、鉱物をある程度理解できるだけである。植物の生命も、もはや理解できず、動物の生命は全くの謎になり、知性自らがもつ生命も全く見通せなくなる。 そのような知性の状態では、いくら世界について考えても、その思考の中に植物、動物、人間の本質に関わるような内容は含まれない。 もし、人間の影のような知性が、宇宙の真相を示す人智学の生きた叡智をイマジネーション(霊視)として受容できなければ、この傾向は益々進んでしまうので、影のような知性はイマジネーション(霊視)によって生命を賦活されなければならない。 知性を生命によって賦活するのは、人間の事件だけでなく、宇宙の事件でもある。 著書『神秘学概論』で述べたように、かつて人間の魂は様々な惑星の中へ移り、そして再び地球に降りてきた。相次いで、火星人、木星人などの人間が再び地上に降りてきた。 (この事実は四柱推命などの形骸化した概念にみることができる。) けれども、19世紀の70年代の終りに、1つの重要な出来事が生じた。古代アトランティス時代には、土星、木星、火星などから人間が地上に降りてきたが、現代は、そのような人間とは別の霊的存在たちが、自身の進化のために、地上に降りてきて、地上の人間たちと生活を共にするようになった。 19世紀の80年代頃から、超地上的な存在たちが地球の生活の中に入ってきている。地上に降りてきた最後の存在はヴルカン(ウルカヌス)星人で、今、ヴルカン星の霊的存在たちが地球の生活の中に入ってきている。 既に、この地上生活の中で、超地上的存在たちを迎えている。そして、その超地上的存在たちはこの地上の生活の中に福音をもたらしている。このような事情のお陰で、福音に関連する「人智学」ができる。
2011年01月19日
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「語ることと考えること(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 文化史(後半) 前半に述べたように、ルシファー的存在たちが「思考」を「言葉(言語)」から分離してしまった。 そして、更に、大天使の位階に属する存在の中で、その存在に対する第七番目の器官(神器)を発達させることなく、第六番目の器官(神器)にとどまっているアーリマン的存在たちが、言語を更に一段低いところまで引き下ろしてしまい、言語は現在、地上で行われているように、バラバラに単独で存在するようになってしまった。 (この内容は、バベルの塔に関する聖書の記載に相当する。なお、宇宙の階層や天使の階層では、1つ上の階層に進化するには、その階層において、7つの器官を発達させないといけない。 神秘学では、その階層を分類するのに、111から777までの3桁の数字が用いられ、アーリマン的存在たちは、666で進化をやめた存在といえる。人間が、1つ上の階層である「天使」の位階に進むには、現段階では、4つ目の器官「霊我、マナス」を手に入れる期間といわれている。 人間には、「霊我」を含めて、あと3つの器官が必要で、それが俗に三種の神器と呼ばれるものである。) 退行した大天使のアーリマン的存在たちは、地上の人間集団をして、互いに憎しみ合い、差別し合うように、仕向けた。この存在たちは、大天使なので、民族を指導できない。 (民族を指導できる位階は、大天使より1つ上の権天使の存在である。) 民族を指導することは、正常な発達(進化)を遂げ、自らの存在を第7器官まで育成した大天使が、形態霊の意図に従って、(権天使として)行うことだからである。 本質的な役割をもつ民族霊(大天使)に対立するアーリマン的存在たちは、言語の水準を一段階引き下ろし、言語の中に元々含まれている概念やイメージ内容を分からないようにしてしまった。 ルシファー的な堕天使だけが働いていたなら、統一という幻想だけが地上を覆いつくし、もし、人間が心の中にある、その統一という幻想を克服さえすれば、様々な言語の中に存在する固有(個)性を感じとることができたはずである。 ところが、アーリマン的な存在たちが、言語の働きを、もう一段階引き下げたので、言語の中の固有(個)の思考表現を、人間が感じとることができなくなった! その結果、人類は言語の相違に従って、各々の国民に分裂させられた。 このような妨害による時代の流れの中で、一方では統一という幻想が、他方では様々な国民への分裂として生じ、その傾向が最高潮に達したとき、宇宙存在であるキリストが、人間がよく知る形(イエスの身体に受肉)で、地上に降臨し、共に地上の進化に新しい衝動が組み込まれた。 (「汝の敵を愛せ。隣人を愛せ。」) 人智学徒は、今、新しい衝動を受けて、発展する世界の状況に、この衝動を完全に組み込まなければならない。 キリスト衝動は、地上の進化が一時期、「統一という幻想」と、「言語と思考の分離」という2つの間違った方向へ行ってしまった後に、それらに対立する衝動を用意するという課題をもっている。 つまり健全な発達(進化)を遂げた天使たちにより大きな権能を賦与することで、ルシファー的な進化を遂げた堕天使たちの統一という幻想に対抗しようという課題をもっている。 全ての知識の一元論的、いわゆる幻想的な統一性の代りに、キリストの教えを正しく理解することで内在する衝動が現れた。 この衝動は、他の人間の本性の中に真実を求めようとする態度であり、自分の考えを他人に押しつけない、という教えであり、そして、この本質的なキリスト教の精神によって、健全な発展を遂げた天使たちを力づけることにある。 このように、各人においても、各時代においても、地上に1つの個的に形成された真理が形成されるようになった。ルシファーにより幻想に閉じ込められた知性からではなく、魂や心情の中から個的に形成された真実が、地上に見つけられるようになった。 しかし過去においても、上記の父なる宇宙(世界)原理は働いていた。かつて眼に見える人間が父なる宇宙原理により創造されたように、今日でも眼に見える人間の中で形態をとって輝く存在もまた、同様に過去に根源の宇宙原理から現出し、そして今、完成(成就)された存在となっている。 各人が自己流の方法で、真実を見つけられるようになった。 「真理はどんな人の魂の中にも存在する」、という言葉は、深くキリスト教的な言葉である。キリストに支持された天使の働きが、この言葉の根底に生きている。 その働きが、全てを一様化する統一的な幻想の下に、同質の教義で拘束する網の目で地球を覆いつくそうとするルシファー的な天使の働きに対抗する。 一方、健全な発展を遂げた大天使たちもまた、キリストの支持を得て力を強め、人間の集団(民族)が自らの言語に執着することで、狂信的な集団になるように働きかけるアーリマン的存在たちを克服しようとしている。 健全な天使と大天使とは、キリスト衝動の担い手である。キリスト衝動は、人間の観点や思考や感性の中に存在するだけでなく、地球全体の規模で、可視的存在から不可視的存在に至るまで働きかけている。 キリストは人間のために存在するだけでなく、天使、大天使のためにも存在している。なぜなら宇宙的な本性としてのキリストが、ナザレのイエスを通して、地球の進化に関わっているからである。 (地球は、宇宙でいうところの迷える子羊のようである。) 地球紀全体の中間地点で、キリスト衝動が、働きはじめた。そしてまた、至る所で、天使と大天使に力強い支援を送りはじめた。この力強い衝動は、これまでの地球進化の過程では見たことも聞いたこともない程の圧倒的な力で、地球の進化に関わってきた。 キリスト降臨前の原則のエホバ=ヤハウエ原則は、自然の原則として働き、自然の原則として地球を霊的に支配しようとした。この原則の下では、思考と言葉(言語)が、自然のままに、関連すべきだった。ところが、人間の思考は、その関連から分離され、霊的になり、言葉(言語)も、その関連から分離され、魂的になった。 (言葉は、本来その土地で共有すべき存在なのに、所有されるようになった。外国で、母国語を話すようになった。) 言語の原則は、魂の情念により左右されるようになり、思考は知的、抽象的な働きにより、一面(皮相)的に規定されるようになった。しかし、本質的には間違っている。思考は一段階低いところに位置し、もっと自然な形で思考できなければならない。 言語は、思考より遥かに高次の段階で、なるべく言葉少なに語られ、語られた内容が深く理解できなければならない。 地球紀が、古代ギリシア・ラテン文化期の中葉に至るまでは、ルシファーとアーリマンの衝動が支配的だったが、キリストの降臨により、エホバ・ヤハウエ衝動よりも遥かに強力なキリスト衝動が現れた。 しかし当初、人々は、このキリスト衝動が理解できなかったので、例えばコンスタンティヌス大帝やオルレアンの乙女(ジャンヌダルク)などを通して、働きかけた。 コンスタンティヌス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96 ジャンヌダルク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF 1つの喩えを用いるなら、降り積もった雪の中に、機関車が突進して行くような光景である。降り積もった雪の中をあるところまでは突き進んで行けるが、雪の抵抗に遭い、最後には動けなくなってしまう。 キリスト衝動も、この光景と同じように、地球の中に力強く働きかけたが、ルシファーとアーリマンの力が、機関車の前の雪のように覆い被さって、先に進めなくしてしまった。その結果、主知主義の時代に、科学の統一的な幻想が現れた。 「真理は、単一な形で、地球全体に普及すべきである」、という幻想は、8、9世紀から特別強力になった。それはルシファー的な天使の反抗の結果だった。それ以来、この恐るべき幻想は、一元的な教義を生み、繰り返して人類に影響を及ぼしてきた。 (現代では、科学上の統一概念主義を、還元主義とも呼んでいる。) その後しばらくして、主知主義の時代が完全に開花した後、アーリマン的な大天使が「国民主義」という幻想をもって、キリスト衝動に対抗した。それは本質的には19世紀になって現れ、その担い手の代表は、ナポレオンだった。 ナポレオンは人間の集団を、国民として分割することを最大の目的としたが、その影響は今日にまで及んでいる。今日でも人々は、「様々な国民の自由のために。様々な国民の自由と平等のために」と叫んでいる。 このような出来事は、宇宙の進化全体と深い内的な関係をもっている。そして今日の時代に恐るべき形で影響を及ぼしている。それが高次の理想を表現しているように思えるだけに、このスローガンも、ルシファーのスローガンの「全ての人々に通用する1つの真理を」も、共にキリスト衝動を妨げる強力な力をもっている。 人智学は、これらのスローガンの誘惑的な力を見抜き、人類を本来の道に立ち戻らせるために存在している。
2011年01月18日
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今、このクリスマスの日に記念として行う講義に集まる人智学徒にとっては、目覚め得るに足る衝動があるだろう。 現在はまさに、この日を目の当たりにしている。この講義から、1年前の悲しい出来事を霊視する必要がある。人智学徒は、ゲーテアヌム(建物)を焼失させた恐ろしい火柱が燃え上がった日を目の当たりにしている。 (シュタイナーは恐らく、ゲーテアヌムを、エフェソスの神殿に準え、自らをアリストテレス、人智学徒を、アレクサンダーに準えているのだろう。 エフェソスの神殿が焼失し、古代東洋の叡智を、アリストテレスとアレクサンダーが、アジアへともたらしたように、シュタイナーと人智学徒が、再び、古代東洋の叡智を、人智学としてもたらそうというわけである。 東から西へ、西から東へ、そしてまた、東から西へと、叡智は遍歴の旅を続け、人々を覚醒の道へと導いていく。) さて、このゲーテアヌムの焼失について、世間が、この火災が、人智学運動の発展において 深刻な意味を持つように考えたがるのなら、そうさせておけばよい。 ゲーテアヌム http://www.t3.rim.or.jp/~u-minami/class/sinbiosis/ecorojiron/shutiner/anumu/anumu.html しかし、一方では、金属製のオルガンのパイプ他から、金属が焼け焦げながら炎となって燃え上がり、この物質的な炎が、不可思議な色彩(第7講以降で述べる。)を発しながら、燃え上がる状態を見なければ、完全な深い意味において、この出来事を判断できない。 いま、昨年の記憶へと遡れば、この記憶のなかに、物質的存在は、マーヤ(幻)であるという事実が生きていなければならない。ゲーテアヌムが焼失したいまとなっては、人智学徒は、心や魂のなかに、霊的な炎を灯し、その炎のなかに、真実を探し出さなければならない。 物質的に焼失するゲーテアヌムの炎のなかに、霊的に作用するゲーテアヌムの灯火を、人智学徒は生み出さなければならない。 人智学徒にはかけがえのない存在となったゲーテアヌムが、恐ろしい巨大な炎に包まれて燃え上がるのを見て、魔術的な力の存在たちを背景にして、ヘロストラトスが導かれ、エフェソス神殿に松明を投げ込んだ冒涜的な(敵対する)火災を見なければ、完全な歴史的意味において、人智学が、古代の叡智を蘇らせることができるとは到底思えない。 歴史的出来事の表と、裏(背景)を、同時に感じ取るなかに、1年前に失い、全力で再建しなければならない古代の叡智を、この講義から、心のなかに充分深く刻み込むことのできる1つのイメージを得ることがきっとできるだろう。
2011年01月18日
