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久しぶりにこのブログを更新するようになったら、書くことがいろいろあって、どうしてだろう、と思うことがある。一年半ほど何も書かずにいた時は、「気がむいたら書こう」とは思っていたものの、それほど書こうという気にならなかった。つまり自然に「気が向く」ということはなかなかないのだ。ところが、一度書き始めてしまうと、今度は書きたい事が次々に出てくる。その中の一つぐらいを書くのだが、それ以外は書かないといつしか忘れてしまう。ということで、今日も、書こうか、と思ったのが、「昨日の続き - 2009年度の総決算」「高橋信次について」「高橋桂子について」「イエスに会いたかった!」「人との出会い」「人間としての釈迦」「娘の一年総決算コンサート」「愛車の処分」などなど、どれにしようかな、と思ったが、初めの2009年総決算は、ちょっと余りにも生々しいかな、と。次ぎの4つは、まだ書くのは時期尚早だろう、と。最後の娘のコンサートは、写真がないので、割愛。すると最後の「愛車の処分」しか残らない。書きたいことがいろいろあった割には、結局最後に書くのは、大した内容ではない、というおそまつ(笑)で、この愛車だが、こんな ↓ 車です。見て分かる通り、日本では、トヨタの車ですが、アメリカではレクサス。腐ってもタイではありませんが、腐ってもレクサス、この車、すでに走行距離27万キロを超えていますが、走りは至って快調で、大きな問題はありません。1998年型なんで、12年ですから、一年あたり2万キロちょっとということで、それほど酷使しているわけではありませんが、さすがに細かいところではあちこちガタが来ています。今、これを売ろうか、それとももう一度だけいろいろ直して、今しばらく乗ろうか、思案中。直すと多分$1500ぐらいかかりそう。売ろうとすると・・・・1)新車ディーラー(三菱)$15002)中古ディーラー(近所)$20003)CarMax(中古車専門店)$25004)知り合いの中古車業者(1) $26505)知り合いの中古車業者(2)??(見積もり予定)ということで、車の買取価値に対して、修理費がやけに高い。う~ん、どうしようか・・・
2010.04.30
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昨日、以前からの楽天を通じての知人である原田みかおさんよりコメントをいただいた。そう言えば、最近は「不動産」に関する日記は書いて無いなあ、と改めて思い出し、では、と、今の現状をちょっとだけ書き記して置こうかと・・・まあ、書いていない理由の最たるものは、当然、ぜんぜん順調じゃない、ってことなんですが(笑)、どれほど順調じゃないか、ということについてはまだ、結果が出ていないのでかけない部分もあるわけです。当然、サブプライム問題からリーマンショックへ、それから始まった不動産不況の影響をもろに被ったアメリカ不動産投資なんで、だいたいのところは、どなたも予想がつくと思うのですが、私の場合も大方の流れと同じで、2004年から2006年にかけて拡大した投資戦線が完全に裏目に出て、それは結構悲惨な状況になりました。で、結論から言うと、現在は住んでいるジョージア州以外の投資からは全面撤退し、ジョージア州の物件も最小限にしていく方向にあります。かつて、2007年度には州内、州外ひっくるめて、大小10軒の投資物件をかかえるまでになりましたが、やはり行き過ぎの面もあって、昨年度から縮小方向に転換しています。現在もまだその途上なので、最終どうなるかわかりませんが、少なくとも来月5月末までには、これら10軒のうち、6軒の処分を終わり、残り4軒、そして、この残り4軒も、機会があれば、処分をする方向です。ということで、リスク分散という形で、日本とアメリカの双方の不動産に投資したわけですが、残念ながら「アメリカ」というカゴに入れた卵は、突然の地震の影響でほとんど割れてしまった、という結果です。日本というカゴに入れた卵はまだ無事で(笑)、いまだに分散した片方は残っているわけですが、こちらもホコリがたまりカビも生えてきそうな雲行きなので、近々何か掃除するなりの手を打たなければならないかも知れません。しかし、不動産投資による所得を「不労所得」などと誰が言ったんでしょう?
2010.04.28
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今回は根が深そうだ。ヨーロッパの経済情勢が急速に悪化している。つい先日、IMFの監督下に入る事に同意し、EUとしても全面支援の体制を整えたのに、これだ。ギリシャの信用は地に落ち、格付けは投資不適格にまでなった。これがギリシャだけだったら、ここまで悪化することはないだろうに、これは発端に過ぎないとも言われるだけに、今後、次々に経済破綻に近い状態の国が出てくることも予想されている。こういうのを悪循環というのだろうが、今、資金の世界は一国どころか、EUとかNAFTAとか、そういった経済圏をも楽々と超え、本当に世界が一つになって動いている。情報もしかりだろう。リーマンショックがまたたくまに世界中を覆い、全然関係ないと思っている人たちの生活をも直撃する経験を私たちはしたばかりで、その傷が癒えないうちに、今度はこれだ。今度も、一国の経済的苦境というのではなく、数カ国の経済が同時並行的に苦しくなってきているのだから、これは根が深く、もし沈静化するとしても時間がかかりそうだ。今の世界というのは、本当に情報によって繋がっている限り、一国での大事件は、そのまま世界の大事件に発展する危険性を常に秘めている。情報。これも「資金」と同じで、統制など利かない。こういった情報の世界一元化が、こんな「事件」ではなく、もっと良い方向に働いてくれるといいのだが・・・・・
2010.04.28
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やっと分かってきた気がする。神は全てであり、だからこそ神それ自体は無である、ということが。そして、それこそが、私たちが存在する理由でもあるのだろう、ということが。全てであり、無である。古来、いろいろなところで言われてきたこの二分法が、実はこの世界の根本的な真実を表すキーワードでもあるかもしれない。もちろん、神が全てであるからには、我々もその一部に他ならない。また全てであるからには、そこには愛も憎しみもない。あるのだけれど、ない。神と悪魔との相克。悪魔などはない。あるけれども、ない。善と悪。そんなものはない。あるけれども、ない。う~ん、こう考えれば、全てのことがスッキリと収まる。あとは、無限、というものの考え方かもしれない。もちろん、有限に生きる人間に、「無限」を本当には理解できないかもしれない。しかし、ここにおいても人間は「数学」という道具を手に入れている。無限を扱う数学は、必然的に神への思考と結びつく。神の世界、この世の真実、こういったものを考えるときに、その根底に「無限」の概念を持ち続けないと、すぐに人間的な狭い考え方に陥る。今こう考えている私の足元をアリが列をなして歩いている。我々にとってアリは全くレベルの異なる生物である。進化レベル、意識レベル、どんな尺度で見ようとも、ぜんぜん異なる。そのアリが左を向こうが、右を向こうが、アリ同士が内輪喧嘩をしようが、私たちはまったく頓着しない。それどころか、全く関心の対象ですらない。ましてや、そのアリを罰しようなどとは思いつきもしない。私たちの神との間の隔たりは、この私たちとアリとの隔たりよりも大きい。なんとなれば、私たちとアリとの際は有限の範囲であるが、私たちと神との間は、無限よりも大きな無限なのだから。この両者の違いの根本的なところは、アリは私たちが作ったのではないのに対し、私たちは「なにものか」が作った、という点だろう。この「なにものか」をあえて私は「神」とは言わない。私の中の「神」は、私たちを作った創造主よりもまた無限に大きいのだから。じゃあ、神ってなにか? それは私たちの最も飛躍的な想像をすら足元にも及ばないものであろう。だから、説明は不能、という言い方が一番正しい気がする。もし、神=全知・全能・至高・至善の存在と定義したとすると、それは「私たちの創造主」とはならない。「私たちの創造者」=神、としたならば、それは「無限」の連鎖の中のひとつに過ぎないのは論理的に明白だからだ。やっぱり、神は無だ。
