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最近は、特に日本では、自殺のニュースが無い日が珍しいほど、有名人だけに限らず自殺が多い。有名人では先だって亡くなった加藤和彦さんや、一昨日は船越英二さんのお嬢さんで旅館のお上さんをやられている方が亡くなった。その方は、生前永らくうつ病を患っていて、ブログにも「自分で自分の命のコントロールができない」という悲痛な声を綴っていたそうである。これは、うつの経験がある私にもよく分かる。自分では論理的な思考が身上だと思っているが、そう言う時は、自分では論理的に、あるいは合理的に考えて考えて考えつくした結果として、「やはり死んだ方が自分のためだけではなく、周囲の人のためにもなるんじゃないか」と思ってしまったりする。うつ病の治療では、診察の度に毎回、医者が「自殺願望」はどうなったか、ということを必ず聞く。それほど、自殺はうつ病の症状としては一般的なのだ。「いや、あまり死にたいとは思わなくなった」というと、それがうつ病がやや好転したしるしになるぐらいだ。こういった時に、あるいはそういった状態にいる人に、動機がなんだかんだ、というのはあまり意味がない。ふと、とか衝動的に、というのもあるにはあるが、徹底的に考えたつもりでも、どうしてもそっちの方向に行ってしまうことがままあるからである。しかし、はたから見ると第三者には、やはり生きている苦しみから逃れたいため、死ねばそういった苦しみから逃れられるから、という風に見える。例え、本人はそう思っていなかったとしても。----------------- Break due to the urgent issue -----------------えっと、どこまで書いたんでしたっけ?そうそう、この日記は、自殺の動機に、逃避的な動機ではなく、積極的な動機、というのがありうるのか、ということから書いたんでした。でもなかなかそこまで行き着かないうちに、すでに長文に。では、その『積極的な自殺の動機』というのがありうるのか、ということについては次回に回します。
2010.03.31
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最近読んだ本の中に、かつてのアメリカの庶民の夢、あるいは、アメリカに移民としてやってくる人たちにとっての、まさにアメリカン・ドリームとして描かれていたのが、「郊外の広い庭付き一戸建てに住み、二人や三人の子供と勤勉な夫に恵まれ、妻は贅沢と言わないまでも、その時々のショッピングを楽しみ、夕食には家族そろって広いダイニングで、横たわる毛長な犬の頭をなでながら、楽しく食事をする家族風景」みたいなイメージの中流階級の家庭であり、だれでも努力次第で、こういった理想とも言える家庭を築けることが一つのアメリカン・ドリームとも呼ばれていた時代があった。私がここ18年間の米国生活を振り返っても、確かにこういった感覚は少なくとも1900年代まではあったと思う。それが2000年以降、ITバブルの頃と、クリントン政権が終わり、ブッシュ政権になったころから、大企業優先、自由経済主義の乱用、競争原理の際限ない適用拡大などとあいまって、先ごろ書いたような格差社会がますます広がってきた。それと機を一にして、上記のような「アメリカン・ドリーム」も、全くなくなったわけではないにしても、一番の下層から這い上がっていくような事が非常に難しくなってきて、そのチャンスに恵まれる人はますます限られてきたような気がしている。その大きな要因の一つに、やはり行き過ぎた競争原理による市場経済と、アメリカ特有のいくつかの原因があると考えられる。先般書いたように、最近とみに増加している市民の経済破綻の理由の一端は高額な医療費にある。しかし、では医者が儲けすぎているのか、というとそうでもなく、経済的に成り立たないため廃業に追い込まれる医者や病院もあとを絶たない。なぜ高額医療なのに経営が破綻するのか、と言えば、そこには大きく二つの要因があり、一つは行き過ぎた競争原理が幅をきかす民営化された医療保険と、それに組み込まれざるを得ない病院という構図がある。もう一つの要因は、なんと訴訟社会のアメリカにおける医療訴訟の賠償が膨大になってきたため、それにつれ医者が保険会社に支払う保険料も年額数千万円(掛け金がですよ!!)というものになってきて、医者は利益の大半を保険料の支払にあてるより仕方がなくなった、という事実がある。なんと、医療費の高騰を招いた大きな要因は、医者の強欲でもなく、医者の不足でもなく、医療機器の高騰でもなく(これらも全て要因の一つではあっても)、庶民がことある毎に医者を医療過誤などで訴えて法外な賠償金をせしめてきた過去が、ここにきて一般の全患者に跳ね返ってきている、という皮肉な構図である。