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「語ることと考えること(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 文化史(前半) 現代人は、次のような信仰に凝り固まっている。 いわゆる「生活のなかのイメージや概念(思考)は、民族を超えた存在であるべきで、その反対に、言語は民族特有の存在でなければならない」、という信仰である。 しかし、本質的に、(それらを生み出した)形態霊(エクスシアイ、能天使、エロヒム)は、もっと別のことを意図していた。つまり、言語は、個人(別)的であるように意図していた。 そして、この事実こそ、今日、人智学が願っていることであり、理想としていることである。ところが、現代人は、この理想を認めようとしない。この理想がどれほど無視されているか、を示す例を、1つ挙げてみる。 かなり前の出来事だが、人智学徒が、神智学協会に属していた当時のことで、当時も現在も、会長はベザント女史である。 人智学徒の多くの人が、神智学協会のいわゆる「コングレス(会合)」に参加していた。「コングレス(会合)」では常に、色々な代表者たち、すなわち、ヨーロッパの各セクションの事務総長たちがスピーチした。 それぞれが自国語で語ったので、言語の違いがよく分かったが、発言者のスピーチの内容は、ほとんど理解できなかったが、相互の理解を深めるため、それぞれが少なくとも短いスピーチを自国語で行うことは、非常に好ましいことだった。 人智学徒の何人かも恐らく憶えていると思うが、そのような機会があると、私(シュタイナー)は、いつも同じ内容を、数年間にわたって繰り返し述べ続けた。その同じ内容がどれほど注目されていたかは分からないが、数年間にわたって、いつも同じことしか述べなかった。 いつも心の底で理解してほしい、と願いながら、次のような主張を行った。 「色々な地域から、ここに集まってくるのは、中央から神智学の教えを受けとるためではなく、個々の地域で行われている神智学的な行為を共通の祭壇に供えるためである。」 様々な地域に由来し、そして、今共通の祭壇に供えられようとしている個的な行為の意味を、私は強調し続けた。どの年にも、私は同じことを強調した。その結果、私は正しいことを述べたにも関わらず、理解しなかった人もいたし、私の話を聞いて感情を害してしまった人もいた。 私が、同じ内容を述べたのは、我々に必要な理想を確立するためだった。その理想は、地球のどの地域にも妥当する、共通の教義をつくるための理想ではなく、多様なものを、相互の理解を通して、地球上で共存させるための理想だった。 真理が1つでなければならない という偏見は、このような事実と同じくらい深く人間の心の中を支配している。 従って、連続講義の中で、1つの事柄を、ある時はある形で、別の時には別の形で語ると、そこに矛盾が生じる、といって騒ぎたてる人たちが出てくる。 しかし、真理が多様な形で表現される事実を、人智学徒は示せなければならず、「一様ではなく、多様である」、ということを理想とすべきである。 さて、この理想の本質的な意味を理解するためには、形態霊と、その奉仕者である権天使(人格霊、アルヒャイ)、大天使(アルヒアンゲロイ)、天使(アンゲロイ)が、人間の言語と思考のために本来意図していた事実と、それを妨害するルシファー的、アーリマン的要素の働きとを対比する必要がある。 ルシファー的、アーリマン的要素を理解するには、地球紀ではなく、月紀に注目する必要がある。なぜなら、これまでもしばしば述べてきたように、この悪の要素は、本質的には月紀の要素(存在)であり、本来、月紀に由来する要素(存在)が、地球紀にまで持ち込まれているからである。 (このような存在を、錬金術的には、水銀と呼ぶ。なぜなら、水銀は、固体化し、鉱物化している現在の地球においては、常温で、液体化している存在だからである。月紀の地球は、鉱物、つまり固体は存在せず、液体が、エネルギーのとる最低状態だったからである。) 従って、ルシファー的、アーリマン的な立場からすれば、形態霊が造物主である、とは語らない。形態霊は地球紀の造物主であり、月紀では運動霊(デュナメイス、力天使、動物の集合魂)が造物主だからである。 運動霊はその奉仕者である形態霊、人格霊(権天使)、大天使と共に、月紀に天使を生じさせた。人間が地球紀に、自分の力で、7つの本性を形成すべきなのと同じで、天使は、月紀に自分の力で、7つの本性を形成すべき存在だった。 (天は自ら助ける者を助ける、というキリストの言葉を髣髴とさせる。堕天使は、7つのうち、6つしか形成できなかったので、いわば落第という形で、人間と共に、同じ地球で学んでいる。) もし、形態霊とその奉仕者たちだけが地球を創造し、支配し、ルシファー的、アーリマン的影響によって妨害されていなかったら、地球紀の人間は、言語(言葉)と思考を完全に一致させていただろう。 今日の人間の言葉と思考の乖離は、ルシファーとアーリマンの影響による。今日の人間は「m」や「g」などの特徴を感じとれない。その言葉を聞いても、その音韻を、思考内容に結びつけない。 しかし、形態霊とその奉仕者たちは、人間を今日の状態よりも遥かに透明な魂を持った存在にすることを企図していた。 言葉を、いわば思考のジュースをしぼりとる存在にするのではなく、言葉という翼に乗って、思考が飛び立てるような、愛に充ちた存在にすることを考えていた。 形態霊の意図は、人間の集団(民族)が言語(言葉)により区別されるのではなく、土地に由来する自然的な基礎(音階)により、土地に働く力によって区別され、集団(民族)化することだった。 (いまでいう方言を、言葉の基本に考えたのだろう。) 従って、異なる場所に住む集団同士は、同じ場所にくれば互いに異なる言葉の相違を共感し合い、理解し合えるような存在になるべきだった。 しかし、現代人が、外国語を完全に理解できないのは、使われる言葉の音響の中に、意味内容が全く存在せず、言霊が、いわば意味内容の莢(さや)の中から抜き取られてしまっているからである。 本来なら、たとえ各々の言語(言葉)がどんなに異なって発達しても、地上の全ての人間は、言葉の音響に対して互いに共感し合い、理解し合えた筈である。 知性と言語間の一致が達成されないように、ルシファー的、アーリマン的存在たちが人間に影響を及ぼし、その達成を妨げた。 では、まず、その際のルシファー的な堕天使に眼をむける。 このルシファー的な堕天使は、人間に働きかけて、概念の世界における国際的性質(基準)という先入観を人間の心の中に組み込み、全世界のどの地域の人間にも妥当するような普遍的で統一的な教義が存在する、と思い込ませた。 (宗教でいうところの一神教の教義である。) そのような統一的な教義を信じ、多様性の中にではなく、統一性の中に救済を求めるときには、ルシファー的な悪霊が働いている。その悪霊たちは、イメージ(思考)の世界を、言語の世界から切り離した。 言語と思考を切り離すことで、イメージや思考内容が正しい形で、語られた言葉の中に生きることを不可能にしてしまった。 つまり、言語と思考を分離することで、ルシファー的な一元論や統一思想が、全世界を風靡するようになった。 「自分が正しいと思うことはできるだけすみやかに全世界の人間にも信じさせるべきだ!」と考える狂信家たちは、ルシファー的な堕天使たちに憑依されている。 従って、大切なのは、統一という幻想に囚われることではなく、調和的に作用し合う多様性を求めて働くことなのである。 (外国語を習うことではなく、他国の文化を理解することが重要なのである。つまり、多様性や自分たちと異なる異質性を積極的に認めていく姿勢が重要である。 ちなみに、私観だが、「文化」とは、人間の行為を、神に捧げる、つまり神に近づけることだと思う。つまり、道徳観や善意に従う行為の表現内容が、「文化」である。対して、「文明」とは、行為だけでなく、思考内容も含むものに思える。 本来、言語と思考が一致していたら、文化と文明も同じだったのだが、悪霊により、人間が欺き、嘘をつくことができるようになったので、文化と文明も異なったものになったと思われる。 悪霊とは、端的にいえば、執着心の強い魂で、いつまでも良い想い出に浸り、それが全ての存在といえる。)
2011年01月17日
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近代において著名な学者たちが扱っている知識は、かつて篩(フルイ)にかけられ、歪曲され、論理化されたアリストテレスの叡智だが、このアリストテレスから、スコラ学が生まれ、更に後には科学や、アリストテレスの叡智を哲学として扱った知識体系が、西洋にとって恵みとなる。 というのも、19世紀になってはじめて、アリストテレスに関して何も理解されなくなり、「アリストテレスの方法で運動(瞑想)を行うべし」、ではなく、「アリストテレスの著作を読むべし」、というように、つまり、アリストテレスの著作が、運動(瞑想)の本ではないように、アリストテレスが研究されるようになった。 19世紀になり、人々は、アリストテレスから何も得られない、という状態になった。というのも、アリストテレスが、当時の人々のなかで、有効に作用することがなく、その著作が、運動(瞑想の行)の本ではなく、研究対象となり、研究の資料(題材)となったからである。 19世紀まで、アリストテレスは運動(瞑想の行)の本だった。19世紀では、実際全てにおいて、過去においては瞑想の行や霊能力を意味する叡智が、抽象(物質)的な知識へと変化していく状況となった。 古代ギリシアでは(下図の線により特徴づけられる)、当時の人間の洞察(霊能)力は、人間全体の活動から出現するものと信じられていた。当時の教師は、体操家である。肉体的な運動のなかに、神々が働き、その運動を行っている人間に、神々が到来して、人間の洞察(霊能)力が出現する。 (アリストテレスは、いわば運動の著書を書いたようである。運動といっても、いまでいう、ダンスやヨガに近いものだろう。) 教師は体操家であった。古代ローマでは、体操家の代わりに、後に弁論家が現れる。教師が弁論家になり、人間の活動全体からは幾分抽象化されたが、まだ少なくとも、人間の運動のなかの生体の一部と関連していた。 (オリンピックが、体操の競技なのは、古代ギリシアの哲学が形骸化したために、その名残として、形だけが残ったといえる。) では、人間が弁じるとき、身体の何処が動くのか? 心臓、肺、横隔膜、更にその下へ向かって、人間の言葉が活動する! 弁論はもはや、体操家が行っていたほどの強さでは活動していないが、ある程度、活動してはいる。そして、思考、というのは、語るという行為を通して、活動する存在のエッセンスである。 弁論家が、体操家たちに代わって現れる。体操家は、人間の活動全般に関わる。弁論家が関わるのは、体操家とは異なり、いわば四肢をあまり使わず、身体の一部から、頭へと上昇した洞察力だけである。 そして、第1の体操家、第2の弁論家に次いで、第3の段階は、近代になって、ようやく現れた、博識家(博士)である。博識家(博士)は、頭以外何も訓練せず、思考に専念するようになる。 19世紀までは、まだ、幾つかの大学では、弁論の教授が任命されていたが、弁論を通じて、知性を与えることが、もはや一般的でなくなった為に、万事、思考だけが求められた為に、弁論の教授たちが弁論を行わなくなり、弁論家たちは消滅してしまった。 人間の[活動全体]のうち、極めて小領域(頭部)だけを代表する博識家(博士)たちが、教育の指導者となった。 (シュタイナーは、教育の再生として、オイリュトミーという体操を提案している。グルジェフも、体操により、霊能力の獲得法を考案している。これらは、恐らく、古代のヨーガの復興ともいえる。) アリストテレスが生きていた頃は、実際、アリストテレスからの帰結として出現する学問は、行(体操)、節制、瞑想だった。 古代ギリシア以降は、上記の2つの潮流(個人性の文明と、歴史的伝承として残る霊的存在の文化)が依然として残っていた。 19世紀の半ばから、最後の数10年までの出来事に、意識的に加わった、若者ではない人は、例えば、パラケルススが地方を遍歴したような形で歩きまわれば、パラケルススや、ヤーコプ・ベーメから、中世の民の智慧の最後の名残が汲み出され、結局、19世紀の70年代、80年代にまで現存していたことがわかる。 結局、この中世の智慧の最後の名残が正しいことがわかる。つまり、とりわけ特定の結社の内部や、特定の親密なグループ生活のなかで、19世紀の最後の数10年にいたるまで、内的な魂のなかで、一種の実践のアリストテリス主義が維持されていたこともわかる。 従って、次のような結論へと至る。 「アレクサンダーにより、アリストテレスから、アジアへともたらされ、他方では、西南アジアやアフリカを通り、スペイン経由で入ってきて、バシリウス・ヴァレンティヌスといった人々や、その後の人々のなかで、民衆的な叡智として生き返り、ヤーコプ・ベーメや、パラケルスス他の多数の人たちをも生み出した叡智を保存していた最後の末裔たちと、まだ知り合うことができた。」 アレクサンダーにより、アジアへともたらされた叡智はまた十字軍を通じて別の道筋から、西洋に戻ってきた。古代の叡智は広く民衆のなかにあり、まだ見つけ出すことができた。19世紀の最後の数10年には、まだ次のように言うことができた。 「有り難いことに、ほとんど判別できず、腐敗した形だが、アレクサンダーの遠征により、古代の自然の叡智として、アジアへともたらされた叡智の最後の末裔たちが、まだ、ここに生きていた。」 古代の錬金術による認識、および、自然の実質や、自然のなかの様々な力との関連により、素朴な民のなかに、不思議にも生きていた叡智の名残は、叡智の最後の余韻だった。今日では、消滅してしまい、存在せず、もはや見つけ出すこともできず、何も認識できない。 同様に、当時、最後の末裔たちと知り合うことのできた特定の少数の人々のなかでは、アリストテレス的な霊的修行があった。今日では、もはや存在しない。当時、東洋へともたらされた叡智(下図の右から左への赤色)と、アリストテレスの弟子テオフラストスという回り道を通り、西洋へともたらされた叡智(下図の中央から左への青色)が保存されていた。 結局、東洋へともたらされた叡智は、また西洋に戻ってきた。 そこで、次のような結論へと至る。 「19世紀の70年代、80年代には、この講義で描写した出来事が受け継がれ、最後の末裔として保持していた叡智の名残に、新たな、直接的な霊的認識をもって、結びつけることができた。」 東洋へともたらされた叡智が、また西洋に戻ってきて、受け継がれた知性と結びつくことは、驚くべき関係である! というのも、この結びつきから、霊視できる事実は、古代の霊的な存在に対する叡智と、つながる(結合する)糸を保持する為に継承された形骸化した知性が、将来、唯物的な文化となっていき、新たな霊的な啓示が再びやってくるときまで継続するような効果を与えるために、アレクサンダーの遠征とアリストテレス主義が存在した、ということだからである。 このような観点から、実際、一見、不毛に思える出来事も、人類の歴史的生成のなかでは、極めて意味深い、正しい事実として、明らかになる。アジアとエジプトへのアレクサンダーの遠征は退潮した、と表面的には、安易に言えるが、実際は、退潮していない。 またアリストテレス主義は19世紀に途絶えた、と言うこともできるが、実際には、途絶えていない。この2つの流れは、新たな霊(精神)的な生活が始まる可能性のある時代にまで続いてきた。 実に様々な場所でよく話したことだが、この新たな霊(精神)的な生活は、19世紀の70年代の終わりに最初の徴候と共に開始され、更に世紀末へと進むにつれ次第に益々盛んになっている。 今日(1923年)の現代人には、高次の世界から、人間のところに来る完全な霊(精神)的な生活を開始する、という課題がある。 既に述べた大変奇異な関係や、過去の古代の叡智との結びつきを意識しなければ、霊的な生活のなかで、これから生じる周囲の究めて重要な出来事に対して気づかずに、実際、眠ったままとなる。 今日、究めて重要な出来事に対して、眠ったままでいる人が非常に多い! 人智学により、多くの人々の目を覚ます必要がある。 (とある自称霊能者のブログには、空海が、「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて 生のはじめに暗く、死に 死に 死に 死んで 死の終わりに冥『くら』し」という詩を詠んだという。 つまり、何度もこの世に生まれてきたのに、生まれる前の世界を知らず、この世から何度死んでも、死後の世界を知らない、という意味に思う。 「生きているのに死んでいる。起きるべきなのに、眠ったままである。」といいたいのでしょう。この世の反対に、あの世があり、だからこそ、この世を精一杯生きることが、あの世を知ることにつながるわけである。 生を通じて死を知り、この世を通じて、あの世を知る。知るということは、客観視して初めて可能となる。 客観視するには、主観を捨てないといけないので、自分を自分でそのまま知ることができないように、自分を、自分以外の存在を通じて、自分を、自分とは全く別の対極の存在から眺めないといけない。 この事実からわかるように、あの世を知るには、この世を充分に生きないといけない。そのようなチャンスが与えられているのに、あの世を知ろうともしないで、この世で眠ってばかりである。なんと愚かなことだろうか?)
