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日本と違って、アメリカは連休というものが少ない。その数少ない連休のひとつが先週のサンクス・ギビング(感謝祭)の連休で、久しぶりに木曜日から日曜日にかけて4日間の連休となった。学校の方は火曜日から休みで、久しぶりに息子も帰宅して、一家そろって約一週間ごろごろしていた。もっとも買い物の好きな人は、この時とばかりあちらこちらへ出かけて買い捲っていただろうから、忙しい連休だっただろう。私は、ほとんど外へ出ずに家でじっとしていたが・・。しかし、仕事の方は、市場が海外であることもあって、こんなアメリカの連休なぞ関係なしに飛び込んでくる。そして、なぜか今回は、普段よりもメールが多い、ということで、休み中に合計4件の案件が入ってきた。まだ見積もりの段階だが、結構確度が高そうな案件で、今日の休み明けはいつもより忙しい。年末にかけて最後の12月をきっちり締めたいものだ。
2010.11.30
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大分以前になるけれども、SRVということで、 Scientific Remote Viewingということで、リモートビューイングのことを取り上げたことがある。今回、そのリモートビューイングの草分けとも言えるジョー・マクモニーグルのインタビューにもとづく、「リモートビューイングの世界」という本を読んだ。このリモートビューイング、日本語では遠隔透視とでも訳すのだろうけれど、この訳語はどうも、超能力のひとつみたいな語感があって、誤解を招きやすい。確かに、中身は、「遠隔」で「透視」をする、というものなので、一種の超能力と受け取られても仕方がないが、これはれっきとしたテクノロジーである。テクノロジーという言葉が悪ければ、「確立されたプロトコル」と言ってもいい。つまり超能力というと、その能力を持つ人だけができる「能力」ということになるが、このリモートビューイングは、ほぼどんな人でも、訓練をして、規定の手順(プロトコル)を守りさえすれば、ある程度の遠隔透視ができる、という意味でテクノロジーなのである。ただし、個人差はある。音楽やスポーツにおいて個人差があるように、この訓練を受けて出来るようになる遠隔透視のレベルにはやはり個人差がある。先に上げたジョー・マクモニーグルという人は、その意味で、このリモートビューイングの草分けの一人であると同時に、当時軍用目的で開発されたこのテクノロジーを研究する上で、多くの軍人の中からその適性によって選ばれ、実際にぬきんでた実績を挙げてきた人でもある。私がこのリモートビューイングを知ったのは、もう10年近く前に、当時エモリー大学の准教授であったコートニー・ブラウンの「コズミック・ヴォエージ」という本によってであった。その本は、政治学者としてのコートニーが自ら訓練を受けて、このリモートビューイングを行い、その過程でさまざまな全地球的な問題に遭遇する様をレポートしたものであった。一方、今回の本は、そのリモートビューイングそのものに焦点をあてて、その実際と、可能性について述べている。人間の意識。その可能性は無限に大きい、と思わざるを得ない。人間の意識にとって、空間的あるいは時間的な制約はないのではないか、とマクモニーグルは言う。少なくとも彼自身は時間的、空間的な制限を感じたことはないそうである。いつかタイムトラベルの可能性についてもこのブログで書いたことがあるが、こと「意識」のタイムトラベルに関しては、このリモートビューイングの訓練を通して、すでに何十名もの人が時間を遡り過去へ、あるいは時間を進めて未来へと自分の意識を飛ばしている。先に書いたコートニー・ブラウンも、ブラインド(被験者はなにも知らされていない状態での実験)の条件下で南北戦争の最中に自分の意識を飛ばし、その想像をぜっするむごたらしさに、歴史学者はぜひこのリモートビューイングをその歴史の研究に活用すべきだ、とまで述べている。人間の意識の拡大に対して、道は一つではないのだ。
2010.11.28
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誰が言ったのだろう、読書の秋って。なぜ秋が読書に向いているのか、今の時点で考えてみてもあまり思い浮かばないが、もしかしたら、暑くもなく、寒くもない秋という季節は、集中して何かを読む、というのに適しているのかもしれない。あるいは、なぜかもの憂げな季節である「秋」は、読書を通して人生を考えるに、最適な季節なのかもしれない。そんなまじめな読書ではなく、ここのところ、久しぶりにSF(サイエンス・フィクション)を読んだ。昔、中学、高校生のころはよく読んだものだが、大人になってからはあまり読んでいない。今回読んだのは、「タイムライン」というのと「コンタクト」というもの。どちらも映画になっているので、ご覧になった方もいるかもしれないが、私も映画の方は観ていても原作は読んでいなかった。原作者として、タイムラインの原作者の方がSFや冒険もので有名で、他にもジュラシックパークや、ロストワールドなどを書いているマイクル・クライトンである。方や、コンタクトの方は、小説家ではなく物理学者である、かのカールセーガンが書いた小説である。読む前は、やはりクライトンの方が本来の小説家なので、この原作も面白いのだろう、と思ったが、読んでみて驚いたことに、カールセーガンの「コンタクト」の方が圧倒的に面白かった。しかも、小説、という域、あるいはSFという範疇を度外視しても、このコンタクト、カールセーガンが、世の中に対して出す啓蒙書的な趣もある。なんの啓蒙か、と、それは一言では言えないが、文化、文明、宗教、思想上の、カールセーガンの主張を、この登場人物に言わせているのではないか、と思える。とくに、神と「宗教」に対する彼の舌鋒はするどく、彼自身、不可知論者ではないか、と思えるが、それはともかく、登場人物同士の神や宗教に関する議論を読むだけでもなかなか読み応えがある。しかも、この原作、映画とは大分違う。映画では、この深みは全然現れていないように思う。この原作にして、はじめてこの深さがわかろう、という本である。こうやって、秋の夜長を、好きな小説を読みながら過ごす、というのはなんと贅沢なことだろう、と思わずにはいられない。
2010.11.27