もちろん医療過誤はよくないし、それがずさんな医療や管理により発生したのだとしたらそれなりの対処は必要だろう。しかし、アメリカという訴訟社会においては、弁護士が一番儲かると言われるほど、多くの人が訴訟をおこし、多くの人が莫大な保証金+制裁金を受け取り、そういったコストが保険料の高騰を招いて庶民を圧迫する、という悪しき構図がある。これはアメリカのほんの一面に過ぎないが、格差社会の拡大と共に、格差の固定化も進み、初めに書いたように、下層に属する人間がかつてのアメリカン・ドリームを実現するなどというレヴェルではなく、人間として最低限の生活を送ることさえ難しくなってきているのが現状だと思う。このアメリカという国の行く末、はたまた同様な傾向が出てきつつある日本においても、これからどんな方向で国が進んでいくのか、はたして我々の子供の世代になった時の世界はいったいどんな世界になっているのか、時々、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
2010.03.30
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1月から2月にかけて、例年のように確定申告を兼ねて日本に出張してきた。その時の主目的は、個人的には当然確定申告なのだが、そこはそれ、出張名目で帰国しているので、仕事もやらなければならない。で、その仕事というのは、本職の方のNetwork Stackの販売、および販売チャネル拡大である。で、新しい販売代理店の開拓にと名古屋まで足を伸ばしたのだが、そこでお会いした会社の社長さんからは結構厳しい意見をいただいた。その中で印象に残っているのは、いまさらVoIPでもないでしょう、というもの。VoIPというのはVoice over IPの略で「ボイップ」と読む。早い話が、音声をIPに乗っけてしまおう、というもので、私も退職前にいた会社でも、10年以上前にこのVoIPとWiFiを組み合わせた機器の開発を手がけたことがある。あの頃はまだ802.11bがやっと出始めた頃ではあったが、これとVoIPを組み合わせて企業内はもとより、家庭内のコードレス電話や構内無線をこれで置き換えよう、という意欲的なものだった。今ではIP電話が結構普及してきたが、当時はIP電話などほとんどなく、まだSIPがメジャーになる前だったので、VoIPの方式にしても、WiFiの方式にしても焦点が絞りきれないところがあって、結果的には商品化まで至らなかった。しかし、いま私の会社では、このVoIPがSIPベースで受託開発のほとんどを占めている。当然、そこにはSIPスタックだけではなく、SDP,RTP、RTSPなども絡んでくるし、基本となるミドルウェアとしてTCP/IPスタックからDHCPやHTTPなども多くの場合含まれてくるけれども、アプリケーションとしてはVoIPである。なのに、日本のこの会社で「いまさら・・・」といわれたことは驚きだった。しかし、いろいろな会社からの委託開発をやっていると、このVoIPの活用はまだまだこれからだという気がしている。巷ではBBフォンだけでなく、20を超えるキャリアーからIP電話サービスが提供されているしSkypeに代表されるように、無料、もしくは非常に低価格なPCフォンサービスなども徐々に拡大してきている。これらは全てSIPなのだが、こういった広域アプリだけではなく、病院内のナースコールシステムや、集合住宅のインターカムシステム、あるいは軍や警察などの非常連絡システムなどなど、今までアナログ通信が使われていた部分で、DSLや光ファイバー、CATVなどによる高速ネットワークインフラが普及するにつれて、いっそのことこれに音声も統合してしまえ、という機運は高まってきている。いまさらVoIPなんて、ではなく、これからはVoIPを、だと思うのだが・・・
2010.03.27