2011年01月17日
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「ツラン(トゥーラーン)民族その6 高橋 巖:訳」の意訳 ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、次のように自らを語っていた。 「見渡す限りのいたる場所には、神霊から生じた世界が広がっている。世界は、まるで高次の存在から堕落してしまったように現われている。我々を取りまく動物、植物、鉱物の世界全ては、かつては、もっと高次の存在だった。今、頽廃してしまったが、人間は、それらを再び高めようとする希望を抱いている。」 動物を例にあげて、このペルシア(イラン)人の感情の中に生きていた理念を、今日の表現に置きかえてみる。教師が学校で、生徒に語る様な表現で言えば、次のようになる。 「周囲にあるものを見てごらん。それらは、昔はもっと精神的な存在だった。今は堕落し、頽廃してしまっている。 では、狼を見てみよう。感覚を通して見る狼という動物は、堕落し、頽廃している。昔の狼には悪しき特性などなかった。しかし、いまから君たちが、自分の良き特性や精神力を結集させ、今の狼を飼育できる。 この動物に君たち自身の特性を付与して、狼を、君たちに仕える犬にできる。狼と犬は、いわば2つの世界の流れをそれぞれ特徴づける存在なのだ!」 環境に手を加えるのに、精神力を行使する人間たちは、動物を飼育して、動物を高次の段階へと引き戻すことができた。 これとは対照的に、動物等のために、自分の力を行使しなかった別の人間たちは、動物を、ありのままに放置してきたので、動物は益々堕落していかざるを得なかった。上記の2つは異なる力の働きを現わしている。 上記の二元性の対極的な力は、次のようなイメージ(思い)の中で働く。 「もし自然をあるがままに放置するなら、自然は益々深みに沈み、全てが野生化してしまう。しかし、私が精神の目を、私の信奉する善意の方向へと向けることができれば、その善意が、私を助けて、深みに沈んでいく存在を、再び上方へと導くことができる。私が尊敬する、この善意は、更なる進化への希望を私に与えてくれる。」 ペルシア(イラン)人にとって、この善意の力こそアフラ・マズダーに他ならなかった。ペルシア(イラン)人は、次のように考えた。 「自然の働きを、高貴にする力は、人間が、アフラ・マズダー、つまり上方へと向かうオルムズド(アフラ・マズダー)の力と結びついたときはじめて達成される。しかし自然を、あるがままに放置しておくなら、全てが野生化してしまう。 この野生化は、アーリマン(アンリ・マンユ)により生じる。」 更に、古代ペルシア(イラン)の地域には、次のような考え方が広まった。 「北の地方にも、多くの人間が徘徊しているが、北の人々は、アーリマンの手先である。アーリマンの僕の人間たちである。アーリマンの手下は、ただ世界を歩き廻って、自然が提供するものを受けとるばかりである。自然を再び精神化するために働こうとしない。 しかし、我々はオルムズドの力であるアフラ・マズダーと同盟している。」 ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、自分たちが感じた善意を、法律の中にも表現した。つまり外(物質)的な律法の中に、上方への衝動を表現することで、生活を整えようとした。 これがゾロアスター主義の外(物質世界)に現れた結果だった。ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)の対立を、上記のように見るべきである。 秘教学史の多くを、正確に報告する、アルジャスブとグシュタスブの間の戦争、つまり、ツラン(トゥーラーン)人の王と、ゾロアスターの守護者との間の闘い、そして北と南の対立でもある、この戦争が、ペルシア(イラン)でもツラン(トゥーラーン)でも、その両地域の気分として継続していった事実を、知る必要がある。 この闘争が理解できれば、どんな魂の働きが、ゾロアスターから、全人類にまで流れ、広がっていったのか、を知ることができる。 (日本の皇室にも南北朝の対立があったのは非常に興味深い。)
2011年01月14日
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「ツラン(トゥーラーン)民族その5 高橋 巖:訳」の意訳 この物質文化の方向性で、最も進歩を遂げた民族が、北からペルシア(イラン)地域まで南下してきたという事実は、神話や伝説の中にも美しく表現されている。 様々な北方の民族を率いて、ペルシア(イラン)ヘと下りてきた伝説の王ジェムシッド(?)をめぐって、次のような物語が伝わっている。 (このジェムシッド「?」の名前は色々調べても残念ながら出てきません。) 王は地上での使命の実現のため、アフラ・マズダー(太陽)神から黄金の短剣を受け取り。ツラン(トゥーラーン)人という怠惰な大衆の中から、黄金の短剣の力で体力を叡智に従って行使できるように、様々な自分の民族を作り上げた。 (日本の神話のスサノオの草薙の剣との類似もみられる。) それまでの身体力は頽廃していたが、身体力を再び発展させて、この世のために精粋を発揮できるようにした。黄金の短剣は犂となって大地を耕地に変え、人類最初の様々な器具の発明を可能にしたが、その後も、力を発揮して、人間が誇りとする様々な全ての文化の成果として、今日に至るまで作用し続けている。 プラウ(犂) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6 ツラン(トゥーラーン)からペルシア(イラン)まで移動してきたジェムシッド王が、アフラ・マズダーから、この短剣を受けたという事実には、非常に大きな意味がある。この短剣の力こそが、人間に外なる感覚世界を作り変える力を生じさせたからである。 この黄金の短剣を授けた神は、ツァラトゥストラ、もしくはゾロアスターと呼ぶペルシア人の指導者に霊感を与えた偉大な神でもあった。 (アフラ・マズダーは、天照大御神のことと思われる。アフラは「オーラ」、マズダーは「巨大な」という意味である。つまり、「巨大なオーラ」という意味になる。) ゾロアスターは、太古の時代(アトランティス没落直後)に、聖なる秘儀の叡智の力により、物質文化を人間の精神力で発展させようとする衝動をもったペルシア民族を支配した。 ゾロアスターは霊界に参入できる古代アトランティスの能力を失っていた様々な民族に、霊界への参入に対する新たな展望や、新たな希望を与える使命をもっていた。そのような意味で、ゾロアスターは、人智学徒がしばしば語ってきた、秘儀参入の「道(方法)」を開いた。 それは、人間の小さなオーラとは対照的に、「大きなオーラ」、つまり「アフラ・マズダー」と呼ばれた高次の霊的存在の体が、日光という体である事実を、様々な民族に洞察(霊視)させる方法なのである。 (私観だが、日蓮は、ゾロアスターによく似ているので、遅れてきたゾロアスターが日蓮に思われる。) ゾロアスターが、上記の事実に関して教えたことは、当時は、まだ遥かに遠い、この霊的な存在が、いつかは地上に降りてきて、人類史の内部で、自らの実体を、地球と結びつけ、そして人類のためにその後も更に作用し続ける、という事実だった。 つまりゾロアスターは、後にキリストとして歴史上を生きる存在を、当時の人々に示そう(預言しよう)とした。 ここで強調すべきことは、今述べたゾロアスターは、既に古代ギリシア人たちにより、トロイア戦争(紀元前1000年頃と考えられている)よりも、5000年も前の時代の存在と考えられていた。この太古のゾロアスターには後にグシュタスブ(?)と呼ばれた後継者がいた。 トロイア戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 (このグシュタスブ「?」の名前も色々調べても残念ながら出てきません。) ゾロアスターは偉大な祭司として、当時の人々を外なる物質界から再び霊界へと導く太陽神アフラ・マズダーの存在を教えたが、グシュタスブはこの教えを普及させるのに尽力した王だった。 古代ペルシア(イラン)では、ゾロアスターやグシュタスブが与えた霊感や意図は、この古代ペルシア地域の北に隣接する北方の民族(ツラン)と衝突する要因になった。 古代ペルシア(イラン)民族とツラン民族の衝突から、地上で最大の戦争の1つが生じた。一般には、この太古の歴史的事実があまり知られていないのは、あまりにも古い時代(紀元前5000年あたりか)のことだったからである。 ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)との間に、凄まじい衝突が生じた。数10年どころか、数100年にも及ぶ、この戦争から一種の緊張感が生じ、その気分はアジア内陸部に、その後長らく続いた。
2011年01月14日
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正直のところ、ヨーロッパは、当初、この深い自然に対する叡智に耐えられなかった(を理解できなかった)。 単なる外(物質)的な知識や外(物質)的な文化や、外(物質)的な文明だけを欲していた。そのため、弟子のテオフラストスは、アリストテレス主義のなかから、西洋の人々が望む知識だけを取り上げた。 しかし、この知識のなかにはなおも、途方もなく多くの叡智が潜んでいる。西洋の人々は、アリストテレスの論理学的な傾向の強い著作を得たが、これがアリストテレスの独特なところで、非常に抽象的で論理的な知識でも、アリストテレスの著作は、他の人物の著作とは、別様に読める。 内的で、霊的な、瞑想に基づいた経験と同時に、プラトンの著作と、アリストテレスの著作の違いの発見を試してほしい。 本当の霊的な感覚を備えた現代人が、ある瞑想に基づいて、プラトンの著作を読むと、しばらくして、自分の頭が、物質的な頭より少し上にあるかのように、物質的な身体組織から、少し抜け出たように感じる。プラトンの著作を真剣に読めば、必ず感じる。 アリストテレスの著作の場合は、異なる。アリストテレスの場合、その著作を読むことで、身(肉)体の外に出るという感覚は決して得られない。けれども、ある瞑想的な基礎を整え、準備してから、アリストテレスの著作を読むと、物質的な人間のなかで、魂が活動している、という感情が得られる。 まさに、アリストテレスにより、物質的な人間が前面に出て、活動する。それは単に観察される論理学ではなく、内的に活動する論理学で、アリストテレスはそれでもなお、後からやってきてアリストテレスから論理学を形成した小物たちよりも一段上位に位置する。 アリストテレスの論理学の著作は、ある関連において、瞑想の本として理解するときにだけ正しく理解できる。従って、奇妙なことが起こる。熟考すれば、マケドニアから西に向かって、中部ヨーロッパ、南ヨーロッパへと、いわゆる西洋へと、アリストテレスの自然学の様々な著作が移動したなら、災いをもたらすような形で受け入れられただろう。 確かに、西洋の人々に受け入れられたかもしれないが、災いに満ちたものとなっただろう。というのも、アリストテレスが、例えばアレクサンダーに、自然学として(以前の講義で概略を示した)伝えることのできた叡智は、エフェソスの神殿が火災になる以前の、エフェソスの時代の秘儀の本質に触れることができる魂をもってして、はじめて理解できるものだったからである。 そのような魂は、遥か彼方のアジアか、アフリカのエジプトにだけ見つかるものだった。従って、アレクサンダーの遠征を通じて、アジアへと、自然霊に対する存在認識や洞察(下図の右側にあるオレンジ)が移動し後に弱められた姿で、様々に可能な道筋を通り、スペイン経由でヨーロッパに到来したが、篩(ふるい)にかけられ、弱まった状態になっていた(下図の右から左への赤色)。 しかし、ヨーロッパに直接到来した叡智は、アリストテレスの論理学の様々な著作で、アリストテレスの思想だった。そして、この思想は生き続け、中世のスコラ学のなかに生き続けた。 そして、ヨーロッパでは、2つの潮流が生じた。中部ヨーロッパ的な洞察に基づき、細々だが、素朴な人々の間にさえ広汎に流布した、歴史的に伝承された霊的存在に対する叡智があった。 かつてアレクサンダーがアジアへともたらした種子が、あらゆる可能な道筋を通って、最初アラビアその他を越えていき、その後、十字軍の参加者たちにより、陸路からヨーロッパへとやってきた種子が、細々と、秘密の地において、歴史的に伝承された霊的存在として生き残っていた。 この秘密の地に、ヤーコプ・ベーメやパラケルススその他、数多くの人々が赴き、このような迂回路を通り、ヨーロッパの素朴な人々の間に、広く入り込んだ霊的存在の伝承を受け取った。そこでは、通常、考えられているよりも遥かに多くの民衆的な叡智が伝えられている。 民衆的叡智が、ヴァレンティン・ヴァイゲル、パラケルスス、ヤーコプ・ベーメ他の、現代では、ほとんど名前を知られていない人たちの知識の蓄えのなかに流れ込み、生きている。 ヴァレンティン・ヴァイゲル http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/vaigeru.htm 後に、ヨーロッパにはじめて到来したアレクサンドリア学派、つまりバシリウス・ヴァレンティヌス他のなかにあり、いまでも現存する叡智が、豊かな輝きを発した。当時の修道院では、真の錬金術的な叡智が生きていた。 錬金術とは、単なる物質の変化に関して解明するような叡智ではなく、万有宇宙における人間の霊的な(精神的な)変化の内の最奥の特性について解明する叡智だった。 (金とは、物質的な金の意味ではなく、黄金に輝くオーラの色を意味している。仏像が黄金なのは、オーラの色、つまり精神の色を表している。 つまり、錬金術とは、精神を輝くオーラの色、平穏に保つ、例えば、瞑想の方法を解き明かすものである。人智学でいう、秘儀参入法のことである。 例えば、錬金術でよくいわれる、賢者の石とは、物質でいえば、炭素のことだが、本質的には、呼吸法のことを意味する。だから錬金術とは、呼吸から、長命を保つ秘訣や、心を平穏に保つ方法を探求するものである。 また、錬金術には、硫黄とか、燐とか、水銀、炭や塩などがでてくるが、それらも物質としての意味ではなく、例えば、硫黄とは、燐と炭、もしくは塩の中間状態で、燐を塩で中和することを、硫黄と呼ぶようである。 水銀も同様で、俗に金属の液体的状態のことを意味する。現代では、物質概念が先行しているため、結晶構造などに、重点をおきがちだが、結晶となる前の、液体や気体、更にはエネルギー状態のことを、古代では、重要視し、例えば、土、水、空気、火と呼んでいたようである。)
2011年01月14日