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ある人がいる。この人は明らかに、かなり強い霊能力を持っているようだ。もちろん、霊能力なんて測れるものではないので、持っているかどうかなんて状況判断でしかわからないが。ただ、人と話をすると、確実にその人以外は知らないこと、例えば幼少時のこととか、家族・親戚のことなどなど、そんな話が次から次へと出てくるので、本人も「え、なぜそんなことを知っているんですか?」と驚くことが多い。それも、別に面と向かって話すときではなくとも、電話でもなんでも、とにかく相手となんらかの感応状態になれば、そういったことが分かるらしい。この類の人は、この世の中、結構いるようだ。有名になった江原啓之なども、この類だろうか。そういう人の一部は、なにを勘違いしたか、ひとつの神がかり的な思い込みを持ち始め、自分は神に選ばれた人間だ、などと錯覚を起こす人がいる。新興宗教の教祖になる人にこの手の人が多い。そういう人も、ある程度この霊能力はあるのだろう、先に説明したような、本人しか絶対わからないことをスバリ指摘されたりすると、指摘された方は、その人間を「神に近い人間」と思ってしまったりするから始末が悪い。しかし、人間誰しもいろいろな能力を持ち、それは千差万別である。ある人は運動能力にすぐれ、ある人は音楽的素養に恵まれている。人はそれぞれ皆違う。この霊能力の特殊なところは、それを持つ人が少ないこともそうだが、それが科学的、合理的な説明がつけられない為に、神秘的、あるいは神がかり的な能力として見られてしまうことにある。しかし、この能力も、人間のある種の「感覚」の鋭さに過ぎない。音感がいい人も悪い人もいるように、この「感覚」にも鈍感な人もいれば鋭敏な人もいる。こういう霊能者と呼ばれる人は、その感覚が人よりも鋭敏なだけに過ぎない。だから、この能力の有り無し、あるいは高低と、その人の人格が高いか低いかは別問題で、ましてや「神に選ばれた」とか「神に近い」などということは全く関係がない。その人の、その人としての価値は、その人が持つ能力、たとえば知識、経験、学力、音楽的素養、なんでもいいが、それをどう使っているか、にかかわってくる。つまり、霊能者の、人としての価値は、それがどれだけ「鋭敏」か、ではなく、それをどう使っているか、にかかってくる。始めに書いた、ある人。この人はある意味本物かもしれない。自分の人生、自分の時間、自分の能力を、ほとんど人を救うためだけにささげている。この人は、他の人にない自分の能力を、自分を人より抜きん出たもの、とする証拠として捉えるのではなく、その能力ゆえの自分の責任というものを深く考え、それに真正面から取り組んでいるのだろう。頭が下がる。
2010.11.24
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人生は「創造」の過程だ、と言う。そして、創造は、考え⇒言葉⇒行動によって完結する、という。単なる知識は考えを補強するかもしれないが、それ自体なんの「創造」ももたらさない。それを言葉にして、周囲に発して、やっと創造の一端が始まる。でも、本当に人生を創造しようとしたら、最後には行動にまで至らないといけない。昔は陽明学などがあったなあ、などと考えながら、最近出入りするWebサイトで、いろいろな人がいろいろな形の苦しみ、悲しみを背負いながら生きているのを見るにつけ、自分では何ができるんだろう、と考えることが増えてきた。自分の経済的成功、自分の幸せ、そんなものを考えていても、それが人生の創造に結びつくことはまれかもしれない。人のために、自分の人生と時間のすべてをかけている人がいる。そこまではとても出来ないなあ、とそれを横目で見ながら感じている自分がいる。せめてもと、Webを通してできるだけのコメント、アドバイス、なぐさめ、元気付けをしてはいるけれども、所詮、それはWeb上だけのこと。中には、苦境を脱して、感謝してくれる人も居るには居るが、私が何もしなくとも、こうした人は自力でその苦境を脱することができたんではないかなあ、と思う。自分自身、この世界に、いったい何を創造することが出来るのだろうか。
2010.11.24
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しばらく前に、カムリのハイブリッドを買って、しばらく燃費の話を書いていた。今日は久しぶりに、再度近況報告(笑)だんだんケチケチ運転に慣れてきたせいでしょうか、コツをつかんできたせいもあると思いますが、まだ燃費が改善しています。前回の最後は約38.5Mile/Gallonでほぼ16km/Lという燃費を達成していましたが、昨日は、給油以来500マイル(800km)を走った時点で、平均燃費40.1Mile/Gallon,約16.5km/Lを記録しました。しかし、走行400マイル前後からガロン40マイルの線を行ったり来たりで、このあたりがほぼ限界のようです。これを達成するためには、かなり慎重なアクセルワークが必要で、当然急加速、急減速などはもってのほか、発進時もとろとろと加速し、下り坂ではほとんどアクセルを踏まず、一定時間加速してから、ぱっとアクセルを話すとエンジンの回転数がぐっと下がるので、その時点でそれをできるだけ維持する、という運転をする。結果的には、周囲の車に比べてそれほど遅いわけではないことに気付く。つまり、こんなケチケチ運転をしていても、かかる時間には大差ない、ということだ。しかし、このカムリのハイブリッド、日本で運転したら、もっと良い燃費になるだろうな、という気がする。というのも、日本では時速60km以上で走ることが滅多にないのに比べ、こちらでは逆に60km以下で走ることが滅多にない。普通の道でも、普段は時速80kmから90kmで走っているので、そういった場合のカムリの燃費はそれほど良くない。日本のように、ほぼ常時時速60km以下で走っていたほうが燃費はよくなるのだ。この辺が普通の車と反対なところ。しかし、アメリカで燃費を伸ばそうと思ったら、この時速60kmというのが、いかにも低すぎる。エンジンとモーターの切り替えを、時速80kmか90kmぐらいにすればもっと燃費は伸びるはず。確かに高回転域でのモーターのトルクは高くないが、それでも強制的にエンジンに切り替わるよりはいい。もっと言えば、モーター駆動時にも、CVT(連続可変トランスミッション)の制御で、より低いモーター回転数に持っていけるようにセッティングすることによって、もっともっと燃費が良くなりそうな気がする。まあ、これは運転者がどうこうできる領域ではないので、この車に乗っている限り仕方がないが、もったいない。たぶん、基本は変えないでも、50マイル/ガロン、つまりリッター20kmぐらいにはいくんじゃないか、と思う。誰か、ハイブリッド車のブログラムセッティングを変える方法を知らないだろうか?