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昨日のGHPは科学、数学、音楽、などそれぞれの部門で州全体で総勢700名の高校生が選ばれる。その結果はWebサイトで公表されるが、ここにその在籍高校別ランキングを残すことにする。日本から来られる駐在員の方の貸家の選択のお手伝いを不動産エージェントとしてやっているが、その方々がまず気にされるのは教育環境である。子供が小学校、中学校、高校のどれかに行かれている場合、やはり赴任されて一番の関心ごとは、どういった学校に行くか、ということである場合が多い。また、アメリカの場合、公立学校間格差が非常に大きく、多くの場合、この教育環境はその地域の世帯平均年収に比例し、総じて地域の安全性や利便性などとも深い相関関係がある。つまり、子供をいい環境で教育する、という以上に、住む地域が安全で、しかもいろいろな施設が完備した利便性にも結びついてくる。このGHPは、そういった意味で、SATやACTなどの全国共通試験の成績などと共に、どの高校がこのプログラムの合格者を多く出しているか、というのも一つの目安となると思われる。そこで、一つの参考として、今回2010年度のGHP合格者の在籍高校別のランキングを掲載する次第である。一位:Northview High School(Fulton County) 27名二位:Walton High School(Cobb County) 16名三位:Alpharetta High School(Fulton County) 14名三位:Columbus High School(Muscogee County)* 14名 五位:South Forsyth High School(Forsyth County) 12名六位:Milton High School(Fulton County) 10名六位:Chattahoochee High School(Fulton County) 10名八位:Chamblee High School(Dekalb County) 9名八位:Mchintosh High School(Fayette County) 9名十位:Pope High School(Cobb County) 8名*印:Magnet School(100%大学進学を前提とした学校)となる。アトランタ近郊では、Fulton CountyかCobb Countyが総体的に良い学校が多いことがわかり、特にFulton County(と言っても全て、North Fultonに集中しているが)では、この10位までに入っていなくとも、ほぼ全ての高校がランキングに入っているので、学校ごとの特色を加味して高校の学区域を選択することが重要となる。ちなみに、我が家の息子も娘も、この第一位のNorthview High Schoolですが、これは住んでいる地域がたまたまここの学区域にあるためで、それ以下でも以上でもありません。念のため。
2010.03.27
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このところ、堅い話題か暗い話が続いたので、鬱憤晴らしに今日は思いっきり久しぶりの親ばか日記を書くことにしました。(笑)ということで、親ばか日記ですから子供の自慢話になりますので、普通、他人の自慢話ほど不愉快なものはない、という話もありますから、そういった方は素通りしてくださって結構です。まずは息子の方から。昨年ジョージア工科大学(通称、ジョージア・テック)に入学し、そこで寮生活を送っている息子ですが、先日、世界の大学ランキングというのが発表されました。どういう基準でランキングをつけているかは忘れましたが、論文数や引用回数などによる学術レベルの評価だけでなく、教員と学生の比率とか、予算とか、そんな総合的な評価だったと思います。それを見ると、日本ではあまり知られていないこのジョージア・テックですが、世界的にみるとかなりの水準にあるようで、例えばコンピュータサイエンスなどでは、東工大はもとより、東大工学部よりもはるか上位にありました。悲しい事に、私の出身大学などは、リストには出てくるものの、はるか下のほうにあり、間違ってもこんなものは息子に見せられません(苦笑)息子の専攻は航空宇宙工学なので、コンピュータ・サイエンスではありませんが、世界では最も進んでいると思われるアメリカで、この航空宇宙工学に関しては、このジョージア・テックはマサチュウセッツ工科大学(MIT)などと並んで三本指に入ります。したがって、同じジョージアテックと言っても、この航空宇宙工学はもっともレヴェルの高い学科の一つです。まあ、日本の大学と違って、入るのは易しく、出るのが難しいのがアメリカですから、一年目で60%の学生が奨学金需給資格を失うほど学業評価が厳しいので、入っただけでは何の意味もなく、卒業できて初めて価値があるのですが。これだけレベルが高いと全国から優秀な学生が集まっているようですが、必死に勉強しても6割が奨学金受給基準に達しない、というのですから、厳しさはおして知るべし、なんとか息子には奨学金資格を落とさないでいってもらいたいものです。ただ、前半の成績は、はなはだ怪しい結果だったにもかかわらず、週末になると家に帰ってきて、高校時代の友人たちと遊びあるいているので、非常に不安ではありますが・・・・・。