2010.04.27
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今日は日曜日。いつもの通り、教会へ行く。今日の聖書勉強会での主要テーマは、「生きている上での困難と神の愛」の関係についてということになるかな、と思う。あるいは、「この世の中における善と悪について」と言ってもいいかもしれない。その中で出て来るいくつかの疑問について、参加者の方々がそれぞれの体験、立場で意見を述べるのを聞いていた。私は、ある事情によって、こういった勉強会では私の考えを述べる事は差し控えることにしている。つまり、他の参加者の方の意見や考えを聞くに留まるのだが、ひとつひとつの問いや疑問に関して、ほぼ全て私なりの答えは持っている。が、それを言わずにいると、結局、この勉強会での話の方向は、大分異なったものに落ち着いて終わるのは避けられない。自分の意見を述べ、それに対して反論なり疑問なりをいただいて、一層、私の中で考えを深める、という方向には行きようがない。昨日、GLAへ行き、その責任者の方と話をしている中で、その方ももともとはクリスチャンで、教会へ通っていた時期もあったことを聞いた。その時に、今私が教会へ通っていることについて、私が「皆、人間的にはいい人ばかりなんですけどね~」と言ったところ、「貴方の今の状況は、その『けどね~』の『ね~』に全ては現れていると思いますよ。」ということを言われた。そういう事かもしれない。
2010.04.26
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今日、いくつかの事情から、アトランタ在住のGLAの方を紹介してもらい、その方を訪問してきた。GLAについてはまだよく知らないので、あれこれと書くのは差し控えたい。このGLAというのは、こういうところです↓ GLAについて 一般に新興宗教のひとつとして数えられているかもしれない。しかし、その実体は、宗教というよりもひとつの霊的思想勉強会みたいなもの(これが宗教かな?)で、あまり宗教くささはない。ある本には、最も現代的な宗教の形態という紹介があったので、そういう意味ではやはり宗教かもしれない。ただ、少なくともすごくオープンなことは確かで、それが今だけか、あるいはそこだけか、というのはよくわからないが、とにかく、当面はキリスト教会と二股をかけて、しばらく通ってみたいと思っている。少なくとも、このGLAを創始した人でこんな↓本を書いている高橋信次には興味があるので、ここには、その著作が何冊も揃っており、それを順次借りて読んでいきたい。 「心の発見(神理篇)新装改訂版 」(画像はなし。この人の本は古いためか、人気がないためか、みな画像がない)
2010.04.25
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この所、本業の方がなぜか好調である。私の本業は、このTOPページにも紹介している Embedded Middlewareこのことなら、 Unicoi Systems (日本:Unicoi Japan)の事なんですが、今年に入ってまだ半年にもなっていないのに、昨年の販売を早くも上回ったどころか、過去アジア向け販売が最高だった2006年の年間売り上げをも超えてしまった。販売比で言うと、昨年比(昨年同期比ではありません)で170%、最悪だった一昨年2008年比ではなんと220%、そして過去最高の2006年の年間売り上げに対しても105%ということで、2007年から低迷してきた売り上げが昨年から若干持ち直し、今年は、過去最高を記録することは間違いありません。というより、すでに今月までで過去最高を記録してしまっているので、このまま続くとこの最高記録がどこまで更新できるか、ということになってきました。私も早期退職後、生まれてはじめての営業職ということで、当初慣れない部分があったけれども、昨年ぐらいからやっと慣れてきて、現在はなんとかこなしていけるようになった。と同時に、やはり仕事の基本は変わらないなあ、というのが実感で、営業職はなおさら、誠実さとか、相手の状況や気持ちを察する気持ちといかにそれに合わせていけるか、が実績を左右するように思える。とは言え、私が担当するアジア地域に限っていえば、なんとか昨年までの低迷を脱出して、今年あたりから各企業の新規開発案件が次々にスタートあるいは再開し、それがこういった販売の好調さを支えている。けっして私の営業の腕があがったわけではなく、全て市場の要求にできるだけ答える、ということを着実にやっているだけに過ぎない。会社としても、私だけでなく、ほかの地域のセールスも好調で、今年は一昨年に人員整理をした影響で極端に低下している開発能力も、次々に受注する新規開発案件をこなすためには、特に技術者を中心に採用活動を活発化して増強していかなければならないような状況である。この状況が一過性のものではなく、今後ますます拡大してくれると有り難いのだが・・・。
2010.04.24
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いつもどおり、皆で夕食を食べていると、話が娘のボーイフレンドのことになった。以下は、その時の会話。妻「韓国人の男の人は、結構奥さんに厳しいらしいよ」 (娘の現ボーイフレンドは韓国人が多い)娘「ふ~ん・・」妻「日本人の男の子はどうなの?」娘「日本人の男の子はつまらない。こっちにいる子も、日本で会った子もみんなシャイでおとなしくって・・・・。話をしていても面白くない!」妻「そりゃ、〇〇ちゃん(娘の名前)が元気よすぎるんで圧倒されているんじゃないの?」娘「そんなことない。話をしていない時だって、なんか下を向いてばかりいたり・・・」妻「じゃ、どんな子がいいのよ。」娘「う~ん、よくわかんない」妻「パパみたいな人だったらどうよ?」 (なんで突然、俺が出て来るんだ?)娘「うん、いいよー」 (これは私が横に居たからか?)妻「えっ!!いいの?! パパみたいな人だったら結婚してもいい?」 (そこまで突っ込む?)娘「うん、いいよ!」妻「えええーー!! 本当?」 (そこまで驚く?)妻「じゃママみたいになってもいいのお?」ちょ、 ちょっ、 ちょっと待った-!!なにそれ? どういう意味??しかし、娘の男を観る目が確かなんで、安心しました。