2010.11.23
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日曜日はどうしても、あまり日記を書けない。だいたいが、朝から教会などにいくものだから、その聖書勉強会と礼拝を通して、考えることが山ほど出てきて、それが結構みな重たい。何か書こうかな、と思うのだが、なかなか、さらっと書くわけにはいかない。毎週、この勉強会では、その日のテーマがあるのだが、例えば、10月10日 「分け隔てしない神」10月17日 「価なしに救う神」11月7日 「キリストと共に死に、共に生きるバプテスマ」と言った具合で、だいたい何を書くたくなるか、ご想像が付くと思う。そして今日のテーマは 「うめきをもってとりなす方」つまり、一貫して、聖書の神はどんな神で、その恵みはなにか、それに対してキリスト者のとるべき道、態度はなにか、といった内容である。これらを聞きながら、また話をしながら、思ったことは「神の意志と人間の存在」という関係である。神と人間の関係。これはどんな関係か?もし「神」が居たとしたら、その「神」と「人間」の間の距離は、「人間」と例えば「アリ」の間の距離と比べて大きいか小さいか。もし「神」が無限の存在であるとすると、答えはあきらかであろう。神と人間の距離は、人間とアリの距離よりもずっと大きいのだ。なぜならば、人間とアリの違いは少なくとも「有限」であるのに対し、神と人間は「有限のもの」と「無限のもの」との間なのだがら、答えは無限である。つまり、こういうことだ。アリが我々人間のことを考えたとして(ここで考えることが出来る、という前提だが、それは人間のように、ではないことは確かだろうけれど)どれだけ人間のことがわかるだろうか。ほとんど分かりはしないはずだ。アリが人間のことを理解しようがないとするならば、その人間とアリの距離よりもかけ離れた存在である「神」のことを「人間」などが、どれだけのことを考えることができるのだろう?多分、私たちは自分では「考えてる」と思っているかもしれないが、「神」の存在からみたら、人間がアリを見て「こいつは考える、などということは出来ない」と思っている以上に、神の意識と人間の意識では隔たりが大きいだろう。アリだと考えにくいが、もう少し人間に近づけて、「牛」と人間の関係でもいい。人間は牛を飼う。牛は飼われている。そして人間は時間になると「えさ」を与えてくれる。一方でその牛が乳牛なら、一定時間になると「人間」が乳をしぼりにくる。もし肉牛なら、なにもわからないうちに殺されて食用の肉になるかもしれない。この牛にとって、「人間」とはなんだろうか? そして、この牛に対する人間存在というものよりも、人間にとっての神的存在というものの方がかけ離れたものだとすると、牛が人間を理解することが出来る程度も、人間は神を理解できないのではないだろうか?てな、ことを聖書勉強会や、礼拝での牧師の説教を聴きながら考えるわけだが、これがずっと続く。次から次へと考えが進むが、別にメモを取っているわけではないので、考えたそばからまた忘れてゆく。で、さて、日記を書こうかな、と思うと、断片的な記憶しかない。印象しかない。なかなか日曜日は日記が書けない日なのだ。
2010.11.22
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今日本は史上最悪の就職難らしい。今日の記事でも、この関連のニュースが多かったし、英国の雑誌でほんの5年前には日本の再生を特集したエコノミストも、この就職構造の問題も含めて、日本の将来に警鐘を鳴らしている。しかし、考えると仕事はいくらでもありそうな気がする。それでも就職できない人が多いのは、つまりは、需要と供給のマッチングの問題だろう。つまりは、人が欲しいところへはあまり行きたがらず、人気のあるところには求職者が殺到する状況にはなっていないだろうか?なかには50社も面接を受けて内定0という人も居るそうだから、それほどえり好みしているとも思えないが、全部が全部そうではないだろう。海外から見ると、最近日本の若い人は海外で働くことを敬遠しているように見える。私もアメリカに赴任したときは、半ばいやいやだったからわかるが、日本に居て、規定路線を走っていたほうが安心だし、楽だろう。でも、今になって思うことは、海外は可能性を広げてくれる、ということ。なによりも、自分でことを進めないと何事も進まないので、当然「楽」ではない。しかし、それをずっと続けることにより、養われる気概と能力は何者にも代え難い。アメリカに居ると、韓国、中国、インドの若者が大勢いる。翻って日本人の若い人は、ほんの一握り、アメリカ人の男性と結婚した女性がいるぐらいで、単身でアメリカへきている日本人の若者にはあったことがない。留学生数でも、かつてTOPだったそうだが、今は上記三カ国に大きく水をあけられている。しかし、留学生も、企業のひも付きだったり、交換留学だったりで本当の意味で、自分の意志で、単身で来ている若者はもっと少ないに違いない。国内だけを見て就職氷河期をなげくよりも、広く海外に目を向けてみたら、と思うのは私だけだろうか。そんなことを言うと、「英語が・・・」なんて言葉が聞こえてきそうな気がするが、英語なんて、若いときに現地人に溶け込んで勉強なり仕事なりしたらあっと言う間に身に付く。就職を少しでも有利に、と、資格取得や駅前留学などの英語学習に高い費用を出している人も多いだろうから、そんなことをするよりもよっぽど実になるし、自信も付くと思うのだが。
2010.11.21
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副業の不動産エージェントとして、仕事が入ったので、久しぶりに家を見て歩いている。今日も5件ほど。皆、Foreclosure(競売物件くずれ)か、Short Sale(日本の任意売却みたいなやつ)ばかりで、価格も安い。クライアントの要望で、全部地下室の家。それも、皆フィニッシュしてあって、中にはバスルームだけでなく、バーみたいなカウンターがついている家もあった。これで約23万ドル。2000万円しない。まあ、そこはローン支払いが出来なくて差し押さえをくらった物件なので、いろいろと問題はある。しかし、大抵は要は外見的な問題が多いので、直そうと思えばそれほど費用はかからない。今はまだサブプライム問題が尾を引いていて、市場の売買物件の中では、この手の物件がまだ相当数を占める。ローン金利も史上最低に近く、つまり買い手にとっては絶好の買い時。逆にローンの貸し倒れが多かった反省から、今はローンがなかなか降りない。つまり、買い時なのに買い手は少ない、ということで、買える人にとってはますます、買い手市場というわけだ。こんなときに、資金力がある人はいいんだろうな、と思う。