次ぎは娘です。娘はピアノを止めてバイオリンにしてからかれこれ5年、高校のオーケストラだけでなく、先般も書いたように、アトランタシンフォニーのユース・オーケストラに参加して音楽中心の学生生活ですが、今回、GHP(Governer's Honers Program)というのに申し込み、めでたく合格しました!!このプログラムは州の教育委員会の肝いりで、高校生の来年ジュニアかシニア(3年生と4年生)になる生徒を対象に、いろいろな分野で才能があると思われるものを選抜して、夏の間、一ヶ月半に渡って、合宿制で特別カリキュラムが提供されるプログラムです。娘は当然、バイオリンを手に、オーケストラなどでの日ごろの音楽活動をアピールして、運よく合格したわけですが、娘に聞いたところ、合格理由は、面接官の一人が、娘の中学時代の音楽担当教師だったらしく、娘いわく「XX(先生の名前)先生は、○○(娘の名前)のこと気に入っているから!は、は、は」とのことで、実力ではないらしい(!?)ともあれ、州でバイオリンで選ばれるのはたった10人。その中に、まぐれでも、先生のお気に入りだからでも、とにかく滑り込めたのは奇跡に近い。それとも、そんなにうまいんだろうか、と、日ごろは日に30分も練習しない娘を見て、疑問なのだが、たぶん他のレベルが低かったからだろう。でも、とにかくめでたしめでたし、これでこの夏は、娘に関しては6週間も親元はなれて缶詰になるので、日本に連れて行け、とうるさく言われる心配はなさそうである。(もっとも息子はいまだに言っているが、そんなことより奨学金を落とすな、とはっぱをかけなくては・・・)
2010.03.27
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オバマ政権による国民皆保険を目指した医療法案が可決された。よく日本でも話題になるが、アメリカは今まで日本の健康保険・国民保険に相当するものがなく、お金が無い人は無保険状態で、病気になっても医者にもかかれない、という大きな格差が存在した。最近こそ日本でも、国民保険に入れない貧困世帯が増えている、というニュースが流れるが、アメリカの場合はその数においてもその比ではない。特に、2000年以降、リーガン、ブッシュといった大統領のもとで、この格差社会はますますその貧富の差を広げてきた。で、初めに書いた今度の医療保険がこれを少しでも解決するのか、と言うと、これもそう簡単ではない。昨日もニュースで、アメリカ人でChapter13とかChapter17とか、つまりはBankrupsy(自己破産)を申告する人が急激に増えているというのがあった。この2007年から2年間は、前年比30%以上の率で増加しているそうだ。これもリーマンショックとそれに続くサブプライム問題、そして景気の低迷が当然影響しているわけだが、長引く不動産価格の下落は、あてにしていた家のEquity頼みの生活を破壊したのみならず、いまだにローン破産によるForeclosure物件(競売物件)が増え続けている。家のフォークロージャーは、ローンの支払ができなくなるだけで、家を取られはするが破産はしない。では、なぜ自己破産が増えているか、というと、この不動産価格の下落もその一端を担っているのは確かだが、それ以上に、1)失業 2)離婚 3)お金の使い方(クレジットの使いすぎ)と言った原因もあるのだが、大きいのはなんと4)医療費というがある。いったん、重病や習慣病(治療に時間がかかるもの)、それに事故や特殊な病気になったりすると、すぐに何百万円、ともすると何千万円の医療費になってしまい、それが到底払いきれずに破産する、というケースが多い。ここで重要な点は、これらの病気による破産者の7割以上がなんらかの保険に入っていたにもかかわらず自己破産まで追い込まれた、ということだ。つまり、よく言われる無保険者が多いから、医療にもかかれず、そういった人たちが一方では自己破産する、と言う図式ではなく、保険に入っていても医療費の高騰を受け、保険でカバーできないところで自己破産する、という。最初の国民皆保険は、その意味で、最低限の医療を国民に受けさせることはできるかもしれないが、だからと言って、この自己破産をとめることは到底期待できない。「貧困大国アメリカ」というのは、堤未果さんの岩波新書のルポ(下記)だが、 ルポー貧困大国アメリカこの本にもあるように、アメリカの格差社会というのはますますひどくなっており、4人家族で年収200万円以下のいわゆる「貧困層」がすでに国民の一割を超え、250万円以下だともらえる無料フードクーポンで暮らす人は5000万人に近づいている。健康だけでなく、生存権まで蝕みつつあるこの格差社会の行方はいったいどうなってしまうのだろうか。