2010.04.22
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昨日の日記に対するなみがしらMさんのコメントに関連して・・・いつも思うことだが、人間の使う言葉というのは非常に便利なもので、これがあるからこそ人間は動物とは際立った差異を持ち、文明が発展した、とも言える。それに言葉を書く文字が発明されたことにより、それがますます人間の人間たる所以を拡大強化してきた。こうした便利で有用な言葉・文字ではあるけれども、そこにはおのずと限界があることも認識していなければならない。この言葉の限界によって、私たちは常日頃、「誤解」「すれ違い」「はやとちり」などなど、コミュニケーションが完璧であれば生じるはずがない幾多の問題を抱える事になる。話言葉よりも書いてある文字・文章の方がもっと限界が小さい。手紙やEメールなどで誤解を生じる場合でも、会って話をするだけで問題が解決する場合も多いのは私たちがよく経験するところでもある。しかし、言葉はやはり言葉、言っている本人の意図している事と、聞いている人がその言葉をどう受け取るか、という内容については、どこまで言っても厳然とした違いがある。話し手のいいたいことの全てがきちんと聞き手に伝わることはまずありえない。それは一つには情報量の小ささに原因がある。言葉はある意味、単なる「約束事」で、ある言葉は特定の「ある意味」を持っている、ということを暗黙に両者が了解していて初めて意志の伝達、情報の伝達ができるが、この「暗黙の了解」である意味と言うのは誰かがきちんと決めているわけではなく、私たちが育ってきた中で自然に身につけてきたに過ぎない。したがって、ある人にとっての「xx」という言葉の意味と、別の人にとっての「xx」という言葉が示す意味は、厳密に言うと必ずしも一致しない。これは全ての言葉について言える。そこへ来ると、漫画やアニメなどは、言葉こそ少ないものの、絵やイラストなどによって、伝わる情報量は格段に大きくなる。たとえば会話している場面を考えても、言葉あるいは文章では話している内容しかわからないものが、漫画では、その場の周囲の景色やら話し手、聞き手の表情まで、あるいは着ている服のデザインや色までわかる。この情報量はTVやビデオになるとさらに飛躍的に大きくなる。つまり、画像、色、などに加えて、今度は「音声」が加わってくるからである。こう考えると、情報量というのは、私たちが持つ五感をどれだけ経由しているか、にも密接に関連していることがわかる。つまり、本は視覚のみ、それも「文字」を通してのみ。漫画は視覚は視覚でも、文字プラス画像、TVや映画はそれに聴覚が加わる。で、最後に私たちが経験する「現実」を考えてみる。私たちが何らかの経験をしたとして、それを他の誰かに伝えたいと思ったとする。これを伝達する方法として、文字⇒言葉⇒画像⇒・・・と情報量を増やしていったとする。どこまで行ったら、人の体験を別の人に伝えることができるでしょう?体験と言うのはそれこそ、五感全部、視覚・聴覚はむろんのこと、臭覚、触覚、あるいは場合によっては味覚も含めての話なので、これはどこまで行っても完全には伝わらない。ある料理の美味しさを伝える、きれいな景色を観たときの感動を伝える、すべて単一の感覚での表現では伝えきれない。それがそのまま言葉の限界となる。こと、これが非日常的な体験、神秘体験、あるいは自分でもどう説明していいかわからないような状況、あるいは体験を人に伝えること、そして最後に自分の思想を伝える事などに関しては、この制約は極めて大きい、と言わざるを得ない。昨日の日記にもどって言うと、所詮、本などの「書いたもの」「書物」では「真実」を伝えようとしても、そのホンの一部、かけらを伝えられるに過ぎず、それが「真実」だ、などとは決して言えないこと。そして、書いてきたような言葉の限界、つまり情報の送り手と受け手の間の言葉の解釈の違いを不可避的に持っている事を考えると、このかけらである情報すら100%正確に伝わることはあり得ない。それで、なんで「聖書」に書いてあることは、全て「真実」だ、などと言えるだろうか。
2010.04.21
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すでに情報があふれている状況に対する警告や注意などがあちこちに書かれる様になって久しい。本や雑誌だけの時はまだしも、現在はインターネットという最強の媒体が現れたため、私たちが触れることが出来る情報量も飛躍的に多くなっている。先だって、車の購入を検討しているときに、もちろん私もいろいろなサイトのご厄介になったが、単に売りに出ている車を見るという以上に、へんな車を掴まないための信用情報とも言うべきサイトも参考にした。しかし、娘があとから加わって、サイトの情報を確認しだすと、次々に別の検索方法を繰り出し、新たなサイトや情報を入手し始めた。この情報収集のスピードとその結果得られる情報の量は、私が一人でネット内情報を調査していただけの場合に比べるとはるかに大量で、そのPC慣れというか、今時の子供のインターネットの利用スキルの高さに驚かされたものだ。学校でも小学校の時から授業でPCの使用方法はもとより、このネット時代に即した内容の教育を受けているのだから、見よう見真似で自分ひとりでここまで来た私などとは全然違っているのは当然かもしれないが、それ以上に、宿題からプロジェクトまで、ネットでの調査が基本にあっての勉強方法の習得は必須なのも影響している。しかし、最初に述べた情報の洪水の中身としては、これだけあふれるほどの情報の質の問題がいつも話題になる。良質な情報と同時に、ほとんど無検閲でのあやふやな情報や誤った情報も、同時にあふれていて、どちらかと言うとこちらの方が圧倒的に多いだろう。先日紹介した「トンデモ本」で取り上げている本にしても、媒体こそTVや本での内容を題材としているが、お金を出して買った本にしてからが、こういった誤った情報にあふれていて、それをまともに信じる人が後を絶たない。中には、新聞やTVでの報道や特集番組においても、信じられない内容が報道されたりするし、TVの番組に至っては、その不確かさを知っている上で、視聴率稼ぎのためだけに番組を編成する場合も多々ある。こういった場合に、その内容についての確固とした知識を持たないと、ただ新聞やTVで名の通った人が述べている、というだけでさも真実扱いされる。こういった時代にこそ、確かな知識が要求される。そのためには、物事に対する見方、姿勢がしっかりしていないとトンでもない誤解や偏見を持つ結果となる。ひとつだけ言えることは、あることに対する評価をする場合には、その見方をサポートする側と同時に、それを批判する側の見方も踏まえて自分なりの判断をするべき、ということだろう。それでも誤解や偏見の危険性は残るにしても、一方からの見方だけで物事の是非を判断するよりはよほどましな結論をうることができるはずだ。ここで、うすうす何のことを言っているのか気づいた人もいるかもしれないが、この見方、考え方は今日の宗教に関する知識にしても同じ事が言える、ということをいいたいわけだ。いやもしかすると、宗教に関することに「こそ」かも知れない。
2010.04.21