2010.11.20
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日本の方から言わせると贅沢と言われるかもしれませんが、今欲しいもの、それは「地下室」。こちらの家は広くて、大抵200平米ぐらいあるんですが、なにせ部屋と部屋の間の区切りがない。一階は、ダイニング、リビング、ファミリールーム、キッチン、そして私の書斎といくつも部屋があるのだけれど、全部繋がっていて、戸やドアというものがない。なので、私がギターを弾いていると、それこそ回り中から「うるさい!」と文句を言われる。せっかく買ってあるエレクトリック・アコースティックギター(略して、エレアコといいます。マイクが繋がるやつ)をアンプに繋いで、マイクも使って、などをしようものなら、非難ごうごう、即中止せざるを得ない。地下室だったら、がんがん音を立てても誰も文句を言わないだろうし・・・・。最近、競売の家が多く売られていて、ひところでは考えられないような価格だ。昨日も、頼まれてある売り出し中の家を下見に行ってきたのだが、やはり地下室をのぞいても220平米強、そして地下室はちゃんとフィニッシュしてあって、ベッドルームやバスルームもある。ベッドルームは合計5部屋。バスルームも三つ。それでいて、2000万円しない。 (日本円だと1700万円ぐらい)う~ん、引っ越そうかな・・・・・。しかし先立つものがないか・・・
2010.11.19
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最近、と言っても急にではないけれど、だんだんとブログが書きにくくなってきた。昔はこのブログを書いていることを知っている人はごくわずかだったので、割と気安く(?)いろいろな日常的なことを書けたのだが、最近はあらゆる人、それも私を個人的に知っている人が読んでいるようだ。まあ、近況を知らせる一面もあるので、それはそれでいい面もあるのだが、逆に、日記の内容はある程度制約を受けざるを得ない。一日の感想として、こんなことを書こうかな、と思ったとき、ふと、読む人の顔が浮かんだりして、あ、これはダメだ、なんてこともしょっちゅうある。また書くには書くが、内容的に少し「感情」のレベルを落として書く、つまり、ある程度当たり障りがない内容にすることも一度や二度ではない。こうなってくると、自分で自分のためだけに書く日記、というものとは大分違ってくる。あとは、表に出ない、自分だけの日記の部分がこの楽天ブログにはあるので、そこに書き込むことぐらいか。だったら、ある程度、自分自身だけの内容も書ける。しかし、面倒だなあ・・・・・
2010.11.18
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最近、結構濃い時間を持てている。その時間だけに限れば、今までの人生で一番「濃い」かもしれない。逆に、今まで何をしてきたんだろう、と思えることもしばしば。この歳になって、こういった濃い時間を持てることは喜びではある。人生50年は昔の話。今生きている人は、人生80年をにらまなくてはならない。いや、「なくてはならない」わけではないかもしれないが、少なくとも50歳やそこらで自分の成長を自ら止めてしまうことだけは、いかにももったいない。社会では、「若さ」がもてはやされる。「老い」はできるだけ避けるもの、「若さ」はできるだけ保つもの、という傾向がある。もっと「老い」を積極的に考えてもいいのではないか、と思うのだが。
2010.11.17
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昨日、ほど近くの家電の店で広告を手にとって見た。すると、多くの家電製品が信じられないくらいの価格になっている・・・・たとえば、40インチの液晶TVやブラズマTVなど、すでに4万円台に突入。32インチなどは2万円台前半だ。46インチや50インチでも6万円台・・・・。それも名も知らないメーカではなく、PanasonicやSamsungなどの大手の製品だ。Blue Ray Diskのプレーヤーなどは、なんと6000円台からある。今の流行は、3DやLEDの大型TVみたいだが、それも50インチの3D、LED TVで、20万円を切り、3D対応のBlue Ray Diskプレーヤーや、3D用のめがねが4つついて、20万円そこそこ・・・しかし、日本は円高で、輸入品が安くなるのはわかるのだが、ここはアメリカ。ドルはどんどん他の通貨に対して安くなっているので、本来なら輸入品の価格は上がるはずだ。なのに、こういった電気製品は、まだどんどん安くなっている。なんでだろ?パソコンは5,6万円台が主流だし、TVは上記のように目茶安い。ビデオカメラ、普通のデジタルカメラ、プリンタ、とかも皆一万円台がたくさんある。いやプリンタなどは、ただでくれるものもあるくらいだ。ブルーレイが上のように安いので、当然DVDプレーヤーにいたっては、4000円を切るものもある。もと電気メーカにいた者としては、やや複雑な思いだ。こんなんで採算が合うんだろうか。
2010.11.17