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「ツラン(トゥーラーン)民族その4 高橋 巖:訳」の意訳 カスピ海の東側と南側で生じた事柄を完全に(外的にも)理解するなら、それよりも北側で生じた事柄、つまり今日(1910年頃)のシベリアまで至るロシアと境を接する様々な地域や、ヨーロッパにまで拡がる様々な地域で生じた事柄と比較する必要がある。 当時、カスピ海の東側と南側に居住していた民族は、高度に太古の霊視能力を保持していた。そして、その民族では、太古の霊的な知覚能力と、新しい感覚的な直観や悟性的思考とが、或る点において釣り合いがとれていた。 その民族の大部分は、まだ霊界を見ることができた。この霊視能力は、この民族のある集団では、既に低次な段階に堕落し、「低次のアストラル界の霊視能力」になっていたが、この霊視能力の特徴を考察すれば、人類の進化全体にとっても無視できない結果が生じている事実に気がつく。 (アストラル界は、高次と低次に分かれるようである。) この霊視能力を備えた民族は全く特別の人間になった。その民族は特別な性格を身につけた。この特別な性格は、この霊視能力をもっていた様々な民族集団の場合、特に顕著に見られる。 そのような民族は、本質的に、生きるために必要なものを、周囲の自然環境に求めようという衝動をもっていた。そして、必要なものを、自然から奪い取る以外には、できるだけ何もしようとしなかった。 要するに、今日の感覚的な人間が、植物や動物などの存在を熟知しているのと同じ確かさで、植物や動物などの全ての中に、神霊たちが存在していることを熟知していた。なぜなら、霊視により、神霊たちを見ていたからである。 また、この民族は、神霊たちが強力な霊として、物質の背後に立っている事実を知っていたので、神霊たちと親しくし、あまり労働をしなくても、自分たちが置かれた環境の中で細々と暮していけるように、神霊たちに配慮してくれるように要求できた。 このアストラル的な見霊能力をもった民族の気持ちや考え方に関しては色々なことを話せるが、今は、そのうちの1つだけを述べるにとどめる。 いま考察している当時の時代では、堕落しつつある見霊能力を備えた上記の民族集団は、全て遊牧民族だった。定住せずに、遊牧民として放浪し、どんな場所にも特別の愛情を寄せることなく、大地が提供するものを、特に大切にもせず、生活するために必要ならば、周囲を破壊することも厭わなかった。 この民族には、文化水準を引き上げるために、地球環境を作り変えようとする気などなかった。 (この遊牧民の末裔であると考えられる民族を載せてみた。) マッサゲタイ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%82%A4 月氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%B0%8F ダアイ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A2%E3%82%A4 スキタイ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4 上記の民族的な基本的性格の違いから、ポスト(後)アトランティス時代の歴史にとって、最重要な事件の1つである、深刻な対立が生じた。 北方の様々な民族、つまりペルシア人、メディア人、バクトリア人と、上記の遊牧民との間に大きな対立が生じた。 ペルシア人の場合は、定住して周囲の出来事にも関心を向け、人間集団としての課題を人間としての労働により達成し、人間の精神能力により自然を作り変えることを渇望していた。このことが、この地域においては、最大の関心事だった。 ペルシア人の居住地域の北側には、直接、境を接して、霊界を霊視できた上記の遊牧民族がいた。その遊牧民族は、上述したように、神霊たちと親密な関係にありながら、働くことを好まず、定住もせず、物質界で文化的作業を前向きに行うことに、何の関心ももたない民族だった。 (中央アジアの、このような遊牧民の堕落した霊視能力的な性格から、中華思想が生まれたように思われる。昨今の占い好きなどは、この堕落した霊能力と関係が深いように思われる。また古代中国の宦官や日本の官僚などの寄生略奪的な性質も、これによく似ている。) ペルシア人と遊牧民の最大の対立は、外面的には、ポスト(後)アトランティス時代の歴史の中で生じた対立であり、霊的には、魂の様々な進化過程の1つの結果として生じた対立だった。 外面的な歴史においては、「イランとツラン(トゥーラーン)の対立」として知られた、一大対立であった。 北方地域では、シベリアに至るまで、ツラン(トゥーラーン)民族が存在していた。この民族は、いわば混合体で、上述したように、高度に、低次アストラルの見霊能力を備えていた。 霊界での生活が豊かであった為に、外(物質)的文化を創造しようとする傾向や感覚ももたず、人々は、受身的な態度を保ち、民族の祭司たちは、低次の魔術師だったので、霊的な事柄に際し、低次の魔術、時には黒魔術さえも行使した。 その南方の古代ペルシアでは、以前から、素朴な手段で周囲の感覚世界を、人間の精神力で作り変えようとする衝動が働いていた。そして、その結果、外(物質)的な文化を生み出した。 この事が、古代ペルシアとツラン(トゥーラーン)の大きな対立となった。
2011年01月13日
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さて、アレクサンダーやユリアヌスの時代(紀元前356年から紀元後363年までの中間期)に触れず、先送りしてきたが、この時代の中心に、ゴルゴタの秘蹟が生じる。このゴルゴタの秘蹟は、もはや、秘儀を理解していた古代のようには、当時の人々には受け取られなかった。 そのような時代なればこそ、ナザレのイエスという人間のなかに生きたキリストについて、当時の人間は、古代とは全く異なる別のイメージを得た。ゴルゴタの秘蹟と同時代で、秘儀に参入した僅かな人間(秘儀参入者)だけが、古代の霊的なイメージをもっていた。 大多数のヨーロッパの人類は、ゴルゴタの秘蹟を霊的に理解するイメージを何も持たなかった。従って、ゴルゴタの秘蹟が地上に定着するには、まず外(物質)的な伝統や伝承を通じて、受け取られた。紀元後の数世紀までは、秘儀参入者のグループ内だけが、ゴルゴタの秘蹟と同時に生じた事実を、霊性により理解できた。 しかし、また別の出来事が起こり、この別の出来事については、第4講で既に述べたヒベルニア、つまりアイルランドでの、古代アトランティスの叡智の余韻が残っていた事実と関係がある。 第4講で概略を述べたヒベルニアの秘儀の、参入者(入門者)には、古代アトランティス人(秘儀参入者)たちが見ていたように、2つの暗示的な姿(太陽像と月像)から、精神的な存在の輪郭が明確に浮かび上がる霊界を見る機会があった。 そして、ヒベルニアの秘儀で起きた、この出来事は、参入者自らのなかに厳格に封印され、参入者は厳粛な雰囲気に覆われた。ヒベルニアの秘儀は、ゴルゴタの秘蹟の数世紀前から存在し、ゴルゴタの秘蹟当時にもあった。 西洋の彼方のアジアで、ゴルゴタの秘蹟が起こり、その後、伝統や伝承を通じて伝えられ、歴史的にエルサレムで、福音書のなかに記された。 しかし、人間の口を通して、情報を伝えられたわけでもなく、当時の通信手段が口伝しかなかったのにも関わらず、ゴルゴタの秘蹟が悲劇的に成就した瞬間、ヒベルニアの秘儀では、霊視により、パレスティナで起こったゴルゴタの秘蹟の真実が伝わった。 ヒベルニアの秘儀の地では、同時に、象徴的な光景が実現した。ヒベルニアの地では、(現代人が容易に考えるように)伝統や伝承を通じて、コルゴダの秘蹟を知ったのではなく、ゴルゴタの秘蹟を、霊的な方法で知った。 そして偉大で壮麗な出来事が、パレスティナでは、外(物質)的な事実として与えられる一方で、ヒベルニアの秘儀では、ゴルゴタの秘蹟の活力ある光景を生じさせる祭儀が、アストラル(霊)光のなかで、とりおこなわれた。 事象がいかに連鎖しているかが、ゴルゴダの秘蹟から理解できる。古代の神々との関係が消えると共に、一種の世界の谷間とも呼べる事実が生じる。 東洋では、エフェソスの火災の後、神々についての古代の観照は堕落していく。ヒベルニアでは、この観照は存在し続けるが、やがて、紀元後になり、消えていく。そして、ゴルゴタの秘蹟を源泉とする叡智の放射が、伝統や口承により展開しはじめる。 西洋で発達する知識による文明は、全般的に、口承だけに頼るか、もしくは後になって、自然に対する外(物質)的な研究、つまり純粋に感覚的な意識による、自然に対する研究を頼りとする世界で、すなわち、自然に関する分野では、単なる伝承、そして、歴史に関する分野では、文字として記録されたか、あるいは口伝による伝承に相応している。 従って、西洋で発展する文明には、個(人)性の文明がある、といえる。心霊的なゴルゴタの秘蹟は、歴史的に伝承されるが、もはや直接、観られ、体験されることはない(下図参照) 背教者ユリアヌスの時代以後、霊性を排除した文明がいかに広がっていくかを、まるでその現場にいるように思い描いてみる。19世紀末になってはじめて、70年代の終わりから、再び、霊界の高位からの新たな呼びかけが、人類に伝わってきた。 人智学において、ミカエルの時代として特徴づけた時代が始まった。ミカエルの時代を、霊界の高位の観点から特徴づけたい。 つまり、人間が、古い唯物主義(マテリアリズム)にとどまりたいなら(人類の大部分は、当初、唯物主義にとどまりたいと願うだろう)、人間は恐ろしい奈落へと入り込んでいくだろう。古い唯物主義にとどまりたいと願う人間は、必ず人間以下の存在(獣)に陥り、高位の人間(霊)性にとどまることができない。 高位の人間(霊)性にとどまるには、現代人は、感覚を開く必要がある。これから先、獲得すべき霊的な啓示に向かい、感覚を開くことは、19世紀末以降、必須となる。 ある種の(敵対する)霊的な力ともいうべき存在たちが活動し、ヘロストラトスという人物のなかに、いわば外(物質)的な顕現だけを表出していた。ヘロストラトスを通じて、いわば、ある種の霊的な力ともいうべき存在たちが、アジアから、最後の剣を突き出した。 ヘロストラトスが、エフェソスの神殿に松明を投げ込み、焼失させたとき、その力の延長として、いわば彼を剣、もしくは松明として行使した背後の存在は、魔物といわれる存在たちで、要するに、ヨーロッパ文明に霊性をもたらさないように目論んだ存在たちである。 この敵対勢力に、抵抗したのが、アリストテレスとアレクサンダー大王である。では、本質的には一体、何が起こったのか? アレクサンダーの遠征により、アジアへともたらされた叡智は、アリストテレスの自然に対する叡智であった。そして、様々な場所に、根源的な自然の叡智が広まった。 アレクサンダーは、エジプトのアレクサンドリアだけでなく、西洋から遥か彼方のアジアにも、様々な場所にアカデミア(学院、秘儀参入の場)を設立したが、その場に古代の叡智を定着させた結果、その場に長い間保存された。 古代ギリシアの賢人たちは、いつでもその場に行くことができ、そこに自分たちの安住の地を見つけた。自然に対する叡智は、アレクサンダーによりアジアへともたらされた。
2011年01月13日
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「ツラン(トゥーラーン)民族その3 高橋 巖:訳」の意訳 ペルシア人、メディア人、バクトリア人などは外(物質)的な直観と外(物質)的な知性の能力を非常に発達させていたが、古代アトランティス人が生まれつき持っていた霊能力を、(古代インド人のように)一種のヨーガのような内的修行によって獲得しようとする衝動は、それほど強くなかった。 これらの北方民族には(前世の)活き活きとした記憶力があまりなかったので、外界の幻想を認識により克服するために、太古の前世の思い出を修行に置き換えようとはしなかった。 古代インド人のような魂の様子(状態)は、これらの北方民族にはなかった。これらペルシア人、メディア人、バクトリア人等の北方民族に見られる魂の様子(状態)は、今日の言葉をかりれば、次のような感覚だった。 「かつて人間は霊界の中で、霊や魂的存在を直観し、体験していたが、今、物質界の中に移され、物質界を眼で見、脳と結びつく知性で理解する理由は、人間の側だけにあるのではない。克服すべき対象を人間の内部だけでは克服できない。内部だけで克服しようとしても、特別なことは起こらない。」 また、古代ペルシア人は、次のように語った。 「人間が地上に降下したときの変化は、人間だけに生じたのではない。自然を含む地上の全てが変化した。だから、人間が周囲の事物をそのままに放置すれば、全てが幻想で、マーヤ(幻)なのだから、人間だけが霊界へ上ることを願うだけでは不十分である。内部だけを変えた場合、自分は変わるが、周囲の世界全体が変わるわけではない。」 従って、古代インド人のように「外にはマーヤ(幻)が拡がっている。自分は、このマーヤを乗り超えて、霊界に到達する」とは、古代ペルシア人は考えなかった。 「人間は周囲の世界と結びついている。人間は周囲の世界の一分岐である。高度な神霊界から下りてきた人間の中の神的な存在を変化させるべきなら、人間の中だけを、元の存在へと変えるだけでは許されない。周囲の世界も、元の存在へと変えなければならない。」 上記のことが、北方の民族(古代ペルシア人)に、世界を作り変える為の衝動として、力強く働いた。 古代インド人は、「世界は堕落した。今、(周囲の)世界が示しているのはマーヤ(幻)である」と考えた。 北方の民族(古代ペルシア人)は、「確かに世界は堕落したが、人間が、世界を変化させて、再び霊的な存在にまで高めなければならない」、と考えた。 認識について考察することが、古代インド民族の基本的性格だった。感覚的知覚の内容を幻想、もしくはマーヤ(幻)と呼んだら、もう十分だった。 自然の中に存在する外的な存在を作り変えようとする意志や行動力や外に対するエネルギーが、ペルシア他の古代の北方民族の基本的性格だった。 「周囲の事物は神的存在から下降してきた。しかし、人間はそれらを再び、神的存在に導き、戻す使命を受けている」と、北方民族は語った。 基本的には、古代ペルシア(北方)民族の中に既にある上記の性格が、秘儀を伝授された霊的な指導者たちの場合には、最高度に高められ、最大のエネルギーで充たされていた。
2011年01月12日
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「ツラン(トゥーラーン)民族その2 高橋 巖:訳」の意訳 さて、古代アトランティス大陸没落後に東へと渡っていった人々は、様々な進化の過程を辿った。その進化を辿る人間は、東へ向かう程、より道徳的になり、霊的に高次になった。そして、外なる対象世界は、新しい世界として益々はっきりと眼前に現れてきた。 外なるその世界は益々偉大なる存在、壮麗なる存在として人間に働きかけるようになった。この傾向は、東へ移る程、益々強くなった。特に、上記のような傾向を強くもっていた民族は、例えば、今日(1910年)のインドよりも北方のカスピ海やオクソス川、ヤクサルテス川に至るまでの地域に居住していた民族だった。 アムダリア川(オクソス川) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%A4%E5%B7%9D シルダリア川(ヤクサルテス川) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%A4%E5%B7%9D このアジア中央部には、後に様々な方向へと移住していった民族の源流となる集団が居住していた。その民族集団は、人智学者が、しばしば霊界認識に基づいて語ってきた古代インド民族の源流でもあった。 アジア中央部の、この民族の大集団のある一部の民族においては、古代アトランティス大陸の没落後まもなく、没落の過程で、既に外なる現実(物質)界に対する感覚が非常に強度に発達していた。しかし、この民族の場合でも、この地域に生まれた人の心には、かつて古代アトランティス世界で体験してきた前世の思い出が、一種の記憶の認識として生きていた。 後にインドヘと下りていった民族のある集団には、この傾向が特に顕著に現れていた。この民族集団は、外界の素晴らしさを非常によく理解し、外に対する知覚内容の観察にかけては、最も進歩していたが、同時に古代アトランティス時代の霊的な知覚内容も強く前世の思い出として残っていた。 従って、この民族には、前世として思い出せる霊界への衝動が強く発達していた。霊界の中への参入が容易である一方で、外的な感覚が示す存在はマーヤ(幻)であり、幻想である、という感情を合わせもっていた。 従って、特別に外界を観察するのではなく、古代アトランティス時代に直接霊界から得た前世の記憶に、到達するために、ヨーガという人工的方法などを駆使した。 外界をマーヤ、もしくは幻想と観じ、代わりに霊的な存在に到ろうとする衝動だけを発達させる特質は、古代インドより北方の地域に移住する民族の場合には、それ程顕著ではなかった。その北方民族は、悲劇的な状況下にあった民族の集団で、歴史上は狭義のアーリア人と呼ばれるペルシア人、メディア人、バクトリア人など、北方の様々な民族のことである。 アーリア人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA ペルシア人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA メディア王国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD バクトリア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2