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娘はまだ17歳。しかし、すでに限定ではあるが車の免許を持っている。そして18歳の誕生日までには限定解除をしたいと言っている。兄が17歳で車の限定免許をとり、18歳で限定解除したのに比べると約一年早い。当然、免許は車を運転するためのものなので、それを持つと車が欲しくなるのは人情というもの。それに、娘は息子に比べて外交的というか社交的というか、週末はほとんど家におらず、友人の家やら教会やら、大抵どこかに出かけている。そんな時、よくしたもので、車を持つボーイフレンドが娘を乗せて行ってくれることが多いが、そうでなければ親が送り迎えをせざるを得ない。アメリカではどこもそうだろうが、車がないとほとんどどこにもいけないので、親の多くは、子供が高校生になると、そこそこの車を買い与えている。そこで今回の娘の車・・・こんなもんだろうか? 車は、マツダのMazda6、2006年モデルで、エンジンはDOHCの2.3L。 装備はフル装備で、Boseのスピーカから、オールパワーコントロールから、なんでもあり。もちろん中古なのだが、アルミホイールがやけに格好良いのがついている。走行距離は5万9千マイル、日本で言えばすでに9万キロ超だが、アメリカではこれでもLow Milageと言える。(大抵の車は少なくとも10万マイル、16万キロまでは使うし、私が乗っている車など既に17万マイル、27万キロである!!)これで、日本円で約75万円。日本の中古車の相場は知らないが、こちらでは車は大抵ガレージに入れることが多いのと、走行距離に比べて、停止・発進などの回数は圧倒的に少ないので、車の傷みは少ないので、結構いい値段ではないか、と思う。この車も見た目は非常にきれいで、乗っても特に問題はなさそう。今日、購入前にマツダのディーラーに持っていって、ディーラーが車を下取りした時にチェックする検査項目を全てやってもらったが全く異常なし。多少、内装が汚れているが、そんなものは4年も乗っていればこんなもんだろう、と思える程度。う~ん、どうしようか・・・娘には、猫に小判 と言っていいほど、格好良すぎる車だが・・・・。
2010.04.20
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昨日の読書と、今日の教会での聖書勉強会および礼拝の覚書き。なにか残しておかないと、何を聞き何を学んだか、考えたか、一日も経つと忘れてしまうので^^:1)道はいくつもある目標にたどり着く道はいくつもある、と基本的には思っている。もちろんその中には、早い道、楽な道、苦労する道などなどいろいろな道があるだろうけれども、総合的に方向さえ間違わなければいつかは目標にたどり着く。私が既存の宗教に対して持つ否定的な感覚のひとつの源がここにある。全ての宗教とは言わないまでも、ほとんどの宗教は、「でなければならない」調。私(イエス)を通して「しか」天国にたどり着けない、というキリスト教にしてもしかり。私個人としては、イエスは「私を通して天国へいける」とは言ったが、私を通して「のみ」とは言わなかったはずだ。「・・・しなければ・・・できない」「・・・を通してのみ、・・・できる」「・・・しないと、・・・・になってしまう」。。といった言葉が出てくるたびに、どんな宗教の本でも、人の話でもしらけてしまう。2)山上の垂訓有名なイエスの山上の垂訓であるが、よく読むとよくわからない。心の貧しいものは幸いである。英語でもPoor in spilitとある。これが全部で8つ、・・・なものは幸いである。なんとなれば、・・・であるから、と続く。しかし、ほかの項目はともかくとして、この「心が貧しい人は」というのは、たぶん訳の間違いか、訳の不十分なものではないか、と思う。教会学校では、このところを「心が貧しい」→ 「心が飢え、乾いている」→ 「何かを求めている」という形で、肯定的に捕らえている見方を以って、この「幸いである」に結び付けている。そうだろうか?これは一般的に「心が貧しい」という意味とは両立しないように思える。3)イエスの奇跡イエスは数々の奇跡を行い、次第に信者を増やしていった経緯が聖書には随所で語られる。すべて、イエスの愛と、神の子としての全能性を訴えるものだが、その記念すべき(?)最初の奇跡というのは、母マリアが手伝っていた婚姻の席でのワインの話である。婚姻の祝いの席で、客に提供するワインが底をついてしまった。そこでイエスが何かをするので、マリアは使用人に対して、この人(イエス)のいうことはどんなことでも聞いてやってほしいと頼む。イエスは使用人に真水をカメいっぱいに満たすように頼む。するとその水はいつの間にか上等のぶどう酒になって、客に十分ふるまえうことができた、という奇跡である。これをもって、イエスが「祝いの席が、途中で、酒がなくなったために台無しになることをその奇跡で救った」ということになり、イエスを褒め称える。しかし、これもなんらかの比喩だろう。もし比喩でなく、これが事実としての「イエスの初めての奇跡」だとしたら、なんともさびしいではないか。それだけ記念すべき「奇跡」をもたらすのだったら、もっと他にいくらでも対象はあるはず。もちろん、イエスの奇跡は、その後、病人を治す、傷を一瞬のうちに完治させる、歩けなかった人を歩かせる、はては死んでいた人間まで生き返らせる、といった、いわゆる奇跡というか、今でいうと「心霊治療」とも言える出来事がいろいろ出てくる。しかし、この現在においても「心霊治療」をする人は数多く、それだけが(いや、それが、か)「聖なる」しるしでもなんでもないことは常識である。また、一般に超能力とか霊能力と言われる物と、人格の高さはなんの関係もない。ここを勘違いして、多少でもその類の能力(チャネリング、ヒーリング、予知、遠視のたぐい)があると、舞い上がってしまい、ただの人間を生き神様にしてしまったりと、とんでもない誤解を生む。そんな人は世界にごまんといること、その能力と人格は無関係であること、そして、その能力とは、音楽に秀でる、数学ができる、耳がいい、といった五感や一般的な能力と同じ類の差異が人と人とのあいだにはある、と認識すべきだろう。音楽ができたり、数学が得意だったり、人より多少耳がよかったり、味覚がするどかったりしたら、その人を神様扱いするだろうか?(笑)
2010.04.18
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昨晩は夜八時から、アトランタシンフォニーオーケストラの定期演奏会。今回は、五嶋みどりをゲストに迎えての演奏会だったので、前回の演奏会をパスして、今回の演奏会にチケットを4枚もらい、家族全員で行ってきた。直前、娘がやはりバイオリンをやっている友人を誘ってしまった事がわかり、急遽、ただ券を入手して私がそのチケットで入る羽目に。娘は、アトランタシンフォニーのユースのメンバーなので、席が空いている限り無料で演奏会を観ることができる。今回は五嶋みどり客演だったのだが、幸か不幸か席が空いており、運よく、家族揃って観ることができた。演奏の合間に、会場の外で、サイン会があり、私の娘はちょうど演奏曲目であるメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを練習しているところなので、その楽譜と、五嶋みどりの演奏が入ったCDの両方にサインをもらい、おまけに娘と一緒に写真を撮らせていただいた。思ったよりずっと小柄で華奢な感じの方で、この体であれだけダイナミックな演奏が出きることが信じられないほどだ。ともあれ、バイオリンを習っている娘にはいい刺激になっただろう。しかし、娘が練習しているのを聞いていたが、あれだけ長い曲だとは知りませんでした(汗)今度、娘がある程度上達したら是非聞いてみたいものです。