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昨日日記に書いたように父がMRSAと診断され、入院先で防御服のようなものを着せられていたらしい。しかし、今日になって、一転「退院」となった、という。問題は、この経緯が何の説明もされていないこと。本人も相当いらいらしているらしい。それはそうだ。この数日間、肺炎の疑いで入院、結核の疑いをかけられて隔離、そして今度は結核ではなくてMRSAだと診断され、そして2日後に退院だ。最初から最後まで、振り回されっぱなしで、とうとう十分な説明もないままの退院。どう考えても納得がいかない。日本の病院というのは(ここは入院用ベッド数が100近い、結構大きな病院だ)こんなにいい加減だったのか。他のブログでも書いたところ、早速コメントが来たのは病院関係者からだった。曰く、「クレーマーが増えている。病院側はそれを恐れ、患者を受け入れなくなっている。この医療の崩壊を食い止めるために、院内感染に関しては寛大な態度を望む」あるいは「弱者の集まりである病院内での感染はある程度しかたがない。菌は常在菌であり、どこでも起こりうること。病院側としてもできるだけ感染を防ぐべく努力をしているので、理解して欲しい」と言った内容。しかし、これはあくまでも病院側の視点に立った意見だ。たしかにクレーマーがはびこって、アメリカみたいな訴訟社会になることを望むものはいない。しかし、それと「臭い物にふた」的な態度とは別の次元の話である。もし、上記のようなことに「理解」を示したとしても、今回のような治療に関する情報公開が全くなされていないことに対して、どう説明がつくのだろう。説明がつくはずもない。「君子危うきに近寄らず」「臭い物にふた」そして「ことなかれ主義」と隠蔽体質。そこに、今の日本の医療の問題点があるように思う。たぶん、公になると責任の所在をはっきりさせなければならなくなり、それこそがやりたくないことなのだろう。誰も責任を取らない ⇒ 闇に葬られる ⇒ いつまで経っても改善されないそんなことにはなって欲しくないものだ。仕事というのは、何でも同じ。問題があるなら、それに正面からぶつからない限り進歩はない。商品を作る会社は、顧客のクレームをいやなこととして受け止めるのではなく、進歩へのアイデアの宝庫だ、と思わなければならない。もし、経営者が、この声に耳を傾けなければ、その会社の将来はない。病院でも同じことだ。問題を避けたり、隠したり、ない振りをしているところにこそ、「崩壊」が 始まることを理解するべきだろう。
2010.11.13
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今日のニュースでも「院内感染で死亡か?」という記事が出ていた。他人事ではない。先日、父が発熱して入居先の老人ホームから、提携先の病院に搬送された。直後の所見では、肺炎ということだった。これは、高齢になってから何度も発症しているし、抗生物質も効かなくなっているので、仕方がない、という思いもあった。しかし、その後、血痰が出た、ということで、今度は結核ではないか、と疑われた。結核だとしたら、入院前後に何度も会っている私も含め、接触した人間全てを検査しなければならなくなるし、日本と違って、ほとんど誰も予防接種をしていないアメリカでは、より深刻な問題にならないとも限らない。幸い、精密検査の結果、結核の疑いは晴れたのだが、じゃなんで、という疑問が残った。そして、その理由がどうも、MRSAではないか、ということになった。調べると、MRSAは院内感染が頻発しているようで、特に、高齢者や病人などの体力や抵抗力が衰えている人に感染しやすいらしい。接触によって感染するが、医師や看護師などの健康な人はなんともなくとも、やはり抵抗力の低い人になるといろいろな症状を発症するようだ。そして、幸か不幸か、父は、老人ホームの入居にあたり、このあたりの検査をつい数ヶ月前にして、陰性と診断されていたのだ。ということは、老人ホームで最近感染したか、もしくは、この入院先の病院で感染したか、のどちらかだが、どうも後者の疑いが強い。もしそうだとしたら、医者は、本人は当然ながら、家族にもはっきりとそこを説明すべきなのに、未だになんの詳しい説明を受けていないと言う。アメリカからなんのかんのと言ってもじれったいだけなのだが、ここは日本に居る兄弟に任せるしかない。しっかりと、状況を確認し、しかるべき措置を講じてほしいものだ。しかし、こういった場合の入院費は誰が負担するのだろう?ネットで調べてみたが、院内感染の防止とか、自分のところではどれだけ院内感染防止体制を取っているか、とか、院内感染防止費用の費用対効果分析とか、病院側の視点での記事しか見当たらない。入院患者、その家族の視点から見た記事というのはついぞ見つからなかった。入院した先で院内感染だと判定された場合、論理的に言って、患者側が以降の入院費を負担する義務はないと思うのだが、どうなのだろう。だれか、その辺について知っている人がいたら教えて欲しいものだ。
2010.11.13
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短気は損気、よくわかっている。しかし、分かっていても・・・というのが性格。こんなところで、こんなことを書いている「リンロン」は、あまり短気に見えないかもしれないが、実際は結構短気。今日も、あることでかなり怒り心頭に・・・・。誠実さに、ずぼらさで対応されるとどうしてもムカっとしてしまう。今回は、誠実さだけでなく、同情、理解、妥協、協力、そういった好意がすべて裏切られるという・・・・・。ムカっとしても、けっしていいことがあるわけじゃないのは分かっているのだけれど・・・。しかし・・・・・・・・。少し前にはやった言葉じゃないけれど、「人がいいにもほどがある」って奴で。ドンマイ、ドンマイ・・・・・・人生いろいろ、すべてが修行、いや違った、経験さ、って。
2010.11.12
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昨日、いつも参加している、ある種の集まりに顔を出し、いつだったかこの日記にも書いた、自分としての「実験」の一環としていくつかの課題を検討した。その中で、ひとつ宿題が出たのだが、それは「この一年で自分が変わった事」を書き出す、というもの。その書き方は、まず「以前はどうだったか」、次に「今はどうなったか」、そして最後に「なぜ変わったか」というものを書き出す、というもの。これは、この集まりに関係して、ということで、それ以外の要因は除くのが前提であるけれども、考えてみると、こういった反省というか、確認というものは、時々やって見ると自分自身の変化の記録になり面白いのではないか、と感じる。今回の宿題は、その変わった点のなかでも、主なものを三つ挙げる、というものだったが、人によっては、一年間過ごしてきて、あるいは生きてきて、変わった事を三つ挙げることさえ難しいかもしれない。幸いにも、その場で、この集まりに関連してだけでも、三つの変化を即座に挙げることが出来たが、それを、この集まりに限定せず、全ての活動、全ての思索、全ての出会いなどから来る、自分自身の変化、あるいは環境の変化を書き出してみるのも無駄ではないかもしれない。日々成長していきたい、それが自分としての望みでもあるので、その成長の、あるいは変化の足跡を残し、数年後にでもまとめて眺めたときに、自分自信の変化の足跡を再認識できるかもしれない。自分なりに、どこかにまとめておきたいし、もしかしたら、この日記に書いてもいいかもしれない。少し考えてみようと思う。j