2011年01月12日
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もし、古代アジアの後に、古代ギリシア、ローマが続かなかったら、今日のような人類は決して生まれなかっただろう。今日の人類は、個人的(パーソナル)な、1人1人別個の個性に基づく人類である。 古代東洋の個性、すなわち古代東洋の人類は、今日のような1人1人別個の個性に基づく存在ではなかった。1人1人は、自らを、絶えざる神的存在のプロセスの1分岐と感じていた。 (日本人の感性に近い。天皇を神的存在とみなし、天皇の行為の1分岐を、自分の宿命と感じている感性である。日本人の名前の姓が、歴史的には、天皇から派生し、由来していることからもわかる。) 神々は地球の進化に対して、意図をもって様々に意志したので、地上で様々な出来事が起こった。神々は、人間の意志のなかにインスピレーション(霊聴力)を与えながら、働きかけた。これまで述べ、示唆してきた力強い人物たちが、東洋で行ったこと全ては、神々のインスピレーション(霊聴力)だった。 神々が意志し、人間が、行為した。そして、古代の世界では、秘儀とは、神々の意志と、人間(の行為)とを正しい軌道へと導くことを命題としていた。 エフェソスにおいて、はじめて状況は変化した。これまで述べてきたように、エフェソスでの秘儀の入門者(参入者)たちは、(秘儀に参入するのに)もはや季節の経過ではなく、自身の成熟度(徳性)を拠り所にせざるを得なかった。 エフェソスにおいてはじめて、最初の個性というべき痕跡が現れてきた。過去生(前世)の受肉におけるアリストテレスやアレクサンダー大王も、当地で個性の衝動を受け取った。しかし、古代東洋における秘儀の本質たるべき人間でありたい、という最後の憧れをもつ背教者ユリアヌスの時代、すなわち、古代東洋の秘儀の黎明となるべき時代が訪れた。 人間の魂において、古代ギリシアでさえも存在していた状態とは全く別の状態になる時代が到来した。 エフェソスの秘儀から、例えば、ある魂の状態に達成したような人間をイメージしてみる。エフェソスの秘儀だけでなく、エフェソス当時を生きたことで、その人間の魂は、ある状態に到達した。 例えば今日、通常言われるように、現代人が、(記憶から)体験を思い出すとき、何を思い出せるか? 現代人は、誕生以来、個人的な体験を思い出すことができる。ある年齢の人がいる。その人は20年前、30年前の体験を思い出すが、内(精神)的な記憶の想起は、個人的な人生を越えていくことはありえない。 しかし、例えばエフェソスの文明に加わっていた古代人の場合は、現代人とは全く異なっていた。エフェソスで達成した魂の状態の僅かな痕跡を獲得しただけで、古代人は、全ての体験を思い出した。 今日、現代人が、個人的な人生の記憶を浮かび上がらせるように、古代人は、地上以前の生存や出来事を、魂のなかに浮かび上がらせ、例えば、地球の進化に先立つ(太古の)月進化、(太古の)太陽進化、といった出来事が、自然の個々の領域において、浮かび上がった。 当時の古代人は、自らの内(精神)を覗き見ることができ、そして、宇宙的な存在や、人間と宇宙的存在との結びつきや、いわば人間のなかの宇宙的存在への依存を見つけた。当時の古代人の魂のなかに生きていた体験は、自己記憶(自己想起)というべき自己認識だった。 つまり、次のような結論へと到達する。 エフェソスで宇宙の秘密を体験できた時代が存在した。当時は、人間の魂が、太古の宇宙を思い起こすことができた。このいわば自己想起(自己記憶)以前は、太古の時代のなかに実際に生きる体験ができた。そのうち、太古の時代を覗き見る体験だけが残った。 ギルガメッシュ叙事詩が語る時代では、すでに、太古の宇宙に対する人間の体験そのものが魂の状態ではなくなっていた。当時では、当時を現在とする太古の体験という記憶をもつ魂の状態であった。 そして、アレクサンダーから背教者ユリアヌスへと至る時代が到来した。さしあたり、この時代を先送りする。次いで、中世や、近代の西欧文明が育ってきた時代へと至る。この時代にはもはや、太古の宇宙に対する人間の魂のなかの体験も、当時を現在とする太古の体験の記憶もなく、残されていたのは(形骸化した)伝統だけだった。 第一:太古の(直接的な)体験 第二:太古の宇宙に対する(間接的な)体験の記憶 第三:伝統 当時の古代人は、出来事を記録でき、歴史が生じた。この記録による「歴史」は、ローマ時代に始まった。 ゴルゴダの秘蹟前後の圧倒的な違いを考察すべきである! エフェソスの秘儀への入門者(参入者)たちの時代を熟考してみる。当時、歴史的な書物は必要なかった。出来事を書き留める等は、当時の古代人にとっては滑稽にみえただろう。というのも、充分じっくりと熟考すれば、意識の底から、過去生じた体験が浮かび上がってきたからである。 このような体験を心理分析として描写する現代の医者などはいないが、魂のなかに生きる記憶から過去に存在した体験を取り出してくるのは、当時の人間の魂の歓喜に通じた。 (昨今、前世療法という心理分析が行われるようになってきたが、ここで述べられている古代人の魂の歓喜に通じるものなのかもしれない。) エフェソスの時代以降、人類は、上記のような体験を忘れてしまい、かろうじて、出来事を記録せざるを得なくなった時代になった。 しかし、古代の人間の魂のなかの、いわば宇宙的な記憶力を、人類が退化させて行かざるを得なかった、この期間に、つまり、世界の出来事を記録し、歴史の記述云々という、人類が不器用にならざるを得なくなった、この期間に、逆に人間の内部では個人的な記憶力や個人的な記憶(想起)が発達した。 どの時代にも独自の使命や独自の課題が存在する。 ここで、第1講での時間的な記憶が登場したという説明の別の面が現れる。この時間的記憶の最初の揺籃の地は古代ギリシアだったが、この記憶は、その後、ローマ・ロマン文化を経て、近代にまで至る中世へと発展してきた。 そして既に背教者ユリアヌスの時代に、この個人文化への前兆が芽生えたが、この事実を証明しているのが、背教者ユリアヌスは、エレウシスの秘儀への参入を受け入れたけれども、もはや彼には何の役にも立たなかった、という事実である。 さて今や、西洋の人間は紀元前3、4世紀から現代に至るまで、地上の生活の間、霊界の外で生きる時代となり、単なる概念や理念、抽象論のなかに、人間が生きる時代となる。古代ローマでは、神々でさえ、抽象的存在となる。 もはや人類が、霊界との直接的な活きた関係に関して全く無知な時代がやってきた。もはや、地球は、上層にある様々な天の最下層の領域であるアジアではなく、地球自体が、1つの(閉じた)世界となり、様々な天は遥か遠く、人間の観照のなかで薄れていった。 そして、次のような結論に達する。 「古代ローマ文化として西洋に到来した叡智の影響の下に、人間は個(人)性を発達させる。」 霊界には、上位の霊の国に接し、下位に、魂界があるのと同じように、時代の推移に従って、西洋の文明、いわゆる一種の魂界も、霊的な古代東洋の世界に接している。そして、西洋文明という魂界が、本質的に直接、現代の日常にまで、入り込んでいる事実は明らかである。 しかし、今日の人類の大多数が、いまだに大きな転換が、実際に進行中である、という事実に気づいていない。このような話を聴いた友人が、時代が過渡期に直面している、という事実について述べることを好まないのを、人智学徒はよく知っている。なぜなら、どの時代も、(過去の時代の)過渡期であり、すなわち、過去の時代から後(未来)の時代へと常に移行しているからである。 問題はただ、時代の転換期に、どのような移行が起こっているのか、ということである。けれども、これまで述べた事実は、この移行が霊の国から魂界へ、そして、魂界から物質界へ至る、というような事実である。 今まで発展してきた文明のなかには、常に、ある種の霊的な反響があった! 唯物主義(マテリアリズム)のなかですら、ある種の霊的な反響が漏出していた。様々な分野での本質的な唯物主義は、19世紀半ばになりはじめて出現してきたもので、まだ極めて僅かの人間にしか、完全な唯物主義の意味は理解されていない。 しかし、唯物主義は巨大な力をもって今日存在し、今日の時代は、第3の世界への過渡期にあたり、前の古代ローマ世界が、古代東洋の世界と違っていたように、現代は、この古代ローマ世界とも全く違う第3の世界への過渡期である。
2011年01月12日
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宗教と古代東洋のルーツを調べていて、「ツラン民族」についてのシュタイナーの言葉が非常に興味深く思ったので、自分の言葉に置き換えてみた。ネットと調べていると、シュメールと関連深く、また日本人とも関わりが深いようである。 「ツラン(トゥーラーン)民族その1 高橋 巖:訳」の意訳 ヘブライ民族の使命を理解するには、人類全体の発展を、なにより一層深く洞察(霊視)する必要がある。著書『神秘学概論』や連続講義の中で素描した幾つかの事象を、この場合には更に詳しく述べる必要がある。 少なくとも、古代アトランティス時代の破局(大洪水)の結末を、簡単にでも取り上げなければ、人類全体の発展に対して、ヘブライ民族の関与を正しく理解できない。 古代アトランティス時代の破局が、後に、地上の状況に変化をもたらすようになったとき、当時古代アトランティス大陸に居住していた人々は、西から東へと移っていった。この移動には、本質的に2つの大きな流れがあり、北方の移動と、南方の移動である。 従って、古代アトランティス居住民による大きな民族移動の1つは、北方のヨーロッパを通ってアジアにまで渡って行った。 従って、カスピ海周辺の地域を考察すると、古代アトランティス居住民による、この民族移動がどのような形で行われたかがほぼ理解できる。 一方、南方の別の流れは今日のアフリカを横断した。そして、アジアで、いわば2つの水流が衝突し合い渦となるように、この北方と南方の2つの流れに一種の合流が生じた。 その際、特に関心をひく出来事は、古代アトランティスから東方へとつき動かされていった様々な民族の、或いは少なくとも、その主要部に相当する魂の様子が、全体として、どのようなものであったか、ということである。 実際、ポスト(後)アトランティス時代のはじめの頃の人々の魂の様子は、全体として、その後の人々、特に今日とは全く異なっていた。 移動した全ての民族において、環境を、霊的に知覚する能力がまだ存在していた。当時の人は、霊的存在を、ある程度、見ることができ、現代人が物質として見ている存在を、霊的な形で見ていた。 従って、当時の人々は見霊的な生活様式や、見霊的な魂をもつ人間だった。 しかし、特に重要なのは、ポストアトランティス時代の根源的な住民の見霊能力が古代アトランティス時代の最盛期の頃の住民の見霊能力とは異なっていた、ということにある。 古代アトランティス時代の最盛期の人間において高度に存在していた見霊能力は、純粋な形で霊界を見ていたので、霊界の啓示は、人間の魂に善への衝動を生じさせていた。当時、霊界に深く参入できた人は、それだけ善への衝動をより深く得ていた。 霊界をより深く見れるほど、善への高次の衝動を獲得していた。 しかし、古代アトランティス時代の大体3分の2が過ぎた頃、特にその後のポストアトランティス時代になると、古代の見霊能力の善なる側面は次第に消えていった。 秘儀参入の場で特別の修行をした人たち(秘儀参入者)だけが、古代アトランティス的な見霊能力の善なる側面を保持していた。 対照的に、自然(遺伝的)な形で、古代アトランティス的な見霊能力を受け継いだ人たちには、誘惑の悪の力と遭遇するようになった。当時の人間の見霊能力は、善なる力だけを見るのに十分な力強さを、保てなくなった。 そして、人間には悪しき存在、すなわち誘惑する存在だけを見ることが残された。ポストアトランティス時代の特定の居住地域には、善から全く離れた見霊形式が普及するようになった。見霊能力自体が一種の誘惑者になった。 (スターウォーズでいえば、フォースの暗黒面に堕ちたというところだろう。ダースベイダーの誕生だろう。) 今日の人間が通常もつ感覚的な知覚能力は、古代の見霊能力の衰退と結びつき、次第に発達してきた。 (ジェダイが衰退するとともに、悪の皇帝が出現する。ヨーダーはヨーガ「ヨガ」を類推させる。) ポストアトランティス時代の最初の人間が見ていた事物は、今日、現代人が通常の眼で見る事物のようには、当時は全く誘惑的ではなかった。なぜなら、誘惑されるような魂の状態の傾向が、まだ当時存在しなかったからである。 今日の現代人なら、欲しくてたまらなくなるような外(物質)的な事物があっても、当時のポストアトランティス人はあまり惑わされずにいた。 にも関わらず、当時の古代とは劣る見霊能力が覚醒したとき、当時の人間の心を激しく揺さぶった。霊界の善なる側面を見ることはほとんどなく、その際、ルシファー的、アーリマン的な悪霊的な存在が、強い力で働きかけた。 従って、当時の人間は、誘惑者、欺瞞者となり得るような働きだけを、見霊能力により体験した。
2011年01月11日