2010.04.18
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いろいろな本を読み漁り、自分なりに考えてきた世界観の中で、そうなんだろうな、と思いつつも、やはりよくわからない、というものがいくつかある。「時間」というものもその一つだ。というより、一番わからない、と言った方がいいかもしれない。頭で、知識で、書くと、例えば、『時間というものは、本当はない。ここでいう「本当」とは「真実」の世界、という意味で、私たちが生きているこの3次元空間は、それに対して「真実ではない世界」と位置づけて考える。確かに、時間と空間が密接に関連し、質量や相対速度に影響される「時間」というものは、私たちが過ごしている日常の感覚から言うと一定のスピードで過去から現在、現在から未来へと流れていると思えるのに、それがこの3次元空間においても正確に言うとそうではない、ということが証明されている』『では、「真実の世界」というのはどういうものか、というと、これはよく分からないが、少なくとも、次元的には時間を加えた4次元をはるかに超える次元を持つようだ。』『では、その「真実の世界」では、過去、現在、未来、というのはどうなっているのか、というと、そんなものはない。全てが「今」起こっている、いや、「今」「現在」というものしかない。』『しかし、同時に言える事は、神の定義は別にしても、神を含めて、この森羅万象の中で、唯一の真実というのは、「全てが変化し続けている」ということであることも確かなようだ。』『しかし、人間の感覚では、「変化」というのは、「この時刻」から「あの時刻」にと時間が経過して、初めて生じる物事の変わりようを言う。』『その「全てが変化する」という真実と、この「時間というものは今・現在しかない」という真実が、もし両方とも「真実」だとすると、この変化というのはいったいどういう類の変化なのだろう。』これがつまり、私の貧弱な頭ではよくわからない点だ。当然、この前提、つまりこの両方が「真実だ」ということを否定すれば、簡単に決着が付くのだが、どうも私には、この両方がやはり「真実」だ、という気がしている。だとすると、この世界の構造、つまり世界観の中で、この「時間」と「変化」というものをどうやって別々のものとして捉える事ができるのだろうか。少なくとも言えることは、ビッグバンによってこの宇宙が誕生したのだとすると、時間もその時に誕生したもので、それ以前には時間と言うもの自体が存在しなかったはずだ、ということ。なんとなれば時間というものは、この3次元空間があってこそ存在する概念であるらしいから、この空間が存在しなければ時間もまた存在しない。こういったことを、数式を使って突き詰めていく、物理学者や数学者の頭はどうなっているのだろう、と驚きを通り越して呆れるしかない、凡人のリンロンでした。
2010.04.16
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皆さんもご存知のように、この楽天ブログにはさまざまな口コミテーマがある。で、ふと「音楽」のジャンルでどんな口コミテーマがあるのか、と見てみた。つまり、自分と趣味を同じくするような、例えば、ギターとかフォークのテーマがあるかな、と思ったわけだが、意外と少ない。楽天ブログを書くような人には流石に若い人が多いためだろうが、私のよく知らないようなタレントや歌手の個別のテーマは結構あっても、演歌などは当然ないし、ギターをテーマにしたものもない。少し近いもので 「懐かしのフォーク・ソング」 というのがあったが、これはまあ、時には昔好きだった曲を思い出したり、ふと懐かしい曲に出会ったときの日記のようで、継続して書いているテーマでもないようだ。私がギターを始めたきっかけは、大学受験前にさかのぼる。なんと1月から大学受験を控えた高校3年生の12月に、わざわざ神田の黒沢楽器店まで行って、クラシックギターを買ってきたのが最初。それまでギターの「ギ」の字もやったことはなかったし、それほど音楽が好き、というわけでもない私が、よりによって、そんなタイミングでギターを買ってきたことに親は驚き、「いったい何を考えているんだ?」と怒られたものだ。そりゃそうだろう。あと1ヶ月もしないうちに、大事な大学受験を控えているのに、こいつは何を考えているんだ?というのは親の素直な感覚だろう。私にも、なんでそんな気になったのか、今となってはよく覚えていないが、とにかく、「大学へ入ったら一人で下宿するだろうから、その時になにかやるものが欲しい」とか何とか言ったのだと思う。運よく、そのまま大学に入ることができ、予定通り(?)下宿でギターを弾くことになったわけだが、もし落ちていたら何を言われていたことか・・・。ということで前置きが長くなったが、つまりは、私の音楽体験は、この学生時代から始まったようなもので、そのせいか、70年代から80年代のフォークソング、あるいはニューミュージック系がどうしても主体になっている。逆に、大学を卒業し、就職してからは、ギターからも離れ、たまに職場でカラオケに行ったりする以外には歌を歌う機会も、そういった趣味も持ち合わせてもいなかったので、勢い、私の音楽や歌のベースは、この年代に限られることになる。ということで、今ジャカジャカ弾いている曲もみんなこの頃の曲。それもあって、娘などには、いい加減にせんかい、と言われるように、十年一日のごとく、同じような曲ばかりの繰り返しで進歩なし。確かに聞かされる方は、たまったものじゃないかもしれない。しかし、YouTubeという媒体、こんな私にはもってこいの媒体で、うろ覚えのような曲でもなんでも、ほとんどの懐かしい曲がアップされている。これを見よう見真似でギターに落とす(これを「耳コピ」というらしい)ことが出きれば、楽譜やコード譜がなくとも、ほとんどの曲を弾いて歌うことができる。ただし、「耳コピ」が出きれば、の話だ。(残念ながら、私にはできない)「懐かしのフォークソング」に出てくるような曲のかなりのものは知っているし、弾いて歌うことができる。ただし、コードさえあれば、の話だ。そこはそこ、いろいろなサイトで、無料コード譜を提供しているので(ほとんどのものはコピー機能を制限しているので、手で書き写すしかないが)、特に気に入った歌、心に残った歌などのコード譜を自分でつくったりして弾いている。いい時代になったもんだ。
2010.04.15