2010.11.10
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アメリカへ帰ってきて早々、昨日の日曜日に早速教会へ。最近、教会へ行くということの、自分の中での意義付けに少し変化があるようだ。もともとは単なる興味と、やはり西洋社会で生きる上での聖書というものに対する勉強という意味合いが強かったが、次いで、いろいろな疑問を持つに至って、クリスチャンの人はいったいどう考えているのか、ということに興味が移った。そして、今の時点では、なぜ教会へ行くのか、と問われると、「キリスト教というものの中での善き部分」を見つけるため、という感じがする。もし、教会へ行く機会もなく、本だけでキリスト教を知り、その中身を勉強していたとしたら、多分私は完全にアンチキリスト教になり、キリスト教そのものを全否定していたかもしれない。それほど、世の中に出ている本でのみ学ぶと、キリスト教の良いところは全然出てこない。反対に、宗教のもつ「悪しき面」は、このキリスト教に関してもいやというほど出てくる。そして、教会へ通う過程で、この「悪しき面」がどこから発生するのか、ということがだいたい分かってきた。今、教会へ通うことは、こういったことを踏まえたうえで、なおかつ、宗教のもつ良い面というのを知る、あるいは感じるため、と言っても差し支えないかもしれない。そうは言っても、これはなかなか苦しい取り組みでもある。昨日の説教のテーマは「神の愛の本質」について、であった。取り上げた聖句(聖書の箇所)はヨハネの福音書の一部。かの有名な、「神はその一人子を世に使わされたほどに人を愛した。その一人子を信じるものが皆救われるためである。」という箇所。(うろ覚えなので、正確ではありません。あしからず)この部分をして、マルティン・ルターは「小聖書」と読んだ。つまり、聖書のエッセンスが見事に現れているということだ。そして、上に書いた宗教の「悪しき面」もまた、この部分に発する。説教では、この部分をして、神の愛の、広さ、深さ、そして目的が述べられているとし、その広さは無条件で広く、深さは「神の一人子」を我々人間の世界、つまり「罪」の世界に使わしたほど深く、そして、目的は「全ての人を救う」ためである、という内容。しかしながら、誰が読んでも、どうやったらこの部分が「無制限」で、深くて、「全ての人を救う」ことになるのか、わからないのではないだろうか。少なくとも私にはわからない。「無制限」ではなく「キリストを信じれば」という条件が付くではないか。「全ての人を救う」ではなくて、「信じる人『だけ』救う」ではないか。信じない人がどうなるか、というと、罰は「死」であり、死後は当然、地獄へ落ちる、という。このどこが、無条件の愛でありえるのか、理解に苦しむ。もちろん、神の一人子、という部分にしても同様。キリスト者にとってだけの「神の一人子」になんの意味があるというのだろう。つまりはこういうことだ。宗教の「悪しき面」は、すべて、とは言わないまでも、ほとんどがその「独善性」「排他性」から来る。そして、それに輪をかけるのが、批判の封じ込め、異なる意見の排斥である。もっと言うと、疑問を持つことさえ「罪」とされる、その自浄作用のなさである。そして、人間には理解し得ない神の意志・意図を、さも自分達だけはわかったつもりになる「人間」が居ることに起因する。それがたとえ、「聖書」に書いてあるから、と言って、そこにはなんの違いもない。ところが、聖書を絶対とするキリスト教の中では、疑問はまだしも、批判や異論などはもってのほかなのだ。たとえ、それがどんな経緯で、どんな人間によって取捨選択され、編集されたものであったとしても・・・・・。歴代教皇がどんなに極悪非道であり、どんなに権力と金の亡者の俗物であろうと、そして、そんな人間に、この「聖書」が改変されたり編集されたりしてきたとしても、そんな歴史は無視しなければならないのだ。その時々で、「組織」としてのキリスト教、「教皇」の権利の維持・拡大を意図してなされてきた多くの教理の発生や、その徹底方歩などを、間違っても批判してはいけないのだ。宗教改革にかかわった多くの人、マルティン・ルターやカルバンが、いかに男女差別や人種差別で人々を虐げる基盤を築いてきたのか、そんなことは考えてはいけないのだ。キリスト教が、好戦的・排他的といわれる一神教の中でも、最も好戦的で排他的な宗教となっている理由もそこに存在する。そんなことが明白になっている中で、このキリスト教の「善き部分」を学ぶ、というのは、実は大変なことなのかもしれない。知っていることを「知らない」フリはできない。知っていながら、それを踏まえてなお、そこに人間にとっての「恵み」を見出す努力に他ならないのだから。もし、自分が今、「神の愛の本質とは」と聞かれたら、全く違った答えになるだろう。
2010.11.09
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日本では、高齢者をめぐる話題に事欠かない。世界でも未曾有の高齢化社会が現実となりつつあるなか、ある意味で当然かもしれない。先週まで2週間弱、日本に滞在したが、そこでも昼間の街を歩くと高齢者の多さに今更ながら驚く。両親が共に90台と80台で、介護の問題などを話し合うために日本へ行ったのだが、ことは特殊なケースに限られるものではなく、日本社会の中にすでに汎日本的で恒常的な問題を提起している。そんな中、今日の高齢者のニュースで、高齢者のパチンコ依存症が増えている、という記事。理由はわからなくもない。仕事をやめ、再就職もままならない退職者が、家に居れば邪魔にされ、かと言って、これと言って行くところもない、と、金はかかるが、ひまがつぶせ、通ううちに仲間が出来て、世間話が出来るということでパチンコへ通うんだそうだ。そのうち、度を越してしまい、借金まで作る人も居て、こうなると「依存症」のレッテルを貼られるらしい。しかし、この現象、日本を今まで支えてきた「働き蜂」としてのサラリーマンの、その生活の有り方から生まれてきているような気がしてならない。今でも同様かもしれないが、サラリーマンをしている間、自己啓発と言えば、いかに自分を「商品」として高めるか、ということに偏っている。