2010.03.26
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先日の日記で、このところ読んでいる本に関して、>実際には私たちの頭は(いや、私自身の頭は、と言って方が正確かもしれない)、いまだに20世紀にも至らず、19世紀の古典力学、つまり私が30年以上も前に高校で習った物理の範囲を一歩も出ていない。と書いた。これはもしかすると今の高校で教えている事も大して違わないかもしれない。これだけ科学の最前線が進化し続けているにも関わらず、学校で教えている内容がそれに応じて変わっていかないのは少しおかしい。でも、おそらく(上の推測が正しいとしての話だが)その理由というのは、相対性理論以降の科学の進歩を教えられる教師がいないためではないだろうか。よく、相対性理論が発表された当時、これを理解できた人間はほとんどいなかった、と言われるし、量子論などは今現在でさえ、これを本当に理解している人間などどこにもいない、と物理学者自身が言うほど、それを理解する事は難しい。それは、古典力学の範疇では、その内容は数学が難しかろうがなんだろうが、少なくともその結果というものは私たちが日常経験する事象を説明し、それを理論づけてくれる類のものだったのに対し、相対性理論や量子論は、私たちの経験からくる物事の在り方とある意味、対立するものだからだろう。特殊相対性理論では、等速運動中の視点から、一般相対性理論では、これを加速度運動中の視点へと広げたが、その対象となるのは非常に大きな質量であったり、光の速度に限りなく近づいて初めて理論が現象と一致することが確かめられるが、そうで無い限り、それを感覚的に受け入れる事は非常な困難を伴う。誰でも、走る車からボールを前方に投げたら、そのボールは止まっている人から見たら車より速いということは知っている。あるいは、ある人が電車に乗ろうと、飛行機に乗ろうと、その人にとっての時間は、地球上にいる限り私たちと同じように流れる、ということを前提に生活している。これが成り立たない、つまり相対性理論の説明が実際に見えるような世界・・・そこでは距離や長さがその速度によって縮まり、流れる時間の速さが速くなったり遅くなったりする世界といったものを私たちは想像することすら難しい。しかし、これはまだ何とか光速度不変という前提を持ち続ければ、理解できるような気がするが、量子論の世界になると、この現実世界とのギャップがもっと大きくなる。光が粒子であると同時に波である、ということから出発し、電子も同様だとわかり、挙句の果ては、すべての物質は粒子と波動の両方の性質を併せ持つ、ということは、どう考えてもすんなり理解できないし、イメージすることはさらに難しい。もっと言えば、全ての粒子/物質は粒子であると同時に波動性をもつ、というよりも、全ては波動であり、それが粒子という形で現象として現れる、という風に考えたほうがより真実に近い、というに至っては、なにをかいわんやである。しかし、私たちの現実生活への影響、という観点でみると、相対性理論よりは、このよけい訳のわからない量子論の方が決定的に大きく、今や私たちの生活は、この量子論から生まれた成果に囲まれており、それなしでは生活できないレベルにまで広く行き渡っている。つまり、半導体であれ、それを使った機器であれ、パソコン、インターネット、こういったものは元をたどれば、この量子論の成果だからだ。そして、この量子論は不確定性原理とあいまって、私たちが見る現実・現象というものが「観測者」の視点・影響を抜きには語れない、ということまで明らかにし、そうなると、人間が観測した結果から理論を組み立ててきた科学の根本において、そこに限界があることを示されてしまった。また意識の介在、ということも科学的な探求の中で避けて通れなくなりつつある。「私たちに、何がわかっているのか」でも書いたように、今の時代は、今までの「常識」が徐々に崩れてきているその最中に私たちは生きており、これらのことを指して、新しい「意識」の時代、新しいパラダイムが生まれる時代、という考え方をし始めている人が多い。でも、これが、例えば高校の教科書で、その時代に生きる人間としての「常識」として教えられる日はいったい来るのだろうか。
2010.03.25