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日本から電話があり、父が入院先の病院からどうやら退院できそうだ、との連絡。しかし、気が弱くなっているせいか、孫に会いたい、と言っているという。早速、かみさんと日本へ行く時期とかを相談した。その後に娘に話をした。「○○のおじいちゃんが病院に入っていたよね。」と話し出すと、すっと娘の顔が緊張する。なにか悪い知らせかと思ったようだ。「いや、悪くなったわけじゃなくて、反対に良くなっていて、今月中には退院できそうだって」と言うと、ホッとした顔をした。しかし、続けて「でも、おじいちゃん、XX(息子)や△△(娘)の顔を見たいから今年は日本に帰ってきてくれ、だって。」すると、いったんホッとしたような顔が見る見る雲って、たちまち涙目になった。さすがに私の父も歳なので、気が弱くなっているのを察したようだ。また、どうして、早く孫に会いたい、と言ったのかも分かっているのだろう。「だから、今年はちょっと早めに日本に行くよ」と言ったら、うん、と一言、泣きそうな顔でうなずいた。いつものことなら、大喜びをするところなのに。これを見て、ふと思った。いつもちゃらちゃらしていて、一日中妻に怒鳴られている娘だけれども、ここまで成長したんだな、と変な感慨が湧いてくる。やさしい気持ち。人に対する思いやり。こういったものだけは何者にも代えられない大事なもの。学校の成績が良かったり、バイオリンでオーディションに受かったり、いろいろあるけれども、そんなどれよりも、娘がそういう優しさを持っていることが、どれだけ嬉しいか。私が特に何をしたではないけれど、いつに間にか、こういう心根をはぐくんでいた。その優しさ、人に対する思いやりの心だけは、ずっと持っていて欲しい、と願わずにはいられない。
2010.04.13
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昔は四十の手習いと言ったみたいだが、人生80年時代の今日では、五十の手習いや下手をすると六十、七十の手習いであってもおかしくない。すでにいい歳になってから、新たに習い事や挑戦を始めることを言うらしいが、なかなか難しいために心の若さを表す表現とも言える。私も五十歳で早期退職して、一年ほどぶらぶらしていた時期があるが、そのときに、五十の手習いではないが、ギターをもう一度やってみようか、と言う気になった。ギターは完全に我流で、先生についたこともギター教室へ通ったこともなかったが、学生時代、下宿でじゃらじゃらと暇にまかせて一人で弾いていた時期があるので、完全に初めて、というわけではない。だから五十の手習いより、五十の再挑戦といった方がいいかもしれない。しかしやってみると、当時 質はともかく音だけは覚えていたものもすでにほとんど忘れ、指も動かず、昔弾けた(弾けた、というと語弊があるが、一応、覚えていた、といった方が正確かな?)あんな曲やこんな曲も、今ではまったく弾けない。そこで初心に戻って、ということで、ギター教本の最初からやり始めたが、これがなかなか進まない。初級から初めて中級へ差し掛かると、急に難しくなって、しばらくお休み。するとてきめんに指が動かなくなり、また初級曲へ逆戻りというのをこの5年間繰り返している。で、せっかく少し弾けたのに、しばらくすると弾けなくなって、弾けた!という証拠も残らないので(笑)、口で「昔は弾けたんだぞー」というしかない。そこで登場したのがYouTube。一昨日、カラオケを録画したが、これをなんとかクラシックの方にも使って、この証拠を残すことに。というより、自分の動機付けにちょうどいい。まずは、知る人ぞ知る(知らない人はぜんぜん知らないでしょうが)、新堀ギター教室の教本の初級の曲から・・・風呂場でギター第2弾 - Andante in A minor by Carulli しかし、練習ではノーミスで弾けても、ビデオを撮るとめちゃめちゃになるのはどうして??? 遊びでビデオに撮るだけでこれだけヘロヘロになるんですから、プロがお客様の前で、一発勝負のライブをやる、というのはすごいことだなあ、と改めて思います。PS.BachのBouleをセゴビアのものから、AndanteLargoさん(YouTubeの人)に入れ替えました。こちらの方がなぜかしっくり来るので・・・。
2010.04.13
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やってしまいました。家族から家庭内騒音公害と呼ばれ、行き場所を失ったあげく、とうとうバスルームに閉じこもり、一人カラオケをやる羽目に↓ Play Guiter in the Bath Room - 風呂場でギター 青葉城恋歌編 音楽というのは音を楽しむと書く。つまり楽しくなければ音楽ではないし、音楽は楽しめればいい・・・例え自分だけでも^^昔から風呂場で湯につかりながらすきな歌を歌う、というのは究極の自己陶酔型音楽であった。さすがにギターを持って湯には入れないが、家のバス・ルームの閉じこもり、ドアを締め切ってやってみると、これはこれでなかなかの音響効果。早速ビデオにとってYouTubeへ、と。家のものが帰ってくるとまたまた何を言われるかわからないので、そそくさと片付けてしまいましたが、結構良い音で撮れるのでまたやってみようかな、とその気になってしまったリンロンでした。PS1. 画像を入れ替えました。2度録画したのですが、なぜかぶっつけ本番の一度目の録画の方が多少ましだったので。しかし、もう少し良く、と思ってやるとだんだんダメになるのはどうしてでしょう???PS2.帰ってきた家のものにアップした画像を再生しているところを見つかってしまいました。いわく、「家庭内騒音公害が、本当の公害になっちゃうじゃないの!」
2010.04.11
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今度は、たまたまBook Offで目についたこんな本↓を読んでいます。 「人はなぜ生まれ、いかに生きるのか」私が彼に興味を持ったのはやはりご他聞も漏れず「オーラの泉」を見てからですが、それ以降何冊か彼の著作を読んでいます。この本は、そんな彼の著作の中でも、ほかの本が言ってみればHow to指南的なのに対し、彼自身のスピリチュアリズムの生い立ちと、彼自身の立ち位置を説明したような本です。で、いつものように、私がこういった本を読む目的は、私が持つ世界観に照らして、彼のいう霊的な世界というものがどう説明されているのか、ということに興味を持つからでが、この本はその辺を結構詳しく書いていて、その意味では、ほかの彼の著作以上に興味深いものでした。例えば、彼が英国の心霊協会に留学したり、毎年英国へ行って勉強しているのは知っていましたが、その彼がシルバー・バーチの霊訓(下記参照 ↓)を読んで、彼自身のスピリチュアリズムの方向について影響を受けたことなどは初めて知りました。 「シルバー・バーチ 最後の啓示」 や 「スピリチュアルな言葉が教える生きることの意味」これらの本は私も読んでいて、一部は私が持つ「世界観」の構成要素にもなっているものなので、彼が英国のスピリチュアリズムの源流の一つとして、このシルバー・バーチの霊訓に対してどういう考え方を持っているのかにも興味があった。しかし、それでもなお、この江原啓之という人の説明する世界の構造 - それはつまり「霊」が本体であり、人間はこの本体である「霊」が肉体を持ってこの世の中に修行に来ている(霊的向上を目的に、学びに来ている)という考え方には、いまだに若干の違和感を持っている。内容的には変わらないかもしれないが、私の中では「霊」は「意識」であり、この世の中は「修行」ではなく、体験を通じての意識の深化・進化の場である。