当然、それ以外の啓発というのもあるのだが、おおむね、資格、語学、専門スキル、経済、などなど、それぞれの人が、それぞれの職場で、いかに自分をして能力を発揮し、能力を認められるか、という観点での啓発が圧倒的に多い。もちろん啓発など、全然やらない、という人もいるだろうが、それはそれで、漫然と自分の人生を、時間にまかせて流れているだけ、という気もする。そのサラリーマンが、いざ退職、となった時に、これら自分をいかに高く売り込むか、という形の自己啓発で養ってきたものは、ほとんど自分一人で人生に向き合う際には力になり得ない。なにせ、売り込む対象がないからだ。一方で、人生の後半戦を迎えて、時間と経済的な余裕をもてるようになったこととあいまって、本来なら今までの知識・経験を元に自己の可能性をあらためて掘り下げることが出来る状況であるはずなのだ。ところがそういう方向にはむかわずに、ひたすら暇つぶしとしてのパチンコに通う・・・。考えてみればさみしい話であるが、それが何十万人というオーダーになると、「さみしい」などは通り越して「何かおかしい」と感じるのは私だけだろうか。サラリーマン生活、ウン十年。 人間的にもそれなりに成長できていれば、そんなことにはならないはずだと思うのだが。
2010.11.08
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今日も実家の庭の手入れをして昼食をとった後に街に繰り出す。繰り出すと言っても、歩いて3分もすれば繁華街なんですが・・・・^^;一昨日、日本だな、と感じるとき、ということで書きましたが、今回は第二弾。1.街を歩けばティッシュペーパーにぶつかる ひところより少なくなったとは言え、まだまだ歩いているといろいろな店が販促を目的としたティッシュペーパーを配っている。こんな風景は他の国では見られない。さらに、今日は、若い男が、やはり若い女性に対してティッシュペーパーを配っていると、年配のおばさんが近づいていき、「私にも」と催促。その男は一瞬固まっていたが、仕方なさそうにティッシュを上げる。しかし、このおばさん、「もう一つ頂戴!」。若い男は顔をなかば引きつらせながら、それでも二つ目のティッシュを。 ああ、日本だなあ。2.禁煙が街中に 数年前から、街中での歩行中の喫煙は禁止されているのは知っていた。しかし、今回はさらに、喫煙場所が駅の前後500mぐらいは、数箇所に限定されている。今まであった喫煙場所も大幅に範囲を狭められ、以前の喫煙場所は誰もいないのに、新しい喫煙場所は、狭いところに10人以上も・・・・・。 すでに嫌煙権は欧米を越えているかも。3.女性のスカート 昔に比べれば日本の若い女性のスタイルは格段に良くなっている。良くなってはいるが、やはり平均的に見たら、日本人は残念ながら胴長短足であり、それは若い女性とて例外ではない。しかし、最近の流行のスカート、短い上に、フリルがついていて、歩いているとひらひら、ひらひら、こちらはひやひや、ひやひや(いえ、けっしてニヤニヤ、ニヤニヤではありません)。 これも日本ならではの風景か。4.これぞ日本!!デパ地下をさまよう かみさんから、今回も大量に仕入れを頼まれてきた。そこで、いざやデパ地下へ。今日は小田急デパートと東急デパートのデパ地下に。いやあ、いつもながらありとあらゆるものがある。それも、皆おいしそうで、できるものなら全部一点一点味見をしたいぐらい。 そんなことも出来ず、限られた予算で、なんとか最大限の効果を上げるべく奮闘する。 しかし、このデパ地下に来るたびに思う。ああ、日本だなあ。5.またまた、これぞ日本! の夜の街 デパ地下と並んで、いつも来るたびに思うこと。それは夜の街の賑わいと安心感。先週の金曜日も、とある駅前で12時過ぎまで飲み、実家にたどり着いたのは1時近く。そんなときでもさすがに金曜の夜。繁華街はまだまだ賑わい、昼間とは行きかう人の年齢層が30歳は若くなっているような・・・・。 東南アジアや諸外国にも夜まで賑わう町はいろいろあれど、やはり女の子が一人やせいぜい二人連れで行きかうことの出来る夜の街。ああ、日本だなあ。6・ 薬屋さん 日本でいつからこんなに薬屋、いや今風にドラッグストアが増えたのか。下手をすると20mぐらい歩くと三軒もあったり、以前スーパーだったところがドラッグストアに変わっていたり・・・・。アメリカもドラッグの国だし、CVSやそのほかのドラッグストアのチェーン店が至るところにある。が、これだけ何軒も同じような店が並び、それでもどこも客が一杯入っている国は他にあるんだろうか? これも一つの「日本の風景」になりつつある。7.コンビ二 これは以前から。繁華街と言えばコンビ二。それもセブンxxxxやらロ〇ソンやらファ〇マやら、これもドラッグストアと同様な立地状況。よくもこれだけ集中していてやってられるな、と思えるほど。しかも、これもドラッグストアと同様、どこも客で賑わっているし、それが深夜まで続く。ああ、日本だなあ。8・介護の普及 今回の帰省の目的は老親の世話。これに関連して、ケアつき老人ホームやらデイケアの施設を見ると、ここ数年で驚異的に充実してきている気がする。今日も、朝からデイケアの車が母を迎えに来た。その車に乗って、岩盤浴を看板にするデイケアセンターへ。そこで、岩盤浴(まあ、首から下だけのサウナのようなもの)から始まって、介護付の入浴、足の温浴、そしてマッサージに、参加者全員でのリハビリ体操などなど、ご膳中盛りだくさんの内容。送り迎えの車付きで、これでたったの600円。介護保険の適用者のみ、とは言え、これはすごいことだ。 う~ん、これが日本か・・・・・。9.携帯電話 もう携帯を持っている人ばかり、という光景は日本中どこでも普通になっているし、外国でもある程度同じような状況があちらこちらで見られる。外国と違うのは、この端末販売店の多さ。先にあげた繁華街、街中を歩くと、たった500mぐらい歩いただけで4,5軒はある。 確かに普及が頭打ちになって、携帯各社は、電話番号が移動可能になったことを背景に客の奪い合いになっているのはよく分かるのだが、それにしても、この店の多さは異常では?とも思えてくる。 しかし、話題になる携帯機種がだんだんサムソン、HTC、そしてもちろんアップル、と、何か外国勢に押されっぱなしになっている気がするのは私だけ?10. 書店にて いろいろな雑誌が販売されている。ここでも生き残りの熾烈な業界があり、発刊されては消えていく雑誌が多い。パソコンや、携帯などの専門誌も多いが、よく見ると、MACユーザーやiPOD,iTune,iPad などのユーザーマガジンが多い。これって、皆外国発の商品だよね。今日本の牙城は、この手の雑誌に限ってはもうゲームしか残っていないのか・・・・。こういうところで、ああ、日本だなあ、と感じるような日本になってほしい気もする。