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イスラム教のみならず、キリスト教やユダヤ教においても偶像崇拝が禁止されている。イスラム教に至っては、征服地の偶像の類をことごとく破壊するほど徹底している。これは、この偶像崇拝禁止があのモーゼの十戒、つまりこれら三つの宗教に共通の「聖書」から来ているためだろう。このどの宗教もその重点をどこに置くかは異なるが、キリスト教で言う「旧約聖書」がその土台になっている。しかし、よく考えて見ると(よく考えなくとも直感的にも)、神が人間に与えた十戒の中のひとつが、偶像を礼拝することを禁じる、というのも大きな違和感がある。ちなみに、このモーゼの十戒は、その初めの三つがどうなっているかを見ると、キリスト教でも宗派によって微妙に違う。たとえば、カトリック系では、わたしはあなたの主なる神である。1.わたしのほかに神があってはならない。 2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。ところがプロテスタント系では、1.主が唯一の神であること 2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止) 3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと (4.安息日を守ること )と、プロテスタントにある2.の偶像礼拝はカトリック系ではなくなり、代わりに9番目に「隣人の妻を欲してはならない」というのが入ってくる。同じ旧約聖書をもとにしているにしては、この重要なモーゼの十戒が違っていることも変な話だが、それがもともとどんな意図で書かれたのか、ということを抜きにしては解釈できない。カトリック系で、この条文がなくなっているのは、それなりの歴史的背景というか理由があるわけだが、その理由を考えると、もともとの十戒にはやはりこの条文が有った、と言った方が正確だろう。しかし、神がいたとして、その神が人間に「守るべきもっとも重要な戒め」を与えたとしたら、その中に「偶像を作ったり、それを敬ったり」することを禁止する、という項目を入れることがあるだろうか?日本語的には「戒め」は禁止命令的なニュアンスがあるが、もともとはもう少し柔らかな「警告」あるいは「した方がよい」という程度のニュアンスだ、という説もあるが、それでも、この条文だけは他の条文に比べると、どうも違和感がある。そんな感想を持ちながら、先週の聖書勉強会においてもこの「偶像」に関する箇所が出てきた。当然、私の通っている教会はバプティスト系なので、上記のプロテスタント系に近い。つまり、やはり偶像を否定し、偶像崇拝を否定する。またそれを異教のシンボルとして捉えたり、「間違った信仰」のかたちとして捉えている傾向がある。しかし、もともと上に述べた疑問、つまり「十戒」の中にこの条項がなぜ、ぽつんと違和感がありながらも入っているのか、と考えていたところ、これは比喩ではないか、と気が付いた。ご存知のように、聖書は旧約は特にそうだが、新約も極めて比喩が多い。その比喩を比喩ではなくそのまま受け取ってしまうと「そんなばかな話」になってしまう場合も多い。そこで、それを比喩として捉え、その意味するところを考えることが、すなわち「聖書の勉強」の一つの大きな内容でもある。ところがこの偶像崇拝に関しては、これを通常比喩としては見ない。直接的に、偶像を作ったり、それを神として拝んだりすることを戒めている、と解釈される。つまり、神は「見えるものの中には居ない」ということを言っていると思うのだが、仏像を拝んだり、神木を拝んだりする人が、その中に神(あるいは仏様)を見ているのであれば、それはそれでいいのではないか、と思う。しかし、ここで私が比喩と思ったのはそんな意味ではなく、この「偶像」というのがすなわち「見えるもの」つまり「物質」というものの比喩ではないか、ということだ。物質、そして、その物質界の「価値」としての「お金」、そういったもろもろの「精神的なものではない」もの、そういったものに価値を置くことを戒めているのではないか、と思うのだがどうだろうか。この「十戒」が、禁止命令ではなく「警告」や「薦め」であったとしても、もし上の比喩の通りであれば、それは現代にも、いや現代にこそ通じる、非常に的確な「戒」だと思えるのだが。
2010.03.24