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第6講 ゴルゴタの秘蹟前の紀元前3、4世紀までと、ゴルゴタの秘蹟後の紀元後3、4世紀までの間、600年から800年にわたるが、この時代は、東洋との関連という点で西洋の歴史を理解するために特に重要である。 この講義で述べてきた2人の人物に関する出来事は、アリストテレス主義(アリストテリスムス)の登場と、マケドニアからアジアへのアレクサンダーの遠征において頂点に達したが、この出来事の本質とは、この出来事がまだ秘儀の本質に対する衝動のなかに完全に浸りきっていた古代東洋の文明により、ある種、終焉を迎えるものとなる、ということにある。 この混じり気のない純粋な古代東洋の秘儀への衝動の、いわば終焉は、冒涜的なエフェソスの火災にあった。エフェソスには、いわばヨーロッパや古代ギリシアにとって、神に浸透された古代の文明が、秘儀の伝統の形で、いわば影像の形で残されていた。 そして、ゴルゴタの秘蹟後の紀元後四世紀に、別の出来事を通して、いわば秘儀の本質の廃墟のなかでもなお残存していた叡智を見ることができる。この叡智を、背教者ユリアヌス(ユリアヌス・アポスタータ[Julianus Apostata])(1)に見ることができる。(1)背教者ユリアヌス:フラヴィウス・クラウディウス・ユリアヌス Flavius Claudius Julianus、361年から363年までローマ皇帝、キリスト教に対する背教者[von den Christen Apostata, der Abtruerninige]と呼ばれた。1917年4月19日ベルリンでの講義(『ゴルゴタの秘蹟の認識のための礎石』GA175所収)を参照のこと。 フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9 ローマ皇帝、背教者ユリアヌスは、紀元後4世紀に、エレウシスの秘儀での最後の導師により、秘儀参入できた秘儀に参入した。つまり、背教者ユリアヌスは、古代東洋の神々の秘密のなかで、紀元後4世紀にエレウシスでまだ体験できた叡智を体験した。 エレウシス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B9 人智学徒は、以上のように、ある時代の出発点に、エフェソス神殿の火災消失を置く。エフェソスの火災の日はアレクサンダー大王の誕生日にあたる。この時代の終わり、つまり363年には、背教者ユリアヌスの命日があり、西洋から彼方のアジア(ペルシャ)での、背教者ユリアヌスの非業の死がある。 従って、この時代の中央にゴルゴタの秘蹟がある、という結論に達する。 ここで、たった今、区分した時代は、人類の全進化史のなかでは、本質的にどのように見えるか?という問いを再度確認しておく。 すると今、まさに奇妙な事実を前にする。人類の進化を、この時代の過去にまで遡って見通すなら、現代の観点とは異なる、何か別の類似からくる観点を持ち出さなければならない。ただ、現代においては、通常このような類似から、関連づけることはない。 著書『神智学』においては、古代の出来事を理解するに際し、考慮すべき様々な世界を示す必要があったが、つまり、その様々な世界とは、(我々の住む)物質界、そして、物質界に境を接する中継的世界、いわゆる魂界、そして人間の最高部だけが参入できる世界の霊界(霊の国)である。 そして、現在の人間が、死と新たな誕生(転生)との間に経験する霊界の独自の特性を度外視し、霊界の普遍的な特性に着目するなら、次のような結論に到達する。 つまり、この霊界の理解には、現代人が自身の魂の状態を方向づけしなおす必要があるのと同じように、ゴルゴタの秘蹟の時点より過去の向こう側にある出来事を理解するには、現代人の魂の状態を方向づけしなおさなければならない。 (物質界から、霊界へと観点を180度変換しないといけない。) 今日の物質界に適用できる概念やイメージ(意識)で、エフェソスの火災の背後にある存在を理解できる等と思ってはならない。 ゴルゴダの秘蹟以前には、別の概念やイメージ(意識)を育成する必要があり、現代人が呼吸というプロセスにおいて外の空気と関わり合っているのと同様に、魂を通じて絶えず神々と関わり合っている事実を、まだ知っていた古代人たちを見通せる(洞察できる)ような概念やイメージが必要になる。 すると、いわば地上の神界というべき地上にある霊界(霊の国)を見る必要がある。なぜなら、物質界(的な観点)は、霊界に対しては何の役にも立たないからである。 次に、キリスト(ゴルゴダの秘蹟)より前の紀元前356年から、キリスト(ゴルゴダの秘蹟)より後の紀元後363年までの中間期がくる。 さて、それでは、この中間期の現代へと向かう、こちら側には何があるのか? 中間期のこちら側には、古代の人類が、古代東洋の世界から、古代ギリシア世界を経てローマ帝国へと進んで行ったのと、ちょうど同じような概念において(上図参照)、古代アジアや古代ヨーロッパに向かって、現代の人類が培ってきた世界がある。 というのも、中世のなかの数世紀を通じて、現代に至るまで、発達してきた文明は、秘儀の本質というべき内容を度外視すれば、概念やイメージ(意識)から人間が育成し得る外的な(物質的な)知性を基礎として形成し、展開してきた文明だからである。 古代ギリシアでは、すでにヘロドトス以来、来るべき文明が準備されてきた。ヘロドトスは歴史の事実を外(物質)的な形で記述し、霊的な存在にはアプローチできず、せいぜい極めて不十分にアプローチしただけだった。 (シュタイナーによると、ローマ帝国はギリシア時代に既に準備されていたという。) この(物質的な)文明は益々一層(歪に)形作られていく。しかし、古代ギリシアには、霊的な生活を思い出させた神々の影像の息吹が、僅かに残っていた。 古代ギリシアとは対照的に、古代ローマでは、古代ギリシアの魂の状態とは全く違う形で、現代の人類に親和性のある魂の状態を獲得する時代がはじまった。 (古代の精神文化ではなく、新しい物質文明獲得の歴史がローマからはじまった、といえる。) 背教者ユリアヌスのような人物だけが、古(いにしえ)の世界への抑えがたい憧れを感じ取り、そして、実際に、彼は、ある種の敬虔さから、エレウシスの秘儀への参入を受け入れる。 しかし、彼がエレウシスで得た叡智には、もはや(古代の文明を見通せる)認識力は何もなかった。つまり、彼は、古代東洋の秘儀の本質として残る伝統を、もはや魂の内部(精神)から完全に理解できない世界の出身であった。
2011年01月08日
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「霊的認識について 高橋 巖:訳」の意訳 現代の人間は、霊界参入に際し、あまりに強烈な「映像」を見ることに、喜びよりも怖れを抱いている。 人智学徒が、高次の世界への参入のため、人格を高める修行を始めると、様々な映像が押し寄せてくることがある。 現代の魂の進化段階においては、高次の世界の映像に直面し、誤謬に陥らずにすむ可能性はただ1つしかない。その唯一の可能性は、「この映像が表す本体は自分自身に他ならない」、と考えることである。 周囲を、映像が取り巻くとき、その映像の世界は、自分自身の本質を映し出しているにすぎない。自分の性質、円熟度、そして思考し、感じとった全てが、映像の世界に変化して、まるで客観性をもつ世界のように現れる。 例えば、アストラル界(高次の世界の1つ)の中に全く客観的な存在や事象を見るときにも、自身の道徳性や不道徳性、もしくは、単なる頭痛の反映かもしれない。 霊界参入を本当に果たす人は、特に今日では、映像の世界で遭遇する存在を、思考によって理解し、思考を通して関与できなければならない。 従って、霊界へ参入しようと望む人は、映像の世界で遭遇する存在を、物質世界で遭遇する存在に対するのと同じ方法で、理解できるようになるまで安心できない。 さて、霊界に参入するとき、私(シュタイナー)は、死から新しい誕生(転生)までの間に体験する様々な事象に遭遇できる。死後に体験する全ての事柄も映像を通して、この世で体験する全ての事柄が感覚的知覚を通してやってくるのと同じように、やってくる。 死後、霊界で、先に死んだ誰かと出会ったとする。その時、その死者と映像の世界の中で向かい合う。ところが霊界参入者にとっても、死者にとっても、ある困難が生じる。 その困難は既に触れたように、映像の世界が第一に自身の存在の反映を示すからである。その死者の映像は、生前、その人に対して抱いていた愛や反感だけなのかもしれない。多くの場合、自身の共感や反感という感情が、霧のような映像として現れ、真実の出会いを妨げる。 その際、考えるべき最重要点は、死後の霊界における映像が、生前の現実的な内的体験に由来している、という事実である。 例えば、生前、願っていたようには完全に愛せなかった人と出会うとする。 そのとき、生前に愛した以上には、死後になってから愛することが不可能であることを実感する。にも関わらず、死者と遭遇する時、死者(の映像)は、もっと愛してくれと願う。しかし生前、この世でやり残したことは、死後には、もはや取り返すことができない。 霊界における、上記の「自分の魂を絶対、これ以上発展できない」という事実は、魂に恐るべき圧迫を感じさせる。 このような死後の状態は、その魂を取り巻く映像に、ヒエラルキア(高次存在)の霊たちが働きかけ、その働きかけを感じとれるようになるまでは、変わることがない。 (すなわち、後悔の念だけの独房に入れられた状態になるようである。)
2011年01月07日
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東洋哲学とは直接関係ないが、要するに、哲学とは見えない存在を見るための見霊能力の開発なので、仏教では、心眼の獲得にあたるが、続けて、シュタイナーの言葉の意訳を行いたい。 人間は自分が望む世界しかみえないようである。要するに、神的存在を目隠しする部分が自分の意識に相当すると考えたらよい。目隠しした部分が自分の意識に相当するのである。 技術的にいうなら、神という宇宙全体のある一部の関心領域だけを取り出してきて、自分の座標とし、その座標から意識を構築し、体験するために、周囲から映像を集めてくるのである。それが自分の人生となる。 例えば、三次元的な認識しかなければ、三次元空間や事象しか認識できないのと同じである。単純にいえば、自分の器以上の存在を受け入れることはできないわけである。見えないのではなく、見ないのである。 しかし、宇宙には、人間がみえる存在よりも多くの存在がいることは微生物や不可視光や放射線、超音波などが存在することから科学的にも明らかであるし、数学者は、4次元以上を数式で確立してもいる。 つまり、人間という測定器の検出能、つまりレベルが低いのだ! だから、見えない存在を見るには、検出能力を高めるしかない。少なくとも、自分だけの利害に固執していては、全体をみることはできずに、木をみて森をみずということになる。 では続けて、シュタイナーの言葉を意訳する。 「死者との語らい 高橋 巖:訳」の意訳 死者との交流には、眠る時と起きる時が特に重要である。人間の生活の中で死者と交流しない入眠や起床の瞬間は存在しない。 入眠の瞬間は、死者と向かい合うのに特別に適した時間である。死者に、何かを尋ねたいときは、眠るときまで、問いを心の中に抱き続けるとよい。問いかけたいことや、伝えたいことを眠る瞬間まで保持し、眠る瞬間になったら、死者に、問いとして発するのである。 眠る瞬間が、死者との交流に最適で容易な機会である。勿論、眠る瞬間以外の時間にも可能だが、眠る瞬間に伝えるのが、一番死者に直接向き合え、死者に言うべき事柄を伝えられる。 対照的に、死者が、生きている我々に伝えるには、起きる瞬間が最適である。本来、人間は、無意識の中では絶えず死者たちと語り合っているが、特に眠るとき、魂の深層において、死者たちに語るべき事柄を語り、起きるときに、死者たちが我々に語りかけ、答えてくれる。 死者と語りあう場合、時間に関する前後関係はない。地上に2つの場所が同時に存在するのと同じように、眠るときと起きるときとは、高次の世界では同時に存在している。ただ、高次の世界では、どの時点が的確かどうかの問題なのである。 それでは、どのようにして、死者と語り合えばよいのか。 例えば、誰かが、この世から死の門を通って、あの世に行ったとする。無意識のなかで、夜、その死者に何かを伝えようとするなら、意識して伝える必要はないが、一日中、そのための準備を必要とする。 昼頃から準備をはじめ、夜10時頃に眠ると、その思いは、眠ると同時に死者に達する。しかし、その問いかけは、思考やイメージだけでなく、感情や意志の中でも行う必要がある。 第一に、情熱をもって死者に向かう。死者が生前、特に関心をもっていたことや、死者と一緒だったときのことや、印象が深かった話などを、活き活きと具体的に心に思い浮かべる。 そのようにして、死者と語り合いたいという気持ちをもって、夜、眠りにつくと、その問いかけは死者にまで届く。 起きる瞬間には、どんな人にも非常に多くの事柄が死者から語られてくるが、死者たちの語る事柄が、まるで自分の魂から生じたように現れるので、自分の考えであると思ってしまう。 我々の行いの多くも、我々の内なる死者たちの働きである。呼吸する空気のように、霊界は周囲を取り巻いて存在している。そして死者たちも、我々の周囲にいる。 それなのに、それに気づこうとはしない。このような事実をよく覚えておくべきである。自分の内部へ向けて語りかけている死者たちのことを、正しく理解できずにいる。 正しく理解できれば、自分の内部の知覚を通して、死者たちの魂と自分の魂とが、自分の内部で深く結びついている事実がわかるはずである。 (このような言葉から、通夜の寝ずの番や葬式などは、死者と語り合うのに適した交流の場に思える。破戒坊主などに任せて金銭を巻き上げられる愚こそ無知蒙昧というべきか。)
2011年01月07日
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「諸宗教に共通する叡智の核心(下) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の叡智の第3段階は、「死者の書」として伝えられてきたエジプトの先史的な歴史的物語の中に示されている。「死者の書」には、二元性に加えて、なお第3の原理が現れてくる。 当時の人々は、太陽光が地上を照らし、その光線が地中にまで浸透し、大地の中に眠る種子や生物たちを目覚めさせることで、根本存在が(発展し)必ず実り豊かになっていく様を見た。 この三つの統一、つまり、母なる大地と、受精と、新しい生命は、象徴化され、オシリス(太陽や光の神)、イシス(物質)、ホルス(発展していく生命)として表現された。 この3つの根本原理が、古代エジプトの三大神である。この三元性が、後の全ての宗教の宗派の叡智の核心となる。 父と言葉と聖霊、イシスとオシリスとホルス、アートマとブッディとマナスというような三位一体として、様々な宗教の中に、神性(根本原理)として現れてくる。様々な宗教の至るところの中に、三元性が現れる。 そして人類は、その三位一体の原理を認識した。その原理は、アジアでも、エジプトでも、宗教的な図像や言葉の中に示されている。同じ原理は、古代ギリシア=ローマ世界の中にも、アウグスティヌスにも、更に中世にも見つけることができる。 (一般的に、三種の神器として理解されている。) 中世においては、「原音」も言及された。「原音」とは、人間が生じた根本原理でもある。人間は現在の姿にまで進化を遂げ、今、本性の求めるままに、未来へ向かって努力している。 古代の霊界探究者(秘儀参入者)たちは、この努力の中に人間の三元性を見た。将来、人間が現在よりも完成した状態に到達するなら、今日の人生を可能にした力や、人間内部の隠れた根本原理的な存在の力が表面に現出するだろう。 かつて古代の人々は、自らの内にある、その根本原理的な力を、神的存在、もしくは言い表し難き存在と感じていた。その存在は、後に発展し、3つに分節化された世界の源泉(前身)の存在と同質である。 (三位一体の意味。1つは3つに発展するが、あくまで源流は1つである、ということ。) 更にまた、今人間の中で、至高なる存在へ向かって努力している原理、換言すれば、今人間の中に働いている「言葉」や、父なる存在に由来する「子なる存在」をも、当時の人々は感じとっていた。 「父なる神から、子なる人間が生じた。」 この父性の神が、未来では、より完成された人間を形成する。過去においては、父性の神が、第2の人間の本性である「子なる存在」のブッディ(生命霊)を創造した。ブッディは、まだ完全ではないが、人間が完成に向けて努力できるのは、このブッディのお陰である。 ブッディは人間における第2の本性である。 過去においても、この父なる宇宙の根本原理(タオ、もしくはブラフマン)は働いていた。かつて眼に見える人間が、父なる宇宙の根本原理により創造されたように、今日でも眼に見える人間の中で形態をとって輝く存在もまた同様に、過去に根本原理から現出し、いま出来上がった存在となっている。 人間が、色、音、匂い、触感の中で知覚する万象に眼を向ければ、それらは皆、言い表し難い根本原理的な存在から湧き出た。 このような点において、人間は、人間という被造物のために現象している、この根本原理的存在を、キリスト教の意味でも、「聖霊」と呼ぶことができる。 