彼の文章中には、「ですから、こういったことを知れば、私たちは・・・・という生き方をしなければならないはずです。」という言葉が随所に現れる。これをして彼は「霊的な生き方」と呼んでいるが、そこで多くの人が抱くであろう疑問に関しては彼は適切な説明をしてみせている。しかし、その説明に納得できていない部分がやはりあり、その点について、やはり彼自身の霊的な素養(あるいは霊的な能力)の限界があるのだろうと思う。そうは言っても、彼は自分の体験・経験に裏打ちされた彼自身の考え方を説明しているのに対し、私のそれは単に頭で考えただけのものなので、その点に関しては到底及ぶべくもないのだが、そこが今の時代のすごいところで、こういった経験・体験をした大勢の人の著作を読むことができる中から、例え自分が体験したことがなくとも、それに対しての自分の考え方を養っていける、という幸福な環境に私たちは居る。この「霊的」なものの見方というのは、一般の人には見えない部分の話なので、ことさら、こういった客観性というものは欠かせないと私は考えている。なまじっか何かが見えたり聞こえたりすると、それが自分の体験から来るだけに、それをすぐに「真実」と思ったりしがちであり、それが度を越すと、どこかのxx教やら○○会の教祖やら生き神様といったとんでもない思い違いをする人が出てくる。その意味で本当の意味の霊的な生き方、というものを知るためにはある程度批判的な見方をしてかからないとまずまともな考え方に行きつかない。その観点から言えば、この彼の著作にある「霊的な生き方」というものは、やはり先に挙げた「シルバー・バーチ」の系統に属することは確かで、その辺りをきちんと踏まえたものになっていることだけは救いであろう。
2010.04.10
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一度海外へ出た事がある人は、ある意味、外から日本を眺める機会を得たことがある、とも言える。ただ短期の海外旅行、それもショッピングや観光だけを目的にした短期旅行ではあまり深くは考える機会もないだろうが、それでもいろいろな面で日本との「違い」を実感したことがある人は多いと思う。これが海外で生活するか、あるいは住むとまでは行かなくとも比較的長期にわたって滞在したことがある人は、いろいろな意味で、日本とその国の違いを発見し、時にはその違いから日本にいては考えた事もなかったような「日本」という国の特色を再発見する機会を持った人もたくさんいるはずだ。私自身、海外が長くなって、すでにかれこれ20年近くになる。もともと「愛国心」などというものとは無縁であると思っていたが、特に日本で愛国心というと、他の諸国では自分の国を愛する事はごく当たり前のことであるのに、なぜか、右翼、とか反動とか、戦前の軍国主義を想起させるような風潮があることから、敢えて「自分は日本と言う国が好きだ」などとは人前で言うことはめったにない。しかし、なんのかんのと言っても、自分が生まれ育った町が故郷という形で特別な位置付けを持つのと同じ意味で、自分が生まれ育った国、日本というのはやはり日本人にとっては、たとえどこで何をしていたとしても特別な存在であることに変わりはない。先日、「日本の医療は世界一?!」で書いたように、ほかの国の内情がよく分かってくるに連れ、それに対する日本のあり方を比較した時に、贔屓目ではなく日本のすばらしさが見えてくる場合も多々ある。それは日本では毎日暗いニュースばかりが飛び交い、日本人をして謙遜を通り越して自己否定的な性格を持ち始めていることにも原因があるだろうけれど、そしてそれを助長するマスコミの報道姿勢にも問題があるだろうけれど、本当にそうなのだろうか、と立ち止まって考えて観る機会が、海外へ行った時に得られる場合がある。報道などは、とにかく「現状批判」では無くてはならない、という脅迫観念でもあるのだろうか、他の国と比較してみる場合もだいたいのケース、日本が悪い部分のみに焦点を当て、それを以って「日本は遅れている」とか「日本の官僚は・・・政府は・・・」という論調になりがちである。しかし、そういった先入観を抜きにして、もし日本と言う国を客観的に観ることができるならば(それは簡単ではないし、だいたい客観などというものがあるのかどうか自体が疑問かもしれないが)、悪い所は悪いと認めると同時に、良いところも良い、と素直に認めることも必要であろう。ところがそんな報道はほとんど観られない。昔、アメリカに留学して帰国した知識人が、なんでもアメリカの良いところを引き合いに出して日本を批判し、アメリカかぶれと批判されたこともあったが、その傾向は一部知識人に留まらず、ある意味、国民性みたいなところがあって、外国と比較して日本はいかに悪いか、という記事に対する関心が高かったり、なにかというとすぐ外国の日本に対する見方や意見を気にする、という傾向に如実に現れている気がする。経済的な苦境や、個々の分野でのどうにもやりきれなくなるようなニュースが日常茶飯事で流れていることは確かなのだが、どうも全体として見ると、日本と言う国は平均点としては非常にいい線を行っているような気がしてならない。これは定量化できない部分も含めての話なので、それをデータとして示すことは不可能なのかもしれないが、それでも、やはり日本に住んで居た方がいい、と思わせる何かを、この国が持っていることは確かだと思う。日本は、あるいは日本人はもっと自信を持ってもいいのではないか、という気がするのは私だけではないだろうと思う。ただし、それがうぬぼれや尊大さに繋がらない限りは、という条件と、もう一つは、この日本の良い面の多くが、国と地方自治体を含めた「公」の膨大な借金というツケを残していることだけは忘れてはならない。
2010.04.09
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幼馴染みという言葉は、どの程度親しかったら使うのかは知らないが、今日、日本から小学校の同級生が来る。彼女の中学、高校を通しての親友がここアトランタに居て、彼女を訪ねて来るのだが、私の方にも声がかかり、明日休暇をとってゴルフをすることに・・・彼女とは一度日本でゴルフをしたことがあるが、その時は始めて一年ぐらいで、スコアがまとまり始めた、ゴルフが面白くなるちょうどそんなタイミングだった。それから数年、こちらはほとんど年に一度やるかやらないか、なので、もしかすると追い越されているかも。。アメリカに来た主目的は「マスターズ観戦」。今週から始まるマスターズの予選を見物するためらしいが、まずは本人が初めてのアメリカのコースでプレーをしたいようだ。場所は私の家から車で10分ほどの3番目に近いゴルフ場。(つまり、もっと近いゴルフ場が二つあるのだが、両方ともプライベートコースなので会員が居ないとできない) こんな感じのコースだったかな?とにかく住宅地の中のコースなので、コース横には普通の家がならんでいる。久しぶりのプレーなんで、ボールの行き先はボールに聞いてくれ、という感じになりそうだが、少なくとも空振りをしないぐらいには素振りでもしていこうかな・・
2010.04.06