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昨日の日記の続きとなるかもしれないが、自分が求める世界の構造、つまり世界観というのはどういうものなのだろうか。よくいろいろな本の中では、世界観という代わりにBelief System-信念系とか信念体系という言葉が使われているが、これに良く似て、つまりは自分としてこの世界をどう捉えるか、そしてそこには自分なりの価値観も反映されたものとなる。根源的な問いとしては、「すべての事象はなぜ存在するのか」ということになるそうだが、もっと言えば、「なぜ存在すると言えるのか」ということまで含めて考えなくてはならないかもしれない。まずは自分の意識から始まって、この私たちの住む世界と宇宙、この時空体系、生命、エネルギー、物質、などがなぜ存在するのか、存在するとしたらなぜこういう形で存在しているのか、そして究極的には、その存在に「目的」があるのか、といったことになる。それはつまり、幼いころから時々思い出しては、すぐに忘れてしまう類の、「なぜ自分は生きているのか」「生きることになんらかの価値・目的があるのか」「自分はどこから来て、どこへ行くのか」といった、ある意味、人間なら誰しも一度は抱くような疑問と表裏一体になっている。空間と時間の秘密が現代科学の最先端で徐々にそのベールを脱ぎ始めるのか思いきや、それよりも大きく厚い雲にさえぎられる、というような繰り返しをしている中で、それでも少しずつでも、その人類はその核心に迫りつつあるのではないか、と期待させてくれるものが、最近の進歩には観られる。そういったものの一端を、ラズローなどの人たちが例えば、その著書「生ける宇宙」↓<内容>宇宙は意味と目的を持っている!存在と意識の謎に迫りはじめた科学的探究の最前線を概観しつつ、古来の直観的叡知との統合を図る、ノーベル平和賞候補、世界賢人会議「ブダペストクラブ」主宰のシステム哲学者、ラズロ博士の最新作。などによって、彼自身の全一性という考え方から展開して見せてくれる。そこには、現実世界と、科学と、信仰や宗教、そして 昨今の複雑多岐になっているスピリチュアリティーの世界をも取り込んだ新たな世界観のひとつが紹介される。一昨日の日記で書いた、自分の関心のありよう、という面から言えば、このようなアプローチこそ自分が求めているものだと気づく。一時代前に、科学の最先端と古くからある東洋思想との間の類似性を指摘して話題となったフリッチョフ・カプラの「タオ自然学」↓の現代版とも言える。あの時代(1975年)の内容から、今日までの科学的な発見や進展から、当時単なる推測や仮定だったものが、それ以上のものになりつつある領域が格段に大きくなってきている。この30年の進歩はそれほど驚異的でもある。
2010.03.17
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いろいろな本を読んだり、人と話をしたりする中で、逆に自分が何に関心を持ち、何を求めているのか、ということが段々と分かってくるときがある。つまり、ふと読みたくなる本、したい会話、そういったものから、自然と自分の関心がどこにあるのかが逆算的にはっきりしてくる、ということだ。あるいは、読んだ本、話した内容に不満を感じることもあるが、それからも、何に不満を感じたのか、ということからも同じ事が言える。すでに2年以上にわたって、クリスチャンでもないのに教会へ通い、Worshipの前の教会学校ー聖書勉強会にも、できる限り参加している。ここで勉強することは多いが、なにしろ聖書を読むのも初めてなら、クリスチャンの方の考え方や信仰の背景というものを知る初めての機会でもあったので、当初は非常に新鮮で、日ごろよく耳にする逸話やことわざや、もっと言えば西洋社会(というか、キリスト教社会)の考え方の根底にあるものが、どういった背景や話のなかから生まれてきたのか、ということについて、本当にいろいろ勉強することができた。ところが、最近になって、その「キリスト教」的考え方と同時に、この聖書勉強会が「何を」「どう」勉強するのか、ということが分かってくると、その勉強する内容というか方向性を含めた内容が、若干私のそれとずれているのが次第にはっきりしてくる。冒頭に挙げた「本を読んだときに、何を不満に感じたか」から自分の関心のありようが逆にわかってくるように、この勉強会においても、その生じたずれから、逆に自分が何をどう求めているのか、ということが徐々にはっきりしてくる。そして、その求める内容と方向性がはっきりするに連れ、この勉強会で自分が学べることの限界というか、聖書自体の内容については、はっきり言って神学というものがあるほど、それこそ無限に近い学習内容があるとは言え、自分自身にとっては、その方向での学びというものを求めているのではない、ということが分かってくる。聖書勉強会は、名の通り「聖書」と「キリスト教」のことを学ぶ機会であり、それを通して、言ってみれば「クリスチャン」としての成長を目指すものでしょう。私自身は「クリスチャン」としての成長を目指しているわけではないので、そこに画然とした違いが出てくる。こう書いてもなんのことかわからないかもしれないが、その差は非常に大きく、学習の視点の違いは、たとえば、同じ聖書の同じ箇所に対する議論でも、その内容がまったく異なってくる。つまり、こういうことだ。