しかし、まだ宇宙は究極的な創造までには到達していない。宇宙は、まだ萌芽であり、自らの内に、未来への衝動を担った存在も萌芽であり、子なる存在である。従って、この完成に向けた努力は、「言葉」、ヴェーダ、エッダと呼ばれた。 この人間における第2の本性(存在)は、今日、人間の内なる力であり、未来においては、人間の中に知覚できる存在である。この第2の存在は、人間全ての魂の奥深くに存在する万有の父なる根本原理的存在である。 この事実を活き活きと感じとり、内なるイメージとしての体験内容にすることは、三位一体を感じとることになる。 ペルソナ(人格、個別性)とは仮面であり、外観であり、隠蔽である。それ故、今述べた真理の核心を、宗教は霊、言葉、父という三つの異なる仮面の中で示している。 こう述べることで同時に、キリスト教に通じる宗教における信仰に触れることになる。もし、この真理の核心を本当に理解しようとするなら、この宗教的な真理をキリスト教の信仰の中にも見ることができる。 他の福音よりも深い福音書であるヨハネ福音書の中においても、人間の形姿をとって現れた崇高な意識的存在との結びつき(religare)について理解でき、受肉したロゴス、人間化した「子なる神」、現在の神に関する教えの本質を理解できる。 人間化した「神キリスト」は、過去から現在まで働いている「神霊」と、現在の世界の中で未来へ向けて創造的活動を行っている「父なる神」という、他の2神と共同で働いている。 このように「子なる神」は、「父なる神」から発し、同時に「神霊」と結びつき、今の人々を「父なる神」へと導こうとする大いなる予告(預言)なのである。 この予告(預言)は、「何人も、私によらずに父へいたることはない」という言葉が示唆している。 その「私」とは、現在の神の本質的な核心のことである。更に、「子なる神」は、今日既に世界に存在している霊の本質的核心である「聖霊を送るであろう」、と示唆している。 「私は世界の終末にいたるまで、常にあなた方のそばにいる」というキリストの言葉が真実であるように、彼が再びくることも真実である。 キリスト教全体は新しい宗教的形態の為の1つの準備だった。 今(1904年)のところ、認識や科学という形で、霊的な叡智が存在している。今のところ、様々な宗教が過去に教えられてきた通りに教えられている。様々な宗教的な文献が、いまの人々の手元にも残されており、神学者たちは、それを研究、解釈し、教義を立てている。 今では、叡智ではなく、神学が中心である。神智学とは「叡智と真理」を意味するが、神学とは「叡智と真理に派生する教え」ということになる。 かつて、神学が霊学から生じた。今、神学はまた霊学に戻らなければならない。 (シュタイナーは、第1原理から第3原理の三位一体までに進んだ叡智に準えて、神学が、根本原理に回帰すべきであると述べているようである。 つまり、叡智から統一性の宗教が生まれ、宗教から科学が分離し二元性となり、宗教が科学性を帯びて、神学となったのだから、三元性になるため、再び霊的な叡智である統一性を取り戻し、三位一体化しないといけないというのだろう。) これまでは、地上全ての教育施設において、プラトンやアリストテレスなど古代賢人の著作を叡智の原典としてきたが、そこには、研究者ではなく、解釈者がいるだけだった。 いま、神学が語る不可思議な時代のことを考えてみる。自然から、直接学ぶようになった後世には、神学が語る不可思議な時代の頃の出来事は、理解できなくなってしまった。 自然から直接学ぶようになった当時は、文字として記された資料(著書)への信頼がほとんど絶対で、例えば、「神経は心臓ではなく、頭脳から出ている」と、ある自然哲学者が主張したとき、当時の学者が何と言ったかといえば、「アリストテレスは別の事実を述べている。彼よりもアリストテレスの方が正しいに決まっている」、と述べたのである。 たとえ自然哲学者の主張の方が事実に即している、と思えたときでも、資料(著書)を信じた。同様に、今日の大抵の人々は、感覚世界の様々な事象を、天文台や実験室で確認するのと同じ方法で、霊界の様々な事象を確認する研究所や研究方法が存在する、とはいまだに思っていない。 しかし、ここ30年以来、人類の霊学研究所が存在する、と言われるようになった。神智学者たちは、ヘッケルが「これはこういうことである。」と述べるのと同じ確かさで、霊界の事実に関して主張している。 ヘッケル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB ヘッケルが、主張するとき、彼が研究を通じて証明できた、と考える。同様に、神智学者は、宗教原典が述べる主張が、事実を通じて、真実であることが分かったものと考える。また、神智学者の中には、自ら、その主張の神的な根本原理まで遡っていける人物たち(秘儀参入者)がいる。 神智学には、霊学研究所が存在し、そこには霊学研究者たちが働いていることを注視できる。神智学は超感覚的な事柄について経験を通して語る。かつての霊界探究者たちが内的な経験を通して宗教原典を創ったのと同様である。 四百年前に自然科学が再び復活できたように、今日の神智学は直接的な霊的研究の復活を意味している。 (シュタイナーは、自然科学は、かつてのアラビア科学の焼き直しであると述べている。) 現在、人智学徒は、「タオ」から偉大な人類救済主にいたる共通の真理の核心にたち返るべき立場に立っている。いま、ここに神智学と様々な宗教が共通している真理の核心との関係を取り上げた。 (中略) 人智学の目的は、共通の真理の核心を、様々な宗教や宗派に現存する様々な文献の源泉にまで、たち返って見つけ出すことなのである。その源泉に立って考察すれば、現存する様々な文献をよく理解できるだろう。 そうすれば、新しい生命が人類の中に流れ込むだろう。キリスト教は、人類の未来のために用意された宗教で、「子」の宗教だが、「父」をも同じ途上で見つけ出せる宗教なのである。キリスト教を理解することは、人智学の最重要な課題の1つである。 従って、全て宗教の中に真理の核心を求め、自身の宗教(キリスト教)の中にも同じ真理の核心を見つけ出すべきである。宗教は、子供っぽい空想から生じたのではなく、最高の叡智から、霊的な探究から生じた。 人智学徒は、科学的な見地に立ちながら、同時に宗教的な人間であるべきで、このことが認識できれば、百年以上前の神智学者の1人のゲーテが、かつて呼びかけた言葉を直接感じとれる。 その言葉は人類に対する素晴らしい命題を表現している。その言葉は、真の科学的な認識こそが、宗教上の真理を正しく受けとめることができ、全ての宗教が、人間の最高の目標の核心部分を担っている、と教えている。 科学と芸術を持つ人は、 宗教を持っている。 それらを持たぬ人は、 宗教を持てばよい。 (この宗教とは、現在出回っている宗教のいずれでもない。霊界を理解できない人間が、どうして、霊界について語れるのか不思議でもある。良い行いを知らない者が、良い行いを語るのと同じで、ほとんどがニセモノで、悪魔教ですらある。)
2011年01月06日
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「諸宗教に共通する叡智の核心(中) 高橋 巖:訳」の意訳 古代インド人は繁茂する植物界と共生していた。当時の人々は、植物のお陰で、(現代でいう)夢想的な生活をしていたので、外(物質)的な道具や外(物質)的な文化を発達させる必要はなく、現代人とは異なる形で、宗教的な生活を営んでいた。 自然と共生し、平穏に生活する場合と、機械の中で働き生活する場合とでは、異なった考え方、感じ方が現れてくる。 地上の様々な地域では、外なる自然の様子も、それ故、人間の内なる魂の現れ方も様々である。様々な宗教が、外と内を結びつける絆を求め、導師たちは、この絆を見つける方法を、様々な時代の様々な民族に、それぞれに異なる形で教えた。 この絆を確かなものにするため、古代アトランティスの神「タオ」ヘの絆をみつける最初の方法は、古代インドのガンジス地方に出現した宗教だった。 その宗教は、太古の聖仙(リシ)たちにより与えられた叡智で、その崇高な教えは、素晴らしいヴェーダ文学や、当時の人間の理解力の最高段階を示す古代婆羅門(バラモン)たちのヴェーダーンタ哲学の中に、その余韻を響かせている。 ヴェーダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80 ヴェーダーンタ学派 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BF%E5%AD%A6%E6%B4%BE この2つの叡智は、壮大な形で、万象宇宙の根底に、統一的な宇宙原理が働いていると語っている。その宇宙原理はブラフマン、パラブラフマン、バガヴァッド等々の名で呼ばれた。 ブラフマン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 バガヴァッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC ヴェーダ文学の内容は次のように言い換えることができる。 「かつて神々は、根本原理(存在)の周りに集まり、『あなたは何ものなのか?』と尋ねた。根本原理(存在)は言った。 『もし私が、私自身によるのではなく、別の何者かにより同定されるとしたら、私は私とはいえないだろう。』 君たちが、ある事柄を特定(同定)するとき、特定(同定)のための高次の概念を見つけようとするだろう。個々の動物たち、獅子、鷲、犬、狼を同定するためには、猫科、犬科、鳥類などの上位概念を用いなければならない。 この世のどんな事柄も、その上位に相当する名称をもっている。しかし、私は、自分の上位に相当するどんな名称をもたない。私は私による存在である。」 この根本原理(存在)は、人間の(自我の)出発点であり、到達目標である。古代インドにおいても、発展(進化)が問題となる。 「発展(進化)」という言葉は、人間が目標を見つけるための呪文だった。 「今日の人間の立つ地点にまで人類を導いてきた何者かが存在していたに違いない」、と当時の宗教は語る。 神的な存在(源泉)から、現在の世界まで、今の人間が立つ通過地点にまで降下しようとする願いが、かつて存在していた。そのような願いが必然で、真実であるように、この世の(発展「進化」の)果実を再び、神的な存在(源泉)にまで連れ戻す力が存在することも必然であり、真実である。 この連れ戻す力は、神の願いにより、人間の願いを克服し、神の目標により、人間の目標を浄化(純化)する力でもある。 今日では太古の時代とは全く異なるものが宗教だと思われている。今日では、内面に開示される神ではなく、外から啓示を与える神が求められている。 なぜなら、人間は(進化の過程で)内と外との間に断絶を生み出さざるを得なかったからである。その結果、人生を生きる力の代わりに、今日の意味での「言葉」が現れる。 「ヴェーダ(叡智)」も、今日の意味での、「言葉」にすぎないが、その「言葉」を通じて、人間の根源(存在)や目標や、全世界の根本原理について、賢者たちは語った。 「ヴェーダ(叡智)」を「言葉」として語る古代人は、現代人とは全く異なった考え方を、「言葉」に対して持っていた。 「ヴェーダ」、「ロゴス」、後の「言葉」の本質を語る古代人は、その時、何を感じていたのか? いま、1つのイメージを作ってみる。人間は事物に名前をつける。これは何で、あれは何、と言う。しかし人間の口が、事物の名を発するとき、人間の思いつきから名が決まったのではなく、その名はかつて、神的な存在の「根本原理の魂」が、自ら語り出すことにより、その事物が創造されたときと同じ名なのである。 人間は事物を見た後、その事物の名前を声に出して言うが、かつての根本原理の魂は、先ず、名前を自ら語り、そして、その「言葉」に従って、事物が創出されたのである。 (現代でいうなら、コンピュータに命令を出すときの「コマンド」に近い。) このように太古の時代には、創造の「言葉」を発する根本原理の魂が存在した。 やがて「言葉」は事物になり、そして、その後、人間の魂が、神性により組み込まれた「言葉」を、事物の中から取り出した。いわば、隠され眠れる「言葉」を、事物の中から再び目覚めさせた。 (この情景は、魔法使いが、呪文を唱えるのに類似する。) 「言葉」に対する感情、つまり宗教的感情を持っていた古代インドの人間と神性との関係は、このように「言葉」を巡って展開された。従って、自然を、奥深くまで洞察する古代人の生き方は、「言葉」と結びついていた。 その古代人たちは、自分の語る「言葉」の中に、かつて、神性(神的な根源存在)が、宇宙の中に吹き込んだ力(作用)を、直接、鳴り響かせることができた。当時の人々は、そのような人を、秘儀参入者だと感じた。 古代インド人にとって、聖仙(リシ)たちは通常の人間ではなく、既に不死の力を獲得していた人だった。聖仙たちの魂は感覚世界ではなく、高次の天界の中に生き、宇宙の根本原理である神霊的な存在たちと交わりを結んでいた。 このような形で、自分の内に神「タオ」を発展(進化)させた人を仰ぎ見た人々は、いつか全ての人間が、そのような段階にまで達することを知っていた。輪廻転生の教えは、この認識と結びついていた。 かつて仏陀が弟子たちに、「私は1つの人生、2つの人生、3つ、4つ、10の人生、100の人生を回顧する」、と語ったとき、この言葉は、仏陀の思いつきではなく、彼の知覚体験から語られた。 (空海も似たようなことを述べているそうで、「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて 生のはじめに暗く、死に 死に 死に 死んで 死の終わりに冥『くら』し」 である。) 現代人が1つだけの人生について語るように、仏陀は百の人生について語った。そのように繰り返される人生の中で、仏陀は感覚的世界の経験からだけでなく、超感覚的世界の経験から語り、人類に超感覚的世界を告げ知らせた。 超感覚的認識こそが、全ての宗教の根本原理だった。 (末法の世なので、坊主も感覚的意識しかもっていない現代は、ニセモノだらけという他はない。葬式に際しても、死者との交信もできないのでは、葬式の意味もなく、単なる詐欺商売である。世の坊主たちに、一体どれほど自覚があるのだろうか?) ここでもう一度、神「タオ」を体験する(古代アトランティスの)様々な民族を考えてみる。当時の人々は宗教を通じて、自分を神的な存在と結びつけるだけでなく、自分を神的な存在の衣裳、もしくは莢(さや)に思っていた。直接、そうした意識を獲得していた。 その当時の人々は、現代人のように思考もできず、賢くもなかったが、自身を、ちょうど果実が種を覆い包んでいるように、神的な存在という核心を覆い包んでいることを直接意識していた。その人々は、この核心を見て、感じ、この核心を通して過去を回想し、未来を予見した。 そして、自分のなかの核心により、自分の中に輪廻転生の教えを感じとった。 秘儀参入者たちは、当時、このような意識をもっていた。古代インド人にはじめてブラフマンの文化を与えた秘儀参入者たちは、輪廻転生を直接、活き活きと感じとっていた。従って、この地から生まれ出た様々な宗教は全て輪廻転生を教える。 人間の様々な活動分野で神「タオ(神的核心)」が感じとられた。現代人の魂の生活は、外から来る強大な力から切り離されているので、当然、転生の体験を洞察できず、この世に限定された魂の生活しか知らない。 古代インドに続く文化段階以降は、太古のペルシア宗教から始まり、北方へと拡がっていった人々の中から、「人間の魂が永遠に転生を続ける核心を包む莢(さや)である」、という意識が消えてしまった。意識は、生と死の間の頂点だけに向けられ、宗教(religare)もまた、誕生から死までの間だけ求められるようになった。 統一性の代わりに二元的対立がはじめて強く感じられるようになった。 古代アトランティス時代の神「タオ」の人間は、根本原理との関連を活き活きと直接感じとり、ブラフマンを感じる人間は、人間の内と外で一様に存在するブラフマンを呼び起こそうとした。 対して、古代ペルシア文化期の人間は、先ず二元性を感じとり、人間の中から生じた内と外との、根本原理的な存在と、現在の人間の形姿との対立を感じとった。 万物が発する根本原理に眼を向け、植物、動物、人間の物質的な形姿を生んだ「言葉」に眼を向けるだけでなく、それとは調和できない存在にも眼を向けた。後者を、根本原理である神的存在の堕落した姿であると感じた。 光と闇、男と女のような、互いに対立し合う二極原理が人間に与えられた。二極原理は、根本原理を表現すると同時に、魂の濃縮度(発展段階)をも表現している。この二極原理が人類進化の第二段階だった。 (この二極原理からゾロアスター教が生まれたという。陰陽道もここから派生したのだろう。)