2010.11.01
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日本に来て気がついたのだが、この楽天ブログの日記記入時、高機能エディタと普通のエディタの切り替えタブが付いた書き込み画面が出る。もちろん、これはアメリカで記入するときも一緒なのだが、アメリカに居ると,この画面が出るまでに30秒から下手をすると1分ぐらい時間がかかる。こんな状態では記入する方もいやになってしまうだろうな、日本の利用者は文句を言わないんだろうか、と思っていたのだが、日本で記入するときはなんと数秒でこの画面が表示される。これだったら実用上なんら支障はない。なぜアメリカだと、あんなに時間がかかるのか、インターネットの世界は全世界同じだというのが基本認識だが、動画の再生にしても、「この動画の視聴は日本国内に限られています」という表示が出て見られない場合も多々あることからすると、日本国内と国外では、たとえインタネットの世界と言えども、差があることは確かなようだ。それはともかく、昨日、2回目のBookOff 詣で。今回の「お買い物」は、文庫・新書コーナーの105円均一コーナー(笑)なにせ、本が膨大なので、とても一日では全部見られないから、コーナーを限定して数日に分けて足を運んでいる。で、今回の「仕入れ」は、1.梅田望夫 「ウェブ進化論」とその続編の「ウェブ時代を行く」 この本は、少し古いがWeb2.0やGoogleの躍進、そしてコンピューティング・クラウドの世界の到来を予測し、その変化の本質を考察した本で、今の現状と比較して面白そうだ。2.藤岡和賀夫 「懐かしい日本の言葉」 外国に居ると、やはり日本のことに興味が出る。そして言葉は文化である。自分すらよく知らない日本語のいろいろな言葉や言い回しの中に、日本の文化が息づいている。3.守 誠 「英会話・やっぱり・単語」 とは言え、やはりアメリカに暮らすには英語。これだけアメリカに居ても覚える言葉はビジネスに偏っている。日常英語の範疇ではお寒い限りなので、少しは補強を、と。4.ジェラルド・ジャンポルスキー 「ゆるすということ」 国際的に有名な精神科医であり、ヒーリングを実践する著者の、人の生き方・幸せというものを「ゆるす」という行為を通して考察した本。キリスト教でもなんの宗教でも、やはり「ゆるし」というものの真髄は、生き方、そして生きる幸せに直結するという意見では私も同意見なので、興味を持った。5.森永 卓郎 「本当の幸福を得る『唯一の方法』」 はっきり言って、この著者を私はあまり好きではない。またまた彼特有の独善めいた本かな、と思いながら手に取ってみたら、内容は彼自身の言葉ではなく、古今の経済学者や実業かの、彼らの経験から裏打ちされた言葉の数々の紹介と解説であった。ちょっと読んだら、なかなか中身が濃い。で、一冊の本を読んで、一つでも得るところがあれば良しとする私の本の選択基準からすると、文句なくパス。6.飯田史彦 「人生の価値」(文庫版) この本は、単行本で持っているが、日本においてある。今回は文庫本なので、アメリカ用。(笑)7.宇野千代 「中村天風の生きる手本」 こんな人間が日本にもいたんだ、という代表みたいな中村天風師について、その直接の薫陶を受けた宇野氏が、彼女の経験を元に書いた中村天風の本。これも、いろいろ考えさせてくれる本だ。8.歴史の謎をさぐる会編 「日本の三大宗教」 副題は、常識として知っておきたい日本の三大宗教ー神道・儒教・仏教、というものだが、これが日本の三大宗教か、という議論は別にして、確かに日本人の中には、これらの三つの影響が混在していて、日本人自身にも、いったい日本人の、あるいは自分の「宗教」はなんなのだろうか、と言われて明確に答えられる人はいないだろう。逆に「無宗教」と言っている人であっても、この三つの影響から逃れている人もまた居ない。あらためて、「常識」としての三つの宗教のあり方と今の自分のあり方を照らし合わせてみても無駄ではないだろう。9.ヘレン・エラープ 「キリスト教の暗黒の裏面史」 キリスト教圏において、こういった本を出版すること自体がだいそれたことであり、これがイスラム圏でのイスラム教関連だったら間違いなく殺されているだろう内容。しかし、宗教はともするとその「良い面」だけが強調され信者の獲得、信仰の醸成を図るが、真に「宗教」の実態を把握するには、その「負の側面」にも目を背けず、それを直視する姿勢は欠かせない、というのが私の持論。それこそ「科学時代の宗教のあり方」だと思う。また、これに耐えられない宗教は、今日あるいは将来の「宗教」足りえないのではないだろうか。今の日本には、そういった負の側面をマスコミへの圧力まで動員して消し去ろう、とする「新宗教」もあり、日本人の宗教感覚を疑ってしまうケースが多い。10.三田誠広 「ユダの謎、キリストの謎」 先日の「お買い物」にあった、「イエス・キリスト 失われた物語」と、1600年ぶりに発見されたキリスト教外典にも属さない「ユダの福音書」と合わせて、「人間イエス」あるいは「イエスの本当の教えとは」というものに興味がある私にとっては、読んでみたい一冊。副題は、「こんなにも怖い、真実の『聖書』入門」とある。これも、9で書いたのと同じ理由での選択。とにかく、上にも書いたが、私の読書あるいは読む本の選択は、その本を読んで、ひとつでも考えさせられるところがあり、一つでも自分の生き方に対して得るものがあればいい、というものなので、一冊全部に期待しているわけではない。それを通して、また一つ、自分の「世界観」「人生観」の構築になにかしら付け足すことがあれば、それで105円の価値は十二分にあるだろう。いや、それが105円などという、コーヒー一杯の値段にもならないお金で買えること自体がなんという幸福な時代に生きているのだろう、と感謝せずには居られない。8.
2010.11.01
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