例えば、聖書のある箇所を読む。その意味するところは何なのか、そのことから私たちは何を学び何を実践すべきなのか、ということを話したとしよう。すると、その意味するところは何なのか、からして、すでにクリスチャンの方たちと私とでは異なってきて、さらにそれから学べる事、というと、これはもう全然違ってくる。端的に言えば、クリスチャンの方々は、これから「神の意思」と「神の愛」そして「神の恵み」を汲み取り、「感謝」する、という方向にだいたいのケースがなる。私は、と言えば、そこですでに「なんでこれが神の愛なのか」「本当に愛だったら、どうしてそうなるのか」といったところで躓いている。そこから自分自身納得のいく様な解を探そうとし、その自問、反問の過程で、本当に考えさせられ、自分としては考えた事もないようなことを考えることを通じて「学び」がある。こういったことからわかることは、私が求めているのは、キリスト教という枠の中での学びではなく、ある意味、キリスト教あるいは「聖書」というものを含めた世界の枠組みだ、ということかもしれない。
2010.03.15
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このところ立て続けに、数学の本やら、現代物理学の最先端を紹介している本を読んでいる。残念な事に、どの本も帯に短したすきに長し、で余りにも簡単に書いているか、それとも、少しは専門知識がないと内容の理解ができない、という両極端にある。たとえば「フェルマーの最終定理」に関する本では、読み物として非常に面白いが、中に出てくるモジュラー系だの楕円曲線などの言葉を理解できないことには、その真の内容というか、驚くべき成果というものが理解できないので、「フェルマーの最終定理」という過去200年に渡って人間の知性に挑戦のチャンスを与え続けてきた数学上の問題について、ついにその解に到達した、という感動が薄れてしまうのを否めない。同様なことは、現代物理学の最先端で、たとえば「超ひも理論」などの本を読む時に、やはり自分の知識の欠如がもたらす、本の真の驚くべき内容を理解できずに悶々とする。量子力学と相対性理論という、20世紀を代表する科学界の成果について私たちは余りにも知らない。それすらも知らないままに、現代物理の最先端は、この二つの理論が両立しえないことから出発して「大統一理論」を打ち立てようと四苦八苦している。そのひとつが「超ひも理論」ではあるが、実際には私たちの頭は(いや、私自身の頭は、と言って方が正確かもしれない)、いまだに20世紀にも至らず、19世紀のニュートン力学、つまり私が30年以上も前に高校で習った物理の範囲を一歩も出ていない。原子の構造にしてもしかり、いまだに陽子と中性子からなる原子核の周りを、電子が軌道を描いて回っているというようなラザーフォードの原子モデルから抜け出し得ないでいる。しかし、しかし、中身の理解が十分ではなくとも、現在の科学が直面し、打開しようとしている課題や展望についてのおおまかな知識を得ることだけからも、その驚異的な進歩を実感することはできる。そこから導き出せる、唯一の結論は、「私たちはまだ、何もわかっていない」ということだけであったとしても。いくたの科学理論は、その性質上、絶対真理などではなく、私たちが自分で経験する事実や現象を説明するために編み出された「推測」にすぎない。ニュートンの重力や引力についての理論だって、単なる推測にすぎず、それが厳密には正しくないことは、すでに証明され、そこからあらたな理論が展開される。つまり、全ての科学的「真実」というのは、それが実際の現象や世界を正しく説明できる限りにおいて、という限定付きの「真実」でしかない、ということを私たちは忘れてはならない。そして、なぜ重力や引力が存在するのか、なぜ世界はこのような状態にあるのか、宇宙とは、生命とは、そして究極的に私たちの持つ「意識」とは何か、といった根源的な問いに関しては、私たち人類はその答えの片鱗さえ持ち合わせていない、ということにあらためて気づかされる。それでも、この途方もない、先の見えない、時間と空間、あるいはそれを超越した世界観の構築にむけて、人間だからこそできる、人間のみできるこの幸運を喜ばずにはいられない。そして、そのような幸運と興奮を、たとえその一端とは言え、私のような普通の人間にもおすそ分けに預かることができる、というのは、何と言う、幸運な時代に生まれたのだろう、と感謝せずにはいられない。それにしても、この世界、いや私たち自身とそれを取り巻くこの現実の、いかに精妙なことか!!
2010.03.13
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