2011年01月06日
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このブログに訪問されている∞万華鏡∞さまから以下の日本人智学協会のサイトを紹介され、そこにある「シュタイナーの言葉」を読んでいるうちに、東洋哲学に関連するものがあったので、自分の言葉に置き換えてみた。 http://www.geocities.jp/nihonjinchigakukyoukai/present.html 「老子」に関するシュタイナーの言葉 「諸宗教に共通する叡智の核心(上) 高橋 巖:訳」の意訳 古代の偉大な宗教の開祖たちは、同一の中心地から送り出された。ヨーロッパの学者たちが驚嘆した古代バラモン教もまた、偉大な宗教の創始者たちが、古代インドにもたらした叡智の余韻にすぎない。 この中心地から、様々な後に仏陀となる創始者たちが派遣され、アジアの様々な宗教の信者たちに、その福音をもたらした。また、この中心地からはヘルメスが、エジプトヘと派遣されたが、そのヘルメスのもたらした素晴らしい宗教に対して、ある人物が、ソロンに向かって、次のように言った。 「あなたたちの知識は、秘儀参入者の叡智に比べれば、子供騙しのようなものだ!」 ソロン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%B3 古代ギリシア民族の偉大な教師ピュタゴラスもまた、この中心地から派遣された。また、その教えが将来益々普及していったイエスも、この中心地の出だった。 このように、様々な宗教が、かつて最高の叡智を育てた、この中心地を指し示している。様々な宗教の各々の特質が、この中心地の存在を確信させる。 様々な宗教の様々な教義の中に、共通した教えが見つかる、という事実は、現代の実証主義的な文化人類学者たちによっても、認められてきた。ゾロアスター教や、古代インドのバラモン教、仏教、或いは、古代アメリカに栄えた先住民の宗教でさえも、その全ての中に、素晴らしい一致を示す共通の要素が見られる。 しかし、当の学者たちは、この素晴らしい一致を、外(物質)的な事情によるものに解釈している。一致に隠された秘密を知る鍵が失われてしまったので、十分深く問題を掘り下げることができないからである。 けれども、様々な宗教の根底に存する叡智の核心に本当に遭遇できれば、宗教の教義を通して、この一致が外的な事情によるのではなく、同じ叡智の核心から発していることが確信できる。宗教の教義は、各々の民族の下で、異なる時代に異なる形で、この叡智の核心を表現してきた。 アジアに眼を向けると、今日の感覚からは、宗教とは考えられないような太古の宗教から生き残った思想が見つかる。その思想とは、古代中国の不可思議な文化の中に見つかる思想である。 この思想とは、孔子の儒教でも、古代インドや、古代中国で普及した仏教でもなく、太古の中国の宗教の生き残りである「タオ(老)」思想、つまり現代でいう「道教」である。 この思想は、人間を「タオ(老)」に向けさせる。「タオ(老)」とは「(人生の)目標」、もしくは「道」と訳されているが、このような訳語に従うなら、この思想の本質である宗教に関する明確な観念を持つことはできない。 「タオ」という言葉が表現する存在は、数千年前に、多くの人類のために、既に表現されていたが、人類が仰ぎ見ることのできた至高存在のことなのである。 この存在については、人間の内部に萌芽として担われ、いつか、人間本性の奥底から見事な花となって咲き出る至高の存在、と考えられていた。「タオ」は魂の奥底に隠れている根本であると同時に、崇高な未来をも意味している。 当時、「タオ」は、その言葉の意味を知る者にとっては、口にすることさえも畏れ多い、と感じられていただけでなく、考えることさえ、畏怖の感情を呼び起こした。 「タオ」という太古の宗教の教義は、発展(進化)の原理に基づいていた。その教えに従う者は以下のように語る。 「今、自分の周囲に存在するものは、いつか克服すべき1つの段階である。今、自分が立つ、この発展(進化)の段階は、崇高な目標を想定し、自分の中にも、目標である「タオ」に至ろうとする衝動が生きている。 自分は、自らの内に、そのような大きな力を感じる。しかも、自分だけでなく、全ての存在が、同じ目標に向かって進んでいる。自分の中の、この力は大自然の力でもある。 同じ力が、風からも吹いてくる。石からも鳴り響き。稲妻からも輝き、そして雷鳴から響いてくる。その力は光となって、太陽から送られ、植物においては生長力となって現れ、動物においては知覚や感情となって現れる。 その力は、崇高な目標に達するまで、大自然の中で様々な形態を生み出し続ける。自分はその力を通して、全自然と1つになる。自分が息をするたびに、その力が、自分の中から外へ流れ、また内に流れ込む。 またその力は、自らも進化を遂げる至上の霊の象徴であり、生命でもある。この力を、自分は「タオ」と感じている。」 この宗教では、彼岸(あの世)の神については、特に何も語らない。また外の世界(あの世)の事柄についても語らない。ただ人類の進歩のために、役立つ力だけについて語る。 「タオ」は、古代アトランティス時代の人びとには、身近な存在だった。当時の人間は、神的な源泉(存在)と結びついていた。現代人の祖先である、この古代アトランティス人たちは、現代人のような発達した知性を持っていなかった。しかしその代わりに、優れた(現代でいう)夢(感情)意識を持っていた。 その夢(感情のイメージ)生活は、本能的な形で営まれていたから、計算能力は不得手だった。当時の人間の見る夢は、現代人のようには混乱せず、意味がはっきりしていた。当時の人間の魂は、意味のあるイメージを持ち、夢の中で、周囲の外界の出来事をイメージ化し体験できた。 このアトランティス時代の人間の魂の世界は、現代人の魂の世界とは全く異なっていた。現代人は、周囲の世界について、できるだけ正確に知り、理解しようとするのに対して、当時の太古人は、魂の内部に活き活きと現れる(現代でいう)象徴的で、比喩的なイメージを体験した。 現代人が誰かに出会えば、その人間が善人か悪人か、或いは、賢いか、愚かか、というような明確な概念を得ようとし、冷静に外側から見て、その人間を説明するのに適した概念を得るが、このようなことは古代アトランティス時代の人間には、あり得ないことだった。 当時の人間の心の中には、(感情的な)イメージが浮かび上がり、現代人のような知的な概念は浮かばなかった。 古代アトランティス人たちが、悪人に遭遇すると、心の中に濁った暗いイメージが生じた。その知覚内容は、現代人のように概念的には把握されなかったが、このイメージに従って身を処した。 明るく美しいイメージが夢のように魂の前に現れたときに、遭遇した相手には、信頼を寄せることができた。黒か赤か褐色が現れたときには、そのイメージから相手に恐怖を感じた。 (現代でいう霊能者がみるオーラのことに相当する。) 真実は、知的な方法(論理)ではなく、直観として閃いた。そのイメージを通して、自分の内部に神が生きていることを感じていた。その神は、吹く風の中や、木々が出す音の中で、魂の内部のイメージとして、自らを語っていた。 そのような形で、神は、未来の崇高な目標に眼を向けるように、と当時の人間を促し続けた。古代アトランティス人はその神を「タオ」と呼んだ。 このような人類の後に続いた現在の人類は、異なる方法で神と向き合っている。現代人の直観力は、かつての力を失ったが、その代わり、知的な思考力を発達させた。その思考力は、かつての直観力に較べて、見方次第では、高いとも、低いとも言える。 現代人は周囲の外的な対象について鋭い理解力を持っている点では、当時の人間よりも高い進化段階に立っているが、世界の神的な「タオ」の作用力との生命的な関係を感じることはできない。 従って、現代人の知る世界は、自分の魂の中に現れる限りの狭い世界だが、その一方で、鋭い理解力を働かせて、現代のこの世界に対して、存在している。 古代アトランティス人は神的なイメージを、自分の内に感じていた。現代人は外界に眼を向け、耳を傾ける。その場合の外と内は対立し、両者を結びつける絆は、どこにも見つからない。この事実に気づくことは人類の進化にとって大きな意味を持っている。 大洋の海水が、様々な大陸を覆ってしまった(古代アトランティスの大洪水)後で、大地が再び隆起するようになって以来、人類は内部に感じられる存在と、外界での現象との間の絆を再び見つけたいと願っている。 「religare(結ぶ・繋がる)」というラテン語は、「宗教」の意味を正しく言い表している。すなわち、それはかつて結ばれ、今は別れている存在、いわゆる世界と自我とを、再び結びつける、という意味なのである。 様々な宗教の教義の様々な形式(教義)は、この結びつきを再び見つけ出すために、偉大な賢者たちによって、その都度教えられてきた方法であり、手段なのである。それ故に、その様々な形態は、様々な形でつくられ、それぞれの文化(進化)段階の人間に理解できるものになっている。
2011年01月05日
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謹賀新年今年もよろしくお願い致します。 さて、今年の干支は、辛卯(かのと・う)です。この干支の解説については、安岡正篤著の「干支解説」等を学べば誰でも理解できます。理解できなくても、先の60年前(1951年)の出来事を調べれば、比較できるでしょう。 端的にいえば、世の中の価値観が180度変わる年といえるでしょう。その兆しは昨年既に現れています。人気のある者の人気がなくなり、それまで人気のなかった者が、人気者となってきました。 世界的にいえば、先進国ではなく、第3の後進国といわれる国の勢力が増し、先進国と対等以上になるということになります。昨年、すでに中国の経済的な勢力が台頭してきました。欧米を中心にした先進国は、自分たちの権益が失われることに対する恐れや不安を抱き、そのツケが、先進国に従属する小さい国にも多大な影響を与えています。 自分たちの権益を手放したくない者は権力を使って阻止するでしょうが、大きな時代の流れに背くだけで、その罪は刈り取られるだけでしょう。物質世界の時代は終焉を迎えることになります。 金持ちが貧乏になることは、これまでの概念でいえば不幸ですが、来るべき霊性の時代では、なかなか受け入れがたいものですが、幸福なのです。なぜなら、価値観が180度転換するからです。 抵抗するだけ、自らが墓穴を掘って、益々奈落の底に落ちていきます。価値観が180度変われば、プラスの方に進んでいるつもりでも、かえってマイナスになるからです。一方向に進めば進むほど、逆転すれば、道に迷い、中心へと帰り、戻るのが大変になります。特に政治家や官僚は注意すべきでしょう。的が必ず外れるからです。 価値観の転換は、歴史を真剣に勉強するなら、至る所に見いだされます。現代の価値観、それも最近数十年の価値観から、過去の歴史を評価しても真相はわかりません。現代人はこの単純な過ちを犯しやすい。 例えば、日本の仏教について、現代人の立場から解説した番組をみましたが、現代人の立場からはよく描かれていましたが、残念ながら、現代人は物質的感覚を、当たり前にしているので、その当たり前の感覚を捨て去らない限りは、どうしても、真相に迫ることは困難でしょう。 最澄や空海が現代の仏教の概念から理解できないのは、現代の概念や意識から理解しようとするからです。 このようなことをいうと、では、理解できないことをやるのは無意味であるという、現代人の基本的な概念の意識から容易に発言しがちですが、このような発言こそ無意味そのものといわざるを得ないわけです。 180度価値観が異なるのは、現代の立場や価値観があるからこそなのです。 つまり、簡単にいえば、現代人と正反対の意識や認識を持てばいいのです。反対の立場に立ってみることです。 現代人の意識は何処からくるのかといえば、かつてそれとは正反対だった古代人の意識から生じてきたことには変わりがありません。だから、あえて現代人の日常の認識を捨て去る必要があります。 ここでイソップ物語の北風と太陽の話が思い出されます。 「あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。 1.まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。 2.次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。これで、勝負は太陽の勝ちとなった。」 というものですが、旅人とは、人間のことで、上着とは価値観のことです。そして、太陽と北風は、時代の流れを司る存在といえます。 北風と太陽は、どちらからも旅人の上着、つまり、人間の価値観を脱がせようとします。北風のやり方は、悪魔的で、逆に太陽は神的です。 では、もし、北風と太陽が、人間に対して同じ存在で、人間の価値観が、北風と太陽を区別している、としたらどうでしょう。 つまり、北風にみえるのは、上着を手放したくないという執着心をもつ人間で、太陽にみえるのは、上着をいつでも手放せる人間であるという風に逆転して考えてみるのです。 この話と同じように、自らの価値観に執着している人間は、その価値観の奴隷となるわけです。価値観をいつでも変えられ、変化に対応できる存在こそ、生命の根本原理を認識する者でしょう。 変化に対して、変化に応じる臨機応変な対応こそ、経験量が必要で、死とは、そのような変化の最たる存在です。 もし、古代人を現代につれてきたら、古代の生活習慣を改めない限りは死んでしまうでしょう。現代人を古代につれていっても同じです。 郷に入れば郷に従え! 時代の幕開けは間近です。時代の幕開けのために、仏教は準備され、言い伝えとして、継承されてきたのです。価値観が180度変わってこそ、意味をもつ存在です。つまり、現代人には意味がわからないからこそ、将来、意味をもつのです。 死んでみてはじめてその存在の有難さに気づくのが仏教なのです。現世の上辺の価値観ではありません。 晴れているときに傘をさす人間は馬鹿ですが、次の瞬間に雨が降れば、その人間は賢者とされます。 不用の用です。現世では役に立たないからこそ、現世でない場所では役に立つのです。 仏教だけでなく、哲学とはそういう存在なのです。 この世での絶望の渕に立たされたとき、人間はなぜ神仏にすがるのでしょう? この世の価値観がもはや通用しないことを直観的に知るからです。 この世に自分を遣わした存在が神仏だと魂の奥底では気づいているのです。 だから、困難に遭遇すると人間は祈るのです。 自分を形作る上着を脱ぎ、自分のなかに存在する神仏、スーパーマンになるためです。
2011年01月04日
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