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今日は、私の愛読書のご紹介。と言っても、いつもここに書いているような硬い本ではなく、ときどき息抜きに読むのに丁度よく、しかも、内容的には私の趣味にぴったり合っている、という本です。その本と言うのはこれ。↓ 「トンデモ本の世界」あるいは、こんな続編も↓ 「トンデモ本の逆襲」 もっとも、この本、初回から結構評判がよく、「トンデモ本」という言葉さえ定着したぐらいなので、その後も何冊も続編、続々編や姉妹編が出版され、その数は今現在10点を越えている。私が持っているのはそのうちの5冊ぐらいだが、とにかく面白く為になる本です。内容がすっとんでいる本を選りすぐって、その本のどこが「すっとんでいる」のか、というのを親切に解説してくれるのだが、何もそれらの本を批判する、という立場で書かれたものではない。この「トンデモ本」シリーズは「と学会」という私的グループが趣味的にやっているもので、もう10数年に渡って、この手の本を会員が手分けして(というより、それぞれの会員がその人それぞれの興味から勝手にいろいろ本を読んで)その書評を書くのだが、その視点は常に、「いかに笑えるか」という、ともすると正面からの「批判」よりも、たちが悪く、つっこみどころ満載の本を取り上げて、突っ込みながらも、それがどれだけ独創的な「すっとんでいる内容」か、ということを基準に、評価していくのである。その対象となる本の多くは、その主旨から言って、著者は大真面目で書いているものが多いが、時々は意図的に内容を捻じ曲げている本もある。この本を読むと、いかに世の中には、さも真実を語っているような体裁で、実際の内容はとんでもない、という、その名の通りの「トンデモ本」があふれているかがわかる、そのトンデモなさは、出発する事実の誤認、時には捏造から始まって、論理のすり替え、飛躍、そして結論ありき、の強引な話の展開などなど、まちがって気軽に読むと、どこからそんな話になって、あんな結論になったのかが分からないほど巧妙な本もあるほどである。世の中で話題になった本で、その槍玉にあがった本も多い。ベストセラーだからといって内容が確かである保証もなく、そういった本に対しても、必ず一歩引いて読む癖をつけるには絶好の頭の体操になること請け合いである。
2010.04.03
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今朝、妻と話をしている時に、ふと夕食の話になった。今夜の食事はなにかな、と言った軽い調子で聞いたら、怒ったように、「今日は夕食はなしよ!」と言う。 驚いて、「なんで?」と聞くと、「今日は4月1日よ!」だと。4月1日と言えば「エープリール・フール」、そうか嘘か、でもなんで怒るの、と思った矢先に「あ、やばっ!! 4月1日だ!」そうなんです。今日はなんとxx回目の結婚記念日でした(汗)毎年エープリール・フールと一緒だから忘れなくていいね、なんて言っておきながら、すっかり忘れていました・・・・。こりや怒るはずだヮ・・・。さて、っと。夕食はないよ、ということは、すなわちどこかで食べよう、ということでしょう。今夜あたりは、久しぶりに寿司をカウンターで、ということになりそうです。PS.ところで、今日日、皆さんは結婚記念日になにかやるのでしょうか?もしやるとしたら、どんなことをしたら(あるいはされたら)、一番うれしいでしょうか。 (ただし、ダイヤモンドを贈られる、なんてのは無しにして・・・・)
2010.04.01
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貧困大国アメリカという本を読んで、急に医療への関心が出てきていろいろ調べて見ると、アメリカの医療の実態というかひどさがどんどん浮かび上がってくる。アメリカの医療というと、一般的には医療先進国というイメージがあるが、それはごく一部の高度医療技術や、お金がある人だけが受けられる医療レベルに限定されることが分かる。実際に、いろいろなファクターで調べると、アメリカの医療レベルは先進国の中でも下位に属する。いろいろなファクターというと難しいが、要は、医療にとっての根本的な要請事項として1.いかにかかりやすいか。(OECDの目標として、家庭医からの紹介から14週間以内に初診を受けられること、というのがあるぐらい、すぐに医者に見てもらうことが世界的には難しい、という事実がある。)2.いかに的確な医療が受けられるか(医療の質の問題。これは平均寿命や乳幼児死亡率などの統計で数値として比較ができる)3.いかに安く、全ての国民が公平に受けられるか(医療の最低保証ライン、あるいは保険料や自己負担率など)この1及び2と最後の3.の経済性は相反する内容であることに注意したい。ここから全ての医療問題が発生してくると言っても過言ではない。そのため、世界中の各国は、それぞれが医療改革を唱えて独自にいろいろな施策を導入しているが、それがうまく機能している国は今の所見当たらない。その際たるものがアメリカで、先日の日記に書いたように、上記の3項目の中で、2を除いて(この2もお金がある人だけ)、非常に悲惨な状況にあり、国のGDPの中に医療費の占める割合が16%を超えるほど突出しているにも関わらず、その医療レベルはこういった総合評価では先進国中、最低と言ってもいい。この表を参考に見てもらいたい。いかに悲惨か、というのがよく分かると思う。⇒ 世界の医療比較(1)高齢化との関連 世界の医療比較(2)その他 ここで、気が付くことは、日本の医療のバランスの良さである。病気になったら医者にすぐかかれますか?日本人ならだいたいすぐ、「はい」と答えるだろうが、ここアメリカで私が「どうもうつ病になったらしい」と気がついてから検査を受けるまでに3週間、その結果別の再検査が必要と言われて、待つことまた4週間、そしてその結果がでてから実際に医者の予約を入れるとまたここで、早くて3週間・・・。うつ病などで実際に診察と治療が受けられるのが、自覚症状が出てから2ヶ月以上も経ってしまい、その間に症状が急速に悪化した経験がある。また、次の高度で的確な医療、という点でも、当然個々の医者のレベルには格差があるだろうが、総体的に日本のレベルは決して悪くない。アメリカなどは、年収1000万円ぐらいの人で、保険に加入していたとしても、盲腸炎や出産などでは、入院など出来ず(お金がかかりすぎる。盲腸炎の手術だけで100万円や下手をすると200万円を超える。入院費は別で。)日帰り診療である。場合によっては、点滴をしながら退院、自宅療養とするしかない場合も多い。これなど日本では考えられないのではないだろうか。そして、最後の費用の面。この面では国民皆保険(一部、無保険者がいるとは言え、世界的に見たらそんなものはないに等しいほど少ない)のおかげで、高くて医者にいけないとか、医療費が原因で自己破産するなどということ(アメリカでは年に何十万件もある。それも中産階級の人を含めて)は日本ではあまり考えられない。そして、結局のところ、今現在いろいろな問題(産科医の不足、女医の定着難、医療過誤、保険金詐欺などなど)があり、日本では大問題になって、よくニュースでやっているが、それでも世界的に見たら、日本の医療は世界一、と言ってもいいかもしれない。特に、高齢化による医療費の高騰は世界中のどの国にも見られる現象だが、日本はその点において、もっともうまくやっている国、と言えるのではないか、と思う。
2010.04.01
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